2004年12月
 
12月9日(木)「12月9日」
 朝はそれなりに寒くなりましたが、昨年よりは暖かいなあ、というのが実感です。
 
 そういえば「暖かい衣服」とか「暖かい毛布」という表現がありますが、これ、ちょっと変じゃないです? どんなに「暖かい」ものでも、死体に着せててほかほかに温もる、ということはありませんよね。熱源内蔵タイプだったら知りませんけれど。
 
 
【ただいま読書中】
ニュー・ミステリ
 ジェローム・チャーリン編、小林宏明・他訳、早川書房、1995年、3000円
 
 「ジャンルを越えた世界の作家42人」というサブタイトルに恥じない内容です。フィリップ・マーロウとかあるいはミステリマガジンが初出のいかにも「これはミステリです」という短編群に混じって、ガブリエル・ガルシア=マルケス、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、三島由紀夫、ハーラン・エリスンなども並んでいます。
 
 そうそう、マヌエル・バスケス・モンタルバンというスペイン人作家の『少年と犬』という短編も含まれているのですが、そういえばハーラン・エリスンの素晴らしい短編集『世界の中心で愛を叫んだけもの』の掉尾を飾る短編も『少年と犬』ではありませんでしたっけ? ハーラン・エリスンの短編のタイトルって真似されやすいのかな?(さすがに『「悔い改めよ、ハーレクィン」とチクタクマンは言った』は真似できないと思いますけど……たぶん(^_^;))
 
11日(土)「人は見かけによらない」
 mixiにやって来て四日目、ここは危険な場所だと私のゴーストがささやきます。このままだとどっぷりはまってしまうぞ、と。なるべく細く長く楽しませていただきましょう。
 
【ただいま読書中】
〈衣裳〉で読むイギリス小説
 久守和子/窪田憲子編、ミネルヴァ書房、2004年、3200円(+税)
 
 「衣」「食」「住」それぞれの視点からイギリス小説を読むシリーズの第一巻です。衣食住の文化と様々なイギリス文学が同時に楽しめるという、いわば一粒で二度美味しい論文集(270ページに12編の論文)ですが、それほど難解な文章のものはなくてすらすら読めます(個人的には(特に歴史的に)もっと突っ込んだ考察をして欲しい、と思うこともありましたけれど……)。エデンの園のイチジクの葉っぱ、ヴィクトリア時代の女性下着の無茶苦茶さ(「ロングドレスは女性を殺す」1867年)と女性解放運動の大失敗、子ども服の誕生の意味(「子ども」の社会的意味の変容)、ウェディングドレスにつきまとう暴力性……面白い切り口が満載です。
 
 ファッションセンス皆無・流行には無頓着な おかだ が、なぜこの本を読んでいるかというと(現時点で真ん中を越えたところ)、先週読んだ『〈食〉で読むイギリス小説』がとても面白かったのでその勢いで手を出してしまったの。勢いとは恐ろしいものです(反省)。第三巻の『〈インテリア〉で読むイギリス小説』まで勢いが続いて読んでしまうかどうかはわかりませんけど。
 
 
#「人は見かけによらない」という言葉がありますが、これは逆に言えば「普通の場合、人は見かけで判断される」ということです。だから社会の中で生きる人は外見に気を使います。「自分がどのような人間であるか」を表現するための手段あるいは記号としてファッションを用い、周りの人間もファッションを読み解くことでその人がどんな人間か(どんな人間と思ってもらいたいと主張しているのか)を判断します。
 ところがここに大きな問題が。
 「自分がどのような人間であるか」を表現するためには「これしかない」という理想的な服装があるはずですが、しかし現実は常に理想を下回ります。文化的な制約(時代が人に押しつける枠組み)・経済的な制約(銭がないから本当は着たいあの服が手に入らない)・物理的制約(サイズがない、非現実的なデザインで着たら歩けない、現在の技術では作製不可能な形や機能)などのため、人はどこかで妥協しなければなりません。つまり「現実のファッション」は実は「(その人の)理想からは乖離した妥協の産物」なのです。
 どのくらい「現実」が「理想」から乖離しているかは、本人にしかわかりません(下手すると本人にもわかりません)。すると、その「現実」から読み解かれる「見かけから判断したら、この人はきっとこんな人だよね」という考察は果たしてどのくらい正確なものなんでしょうか。
 さらに、本人の誤解・思いこみ(たとえば本当は□□が似合う人なのに「自分には○○が似合う」と思い込んでいる)があると「理想」そのものもアテにはなりません。さらにさらに、見る側に「人を見る目」が無いと、読解そのものもアテにはなりません。すると「理想」も「現実」も「読解結果」もすべてアテにならないということに……
 
 ……う〜む、やはり「人は見かけによらない」のでしょうか。
 
 
12日(日)「自由と平等」
 今日は町内会の一斉清掃の日でした。私は自分の机がごちゃごちゃしているのは気になりませんが、自分の子どもがゴミの中で遊ぶというのは好みではないため息子を連れて参加しました(息子の方が張り切っています。ゴミを見つけるのを一種のゲームと思っている様子)。車道に転がっている煙草の吸い殻を拾っていたら、その脇をすごいスピードで走ってくれた車のドライバーが煙草をくわえているのに気がつきました。あの人、吸い殻をどこに捨てるのかなあ。後部座席の子どもたち、親の行動から何を学ぶのかなあ……
 
 ……おっと、「転がっている吸い殻」じゃありませんね。「(おそらくは自動車から)ぽい捨てされた吸い殻(ゴミ)」です。
 
【ただいま読書中】
GHQ検閲官
 甲斐弦、葦書房、1995年、1800円(+税)
 
 終戦直前に内蒙古で現地召集を受け昭和21年春に復員。仕事が見つからず一家四人が食うや食わずの生活をすることになり、阿蘇山麓の開墾も上手くいかず貯金が200円を切り、とうとう福岡の米軍第三民間検閲局(CCD)の検閲官(一般人の手紙を開封して内容に問題がありそうなものは英訳して米軍の判断を仰ぐ仕事をする)になった人の体験談です。「自由と平等」を高らかに謳う米国が、自分たちの主張(国是)・ポツダム宣言・日本の新憲法(偶然ですが、著者がこの検閲官の仕事をやっている時期に日本国憲法が公布されています)にも明確に反するこんな行為を行なっているとは、という著者の詠嘆は、はたして過去のものなのでしょうか。
 
#「自由と平等」と簡単に併記しますが、はたしてこの二つは簡単に両立するものなのでしょうか? 「完全な自由」の下では、各個人の差違によって不平等が生まれます。逆に「完全な平等」を保証しようとすると、個人に対して何らかの社会的な制約を加える必要がありますがそれはすなわち「自由の制限(侵害)」です。
 つまり「完全な自由」と「完全な平等」は、排他的ではないにしても、両立はけっこう難しい概念なのではないか、というのが私の感想です。民主主義を上手く動かすためにはどちらにもある程度の譲歩が必要でしょうけれど、さて、現在の日本ではどちらがどのくらい譲歩しているんでしょう?
 
