2006年3月
足あと12345番をゲットされたのは、つい最近よそ様の日記でコメントをかわしたばかりの なおみ さんでした。おめでとうございます。なんだか登り龍といった感じの数字の勢いですね。何か良いことがありますように。
幸い今日は休みだったので、息子の卒業式に参列できました。講堂2階の保護者席から1階の生徒席を見ていると「ン十年前にはあのへんに座っていたんだよな」と懐かしい思いがします。さすがに時代の流れは大きくて、講堂にエアコンがついています。昔は本当に寒かったのにね。(ということで、息子はめでたく(?)私と同じ同窓会に属することになりました)
自分の卒業式では「来賓の挨拶が長いなあ。なんでこんな形式的な儀式をしなきゃいけないんだろ。卒業証書をさっさと配ればいいじゃないか。パチンコ行きたいなあ。はやく終わらないかな」と式次第をにらんで次は何かばかり気にしていましたが、大人になるとちょっと違った感じ方をします。子どもにとって卒業は出発点でもあるわけで、さびしさももちろんありますが未来への思いも大きいわけです。それに対して教師や保護者は「これで送り出すのか」という満足感が混じったさびしさが大きい。この両者の思いを寄り添わせるためには「儀式」という枠組みがどうしても必要になるのでしょう。この儀式を行い時間を共有することで、皆が納得する(あるいはあきらめる)ことができるのでしょう。
儀式はついつい形式に注目したくなりますが、それに参加する人間にとって馬鹿にできない心理的効果を持っているように私は思います。
【ただいま読書中】
ローズマリ・サトクリフ著、猪熊葉子訳、岩波書店、2002年、2700円(税別)
ドイツに派遣されたローマ百人隊長アレクシオスは、副隊長として赴任した砦がマルコマニ族に襲われたとき隊長が死亡したため指揮を執ることになります。激しい攻撃によって部隊の全滅は目前に迫ったためアレクシオスは砦を捨てて脱出することを命令しますが、それは間違った判断でした。砦にこもってもう一日待てば援軍が来ていたのに、脱出行の途中で襲われたために損害は増大してしまったのです。判断ミスの責任を問われアレクシオスはブリテンの北方辺境に転属させられます。そこは「辺境のオオカミ」と呼ばれる現地採用の軍人たちと腹に一物ある氏族たちの世界でした。ローマの常識が通用しない世界でアレクシオスは、ドイツでの失敗を引きずりながらも少しずつ荒くれどもに馴染み、氏族の後継者とも友情を結びます。しかしまたもや氏族の反乱が辺境で燃え上がります。砦は孤立し全滅が目前となり、またもやアレクシオスは指揮官として難しい決断を迫られます。このまま籠城するか、それとも陥落間近の砦から撤退して反乱軍でいっぱいの敵地を、一番近い友軍の砦まで数日間の道のりを負傷者を抱えて進むのか。また前回と同じ失敗をするのか、それともこんどは別の道に進めるのか……アレクシオスは決断を下し祈ります。
サトクリフのローマブリテン三部作(いや、四部作)のラストの作品です。これまでの三部作とは異なり、主人公の人生は「軍隊の中」にほぼ限定されています。三部作でも主人公は軍人でしたが、どちらかというと軍からはみ出た部分が物語の主役でした。しかし本作では、軍隊内での人間関係や頑固(無能)な上司によってもたらされる不条理な部下の運命などが詳しく描写されます。
アレクシオスは、自分の判断ミスによって軍のエリートコースから脱落した、いわば軍隊のはみ出しものですし、「辺境のオオカミ」たちはローマ正規軍から見たらただの軽蔑すべき不正規軍です。アレクシオスは自らが「オオカミ」になることで部下に溶け込み、そのことでローマに対する任務を果たそうとしますが、それは同時に彼自身の再生の過程でもありました。しかしそれは「ローマの中心」からは理解されない行動です。ローマから見たらローマへの忠誠はオオカミによってではなくてローマ人によってなされるべきなのですから。その引き裂かれた状態の中で、アレクシオスが何を失い何を得るのか、悲しみとほろ苦さの中に小さな暖かさが見える物語です。
梅がきれいに咲く季節になりました。昨年も撮ったポイントです。香りも写っていませんがちらちら舞う雪も写っていませんね。香りも寒さが伝わらず、残念です。
【ただいま読書中】
ピーター・サルウェイ著、南川高志訳、岩波書店、2005年、1500円(税別)
前55年と54年にユリウス・カエサルがブリテン島に遠征を行いました。ガリア遠征のついでといった行動で特に見るべき戦果はありませんでしたが、「大洋のかなた」のブリテン島をおとぎ話から「ローマの地図に載る」現実の土地で征服の対象であるとローマ人に思わせる効果がありました。その頃ブリテン島はいわゆるケルト人の世界ですが、この時期に部族社会は王を持つ分化的な社会へと変わっていきました。
ローマ軍の兵士は、植民都市のローマ市民権を持たない人たちでも読み書きができるように教育され、退役時には市民権を与えられました。こうしてローマの周辺での「ローマ化」は進行していきました。
後43年にクラウディウス帝の遠征が行われます。
キケロは「帝国をよく治めるよりも帝国を拡大することで勝ちとられる栄光の方がより大きい」と述べているそうです。たしかに「戦利品」は「良い治世」よりわかりやすいですねえ。しかし戦争は費用がかかります。また、せっかく占領してもそこから絞りすぎたら情勢が悪化し、反乱と懲罰で属州は荒廃します。それは利益の消滅を意味します。したがってローマは、占領したのちなるべく早期に地元の有力者に支配を委ね、そこから税金を徴収するようにしていました。
