2005年9月
何も考えずに連番でキリ番を選んでいましたら、いつの間にか足あとが四桁の後半に突入して5678番となりました。今回のキリ番5678獲得は ももさんです。おめでとうございます。
さて、この調子でキリ番を設定していくと……次は6789、7890、8901……ここまでは良いのですがその次が問題です。9012だと111番しか間が開きませんしさらにその次は0123です。五桁ですから10123にすればいいのでしょうけれど、見た目がどうも気に入りません。だってつながっていないんだもの。どうしましょう。
「設定は計画的に」と、何かのコマーシャルのようになってしまいました(笑)。
笑っている場合じゃありません。まったく、どうしようかしら……でも、そこまで足あとが伸びるかどうかはわかりませんね。突然ぱったり誰も来なくなるかもしれませんから、四桁の末がもし近づいてきたらそのときまたあらためて考えようかな。
何はともあれ、キリ番を踏んだ方も踏まない方も、ご来訪ありがとうございますm(._.)m。
【ただいま読書中】
林穣治著、早川書房、2002年、1600円(税別)
西暦2100年、太陽系に偶然進入してきた小さなブラックホール「カーリー」(直径数ミリ、質量は火星くらい)を捕捉して天王星周回軌道に乗せその周囲に人工降着円盤を作ることでエネルギー源としようというプロジェクトが発足します。そのためにカーリーの周囲には直径4050kmの環状構造物ウロボロスが構築され、AADDという「組織」がプロジェクトを管理します。しかしそこでAI(人工知能)が絡んだと思われる事故が連続して発生します。人間とは違う異質な知性であるAIがどのように外界を認識しているのか、そしてそれに対して人間はどのように対処できるのか……その謎解きからこの連作短編集はスタートします。
ニーヴンの『
インテグラル・ツリー 』では、中性子星を取り巻くスモークリングの中で生きる地球人の末裔の冒険が物語られました。そこでの中性子星は「環境」で、人知でどうこうできる存在ではありませんでした。しかし本書でマイクロブラックホールは、「環境」であると同時に「資源」です。ここ数十年の科学と宇宙論の進歩をまざまざと感じます。
AADDはウロボロスの建築・維持の資金稼ぎのために人工降着円盤から得られたエネルギーを投入して火星のテラフォーミング(環境の地球化)を行ないます。火星の価値を高めることをエサとしてスポンサーを集めるのですが、そのことが「地球」と「地球外」の住人の新しい対立を生みます。火星や天王星の発展は、地球の地位の相対的な低下をもたらすからです。
さらに「異文化の衝突」があります。宇宙では過酷な状況で生存が優先されるため、各人は複数の技能を持ち状況の変化に即座に対応できるように組織は流動的となります。それが宇宙の流儀です。地球の固定的な組織とは違って、ヒエラルキーも存在せず、大切なのは各人が果たす「機能」です。作中にあるように、一流の売り子は二流の社長よりエライのです。組織のトップは「組織のトップ」(意思決定)という役割を果たす人であって、権力は持ちません。「命令」のかわりに存在するのは、各チームに対する「課題の提示」です。有能なプロの集団がその時の状況に応じて全体に対して最適になるように最善の努力をするのですが、その時重要なのは情報の共有です。著者はウェップという小道具を持ち込んでそれを解決しています。
地球人はそういった宇宙の文化を理解できません。つまり、地球人は「地球人とよく似た異質な知性の持ち主」と勝負しているのです。そして外地球人たちは地球人だけではなくてAIという「人間とは異質な知性」とも共存しようとしています。そして異質なものを理解しようとする試みは別の方向へも向けられます。
連作短編で間に意味ありげなナレーションが挟まれているため、読んでる途中は『マン・プラス』のようになるのかな、と思っていましたがその方面は肩すかしでした。ただ、ファースト・コンタクトに話が持って行かれます。力業です。
人は楽をしたいから文明を発達させました。毎日毎日命をかけて獣と戦うよりは、定期的に作物が得られる方が楽ですから農業の方が流行ります。ばらばらに生きるよりは協力する方が楽ですから、社会を作ります。仕事は……楽ではありませんが、仕事以外で生活を維持するよりもはるかに楽です。それに毎日毎日「今日は何をしようか」と考えずにすみます。
「楽と苦があれば、楽を選びたい」それが人間の本性だと私は思います。
だけど、よくわからないのが、戦争です。これはちっとも楽ではありません。苦しいけれど勝てば得をするからOK? そうかなあ。ローマ帝国や大英帝国の本を読むと、戦争に勝って属州や植民地を増やしても、かけたコスト以上の収入は上がっていないようです。負けたら大損で、勝っても楽でもなくて得もしない、そんな人間の「本性」に反した行為の意味って、なんでしょう。どこかでごまかされている?
【ただいま読書中】
ジェームズ・ワトソン編、前川啓治・竹内惠行・岡部曜子訳、新潮社、2003年、2800円(税別)
2001年末現在、マクドナルドは120ヶ国以上で29000店舗を展開し、年間406億ドルの売り上げ(うち半分はアメリカ合衆国以外)を誇っています。これに関していろいろな議論がされてますが、その一つが「文化帝国主義」(世界に対するアメリカ化の強制)です。しかし一方、マクドナルドのローカル化(現地に合わせる)も同時進行しています。本書は人類学的フィールドワークにもとづいて「グローカリゼーション(グローバル+ローカル化)」の実相を明らかにしようとします。著者たちの調査に関してはマクドナルドから一銭もお金は受け取っていないそうです。なぜなら著者らの研究対象はマクドナルドそのものではなくて、そこに集う消費者なのですから。
中国では、ハンバーガーは中国料理の基本(飯+おかず)からはずれてるため、食事と言うよりはスナック扱いです。しかし客は欧米の料理で満腹になるためではなくて、そこで長時間過ごす「経験」を得るために出かけます。ヤッピーには恰好のデートの場所です。1994年には三人家族がマクドナルドで夕食を食べると、普通の家庭での月給の1/6がかかった。つまり「お金をかけるに価する特別な経験」なのです。
一人っ子政策で生まれた「小皇帝」「小皇女」にターゲットを絞ったのがマクドナルドの成功の一因です。お誕生日会とか家族の昇進の祝いとか、家族の重要な行事を行う場所としての認識を得ています。単なるファーストフード店ではありません。そこでくつろぎ長時間過ごし通り過ぎる人達に見られながらアメリカ文化を味わう空間なのです。
1980年からマクドナルドは中国進出の交渉を政府と行なっていましたが、それが実現したのは1992年のことでした。ただこの遅れはマクドナルドには幸いだったのかもしれません。その間に中国では経済改革で国民の生活水準は向上し、外食の余裕が一般人にも生まれたからです。
香港では1975年に初店舗が誕生、地元の食産業と競合しないためにあえてアメリカのスタイルそのままで持ち込みましたが、消費者は(後日の中国本土と同様に)「食事」ではなくてパンに何かを挟んだ「スナック」として捉えました。
香港では従業員の愛想よりも誠実さの方が重視されるため(広東語にはフレンドリーに相当することばが存在しないそうです)、従業員は仏頂面で冷たく見えます。時にニコニコしている人がいると客が「彼らは陰でふらふら遊んでいるに違いない。何がおかしいのだろう?」と評するそうです。
フレンドリーと言えば、1990年モスクワにマクドナルドが出店したとき、行列を作った客に向かって「教育」が行なわれました。「店内では店員があなたに微笑みますが、それはあなたを馬鹿にしているのではありません。あなたを歓迎しているのです」 それまでのロシアでは、接客業は仏頂面がスタンダードで店員が客を笑うのは嘲笑を意味していたので、トラブル防止のために敢えてこう言わなければならなかったのでした。
住宅事情が厳しい香港では、マクドナルドは子どもにとっては安全に長時間勉強できる空間でもあります。決して「ファースト」フード(食べ物が早く出てきて、さっさと食べて立ち去る)店ではありません。
あと、台北(中国本土との微妙な関係・台湾固有の風習)・ソウル(反米感情・政治の大きさ)・日本(日本固有のファーストフードの多様さ・米飯へのこだわり)のフィールドワークが紹介されますが、一々マクドナルドもそれぞれの地域も頑固に変わらないように頑張ってそれでもお互いに影響し合って変わっていく様は面白いものです。
そうそう、「子どもが自分の好みで注文できるのは、子どもが一人前の消費者として扱われることを意味し、それはアジアの伝統文化の変容を意味する」という指摘は、内部の人間には気づきにくいことで刺激的でした。人類学的な視点は貴重です。
私がマクドナルドを経験したのは高校3年、大学受験の下見でもしようと上京したときでした。たしか銀座に1号店がオープンした翌年だったと思います。御茶ノ水駅で降りたら目の前に店があって「ほほー、これが新聞で読んだあのマクドナルドか」とふらふら入ってチーズバーガーを頼んだのが初体験でした。店員もまだ不慣れで、明治の学生さん?などと話しかけて来ましたが、接客マニュアルが徹底している今だったら考えられないことですね。
もう一つ、マクドナルドで私が想起するのは、病気の子どものためのマクドナルド・ハウスです。「マクドナルドの牧場がブラジルの熱帯雨林を破壊している」というデマ(だそうです)を広めるよりも、企業が社会にどのくらい貢献しているかを広める方が心の平穏には役立ちそうです。……と言っても、私は食事としてハンバーガーを食べるのなら、モスの方を選んじゃいますけど。
遅ればせながらiTunesを入れました。マシンが新しくなってハードディスクに空きがある内に、と思ったのです。いやあ、すごいですね。知っている人には「何を今さら」と言われそうですが、手持ちのCDを放り込むと勝手にインターネット上のデータベースからアルバム名と曲名のデータを引っ張ってきてこちらのローカルにデータベースを構築してくれるのは感動ものです。取り込みも早くて、1〜2曲聞いているうちにCD一枚終了して次のを挿入するだけですから楽ちんです。非売品のクラシックCDまでちゃんと登録されてるのには驚きましたが、ルネサンス古楽のデータがなかったのにも驚きました。人気がないジャンルなのね。ポピュラー系に比較したらクラシックの方は、登録データがやや雑な印象も受けるのですが、クラシック愛好者はデータ登録の熱意でポピュラー系に負けているのかしら? せっかくですから何枚分か自分で入力したのをデータベースに登録しておきました。
手持ちのCDをいつかはデータベース化したいと願ってはいましたが、まさかこんな形でできるようになるとは思いませんでした。次の野望は蔵書のデータベース化ですが……これはさすがに半自動化は無理でしょうね。Amazonのデータを引っ張ってきてHD上にデータベースを作ればいいのでしょうが、パソコンの画面に本をかざしたら自動的にAmazonを検索……してくれないかしら。ただ、Amazonで売っていない本もたくさんあるし、何より数が問題です。軽トラは論外にしても、おそらく2トントラックなら一台で十分間に合う程度の量ですが、それでも一冊ずつ処理するだけで手が疲れそう。
結局半日かけて71アルバム919曲3GB入れましたが、全部聞くと2.5日かかると表示されています。まだ手持ちの半分も入れていないのですが、階段下収納のを全部入れたらどーなるんだろう?
音は悪いです。圧縮かけるのだから当然でしょうが、特に古いCDではボーカルが割れます。内蔵スピーカーのせいかとイヤホンを通してみたらこんどはドラムが割れます。まあ、周り中騒音が充満している環境で楽しむ分には(耳に意識的フィルターを一枚かましておけば)実用的、というのが現在のところの私の評価です。こんど安い外付けスピーカーかヘッドホンがあったら試してみようかな。
それでも最近ぜんぜん聞かなくなっていたアルバムをいくつも再発見できたのは嬉しいことです。やはり普段から頻繁にアクセスしていないと人間の記憶はその方向への線が細くなるんですね。
なんだかiPodが欲しくなってきました。物欲よ、静まれ。財布は空だ。
【ただいま読書中】
ジョン・ル・カレ著、田口俊樹訳、集英社、2000年、2800円(税別)
ル・カレを初めて読んだのは、スマイリーのどれかだったかあるいは『寒い国から帰ってきたスパイ』だったかは忘れましたが、描写のねちっこさとそこに描かれるスパイたちの姿の寒々しさには参りました。007とは違って、組織の一員として日常活動を真面目に地味に熱心に果たし続けるスパイの姿が克明に書かれているのです。「日常業務」として陰謀を企み実行する人々という一般人には縁遠い世界……訳者があとがきに書いていますが、ル・カレの饒舌とも言える語り口はその題材にぴったりです。
投資コンサルタント専門のシングル&シングル社の弁護士がトルコで殺される場面から話は始まります。イギリスの役人がトルコに飛びますが、現地の警察は非協力的です。
場面は一転、イギリスです。マジシャンをやっているオリヴァーが離婚した妻に養育されている娘のために設定した信託基金に、突然匿名で500万30ポンドがスイスから振り込まれます。オリヴァーは縁を切ったはずの父親(シングル&シングル社の社長)に変事が生じたことを悟り、失踪した父親の追跡行を開始します。
そして舞台は1991年に戻ります。シングル&シングル社に就職したばかりのオリヴァーは、ロシアのフィクサーとのきなくさい「ビジネス」をまかされます。混乱したロシアはある種の人達にとっては濡れ手に粟のビッグビジネスの場でした。
しかし悠々とした語り口です。500万ポンドを振り込んだのが父親だとなぜオリヴァー
が確信したのかのわけがわかるのは本書の真ん中あたり、そこではまだなぜ父子の確執が生まれたのかは謎のままです。
ただ、後半になったらやっと流れ始めたストーリーはもはやどうでもよくなります。どうでもいい、と言ったら言い過ぎでしょうが……映画の「
クレイマー・クレイマー 」では原題では二つのクレイマーの間に「vs」が入っていてミスターとミセスの二人のクレイマーの対決だったのですが、本書では「&」でつながれた二人のシングルさんの物語でもあります。「父の息子」だった人が、自分が父親になることで自分の父を新しい目で見るようになる、と言ったら単純化しすぎですが、混迷するロシアを舞台とする巨大犯罪の物語としてだけではなくて父と息子の物語としても楽しめるお話です。とにかくオリヴァーが魅力的。弁護士で手品師で知性だけではなくて人情もたっぷり持っていて人の名前を覚えるのが苦手で(なんと、母親の名前さえ忘れちゃいます)ネクタイを結ぶのが苦手(手品師なのに!)、というなんともヘンテコな「ヒーロー」です。ある女性はオリヴァーをこう評します。「たいていの人はまちがったことをしても、自分はヒーローだって思いたがる。ほんとうはクズの中のクズなのに。一方、あなたは、ずっと正しいことをしているのに、自分をクズの中のクズだと思っている。それは大きな過ちよ。ちゃんと聞いてる、オリヴァー?」 信頼できる人にそんな風に言ってもらいたいものです。
まずケータイを充電しました。それから水と食料と大工道具のチェック。とりあえず乾パンが一缶はあります。ライターも火がつくしロウソクもあります。カセットコンロは……えっと、どこでしたっけ?