 
14日(火)放り出されたランドセル
 「ただいま」
 玄関に放り出されたランドセルが出迎えてくれました。ランドセルの主は公園で友人と走り回っています。声が時々聞こえます。ランドセルに関して、上の子も下の子も同じことをやって育っていくのが不思議ですが、本当に幸せなのは私かもしれません。玄関に放り出されたランドセルを見ることができる時間に帰宅できたのですから。
 
 
【ただいま読書中……というか】
フェルディナン・ド・ソシュール 一般言語学 第三回講義』コンスタンタンによる講義記録、相原奈津江・秋津伶/訳、エディット・パルク、2003年、3400円(+税)
 
 厳密には「ただいま」というか「延々と」読書中の本です。時間と気力があるときに手にとって数ページ読んで「ふう」とため息をついて閉じる、をゆっくり繰り返し続けています。果たして死ぬまでに読み終えることができるのかどうかは不明。万が一「豪華客船世界一周の旅」なんてのが懸賞で当たったら「船に持ち込む本のリスト」の最上位にこの本が位置することは間違いないでしょう。
 ソシュールの講義録と言ったら『フェルディナン・ド・ソシュール 一般言語学講義』小林英夫訳、岩波書店、1940年(改版1972年) が定番でしょうけれど(私が古本屋で買ったのは1984年出版のものでした)、こちらはどちらかというと教科書といった感じで、エディット・パルクの方はいかにも講義録(臨場感たっぷり)という感じです。私の好みは、言葉が生きている講義録の方。
 
 ソシュールの思想は、構造主義の文脈だけで捉えられてしまうと(特に『はじめての構造主義』レベルだと)、せいぜい「シニフィアン(言葉の音の部分)/シニフィエ(言葉で示されるモノ・コト)」の関係(恣意的ででも密接に関連している)に注目が集まって、「ラング(文法など公的な決まり事)/パロール(私的な発話)」には軽く注意が払われ「共時態/通時態」は無視される、ということになりがちのように私には見えます。だけどそれはソシュールの一番美味しいところを食べ残しているんじゃないのかなあ。私は「ラング/パロール」を中心に据えて、時間に注目したら「共時態/通時態」が浮かび上がり空間に注目したら「シニフィアン/シニフィエ」が浮かび上がり、さらに「シニフィアン/シニフィエ」/「ラング/パロール」/「共時態/通時態」がそれぞれ表裏一体で(「」が3つあるから三位一体?)密接に複雑に絡み合っている、というイメージを持っています。現代はポスト構造主義とかポストモダンだそうですけど、ソシュールはちゃんとしゃぶりつくされているのかなあ?
 
 
15日(水)踏切とブラッドベリ
 踏切を渡りながら感じました。「なんでこんなに渡りにくいんだろう?」
 日本中どこにでもあるような駅の傍の小さな踏切です。歩行者や自転車が溢れ、それを掻き分けるように自動車がのろのろと線路を渡って行きます。すれ違いが難しいので自動車は交互通行のような感じになってしまっています。あ、また警報機が鳴り出しました
 
 踏切では遮断機で交通の流れを遮断するわけですから当然遮断機の両側に人や車や自転車が貯まります。ところが通路の幅はやっと車が二台すれ違える程度。どうして車道の「外側」に広く歩道を設置しないのでしょう。そうすれば人も車に怯えずに渡れますし、車も堂々とすれ違うことができます。
 さらにここでは道の形状も変です。進むにつれてなだらかに上ってこんどはなだらかに下る、まるで蒲鉾の背を越えるような形に造ってあります。これだと、車高の低い車や長いトレーラーは車の底を打つ恐れがありますし、乳母車や車椅子は通りにくくて仕方ないでしょう。
 踏切はそれでなくても事故の可能性があるところですから、交通を遮断することと同様にさっさと安全に通り過ぎることが肝心なはずです。それなのにああそれなのに。
 
 なぜこんなに安全から遠い形にわざわざ造ったんでしょう? 不思議です。日本のいつもの風習のように、死者がでるまでこのままなのかなあ。昔の人柱の風習が笑えません
 
【ただいま読書中】
 『ブラッドベリがやってくる──小説の愉快』レイ・ブラッドベリ著、小川高義訳、晶文社、1996年、1553円(+税)
 
 このタイトルを見ただけでニヤリとできる人には無条件でお勧めです。そうではない人でも、老人作家の元気を分けてもらえるという点でお勧めです。
 そう、元気なんです。出版時点で75歳の老人だけど、元気というか若々しい! やはりブラッドベリはタダモノではありません。自分の小説作成ノウハウさえあっさり公開しちゃいます。もっともキーは「想像力」なので、いくら公開されても真似はできないんですけどね。
 このエッセー(+詩)集の原題は ZEN IN THE ART OF WRITING ですが……禅? この熱情・ユーモア・ロマンチストぶり・若々しさ……が禅と何の関係が? 序文なんかこんなタイトルでっせ。
『生命の木にのぼり
 自分に石をぶつけ
 骨も折らず、魂もくじけずに
 また降りてくる法
 本文にくらべて
 さほど長くもないタイトルの
 ついた序文』
 内容は、友人から趣味(バック・ロジャースの漫画収集)をからかわれて一度はやめようとしたけれど一ヶ月後に「やっぱり僕は僕だ」とコレクションを再開した九歳の時を思い出し「あまり大仰に言い立てるつもりもないが、やっぱり私は、あの九歳の子が好きだ。あれが誰であろうと、あの子が可愛くてたまらない」と宣言することから始まります。
 ……どこが禅?
 本の最後のあたりに「禅と小説」というエッセーが収録されているので、そこまで読んだら原題の意味がわかるのかもしれません。
 
