習俗分科会

習俗分科会   【平成20年度報告】
●天皇、世襲、右翼・左翼、真俗二諦
 宮台真司が天皇について論じている(「天皇と日本のナショナリズム―神保・宮台マル激トーク・オン・デマンドIV」2006年、春秋社)。本を全メンバーに配布したが、なかなか通読していただけない。適当な章を1〜2週間前に案内して分科会を開催するやり方にした。

 再度確認。日本で習俗の議論は、どうしても天皇に結びつくから天皇について議論する。また、西本願寺派教団では、真宗十派の中で現在唯一世襲の門主制を維持しているので、天皇を論ずることは重要である。私は、真俗二諦論が末寺にいたるまで世襲制である真宗で必然的に構築されなければならなかった理論と考えてあちこちで述べているが、宗門内で世襲制からのアプローチをする人はない。世襲の点からも、浄土真宗本願寺派(西本願寺派)で天皇論を避けるのは欺瞞であると思う。(本山の世襲と末寺の世襲は本質的には異なることに注意。本山の世襲は、天皇と同じく万世一系の観念があるが、末寺の世襲はいわゆるとり子とり嫁が普通に見られる世界である。天皇家や大谷家(門主)のように厳密な血縁連続の物語を採用していない。)

 私は「日本の右翼は、なぜ天皇と結びつかねばならないか」という疑問をいつも抱いている。習俗分科会での議論で、コミンテルンが天皇をつぶすことを指令したので反作用として右翼が天皇を支持したという意見が述べられた。左翼と右翼は鏡という論である。天皇を相対化するプラグマティックな論である。
 ソビエト側からも、「(昭和10年には)天皇制打倒を掲げることが、コミンテルンの側から禁止された」(加藤哲郎「社会民主党宣言から日本国憲法へ」2005.4.29)し、アメリカも開戦当初から「戦後日本の民主化をスムーズに進めるために、第一に、天皇を軍部と対立させ「象徴」として残し、戦争勝利のためにも、戦後の日本改造のためにも、アメリカが積極的に天皇制を利用」(加藤哲郎)する方針を決めていた。「天皇を「傀儡」として残し利用」したのである。そうすると、戦後の右翼の過剰な天皇擁護論は、鏡に映った幻に過剰反応した一人相撲ということになる。

 右翼と左翼を、保守・進歩、反マルクス主義・マルクス主義と定義する時代は終わったと思われる。右翼は相対的に内向志向をさし、左翼は相対的に外向志向をさす言葉として使用すればよいと思う。ドイツのナチは、社会主義を掲げるが内向的であるので私の定義では右翼になる。天皇主義者は右翼といえるが、すべての右翼が天皇擁護である必要はない。そろそろ、天皇に関心の薄い右翼が登場してもよいと思うが如何であろうか。


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