最悪の場合の家族の避難場所と連絡方法も確認しました(ところで、災害伝言ダイヤルは、117?171?)。
こんどの台風は先日アメリカ南部を荒らした「最悪の」ハリケーンと規模が同程度あるいはそれ以上、なんて言われていますが、たしかに衛星写真で立派な目が見えます。あの目とまじまじ見つめ合いたくはないなあ。
5日(月)(2)悪いことば
「人を呪わば穴二つ」と言いますが……悪いことばを見聞したら目や耳が汚れた気がしますが、自ら言ったら魂が汚れるような気がします。目や耳は洗えばいいけれど、魂はどうやって洗えばいいんでしょう? 禊ぎ?
そうそう、神道での禊ぎは水に体を浸しますが、これは冷水であることに意味があるそうです。体の外を冷やすとそれを温めるために内部から熱が発生します。その内部から外部への熱エネルギーの流れによって体内の汚れ(穢れ)を外に発散してしまおう、という発想だそうです。決して皮膚の汚れを水で流しているのではありません。神社の入り口で手を浄めるのもその簡易版なのかな。あれも手を洗っているのではありませんからね。
【ただいま読書中】
共同通信社編集委員室編、草思社、2005年、1300円(税別)
共同通信社が2004年1月〜12月に配信した連載「脈々ニッポンの技」50回分を収録した本です。
手漉き和紙の技術によって、燃えない紙・水をはじく紙・抗菌紙などの「機能紙」が生まれました。現在400種以上の機能紙が製造されている日本は世界をリードする存在です。海水の淡水化にも用いられる逆浸透膜も高分子化合物を「紙」に塗って製造されます。携帯電話の内部の配線板も銅箔とアラミド紙が積層されて厚さ0.8mmの内部で立体的な回路が組まれています。ハイテクの進歩でペーパーレスになる、と言われたことがありましたが、実は紙がハイテクを支えているのです。(オフィスがペーパーレスにならないのは、また別の原因によるのでしょう)
萩焼きは水が漏ることが特徴です。茶碗に茶渋がゆっくり染みこんで長い年月をかけて色合いを変えていきます。それを可能にする土の配合・粒子の大きさ・焼き加減などのノウハウが排ガスフィルター用ファインセラミックに活かされています。
組み紐のテクニックは複合素材の開発に活かされています。異なる種類の糸を複雑に組むことで、たとえばゴルフの新素材シャフトや燃料電池車の水素タンクなどが開発されているのです。
養蚕技術もハイテクに役立っています。カイコは完全に家畜化されており蛾になっても自然界に逃げ出せません。また遺伝子解析も進んでいます。したがって遺伝子組み換えの対象として適しています。現在すでにインターフェロンの製造などにカイコが用いられています。そのための工場を支えているのがたとえば日本独自の人工飼料です。
角膜切開やロケットのボルトカッターに使われる刃の鋼は、たたら製鉄の技術を伝える日立金属安来工場で作られています。自動券売機で切符を切断する刃も安来の鋼でないと紙に塗られた磁性体で刃がすぐ駄目になるそうです。いわば小さな日本刀ですね。
本書ではこのように日本の伝統工芸とハイテクが意外な形でつながっている事例が、これでもか、と言わんばかりに次々登場します。
ただ、中にはちょっと強引に感じる例も。水にも有機溶媒にも溶けないカーボンナノチューブを均質な薄膜にするために、墨流し(水面に墨・油・染料などを少しずつ落として表面に広がった模様を紙に写し取る)そっくりの技法を用いるのですが、これは技法を開発した後になって両者が似ていることに気がついたのであって、墨流しを最初から応用しようとしていたわけではありませんでした。ただ、墨流しを科学の目で見た先駆者は寺田寅彦だったことなどを知ると、「伝統工芸は突然新しい技術を生む可能性を秘めている」ということばに重みを感じます。何かを「古い」というだけで捨てるのは、消極的な意味でも積極的な意味でももったいないんですね。
また、ハイテクの世界でも機械の精度だけではなくて人間の感覚を評価する態度があることには、安心しました。F1エンジンにかかわる木型職人の「技能は見てわかるものではない、感じるもの」には、職人の意地と誇りを感じます。
古い日本と新しい日本、同時に手軽に知ることができるお得な本です。
早々と昼にはJRが止まりました。職場の人達は「夕方どうやって帰れと言うんだ」と言っています。
私も今日はさすがにバイク通勤はあきらめました。帰り道で車内から見ると、バイクは風雨でとっても走りにくそう、というか、マジで危ない状態です。自動車だって、濡れた路面と強風で思わぬスリップを微妙に起こすのですから。
台風の中心は、朝は鹿児島、昼は熊本、夕には佐賀を通過しているようで、夜には福岡でしょうか。台風の九州漫遊旅行? 遊ばないでさっさと通過して欲しいものです。被害が少しでも少ないことを願います。そして、明朝目覚めたらすっきり台風一過の空を拝めることも願っています。
「ああ、よかった」と言えるのは生きている証拠でめでたいことです。でも、こちらから見たら「行ってしまった」台風ですが、現在もその台風の下にはあるいは台風が向かう先には誰か(あるいは何かが)いるわけです。
ずっと昔、TVのニュースでアナウンサーが「台風の関東直撃は免れました」といかにもほっとした表情で言っているのを見て「その台風が『逸れた』先にも人はいるんだぜ。自分が無事ならそれで良いのか」と思ったのを(わずかな怒りと共に)思い出しました。ローカルニュースだったら良いのかもしれませんが(良いのか?)、全国ニュースではあんな態度はいただけません。
……なんてことを思ったものですから、以来私は「台風が逸れてくれ」と思えなくなってしまいました。「自分ではなくて他の人を襲ってくれ」と願うことになってしまうからです。それに、願おうと願うまいと、台風が来るときには来るのですから、避難しないのだったら何か準備している方が建設的ですしね。
【ただいま読書中】
ホルスト・テルチク著、三輪晴啓・宗宮好和監訳、NHK出版、1992年、2100円(税別)
1989年11月9日、塀の上にぎっしり人が並んでいてその中の一人がハンマーでその塀をがんがん破壊しているのを皆が嬉しそうに眺めている光景がTVに写り「ベルリンの壁崩壊」と流れたのを見たときのショックは忘れられません。
私の子ども時代は「冷戦」で、それがいつ熱戦(核ミサイルによる人類全滅)に変わるかわからない、という恐怖が時代の基底を常に流れていました。それなのに、私にとっては物心がついてからずっと「あるのが当然」だったベルリンの壁が、冷戦の象徴が崩れ去るとは……妙な開放感が私を包んだのです。
その日、西ドイツ首相コールとその公式顧問を勤める著者はポーランドを公式訪問中でした。首相は直ちに帰国を考えますが、ドイツと微妙な関係を持つポーランド国民の感情を考えるとさっさと「はいさよなら」とも言えません。ところが西ベルリン市長が勝手に市庁舎前での大集会を設定しそこに首相が参加することまで発表してしまいます。市長は首相とは別の政党に属しているため、首相を政治的に困らせるために画策したのではないかと首相周辺は勘ぐりますが、ポーランド大統領との公式会談を急遽キャンセルしてコールはベルリンに向かいます。出だしからして、状況はきわめて政治的です。
「ドイツの統一」が人々の口から出始めますが、コールが考慮するべき因子は複雑です。
・ゴルバチョフを追いつめてはならない(失脚したら西側の不利益)
・「ドイツ」は西側、という原則は譲れない
・近隣諸国の賛同が必要(特にドイツに対する警戒を隠さないポーランドやフランス)
・国民(東ドイツおよび西ドイツ)の意向
・他の政党との協調
・超大国(アメリカとソ連)を両方とも味方につけなければならない(それぞれ内部は一枚岩ではない)
・現実的な見込み(特に経済的なコスト・文化的な摩擦の解消方法)
・東ドイツの指導者や官僚とどう協力するか
・マスコミ対策
・「再統一」ということばのニュアンス(戦前の「大ドイツ」の復興という意味も持っているそうです)
すべてを完璧にクリアするのは無理でしょう。一つをつつけばそれが他の因子に影響を与えます。さらにタイムリミットがあります。東ドイツの経済的破綻の日が刻一刻とせまってきているのです。
戦後すぐから、東欧では自由を求める運動は次々ソ連によって潰されてきました。しかし1980年頃、ポーランドの「連帯」あたりから状況は変化してきました。85年ゴルバチョフの登場によって、武力ではなくて平和的解決を望む、というメッセージが明確に西側に伝えられ、89年にはハンガリーが国境を開けて東ドイツからの旅行者(西への脱出者)を受け入れ始めます(このことに関してコールと著者は特別な感情(恩義)をハンガリーに感じているようです)。湾岸戦争の直前、ゴルバチョフの全盛期、世界の首脳がこの極めて限定された期間に東西ドイツに注力できた、幸運な329日でした。「幸運」と軽く書いてしまいましたが、当事者たちにとってはストレスの針のむしろに坐り続けるような日々だったのですが。
著者の日記を元に構成された本ですが、私が一番感銘を受けたのは、連立政権に対するコールの考え方です。「重要なことだから我々だけで決めてはいけない。他の政党の違う考え方の人達と共に考える良いチャンスだ」……この考え方に出会えただけで、私は本書に出会って良かったと思います。
別の意味でショックだったのは「我々は中国式解決法はとらない」ということばです。中国式? そう、1989年6月天安門広場の流血事件のスタイルのことです。私にとっては「あの」やり方はソ連式なのですが(プラハの春に対してソ連軍戦車がなだれ込んだ号外を見た時の驚きはまだ強烈です)、こういう悪名はなるべくもらいたくないものです。いつまでも印象に残りますから。
中国ということばから私はアジアを連想しました。そう、朝鮮半島です。もし北朝鮮と韓国が再統一されるとして、それはスムーズに進むでしょうか。東西ドイツでは、米ソが後援し、東ドイツでは政府はともかく国民の多くは西の生活に憧れて再統一を支持しました。周辺各国も、熱狂的とは言えないにしても警戒感は持っているにしても、友好的に統一を支持あるいは支援しました。コールという得難い指導者もいました。これだけの条件が整っていても、それでも再統一の過程への道は平坦ではありませんでした。では朝鮮半島には現在どんな条件が整っているのでしょうか? たとえば韓国政府、いつか来る(来て欲しい)その日にそなえて根回しをちゃんと心がけているのかなあ。
川が昨日から泥水で膨れています。台風で流域に降った大量の雨がそのまま流れ込んでいるのでしょう。海も濁っています。上空からの鳥の目だとはっきりするのでしょうが、河口から海に向かって泥で染まった帯がにょっきりと突き出しているはずです。大量の流れが勢いよく海の中に十分突入してから少しずつ混じり合っていくのでしょう。
普段はどちらの水も透明なので見過ごしているのですが、こんなときには「ここまでは淡水、その外側は塩水」と目で見てはっきりわかるようになるんですね。高台でバイクを止めて、しばらく海に見惚れてしまいました。たまには鳥になりたくなります。
【ただいま読書中】
ベッティナ・セルビー著、柴田京子訳、東京書籍、1991年、1800円(税別)
片岡義男・小林信也編集のTHE SPORTS NONFICTIONシリーズの第12巻です。
パキスタンからヒマラヤ山麓への5ヶ月の自転車旅行をしようとカラチ空港に下り立った「わたし」は、早速荷物が全部行方不明というトラブルに見舞われます。やっとこさ見つかった段ボール箱から取りだした自転車を組み立てて、さて入国審査です。
「結婚? してます。夫の許可? イギリスでは男女は同権で、夫は昔からわたしがしたいことをするのをとてもよろこんでいます」
「子ども? いますよ。みんな成長して、わたしを必要としていません……わたしが彼らを見捨ててきたとか、そういうことではありません」
「年齢? 47歳です」(パスポートに書いてあるでしょう!)
まるで拷問、と著者は言います。そしてその「拷問」はそれからずっと著者につきまとうのです。なにしろイスラム文化圏では、女が一人で(顔を剥き出しにして)自転車旅行をしている姿は、(控えめに言って)とっても目を惹く光景ですから。歩いていても自転車で走っていてもストーカーのようにつきまとう集団、「触るな」といくら言っても自転車をつつこうとする男や子どもたち……著者はいらだちます。しかし、そういった人達の行動が(ほとんどは)悪意のないものであり、少数の不可解な敵意の発露と共にたくさんの底抜けの善意にも著者は出会います。
インドに入ると状況が変わります。公の場所で女性の姿が見られるようになり道は良くなりましたが、英語を話せる人を見つけるのがパキスタンよりさらに困難になったのです(インドが公立学校での英語教育を禁止しているからだそうです)。著者はジャムという土地でウィリアム僧正に出会います。彼は、ヒンズーのカースト制度の中では虐げられているカソリック教徒のゲットーで、自身はプロテスタントなのに、学校がない地域の人のためにプロテスタント学校をカソリックにも開放したのでした。ウィリアム僧正の行為こそがキリスト教的なのか、あるいはそれを責めるのがキリスト教的なのか、と著者は問います。どちらにしてもそれを見下ろしているヒマラヤの風景はあくまで美しいのですが。 アフガニスタンの混乱、カシミールの軍事的緊張、チベットからの難民……サイクリストは地面からこんな政治的な問題も見逃しません。しかし著者の人柄でしょうか、不思議なユーモアを湛えた文章でそれらも語られます。自身の貞操の危機や生命の危機さえも。 アメーバ赤痢が発症しますが著者はネパールに向かいます。カトマンズに到着したとき4ヶ月で4000マイルを走破していました。最高到達高度は16000フィート(4800メートル)……自転車と徒歩でそこまで行きますか?
