大空の女神フリーガまで





イヌイットの道標アノクシュと左バルダー、奥トール




フリーガとは北欧神話中、大王オーディン
の妻で"大空の女神"だという。



 計画のいきさつは他の項でも書いているように25年前と3年前(1995)の「岩と雪」である。

翌'96年より実際に行くための情報集めを始めた。サムフォードフィヨルドに行った千葉の伊藤さんに会いに行き、ターンウェザーの野津さんにもE-mailにて丁寧に教えてもらった。私達の偵察のすぐ後に同じエリアのウィーピング氷河にある壁を登った大阪の坂本君とは、新山らが三倉で会った後E-mailのやり取りさらには帝釈峡などで貴重なアドバイスをもらった。

当初は3人程度のパーティを考えていたので、我が会(広島山岳会)の山本宣夫と宮重に声を掛けたが山本はあまり乗り気でなく、その代わり彼ら帝釈峡仲間の山本茂樹より計画に入りたいという強い申し出があった。
1997年2月、最初の会合を3人(山本、宮重、名越)で行い、休暇の都合とメンバーの力量(山本、宮重に冬期ルート開拓はちょっとしんどい)からサムフォードは諦めて、入下山の比較的容易なアウユイットゥク国立公園内の壁に目標を絞った。
集まった情報からこの地域はポーターの居るヒマラヤ等とは違い、荷物の輸送をいかにやるかが成否を決める大きな鍵であることが分かった。

4月から5月にかけてフリークライミング仲間の井上、木原、溝手、新山の4人より遠慮がちに?参加したい旨の申し込みがあった。
そのうちの木原と溝手は1ヶ月の休みが限度であったが、やり方次第では十分楽しんでくる事が出来ると思ったので(実際は少し違ったようだが)受け入れることにした。ただ他のメンバーには登攀以外の輸送や登攀前後の活動でしわ寄せがくることは理解してもらう必要があったが、そこはいつものクライミング仲間でもありみんな快く了承してくれたのであった。

そのプランとは、「BCが出来て登り始める頃入ってきて、一緒に登攀して後始末と輸送等は任せて早めに帰る。ただし最後まで登れず中途半端になる可能性はあるけどー」というもので、まあいってみればおいしいとこ取りの参加が実現したのである。
ただこのことについては他のメンバーがそれでいいのだから、何ら問題は無かった様に思う。

この時点で正式な申し込みはないが両粂も参加の意志がある事はわかっており、少なくても8名の希望者をみた。中には職を辞してまで参加したい者もいるやに聞くと、なんぼ本人の自己責任とはいえそれなりに充実した悔いの無い遠征にしたいと思った。
これまでのバフィン隊の多くが十分な活動が出来なかった原因は「すべてにおいて準備不足が最大の要因である」と、当事者より聞いていたので「とりあえず今回は行ってみてから」というようなことは出来ない。登攀の力量以外で悔しい思いをさせないためには偵察をする以外に無いと思った。

本来この遠征は私個人の長年の夢を実現化するという極めてプライベートなものだったはずだ。秋にはもう一つの憧れの地ヨセミテ合宿へみんなと行きたいという気もあったが、バフィンはどうせエイドが主体のアルパインだろうし、大きな壁ならまあそれなりに自信もあったので偵察に行くことにした。幸いというべきか、井上が期間の都合でヨセミテに参加出来ず同行することになる。後から知ったが新山は2週間でサラテを登ってこれたので、こんなおじさんとまるで合宿の様なしんどい偵察行を強いられた井上は気の毒であった。

行くとなったらやることは山ほどあった。輸送はもちろん食料、装備、交通、気象、公園事務所等での事情徴収、そして点在する壁の写真とルートの目星、アプローチ事情、エージェントとのコンタクト、先送りした場合の荷受け人の依頼、それに今回行くからにはギリギリ一杯まで荷物を持っていき、デポしておきたい。そうだモントリオールでの買出し事情も調べたいと、メニューは増える一方であった。


7/6 2週間の偵察に発つ。できればサムフォード・フィヨルドまで足を伸ばしたかったが、井上の休暇の都合でアウユイットゥクに的を絞る。そして私にしてみればこの偵察行で、はっきりと遠征の実像が見えてきたのであった。

