2005年6月
秘密 憂愁
心誌
悪徳 愚息
思慮 愚慮 念慮
懸念
急患 応急
穏忍
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懇意
慈悲 悲恋
恋愛 慈愛
意志 意思 思想 思念
思惑
慶應
忠志 忠愛
慈恵 忠恕
慫慂
愛慾 獰悪
慇懃
忘恩 忿怒 憂悶 慙恚
寧謐
感想 感応
総意 恣意
聡慧
臆想
憶念
憩息
懇志
優優
悠悠
【ただいま読書中】
朝日新聞社編、三省堂、1985年、1500円(税別)
朝日新聞に連載された「ヘリの目」という写真コラムをまとめた本です。普段私たちの目には見えない不思議なものをヘリの上から見つけて、「これは一体何だ?」と取材に出かけていますが、写真と短い文章から楽しんでいる雰囲気が伝わってきます。
そうですよね、疑問を抱きそれを解明するために地道に取材をする、これがマスコミの本来の姿だったはず。今のメディアスクラムなんぞをやっている人達は基本に帰った方が良いんじゃないかなあ。
それはともかく、自然の不思議な造形、人が作った不思議な造形、そして自然と人とが協力して作った不思議な形……何も考えずにページをめくるだけでも楽しめます。普段自分は上からは見ていないんだよなあ、とあらためて当たり前のことを思いながら空を見上げてしまいました。今私がいる「ここ」は、空から見たらどんな風に見えるんでしょうか?
20年前の本ですから「産業ニューフェース」の項なんか、これのどこが「ニュー」?と思ってしまいますし、新宿の写真では「青梅街道はビルのトンネル」とありますが、今ではもっと凄いことになってますよね。視点の空間移動だけではなくて時間移動も味わえる点で、お得な本です。
今年3月でフォーラムは終了、5月末でPATIOが終了。一日で未読が100とか200とかあったのが、一挙にすべてなくなってしまいました。
ということで、6月に入って、困っています。これまでなら朝飯前に@niftyにつないでAirCraftで@niftyのログを自動で取得、ざっと読んでレス(これはもう死語か?)を考えながら朝飯を食べる、という流れだったのですが、今度はmixiにつなげばいいのでしょうか。一々クリックするのはめんどくさいんですよぉ。CMNにplug-inを入れたらある程度mixiの自動取得ができるとは聞いたのですが……あ、CMNはインストールしたままハードディスクの肥やしになってました。ちょっと起こしてみようかしら。全自動運転ソフトですから、これまでと似た感覚で使えればいいのですが。
AirCraftを捨てるのだから気分一新ついでに、ということで、ブラウザのFireFoxを試してみることにしました。をを、Operaより軽快です。マウスジェスチャーが無いから不便だと思ったら(タブの前後移動にしか使ってないですけど)……plug-inであっさり解決です。右クリックをしながらマウスを動かすと画面に赤い線がずりずり引かれるのを見ると、いろいろ悪戯書きをしたくなります。新しいタブではなくて新しいウインドウを作りたがる癖は……どこか設定をいじれば良いんでしょうね。
ならばメーラーもThunderbirdに……あら、上手く設定できません。サーバーでパスワードがはじかれます……が、1時間に一通くらいちゃんとメールを取ってきます。何が起きているんだろう? 不気味だけど面白い現象です。しかたない。Operaはメーラーとしてとりあえず残すことにします。近い将来WIN-XPの再インストールが必要そうな予感がひしひしとしますので、再トライはそれ以降かな。
@niftyがTTYから撤退するのならこちらも@niftyからは撤退だと、3月に@niftyのIDを一つ返しましたが、もうすぐファミリーアカウント二つも契約を解除します。最後に残ったメインIDはどうしようかなあ。一番安い契約にしてメールのためにだけ維持するか、MLを全部別のアカウントに変更してあっさり@niftyとは縁を切るか……ちょっと迷っています。@niftyのおかげで、正確にはNifty-serveのおかげで私の人生は大きく変わってそのことには感謝してますし、思い入れのあるIDなので、さっさとは捨てづらいのです。
【ただいま読書中】
河村錠一郎著、音楽之友社、1987年、1800円(税別)
音楽に関わった美術における「愛と死と永遠の女性」をテーマに書かれた本です。ただしはじめに次々取りあげられる画家たちが、ファンタン・ラトゥール、ベックリーン、オーブリー・ビアズリー、ハリー・クラークと私は知らない人ばかり。共通の要素としてワーグナーが必ず登場するのでなんとか読みますが……でも私はワーグナーと言ったら映画の「
ルートヴィヒ/神々の黄昏 」(ヴィスコンティ監督)や「
地獄の黙示録 」(フランシス・コッポラ監督)を連想するし、ブリュンヒルデと言ったら「
オーバーマン キングゲイナー 」を連想する俗物です。「ルネサンス期の絵画では、五感の中でも視覚と聴覚に優越性が……」なんていわれてもちんぷんかんぷんなのです。後半に入ってストラヴィンスキーが出てきてやっと知った名前に出会ってほっとする程度なのです。
しかし著者は俗物にも優しく記述してくれます。決してワーグナーべったりというわけではなくてむしろある程度突き放しています。たとえば長々と引用されているドビュッシーの言葉。
「なんだって! きみたちには分からないのか。そりゃあ彼の力は恐るべきものさ。でも、その力にもかかわらずワーグナーが音楽を迷わせたやり方ときたら、不毛で害に満ちたものだ。ワーグナーはベートーヴェンから恐ろしい遺産を引きついだ。すでにベートーヴェンにとって展開の技は繰り返しだった。同じモティーフを何度も何度も反復することだ。
中略
ワーグナーはこのやり方をカリカチュアといえるほど強調した。ぼくはライトモティーフが大嫌いだ──仮に彼が悪用せず、ひたすら趣味のいい、分別のある使い方をしたとしてもだ。一つの作品で一つの同じ情緒を二度表現できるなんて考えられるか。思考が不足しているか、怠慢のどっちかだよ」
ドビュッシーの言葉はまだまだ続くのですが……なんとも辛辣ですね。ただ、私はある程度この言葉に頷いてしまいます。誰が言ったのだったか「バッハは『机の上に紙と鉛筆がある。さあ、何を書こうか』だが、ベートーヴェンは『机の上に紙と鉛筆がある。机の上に鉛筆と紙がある。紙と鉛筆が机の上にある。この机の上に……』だ」という言葉を聞いて深く頷いたこともあります。あ、バッハじゃなくてモーツアルトだったかもしれませんが、言葉のキモがベートーヴェンに対する批判であることは同じです。
ベートーヴェンのファンには腹立たしいことでしょうが、「欠点」を指摘して全否定するのではなくて、作曲家の特徴を描写してから好き嫌いを述べるのはOKだと私は思ってます。ですから、特徴を正確に捉えて描写してあるのなら、とりあえずそこまでは認めて良いんじゃないでしょうか。私自身ベートーヴェンでも好きな曲はありますし、パターンの繰り返しにはまる快感(たとえばボレロ)もわかりますから、ここではどっちつかずの態度を取ります。
そうそう、「ヒットラーのお気に入り」だったフルトヴェングラーが、ワーグナーを盛んに指揮する一方で、ナチスに迫害されていた芸術家たちを擁護する意見を新聞に発表したり彼らの作品をベルリン・フィルのコンサートで演奏していた、というのには瞠目しました。ナチスの支配下で、普通の勇気ではできないことでしょう。
蜜と花粉を集めるのにお忙しいのはわかるのですが、ちょっとだけ、一秒で良いから画面中央に止まってくださいませんか? 駄目?
昆虫をアップで撮るプロの写真家のすごさをちょっと味わいました。
【ただいま読書中】
四宮啓・西村健・工藤美香 著、花伝社、2005年、800円(税別)
2001年から司法改革が始まりましたが、2009年までには裁判員の制度が始まります。もしかしたら、私もあなたも、地方裁判所から「あなたは裁判員に選ばれました」という呼び出しがかかるかもしれません。心の準備はできていますか?
制度はこうなります。まず選挙人名簿からくじで裁判員候予定名簿が作られます。名簿は地方裁判所に送られ、そこからさらにくじで候補者名簿が作られ、候補者には通知が行なわれます。そこで裁判員を辞退するべき理由(家族の介護で家を離れられない・禁固刑以上の刑を受けたことがある・心身の故障がある、など)がある人は名簿から除外されます。ここまでは年に一回の手続きです。さて、事件があれば、上記の候補者名簿からくじで候補者が選ばれて裁判所に集まります。集まった中から六名(事件によっては四名)+予備の補充裁判員が選任されて、裁判に参加することになります。
事件は基本的に重大な刑事事件(殺人など)です。裁判員の役目は、証拠や証言を吟味して被告が有罪か無罪かを決定し、有罪なら量刑を決定することです。六名の裁判員と三名の裁判官がその過程に参加し、決定はすべて全会一致です。
証拠は検察や弁護士が提示します。裁判員が証拠を集める必要はありません。法律的な知識は裁判官からアドバイスがもらえます。裁判員に必要なのは「常識」です。それと、本書には書かれていませんが、社会正義に関連した「倫理観」でしょう。
なぜ「素人」が裁判に参加しなくちゃいけないのか。本書には「国民主権だから」と書かれています。しかし私は、「社会に根ざした常識を裁判に持ち込むため」とも思っています。こう言ったら単純化しすぎかもしれませんが、法律の勉強だけをして大学を卒業して司法修習をして司法の世界に入った人間は、六法全書の中身と過去の判例には詳しいでしょうが「社会」をどのくらい知っているでしょうか。(実際、過去に会ったことのある司法修習生が「これまで勉強ばかりでろくに遊んだことがない。パチンコも麻雀もどんなものか知らない」と言ってました。パチンコも麻雀も社会人の必須科目ではありませんから別に知らなくてもかまいませんが、遊びという形で社会とかかわったことのない人が社会を裁くことになるのはちと危ういのではないかと私は思いました) だからこそ「素人」が参入して常識的判断をする意味があるのでしょう。
ただ「常識」と言っても難しいですね。「私の常識はあなたの非常識」かもしれませんから。そういえば大学入学のオリエンテーションである教授が「私は君たちに常識は期待しない。常識は当然あるものだと思っているから。私が君たちに期待するのは良識だ」と言ってくれて、私は「げげ、良識と常識はどう違うんだ? そもそも俺に常識は備わっているのか? げげ」と悩んでしまいましたっけ。
裁判員制度を見ていて私が連想したのは、医学の世界のインフォームド・コンセントです。かつての裁判と同じく医学も専門家である医者が判断して素人はそれに黙って従うシステムでした。しかしインフォームド・コンセントでは、裁判員制度と同じく、証拠や専門的知識は専門家が提供しますが、決定は全会一致です。裁判だったら裁判官と裁判員、インフォームド・コンセントだったら医者と患者(と家族)(と、セカンドオピニオンで他の医者)。全員が納得したところで決定を下します。さて、私たちはこれからこういった決定を下すために、常識(と良識と倫理観)をしっかり持っていなければならないわけですが……あと、決定の結果を受け入れる覚悟も……さて、私にはどのくらいできるかなあ。
中世のヨーロッパでは、学生はまず哲学を学んだ後で大学に入り専門科目の神学/医学/法学のどれかを学びました。逆に言えばそれ以外の職業は高等教育ではなくて徒弟制度でたたき込めるものだったわけです(教職も専門職と思いますが、大学で学んだ人の中で教える側に回る人がいたのでしょう。当時の「大学」は私塾の集合体でしたから)。その三つの「専門職」の内二つが「素人」の参入によって新しい形になろうとしています。新しい善い時代が始まろうとしている、とも言えますが、専門家にとっても素人にとっても厳しい時代が始まろうとしている、とも言えるでしょう。(少なくとも私は、感情ではなくて法理に基づいて他人に刑罰を科すことができるかどうか、自信がありません)
戦い敗れ城が落ちたら誰かが責任を取って腹を切ります。それを見て勝った方は「じゃあこれで許してやろう」と言います。19世紀型の戦争では○○半島とか××地方を割譲したらそれで許してもらえたでしょうが、無併合・無賠償が原則の第二次世界大戦では、誰が責任をどう取りその後国の体制がどうなるかが重要でした。
イタリアではムッソリーニが責任を取って殺され、イタリア人は内戦状態でファシスト党とナチス軍を相手に国民が大量の血を流すことで連合国に認められました。ドイツは、ナチスが全責任を取る立場になりました。本当に戦争責任を追及したらキリがないでしょうから、そこでとりあえず手を打つことになったわけです。
では、日本は? 責任を問われるべきは立場上天皇でしょうが、日米とも天皇の戦争責任を追及する気はありませんでした。でも誰かが腹を切らなきゃ収まりません。そこでA級戦犯(平和に対する罪)が登場します。はっきり言って、東京裁判の手続きが公正か、A級戦犯が本当に「悪い」人間か、は実はあまり重要なことではありません。「A級戦犯が存在しなければならない」ことが一番重要だったのです。天皇は自身で責任を負いたい(腹を切りたい)と言われたらしいのですが、その真実性は私にはわかりません。ともかく誰に腹を切らせるかは、結局日米の阿吽の呼吸で決まってしまって、そこに天皇が関与する余地はなかったはずです。自分の意見が全然反映されない「責任者」が、本当に「責任者」か、とも思いますけどね。
【ただいま読書中】
内藤陽介著、日本郵趣出版、1996年、1166円(税別)
「終戦とはいつか」という問いかけから本書は始まります。日本の「常識」では昭和20年8月15日でしょう(最近若い人の間では常識かどうかも危うくなってはいるようですが)。しかし、降伏文書に調印したのは9月2日です。満州や樺太などでソ連と戦っていた(追撃されていた)人達にとっては、日本帰国の日が終戦の日でしょう。『
ビルマの竪琴 』では……横井さんや小野田さん(さらに最近ニュースになったフィリピンの残留兵士たち)にとっては……ブラジルでの勝ち組と負け組は……明確に「○月○日が終戦の日」と断言するのは、実は難しいことではないか、という問題意識と当時の郵便物を実証的に検証する切り口で書かれたのが本書です。何かを論じるときに大切なのは、立場と問題意識と切り口です。その点で、「ただ単に「日本軍国主義」を非難するだけだったり、逆に、開き直って「東京裁判史観」を攻撃したりするだけでは説得力はない」という著者のことばに私は共感を覚えます。
敗戦前に発行が計画されていた「敵国降伏」の額や戦闘機飛燕がデザインされた切手を終戦後発行してもGHQが看過したので、通信院は1946年3月、これも敗戦前に製造されていた靖国神社の大鳥居の1円切手を発行します。逆鱗に触れました。結局1946年夏に軍国主義的な切手はすべて「追放」されます。切手に関してはその時戦争が終わったのでした。
戦犯にとっての終戦は、ずいぶん遅いものでした。フィリピンに収監されたB級戦犯は、1951年にもまだ死刑が執行されていました。サンフランシスコ講和条約調印は1951年9月、その頃日本に送られた戦犯の手紙は、外務省の担当者などに託されて日本に持ち込まれ国内の郵便料金は復員局が負担して郵送されています。特赦によってフィリピンから戦犯死刑囚が帰国できたのは1953年末。巣鴨プリズン(サンフランシスコ条約以後は巣鴨刑務所)から最後のA級戦犯が出所したのが1956年、最後のBC戦犯が出所したのが1958年でした。私はもうこの世に存在していた時代です。
サハリン棄民(樺太の炭坑で働いていた朝鮮人労働者が、終戦後日本に「引き揚げ」できず(引き揚げ対象者は「日本人」だけだった)そのまま残留させられた)が1950年にサハリンから故郷に出した手紙のカバーも悲しいものです。ちょうど朝鮮戦争。郵便は届かず返送されてしまったのでした。
沖縄にとっての戦争終結は、1945年6月23日です。しかし、そこからアメリカ統治下に入り(切手も日本とは別のものです)、とりあえず戦後と言えるようになったのは統治権が日本に返還された1972年5月からでしょうが、巨大な米軍基地がある限り、沖縄の戦争は終わったとは言えないのでしょう。
そして、朝鮮、台湾の終戦は……
そして、1994年の原爆切手。
本当の終戦はいつだったのでしょう? それとも……まだ、終わっていない?