 ……しかし、ブラッドベリのエッセーを読んでいると、その「熱」でこちらの魂まで震えるような感覚が生じます。これは、中三か高一のときに初めて『何かが道をやってくる』を読んだときに感じた震えの遠い遠い木霊かもしれません。
 ではまた読書に戻ります。書くよりは読む方が私にとっては大きな悦楽ですし、何しろ「ただいま読書中」ですから。
 
 
17日(金)静かな床屋
 少し前の新聞の投書欄に理髪店主からの「掃除する床の髪の量は増えたけれど収入は減った(節約のために客が来る回数を減らしている)」というのがありました。私の場合やはり節約のために散髪に行く間隔は伸びていますが、髪が成長する率が落ちたのか本数が間引きされているのか、切られて床に散らばる髪の量はそれほど増えてはいません。
 それでも行くのは気持ち良いところに行きたいのでこちらに越してきてから近所を色々探してうろついていましたが、今年になってからオープンした隣町の理髪店が気に入って、最近はそこに通っています。気に入っているのは、丁寧な仕事ぶりが一番ですが、もう一つ、亭主が無駄口をきかないのに口をたまに開くと暖かさがにじみ出てくるところ。
 言葉には気持ちよい言葉ととげとげしい言葉があります。同様に沈黙にも、気まずい沈黙と心地よい沈黙があります。私はこの気持ちよい沈黙が味わえるところが大好きなんです。
 ただ、暇そうなのが心配です。予約せずに行っても待たされることがほとんどありません。あまり商売が繁盛せずに潰れてしまったらどうしましょう。といって、大繁盛して今の雰囲気が壊れるのもイヤだしなあ……
 
【ただいま読書中】
横浜にあったフランスの郵便局 ──幕末・明治の知られざる一断面──
松本純一著、原書房、1994年、3689円(+税)
 
 あまり知られていないことですが、1865年(慶応元年)から1880年(明治13年)まで横浜にはフランスの郵便局がありました(他にイギリスやアメリカのもあったそうです)。公的な郵便だけではなくて商業の郵便も多く、繁盛していたそうです。
 
 この時代にわざわざ極東までやって来る物好きな西洋人と日本の関係がどんなものだったのかは、たとえば『オールコックの江戸』(佐野真由子著、中公新書1710、2003年)にも活写されていますが、まるで異国の物語を読むような気持ちになります(というか、当時の日本は現代とは言葉も文化も異なる国、と言って良いでしょうね)。
 スエズ運河の完成・プロシア軍によるパリ包囲(普仏戦争)など、日本だけではなくて世界中が激動の時代だったようですが、その包囲されたパリから気球で郵便が運び出され(世界初の航空郵便)その内のいくつかは日本に届いているのには驚きました。もちろん気球が日本までやって来たわけではなくて、プロシア軍占領地を飛び越えたところで着地してあとは正規のルート(スエズ経由)で運搬されたわけですけど。
 
 面白いのは、日仏間の郵便が、スエズ経由だと約二ヶ月なのに、アメリカ経由だと約三十五日くらいだったこと(大陸横断鉄道が偉大だったのだろうか)。まだソ連の上空を西側の航空機が飛べなかった時代に日本から欧州に行くのに、北回り(アンカレッジ経由)の方が南回り(東南アジアーインドー中近東を経由)よりも数倍楽だ、と聞いたのを思い出してしまいました。何の関係もありませんけどね。
 ちなみに、オールコックの時代には、蒸気船が喜望峰回りで約半年かけて手紙を運んでいたそうです。
 
 
19日(日)家族で夜遊び
 Zホテルの前がクリスマスイルミネーションできれいだ、と聞いて家族で見物に出かけました。ホテルの2キロメートルくらい手前で大通りはひどい渋滞。車が全然進みません。さっさと裏道に逃げてホテルから500メートルくらい離れた駐車場に車を放り込んで徒歩で接近したら……たしかに道路の両側がぴかぴか光っています。カップルや家族連れがぞろぞろ歩いています。健康的な夜遊びです。
 携帯のカメラ、まだ使い慣れていませんが適当にシャッターを押してみました。軽すぎて手ぶれするのが残念ですが、取りあえず写真にはなるんですねえ。
 
【ただいま読書中】
 SFマガジン1月号は、矢野徹追悼特集でした。そういえば『ゴルゴ13』(単行本ではなくてコミックの別冊)には矢野さんのショートショートが載っていましたっけ。ちょっとエッチな場面が必ず含まれていたように記憶しています(そんなことだけ覚えている、とも言う)。
 そういえば最近のSFマガジンは面白くなくなりました。面白くない作品がはびこっているのか、流行がかわってしまったのか、はたまた私が老化したのか。
 おっと、矢野さんの話だった。個人的な追悼をしようととりあえず本棚を一つだけざっとスキャンして見つけた矢野さんの著書・訳書は……『愛に時間を』『マン・プラス』『ゲイトウェイ()』『怒りのパソコン日記』……ここ10年間で再読していないのは『愛に時間を』と『怒りのパソコン日記』ですが、前者の厚みは半端じゃないので後者に決定。ということで読み始めたのは……
 
怒りのパソコン日記
矢野徹著、河出書房新社、1990年、1942円(+税)
 
 形式的にはDTPで作られた(本文はPC9801(MS-DOS)、カヴァーはMacintoshで作成)のがウリで、内容は『ウィザードリィ日記』に続く時期の日記一年半分です。
 そういや私はあまり「日記」を読みません。記憶に残っているのは『酔醒漫録』(有田芳生、みどりプリント、2004年)と学生時代に読んだ『アンネの日記』くらいかなあ。夏休みの絵日記以外日記を書いたこともありません。そんな私がmixiに日記を書いているんだから……おっと、また話が矢野さんから逸れようとしている。……もしかしたら私はまだ矢野さんの死を認めていないのかもしれません。
 
