この世で怖いもの

この世で怖いもの

 怖いもの見たさという言葉がありますが、僕も生まれつき臆病で、そのためか怖い話、怪談が大好きでした。夏になるとその手の話が特集され、僕はテレビの前で息を潜めて見ていたものです。また本屋で心霊写真集をおそるおそる立ち読みして、衝撃的な写真に遭遇して後悔をしながら本を閉じたものでした。小学生だった僕は、その夜きまって祖母の布団に潜り込んで一緒に寝てもらったものでした。祖母が隣にいても、昼間の幽霊の出現シーンがフラッシュバックしてきて、一人身もだえしていたものです。  長じても幽霊に対する恐怖心は変わらず、もちろん、一人で寝られないと言うことはありませんが、寝苦しい夏の夜に深夜ラジオから聞こえてくる心霊話に身を硬くしたものでした。今でもやはり正直少し怖いと思うことがあります。霊魂やあの世の世界を信じておりません。しかし、得体の知れない世界、我々が知り得ぬ漆黒の世界を畏怖する気持ちは一生払拭できないと思います。
 僕は二十代前半複数の病を患いました。死に至る病ではなかったのですが、ほとんど布団から出ることができず、酸欠による激しい頭痛でずっと昼も夜も寝ているのか起きているのか判然としない状態でした。在る日、多分丑三つ刻だと思うのですが、開けっ放しの障子の傍で見知らぬ女性らしき人が立っているのです。不思議とメガネなしにもかかわらず、髪の長い白っぽい着物を着た女性と思えるのです。彼女は、宙に浮くようにして僕の傍までは来るのですが、何もしないようです。というよりも彼女が近づいてくるなと思うと僕は意識を失うのです。再び目を覚ましたときには彼女はいません。そんなことが何度もありました。
 おそらく普段の僕だったら恐怖で失神したのかもしれません。今、そんなことがあってもきっと気絶するでしょう。しかし、当時の僕は恐怖のかけらもありませんでした。それは僕を心配した先祖の霊?守護霊?だったから恐怖を感じなかったのでしょうか。いえ、違います。そのときの僕は、ああ女性がいるなと認識しただけでそれ以上の感情はありませんでした。彼女に対して全くの無関心でした。そのときの心理状態では、彼女が幽霊であろうが、悪魔であろうが、もっと言えば、僕に危害を加えようがどうでもよかったのです。むしろ命を奪ってくれたらなんと楽なことか、と感じていました。命を奪われるのならば僕に落ち度はありません。落ち度無くこの永遠に続くような苦しみから抜け出せるのならば願ったり叶ったりだったのです。悪魔どころか、神様であるでしょう。
 人間の恐怖は生に根付くものだとあらためて認識しています。生に執着するからこそ、それを脅かす可能性のあるものに恐怖を抱く。生に対する執着を失ったものには文字通り怖いものがありません。幽霊が来ようが、宇宙人が来ようが、化け物が来ようが、好きにしてくれ、むしろ何の感情も抱かないでしょう。
 僕は自殺をしたいと思ったことが無いのが唯一の小さな自慢ですが、死んだら楽だろうなと思うことは何度もあります。この二者は似て非なるものだと思います。後者は死ぬよりも辛い状況ですが、なおも生きてその苦境の改善を切望しております。むしろその限りにおいて生への執着は増しているかもしれません。自殺は、死を望むよりもむしろ生に執着を失った結果、怖いものが無くなり自殺できるのではと思います。僕には海や汽車に飛び込んだり、首を括るのは逆説的ですが、死ぬよりも怖いことです。
 最近自殺者が増えているそうで心を痛めております。どんな苦境が彼らを死に追いやっているのでしょうか。月並みですが、この世が全ての人にとって魅力的であることを、この世の中の全ての人が希望の火を灯せるように祈るばかりです。


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