古代中国人はなかなかシニカルに人間を分類してくれます。たとえば「上農は草を見ずに取り、中農は草を見て取り、下農は草を見ても取らない」とか。こんなことを言われたら「すみませんすみません、私は草を見てもなかなか取りませんし、取る場合でも取り残しがたっぷりです」とひたすら謝りたくなります。あるいは「下医は病を治す。中医は人を治す。上医は国を治す」というまっとうなことばがありますがそれと同時に「中医にかかるのは、医者にかからないのと同じ」というのもあります。これは解説が必要ですね。後者の中医ははじめに紹介した上中下の医者とは別の分類をされていて、病気そのものに対処したときの腕の上中下です。そして「下医はヤブだから患者を殺す。上医は名医だから治す。中医は自然経過と同じ」がそのココロです。
【ただいま読書中】
サイモン・クーパー著、白水社、2005年、2300円(税別)
オランダと言って私が思い起こすのは、出島、チューリップ、運河、自転車、飾り窓の女、安楽死、アンネ・フランク、サッカー(クライフというとんでもない名選手がいました)……
ドイツ占領下のオランダでは「善い」(ドイツに抵抗する)か「悪い」(ドイツに協力する)かの行為が行なわれていました。ナチスに対するレジスタンスやアンネ・フランクを匿うのは前者、ユダヤ人の虐殺やアンネ・フランクの密告は後者です。戦後神話でオランダ人は自分たちのことを「善い」側であると思うようになりましたが、本当にオランダ人は「善い」国民だったのか、それを著者は明らかにしたいと思います。ただし、実体を単純に暴くのではなくて(すでにオランダが実はそれほど「善い」国ではなかったことを明らかにした先行研究はいくつもありますから)、それを明らかにした上で、自分たちは「善かった」という神話を強く信じている国は他にもあるはずだから、世界に広く知らせたいと思ったのです。それと同時に、著者はフットボール(サッカー)に非常に興味があり、ドイツがソ連侵攻を始めた当日、ベルリンでフットボールのリーグ最終節の試合に9万人の観衆が集まっていた事実にも注目し、オランダに限らず欧州全体のフットボールを通してもう一つの第二次世界大戦史を書こうとします。
ヒットラーのスポーツ外交は巧妙でした。ベルリン・オリンピックやフットボールの国際試合ではドイツチームは「フェアプレー」を行ないました。ナチスには国民の志気を高めるために勝利も必要でしたがそれと共に諸国との友好も必要だったのです、戦争の準備ができるまでは。戦争が始まったあとも占領下の国では同様にスポーツを娯楽と統制の道具として使おうとしました。ヒットラーにとって、スポーツが戦前と同様に行なわれていることは、国民に安心感を与えるものに見えたのです。古代ローマの「パンと娯楽」をヒットラーも行なって国民の不満が自分に向かないように気を使っていたのでした。
ノルウェーではスポーツ相とクラブの責任者をすべてナチスよりの人間に置き換えました。するとスポーツ・ストライキが起きます。ストライキは結局ノルウェー解放まで続きさらにレジスタンスの盛り上げにもつながりました。
イタリアでもフットボールはさかんに行なわれていました。しかしユダヤ人の虐殺にはイタリア人はのらりくらりと抵抗し、ドイツは直接イタリアを占領して10%のユダヤ人を収容所に送るのがやっとでした。
デンマークでは国王が「(ユダヤ人の印の)星が導入されたら、私が真っ先にその星をつけよう」と宣言しました。国民もユダヤ人狩りにはまったく協力せず、結局ドイツから直属部隊が送り込まれて、全国7800人のユダヤ人の内477人をやっと逮捕しました(残りのほとんどはデンマーク人の協力でスウェーデンに脱出。逮捕されて収容所に送られた人も行き先を絶滅収容所から変更されたため内50人が死亡しただけ)。
ではオランダは。戦前に14万人いたユダヤ人の10万人(以上)が収容所で死亡しています。ユダヤ人死亡率がトップのポーランドに次ぐ高率でした。オランダ人はナチス占領下で、フットボールの試合を楽しみ(クラブの会員や選手からユダヤ人は追放されていました)、オランダ人警官は勤勉にせっせとユダヤ人を捕まえていたのです。つまりオランダは、決して「善い」国ではなかったのです。
1900年に設立されたフットボール名門クラブチームのアヤックスは、戦争中のことについて奇妙な沈黙を守っています。著者はその事情を調べ、重い事実を知ります。アヤックスのユダヤ人会員は平均より高い生存率でした。それは、金持ちが多かったことと、アヤックスの非ユダヤ人会員が結束して助力をしたことの結果です。しかし終戦後「浄化委員会」が作られ、戦争中に少しでも「悪い」ことをした人は片っ端から断罪されました。単純な二分法により「灰色」(善いこともしたが悪いこともした)人が罰せられたのです。そのため、結束を守るために一切沈黙を守ることを、クラブでは選択したのでした。
今アヤックスは「ユダヤ人のクラブ」と呼ばれています。そして敵対するチームのサポーターは会場で「シューシュー」と毒ガス室の音を真似て騒ぎます。それはただの悪ふざけなのですが、ホロコーストを生き延びた/関わった親類がいる人たちにとっては、無害な悪ふざけではありません。
オランダは「自由と寛容」の国で、第二次世界大戦ではナチスに対して「善い」国だった、というセルフイメージ(および他の国がオランダに持つイメージ)は、どうもどこか違っているようにフットボールの視点からは見えます。
そうそう、フットボールは実は政治だ、というのが著者の主張のようです。フィールドで誰がプレイするのか(誰かが排斥されていないか)・誰のためにプレイするのか(観客が選別されていないか)・フットボールを楽しむという行為自体が政治家に利用されていないか……
ヒットラーは特別な人間だと私は思っていましたが、ヒットラーと同じ方法論を使えば同じことができるかもしれない、と本書を読んで思うようになりました。
ある企業で、ある優秀な人(Aさんとします)が突然辞めた後、大変なことになりました。Aさんは普通の人の倍以上の仕事をこなしていたからです。さらに工夫の才にも恵まれていて「困ったときにはまずAさんに相談」が現場の「常識」でしたが、やり方がちょっと独特でマニュアルや管理職の指示に従わず(結果は標準以上のものを出すのですが)、人事評価では指示に従わない単なる便利屋として低い点をつけられる傾向がありました。で、Aさんが抜けた穴を埋めるだけでも大変ですが、「困ったとき」の対応がもっと大変だったのです。「どんな場合でもとりあえず対応できる人」がいないので、誰が対応できるかを探す時間が余分にかかるようになってしまいました。「皆がこんなに困ることがわかっていて辞めるとは、無責任だ」という批判というか悪口が囁かれました。
だけど、私は不思議でした。だって悪口を言っている人達はAさんがいる間も困ったときには頼るくせにふだんはなんだかんだと足を引っ張ったり悪口を言ったりしていたのですから。いる間は「なんで皆と同じようにしないんだ」「マイペースだ」と悪口を言い、辞めたら「なんで辞めるんだ。困るじゃないか」と悪口を言う。
変じゃないです? 仕事ぶりに不満がそんなにあったのならAさんが辞めたら「ああ、これで仕事が楽になった。よく辞めてくれた」と喜ばなきゃいけないはずでしょう。辞められては困る人材だったら、辞める気にならないように悪口なんかもってのほか、大切に大切にしなきゃいけないでしょう。
それが、要するにいてもいなくても悪口を言われるわけです。だったら条件さえ整えば、あっさり辞めてその悪口から縁を切った方が、気が楽です。私がAさんだったら、そう考えるでしょう。
結局、悪口しか言わない人は、在職中はAさんが自分に従うかどうかだけ見て実際の仕事ぶりには注目していなかったわけです。だから辞められたらそれまで無視していた「実際の仕事」がのしかかってきて文句を言いたくなるわけ。つまりは「人を見る目がなかった」わけですよね。でも、そういった人に「人を見る目」がないのは、別にAさんの責任ではありません。ですからいくら悪口を言っても意味はないし何の解決にもなりません。
「人を見る目」は人が持つ能力の一つだと私は考えています。天賦の才にしつけと教育と訓練が加わって形成されるものです。能力ですから人によって得意不得意があるのは当然でしょうが、とりあえずは好き嫌いで動くのではなくて人を見る目を鍛える方が、結局自分も幸せになれるでしょう(たぶん)。どうやって鍛えたらいいのかはわかりませんけれど(無責任モード)。
【ただいま読書中】
かくれ家麺喰会、コアラブックス、2005年、1238円(税別)
現在の形の蕎麦が日本で盛んに食べられるようになったのは江戸時代ですが、栽培は縄文時代にまで遡ります。文献に初めて登場するのは「続日本紀」……と、こういったまっとうなトリビアもありますが、「きしめんは、琉球・薩摩を経て名古屋に根づいた」とタイトルを掲げながら、内容では三説を紹介して結論は「定説はないようだ」、という「をい!」と一喝したくなるものも混じってます。玉石混淆です。
これだけ落差の激しい内容を書いたのはナニモノだと見たら、書中に著者紹介がありません。適当にあちこちから材料を集めてきてつぎはぎした本なのでしょうか。参考・引用文献を見ると……二次資料だけで一次資料を使っていません。これではこの本の内容を「こんなトリビア知ってる?」と友だちに自慢する気にはなりませんね。旅行中などで、暇をつぶしたくて仕方ないときに読むには向いている本です。
そうそう、『続日本紀』が初出なら『日本書紀』ではどうなのかというと、月夜見尊と保食神の話で五穀が登場しますが、そこに蕎麦はありません。どうしてなんでしょう? いろいろ想像力を刺激してくれる「蕎麦の不在」です。
〔警告〕今日の日記はちょっと長いです。
厚生労働省の通達で、今年は日本脳炎ワクチンの集団接種は中止だそうです。ではワクチンは廃止なのかというと、個別接種はOK。
……なんですか???? 新聞報道やネット上の情報を整理すると、大体以下のようなものです。
1)昨年日本脳炎ワクチン接種後に重大な健康被害が発生した。
2)1)は現在のワクチン製造法(マウスの脳を使う)では確率的に発生が避けられない。
3)新しい製造法の「安全」なワクチンが、おそらく来年には使用可能になる。
4)日本脳炎の発症は少ない(年間10人くらい)。
5)以上から、今年は日本脳炎ワクチンの集団接種は中止して、来年から新しいワクチンで再開する予定とする。
6)それでも心配な人には、個別に対応(無理にお願いすればうってもらえる)。
疑問はいくつもあります。
ア)3)は確実なのか?(「安全」は本当なのか。「来年には」は本当なのか)
イ)4)は日本脳炎そのものが「過去の病気」になったことを意味しているのか。それとも予防接種で押さえ込めているだけなのか。
ウ)ワクチンが「危険」なのなら、なぜ6)があるのか。本当に危険なものなら一切禁止でしょう。
エ)なぜ中止の発表がこんなに遅くなったのか。(地方自治体によっては、集団接種を開始していたり、早いところでは終了しているところもあります) さらに、マスコミ発表が先で現場への連絡は後回し。ところが心配した人は、マスコミや厚生労働省ではなくて現場に問い合わせをします。マスコミ情報しかない現場は当然混乱します。なぜこんな「手順前後」をわざわざしたのでしょう?
私は子供時代、インフルエンザや日本脳炎のワクチンを列を作って集団接種されて育ったクチです。その時保健の先生が「本当は、半分くらい受けてくれればそれが防壁になるから大流行は防げるはずなんだけどなあ」と呟いたのを聞き逃しませんでした。
ワクチンの目的は何か。個人防衛も大事ですが、集団を防衛することも大きな目的です。疫病が大流行したら社会が破壊されます。ならばワクチンを。でもワクチンは100%安全が保証されているものではありません。だから感染症法があり、法に基づいて集団接種が行なわれ、それで生じた健康被害(確率的に必ず生じます)には公的な救済措置が準備されています。被害者には本当にお気の毒ですが、せめて社会としてお詫びをしよう、というのが法律から見える政府の基本姿勢です。
しかし今回の5)と6)を見ると、私は首を捻ってしまいます。厚生労働省は「6)をちゃんと用意してあるんだから、もし日本脳炎が流行したらそれは『ワクチンをうたない』と決めた人の自己責任だもん」なんて思っているんじゃないでしょうね?
今年流行しなくて、来年新ワクチンが登場して、それがより安全で確実なものだったら、問題はないわけです(もちろん一番大切なのは「流行しない」こと)。ただ、ブタの日本脳炎陽性率が近年がくんと低下したとは聞きませんし、蚊はぶんぶん飛んでます。日本脳炎が流行する環境は以前と変わりがないと私は思っています。私の心配が杞憂だったらいいんですけど。
アメリカの西ナイル熱(蚊が媒介するウイルス脳炎)は各都市に広まってなかなか押さえ込めていないようです。広がってから押さえるのは大変です。日本脳炎のように押さえ込めたものはそのまま手を抜かない方が、結局「被害者」は少なくてすむんじゃないかなあ。これはちょっと素朴すぎる考え方かしら?
【ただいま読書中】
麻生武著、金子書房、1996年、2000円(税別)
「空想と現実の区別がつかない」は現在では「悪口」として使われることが多いようです。でも、それは本当に悪いことでしょうか?
サンタクロースを信じている子どもを嗤う人がいます。しかし、「サンタクロース」という言葉を子どもに教え、尋ねられたら「いるよ」と答え、クリスマスには「サンタからのプレゼント」を贈ったのは、誰でしょう?