 読んでいると懐かしい思いで一杯になります。パソコン関連で書き込まれた固有名詞がびんびん私の記憶を刺激します。当時私はPC9801-VX2(MS-DOS 3.3A)の上で、5インチフロッピー2枚組の一太郎3からハードディスクとEMSを導入して一太郎4にアップしてそのあまりの遅さに怒り狂い結局「日本語を入力するのならワープロよりエディタだよ」組に自主編入してしまったのでした。懐かしさにコーティングされてはいますがやはり当時の怒りはまだぶくぶく突沸しそうです。
 しかし矢野さんのこの本、全17章のうち、15章のタイトルが「○○に怒る」。残りの2章も一つは「今月は怒らなかった」もう一つは「追悼・ハインライン」。う〜む、しょっちゅう怒っていたんですね。というか、(判断のために直接私が使えるのは頂いた数枚の年賀状だけで、あとは全部伝聞情報ですが)矢野さんは感情が豊かなタイプの人だったのではないでしょうか。
 
 本当は「感情的」という言葉を使いたいのですが、なぜかこれは日本ではネガティブなイメージがついているため「感情豊か」と言います。たとえば「感情的だな」は悪口ですが「論理的だな」は、普通は褒め言葉、せいぜい「冷たい奴だ」という皮肉に使える程度ですね。つまり日本では論理>感情なわけ。だけど、本当にそうなのでしょうか。
 
 人が何かの事柄に対応するときに自分の内部から取りだして用いるツールとしては、論理・感情・感覚・直感の四つがあるとユングは言いました。そのどれをどんな場合にどのように用いるか、のパターンがその人個人の性格を形成・表現します。四つのツールには価値的な上下はありません。どれを用いたら一番良い効果が出るかの学習結果とかあるいはどれが自分にとって一番気持ちよいか、で人は選択をしているはずです。そして、「選択」をせずにどれか一つに固定してしまったら、それはその人がワンパターンの反応しかできないひからびた性格でつき合うにはつまらない人間である、ということを意味します。
 矢野さんは……日記を読む限り心がよく動いています。シンプルで複雑で明るくて怒りっぽくて……あの世でも同じように心を動かしておられるのかしら。
 
 
20日(月)ひろしではないです
 今頃になって年賀状を印刷しようと始めました。ちゃちゃいと裏面を作ってさて、と思ったら……
◎「プリンタがありません」とコンピュータに怒られました。一昨日は印刷できたのになぜかドライバが消えてます。再インストールしなくちゃと部屋内検索をかけて、本棚に積んでいたマニュアル類に埋もれていたプリンタの『基本操作ガイド』にインストール用CD-ROMがはさまっているのを発見しました。
◎プリンタドライバのインストールは無事終了したのでついでにヘッドのクリーニングを、と思ったらやり方を忘れています。ユーティリティソフトを探したけど見つかりません。もう一回さっきのCD-ROMをマシンに入れてヘルプを呼び出します。「『基本操作ガイド』の○○ページを見ろ」と書いてありました。
◎やっと印刷が始まりました。葉書の補充の合間に新聞でも読もうとしたら、プリンタが止まりました。「シアンのインクが切れたよ」と言ってます。
◎ヤマダ電機でポイントカードを出そうとして、一円玉を一枚だけ落としました。この一円玉とは他人のふりをしたいと思いましたが、気の利く店員が満面の笑みを浮かべながら拾って手渡してくれました。
◎インクを買って帰ってきてから「切れた電球も買ってくれば良かったな」と思いました。
 
 合間合間に「ひろしです」とつぶやきたい気分です。でもちっとも笑えません。そういえば、私はひろしではありません。
 
【ただいま読書中】
中世パリの生活史
シモーヌ・ルー著、原書房、2004年、4000円(+税)
 
 ローマ支配の前、セーヌ川の中州(現在のシテ島)にはケルト族が住んでいたそうですが、そこにローマ軍が築いた砦が都市に発展していったのがパリの起こりだそうです(ここはディスカバリー・チャンネルで仕入れた知識)。12世紀には周辺を囲む城壁が完成しますます人を引きつけるようになったところからこの本は始まります。タイトルを見てもわかるように、焦点は「生活」。資料が少なくお偉い学者様には無視されがちな庶民の生活について論じようとしています。
 
◎14世紀、パリではゴミ収集の馬車は「走る」ことを禁じられていました。理由は馬車が揺れてゴミがこぼれるから。しずしずと通りなさい、ということです。ところがサン=トノレ門周辺の道路管理官が「道路の清掃がなってない」と住民に罰金を科したところ(当時の住民には道路清掃義務があったのです)、住民は「パリ市外にゴミを捨てに行く馬車がひっきりなしに通るのに掃除が一々できるかよ。ゴミにちゃんと蓋をせずにこぼすから汚れるんだ、俺たちのせいじゃない」と罰金無効の裁判を起こします。
◎パリで通りの名前が表示され住居に番地が与えられたのは18世紀になってからです。それは領主たちに支配される(居場所をつきとめられる)ことを嫌った人々の抵抗の結果でした(18世紀、通りの名ははじめはプレートで表示されていましたが、それがあまりに行方不明になるため最後には石に刻まれることになりました)。
◎セーヌ川に架かる橋には橋の両側に住居も建てられていました(このことはこの本にはまだ出てきませんが、まだ未読の後半部分に書いてあるのかもしれません)。橋の上に住むのは面白そうですが、洪水の時には橋ごと流される、という悲劇も生みました。
 
 私は歴史が好きですが、単なる年表暗記型の歴史は嫌いです。
 昔の時代に生きた人が、何を着何を食べどんな音を聴きにおいを嗅ぎ寝るときにどんな恰好で寝ていたのか、そういった具体的な「生活」に興味があります。ところがそういった「つまらない(歴史的に大事件ではない)」事柄はなかなか記録に残らないんですよねえ。美や真実や面白さはそういった細部にこそ宿る、と私は主張したいんですけど。「現代」もいつかは歴史の一コマになりますが、別に有名人だけでこの世界が構成されているわけではありませんよね。
 
