由無し事

前世

 学生時代に前世が見えるという人がいた。その人はちょっとした有名人であり、多くの人が前世を見てもらっていた。自分は興味なかったが、当時の彼女がどうしても見てもらいたいといって付き合わされてしまった。彼の周りにはちょっとした人だかりが出来ていて、「江戸時代の後期の武士」とか「室町時代の町医者」とかそれらしきことを言っていた。しばらくして後彼女の番になり、「江戸時代の商家の娘」と言われていた。当初興味なかった自分も人の前世を聞いているうちに何となく興味を持ち始めていた。その折彼女がついでにこの人もと言うことになって見てもらうことになった。彼は自分の顔を神妙な顔で眺め、「うん、これは珍しい」とつぶやいた。自分は期待して言葉を待っていたら、
「鎌倉時代の蝉だ」
 辺りに失笑の波が生まれた。さらに「その前は平安時代のトンボ」と言う言葉。「トンボかよ」とついに知らない人にまで突っ込まれてしまった。何でも行いが立派な蝉だったらしく人間に生まれ変わったらしい。
 「行いが立派な蝉」
 蝉の行い?立派?
 想像力が欠如しているのだろうか。自分には完全に意味不明だった。しかし、驚いたことに彼女を始め周りの人間が神妙に頷いているのだ。似たような光景はテレビでも見られた。和風の顔をしたアイドルタレントの前世が侍であり、セレブと言われる人の前世がどこぞのお姫様であり、プレイボーイと評判の俳優の前世が中世のイタリア人という判定だった。
「見た目そのまんまじゃん」自分は堪らずテレビに突っ込んだ。
 だが、その判断にゲストも一般客も皆納得している。どうも前世を信じる人の共通の何かがあるかのようだ。まあ、ついでに言えば、血液型や占いを信じる人にも共通の何かがあるようだが。
 さて、かく言う自分も心の中では密かな期待を抱いていた。もしかしてどこかの王か、と。何故前世が貴人であったら嬉しいのだろうか。個人的には輪廻転生があるのは夢があり、壮大でもあり、良いと思う。だが、それらの考えが輪廻転生を汚す気がするのは自分だけだろうか。神の前では生きとし生ける物が平等であってほしいものだ。

 追伸 浮雲生活の自分の前世が蝉やトンボだったのはあながち出鱈目とは思えなかったりする。
09年10月下旬


お子様厳禁

 最近頓に喫煙に関して厳しい状況である。喫煙スペースは減少の一途であり、公共交通機関での移動はますます困難なものになっている。まあ吸わない人にとっては横で吸われるのは迷惑だろう。タバコを吸う者にとっても他人の煙は気持ちの良いものではないから。だが、公共の福祉に反しない程度ならばタバコを吸う権利は認められて良いだろう。公共の福祉の概念を理解しているだろう成人には法律で喫煙が認められている。
 以前辺りに人のいない町外れの海岸線でタバコを吸っていた時である。近くを通りかかった女性が蛇蝎を見るような目で自分を見て「こんなところで」と呟いて去って行った。ふざけるなと言いたい。自分がその人の傍に行って喫煙したならば非難に値するだろう。人の迷惑にならない「こんなところで」こそ思いっきり喫煙できるはずだ。吸殻袋だって持っていた。一体誰の迷惑になるのだと言うのだ。禁煙場所や子どもがいる場所で吸うのは断固として避けるべきだ。子どもにタバコを吸うことを禁じておいて、その子どもに有害な煙を吸わせるでは大人の義務を果たしていないことになる。だが、人に迷惑をかけない喫煙は認められるべきだ。そうでないなら違法にすればいい話である。
 もちろんタバコを吸わない人の気持ちも分かる。喘息のある友人が、咳き込んでいる時に隣で平気で吸う奴の神経を疑うと言っていた。不良の中学生じゃあるまいし、良い大人が街中で歩きタバコをしている。喫煙者にマナーの悪い奴が多いのも事実だ。結局マナーの問題なのだ。マナーが悪いと批判が生まれ、拘束力のあるルールが生まれる。それでもルールが守られないとついには罰則まで生まれてしまう。条例で歩きタバコを禁止しているのが最たる例だ。マナーがなってないとヒステリックな嫌煙者を増やしてしまうし、彼らを勢いづかせてしまうだろう。
 喫煙は二十歳未満禁止である。お子ちゃまは吸ってはいけないのである。我々喫煙者は大人のプライドを持って、最低限人の迷惑にならないようにしないといけない。嫌煙者に口実を与えないためにも最低限のマナーを守るようにしよう。
09年11月中旬