私も自転車旅行をしたことがあります……と言っても、本書のような「冒険行」とは違って日本国内をちょっとだけ。学生時代にはあちこちぶらぶらしましたが、東海道〜山陽道〜大分まで3週間かけて走ったのが自己最長記録です。途中で覆面パトカーに呼び止められて不審尋問を受けたりもしましたが、そうだなあ、あの時私がもしイスラム教徒の恰好をして自転車をこいでいたら、本書の著者の気持ちの数十分の一でもわかったかもしれません。どう見ても文化の中の異物でしょうから。実際には小汚いサイクリストの恰好で、たまに夜の間に洗ったシャツやパンツが乾かなくて自転車に洗濯物をくくりつけてひらひらさせて乾かしながら走るという「変」な恰好だったくらいですけれど。
しかしなんでそんなことを?と聞かないでください。したかったからしただけなんです。それは本書の著者も同じでしょう。大切なのは、したいという希望や熱意と、そして実行です。「そこに山があるから」と同じです(たぶん)。
メーラーをOperaからThunderbirdに完全に替えてまだ日が浅いのですが、こちらの方がさくさく読めて未読メールが貯まらないのが不思議です。Operaではなぜか未読メールがどっさり貯まって処理に苦労していたんですけどねえ。
ただ、手放しでThunderbird万歳、ではありません。私はメールマガジンを読んでその中のurlをクリックしてそのサイトを見たらまたすぐメールに戻って、という行動をよく取るのですが、Operaはブラウザー内蔵メーラーだったのでサイトを見るのもメールを読むのもタブの切り替えで済んでいたのが、Thunderbirdだとブラウズのために一々FireFoxに切り替えなければならないのでマウスの走行距離が少し長くなるのが難点です。ほんの些細なことですけど……というか、些細なことしか気にならないのはThunderbirdが優秀な証拠でしょうね。
【ただいま読書中】
デイヴィッド・スコット+アレクセイ・レオーノフ著、ソニーマガジンズ、2005年、2000円(税別)
原題「TWO SIDES OF THE MOON」を見て思わずニヤリとします。本をめくると最初の序文はニール・アームストロング。妥当な人選でしょう。二番目の序文は……トム・ハンクス。ここでもう一度ニヤリ。映画「
アポロ13 」の主演をしているし、TVシリーズ「人類、月に立つ」を制作した人であることを知っていたら(そしてその両方を見ていたら)当然の人選と言えます。
二人の人生を交互に記述する形で本書は物語られます。最初は1932年から。
空への憧れを持った少年時代から軍人となりパイロット、大学院、宇宙飛行士と、二人の人生はずいぶん似ています。でもアメリカとソ連、もちろん境遇はずいぶん違います。
興味深いエピソードもたくさん盛り込まれています。レオーノフが宇宙飛行士候補に選抜されたときに初めて出会ったガガーリンは『
老人と海 』を読んでいました。数年後キューバを訪れたレオーノフはヘミングウェイに出会い、ガガーリンが彼のファンであることを伝えるとヘミングウェイは喜びます。彼も宇宙計画に興味を持っていたのでした。もし彼が宇宙を舞台に小説を書いていたらどんなものだったでしょう?
1961年に酸素濃度を高くした室内での訓練中火災事故が起きソ連人飛行士が一人死亡します。以後ソ連では純酸素の使用をやめますが、もしこの情報が公開されていたらのちのアポロ1号の火災事故はなかったかもしれません。(アメリカは低気圧の純酸素を使用していました) 「もし」や「れば」を言ってもしかたありませんが、人が死ななきゃシステムが改善されないのなら、せめて死者の数は最低数にしておきたいものです。
有人飛行・宇宙遊泳・無人月面探査機とソ連はアメリカを圧倒的にリードしていましたが、設計主任コロリョフの死によってソ連の宇宙計画は停滞します。このコロリョフについてはまた別の本が一冊必要ですが(タイトルは忘れましたが、実際にそういった本はあります)、冤罪で強制収容所に送られそれでも「国」のためにつくし、最後は大腸のポリープ切除という簡単な手術の失敗で死んでしまうという、「ソ連の犠牲」と言いたくなる人です。それに対し、弾道飛行を有人宇宙飛行と主張したり、ソ連の世界初の宇宙遊泳を(行なったのはレオーノフ)「あれは合成写真に違いない。だからソ連の宇宙遊泳が世界初というのは嘘だ」と主張したり、と、なんだか見苦しいことをやっていたアメリカがここでソ連をリードします。ケネディ大統領が公約した「1960年代中に人を月面へ」を実現したのです。自由主義のアメリカが、まるで計画経済のような手法でソ連を追い抜き、ソ連の方が個人に依存していたなんて、ちょっと面白い現象です。
アポロ15号で月面に降りたスコットは、有名な「羽とハンマーを両手から同時に落とすと同時に月面に到達する」実験を行うと同時に、それまでに犠牲になった米ソ14名(ソ連が公開しなかった2名を除く)の宇宙飛行士の名前を刻んだプレートを月面に埋めます。
宇宙飛行士たちは、国境の壁を越えて時々接触があり、そこで違いも大きいが共通する部分の方がもっと大きいことを発見していました。1972年にはデタントとなり、アポロ=ソユーズ計画が始まります。競争は協力に変わりつつあったのです。1975年にアポロとソユーズは地球軌道でドッキングをします。その後政治情勢の変化でまた冷戦が強まりますが、現在の国際ステーションを見ると、協力路線はまだ続いているようです。
書中でスコットが引用するプルタルコスのことばが印象的です。「心とは満たされるべき器ではなく、ともされるべき火である」 宇宙に行くべきが無人探査機ではなくて有人宇宙船であるべきだ、と主張する根拠としても使えるのではないか、と感じます。
iTunesでの作業がとりあえず一段落しました。
233アルバム3273曲11.36GBだそうです。原則として交響曲は入れていないし(パーティーシャッフルでシンフォニーを聴きたいとは思いませんから)、シプリアン・カツァリス(ピアノ)のCDがなぜかまとめて行方不明なので手持ちのすべて、とは言えませんが、とりあえずとりあえずここまで。全部聞くと8.7日かかるそうですが、さて、いつどうやって聞くのかな?
そうそう、CDの取り込みを行ないながら同時にパーティーシャッフルで曲をランダムに再生している環境でエディター入力を行なっているとキーの取りこぼしが発生します。私はローマ字入力をしているのですが、「わたしはろーまじ」と入力するとたとえば「わたsはろーまじ」と機械が認識してくれるのです。「i」はどこに行ったのでしょう?
10年前、MPUが現在の20分の1くらいの速度しかないときにWIN95で超特急でタイプすると取りこぼしが発生してしかたないので、日本語を大量に入力するときにはDOSに降りてエディターを使っていたことを思い出しました。DOSだったら少々のことにはびくともしなかったのです。あの時は若くて指が良く動いていたのとWINが重すぎて使い物にならなかったのとの組み合わせでマシンがキー入力を認識できなかったのですが、いくらマシンが高機能になっても過大な負荷をかけたらやっぱり入力を取りこぼすんですね。入力をやり直すのはいらだたしいのですが、ちょっと懐かしさも感じています。もう少し経てば、機械はさらに高速になり私の指はのろまになるからもう大丈夫……かな? もっとMPUに負荷がかかる作業が増えていて、結局同じかな?
【ただいま読書中】
野村敏雄著、プレジデント社、1994年、1845円(税別)
「非常の人」であった平賀源内はまことに多才で、エレキテルや火浣布(最近話題の石綿で織った燃えない布)などの西洋技術や鉱山開発、さらには芸術にまで手を伸ばし、蘭画の祖のような存在でもありました。蘭画で有名なのは司馬江漢ですが、源内とほぼ同時代に秋田蘭画があったことはそれほど有名ではありません。秋田佐竹藩に蘭画の火が一時燃えていたのです。その中心人物が小野田直武でした。
私が初めて小田野直武の名を知ったのは『
蘭学事始 』です。蘭画を学んだ平賀源内が秋田で出会った若い藩士の画才に惚れこみ江戸に誘い杉田玄白に紹介した、それが小田野直武です。結局『解體新書』のイラストはすべて彼が『ターヘル・アナトミア』から模写することになったのでした。それだけだったら「初めてなのによく頑張ったね」でおしまいですが、私が彼の名前を心に刻んだのは『解體新書』に彼が書いた文章によってです。序図の巻の最後に編集後記のような感じで短い漢文を載せていますが(*)それは「我友人杉田玄白所謂之解體新書」で始まっています。出会って数ヶ月で年齢が倍くらい上で蘭学の先輩で所属する藩の格も玄白の小浜藩の方が上です。それを「私の友人の杉田玄白が謂うところの解體新書が……」ですよ。ここを読んだとき私は頭を5回くらい振り回してしまいました。江戸時代はがちがちの身分制度社会じゃなかったの? 小田野が過激なくらいよほど図々しい人間だったのか、それとも杉田玄白が身分や家格ではなくて実力を評価する方針で(今のことばを使うなら民主的に)自分たちのプロジェクトチームを運営していたのか……私は後者だろうと思っています。
*解體新書を実際に読んでみたい人は、中村学園大学電子図書館でPDF版をどーぞ。
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/
秋田佐竹藩の支藩角館の小田野平七・直武親子は、父は槍・息子は絵で知られていました。銅山精錬の改良を指導するために秋田を訪れた平賀源内はたまたま直武の絵を目に留め。西洋画の指導をします。絵心のある藩主は直武を江戸に派遣し直武はそこで源内の弟子として西洋画を本格的に修得することになりますが……源内が引き合わせたのは若狭小浜藩の藩医杉田玄白。玄白たちは解體新書の翻訳をほとんど完成させ、あとは出版前の政治的な根回し(なにしろその数年前にはアルファベットが挿絵に載っていただけで作者が罰せられる、という事件が起きたばかりでしたから)と、詳細な解剖図を写し取ることでした。優秀な西洋画家が切実に求められていたのです。
田沼政治と秋田藩の思惑、それに源内の思惑が絡み、直武はターヘルアナトミアの模写に専念できることになります(ここは著者の想像が相当入っているようですが、なかなかスジが通ったストーリーに思えます)。無事模写を済ませた直武の目に映るのは、奇矯な行動がますます激しくなる源内の姿でした。
主要な登場人物はすべて武士ですが、武闘派はいません。文化人ばかりです。戦闘とは無縁な文化的な武士なんて言語的には矛盾しているようですが、江戸時代は武士が文化人になったからこそ面白い時代だったと言えるでしょう。そのせいか、新撰組とか奇兵隊とか、本来武士ではない人達が武闘派になって幕末を彩ることになりましたけれど。
店頭で見たiPodに激しく物欲を刺激されています。ただ、シャッフルは小さすぎますね。USBメモリーと変わらないじゃないですか。あれだと簡単になくしてしまいそうです。ナノくらいのサイズだと操作性は良さそうですが、あそこまでのメモリー空間を曲で埋めてもいつ聞くんだ、となりそうです。
iPodのハードディスクタイプとメモリータイプが並んでいるのを見て、15年くらい前を思い出しました。当時パソコンの外付けHDDが一般に流行り始めていましたが、シリコンディスクというのも出ていたのです。メモリータイプの外付けディスク(?)です。HDDが40MBとか60だったのにシリコンは10MBとか20でそれでもHDDより高かったかな。
技術はすごく進歩したのに、基本的には似た商品構成が並んでいるのを見るとデジャブかと思います。昔はメモリータイプの方が高すぎて手が出せませんでしたが、iPodはメモリータイプの方が安くて買いやすいのが逆ですけれど。
【ただいま読書中】
『パズルコレクション NO.1』
アシェット・コレクションズ・ジャパン株式会社、2005年、490円(税込み)
本屋にずいぶん場所を取る本(?)が積んであると思ったら、戦艦大和のプラモデル雑誌でした。毎号買って説明通り少しずつ組み立てていくと最後には大和が完成するんだそうです。それだったら最初から雑誌じゃなくてプラモデルの箱を買うわい、と呟いて視線を転じると隣りに本誌が積んでありました。これまた場所を取るサイズです。
パッケージに入っている「ハノイの塔」は持っているのですが、押し入れの奥に仕舞っているしちょっと壊れやすい材質です。本誌のは木製だし、創刊号特価で平常価格の半値というのにも惹かれて買ってしまいました。
7枚の円盤で構成されているので、別の棒に移すための最少手数は127手です。深く考えずにちゃかちゃかやっていたらいつの間にか完成していましたが、こういった論理的なパズルは時間つぶしには良いですねえ。
パッケージがでかいので、箱の部分を切り離して雑誌部分だけ残しました。切り離してからよく見ると、一部分にはファイル用の穴が開けてありますが、気にしないことにします。もともと私は雑誌をばらすのは得意です。というか、商売で読む雑誌は読んだら要る部分だけばりばり破り取ってファイルし残りは捨ててます。雑誌が丸ごと重要な文献で占められている場合もばらします。系統別にファイルした方があとで便利ですし表紙と広告を捨てるだけでも保存スペースが節約できますから。(でも商売とは無関係に好きで買う雑誌はばらしません。本誌は目的がパズルそのものなので気にせずやっちゃいましたけど)
さてこのシリーズ、当面隔週で18号まで出る予定のようです。面白そうな木製のパズルが予告されていますが、さすがに全部買う気にもなれないし、さて、どれをセレクトして買おうかな。
医療・福祉改革は粛々と行なわれていますが、この10月からは介護保険の食事費用が全額個人負担になります(ホテルコスト、と新聞には出ていました)。これまでの介護保険では一日の食費が2120円でその一割が自己負担だったのが十割自己負担になるわけでその分患者と家族の家計は苦しくなります(その分お上の会計は楽になります)。問題は生活保護の人。公費負担は残りますが、1380円に値切られます。それ以上の食費をお上は出してくれません。ではそこで生じる「差額」を本人に請求……してはいけません。恐れ多くも公費で食費を出している以上それは充分な価のはずなのです。ですからさらに本人に「二重」に負担させるのはおかしい、というのが政府の言い分です。そこで施設の対応策は大きく二つ考えられます。一つは生じた差額を施設が負担する。もう一つは1380円で出せる食事を出す。(なお「食費」には、食材費だけではなくて、人件費や施設費や光熱費や税金やゴミの廃棄費用が含まれることをお忘れなく)
