2005年7月
東京都老人総合研究所が1992年から750人の高齢者を対象に調査したところ「高齢者を歩く速度で分類すると、歩く速さが速い集団ほど長生きで寝たきりにもなりにくい」ことがわかったそうです。
で、結論は「健康に長生きしたかったらてれんこてれんこ歩いていないでさっさと歩きましょう。そのためには足をはじめとして全身のトレーニングが大切です」のようなのですが……私は頭を抱えてしまいました。
「歩行速度」と「寝たきりになり易さや死亡し易さ」が「関連」していることはデータとして間違いはないようですが、そこに「因果関係」があるのでしょうか?
「速く歩く」が「寝たきりになりにくい・死ににくい」の「原因」だとします。すると、膝や腰が悪くて速く歩けない人が無理して速く歩けば健康に長生きできるようになるはずですが……私にはそうとは思えません。無理に急ぐ→つまづく→転んで骨折→寝たきり、がオチでしょう。そうではなくて、足腰が元気な人(最初から寝たきりになりにくい人)が単にさっさと歩いているだけなのが調査の結果わかったのではないでしょうか。つまり「速く歩く」は「寝たきりになりにくい・死ににくい」の表現形で、言葉を換えたら「原因」ではなくて「結果」(将来寝たきりになりにくい人だから今速く歩けている)なのじゃないかなあ。
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ジョルジュ・ベルヌー、サビーヌ・フレシエ著、河野鶴代訳、白水社、1989年、1942円(税別)
本書の序文は「歴史は遺跡と記録と証言から成っている」と始まります。しかし、すべてをそのまま信じるわけにはいきません。記録は事実と数字を示しますが厳しい検証が必要です。文書が真実とは限らないのです。証言は事件そのものと同時に証人の偏見をも写し出します。たとえばフランス革命で、歴史家は敵か味方かどちらかの立場で革命を論じます。本書はそのどちらの立場も取らず、ただ証言(と証人の偏見)を羅列することによって「事実」に迫ろうとした試みです。
最初の証言者は、旅行中だったアメリカの上院議員、モリスです。彼が気にするのは、王妃に対する民衆の侮蔑的な反応です。スイス人エティエンヌ・デュモンが議会を傍聴して感心したアジテーターはロベスピエールでした。パリで暴動が起き、バスチーユが襲撃されます。守備兵たちは自ら跳ね橋をおろして群衆を監獄に導き入れます。その日ルイ16世は日記にこう書きます。「7月14日、なにごともなし」 しかし、ことの重大性を知って15日にパリに向かった王を迎えたのは、民衆の熱狂的な歓迎でした。フランス国民は自分たちの不幸の「犯人」を罰したいとは思っていましたが、国王のことは愛していたのです。
逃亡に失敗した王一家をパリに護送する馬車に同乗した議員ペティヨン(のちのパリ市長)の証言に対する正直な感想は「この俗物め」です。でも彼がそのとき占めた歴史的に貴重な位置にはうらやましさもちょっと感じます。なにしろ王と王妃の間に座り込んだり王女が膝の上に乗っていたりするのですから。
九月の虐殺(革命直後に、反革命を疑われた市民が三日間で千人以上殺された)の中で告発されて死刑一歩手前で九死に一生を得た弁護士マトンや、恐怖政治下で告発されたブーニョの証言には、戦慄を覚えます。人が「自由」「権利」「正義」「国民」といった美名の陰にかくれてどこまで野蛮になれるのかがまざまざとわかりますから。
殺す側が残した記録が普通の歴史なのでしょうが、殺される側から見たら歴史の別の面がうかがえます。
そうそう、「殺す側」と言えば、これまでの住居費は王が支払っていたのに今は自費となり、さらにあまりに仕事が多すぎるために給料値上げを求める死刑執行人の要求書もあります。人を殺す側に回るのもけっこう大変です。
心理学の有名な実験で、突発事(人が集まっているところで仕組まれた奇想天外な事件)があったときその場に居合わせた人々の証言が激しく食い違う、というものがあります。しかし「証言は食い違うものだ」ということを当然の前提として受け入れてから様々な証言を聞けば、そこには自ずから「歴史」が浮かび上がるのでしょう。時間の経過や多数の一致した見解などによって記憶の改竄が行なわれる前に、新鮮な証言を多数集めておくことは、これからの歴史にとっても大切な作業でしょうね。「殺す側」からしたら都合が悪いからイヤでしょうが。
長男が批評にちょっと興味を持ったらしいので、少し早いかとは思いましたが筒井康隆の『
文学部唯野教授 』を渡してみました。難しい単語がある、とぶつぶつ言いながら、それでも読みながらげらげら笑っています。ふむ、これで印象批評を垂れ流す自称批評家がいかに下らない存在かはわかるようになるだろう、と思ってますが……あらら、明日は塾で模試ですって? 受験勉強の邪魔をしてしまったかな。
……これまで「勉強しろ」とは言ったことがないのだから、私としては首尾一貫しているのです。きっとそうです。
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林直哉+松本美須々ヶ丘高校・放送部、太郎次郎社エディタス、2004年、1800円(税別)
1994年6月27日深夜、松本サリン事件が起きました。
松本美須々ヶ丘高校放送部は「日本で一番忙しい高校生」を自称するクラブで、部員たちは自主的な活動をモットーに毎日夜遅くまで学校に残り全国コンクール入賞の常連となっていました。顧問の教師と部員たちは身近に起きた大事件とその報道ぶりに違和感を感じ、事件がある程度落ち着いたとき、TV報道をした現場の人間たちにインタビューをして検証番組を作ろうとします。
その取材過程でわかったのは……TVでは正確さよりも速度が優先される、全体像を把握している取材者はいない、「証拠」のビデオテープは三ヶ月しか保存されない、現場の人間も傷ついていた、そして……自分たちが間違っていたことがわかってもなかなか訂正をしない社としての頑なな態度でした。放送部員たちは、自分たちが作品を作るときに模範としていたマスコミ人たちの態度に怒り、あきれ、そして共感しながら小さなラジオ番組を作りコンクールに出品します。それに対するマスコミの人間からの批判は、「自分が言いたいフレームにインタビューをうまくはめ込んだだけ」「突っ込み不足」など厳しいものでしたが……それって自分たちマスコミが普段やっていることじゃないのかな? さらには「高校生のくせに」「(特定の思想を持った)大人の言いなりに生徒が動いているだけ」なんてのもありましたが……「内容」に反論できない場合人格攻撃をする、はネットでもげっぷが出るくらい私は見てきていますが、それと同様の「反論」「批判」には「トホホ」と言うしかありません。(頭の良い高校生をそんなに思い通り動かすことができるかどうかは、自分の高校生時代を思い出したり中学・高校の子どもを持った経験があれば、簡単にわかるはずなんですけどねえ。さらに当の部員たちが書いたレポートや論文を読む限りでは、彼らが自分の頭で考え悩んでいたと「私」は判断します)
一年後、著者たちは「批判だけでは解決しない」を軸として新たなビデオ作品を作り始めます。ところが結論がまとまりません。「では、どうすればいいのか」の良い提案が見つからないのです。「公的な規制」「一般市民の教育」という、ある意味無責任な提案に逃げたくなかったからです。そこで彼らは「TV報道の特性」というキーワードを見つけます。
その製作過程を取材した記者は生徒の成長に驚きます。林さんは「このクラブは生徒・教師・保護者の協働作業」と表現しますが……メディアそのものも、取材される側・取材する側・それを見る側、の協働作業で成立していることを忘れてはいけないのでしょう。
そして著者たちは「メディア・リテラシー」に出会います。メディアを盲信するのではなくて、実態を知り読解し批判し使用することです。著者たちはもう一度放送局を取材します。こんどは「メディアが人で成り立っていること」を知るために。自分たちでメディア・リテラシーを伝えるために同級生に授業もします。それがまたTVに取材されます。
唯識では、人が感覚(五感)を使って世界を認識していることを重要視します。その五感に現代人はメディアも追加しなければならないのでしょう。使う以上は上手く使わなければなりません(別に義務ではありませんが、上手く使った方がお得です)。それと同時に、林さんが本書の最後に述べた「現代社会で見られる、専門家(医療・教育・法律・科学など)と一般人の乖離をなんとかするためにも、メディア・リテラシーの考え方と実践が必要だ」に私も賛成です。
親の世代の知人からずっと先に教えられてから気に入っていることばです。五日に一度の風・十日に一度の雨があるから天候が平穏であるという発想は、言われたらそうかと思いますが自分では思いつくことが困難なものでした。そうですよね、風や雨は乱れた天気と思えますが、風も雨もないただひたすら晴れが続く天気は、平穏ではなくて干ばつです。ほどほどの風とほどほどの雨を味わいながら……って、これは人生の話だったのか。
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ダン・シモンズ著、嶋田洋一訳、早川書房、2002年、1900円(税別)
第1章で私立探偵のジョー・クルツは、自分の相棒を強姦して殺した男を復讐として殺し逮捕されます。第2章では11年半の服役の後仮釈放されます。そして第3章から、ジェットコースターのように事件が続きます。突然消えたマフィアの会計士。服役しているファミリーの跡継ぎ。謎の「デンマーク人」。ジョーの命を狙う街のギャングや殺し屋たちや悪徳刑事。ジョーの味方は、かつての秘書やホームレスの友人、武器の密売人……どう見ても戦力的には圧倒的に不利な状況で、ジョーはどのように戦い生き延び、生計を確保するのでしょうか(生計は大切です。お金がなければ武器も食料も衣服も得られませんから)。
前作『
ダーウィンの剃刀 』の主人公は、拳銃が嫌いで狙撃銃を愛していましたが、今作では逆に長いものは嫌いで拳銃、それもポリマーだのサプレッサーだののハイテクとは無縁の古いタイプの鋼鉄製拳銃を偏愛する人間が主人公です。でも、やっぱり古代ギリシアの哲学が(ちらっとですが)登場します。
ストーリーは一本道で解決方法は荒っぽく、ハードボイルドの文法を借りているように見えますが、ハードボイルド(固ゆで卵)よりはもっとハード……タイトル通りハードケースです(同じ原題HARDCASEの『凶悪』(ビル・プロンジーニ)の解説では、ハードなケース(つまり難事件)という意味と「手に負えない凶悪犯」という意味があるそうです)。
ただ、単に冷血非情な主人公ではなくて、実は人情味も弱みもしっかり持っている人物造形なので、読んでいてイヤにはなりません。だからといって感情移入できるほどの心理描写も行なわれないのは、おそらく著者がシリーズ化を考えてすべてを説明しない戦略を採っているからでしょう。特に、ちらっとだけ登場した警察官上がりの保護観察官ペグ・オトゥールの存在が気になります。見かけや対応は柔らかいけれど、行動には一本スジが通っていて、道に外れたことを彼女の前でやったらとっても怖そうです。
オリンピックで日本が振るわないと「日本人は農耕民族で欧米は狩猟民族だから、肉体のデキや運動能力に差が……」という「言い訳」がされることがあります。これは二重に間違いですね。まず、欧米人は狩猟民族ではありません。毎朝「じゃあ狩ってくるよ」と鉄砲や弓矢を持って出勤する人達でパリの地下鉄が満員になっているとは思えません。たしかに欧米人は主に肉食人ですが、狩猟民ではなくて牧畜民でしょ。食べている肉のほとんどは野生動物ではなくて家畜です。で、日本人が農耕民族? 朝「今日は田植えだ」と出かける人が日本人の何パーセントいます? たしかに祖先はそうだった人は多いでしょうが、「獲得形質は遺伝しない」のですから、職業人のほとんどがサラリーマンの集団を指して「農耕民」と言うのは無理でしょう。
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ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳、草思社、2000年、1900円(税別)
数年前から気にはなっていた本なのですが、やっと開けました。
『種の起源』(ダーウィン)に関して有名なのはガラパゴス諸島のフィンチの変異のエピソードです(本書の著者はそれよりは第一章の人為的な種の改良がお気に入りのようですが……)。隔絶された環境である島々でフィンチがそれぞれ独自の進化を遂げてそれぞれ固有の環境に適応しているのを観察してダーウィンは進化論のヒントを得たそうですが、本書の著者はそれと同様に「人間は隔絶した環境におかれたらそれぞれユニークな社会を形成するようになる。それは生物的な差違によるものではない」と主張します。彼が具体例を提示するのは、小はポリネシアから大は大陸まで。これだけならただのダーウィン流社会学ですが、著者はその先に進みます。人は移動し出会うからです。異文化の出会い(特にヨーロッパ人と非ヨーロッパ人の出会い)で何が起きるかがタイトルに凝縮されています。侵略と疫病と殺戮です。
今から1万3000年前、地球上の主な大陸にはすべて人が住み、様々な文化や社会を作り始めました。ではそれらの「差」はどうして生まれたのでしょうか。
著者はまず農業に注目します。農作は、野生の植物を栽培し人に都合の良い産物(食物や亜麻のような繊維)を大量に得る作業です。したがってどのような野生種が得られるかの環境の差によってどのような農業を営むかが決定されます。(「原始人」の能力を著者は見くびりません。彼らが生きている環境に対して無関心であったとは考えられないこと(無関心だったら絶滅するでしょう)と、近代以降新たに栽培化された植物がないことから、ほとんどすべての種は栽培の試みがされたはずと推論します)
家畜は植物よりさらに条件が厳しくなります。たとえばシマウマは気性が荒いため、その他の条件はすべて揃っているのに家畜化にはずっと失敗しています。結局ユーラシア大陸に棲息する大型哺乳類のうち13種と南北アメリカ大陸の1種のみが家畜化されただけでした。
一度確立した農業技術は伝播します。ところが、東西方向への伝播速度に比べて南北方向への伝播は非常にゆっくりしたものです。そこで、東西に長いユーラシア大陸と南北に長いアメリカ・アフリカ大陸に大きな差が生まれます。伝播速度の差は農業だけではありません。車輪や文字などの伝播も東西の方が速いのです。これは、農業によって社会組織が構築されることで高度な技術の受け入れが可能になったことが要因でしょう。
本書はヨーロッパ中心の歴史ではなくて、太平洋域・東アジアを世界の中心に据えた歴史書です。そのためアメリカでは「逆転の世界史」と評されたそうですが……
「白人文化は世界に優越する存在である」は前世紀半ばレヴィ=ストロースによって明確に否定され、「白人は生物学的に有色人種より優秀である」はJ・G・グールドがその科学エッセーで何回も否定していますが……それでも「白人文化は世界の中心」と考える勢力は根強いようです(たしかに西暦1500年以降は「地球は白人のもの」ではあったのですが)。本書は、なぜそのような勢力が根を張ることになったか、の疑問に対する回答にもなっているのでしょう、と期待して、今から下巻に突入します。
濁音が二つ続いてしかも子音で終了するという日本語としては響きが美しくないことばですが、その趣旨(暑い夏に厚着をしてエアコンをがんがんきかせるのはやめよう)には賛成です。ただねえ、どうして政府(環境省)が一々「こうしろああしろ」と細かく口を出さなきゃいけないんです? さっさと国会議事堂のエアコンを28度なり30度に設定してそれを公表して「省エネのため暑いですよ。国会にはそれにふさわしい快適な恰好で来てください。民間もよろしかったら真似してください」とあとは各人の自主性に任せるのは不可能ですか。
いい大人が「こんな服装がお勧めです」とお手本を示してもらわないと自分が着たい服が選べないって、なんだか変です。制服じゃないんですから。それとも誰かに「強制」してもらわないと、ネクタイや上着が外せない?自分が着るシャツも選べない? だったら厳しい中学校の校則にならって、議事堂の入り口で服装検査でもしてもらいますか。風紀委員は誰が適任かな。
……で、それを取りまいて取材している人達がしっかりネクタイをしているところも、記録に残しておきたいな。
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松井栄一著、小学館、2004年、2200円(税別)
私が憧れる辞書は、OEDと日本国語大辞典です。どちらも所有していないので用があるときには図書館まで走っていって辞書を引きます。とりあえずその程度で用が足りる言語生活は、幸福なのか不幸なのかは自分ではわかりません。
その日本国語大辞典の初版と第二版の編集委員を勤めた人が書いた本ですから中身は面白いはずだと、本を開く前から私は決めつけます。少なくとも資料の豊富さは最初から保証されているはずです。
序章は「のっぺらぽう」から始まります。「のっぺらぼう」ではありません。「のっぺらPOU」です。夏目漱石の『坑夫』(明治41年)『三四郎』(明治41年)ではどちらも「のっぺらぽう」が使われています。泉鏡花『日本橋』(大正3年)では「のっぺらぱう」、徳川夢声『夢声漫談』(昭和2年)は「ノッペラポオ」。明治時代の国語辞典五つのうち四書が「〜ぽう」で一つだけ「〜ぼう」。それが昭和27年に明解国語辞典が「〜ぼう」としてから濁点の見出しが少しずつ優勢になります。私の推測ですが、おそらく辞書が現実の後追いをしていたのでしょう。
次は「てるてる坊主」。明治期の辞書では「てりてり坊主」が優勢で「てるてる坊主」はせいぜい参照見だし扱いでした(辞書が「てるてる〜」でかたまるのは昭和30年以降)。ところがのっぺらぽうとは違って、明治期の小説などでの実際の用例は「てるてる〜」の方がはるかに優勢でした。この辞書と現実の乖離はどうして起きたのでしょう?