たとえば1歳の子に教育や躾を目的として一日中ビデオを見せたら、子どもは何を学ぶでしょうか? 「現実」を学びます。「自分が話しかけても手を振っても全然応えてくれず、ただ一方的に喋り笑う人達が狭い空間の中でずっと動き続けている」という「現実」を。
著者は、自分自身の子育ての体験と、大学の学生たちの記憶を集積することで、実証的に子どもの成長過程におけるコミュニケーションと言語について研究しますが、そこで「ファンタジーと現実」が重要な役割を果たしていることを発見します。
子どもはよく大人の真似をします。著者は「模倣」(単なる真似)と「ふり」に子どもの行動を分類し、さらにその「ふり」を構造的に解析していきます。同じように見えても、単なる表象として扱う/抽象的な空間でイメージとして扱う/行為を記号とする、と子どもの行動は成長に伴ってどんどん複雑になります(たとえば「バナナで電話をかける真似をする」は「バナナと電話機の区別がついていない」「バナナを電話機に見立てる」「バナナが無くてもそこに電話機があるものと見なしてかけるふりができるようになる」と進化していきます)。そこで見逃せないのが、親(など周辺にいる人)の存在です。子どもが何か未熟な行為をしていると、それを言葉で表現してやり意味を補ってやる、そのフィードバックによって子どもは「行動による表象の獲得」を達成していきます。その過程で行動の主語を子どもは発見します。「自分」と「他人」の発見です。そこで初めてコミュニケーションが可能となります。「自分の意図」を他人に伝え「他人の意図」が自分に伝えられる、それがコミュニケーションです。そこで重要なのは語彙の豊富さではありません。もちろん語彙が豊富な方が細かいニュアンスは伝わりますが、他人の存在を認め意図のやり取りをしようとする姿勢と、上手くいかないときにどのくらい工夫をするかの努力がコミュニケーションの基本です。
ここまでが本書のイントロダクションです。さて、ここから面白い「ファンタジーと現実」の話が始まるのですが、それは皆さんがご自分で読んで表象を獲得されることをお勧めします。私自身一回読んだだけで、単に語彙を増やしただけかもしれませんから全貌を伝える自信がありませんし、何より(ちょっと難しいけれど)面白い本ですから、その面白さをじっくり味わう悦楽を変な「予告編」で奪いたくありません。
……知りたい? では、キーワードを少々抽出してみましょう。
シニフィアンの戯れ/想像の遊び友だち/死んだファンタジー/語るも涙聞くも涙のサンタクロース体験/「物語」が子どもたちを「今・ここ」を越えた「意味世界」へと連れて行く/「多元的」世界の構造
言語学の知識が少々必要です。ソシュールについて入門程度の知識を持ってから読むことをお勧めします。
カーブミラーをしみじみ眺めました。あれ、ミラーのくせに自分の顔を写すのがなかなか難しいしろものですね。凸面鏡ですから下の方に簡単に写るかと思ったら、高い位置にあるから近づくと頭のてっぺんがかろうじて。離れるとミラーの下の方に少しふくらんだ顔が見え、さらに遠ざかるとだんだん体が見えてきます。思ったほど太って見えません。
証拠写真を撮ったのですが、あまりのばからしさにパソコンが拒否反応をしてくれてHDDに転送できず、携帯からわざわざmixiに送るのも手間ですからSDカードからさっさと削除しました。
……我ながら、まったく何やってるんだか。
【ただいま読書中】
ロベール・ブルッサール著、峰岸久訳、草思社、2002年、2200円(税別)
著者は本書の冒頭にジュール・クランシーの言葉を引用します。
「ことを統べる者、何ごとかをなす者は、すべて自らの前に、次のような人々を持つことになる──すなわち
同じことを進んでやろうとする人々と、まったく反対のことをする人々と、そしてとりわけ、はるかに厳しい目で見るくせに何もしない、大多数の人々とである。」
1959年、動乱のアルジェから引き揚げてきた23才の少尉は、パリで警察官になります。見習いから始め国立高等警察学校を出て警視となった著者は、BRI(アンチ・ギャング斑)に配属されます。BRIの基本方針は、ある意味単純です。
・犯罪が起きてから捜査するのは大変。ギャングによる銀行強盗はあらかじめ計画が立てられ人が集められるからそこで情報がキャッチできることがある。だから犯罪(銀行強盗など)を予測してあらかじめ捜査をしておこう。
・しかし、強盗の具体的な計画を察知しても、フランスの法律では予防検束は違法。したがって犯罪の「後」に逮捕をしなければならない。
・ではいつ逮捕するか。現場の銀行に警察が押し掛けたらギャングは人質を取ったりして惨劇が起きる可能性がある。隠れ家に帰ったときでは途中で証拠を隠滅している。したがって、強盗が銀行を離れて逃走している経路で逮捕するのがベスト。
……事前に綿密に情報を集めギャングのメンバー全員に尾行をつけ、犯罪が起きたら即座に対応する。口で言うのは簡単ですがやるのは大変です。BRIはそれをやりました。
やがてBRIの中からBAC(アンチ・コマンド斑:人質を取って立てこもる凶悪犯に対する特別部隊)が創設され著者はそちらにも関与します。そこで著者が見たのは、狂信的なテロリストと狂信的な救い手と混乱でした。特に「とにかく犯人と人質は自分の管轄からさっさと出ていってくれ」と言わんばかりの無責任な「責任者」に対する苛立ちを著者は隠しません。著者は「地元集団の人間関係を見極め、対立関係を見抜いてから『仕事』にかかる」と苦々しく書き記します。警官の闘いの相手は犯罪者だけではなかったのです。
「手早い解決(あっさり銃殺)」に対する著者の反感は何回も発露されます。出動するたびに「さっさと撃ち殺してけりを付けろ」と背後から「アドバイス」するお偉いさんが毎回著者を悩ませてきたのでしょう。著者は自分たちのことを「処刑人」ではなくて「警察官(法の執行者、裁判にかけるための逮捕が目的)」と定義しているようで、それを絶対譲りません。
1974年のハーグ事件(日本赤軍のテロリスト三人がオランダのフランス大使館に侵入して立てこもり、二ヶ月前にフランスのオルリー空港で逮捕されたユタカ・フルヤの釈放を要求した事件)でも、著者はフルヤと同じ飛行機でハーグに飛び、96時間飛行機にこもりっきりでテロリストとオランダ政府とフランス政府を相手とした困難な交渉を強いられます。内幕を読んでいると、空港で犠牲者が出なかったのが不思議です。
かと思うと、50人の刑事が4ヶ月間張り込んだおかげで、銀行家の誘拐事件が発生して3時間で解決した例も紹介されます。事情を知らなければあっさり解決した事件ですが、人からは見えないところでものすごい量の汗が流されていたのです。
イラク大使館事件(1978年)では、私は怒りを感じました。パリのイラク大使館にパレスチナ人テロリストが押し入った事件ですが、著者の交渉で平和裡に解決しようとした瞬間、「犯人は処刑されるべきだ」と主張するイラク大使館員が発砲、大混乱の銃撃戦となり刑事を含む死傷者が出たのですが、そこで政治が介入し、外交官特権に守られた大使館員は堂々とイラクに帰国していったのでした。
そして、著者が嫌いな血まみれの結末に終わる、ジャック・メスリーヌ。しかし著者はそれを後悔はしません。結末までに、長い物語があるのです。単純な「義賊とそれを虐殺したカウボーイ気取りの警察官」の物語ではありません。
……事件が「簡単」に解決した、とか、警官がヘマをした、とかの表現は、私はこれからは簡単に使えなくなってしまいました。下劣な警官や悪徳警官ももちろん存在するでしょうが(存在しない人間集団がこの世にあるのかな?)、多くの警官は職務に忠実に真面目に働いているのだろうと信じたくなりました。
mixiに広告がついたのは良いことですが(どうやって生きているのか不思議だったんです。これで収入が確保されたら、mixiが生き延びる期間が少しでも伸びるでしょう)、私のトップページのは「転職」。……むう。
試しにOperaでmixiに入ってみたら、Operaの広告との二段重ねで、さすがにこれはちょっと鬱陶しいです。……あれれ、Operaが少し速くなってます。「捨てるぞ」という態度を見せたからかな?(非科学的態度)
【ただいま読書中】
柳広司著、原書房、2001年、1800円(税別)
歴史上の有名人を「名探偵」とする作品はいくつもありますが、本書ではソクラテスです。ソクラテスと共に育った友人クリトンをホームズに対するワトソン博士役として配役し、ソクラテスの謎解きをクリトンがギリシア語で書き残したパピルスが19世紀になって発見され解読された、という体裁となっています。
作中では明記されていませんが、ソクラテスの弟子のプラトンの年齢から考えて紀元前416年頃、アテナイは没落しつつあり、ソクラテスは晩年を迎えようとしていた年。新月の夜、アクロポリスで惨劇が起きます。たまたま現場に行き会わせたソクラテスとクリトンは、謎を解こうとする過程で、ピュタゴラス教団の影やホムンクルスの謎に出会います。
(……古代ギリシア時代にホムンクルス? これ、ラテン語なんですけど……)
惨劇は続きます。連続殺人は本当に連続「殺人」なのか、それとも「非連続」殺人なのか、それとも殺人ではない別のものなのか。アテナイの混乱は悪化し、烏は乱舞し、女たちは奇妙な祭りを行い、クリトンは右往左往し、そしてソクラテスは……
民主制にただ乗りをしてただ虚しい言葉だけで利益を得ようとする連中。平和に退屈し、禁欲的で全体主義的なスパルタに憧れる若者たち。世界の真実にドラマで迫ろうとする劇作者アリストパネス。それらの人々の中で、世界の真実に論理(ロゴス)で迫ろうとするソクラテスは、自らを世界への捧げものとするかのような行動をとります。
ギリシアを舞台に借りた推理小説/推理小説の形式を借りた古代ギリシア小説/ソクラテスに対するオマージュ/古代ギリシアの仮託した現代日本へのメッセージ……気楽に読み流すのも良し、深読みを楽しむのも良し、ちょっと焦点がぼけた構成なので逆にいろんな読み方が楽しめる作品です。
そこは文字の大海。私はそっと網を入れます。海のどこにどんな網を入れるか、一発勝負です。最近の私の網は「矛盾をはらみ複雑な人間。多数の人間で構成される複雑な世界。人は世界をどのように認識するか」といったムズカシげな目が編まれていますが、自分の思い通りの網目にできないのが限界ある人間の悲しさと面白さ。網が合わず網目の隙間から逃げていく獲物も多いのでしょうが、手に入れ損なったものにこだわるよりもせっかくかかってくれた収穫を喜びましょう。さて、本日の収穫は……
【ただいま読書中】
栗栖健著、雄山閣、2004年、2400円(税別)
私が初めて「オオカミ」に出会ったのは、幼児時代の『赤ずきん』『狼と七匹の子ヤギ』『三匹の子豚』……狼は悪者以外のナニモノでもありませんでした。少年時代の『
狼少年ケン 』……こちらは悪役ではありませんでしたが、まあしょせんTVアニメ、幼児時代の刷り込みをひっくり返すほどではありませんでした。
高校時代に出会った平井和正の狼男シリーズで、「送り狼」が実は山に迷い込んだ里人を山の神である狼が里まで安全に見送ってくれることだとか、狼を大神とか犬神と書くとか、いろんなトリビアを身につけましたが、しょせんフィクションと思ってました。ただ、平井和正で「準備」ができていたところで完全に私のオオカミ観をひっくりかえしてくれたのが『
オオカミよ、なげくな 』(ファーレイ・モウワット著、紀伊国屋書店、1977)(残念ながら絶版です。原題はたしか"Never Cry Wolf" だったと記憶していますが、まるでロックの曲名にもなりそうなタイトルですね)。狼によるカリブー被害調査のためにカナダ政府によって送り込まれた科学者が現地で見たものの報告書です。ここで「狼は悪者」は単に人間の都合で一方的に言われているだけで、生態系の中では狼には狼の位置があることを私は理解しました。
かつての日本では狼は身近な存在でした。村から少し入った山の中を狼は盛んに走り回っていたのです。ところが民話や昔話にはほとんど狼が登場しません。著者はそのことに疑問を持ちます。
もし日本人が牧畜をしていたら狼は仇敵だったでしょうが、襲われる家畜を持たなければ狼と人間の直接的な利害関係は生じません。もし狩猟民族だったら狼は人と同じ獲物を争うライバルだったでしょうが、それもありません。山村の農民にとって、田畠を荒らす鹿や猪は害獣で(現在の中山間地域でも「四獣苦」(鹿猿猪熊による農作物被害)は深刻です)、それを駆除してくれる食物連鎖の頂点に位置する狼は益獣、むしろ農業の守護神でした。狼から見たら、田畠は餌が集まる絶好の餌場です。もちろん野生の肉食獣ですから危険で荒ぶる守り神です。こうして日本人は狼に対して矛盾する価値を与えることになりました。
しかし日本人も複雑です。史料となる文字を書き記した支配階級は狼を身近に経験せず、ただ、奇妙な沈黙と無視が目立ちます。かろうじて書き残された文献の片隅に狼に関する記述がほんの少しだけありますが、それらは庶民からの噂話と中国からの文献(「餓狼」と呼んで凶獣扱い)から作られたイメージのようです。庶民が狼を身近に感じていた(絶滅寸前の明治から大正でさえ、けっこうな量の聞き書きが残されています)のに対して、対照的な態度です。著者はこれを「日本のオオカミ観の二重構造」と呼びます。
しかし江戸時代になって状況は変わります。文献に狼がどんどん登場するようになったのです。まずは人が襲われた大量の報告。これは「記録」が増えたのではなくて「事例」が増えたのだと著者は考えます。新田開発で鹿の餌場がヘリ、農民が鹿を撃つための鉄砲所持を許されたりしたため鹿が激減→飢えた狼が人を襲うようになった、というのが著者の考察です(ただの空論ではなくて、根拠付き)。
同時に、狼の神格化が始まります。三峯神社など、狼信仰が全国に広がったのです。そして同時に擬人化。狼が人に化けて人と共に生きる、というお話があちこちに登場します。江戸時代(前半)に、日本人の意識の中で、狼は人により近くなり、より遠ざけられていったのでした。これはおそらく狼(と人)が住む環境が変化した反映でしょう。世界的に特異な日本人のオオカミ観=日本文化です。
朝日新聞の芸能欄にTVドラマ「
タイガー&ドラゴン 」の紹介が載っていました。変だけど面白いドラマです。
少し前から金曜の夜に長男がTVを見ながら笑い転げていました。「何だ?」「落語のドラマ。ヤクザが落語をやって、現実にもその落語と同じようなお話が起きるの」「な、何だ??」ちらりと見ると、長男の説明通りです。
落語は、あらすじはわかっているのに、笑えます(下手だったら笑いませんけれど)。その落語をストーリーの骨格に使って現代ドラマを書くのは、脚本家にとっては難行ではないかと私は思います。で、下げもちゃんと無いといけない。一昨日の「粗忽長屋」では、死体はどうするんだ、と思ったらちゃんと登場するし、下げも笑っちゃうものでした。できたら千両蜜柑をやって欲しいなあ。あのシュール感を現代ドラマにするのは結構大変でしょうけれど。
……うしろで長男が「千両蜜柑」と言っただけで笑い転げています。何だ?
【ただいま読書中】
オーガステン・バロウズ著、青野聰訳、バジリコ株式会社、2004年、1800円(税別)
母親:自称詩人……ただし夢みているのは素晴らしい詩を書くことではなくて有名になること。レズで精神科医に入り浸り。父親:大学教授。重度のアル中。この二人が離婚するところから話は始まります。息子のオーガステンは12才で潔癖性の気があるゲイ。母親はオーガステンを自分の精神科医の養子にしてしまいます。この精神科医フィンチもクレイジーで、その子どもたちもちょっと(相当)変わった人ばかり。母親の狂気を治療するのにモーテルを使ったり、オーガステンの登校拒否を合法化するために狂言の自殺未遂を仕組んだり、スーパーマーケットで支払いの時に悩んで聖書占いをやったり、トイレの大便の形に神の啓示を見て一家で「鑑賞」したり……
私はゲイに偏見があるので、ここで描写されるセックスシーンにはあまり心を動かされませんでしたが、次々登場するクレイジーな人々の迫力にはたじたじです。特に彼らの行動がひたすら真っ直ぐで「健康的」なのには、さすがアメリカ、と感心。猥雑と混乱を描くのに著者の筆致は奇妙に透明です。訳者も書いていますが、本書は回想録よりも小説に分類した方が良いでしょう。
アメリカ人は家族を大事にしているはずです。でもアメリカ人は個人主義のはずです。個人主義と家族主義、どうやって両立できるのでしょう? アメリカ人は夫婦関係を大事にしているはずです。結婚式で「一生愛する」と神に誓い、毎日毎日「愛してる」と言い交わします。でもやたらと離婚が多い。どうしてでしょう? ……なんて言うのは「屈折している」日本人だからで、アメリカ人は(本書で繰り返し書かれているように)ストレートに怒りをぶつけ合い、真っ直ぐに生きようとしているだけのかもしれません。でも、怒りが多すぎると自分も回りも傷つくし、怒りがなかったら無理に怒りをかきたてようとして疲れはてるから、結局精神分析医のお世話にならなくちゃいけなくなる。まあ、それも一つの生き方でしょう。自分がやりたいとは思いませんが、そうやって生きている人が(おそらくアメリカ以外にも)世界にいることは理解しておかなくっちゃ。
書中には「ニューヨークタイムズのベストセラーリストに52週連続ランクイン」とありますが、カバーでは74週になってます。新しいカバーでは数字はどこまで伸びているのかしら。
「美味/美味い/美味しい」これは「びみ/うまい/おいしい」と私は読みます。では、文章を読んでいてこれらの単語に出くわしたとき、一体どの時点で最初の「美」の字を「び/う/お」のどれで読もうと判断しているのでしょうか? 一文字ずつ記憶のバッファに貯めていって、決定的な文字(この場合だったら「い」とか「しい」)に出くわしたらあるいは出くわさなかったらそこで「読み」が発生する? それとも単語の最後まで全部ブロックとして把握したら、そこで?
さらに私には不思議なことがあります。ソシュールはシニフィエ/シニフィアンの概念を提唱しました。「ビミ」という音はシニフィアン、舌や頭で感じている「ああ、おいしいなあ」ということばの内容はシニフィエです。では「美味」という漢字は、シニフィアンなのでしょうか、シニフィエなのでしょうか?
