2005年1月
こちらは小雪がちらつくお正月になりました。
「イヌイットは雪の様々な状態を表現する単語を固有名詞として本当にたくさん持つ」と聞いたことがあります。もちろん彼らが生きている環境ではそれが当然のことだろうと思いますが、イヌイットに負けるにしても、日本語も「雪」に関する単語をけっこう多く持っている(雪を細かく区分している)と思います。大辞林を「*雪」で検索してみたら104も単語が見つかりました。もちろん中には人名(穴山梅雪・観世黒雪……)や現象(降雪・大雪……)などが混じっているので全てが雪の状態表現ではありませんが、それでも十分多いのではないでしょうか。「赤雪」「回雪」「笠の雪」「銀雪」「細雪」「宿雪」「斑雪」……どのくらいの単語を私は知っているでしょうか。それらの言葉を駆使してどのくらい細やかに目の前の現象を表現できるでしょうか……
【ただいま読書中】
鮫島敦著、岩波アクティブ新書124、2004年、740円(税別)
タイトルの「訓」は「おしえ」と読みが振ってあります。親父が「これ面白いぞ」と手渡してくれたのですが……老舗ならではの、商売に限らず人生に通じる言葉を集める著者の旅の記録です。
トップバッターは日本最古の企業です。四天王寺を造るために百済からやって来た工匠集団が起源となった宮大工の会社「金剛組」(創業は578年、現在の社長は40代目)ですが、「長子相続にこだわらない」「顧客満足度を上げることがコスト削減につながる」「歴史ではなくて今を生きる」といった企業姿勢が幾多の困難を乗り越えて老舗として生き延びることになった、と著者は感じます。
本田味噌本店もすごい。家訓は「味噌屋といえる商売せい」で、代々の当主に伝えられた訓は「上を見て生きよ、下を見て暮らせ」です。志とか覚悟という今ではあまり人気が無くなった言葉がタテマエとしてではなくて商売に生きる言葉としてしっかり生きている世界があることが確認できて、私はなぜか安心しました。しかし「いつまでも変わらないこと」と「時代を察知して敏感に変わること」をいかに両立させるか、という難しいテーマに取り組まなければならないとは、味噌を作るのも難しいことなんですねえ(味噌に限らないことでしょうけれど)。
国内で現存する企業で2番目に古いのは718年(養老二年)創業の旅館「法師」(石川県栗津温泉)ですが(世界最古のホテルとしてギネスにも登録されているそうです)、そこの四十七代目は「革新の連続こそが、伝統です」と断言します。
進化論を持ち出すまでもなく、たとえ老舗でも「老舗」という名前にあぐらをかいている企業は必ず淘汰されるのです。私が勤務する企業は大丈夫だろうか……ちょと(相当)心配です。
#話は変わりますが、日本で伝統的に大切にされるのは「個人」ではなくて「組織(企業)」ですね。江戸時代には身分制度や家制度が個人に優先していたし、明治時代もどうみても個人は冷遇されています。民主主義の今も……社会福祉よりは公共投資など特定会計の方に数倍のお金を使っている今の予算配分を見ると個人の方が大切にされているとは思えません。
しかし、きちんと生き残っている老舗企業の内部では、個人「も」大切にされています。もちろん企業の論理があり個人の自由が無制限に許されているわけではありませんが、職人がその力を最大に発揮できる環境を整備し人を育て、顧客を大事にする姿勢を徹底する企業だけが老舗として長く生き残ることができているわけです。目先の利害だけにこだわっていたら、企業は長い寿命は得られないのでしょう。
そして、たぶん、国家も。
最近になって時々我が家の食卓に「五穀(あるいは雑穀)入りの飯」が上るようになりました。この前は「五穀パン」というものも食べてしまいました。意外に食べられる味です。スーパーの売り場で見ると、「健康のために」という宣伝をつけてそのままご飯に炊き込めるように袋詰めにされた五穀が売り場のスペースもけっこう大きく取って売られています。味は嫌いではないので売ること自体にどうこう言う気はないのですが、私はちょっと複雑な気持ちになります。
かつて江戸時代には日本の庶民の夢は「雑穀ではなくて米の飯を食いたい」でした。だからこそハレの米の飯や餅には特別な意味があったし江戸での奉公や出稼ぎは「白米が食えること」で人気がありました。同時にそれは「江戸患い(脚気)」の原因でもあったわけですけれど(副食がお粗末だから、胚芽を除いた白米中心の食事ではビタミンB1が不足する)。そうそう、日本帝国では「兵隊になったら白米が腹一杯食える」というのがアピールポイントだったこともあります(これまた日露戦争中、日本陸軍で脚気が大流行した原因ですけれど)。
……それが今では「五穀を食べましょう」ですか。ブームですか? 時代が変われば言うことも変わるものです。
そういえば「配給米」と言う言葉が現役の時代には、ビタミンが強化された黄色いお米の粒が必ず混じっていたような記憶がありますが、あれは日本人の健康増進にどのくらい役に立っていたんでしょうねえ。
そうそう、「五穀」と言っても一筋縄ではいきません。「五穀断ち」「十穀断ち」は仏教でよく使われた言葉で、ここでの五穀は普通「米・麦・稗(ひえ)・大豆・小豆」ですが、粟や黍(きび)を入れる場合もあります。大辞林をひくと「五穀とは米・麦・粟・黍(または稗)・豆」とあります。あれれ何が「正解」なんだ?と調べると、『周礼(しゅらい)』(周の時代だから大体3000年くらい前)では「麻・黍・稷・麦・豆」、戦国時代(二千数百年前)の『楚辞』だと「稲・稷・麦・豆・麻」、同じく戦国時代の『孟子』では「稲・黍・稷・麦・菽」、前漢(紀元前1〜2世紀)に成立したと言われる『素問』では「粳米・小豆・麦・大豆・黄黍」です。さらに「稲穀・大麦・小麦・則豆・白芥子」とか「大麦・小麦・稲穀・小豆・胡麻」だと記載された文献もあるそうで、もう何が何だか……結局五穀って何?
【ただいま読書中】
『月刊 碁ワールド 12月号』日本棋院、2004年12号、860円(税込み)
高校時代、私は親友Kと二人で棋道(囲碁と将棋)のクラブをやっていました(名称がユニークで出身学校を特定されそうなので、クラブの名前は秘密です)。Kは将棋は私ととんとんの腕前でしたが囲碁の方が好きだったので囲碁を担当し、私は囲碁の基本ルールはKに教わりましたがどうも好きになれなかったので将棋を担当していました。
ところが最近ケーブルテレビでアニメ「ヒカルの碁」をやってて、それを観た子どもたちが碁に興味を持ってしまいました。「教えてくれ」と言うから生き死にとか簡単な手筋を教えてやっていると……あら、面白いじゃありませんか。成長して趣味嗜好が変化したのでしょうか。NHK教育の囲碁講座を子どもたちと一緒に観たり新聞の囲碁欄を読んでみたりしていたのですが、とうとう生まれて初めて囲碁の雑誌を先月始め(あら、もう去年のことなのね)に購入しました。薄い雑誌ですけれど、「読む」のに時間がかかります。棋譜を一々並べて変化も調べたら時間がいくらあっても足りませんが、高校時代に将棋雑誌をむさぼり読んでいたことを懐かしく思い出します。
巻末に「段級位認定コーナー」がありました。締め切りは……12月10日でまだ間に合う、ということで葉書に切手を貼って(無謀にも)挑戦してみました。すると元旦の消印を押した往復葉書の片割れが年賀状に混じって帰ってきました。あらららら、私の実力は3級だと書いてあります。本当? これが10級とか20級だったら「やっぱりね」であっさりあきらめもつくのですが、3級だと頑張ればもしかしたら初段に行けるのではないか、と思ってしまいません? 私は思ってしまいました。でも、時間がぁ……どこかに囲碁の勉強や読書日記を書くことで給料をくれる「仕事」はありませんかぁ?
昨日数十年ぶりの同窓会がありました。「おかだ君、背が伸びたねえ」と会う人毎に言われるのには参りましたが、懐かしい恩師やクラスメートに会って楽しい時間でした。私を含めて皆変わっていてでも変わっていない。見た目は実年齢プラスマイナス10歳くらいの幅に散らばっていますが、昔老けて見えた人が今はむしろ若く見えたり、時間がもたらす人の変化は本当に面白いものです。
見た目だけではなくて人の関係も興味深いものでした。いじめっ子といじめられっ子もいたのですが、今は仲良くなっている人たちもいますし、明らかにまだわだかまりが残っているな、と傍目に見える関係もありました。
ふと、欠席している人達のことが気になりました。死んだり病気で来られない人もいるでしょうし、仕事や家族などの事情で来られない人もいるでしょう。だけど、こじれた人間関係のために来たくない、という人もいるかもしれません。いじめられた・傷つけられたという記憶は強く残るものですから。少し気になります。私は他人をいじめた覚えはありませんしいじめられた記憶ならありますが、それは私の記憶の中だけですから。
【ただいま読書中】
アンナ・ポリトコフスカヤ著、NHK出版、2004年、2400円(税別)
チェチェンで一体何が進行中なのか、私は無知です。ですからこの本を手に取りました。少しでも情報を仕入れるためのとっかかりになったら、と思ったからです。
現在行なわれているのは第二次チェチェン戦争(1999年〜現在)(第一次チェチェン戦争は1994〜1996年)です。しかし、ロシアとチェチェンの間の「戦争」の歴史は18世紀にまで遡ります。この長い長い「戦争」について簡単に述べることは不可能でしょう。そこで問題になるのは、著者がどのような立場か、です。同じ現象でもどこから見るか、で話はまったく異なります。この私の疑問に対して著者は冒頭明快に答えます。
「私は何者か? そして私はなぜ、第二次チェチェン戦争について書いているのか?
私はジャーナリスト、モスクワの新聞「ノーヴァヤ・ガゼータ」(反体制派の新聞です:おかだ注)の特派員だ。そしてそれが、私がこの戦争を目の当たりにすることになった唯一の理由だ。私は取材のためにここに派遣された。しかし私が選ばれたのは、私が戦争特派員でこの問題に通じているからではない。全くその逆の理由、つまり私が普通の市民だからだ。編集長の発想は単純明快。私がごく一般の市民であるからこそ、同じ一般市民の、つまり戦争に巻き込まれてしまったチェチェンの村や街の人びとの体験を最もよく理解できよう、というわけだ。
それだけのこと」
○第一章 戦時下のチェチェン 一般市民の生活
チェチェンで軍隊(主にロシア側)によって日常的に行なわれる脅迫・略奪・暴行・誘拐・拷問・傷害・強姦・殺人・破壊・宗教的な侮辱(コーランを燃やす・モスクで排便……など)が次から次へとイヤというほど列挙されます。その中には、著者が「チェチェンのスパイ」と決めつけられてロシア連邦軍に逮捕されてからどのように扱われたかという「事実」までもが含まれますが、その筆致はむしろ淡々としています。絶望の描写さえも淡々と。
しかし、主観を排した事実(証言)の積み重ねから、段々透けて見えてくるものがあります。これらの蛮行は、単に暴力的な軍人(またはゲリラ)が発作的に好き勝手している、というものではありません。きちんとしたパターンがあります。つまり背後にはもっと構造的なものがありそうです。
○第二章 ロシアの現実 この戦争の背後にあるもの
著者はチェチェンから一歩踏み出します。イングーシ共和国(人口30万人の国にチェンチェンから20万の難民)、モスクワ……そしてまたチェチェンに。
○第三章 この戦争は誰にとって必要なのか?
そして最終章。タイトルが「終わらない戦争」ではなくて「やめられない戦争」である意味が明らかにされます。戦争で利益(金、勲章、出世)を得られる人々がチェチェンに群がり、奇怪な生き物のように成長してしまった戦争は、簡単にはやめられない怪物になっています。問題はその「利益」が人の血で贖われていることですが……
著者は簡単な二分法(「テロリスト/正義の連邦軍」とか「イスラムの革命戦士/暴虐なロシア軍」)の立場は取りません。危険なチェチェンに踏み込み生還して証言します。自分の立場は捨てないにしても、思いこみや決めつけやイデオロギーを排してその証言を聞けば、自分の目の前の世界が少し変容するはずです。
私の読書量についていくつか感想を頂きましたが……基本的に私は2週間で5冊というのが基本ペースです。それにいくらか+αすることがあります。mixiを始めてちょっと見栄を張って+αの分が多めでしたが、年も変わったのでおそらくペースは元に戻ると思います。
ただ、確かに世間一般の人に比較したら読む量は多いでしょうね。子供の頃から筋金入りの活字中毒で、もともと読む速度は速い方だし(普通サイズの文庫本(小説)なら1時間が標準)細切れに読む(数分読んでは他のことをやってまたページに戻る)のも苦にはなりません。ですから、酒も煙草もやらない私にとって、それらをやる人の「ちょっと一服」「毎日晩酌」の時間を使えば毎日ある程度の読書時間を確保して本を読み切るのはそれほど難しいことではないのです。
酒も煙草もやらない生活で、金は貯まらないけれど時間はひねり出せる、ということですが……なぜ金が貯まらないんだろう?