序章だけでこれだけ楽しめます。本編に入ったら……『福翁自伝』(明治32年)で「言語」を福沢諭吉は「げんぎょ」と読みました。「言」は漢音で「げん」呉音は「ごん」、「語」は漢音が「ぎょ」呉音は「ご」です。したがって漢音読みなら福沢諭吉が「正しい」のです。ところが、福翁自伝の別の箇所では「げんご」と読んでいます。一体どっちが「正解」なの? (ちなみに、万葉集では読みは不明、中世〜江戸時代は「げんぎょ」だけだそうです)
「青空」は、明治時代には「あおそら」が基本でそれから転じた「あおぞら」も使われるという状況でした。しかし国定教科書が「あおぞら」を採用したため濁音が日本に定着します。「天国」も「てんこく」です。明治末には「てんごく」が優勢となりますが、聖書のルビは昭和まで「てんこく」でした。
「清濁併せのむ」ということばがありますが、文字通り清濁が併用されるのが日本語なんですね。エルとアールが区別されないことなんか、こうしてみたら大した問題ではありません。
明治時代は言文一致運動が行なわれた時代ですが、同時に外来語が大量に日本語に入り込んだ時代でもありました。ことばの書き方そのものが変革され、つぎつぎ登場する新しいことばで日本語が「水増し」される風潮の中で、話しことばの揺らぎ(ソシュールの言うパロール)が日本語の基本部分(ラング)に大きな影響を与えていったのかもしれません。辞書は現実の後追いになりがちですから、こういった現実と辞書と両方を調べる研究は、もっと大々的に系統的にされるべきだと私は考えます。巨大掲示板を調べたら学者の頭がパンクするかもしれませんけれど。
私が初めて持った自分の時計は、中学入学祝いに親からもらった腕時計(父親のお下がり)と親戚からもらった目覚まし時計でした。どちらも機械式で、毎日一回ネジを巻く儀式と数日に一回針の誤差調整が必要でした。腕時計の誤差がひどくなると分解掃除に出しました。時計屋に行くと親父さんが目に単眼鏡をはめて(あれをどうやって固定しているのか、今でも私には謎です)ケシ粒のような部品を器用にピンセットで扱っている姿がありましたが、私はそれを尊敬のまなざしで眺めたものでした。
デジタルだクォーツだソーラーだと、機械式の時計はずいぶん減り「ネジを巻く」行為もあまり見なくなりましたが、時計ではなくて「(心の)ネジを巻く」行為の方も見聞しなくなりました。さすがハイテクの時代、心身がゼンマイ仕掛けの人間もずいぶん減ってしまったようです。
【ただいま読書中】
ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳、草思社、2000年、1900円(税別)
上巻の最終章は下巻の頭に入れた方が構成上は良かったでしょう。ということで、上巻の最後から本日の読書日記を始めます。
農業による食糧の増産は人口の増加をもたらします。政治家や貴族や職業軍人を養う余裕もできます。食糧が確保され奴隷にさせる仕事が余分に発生すれば奴隷制度も維持できます。そして、免疫も。家畜化の過程で接触した動物から様々な病気が人間にもたらされ、人口が稠密な集団ではすぐに集団感染を起こします。人はばたばた死にますが、生き残った人は免疫で守られ、それに対抗して病原菌は進化して別の手を試します。つまり、人の社会が病原菌の進化をもたらします。そして、ヨーロッパ人が「新大陸」を発見したとき、そこに侵入したのはヨーロッパの病原菌とそれに対して免疫を持つ人々の集団でした。
農業はまったく白紙の状態から始めるよりはよそから技術と栽培種を移入するほうがはるかに楽です。気候が似ていれば似た植物は良く育ちます。家畜も野生動物を捕まえて家畜化するよりもすでに家畜化された動物を導入して育てる方が楽です。そして、文字も一から作るより他から文字を借用する方が楽です。そして文字の伝播も農業と同じく東西方向には速く南北には遅い傾向があります。農業によって社会機構が作られ、ある程度の社会を前提とする技術は農業に遅れて伝播される(あるいは「遅れた」社会が征服される)のです。
こうして、1万年以上をかけて、東西に長いユーラシア大陸と南北のアフリカ・アメリカ大陸では人は違った進み方をし、出会ったときに何が起きるのかがあらかじめ決定されてしまっていたのでした。
本書のアフリカ大陸の分析も面白いものです。アフリカは「黒人の大陸」というのが一般人の印象ですが、1400年頃には、北アフリカは白人(ヨーロッパの白人ではなくて、現在のエジプト人などの祖先)、真ん中が黒人とピグミー族、現在の南アフリカ共和国の辺りはコイサン族、マダガスカル島はオーストロネシア人(インドネシアから南太平洋一帯に広がった種族)+黒人が住んでいました。言語学的にも北アフリカ〜中東はアフロ=アジア語で、つまりは聖書やコーランはもともとアフリカ発生の言語で記録された可能性が高いのです。(そういえば、イエス最後の一日を扱った映画「パッション」はアラム語(アフロ=アジア語に属する)とラテン語で脚本が書かれていたそうですが、言語的にも異文化の出会いだったんですね)
「中国はずっと一種類の文字を使ってきた」と甲骨文字を無視しているのは感心しませんが、瑕疵でしょう。甲骨文字→漢字の変化(断絶)にはたしかまだ学問的な結論は出ていないはずですから。
そして「西暦1500年以後のチャンピオンがなぜ中国ではなくてヨーロッパだったのか」に対する回答が「中国は早くから統一されていたが、ヨーロッパはずっと不統一だったから」はけっこうショックです。多様性が保たれているから、その中からどんな環境にも適合して子孫を最大数残すことができる「最適解」が生じるのですね。
ふっと思ったのですが……「地球」も巨視的には「一つの環境」ですね。すると人類が将来他の惑星に進出したら、こんどはどんな文化的な「進化」が起きるのでしょう? そして異星の「異文化」が出会ったら何が?
日本国憲法では国民に健康で文化的な最低限の生活は保証されています。で、中国残留孤児に対する今回の大阪地裁の判決「生活保護があるからいいじゃないか。他の皆も苦しいんだ」は「最低限の生活は保証する」ものなのか「最低限の生活を強制する」ものなのか、どっちなんでしょう。
中国残留孤児を日本に呼ぶとき「最低限の生活しか保証しませんよ。あとは全部自己責任でね」と国がちゃんと広報していたのなら、国の施策としては整合性が取れていると言えるのですけれど。(あくまで法理としてはね。感情的には納得しがたい判決ですが)
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ロビン・ガードナー&ダン・ヴァンダー・ヴァット著、内野儀訳、綜合社、1996年、1942円(税別)
いかにも陰謀論というタイトルですが(「陰謀論」そのものへの言及も本書にはあります)、著者はタイタニックの「事故」は故意による過失であると主張します。
20世紀初め、イギリスとアメリカを結ぶ北大西洋航路は移民や物資を運ぶ重要な花形航路であると同時に汽船会社同士の激戦区でもありました。イギリスのホワイト・スター社は勝ち抜くために当時世界最大級の客船オリンピッククラスの客船を投入します。まず第一船として「オリンピック」、そして第二船が「タイタニック」でした。
ところが「オリンピック」は災難続きでした。巡洋艦ホークとの衝突事故で大損害を被り、建造途中のタイタニックを巨大ドックから出して入れ替わりにドックに入って修理をしなければならなくなります。さらに裁判では賠償金や保険金は一銭も(1ポンドも)もらえませんでした。さらに数ヶ月後(タイタニックの処女航海の2ヶ月前)また事故です。今度は航海中にスクリューのブレードが一枚脱落してしまったのです。衝撃で船全体にダメージが加えられ、またまた修理で、タイタニックはドックから出されてオリンピックがドックに入ります。さすが姉妹船で、両船が並んでいるのを見た見物人には両者の区別がつかなかったそうです。
いろいろ待ったがかけられましたが、やっとタイタニックの処女航海が近づきます。ところが試験運転は適当にしか行なわれません。処女航海出航前に第六ボイラーの第10石炭庫で自然発火によると思われる火災が発生しますがほとんど放置されます(鎮火されたのは出航後2日目)。見張り台に配置されていた双眼鏡がなぜか出航後に全部姿を消してしまいます。出港直前に一等船客が55人も予約をキャンセルします(その中にはタイタニックの「オーナー」J・P・モーガンが含まれていました)。航路に浮氷警報が出されますが、船内でその情報は徹底されません。さらに、当時は誰も知らないことではありますが、タイタニックの建造に使われた鉄は、摂氏零下1度(タイタニックが沈没した海域の海水温)で脆くなる性質がありました。
こうして出航したタイタニックは、ろくに試運転もしていないのにアメリカ目指して全速力で、まるで速度競争をしているかのように突進し始めたのです。
事故後英米で行なわれた査問会は、なんとも奇妙なものです。委員長はまるで何かから目を背けるためのような質問を連発します。無線が重要な役割を果たしたためマルコーニ社の株が急騰しますが、それにもインサイダー取引の疑いがもたれます。マスコミは狂乱し、証人の記憶は混乱し、スケープゴートが探されます。
著者はここで「実際に沈んだのはタイタニックではなかったのではないか」という驚天動地の仮説を立てます。就航するなり事故続きで金を稼げず、船体構造そのものにも深刻なダメージを負っているオリンピックをタイタニックの身代わりとして送り出したのではないか、と言うのです。にわかには信じがたい説ですが、丁寧に取材して立てられた論を読むと「それもあり得る」と思えてきます。だとしたら「故意による過失」という表現では甘すぎます。
検証するためには……船に後付けの備品ではなくてタイタニックの内部部品をばらして、そこの刻印が「400」(オリンピック)か「401」(タイタニック)かを見たらわかるのですが……えっと、タイタニックを浮上させるのに最適任者は誰でしたっけ?
一体どんな「政治」に金がかかっているのか、ちょっと領収書を見せてもらいたいと思います。そうすれば「政治には金がかかる」のか「金がかかる『政治』をしたい」のかの区別ができるかもしれませんから。
本当に議員の公的な政治活動に金がかかって歳費ではまかなえないのなら、その分は公費負担をするべきでしょう。つまり、歳費の増額です。ただし議員の数は半減、支出のチェックは独立した第三者機関(監査法人)のクロスチェックで怪しい支出をしたり汚職をした議員は10年以上の公民権停止、くらいの縛りはかけたいところです。
……そうそう、「地元に高速道路を」「ここに橋やトンネルを造ります」は「国」会議員の言うべきことではなくて地方議員のお仕事ですよね。だって国会議員は「国」の議員なのですから、国内の特定地域のために働きたいのなら県会議員とか市町村議員になればいいのです。
……「そうそう」をもう一つ。かつては「井戸塀」(地方の名士が政治家をやったら財産を食いつぶして、豪邸が井戸と塀しか残らない)ということばがありましたが、今はどうなんでしょう。政治家の皆さん、政治家をやったら私有財産が増えてます?減ってます?
