あの日の少年



あの日の少年

 僕には忘れられない少年がいます。といっても今はもう大人になっていらっしゃると思いますが。僕は昔所謂民間医療を受けていました。そこは結構有名でさまざまな不治の病を抱えた人が集まっておりました。そこでは入院施設がないので近くの安旅館に患者さんは宿泊し、その人にあった指導を受けておりました。今民間治療について色々議論があるようです。ですからその民間治療については詳しく語りません。でも少なくとも僕にとっては精神的に随分支えられました。死に至る病ではありませんが、完治することがない病気を抱える者にとって、懸命に支えてくれる先生は心の恩人でした。
 そこでは暗黙の了解でお互いのことを詮索しませんでした。しかし、同病相哀れむではないでしょうが、同じ悩みを抱える者同士自然と病名や時には境遇など語り合ったりしたものです。そこに中学生か高校生くらいの男の子がいました。その子は僕よりもずっと前に来たようですが、親しげな友人もおらず、一人でいることが多いようでした。どうやら彼はそこでは敬遠されているようでした。その理由はいつも
「いつでも死んでやれる。死は怖くない、死ぬことなど何ともない。」と言うような趣旨のことを話しているからでした。そこでは病と闘う者同士お互い常に口に出さずとも励ましあっていました。その中で死を口にする少年は異色でありました。ここで最も忌み嫌われる死を口にする少年は当然人から敬遠されるようでした。至らぬ僕もその理由を尋ねることなくただ少年を避けておりました。
 僕が入所してしばらく経った頃、ある時もう一人の少年が、その少年は比較的穏やかなタイプでしたが、病気の状態が思わしくなかったからでしょうか。彼のいつもの言葉に、 「そんなに言うなら死ねば良いじゃないか」と言い放ちました。僕のほかに数人の少年がおり、その言葉に皆ドキッとしました。少年がそのような言葉を口にすることにもそうですが、彼がどのような激しい反論をするのか心配でした。皆固唾を飲んで少年の様子を見ていると、
少年は即座に「いつでも死ねる。でも今は死ねない。」と。
普段そんなことをいう子ではなかったのですが、「ほら見ろ、なら死ぬとか軽々しく口にするな。」と心なしか涙ぐみながら言い放ちました。
 一応年長だった僕はもう止めろと止めました。病に苦しむ者同士、心にもない争いをするのは辛いものです。それは病を抱える周りの皆にとってもそうだったでしょう。皆沈痛な面持ちで推移を見守っていました。
少年はしばらく黙っていました。それから初めて見せる落ち着いた表情で
「死ぬ方が生きるより余程楽だ。でも辛いのが嫌で死ぬのは嫌だ。もう少し良くなったらいつでも死んでやるわ。」少年は宛も自分自身に言いかけるようでした。 おそらくそこにいる誰もが「死ぬ方が生きるより楽。」と言う言葉に深くうなだれたと思います。ですが、それを分かった上で皆病と闘っていたのです。だからこそ自分自身と戦っていたのです。ですから、やはり少年の言葉に誰もが納得できませんでした。ただ少年の我侭に過ぎないと思っておりました。 その後ますます少年は孤独になっておりました。それから僕は少年の声すら聞くことがなくなったほどです。ほとんど姿を見ることもなくなっておりました。後で聞いた話では彼は親に見捨てられ、年老いた祖母に預けられていたそうです。彼の祖母は少年の不憫さを僕の母に語っていたようです。我々の多くは、辛い闘病生活でも幸い家族の助けを受けておりました。少年は孤独とも戦っていたのです。僅か十代半ばの少年にとってとても辛いことだったでしょう。僕は少年一人が病気と闘っているわけではない、ここにいるものは皆同じ境遇で戦っているのだと非難の気持ちを抱いていました。しかし、少年は我々よりももっと過酷な境遇だったわけです。母からその話を聞いた頃少年は年老いた祖母とその旅館を既に去っておりました。

 今、僕は少年の気概を感じます。恐らく少年の言葉は事実だと思います。苦しいままの人生、与えられた苦しみ、その苦しみに負けるのはきっと我慢ならないことでしょう。自分の過酷な運命に負けるのは許せないことだったのでしょう。そして恐らく少年は自身の寿命を知っていたではと思っています。だから、それ以上に祖母を残して死んでいくのは辛かったのではないでしょうか。両親に捨てられた少年だからこそ尚更老いた祖母を残して逝くのが辛かったのではないでしょうか。死なんか怖くない。ただ彼は死ぬに死ねなかった。病や死に対する苦しみではなく、その苦しみを吐露していたのではと思います。僕は心の中で彼を非難しておりました。無益なことでした。僕は素晴らしい少年と話す機会を逸してしまったと思います。残念でなりません。


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