以前と言ってももう十年以上前のことでしょうか。「安楽死」の是非を特集している番組がありました。安楽死の是非についてはここでは述べません。非常に難しい問題ですので。その番組で視聴者などの意見を紹介していたのですが、その中の医師の意見が目に留まりました。
「自ら死を選ぶのは神への冒涜だ」
僕は衝撃を受けました。「神への冒涜」。確かに敬虔な宗教者ではない僕ですら命の尊さは理解できるつもりです。せっかくいただいた大事な命です。決して粗末には出来ません。また命は自分ひとりのものではありません。愛する人の死の決断はどれほど悲しみを与えるでしょうか。僕には想像も出来ません。また、僕は病弱ゆえに実際に何人ものの誠実な医師に会っております。彼らは自らの時間や生活を犠牲にして、時には命を削ってまで人々の命を救おうと努力されております。その方々にとって安易に死を選ばれるのは非常に辛いことだと思われます。また安楽死について重い役割を担う医師には多大なストレスが掛かると思われます。しかし、私たちは死よりも辛い状況、絶望に体を焼かれる状況の人になおも生きろと言えるのでしょうか。
番組の中で、安楽死を選択したオランダ人の男性にインタビューをしていました。内容は覚えていません。はっきりと覚えていることは、七、八十代の男性が淡々と答えているように思えた瞬間、「ワーッ」と泣き出し顔を伏せたのです。生きたいですよね。死にたくないですよね。当時病を患っていた僕は彼の気持ちが痛いほど分かり涙ぐんでしまいました。
医師でも宗教者でも、誠実であれば誠実であるほど患者の心境や苦境を理解できるのではと思います。人の体のプロである医師、人の心のプロである宗教者は、自らの死を望む患者の心境を理解できるはずです。決して命を粗末にした結果ではないことは分かりきっているはずです。まさに究極の選択をした人、地獄の業火に焼かれるような苦しみを味わっている患者に、何重にも絶望に渦巻かれた人に、果たして、「自殺は神への冒涜だ」と言う言葉を言えるのでしょうか。その言葉が一体どれほど響くでしょうか。僕には何て空虚で残酷な言葉だと思えるだけです。
「神への冒涜だ」「自殺したら無間地獄に落ちる」
死を選択することを非難し、ましてやその人自身を非難することにどれほどの意味があるのでしょうか。僕には意味のない嫌がらせにしか思えません。また、死を選んだ人の心に思いを至らせず、断罪することの何処に命の大切さを思う心が読み取れるのでしょうか。もし命の尊さを思うのならば、人を本心から救いたいのであれば、死を望む人に生きる希望を少しでも与えようと全力を尽くすべきでないでしょうか。死に直面してもなお生を楽しむ希望を探す手助けをすべきでないでしょうか。その結果、患者がたとい死を望んだとしても、それは人の行為を否定することではないはずです。命の尊さが損なわれたことになるとは思いません。むしろ僕は死を選んでしまった人を悼むことは命の尊さを、もちろん身を切られるような痛みを伴いますが、身をもって知ることが出来るのではないかと思います。
もちろんホスピスの例をあげるまでもなく、医師をはじめ多くの誠意ある人々が職を超え協力して多くの人を救っております。難問に果敢に取り組む人が増え、その結果安楽死の制度自体が不要になる日も近いのではと期待しています。一方で、残念ながら自殺者は増加傾向のようです。不況による中高年の人に多く見られるようですが、若い人にも見られるそうです。また昨今若い人を中心にネットなどで自殺をする人を募って集団死することが問題になっております。時に原因らしい原因がないように思えることがあるらしく、「若いのに命を粗末にして」との声、時に「苦労を知らないから」「贅沢なのだ」と言う声すら聞こえます。しかし、若者が死を選ぶことは、理由が分からないのならばなおさら深刻なことではないでしょうか。一緒に死ぬ人を募る。その是非はおくとして、見ず知らずの他人とでも良いから一人で死にたくないと言う気持ち。孤独なのでしょうね。孤独なのでしょうね。僕には彼らの心の響きが聞こえてくるようです。
声なき声に、声なき叫びに耳を傾けることは困難なことだと思います。人の痛みを知ることは難しいことでしょう。しかし、人の心深くに思いを馳せる社会こそが自死を防ぎえる社会ではないでしょうか。人の痛みを汲み取ろうと言う社会の姿勢が自死を減らすのではないでしょうか。僕は非力です。身悶えをするほど無力です。僕は今日も心より自死を誰も選ばない社会が築かれることをただ祈ってばかりおります。