【ただいま読書中】
坂野潤治著、岩波書店、2005年、740円(税別)
「あれれ、大正じゃなくて?」と読者に思わせた時点で、タイトルの勝利です。でもそうですよね、大正デモクラシーが徒花だったとしても、花が咲くには最低限の根が必要です。したがって、明治時代にもすでにデモクラシーの根はあったはず。
北一輝は明治維新を「民主主義への努力を欠いた早産した近代革命」と指摘しました。日本の近代史は実際「上からの改革」ずくめに見えます。「上からの封建制の打破」「上からの工業化」「上からの立憲制」「上からのファシズム」「占領軍による上からの民主化」……著者はこの「上からの」史観は事実に反していると言います。「下からのデモクラシー」は明治はじめから連続的に日本に存在し、現在我々が学ぶべきは先人のことばだ、と主張するのです。(個人的には、北一輝は維新に期待しすぎだと感じます。あれは藩幕連合国家の封建制度を専制制度に変えるための軍事クーデターであって、民主主義なんて当時は誰も真剣に考えていなかったはず……いやいや、専制制度も明治維新「後」に「じゃあ、どうする?」でなし崩し的に決まっていったものと言っていいでしょう。明治の元勲たちの議論や変節ぶりを見たら、けっこう場当たり的ですから)
福沢諭吉らはイギリスを手本として間接民主主義(議院内閣制)を日本に構築しようとします。それに対して中江兆民らはフランスを手本として直接民主主義(大統領制)を目標とします。それぞれが憲法の私案を出し論争をしますが、それは結局足の引っ張り合いとなりました。政府内部でも対立がありますが、天皇が最高権力者であることは動かせないため、大統領制は論外です。福沢らが唱えた「内閣が最高権力で、天皇はそれを追認する象徴としての存在」も国民が天皇に優越することになり論外です。ということで、明治憲法はプロシアを手本としてすべての権力を天皇に集中させる制度になりました。
帝国議会が招集され、大議論が行なわれますが、結局明治末「官民調和」体制が成立して、明治デモクラシーは終焉を迎えたかのように見えます。しかし、大正デモクラシーにつながる、美濃部達吉や北一輝などの思想がつぎつぎ発表されていました。明治デモクラシーと違うのは「明治憲法」が前提になっていたことです。ただ、「足の引っ張り合い」は相変わらずでした。
しかし、何か新しいことを始めるのに、どうして人はお互いの足を引っ張り合うのでしょう。「敵」ではなくてまず「味方」と争ってから闘いを始めたら、それは戦力が落ちますよ。まずは敵を倒して、それからお互いの違いを調整していくのが「デモクラシー」的手続きじゃないのかなあ。
……ところで、明治デモクラシーの旗手たちは江戸時代に教育を受けています。では江戸時代には「デモクラシー」の根はどのような土壌に生えていたのでしょう?
福祉の世界では、身体障害・知的障害・精神障害をまとめて三障害と呼ぶそうです。現在はそれぞれの障害者はそれぞれ別の法律で扱われていますが、政府は将来一つの法律でその福祉を全部まとめようとしています。それには障害者側のメリットもあるのですが、私が気になるのはその先です。最近の政府はとにかく「金がない金がない」で支出を削りやすいところから削ろうとしているように見えます。障害者の福祉をまとめるのも、支出を減らす狙いがあるのでは、と思っていましたら……やっぱりありました。介護保険です。三障害を介護保険に、という構想があるのです。
現在の介護保険は、痴呆老人(おっと、最近認知症に名前が変更されたんでしたっけ。だから、認知症老人)の生活リハビリなどのために国民が毎月金を出し合って保険制度を維持しています。それを利用する人(認知症老人)は、その障害のひどさによって要介護認定を受けその等級に応じて受けられるサービスの限度額が決定されます。そして実際にどんなサービスをどれだけ利用したかによって料金の(今のところは)1割を自己負担する(残りは保険が出す)、という制度になっています。
ということは、政府は障害者をまとめて福祉から保険に移そうとしている、ということになります。おそらく「今までのお仕着せのサービスではなくて、その人個人に本当に必要なサービスが選択できます」とか甘いことが言われることでしょう(で、たしかにそれは真実です)。ただし、自己負担がいつまでも1割とは限りません。限度額は上がる可能性もあれば下げられる可能性もあります(限度額を超えたサービスは、越えた分全部が自己負担です)。要介護度の認定は、政府が定める基準に則って行なわれますから、やろうと思えばいくらでも厳しく(あるいは甘く)することが可能です。
さて、日本政府は、障害者に手厚い福祉を提供したいのでしょうか。それとも、銭を惜しんだフクシ? どちらだと皆さん、思われます?
【ただいま読書中】
ダン・シモンズ著、嶋田洋一訳、早川書房、2003年、2200円(税別)
前作はHARD CASEで今作はHARD FREEZEです。「雪嵐」だったらsnowstormかblizzardなのになあ、と思いますがではもっと良い訳題は、というとなかなか難しいですね。前作の「鋼(はがね)」に揃えるなら「凍(いてつき)」くらいしか思いつきません。
著者は主人公の性格を銃と車の嗜好で表現するのが好きなようで、『ダーウィンの剃刀』では狙撃銃とホンダNSXでしたが、こちらでは拳銃とボルボです。なんというか、車と銃がミスマッチです。まあ、それが著者の狙いなのでしょうけれど。
今回の敵は、前回ジョーが潰したファリーノ・ファミリーの残党とそのライバルのゴンザガ・ファミリーと定期的に偽装自殺で痕跡を消しては連続少女強姦殺人を続ける天才的犯罪者です。強敵てんこもりです。前作でジョーが気にしていた元相棒サマンサの娘レイチェルは、養父に強姦されそうになり逃げ出して交通事故で重傷を負います。しかし、ジョーのレイチェルに対する執着(愛着?)は何でしょう。愛していた相棒の娘だから、というにはちょっと感情が強すぎます。ジョーのブレーンを勤めるホームレスのプルーノには、意外な過去があることがわかりますが、敵はプルーノの命も狙います。ジョーは守らなければならないものがどんどん増えます。
そうそう、もう一つ「敵」がいました。ジョーが副業で始めた事業が大当たりしたのですが、事務所が入っているビルが取り壊しされることになり、2週間以内に新しいところに引っ越さなければならないのです。ところが生き残るために忙しくて新しい物件を見に行く暇が全然ありません。さて、ジョーは一体どうすればいいのでしょうか。
高校一年、現代国語でちょっと変わった課題が与えられました。一学期かけて誰か一人の作家の作品をいくつか読んでレポートを書け、というのです。新しいことに挑戦したかったので誰か面白い作家がいないか、と教師に聞きに行ってそこで紹介されて安部公房と私は出会いました(その頃英語ではビアスと出会っていました。教師たちは生徒の人を見て作家を薦めていたのでしょうか。すると私はどんな生徒だったんだろう?)。
レポートをまとめる過程で、それまで自分がやってきていた作品中心の読み方とは別に、作家を軸に据えた読み方があることに私は気づきました。それと同時に、読者を中心軸に据えた読み方があることにも気づきました。同じ本を読んでも、どんな読み方をするかの方法論の選択によって見えてくる世界が違うのです。あれは貴重な瞬間でした。そのころはまだ批判的に読むことはできていませんでしたが(他人を批判できるほどの知的蓄積がなかったから)、少なくとも「何を読むか」だけではなくて「どう読むか」が大切であることを私は獲得したのです。
大学時代に、当時評判の悪かった本を読んでいたら「そんなものを読んでいるのか」と非難されたことがあります。私は目をぱちくりしました。いや、その本の内容を鵜呑みにしているのか批判的に読んでいるのか、読んでいる姿を見るだけで判断できるその人の確信の根拠が不思議だったのですよ。彼の前で聖書を読んだら私はキリスト教徒(またはユダヤ教徒)で資本論を読んだら共産主義者になるのかな?
【ただいま読書中】
藤巻吏絵著、長新太絵、福音館書店、2004年、1300円(税別)
読売ジャイアンツの原がまだ現役で、葉書が41円の時代のお話です。
クラスでは二番目に(女子では一番)背が高いことに劣等感をもっている小学五年生の少女美乃里(みのり)は、自分が好きな同級生の男の子と自分の親友が、実は相思相愛だがそれがまだお互い言い出せていない関係であることに気づいてしまった「人生最悪の日」に、小柄な少年実(みのり)と出会います。同音の名前を持つ誼みか、すぐに親しくなった二人は、偏屈で知られる主人が経営する銭湯「木島の湯」の掃除を夏休みの間手伝うことになります。そこの壁画はちょっと変わっていて、一面緑の森なのですが、そこにはいくつかの秘密が隠されていたのでした。
「悲しいときは泣いたらいいんだよ。悲しいってことがわかるまで思いきり泣くといいんだよ」
「ぼくはじぶんが小さいこと、きらいじゃないよ。美乃里ちゃんも、じぶんのこときらいになったらだめだよ」
「頑固な人っていうのは、なるべくして頑固になっちゃうんだよ。ほんとうは優しい人なのに、いろんなことを通りぬけて頑固にならざるを得なかったんだな、きっと」
「アゲハさ見ると、いいことあるよ」
「あのぼうずがいないと、つまらんな」
「悲しいときは泣けばいいんだ。だれかを好きになって、さびしくて涙が出る。それでもやっぱりだれかを好きになる。それでいいんだ」
「たぶん辞め時だったのね。そういう時があるの。辞めようって、すんなり決心がつく瞬間があるんだと思うわね」
「たいせつだから、美乃里ちゃんにあげる」
自分の耳と心で聞いたこんなことばと共に、一夏で美乃里は大きく成長します。肉体面では初潮を迎え、心の面では他人を自己中心的にではなくていろいろな背景や歴史を持つ「個人」として認識できるようになっていきます。はじめは親しい人を、それから良く知らない人や苦手な人のことさえも。愛されることが当たり前と思っている「こども」から、愛で傷つくことがあることを知り他人を気遣い理解する努力ができる「おとな」へ変貌するその過程を著者は丁寧に描きます。(思春期の入り口をさ迷う少女の心理をここまで細やかに描くのは、男にはちょっと無理かもしれません……少なくとも私には不可能です)。
赤い金魚が嬉しそうにぴょんぴょん跳ねた盆踊りの夜、美乃里が出会ったおばあさんは、彼女に時の残酷さと人生の哀しみを見せます(実(みのり)のおばあさんと会うことで、それまで美乃里が見過ごしていたそういった哀しみを見つめる準備ができていたのでしょう)。その夜、「どうか、おばあさんの浴衣が見つかりますように」と美乃里が祈るシーンでは、涙が出ます。
そして、実は突然姿を消します。そして、木島の湯も……
小学上級以上を対象とした新作童話シリーズの一巻ですが、こんな傑作を子どもだけに読ませておくのはもったいない。子どもの心を(かけらだけでも)まだ持っている大人にも読むことを強くお勧めしたい本です。哀しくて切なくて、そして心がじんわりと温もります。
……あなたは、水色のハンカチを持っていますか?
世間では寒天ダイエットが評判になっていますね。しかし、TV番組がそんな主張をする根拠となった論文(イギリスの学術誌に発表された「寒天にはダイエット効果がある!」論文)が実際にどんなものか、確認した人がどのくらいいるのでしょう。
実験は、糖尿病患者を二群に分けて、一方は普通の食事、他方は食前に寒天を食べてから食事、として12週間体重や血液データを追跡したら、寒天グループの方が体重は減りコレステロールなどの血液データは改善していた、というものです。
http://www.blackwell-synergy.com/doi/abs/10.1111/j.1463-1326.2004.00370.x
タイトルは Maeda H, Yamamoto R, Hirao K, Tochikubo O. Effects of agar (kanten) diet on obese patients with impaired glucose tolerance and type 2 diabetes. Diabetes Obes Metab. 2005; 7: 40-6.
私が抄録を読む限りでは結論部分に「寒天が持つ特別な薬理作用によりダイエットに成功した」とは一言も書いてありません。「摂取カロリーが減ったからダイエットに成功した」とは書いてあります(私の英語力の問題で読み落としているのかもしれませんし、本文にはしっかり書いてあるのかもしれませんが、普通summaryにそんな大事なことを書き落としはしないでしょう)。
……つまり、食事食前に寒天を食べたら胃の中で寒天が水を吸って膨れてその分ご飯が食べられなくなってそれでダイエットになってしまったってこと? だったら、寒天でもコンニャクでも(もし食えるのなら)紙オムツの中身でも、同じ効果が期待できるんじゃないかしら。
そこを取り違えて、まるで寒天信仰のように「寒天食べれば健康になれる」と寒天「だけ」食べたり、変に寒天に執着して他の効能を期待したりする(「寒天は万能の霊薬だ」と主張する)人が出たりしないことを祈ります。私自身は単に寒天の味が好きですから時々は食べたいと思いますが、食品に薬効はあまり期待したくないのです(効能や機能ばかり求めたら食事が楽しくなくなりそうですから)。毎食同じモノを食べたら飽きてしまいますし。
ダイエットに効くにしても、あくまで寒天は手段でしょう。同じ効果が得られる手段はほかにも考えられますし、単純にカロリーを減らして運動を増やせば寒天なしでも普通のダイエットにはなるはずです。
【ただいま読書中】
アミール・D・アクゼル著、青木薫訳、早川書房、2002年、1900円(税別)
古代ギリシア時代、ゼノンのパラドックスやピュタゴラス派による無理数の発見で、人類は「無限」の概念に触れていました。ユダヤ教のカバラ(神秘主義と瞑想体系)も神の概念を扱うところで無限が登場します。(どうしてユダヤ教が?と思うと、ここでの記述があとで効いてくるのです)
ガリレオ・ガリレイは「それでも地球は動いている」の後の軟禁生活で『新科学対話』を書きますが、そこで「一対一対応」の問題に頭を悩ませます。すべての整数は自乗することができます。1は1、2は4、3は9……最初の数字を集合Aに、自乗した結果を集合BとするとAは「1,2,3,……」Bは「1,4,9,……」、明らかにBは歯抜けです。ところがAの集合に含まれる整数は無限にあります。するとBも無限です。歯抜けなのに無限……あれ?