 
21日(火)冬至
 日が暮れるのが日に日に早くなっていたのがここ数日「あれ、まだ薄明るいや」と感じるようになったと思っていたら、今日は冬至だったんですね。
 南瓜を食べて柚子湯にゆっくり浸かるという日本人として「正しい」冬至の過ごし方をいたしました。極楽極楽。
 風呂の中で、古代ローマの冬至祭(死せる太陽神の復活祭。後にキリストの聖誕祭と合体させられてクリスマスになった)とか、それよりもっと前の「太陽の死と復活」の特に復活の方に注目して冬至を含む月を十二支のトップの「子(ね)」に当てた古代中国人の発想などについてつらつら考えていましたら……息子よ、柚子はお手玉ではないのだよ。そんなことをしたら、頭に当たるぞ。私の頭に。
 
【ただいま読書中】
あやかし考 ──不思議の中世へ
田中貴子著、平凡社、2004年、2000円(+税)
 
 第一章「あやかしの物語」は、「道成寺縁起絵巻」が「道成寺の縁起(建立の由来)の絵巻」のはずなのに、物語では安珍が蛇に追われて「道成寺」に逃げ込むとなっている、おやお寺がもうあるじゃないか、と魅惑的な謎の提示から始まります。ところがそこからがいけません。「一の次は二でしょ二の次は三、三の前は二だけど二の次は四ではない」と話がねちねちと進みます、というか進みません。「物語」の定義は中途半端に放り出され著者のルサンチマン(女は損男は身勝手)が露骨に顔を出し……重層的な物語を重層的に語っているつもりなのかもしれませんが、私には物語にただ振り回されているだけのように見えます。
 そして第二章「世紀末の陰陽師」。「現実の安倍晴明は夢枕獏の小説などで描かれているようなものではない」ということを冒頭2ページ半も使って述べてくれます。
 
 ……こんなに美味しい素材を、なんでこんなに拙く(不味く)料理できるんでしょうか。もったいないもったいない。もったいないお化けが中世から化けて出てきても知らないぞ。
最後まで読むのはやめようかなあ……でも後の方は面白いかもしれないしなあ……読まないのはやっぱりもったいないかしら。
 
 
23日(木) 謝罪
 あるところに毎日きちんと謝る少年がいました。
 いけないとわかっていても、自分の思い通りにならないことがあるとつい友だちに手が出てしまうのです。叩かれた友だちは怒ったり泣いたり、結局親に怒られ殴った友だちに「ごめんなさい」と言うことになります。子どもの喧嘩ですから、相手も「良いよ」と言ってくれます。その時は本当に「悪かった」と思うのです。強く強く反省するのです。でも翌日、また手が出てしまうのです。少年は心の中で呟きます。「あとでちゃんと謝るから、今は殴っても良いよね?」
 
 寓話にしたかったのですが、うまくまとまらなかったので、オチはありません。
 
【ただいま読書中】
数学をなぜ学ぶのか
四方義啓著、中公新書1697、2003年、700円(税別)
 
 日本人は「九九」のおかげで国際的には計算が早い民族なんだそうですが、九九は言語感覚と記憶力で「計算」しているわけで九九ができるからといって計算力があるわけではありませんよね。さらに言うなら、計算力があるからといって数学的センスがあるわけでもありません。計算が苦手な有名数学者ってけっこういたはず。(『大数学者』(小堀憲著、新潮選書、1968年初版)にそんな記載があった記憶がありますが……確認せずに書いちゃっていいのかな>自分)
 この『数学をなぜ学ぶのか』はのっけから「『安寿と厨子王』は連立方程式だ」で始まります。「安寿と厨子王という未知数が二つあるから、まず一つを解決して、その結果を使ってもう一つの未知数を求める物語」なんだそうですが……う〜ん、ちょっと無理な組み立てじゃない? いや、面白い着眼だとは思いますけど。
 数学はもともとは測量や税金の計算から始まった、つまり「社会」が整備されるための基礎として発達せざるを得なかったわけで、「自分とは関係ないよね」の冷たい学問ではなくて本来人生に密着していたわけです。その原点に還れば数学の面白さが再確認できるはず、と著者は主張します。さらに「公理はいわばゲームのルールだ」という主張にはなるほどと頷かされます。
 そういえば江戸時代の和算も、学問と言うよりは趣味人のゲーム(高尚な趣味)といった趣でしたね。あんな感じでのんびりできたら数学も一般人が愉しめるものになるかもしれません。
 
 
25日(土)TVを聞く
 普段はTVを見ない家内が、なぜか「冬のソナタ」にはまっています。今NHKでノーカット版の連続放映をやっているものですから、全部録画するんだとやり方を私に聞きに来ました。教えた以上上手くできているかどうかが気になりますから、私もいくらか試聴する羽目になってしまいましたが……
 何と言うか……面白いですね。
 高校のシーンでは役者がちゃんと高校生を演ってます。動作が、若さに溢れているんだけどどこかぎこちない様が良く表現できています(もちろん人によって演技の上手下手はありますけど)。昔日本でやっていた「健全」な青春ドラマ(「青春とはなんだ」とか「これが青春だ」など)の雰囲気を思い出しました。画面を見ていてなんだか懐かしい思いがぷんぷんします。
 で、場面は卒業後の社会人になって……わああ、このストーリー展開はナンだ? ファンのはずの家内も「こんなことがあり得るわけないでしょ」と画面に突っ込んでいます。
 しかし、地味に上手い芝居です。普段私は台所の隅で(ゴキブリ亭主じゃないよ)パソコンをいじっているのでTVは見えないのですが、画面を見ずに音だけ聞いていても(言葉は一言も理解できませんが)大体どんな場面かが想像できます。たま〜に「聞く」日本のTVドラマのセリフ棒読みとはずいぶんマシな印象です。(話が逸れますが、役者のセリフ回しが上手いかどうかはTVを「聞い」たらすぐわかります。興味のある方は一度お試しを。あ゛、今多いのは役者じゃなくてタレントか?)
 所作に違和感を感じることは多いですけど(たとえば「緊張」を表すのに、私だったら無表情にして睫毛の震えとか手先の表現で、としたいところを、ドラマの画面では分かり易い表情を作ることで表現したり……)、これは演出家のポリシーなのか、あるいは演出文化(日韓文化)の違いなのか、国によって感情表現がそもそもまったく別物なのか。
 
 まだ途中で、これからドラマは盛り上がっていくんでしょうけれど……熱狂するほどはまる代物ではないけれど、反韓(反感)サイトが書くほどずたぼろの代物でもない、というのが現在の所の私が持っている中途半端な感想です。
 
 ブームって、自然に発生したものでも仕掛け人が無理矢理作りだした物でも、ほとんどはすぐにぽしゃってしまって生き残るのは本当にごくわずか。今の「韓流」は……ずいぶんNHKが熱心にプッシュしているようですが、数年後に生き残っているかどうか、ファンでもない私はゆっくり家内のそばで眺めさせていただきます。
 さらに「生き残る」に関して……芸能界の「ブーム」は、どんなすごいものでも結局ブーム終了後には数人が生き残るだけですね。GSブームはジュリーとショーケンと……漫才ブームではタケシと伸助と……。この「韓国ブーム」、はたして誰が「生き残る」んでしょうか?
 