煙草と言えば、今年1月3日の新聞に、「男性医師の喫煙率が21%もある」という記事が載っていました。ミュージカル映画『オール・ザッツ・ジャズ』に、主人公の振り付け師が医師の診察を受けているのにくわえ煙草のままでげほげほ言っていて、カメラがぐるりと回ると医者も同じようにくわえ煙草で煙をはいている、というシーンがありました。たしかに、患者に向かって禁煙を勧める立場の人間が吸っているのはまずいでしょうが、このシーンだと医者は禁煙を勧められるのかな?
ところで、「患者に禁煙しろと勧める医者が煙草を吸うのはまずい」と言っている新聞記者はつまり「医者は禁煙しろ」と勧めているわけです。ということは、新聞記者が医者より煙草を吸っていたらやはりまずいことになりません? まあ、ここまで堂々と天下に意見を公表する以上、新聞記者の喫煙率はきっと医者よりはるかに少ないんでしょうけれど、具体的な数字を知りたいなあ。
……いやあ、自分のことを棚に上げて他者を批判するだけって、楽ですねえ。今私は新聞記者を無責任・無根拠に批判しているわけですけど、本当に簡単に文字をたくさん打つことができます。
【本日の鑑賞】
『エルミタージュ展』
美術館でやっていたので平日の休みだったのをこれ幸いと家内と出かけました。日曜だったらものすごい人出でしょうから。
予想より規模は小さかったのですが、それでも1時間かけてゆっくり観るにはちょうどよい量でした。絵はもうちょっと多くてもよかったと思いますが、あれ以上展示するには壁面がちょっと足りないかな。
絵画は、私好みのはあまり無かったのですが、工芸品(特に嗅ぎ煙草入れ)が良かったので満足しました。また、エカテリーナ2世専用の黄金の馬車が丸ごとどんと置いてあるのは愉しめました。御者席に座ったらどんな世界が見えるんだろう、と想像をたくましくしていましたら(なぜ女王席の想像ができないんだろう?)、御者席の後ろ(車室の前)の護衛席が後ろ向き。あんな不安定な座席に進行方向に対して後ろ向きで坐っていたら、馬車が揺れた瞬間落っこちてしまわないでしょうか。で、落ちないために必死にしがみついていたら、いざという場面で機敏に動くことができないでしょう。いやあ、大変なお仕事です……とにこにこ想像していたのですが、美術展でこんな楽しみ方は、やっぱり変でしょうか?
……しまった。カタログを購入していたら、それをネタに【ただいま読書中】が一本書けたのに……
「パワーリハビリ」という言葉を最近あちこちで見ます。特に予防介護という素敵なことと組み合わせて語られることが多いようです。
老人のリハビリに筋力トレーニングを導入すると、筋力がつくことで自分でできることが増え自立が促されることが期待できるので、介護保険を使ってどんどんリハビリをしよう、ということだと私は理解していました。しかし、そんなに一方的に「よい話」ではなさそうです。詳しくは http://backno.mag2.com/reader/BackBody?id=200412291010000000074854000 の後半部分に詳述されていますが、「とにかく高額の機器を買え」というお話のようで、本人の動機づけ(やる気を起こさせて継続させる)が上手くいかなければ、機器を売った業者(とそれとつるんでいる人)が喜ぶだけ。
もちろん、良い器具を導入することには私は賛成です。ただ、問題はその後ちゃんと使われているかどうか、使うことで老人の状態が改善しているかどうか、のチェックです。それがきちんとできなければ、結局日本の津々浦々の家庭に死蔵されている健康器具……例えばルームランナー・ぶらさがり健康器具・万歩計・名前は忘れましたがお腹に低周波を流してウエストを引き締めるという触れ込みのダイエット器具……の二の舞になるのがオチではないでしょうか。
【ただいま読書中】
山尾美香著、原書房、2004年、1800円(税別)
江戸時代、日常の料理は女が行なっていましたが武家の社会では男尊女卑思想によって「女は無能力」とされておりしたがって家政の責任者は男(だから「料理指南」も対象は男)だったのですが、明治になってそれが変わって……というところからこの本は始まります。料理番組や料理雑誌を歴史的に見ることで何が見えたか、という著者の修士論文が元になった本ですが、近代日本における「主婦」の成立が、たとえば西欧ヴィクトリア朝の中産階級の「主婦」(それまで衣食住すべてを自分の手でやっていた主婦が、女中やコックを管理する責任者になった)と重なる部分と全然違う部分があることが見えて、個人的には最初から楽しめます。「良妻賢母」と言いますが、江戸時代には「良妻」が重視され明治には「賢母」が重視された(良質な兵隊が大量に必要だから)、というのも面白い指摘です。
さて、一口に「家庭料理」と言いますがこの言葉は「家庭」と「料理」の二語から成ります。つまり、料理だけ見ていたら大切なものを見逃します。実際の「家庭」がどのようなものか/社会が家庭にどのような機能を期待しているか/社会がどのように変化しているか、も重要なファクターです。それは料理本のレシピ以外の部分(家族への思いやり、などの精神論)に著明に表れます。もちろん、レシピの部分も時代を反映はしていますが、精神論は「料理」ではなくて「家庭」「主婦」に対して社会が持つイデオロギーの反映そのものです。それが特によくわかるのは戦時下の料理本でしょうが、それ以外の時代でも構造は同様です。
……しかし、「家族への愛情」が家庭料理の原動力だと(だから、インスタント食品や市販のお総菜には罪悪感がセットされる)、私の自炊時代はどーなるんだろう? 私は自分自身に対する思いやりや愛情を持って料理をしなくちゃいけなかったのでしょうか? いや、自分自身は大切だとは思いますが、改めてそれを意識しながら台所に入らなくちゃいけない、と言われたら、しんどいよ。
たまには外で美味いものを食べよう、と前から気になっていた店に家内と入りました。東京では有名な店がこちらにも出店していて、それも高級路線のとカジュアルなのと両方選べるのです。二人はもちろんメニューの安い方に足を運びました。それでもランチが1000円以上しますが、本当にたまの贅沢です。
味は期待通りだったのですが……別のことでがっかりしました。
従業員が常連べったりだったのです。
片方が常連のカップルが近くにいたのですが、従業員はそこにべったりでずっとおしゃべりしています。それもその常連とだけで二人の世界に入っていて、常連の連れは蚊帳の外。もちろん別のテーブルの客はまったく無視されています。
もちろん、常連が優遇されるのは当然でしょう。一見客よりは常連の方が店にとってはありがたい客でしょうから、一見へのサービスを落とさないで常連にさらに細やかなサービスをするのなら別に何も問題はありません。しかし、常連へのサービスを優先するために一見を冷遇してしまう(と感じさせる)のなら、冷遇された人間はそこには二度と行くものか、と思うでしょう。少なくとも私は思いました。あれが店のポリシーなのかそれともその従業員個人の資質なのかはわかりませんが、そんなことはどちらでもかまいません。おそらく私は上京してもあの店の本店には行かないでしょう。
……値段が高すぎて行けない、という本音は内緒ですけど。
そういや、同級生が近所でお店をやっていることがわかったのですが(二回行ったことがあるんだけどお互い気がつかなくて、同窓会で初めてわかったという……)、次回からそこに行くときにはあまり特別サービスを期待しないように気を付けなくっちゃ。私のようなひねくれ者の一見さんを追い払ってはいけませんから。
【ただいま読書中】
桑村哲生著、岩波新書909、2004年、780円(税別)
「小さな配偶子を作るのがオス、大きな配偶子を作るのがメス」と著者は定義します。そしてそのオスとメスがどのような繁殖戦略を採るか(一夫一妻か一夫多妻か一妻多夫か/卵の保護をオスメスどちらが行なうか/性転換をするかしないか)はすべて、ローレンツや今西が主張した「種の利益」ではなくて、「個体の利益」で説明できると著者は主張します。
しかし、この本、タイトルが間違っています。たしかに性転換する魚についても書いてありますが、それ以外の魚の繁殖戦略についてもたくさん書いてあるじゃないですか。ついでに「学会嫌いというより社交性がなかったから海に潜っていた」なんて、社会生物学の徒としては問題発言では?ということまでも。
しかし、性転換が社会的にも行なわれる(その群のオスメス比の変化に影響を受ける)のですが、それさえも「個体の利益」(繁殖のコストと利益の勘案)で計算できるとは思いませんでした。
そうそう、「
ファインディング・ニモ 」は、科学的には間違いだそうです。あのアニメ映画の主人公カクレクマノミは、イソギンチャクに住んでいるペアのメス(オスより大きい)が取り除かれると残されたオスがメスに性転換します(で、よそからふらふらやって来た若い(小さい)のがオスになる)。だから「お母さんは死んでしまい、お父さんは行方不明のニモを探しに行きました」のお話は「お父さんはいつの間にかお母さんになって……」になるはずだそうです……科学って無粋ですね。
#「魚と性」で思い出すのが環境ホルモンです。私が最初にこの言葉を知ったのは、新聞で「船底に塗られる塗料のせいで、魚の(あるいは貝だったかもしれません)性が偏る」という報道でした。そして次から次に同様に動物に対してホルモン様の働きをする化学物質が見つかって大騒ぎになりました。人の尿に含まれる性ホルモンが環境に出て悪いことをする、なんて「環境ホルモン」の定義からはずれたものまでついでに紛れ込ませて人の不安を煽ろうとする動きまでありましたっけ。
しかし、あれだけ大騒ぎをした環境ホルモンもなんだか竜頭蛇尾で、哺乳類に対して悪いことをしている証拠が無いということで、結局環境省はホームページに掲載していた環境ホルモンのリストを削除して「なかったこと」にしてしまいたいようです。
http://www.mainichi-msn.co.jp/kagaku/news/20041130k0000e040040000c.html
環境省のホームページ
http://www.env.go.jp/
長期的に見て本当に「環境ホルモン」が「無罪」なのかどうかは私には判断できませんが(数百年後に「やっぱり」という可能性もゼロとは誰も断言できないでしょう)、わからないことを「わからない」と言わずにパニックを煽ろうとするのも感心できないな。一度「オオカミ少年」になってしまったら、いざ本当に危険でした、という状況になったときに真実を周知徹底させるために余分なエネルギーが必要ですから。
そうそう、この本にも環境ホルモンの話題は登場します。3ページ分だけ、ほんのちょっとだけ環境ホルモンそのものについて触れたあと、魚は性転換を繁殖戦略として持っているけれど陸上動物は進化の過程でそれを捨てたから、という話題になっていますので、専門家には結局環境ホルモンはそれほど大きな問題とは見えていなかったということなんでしょうか。
「読書」とは普通は「書を読む」でしょうけれど(私も普段はそう使います)、時に「読むと書く」であると私は認識してしまいます。ここの日記に書いているのも、そういった点では「読書」そのものです。
最近日記が長くなりがちなので、今日は短くまとめてみました。
【ただいま読書中】
森奈津子著、早川書房(ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)、2004年、1600円(税別)
バーチャル淫行条例があったら確実にこちらが引っ張られる年齢の女の子が、ロボットやタイムトラベルを小道具にあ〜んなことやこ〜んなことをしている……こんな小説は初めてです、と思っていたら六つ目の短編「レプリカント色ざんげ」は初出雑誌で読んでいました。ふうむ、あの短編の作者だったのか。