ボルツァーノは整数ではなくて0と1の間の「すべて」の数についてもガリレイと同じことが言えることを証明しました。すると「0〜1」の間の数の総数は「0〜2」の間の数の総数と「同じ」になってしまいました。……あれれれ?
カントールは集合論を確立し、そこから無限の概念も導きます。ところが「有理数の無限」と「実数の無限」とは質が違うことがわかりました。さらに考察を進めると「関数の無限」もあることがわかります。無限が複数あるのです。カントールは途方に暮れます。カントールは無限を「アレフ」(ヘブライ文字の最初の文字……ここに著者はカバラの影響を見ます)と名付け、アレフがいくつあるのかそれぞれがどのような関係なのかを「連続体仮説」として証明しようとします。ところがカントールに対する反対派(クロネッカーが代表)の妨害は激しく、証明は難航し、カントールは正気を失っていきます。カントールは「すべてを含む集合はあり得ない」ことを示して、死にます(「これがすべてだ」と示した瞬間たとえば「それに+1」という操作を加えて新しい集合が作れますから)。
そのあと、弱冠26歳で「不完全性定理」を証明したゲーデルが連続体仮説に取り組みます。ところがゲーデルもカントールと同様の、被害妄想と抑うつと食欲不振に取り憑かれます。途中で挫折したゲーデルの仕事を引き継いだコーエンが「連続体仮説は集合論の公理系とは独立していて、現在の公理系では証明も反証も不可能である」ことを証明したのは、ゲーデルの晩年のことでした。
数学が無味乾燥で抽象的なガクモンではなくて、人間味たっぷりの学であることがよくわかりますし、「無限」の恐ろしさ(と魅力)もかいま見ることができます(真剣に考えるだけで被害妄想になるのはごめんですが)。「数」は実在するのか、とか、神と数学の関係とか、いろいろ考えさせられる本です。
「細かいなあ、けちけちするなよ。その程度の小銭のことで」と言っている人が、実は一番ケチなのです。だって、請求している方は「払った」わけです。相手を責めている方が「払っていない」のです。「その程度の小銭」をね。
【ただいま読書中】
ハワード・R・ターナー著、久保儀明訳、青土社、2001年、2400円(税別)
イスラムについて、私は無知です(イスラム以外についても無知ですが)。「イスラム教」とは言わない方が良いらしい/スペインのレコンキスタ/ユナニ医学/スンニ派が多数派/イスラム支配下でユダヤ教とキリスト教は優遇されていた……程度のことしか知りません。高校時代、日本史と政治経済を選択して世界史を取らなかったことが悔やまれます。
ビザンチン帝国とササン朝ペルシアが弱体化していたことが、イスラム帝国の初期の爆発的な拡大を生みました。征服地には古代の遺産(エジプトやギリシア文明、ヘレニズム科学、ハラン(メソポタミア北部の古代都市)科学、ペルシア科学などやインドからの影響)がありましたが、イスラムの人々はそれらを積極的に利用しようとします。様々な写本からアラビア語への大翻訳運動が行なわれました。のちにそれらの文献が12世紀ルネサンスでラテン語に翻訳されてヨーロッパに知的衝撃を与えることになります。
ギリシアの幾何学はインドの代数と出会いイスラム数学となります(当時のヨーロッパはローマ数字ですから、代数は苦手です)。さらにピュタゴラスの概念から、整数論・魔法陣・数字と言語の関係への興味がかき立てられ、錬金術へとつながっていきます。
天文学もイスラムでは重要です。礼拝の時刻とメッカへの方向について正確性が要求されますし、太陰暦での月の始まりと休日の決定にも天文学が必要だったからです。古代バビロニアとエジプトから受け継いだ天文学は、数学とも結びついて洗練されていきます。精密な天体観測の結果とプトレマイオスの理論(天動説)との矛盾を埋めようとするイスラムの天文学者たちの(周天円を否定しようとしたりしていた)努力は、コペルニクスに受け継がれます。
ムハンマドが天啓を受ける前の前歴(成功した商人だった)やメッカへの巡礼義務などから、イスラムでは通商も盛んでした。地図作製もイスラム世界で洗練されます。11世紀には羅針盤が中国からもたらされ、航海技術も進歩します(14世紀にヴァスコ・ダ・ガマがインド目指して旅立ったときに雇った水先案内人はアラブ人で、彼は乗組員にインド洋航海の訓練をするための教科書まで書いています)。
病院は、キリスト教世界では中世はじめから修道院付属施設として存在しましたが、イスラム世界では都市に大病院が次々設立されるという形で発展しました。9世紀に生まれた有名な医師アル・ラージー(西洋名はラゼス)の200冊以上の著書・論文の半分は医学で残りは神学・哲学・数学・天文学・錬金術などでしたが(ニュートンに似てますね。彼も物理学と神学と錬金術についてたくさん書いていますから)、その中には「熟練した医師といえども、すべての疾病を治療することができるわけではないという事実について」「なぜ人々は、熟練した医師よりもにせ医者の方を好むのか?」といったふざけたタイトルの論文があるそうです。もうちょっとおとなしいタイトルの「天然痘と麻疹について」はラテン語や英語などに翻訳されてなんと19世紀まで版を重ねたそうですけれど、私としてはふざけたタイトルの方に興味を感じます。
イスラムでは「学術のための学術」は許されません。すべては神のために、がイスラムのポリシーです。そのためか、イスラム科学は停滞の時期を迎えます。従来はその時期は12世紀頃とされていましたが、最近の研究では16世紀以降ではないか、とされているそうです。西洋が宗教から世俗と学問を独立させるようになった時期です。ただし、「最近の研究」はまだまだ不十分だと著者は言います。未翻訳の文献が山とあって、そこには新しい知見がまだまだ埋もれているはずなんだそうです。イスラム世界の翻訳運動によって古代世界の文献は大量にアラビア語に訳されて保存され、さらに12世紀からはラテン語に再翻訳されてルネサンス(12世紀ルネサンスとイタリアルネサンス)の原動力となりました。その「貢献」に報いるためにも、我々はもう少しイスラムについて知っていても良いのかもしれません。
親父が何を思ったか急にパソコンを始めたいと言い出したので、買い物につき合いました。店に入る前にまずは聞き取り調査。「何をしたいの?」「これこれしかじか」……ふむふむなるほど。「で、マウスって、知ってる?」「知らん」「クリックとはアプリケーションとかウインドウとか……」「知らん。昔職場にコンピュータが入ってきたときに分厚い本を2冊読まされたけど、キーをこう打つだけだった」(DOSかな、いや定年前の話とするとオフコンのダム端末だろうな) 絶句しそうになりますが、なんとか予算だけは聞き出します。
私が10年前に今の職場に移ってきたとき、パソコンが全然無かったから導入運動を起こして有志を集めて使い方を指導したときのことを思い出しました。「皆さん、これがマウスで〜す。ほら、ぶら下げたらどことなくネズミに似てるでしょ」
お袋も面白がってついてきましたが、二人とも戦前派、「電気製品は店でメーカー品を買うもの」のようで、DELLやエプソンダイレクトで安く、というのは頭から却下です。しかたないから要求性能は満たして価格が一番安そうなNECのValueOneを見せると「鍵盤が黒いのは好かん」……わかりました。白いのを探しましょう。探しますとも。近くで面白そうに3人漫才を見ていた店員が「これなんかいかがです」と勧めたのが富士通の昨年の冬モデル。定価から売値が2/3になってます。明らかにオーバースペックなんですけど、二人のお目々がキラキラしてます。はいはい、お気に召したのなら決定しましょう。画面が19インチもあれば、老眼でも見えるようにフォントを少々拡大しても余裕がありますし。
プリンタを見に行きます。え゛、写真画質の複合機が2万円でお釣りが来るの? 我が家の非写真画質のプリンタを思い出してちょっぴり哀しくなります。あとは雷防止のタップと筆まめと一太郎を購入します。これが全部自分のものだったらなあ、とちらりと思います。しかし老人カップルがコンピュータ店で楽しそうにうろうろできるとは、意外でした。
……親孝行者だったら、自分の財布から出すんですよね。すみません。親のものですから親の金で買ってもらいます。一緒に食べた昼の蕎麦もおごってもらいました。私は親不孝者です。まあ、一緒に楽しく時間を過ごせたのだから良しとしましょう。
そうそう、契約の時5年保証をどうするかと店員に聞かれた親父は「5年後に生きてるかどうかわからん。生きてても呆けてるかもしれんし」……たしかに5年後には、日本人男性の平均寿命を完全に越えてます。ま、その時はその時のことです。
さて、何はともあれこんどの連休はセットアップで潰れることが確定しました。使えるようにして、簡易マニュアルを作って、実習をしてもらわなきゃ。えっと、マニュアルの最初は「電源の入れ方・切り方(コンセントを抜いてはいけない!)」かな。
【ただいま読書中】
T.S.クローフォード著、別宮貞徳・中尾ゆかり・殿村直子訳、八坂書房、2002年、2500円(税別)
傘はエジプトやアッシリアでは王権の象徴でした(天蓋に覆われた王、のシンボル)。古代ローマでは豊饒の神バッコス(バッカス)の象徴です。インドでも豊饒の象徴として使われました。豊作をもたらす日光も雨も天からやってくるからです。ヨーロッパに傘が導入されると、キリスト教では高位司教のシンボルとして傘が用いられました。仏教では弔いの象徴として使われます。仏塔の頭頂飾りは、初めは傘そのものでしたが時代が下るにつれて数が重ねられ形式が抽象的になって現在の相輪となります。
最初の折り畳み傘は、朝鮮の楽浪、王景の墓(紀元25年頃)から出土したものです。日本では5世紀ころの埴輪に衣笠(日傘)を持っているものがあります。どうやら権力者のステータスシンボルとして用いられたようです。
ヨーロッパでは1500年以後、実用品としての傘が普及します。ルイ13世は、1619年には5本の傘を持っていましたが、1637年にはコレクションは14本に増えていました。そのころ、雨傘と日傘が分化し始めます(雨傘用の油布の製法は企業秘密だったりしました)。17世紀半ばにはパリに中国製の紙の傘が登場します。
イギリスはフランスより遅れます。17世紀には傘はまだ「珍品奇品」扱いでした。ピープスの日記にも「雨が降ったので外套を貸した」はありますが傘についての記述はないそうです(ピープスの日記はずっと前に読んでいるのに、そのへんは読み落としてます。そのうち再読、と心にメモしておきます)。ところが17世紀末〜18世紀初めのどこかで、突然雨傘の人気が急騰します。ただし使うのは女性だけで、男はレインハットと外套で雨に対応するべし、という風潮でした。
18世紀のパリでは傘の商業生産が始まっています。分解式(普段はばらしてポケットに入れておく)、軽量傘、おちょこ防止の新機構など、業者はいろいろな工夫をします。しかし傘の骨は、鯨骨や藤でどちらも女性のコルセットの材料です。産業間で技術の提携はなかったのかな。
イギリスでは傘に対する風当たりは強いものでした。「男らしくない」「格好悪い」「外国(特にフランス)かぶれだ」「雨に濡れたくないのなら金を惜しまず馬車に乗れ」などの罵詈雑言が傘をさして歩いている人に浴びせかけられました。
「傘と風当たり」からパラシュートが生まれたのは、また別のお話です。
19世紀末、シルク製のシティアンブレラが生まれ、紳士はそれまでのだぼだぼした傘ではなくて細くしっかり巻いた傘をステッキのように持つことが可能になりました。こうして身なりがきちんとした男性からもこうもり傘は認知されたのです。
傘で私がすぐに思いつくのは、ジーン・ケリーが雨の中を歌って踊るシーン、は別格として、インディ・ジョーンズの父親が雨傘を広げて戦闘機に突撃するシーンとかトトロが雨傘を持っているシーンが印象的でした。特にトトロの雨傘、あれはなんの象徴だったんでしょう?
私はプロ野球では広島カープのファンなのですが、どうにもチームの調子が悪くて苛々する毎日です。まったく何が悪いんだ、とデータを見ました。
http://www.tbs.co.jp/baseball/top/main.html の順位表にチームデータがあるのですが……ありゃま、チーム防御率がセリーグ最下位です。失点も最下位です。打たれまくり点を取られまくっています。ところが攻撃は……チーム打率はトップを阪神と争っていますです。ホームランは讀賣に続いて2位です。
……あれれ? 点を取られてもがんがん打って取り返せば勝ったり負けたりでチーム順位はそこそこのところに行くはずですが、なぜこれでダントツの最下位?