ローマ支配の初期、ブリテンとガリアで大きく異なるのは城壁です。ガリアでは城壁はあまり造られませんでしたが、ブリテンでは、蛮族の襲撃と属州内部での反乱に備えて城壁が盛んに造られました。つまりブリテンにおけるローマの態度の特徴は「防衛」でした。そのせいか、三世紀にガリアの情勢が悪化してブリテンからも軍団を引き抜いて対応する必要がありましたが、その間もブリテンはわりと安定していました。ついでですが、ガリアの都市も城壁で囲まれるようになったのは三世紀後半からです。ちなみにブリテンを支配する目的でローマによって造られたロンディニウム(のちのロンドン)は市壁に囲まれた面積は133ヘクタールという「大都市」でした。
ローマは基本的に宗教に寛容で、占領地でも特に支障がなければ地元の神を禁じませんでした。軍で有力だったのはミトラス教ですが、4世紀頃からキリスト教がそれに替わります。ブリテン島で最初の司教は314年(キリスト教公認のミラノ勅令の翌年)に登場します。
367年大規模な攻撃が行われます。ピクト人・スコット人・アッタコッティ人が一致団結してブリテンを襲い、フランク族とサクソン族はガリア沿岸を襲ったのです。「蛮族の共謀」はローマにとって新しい衝撃でした。皇帝ウァレンティニアヌスは小規模な野戦機動軍を投入することで対応します。同時に蛮族からの戦闘集団を積極的に受け入れ、ローマ軍と組み合わせました。ブリテンにおけるローマ支配は復活しますが、結局負担が大きすぎ五世紀にローマはブリテンから撤退します。詳しい経緯を物語る考古学的証拠はあまり残っていませんが、サトクリフの作品にも登場するブリテンへの蛮族の侵入にプラスしてローマ内部の権力闘争と他の地域(ガリアやスペイン)への蛮族の侵入なども関係していることは間違いないようです。
なお巻末には、ローマ時代のブリテンを楽しむための遺跡などの案内がまとめられています。一風変わった観光案内として、ご利用ください(って、誰がそんな目的でイギリスに行くのかな?)。
有名な「蕎麦屋の出前」のセリフですけど……
車で30分かかるところからこちらに来る人と4時半にお会いする約束をしました。といっても、私と直接の約束ではなくて仲介者がそう約束していたのです。で、4時半過ぎても現れない。仲介者はやきもきしています。私に対して申し訳ない、という気持ちはよく見えます。
「電話して聞いてみたらどうです? なにか事故でもあったのかもしれないですし」
早速電話をかけていますが、来る人は携帯を持っていないため、出発点の企業に確認しています。眉がひそめられます。
「『もう出ました。もう少し待っていてください』だそうです」
「なるほど、とにかく向こうを出ていることは確実、ということですね」
「ええ、何時にこちらに着くかは言われませんでしたが……」
「ふーん、それは蕎麦屋の出前ですね。もし約束どおり4時半に到着するように4時に向こうを出たのなら『あれ、まだ着きませんか。4時に出たのに』と言うはずでしょ。それが『もう出ました』としか言わないということは、最初から時間が守れていない、ということです。下手すると今出たところかもしれませんね」
「すみません」
「いや、あなたのせいではないから。しかたない、まあ、待ちましょう」
別のルートで先方に確認したら、やはり4時ではなくて4時半に出発していました。ワープでもするつもりだったのかな?
しかし「もう出ました。もう少し待っていてください」を「自分は時間を守らないから、お前はそこで待っていろ」と瞬時に「翻訳」されるとは、言った人も思わなかったでしょうね。
【ただいま読書中】
ベルンハルト・シュリンク著、平野卿子訳、小学館、2002年、1900円(税別)
数ヶ月前に突然消息を絶った娘レオノーレを捜してくれ、という依頼が父親からゼルプにありました。探していることを本人にも周囲にも内緒で、という条件付きです。でも、父親と直接連絡は取れません。番号が公開されていない留守番電話が窓口です。さらにその「父親」は娘が最初に入った学生寮の住所も知りません。ゼルプはレオノーレがいるとおぼしき病院をやっと見つけますが、そこでも聞き出すよりも聞き出されることの方が多く、ゼルプは状況のあまりのうさんくささに立腹します。
事態は急展開します。レオノーレを匿っていた医師が射殺され、その夜レオノーレは米軍基地に対するテロ容疑で指名手配されます。しかしその「テロ」がいつどこの基地に対してどのように行われたかは公開されません。ゼルプは、追われるレオノーレだけではなくて追う側(官憲およびテロリスト)にも疑問を感じ、独自の調査を行い続けます。ゼルプの恋人ブリギッテに言わせればそれは「ますますアウトサイダーになろうとする」行為でした。
今回はゼルプの過去(ナチスの検事だった)はそれほど大きく扱われません。むしろドイツで行われたイデオロギー闘争(ナチスに関わった親たちの子どもが、親を断罪し糾弾する行為がイデオロギー論争へと発展していった)ことが本書の背景として大きいようです(断言できないのは、私がドイツの運動を詳しく知らないからです。ただ、日本の学生運動とはずいぶん違った様相だったようですね)。日本の「親子の断絶」は、ナチスが無かったからまだぬるかったんですね。
・結婚式は大安に多く仏滅に少ない
・葬式は友引に少ない(そもそも焼き場が閉まっている)
・丙午(ひのえうま)の年(昭和41年)に出生率ががくんと減った
・ノストラダムスの予言が信じられていた
・「とら年生まれだから猛々しい」「ひつじ年生まれだからおとなしい」と信じている人がいる
・「名前に虎が入っているから猛々しい」「名前にひつじが入っているからおとなしい」と信じている人がいる
・名前の画数による吉凶占いを信じている人がいる
・「白人は□□だ」「黒人は△△だ」などと信じている人がいる
・「赤血液がA型だから○○だ」「B型だから××だ」と信じている人がいる
・「四」「九」を気にする人がいる
……まだまだあるかしら?
……もしかして、敵を作った?