英語でも似たような不思議なことがあります。たとえば「weak/wear」。「ea」の部分の発音が違います(違いますよね?)。では、音読するときどの時点で「この発音でいこう」と判断しているのでしょうか。「w」を発音しかけたところでなし崩し的に目は「e」に行っていて口が「e」を発音しそうなときに目は「ak」に行って「おっとっと、これはイーと発音しなきゃ」と調節しているのか、あるいは一つのブロックとして単語をひとまとまりで把握しているのからおもむろに発音しているのか……目と口と思考の動きは、時間差があるだけで連続的なのでしょうか。それとも目はいそがしく行ったり来たりして思考が「これはかくかくしかじかの単語である」と認識してからおもむろに口が動き始めているのでしょうか?
では、もっと難しそうな例。「angel/angle」です。
語尾の「el」が「le」とひっくり返るだけで語頭の「a」の発音が違います(違いますよね?)。この場合最後まで読まないと最初の母音がきちんと発音できないはずです。すると音読している場合人間はけっこう複雑なことをしているんでしょうね。視線と脳波と発声の動きとがどう同調しているのでしょうか。単語を単独で読む場合と文中にあるのを読む場合とではどうでしょう?
全然違うジャンルの話ですが、ついでだからさらにもう一つ。仮定法はどうして過去形なんでしょう。英語だけじゃなくて、日本語でも「もし○○だったら」と過去形で言うでしょ。(第二外国語だったドイツ語ではどうだったかな、忘れました) 過去に遡って「もし過去のあの時違う選択をしていたら」なら当然過去形を使うべきだと思いますが、現在を見て「もし金持ちだったらなあ」とため息をつくのも過去形ですし、未来を見て「もしここで決断を間違えたら」とやはり過去形を使ってしまう……なんだか不思議です。
【ただいま読書中】
斎藤昭俊著、吉川弘文館、1986年、2621円(税別)
インドの神々で私がすぐ想起するのは『
光の王 』(ロジャー・ゼラズニイ著、早川書房、1978年)です。遠い未来の異星を舞台とした「進歩した科学は魔法と区別がつかない」を地でいくような作品でしたっけ(遠い思い出にひたる おかだ)。
本書は記憶力への挑戦です。正直言って私では歯が立ちません。たとえばアグニ(口から炎、体から七条の光を発する)の別名が、ヴァニ(犠牲を焼くもの)・ヴィーティホトラ(崇拝者を浄めるもの)・ダナンジャヤ(富を滅ぼすもの)・ジヴァラナ(燃えるもの)・ドゥーンケトゥ(煙であるもの)・チャーガラタ(雄羊にのるもの)・サプタジヴァ(七つの舌を持つもの)……さあ、いくつ覚えられました? ほかにも神々はたんとございます。(旧約聖書も、○○の息子の××、その息子の□□……と延々と続きましたっけ。ポケモンに限らず、名詞の羅列は苦手です)
インドの神々は、ヴェーダの時代でさえ神々は自然神から英雄神へと役割が変わりそれにしたがって名前もどんどん変わります。バラモン中心主義からシヴァ神とヴィシュヌ神にバラモン教の中心が移動し、それにウパニシャッドの原理ブラフマンがブラフマー神となったものが加わって、上記三神への信仰がヒンドゥー教の中心となります。私が好きなインドラ神ははじめは力を持っていたのですが、歴史の中で少しずつ扱いが軽くなってしまっています。ヒンドゥー教は土着文化を吸収/融和/統合し神々を増やします(仏陀もヒンドゥー教の神の一つ扱い)。逆に仏教の側でも、ヴェーダの神々を取り込んで、仏教護法の神としています(十二天、四天王、八部衆、二十八部衆)。
本書では他に、ジャイナ教、イスラーム、ゾロアスター教、シク教についても触れられています。インドの神をとりあえず一覧するには良い入門書です。
古代インドの神々は不滅を願って犠牲を捧げ苦行に耐えるのですが……なんだか人間くさいですね。先日読んだ『饗宴』には「人は自らにふさわしい神を持つ」という意味のフレーズが出てきましたが、神話をちらっと見る限り、インド人はギリシア人とは相当違った民族のようです。そういえば、「人は自らにふさわしい政治家を持つ」という言葉もありましたっけ。……自らを振り返って、ちょっと考えてしまいます。
小学校の遠足の前日、天気予報で「曇りのち晴れ、ところによって一時雨」なんて言われると「結局晴れるのか雨なのか、どっちなんだよ」と私は地団駄踏んだものでした。仕方ないから「明日天気にな〜れ」と唱えながらズックを蹴り飛ばして、裏になったら見なかったふりをしてもう一回飛ばしたり。
今は天気予報の確度はずいぶん良くなりました。天気予報専門チャンネルを見るとポイント予報に時間予報で、明日何時頃からどこに雨が降るかまでわかります。(その割には長期予報は良く外しますが、これはまた別のお話でしょう) 今の子どもたちは、昔みたいにドキドキせずに遠足の日を迎えられるのかな?
以前無かった「降水確率」……個人的には扱いが難しいものです。80や90%なら朝たとえ雨が降っていなくても傘を持って出ます。10や20なら持って出ません。ではその中間だったら、どのように判断したらいいのでしょう。50%なら傘を半分だけ持って出る……ことはできません。数字を勘案しつつ空模様を見て自分で判断することになるのですが、皆さんは降水確率の大体何パーセントから傘を持って出ることを考えます?
さらにこの降水確率、なまじっか数字であらわされるので確かなもののように見えますが、「降水確率30%」とはつまり「この予報が10回出たら、そのうち3回は雨が降るよ」ということを意味しているわけですよね。では、その検証はされているのでしょうか? 「昨年1年間で降水確率10%と予報した回数は120日。そのうち実際に雨が降ったのは……」なんて気象庁からの報告はありましたっけ? なかったら子供の夏休みの自由研究に……夏休みはあまり雨が降らない時期だから、確率的に意味が生じにくいか。
……残念!
【ただいま読書中】
ロジャー・ゼラズニイ著、深町真理子訳、早川書房、1978年、1200円
地球はすでに滅亡した未来。ある星に植民した地球人は、原住民(エネルギー生物)を〈地獄〉に閉じこめ、超絶的な科学力を振るい身体を次々取り替えて転生を繰り返すことで不死を達成したブラフマン・アグニ・シヴァなどの「神々」と、中世レベルの技術と無知と抑圧の下に置かれ精神探査で反抗も許されない庶民とに区分される厳しいカースト制度を確立していた。しかし、神々の中から「反逆者」が出現する。科学の恩恵を人々に広めカースト制度を廃止するべきと説くマハーサマートマン(あるいはシッダルタとも人には呼ばれたが、本人はマハー(大)とアートマン(我)を省略したサムを好んだ)である。サムは自らの軍勢を率いて「天」に闘いを挑み敗れ、「真の死」を与えれば殉教者になるであろうという神々の判断によって、存在を電磁波に還元され惑星を取りまく磁性雲に放射される刑を受ける。人々には「釈迦は涅槃に入った」と伝えられた。
物語はここから。かつてサムを捕えた「死の神」ヤマがサムを復活させようとしているシーンから始まります。
主人公は、サムと自称する「釈迦」です。釈迦は仏教を広めますが、その目的はルネサンスと産業革命と民衆の絶対権力からの解放です。そして、サムとサムに味方する神々(と羅刹)、ヒンドゥー教の神を自称しその能力を振るう神々、天から追放されたキリスト教者「邪悪の王」ニルリティとそのゾンビ軍団、の三つどもえの戦いが始まりそれに羅刹(惑星の原住民であるエネルギー生物)の裏切りがからんで……ここで本書は巻を閉じます。
科学と超能力との組み合わせで様々な「神」が現存する世界……なんとも破天荒で魅力的な設定です。破壊の神は破壊のスペシャリストですし、火の神は火を自在に操り、夜の女神は暗闇を自由に呼び寄せます。そこに生きる人は、現実として存在する神の怒りを怖れ、現生での業(カルマ)を少しでも減らして神殿での転生で次はより良い肉体に生まれ変わることができることを祈るしかありません(神の怒りをかうと、動物への転生や真の死が与えられることもあります)。科学によって永遠の輪廻転生を達成した神々も、手放しで幸せなわけではありません。肉体が変わり永劫の時が過ぎても一度誓った愛は有効なのか(愛は肉体へではなくて魂に誓うものです)、親子関係はどうなるのか(親も子も肉体は次々取り替えています)、「神性」によってどのような肉体に転生しても結局その神特有の変化を示してしまうことにどう耐えるのか……
最後に少女が登場するところで私は『
攻殻機動隊 』を思い起こしましたが、あながち的外れの連想ではないでしょう。肉体と魂、転生とアイデンティティー、変化と成長……様々なテーマが集約されている点で、両書は似ている点がけっこうありますから。
書店や図書館を歩いていると「ダーウィンは間違っている!」とか「アインシュタインは間違っている!」といったタイトルの本が並んでいるブロックがあります。時々手にとって眺めてみますが、あまり長い時間は読めません。
私は科学に関する本を読むとき、1)高校レベルの数学・理科(生物・化学・物理など)のレベルをクリアしている 2)日本語として読みやすく論理性がある、の2点を重視します。すると「××は間違っている!」本のほとんどは1)か2)かのどちらか、あるいはその両方があっと言う間に破綻してしまうんです。結局「これじゃ駄目だ」と私はあっさり本を閉じざるを得ない羽目になってしまいます。
本を閉じた後でも、こういった本の著者たちは、自分を何になぞらえているのかな、と思うことはあります。世間にはびこる「常識」に異議を唱える少数派のプロテスタント? つまりは地動説を唱えて迫害されたガリレオ・ガリレイのようなかっこいい存在?
地動説の提唱者であるコペルニクスは死ぬときに『天球の回転について』(1543年)を出版しました。その後に生まれたティコ・ブラーエ(1546-1601)は地動説から一歩下がって天動説との折衷案である太陽中心説(地球以外の惑星は太陽の周りを回り、その太陽が地球の周りを回る)を唱えましたし、それよりさらに約一世紀後に活躍したロバート・ボイル(1627-1691)でさえ「プトレマイオス(天動説)/コペルニクス(地動説)/ティコ・ブラーエ(折衷)の体系のどれも決定的とは思えない」と述べるありさまです。結局地動説が「勝利」するには17世紀後半のニュートンまで待たなければなりませんでした。つまり、「天動説から地動説へのパラダイムシフト」は決して順調に行なわれたわけではなくて、自らの価値体系が崩されることを嫌がる天動説を信じる(捨てられない)側から、反論/抵抗/迫害/妥協/折衷の試みが様々に延々と行なわれ続けていたわけです(キリスト教の動きを入れたらもっと話は複雑にできます)。天動説から地動説へのパラダイムシフトは単純に「科学の世界で真理が旧弊な権威に勝利した」なんて代物ではありません。「地球が動いている? そんな馬鹿な。見ればわかるだろ、全然動いていないじゃないか」という感覚的な根拠から地動説は簡単には受け入れられませんでした。
で、話が戻ります。「××は間違っている!」は、「世間を支配する(間違った)パラダイムへの挑戦者」ではなくて、「世間を変えようとしている新しいパラダイムに対する旧来勢力の抵抗の試み」ではないでしょうか。だって「人は猿から進化した」(もちろんダーウィンはそんなことは言ってませんが)とか「光速度はどんな場合も一定」とか「空間は彎曲し、時間は場合によって流れの速度を変える」なんて「非常識」だから感覚的/直感的には認められませんもの。
コペルニクスは実は熱心な天動説論者でした。ダーウィンにしてもヴェサリウス(ヨーロッパ医学の変革者)にしても、当時の学問の世界での権威です。その人たちが、自分の学問を突き詰めて突き詰めて行ったら疑問が生じて、それを説明するために新しい概念を一つ取り入れたら……古いパラダイムが崩壊しただけです。彼らの目的はパラダイムの変換ではなくて、自分が生きる世界(学問)をさらに進歩させることでした。したがって、彼ら以上に古いパラダイムに詳しくないと、彼らを論破するのは難しいことだと私は考えます。それはアインシュタインに関しても同様でしょう。
そうそう、私は天動説はまだしぶとく生き残っていると考えています。
根拠その1)地動「説」と呼ばれて、まだ仮説扱い。
根拠その2)「日が昇る」「月が沈む」と人々は平気で言っている。
【ただいま読書中】
林一訳、早川書房、2004年、2000円(税別)
目次
イントロダクション──時空への招待 リチャード・プライス
過去は変えられるか イーゴリ・ノヴィコフ
歴史家のために世界の安全を守る「時間順序保護」 スティーブン・W・ホーキング
時空の歪み(ワープ)と量子世界──未来についての憶測 キップ・S・ソーン
科学の大衆化 ティモシー・フェリス
小説家としての物理学者 アラン・ライトマン
キップ・ソーンの60才の誕生日を祝うためにカリフォルニア工科大学(カルテク)で行なわれた一般向けの講演会の記録をベースとしたエッセー集です。
イントロダクションで軽く、世界線についての講義が行なわれ(縦軸が時間、横軸が空間の座標上を世界が移動していく。ただし、軸の目盛りはどちらも「km」。種明かしをするなら、時間には光速がかけられています)、ついでローレンツ変換が光速度付近では破綻するのをきちんと説明する試みとしてアインシュタインの特殊相対性理論が立てられ、アインシュタインに時空の概念を与えたのはミンコフスキーだったと紹介されます。つまり、何もないところに突然アインシュタインが発生したわけではありません(逆に言えば、アインシュタインを「論破」するためには、せめてローレンツ変換に対する相対性理論以外の納得のいく説明が必要)。
で、読者の「準備」ができたところで、本番のエッセーのはじまりはじまり。
・一般向けのお話ですから、難しい数式は出てきません。易しい数式もです。おかげで読みやすいこと。私は数式は嫌いなのです。
・タイムマシンは可能か不可能か。本書の中でも意見は分かれています。論者は楽しそうに反対者の意見を採り入れながら自分の意見を展開します。私が理解した範囲では、ワームホールを安定的に維持できればタイムマシンは可能ですが、ただそのためには「負のエネルギー」が必要。虚数時間があるのですから(ホーキングを信じれば、ですが)負のエネルギーだってあるのでしょう。今ここでは見つからないもののようですけど。
・円周10メートルのブラックホールの直径は……3メートルよりは300メートルが正解に近いことが、巧みな図示で示されます。そうそう、ブラックホールと言ったら、ホーキングは本書でもマイクロブラックホールの蒸発について言及していますが、最近意見を変えましたよね。この講演会が2000年に開かれたので、エッセーの訂正がされてないのは当然でしょうが、読みながら思わずにやついてしまいました。
・コンパスの針が南北を指すのを知ったとき、「コンパスはそういうものだ」と教えられて「ふーん」ですましてしまう子もいますし、「なぜ」と聞き考えコンパスを見つめ続けやがて目を上げて宇宙を眺めるようになる子もいます。別に「それ」がコンパスでなくても良いのですが、何かそういったモノに出会えたらその人の人生は他の人とは違う何か特別なものになれるかもしれません(アインシュタインにとっては「それ」が「コンパス」だったそうです)。
・科学者は名づけます。芸術家は名づけません。しかしどちらも真理を求めているのです。
国道を走っているとあるガソリンスタンドで「レギュラー 115円」と表示されているのが目に留まりました。先週入れたスタンドでは117円でした。「しまった、損しちゃった」と思っていると、次の信号をすぎたところのスタンドは「118円」。損をしたのか得をしたのかわからなくなってしまいました。レギュラーの下に表示されている軽油は大体20円くらい安くなっていますが……
私がガソリンの値段を意識するようになった1970年代後半は、レギュラーガソリンは大体1リットル90〜100円で、軽油はその半値でした。ガソリンは約30年でそれほど上がっていませんが(というか、こんなに値上がりする前の1年前は30年前とほとんど変わらない値段だったんですね)、軽油はずいぶん上がりました。製油の手間がかかるようになったとは思えませんからおそらくは税金のせいでしょう。値段のせいか技術の進歩か、ディーゼル車が黒煙を噴きながら走る姿がほとんど見られなくなったのは歓迎するべきことですけれど。
【ただいま読書中】
室木巧著、新風舎、2005年、1700円(税別)
自動車のエンジンの多くはレシプロエンジンと言って、筒(シリンダー)の中をピストンが行ったり来たりして気化したガソリンを爆発させてそのエネルギーで動くようになっています。ピストンの往復運動を車輪の回転運動に変換するために、クランクという装置が必要です。では、最初からピストンが回転する仕組みだったら、クランクが省略できます。さらにシリンダーを短くしてエンジンそのものも小型化できます。
この発想から、1959年西ドイツのフェリックス・バンケル博士が発明したロータリエンジンがNSU社で実用化されました。各国の自動車・エンジンメーカーはNSU社に技術提携を申し入れましたが、その中に日本の東洋工業(現マツダ)がありました。東洋工業は、要するに「ウリ」が無い弱小メーカーだったので、この新技術で一発、と思ったのです。
著者は、1955年に東洋工業に入社、ロータリエンジンの開発にずっと係わり、1986年に退社して千葉大学工学部の教授になった後もロータリエンジンの開発に関係し続けた人です。ロータリエンジンにずっと寄り添っていた、と言っても良いでしょう。
私は予備知識として、東洋工業が押さえたのは基本特許だけで、量産に持っていくための技術開発は自分たちで全部やらなければならなかったが、結局世界中のメーカーでそれに成功したのは東洋工業だけだった、というのは知っていましたが、あらためて技術的な解説を読むと、その苦労のすごさに頭が下がる思いです。
やっと市販にこぎ着けて、ファミリーカーのファミリアにまでロータリエンジンを乗せたタイプを作ったのはちと悪のり、と感じますが、まあ嬉しかったんでしょうね。ところがそこに襲うのがオイルショックです。振動が少なく高性能だけど燃費が悪いことから、ロータリ搭載車をスポーツカーに絞りますが、今度は排ガス規制。
多くのメーカーは排気管の途中に触媒を置いてそこで有害物質を処理する方法を採用しました。ところが当時売られていた有鉛ハイオクガソリンの鉛が触媒を駄目にするため、触媒方式を使ったメーカーは規制値をクリアできず全滅です。ロータリエンジンはNOxはレシプロよりは少なくてHC(炭化水素)が多かったため、触媒ではなくてサーマルリアクター(熱反応器)を採用したおかげで規制は楽々クリア。(他にクリアできたのは、CVCCのホンダとディーゼルのベンツだけ) つまりロータリエンジンは高性能で低公害というお墨付きをアメリカ政府からもらえたのでした。
自動車エンジンで使われる燃料のうち、実際に車を動かすのに使われるのは約1/3、1/3は熱となり、残りは捨てられています。もったいない話です。その効率を少しでも上げるために新しい発想のロータリエンジンの開発を著者は行なっていましたが、その用途は、自動車以外にもコジェネ・船舶・模型飛行機・軍需用など、様々なものが考えられます。現在はマツダのRXー8だけですが、これからあちこちでロータリエンジンに私たちは出会うのかもしれません。
「医療費がかかって困る」「健康保険の赤字は困る」と言いつのる厚生労働省(とそれを煽るマスコミ)こそが実は「医は算術」の元締めなのです。だって口にするのは「国民の厚生の向上」ではなくて「銭勘定」だけなのですから。しかし、医療者に対する「仕事はもっとしろ、勉強ももっとしろ、ミスは絶対許さないぞ、責任は重いぞ、人件費抑制のため医療職の給料はどんどんカットだ」という国家方針を見たら、優秀で人生設計に敏感な学生たちは医療以外の分野を選択するようになりませんか? 算術よりも仁術の人をセレクトするには「良い」方針とは言えるでしょうけれど、それで日本の医療はレベルアップするのかな?