チーム得点を見ます。得点はリーグ5位です。
つまり、カープの打線は、ヒットをたくさん打つのですが、打っても打っても点につながっていないのです。連打がなくて散発でヒットを量産しているだけなのです。点が取れるのはホームランが出たときだけです。
これでは勝てません。勝てるはずがありません。連打が出るように相手ピッチャーに合わせて打線を組むか、ヒットが出た後ヒットが出ない可能性が高い選手ではただ闇雲にバットを振らせるのではなくて一工夫も二工夫もする必要があります。そういった工夫は選手ではなくてベンチのお仕事です。
どうも最近のカープの戦いぶりは、自分たちが強い、とでも思っているかのような、堂々とした横綱のような戦いを目指しているようです。ヒットで出塁した選手をタイムリー安打でホームに迎え入れるかっこいい得点シーンを夢みているようです。駄目ですよ。チームは最下位なんです。そのことを忘れちゃいけません。弱い最下位はなりふり構わず、打てる手は全部打たなきゃ。「あ、ヒットが出た」「残念、凡打だった」「またヒットが出た」「ちぇっ、ダブルプレーか、運がないなあ」……これだったら私が監督でもできます。プロの監督にはプロのプレイを見せてもらいたいなあ。
【ただいま読書中】
『
アーサー王と円卓の騎士 』 原題 The Sword and the Circle : King Arthur and the Knights of the Round Table
ローズマリ・サトクリフ著、山本史郎訳、原書房、2001年、1800円(税別)
サトクリフと言えばやはり『落日の剣 ──真実のアーサー王の物語
(上) (下) 』でしょう。アーサー王伝説が成立するにはそのもとになる何らかの「実話」があったはずだとサトクリフは想定します。ではそれはどのような実話だったのか、を伝説から遡って詳細に組み立てた「あり得た物語」が『落日の剣』です。ローマ軍がブリテンから撤退したあと、北からはピクト人やスコット人、南からはサクソン人が次々ブリテン島に侵入を繰り返していた時代、それらに対抗してブリテンを束ねた偉大な王アトラスが主人公です。寒い夜は愛犬を抱いて眠り(ドッグナイトですね)、愛する部下の死に悲しみ裏切りに苦しみ、自分がやっていることはローマの落日の残照を守ろうとしているだけの虚しい努力ではないのかと自省する、きわめて人間くさいドラマでした。石に刺さった剣も魔術師マーリンも円卓も登場しませんが読み応えがありました。
伝説を適当にいじって遊ぶのは割合簡単でしょうが、このようにその「もと」をきちんと再構成するには、文章力や創作力だけではなくて当時の時代背景や風俗・風習に対する詳細な知識や考察が必要で、大変なパワーが必要です。サトクリフはその力をしっかり発揮しています。
で、本書は「アーサー王」です。のっけからドラゴンが登場しマーリンが活躍します。意外なのは、石に刺さった剣をマーリンが用意した点で、私が知っているお話とは変わっていますが、でもその必然性には納得しました。
冒険の主人公として円卓の騎士が次々登場し、騎士道物語の変奏が奏でられます。主題は、剣と魔法、正義と信仰と乙女への愛と忠誠と名誉。いくつも変奏曲が続いて飽きを感じた頃、トリスタンとイズーの物語が登場します。イズーは敵のトリスタンと出会い恋に落ちますが、結局イズーはトリスタンの主君のお后になります。この悲恋物語を竪琴を手にトリスタン自身が語ります。取りまく人々の中には、アーサー王第一の騎士ランスロットと道ならぬ恋に落ちているグウィネヴィア王妃がいます。洒落た構成ですが、解説でもやはりここは注目されています。全体と局所的なエピソードの呼応が見事ですし、そのエピソードのはめ込み方が名人芸です。
どんな神話や伝説も「これにはもとになった実話があるだろう」という発想から面白い物語が紡げそうです。できるだけリアルで、でも荒唐無稽な物語、を望むのは欲張りですか?
私が最後に学会発表したのはもう10年以上前で、当時は手書きのポスター展示やスライドが主流でした。パソコン画面を写真に撮ってポスターにそのまま貼り込んだ私の手法はけっこう時代の最先端だったりしたのです。それが最近はどんどんパソコンが進出してきて、講演会などでPowerPointがばんばん使われるようになったのを「をを、文明の進歩だなあ、でも学術の世界とは無縁の私には関係ないもんね」とのほほんとしていたのですが……
5月25日の日記に書いた研究会の発表を今日してきました。国際会議場の500席のフロアが8割方埋まっていて(あとで聞いたら380人だったそうです)、上から見るとなかなか壮観でした。私に期待されているのは他の演者とは一味違う発表のようだったのですが、事前の打ち合わせがなかったのに一応世話人の意向には応じることができたようです。持ち時間10分のところを脱線しすぎて13分も喋ってしまって、それでも言い忘れがあってシンポジウム後半の討論のところでそれを追加発言したのは、顰蹙ものだったかもしれません(いや、「かもしれません」は不必要でしょう)。
PowerPointは持っていないし私のマシンではスペック不足なので、無料ソフトのOpenOfficeでPowerPoint互換のファイルをCDに吐き出させて会場に用意されたマシンに喰わせたらちゃんと思い通り走ってくれて感心しました。「・」の位置が微妙にずれていたのは、ご愛敬。それよりも、久しぶりに締めたネクタイで首が窮屈でした。ネクタイは嫌いじゃ。
【ただいま読書中】
原題 KRAKATOA The Day the World Expploded:August 27,1883
サイモン・ウィンチェスター著、柴田裕之訳、早川書房、2004年、2800円(税別)
古代ローマにはインド(ジャワを含む)から香辛料が大量に輸入されていました。軍人兼博物学者のプリニウスは市民が胡椒に費やす費用の大きさに苦言を呈しますが、軍の公務でナポリ湾を調査中、ヴェスビオ火山の噴火で落命します。彼の名前は学術用語に「プリニー式噴火」として残りますが、そのタイプの噴火で最大のものがスマトラとジャワの間の島、クラカトアでした。
1857年スレイターはニューギニア付近の島々で鳥の分布が明らかに異なっていることに気づきます。「ダーウィンの月」ウォーレスはさらに調査を進め、1859年マレー群島の真ん中にオーストラリア系動物相とインド=ヨーロッパ系動物相の明瞭な境界線が存在することを指摘しました。「ウォーレス線」です。20世紀に、海洋プレートが大陸プレートにもぐり込む線とウォーレス線が一致していることがわかりました。ウォーレス線は分ける線ではなくて二つの異なる相が衝突する線だったのです。そしてその地下では、マントルの活動が活発化しマグマが盛んに上昇しようとしていました。
1999年にデイヴィッド・キーズの『
西暦535年の大噴火 』に基づくTVドキュメンタリーがイギリスで放送されました。それはクラカトアの噴火によって気候変動が起き、その結果、東ローマ帝国の衰退/ネズミの大移動によるペストの蔓延/イスラムの誕生/蛮族によるヨーロッパ侵攻/マヤ文明の崩壊などが起きた、というものです。ちょうどその頃、世界中で樹木の生長は遅くなり、中国の『南史』には「南方で非常に大きな爆発音が聞こえた」とあります。
19世紀後半、世界を結ぶ海底電信ケーブルが敷設されます。電線をコーティングする防水剤「グッタベルカ」が採れるイソナンドラ・グッタという常緑樹はボルネオ・スマトラ・ジャワ島に豊富にあり、島々はその輸出で潤います。日本も開国直後すぐにその国際電信ネットワークに組み込まれました。インドネシアもそのネットに結ばれますが、ネットワーク利用のお得意は、たとえばロイターやロイズの代理人たちでした。
1883年5月、クラカトアの噴火が始まります。はじめは「咳払い」程度の噴火ですぐに静まりましたが、8月27日13時6分にまた噴火が始まり20時間56分後には最後の大噴火が起きて、海抜790mの円錐形の島はバラバラに吹き飛ばされて消滅します。その轟音はインド洋の反対側、4776km離れたロドリゲス島でも聞くことができ、衝撃波(時速1080km)は地球を7回も回りました(ガス工場の圧力計に記録が残されています)。高さ30m以上の津波によって165の村が破壊され、36000人以上が死亡しました。潮位の変化は遠くフランスでも観測されています。
大気も変化しました。成層圏にまで届いた大量の粉塵の影響で、特に夕焼け空が様々な幻想的な色彩に彩られるようになったのです。その現象は2〜3年続きました。塵によって太陽光線が遮られることで気温は下がりました。ただ、不可解なことに、イギリス王立協会の調査報告は、気温については無視しています(これについては後日、火星の探索で砂嵐で地表の気温が下がることをもとにカール・セーガンが「核の冬」の概念を唱えます)。
ニュースは電報や電信でヨーロッパの大都市に伝えられそこから新聞で一般に広められました。人々は詳しいことを知るにつれ、自分たちが「地球の住人」であることを意識するようになったのでした。ヴィクトリア時代の意識改革です。ところがインドネシアでは、イスラム(の東南アジアバージョン)の人々が、対ヨーロッパに新しい意識を持つようになっていました。火山の噴火が政治変化の予兆と捉えられたのです。1888年、オランダに対する反乱が起き鎮圧されます。しかしそれは独立運動につながる長い道の始まりでしかありませんでした。
そして今、かつてクラカトアがあった場所にはア1927年に海底噴火で誕生したアナック(子どもの意味)・クラカトアという火山島があり、毎年高さが6メートル、幅は12メートルずつ大きくなり続けています。いつかまた大噴火をするために。
400ページを越える大部ですが、すらすら読めます。一つの地点や事象を見つめることで、歴史を深く洞察したり地球規模でものを考えるのによい本ですし、プレートテクトニクスについての優れた入門書でもあります。
親父のパソコンのセットアップに一日かけました。疲れてしまって、今日は読書はできません。
いやあ、新しい機械はいいなあ(新しいといっても半年前の新型ではありますが)。線をつないで機械の指示通りにしていると粛々と手順が進みます。マシンも速くて、再起動をかけてもストレスを感じる暇もなく次の作業に移れます。
ただ、やはりPCを使えるようにするのは素人には敷居が高い作業でしょう。昔は難解な用語が高い敷居でした。マニュアルを精読してもちんぷんかんぷんで、結局良く知った人に聞くのが一番でした。今はスタートマニュアルが良くなって、たぶん素人でもある程度のところまではできるでしょう。ただ、インターネット接続に関しての素人だと、やはり困るんじゃないでしょうか。「オンラインで登録」とか「最新のドライバに更新」なんて急に言われても、素人はわけがわからず不安になるだけです。
とりあえず、いらないアイコンやソフトはばしばし削除して(私はデスクトップはシンプルなのが好みです。デスクトップに許容できるアイコンは数個まで)、よく使うだろうソフトはクイック起動に入れておきます。A4三枚まとめた手製の簡易マニュアルもその場で印刷してからその説明を始めましたが……いざとなったら泊まり込んで明日も潰して使えるように特訓する気だったのですが……マウスポインタがポイントしません。ずれまくっていてシングルクリックだドラッグだ、以前の問題があります。そうですよね、初めて持つ人は、知らないうちにマウスが手の中でねじれて変な風にしか動かないものでした。
方針変更です。まずは囲碁ソフトでマウスの練習をしてもらうことにしました。それと同時に、近所のパソコン教室の受講を勧めました。せっかく無料なのですから、使わなければ損です。
さて、またしばらく経ったら息子(父にとっては孫)を連れて様子を見に行こうかな。実はそれが父の狙いだったりして。
朝日新聞に雑誌「かがくる」の宣伝が載っていました。子ども向けの科学雑誌のようですが、思わず「蚊の次には蝿でも来るのか?」と呟いてしまいました。
「科学する」ということばは昔(今でも)けっこう使われていましたが、私の言語関係の美意識にはあまりぴんと来ないことばです。語感も好きになれませんが、名詞を安易に動詞化したら意味不明になってしまったことばの代表に見えるからです。そしてそれが「科学る」ですか。……はあ(脱力)。
「科学する」は、たしか私よりも少し年上の世代が言い出したと記憶しているのですが、そういった人が「最近の若者のことば使いは……」なんて言っても、説得力が無いように私には思えます。その内食事は「箸る」、コーヒーは「カップる」なんて言うようになるのかしら。
【ただいま読書中】
ニコラ・グリフィス著、幹遙子訳、早川書房(ハヤカワ文庫SF1225)、1998年、840円(税別)
先日のオフで寄った古本屋でCannonさんに勧められて買った本です。買値は400円。買ったのはけっこう前ですが、やっと「順番」が回ってきました。
水処理に関するバイオ技術で巨万の富を築いた一族の末娘ローアは、18歳の誕生日直前に誘拐され、裸で辱めを受けるシーンをネットで全世界に公開されます。ところが一族は身代金の支払いを拒否。裏切られたと感じたローアは犯人の一人を殺し、背中に重傷を負いますが脱出に成功します。家には帰れないと思ったローアは、身分を詐称して巨大下水処理場に職を得ます。ところがそこに巨大な陰謀の影が。そしてそれはローアの誘拐事件とも関連したものだったのです。
孤独で裸で血まみれの状態をスタートとして、そこからどのようにサバイバルするか、陰謀をどのように暴いて解決するかのストーリーと読めますが、ローアの恵まれてはいたが虚飾に満ちた人生をクリーンにする過程が汚水処理過程に重ね合わされているようにも読めます。いや、汚水処理が本当に具体的なの。もう鼻先に汚水に混じった糞の匂いがするかのように。
セックスシーンは基本的にほとんどレズです。解説では、著者がカミングアウトしたレズビアンであることと、未来のクィア(レズビアン&ゲイ)ライフスタイルを描いているのだと指摘されていますが、正直言って、ローアの相手が女でも男でも本書の良さは損なわれないんじゃないかと思います。
……ところで、「BOD」のBを本書では「生化学的」と訳しているけれど、古くは「生物学的」、最近は「生物化学的」じゃなかったっけ?