介護保険でしかも生活保護の人だけの問題、と高をくくっていたらいけません。おそらく来年度あるいは再来年度には今度は医療保険の方も介護保険の後を追って同様の制度になります。入院する予定がある人は、食費も貯めておいた方がよいですよ。「病院の不味い飯なんか食えるか」と出前を取ったり自炊をするのも可能になるかもしれません。
【ただいま読書中】
高橋しん作、小学館、2002年、571円(税別)(6巻)648円(税別)(7巻)
二人は故郷を出てある海辺の町に逃げ込みます。ちせはラーメン屋で初めてアルバイトを始め、可愛いどじっ娘で人気を呼びます。二人は幸せを噛みしめますが、幼い蜜月生活は3週間で終わりを迎えます。ちせの身体を保たせていたクスリが切れ、戦わないことによって兵器の調子は狂い、そして海辺の町は爆撃で滅びたのです。
シュウジはちせをジエータイに託し、一人故郷に戻ります。いつしかそこは「ちせの街」と呼ばれるようになっていました。
「地球はもう駄目」とちせは言います。地球は滅びの時を迎えていたのです。それでも人は争い殺し合います。地球最後の日まで。
おそろしいような朝焼けの日、ちせの予言通り大きな地震が起きます。シュウジは約束どおり二人の初めての場所(展望台)に向かいますが、その前に行くべき場所・言うべきことばがあります。
シュウジ君は「漢」になったねえ、と言いたくなるシーンです。人は成長できるものなんですね、たとえ地球最後の日でも。
冷静に考えたら無茶苦茶なエンディングなんですが、でもそこまで話を広げなければこのラブコメは終われなかったかもしれません。なにしろ「最終兵器」なんですから。戦争に勝ってしまったら収拾がつかなくなります。ロミオとジュリエットが手をつないであの世で見る夢のように、このお話もこうやって夢のように終わるのが良かったのでしょう。
この世にはドラマや小説など、フィクションが満ちあふれています。人はなぜそれが「うそ」とわかっていて受け入れるのでしょうか? 『
ファンタジーと現実 』ではそのへんを格調高く述べていましたが、私は自分にふさわしく、格調低く考えてみました。
「唯識」によれば、人は識(感覚・思考)を通してしか世界を把握できません。つまり人は現実そのものではなくて、ある種の制限(編集)をくわえられたものを「現実」として把握しています。つまり「それ」は「真実の世界そのもの」ではないことを人は意識的あるいは無意識的にわかっています。すると、自分が認識している世界がどのくらい「真実」に近いのかの保証が欲しくなります。そこでフィクションの登場です。明らかな「嘘」と比較したら自分が認識している世界が「真実」に近いことがわかります。つまり人間にとっての「リアルさ」は実は相対的なものと言えます。
もう一つの考え方。上記の記述は、人が「ロゴス(言語や論理)」を用いて世界を自分の内に再構築していることを前提としています。しかし、人が世界を認識する手段はロゴスだけではありません。直感や感覚も使います。時に細かく解説するよりもざっくりとしたたとえ話の方が有効なのはそのためでしょう。フィクションもそういった一種のたとえ話として人に真実を伝える機能がありそうです。極論するなら、フィクションを通して把握できる「真実」がある(さらに極論するなら、人にはフィクションを通してしか把握できない「真実」がある)のかもしれません。
しかし、唯識を徹底すればこの世は実在しなくてもかまいません(少なくとも私の理解では)。すると識とフィクションを通して世界を把握していたら、「この世」は実は実在していなくてもかまわないことになっちゃいません?(自分でも何を考えているのか、おそろしくなってきました)
【ただいま読書中】
桐生祐狩著、早川書房、2004年、1800円(税別)
本書の主人公三神真治は、大学時代のペンネーム「三神外道」から愛称(?)は「げど」、商売は広告の原稿作り、髪はポニーテール、酒焼けのしたさえない中年、女に弱く腕力なし暴力沙汰は大嫌い、特技は小説内世界とこの世を行き来できること。
本日の訪問客は、ノベルが(自分にとっては)中途半端に終わってしまって困っているきわめて色っぽい美人です。小説の最後で自分の息子が殺されたのかどうか宙ぶらりんで困っている内にふらふらと「この世」に出てきてしまったのだそうです。げどは小説探偵として、彼女の問題解決を引き受けます。彼女の息子が本当に殺されているのかいないのか作者がなぜ明確にそれを書かなかったのか、まず小説を読みそれから実際にその小説の
「中」に入って調べるのです。
フィクションとは言っても、その作品の世界観と矛盾する存在は許されません。つまり作品に記述されたシーンに突然小説探偵が登場して現場をかき乱すことはできないのです。逆に書かれていないシーンでは(書かれなかったサイドストーリーとして)自由に動けます。げどは、小説の内と外を行き来し、小説の中でもそういった隙間をねらって行動することで謎を解いていきますが、依頼人が小説の外(つまりはこの世)でパトロンを見つけて結婚を考えるようになったため話はややこしくなります。
7編の連作短編集で、ハードボイルド・ファンタジー・やおい・伝奇と様々な小説が取りあげられています。まったく、げどは読んでない本がないのか、というくらいどの小説でも適切な判断をします(それでも苦手なジャンルはあるようですが)。カバーには「ジャンル小説に対する過剰な愛」とありますが、私には「小説というジャンル」そのものに対する過剰な愛の発露、と読める本です。ただ、単に小説に対する蘊蓄を傾け続けているわけではありません。げどがなぜそのような特殊能力を得たのか、それを本人は覚えていません。大学時代に文学サークルに属して同人誌を盛んに出していましたが、どうもそのころ何かあったらしいのです。しかし本人はそのことを忘れてますし、忘れていることを不思議にも思っていません。また、サークルの仲間たちも行方不明なのに、げどはそのことも深く追及しようとはしません。少しは変だと思いなさいよね。それらが本書の後半で小説探偵が解くべき大きな謎としてげどの前に立ちふさがります。
登場人物たちも謎に満ちています。げどに見せるのとはまったく別の面を持っている人。文字通り社会の裏側で生きている(戸籍を持たず、さらに戸籍を持たない子どもたちを引き取って育てている)人。そこに「この世の存在ではない」人(あるいは人にあらざる存在)が絡みます。「現実」の表と裏が絡み、そこにフィクションが現実と対等の存在として絡むため、お話は大変ややこしくなります。もちろんフィクションも「作者によって書かれたこと」と「書かれなかったこと(あるいは裏設定)」の二重構造を持つため、もう何がなんだか……著者は親切にも露骨に伏線を張ってくれるので少しは納得しやすくはなっていますけれど。(「露骨な伏線」は変、と突っ込まないように……って、げどの口癖が移ったかな?)
最後には、
ゲド戦記 (の
第一巻 )もちゃんと登場します。もしかして著者は最初からねらって主人公のネーミングを行なったのかなあ。
在外邦人の国政選挙権を認めろ、という判決が昨日最高裁で出ました。
一体どうしたんでしょう。これまでの国政選挙がらみ(主に選挙区の定数)の裁判では「たしかに事態はまずいけれど、違憲とまでは我々は言わないから手遅れになる前に国会で何とかしてよ」という弱腰判決ばかりだったはずです。何か最高裁と国会の間にあったんでしょうか(というか、これまであった何かが消失したのでしょうか)?
まあ、「三権分立」が死語ではなかったことがわかって、なんとなく嬉しく思っています。高い給料もらっている公務員なんだから、現在および未来の日本(国体ではなくて、主権者たる国民)のためにちゃんとお仕事してね。どこぞのコミッショナーのように「私には権限がない」と判断や行動から逃げる連中は、ならば本当に権限のない下っ端になってしまえ、と思う今日この頃です。
そうそう、選挙に関する情報をインターネット経由で外国に届けることが認められたら(そうでないと、迅速に公平に大量に情報を伝えることは困難でしょう)、現在のインターネットでの選挙に関する様々な制限も緩和されることにならないでしょうか。私はそちらの方も期待しています。ここまで考えるのはちょっと先を急ぎすぎ?
【ただいま読書中】
キムヒョンヒ
砂川昌順著、NHK出版、2003年、1600円(税別)
1987年11月30日、在バハレーン日本国大使館に勤務していた著者は、その前日飛行中に爆破されたバグダッド発アブダビ経由ソウル行き大韓航空機から爆破前にアブダビ空港で降りた15人の中に二人日本人らしい人物がいるので、至急極秘に調査するよう命じられます。もし二人が爆破犯人でしかも本当に日本人なら、日本は外交上大きなダメージを受けます。
著者はこの二人がガルフ航空でバハレーンにやって来る、と直感し調査を開始します。空港事務所で「ハチヤシンイチ」「ハチヤマユミ」二人の入国カードを発見した著者たちはその記載事項を外務省に問い合わせ「ハチヤマユミ」のパスポートが偽造であることを知ります。またもや著者の考察と直感から二人が泊まっているホテルが突き止められますが、旅行者のトランジットビザの期限は72時間。すでにその期限は目の前です。出国のために空港に向かう二人を追った著者は、出国カウンターで二人と対決、偽造パスポートを没収しマユミは日本に送還されることを告げます。言い訳もせず大人しくなったかのように見えた二人ですが、突然タバコに仕込んだ毒物を口にします。女性警察官がとっさに払いのけたのでマユミは助かりますが、シンイチは死亡。
著者はバハレーン警察の協力のもと、マユミの尋問を行ない、ついに彼女が日本人ではないという自白を得ます。
そこで韓国政府が捜査権を主張し、日本政府はなぜか興味を失い、マユミは韓国に送還されることになります。
しかし……やたらと繰り返しが多く、もったいをつけてるんだけどもたもたした文章です。ストレートに書いたら機密に触れるからそこは避けて、でもなるべく自分の大変さと裏ルートに通じているところを見せたい、という意図から生まれた文章なんでしょうね。自分は実は大物だ、と何回も繰り返しているのも鼻につきます。これだったらいっそ小説仕立てにした方がよほど効果的だったと思います。ル・カレの向こうを張れとは言いませんが、協力者を偽名にするだけではなくて(偽名ですよね?)真実を曲げない程度にフィクションも混ぜた方が、もうちょっと著者に対する興味がかき立てられたと思うんですが……あれだけ「俺が俺が」と言われると根性がひん曲がった私は「私が知りたいのは金賢姫の『真相』であって、あんたのことじゃない」と言いたくなってしまいます。
そういえば、金賢姫たちはなぜ犯行後わざわざバハレーンに潜伏したのでしょう? 場所も期間も中途半端です。さっさと偽造パスポートを取り替えて飛行機を乗り継いでいけば、きれいに行方をくらませたと思うんですけど。スパイ小説の読み過ぎかな?
いつまでも観ずにぐずぐずしていると映画館での上映が終了しそうなので、やっと腰を上げて行ってきました。エピソード4を初めて観て「これはすごい」と思ってから……記憶によればもう28年ですか。正直言って今回はあまり観に行きたいという欲望が感じられなかったのです。時間が経ってしまった、というのが一つ。結末(エピソード4の始まり)が見えているのでそのためのツナギというか穴埋め的なストーリー展開になるのではないか、というのが一つ。観たら終わってしまうのが残念、が一つ。もしかしたら、今回腰が重かった原因としては最後のが一番大きいかもしれません。
絵はすごいですね。カメラワークも含めて、スター・ウォーズは映画表現に革新をもたらしたのは間違いありません。ストーリーは……やはり不満です。ルークが暗黒面に落ちようとしたときの方がよほどドラマになってました。まあでも最後の、二つの太陽が地平線に没しようとするシーンで円環がきれいに閉じたから、個人的には良しとします。
こんなに長くかかったシリーズを、ちゃんと最後まで見届けることができて、満足するべきなのでしょう。とりあえず途中で死ぬようなことがなくて、良かった。
……もしエピソード7が公開されたら……やっぱりぶつぶつ言いながら観に行くのかなあ>未来の自分。
【ただいま読書中】
C.S.ルイス著、瀬田貞二訳、岩波少年文庫、1986年、550円
ヴィクトリア時代のイギリス、棟続きのタウンハウスに住んでいる少女ポリーは隣に越してきた少年ディゴリーと知り合い、ディゴリーの伯父の悪だくみによって異世界に飛ばされてしまいます。二人は悪い魔女と出会い、ロンドンに連れてきてしまいますが、なんとかもう一度別の世界に連れ出すことに成功します。そこは何もない空っぽの世界で、歌うライオンのアスランがその歌によって新しい世界ナルニアを創造しているところでした。魔女はその新世界に持ち込まれた「悪」であり、ディゴリーとポリーはその責任を取るためアスランから試練を与えられます。
ナルニア国物語の第6巻(時系列に並べたら一番最初に来る巻)です。この本を開くのは一体何十年ぶりでしょうか。しかしおそろしい児童書です。きたない心で立派なことばを吐く大人が子どもの目から見たらどのようなものかを明確に表現した文章には舌を巻きます。揺れる心理描写も見事です。板挟みになったディゴリーに子どもの時感じたもどかしさを今日もまた感じてしまいました。そう、思い出すんです。すっかり忘れていた自分自身の子ども時代の心の動きを。荒野に生えている街灯のシーンで「だからここに街灯が!」と膝を打って「あ、初めて読んだときにも同じことを思った」と思い出したり。洋服ダンスの由来もすっかり忘れていました。記憶が中途半端に薄いのはありがたいことです。新鮮な気持ちで読めて、読んだらよみがえってきた過去の残渣と二重に楽しめるのですから。
考えてみたら私は子ども時代にイギリス(児童)文学に大いにお世話になっています。アーサー・ランサムのシリーズ、メアリー・ポピンズ、ドリトル先生、コナン・ドイルの作品群、単独作品ですが『トムは真夜中の庭で』、そしてナルニア。無限壁に参加したおかげでアーサー・ランサムはこの前(といっても何年前だ?)全部読み返しましたから、今度はナルニアを読み返そうかな。
……どうして読めば読むほど読みたい本の在庫が積み上がっていくんだろう?