【ただいま読書中】
小林正幸・嶋崎政男 編、ぎょうせい、2005年、2476円(税別)
長いタイトルです。
ぱらっと適当にめくると、たとえば「人と触れ合うのがこわい」「便通の問題」「勉強ができない」「子どもが妊娠したら、妊娠させたら」といった子どもの問題が上げられ、それぞれについて「1)どんなことが考えられる?」「2)こう対応しよう!」「3)どこに相談する?」とアドバイスが簡潔にかつ具体的にまとめられています。「もっと愛情を」とか「もっと親の自覚を持って頑張れ」とか空疎な精神論は一行もありません。極めて実用的なガイドブックです。
教師や親のためのページもあります。たとえば「学校の処分に納得がいかない」「精神的にまいり学校をやめたくなったら」などです。悩んでいるのは子どもだけではなくて、その周囲の大人たちも同じように悩んでいることを忘れてはいません。
そして最後に、地域別に相談機関の一覧がずらりと。質やレベルはわかりませんが、数はすごいと思います。さらにその多くが無料であることにも一種の感動を覚えました。日本は無料ボランティア大国なんじゃない?
もちろん通読する本ではなくて、困った親が思い当たる症状のページを開いて参考にする、あるいは専門家がいざというときに自分が持っているネットワーク以外で利用できそうなものをあさってみる、という使い方をするものでしょう。巻末の、各都道府県・区市町村の相談所・相談機関の一覧はとっても便利そうです。しかし、住所で知らない地名がずいぶんあるのに驚きました。昔住んでいた県でも「この市はどこに位置するんだ?」と呆然とすることが。平成の大合併が一段落するのを待って新版を作成したそうですが、編集には苦労が多かったことでしょう。
昔ニフティの心理学フォーラムで「相談機関リスト」作成が行われたとき、この本があったらずいぶん役に立っただろうな、と思います(と偉そうに書きますが、私はリスト作りになんの貢献もできなかったことも白状しておきます)。
そうそう、あまり知られていないことですが、守秘義務に縛られている職種、たとえば医師(医師法)看護師(保健婦助産婦看護婦法)や公務員(公務員法)も、児童虐待を発見したら守秘義務にかかわらず通報する義務が生じます。根拠は児童福祉法と児童虐待の防止等に関する法律。おっと、法律には「者」とあるから、職業は無関係ですね。
《児童虐待の防止等に関する法律》
第六条 児童虐待を受けたと思われる児童を発見した者は、速やかに、これを市町村、都道府県の設置する福祉事務所若しくは児童相談所又は児童委員を介して市町村、都道府県の設置する福祉事務所若しくは児童相談所に通告しなければならない。
2 前項の規定による通告は、児童福祉法(昭和二十二年法律第百六十四号)第二十五条の規定による通告とみなして、同法の規定を適用する。
3 刑法(明治四十年法律第四十五号)の秘密漏示罪の規定その他の守秘義務に関する法律の規定は、第一項の規定による通告をする義務の遵守を妨げるものと解釈してはならない。
つまり、守秘義務に関しては、児童福祉法が刑法やその他守秘義務に関して規定している法律すべてに優越しているのです。逆に言えば、児童虐待を知っていながら見て見ぬふりをした人は、法律違反です。罰則規定はないようですけどね、だからといって違反して良いという理屈はありません。
私のmixi日記は大体一ヶ月に2〜3回休むペースでこの一年ちょっとやってきましたが、気がつくと、昨年十二月末からなんと丸々二ヶ月一日も休まずに書いているではありませんか。私はぐうたらが大好きで絶対に勤勉を売り物にするタイプではないのに、一体どうしたというのでしょう? とりあえず休みを入れよう、と思ったのですが、また面白い本を読んでしまったので、とりあえずこれだけは書いてしまいます(と言って今日も結局日記を書いてしまった)。
【ただいま読書中】
レマルク著、秦豊吉訳、新潮社(新潮文庫レー1)、1955年初版(87年56刷)、480円
「僕」が属する中隊が前線への出動から帰ったとき、出撃時150名の部隊は英国砲兵隊の砲撃によって80名に減らされていました。と書くと、えらい悲惨な状況のようですが(実際、悲惨な状況なのですが)、それを描く文体は軽やかで話はまず食事の喜び(兵隊が減ったから準備された食事を二人分食べられる)と排便から始まります。文体が軽いのも当たり前と言えば当たり前、本来だったらもっと無邪気に世界に対しているはずの二十歳になったかならないかの若者なのです。「僕」は、高校の教師がクラス全体を志願させたときにその20名のうちの一人として戦場にやってきた志願兵(もしかして映画「スターシップ・トゥルーパーズ」は本書からけっこう引用してる?)。「僕」や同期入隊者は第二中隊に補充としてやってきた新兵たちの面倒をみる古参兵ですが、まだ何らかの希望を持っているようです。しかしはてしない消耗の続く塹壕戦を繰り返し、第二中隊はこんどは32名に減ってしまいます。「大人」の裏切り・青春の世界との決別などを自覚するうち、文体は少しずつ陰鬱になってきます。せっかく与えられた休暇で自宅に帰ったとき「後方の人」との断絶を感じるシーンでは主人公に同情してしまいます。戦場に対して無知なくせに、戦争について過剰に喋りまくる人たちは、結局主人公に心理的負担をかけるだけなのです。(ここで私は、戦争の現場をきちんと知ろうとしない人は、立場や主張が好戦か反戦かに無関係に、戦争についていくら熱心に語ってもその言葉に説得力はない、と思いました。そしてそれと同様に、本書を読まずに本書を読んだ気になって本書の何かを論じても説得力がない、とも。まあ、読んだからと言ってそれが何かを保証するわけではありませんが)
そうそう、「僕」にパウルという名前があることがわかるのは、本書のど真ん中、故郷での休暇のシーンです。ここで初めて「僕」が(本当は)名前を持った個人であることが明らかにされます。それまではただの「兵士」です。
つらい思いを抱えて戦場に戻った「僕」は負傷し病院に送られまた戦場に戻されます。まるで修理済みの機械のように。そう、兵隊は機械のように扱われます。壊れたら修理してまた使うのです。修理したけれど元通り使えないものはぽいと捨てるのです。
新兵器のタンク(戦車)が投入され、空からは飛行機が襲い、砲弾と毒ガスの中を「僕」はなんとか生き延びます。形勢はドイツに不利になり、「僕」は休戦を待ち望みます。「僕」だけではありません。皆が望んでいるのです。味方も敵も。でも戦争は続くのです。そして、1918年10月、全戦線にわたってきわめて穏やかで静かで、司令部報告が「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」と記された日に……
昨日やっとこさ昨年度の確定申告の計算が終わってあとは清書して提出するだけなのですが……昨年とちょっと計算方法が変更になっている部分があるので「あれ?」と引っ掛かって昨年の方式と比較してみました。変更と言っても計算の順番が入れ替わっただけなのですが、あらあら、それでうまいこと少し増税になってます。頭のいい人が考えることは違うなあ。ほんのちょっとではあるのですが、それも積もればすごい収入増になるはず。
さて、私もお猿のようにきいきい怒るべきかしら?