1970年代後半、水処理場に見学に行ったときのことを思い出しました。そこは、その頃にしては先進的な中水道(下水を構内で処理してトイレを流す水などに再利用する)システムを採用していたのですが、そこの責任者が「何回か水を再利用して、最終的には川に放流するが、そのとき、川の水よりもこちらが流す水の方がきれいなようにして流している」と胸を張って言ったのが印象的でした。つまり、下水処理水を入れた方が川の水はきれいになるわけ。もともと川を汚したのは人間ですから、あまり威張るわけにはいきませんけれど。
先週はあまり新聞が読めなかったので、今になって拾い読みをしています。
15日の朝刊には芥川賞・直木賞の受賞記事がありました。……ふむふむ、受賞作はこれこれしかじかで、選考過程は…… ……はぁ? 「『
となり町戦争 』はデビュー作だから……作者にはもう一つ苦労をしてもらおう。だから賞はやらないよん」というある選考委員の意見が……
直木賞の規定を見直しました。
「各新聞・雑誌(同人雑誌を含む)あるいは単行本として発表された短編および長編の大衆文芸作品中最も優秀なるものに呈する」「無名・新進・中堅作家が対象となる」(あと、一度芥川か直木どちらかを受賞した人は以後どちらの受賞もできないそうです)
つまり「人」ではなくて「作品」に対して選考が行なわれる、というのが規定です。
「デビュー作だから駄目」……無名・新進は排除ですか? それって立派な規定違反です。「苦労をしてもらおう」……なんて偉そうな物言いだこと。ふんぞり返ったことばです。それと、「作品」ではなくて「実績」に賞を授与するのですか? それも立派な規定違反です。
それとも「よく知らない人ではなくて、自分が良く知っていて好きな人にやりたい」がホンネなのかしら。でもそれは公私混同だよなあ。
私が『となり町戦争』を落とすんだったら「日常生活にかすかな違和感のように戦争が忍び寄る手法は魅力的だが、古くは筒井康隆や小松左京の長編・短編、新しくは『最終兵器彼女』などですでに何回も使われているから、もうちょっと新しさと工夫が欲しかった」とかなんとか言うでしょう。
たしかに新人に賞を与えるのはバクチみたいなものでしょう。一発屋でそのまま消えてしまうかもしれません。だけど、その将来を見抜くのが選考委員の腕でしょう。「前例がない」ですべてを門前払いするアホじゃあるまいに、安全のために「優秀な作品」ではなくて「実績」重視にするのは「私は選考に自信がありません」と言っているように私には聞こえます。空耳かもしれませんけれど。
ところで、ものすごく偉そうなことを言っている選考委員は、本当はどのくらい偉いんです? 少なくとも自分たちが与える賞にふさわしい(受賞作に匹敵するあるいは凌駕する)作品を選考期間(過去半年)内に発表しているんですよね? 「実績」はともかく、もしも最近はクズのような作品だけ書いていてそれで他人の作品を偉そうに貶しているのだったら、それは悪夢のような冗談です。あるいは(関係者にとっては)、冗談のような悪夢。
【ただいま読書中】
高橋しん作、小学館(ビッグスピリッツコミックス)、2000年(2005年1月 22刷)、505円(税別)
ほのぼのした絵柄の学園ラブコメです。舞台は北海道の海辺の町。つきあい始めたばかりのチセとシュウジ。チセはちびでのろまで気が弱くてドジっ子で成績は中の下で、口癖は「ごめんなさい」。シュウジは背が高くて(もう引退したけれど)陸上部で実はひそかに頭は良くて口は悪い。この対照的な二人のぎくしゃくした恋模様を二人をい取り巻く友人や先輩や後輩を含めてゆったりと描いていくはずなのですが……そこに戦争が闖入してきます。タイトルを見たらわかりますね。そう、彼女は最終兵器だったのです。
学園ラブコメと戦争、と言えば「
うる星やつら 」やゲームの「
ガンパレードマーチ 」を思い起こしますが、本書は「日常」をベースにしている強みと弱みがあります(描写のリアルさが出せるのが強み、「現実」と整合性を取らなければならないのが弱み)。兵器であるチセの悩みは、出撃の度に制服がボロボロになることと、出撃の帰りに自宅の門限を破りそうになってしまうこと。そしてジエイタイは、はじめは「高校の授業には迷惑をかけないように出撃してもらう」なんて言ってたくせに、平気でスクランブル(緊急出動)要請をかけてきます(それもポケベルで)。
兵器としてふるう力の絶大さに悩むチセに対して、口の悪いシュウジがどのように対処できるか。それはチセをどのように変えていくのか。視点を、戦争ではなくて日常に置いてじっくり描こうとしている点で、先が楽しみです。
昨日たまたまTVでアニメをやっていたのを覗いてちょっと気になったので、「TVを観てわかった気になってはいかんぞ」と今日1巻だけ買ってきました。空襲シーンや戦闘シーンはやはりアニメの方が迫力がありますが、一コマ一コマをゆっくり楽しめるコミックもいいなあ。ほとぼりが冷めた頃に2巻を買ってこようっと。
次男に連れられて観てきました「
ミュウと波導の勇者ルカリオ 」。この年でポケモン映画かよ、とぼやきたくなりますが、子どもだけで映画館に放り込んでおいて火事でも起きたら困りますのでくっついて行きます。長男のおかげで劇場版ドラゴンボールZもすべて観ていますし、次男は知らん、というわけにもいかないでしょう。
……あら、けっこう良いじゃないの。子ども向けですから表現はシンプルですが、極悪人は出てこないし、メッセージは「友情」「別れと再会」。ふーむ、昔のおとぎ話が担っていた機能を今はポケモン映画が担っているのかしら。
しかし、3DーCGを贅沢に使っています。CGと言ったらディズニーの「
トロン 」や「美女と野獣」のダンスシーンで3DーCGを使ったことを誇らしげに関係者が述べていたことを思い出すレトロ人間ですが、大広間のダンスシーンでは何組踊っていたかな、全部CGとは、リソースを贅沢に使ったもんだと感心してしまいました。こんな感想を持つこと自体が、今ではレトロの証明ですね。もっとも、お城の外形は、せっかくの3Dなのに「
カリオストロの城 」に迫力で負けているのは、なぜ?
【ただいま読書中】
谷甲州著、早川書房、1993年、2233円(税別)
「未来史」という概念に私が初めて触れたのは、ハインラインでした。中学校の時だったかな。高校で出会ったのは、コードウェイナー・スミスや光瀬龍……そうそう、ニーヴンのノウンスペースシリーズも。
魅力的でした。一つの異世界を作るだけでもすごいのに、一つ一つの作品が実はもっと大きな歴史の断片で、それぞれをつなぎ合わせる(あるいはつなぎあわせることができない)ことでさらに大きな世界を見ることができるのです。自分の想像力への挑戦のように感じました。
ただ最近は、想像力ではなくて、記憶力への挑戦になってしまって、いろいろ通して読むのがしんどくなっています。(あああ、書いていて悲しいから、ここでやめましょう)
谷甲州の記述は特徴があります。特に宇宙での戦闘シーン。そこを支配するのは物理学です。秒速数kmで宇宙を突進する宇宙船が、同じく秒速数kmで飛来する敵と会敵するためには、厳密な計算と準備が必要です。目で見てから撃ったのでは間に合いません。使える推進剤も有限です。どこぞのアニメのように好き放題機動できるわけではありません。選択できる軌道も、周辺の天体配置や積んである消耗物資の量によって制限があります。そういった制限の中で、相手の動きと打って来るであろう手を読み、こちらの目論見を動きの変化から悟られないようにして攻撃を仕掛け防御を試みるのです。あくまで冷徹でリアル、それが谷甲州の宇宙です。
外惑星動乱が終結して11年目、射手座の方向から太陽系に高速で近づく重力波源が発見されます。航空宇宙軍は詳しい観測のため観測艦ユリシーズを派遣します。ところが艦内では、まるで未来からの干渉のような不思議な現象が次々起きて……
本書の世界では、時空間も存在もすべて「情報」に還元されて表現されます。したがって、情報の流れを遡れば過去へも行けます。ただ、ここまででかい世界観になってしまうと、ドラマとしては弱くなりますねえ。そのかわり、というわけではないでしょうが、小技は効いています。惑星CB−8やバシリスクの乗組員たちが意外な形で登場したのには思わずニヤリとしてしまいました。谷甲州のファンだったら、押さえておかなきゃいけない本でしょう。
この7月15日に「心神喪失者医療観察法」が施行されました。重大な犯罪を犯した触法精神障害者を、刑務所ではなくて専門の施設に入れて再犯のおそれがなくなってから社会復帰させよう、という目的の法律です。
先週の新聞には、女子中学生を強姦するなどの性犯罪を繰り返していた男が、出所して七日後にレンタカーでわいせつ目的で女性をはねて車で連れ回して殺した事件の判決が言い渡された(無期懲役)との記事がありました。
あれれ? 精神障害者だと「再犯のおそれがない」ことが確定するまで監禁され観察されるのに「健常者(非精神障害者)」だと「再犯のおそれ」は無視されて、定められた時期が来たら自動的に釈放ですか。模範囚だから仮釈放は早いでしょうね。だって、刑務所内には彼の犯罪の対象者は存在しないのだから、模範囚にならざるを得ないもの。で、出たら一週間後に殺人を犯すわけ。
以前私はこういった事件の被害者の家族の人と話をしたことがありますが、暗然としました。思い起こせば、時期も場所も全然違うのに、上記の事件とほとんど同じ経過を辿っていたのです(そういったタイプの犯罪者は同じ発想をする、ということなんでしょう)。新しい被害者を生み出さないためにどこかでその連鎖を断ちきることはできないものかと改めて思いました。
知り合いの精神科医に聞いてみました。「自分の患者が犯罪を起こすかどうか、的確に予測できる?」答はにべもないものでした。「精神障害者であろうがなかろうが、他人が明日犯罪を犯すか犯さないか、的確に予測できる人間がこの世にいると思うか? ついでだけど、精神障害者が犯罪を犯す率は、一般人と差はないはずだよ(要旨)」
それはそうでしょう。他人どころか、自分自身についてだって「明日絶対犯罪を犯さない」との断言はできません(「おそらく犯さないだろう」「現在、犯罪者になりたいとは思っていない」だったら言えますけど)。
職業的な犯罪者、あるいは、反社会的な人格障害者にだったら「この人はいつか必ず犯罪を犯す」と言えるでしょう。でも、それも「いつ」「どこで」の予測は困難です(そんな予測は可能だ、と主張する人には是非コツを伝授願いたいし、適当な集団をあてがって誰がいつどんな犯罪をするのか実際に当てていただきたいものです)。
裁判で言い渡される刑は、罰でしょうか、それとも教育? 「罰」なら、服役を終えた人間はそれで「お勤め」は終わったわけですから出所して何をしても「自由」です。罰をくらうという義務はちゃんと果たしたのですから。だけど「教育」(再犯防止)が刑の目的だったら、再犯者が出るということは刑がちゃんと機能していないということになります。さて、社会の合意はどちらなんでしょう? (社会が合意せずに「とにかく上手くやれ」とすべての責任を刑務所に押しつけるのには反対です) で、社会を守るためと犯罪者の人権を守るためには、どう合意するのがベストチョイスでしょう。
ともかく、もし刑が罰なのなら、精神障害者だろうがそうでなかろうが、自分が犯した罪に関しては罰をくらうべきです。もし刑が教育なのなら、精神障害者だろうがそうでなかろうが、再犯のおそれがなくなるまでしっかり教育を受けるべきです。人によって差をつけてはいけませんよね。
【ただいま読書中】
海上治安研究会編、成山堂書店、2004年、1400円(税別)
平成13年12月22日1時10分、九州南西海域で不審船が発見されました。風速20m波高4mの大時化の中を現場に急行した巡視艇「いなさ」は11時間後に追いつきます。一見漁船タイプで日本の排他的経済水域(EEZ)内で不法操業をしていた可能性があるため、停船命令を出しますが無視。警告弾(光と音)、射撃警告、上空と海面への威嚇射撃も無視して逃走を続けるため、遠隔操作式自動追尾型20ミリ機関砲で船首(普通人がいないところ)に船体威嚇射撃が行なわれ、その結果不審船は一時停船します。日本側の巡視船は四隻で包囲・接舷を試みますが、不審船は逃走を再開、また停船したところで巡視船「あまみ」に向かって自動小銃とロケットランチャーで攻撃を開始しました(この時のビデオを私はTVで観ましたが、撃たれているのに冷静に撮影を続ける態度には驚きました)。「あまみ」「いなさ」が正当防衛射撃を開始し、三分後には不審船は自爆と思われる爆発を起こし沈没します(22日22時13分)。日本側の被害は「あまみ」が被弾100発以上、負傷者3名、「きりしま」が被弾44発、「いなさ」が被弾21発でした。
翌年6月、水深90mの海底からの船体を引き揚げ作業を開始しますが、台風が10も襲ってきて、結局引き揚げに成功したのは9月11日でした。艦内からは様々な遺留品や人骨が見つかりましたが、驚くのはその武装です。手榴弾、自動小銃、軽機関銃、二連装機銃、ロケットランチャー、無反動砲、携行型地対空ミサイル、爆薬(と「自爆」と書かれたスイッチ)……
ただ、武装は過重ですが、この船の目的は(これまでの証拠の積み重ねから)覚醒剤の密輸などの犯罪行為で、武力攻撃ではない、というのが海上保安庁の見解です。したがって不審船、ではなくて、北朝鮮の工作船に対しては、海上自衛隊ではなくて海上保安庁の警察活動で対処する、が、国際法上も正しいことになります。
しかしこの警察活動、やる人は堪らないでしょう。相手が撃ってくるかどうか、撃つとして、何を撃ってくるか、撃たれるまでわかりません。コワイからと言って先に相手を撃ち倒すわけにはいかないのです。(このへんは、アメリカの真面目な警官や交戦規則を扱った映画で良く取りあげられますね) 誰かを殺すことを目的として最初から撃つ気満々でやってくるテロリストがいないことを、海上保安官の身の安全のために祈ります。
・「人は、後ろ向きに、未来に向かって分け入って行く(だから過去しか見えない)」
・「あなたが生まれるとき、あなたは泣き、世界は歓びに満ちあふれる。あなたが死ぬとき、世界は泣き、あなたは歓びに満ちあふれる。かく生き、かく死になさい」
どこの国のことばか個人のことばかは忘れましたが、私が好きなことばです。
【ただいま読書中】
さいとう・たかを作、リイド社、2005年、550円(税込み)