※この日記は15日に書いてアップしたはずだったのですが……ボタンの押し忘れか、載っていませんでした。今頃気がついてアップするというのもけっこう情けないものが……
代表選での菅さんと前原さんの票差が二票だったそうです。つうことは、たとえば菅さんが「余裕かまして自分の名前ではなくて『前原』と書いておこう」なんてことをもしやっていたら、それが決定打だった、ということになるわけです。一人逆に書いたら出入り二票の差になりますから。ま、実際にどうだったのかは私にはわかりませんけれど。
そうそう、もし民主党の新リーダーが党を率いる方法論で自民党と差別化を強調したいなら、たとえば「自民党は強力なリーダーシップで動いているが(つまりは独裁的、と決めつけた上で)、我が民主党は名前の通り『民主的な手続き(少数意見ともしっかり話し合う)』でやっていく」とでっかく宣言するのも一つの手でしょう。自民党の後追いだけだと、結局自民党を越えることはできませんから別の道を行かないと目立ちません。もっともいくら立派なことを宣言しても、できなきゃみっともないだけですけどね。さらに、日本国民が民主的な手続きを好むかどうか、も慎重に読まなきゃいけませんけど。
【ただいま読書中】
フレデリック・フォーサイス編著、伏見威蕃・他訳、原書房、1997年、1900円(税別)
目次
序文 フレデリック・フォーサイス
わたしの初めての飛行機 H・G・ウェルズ
ハンス・プファールという人物の無類の冒険 エドガー・アラン・ポー
高空の恐怖物体 サー・アーサー・コナン・ドイル
スパッドとシュパンダウ W・E・ジョンズ
世界でいちばんすばらしい人々 H・E・ベイツ
彼らは永らえず ロアルド・ダール
羊飼い フレデリック・フォーサイス
ヴィンターの朝 レン・デイトン
ウェーク島へ飛ぶ夢 J・G・バラード
猫 リチャード・バック
大空の冒険家たち H・G・ウェルズ
勇者かく瞑(ねむ)れり H・E・ベイツ
偵察飛行士 F・ブリトン・オースティン
ミスタースタンドファストは召される ジョン・バカン
このラインナップを見ただけで読む前から「期待できそう」と思えます(なんて偉そうなことを言っていますが、作者の1/3は知らない人だったことは白状しておきます)。厳密にはタイトルの「翼」ではなくて(原題の通り)「飛ぶこと」を愛した人々の物語集です。有翼の飛行機(複葉機や布貼りの単葉機〜ジェット機)だけではなくて気球も出てきますから。さらに、「愛する」と言っても、もちろん一筋縄ではいきません。飛行機や気球だけではなくて、お話もひゅんひゅん飛んでいきます(たとえば本書のどこかに登場する気球の目的地と来たら!……それがどこかは読んでのお楽しみ)。
「わたしの初めての飛行機」で肩の力がちょうど良く抜けて、次の「ハンス・プファール」で笑い転げてしまいますが、発表当時の読者ははたしてどんな風に読んだのでしょう。飛行機初期の時代には「空を飛ぶ」ことは、現在の我々が宇宙旅行に感じるよりももっと「現実」とはかけ離れたものだったのではないか、と想像するのですが。
しかし、砂丘でせっせと砂を掘っているだけの人や、筏で海を漂っている人を主人公とした作品が含まれているのを見ると、フォーサイスは本当に一筋縄ではいかない人物で、かつ、飛ぶことが好きなんだなあ、と感じます。
もし私がこのテーマでアンソロジーを編むとしたら何を選ぶでしょう。本書から『羊飼い』ははずせないところですが、あとはヴェルヌ、サン=テグジュペリ、宮崎駿……飛ぶことに強い思い入れもないし操縦経験もない人間だからこんなものでしょう(宇宙を飛ぶことを入れて良いなら、SFからもう少し引っ張って来られますけど)。序文でフォーサイスは「読者が貧乏籤を引いたのではないかという思いは払拭できない」と謙遜していますが、私の場合はそれがホンネになりそうです。いや、私がアンソロジーを編むこと自体がありませんけどね。
18日(日)(2)名月の反対側
ベランダで名月観賞としゃれ込んだら、次男が盛んに西の空を気にしています。聞くと今頃金星が沈んでいくはずだ、とのこと。見ると明るくてさかんに瞬いている星があるので、たぶんあれが金星だろうと教えてやりましたが、なんで名月に尻を向けて金星を見ているんでしょうねえ。月を見ようよ。
プラネタリウムで仕入れてきた知識らしいのですが、まったくこちらが対応できる範囲内の質問をして欲しいものです。団子を食べながらおかえしに「冴え冴えとした」ということばを教えてやりました。
iTunesで手持ちのCDをほとんど全部パソコンに入れて曲を片っ端からランダムに再生させています。懐かしいのや「こんなの持ってたのか?」というのも次々登場して楽しいのですが、とうとう「女王様物語」が出てきました。イギリスのロックグループ「クイーン」の曲をそのまま無理矢理直訳日本語歌詞で歌っている愉快なCDなのですが……今回パソコンに食わせるまで買っていたのを忘れていました。ところが私は元のクイーンのCDを持っていません(レーザーディスクならあるのですが)。良い曲が多いし久しぶりにフレディ・マーキュリーの熱唱を聴きたいな、ということでレンタルしてきました。レンタルショップは初めての利用ですが、一週間借りても一枚210円ですか。安いなあ。で中を見るとコピープロテクトがかかっているCCCDでした。そういえば店員が聞き取りにくい声で「このCDはほにゅらこにゃらですがよろしいですか」と言ってたのがCCCDのことだったのでしょう。今回はレンタルだから別にかまいませんが、買ってきたものだったら「自分用にPCにコピーできないとは何ごとだ」と言いたくなるかもしれません。だってCDプレイヤーは持って歩きませんがパソコンは日常的に持って移動してますからこっちに入れておきたいのです。ネットを調べると、プロテクト破りについて書いてあるサイトがありました。今回はレンタルだからやりませんが、そんな手があることは覚えておきます。今iPod物欲に本気で負けそうになっているので、もし万が一買ったとしたらやっぱりその中に「自転車〜自転車〜♪」という歌声を入れておきたいですから……おっと、これだとQUEENじゃなくて女王様の方だな。
*著作権法では個人の私用目的の複製はOKのはずですから、その範囲内での使用しか考えていません。念のため。
【ただいま読書中】
阿刀田高著、新潮社、2003年、1500円(税別)
コーランについて知りたければ本当は原典を読むべきなのはわかっているのですが、とりあえず入門書として借りてきました。阿刀田さんだったら小説的な技法を使ってわかりやすく書いてくれることは間違いないとも思えましたし。
のっけから笑わせてくれます。コーランは「(論述の方法が)頑固で賢い親父の説教に似ている」ですって。内容は正しいけれど非論理的なことが多くてくどいところがそっくりだそうです。ただ、親父ではなくて神のお説教であることが違いますけれど。呑み込みが悪いどら息子にわかるように、何回も手を替え品を替え語ってくれている……なんだか旧約聖書に似ていますね。あちらも神が何回も何回も人間に語りかけていました。お説教がくどいのは、お説教をする側だけの問題ではなくて、お説教をくらう側の問題でもあるのですね。
コーランは詩歌であり神の音楽なんだそうです。朗唱されて快く響くこと、それ自体が一つの価値。だからこそ、はじめはアラビア語以外に翻訳することが許されなかったのです。アラビア語で朗唱されることが意味がある……まるで呪文ですが、ことばの力の原点は朗唱なんでしょうね。そういえばアラブ世界の紹介で一日五回の祈りのシーン、バックに流れる朗々たる祈りはたしかに意味はわからなくても心に訴えてくるものがあります。その逆で、日本の神社の祝詞を横文字に直して神に印刷して渡して外国人に読ませても、「あの」雰囲気は伝わらないだろうな、と思います(最近では日本人にも伝わらなくなってきているのかもしれません)。
本書ではコーランだけではなくて、マホメットの生涯についても簡単に触れられています。商人として成功していたのに40歳で神の啓示を受けその教えを広めることに生涯をささげる決心をしたわけですが、最初は苦難の道でした。それでも次々弟子が増えて教団となりさらには軍事行動も起こすようになります。630年にはマホメット軍はメッカに入城し、神殿の偶像を破壊します。ここで私が連想したのがアフガニスタン・タリバンによる仏像破壊です。偶像禁止がイスラムの教えであり、仏教は非イスラムである上に一神教ではないということで「何の価値もない」と見なされたのだろう、とその行動を私は理解しました。賛成はしませんけれど。ただ、本書の最終話でのイスラムの副代表が「本当に宗教に熱心な人たちが行なったことなのかどうかよく判断して欲しい。あそこでは1350年にわたってイスラムと他教徒が共存していた」と述べたのを見ると、単に宗教の問題ではなくてむしろ政治の問題だったのか、とも思えます。
しかし一神教は厳しいですね。すべてを捧げて信じるかあるいは信じないかしか選択肢がないのですから。私は多神教徒なので(一応神道です)その厳しさにはついて行けません。
そうそう、マホメット「以前」のアラブの宗教はどんなものだったのでしょう? おそらく(最終的にはイスラムに滅ぼされる)土着の宗教がいろいろあったと思うのですが。そこで素人の素朴な疑問が生じます。もしマホメットがイエスのようにユダヤ教から出てきたのだったらイスラムとユダヤ教の「唯一神」が共通であることはわかります。でもマホメットはユダヤでもキリスト教でもありませんよね。だったらなぜ「神」は異教徒であるマホメットを預言者として選んだのでしょう。
私にはどうもしっくり来ないのです。
懐かしの歌を聴いていると、改めて新しい発見があります。
たとえばエルヴィス・プレスリー。とっても気持ちよいバラード(?)じゃないですか。彼が登場した頃その音楽の激しさとと腰ふりで物議を醸したなんて、今となっては信じられません。ついでですが、彼の英語はとっても聞き取り易いですね。リスニングの教材として使えるんじゃないかしら。
井上陽水も、「ん」の発音がきれいなのに驚きました。「ん〜〜」と長く伸ばすところでもきれ〜いに響いています。若い頃にはそんなの気にしてませんでしたが、こうしてみると私の人生でこれまでに見逃していたこと聞き逃していたことは山ほどありそうです。どんなことでも、「そんなの知ってる」なんて軽々には言わない方が良さそうです(自戒)。
【ただいま読書中】
デイヴィッド・トレイル著、周藤芳幸・澤田典子・北村陽子訳、青木書店、1999年、3800円(税別)
私は小学校〜中学校の一時期、伝記を集中的に読んでいました。その時強く印象に焼き付けられたのは野口英世とシュリーマンです。どちらもすばらしい超人に思えました。ところが大人になると野口英世は聖人君子とはほど遠い人物であることを知ってしまい、ちょっとがっかりしました。そして本書です。子どもの時父親に読んでもらったトロイの伝説に取り憑かれ考古学のためにはまずお金を貯めようと商売に精を出して大成功し十数カ国語を独学で身につけた語学の天才で、人に馬鹿にされようと伝説を信じてとうとうトロイの遺跡を掘り当ててしまったすごい人……というのは実は「大嘘」である、というのです。ああ、私はまたがっかりしなければならないのでしょうか。
シュリーマンは嘘つきである、ということから話は始まります。いや、嘘を全然つかない人はあまりいないでしょうが、嘘を平気でつく人間は、追試ができない考古学(発掘者が正直であることが前提の学問)には向かないのではないか、と著者は言います。(日本でも「ゴッドハンド」による出土品捏造問題がありましたね)
シュリーマンが書いた本や日記にも明らかに偽りの記述が混じっているのを、著者は「これは○日の新聞記事の丸写し」「こちらは当時シュリーマンが参照していたガイドブックからの転載」と出典を一々明らかにしています。堂々と虚偽の記載をしている(たとえば、ふらっとホワイトハウスに寄ったら公式晩餐会を控えて多忙の大統領夫妻が見ず知らずの商人である自分を歓待してくれた、とか)のには、おかしいと言うより薄ら寒いものを感じますし、プライベートなものであるはずの日記にさえそういった記載をするのには……
商売のやり口・周りの人の扱い方などを見ると、シュリーマンにとって大切なのは「自分の世界」ではないか、という印象を受けます。主張に一貫性がなく、自分の「正しさ」を後付けの理屈で裏付けようとし、批判・疑義の申し立てに対して過剰とも言える反応(主に攻撃)をし、他人は自分の都合良く動くと勝手に期待しその期待が裏切られたらなんとか自分の思い通りになるように他人を強引に操作しようとし、他人は敵か味方に明確に区分し味方は徹底的に信用するがそのかわりどこまで自分のために働くかプレッシャーをかけ続けて「忠誠心」を試し続ける(たとえ親友でも)……私がシュリーマンの日記や手紙や記録に残る行動から想起するのは、ある種の人格障害(精神障害の一種)です(ただしそう思わせるように著者がデータを操作している可能性は排除しません)。
シュリーマンは最初の妻(ロシア人)と離婚するためにアメリカの市民権を取ろうとし(当時アメリカの特定の州だと簡単に離婚ができたのです)、市民権取得のための資格要件が足りないと知るとそれを捏造してちゃっかり市民権を取って離婚裁判を起こし(妻は欠席……なにしろロシアにいるのですから)、離婚にふさわしい妻に対する不利な証拠も自分で捏造してとうとう離婚しちゃいます。その途中簡単に離婚を認めないように州法を改正しようとする動きが出ると議員20人くらいに働きかけて(要するに金を渡して)それを阻止しようとしてます。ある特定の目的を達成するための行動としては、きわめて論理的です。とても倫理的とは言えませんが。
著者は「宝探しと考古学者の違いは、後者が単に黄金目当てではなくて過去の人々の生活に対する関心があること」とします。その定義に従うなら、発掘調査を始めた頃、シュリーマンは明らかに考古学者でした。ただし素人考古学者です。発掘方法は荒っぽく、遺物を破壊してからやっとその存在に気がつくこともしばしば。ホメロスのトロイを発見したという功績は大ですが、どうしてもその功績の評価は割り引かれてしまいます。もちろん小さな宝飾品の発見を日誌に記載しない(ポケットに直行)という不実もその割引には貢献します。
さらに事態を複雑にしたのは、シュリーマンが言う「トロイ」に先史時代まで遡れるいくつもの都市層が重なっていたことです。さて、どれが本当の「トロイ」なのでしょうか。シュリーマンの想像力はフルに回転し始め、それに伴って出土品が「どこから出たか」の記録がいろいろ動き始めます。
私の想像ですが、シュリーマンは自分がぺてん(deceit)を働いているとは自覚していなかったはずです。自分の思いが強すぎて、世界が自分の思い通りでなかったらそれは世界の方が間違っているのだからそちらに修正を加えるのは当然、くらいに思っていたのじゃないかと私は思います。それだけの思いの強さがあるからこそ「トロイ」は発見されたわけですが、周りの人間はたまらない思いをしていたことでしょう。シュリーマンにヒッサルリクの丘がトロイであることを示唆し、はじめは協力者のちには批判者になったカルヴァートの批判論文に著者は怒りよりも悲しみを読み取っていますが、それも宜なるかなと言いたくなります。強い思いこみとは違って、人生や世界は複雑です。
