秋葉忠利広島市長に抗議文を送りました

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平成16年(2004年)8月6日の広島平和宣言(骨子)の中で、「唯我独尊」の文言が使用されていました。下記理由で、私も抗議することにしました。(平成16年(2004年)8月4日武田勝道記)




                                             平成16年8月4日
秋葉忠利様
                                                 武田勝道

 今年の平和宣言で、米国政府を「唯我独尊主義」と強く批判されている報道を読みました。私は、秋葉さんに、先年米国がイラク攻撃を開始する時、ブッシュ大統領が十字軍だと叫んだような含意はないと思いますが、軽率な言葉遣いであると考えます。
 私は、揚げ足取りをする気は毛頭ありませんし、なるほどどの国語辞典にも第2義として、「周囲に受入れられない独りよがりな誤った考え」の意味が採用してあります。しかし、公文書で、しかも世界に格調高く宣言する広島市の「平和宣言」の文章に、仏教批判をする文脈でもありませんし、浄土真宗の安芸門徒をはじめとする多くの仏教徒を含む広島市民を代表しての市長の宣言の文言としては、まことに不適切と思います。
 私は、秋葉さんを個人的に存じ上げ、秋葉さんが仏教徒の神経を逆なでされる意図を微塵もお持ちでないことを信ずるがゆえに、使用する必然のない「唯我独尊主義」の文言を削除され、他の表現にされるよう強く要望いたします。

 以下略(武田勝道の住所・電話番号・ファックス番号・eメールアドレス)





平和宣言の文言が変更されました。
安芸教区(池谷亮真広島別院輪番・安芸教区教務所長)が、秋葉忠利広島市長に強く抗議し、その結果だと思います。


平成16年(2004年)広島市長平和宣言

「「75年間は草木も生えぬ」と言われたほど破壊し尽された8月6日から59年。あの日の苦しみを未(いま)だに背負った亡骸(なきがら)――愛する人々そして未来への思いを残しながら幽明界(ゆうめいさかい)を異(こと)にした仏たちが、今再び、似島(にのしま)に還(かえ)り、原爆の非人間性と戦争の醜さを告発しています。

残念なことに、人類は未(いま)だにその惨状を忠実に記述するだけの語彙(ごい)を持たず、その空白を埋めるべき想像力に欠けています。また、私たちの多くは時代に流され惰眠(だみん)を貪(むさぼ)り、将来を見通すべき理性の眼鏡は曇り、勇気ある少数には背を向けています。

その結果、米国の自己中心主義はその極に達しています。国連に代表される法の支配を無視し、核兵器を小型化し日常的に「使う」ための研究を再開しています。また世界各地における暴力と報復の連鎖は止(や)むところを知らず、暴力を増幅するテロへの依存や北朝鮮等による実のない「核兵器保険」への加入が、時代の流れを象徴しています。」


全文は、広島市長平和宣言全文(クリックしてください)をご覧ください。
                                             (平成16年(2004年)8月6日武田勝道記)




【これでよかったのか】

 私も、平和宣言において、「唯我独尊」を第2義で使用されるのに抵抗がありました。秋葉忠利広島市長は、最後で文言を変更されました。秋葉市長は、彼のプライドによる抵抗はあったでしょうが、平和宣言の性格を考えての変更の決断だと思います。立派です。

 しかし、私たち仏教徒は、仏教用語の第2義(しかも、原義の反対的揶揄的用法の場合)での使用にどのような態度を取るべきか、しっかり考えておかなければなりません。このたびの平和宣言では、英語文では、唯我独尊主義の訳としてegocentric worldviewを使用しており、日本語の原文を自己中心主義に変更した後も、英語文では変更されなかったようです(中国新聞2004年(平成16年)8月7日)。日本語の原文の変更は、前日まで拒否されていました。なお、「唯我独尊」は、英語では、“I am the best in the world”( あるいは、“I am the highest in the world”等) と訳されているようで、平和宣言の英語文は、もともと「唯我独尊」とはニュアンス的に全然関係がありませんでした。

 「唯我独尊」は、申すまでもなく釈尊誕生で、7歩(seven steps)歩まれた後、「天上天下唯我独尊」といわれた故事にちなみます。私も、自坊経営の幼稚園・保育園で、毎年4月8日の花まつりのお話で説明します。宗教的言葉の理解は、その者の全人格が問われます。このたび、私は、「平和宣言」において、かつ仏教と関係のない文脈で使用されているから文言を変更するよう抗議しました。悪い意味で使用されていたのも影響があったかも知れません。平和宣言でなかったら、抗議しなかったでしょうし、平和宣言の中で「唯我独尊」が独りよがりの意味で使用されていても、それが仏教批判の文脈で使用されたのであれば、内容について議論し論駁することがあっても、文言の変更を要求するような抗議はしません。

 小室直樹さんが、次のように使っています。「主権は言うなれば、「天上天下唯我独尊」であって、主権を超えた権威は存在しない。」(小室直樹「日本国憲法の問題点」106頁、2002.4.30、集英社インターナショナル)
私は、問題ないと思います。

 文言変更の要求は、安易にすべきではない。あくまで内容を議論し、そして相手を徹底的に叩きのめせばよい。私は、これが原則だと思います。
                                             (平成16年(2004年)8月10日武田勝道記)



 他力本願とは、「他人の行為をあてにして自分ではなにも努力しないでその成果をむさぼる」意味ではありません。阿弥陀佛の本願力を意味します…云々…。唯我独尊とは、「周囲に受入れられない独りよがりな誤った考え」という意味ではありません。かけがえのない一人一人の命を大切にするという意味です…云々…。
 このような皮相的な言葉狩りに熱中していていいのだろうか。「他」という言葉を、なぜ親鸞聖人と真宗教団のみが、しつこく現代にいたるまで保持してきたか。唯我独尊は、大乗仏教的な釈尊神格化の言葉ではないのか。それがキリスト教的唯一神にすすまない仏教とは何か。私たちは十分思慮し、宗門の外にも伝えていかなければならない。
 現在のやり方では、差別用語辞典と同じく、ただ触らぬ神にたたりなしで、禁忌用語辞典採用の語彙になるのではないかと危ぐします。
                                             (平成16年(2004年)8月28日武田勝道記)





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