【ただいま読書中】
シンクタンクせとうち総合研究機構、2005年、2000円(税別)
現時点で日本のユネスコ世界遺産は、知床、白神山地、日光の社寺、白川郷・五箇山の合掌造り集落、古都京都の文化財(京都市・宇治市・大津市)、法隆寺地域の仏教建造物、古都奈良の文化財、紀伊山地の霊場と参詣道、姫路城、広島の平和記念碑(原爆ドーム)、厳島神社、屋久島、琉球王国のグスク及び関連遺産群の十三です。暫定リストに、石見銀山、平泉、鎌倉、彦根城の四つが記載されており認定待ちの状態。本書はそのすべてについてのデータブックです。
顕著な普遍的価値、名称、位置、広さ、保護、管理、活用など詳細に記載されていますが、その中でも「脅威」を見るとそれぞれの遺産の現状が透けて見えるように思います。
たとえば知床の脅威は「ゴミの投げ捨て」「ところ構わない立ち小便」……もしも〜し、世界遺産を見物に行く人が遺産の価値を破壊してどうするの? そんなことをしていたら対策として「立ち入り禁止」が言い出されるのは時間の問題でしょうに。
京都の危険因子は「地震、火災、台風、都市開発」。最後のがちょっと微妙です。観光客が増えて高層ビルのホテルをばんばん建てます、は京都の景観の破壊ですが、では泊まるのが不便だったら……客は増えません。京都の人でマンションに住みたい人もいるでしょう。それを一律禁止、とも言いづらい。では開発できるところとできないところの線引きをすると……これは私権の制限になっちまう。なかなか悩ましい問題です。
自然遺産に関して、保存をするために立ち入り禁止、とさっき書きましたが、人の手が入ることによって維持されている自然の場合には人の立ち入り禁止は解決のための万能薬ではありません。う〜む、これもなかなか悩ましい。文化遺産はもっと「人」の問題が出てきます。そこに住む人の生活の快適さをどうやって保証するか、それを考えなければ「遺産」をもっと後の世代に引き継ぐことはたぶん困難になるはずです。
そうそう、戦争ももってのほかですね。世界遺産の破壊は過去の否定で、人を殺すことは未来の否定なのですから。
トリノ五輪もすでに「過去の話」になりましたが、蒸し返します。
フィギュアスケートの採点が加点方式に変わったことの解説を聞いていていろいろなことを思いましたが、その中の一つがプロレスです。私はプロレスをフィギュアのような採点競技として見ているのかな、と思ったのです。
レスラーがかけるわざの組み立て(同じわざを続けない、オーソドックスな安心感と組み合わせの意外性、など)、相手のわざを受ける頻度(自分の強さのアピール)、姿勢の良さやわざの美しさ、わざの強さ、観客へのパフォーマンス(衣装、ジェスチャーやマイクパフォーマンス)などを私は心の中で採点しているようなのです。だから、リングで負けた人の方が勝った人より点数が高い場合はしばしばあります。
あ、私はプロレスを格闘技のジャンルでは捉えていません。「舞台(リング)で格闘技を用いる演劇の一種(パフォーマンス)」と思っています。だって真剣に格闘をしたら、プロとして毎日興業はできないでしょ?(まず間違いなくどちらかが壊れちゃいます) 観客に良い舞台を見せることが彼らのお仕事、それを的確に評価するのが見巧者のお仕事。単に、殴った蹴ったとか勝った負けただけを見るのは、プロレスを見ているとは言えないと思うのです。そんなの、オリンピックの競技を見ないでメダルの数を数えているだけと同じようなものでしょう。
【ただいま読書中】
シャーリイ・ジャクソン著、深町真理子訳、早川書房、2006年、2000円(税別)
本書ではあちこちにジェームズ・ハリスという悪魔(?)が出没します。しかし、悪魔をめぐる連作ではありません。「異色」としか言いようのない短編ばかり収められた短編集です。
私が得た印象は「絵」です。読者はページをめくって一枚の絵を見つけます。じっと見ているとその情景からは少しの過去と少しの未来が読み取れます。結婚の約束をした恋人が現れないために心配している女性、食事に行ったレストランで見つけた大げんかをしているカップル(腹話術師(とその人形)と恋人の女性)、息子が通う幼稚園での困ったちゃん、お隣に越してきた迷惑な一家……どれもこの世のどこにでもある情景ですが、どこにもない違和感が仕込まれています。
私が一番気に入ったのは『麻服の午後』です。近所の一家を午後のお茶に招待した家の少女ハリエットは、お客をもてなすためにピアノ演奏を命令されて断ります。次に自作の詩の朗読を……これも断ると、詩を書いた紙を無理矢理取り出され(それも気にくわない招待客の男の子の手で)皆の前で読まれてしまいます。それに対してハリエットが行った「復讐」は……
ラストの『くじ』も異色ですが、本書でのそれまでの作品とは違って起承転結がしっかりあります。ある村で一年に一回のくじ引きが行われます。そのくじの目的は……読んでいるうちに大体予想はつきますが、それでもラストでこちらの心は震えます。本作の日本初出は1964年のSFマガジンですが、ちっともSFではありません。ともあれ、心して(覚悟して)読んでください。
映画「
PROMISE 無極 」を家内と観てきました。初めて行った巨大ショッピングセンター内の映画館だったのですが、建物が巨大すぎて駐車場で道に迷いました。