ところで、私が大好きな極論ですが、「医は算術」はそんなに悪いことでしょうか? ちょっと思考実験で、算術抜きの医を想定してみましょう。
・算術ができない経営者の病院が、採算度外視でものすごく優れた医療を提供したのですが大赤字となって潰れました。
・算術ができない医者が薬の用量計算を間違えました。
もちろん、脱税や水増し請求やごまかし診療は、算術ではなくて犯罪ですから論外です(だから私としてはこれらの行為は「医は算術」のジャンル外と思っています)。しかし、不真面目な医療(日本語本来の意味での「医は算術」)を行なう医療機関が黒字になって、真面目で良質な医療を目指す医療機関が赤字になるように作られている現在の健康保険制度は、制度そのものがどこか間違っているんじゃないかなあ。それで医療費抑制を単純にしようとしたら、それまで算術を度外視していた医者たちは「潰れては困る」と続々と算術を考え始めるのではないでしょうか。
ちなみに、高すぎると非難されることが多い日本の国民医療費はパチンコに費やされる金額(公表されている分)より安いことは、皆さんご存じですよね。ついでに、ソースは忘れましたが、国民医療費は葬祭費の倍だそうで……倍も使っていると言うべきか、死んだ人への倍しか使っていないと考えるべきなのか……
さらにちなみに、日本が持っているアメリカ国債は2900億ドルですから、それを全部売れば日本人全員は一年間(健康保険の支払いもコミで)まったくの無料で医療を受けられる計算です。売れないでしょうけれどね。
【ただいま読書中】
李啓充著、医学書院、2000年、2000円(税別)
「アメリカの医療は世界一」とよく言われます。たしかにノーベル医学賞の半数はアメリカが取りますしTVドラマのERを見ても、ものすごい高度な医療が日常的に行なわれているように見えます。
……だけど……
映画「
ジョンQ 」や「
恋愛小説家 」を観た方は気がつくでしょうが、アメリカの医療は決して手放しで素晴らしいものではありません。素晴らしさには「お金さえあれば(高い医療保険に入っていれば)」という留保条件が付きます。「ジョンQ」はもろにそのテーマの映画ですが、そんなものとは無関係な「恋愛小説家」でもジャック・ニコルソン演じる小説家の隣人(絵描き)が強盗に骨折させられたら入院費用は61,000ドル。骨折で収入は絶たれた上にそんな支出……彼の人生は変わってしまいます。小説家が唯一心を許しているウエイトレスの子供は喘息ですが、彼女の保険では十分な治療ができていません。発作を起こした子供の付き添いで仕事を休まれると会えなくなるから、(いつレストランに行っても彼女に会えるように、という自己中心的な理由で)小説家は手配して子供がまともな医療が受けられるようにします。そのとき彼女が医者を見るときのまるで救いの神を見るような目つき、「私の保険では検査などは全然してもらえなかった」と不満を述べる口調……
あ、入院費の数字は、映画的な誇張ではありません。数年前のことですが、ある日本人(私の知人の知人)が旅行先のロサンジェルスで倒れて緊急入院。エコノミー症候群から足の壊疽、多臓器不全となって一ヶ月半で亡くなったのですが、4000万円払ってあとクレジットカードの旅行傷害保険で3000万円を追加したのに、病院からさらに1,900,000ドルの請求書が届いた例があります。皆さん、海外旅行をするなら、医療保険にはしっかり入っておきましょう。重病だったら、場合によっては日本から医者や看護師を呼び寄せ飛行機をチャーターして一緒に帰国する方が安くつきます。
どうしてこんなことが起きるのでしょう。アメリカでは1980年代から「このままでは医療費は果てしないインフレになる」という危機感から「市場原理を取り入れることで、医療費を抑制する」政策が取り入れられました。自由競争をすれば質は高く値段は安くなるだろう、という発想です。その結果、1990年代からHMOなどの「マネジドケア」と呼ばれる制度が急速に普及しました。これは要するに「保険会社が病気と利用者の保険の種類によって診療方針(どの医者にかかるか、どの薬を何日間処方するか、手術はするかしないか)を決定する」システムです。最初から「予算」が決まっているので、それ以上医療費はかかりません。
ユーザーは保険に入るとき、保険の種類と保険会社を慎重に選択しなければなりません。保険がカバーしない病気になったらそれはすべて自費です。もし保険会社が倒産したら、その瞬間から無保険者です。すべて「自己責任」です。保険料が払えない貧乏人は保険に入らず運を天に任せます。これも自己責任です。結果、無保険者は全国民の七人に一人となってしまいました。
無事保険が使えても、それでも高額な自己負担分を節約するために努力が必要です。入院したら高くつくから日帰りで出産します(ドライブスルー出産と俗に言われています)。手術後の傷の処置も自分でします。それでも日本の数倍の医療費ですけど。つまり市場原理の導入によりアメリカでは患者は不幸になったのです(実は「医療費の抑制」も成功していません)。喜んでいるのは、儲かっている保険会社だけ?
しかしどうしてそんなに高額になるのか……一因は人件費でしょう。「
ER 」では、夜中でも医療スタッフが病棟内をやたらとうろうろしています。凄い人口密度です。あの全員に給料をきちんと払おうと思ったら、それはちゃんと収入を確保しないといけません。日本でも人を増やしてきめ細かくて手厚くて高度なサービスをやろうと思えばできるでしょう。ただし患者の支払いも数倍になるでしょうけれど。
おまけ〕クリントン大統領は責任者にヒラリー夫人を任命して連邦政府として医療改革を行なおうとしましたが、結果は悲惨な失敗でした。その失敗の原因については『アメリカ医療の悩み』(スタンフォード大学医療政策比較研究プロジェクト、西村由美子訳・編、サイマル出版、1995年)に詳しく書かれています。データが古かったり、HMOではなくてDRG中心の記載ですけれど、これは発行年度を念頭に置いて読めば大丈夫。結局市場原理の医療経済が「医は算術」でしかないことはよくわかります。
昨日現職場で勤続10年ということで表彰状と記念品を頂きました。私の人生の中でもここが最長勤続記録を更新し続けています(職種で言えば、公務員を11年経験しているのでそちらの方がまだ長いことになりますが、公務員の間に職場を3カ所(+長期出張が2カ所、兼任を1カ所)経験していますから、固定した職場としてはここが間違いなく最長です)。
記念品は地球儀をセレクトしました。10年20年経って眺めたときにきっと国名が変わったりしているでしょうから、「今」を記念するにはふさわしいと思えたからです。
帰りにヤマダ電機に行ったら……ポイントが1100点あったのがキャンペーン中とかで50%増量となりました。切れていた常夜灯の電球を買ってぶらぶらすると……DVDが安いじゃないですか。1枚500円(税込み)ですと? 選んだのは「
第三の男 」「
踊る大紐育 」「
オズの魔法使い 」です。ポイント全部使って追加支払いは18円でした。18円でDVD三枚……個人的なご褒美としてはずいぶんお手軽ですが、しかしなんて時代になったんでしょうねえ。
【ただいま読書中】
シリル・ウェクト著、北澤和彦訳、徳間書店、1997年、1800円(税別)
「”法病理学者”というとたいていのひとは『Dr・刑事クインシー』を思い浮かべる」と序説にありますが、私は『
CSI 』を思い浮かべました。どちらにしてもTVと違って現実では「すべての殺人や陰謀が六十分で解決されるわけではない」のは同じですけれど。
記録に残っている最初の法医学的な検死解剖は、紀元前44年のジュリアス・シーザーのものだそうです。そこでは23箇所の刺し傷を数えどれが致命傷かを確認しました。(日本で最初の記録は『日本書紀』雄略天皇の皇女に対するものでしょう(妊娠の有無が問題になったので自殺死体を解剖しています)。中国だと後漢書王莽伝ですが……あ、こちらは法医学ではなくて学術目的の解剖記録だった)
本書は、O・J・シンプソン事件で幕を開けます。ついでホワイトウォーター疑惑にからむホワイトハウス顧問の「変死」、グレンヴィルの黒人暴動銃撃戦……そこで私が見るのは、「科学の手」がいかに真実を暴くか、そして「科学的真実」がいかにもろく法廷戦術でねじ曲げられていくか、の姿です。被告が黒人の時、陪審員を全員白人にしたら(そしてその黒人が白人への敵意を剥き出しにした経歴を持っていたら)被告の無実を証明するどんな「真実」も無力なことが示されます。(ちなみに著者はユダヤ系) さすがアメリカ、です(皮肉モード)。
著者は単に「死因がわかったぞ。よくやったと俺を褒めてくれ」の人ではありません。サンフランシスコの地震で二階建て高速道路の倒壊で死んだ人が必ずしも即死ではなかったことを指摘して救急体制の整備を提言し、ナイトクラブの火災では死者のすべてが焼死したわけではないことを指摘して建築基準の改正を導きます。殺人事件で死因の謎を解くのも正義の執行(あるいは不正義の防止)のためです。著者の生きる動機には「社会への貢献」が大文字で書かれているように私には読めます。そして著者が友人と認めたり尊敬する人とする条件は、有能・誠実・正直、のようです。問題は、その基準が「自分」であること。その結果著者には敵も相当多いようです(本書には明記されていませんが、雰囲気で感じます)。周囲が敵と味方に明確に分けられる……私にはちょっとできない生き方です。まあこの人は敵とするよりは味方にしたいな、とは思いますけれど。
航空機事故が続発しています(あるいは、報道が増えています)。一昨日起きた「全日空機客室に煙が充満」事故も大きく報道されていますね。
……でも、私にはこの事故のどこがそこまで問題なのかがわかりません。
整理すると、エンジンからオイルが漏れてそれが客室への空気取り入れ口に吹き込んだわけです。で、問題は何でしょう? オイルの毒性? そんな記述は(少なくとも新聞記事中には)見えませんでした。では、オイルが煙となって客室に充満して不愉快だったこと? それならオイルが漏れても客室に入らないようにすれば解決です。
ジェット旅客機では、高空の低圧冷気を取り入れて、圧縮と加熱をして客室に送り込んで換気をしています。だから空気取り入れ口がエンジン近くにある方が設計上有利なのだろう、と私は解釈しました。するとあとは取り入れ口の位置を、エンジンの横とか前にもっていくか、エンジンが故障したときにそちら側の空気口を閉鎖できるようにすれば良いでしょう。
いやいや、オイルが客室に入ったことではなくて、オイルが噴き出したこと自体が問題? もちろんそれは問題です。飛んでる最中にエンジン故障なんて、それは本当に困ります。でも「壊れては困る」「壊れてはならない」と力説しても、物はいつか必ず壊れると一休さんも言っています。問題は壊れたときに安全が確保されるかどうかでしょう。今回は「緊急着陸」したそうですが、つまりは無事生還できたわけですよね。安全が確保されたことは、問題ではありません。むしろポジティブに評価するべきでしょう。少なくとも私はポジティブに評価します。
もちろん、設計ミスとかエンジンの整備を手抜きしたとかボルトの締めつけをミスして壊れたとかの人為的なものがからんでいるのだったら話は別物です。それは徹底的に追及して再発防止を図らなければなりません。さて、マスコミの姿勢はどこを向いているのでしょうか? 何をどう追及して、その結果社会がどのように変わることを望んでいるのかな。
【ただいま読書中】
岡田喜一郎著、河出書房新社、2004年、1600円(税別)
シャーロック・ホームズは、探偵物として優れているだけではなくてヴィクトリア時代のイギリス(特にロンドン)の精密な描写が素晴らしい、と良く言われます。そのホームズに相当する日本の作品が半七捕物帖でしょう。捕物帖としても面白い物ですが、江戸末期の雰囲気を濃厚に今に伝えてくれる点で貴重です。明治時代の東京には、まだ江戸が濃厚に残っていたのでしょう。
さて、本書は岡本綺堂の半七捕物帖の番外編……ではなくて、半七捕物帖を読みながら、実際に舞台となった現場を歩いてみよう、という企画です。東京を歩きながら江戸を見る二重構造が見事です。著者はそれにさらに自身の子供時代の思い出を重ねます。浅草を歩きながら、江戸を思い六区の映画館を思います。隅田川の堤を歩いて、船遊びの好きな旦那衆のことと、少年時代に見た艇庫と東京オリンピックの映画でボート競技を撮影したことを思います。江戸と東京を重ねるだけでけっこう面白い観光ガイドにはなったかもしれませんが、それを個人に引きつけることで、フィクションとノンフィクション、思い出と歴史が合奏して、街のたたずまいは深みを増します。
一度上野駅の書店でオフの待ち合わせをしたとき、一角に江戸コーナーがあったのにはしびれました。特に江戸の古地図を現代の地図と重ねてみることができる本は「なんであのとき買わなかったんだろう」と今でも思います。(直前に古本屋で、江戸の古地図(『日本の古地図』1)〜3)(講談社)を買ったばかりだったんです。しかし、それでも「欲しい」と思った本は出会ったときに買うべきですね)
年間3万人以上の自殺者がでる現状を何とかしようと地方行政が取り組んでいる、と新聞にありました。厚労省が初めて自殺防止の予算をつけたのは01年度で3億円、05年度が8億5500万円で成果が上がらないので地方が独自に動いているようです。
個人レベルでは「自殺の痛み」は大きいでしょう。本人の苦しみはもちろん、残された家族や友人にも自殺は大きな影響を与えます。それは個人的体験としてもわかります。でも、社会レベルではどうでしょう? 自分が知らない他人が何人自殺しても、しょせん敗者として切り捨てたり、「それがどうした。他人事だ。一応同情はするけれど、死ぬ気があるのならなんでもできただろうに」と平気で言う風潮はありませんか? あるいは社会として、自殺者の家族や友人のケアへの取り組みがあります?