エロ小説は(人並みかどうかは自信ありませんが)一応色々読んでいますし、パルプ雑誌時代には半裸の美女がデカ目玉の怪物(BEM)に攫われるシーンがやたら多いのになぜかセックス描写不毛と言われたSFの領域でも『
恋人たち 』『
ラブメイカー 』『
オルガスマシン 』『
009ノ1 』(最後のは違うかな?)などは経験済みです……が、少女性愛SFというジャンルは私は未経験でした。
ただ、良い小説の条件として「人生の真実の欠片が散りばめられていること」があるとしたら、この短編集にはしっかりそれが散りばめられています。SFとしてのセンスオブワンダーはあまり感じませんでしたけれど、それは私が年を取って感受性が鈍くなったせいかもしれませんからそれについては深く考えません。
人によってはジャンルの好き嫌いを強調する人がいます。「エロ小説なんか読んでるのかよ」「SFなんて」とかね。でも、ジャンルに対する好悪と作品自体の良悪は別の問題ですし、この短編集、私は嫌いではないな。著者の別の作品も読んでみたくなりました。
表題作でロボットに対して主人公が持つ感想から、「創造者と被創造者」の関係についてついつい考えてしまいました。
神が人を創造したとして、さて、人が神に期待するくらい神は人に対して注意を払ってくれるのでしょうか? 神と人が同質の存在なら、まだ共感を持ってくれる可能性はあります。しかし、もし異質だったら? たとえば人が蟻の群れを創造したとしましょう。で、人は蟻の一匹一匹にどのくらい注意を払えるでしょうか。コミュニケーションは困難で行動は理解しづらくやたらと数が多くしかも寿命は短くてどんどん世代交代します。個体識別だって大変です。
もしかしたら、神が人を見る視線は、小学生が蟻の観察で蟻に向ける視線と同じ種類なのかもしれませんぜ。
うっかりお茶をこぼしました。ノートパソコンのキーボード上に。「ショート」「暴走」「データ消失」「通信途絶」さまざまな言葉が頭の中を駆けめぐります。
「キーボードの下にはたしかこぼした水分を受けるための浅い受け皿があるはずだし、こぼしたお茶は少量だったし、こぼしたところは下がただの空洞(フロッピーディスクドライブを外したあと)とDVDドライブなので、ボード類は直撃してないよね」と自分を安心させるために独り言を言います。言っても言わなくても現実は変化しませんが、そこは人情というものです。
キーのくぼみに貯まっている水分をざっと吸い取り、ティッシュでこよりを作ってキーの隙間から水分を吸着します。自慢じゃないけど(自慢になるかな?)こよりを作るのは上手いのです。普段は無用の技能ですけど。幸いキーの下にはほとんど水分がありません。どうやら大事にはならずにすみそうです。
教訓:お茶をこぼす「前」にキーボードカバーをつけましょう。
教訓その二:データのバックアップはこまめにしましょう。
現実の行動:バックアップはしました。お茶をこぼした「後」でしたけれど。
キーボードカバーはまだつけていません。
【ただいま読書中】
『
不知火奉行 』(横溝正史時代小説コレクション 伝奇篇3)
横溝正史著、出版芸術社、平成15年、1900円(税別)
横溝正史で私が思いつくのは金田一耕助のシリーズです。と言っても、映画館やTVで映画は見ましたが、原作は全然読んでいません。ですからこの本を手に取ったときには「へえ、横溝正史は時代小説も書いていたんだ」という程度の認識でした。ところが解説を読んでやっと「あ、『人形左七』なら読んでいたっけ」と気がつく始末。ただ、この本の解説でも「探偵小説にくらべて横溝正史の時代小説は、人形左七等を除くとその質の高さにくらべて入手困難なものが多い」とありますから、一般人としてはこの程度の認識でも許してもらえるのではないかと勝手に期待しています(誰が許すのかは知りませんけれど)。
この本は、中編の「不知火奉行」、11編の連作短編集「菊水江戸日記」、短編の「雌蛭」「雲雀」から構成されています。
最初の二つは、幕末期の江戸を舞台に、謎の武士が大泥棒を手下に胸のすく大活躍、のお話なんですけど、ちょっとヒーローが強すぎます。もうちょっと敵役が強くないと、かえってヒーローの強さが引き立たないんじゃないか、とさえ思ってしまいます。間抜けに勝っても格好良くはありませんから。(いや、たとえば「菊水江戸日記」での敵役の奉行は、地の文では「本当に優秀で奉行所では一番できる男」と書いてはあるんですけど、実際の行動は間抜けでヒーローに思うように引き吊り回されてしまい、ちっとも優秀じゃないんです。最後の最後に良い役はもらいますけどねえ……)
高校時代、川上宗薫の普通小説を図書館で発見して読んでみたらそのあまりのつまらなさに「やっぱり川上宗薫は官能小説なんだなあ」という感想を持ってしまったのですが、その時と近い感想を持っています。「やっぱり横溝正史は探偵小説なのかなあ」。あ、軽い謎解きのある「雲雀」は面白かったので、時代は抜きにして横溝正史では謎解きものが私には波長が合うのかもしれない、ということなのかもしれません。さて、捕り物篇を探しに図書館に行ってみようかな。
私は下っ端であると同時に管理職である、という立場です。そのためか時々こんな目に遭います。
甲さんが私に言います。「乙さんが××をするのは問題で気になるから、それを改めさせて下さい。それが乙さんの上司である管理職の仕事でしょ」 ところが私には乙さんがそのような行動をしているところが確認できません。さて、私はどのように行動するべきでしょう? だって、私には何も問題が見えていないのですから。
そんなとき、私はまず整理をします。まず「ひどく問題だ」と「解決するべき問題」では違う内容を同じ「問題」という単語を用いていて混乱しますから、後者を「解決するべき課題」(あるいは単に「課題」)と言い換えましょう。
次に「乙さんが××をする」という文章を見ます。ここでは主語は「乙さん」のようですが、実は、それを問題と感じているのは甲さんなので「甲さんが乙さんの××を問題と感じている」と書き直せば主語は甲さんになります。課題は主語の下に存在します(主語が課題を所有する、と言い換えても良いでしょう)。したがってそこにある解決するべき課題の「所有者」は実は甲さんです。甲さんが「それは問題だ」と認識しているから「課題」が存在しているわけですから。おかだもそれを見て問題だと感じたらそれは「甲さんとおかだの課題」にもなりますし、それを乙さんに伝えて乙さんがそれを認識したら「三人の課題」になるでしょう。
次に甲さんの主張を整理すると、「課題を解決するために乙さんが行動を変えるべきだ」「課題を解決するために乙さんが変わるようにおかだが行動するべきだ」です。
……ちょっと待ってください。今のところ「解決するべき課題」の所有者は、甲さんでしたよね。で、甲さんの課題を解決するために乙さんやおかだが行動するべきで、甲さんは何もしないの?
もちろん、法令違反とか就業規則違反とか組織の外(特にお客さん)に関係するお話の場合は、それは管理職が出張らなきゃいけない場合が多いでしょうけれど、甲さん個人の感情に関わる「課題」の場合、甲さんの言いなりで私が動いたとしたら、それは「管理職」の仕事ではなくて「甲さんの代理人または下請けまたは下僕」の仕事ですよね。
……あら、やっぱり私は下っ端だったんだ。
【ただいま読書中】
傳雷その他著、榎本泰子訳、樹花舎、2004年、2200円(税別)
フランス文学者の父とピアニストの長男が「ベートーベンのヴァイオリンソナタではどれが一番重要か」に関して議論を始めました。父は九番と主張し、息子は十番を譲りません。二人の激論は止まらず、とうとう息子は住んでいた家を飛び出て友人宅に身を寄せます。二人が和解して息子が家に戻ったのは一ヶ月後のことでした。1953年正月中国上海の傳家での出来事です。
それから一年後、長男(傳聡)はショパンコンクール挑戦とポーランド留学のために上海から旅立ちます。父(傳雷)は一年前のことを悔い、手紙を送ります。それがこの書簡集の始まりです。父から次男へ、また母から長男への手紙も混じりますが、この本のほとんどは以後十数年の父から長男への手紙で占められています。
べたべたの家族愛の発露でもあり、当時の情勢を読み取る楽しみもありますが、そういったことを越えた普遍性が感じられる、不思議な書簡集です。人が人としてどのように自己を確立するのか、芸術にどのように真剣に対峙するのか……傳雷が息子に示すのはあまりに大きな世界です。普通の人間だったら、これだけでかくて厳しい父親の下では容易にスポイルされてしまうでしょう。それに耐えて才能を開花させた傳聡も、タダモノではありません。
解説に「だが、『傳雷家書』は、読めば読むほど、読み手そのものを浮かび上がらせる。自分の現在、家族との関係、世界の見方、人としての対処の仕方、そして今を生きるその姿を照射する」とありますが、本当にそのとおりです。
後に長男はショパンコンクールで東洋人として初めて入賞しイギリスに亡命します。父はその思想ゆえ反動右派として糾弾され文化大革命のさなか妻と共に自殺。その運命を重ね合わせて読むと、志の高い人間とそれを理解せず攻撃だけする醜い世間との対比に、ため息が洩れます。
新聞の紙面を見ると、まるで今年に限ってノロウイルス感染症が大流行しているようです。実はこれまでも毎年冬になったら「腹に来る風邪」として流行していたんですけどね。生ガキなどに潜むノロウイルスが原因の食中毒は保健所がデータを持っていますが、ただの流行病だときちんとした統計はないはずなので、報道を素直に受け取るとまるで新しい流行病が発生したかのようです(実際、私の周りでもそのように受け取っている人はけっこういます)が、それは間違いです。しかし、こんなに突沸的に大騒ぎするよりも、腰を据えて基本に忠実な感染症対策を練った方が、御利益は多いと思うんですけどねえ。
そうそう、ここ数年間の感染症関連の話題を思い返してみましょう。「新型肺炎(SARS)」「鳥インフルエンザ」「老人施設や精神病院でインフルエンザ大流行・死者多数」「インフルエンザワクチン不足」「炭疽菌テロ」「天然痘ウイルステロの怖れ」「O-157」……これを時系列に従って正しく並べられますか? 一時騒いでも、騒ぐだけですぐに忘れてません?
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八杉龍一編訳、岩波文庫 青938−1、1994年、650円(税別)
一年かけてのんびり読んでいたのですが、先日やっと最終ページにたどり着きました。いやあ、長かった。
ダーウィンの『
種の起源 』出版から50年以内に、一般人を対象とした学者の講演または出版物を集めて当時の生の声を伝えよう、というのが、この本の意図だそうです。ライエルやスペンサーの主張も面白いのですが、やはり「ダーウィンのブルドッグ」ハックスリーの熱気を帯びた口調は時代を超えてこちらにまでその熱気が伝わってくるようです。
……さて、こんどは『種の起源』に手をつけなくては。いつ読み終えることができるかなあ(まだ読んでなかったのか、と叱らないでください)。
「進化論ではヒトはサルから進化したから進化の階梯の一番上にいるヒトはサルよりエライ」という二重に間違った言説がけっこう今でも広くはびこっています。正しくは「ヒトとサルは共通の先祖を持つ(進化の途中で枝分かれをした)」ですし「エライ」かどうかは進化論とは関係ありません。少なくともダーウィンはそんな主張はしていません。むしろダーウィンに対する反対者が「ダーウィンは間違っている」と主張したいがためにわざとダーウィンを誤読して「人の先祖は猿だと言うのか、そんな馬鹿な」と19世紀に言っていたようです。また「人は猿よりエライ」と主張したい人間が手っ取り早くダーウィンを援用してヒトは進化の最上位、と言ってもいたようです。
……でも、進化の道筋で「後」の方がエライのだったら、豚は猪よりエライのでしょうか? 今広く作られている野菜は野生種よりエライ?