オープニング……をを、ゲームの「三国無双」だ。真田広之が一人で蛮族を大量に蹴散らします。無敵のスーパーヒーローです。だけど派手な集団戦闘シーンはそこだけ。あとは運命に翻弄される人々のドラマです。一応舞台は古代中国のファンタジーですが、古代ギリシアやローマの雰囲気もあって、ファンタジーのごった煮状態です。出演も、奴隷昆崙を演じるチャン・ドンゴンは韓国、傾城のセシリア・チャンは香港生まれのオーストラリア育ちでこちらも国籍のごった煮状態。ただ、真田広之が北京語を喋っていても別に違和感はありませんでした。ハリウッド映画では異星人でも英語を喋るんですから、それを思えば「自然」でしょう。慣れない北京語でもちゃんと芝居になってました。
そうそう、真田広之の身のこなしを見ていると、彼がJAC(ジャパンアクションクラブ)に属していたことを思い出しました。そうそう、もともとはアクション俳優だったんですよね。今は別にアクションを売り物にしなくても良い俳優になったので忘れていました。
ストーリーは……あるような、ないような。自分の運命をあらかじめ承知して生きる人たちと自分の運命を知らずに生きる人との対比を楽しめばよいのでしょう。別にこれを観て人生が変わる人はいないでしょうが、2時間すかっと楽しむにはよい映画です。
……しかし、自らぶら下がって罠のエサになるシーンでは、ちゃんと伏線を思い出すべきでした。不覚。
【ただいま読書中】
ピート・ネルソン著、羽生真訳、文藝春秋、2003年、2381円(税別)
1996年夏、11歳の少年ハンター・スコットは、たまたまTVで見た映画「ジョーズ」で、鮫に襲われた傷を持つ船長が「インディアナポリス」での武勇伝を語るシーンを見て小学校の課外活動「歴史発掘コンテスト」の応募テーマはこれだ、と思います。父親(中学の校長)の手ほどきで図書館で検索しますが資料はほとんどありません。学校の歴史担当教師の勧めで少年は生存者へのインタビューを開始します。これまで沈黙を守っていた生存者たちはなぜか少年には口を開き、自身のつらい体験とともに艦長への軍の扱いは不当だと語ります。少年も集めた資料からそれを確信し、過去の間違いを正す運動を始めます。
1945年夏、テニアン島で原爆をおろしてフィリピンに向かっていた重巡洋艦インディアナポリス(乗員1196名)は、日本のイ号第五八潜水艦によって撃沈されます。乗組員は暗夜の海に投げ出され、それから五つの夜と四つの昼を過ごすことになります。彼らを苦しめたのは、水と食料の欠乏・熱帯の太陽による熱中症・海水による低体温症・睡眠障害(うとうとすると顔が水につかる)、そして襲ってくる鮫の群れでした。せっかく沈没から助かったのに、渇きから海水を飲んで死んでいく人・鮫に食われてしまう人が続出したのです。特に鮫の群れは漂流する人々を取り囲み、次々と襲っては海中に引きずり込んでいきました。一番多くの鮫が集まった海域では、沈没直後150名いたグループは15名にまで減らされました。結局偶然上空を通った飛行機によって発見され救助が行われましたが生還したのはわずかに316名でした。880名が失われたのです。
しかしそれは悲劇の第一幕でした。
インディアナポリスが通る予定の海域に日本軍の潜水艦が四艇活動中という情報は艦長には知らされませんでした。インディアナポリスにはソナーがありませんでしたが(潜水艦に対して無力)そのような場合に通常つけられる護衛艦はつけられませんでした。インディアナポリスが予定時刻にフィリピンに現れなかったのを誰も気にしませんでした。インディアナポリスが発したSOSは最低三箇所で受信されたのに無視されました。さて、責任者は? マクベイ艦長が軍法会議にかけられ(戦争中米軍で艦を沈められた艦長350人のうちで唯一の例です)、SOSを発していないと責められ(発していました)総員退去命令を出さなかったと責められ(出していましたが数分で沈没したため全艦に徹底できませんでした)ジグザグ航行をしなかったと責められ(たしかに直進していましたが、どちらが潜水艦の魚雷攻撃に対して安全かは海軍でも意見が割れていました)、ともかくこの大惨事の責任は艦長一人にあるとすることで、海軍の体面と海軍上層部の特定個人の名誉が守られたのです。艦長は生還しなかった乗員の遺族に責められ続け、1968年に自殺しました。生還者たちのインディアナポリス戦友会はマクベイの名誉回復運動を始めます。しかし海軍の壁は厚くどのようなロビー活動をしても跳ね返されるばかりでした。
そこに11歳の少年ハンター・スコットが現れます。
ハンターの活動はコンテストの優勝は逃しますがマスコミに注目され、とうとうマクベイ艦長の名誉を回復するための法案が国会に提出されることになります。国会議員までもがハンターによって動き始めたのです。過去の間違い(不正義)を正すために。
……日本で、小学生の自由研究が国を動かすって、考えられます?
ごっこ遊びが子どもにとって重要なことを私が知ったのは、発達心理学の本でだったと記憶しています。子どもの成長過程で何かになったふりをしてその役割を擬似的に演じることが子どもの社会性を育てる、だったかな。
では、真顔で尋ねてみましょう。鬼ごっこは子どもの成長に何か役立つのでしょうか? そもそも「鬼ごっこ」ということばもよくよく見たら変です。鬼になったふりをするのは普通一人だけであとはきゃあきゃあ言って逃げるのですから、厳密には「鬼ごっこと鬼に追われる人ごっこ」でしょう。それとも「パニック・ゲーム」?