帰るとすぐに各係りを決め、完全に責任を持たせるかたちで仕事を進めていった。

11月に入るとメーカ等への協賛、JACの助成、県や報道への後援を依頼し、いずれも快く?承諾を得ることができた。


正月合宿はスケールがあってしかも傾斜の強い、ということで昔私がルートを作ったことのある九州延岡の行縢で行った。実際に壁の途中でポータレッジに寝たり、荷上げをしたり、ルートを作ったりして、イマイチではあるがそれぞれ各自が自分の課題を意識したようであった。

後日それらを踏まえてパーティ編成や登攀スタイルのタクティクスを話し合った。

2月には東京にあるα米の尾西食品へ出向き直接尾西社長に会い、快く支援の承諾をいただいた。もちろんパンノットコにもα米はあるのだがとても食えたもんではなかったし、低温、非高所の北極圏におけるすざまじい食欲を補えるのは美味い米しかなかった。

あとポータレッジ生活で使用するガスカートリッジの搬入には最後まで手がかかった。ご存知のように正式に航空便でガスを送るのは無理(そりゃ時にはセーフなこともないではないが)なので、カナダ本土で購入して船便でバフィン島に送ることにした。
後で書くEtienne君によると船便が出るのは我々が現地に着くずっと後になるようでガスの船輸送は無理であった。パンノットコの公園事務所よりの返事も「ナフサかガソリンを使ったらどうか?」というものであった。最終的には熊除けスプレーとともに(具体的には言わないけどー)持ち込んだ。

まあポータレッジ上では"ピーク1か123Rにガソリンの組み合わせでも十分であるが、ガスの利便性と安全性には勝てない。

島内すべての村がそうではないようだが、パンノットコはドライエリア(禁酒地域)でどこにも酒はない。あったとしてもウイスキー1本300$もする。
我々はEtienne に頼んでペットボトルに詰め替えたものをモントリオールよりBCまで持ち込んだが、それも短期参加組の到着前日に飲み干してしまい、彼らには良い匂いのする空のボトルしか残っていなかった。

日本国内で間に合わない装備、食糧はモントリオールのLA CORDEEというアウトドアー店に注文した。最初のFAXを送ったとき「高くつくのでE-mailにしてくれ」と書いたら、店員のEtienne Allardという青年(おやじのJean Lucのアドレスらしかったが)が個人的に対応してくれた。彼は店に無いものは自分の金で買い揃えてくれたり、ガスや熊除けスプレーを探したり、ペットボトルを調達してウイスキーを詰め替えたりと、非常に好意的にやってくれた。30通に上るメールのやり取りも実にまじめで、どんな男かと楽しみにしていたが、まだ25・6歳の頬髭を貯えた好青年であった。モントリオールでは先発の私と宮重が彼の家に荷物ともども泊めてもらい、おやじに市内見物のエスコートまでさせてすっかりお世話になってしまった。




右の白いのがジェイコピー氏の作業小屋(左は母屋)




もう一人島ではJacopee Kakee氏に全員一方ならぬお世話になった。昨年坂本君が知り合って日本人びいきだと聞いていたが、1974年の京都大隊(片山、山岸)に登山の手ほどきをしてもらったとか言ってたから懐かしさもあるのだろう。
私達も図々しく彼の作業小屋(彼は「サカモトハウス」と呼んでいたが)と、バスルームをホテルがわりに使わせてもらった。



バフィン湾内の小島にて昼食


さらには「ホエールウオッチングに連れて行け」とねだって14時間のクルージングをさせたり、オーバーロードまでの送り迎えを格安でしてもらったりと、口では表わせないほどの親切を受けた。




ジェイコピー氏と息子のアイモ君



彼を紹介してくれた坂本君は昨年私達の偵察と入れ違いに入山してウイーピング氷河左岸にある400mほどの壁を登っている。昨年は偵察のつもりで来て運良くヘリと好天に恵まれて一本登れたのだが、皮肉なことに本番であるはずの今年はヘリも捕まらず天気も例年並みに悪くてブレーダブリックの下部壁で終わってしまったようだ。彼には今回我々のヘリに同乗して荷の積み下ろしなどを手伝ってもらったり、チャーター料の交渉までしてもらった。