なんとか鑑定団

 おそらく誰もが一度は見たことあるだろう某テレビ局の長寿番組だ。子どもの時分コレクションがブームになったことがある。自分もコレクションという言葉にあこがれて何度かチャレンジした。コレクションの王道切手、野球カード、少し遅れてテレホンカードなどなど。が、生来の飽きっぽさ故一度も続いたことがなかった。そうこうしている内にほぼ住所不定の浮雲生活だ。コレクションどころか、必要最低限のエコ生活である。その代わりではないだろうがこの番組が大好きだ。普段テレビを見るチャンスはあまりないが、見られる時は必ずこの番組を見る。さて、自分のことは置いといて、この番組の人気の秘密は、偉大なマンネリと表裏になっている意外性にあるのではないかと踏んでいる。借金の形に渡された応挙の掛け軸、誰もが「偽者だろう、それ」と突っ込みをいれ、案の定、「一、十、百、千、三千円」ときて「やっぱり」の声。だが、時折、「…万、十万、百万、」ときて、「二千万円」の機械的な声と、「本物です。」の鑑定者の重厚な声。その後に静かに広がる驚嘆の嵐。そう庶民の俗心を微妙に擽るのだ。
 知り合いの家には戦後まで毛利元就の書状が数帖あったらしい。だが戦後つぶれた時に全てなくなったそうだ。よく聞く話である。しかし、その書状は二束三文で買い取られたわけではなく、家屋敷を売り払った時にどうもただ単に捨てられたらしいのだ。売り渡されたのではなく捨てられてしまった。毛利元就の書状がである。今だと信じられない話であろう。鑑定団を知っている人ならば骨董の素人でも悪くて数十万円、ものによると数百万円以上の値がつくと知っているから。だが、当時代々伝えられているものでも、刀剣や鎧などならともかく、ぼろぼろの紙切れを貴重だと思う人がどれほどいただろうか。
 鑑定団は本来好事家の世界であった骨董に普遍的価値を与えた、と言えるのではないか。歴史的な価値のある書画などは別格としても、例えば、ブリキのおもちゃ、スポーツ選手からアイドルのグッズなどまでが価値あるものと認識されるようになった。ほぼ大多数の者にとってはゴミである。だが、今や家にあるブリキのおもちゃを無下に捨てる視聴者はいないだろう。鑑定団は貴重な骨董などの散逸防止に一役買っているのだ。もちろん大多数である我々庶民には貴重な文化財など縁のない世界である。だが、多くの人が文化財や歴史的価値のあるものに目を向けることは良いことだろう。もちろん何事にも功罪はある。普遍的価値、裾野が広がれば広がるほど、趣味の世界からかけ離れていく。他人にとってゴミでも自分にとってはかけがえのない宝物。ここがポイントであるはずだが、ここに万人の尺度である金を持ち込まれる。家宝として大事にしていたものが鑑定の結果如何でがらくた扱いである。先祖より大事に伝えられた事実よりも、鑑定価格が遥かに重きをなしている。
 本当の趣味人が鑑定団に出すはずはもとよりないだろう。彼らにとって他人の評価は要らぬお世話以外のなにものでもないだろうから。この番組は俗人の俗人のための番組なのだな、と無趣味の俗人はふと思った。
09年11月下旬

古本屋

 イベント社員の仕事の半分は待つことだった。例えば百貨店の閉店後○○展の準備や撤収。自分たちは遅れることは許されないが店の都合で結構待たされた。打ち合わせでも然り。何時の世も下請けは厳しいのだ。また旅人生活には空き時間がつき物だ。その自分にとって本は手放せないものである。何と言っても本一冊あれば数時間は時間がつぶせる。その上本はなんと言っても持ち運びに便利である。本は有り難いものだ。
 その自分にとって某巨大フランチャイズ古本屋は重宝するものである。大体どの街にもある。百円均一の本がある。自販機のジュース一本が120円也、それよりも安価で本が買えるのだから有り難い限りだ。旅に出る前に一冊文庫本を買って行けばそれ以上に必要ない。あとは予めインターネット本屋の場所を調べて手ぶらで行ける。百円玉と五円玉さえあれば本を手に入れられる。本当に重宝している。だが、自分たちが便利とお得と感じるとその裏に損をしているものはいないだろうか。
 以前自分は関西の部屋を引き払った時ダンボール箱4箱分の本をある有名なフランチャイズ古本屋に持っていった。待たされた挙句、その値段は2千円にも満たなかった。聞いてみたら大体新刊の良いもので定価の10%程度、3年以上前の本にいたっては買取不可とのことで、半分以上は買取不可だった。もとより処分だから金になるだけましだろうが、手間賃を考えれば粗大ごみに出した方が早かった。
 その件が有って大きく変わったのは本に対する思いだ。勿論本に対しては今でも敬意を持っている。だが、一方で俗人の貧乏人ゆえだろうか、本に対する価値を見失ってしまった。例えば千円の本、昔は千円の本であり、それプラス本の付加価値だった。今はそう見ることが出来ない。すなわち、資産と見たときにはほぼゼロとなってしまったのだ。本と言うものは資産とか価値とかとは別の次元のものだろう。知識は金で買えることは出来ない。金よりも貴重なものだ。本来は。だが、貧乏人にとっては大きなことなのだ。本の資産価値がゼロになることは。
 以前自分は仕事の関係もあり、雑誌などを含み本代に月一万円弱使っていた。今は精々使ったときでも数千円だ。千円以内のときもある。もちろん不況による収入減もあるのだが、それ以上にこの古本屋が貢献している。その最大の理由は新刊を買わなくなったことだ。周知の通り、新刊など、ベストセラーであればあるほど、程なくこの店で105円で売られる。大量に平積みになる。わざわざ高い金を払ってすぐに読む必要もないだろう。しばし待てば良いだけの話だから。当然そう考えるのは自分だけでないだろう。新刊の売り上げが落ちているのは、不況や新刊の質の低下だけが要因ではないだろう。
 価値観というものは人それぞれだ。できれば本を定価で買える身分になりたいと思う。良い出版社を、良い作家を育てたいと思う。貧者の一灯ということばもある。だが、千円二千円する本がほんの少しで105円で買えると思うとやはり新刊を買うことが出来ない。目の前の小銭を惜しんでしまうのが自分の現状だ。
 105円で少し前のベストセラーを買う時、一寸前の持ち主は高い金を払って買ったのだろうか、と少々申し訳なく思うこともある。
10年2月上旬
(管理人注 実際に掲載したのは四月です。)


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