進化は別に「より良いもの」を産み出す過程ではありません。「より環境に適したものを生き残らせる」過程およびその結果です。したがってどの生物も自然の中では対等です。すべて「自分たちのまわりの環境に適して」いるからこそ生き残ったものたちですから。その中にヒトも含まれる(ヒトを特別視しない)というダーウィンの主張は、人間を他の動物に比較して特別なものと思いたい人にはとうてい受け入れられるものではありませんでした。今でも欧米では受け入れていないヒトはたくさんいます。むしろ明治時代の日本人の方があっさりダーウィンを受け入れてしまった、というのは面白い現象です。
鏡開きもすんだ冷える夜、家内がなにかごそごそ始めました。とんど焼き(全国的には「どんど」かもしれませんが、私の地方では「とんど」です)に出した注連飾りに付いていた橙をざっくり切って「橙湯を作るけど、飲む?」。もちろんです、マダム。「ところで、どうやって作るのかしら?」。私は知りませんマダム。そんな時にはグーグルで……台所の隅っこで私がパソコンを開いているのは、こんな時のため……ではないのですが、たしかにこんな場合は便利です。なるほど、橙1、お湯1、蜂蜜適量ですか。ちょうどオレンジの花の蜜があったから、柑橘系で同士討ちです(なんのこっちゃ)。
体がほっこり温もります。風邪なのか、それとも少し早いスギ花粉症なのか、ちと上気道がいがいがしていたのも安らいだようです。このままさっさと寝ましょう。
そうそう、私にとっては「だいだい」なんですけどね、「だいだい湯」だとグーグルでは19しかヒットしません。「橙湯」だと8130もヒットするのに。皆さん、漢字がお好きなんですね。
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ウンベルト・エコ著、谷口勇訳、而立書房、1994年、1900円(税別)
「バラの名前」ってなんだ? ウンベルト・エコって誰? というのが私の最初の感想でした。私にとっては『薔薇の名前』と「ウンベルト・エーコ」なんです。いやあ、最初に出会って刷り込まれた名前は偉大です。でもまあいいや、ここで引っ掛かっていては一字も先に進めません。
私にとっての『
薔薇の名前 』は、舞台となる修道院の図書館と薬草園、その存在に関する描写を読むだけで胸がドキドキして幸せになれる、という作品でした。殺人事件の謎とか名辞論とかオッカムの思想とか、もちろん読んでドキドキする要素は他にもたくさんあるのですが、私にとってそれらは二の次でした。
中世の修道院はもちろん出家僧のための施設ですが、同時に巡礼者のための施設でもありました。旅の途中で病で倒れた巡礼を看病するあるいは死を看取るために修道院に置かれたホスピタル(救護院)は現在の病院の原型と言って良いでしょう(日本でも奈良時代以降は僧医が(対貴族限定とは言えますが)医療の主力であったことを思うと、洋の東西の類似点と相違点は本当に興味深いものです)。ちなみに、「ホスピタル」が初めて公的な場所で論じられたのは、マコンで行なわれた584年の教会会議だそうです(『キリスト教の2000年』上巻、211ページ)。ついでですが、この会議で「1/10税」も初めて論じられているそうです。
で、病人の看病に使うために薬草園も修道院には併置され、薬草係が「専門家」として育つわけで、だから『薔薇の名前』では……って、映画の方では、図書館は重厚に描かれていましたが、薬草園は小説ほどには注目されていませんでしたよね(少なくとも私の記憶ではそうなってます)。残念ですが、映画の方ではショーン・コネリーが格好良かったのでそれはそれで大満足。
もちろん、図書館も大切です。中世を通して、修道院の図書館で秘かに筆写し続けられてきた本(ギリシア・ローマ時代のもので、異端の書さえも含む)の数々が、イタリア・ルネサンスで続々と「発見」されて時代を変革したわけです。その文化的な爆発力を思うと、修道院の図書館を支配するかび臭い空気さえ、ロマンチックな匂いが……って、やっぱりかび臭いのはかび臭いかな。
エコは「作者は、作品の解釈を提供してはならない」とストイックに述べます。「作者はその作品を書き終えるや、死すべきなのであろう。テクスト自体の歩みを妨げないためにも」とさえ。歩むのはテクストだけではありません。小説の登場人物たちは、エコが引いた図面の上を喋りながら歩み目的地に到着したら会話を打ち切ります。「閉じた迷宮」は、あとでよく燃え上がるように十分な通風を確保するための壁の隙間をきちんと確保されます。物語が始まる日付にも修道院の場所にもすべて必然的な意味があります。
小説(に限らず、きちんとした文章)を書くのは、つくづく大変な作業なんですねえ。
知人が自作の「新年の漢詩」を見せてくれました。なんでも漢詩には段位があって、八段だそうです。すごいですね、と言ったら「四段までは試験があるけど、あとは毎年自動的に昇段する」そうなんですけど、本当なんでしょうか? それはともかく見せられたのは七言絶句です。仄起こりなので第一句は仄仄平平仄仄平、と第四句まで漢字の脇に記号がついています。中国語の文法に従って漢字が並び、音は平仄の法則に従っていて、酉年だから中に鳥が入り、絶句だから起承転結でないといけないし、さらに脚韻も踏んでいます。これだけがんじがらめに形式が縛られて、それで詩としての内容を示さなければならないのですから、漢詩は大変です。でも、制限が厳しいからこそそこに工夫をする余地が生まれるのでしょう。
そういえば、映画「
少林サッカー 」主演・監督・脚本の周星馳(チャウ・シンチー)が主演した映画「
詩人の大冒険 」(1994年)にも漢詩が登場しました。文化人が絵を描いたり漢詩を詠むのをカンフーと絡めるというまことにおばかなコメディー映画(それもラブコメ)なのですが、即興漢詩対決で敵役がたとえば「平平仄仄」と詠むと周星馳扮するトン・バッフーは「仄仄平平」で即座に切り返ししかも内容がもっと良い(あるいは下ネタでずっこけさせる)、というシーンは、今思い出しても笑えます。中国語は一言もわかりませんが、音を聴いているだけでも楽しめました。
あ、「まことにおばかな」というのは、もちろんここでは褒め言葉です。
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『解體新書』原本複製版
杉田玄白他、日本世論調査研究所発行、国公立所蔵史料刊行会編集、発行年不明、30000円
たまには奇をてらって、変な本を読んでみます。
名前だけは誰でも知っているけれど、実は読んだ人はほとんどいない「有名な」本はこの世にけっこうあると思いますが、これもその内の一冊でしょう。
なんといっても漢文です。第一巻(序図の巻)には絵(解剖図)がたくさん並んでいますが、あとの四冊は隅から隅まで全部漢字で占められています。高校で漢文の授業を受けた程度の素養しかない人間にとって(私のことです)、普通に読んだのでは歯が立ちません。ぱらぱらとめくるだけでめまいがします。そんなときには『
解体新書 全現代語訳 』(酒井シヅ訳、講談社学術文庫1341)でカンニングです。
あ、どんなものか実際に見てみたい奇特な方は、中村学園大学図書館ホームページがPDFファイルを公開してくれているので、そちらをどーぞ。ちょっと解像度に不満がありますけど(細かいところが現物より落ちる)それでもとりあえず「眺める」だけならOKのレベルです。
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/yogaku/kaitai/head.htm
本当は、江戸時代に出版された本物が欲しいのですが、まず市場に出てこないし、出てきても高い。古本屋がこの前送ってきたカタログに『重訂解體新書』(解體新書の半世紀後に出版された改訂版)が載っていましたがなんと200万円近い値段がついてます。「欲しいけど、お金が〜」と、杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』の現物を目の前にして身をもんだのと同じ思いです。
もう7年前になりますが、縁があって大阪のある古文書館で本物の『解體新書』と1時間共に過ごすことができました。直接この手に取った本物は、複製とは違う重さでした。あの時の幸福感に満ちた空気を私はまだ少し引きずっているようです。
「序図の巻」巻尾には、この本の絵を描いた秋田藩士小田野直武の「一言」があります(ちなみに、小田野直武の西洋画の「師匠」は平賀源内)。その文章は「我友人杉田玄白……」で始まっていますが……当時の彼は杉田玄白の半分くらいの年齢だったはずです。それが年長者で蘭学の先輩で藩の格も上の人に向かって「我友人」ですよ。玄白は玄白で『蘭学事始』の中で一緒に翻訳に携わった人たちを「同志」「同社」と呼んで対等扱いです。もしかしたらこの翻訳グループ、内部では身分の枠なんか越えて、真剣で民主的なつき合いをしていたんじゃないでしょうか。
「昔は」と言うようになったら年取った証拠だそうですが、やっぱり私は言いたい。昔は成人式は1月15日だったのだ、と。もちろん、土日月連休の方が都合がよい人が多いでしょうから「反対!」とまでは言いませんけど、なんだか慣れ親しんだ暦を勝手に変えられて不愉快、といった気分です。(もっと古い人は「今日は小正月だ」と主張するかもしれませんけれど)
報道を見ていると「荒れる成人式」は今年はずいぶん減ったようですね。
ところで、掲示板を荒らす人間もいれば式典を荒らす人間もいる、ということで私は簡単に理解しているのですが、一体ああいった行動は何を目的としているんでしょう? 「わき上がるリビドーの暴力的発散」だったら、これはどうしようもありません。だけど、行動の裏に合理的な理由があるのだったら、それは考察の対象になるでしょう。
たとえば「目立ちたい」「注目・関心を引きたい」は式典を荒らす理由として成立しないでしょうか? 会場にいる人間だけではなくて、マスコミを通じて全国に自分の「勇姿」が流れるたまりませんなあ、と意識してあるいは無意識で思っている人はいるんじゃないかしら。
で、その欲望を満足させてあげると、事件は再発します。「こうすれば上手くいく」と本人も周りも学習しますから。
だったら、荒れる式を減らすためには、そういった人に注目・関心を示してあげない、というのも一つの選択肢とできないでしょうか。(仮定に仮定を重ねているなあ<自省モード) 要するに無視するの。
現場ではさっさと排除する。で、なかったことにして式典はそのまま継続。報道はどうしましょう。報道管制はよろしくないから、事件そのものを報道するのはけっこうですけど、個人名は出してやらない。姿も撮してやらない、声も流さない。でも裁判にはきっちりかける。マスコミが自制してくれたら、効果の有無が判定できそうですけど、ちょっと望めないかな。
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矢作俊彦著、文藝春秋、2003年、1800円(税別)
1968年、大学紛争のまっただ中、19歳の「俺」は警察官殺人未遂で指名手配を受け、日本を密出国する。中国の奥地で農民として暮らし、30年後、蛇頭の船で日本に密入国。30年ぶりに見る日本は、日本でしかも異国だった。
一種のタイムスリップものとして読むことも可能ですが、それほど素直にノスタルジーにひたることはできません。安易な過去の美化を許さない苦さがこの作品には流れています。30年の不在の間に、何が失われたのか、何が失われていないのか、一歩一歩探りながら歩む「俺」の旅につき合いながら、日本そのものがこの30年でどう変わったのか、そして読者である私が何を失い何を得何を失わなかったのか、ちょっと考えたくなりました。年かな?
しかし、大学紛争でぐしゃぐしゃしている日本から中国に行ったらそこは紅衛兵が闊歩していてぐしゃぐしゃしていたり、中国から日本に脱出したと思ったら中国マフィアに追い回されたり、なかなか面白い重ね合わせです。しかも登場人物は、日本人だけど戸籍が抹消されていたり、日本語がしゃべれるベトナム系のアメリカ人だったり無国籍の台湾人だったり、純粋の日本人(「俺」の親友)はハワイに行ってて電話の声だけの登場だったり……「国」一つ取っても一筋縄ではいかない構成になってます。
よく見たら、この本のカバーには穴が切り開かれていて表紙の一部が見えます。カバーをめくってみたら表紙全体に鉄腕アトムの漫画が印刷されているのですが……セリフが中国語です。へえ、鉄腕アトムは中国にも輸出されていたのか。さて、この場面はどのお話だろう、書庫の手塚治虫全作品でチェックしてみようかな、という危険な思いつきが一瞬よぎりました。危ない危ない。うっかりあそこに近づいたら、私はしばらくこの世に還って来れなくなりかねません。
センター試験が今日もありました。受験生は大変だったと思いますが、試験そのものの大変さもさることながら、なんでわざわざこんなシーズンにやるんでしょうねえ。寒さ・雪・インフルエンザの流行・来月からのスギ花粉と、受験生にとってはこの季節は悪い条件が揃いすぎているように思います。
もちろん、春はスギ花粉、梅雨時はじめじめ、夏は暑い、秋は台風……と、受験のためのベストシーズンは無いかもしれませんが、それでも雪に関する地域のハンディは何とかなりませんか? それと、インフルエンザ(ついでにノロウイルス)のシーズンも外した方が良いように思うんですけど。
たとえば、高校の卒業は3月で、大学の入学は9月、その間にセンター試験と入試、というのはどうでしょう。で、大学は完全単位制で3年とか3年半でも卒業可能とすると……授業料収入が減るから大学が嫌がるだろうな。単位を取ってから就職活動開始、就職が決まるまでは在学扱い、ということにしたらOK?