後発でやってきた彼のパートナー2人に同行して、昨年トールの壁で墜死した阿部剛君(我々は昨年ウインディレイクで荷運び中の彼に会ってる)の家族が来られたがヘリがチャーター出来ず、オーバーロードあたりを少し歩いて帰られたとのことだった。

そのヘリコプターである。今回の渉外はこれに尽きると言ってもいい。昨年などはしょっちゅうパンノットコの飛行場に飛来していたので、わざわざチャーターして呼び寄せるまでもないと思い(チャーター、シャトル代は運搬賃より別にイカリットからで$3,800。イエローナイフからと$10,000!もかかる)予約のFAXは入れなかった。
ところが公園管理事務所のボスであるRichord氏(彼の奥さんは日本語を話す)に聞くと「そのビジネスは昨年で終わったので今年はもうヘリは来ない」とのこと。ゲゲーッそんなバナナ!慌てて事務所のHarry氏に頼んで電話帳にあるヘリ会社へ片っ端から電話をかけて「この近くにお宅のヘリ来てない?」と聞いてもらった。10件目くらいだったかイエローナイフのヌナシーヘリコプター社が半島北側のブロートンアイランドに来ているという。来週本隊が来るまでそこに居るかどうか聞いてもらうと、明くる日の夕刻OKの返事が来た。近いのでチャーター(呼び寄せ)代は$2、000で済むとのこと。

実際は3往復したのだがチャージ代(運賃)は2回分の$2,500に負けてもらい、チャーター代もパークスカナダ(国立公園局)がこのあと無線基地(トール他2つの頂上にある)の修理に使うとかで半分の$1,000をもってくれ、トータル$3,500で済んだ。実に幸運であった。

我々の10日後に入山予定だった坂本君と阿部さん一家はとうとう来てくれるヘリが無く、坂本君は村中にポスターを貼ってポーターを募り、阿部さんは子息の終焉の地であるトールの大岩壁を見ることはかなわなかった。



帰りのアレンジはもっとスリリング?だった。
お互い折半でチャーターするはずだった(イカリットの)ヘリを、英語熟の講師である坂本君でさえ予約できず、又も電話帳で当たったのだが今度ばかりは手応えが無かった。
しかしついてるときはこうしたもので、イカリットの「カナディアンヘリコプター社」のヘリがバフィンの北の島で仕事をしていて、その帰り便をまたもパークスカナダが予約していた。問題はそのヘリが我々の居る間に来れるかどうかである。
しかしどうも我々のフライト日8月28日までに間に合いそうにないので「モントリオールの休日」を熱望する4人を先に発たせることにする。
だが翌日27日坂本君達を乗せた双発機が飛び立つのと入れ替わりにヘリがやってきたのであった。彼らの荷はイヌイットに頼んで冬にスキードゥでピックアップして送り返してもらうか、再び来年登りに来るかしかないのである。
私の方はそれこそついてるときってこんなもんなのだろう、入山時のヌナシー社のパイロットなら絶対に飛ばないようなガスと雨の中をここバフィン島のパイロットは平気で飛んで行き一人で荷をピックアップして帰ってきたのであった。もし彼が他の土地のパイロットのように天気待ちをしたなら私は荷を持つことなく次の日にはパンノットコを発たなければならなかったのである。
我々に奇跡は2度起こったのであった。


Richord氏も言ってたがバフィン島ではもうヘリコプターで荷を運ぶことは考えない方がいいと思う。元々公園内では航空機の使用を認めてなかったし、パークスカナダ(公園事務所)も来年からは特別許可は出さないといっている。

その代わりとしては2~3ヶ月早目に荷を送って、スキードゥ(スノーモービル)でBC予定地まで運んでもらっておくか、地元のエージェントにポーターをアレンジしてもらって人力で運び込むか、または大金を出してカナダ本土から(公園事務所には内緒で)大型ヘリで一気にBCへ降りるかしかないであろう。
ちなみにポーターチャージは坂本君によると、日当ではなく目的の場所まで荷を運んで1人$500で契約したとのことである。