……真顔、終了。
昔はきっと「鬼」がずっと身近にいたのでしょうね。時には人の心の中にまで。だから子どもの遊びにも鬼が平気で顔を出していたのかな。
【ただいま読書中】
笹間良彦著、遊子館、2005年、1800円(税別)
古代中国では死者の魄(魂魄の魄:タマシイで精神面が魂、肉体面が魄)が鬼になると考えられました。そういえば死ぬことを鬼籍に入ると言いますね。死者に恨まれている人は怨霊の復讐を恐れましたが、その復讐鬼が仏教思想と混淆して今のような「鬼」になったそうです。仏教の羅刹の姿が中国思想と混淆して本来形のない「鬼」に姿が与えられたのです。
仏教では、布教に従わない地元の神を邪神・悪鬼と扱いました。それは地獄の獄卒へと発展します。大和朝廷も蝦夷・熊襲・隼人などは「鬼」として扱いました。鬼には、仏教系の鬼と山岳系の鬼がいたのです。
平安時代に「百鬼夜行」は実話でした。当時の人々にとって闇の世界の異形の怪物は実在していたのです。それが鎌倉時代になって変質していきます。盗賊集団は「鬼」と呼ばれ恐れられますが、同時にそれは退治することも可能な鬼なのです。(大江山の鬼退治がその例でしょう) 江戸時代にはとうとう見せ物扱いです。創作の世界で鬼はさかんに活躍するようになり、魑魅魍魎が大々的に扱われ、異世界の住人は一種「ポピュラーな存在」になってしまったのです。
結局「鬼」は人から発生し人と共存していたのですが、さて、今はどこにいるのでしょう?
フォアグラやアンキモと聞くとうっとりするくせに、レバーと聞くと「げ」と言う人がいるのは、なぜ?
【ただいま読書中】
ローズマリ・サトクリフ著、猪熊葉子訳、岩波書店、1968年初版(87年9刷)、1700円
紀元前900年、まだローマなど影も形もない青銅器時代のブリテンが舞台です。日本だと縄文時代ですね。
右腕に障害を持つ少年ドレムは、片手では戦士になれないという周囲のことばに絶望します。しかし同じく片腕で立派に狩人をやっているタロアに励まされ、ドレムは使える左手を鍛えて片腕の戦士になることを目指します。
村に鉄のナイフがやってきます。ドレムの一族は、かつて自分たちの祖先が石器を使う人々を青銅器で征服したようにこんどは自分たちが鉄器によって征服される予感を抱きます。
3年間の試練に耐えて戦士候補となれたドレムはイニシエーションとして狼と一対一で対決します。狼を殺すことに成功すれば少年としては死に戦士として生まれることができます。失敗したら狼に殺されます。ところがドレムは成功でも失敗でもない中途半端な立場に置かれてしまいます。戦士にはなれず、でも少年でもなくなったドレムに、部族の中に居場所はありません。厳しい、厳しすぎる環境では、「群れ」の中に「弱いもの」はいらないのです。ドレムは家を出、羊飼いの仲間になります。やがて冬になり、飢えた狼が羊を襲い始めます。
相変わらずサトクリフは自然描写が巧みですが、心の機微もさり気なくそして上手く描写します。ドレム本人だけではなくて、彼を取り囲む人々がドレムにどんな感情を抱いているか、その表面だけではなくて心の奥底まで少ないことばで示します。ドレムに厳しいことばかり言う祖父キャスラン・ドレムをいじめるルガ・ドレムの血の兄弟ボトリックス・ドレムの手本となるタロア・男の世界から排除されていますがドレムとともに育った少女ブライと母……彼らがドレムに向ける感情は、ドレム本人には誤解されたり無視されたり拒絶されたりするのですが、読者には「わかる」のです。
……こんな風に、自分と回りの人とを名人がことばで描写してくれたら、そしてそれをちゃんと読み解くことができたら、自分と回りの人の関係はもっともっと良くなるかもしれません。なにしろふだんは「自分が聞いたこと」とか「自分が思ったこと」など「自分」がやたらと邪魔をしてなかなか自分を含めた全体像が見えないものですから。
子ども時代、私は社宅に住んでいました。どうやら平社員ばかり集まっていた区画らしく、遊び友だちで「俺の父ちゃんは社長なんだぞ」などと威張る奴はいませんでしたが、たまに「俺の父ちゃんは係長になったんだぞ」とか言うのはいましたっけ。当時の私は自分の父ちゃんがどこで何をやっているのかも知らなかったのですが、どうやら係長というのは私の父ちゃんよりは偉そうなので素直に「ふーん」と感心したふりをしていました。
今だったら「なるほど、お前の父ちゃんは偉いんだな。で、お前は?」と聞いてやるでしょう。
「私の父は社長だ」「私の母は会長だ」なんていうのは言い換えればつまりは「自分は○長の付属物である」と言っているだけですよね。で、たとえば「社長の息子」「会長の娘」に関して、「の」の前は重要人物だけど「の」の後は重要人物ではありません。それを勘違いして「『の』の後」が偉いと思っているとしたら、それは偉いのではなくておエライだけでしょう。
おっと、「社長のスミスです」も同じ構造ですね。この場合も「の」の前が偉いのであって「の」のあとは……とは限りません。「ただの個人のスミスです」でも偉いスミスさんはいますから、この場合は「偉いスミス」さんがたまたま社長をやっているだけです。もちろん社長を辞めたらちっとも偉くなくなってしまうスミスさんもいるでしょうけれど。(ところでスミスって、誰?)