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宮沢賢治・作、高畠純・絵、岩崎書店(宮沢賢治のおはなし 1)、2004年、1000円(税別)
次男に本を読み聞かせようと手にとって、長いから途中で「はい、今日はここまで」と言おうと思っていたのに、あまりの面白さにとうとう最後まで読み上げてしまいました。喉がちょっと痛くなりました。
馬車別当と一郎が交わす会話も読んでいてくすくす笑いが洩れますが、その後の山ねことどんぐりたちのとんでもない裁判は抱腹絶倒です。親子で笑い転げます。
私が小学生のときに「注文の多い料理店」でドキドキし、「よだかの星」で涙し、「セロ弾きのゴーシュ」はわけがわからなかったのを思い出しました。「銀河鉄道の夜」はTVでやったアニメを録画したビデオテープがどこかにあるはずなので、探し出して親子で見ましょうか。
Q:「運が悪い」が口癖の知人がいます。たしかに「悪いこと」が次々起きているようでしょっちゅう不平不満愚痴を言っているのですが、あまりにそれが多すぎるのでこの前「良くないことが起きるのはすべて『運が悪い』せいなのなら、逆に良い事が起きたらそれは単に『運がよい』だけなの? つまり、あなたの人生はただの運任せ?」とうっかり尋ねたら、それ以来なぜか口を利いてくれなくなりました。どうしたら良いでしょうか?
【ただいま読書中】
小俣和一郎著、太田出版、1998年、2800円(税別)
「狂気」とは何でしょう。
律令では「癲狂」と定義されます。現代用語を用いるなら、「癲」はてんかん性精神病、「狂」は躁・統合失調症の妄想状態といった感じで描写されています(養老律令(757年)第八戸令および令義解(833年)で「癲狂の犯罪者は刑罰を減免する。癲狂の定義は以下の通り……これこれしかじか」と定められているそうです)。
#おまけですけど、日本最古の大宝律令(701年)は失われていますが、養老律令はそれとほとんど同じ内容だったので、養老律令を再現したり令集解(りょうのしゅうげ=大宝令の注釈書)や続日本紀を読めば、大宝律令を読んだのとほぼ同じになるのだそうです。
私がなぜ言葉の定義から話を始めたかというと、「狂気」には、何か時代や文化を越えた絶対的基準があるのではなくて、その時その時の社会が定義するからです。どのような状態を狂気とし、どのように治療するか(どのように罰するか=精神病者は監獄に、という社会もありました)、それはそれぞれの社会で異なります。
たとえば現代日本では「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」(1995年)でその定義づけが行なわれていますが、法律のタイトルを見たらわかるように、その対象は「医療を加えるべき病者」ではなくて「福祉で扱うべき障害者」です。でも、実際の場の主力は精神病院。福祉を医療が担うというのは変な話だとは思うのですが、ともかく今の日本ではそうなっています。
では、過去の日本ではどのような治療が行なわれていたかというと……
狂気に対する日本での最初の治療は、各地の密教寺院で行なわれた「水治療」(主に、滝に打たれる)でした。平安時代に始まっています。ついで漢方療法が室町時代頃から主に浄土真宗系の寺で。そして読経療法が江戸時代に日蓮宗系の寺で行なわれるようになりました。
「狂気の原因」が超自然的なもの(呪い、憑依、悪魔のせい)なら、それへの対処は超自然的な方法(祈祷など)になります。原因が自然界のものなら、合理的・科学的に原因に対する「治療」を「人」が試みることが可能になります。逆に言えば、どのように治療するか、を見れば、人がその対象をどのように(どのような治療手段が有効な対象と)認識しているかが一目瞭然です。
#そうそう、「気が違う」という言葉は、私は肯定的に見ています。「気」は「気」のままで、ただそれの方向性や位置が本来とはちょっと違ってしまっただけ、だからまた何かのきっかけで正気に戻ってくることが期待できる、という認識を表明したもの、と捉えることが可能だからです。このへんは、人が社会のどこにポジションしてどの方向に世界を見ているかで捉え方は様々でしょうね。
#おまけに、律令トリビア。「孤独」は律令に登場する言葉です。「孤」は16歳以下で父親のいない者、「独」は65歳以上で子のない者。それらは施院(せいん)に収容されると定められ、施設の運営財源として「孤独田(けいどくでん)」が当てられました。あくまでタテマエですけど。
新聞によると、総合学習の時間が削減される方向だそうですね。これが本当だったら、「文部科学省も無責任だな」というのが私の第一印象です。全く新しいことを現場に導入するのに、それを現場で指導できる人材を先に育成して現場に配置してその人を通じて現場全体を変えていく、という手順を踏まずに「始めろ、現場で頑張れ」の一言で現場に丸投げして、現場が悲鳴を上げたりそれでも頑張ってやっと成果が出始めたら「やっぱりや〜めた」です。
高血圧の治療で薬を出して「一錠飲んでも下がらない。じゃあ別の薬にしましょう。これも一錠飲んでも下がらない。じゃあまた別のにしましょう」と、血圧の数字だけ見てころころ薬を替え続けるヤブ医者みたい。
しかし、素朴な疑問ですが、「学力低下が問題」なんだそうですけど、なぜ学力が低下したらまずいんでしょう? それと、そもそも学力ってどんな意味で使われているのでしょう?
「漢字が読み書きできる・九九が間違いなく言える」これは学力の基礎で、きちんと身につけるためには有無を言わせぬ反復トレーニングが必要です。これは人が社会で生きていくためには必要ですから低下したらまずいと私は思います。
「学校や塾のテストで良い点が取れる」これは基礎の次の話で「正解」があらかじめ用意されている問題を解決する能力(本来の学力?)です。本来「学力」と表現されるのはこの部分ではないかと私には見えます。
しかし、個人があらかじめ持っている「頭の良さ」と「学力」は関係があるのでしょうか。頭が良い人はテストで良い点が取れるかもしれませんが、逆に学力を鍛えることは頭の良さを伸ばす役に立っているのでしょうか? むしろ、細かい知識を大量に厳しく詰め込んだり「必ず正解が存在する問題」だけを解き続けることで「自分で問題を立てる」「自発的に学び続ける」「『正解』がない場合も対応できる」能力をスポイルしてしまう可能性の方が大きいように私は思います(個人的体験からの感想です)。
以前「これからの50年でノーベル受賞者30人」なんてことを聞いたことがありますが、これを本当に実現するために必要なのは最後の「頭の良さ」ではないのかなあ。子どもは本来好奇心の塊です。それをスポイルせずにそのまま生かしつつ学力の基礎はしっかり仕込む、という方法を採らないと、結局「学力の低下」は止まらないような予感がします。
「学力低下が問題」と言っている人から見たら、こんな基礎的なことでぐちゃぐちゃ言っている私は「学力低下の典型例」なのかもしれませんけれど。
……でも、発信しなかったら何も思っていないのと同等だな。もうちょっと文章を格調高く(もっともらしく)して、新聞にも投稿しておこうっと。
【ただいま読書中】
羽生善治・今北純一(対談)、文藝春秋、2004年、1429円(税別)
将棋のかつての七冠(将棋にはメジャータイトルが名人・竜王など七つあるのですが、そのすべてを独占したという前人未到の偉業のこと)羽生さんと、ヨーロッパのビジネス最前線で働き続ける今北さんの対談です。なんだか変な取り合わせと思いますが、実はこれがなかなか面白い対談になっています。二人とも、知的な修羅場で個人として戦い続けている人で、しかも知的な好奇心をたっぷり持ち合わせている、ということで、話がうまくかみ合っています。
将棋の一手一手の精読と大局観との関係が、ビジネスプランでの部分最適化と全体最適化と関連づけられて語られたり、今北さんが「大切なのは個人の能力で、組織には所属しても帰属するな」「『欧米』とまとめて言うが、欧と米は文化的にはまったく別物だ」「ヨーロッパでは失業者でもバカンスを取っていた」「ボトムアップとレベルアップは違う」とさらりと語ったり、「へぇ」ではなくて「ほぅ」「ふむ」を私は連発してしまいました。
目次を写しておきます。
第一章 世界から見た日本の非常識
第二章 なぜ構造改革ができないか
第三章 ヨーロッパに目を向けよう
第四章 現状打破のために大局観を持て
第五章 個人としてミッションを立てよ
サラリーマンのためのビジネス書として読むことも可能ですが、日本の将来を真剣に憂えている(それもただの観念論ではなくて、現場に密着した視点から世界を見通そうとしている)点は、一種の思想書(それも実践可能な実用書)として読むこともできる本です。
#ついでだけど、囲碁将棋で間違いやすい言葉。
囲碁は「打つ」、将棋は「指す」(ただし、将棋で敵から取った持ち駒を再利用する場合に限って(駒を)「打つ」)。囲碁は「定石」、将棋は「定跡」。
……さて、対談のあとだから次に読むのは「対話」に関する本にしましょうか。
ノロウイルスで有名になった福山の特別養護老人ホームですが、なんだかとんでもない誤解が世間には蔓延っているようで……たしかに理事長は医者ですが、あそこは介護保険法に基づく「老人ホーム」であって、医療機関ではありません。つまり、病院のような治療は期待できない施設です。では、入所者が病気になった場合どうするか。普通は医者にかかりますね。ところが介護保険法では、施設の入所者が往診や他の医療機関を受診して保険診療を受けることに、まことに厳しい制限がかかっています(まともな保険診療は受けられない、と考えたらいいでしょう)。もちろん自費(健康保険証を使って三割負担をする替わりに、全額自分が払う)だったら受診できますが、極言するなら、「施設に入所するような老人に治療をしたければ勝手にどうぞ。国は面倒は見ないけど」と国が冷たく言い国民もマスコミもそれを黙認している制度と言って良いでしょう。
西武ライオンズの堤元オーナーが常勝監督だった森さんに「(来季も監督を)やりたいのでしたら、どうぞ」と冷たく言い放ったのと同じ匂いを私は感じます。いや、堤さんの方が給料はちゃんと払っただけまだマシかもしれません。
老人医療費を少しでも安く上げるために、頭の良い官僚たちが知恵を絞った結果作り上げられたシステムで、細かいところで辻褄はあっているのでしょうけれど、結果として老人は不幸な目に遭うことになってしまったと私には見えます。(部分最適化が全体最適化につながらない好例)
「だったら現場が頑張って制度の不備を補え」というのもある意味では正論ですが(そして、今回の福山の施設も、もうちょっと現場の対応が何とかならなかったのか、とは正直思いますが)、システムそのものが悪かったらいくら現場が頑張っても結局犠牲者が出るのは防げません。前の大戦でろくな兵装も食料補給もなく無謀な作戦の下で「頑張」った兵隊がぼろぼろ死んだ某陸軍のことを私は連想します。
……今は若い皆さんも、いつかは年を取ります。老人に冷たい社会を容認すると言うことは、自分も将来冷たくされる、ということでっせ。覚悟、できてます?
「自分は早く死ぬから関係ない」と言うのは却下です。そんなことを反射的に言う奴に限って、若いときには「老人なんか邪魔だ」と文句を言い立場が変わって自分が年を取ったら「今の若い奴は」と文句を言うだけ、がオチですから。
【ただいま読書中】
内山勝利著、岩波書店(双書 現代の哲学)、2004年、3000円(税別)
先日の予告通り、「対話」に関する本を読みました。
タイトルを見てデカルトを連想しましたが、私はデカルトの『方法叙説』を「心臓の働きについてトンデモなことが書いてある面白い本」という外道な読み方をした人間ですので、そちらの連想はさっさと忘れることにいたしましょう。
プラトンと言えば対話篇ですが、この「対話」という方法論自体が哲学的に大きな意味がある、ということについて論じた本です。プラトンの思想は対話という形式によってその特徴が……うんぬんかんぬん、なのですが、私にとってプラトンと言えばプラトニックラブ……もとい、イデアです。
我々がたとえばある人を見て「美しい人だ」と感じるのは、その人そのものに「美しい」というラベルが貼ってあるからではなくて、それを見た私たちの心の中にいわば「美しさの基準」というものがあってそれと眼前の実物とを参照して美しいか美しくないかを判断しているからだ。その基準が「美のイデア」である、というのがプラトンのイデア(をおかだ的に極めて単純に述べたもの)です。つまりイデアは絶対的なものです。
しかし、「私がこの人を美しいと判断したのだ」は「主観」に過ぎません。ではその人に内蔵されている「イデア」が絶対であるかどうかはどうやって判断できるでしょうか。そこで「対話」という手続きが登場します。対話によってお互いがある見解を共有できれば、その見解は客観性を獲得します。つまり、主観が客観へ昇格します。そしてその「客観」に誰も異議を唱えなければ「絶対」へはあと一歩、と私は解釈しました。
もっとも、話はそんなに単純ではありません。著者は「対話の意義は、ひとまずその不成立に直面することにある」なんて恐ろしいことを言ってくれます。また、問答形式の対話の場合、議論の行方をコントロールするのは、答える方、とも。すると、「無知な人間」に対して質問を重ねる哲人の立場はどうなるんでしょう?
