金で買えないもの

金で買えないもの

 「金で買えないものはない」
 ちょっと前に時の人だったH氏が話され、話題になったことがありましたね。賢明な氏のこと、他に思惑があって発言されたと思われます。僕にはその真意は到底はかりかねますから氏の話題は置くとしまして個人的な思いを話させていただきます。
 「金で買えないものはない」と断言できる人は、つまるところ幸せな人だなと思います。「金で買えるもの」しか必要でなく、「金で買えないもの」に出会っていないのですから。そしておそらく、勝手な推測ですが、世の中の多くの人は実は「金で買えないもの」に出会ってない、言葉を変えれば直面していないのではと思っています。或いは、「金で買えないものはない」と言う人は大人なのかもしれませんね。「金で買えないもの」、例えば命や若さなどは当然のこととして望むべきものではない。大人はそんな無理なことは始めから口にしないと考えているのかもしれません。つまらない話ですが…。
 さて、かく言う僕も幸いなことに、今、「金で買えないもの」の存在を痛感しなければならないことがありません。しかし、「金で買えないものはない」と思うのは、ある意味で心の持ちようかもしれません。逆を言えば、金さえ貯めれば全てのことが叶うのですから。実に夢があることです。素晴らしいことですね。金は、畢竟人間が作り出したものであり、その意味で人生において道具に過ぎません。その道具である金で何でも買えるのならば、幸せなことですよね。

 ところで、僕に「金で買えないもの」をひとつ売ってやろうと言われたら、こう答えます。
 「一度だけ体育祭を楽しみたい」と。高校生に戻って、体育祭を思いっきり楽しめたら…。僕のかけがえのない思い出にきっとなるでしょう。
 今思いつきました。かけがえのない思い出は、「金で買えないもの」ですね。遠い遠い記憶と言う名の空にちらばる煌く星です。「金で買いたくないもの」です。「金で買えないもの」があるのも、幸せなのかもしれませんね。

たった一度の体育

 僕は中学生まで元気そのものでしたが、中学校の終わり頃ある病を患いました。幸い高校受験は終えていたため問題は無かったのですが、高校生活は病に色濃く彩られたものになりました。辛かったのは大好きだった体育が全く出来なくなったことです。見学者を気の毒そうに見学するのが僕の立場だったのですが、反対の立場になりました。体調が良い時や気候の良い時分にはストレッチや軽い基礎運動をして、真夏や冬、体調が悪い時は図書館でレポートをやっておりました。正直辛い思い出です。ストレッチなど何十分も出来るものではありません。実質見学で、先生が僕を気にしてくれた時だけ取ってつけたようにストレッチに励みました。思い通りに動き回る級友たちを別世界の人のように遠巻きに眺めるだけなのです。また健康な折には見学者の気持ちを全く理解できませんでしたが、同世代のクラスメイトの中で一人だけ全く異なることをする辛さを始めてしりました。情けない話ですが、他に見学者が出た時は本当に救われた気持ちになりました。一人だけというのは本当に辛いものです。
 三年生のある日、僕の病状はかなり良くなっており、激しくないという条件の下運動の許可が出ました。僕にとって幸いだったのは好きだったソフトボールの時期だったことです。先生のご好意により、基礎練習をすることなくソフトボールの試合に参加させてもらえることになりました。そして守備に付くことなく打席に入らせてもらえたのです。(実は守備も僕は好きでやりたかったのですが満足に走れないので無理でした。)
 当初級友たちは僕に配慮してくれゆっくりと球を投げてくれました。僕は手加減をしないでほしいと伝えました。実は僕は小学校までリトルリーグで野球をやっていたから少し自信があったのです。そしてもう二度とないだろうチャンスに真剣に望みたかったからです。ところが野球部の彼の球は存外に速く空振りをしてしまいました。なにより体が思うように動いてくれません。彼は気の毒そうに、「もう少しゆっくりにしようか」と言ってくれました。ですが僕は断りました。チームには迷惑なことですが、三振でも本望だったからです。次の球はファールで真後ろに勢い良く飛んでいきました。その折僕の細腕にジーンという衝撃が加わりました。骨の芯に響く物悲しいほどの痺れです。しかし僕には何とも心地良い痺れでした。懐かしい感覚、嬉しい痛み、僕の心は高揚感に包まれ体が燃え、アドレナリンが分泌するのを感じました。僕は覚えず素振りをしていました。再び対峙した時、彼は少々戸惑った顔をしていました。いつもと違う僕の様子に驚いたのでしょうか。彼は人の良い微笑を浮かべ「行くで」と言いました。最後の球、ど真ん中に来た球は真芯に当りました。球は三塁手を越え、レフト前に放物線の軌跡を描き飛んでいきました。「ワーッ」と言う声を背に何とか無事に一塁に辿りつきました。僕の体は歓喜に包まれておりました。芯に当った瞬間、球の勢いが全て僕の両腕に吸収され、そのパワーを体全体から一体になって解き放つ快感。腕に残る残像は僕にあの頃の感覚を思い出させてくれました。クラスメイトは乱暴に健闘を称えてくれ、しばし余韻に浸った後、ピンチランナーに代わりました。一塁から戻る時に自然と彼に目をやっていました。彼は人の良い微笑を浮かべていました。今思うと、彼はわざとど真ん中に投げてくれたのかもしれません。きっとそうだと思います。何れにせよ、彼が速い球を投げてくれたからこそ、非力の僕でも球を飛ばせたのだと思います。
 僕は小学校から中学校まで体育が好きで楽しみの時間でした。ですが、不思議と体育の記憶が何も残っておりません。しかし、この唯一の体育は今も鮮明に思い出せます。あの芯に当った感覚を腕は今でも鮮明に記憶しています。そして時を経るにつれ、彼の笑顔、先生級友の好意を暖かい気持ちで思い出されるのです。
 何かを失うと何かを必ず得る。僕はそう確信しています。


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