職場から帰る途中、コンビニ(ファミリーマート)の入り口に「ボージョレ・ヌーヴォー予約受付中」と幟が出ているのに今日気づきました。「コンビニでねえ」と私はちょっと複雑な気分です。
バブル期、ボージョレ・ヌーヴォーはずいぶんもてはやされました。解禁日が設定されていますが、時差の関係で世界でいちばん早く飲めるのが日本、と大きく宣伝され(厳密には日付変更線のもっと近くに別の国があるとは思うのですが……)、日本中あちこちで午前0時を過ぎたらパーティーが開かれ(他人より1秒でも早く飲むために成田空港まで出かけて、保税倉庫(って言うんでしたっけ)で飲む、なんてのもあったはずです)、ワインで踊る人は踊っていました(あるいは踊らされていました)。
バブルがはじけて、ボージョレ・ヌーヴォーではしゃぐ人は突然減りましたが、ちゃんと固定ファンは残っていたんでしょう。だからこそコンビニでも売れる。「流行りだから飲む」人ではなくて「好きだから飲む」人に飲まれた方が、ボージョレ・ヌーヴォーも幸せ……ワインに口はなさそうなので聞いても答えてはくれないでしょうけれど。
【ただいま読書中】
スティーブン・キャネル著、真野明裕訳、小学館、2002年、1900円(税別)
全米で有名な詐欺師一族の出、ビーノ・ベイツはマフィアのドン、ジョーゼフ・リーナからカジノで大金を巻き上げますがイカサマがばれて袋だたきに遭いさらに最愛の従姉妹をジョーゼフの兄トミーに殺されます。復讐を誓うビーノは、その事件の立件に失敗して干されてしまった検事ヴィクトリアと組みさらに一族の協力も得て、リーナ兄弟を相手の大ぺてんを仕掛けます。目的は彼らを刑務所に送ること。
美男美女が巨大な悪の組織を相手に痛快な活躍、とくればいかにもハリウッド向けエンターテインメントのようですね(実際に映画化の話があるそうです)。しかし、検事が詐欺の片棒? 二人がことある毎に衝突するのは最初から約束されたようなものです。でも、あまりに違う二人が衝突することで物語のダイナミズムが生まれます。
まずは種銭が必要です。ビーノは「手放すことで獲得し、引き算で足し算をし、割り算でかけ算」をすると公言し、同じ黒真珠を店と自分に往復させるだけで10万ドルを稼ぎ出します。このやり口の鮮やかなこと(しかも違法ではない!)には笑っちゃいます。その経験は、これまで頑張る優等生(しがみつくことで確保し、かけ算でかけ算をする人生)を生きてきたヴィクトリアに大きな影響を与えます。その逆に、子どもの時からイカサマのために偽りの身分を演じ続け「本当の自分」を意識することがなかったビーノは、今自分をみたしている復讐心がなくなったら何が残っているのかと自分自身に対する不安を感じるようになってきます。
次々とプラン通り(時にはプランから少し逸脱して)詐欺を積み重ね(その手口は詳細に解説されます)、彼らはジョーゼフ・リーナに肉薄していきます。その過程で次第に接近していく二人。詐欺師と検事と、あまりに違う二人が共通に持つのが子どもの時からの孤独感であることに気がついたとき……
マフィアにひどい目にあった人が復讐のために……といえば普通の人が思い起こすのは映画「
スティング 」でしょう(本書あとがきでも触れられています)。でも私がまず思い出したのは『
マフィアへの挑戦 』シリーズ(ドン・ペンドルトン)でした。詐欺ではなくて派手にマフィアの人間を殺しまくるのでテイストは全然違うんですけどね。巨大な悪を懲らしめることが痛快なのは、洋の東西を問わないのでしょうね。逆に言えば、それだけ巨大な悪に対して人は無力感を持っている、ということなのでしょうけれど。
「
ふもっふ (「
フルメタルパニック 」の学園部分だけをラブコメにまとめたもの)」では軍事しか頭にない主人公が国語の授業で和歌の「やまと」を戦艦大和と勘違いして珍妙な解釈をするシーンがありましたが、こちらは正真正銘戦艦大和です。やまとの国を旅するわけではありません。
広島県呉市はかつては軍港でした。戦艦大和が造られたのは呉の造船所で戦争中は激しい空襲も受けました。その関係で最近「
大和ミュージアム 」が作られました。ウリは戦艦大和の十分の一模型です。
で、尾道市から海を挟んで向かい側の島(その名も向島)に映画「
男たちの大和/YAMATO 」のロケ地があって、こちらには実物大大和のセットがそのまま置かれています(公開は今年度中)。
はい、両方見るツアーを決行しました。呉〜三原は呉線(単線のJR)が海岸沿いに走っているのでそれを利用することにします(広島まで戻って新幹線、という手(というか足)もありますが時間はそれほど変わりません)。普通電車でのんびり瀬戸内海観光です。で、三原で山陽線に乗り換えて尾道に向かうルートです。運が悪いと、三原の次の糸崎でまた乗り換える必要があります(山陽本線上り電車のある一定以上は糸崎が終着なのです。むかし岡山と広島が管区の取り合いで広島が三原を取ったものだから糸崎が境目になった、と聞いたことがありますが、利用者には不便です)。で、糸崎の次が尾道。一駅毎に乗り換えって、なんか贅沢なような無駄なような。
大和ミュージアムは呉駅から歩いて十分足らずでした。駅からの連絡通路がショッピングセンターのど真ん中を抜けていきます。シャッターなんかの設置も見えないので、ショッピングセンターが閉店の時にはどうなるんだろうとちょっと心配になります。
1/10模型はやはり迫力があります。しかし私の心にしみたのは、最後の沖縄特攻で戦死した臼淵大尉のことばです(写真その1)。
「進歩のない者は決して勝たない 負けて目ざめることが最上の道だ
日本は進歩ということを軽んじ過ぎた
私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた
敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか
今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ
日本の新生にさきがけて散る、まさに本望じゃないか」
読んで涙が出ます。こういった人達の死をせめて「犬死に」にしないこと、それが重要でしょう。ただ、そのための方法論はいくつも考えられます。1)次の戦争では勝つ(そして勝ち続ける) 2)こんな死者をもうこれ以上出さない(戦争をしない) 3)犬死にであること/戦争に負けたこと、を否認する 4)……(ちょっと今は思いつきません) さて、どれがベストなんでしょう?
模型の横の部屋には回天や零戦も展示されていました。あの回天、前に江田島に展示されていたのとは違うような気がするのですが、日本にはいくつも保存されているのかな?
尾道駅から港までは道路一本へだてているだけです。気がせきますが、そこで一呼吸、みどりの窓口に向かいます。ここで「セット券」が買えるのです。大和入場券(500円)+渡船代(100円×2)がセットで500円、つまり渡船代が無料になります。ただし、券は帰りの船中で回収されてしまうので、半券を記念に保存したい人は素直に港に向かいましょう。
大林監督の映画で、高校生たちが小さな渡し船からぞろぞろ下りてくるシーンがありますね。そんな渡船です。向島との間が狭いためまるで川に見えますが、立派な瀬戸内海です。船を下りたら無料のシャトルバスがすぐやって来て造船所の中を突き抜けてくれます。
船尾と艦橋と第一砲塔の主砲がありませんが、やはり実物大、迫力があります。甲板が木製というのは知っていましたが、実際に見るとやはり「むう」と唸ってしまいます。そして、いかにも後付けという感じの対空機銃、ここには配備されたくないと思ってしまいます。あまりに無防備ですもの。
新幹線で来る人は新尾道駅で降りると駅が海岸から遠いのでバスか何かを使わないといけません。福山か三原で山陽線に乗り換える方が楽かもしれません。
普段は原稿用紙4〜6枚位を目安にしているのですが、今日は日記だけでもう5枚分。途中の電車で読もうと思っていた本も読み切れていないし、今日は読書は無しで失礼します。今夜は大和のプラモデルを組み立てている夢を見るかもしれません。
誕生日にはちょっと早いのですが、「よくぞここまで生きてこれた」と自分を褒めるためにiPodを自分にプレゼントしました(単に、物欲にとうとう負けた、とも言います)。iPodShuffleの1GBのタイプです。
20数年前、LPをカセットにダビングしてウォークマンで持ち歩いていたことを思い出すと隔世の感があります。当時の私に向かって「将来お前は(俺は)こんな生活をするぞ」と言ったとしたら「あり得ることだけど、私が生きている内に? それはSFか?」と鼻で嗤ったことでしょう。
ただ、シャッフルプレイで聞くとアルバムコンセプトはなくなっちゃいますね。サイモンとガーファンクルの「ブックエンド」とか、ビリー・ジョエルとエルトン・ジョンを交互に組んだアルバムとか、最初から通して聞かないといけないタイプのアルバムはその真価を失います。逆にベストアルバムなんかはShuffleに突っ込むには適しています。
このちっぽけな(指2本分より小さな)マシンが、人のライフスタイルを変え、音楽の在り方も変えていくんじゃないか、そんな気がします。……ちょっと大げさかな。
【ただいま読書中】
黒川高明著、アグネ技術センター、2005年、3400円(税別)
「ガラスは固体ではなくて、むしろ固い液体である。その証拠に古いステンドグラスは上よりも下の方が(長い年月で重力に少しずつ引かれて)ガラスが分厚くなっている」という文章に出会ったのはいつのことだったでしょうか。これはショックでした。ガラスは固体だと信じていたものですから。
完全な保存状態で現存する最古のガラス容器は、トトメス三世(BC1502-1448)の紋章入り杯だそうです(大英博物館所蔵)。どうやってそんな古い時代からガラスが作られたのか、には二つの説があります。一つは「銅の精錬説」。BC6000年頃から人は自然銅を使っていましたがそれが枯渇したためBC3500頃から銅の精錬が始まりました。炉に使う耐火粘土は珪酸とアルミナが主成分ですが、燃やされた木材の灰と炉壁から溶出した珪酸と鉱石中の銅以外の他の成分とが反応して鉱滓となりその中に原ガラス状の物質が形成されます。もう一つの説は「釉薬説」。土器に釉薬をかけたのは古代オリエントと古代中国ですが、エジプトの釉薬にはアルカリと石灰が多いガラス質で、そこからガラスが作られるようになった、とする説です。どちらにしてもBC1500頃、青銅の発展に伴うようにガラス製造も発展したのでした。
ガラスの主成分シリカは単独では融点が1723度と高く、普通に火を燃やすだけではなかなか溶けません。(ヨーロッパで磁器(焼成温度1200〜1400度)でさえなかなか上手く焼けなかったことを思い出します) ところがシリカにソーダを加えると800度で溶けます。ただしこの「ガラス」は水に簡単に侵蝕されてしまいます。そこでさらに石灰を加えると耐久性が格段に向上します。これがガラスの基本的な製法です。そこに様々な添加物(金・銀・鉛・錫など)を加えることで様々なガラスが作られます。面白いのは骨灰です。磁器を真似てボーン・チャイナが作られたことを参考にしたのか、ガラスに骨灰を加えるとガラスが乳白色に白濁します。これは磁器ガラスと呼ばれ、磁器への憧れを満たすものとして珍重されたそうです。
BC50頃シリアで吹き竿によるガラス吹きが始まりローマ帝国で実用化されました。ガラスを炉から取るのにはじめは鉄棒を使っていたのが、軽量化のために鉄パイプを用いるようになりそれが吹きになったのではないか、と本書では推量しています。ともかくローマンガラスはローマ帝国の拡張に伴って北ヨーロッパにも広がり、ちょうど寒冷期にあった寒い北で、ローマ人の住居では暖房効率を高めるために窓ガラスがはめられました(ちなみにこの平面窓ガラスも吹きで作られたそうです)。
ローマンガラスはイスラムや北ヨーロッパに受けつがれますが(このへんの歴史も面白いものですが、省略)、19世紀に人造ソーダが製造されるようになり(それまではエジプトの天然ソーダや植物を焼いた灰が用いられてました)、蓄熱式連続タンク炉が開発されて燃料が1/20に節約できるようになり、19世紀末には生産が機械化されるようになり、ガラスは大量生産の時代を迎えます(日本では現在年間500万トン製造されてます)。これには19世紀になって「科学者」が給与をもらえる専門職となり、学校での科学教育や研究が広く行われるようになったことも大きいのでしょう。光学ガラスの登場は、科学の分野での測定や観測にも大きな影響を与えます。そして最近のトピックは、光ファイバーでしょう。透過する光の強さが半分になるのが、普通の窓ガラスだと数cmなのに対し、光ファイバーは15kmという驚異的な透明度です。それでなければ通信などには使えないわけですけれど、それでもその数字を見たら驚きます。
労作です。歴史を俯瞰し、科学/技術/工芸/芸術まで幅広く取りあげ、参考文献リストや索引もちゃんと付いています(学術書では当然でしょうけれど)。ただ、瑕疵というべきでしょうが、「なります」が「なます」になっているといった甘い校正が散見されるのが残念です。
http://ethol.zool.kyoto-u.ac.jp/coe/event/pre10.html
植物には動物のような免疫系がないため、ウイルスが感染したらその細胞がプログラム死することでウイルスを封じ込めるわけです。さらに最近のCell誌には、感染細胞の周囲の細胞もプログラム死することで感染を封じ込める遺伝子が発見された、という論文が掲載されたそうです。隣の細胞が感染していることを感知して自分も死んじゃうなんて、ずいぶん器用なことをするものです。
ウイルスは生きた細胞でないと感染できませんから、その周囲を死んだ細胞で取り囲んでおけばその植物の被害はそれ以上拡大せずに済みます。生きた細胞をわざわざ殺すのは損ですが、ウイルス感染を広げるのはその生物全体にとっては大損ですから、そのどちらが損害が軽いかを取るか、の選択なのでしょう。(別に植物がそう考えたわけではなくて、その戦略を採った種が進化の過程で生き残った、ということでしょう)
それで私が連想するのは破壊消防です。水をかけるのではなくて、火災の周辺をあらかじめ壊してしまって火をその内側に閉じこめてしまおう、という方法。たとえば江戸時代の火消しは破壊消防です。め組とかろ組とかのいなせな若い衆が火消しで駆けつけますが中でも纏持ちは花形で、一番見目の良い男子が選ばれたのだそうで、彼が上る屋根はいわば消防の最前線、そこから後ろは絶対に燃やさせない、という地点だったそうです。で、纏持ちは逃げ出さないのが原則なので、火消したちは纏持ちを殺さないために必死でそこから火に近い方の家を壊して回るわけ。さらに、火が消えた後いちばん火元に近いところに纏を立てた組が一番賞賛されたそうです(安全な後方でごそごそするのは許さない、ということなのでしょう)。
破壊消防は別に江戸時代だけのお話ではありません。戦争中の建物疎開・現代の山火事・都市計画の防火帯なども同じ発想です。で、生物も同じ発想をしたものが生き残っているわけなんでしょう。もしかしたら、纏持ちに相当する存在もいるのかな?