そうそう、イデアの前段階である「認識」についてはどうでしょう。そこに注目した仏教の「唯識」は、人は世界を感覚によって認識するのだから、識(感覚)こそが全てである、とこれまた恐ろしいことを述べました。でも、プラトンによればイデアが絶対です。どちらが本当なんだろう……というか、どちらが本当でも、我々の外側の実在の世界はその重要性が全然ない、ということになっちゃうんですけど……
あ、ソシュールは人は言語で世界を認識すると述べてますから言語が絶対なのかな。その場合でも実在の世界はその重要性を……あらららら……
1月になると新聞にプロ野球選手が自主トレを始めた、という記事が載ります。そして2月になったらキャンプインがまたニュースになるのですが……私は不思議です。プロスポーツ選手が練習するのは「仕事」の当然の一部でしょう。それをわざわざ「自主」トレーニングと名前をつけて(自分とチームのための練習なんだから自分でするのが当たり前のはず)、しかもそれがニュースになるのはなぜなんでしょう? 「サッカーの中田選手がPKを自主練習! なんと100本中95本も成功!!」なんて報道は普通ありませんよね(95本はずしたのならニュースになるかもしれませんけど)。
さらに不思議なのが「合同自主トレ」。私は「自主トレ」はキャンプの前にするべき個人練習と思っています。キャンプでわざわざ集まるのは、人が集まらないとできない練習(フォーメーションの確認とか実戦練習)をするためでしょうから、その「前」にするべきことは個人でできること(基礎体力とか基本プレイの錬磨)のはず。それを何人も何人も集まっておいちにおいちにで走っている……たしかにキャッチボールは一人ではできませんけどねえ。自分の能力を高める作業は野球選手の多くは一人ではできないのかな?
私は小学生のときからプロ野球のファンですが、それでもやっていることを無批判に全肯定する気にはなれません。というか、最近は「日本のプロ野球はそろそろおしまいかなぁ」という気分になってきているのが、自分でもちょっと困った気がします。
【ただいま読書中】
夢枕獏著、徳間書店、2004年、1800円(税別)
貞元二十年(西暦804年)、日本からの遣唐使の船が一隻福州に漂着するが、大使の藤原葛野麻呂や儒学生橘逸勢(たちばなのはやなり)らと共に空海という僧も乗っていた。そのころ唐の都長安では、皇帝の死や皇太子の病気を予告する妖怪や役人の屋敷を乗っ取る猫の妖物の登場など、怪異な事件が続いていた。長安に到着した空海らは、それらの事件に巻き込まれていく。
ページをめくった瞬間「この話、どこかで読んだぞ」と思いました。でも、刊行年は2004年です。で、出版社を見て「あ、SFアドベンチャーの連載だった」と思い出しました。まったく、私の記憶はいざというときにはとてつもなく鈍重になるので困ります。
SFアドベンチャーが廃刊になって、もう十年以上になるでしょうか。創刊から廃刊まで結局ほとんどつき合いました(最後の季刊の頃には買いもらしがあるかもしれません)が、あの雑誌の廃刊によって私の目の前から消えたのは、この作品だけではありませんでした。平井和正の『真・幻魔大戦』や小松左京の『虚無回廊』も同様でした。しかし、何年も経ってからこうして「再会」できると、ちょっと嬉しい気持ちになります。
作品の基本構造は簡単です。妖しい事件の数々にいわば探偵役として空海が茫洋とした態度で立ち向かいますが、そこには必ず橘逸勢が寄り添っています。彼が、とんでもない事件やわけのわからない行動をする空海と読者の間に立って親切にも解説をしてくれるのです。ちょうど、ホームズにはワトソンが寄り添い、『
陰陽師 』で安倍晴明に源博雅が寄り添っていたように。そして、知的で博学でしかも神秘的な力も持つ空海が、快刀乱麻の大活躍……はしません。留学僧ですから、その分は守ろうとします。さらに、仏法と遊技楼への入り浸りを空海はどう両立させるのか……など下世話な話題も登場したところで、巻ノ二〜四をお楽しみに。
そうそう、話の内容とは全然関係ないのですが、作中に「空海が思いを書き留めようとするのに思考の速さに指が追いつかずもどかしい思いをするが、短く書き留めることができた瞬間、言葉が思考を越えたようで快感を感じる」という意味の描写があります。なんとなくわかる気がします。もどかしい思いも、そして快感の部分も。手書きよりも速くタイピングができるようになってから事態は改善しましたが(少なくとも、書いた後で自分の字が読めなくて困る、ということはなくなりましたから)、やはり思いを文字にするというのはもどかしくてそして面白い作業です。
ブラックバスの規制に関して、政府はなにやらどたばたしています。先々日は規制に関する議論を半年間先送りする、と言ったのに、先日はやっぱり規制しよう、となったようです。
釣り人の団体は「密放流は無い」と主張しているようですけど、だったらなんで日本のあちこちで次々ブラックバスが見つかるんでしょう? 生命の自然発生?(それはパスツールが否定しています) ちょっと苦しい言い訳では無いでしょうか。
人が交流すれば人以外のものも移動する、は天の摂理ですけど、だからといって自分の趣味のために大きな環境破壊をするのは、感心できません。
さらに、聞いたところでは、ブラックバスは「釣って食べる」のではなくて「ひきを楽しむ」「釣った後はまた放流(キャッチアンドリリース)する」んだそうですね。これって、魚の断末魔を楽しんだ上傷ついた魚を未治療で自然にポイ捨てする行為に私には見えます。自分が生きるために他の生命を頂く、これは生きていく以上仕方ない「業」と思いますが、苦しめるだけの行為を楽しみでやっちゃって良いんでしょうか。
ということで、私的には「ブラックバス釣り:個人の楽しみのために環境破壊と動物虐待を行なうこと」と定義づけています。
【ただいま読書中】
永野節雄著、学研、2003年、1600円(税別)
1950年6月25日朝鮮戦争勃発。同年7月8日、マッカーサー元帥は日本政府に対し、「75000人のナショナル・ポリス・リザーブ創設と、海上保安官8000人の増員を許可する」という文書を出します。「許可」とありますが、そんな要請を日本政府がしたことはないので要するに「命令」です。早速日本政府は隊員を募集しますが、予算も組織もなく、集まった隊員は3ヶ月給料支払いがなく、幹部が銀行から借金をして給料に充てた部隊もある、というドタバタもありました。
冷戦下でソ連の脅威を放置できず、日本国内には公然と北朝鮮を支持する朝鮮人が数十万人存在し、ロシア抑留で赤化した旧日本軍人部隊が北海道侵攻を狙っているなんて被害妄想的な噂さえ流れている状況で、占領軍が朝鮮半島に駆り出されてしまったために日本が軍事的な空白地になってしまい、その空白を取りあえず埋めるために治安維持を目的として自衛隊(の前身)が創設された、と言っても良いのでしょうが(だから、ポリスのリザーブと言うより米軍のリザーブと言った方が良いかもしれません)、それ以前から日本の再軍備をめぐっては陰で色々議論や準備が行なわれていたようです。
しかし、旧軍を連想させないために色々言い換えて、戦車も特車と言うとは……するとパトレイバーも警察のようで実は軍隊だったのか……
しかし、設立当初から、名目と実際、タテマエとホンネが複雑にしかも半ば公然と交錯していたのは、自衛隊にとっても日本にとっても良い事ではなかったとつくづく感じます。朝鮮戦争にも日本の掃海艇が参加して死者まで出ているのに「なかったこと」扱いですからねえ。
私は平和主義者ですが、だからといって無防備が良いとも思っていません。あまりに軍備が重いと国民の生活が圧迫されるから、ほどほどの所で手が打てないかと思います(そのほどほど加減を判断するのが、この本でも書かれている、本来の意味でのシビリアン・コントロールの一つの役目でしょう)。さらに、軍隊があるにしても、それは本来の意味での「自衛隊」であって欲しいものです。自分の国境内での防衛活動はするが、他国の国境内では軍事活動はしない(国連の指揮下は例外とする)、だったら問題ないと感じますが……こんなことを考えるのは、自称「平和主義者」としては問題かな?
広島都道府県対抗男子駅伝をTVでやっているのを本を読みながらぼんやり眺めていたら電話が鳴りました。「今、沿道で駅伝の応援をしているんだけど……」
TVの画面に目を凝らします。わかりません。観客もゼッケンつけて走ってくれたらわかるのかもしれませんけどね。
10年くらい前にマラソンの応援に行ったときのことを思い出しました。寒い中をずーっと待っていたら「選手が来ます」というアナウンスがあり、それからしばらくしてものすごい勢いで選手が数人目の前を通過して行きました。やはり目の前で見るのは迫力ですが、何が何だかわかりませんでしたっけ。
私は基本的に他人に対して「頑張れ」と言うのは嫌いですが(だって、すでに頑張っている人に「頑張れ」と言うのは失礼ですし、頑張っていない人に「頑張れ」と命令するほど私はエライ人間ではありませんし、そもそも「頑張れ」と他人が言おうと言うまいと頑張る人は頑張るし頑張らない人は頑張りませんし……)、走っている選手を応援する場合だけは「がんばれ〜」と言いたくなります。自分が走っていた頃もそう言われたら力がさらに出る気がしましたから。
【ただいま読書中】
『月刊アスキー 2005年2月号』
ASCII CORPORATION、特別定価890円(税込み)
この雑誌を定期購買するようになったのは……たしか1988年だったと思います。よくもまあ延々と買ってきたものです。読者プレゼントも2〜3回もらっているのでお金を全額会社につぎ込んだわけではありませんが、それでも総額はいくらになるでしょう。
昔は本当に知識の宝庫で、そのうち通信が一般的になると付属のCD-ROMに入っているオンラインソフトが魅力となり(ダイアルアップでソフトを落とすのは、ずいぶん時間と金がかかりましたから)、そして今は……今はなんで買っているんでしょうねえ。惰性かな。昨年末ころ「CD-ROMはもうつけない。オンラインソフトはネットで落としてね」と言って本当に1月号にはCD-ROMが付属していませんでしたが、なぜか今月号にはCD-ROMがついています。
しかし、ぱらぱらとめくってみたら、昔よりも紙面はカラフルで写真や文字の配置が自由自在ですが、厚みははるかに薄くなりましたね。巻末の広告がほとんどなくなった(昔はパソコン販売店の広告がいやというほど載っていました)のが大きいのでしょう。
私は雑誌は読んだら普通捨てるのですが、アスキーは10年に1冊くらいは保存することにしています。昔を振り返ると面白いことが多いですから。
ということでついでに本棚から発掘したのは……
1991年7月号です。裏表紙で宮沢りえが富士通のFMタウンズを宣伝しています。
中身を見ると……「夏の最新機種」特集のトップはNECのPC-H98model8/U8(8は5インチFDD二台モデル。3.5インチ二台はU8)。CPUが80486SX(20MHz)で、100MBの内蔵HDD付きのモデルが定価798,000円。当時のパソコンはほとんどが386でした(ちなみに私のマシンは286でした)から、「夢のマシン」でしたよねえ。
ちょうどあの頃はDOS/Vが登場して、それに対応するマシンが次々登場していた時代です。MS-DOSをいかに自分好みに調整するか「勉強」が必要で、パソコンを使うのに敷居が高い時代でしたっけ。いや、今は良い時代になったものです。安くて高性能で知識が少なくても取りあえずは参入可能ですから。ただ、あまりに無知・無防備なのはやはり危ないよ、と言いたくなるのは、年を取った証拠かしら。でも、ウイルスとか個人情報の管理とかに対してあまりに無頓着なのは、どこかでそのコストを支払わされると思うんですよ。本人だけではなくてその周辺も巻き込んでしまって。
ローンのことで問い合わせをしようと銀行に電話をしたときのことです。以前もらった名刺を見ながら「おかだと申しますが、お客様課の○○さんをお願いします」……口から出した瞬間、ものすごい違和感がありました。「お客様課」はたしかにその銀行の正式名称なのですからこちらもそのとおり言わないといけないのでしょうけれど、私の立場から言うと、自分で自分のことを「様」づけしたわけです。むう、私は自分のことを「様」づけで呼びたくはありません。私は「私のことをお客様とお呼び!」なんてキャラクターじゃないんですから。
そっけなく、「個人融資課」などではいけないのかなあ。
【ただいま読書中】
瀬名秀明編著、光文社、2004年、4700円(税別)
瀬名秀明と言ったら『パラサイト・イブ』と『BRAIN VALLEY』しか読んだことがありませんが、作家としていつの間にこんなにロボットに入れ込んでいたんでしょう? 本を持って驚きました。ぎっしり二段組で770ページ以上の重い本です。