熱心にやっている公務員やボランティアには悪いのですが、現在の行政の、自殺に対する取り組みだけではなくてたとえば少子高齢化に対する取り組みを見ても、温かみを欠いていて根本から目を逸らして数字合わせに血眼になっているだけの態度を、私は感じます。ちょうど肺炎の患者の治療をするのに「咳と熱があるんだから、良く効く咳止めと熱冷ましだ。おかしいな、熱は一時下がるのにまた調子が悪くなる。ならもっと強い熱冷ましはないか」と肺炎の根本治療をせずに対症療法の薬だけを熱心に探し回っているヤブ医者のような。
ではどうしたらいいのでしょう。自殺をする人の数だけ自殺の理由と過程があるでしょうから、残念ながら「万能の特効薬」は無いでしょう。ただ、自殺しそうな人を洗い出して強力に説得して思い止まらせるのは、キリがないし現場の人間に負担が大きすぎるように思います。
そうですねえ、まずは認知(わが国には自殺者が多いことを認める)から始め、ついで「敗者」に対して敗者復活のチャンスが少しでも増えるような社会システムに作り替える勇気を我々が持つこと(それ以前に「敗者」と見ないようにすること)で社会が少しでも活性化したら、その結果として自殺者が減るかもしれません。あくまで結果として、ですけれど。そうそう、「行政がこんな活動をした」の結果に対する客観的評価も必要でしょう。予算は使うことにではなくて、その結果が出たことに意味があるのですから。
【ただいま読書中】
ティータイムブックス編集部編、晶文社、1998年、1900円(税別)
チョコレートが好きで好きでたまらない人達がよってたかって作り上げた本です。
リンネによって与えられた学名「テオブロマ・カカオ」は、ギリシア語で「神々の食べ物」でした。実際南米では、神への犠牲の儀式でもカカオ豆は用いられていました。また貨幣としても用いられていたそうです(カボチャ一個がカカオ豆4粒、奴隷一人が100粒)。王侯貴族の飲料だったそうですが、カカオの粉を水で溶いて唐辛子やトウモロコシの粉を混ぜたものですから、あまり食欲をそそる物とは思えません。
コルテスによってスペインにもたらされたカカオは、貴重で高価だったためか、ゆるやかにしかヨーロッパに広がりませんでした。ただ、修道院では愛飲されていました。断食期間中でも「飲み物は(禁じられている)食べ物ではない」という解釈からチョコレートを飲むことは認められていたのです。つまりヨーロッパでもチョコレートは「神々の食べ物(飲料)」だったのですな。……詭弁だと思いますが。
1828年オランダのヴァン・ホーテンがカカオから油脂を取り除く製法(ダッチ法)を確立しココア飲料をこの世に送り出します。19世紀半ばには「食べるチョコレート(板チョコ)」が誕生します。こうしてチョコレートはお菓子(あるいはそれ以上の食べ物)の地位を獲得することになりました。お菓子以外ではたとえば17世紀後半のレシピに「クロガモのチョコレート煮込み」なんてものもありますが、これはちょっと……
様々な小文から成る本ですが、単なる蘊蓄の垂れ流しというよりは、ちょうどトリュフの詰め合わせのような、箱の蓋を開けたらどこから手をつけようか迷うような雰囲気になっています。チョコレート好きは、キスチョコでもつまみながら、あるいはココアでも飲みながら適当にあちこちをゆっくり楽しむことができる本でしょう。
……ふと、マジャの持ちネタを思い出しました。「『手作りのチョコなの♪』って言う以上、カカオ豆から作ったんだよな!」ってやつ。
mixiの「好ましい日本語」コミュニティに「死語」として「14歳・17歳」を書き込んだあと、ふっとしばらく考え込んでしまいました。
少年犯罪の統計グラフを眺めれば、少年が犯す凶悪犯罪が突出して多いのは終戦後の昭和二十年代であることは一目瞭然です。するともし「凶悪犯罪を犯しやすい世代」というものが存在するのなら、昭和二十年代にティーンエイジャーだった世代……だと幅が広すぎるから、昭和25年(1950年)頃に十代だった人達(「ティーンエイジャー」は言葉の定義上13歳〜19歳でしょうが(11、12は「ティーン」ではないから)、面倒くさいから10年でひとくくりにすると)1930年〜1940年生まれの世代が「少年凶悪犯罪世代」と名付けられることになります。
戦争の苦労を乗り越え、終戦後のひどい生活を生き残り、高度成長の担い手だった人達にひどいレッテルを貼ることになりますが、このレッテルは本当でしょうか? どうも間違っているようです。さて、私はどこで間違えたのでしょうか? もちろん「色々な人の集合体を、単に数字(年齢)で区切って任意の集団とし、そこに一つのレッテルを貼ってそれで全員の評価をしたつもりになる」姿勢が間違いだったのです。
【ただいま読書中】
ダン・シモンズ著、嶋田洋一・渡辺庸子訳、早川書房、2002年、2300円(税別)
・オッカムの剃刀:通常、他のすべての条件が同じなら、もっとも単純な解決方法が正しい解決法である(オッカムのウィリアム、14世紀)
・ダーウィンの剃刀:通常、他のすべての条件が同じなら、もっとも単純な解決方法は愚かな解決法である。(ダーウィン・マイナー、21世紀)
ダン・シモンズといえば私が大好きな『
ハイペリオン 』シリーズや人の自由意思を操る超能力を小道具に使った『
殺戮のチェスゲーム 』を思い出しますが、今回はサスペンス・アクションです。タイトルはもちろん「オッカムの剃刀」のパロディですが……
主人公のダーウィンは「あの」ダーウィンではありません。物理学の学位を持つ腕の良い事故調査員で、古代ギリシア哲学に一家言あり、妻と子を事故で失った辛い過去を持っています。保険が絡みそうな事故が発生したと連絡があれば即座に現場に出かけててきぱきと調査を開始します。
広く知られているとおり、アメリカは訴訟社会です。ビル裏の細い夜道をライトをハイビームにして全速で走って人を撥ねた「事故」で、撥ねた方が「ライトが故障していた」とレンタカー会社を訴え「街灯が暗かったからだ」と街灯を管理する地区を訴える例が出てきます。うつ病の患者が「自殺」(実はとんでもない事故)でピストルで自分の頭を撃ったら家族が「自殺を予防できなかったのはお前のせいだ」と精神科医を訴えます。崖の転落防止のフェンスに全速でぶつかった車がフェンスを破って転落したらフェンスの設置者が「訴えられたら困る」と怯えます。日本では考えられないことが次々おきます。
で、保険会社は、費用がかさむ訴訟を嫌って安くすむ示談に持ち込もうとし、そこに悪人どもがつけ込む隙が生まれるわけです。ダーウィンは物理学と推理力を武器に、現場で実際に何が起きたのかを解明していくのですが、先日読んだ『
不審死体 』と同様、「科学的真実」が必ずしもそのままでは通用しないことに苛立ちを覚える毎日です。
さらに、ダーウィンがどれかの事件で解明した何かが誰かの逆鱗に触れたらしく、殺し屋がダーウィンを襲います。最初はアキュラNSX(日本名はホンダNSX)で走行中に路上でのマシンガン襲撃、次は自宅にいるところを遠距離狙撃。九死に一生を得たダーウィンはFBIの主任捜査官と共に、どの事件の何が誰の気に入らなかったのかを解明し、ついで反撃を始めます。
明らかになってくるのは、大規模な詐欺ビジネスです。交通事故を偽装して保険金を詐取するのですが、日本の当たり屋とは規模が違います。ロシアマフィアがからみ、人命は使い捨てで年間数十億ドルの荒稼ぎです。大物弁護士や警察官でさえ敵方です。
ダーウィンには、ベトナム戦争末期に海兵隊員としてベトナムで過ごしたという過去がありますが、その時の「特技」を活かすときがやがてやってきます。
同時に(アメリカ作品の定番)ラブロマンスも進行します。ただ、ちょっと異色です。何しろヒロインは、パラシュート降下しながら自分を襲ってくるヘリコプターに対してピストルを連射するタイプです。怒らせるとコワイのです。(実際には連続命中は無理でしょう。連続発射の反動で、良くて振り子運動、悪ければくるくる回転して索が絡んで墜落するのがオチだと思います)
そして最後は、OK牧場ですかそれとも映画の「スターリングラード」ですか。
ただ、途中でばらまかれている、名前やスパルタに関する伏線が最後にちゃんと生きるのですから、プロの作家の構成力はさすがです。一体どうオチをつけるのか、と思いながら読んでいたのですが、余計な心配でした。
……しかしこの本、なんで目次が無いのかと思っていたら……いや、鼻で嗤えば良いんでしょうけど。
ずっとカラ梅雨でしたが、昨日久しぶりにおしめりがありました。職場からバイクで帰る時だけざあざあ降ってその前後の時間帯はあまり降らなかったのは「マーフィーの法則だね」と薄く笑いながら言うしかありませんでしたけれど。
私は雨はあまり好きではありませんが、雨が降る前の雰囲気は嫌いではありません。空が少しずつ翳り、空気がしっとり重くなって水の匂いを含み始め、風は短く浅い呼吸を繰り返し枝々は不安そうにざわめきます。雨が降るのかなどうなのかな、と尋ねても空も風も答えてはくれません。だけどその気配だけは濃厚になってきます。
単に「前線が近づいている」で片づけたくはない、微妙な天の気の動き、それに包まれているのを感じるのは好きです。バイクでずぶ濡れになるのは好きではありませんが。
【ただいま読書中】
高正晴子著、明石書店、2001年、3800円(税別)
江戸時代の日本は鎖国状態でしたが、通商(貿易)が二カ国(オランダと清)、通信(外交関係)が二カ国(朝鮮と琉球)の計4チャンネルは世界に向けて開かれていました。もっとも琉球は薩摩の属国にされていて(最近に例を取ったら、中国がウイグルとチベットに対して行なったのと同様の軍事行動で)通信ではなくて実は密貿易の窓口だったし、蝦夷地のアイヌを通じた大陸との貿易チャンネルも生きていましたから(樺太経由で輸入された衣服は「蝦夷錦」と呼ばれて江戸はじめ各地で珍重されました)、けっこうあちこち穴が開いていた「鎖国」ではあったようです。
秀吉によって国土を無茶苦茶にされた朝鮮は日本との国交を断絶していましたが、家康が「悪いのは秀吉。徳川は秀吉を滅ぼした善玉」と国交回復の誘いをかけ、それに応じて被虜人奪還と偵察を目的とした使節団が来日したのが朝鮮通信使の始まりです。私の記憶では初期は(内部的には)「探賊使」と称していたはずですが(鬼畜米英ならぬ、賊日本だったのでしょう)、そのうちに落ち着いて「通信使」の名称が定着しました。それでも友好善隣外交の雰囲気が醸成されるのには100年くらいかかったようですが。
本書は、朝鮮通信使にどのようなご馳走が振る舞われたのか、の研究です。慶長十二年(1607)から文化八年(1811)まで計12回来日した朝鮮通信使に対する日本側の献立を分析して、日本料理の時代的変遷についても考察をしています。
しかし使節団は三百数十人〜五百人規模。それを全力で歓待するのですからいくら金がかかったことか……残された記録では、慶長度の406人の使節団に対しては1日あたり米四十七石五升(+薪・茶)の供給が行なわれています(米は通貨ですから、市で好みの食品と交換されることになります)。明暦度では嘘か本当か経費は総額百万両だったそうで。瀬戸内海は泊まり泊まりゆっくり海路、大坂で上陸してあとは陸路ですが、途中の饗応役の苦労はどんなものだったでしょう(十万石以上の大名は自腹の接待だったそうです)。客館におしかけて文化交流をする文化人たちは(ことばは通じなくても、漢文を書けば大丈夫でした)ただ単に漢詩や朱子学が学べる知的興奮で嬉しいだけだったでしょうけれど。さすがにこれではたまらんと正徳年間に新井白石が大々的な経費節減を行ない、60万両にまで圧縮しました。その当時の幕府の歳入が年間76〜77万両だったことを思うと、費用のすごさには目がくらむ思いです。
日本料理の饗応をする場合と、食糧を供給して使節団の料理人が料理する場合とがありますが、日本側が饗応する場合でも献立に「ふたの汁」「かはら焼牛」「庭鳥なんはん汁」「猪」など動物性蛋白も多くはないとはいえちゃんとあるので、相手の好物を調査してそれに合わせようとする努力を惜しまなかったようです。それでも、毎日毎日日本料理を食べさせられる使節たちは、相手の誠意がわかるだけに文句を言うわけにもいかず、口に合わない料理にけっこう辛い思いをしたようです(昔別の本で読んだ使節の日記に食べ物の記載がけっこうありました)。
献立にはお菓子(ヤウカン、アコヤ餅、ラクカン、ウイロウ餅、輪餅……)や果物(リンコ、葡萄、柿、梨、柚子)なども豊富で、当時から「デザート」という概念が日本料理にはあったのでしょうか。食後ではなくて食事中のお膳に一緒に盛り込まれていますけれど。そういえば皿鉢料理は酒の肴もおかずも甘い物もまとめてどん、でしたね。高知県にあるのは由緒正しい日本料理、なのかな。
献立をじっと見ていると暗号を解く気分になることがあります。たとえば明和度の献立には「ふはふは(鍋引)」があります。何だ?と明暦度の献立を見ると「たまこふはふは」が。すると「ふわふわ卵」? 玉子焼きか伊達巻きか、まさかオムレツやスクランブルエッグじゃないですよね。肉料理や卵料理は、はじめは朝鮮の料理人から日本の料理人が教わって作ったようで、その結果日本料理は少しずつ変化していったはずです。逆に宝暦14年には対馬の甘藷が朝鮮に伝えられ済州島に植えられました。日朝の料理文化交流です。
天和二年(1682)の通信使では、三島での御馳走人(接待の責任者)を「あの」浅野内匠守長矩が勤めています。江戸城でのお出迎え役は上野介義央。松の廊下の19年前です。饗応役について浅野はそれなりに経験を積んでいたんですね。
家計が赤字だったら一昔前の「我が家の大蔵大臣」(今は財務大臣)はこう言います。「支出はこのままで収入を増やさなければ」……違います。本当はこうです。「支出をなんとか切りつめなきゃ。なにかカットできるものはないかな。それから収入を増やす手があればいいんだけど……」
ところが国が赤字だと政府はこう言います。「増税だ」
単純に数字を見たら、国の歳入は年間約41兆円、歳出は81兆円ですから40兆円の赤字です。で、それを埋めるために赤字国債を発行し続けてそれがつもり積もって578兆円!
http://members.at.infoseek.co.jp/Ichimuan/
これは大変だなんとかしなきゃ。で、その根本対策は、収入を増やすことでしょうかそれとも無駄遣いを減らすこと? あるいはその両方。
手っ取り早いのは消費税の税率いじりでしょう。消費税を1%上げたら(単純計算では)2兆5000億円の増収です。ただし買い控えが起きるでしょうから目算よりは減るはずですから話は簡単ではありません。昔の物品税を復活させたらどうでしょう。高額商品には高率の消費税にするのです。だって、同じ炭素原子だからと言って、ダイヤモンドと備長炭が同じ税率って、何か変じゃないです?
でも、そんなに国の財政は不足しているんでしょうか? ちょっとデータを見たら、特別会計というものが存在しています。その規模は、266兆円!!! さらに、一般会計から特別会計への支出まであります。あれ? あれれ? グリーンピアの大失敗は確かこちらの特別会計でしたよね。石油公団の損失もこちらで処理されたんでしたっけ? 特殊法人への業務委託費は?