学生時代からゴルゴ13を集めていて、一時100冊近く持っていましたが、引っ越しの時の本の重みに耐えかねて、十年くらい前だったかな、まとめて処分してしまいました。そのときに創刊以来全部持っていた写真集の写楽も一緒に捨てたのですが、今にして思うと、もったいなかったなあ。
今回は、チェチェンのゲリラ/人工知能で人の行動を予測する学者/イスラエルのシンクロトロン、の三話です。絵は相変わらず下手です。ゴルゴは相変わらず超人です。久しぶりに見たのですが、これだけ変わらないと、なんだか安心しますね。
国際情勢のどこがどうしてホットなのか、それを情報分析して見せてくれる点で、この漫画はけっこうお得なんじゃないかと思います。
そうそう、私がゴルゴ13を好きなのは、最初期の作品に描かれた、絶望した女性が「こんなに苦しいんだったらもう死んでしまいたい」と言ったのにゴルゴが「それはつまり、苦しくなかったら生きていきたい、ということだ。君は生きたいんだ」と諭すシーンが気に入っているからでしょう。暗殺者のセリフじゃありませんよ。
文化庁の調査で「敬語に自信がない」人が37%、と先週の新聞に出ていました。記事の論調は「こんなに敬語が使えない人がいる」のようですが、私の感想は逆に「たったの37%で、残りの人は『自分は敬語が使えている』と思ってるの? まさか!」です。私の判断の論拠は、TVや現実での見聞体験ですが、どう聞いてもおかしい敬語使いがこの世に満ちあふれていません?(疑問形ですが、もちろん意味は断定です) もちろん私も「自信がない」グループですから、本来偉そうなことは言えませんが、それでもおかしいものはおかしいのです。記事の末尾にもありましたが「私は敬語が使えている」と自信があって堂々と間違えている人が多いのではないかしら。
【ただいま読書中】
ジョゼップ・フォンターナ著、立石博高・花方寿行訳、平凡社、2000年、2800円(税別)
「古代ギリシアでは、蛮族の襲来に対抗して結束が高まり『ギリシア人』というアイデンティティが確立した」「古代ローマでは、キリスト教は抑圧された貧しい人々に広がり、それゆえキリスト教徒は、ライオンに喰われるなどの弾圧を受けた」「ヨーロッパ中世は暗黒期だった」……などというこれまでのヨーロッパ史の「常識」に対して「その嘘、ほんと?」と本書は言っています。
たとえば古代ギリシアのアテネは政治形態として民主主義が採用されていましたが、「市民に与えられた自由と平等」は全アテネ人の10%だけが享受できる特権でした。「メディア戦争」でギリシアと戦った「蛮族」ペルシア人は、たしかに「非ギリシア的」という点では「バルバロイ(蛮族:もとはきちんと(ギリシア語を)喋ることができない様子の擬音語)」ではありましたが、政治や文化の点でギリシアがペルシアよりはるかに上、ということは決してありませんでした。
ローマも蛮族を「鏡」としていました。ところがローマ帝国没落時、外部の蛮族を主因とできないため、「内部の蛮族(非ローマ的な農民など)によって帝国は没落した」と説明しようとしました。実際に一番腐敗していたのは、上層階級の人間だったのですが……こういった、責任を他に押しつけるインテリの論理は、現代でもよく見られるから気をつけるように、と著者は言います。
古代ローマは、宗教的には一種のモザイク社会でした。様々な民族の様々な宗教がそのまま存在していたのです。ローマ皇帝は最上位の「生贄を捧げる者」としてすべての宗教から帝国の政治的統一のシンボルとして認められていました。ところがキリスト教は中央集権的なシステムです。したがってローマ帝国でのキリスト教の興隆は、宗教だけではなくて、政治システムの対立でもありました。このとき、キリスト教が貧困層ではなくて上流階級から改宗者を増やしていったのが効いてきます。結局キリスト教は国教となり、その迫害から逃れた異教の学者たちは、最終的にイスラム世界に古代文化の実りをもたらすことになります。
ここまでが、第1章「蛮族という鏡」と第2章「キリスト教徒という鏡」の内容です。いやあ、目から鱗がぽろぽろとまでは言いませんが、なかなか面白い視点です。しかしこれではヨーロッパ中心主義信奉者には、ウけないだろうなあとは思います。「王様は裸だ」と言われたらいやですもんねえ。
で、第3章からは「封建制」「悪魔」「田舎者」「宮廷」「野蛮人」「進歩」「大衆」が「ヨーロッパの歪んだ鏡」として取りあげられます。これらを通して著者が批判している「ヨーロッパ中心主義」は、実はそのまま我々にも言えることでしょう。自己を世界の中心に据え、地平線の向こうに対置した他者を自分より劣るものとして自己正当化を行うのは、結局「鏡」を歪めるだけの態度ですから。
ついさっき花火大会を数km離れたところからのんびり眺めていたら、視界の隅を白い線が走りました。素早く45度首を左に振ると、流れ星。願い事をするヒマはありませんでしたが、なんだか得をした気分です。
本当に煙を愛しているのなら、どうして火のついたタバコを持つとき、煙が自分の目にしみない位置に保持するのでしょう。その煙が他人の顔に流れて行ってるかどうかは気にならない様子だけれど、自分が愛するものの行く末には興味を持って欲しいなあ。
【ただいま読書中】
東田雅博著、大修館書店、2004年、1800円(税別)
私が纏足について初めて知ったのは、高校時代に読んだ『大地』(パール・バック)か岩波新書で纏足について書かれたもの(タイトルは失念)だったと思います。子どもの時から女性の足に布を巻きつけて成長を抑制すると同時に変形させ、まるで歪んだハイヒールのような形にしてしまうのですから、ショックでした。広島県福山市松永のはきもの博物館には纏足用の靴が展示されていますが、成人用の靴が幼児用の大きさしかありません。実物を見ると、私のショックが共有できるかもしれません。
本書は、19世紀ヴィクトリア時代の英国女性が「家庭の天使」でありかつ「余った女」
であった、というところから話が始まります。もちろん、下層階級ではなくて、ミドル・クラスでのお話です。使用人数人と住み込み家庭教師によって家庭婦人は家事や教育から解放され「家庭の天使」としての機能を期待されます(当時のフェミニズム運動も「母性」を基調としたものでした)。しかし、ミドルクラスの男性と結婚できない「余った女」は、結婚以外の道に進むしかありませんでした。そういった人達は、たとえば帝国の中(海外)に進出します。
1887年に中国に入ったリトル夫人は、そこで纏足をされている中国女性を「発見」します。中国に移住することで英国での女性抑圧から解放されたと感じていたリトル夫人は、そこで反纏足運動を開始します。リトル夫人は天足会を結成してその会長となり、ヨーロッパ人だけではなくて中国人もその会員として纏足やアヘン吸引の習慣を改めさせようとします。女性が運動のリーダーとして、男女混合の集会で演説したり政治家に面会するのは、ヴィクトリア時代の「女性に関する常識」に照らせば「革新」でした。しかし、リトル夫人は李鴻章から言質を取ったり歴代皇帝の纏足禁止令を引用したり精力的に活動し、中国に反纏足活動を根づかせます。
1906年、英国に帰国したリトル夫人は、反纏足運動は継続しますが、改めて英国の女性抑圧に気づき、女性参政権運動を始めます。フェミニズムの国際化です。しかし、それに対する抵抗は男女双方から強く行なわれました。
中国から見たら、リトル夫人の活動は女性解放であり社会改革運動でもありましたが、同時に大英帝国の中国に対する関与の正当化でもありました。さらに、リトル夫人が纏足のセクシュアルな面に無知だった点で、文化的な侵略と呼ぶことも可能でしょう。ただ、リトル夫人が中国を、そして大英帝国も変化させたことは確かですし、その変化は世界にとっては「善」だったと私は感じます。
JR西日本の尼崎脱線事故(朝日新聞だと宝塚線の事故)で、電車に乗っていた人の内過半数の人にPTSDがあることがわかったそうです。で、TVニュースでは「対策としては、医療機関が……周りの人が……」
……もしも〜し、心に傷を負った人達や周りの人を事故直後にさんざんこづき回して心の傷に塩を擦り込み続けた人達のことは、なかったことにするの? PTSDの原因はJRで、回復の責任は医療機関と周りの人間……マスコミは無関係? ふうん。
【ただいま読書中】
藤本ひとみ著、講談社、1999年、1600円(税別)
フランス革命直後、伯爵家の城を改造した牢獄に、微罪で服役中に罠にはまって終身刑を言い渡された14歳のヴィドックが送り込まれます。そこは革命委員会に接収された後は「脱獄者ゼロ」を誇る地獄のような場所でした。諦めを知らないヴィドックはさっそく脱獄を考えますが、終身刑を取り消しにできない限り脱獄に成功しても真っ当な人間としての未来はありません。
牢獄の中にも謎はあります。いかにも怪しげな革命司祭。革命にはそぐわないと閉鎖された礼拝堂からは異臭が洩れ続けステンドグラス越しに幽霊が見えたとの噂が絶えません。そして、謎の「マドモアゼル」。脱獄を試みる囚人は必ず待ち伏せされて銃殺されます。所長に目をつけられ懲罰牢に放り込まれたヴィドックは、隣の狂人牢が定員二人のはずなのに実際には三人入っていることに気がつきます。
やがて反革命の軍勢が国境にやって来ます。
八方ふさがりの情勢の中、ヴィドックはどうやって自分の未来を開くことができるというのでしょうか。そして聖ヨゼフの日、二つの陰謀がクロスし、虐殺が始まります。
著者はフランス革命前後を題材にいくつも作品を発表していますが、今回はサスペンス(?)ものです。伏線はわかりやすく強調され、日本人が「異世界」に入りやすいように親切に構成が作られています。気軽に「あの時代」を楽しめました。
いらっしゃいませ〜、ということで、デカイエローさんでした。ぱちぱちぱち(拍手)。暑さにも台風にも地震にも負けずに、この夏を乗り切りましょ〜!
【ただいま読書中】
ピアズ・ポール・リード著、高橋健次訳、文藝春秋、1994年、2718円(税別)
チェルノブイリはどこにあるでしょうか?(正解はウクライナの北部、ベラルーシとの国境近く。では、ウクライナとベラルーシについてあなたは何を知っていますか?)
チェルノブイリの事故は、いつ発生したでしょうか?(1986年4月26日です)
チェルノブイリの事故による死者数は?(公式には本書執筆時に31名。最終的な数はまだ不明)
チェルノブイリの全貌を理解するには、地理・政治・科学技術・物理学・人間工学・医学・心理学など広汎な知識が必要です。しかし、全部の分野をカバーしている個人は(おそらく)いません。著者も自分の限界は素直に認め、主観をなるべく排して広くインタビューした結果を並べることで、一つの大きな物語を読者の前に広げます。
上司に「帰れ」と命令されても自分に何かできることがないかと持ち場に残る職員/仲間を救うため噴出する水蒸気の中に突入して大火傷を負う人/二次爆発を防ぐために水素のバルブを閉めたとき致死量の放射線を浴びたことを悟り、霧と火花が充満する現場で最後のタバコを一緒に吸う二人/防護服もつけずに突入したら30分でめまい・頭痛・吐き気を感じて病院に搬送される消防士/現場で破壊された建屋と燃える黒鉛の破片を見ても「原子炉が破壊されたというのは一つの可能性に過ぎない」と報告する副技師長/ヘリコプターで撒く消火用の砂を自らスコップで袋詰めにする空軍司令官/最優先事項は機密保持と思う政治家/判断ができず自分に代わって判断してくれる「上」が登場するのをじっと待っている責任者……(病院の場面で著者は端的に「患者の義侠心と症状の重さとには悲劇としかいえないような相関関係がある」と述べます) こう言っては不謹慎でしょうが、パニック映画に登場する群像を思わせます。ただ、映画と違うのは、すべてをあっさりと解決してくれるデウス・エクス・マキナは登場してくれないことと、すっきりした回答が得られないことです。
事故の原因は原子炉の停止実験、とは聞いていましたが、本書でやっとそのへんの事情が少しわかりました。原子炉が非常停止した場合発電所内も停電します。チェルノブイリ発電所に非常電源はありましたがそれが動くまで4〜50秒かかります。そこで、原子炉が緊急停止してもタービンは慣性でしばらく回っているからそれを利用して発電したら停電時間が短くできるはずです。それを確認するための実験だったのです。しかし出力を落とし始めるといろいろな安全装置が自動的に働いて思う瞬間に停止できません。そこで安全装置を次々解除する必要があります。そのような実験を開始したところで「電力をくれ」という要請が来て停止は延期されます。そこで当直が交替し、そして操作に混乱が生じます。翌日実験が再開され、出力が落とされた原子炉は反応が不安定となり、制御棒が(保安規則に反して)全数引き揚げられます。原子炉は暴走を始め、全制御棒が下ろされますが、まさにそのことが原因となって爆発が起きたのでした。人為的ミス(というか、規則違反)と構造上の欠陥の相乗効果です。
ところが、共産主義体制は無謬、が絶対的なタテマエの世界では、システム(とそれを承認した権威)を追及することは許されません。したがって、裁かれるのは「ミスをした」個人だけです。結果として裁判は見せしめのための茶番と化しました。10年の禁固刑を言い渡された人間にとっては、茶番とは言えなかったでしょうけれど。
しかし、イデオロギーに縛られた人間が想定外の事態下でいかに愚かな行動をするか、読んでいて絶望的な気持ちになります。それはソ連の人間だけではありません。10日後にウィーンから調査に来た国際原子力機関の二人の幹部(スウェーデン人とアメリカ人)がいかに楽観的に原子力利用のPRを行なっているかを読むと、国籍は関係ないことがよくわかります。
ゴルバチョフが始めたペレストロイカとグラスノスチによって、チェルノブイリは外国にも発表され(スウェーデンでの放射性降下物の測定やドイツでの列車汚染測定結果もものを言いましたが)、最終的には「ソ連」(共産党一党独裁体制)がメルトダウンする一因ともなってしまいました。それはゴルバチョフの終焉でもあったのですが、なんとも歴史の皮肉を感じます。
新聞に出てきた打撃投手について記者が「打ちやすい球を投げる職業」としていました。 野球の本番で、打者に対して相手のピッチャーは打ちやすい球ではなくて打ちにくい球を投げてきますよね? それを打つのに、練習で打ちやすい球を打ってて良いんですか?