【ただいま読書中】
合同出版、2004年、1600円(税別)
かつてホタルが乱舞していた川にホタルを呼び戻したい、全国あちこちでこうした運動が行われています。
たとえば横須賀の岩戸川。三面コンクリート張りで排水路となっていた岩戸川でホタルを復活させようと、まずは河川工事が行われました。川底に小石を敷き詰め護岸には穴あきブロック(穴には土を詰める)を使用して植生をまず復活させます。ゴミ掃除も定期的に行います。ついでカワニナ(ホタルのエサ)を放流しそれからホタル幼虫の放流です。何年もかけてやっとホタルが飛ぶようになり、最近では幼虫を放流しない場所での自然発生も見られるようになったそうです。しかしめでたいことばかりではありません。見物人が集まって夜遅くまで騒ぐ・車を好き放題止めるので地域の人が困る・ホタルを捕って帰る……地域からは「こんなことならホタルなんかいない方が良い」という声さえ出ます。
長崎市伊良林小学校ホタルの会は1982年の大水害がきっかけで生まれました。昔、夜空の星は死者の魂だと言われていましたが、ホタルは「星垂れる」が語源とも言われ川辺に舞うホタルは地上で舞う星に見えます。そこで、川をきれいにし、かつ、死者の霊を慰めるために、小学校の前を流れる中島川にホタルを、という運動が始まったのです。今では「ながさきホタルの会」の活動によって、長崎市内あちこちでホタルが舞うようになっているそうです。
ただ単に「ホタルが舞えばいい」のでしたら、どこかから捕まえてきて、あるいは人工飼育して育ったのを放せば良いでしょう。しかしこの本に載っている各地の会は「ホタルが育つことができる河川環境を守ること」を活動のベースとしています。私は(生来の天の邪鬼のせいで)声高に環境保護の「正義」を訴える人は眉に唾つけて見ることにしていますが、この本に登場する全国各地での「自分の地元にホタルが戻ってきて欲しい」という願いを持ってこつこつと何年も川のゴミ拾いを続けるような人の活動には、ただ平伏します。
もう二十年くらい前、夜に家の勝手口を出たら目の前をホタルがすいっと飛ぶ田舎に住んでいたとき(といっても、4年間で2回目撃しただけですけど)、夜中に山道を車で帰ろうとしてふと停車したことがあります(自然に用があったのです)。車のライトを消してしばらくして目が闇に慣れた頃、目の前の谷にホタルが乱舞しているのに気がつきました。うるさいエンジンを切るとせせらぎの音。空には満天の星。ホタルの光は本当に弱いものですが、今でも目に焼きついています。
パラリンピックで早速金メダル獲得ですね。さあ、日本中でお祝いしましょう。あれほど待ち望んでいた金メダルですよ。
……でもその前に「バイアスロンって何?」かな? いや、私も「視覚障害者のバイアスロン」でどうやって射撃をするのかが想像がつかないので偉そうなことは言えません。えっと、テレビテレビ……あれれ、オリンピックはあんなにやっていたのにパラリンピックは新聞の番組表では見つからないじゃないの。どうして? 視聴率がそんなに望めないの? スポンサーがつかないくらい中継料が高すぎる?
【ただいま読書中】
脚本:スタンリー・キューブリック/フレデリック・ラファエル、高橋結花訳
原作『ドリーム・ノベル』 原題 Traumnovelle
アルトゥル・シュニッツラー著、佐藤晃一訳
角川文庫、1999年、667円(税別)
一冊で
映画 の脚本と原作が両方読める「お得」な本です。原作は『夢のはなし』(河出文庫、1954年)を改題・改訳したものです。
ニューヨークで成功している内科医ビル・ハーフォードは、愛する妻の「浮気を真剣に考えたことがある」という告白に衝撃を受け、夜の町をさ迷います。偶然出会った元同級生で現在はピアニストの友人から不思議なパーティーの話を聞き、ビルはそこに紛れ込む決心をします。そこは上流階級の人間ばかりが集まった秘密の仮装パーティーでしたが、そこで正体を見破られたビルは「私が身代わりになる」と申し出た謎の女性のおかげで窮地を救われます。しかし翌日その女性はホテルの一室で死体となって発見され、自分の身代わりに殺されたのか、とビルは悩みます。とうとう妻にすべてを告白したとき、妻は……
「生と死」あるいは「性と死」を扱っている映画ですが(「仮装(仮面)と裸」も小道具として使われています)、「今の生活に満足している」という満足感が本物なのか・それともそう思いこんで自分を安心させているだけなのか、自分が信じている人が信じるに足る人なのか/それともそれは自分の思いこみに過ぎないのか、という不安を描いた映画のようにも見えます。
サスペンスとしては不完全燃焼です。事件があるような無いような、陰謀があるような無いような、すべてはビルの妄想の世界の出来事とか夢オチで片付けてもよいストーリーです。
だけど映画館で初めて観たとき、私はストーリーは追いませんでした。
画面の「光」に目を奪われていたのです。キューブリックは「
バリー・リンドン 」ではまるで水彩画のような風景描写でしたが、こちらの画面は、空気の粒子一粒一粒が光を含んでいるような描写になっています。まるで印象派の絵画みたいです。どんな撮影技法と機材を用いたのかは素人にはわかりませんが、あの光の微妙な感覚はTVの画面で再現できるのかなあ。ともかく、あの光だけで一見の価値があります。少なくとも私にとっては。
原作は、20世紀初めのウィーンが舞台で、ストーリーの骨格は映画と原作でほとんど同じです。雰囲気は全然違いますがベースの雰囲気として漂う「エロスと死」は同じ。ただ、原作では「恥」が重要なファクターですが、映画ではたとえばHIVのような「モノとしての死」の方が重要になっているようです。世紀の始めと終わりで世界はずいぶん変わってしまったんですね。
岩国に厚木から米軍艦載機が移転してくることに対して住民投票が行われ、圧倒的多数が「反対」でした。投票総数の87.5%が反対で、たとえ投票しなかった人が全員「賛成」だったとしても投票資格を持つ人の過半数が「反対」と計算上はなります。これは圧倒的な民意、と言えそうです。ただ、二者択一は、わかりやすくはありますが、たとえば「条件次第では」とか「まだわからない」とかの人はどうすればいいのでしょう?