 
【ただいま読書中】
おとぎ話のなかの救済 ──深層心理学的観点から
M.-L.フォン・フランツ著、角野善宏・小山智朗・三木幸枝訳、日本評論社、2004年、2000円(税別)
 
 タイトルを見た瞬間「救済、ねえ」と思ってしまいました。もし宗教的な意味で使っているのならどうしようか、と迷いながらページを開くと、「第一講 救済のモチーフとは」の冒頭が「救済という言葉は、キリスト教の教義や神学と結びつけるべきではありません」で始まっているので安心しました。著者は、おとぎ話の登場人物が、試練や呪いから救われるという、一般的な意味での救済について、ユング心理学的に論じています。(ユングが絡んでいるのを「一般的」と言って良いのかどうか、はまた別の問題でしょうけれど)
 
*「第一講」とあることからわかるかもしれませんが、この本は著者がチューリッヒ・ユング研究所で1956年の冬学期に行なった連続講義の記録です。
 
 ユングについての入門書を数冊読んだ程度でユングがわかったつもりになった人では(それでも、たとえばフロイトがユングについて述べた記述(それも入門書に書いてあるやつ)を読んだだけでユングが否定できると思っている人よりは上なんでしょうけど)、ちょっとこの本を読むのはホネでしょう。ユング派の概念がびしばし出てきます。
 ……私? 私は大丈夫です。ユングはちーっともわかっていませんから、わかる部分だけ楽しんでます。「『夢に出てきた○○は実は××のシンボル』などと簡単に断言するのは心理学とは言えない」「その理由は、同じモノでも個人個人で意味が違うから」「しかし、個人個人の心の中にも全体に通じる部分がある」「そこを科学的な態度で追究すれば心理学は成立する」という論理の流れは実に「正しい」もののように思えます。
 私の個人的な興味に引き込んでしまいますが、このへんはソシュールの「パロール/ラング」の構造と相通じるところがありそうで、もう少し深くかつ多面的に考察する価値がありそうです。
 そうそう、おとぎ話の主人公よりも神話の登場人物の方がより人間的に振る舞う、という指摘にはうなってしまいました。確かに、おとぎ話中での行動はまるでゲームのように一種パターン化されているようにも思えますね。
 おとぎ話ははじめはけっこう具体的なお話だったのが数百年単位でたくさんの人が関与する内に一般化されていくのですが、「たくさんの人」「一般化」があるからこそ心理学で扱うことができるのでしょう。
 ユングが好きな人・興味を持っている人にはお勧めです。
 
 重箱の隅つつきですが……1956年の講義録なのに、本書では「統合失調症」が平気で使われているところにちと違和感を感じてしまいました。いや、2004年出版だから言葉の使い方としては間違いではないのですが、その時代にふさわしい言葉遣いをしても良かったんじゃないかなあ。
 
 
26日(日)図書館休館
 年始年末にまとめて読書をしようと県立図書館に行きました。家内が『おとぎ話のなかの救済』を読みたい、と言ったもので、貸出枠が一冊減って四冊しか借りられません。「これでは年内に読み切ってしまうかも」とぶつぶつ言いながら帰宅したら次男が「僕も本を借りたい」。はいはい、一緒に近くの市立図書館に行きます。閉まってました。なんでもコンピュータシステムの入れ替えで今年は特別に早く年末休館だそうです。仕方ないので県立図書館にまた行きました。次男のカードを作ってから本を見ると……こちらが面白そうと思うの(『11ぴきのねこ』とか『そうべえ』とか)と本人が選ぶの(NHKの『地球たべもの大百科』)とはみごとに食い違います。まあ、良いんですけどね。本人が喜ぶのが一番ですから。
 
【ただいま読書中】
中学生は猿からいちばん遠い ──補習塾のセンセが見た中学生の素顔
日永千映子著、現代書館、2004年、2100円(税別)
 
 はじめは親子と共に学ぶ塾(共育共室、だそうです)だったはずがいつのまにかいわゆる「問題児」が集まるようになった塾のセンセが20年間の体験を振り返って書いた本です。ケースの紹介の形にはなっていますが、プライバシーへの配慮はちゃんとしてあるそうで……と言うか、内容を読んでいたらその配慮は絶対にする人だろうな、とわかります。
 塾費を使い込む中学生が抱えていた事情と、その数年後のお話……母親を殴って金を持ち出す子の相談に対して「お母さん、殴られたら殴り返しなさい」と言ったら数日後にその子が顔に傷をつけてきて……気持ち悪い級友につきまとわれる中学生の悩み(けっこう深刻な話なのに、この章中にある「気の毒でも笑いは勝手に洩れる」状態に私もなってしまいました)……学業優秀で高校も第一志望に合格した子が数年後に引きこもりになっていて……
 
 著者が否定的なニュアンスで使っているフレーズは「×」肯定的に使っているのは「○」で分類していくつか書きだしてみると……
×ただ「勉強しなさい」と繰り返す
×みんな仲良く・皆に好かれるように
×無理矢理答えさせる
×親しげに迎合する
×母は興奮して「あなたのためにお母さんは」を連発する。中学生は「お母さんのために自分は」が胸につかえて言葉にならない。
×信念は独り善がりの親玉
○適切なタイミングで適切な刺激を与える
○無心で心の呟きを聞く
 
 ……これも家内が読みたい本だな(^_^;)。
 
 
27日(月) 痴呆老人
 「痴呆」という言葉が「認知症」にこれから言い換えられることになるのだそうです。
 私はなんとなくすっきりしません。確かに私自身が誰かから「おかだは痴呆になった」と言われたら不愉快でしょうけれど、でもそれは言葉が不愉快なのではなくてその現実が不愉快だろう、と想像するからです(痴呆になったのが現実ならその現実、痴呆になっていないのならそのように他人に誤解されて言われたという現実)。それを「認知症になった、と言ってあげましょう」と言われても、あまり嬉しくないだろうな。(そうそう、ついでですが、「痴呆」の本体が記憶障害ではなくて認知障害であること、は、一般に広く知られているのかな?)
 