もちろん、打ちやすい球を打つのは、フォームを固めるなど、基礎練習としては良いのでしょう。でも、プロでしょ。プロだったら基礎はできているんじゃないです? リトルリーグから中学・高校・大学・社会人とずっと野球をやってた人達の中から厳選されたプロの人間が、まだ基礎ができてないことはないでしょう。
私はかつて「練習でできないことは、本番でもできない」「本番のつもりで練習し、練習のつもりで本番に臨め」と教えられました(野球ではありませんが)。ところが日本の野球では、練習と本番は別なのでしょうか。だったら、なんのための練習なんだろう。
【ただいま読書中】
万引き対策研究会、創土社、2003年、1700円(税別)
書店やスーパーなどで、万引きを防止するために毎日努力している人達がまとめた本です。
「風邪は万病の元」ですが、「万引きは犯罪の入り口」のようで、初発型犯罪の代表の一つが万引きなんだそうです。で、上手くいって味をしめたり、見つかっても対応が拙いと、学習型非行者(計画的に行なう)や常習型非行者に移行していくんだそうで。ですから「万引きくらい……」と甘く見るのは犯罪者を育成することになるかもしれません。本書には、人権・法律・人間心理などの観点から店が取るべき「正しい」対応については書かれていますが、子どもが捕まったときに親が取るべき態度については書かれていません(感心しない態度は例が挙げられていますけれど)。それは親が自分で考えて躾を行なうべきなのでしょう。
しかし、捕まえられた人間が口走るのが……「プライバシーの侵害だ」「お前には何の用もない」「人権侵害だ」「もう塾に行く時間です」「警察官でないお前に逮捕されるいわれはない」……最後の人、刑事訴訟法には「私人の逮捕」が記載されているから、警察官でなくても逮捕されちゃってください。
万引きの発見も、プロの技はすごいものです。瞬間的に「この人はあやしい」と「気」を察知しちゃいます。でも、怪しいのがわかるだけでは駄目です。あ、商品を自分のバッグに入れました。それでもまだ捕まえてはいけません。そのままレジに行くかもしれませんから。警察の調書にそのまま記載できるくらいきちんと状況を把握して、言い逃れができないくらい状況を固めてから声をかけるのです。犯罪者は他人の人権なんかどうでも良いのですが、犯罪者に対応する人は他人の人権を尊重するのです。不公平ですねえ。
それを悪用した「ひっかけ」という存在さえあります。店に持ち込んだ私物を、いかにも「私は万引きしています」というかっこうで店外に持ち出そうとしてわざと捕まり、そこで「無実の人間を捕まえるとは何ごとだ、誠意を見せろ」と金を出させよう(あるいは職を得よう)とする人です。
正当に買い物をする客、単に怪しい奴、万引き未遂、万引き犯、ひっかけ……それらを峻別してきちんと対応しなくちゃいけないのですから、お店の人は大変です。
最後に。万引きと言うから軽く感じる人がいるかもしれませんが、法律的には立派な窃盗ですし、たとえば逃げようとして店員を転ばしたりしたらその瞬間強盗致傷になります。万引きという語感の軽さにごまかされないように、万引きをしない(予備軍でもない)人も気を付けて見た方が良さそうです。
私がパチンコを覚えた頃は、玉一つが2円でした。百円分50発の玉を握りしめて、数発打っては釘の調子を見て、この台なら良さそう、というのに当たれば腰を据えました(店によっては椅子がなくて立ったまま)。釘を見ただけで良い台かどうかわかれば良いのですが、そこまでの目利きではなかったのです。当時は手動の連発式でしたが、店内で知り合ったおっちゃんが「昔は手で一発ずつ穴にこめて打っていたんだが、名人はこの機械式の連発よりも速く打っていたぞ」と教えてくれたのを感心して聞いた覚えがあります。もっとも何を聞いてもこちらは一発ずつ大切に打つペースは崩しませんでしたが。
高三のときだったかな、市の中心部のパチンコ屋に電動式が出た、という噂を聞いて友人と見物に行きました。店の表にデモ機が置いてありましたが、円形のハンドルを捻っているだけで玉がぱちぱちぱちぱちと自動的に発射されるのと見て、当たればでかいがそれよりもあっという間に金が飛んでいきそうだ、と思いましたっけ。少なくとも私の人生のペースには合っていません。
で、今はコンピュータ制御なんですって? ローテク人間の私には、天の中央を抜くように狙って一発一発ハンドルをはじく方が合ってるんですけどねえ。
【ただいま読書中】
溝上憲文著、晩聲社、1999年、2400円(税別)
戦前には子どもの遊びだったパチンコは、終戦後正村竹一の正村ゲージ(盤面に釘が不均等に配置されて玉がスピーディで面白い動きをする)によってブームが起きます。ついで連発式、電動連発式が登場し、ブームは加熱すると同時にパチンコを取り巻く雰囲気は荒っぽくなります。店内には景品の買い取り屋が横行し、暴力団が入り込み、とうとう「健全娯楽とは言えないから、連発式は禁止」と昭和29年11月16日に東京都公安委員会が決定します。
昭和29年の統計では、専売公社のタバコの売り上げの80%がパチンコ屋の景品向けだったそうですから、一大産業です。当時は宴会の二次会をパチンコ屋で、というのもけっこうあったそうで、団体で入店すると幹事が玉を配って「さあ、みなさん、景品を頑張って取りましょう」で盛り上がっていたそうな。老若男女の国民的娯楽だったわけです。
連発禁止によって、全国に5万軒あったパチンコ屋は1/3に減少します(残った店も売り上げは激減)。警察はそれによって業界に対する権威を確立しました。規制一つで生殺与奪なのですから。パチンコ業界は生き残りに必死です。パチンコ本体での工夫はもちろん、副業(レストランや喫茶など)に走る人もいました。短期間ですが流行ったのがスマートボールです。それまでの健全娯楽型ではなくてギャンブル性の高い四目並べスマートボールが受けますが、1年で禁止されます。
「もはや戦後ではない」の昭和31年、神武景気の中、西陣のジンミットという「役物(やくもの)」機械が登場してヒット。33年には平和のコミックゲート(中央の大型水車がぐるぐる回って球が出る役物)がこれまたヒット。物品税導入が水を差しますが、チューリップが登場して大ヒット。昭和44年には連発式が許可され48年には電動式が許可されます。
ブームが燃えれば暴力団が寄ってきます。景品買い取りで全国でトラブルが発生しますが、大坂では府警をバックとして身障者未亡人福祉事業協会を窓口として景品買い取りをシステム化します。ところが警察庁はそれを認めず、景品買い取りはあやふやな立場に置かれることになります。
店の全自動化、フィーバー機に代表される電子化、パチスロの登場などでパチンコはまたブームとなりますが、利益が大きくなればまたいろいろ群がってきます。風俗環境浄化協会が「浄財」を集めて運営する、なんてのは、読んで笑っちゃいます。それまでは各都道府県警が行なっていた規制は全国に一本化され、業界は政治家とのつながりを重要視するようになります。昭和63年7月、警察からプリペイドカード構想が突然通告されます。10月に会社を作るから資本金10億円を出せ、というもので、警察から見ると自分たちのOBの再就職先の確保とパチンコ業界の入金の明朗化という一石二鳥の計画だったように私には思えます。そこに社会党への不正献金疑惑が持ち上がります(実際には自民党への献金の方が多かったのですが)。なんというか……伏魔殿です。ある警察OBの「現場の警察官がプリペイドカード会社の営業マンに成り下がった」ということばには、ため息が出ます。もっとも、プリペイドカード導入によって北朝鮮への資金流入が止まった、という評価もあるそうです。
そういえば、パチンコ屋の駐車場で子どもが車内で蒸し殺されるのがいつのまにか日本の夏の季語になっちゃいましたね(なってません)。
私はときどき基本的なことがわからなくなります。たとえば「マスコミ」の「マス」はMassでしょうが、これはなんでしたっけ。マスコミの対語はミニコミでしょうから、マスはミニではない大集団の意味だと思っていました。では大集団なら何でも良いのでしょうか。さらにそうすると「コミ」が問題になります。「コミ」はコミュニケーションの略だと思っていたのですが、一方的な広報(たとえば大本営発表)はコミュニケーションの名には価しません。コミュニケーションは双方向のはずで、「COM」は「共」なのですから、マスコミの人達とその対象の集団とは情報を共有し双方向でやり取りをしなければ「マス・コミュニケーション」ではありません。
「マスコミ」ではなくて「マス・メディア」に言い換えれば、コミの問題は解決しますから良いのですが(良いのかな?)、やはり「マス」の問題が私には引っ掛かります。
……最初から辞書を引けばいいんです。研究社の新英和中辞典にはMassの意味がいくつも載っていますが、その4番目に「(エリートに対して)大衆・庶民・労働者階級」がありました。もしかして、これが正解? だから「マスコミの人」は相手を馬鹿にしてあれだけ下らない報道も平気でできるのかな。相手を尊敬していたらとてもできない態度も平気で示すのかな。
【ただいま読書中】
『
夜と霧 新版 』原題 EIN PSYCHOLOGE ERLEBT DAS KONZENTRATIONSLAGER
ヴィクトール・E・フランクル著、池田香代子訳、みすず書房、2002年、1500円(税別)
原作の旧版は1947年、新版は1977年出版だそうです。
私は『夜と霧』(旧版)の前に『
夜と霧の隅で 』(北杜夫)に出会っています。高校生の時でした。けらけら笑って読んでいた『
どくとるマンボウ 』シリーズとは全く違ったタッチに、人はこれだけ違ったものを書けるんだ、と衝撃を受けました。
現在あまり重たいものは読みたい気分ではないのですが、そんなことを言っていたら一生読まないかもしれないから本を開きます。
著者はフロイトやアドラーに師事して精神分析を学び、ウィーン大学医学部神経科教授とウィーン市立病院神経科部長を兼ね、第三ウィーン学派の精神分析家としてまた独自の実存分析でも知られた人でした。しかし、オーストリアはドイツに併合され、ユダヤ人は強制収容所送りです。原題「心理学者、強制収容所を体験する」が示すとおり、本書は著者のアウシュビッツなどの体験記です。ただし、筆致はおそろしいほど冷静です。心理学者だから自分自身を含めて冷静な観察ができたのか、それとももともとそういったことができる人が後になってから自分自身の記憶をプロとして観察して書いたのかはわかりませんが、淡々と短かめの文章にまとめられて語られる物語は、その静けさゆえに異様な迫力をもって私に迫ります。
ガス室への移送者リストに載らないための生存競争を戦った著者はこう言います。「とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と」 これが本書のオープニングです。そして本書の最後のあたりでは「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなくて、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない」 一見非常に抽象的な文章ですが著者はそれに続いて「強制収容所にいたわたしたちにとって、こうしたすべてはけっして現実離れした思弁ではなかった。わたしたちにとってこのように考えることは、たったひとつ残された頼みの綱だった」と述べます。
カポー(被収容者の中から選ばれた、伝馬町での囚人頭のような存在)の方がドイツ兵よりはるかに残虐な行為を被収容者に行なっていたことや、旧版にはなかったエピソード(ユダヤ人をかばっていたナチス親衛隊員を、収容所解放後ユダヤ人がアメリカ軍からかばった)などから、著者は、どんな集団にもまともな人間とまともではない人間のふたつの種族がいるのだからどんな集団でも「純血」はあり得ない、とも書きます(ヒットラーの主張に対する皮肉ですね。あ、「ヒットラーの尻尾」は今でもたくさんいますけれど……)。そして著者はユダヤ人も例外とはしません。「自分はひどい目にあったのだから『仕返し』をする当然の権利がある」とするユダヤ人に対しても冷静な視線を向けます(冷徹ではありません)。
旧版を読んだ人も未読の人も、本書を手に取れば必ず何か得るものがあるはずです。
我が家のお風呂は深夜電力でお湯を沸かしてタンクに貯めておく温水器から給湯するのですが、先日混合水栓が壊れて湯が出なくなったので修理してもらいました。修理はあっさり終了して三日間快適に入浴できていましたが、昨夜またお湯が出なくなりました。前回は操作パネルにエラーメッセージが出たのですが、今回はとくに異常の表示は出てきません。夏で良かった、とぬるま湯と水をかぶって、明日また修理の依頼だな、と寝ました。今朝一番で温水器をよくよく見たら……漏電遮断スイッチが「切」になっているのを発見。「入」にすると電源ランプが神々しく輝きます。
工事の人が電源を切って修理をすませて、帰るときにスイッチを入れ忘れていたんですね。お湯が出るので安心していたのが油断でした(おっと、油断ではなくて湯断です)。タンクのお湯を使い切ってしまったのが昨夜だったわけですが、ともかくこれで解決しました(解決したはずです)。ついでにタンク容量が夏なら三日分はあることがわかりました。
問題は、今夜のお風呂です。タンクの中はまだ水。湧かすのは今夜の深夜。家族で銭湯にでかけるか、一晩くらい我慢して気持ち悪かったら明日朝風呂に入るか……しかし、どうして日本の文化ではここまで風呂にはいることにこだわってしまうんでしょうねえ。一日風呂に入れないだけで、これだけ書けてしまいます。
【ただいま読書中】
高橋しん作、小学館、2000年、505円(税別)
2001年、505円(税別)
戦況は悪化していますが、ちせは兵器として順調に成長し強くなっていきます。戦いっぷりは具体的には描写されませんが、言葉や動作の端々からそれは見て取れます。でも、相変わらず、ちびでどじでよく転ける。家族には彼女がジエイタイに就職?したことは秘密になっているので、出撃の度に学校をさぼったり門限を平気で破る「不良娘」です。
シュウジとの仲はあいかわらずぎくしゃくしています(というか、ぎくしゃくしてくれないとラブコメ漫画にならないのですが、それにしてもシュウジの初恋の人が絡んできてくれるとぎくしゃくが腸捻転くらいにねじれます)。アニメではテツとシュウジの関係は明確には述べられませんでしたが、コミックではしっかり説明されます。……う〜ん、どちらのほうがインパクトがあったかなあ。前線で戦うちせと銃後で守るシュウジを対比するためには、過去の物語があった方が良いと思うのですが、その「過去」がちょっとシュウジに偏りすぎていてアンバランスです。
結局二人は別れて恋人からクラスメイトに戻ります。お互いへの思いを残したままで。別れたのに登校途中に一緒になってしまうからそれを避けるためにちせがバス通学に戻る、余韻を残すアニメの処理の方がスマートには感じますが、コミックのギャグパターンも悪くはありません。
しかし、ステルス機能がいらないくらい小ぶりで超音速で飛べて状況に応じた通常兵器を次々生み出して使えて直撃くらっても「痛い」で済んで兵站はほとんど考えなくて良くて(人一人食わせるだけで良い)、しかもその気になったら街一つくらい一挙に殲滅できる「最終兵器」を持ちながら苦戦するって……司令部は戦い下手ですか? 味方と共に戦うからちせが力を解放したら味方にも損害が出るわけでしょ。だったら最前線ではなくて敵の背後に送り込んで暴れさせたら味方には損害無しで敵には大打撃だと思うんだけどなあ。