【ただいま読書中】
『ウィーンの日本 ──欧州に根づく異文化の軌跡』原題 JAPANISCHES WIEN
ペーター・パンツァー/ユリア・クレイサ著、佐久間穆訳、サイマル出版会、1990年、1650円(税別)
1869年(明治二年)9月オーストリア海軍の軍艦が長崎を訪れ10月に東京で和親通商航海条約を結びました。これがオーストリアと日本の公的な関係の始まりです。(オーストリアの海軍で私が思い出すのはミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」です。オーストリア=ハンガリー二重帝国はアドリア海に面していたから……話が拡散するので省略)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:%E6%AC%A7%E5%B7%9E1914%E3%83%BBs.PNG
1873年にウィーン万博が開催されますが、日本はそれに参加しました。名古屋城の金の鯱や鎌倉の大仏の実物大模型(和紙に漆塗りしたものですが、本体が輸送中燃えたため展示は頭部のみでした)、数々の工芸品や日本庭園などが、ウィーンに小さな日本ブームを起こします。しかし、百年以上前も「万博には金の鯱」だったんですね。
日本側は万博に不慣れなため予行演習を湯島聖堂で行いましたが、それが上野国立博物館設置につながります。万博で展示した漆器類はそのまま国立博物館のコレクションとなりました。(1867年に徳川幕府・薩摩藩などがパリ万博に出展していますが、その経験は明治政府には伝えられてなかったのでしょうか)
日本といえば「フジヤマ・ゲイシャ」という風潮も当時のウィーンで生まれたようです。「ブーム」は真実を受け入れやすく歪曲することで成立しますが、芸術家たちは日本への抽象的な憧れを原動力とし豊富に手に入るようになった浮世絵や染色型紙などを手本としてジャポニスムを始め、それは反自然主義的な「分離派」(たとえばクリムト)の成立につながります。その「ウィーン調の芸術」はこんどは日本に影響を与えます。
専用の博物館がないため当時の日本コレクションは様々な博物館に散在しています。それを著者は丹念に紹介し、中央墓地に入って日本関係の有名人の紹介も行ないます。
1920年代には斎藤茂吉がウィーン大学で医学研究を始めますが、彼は(知られているように)医学よりは文学で有名になった人で、随筆や短歌でウィーン時代の生活についても書き残しています。彼の「業績」の一つは、ウィーン市民に忘れ去られていたシーボルト記念碑を再発見したことです。碁会所や柔道クラブもありますが、面白いのは「寅さんファンクラブ」。飛行機の中で寅さんの映画を観て惚れこんだウィーン市長をはじめとするファンたちの熱心な働きかけで、「男はつらいよ」の41作目はウィーンで撮影されたんだそうです。
あとがきにもありますが、「国際化」といっても別に大上段に構えなくても、自分自身を確固として持ち相手の存在も認めてその間の橋渡しに努めることが文字通りInternational(nationalとnationalのinter)になるんだな、ということが具体的にわかる本です。
昨日のベルリンマラソンで野口みずきさんが日本新記録で優勝しました。タイムは何と2時間19分12秒。
ちょっと古いのですが、「人間機関車」ザトペックが1952年ヘルシンキオリンピックで出した優勝タイムが2時間23分03秒2です(ついでですが、この時ザトペックは1万と5000でも金メダルを獲得しています)。野口さんはなんと人間機関車よりも速い。
http://www2.wbs.ne.jp/~ms-db/other%20sports/olympic.htm
この頃オリンピックに 女子マラソンはありませんでした。マラソンどころか「長距離走は女性には過酷すぎる」が常識でした。それが今ではこんな驚異的な記録なんですから、私は素直に驚きます。「はだしの英雄」アベベがローマオリンピックで優勝したときのやはり当時としては驚異的だった2時間15分16秒2が女子マラソンの次の目標かな。どんどん女性が速くなったら、もしかして、その内に男子マラソンに女子のペースメーカーが登場するようになったりして。
【ただいま読書中】
サイエンティフィック・アメリカン編、梶山あゆみ訳、日本経済新聞社、2005年、1500円(税別)
単純に抗生物質と感染症の関係を書いてあるような本かと思って手に取りましたが、一筋縄ではいかない本でした。いや、面白い。
医学の問題を進化と関連づけて捉える「進化医学」の紹介から本書は始まります。進化の立場から見ると、医学の問題はなかなか単純には捉えられません。
一般には病気の症状として捉えられる、痛み・発熱・咳・下痢・不安などは実は病気に対する体の防御反応です。
病原体の毒性は弱いのと強いのと、どちらが病原体にとって有利でしょう? 実は単純には断言できません。ヒトからヒトへ感染するタイプだったら、毒性が弱い(感染者がなるべくたくさんのヒトと接触する)方が病原体にとっては有利に働きます。しかし、コレラのように排泄物から感染する場合は感染者の生死に関わらず一度にたくさん排泄物を出させた方が(つまり毒性が強い方が)有利です(マラリアも感染者がぐったり弱って蚊に思うままに刺されている方が病原体には有利です)。しかし衛生環境が整えられ排泄物がヒトに接触するチャンスが減っているような環境ではエルトール型のように毒性が少ない方が有利になります。逆に言えば、ヒトが環境を動かすことで病原体の進化をコントロールすることができる可能性があるのです。
病気についても面白い議論があります。たとえば痛風のもとになる尿酸。これは強力な抗酸化物質で、抗酸化物質には老化を遅らせる効果があります。何種類かの霊長類の調査では、血液中の尿酸値と平均寿命は密接な関連があったそうです。ということは、痛風という代償を払ってヒトは長寿という恩恵を受けているのかもしれません。
耐性菌(抗生物質が効かない細菌)発生のメカニズムも自然選択で説明できます。もっとも「自然」というよりは「人為」と言った方が良いのかもしれませんけれど。では耐性菌をやっつけるにはどうすればいいでしょう。一つの方法は、もっと強い薬を使うことです。そのための研究は世界中で現在行われています。しかしそれは現在の耐性菌(と感受性菌)を殺すことで新たな耐性菌を生み出す危険があります。もう一つは、感受性菌と耐性菌を戦わせる方法です。ただそのためには感受性菌を殺す抗生物質を「使わない」必要があります。
かつてヒトはウイルスに対してはワクチン以外の武器を持っていませんでした。しかし現在様々な抗ウイルス薬が出ています。問題は、ウイルス(特にRNAウイルス)が盛んな突然変異によって耐性を獲得しやすいことです。
ウイルスにインシュリン様成長因子を作る遺伝子を組み込んだワクチンを注射すると、運動しなくてもみるみる筋肉がつく、という実験がマウスでは成功しています。カウチポテトで筋肉むきむきも夢ではない……むう、それはパラダイス? ある種の筋肉疾患などに対しては朗報でしょうけれど。
地球温暖化も取りあげられています。蚊が大量発生してマラリアとデング熱が大量発生する可能性があるのだそうです。これは温度だけの問題ではなくて、文明社会が以前より蚊に対して無防備になっていることも大きいそうな。そういえば西ナイル熱が話題になったのもつい最近でした。
そして最後は生物兵器です。人類の英知が生み出したものの脅威を思うとため息が出ます。
小さな本ですが盛りだくさんで知的に刺激的。1995〜2000年くらいの文献が主なのでもうすでにちょっと古くなっているのが残念ですが、それでも読む価値はあります。
先日は進化医学について取りあげましたが、スポーツにもダーウィニズムは応用できないかと思いつきました。
きっかけは広島カープのふがいなさです。打率はセリーグトップを誇りながら得点は見事に下位。つまり、得点とは無関係なところで打ちまくっているだけなのです。それにプラスして防御率が最低(投手が打たれまくっている)のですから、セリーグ最下位に落ち着くのも無理ありません。
では得点を上げるにはどうすればいいのでしょう。練習? でも広島カープは練習量に関しては日本でトップレベルのはずです。練習方法? チャンスで打てるようにする特殊な練習ってちょっと思いつきませんが……精神面の修練でしょうか? でも座禅組んだら野球が上手くなるとも思えません(もし本当に上手くなるのなら禅寺の坊さんでチームを組んだらリーグ最強のはず)。
単に打率ではなくて得点圏打率を重視しろ、は長男の持論ですが、私もそれには賛成です。打率が高くても得点圏打率が低い人は(チャンスメイクはできても)チャンスの場面では役に立たないのですから。
そこでダーウィニズムです。育てるのではなくて選択するのです。実戦練習を繰り返し得点圏打率が高い人をセレクトします。そして打順を組むとき、打率は高いが得点圏打率が低い人の後ろにそんな人を配置するのです。これだったらせっかくチャンスを作ってもランナーがいなければ打率が高いのにチャンスになったら凡退またはダブルプレイの人が出てきてがっかり、という確率は減る……はずなんですが、こんな変なアイデアを採用してくれるチームがあるかなあ。
【ただいま読書中】
山田寛著、講談社、2004年、1600円(税別)
第二次世界大戦後インドシナ半島では抗仏独立運動が起きます。ベトナムでは戦争となりますがカンボジアでフランスは融和策を採り政党の時代となります。1949年ポル・ポトはフランス留学をしフランス共産党に入ります。1953年カンボジア独立、55年総選挙でシアヌーク翼賛体制確立。反米親中路線のシアヌークに左翼主義者たちははじめ協力してはいましたが、やがて対決志向となります。ベトナム戦争の拡大により、ベトコンがカンボジア領内に侵入しシアヌークは米国との国交を回復、しかし南ベトナムの臨時革命政府も承認するといったどっちつかずの政策を採り、結局左右両方から見放されてしまいます。 1970年シアヌーク殿下がソ連を旅行中、ロン・ノル首相による無血クーデターが起きます。CIAの後ろ盾があったそうですが、アメリカは(結果論ですが)とんでもないパンドラの箱を開けてしまいました。(「アメリカが支援する軍事政権はろくな結果にならない」法則の一つの例証、といったら言い過ぎでしょうか)
親米反ベトナムのロン・ノルに対して、シアヌーク殿下からクメール・ルージュまで呉越同舟の反ロン・ノル同盟が組まれますが、やがてクメール・ルージュが実権を握ります。1975年クメール・ルージュはプノンペンに入城。直ちに全住民の追放を行ないます(病院からも患者が追い出されました。ついでですが医者は殺されます)。彼らは「新人民」(つまりは敵)と呼ばれ、農村で強制労働をさせられます。シアヌークは国家元首となりますがただのお飾りで4ヶ月後に辞任、以後中国に救い出されるまで軟禁状態となります。
新政府の政策はとんでもないものでした。宗教の弾圧(全国民の95%が仏教徒だったのに)・教育の禁止(教師は殺されました)・古い文化や外国文化の禁止(歌手も殺されました)・外国との交流禁止(「自立」がすべてに優先なんだそうです)・集団生活(何もかも集団で、家族制度は破壊されました)・工業商業よりも農業最優先……
農業がすべてに優先される原始共産主義、というか、共産主義を標榜する原始的なナニモノカ、です。
「底辺の人民が国家権力を手中にした」(ポル・ポトのことば)とはほど遠く、ポル・ポト政権の中枢は富裕階級の人間(フランス留学経験者がごろごろ)で占められていました。さらに皮肉なことに、教員経験者が過半数です。しかし国家幹部会23人のうち、2年8ヶ月の内に10人が粛正されました。
結局人口800万人足らずの国で推計150万人が殺された「革命」は、ベトナム軍の侵攻で頓挫します。(もっともこれもカンボジアのベトナムへの侵攻が原因かもしれません。国際的にはベトナムが「侵略者」ということになっているようですけれど) 戦後様々な調査で死者は150〜200万人ということに落ち着きました。病死や餓死をどう扱うかはむずかしいところですが、細かい数字いじりよりも、このスケールで国民が殺されたこと自体を忘れてはいけないでしょう。
何年前からでしょう、本屋のレジ前にお菓子などが置かれるようになりました。本屋の人に聞いたらこれは問屋から本と一緒に持ってくるのです、と言われた、というのはもうどこかに書いた覚えがありますが、最近ではどこの本屋でもスーパーマーケットのレジのようにいろんな商品がその前に並んでいるのは当たり前の光景になりました。