1930年代までを第一章、あとは10年ごとに章を立て、各章毎に各年代のロボットに関する状況とロボットが登場する作品についての瀬名秀明のエッセー(力作揃いです)と、各年代のロボットが登場する短編を数編ずつ、最後にゲスト(?)のエッセーを並べて章を閉じるという構成になっています。フィクションとノンフィクションが入り交じる構成は、ロボットを論じるにはふさわしいと思えます。古代ギリシアの神話や古代中国の『列子』に残るように昔から人はロボットについて語っており、そして現代はそのロボットがただの夢物語から少しずつ現実のものとなってきている、すなわち「我々にとってのロボット」自体がフィクションとノンフィクションが入り交じったもの(実体としてのロボットであると同時に「生きた伝説」でもある存在)なのですから。
収録されたフィクションの最初の作品がアンブローズ・ビアスの『自動チェス人形』(1899)。思わず「懐かしーい」とつぶやいてしまいました。高校一年の英語の授業で彼の作品(の一部)がプリントで配られ、それがきっかけでビアスの作品を次々読んだことがあったのですが、その中にこの作品もあったはずです。同じ時期、現国の教師には安部公房を薦められて次々読んでいたので、(小学校の図書室で個人全集を読み続けたりしたのを除けば)意識的に「作者で読む」ことを始めた記念すべき時期でした。
あ、レスター・デル・リイの『愛しのヘレン』(1938)だ(私にとってはリイではなくてレイですけれど、この本の表記に従います)、アシモフの『うそつき』(1941)だ。星新一の『ボッコちゃん』(1958)に平井和正の『レオノーラ』(1962)もある。懐かしい作品がずらずら並んでいる目次を見ただけで瀬名秀明が好きになりました(私は単純なのです)。
ただ、もし私が組むとしたら、もちろん『ボッコちゃん』は入れますが、平井和正は『
エイトマン 』(原作者ですから)か『
サイボーグ・ブルース 』かな。石森章太郎の『
ロボット刑事 』も入れたいし、手塚治虫もアトムじゃなくて『
火の鳥 』(ロビタ)。コンピュータもロボットの亜種と考えるならハインラインの『
月は無慈悲な夜の女王 』や映画の『
2001年宇宙の旅 』も……となるから、分厚い本になるのでしょうね。アンソロジーの場合、編者が「何を選んだか」と同様に「何を候補としてその内のどれを落としたか」も重要な情報になりそうです。
今日の新聞に小さく「元校長有罪」という記事が載っていました。ある女性の顔だけをヌード写真に合成して配布するなどの嫌がらせをして名誉毀損の罪に問われた男性に対し、裁判官は「被害者が転居を繰り返した後もつけねらうなど、卑劣きわまりないが、社会的制裁を受けている」として執行猶予だそうです。
いつものように読み流そうとして、心が引っ掛かりました。
「社会的制裁を受けたからその分刑を斟酌しましょう」これは一見スジが通っている意見のようですけど、これはつまり、裁判官が自分以外の者によって下された罰を折り込んで量刑に関する自分の判断を加減している、と言うことです。司法の独立は、どこ? さらに、社会的制裁とは裁判によらない、つまりは法に基づかない私刑(リンチ)です。法治国家の司法官が、私刑を容認しても良いんでしょうか? むしろ、私刑を否定するのが法の立場だと私は考えているのですが……
それとも、元校長が懲戒免職になったことを指して「社会的制裁」と言っているのでしょうか? これは公務員法や民間の会社なら職務規程に明記された規定に基づく処置のはずです。つまりこちらは私刑ではありませんが……そもそも刑法に「公務員法違反で懲戒免職になった場合には、その分刑法の刑罰をディスカウントする」なんて規定がありましたっけ? というか、そういった二重に罰せられるリスクを承知して公務員は就職しているのではないでしょうか。おっと、それは民間の会社でも同じはず。
逆のことを考えてみましょう。たとえば私が何か犯罪を犯して「裁判で刑を受けたのだからすでに贖罪はきちんとすんだ。だから職務規程の懲戒免職は勘弁してくれ。せめて退職金をくれ〜」と言っても、たぶんその主張は通らないと思うんです。
……通るのかな?
【ただいま読書中】
『小型全国時刻表 2005年1月号』
交通新聞社、平成17年、定価500円(税込み)
時刻表は「調べる人」と「読む人」に分類できるんだそうです(あと、「使えない人」もいるかもしれませんけれど)。私はかつては「時刻表を読む人」でしたが、今ではすっかり縁が遠くなってしまいました。ネットで乗り換えの経路から到着予定時刻から経費まで全部さっと表示される時代ですからねえ。それでも時々は、必要もないのに時刻表を買ってしまいます。
学生の頃には帰省や旅行の費用を少しでも安く上げるために国鉄の大型時刻表と真剣ににらめっこしていました。ちょっと発想を変えるだけで同じ出発地と目的地でも運賃が安くあがるやり方を見つけたときは、嬉しかったなあ。ただ、その場合到着が遅くなることが多かったのが難点でしたけれど、学生は時間だけはたっぷり持っていましたから途中下車を多用してあちこち無目的にうろうろしましたっけ。
数字がびっしり詰まったページをめくると、なんとなくゆっくり時間が流れます。「あ、ここで降りたことがある」「こんな駅があったっけ?」場所によっては駅前の風景が目に浮かぶこともあります。それはきっと私の心の中にしか存在しない風景なのでしょうけれど。
長男の学校が入試の関係で休みだそうで、「友だちと『
カンフーハッスル 』を観に行く」と楽しそうでした。むう、最近まで「お父さん、映画に連れて行って」だったのに、父を捨てて友だちと行くのですか。
子どもだけ楽しいのは業腹です。しかも今日は世間一般での平日休日。
家内と出かけることにしました。20年連れ添っていても彼女は彼女、デートはデートです。『
北の零年 』にしようかと思いましたが長すぎて今日のスケジュールに合わないため『
ターミナル 』にしました。二人で映画に行くのは、昨年九月の『
Lovers 』以来です。傾向が全然違います。
支払いは、夫婦50割引があるので二人で2000円です。年を取るのはありがたいことです。シルバー割引が今から待ち遠しい思いです。
東欧の小国クラコウジアからJFK国際空港に降り立ったビクター(トム・ハンクス)。ところが入国審査の直前クーデターが勃発して祖国は「消滅」。パスポートは無効となり入国ができなくなる。といって帰「国」もできない。ターミナルビルから出られなくなったビクターはどうやって生き抜くか・誰と出会うか・そして彼がニューヨークに行く目的は……というお話です。
トム・ハンクスが全然東欧人に見えないのはご愛敬ですが、それはあまり問題ではありません。ここで描かれるのは実は人種の坩堝としての「アメリカ」ですから。
しかし、アメリア役のキャサリン・ゼタ=ジョーンズはきれいだなあ。顔もですが、立ち姿の美しさにはほれぼれします。彼女の「私は39歳よ」というセリフを聞いてトム・ハンクスが一瞬絶句するシーンは「巻き戻してもう一回」とリクエストしたくなりました。たしかに「その年」だけど実際にはずっと若く見える、という雰囲気を出していましたから。私が初めて彼女をスクリーンで見たのは……『
エントラップメント 』か『
ホーンティング 』だったと記憶していますが、あれからもう六年、演技は確実に上手くなってます。
上手くなったといったら、スピルバーグも上手くなりました。音楽(ジャズ)と光の使い方が格段に進歩しているように感じます。キューブリックが『
アイズ・ワイド・シャット 』で見せてくれた、室内の空気の粒子一粒一粒が光に染められているような美しく印象的な映像をその内見せてくれるのではないか、とちょっと期待しています。
ビクターがアメリアを招待した食事のシーンでは『
ニューヨークの恋人 』のディナーシーンを思い起こしていました。いや、共通点はカップルで室外で食事をしておまけに他人がちょこっと付いていることだけで、あとは全然違うんですけどね。
そしてラストシーン。
……あれで良いの? あっさり「家に帰る」って……ずっと何かを待っていたビクターですが、逆に、彼を待っているのは、誰? あるいは何?
映画の後図書館に行って本を借りてきたので【ただいま読書中】は今日はお休みです。
寒い中でも元気にちゅんちゅこちゅんちゅんと雀の群が飛び交っています。ちょっと時間があったのでぼーっと眺めていましたが、まあ忙しく動き回ること。建物の軒先に並んで留まっていたかと思うと一斉に地面に降りて、また突然飛び上がって今度はばらばらに散ったり。よくもまあ空中衝突をしないものです。
私にはそれぞれの個体識別はできませんが、それでも眺めていると個性があることはわかります。たとえば飛んだり着地するのにも上手下手があります。特に木の枝に留まるとき、一発でぴたっと着地を決めるのもいれば、微調整をしながらなんとか留まるのもいます。
……「鳥は自由に空が飛べて良いなあ」なんて気楽に言わない方が良いかもしれません。飛ぶのが下手な個体は、それなりに苦労しているのでしょうから。
【ただいま読書中】
マイク・カージェス(withジョー・ライデン)著、武者圭子訳、講談社、2004年、1800円(税別)
*原題 A Smile as Big as the Moon
*タイトルの「瞬間」には「とき」とルビが振ってあります。
1987年、アメリカにはスペースキャンプという子供向けのプログラムがありました。5日間にわたってNASAの施設を使って宇宙飛行士の訓練を実際に体験したりスペースシャトルを使った模擬飛行訓練を行なうというもので、全米でも優秀な高校生(飛び級をしたり数学オリンピックに出場したりするような生徒たち)がチームを組んでお互いに競い合うものでした(日本でも、北九州のスペースワールドや種子島でスペースキャンプが行なわれていますが、こちらは小中学生向けの内容のようです)。たしかこのスペースキャンプを舞台にした映画もあったはずです。
ミシガン州フォレストヒルズ北高校で障害児学級を担当する教師マイク・カージェスは、自分が担当する(ダウン症、トゥーレット症候群、ADHD、被虐待などでの学習障害を持つ)生徒たちがスペースキャンプに参加できたらどんなに素晴らしいか、これは生徒たちにとっても地域にとってもやりがいのあるチャレンジだ、と考えます。
そこからマイク・カージェスの「戦い」が始まります。「敵」は官僚機構、校長・学区の障害児教育指導員、世間の偏見、そして生徒たち。ところが「味方」も次々登場します。同僚の教師、教育長、地元の有力者、国会議員、そして生徒たち。「戦い」の過程を率直に、いや、率直すぎる筆致で著者は描きます。時には「これは阿漕な手段ではないか。自分は他の人の心を傷つけていないか」と自省しながら、それでも著者は周りの人を巻き込みながら進み続けます。
原題を見たら(そして、現在は障害児向けのプログラムがスペースキャンプに存在することから)この本の結末は読めます。だけど、それは実は一番重要なことではありません。
障害者を公然と侮辱したり挑発したりいじめたりする「健常者」と、それに対して(以前はすぐにキれていたのが)自制して「大人の対応」をしようとする「障害者」を対比して「どちらが人として『正常』なの?」と著者が感想を持つシーンは印象的です。さらに、成長して親離れを示す生徒たちに頼もしい思いをした著者が、後にトラブルが生じたとき「(解決は自分たちでやるから)先生はいらない」と生徒に先生離れをされてしまい、寂しさに心が締めつけられて奥さんに愚痴をこぼすシーンには、こちらは泣き笑いをするしかありません。
スペースキャンプで生徒たちは「特別な優遇処置」は受けません。もちろん教師は準備のために学校で各個人の特性に合わせてきめ細かい配慮はしますが、それは教育の現場では本来そうあるべき姿でしょう。たとえば教育や医療など「人」を対象とする分野では、最初から十把一絡げでは良い効果が出るとは思えませんから。
必要なのは逆差別ではなくて、それぞれの個人に合わせての機会の均等です。個人の特性に合わせてしっかり準備した障害を持つ生徒たちは、スペースキャンプでは教師から離れて生徒たちだけのチームで他のチームと対等に課題に立ち向かい、そしてその結果は……
ゴルフでは弱者を有利にして強者と対等に勝負できるようにハンディキャップがつけられます。それは弱者を憐れむためでも無理に勝たせるためでもなくて、両者が最善の努力をしたとき対等の勝負ができるようにするためです。競馬のハンディキャップレースでは、速い馬にハンディをつけて不利にします。これも目的はゴルフと同じです。囲碁将棋でも強者と弱者が対等に勝負できるように置き石や駒落ちが行なわれます。
ところが人間社会でのバリアや障害者のハンディキャップは、弱者が不利になるようにつけられています。
……どこか変じゃない? それとも「ハンディキャップ」に対する私の理解が変?
