思ひて学ばざれば



思ひて学ばざれば

 僕の十代後半から二十代前半は闘病生活で明け暮れました。闘病と言っても病と積極的に闘うというよりもむしろ病気が良くなるのをじっと待つような消極的なものでしたが。僕には同世代の人たちが持ち得るような時間はありませんでした。その代わりたっぷりと飽きるほど考える時間が有りました。体調の良い時には読書をすることができましたが、そうでない時には本を読むことすら出来ませんでした。だから僕は、仕方なくさまざまなことを考えました。ネットで「妄想族」と言う言葉を見かけましたが、まさしく僕はそうだと思います。妄想族もそれはそれで楽しいのでしょう。しかし、人に言えないような妄想は自分ひとりだけで楽しむものでしょうが、多くのことは真剣に考えれば考えるほどその是非を尋ねてみたいと思うものです。意見を聞いてもらいたいものです。しかし僕は、本を読んでも一人、映画を見ても一人、音楽を聴いても一人。どんなに感動しても語り合うことが出来ませんでした。勿論闘病生活を支えてくれる両親や何時も励ましてくださる医師がおりました。大変支えられました。しかし、やはり本音を、いえ、本音までもたとえ行かなくても語り合える友人と言うのは別の種類のものなのです。同世代だからこそ或いは同性だから分かること。夢や悩みを話すことが出来るのは何事にも代えがたい貴重な経験だと思います。勿論実際にそういった経験に恵まれなかった僕の幻想も多分にあるでしょうが。
 今はネットが繋がり、ある意味二十四時間世界中の人とさまざまなことを語り合うことが出来ると思われます。今までならば絶対会うことのない人、遠い国の人、年の離れた人、異なった職業の人などと語り合うことが出来ると思います。それは幸甚なことだと思います。ですが、僕はやはりそれ以上に生身の同世代の友人と語り合えるのは貴重な経験だと思います。ごく短い範囲の、それも決まった少数の友人。その出会いは縁であると思います。たまたま近所に住んでいたこと、たまたま同じ中学校で同じクラスになったこと。同じ高校に入ったこと。それは偶然でしょう。ですが、その縁で出会った友人と語り合えることは幸せなことだと思います。お互い生身の人間、何時も仲良しではないでしょう。考え方も当然違うでしょう。生で向き合っているからこそ、摩擦も生じると思われます。時に感情的になり、傷つけることがあるかもしれません。傷つくことは怖いことだし、嫌なことだと思います。でも生きることはある意味摩擦を生むことで、とりわけ若い時は摩擦を経験して成長するのではと思います。ネットでの繋がりはそれこそいつでも持つことが出来ると思います。しかし学生時代の友人との語らいは、二度とない経験なのです。是非メールなどではなく、生身で語り合っていただきたいと思います。

 蛇足的ですが、僕は昔人間が子孫を残す理由を考えました。僕はある漫画を読んで人間という生物のの究極の目標は不老不死になることだと考えしばらくそう信じていました。しかし大きな誤りでした。後に生命科学の本を読んで、多くの生物は不老不死を捨てて進化を選んだと言うことを知りました。単細胞生物であった我々の遠い先祖は少なくとも不老を捨てて進歩を選びました。その結果永遠に同じ遺伝子が二つに分裂する不老不死から、生殖により進化と老いを手に入れてしまったのです。進化した子孫を残すため、古い我々は老い、そして死ななければなりません。古い物が生きていると新しい物の邪魔になるからです。僕の考えはどうやら真逆だったようです。 生物を学んだ友人がいれば笑いながら指摘してくれたでしょうか。


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