 そういえば、「老人問題」という言葉もあまり愉快な言葉ではありません。だって、人が年を取って老人になるのは自然なことなのですから。それが「問題」になるとしたら、そんな自然なことを問題にする社会の方に解決するべき「問題」が存在しているだけなんじゃないかしら。
 
【ただいま読書中】
闇先案内人
大沢在昌著、文藝春秋、平成13年、1667円(+税)
 
 別冊文藝春秋の207号〜236号に断続的に連載された小説です。
 プロの「逃がし屋」(暴力団などに追われている人を、高額の報酬とひきかえに高飛びさせるお仕事(違法です)をする人)がよんどころなく、自分と同等(あるいはそれ以上)の腕を持つ「逃がし屋」を追うことになる。そこには某国(文中に明記はされていませんが、間違いなく北朝鮮)の政権争いが絡んでいるようで……
 
 派手なアクションを交えつつきびきびと話は進むのですが、謎はなかなか全容を見せず、そこに登場人物たちの複雑な過去と性格が絡んで話は少しずつ重層的になります。その中に放り込まれた主人公の葛原が本当に些細な手がかりから推理を繰り広げていく様は読んでいて快感。
 苦労して書いた著者には悪いけれど、気軽に楽しむエンターテインメントとしては佳作です。ただ、「愛国心」という単語が顔を出して、話はずーんと重たくなります。さて、ここから著者は話をどう展開していくのか……さあ、あなたもこの本のページをめくりたくなりませんか?
 
 
28日(火)遅れてやって来る
 ひどい津波です。ニュースでは死者は二万二千人と言っていましたが、それはあくまで現時点で確認できた死者数ということで、数字はこれからさらに膨れあがっていくでしょう。
 阪神淡路震災の時に病院にボランティアに行った人に聞いたのですが、「重症者は遅れてやって来た」のだそうです。地震直後に「怪我をした」と病院に駆け込んでくるのは「駆け込める人」。歩けないほどの重傷を負った人・すぐに運搬できない状況で怪我をした人は、そのあとからゆっくりと病院に集まってきます。重傷なほど、被害がひどい地域ほど、遅れがちに。そして死者はその後に……
 どうかこれ以上数字が大きく膨れあがりませんように。
 
【ただいま読書中】
11ぴきのねことへんなねこ
馬場のぼる著、こぐま社、1989年、1130円(税込み)
 
 読書した、というより、読み聞かせをした、という方が正確です。なんともとぼけた「へんなねこ」が良い味を出しています。しかし、花火がちゃんと11本準備してあることに気づくとは、なかなか注意深いな、次男君(親バカ)。
 
29日(水)年末の幸運とグノーシス
 某サイトの懸賞で500円当たりました。金額の多寡よりも当たったことが嬉しくてなんとなくニコニコしてます。
 年末の幸運と言ったらジャンボ宝くじでしょうけれど……買わないと当たりませんよね。買っても当たりませんけど(^_^;)。
 
【ただいま読書中】
グノーシス ──古代キリスト教の〈異端思想〉
筒井賢治著、講談社選書メチエ313、2004年、1500円(税別)
 
 二世紀のローマで流行ったキリスト教グノーシス思想について書かれた、日本語オリジナルとしては初めての入門書だそうです。
 歴史ではグノーシス思想は結局「異端」として退けられ、退けた方が「正統」として今に続いているわけですが……たしかにグノーシスは面白いことを言っています。
 「現在のキリスト教(あるいはユダヤ教)で言う絶対神のさらに高位に至高神がいる」「至高神の下に数十人の男女ペアの神々がいる」「人の救済とは、その神々の世界に人の魂が『還る』こと」などがグノーシスのキモだそうですが……私が感じたのは、「神々の世界」には古代ギリシア神話の影響・「魂」のところにはプラトン思想のイデアの影響でした。(これは著者の主張ではなくて、おかだの感想です)
 新プラトン主義は三世紀より後だからこの際無関係としても、たしか二世紀頃にはギリシアでルネサンス運動があったはずだし(ローマ帝国支配に対するギリシア人の文化的アイデンティティ回復運動)、プラトンがキリスト教成立に何らかの影響を与えた、としたらこれは大変面白いと思います。
 どんと十世紀下がって中世後半、アリストテレス思想とキリスト教とをなんとか融合させようと四苦八苦していたスコラ哲学がアリストテレスに傾くとどうしても異端になってしまうため、イタリアルネサンスで復活したプラトン思想を利用してアリストテレスを押さえ込もうとしたら、それがベイコンなどに影響を与えて結局科学思想が生まれてしまった(で、最終的に「神は死んだ」につながる)という歴史的皮肉も思い出してしまいました。古代ギリシア思想とキリスト教は、組んずほぐれつで古代から最近まで延々と思想的格闘を続けているのかもしれません。
 
 話を本に戻します。
 まずグノーシス思想があり、グノーシスを異端として攻撃することによってキリスト教の「正統派」が形作られた、と著者は書いています。さらに、「グノーシス派の文章を引用してそれを批判している本がある。引用されている部分(グノーシス)からは高度な知性とキリストに対する真摯な信仰がにじみ出ているが、批判している文章(正統派)は知的にはまことにお粗末」という意味の記述を読むと、「論理性」「知性」と「それが多数派として生き残ること」とはまったく別の原理によるのだな、と思ってしまいました。そして、「古代人は野蛮」だからそんな現象が起きたのではなくて、現代でもきっと同じことが起きていることでしょう。
 
 そうそう、著者は「古代にギリシア語圏の人がラテン語圏の人と接点を持っているわけがない(だから似た思想を持っていてもそれは偶然の一致あるいは時代の産物)」と論証抜きに簡単に書いていますが、ローマ帝国が東西に分裂する前の時代、商業・軍事だけではなくて文化面での交流も盛んに行なわれていた(たとえばローマ貴族の子弟が「教養」を身につけるためにギリシアに留学するのはそれほど珍しいことではなかった)のですから、ラテン語圏とギリシア語圏が無関係な方がむしろ不自然だと私は思います。
 