表の会計は大赤字だと誰かが強く主張しているのに、裏ではこっそり大盤振る舞いですか。会社が大赤字だと役員の賞与はカットされます。国が大赤字なのに特殊法人の役員は2年でやめてもン千万円の退職金ですか。
なるほど。
【ただいま読書中】
日本勤労者山岳連盟編、大月書店、2002年、1800円(税別)
日本の山の環境破壊は深刻です。開発という名前の大規模破壊、観光という中規模破壊、それにオーバーユース(登山者の過度の集中)による、高山植物の盗掘や植物群落の踏み荒らし・排ガス汚染・膨大なゴミ……そしてトイレ。
私一人が山に入って排便しても、その日その山にいる人間が私一人だけだったら自然の浄化力に頼ってもたぶん大丈夫でしょう。しかし、「私一人くらい」と思う人が一万人いたら? 別にそんなに凄い数字ではありません。一日に数万人が入山する山はいくらでもあります。なにしろ日本の登山者は1000万人。そしてその多くが「百名山」などに集中するのです。そして、人は一日に1400mlの尿と150〜260gの大便をします。ちょっとかけ算をしてみて下さい。尿が14000リットル(重さにして約14トン)、大便は1.5〜2.6トン。それだけの尿と便がたった一日の間に山肌にぶちまけられるところを想像してみましょう。それにプラスして、尻を拭いたティッシュペーパーとタバコの吸い殻や弁当ガラなどのゴミと生理用品が加わります。少なくとも東北の早池峰で山を愛するボランティアが山頂の山小屋のトイレから、一斗缶で汲み出して麓に担ぎ下ろしたのはそういった内容の放棄物でした。ボランティアの代表は言います。「必要なのは、良いトイレではない。良いマナーだ」 そして、山からゴミを持ち帰ること、糞便も「生ゴミ」なのだから携帯トイレで自宅に持ち帰ることをねばり強く提案し続けます。
もちろん環境負荷の少ないトイレの建設も良いことでしょう。ソーラー発電や風力発電を利用した優れたエコトイレの研究は各国で続けられています。しかし、尿も大便も弁当ガラもタバコもタンポンも汚れた下着も一緒くただったら、汚物の処理は困難です。
ゴミは分別するのが常識ですよね。だったら山のトイレも分別が必要です。ゴミなどをトイレに捨てるのは論外ですからそれは除くと、あとは液体と固体と紙。最初からその三者をきちんと分別すれば、後の処理はぐんと楽です。(ただし紙が自然発酵するものだったら、混在が可)
人が山に登り自然を楽しむ、それは咎められるべきことではありません。固い言葉を使うなら、それは人として行使できる当然の権利です。しかし、そういった自然の利用によって環境破壊が起きる場合、利用と保護の両立を目指して様々な工夫が必要になります。単純な解決法は(おそらく)ありません。さらに「監視」も必要です。たとえば「入山禁止」処分は、利用を禁止すること自体に問題があり、また同時に、高山植物の盗掘や乱伐や乱開発をする行政や業者を監視する人間(入山者)をそういった現場から遠ざけるだけになります
登山道を広げ植物を踏みにじる集団登山も、一律に悪者扱いするかどうか簡単には言えません。それに対して強い山もあれば弱い山もあるのですから、それを見極める努力がまず必要です。すると、理念を持たず現場を知らず観念論しか言えない人(行政に多いそうです)には正しい解決方法の提示はできません。
また、「自分はトイレに行きたかっただけだ。あとは知らない。誰かが何とかしてくれるだろう」と自分が環境を破壊しておいてその尻拭いを他人にさせる人間は、無責任で傲慢と評することができるでしょう。
そもそも山が好きだから山に登るのでしょう。でも、その結果山を破壊して平気なのなら、その人は山を愛しているのではなさそうです。「そんなことはない、山を愛している」……迷惑な愛です。ストーカー?
自信を持って断言しますが、私は敬語が苦手です。丁寧語ならとりあえずなんとか使えてます(使えているつもりです……使えてないかもしれません。ごめんなさい)。でも尊敬語と謙譲語は限られた数個のボキャブラリしか持っていません。
……いえ、わかっているんです。これではいけないってのは。ただ、社会人としては落ちこぼれで今さら真っ当な道には戻れないでしょうから、今から必死に訓練する気にもなりません。私はぐーたらなのです(鰺の開き直りモード)。
敬語は敬意を示すための道具です。ですから、ことば以外で相手に敬意を伝えられるのなら、別に敬語にこだわる必要はないでしょう。ただ、残念ながら私はテレパシーを持っていませんので、その「ことば以外」の手段を駆使することがあまり上手くできません。困ったものです。
そうそう、いくら懇切丁寧に理を説いても相手が「うん」と言ってくれない場合、その「理」が正論かどうかは別として、相手が「こいつは自分に敬意を持っていないな」と感じている場合があるかもしれません。こちらの心に敬意がなかったらいくら敬語を使っても慇懃無礼で丁寧に言えば言うほど逆効果ですから。あるいはその逆で、相手がこちらに敬意の欠片も持っていないから馬鹿にして最初からこちらのことばに耳を傾けてくれないのかもしれません。どちらにしても寂しい会話です。
【ただいま読書中】
林望著、平凡社、1991年、1800円(税別)
タイトルを見たらニヤリとします。だって「イギリスの食事は不味い」が「常識」でしょう? それが「おいしい」ですから。さて、どんな理屈をこねるのかな、とページを開くと……いや、これが面白い。イギリスで実際に長く過ごした著者が、庶民の食べ物を色々食べ、自分でも台所に立ち、イギリスをいかに味わったかを報告してくれます。
イギリスで食べる料理はまずい、で本書は始まります。塩加減は滅茶苦茶で、ほとんどの料理は塩味が薄すぎるので食卓に常備されている食卓塩を味をみる前にかけるのが習慣になってしまいますが、時に逆に塩辛すぎる場合にそれに塩を足したら悲劇が起きます。野菜は茹ですぎです。短くて20分、長いと40分ただひたすら茹でるのです。口の中での食感(テクスチュア)も栄養も滅茶苦茶です。
しかし、美味しいものもあります。林檎。モルトビネガーと塩をかけたフィッシュアンドチップス……えっと、それから……(笑)
そうそう、著者が教えている日本の女子大生たちが、食べもしないで思いこみだけで「酢をかけたポテトフライなんて不味そう」と「断言」する姿に「まず食べてみなさいよ」と困った風に言う著者の姿は笑いを誘います。未知の味に対して、人はきれいに二つに分かれますよね。胡散臭そうに体を引くタイプと、好奇心丸出しで突っ込んでいくのと。私はどちらかというと後者なんですが、生き残る確率が高いのはどっちかな……おっと、話が逸れました。
スコンの正調の製造法についても著者は熱心に述べます。スコーンではなくてあくまでスコンだそうです。私は今までに美味いスコーン……おっと、スコンを食べたことがないのですが、それは単に美味いスコンに出会ったことがないからかもしれない、と信じてしまいそうな熱意を感じる文章です。
やがて話は「文化」に及びます。イギリスでは「主食」という概念が欠如しています。というか、食事を主食と副食に分けて考えるのは日本文化の特色なのかもしれません。
公的あるいは私的な食事全般にわたって、イギリス人の質実剛健の生活信条が料理そのものや食べ方にも現れている、と著者は感じます。国民としてのライフスタイルがストレートに「食」に現れているんですね。ハレとケで言ったら、ケの方を大事にするライフスタイルなのでしょう(もちろんハレも大事にはしますが)。そういえば、子供時代に家で食べた食事は、普段はそんなに御馳走でもなかったなあ、と思い出しました。
著者が本当に偶然出会った一家の結婚式に招待されたとき、披露宴の御馳走をすべて花嫁一家(主力は母親)が作ったことを知ります(ローストチキンだけで鶏30羽、2〜3日は一家3人が交替でオーブンの前に張り付いていた)。日本のように豪華とか派手ではないけれど、素朴で温かいもてなしを受けてすっかり満足し、著者は自分の娘にもこのような結婚式と披露宴をさせたいと考えます。そして、友人の心のこもったもてなし。あるいは塩味無茶苦茶で茹ですぎの野菜の家庭料理をかこんだ家族の団らん。料理はやはり「不味い」のですが、そこで著者は満ち足りた時間を過ごします。
そう、著者は「イギリス料理」を食べているだけではなくて、「イギリス人と食べている」「イギリス文化を食べている」時間を過ごしていたのです。
そしてもう一回タイトルを見て私はニヤリとします。「イギリス料理はおいしい」ではなくて「イギリスはおいしい」なんですよね。著者の思いが一つ分かったような気がします。
「これからの日本人はグローバルにならなければならないから、英語がぺらぺらでないと」と主張する人に時々出くわします。まあムキになって議論する気にもなれないので普通はスルーしますが、でも消せない疑問が私の心の中にずっと残っています。「英語がぺらぺら、それはけっこう。で、あなたはその英語で何を話すの?」
外国人と私が会話するとして、その外国人が私から聞きたいのは「これは鉛筆です。私は男です。今日は良いお天気です」ではないですよね? その人の興味の中心がどこにあるかによって二人の間で展開する話題は違うでしょうが、私が提供できるのは、たとえば共通の趣味について、たとえば日本文化について、あるいは、私が考えていること(の中で、相手の心に共鳴するあるいは反感を起こすもの)についてではないでしょうか。だとしたら、私が準備するべきは、伝達手段にだけ熱心に取り組むことではなくて、その伝達手段で伝達するべき「中身」について詳しくなることでしょう。
私は英語が苦手なので言い訳をしているだけかもしれませんが、英語にばかり夢中になるよりも、「あの日本人と詳しく話をしたいから、日本語を学ぼうと思った」と外国人に言わせるくらいの存在になる方が、よほど「グローバルな存在」になることじゃないかなあ。
……もちろん私には無理ですけれど。
【ただいま読書中】
山本東次郎・近藤ようこ(対談)、平凡社、2005年、1200円(税別)
狂言大蔵流四代目の山本東次郎さんと漫画家近藤ようこさんの対談です。
狂言には、大蔵家・山本家・茂山家などの大蔵流と、和泉家・野村家などの和泉流の二つの流派があります。秀吉の時代は、能は金春流・狂言は大蔵流と決まっていましたが、徳川家は能は観世流・狂言は鷺流としました。現在鷺流は、山口と佐渡に台本が残っている程度、と本書にはありますが……なんで読んだのだったかなあ、たしか山口にはまだ鷺流狂言を伝える人が一人だけいて(サラリーマンとの兼業だったかな)県の無形文化財になっていたはずです。
狂言は単に能と能の間の息抜きのためのコミックプレイではなくて、能とはまったく違った発想で明らかにフィクションであることを示しながら観客が自分に引きつけてみることができるドラマ(特に人間の愚かしさを示す心理劇)である、と山本さんは言います。
たとえば「靱猿(うつぼさる)」では、大名と猿引(猿回し)の間の「常識」の違い(大名にとっては猿は毛皮、猿引にとっては飯の種であると同時に相棒)を面白おかしく演じると同時に、大名の権威が実はそれほど大したものに支えられているのではないことを終盤に大名の服を一枚一枚脱がせることで見せてくれます。三間四方の舞台で、象徴化された動作と小道具によって、様々な心理の襞の深みを(少なくとも見る目を持った観客には)見せているわけで、単に失敗した太郎冠者を主人が「やるまいぞやるまいぞ」と追い回すだけの喜劇ではないのです、と山本さんは力説します。
能では人は面をかぶることで依代(よりしろ)となりますが、狂言では違います。面をかぶる場合も、能とは違って、面の「女」「老人」「鬼」になるのではなくて、自分の中にあるそういった部分を引き出すための装置として用いるのだそうです。
私は知らなかったのですが、狂言をやる人は能にも出番があるんですね。能は全部で200〜250番、そのうち狂言方が出演するのが198番もあります。アイと呼ばれる役をこなすのですが、ナレーター役の「語りアイ」や一役を演じる「会釈(あしらい)アイ」で、能の進行に狂言方は非常に重要な役目を果たしています。狂言は全部で200番。狂言方は狂言も能も全部覚えなければなりません。これは大変です。
論2さんとCanonさんから重複指名を受けてしまって……むう、まあ書けるとこだけ書いてお茶をにごします。しかし、音楽の好みをばらすというのは、読書の好みをばらすよりももっと心の内核に近いところを晒すような気がしますな。
・PC内の音楽:約533MB。CD「
ハラショー! 」(「オーバーマン キングゲイナー」のサントラ)が丸々入ってます。
・今聴いている曲:今は何も聴いていないけれど、ついさっきはラジオで「タイガー&ドラゴン」を聴いてました。
・最後に買ったCD:たぶんこの1〜2年、自分のためのCDは買ってないです。もしかしたら「ハラショー!」が最後かも。最後に買った音楽DVDなら「
女子十二楽坊 」、最後に買ったミュージカル映画DVDなら「踊る大紐育」と「オズの魔法使い」。
・特別の思い入れがある5曲
2)「パヴァーヌ」(フォーレ作曲) とりあえず出てきたCDのはボストン・ポップス(指揮ジョン・ウィリアムズ)ですが、こちらよりLP(現在行方不明)に入っていた合唱付きの方が好み
3)「傘がない」(井上揚水)
4)「Somewhere」 映画「ウエストサイド物語」のサントラ
5)これは困ったな。
「Down to the Moon」(アンドレアス・フォーレンバイダー)、「I'd be suprizingly good for you」「Don't cry for me Argentina 」(ミュージカル「エビータ」)、「レクイエム作品48」(フォーレ作曲)、「I cheat the hangman」(ドゥービー・ブラザーズのアルバム「スタンピード」)、「マラゲーニャ」(フラメンコの名曲)、「フランス組曲」(J・S・バッハ)、「イタリア舞曲」(ルネサンス時代の舞曲)、「ポイント・オブ・ノー・リターン」(ミュージカル「オペラ座の怪人」)、「トッカータ ニ短調」(スカイ(イギリスのクラシックギタリスト、ジョン・ウイリアムスが結成したインストゥルメンタル・ロック・グループ)の演奏で)、「スリラー」(マイケル・ジャクソンのミュージックビデオ)、「モルダウ」(スメタナ作曲 連作交響詩「我が祖国」の第二曲)、「第三の男のテーマ」「ゴッドファーザー愛のテーマ」「雨に唄えば」「禁じられた遊びのテーマ」「タラのテーマ」「ゴジラのテーマ」……などの中から一つだけを選べですと?