今日本屋のレジに並んでいると、私の前で精算を済ませた女子高校生がそのまま体を捻って「ねえ、○子ぉ」と少し離れたところにいる友人に呼びかけます。邪魔です。どいてくれないと私の用がすみません。まあ私は細いので彼女を避けて一歩前に出てレジに到達します。「ど〜したの〜?」とかったるそうな返事が返ってきてます。「ねえねえ、これ、カードで買えると思う?」……「これ」と指さしているのがレジ前のお菓子です。「知らないわよ〜」「ねえねえ、買えるかなあ?」「知らないわよ〜。買えないんじゃない〜」「もし買えたら、あげようか〜?」「ええ〜? でも〜買えるのぉ〜?」
知らない人が知らない人と問答をやっても無意味だ、という好例です。こんな時は知っている人(目の前の店員)に「このお菓子はカードで買えますか?」と聞けば一発です。無駄な問答をする必要はありません。店員は私の精算で今ちょっと忙しそうですけど、私の後ろに人は並んでいないのですからちょっと待てばよいのです。だけど押し問答は四往復目に突入しました。そしてそのまま五往復目……そこで私の図書カードでの精算が終わったので(お釣りが発生しないと楽ですねえ)私はさっさと店を出てしまいましたが……もうちょっと見物していたら面白かったかなあ。店員の答も聞きたかったし(私もお菓子が図書カードで買えるかどうか、知らないのです)。
もしかして「正式に紹介されていない人(つまりは店員)とは口を利いてはいけません」という厳しい躾を受けている良家の子女だったのかなあ。とてもそうは見えませんでしたが、人は見かけによらないものですから、決めつけるのはやめておきます。
【ただいま読書中】
アルフレッド・ベスター著、中村融編訳、河出書房新社、2004年、1900円(税別)
ベスターといえば1950年代の『分解された男』『虎よ、虎よ!』で知られた作家です。高校生の時両方を読んで私は頭がクラクラした覚えがあります。作品の内容もですが、文字自体を使った遊びも強烈だったのです。
しかし、あまり知られてはいませんが実は短編にも秀作が多い、ということで編まれた短編集です。「奇想コレクション」と名付けられたシリーズに含まれるにふさわしい作品集です。そういえば、30年くらい前でしょうか、「奇妙な味」というシリーズもありましたっけ。私はこういった系統の作品も大好きなのです。
・犯罪を犯せないように作られているはずなのに、なぜか突発的に殺人を犯してしまうアンドロイドとその所有者。アンドロイドがなぜ犯罪を犯すのか、の謎解きも重要ですが、それよりもその所有者のアイデンティティが……(『ごきげん目盛り』)
・相手をわざと怒らせて自分を襲わせようと努力する男女が……(『ジェットコースター』)
・10歳の男の子の行方を執拗に追う校長。ところが公的な書類からもなぜか男の子の存在の証拠はきれいに消えてしまって……(『願い星、叶い星』)
・ついうっかり地球上の全生命を消滅させてしまった男が、最後に出会った「生命」は……(『イブのいないアダム』)
などなど、たしかに面白い作品がてんこ盛りです。地球最後の男女の物語『昔を今になすよしもがな』や、奇妙にひねくれた(というか、裏返された)創世記が含まれる『地獄は永遠に』も捨てがたいし……苦笑しながら時間を過ごしたければ本書は最高のお相手かもしれません。
かつての日本には安息日という概念はなくて、奉公人は藪入りを除いて朝から晩まで年中無休で働くのが当たり前でした。では日本人全体が勤勉なのかと言ったら、外で働く職人や行商などは雨が降ったらお休みだったはず。休めば収入が減るだけですから、ありがたくない休日だったかもしれませんが。
明治になって日曜と半ドンが西洋から導入されてそれは私が就職する頃まで続いてました。今から15年くらい前には週休二日制への移行段階として四週六休という変な制度が導入されてましたが、これは隔週ごとに土曜が半ドンと一日休日を繰り返す、というものです。平均すると週休1.75日ですね。だけど職場は土曜も開けているのだから結局休めない人がたくさん出てきます。それに対して管理者側は「土曜に出てきた者は平日に代休を取れ」。あのう、平日に休めるくらい人員に余裕があるなら最初から土曜に休めるんですけど…… 結局「休みなんだから届け出上は休みにしろ。でも仕事はあるんだからそれはこなせ」ということで、出勤簿にはちゃんと代休のハンコが押されていましたが帳簿通りのスケジュールで動いている人は(私の部署には)一人もいませんでしたっけ。もともと四週六休導入前から土曜も帰るのは大体夕方でしたけど。
現在日本では中小企業も完全週休二日制になってます。ところがこれもまた曲者で、「完全」が付いているため法律的には「週に二日だけ休め」ということになっているんだそうです。「週に二日休むから週休二日制だろ?」 ごもっとも。で、祝日があったらどうなるでしょう。週に三日休むのは週休二日ではないから認められない、これが我が社の労務の見解です。私は幸い採用時の契約が祝日別の週休二日になってますから祝日は祝日でちゃんと休めますが、契約によっては祝日は無視される人も同じ職場にいるわけです。
これだったら「不完全」週休二日制の方が労働者にとっては良かったんじゃないかしら。
【ただいま読書中】
中野不二男著、文藝春秋、1998年、1333円(税別)
ロケット・スペースシャトル・もんじゅ・サリン事件など、大きくニュースで取りあげられた素材を「科学の目」で検証する本です。素材を科学的に見たらどのくらい面白いかとかニュースキャスターの非科学的な態度も俎上に載せられますが、ニュースの目的(ねらい)についても触れています。
たとえばアメリカが「H2ロケットによって日本は核ミサイルの技術を手に入れた」と発表したら日本のマスコミがそれにわっと群がったことを著者は「アメリカのほめ殺し」と呼びます。日本のFSX(次期支援戦闘機)自主開発計画をアメリカが上手く潰したことの再現だ、と。アメリカの技術的優位性を脅かすものに対して、それを高く評価するように見せて間違ったレッテルを貼って他人に攻撃させて計画を潰すのがアメリカのよくやる手ですが、それに日本のマスコミがうかうかと乗ってしまった、と言うのです。となると、マスコミが取りあげるニュースに関しては時にはニュースの外側から眺める視点を使う必要がありそうです。
非科学的な人(特にマスメディア)に対して著者は厳しい視線を向けますが、決して単純な「科学万歳」「科学音痴は嫌いだ」の人間ではありません。たとえばもんじゅのところで、著者のスタンスは以下の通りです。「今すぐに脱原発をめざすのであれば、電力エネルギーの三割以上を失って現在のライフスタイルが大きくかわることを、覚悟しなければならない。しかし脱原発を主張するすべての人たちに、その覚悟ができているとは思えない。同様に、原子力発電を推進する人たちは、将来においても核廃棄物の問題を引きずることに、責任を持たなければならないだろう。しかし推進に賛成するすべての人に、核廃棄物が環境に重大な影響をもたらすことに対する覚悟ができているとは思えない。私自身、そのいずれの覚悟もできていない一人だ」 大切なのは覚悟、その前に情報の収集、そして科学的な思考なのでしょう。
著者も万能ではなくて、「軽油よりはガソリンの方が良質で、それがお値段に反映している」なんて変なことも書いていますが(蒸留コストはそれほど変わらないはず。というか、一連の流れで原油を蒸留しているのだからコストを変える方が困難。値段の差の主因は税金でしょう)、まあこの程度はご愛敬です。
「科学の知識を持っていること」と「科学的な思考ができること」は似ているようで違います。科学教育というと日本ではついつい座学で知識を詰め込むことに偏してしまいがちですが、実は思考の訓練と実験にもっと多くの時間とエネルギーを割くべきでしょう。正しい方法論が確立すれば知識は後からいくらでも追加可能なのですから(というか、自分で勝手に取り込んでくれますから教える方は結局楽なはずです)。
全国調査で142の公立校で石綿が使ってあった、と調査結果が発表になりました。表をざっと見て「結果がゼロの都道府県は、安全な県なのか、それとも調査をいい加減にやって見逃した県なのか、どちらかなあ」と思っていましたら、これ、中間報告なんですね。まだ全校の約1/3しか調査がすんでいません。(前回やった調査は結局何だったんでしょう?) で、「不安な人は検査に行ってください」って……検査に行った医者が「発症前の中皮腫」を発見できるんでしょうか? それと、その中皮腫(発症前にしても発症後にしても)の原因が「その石綿」と断定することが可能なんでしょうか?
そういや、近所の小学校では給食の鍋の断熱材に石綿が使ってあるということで、鍋の交換のため一週間給食が停止だそうです。お気の毒に。だけど、鉄板に挟まれて石綿は外に出てこないんでしょ? 一刻を争って交換する必要があるのかしら? 石綿が飛散して危険なものだったら一刻を争う必要がありますが、危険がないものだったら冬休みを待ってそこで交換、じゃいけないのかなあ。こんなことはずいぶん急ぐんですね。
【ただいま読書中】
マリア・フォン・トラップ著、谷口由美子訳、文溪堂、1997年、1700円(税別)
階段を二段とばしに駆け上がり手すりを滑り降り、修道院の中で口笛を吹き、屋上に並んだ煙突で馬跳びをするおてんばな修練女志願者マリアが修院長に呼ばれてフォン・トラップ家の子守り兼次女の家庭教師をするよう命じられるシーンから本書は始まります。映画そのままじゃないですか! あれは実話だったんだ。
センスの悪い古着を着て鞄とギターをぶら下げてフォン・トラップ家を訪れたマリアを迎えたのは、父親の笛の合図できちんと一列に並んでお行儀良く挨拶をする7人の子どもたちでした。(ただし、病気の次女は行列には欠席)
トラップ少佐は、オーストリア海軍で最初の潜水艦の指揮官となり、英雄としていくつもの勲章と男爵位を得ましたが、第一次世界大戦で敗戦国となったためオーストリアは海岸線を失い当然少佐も海軍の職を失います。さらに最愛の妻は猩紅熱で死亡。次々と生き甲斐を失い、残された子どもたちを愛してはいても愛し方がわからず顔を見たら亡き妻を思い出すため定期的に長期間家を空ける生活をしています。そういった父親の態度は当然子どもたちにも暗い影響を与えています。
そこへ「26番目の家庭教師」としてやって来たのがマリアです。マリアは、彼女の言葉を借りるなら「居間のない家」(家族がバラバラ)だったフォン・トラップ家に、自分の職域を越えて歌声と笑顔を復活させようとします。
読んでいて映画のシーンが脳内で違和感なく再生されて困ります。読書しているのか映画を観ているのかわからなくなりそうです(ちょっと大げさ)。ただ、家族再生のドラマとしては本書の方がはるかにドラマチックです。
映画では結婚からエンディングまではあっという間でしたが、本書では結婚後も話の面白さは止まりません。マリアの妊娠出産病気・トラップ家の破産・合唱団としてデビュー全欧ツアー・ナチスの侵攻……
本書を貫くのはいくつかの「愛」です。神への愛・祖国への愛(伝統行事を大切にする、古くからの歌を歌う、風景を愛する、人とのつき合いを大切にする、侵攻してきたナチスに抵抗する)・家族への愛・芸術への愛(「ドイツ芸術の家」でヒトラーお勧めの「芸術」を見たときの感想は、なかなか見ものです)……
ナチス侵攻のとき、オーストリア国民のほとんどはナチスに反対していたと著者は書いていますが、さてそれはどうだったのでしょうか。オーストリア・ナチスは存在しましたし、(公正な選挙であったかどうかは疑問ですが)国民投票でオーストリア国民の97%がドイツへの併合に賛成したそうですし。
フォン・トラップ家が抵抗したことは間違いないでしょう。少佐への海軍出頭命令を拒否し、医者になった息子への赴任命令も拒否し、ヒトラーの前で歌うようにという命令も拒否して亡命したのですから。でも、著者が言うようにオーストリア国民全体が反ナチスだったかどうかは疑問です。本書が1949年にアメリカで出版された事情を鑑みると、ナチスだけを悪者にしてオーストリアは「被害者」にする風潮にしたがったのか、あるいは、私が6月5日に書いた『
アヤックスの戦争 』と同じく、「戦後」ナチスに対しての「伝説」として抵抗神話が受け入れられていたのか……
難しい話はともかく、フォン・トラップ合唱団のレコードを聴きたくなりました。ちょっとiTunesMusicStoreを検索してみようかな。絶版でなければいいんですけど(最近検索したアルバムが連続何枚も絶版で、ちょっとショックを受けているのです。絶版こそデジタルで保存しておいて欲しいものです)。