最近、私の目覚めと日の出のタイミングとが上手く合ってくれて、天気が良ければきれいな日の出が拝めるようになりました。遠くに連なる山と空を少しずつ明るく染めながら昇る朝日を眺めると、『
枕草子 』の冒頭を唱えたくなります。「春は曙、やうやう白くなりゆく山際少し明かりて……」自分が見ている風景にはぴったりの表現です(厳密にはまだ「春」ではありませんが、私は少々の「誤差」には目をつぶります)。古の清少納言と同じ感覚を共有しているようで嬉しいような自分の感覚が古くて残念なような……
ただ、そのフレーズの続きを覚えていません。高校の古文でしっかり読んだはずなのに。しかたないのでネットで調べたら……「紫立ちたる雲の細くたなびきたる」ですか。すっかり忘れていました。続けて読むと……秋の所はカラスですか。あはれですか。私が見る、夕暮れ時に鳴き交わしながらねぐらにしている山目指して三々五々飛んで行く姿はそれなりに絵にはなっているとは思いますが、鳴き声には迫力があるしゴミは散らかすし、やはりカラスそのものにそれほど風情は感じません。
平安時代のカラスは、今よりもっとおしとやかだったのかな?
【ただいま読書中】
今泉忠明著、東京堂出版、2004年、1700円(税別)
生活圏が人間とオーバーラップしていて我々には実に身近な動物ですが、著者は「カラスが野生動物であることを忘れるな」と何度も繰り返します。
カラスのトリビアがたくさん書かれています。いくつかを紹介すると……
カラスは本来雑食性ですが、「肉食の度合いが高い雑食性」になってきているそうです。2003年の調査では、東京のカラスは肉やケーキが好き、野菜は嫌い、という結果が出ていますが……これはカラスの文明化? なんだかそのうちに生活習慣病が大量発症しそうな気もするのですが……って、まるで人間のお話ですね。ただ、激辛が大の苦手、というのは、私個人としては親近感を抱いてしまいますけれど。
カラスは道具を使います。クルミや貝を割るのに車道に置いて車に轢かせたり、アフリカではダチョウの卵を割るのに石をぶつけたり。「道具を使うこと」が「文化を持っていること」の証拠だとすると、カラスは文化を持っていることになります。
そうそう、カラスは実は鳥目ではありません。夜脅かされるとみんなで騒ぎながら平気で飛び回ってまたねぐらに入ります。(それを言うなら鶏も実は夜目が利くそうです)
カラスにも縄張りがあり、それを侵害されたら怒ります。もしカラスに威嚇されたらどうするか。著者が勧めるのは、闘うことです。それができないのなら、目を外さないようにしながらゆっくり逃げて縄張りから遠ざかる。闘うのも逃げるのもイヤなら、最初からカラスがいるところには近づかない。ぴーぴーきゃあきゃあ騒ぐのが最悪で、カラスに「人間は弱い」と学習させるだけだから、そんなことはするな、とのことです。野生動物にそんなことを教え込んだら、次にそのカラスと出会った他の人が迷惑しますから。
カラスを食べる話も出てきます。肉をたくさん食べるカラスは不味いそうですが、自然の雑食のカラスはそれなりに美味いそうです。ただ、家畜にするのは難しそうです。健康なカラスを育てるには広い場所が必要で大量飼育が困難ですし、苦労の割には取れる肉は少ないのですから。
上京したとき朝早く歩いていたら、道路上にけっこうカラスがいるのに驚いたことがあります。著者に言わせると、「都会でカラスが増えたのは、人間がだらしなくゴミを大量に出したから」だそうで、結局カラスではなくて人間の責任のようです。街といっても自然環境の一部なんですね。
NHKの前会長が、会長を辞任して翌日顧問に就任して、で批判が集中したために顧問もあっさり辞任ですか。
……ちょっと待って。「批判が集中した」から辞任するということは批判がなかったらやめなかった、ということ? なぜ「会長を辞めろ」という声が大きかったのか、が理解できていなかった?
子ども会の活動などでいろんな子どもたちと話をしていて、「怒られたからやめよう」「見つかったから駄目だ」などという言葉を聞いてどきりとすることがあります。「怒られても怒られなくても、駄目なものは駄目、やってはいけないことはやってはいけないことだよ」と言うのですが、さて、どこまで通じていることやら。
自分の中にある善悪の基準に従って行動するように躾けないと、「自分で判断せずに他人の顔色をうかがうだけの人間」「悪いことを平気でするが、見つからないことに頑張る人間」が増えるだけじゃないかしら。
【ただいま読書中】
NHK報道局「カルロ・ウルバニ」取材班、日本放送出版協会(NHK出版)、2004年、1200円(税別)
2003年2月23日、後にインデックス・ケース(最初の患者)と呼ばれることになる中国系アメリカ人が香港からベトナムに向かう飛行機に乗っていました。彼は微熱がありましたが翌日から急に調子が悪くなり、2月26日にハノイ・フレンチ病院に肺炎で入院、5日後には人工呼吸器が必要なほど状態が悪くなっていました。カルロ・ウルバニに病院から連絡が入ったのはその翌日のことです。
国境無き医師団イタリア支部長カルロ・ウルバニはその3年前ハノイのWHO事務所で感染症対策の仕事を始めていました。ウルバニは一目見るなり、何が原因かは特定できないがとにかく何か大変なことが起きていることを見て取り、検査と共に感染経路の調査を始めます。しかし明確なデータは出ず、患者の様態は悪化の一途。そして、フレンチ病院のスタッフが次々倒れ始めます。ベトナムにおけるSARSのアウトブレイクの瞬間でした。
正直言って、私は今怒っています。
病院のスタッフの半分が倒れたのに事態の重要性を認識せずにウルバニの進言をことごとく拒絶して「とにかく頑張れ」しか言わない管理職に対して。
きっとインフルエンザなんだから心配ない、大騒ぎになったら観光や経済に悪影響が出る、と言い張って、WHOに援助を求めようとしなかったベトナム政府の官僚に対して。
ベトナムの前に広東省で発生していた新型肺炎の情報を隠蔽し、やっとそれを公表してもこんどは北京での発生情報を隠蔽した中国政府に対して。
情報隠蔽が感染を広げる、ということを学んだはずなのにSARSから1年後、鳥インフルエンザの発生を3ヶ月隠して人への感染を許していたタイ政府に対して。
ついでに過去にも遡って怒りましょう。狂牛病への対応がお粗末で、牛にも人へも病気を広げたイギリスの保健省に対してと、血液製剤によるAIDSへの対応がお粗末だった日本の厚生省にも。
さらについでだ。当時の報道についても怒りたくなりましたが、出版社の性格のためか、この本ではマスコミについての論及はありません。
カルロ・ウルバニが発し続けたメールがWHOが最初の1ヶ月に入手できた唯一のまともなデータでした。そして彼が最初から行なった「感染者との接触者をチェックし、そういった人が高熱を発したら即座に隔離する」という処置は全世界での対応スタンダードになります。世界が彼にもっと早く耳を傾けていたら……世界29の国と地域で感染者8096人(死者774人)という数字はもっと小さくできたはずです。いや、カルロ・ウルバニの活動があったからこそこの数字ですんだ、と言った方が良いのかもしれません。
本当はデスクに坐って、現場から上がる数字をいじって政府とWHOとの交渉をしているのが本来の仕事だったはずなのに、カルロ・ウルバニはフレンチ病院に入り浸ります。現場から情報を発信し、次々倒れるスタッフを励まし精神的支柱となり、そして最後には自分も感染して死にます。「休み明けにはきっとすべて解決してるよ。話は来週」とカルロ・ウルバニに非協力的だった人は、生きています。
おっと、カルロ・ウルバニを「聖人」とか「殉教者」にしてはいけません。そんなレッテルを貼ってわかったような気になっていたら、また似た状況で同じような悲劇が繰り返されるだけですから。
ニコール・キッドマン主演の映画が来週公開、との宣伝を眺めていたらタイトルが「
ステップフォード・ワイフ 」。またいつもの芸のない英語→カタカナの置き換えタイトルか、と思っていたら原題は「The Stepford Wives」……ちょっと待って。ストーリーは知らないから確言はできませんが、「ワイフ」と「Wives」ではタイトルが意味する内容が違ってこないの?
「指輪物語」で良いのに「
ロード・オブ・ザ・リング 」として公開された映画は、本来のタイトル「The Lord of the Rings」から最後の「s」を落として単数形にすることでまったく意味が異なってしまいました。「すべての指輪を統べるもの」→「(特定の)指輪のご主人様」なんですから。私は(映画そのものは大好きなのですが)このタイトルに対しては不支持派です。
原題をそのままカタカナ読みするのは、ずぼらで芸がないので私はあまり好きではありませんが、日本語になじまないものもあるでしょうし人間のアイデアに限りがある以上しかたない面もあるでしょう。でも、勝手に言い換えてもともとの意味を変えてはしまってはいけないでしょう。「the」を落とすのは日本語としては容認しますが、「s」を落とすのは私は軽々しく認める気にはなりません。
そうそう、「the」を残して失敗した例もありましたね。「The Internet」を「
ザ・インターネット 」とした映画です。
【ただいま読書中】
睡眠文化研究所・吉田集而編、冬青社、2003年、1800円
この本を見つけた瞬間「衣かたしきひとりかも寝む」というフレーズが頭に浮かびました。衣を脱いでそれにくるまって一人寂しく寝ている情景、と授業で習った覚えがありますが……上の句が出てきません。きっとこの本の中に出てくるに違いない、と読むことにしました。そういえば枕草子にも衣にくるまって寝る、という描写があった覚えがありますが、こちらは男女で、じゃなかったかなあ(記憶の捏造、または男子高校生の妄想だったかもしれません)。
「ねむり衣(ぎ)」とは聞き慣れない言葉ですが、「寝間着」「パジャマ」などは一般名詞として使われるが本来は特定のモノを指す名詞のため、わざわざ「人が眠るときに着る衣服」という意味の名称を作ったそうです。実際、アンケートで「パジャマで寝る」と答える人が詳しく聞くとたとえば「Tシャツと短パン」で寝ていることは珍しいことではないそうな。
ところが実際に何をねむり衣とするかを論じようとすると、地域差が大きく(日本ではパジャマとスポーツカジュアル(短パンTシャツあるいはジャージ)がほぼ半分ずつ、フランスだとパジャマの次が裸、韓国だとロングTシャツが第一位)、時代によっても変化し(日本ではネグリジェは戦後登場ししばらく売れていたが20年くらい前から売れなくなり宣伝も激減している)、身分による差もあり(鎌倉時代、身分の高い人は下着(小袖)になって直垂フスマ(掛け布団の前身)を掛けて寝るが、そのお付きは着の身着のまま横になる(「着所寝(きどころね)」と言ったそうです)習慣でした)、さらに話がプライベート領域のために公式の証拠がたくさんは残っていないため調査が難しい、ということで著者たちは悩みながら調査と考察を進めます。
そうそう、ベトナム戦争の時ベトコンを「パジャマを着たゲリラ」と表現したのを読んだ覚えがありますが、実はこれは正しいようです。パジャマは元々インドを中心に着られていた服が1880年代にイギリス経由でヨーロッパにねむり衣として広まったものだそうです。キモノもナイトガウンやねむり衣として欧米で広まりましたし、「よその国の変てこだけど快適な服」はまずプライベート領域で試されて拡がっていくものなのかもしれません。
また、女性解放運動の一環として服装の自由化運動(男はズボン・女はスカート、と決められていたのをひっくり返そうとした)が行なわれましたが、その前段階として女性がパジャマを着る(寝室でズボンを履く)ようになった、というのも面白い話です。これまたまずプライベートで試してみる、ということなんですね。