無理です。
しかし、読む本と同様、色彩(?)豊かですなあ。自分でもあきれます。
で、バトンを渡す次の人ですが……テレパシーを使いましょう。「おかだからの指令を受けた」と感じた人は、さあ、音楽の好みをゲロするのだ。
【ただいま読書中】
浦沢直樹作、手塚治虫原作、小学館、2004年、(1)1800円(税込み)(2)1500円(税込み)
おまけ付きの豪華版を買ってしまいました。おまけ無しの通常版なら1000円は安くなるんですが、懐かしのアトムシールがどんなのかの好奇心に負けてしまって……開けたらやっぱり懐かしい。私の子ども時代の机は現在実家で親父が使っていますが、側板にはまだいろんなシールがべたべた貼られたままのはずです。親父がパソコンが欲しいと言い出したのでその相談に乗りがてら、ちょっと机を見に行こうかな。
まず、PLUTOが登場するアトムの『地上最大のロボット』をあらためて読み返しましたが、やはり傑作です。地上最大の傑作とまでは言いませんが4〜50年前にここまでの「ドラマ」を描いていたとは、やはり手塚治虫はすごい(「古い」とか悪口を言う人がいますが、そういった人には「ほら、こういったのが50年後にも通用する作品だよ」と自分で作った作品を提示してもらいたいと思います)。
浦沢さんが作ったのは、ロボットに人権があり、家庭生活を営み、夢を見、感情を持ち始め、そして死ぬことさえある世界です。主人公はドイツの刑事ロボット「ゲジヒト」。アトムではいかにも「特殊合金です」と言わんばかりの姿でしたが、こちらでは普通の人間の姿、つまりアンドロイドです。ついでですが「サイボーグ」は「脳が人間」なら形は問いません。ロボットは「脳は人工知能」で、その中で形が人間型のものを特別にアンドロイドと言います。ですから『攻殻機動隊』の素子は、人型のサイボーグです(でした)。
で、ゲジヒトも結婚しているのですが……長男が「奥さんはロボットではなくて人間かも」と言ったとき「まさか」と思いましたが、あとで「いやいやもしかしたら」と思い直しました。最悪「
トータル・リコール 」に出てくる奥さんだったりしたら悲劇ですけど。
過去の第39次中央アジア紛争に関係した人とロボットが次々殺されていくのはなぜか。ゲジヒト夫妻の秘密。殺人を犯した人工知能には欠陥はないという恐ろしい事実。ゲジヒトの記憶を読んでアトムが泣いた理由。PLUTOの肩に乗っている謎の人影。人のようで人の痕跡を残さない殺人犯。大量破壊ロボット。どうやら事件の黒幕らしい合衆国大統領のブレーン。なにがどうなっているのやら。
私の予想では、おそらく人型サイボーグが事件に絡んでいるはずですが、さて、予想通り話が進んでいくのか、あるいはしっかり裏切られるのか、この先が楽しみです。
……しかし、ロボットの食事風景を見るとエイトマンをまず思い出すのは、やっぱり年のせいでしょうか。
「政治改革」「行政改革」「教育改革」「税制改革」「抜本改革」「年金改革」……これだけ改革を次から次にやったら、日本はとっても「良い」国になっているはずなんですけど……実際はどうです? 昔よりものすごく良い国になりました? いや、たしかに昔より生活は豊かになりました。機器はハイテクです。でも「改革」が目指した「理想」は実現しましたか?
医者は普通自分の体は手術しません(例外はブラックジャックだけです)。下手すると「冷静に見ることができないから」と自分の家族でさえ診ようとしません。
さて、「改革」は、医療の世界での漢方薬のようにじわじわ効くものではなくて、手術のように大きく改変することですよね。で、手術を受けるべき患者(この場合は旧体制の人間)が自分で自分に手術をする(改革を断行する)のは、なかなか難しいことなんじゃないでしょうか。だって、誰だって痛いのはイヤだもの。
だからといって委員会方式にしても、旧体制の息がかかった委員が選ばれて都合良く決議や勧告を行なうのならそれは意味ありません。
いっそ、裁判員制度のように、一般国民から抽選で選ばれた委員に改革の方針を決定させたらどうでしょう。改革賛成派と反対派が証人となって様々な資料を解説して、素人の委員がそれに基づいて決定を下す……少なくとも今より悪くなることはないんじゃないかしら。
【ただいま読書中】
ノーム・チョムスキー(ロングインタビュー)、田中美佳子訳、成甲書房、2004年、1500円(税別)
チョムスキーは面白い人物評をします。
アリストテレスは「過激派」です。アリストテレスの『政治学』では、民主主義は一般市民全員が参加するべきものでありその目的は「公益」でした。そしてその目的を達成するために必要な社会的条件は、ある程度の平等・適度かつ充分な財産・長期の繁栄の保証、です。つまり、あまりに貧富の差が激しい社会(現代の資本主義の社会)ではアリストテレスの理想は実現しません。実現するためにはこの社会を破壊する必要がある→アリストテレスは過激派、なのです。
レーニンは「極右」です。なぜならレーニン主義者は政治権力に執着するからです。
*そういえばたしかに「右」とか「左」と言ってもあまり意味がない時代になってますね。私自身、文化的には保守主義だけど政治的には民主主義者で経済的には福祉国家論者です。さて、私は右なのかな左なのかな?
チョムスキー自身も「過激派」ですね。「現在の「民主主義」はちっとも民主的ではない。政治は経済に支配され、企業は全体主義的(トップダウンで権力が振るわれる)な存在、したがって現在のアメリカは、タテマエは民主主義だけど実体は全体主義」と断言します。そしてアメリカの「陰謀」(アメリカの地位を脅かしそうになったりアメリカの言いなりにならない政権が生まれそうな国に対しては、脅したりすかしたりしてそれを妨害しようとし、いざとなれば軍事介入も辞さない)の存在を強く主張します。たしかに日本が半導体や自動車でアメリカ企業を脅かしたときにはアメリカ政府が介入してきましたし、キューバやリビアやニカラグアやベトナムに対する軍事的な介入もありましたが……そんなにしょっちゅう「陰謀」ばかりやっているのかな、と思って記憶の総ざらえをやったら、たしかにけっこうたくさん実績がありますね。……むう。
私はいつか「自由と平等の両立は難しい」と書きましたが、「本当の意味での民主主義の確立も難しい」ということなんでしょうか。歴史は一直線ではなくて螺旋状に進むもので、その進行は遅々として進まず、なのかなあ。それでも少しでも進行しているのなら良しとしたいところですけれど。
人は地球上で進化してきました。では、地球から宇宙に人が進出したら、そこで人は進化するでしょうか。宇宙の環境は過酷です。低温・真空・微少重力・放射線……それらに耐えることができるように人が変わっていくことは、十分考えられます。
進化は「生物がよりすぐれた形質になること」ではありません。「その環境に適合した子孫を多数残すこと」です。すると宇宙環境で人がどう変化しても、それを子孫に伝えなければ意味ありません。「獲得形質は遺伝しない」のですから、生殖細胞をどうするか、が問題となります。
少なくとも放射線によって突然変異は増えるでしょう。発現する様々な形質の中で、宇宙に最適のものが他の形質の人に比べて多数の子孫を残せば、ダーウィン理論は満足されることになります。あるいは人のことですから、受精卵診断やあるいは遺伝子そのものをいじって良さそうなものの子孫を人為的に増やそうとするかもしれません。
重力がなければ胎児が頭を下に向けなくなるでしょうから自然分娩は困難になるでしょう。さらに下世話な話ですが、無重力下での受精は卵子に到達する精子の選択にどんな影響を及ぼすでしょうか。今は21世紀。本当に今世紀中に、そういった話が現実的な議論として行なわれるようになるのかもしれません。
【ただいま読書中】
三井いわね著、ポプラ社、1999年、1470円(税込み)
子ども(小学校の高学年〜中学生)向けの本ですが大人が読んでも面白い本です。
著者は子ども時代から宇宙へあこがれを抱いていました。国際基督教大学に入学後に「NASAの宇宙飛行士には医学を修めた研究者が最も多い」と聞き「可能性が高い道を選ぶべきだし、もし宇宙飛行士になれなくても宇宙医学を研究すれば宇宙開発に貢献できる」と大学を中退して筑波大の医学部に入り直します。卒業前にヒューストンの宇宙医学研究施設を訪問して「まずは臨床をきちんとやって専門を固めてから宇宙医学の大学院に進んだ方がレベルの高い研究ができる」と聞いて脳外科の道を選択しそのかたわら宇宙医学の研究も行います。その研究がNASAの関心を引き、数年後NASAのエイムス研究所へ招聘されます。いろいろ回り道をしたようですが、結局著者は自分の子供時代の夢を確実に実現していったのでした。著者は言います。「夢を持つこと。努力すること。そして夢を持っていることをことばにして語ること。そうすると不思議なことに周りの人が色々協力してくれて夢が少しずつ実現する」
重力は生物の進化に大きな影響を与えています。たとえば蛇。水中生活をする蛇は重力があまり問題になりませんから、心臓は頭から離れたところにあります。しかし、木の上にいる蛇は重力に逆らって効率的に脳に血液を送るために、心臓は頭にごく近いところにあります。人間の体も重力によって作られています。では宇宙に出て重力がなくなったらどうなるでしょう?
無重力状態(本当は微少重力環境)では、地上では重力に引っ張られて集まっていた下半身の血液が回るために上半身の血流が30%アップし、ムーンフェイス(満月様顔貌)になります。しかし医学的に問題なのは、顔よりも脳です。顔が腫れる以上に脳がぱんぱんに腫れているのですから。背は伸びます。重力に耐えていた背骨のS字カーブが直線化するのです。血流が増えて栄養状態が良くなるため、頭蓋骨は分厚くなり髪の毛は増えます。足は軽く血流が減るため、足の手術は楽になります。地上では無理な体位の手術も無重力だと軽々です。老化のメカニズムにも宇宙科学のメスが入りはじめています。
宇宙は、体だけではなくて心にも影響を与えます。毛利衛さんは「1周目には日本を見つけて嬉しかった。2周目はアジアを見て嬉しかった。3周目からは陸地を見ただけで『あそこには人間が住んでいるんだ』と思えて嬉しくなった」と述べています。意識が日本から地球へと少しずつ拡大されて行ったのです。向井千秋さんは地球を見たとき、自分が宇宙のことばかり知ろうとして地球のことをあまりに知らないことに気づいて愕然としました。神を感じた宇宙飛行士もいます。人はそれぞれ別のことを思いますが、地球を出ることで地球のことを深く思うようになるのです。
著者は(そしてNASAは)宇宙開発という「空間のフロンティア」だけではなくて、子どもたちの教育という「時間のフロンティア」も重要視しています。理想を持ち、科学技術を開発しその成果を地上に「スピンオフ」という形で還元し、子どもたちにチャレンジする機会を与える。「人類はどこからきてどこに向かうのか」その答を一緒に探そう、と著者は子どもたちに呼びかけます。
家内(*)の母親が先日東京でタクシーを使ったとき、お釣りにもらった300円がすべてスロットのコインだったそうです。急いでいたし夜でよく見えなかったので枚数だけざっと見てすぐ財布にしまったので、翌朝まで気がつきませんでした。
一枚だったらたまたま混じっていて、ということもあるでしょうが、三枚とも全部ですからこれは狙ってやった小銭詐欺だと私は判断します。老人で夜という条件で、もし見破られても「おやおや、前のお客さんにもらったのを気がつかなかった」とか言えばごまかせると踏んだのでしょう。
皆様も、タクシーに限らず、お釣りをもらったらかならず金額が合っているかと同時に、それが正しいコインかどうかの確認をお忘れなく。人を信じられなくなった世の中は悲しいですが、自分が騙されて腹が立つのもイヤですから。
*)「家内」ということばが嫌いな人があちこちに多いことは承知していますが、私はこの言葉を使います。そのことについて説明しておきましょう。
私たち夫婦が結婚して最初に決めたのが、二人の小遣いの額、そして他人にお互いをいうときに使う呼称でした。彼女は少し悩んでから「『家内』と言って」と言いました。私は他人のご機嫌よりも彼女の自己決定の方を重んじますので、それ以来彼女に言及する場合は「家内」を使っています。(ちなみに私は「主人」という呼称を使われていますが、そんなリクエストを出したっけなあ?)
家内の母親が遊びに来ているので、ちょっと三人で映画にでも行こうかということになりました。なんでも夫婦50割引がもうすぐ廃止されるという噂を聞いたので、割引が効く内に行っておきたかったのです。おかげで二人で2000円。義母はシルバー割引ではなくてレディース割引で1000円(どちらの割引でも値段は同じですが、気分の問題です)。
観に行ったのは、少し前に夫婦で行った「きみに読む物語」……いや、私としては「
宇宙戦争 」でも良かったのですが、一緒に行く人の顔を見てこちらに決定です。良い映画は何回観ても良い映画なのです。
前回はそれほど気にならなかったのですが今回は、ノアがアリーに出会ったときと7年後に言う"What do YOU want?"ということばが心に残りました。
【ただいま読書中】
平谷美樹著、角川春樹事務所、2005年、1900円(税別)
ふらふらと世界を旅していた「ぼく」は、エルサレムで発掘作業のバイトをすることになります。場所はオリーブ山のゲセマネの園(最後の晩餐の後、イエスが神に祈りを捧げローマ兵に捕えられた場所)。2000年前の地層から「何か」が出てくるはずだと作業が行われていますが、聖杯をバチカンが探している、という噂が流れてきます。ゲセマネで聖杯?
なぜか「ぼく」に近づいてくる、ムスリムのマスウード、麻薬密売所のファティマ、少年ヨシュア、ユダヤ人学生アレンス、バチカン枢機卿ビットリオ……流れ者の日本人に近づいて得はないはずなのに、皆腹に一物ありそうです。
ユダヤ教・イスラム・キリスト教が絡み合う「聖地」では、新しい預言者シハーブッディーンが説く、「我が神」(他の宗教を否定し信者の自分への絶対服従を要求する神)の否定と「神」(全宇宙を包含する神)の肯定の教えが確実に広がり始めていました。「ぼく」が見た幻視は麻薬が作り出した妄想なのか、それとも聖物の持つ超常的な力によるものなのか……「ぼく」が体験したシハーブッディーンの「超能力」は、麻薬が紡いだ幻想なのかそれとも本当に超能力なのか……
そしてシハーブッディーンは「エルサレムの滅び」を予言します。
物語のはじめの視点は「ぼく」の帰国後数年の時点にあったはずが、最後にはぐいぐいずらされていったり、ヨシュアの最後が尻切れ蜻蛉だったり、エルサレムの破壊が中途半端だったり、構成上の欠点は目につきますが、「どうしようもない日本人」の描写は身につまされますし、宗教とは何かを考えてきた私にとって本書の「神」のイメージはけっこう共鳴するところが多いものではありました。
『
エリ・エリ 』(まだ未読です)で第1回小松左京賞受賞の作家だそうですが、たしかに若い頃の小松左京の雰囲気が感じられます。ちょっと他の作品も探して読んでみようと思いました。
中学か高校の国語の授業で「てにをはは重要だ」ということを教えられるのに「××洗う 前( )蛍の 二つ三つ」の歌が使われました。(××の部分は「芋」とか「皿」とかの二文字で洗うモノです。……ネット検索をすると「米」「鍋」「鍬」など諸説があるようですが正解は何なんでしょう?)
で、問題は××ではなくて( )の方です。
( )に入る助詞が「で」だと、蛍がじっとしているのかくるくる回って飛んでいるのか、ともかくそこに存在して何かをしようとしています。「に」だとそこにいるのか(この場合はじっとしている)あるいはよそからやって来た状態。「を」だと、洗っている人の前を蛍が飛び過ぎようとしている。
助詞一つの違いで蛍はやって来たり飛び交ったりじっと留まったり動詞を変えます。いやあ、面白いですねえ、難しいですねえ。実はこれで私はbe動詞が動詞であることを理解した、という副産物があるのですが、それはまた別のお話です。
【ただいま読書中】
ケン・キージー原作、デール・ワッサーマン脚色、小田島雄志・若子訳、劇書房、1986年、1400円
映画「
カッコーの巣の上で 」をたしか1975年に観たとき、私にとってそれは衝撃そのものでした。その何年前だったかな、朝日新聞の記者が精神科病院に患者としてもぐり込んでその実態を暴く潜入ルポを報告したのを読んだときも衝撃でしたが、私は「精神科病院では一体何が起きているんだ」と思ったのです。精神病って何?人権って何?ロボトミーって何? です。病棟独裁者のラチェット婦長の憎たらしさ(すべてを言葉巧みに支配し、自分の思惑を通すためなら患者を自殺にまで追い込んで平気な態度)には真剣に腹が立ちました。そういった点で、彼女は名演だったのでしょう。
映画ではトリックスターのマクマーフィが主人公(演じたのはジャック・ニコルソン)でしたが、舞台ではチーフが主役です。チーフがなぜそうなったのか、その父親にまで遡って語られます。チーフの父親の話も重たいものです。
さすがに舞台用の脚本ですから、映画と違ってバスで出かけるシーンはありませんが、逆に映画では軽く流してしまっていたシーンの一つ一つの重さが脚本を読むとわかることもあります。特にチーフの生い立ちや苦しみについて、舞台脚本はていねいに描いています。映画ではここまで描いていなかった……それとも私が見逃していた/記憶から蒸発してしまった、のかな。
で、てにをはの問題です。「カッコーの巣の上で」と「カッコーの巣の上を」で、「One」は飛んでくるのでしょうか、留まっているのでしょうか、飛んでいくのでしょうか。
原題を見れば飛んでいるのは確かですが、では飛んでいるのは誰? インディアンのチーフかそれともマクマーフィの魂か……それとも?