 ……しかし、二世紀ですか。中国だと後漢。日本だと……卑弥呼の時代かそれより少し前ということになります。大昔のような、逆にほんのちょっと前のような、歴史的感覚って世界を不思議に見せてくれます。
 
 
30日(木)スマートな解決
 新聞に「『携帯電話の料金が高すぎる(3ヶ月で9万円)』と文句を言った母親を大学生が刺殺」という記事が載っていました。この大学生の行動の目的が「高い携帯料金で文句を言われない」ことだとすると、たしかに目的は達していますね。少なくとも母親は死んだので文句は言えない状態ですし、本人は留置場で携帯が使えないのですから来月の利用料は高額にはなりません。
 ……ただ、もっとスマートな解決法は思いつかなかったのかなあ。
 
 ちなみに我が家では、長男の携帯料金は、通信はダブル定額の2000円までは家計費/それを越えた分(+通話で無料通話分を超えた分)はお小遣いから差し引くことで協定が成立しています。個人と家計とは別勘定がおかだ家の決まりですけど(結婚して最初に決めたことの一つが、夫婦双方のお小遣いを家計と別にすることでした)、被扶養者である分少し優遇しているわけです。
 
【ただいま読書中】
ムーン・ロスト(1)』『ムーン・ロスト(2)
星野之宣、講談社(アフタヌーンKCDX)、2004年、905円(税別・1巻2巻共)
 
 某所でこの作品のネタを使った一行レスを書いたので、事実確認のために本棚から引っ張り出して結局再読してしまいました。やっぱり面白い漫画です。一気に読むのはもったいない。
 全長51kmの小惑星(恐竜を絶滅させたと言われるものの100倍の大きさ)が地球に衝突するのを防ぐために月に設置したレールガンからナノグラックホールを打ち込む。ところがそれが原因となって月が破壊される。月を失った地球は地軸がずれ気候は大変動、犠牲者が続出、現代文明は滅びの危機を迎える。それに対して国連が立てたのは「木星の衛星エウロパを運んで来て月の替わりにして地球の変動を押さえる」という大プロジェクトだった。ところが自分に不利な状況(北極点が北米大陸にある)で地球の回転が安定させられることを嫌ったアメリカの妨害工作が行なわれ、さらにエウロパにはある秘密が……
 さらりと描いてありますが最新の宇宙論(膜宇宙)も盛り込まれ読み応えがあります。ナノブラックホールが光って見えるのはホーキング放射によるものでしょうけれど(たぶん)、それが蒸発せずに成長した、というところでは不覚にも笑ってしまいました。
 そうそう、国家としてのアメリカがあまりに悪玉なのでアメリカびいきの人には評判が悪いかもしれません。
 
 「月がない世界」と言ってとりあえず思い出すのは『カウボーイ・ビバップ』ですが、あちらでは地球はのほほんと回り続けていましたね。隕石(月の破片)はやたらと降ってきてはいましたけれど。はたしてどちらの地球が本当なんでしょう?
 
##私はコミックもアニメもつい「漫画」と表現してしまう人間なんですが、子供時代には散々「漫画ばかり見るんじゃない。ろくな大人にならないぞ」と言われて育ちました。同じように「TVばかり観るんじゃない」も言われましたっけ。要するにろくな大人にはならないだろう、という子供時代をしっかり過ごしていたわけですが、たしかにまともな大人になれたとは言えないような(自虐モード……数秒で立ち直り)。
 私個人のことはともかく、世間では子供が好きな何かを禁止するのが大好きなようで……過去にたとえば音楽も「ギターなんか弾くのは不良だ」と「弾圧」をしていたこともあったし、最近ではゲームに対する風当たりがきつい向きもありますね。逆に最近の世間がお好きなのが早期英才教育。だけど、禁止しなければならない「悪いもの」が次々流行り続けている割には(それが原因で)社会全体が腐ったわけではなさそうですし、逆に推奨された「良いもの」が流行った割には天才や英才で世の中が満ちあふれたわけでもありません。世の中のバランスって、面白い作用をしているものです。
 
 
31日(金)勝手にカット
 12月25日の日記の続きになります。昨夜「冬のソナタ 完全版」が最終話を迎えました。所々つまみ食い的に見ていましたが、私の感想は、「ヨン様〜ぁ」ではなくて、「愛と執着の相違」「人は失敗する、同じ失敗を繰り返す。時に世代を越えて」「でも、人は成長する」「親子関係はしんどいものだ」「この監督、映画のような撮り方をする」といったところでしょうか。
 
 そうそう、時々家内が騒ぎます。「こんなシーン、なかったわよ。前は変だな変だなと思っていたんだけど、これでやっとわけがわかったわ」 ……どうも重要なシーンがこれまでの放映では数分間カットされていたようです。それも毎回。
 そういえば、私が子供の頃夢中で見た「サンダーバード」「プリズナーNO.6」でも同様の現象があったことを思い起こします。この二つも最近完全版がリバイバル放送されたのですが、初めて日本で放送されたときにはあちこちずたぼろにカットされていたことが今回見てわかりました。記憶と照合したわけではなくて、前回放送時にカットして日本語吹き替えをしていない部分だけは今回はオリジナル音声で字幕をつけてあるものですから、誰にでもわかるのです。いえ、放送時間とかスポンサーとかいろいろ「事情」があるのでしょうけれど、できるだけオリジナリティーは尊重して欲しいなあ、と感じます。下手なカットはストーリーの流れを変えてしまう(編集してしまう)のですから。
 ……「自分のオリジナリティは尊重して欲しいから他人のも尊重する」の対偶で「自分にはオリジナリティが無いから、他人のも踏みにじるのだ」と放送する人が主張しているわけではないですよね?
 
【 】
 今日は読書日記はありません。これから両親と一緒に過ごすために出かけますが、たぶんこの2〜3日は本を静かに読んでいる時間はとれないでしょう。それでも一冊荷物に忍ばせてはおきますけれど。
 それでは皆様、良いお年を。