で、賛成・反対、それぞれに言い分はあるのでしょうが、私がわからないのは今回行われた「投票ボイコット運動」です。「賛成」か「反対」かは、どちらに共感するかしないか/賛成するか反対するかは別にして、まだわかります。だけど自分が勝手に棄権するのではなくてボイコット運動をするということは、他人に対して「お前らは意見を言うな」という主張です。これについて私は理解できません。理解したいとも思いません。
民主主義の基礎は、まず「自由に考え意見を持つ」こと、次が「意見を表明すること」だと私は思っています。だけど「お前らは意見を言うな」? 言論の自由を圧殺することが大好きな人間は、それだけで好きになれませんので、そういった人たちが持っている主張に対しては、それだけで「あんたらの意見には反対!」と言いたくなります。大きな声でね。
さて、次に政府がするべきことは地元の説得ですが……日本で「説得」というと「自分の意見を他人の口から強引に言わせること」と捉えている人が多いのですが、本来は「情理に訴えて相手の考えと今後の行動を自発的に変えさせること」ですよね。住民の意見を無視して脅迫や強引な手段を用いるのは、政治ではなくて軍事です。政治家には軍事ではなくて政治をして欲しいなあ。
【ただいま読書中】
ベルンハルト・シュリンク著、岩淵達治 他 訳、小学館、2003年、1714円(税別)
主人公のゼルプは英語にしたらセルフselfです。するとタイトルは「self murder」(自殺)とも読めます。意味深ですねえ。
東西ドイツが統一されて数年、ゼルプは70歳を越えています。
偶然知り合った銀行の頭取はなぜか運転手に頭が上がらないような様子でしたが、過去に自分の銀行が恐慌で倒産の危機にあるときに出資してくれた匿名の出資者が誰かを調査してくれ、と依頼してきます。ところがその調査報告をしても頭取(となぜかそこに同席している運転手)は上の空。不審に思ったゼルプは、頭取本人の調査を開始します。そこに見えてきたのは、東西統一とともにドイツに入ってきたロシア・マフィアとマネー・ロンダリング。ゼルプはマフィアに尾行されるようになり、さらに、戦争中に生まれ東ドイツで育ち国家保安局に勤務していたという履歴を持つゼルプの息子、と名乗る男が現れます。
普通、修羅場ですよね。だってゼルプは当時出征中で子供を作った覚えはないのですから。ところがゼルプがこんどはなんとなく上の空。ことばもほとんど飲み込んでしまってまともな会話が成立しません。ゼルプさん、もうちょっとましなリアクションがあるでしょう、と言いたくなる対応です。
「息子」や旧東ドイツで出会った人たちから、以前の厳しい生活と統一後のやはり厳しい生活のことを聞かされたゼルプは、ベルリンで出会った「ヒットラーの尻尾たち」にひどい目にあわされます。このシーンで私は殺伐とした絶望感を抱きました。人類って、進歩してるの? ドイツでは移住トルコ人に対する風当たりが強いと聞きましたが、これはトルコ人が問題を抱えているからではなくて、攻撃的な態度に出る側がなにか悲しい問題を抱えているからじゃないのかなあ(もちろん、ろくでもないトルコ人もいるでしょうけれど、その率は同世代のドイツ人と比べて高いのかなあ?)。
ゼルプは、心筋梗塞を抱えながらもきちんとした治療を受けずに動き回ります。酒も煙草もやめません。まるで死ぬことを願っているかのようです。そして戦争前につながる事件(事態?)の全貌が見えてきた頃、ゼルプは再度の心筋梗塞発作に見舞われます。
一ヶ月前に職場で義理チョコをもらったのでお返しに定番のクッキーの大箱を買いました。そういや家内もチョコをくれていたっけ、と店で思い出したので、家内用にも何やら買って渡したら、意外に喜んでくれました。家内専用というわけではなくて、どうせ家族全員でデザートに食べるのにね。
【ただいま読書中】
ヴェロニック・ヴァスール著、青木広親訳、集英社、2002年、1700円(税別)
パリ市内にある唯一の刑務所、サンテ刑務所は、名前とは違って(サンテ=健康)内部は不潔で劣悪な環境でした。壁はボロボロ、タイルは割れて修理もされず、マットレスにはナンキンムシやノミがうようよしていたのです。1992年にサンテに医者として着任した著者は、麻薬の禁断症状・てんかん発作・低血糖発作・自傷行為(剃刀の刃を飲み込んだり自分の体を切ったり)・自殺・喧嘩などに振り回されます。詐病と作り話は山のようにありますが、その中に真実の病気も潜んでいるので油断ができません。独房を出たい一心で仮病を使う人の次に心臓発作の患者を治療したら次の患者は骨折でギプスを巻き石鹸を飲み込んで暴れ回る患者と格闘したらてんかん発作の患者にぶすりと注射。安全地帯で読んでいるだけで目が回ります。
そして数ヶ月後、突然やめた主任医師の後任として著者が抜擢されます。副主任は自分が主任になれなかった腹いせに著者の仕事の妨害を続けますが、部屋にこもって縫い物をしているところを所長に押さえられ首になります(仕事中の怠業、ということなのでしょう)。著者も仕事ぶりに満足しないスタッフは次々首を切ります。人生は厳しい。
刑務所に入所してくる人たちの70%は治療が必要な何かを抱えています。劣悪な環境にいたことと、医療に縁がなかったことが原因でしょう。さらに入所後、こんどは刑務所の劣悪な環境と非人道的な扱い(看守による暴行は日常的)と拘禁反応で、ますます健康を害します。
たとえばこのような記述が本書にあります。「同性愛のたち役の男がコーラの缶で顔面を殴打された。歯が折れ、腕には咬み傷があった。べつの囚人が仲間のHIV感染者にフェラチオを強要されているといって嘆く。もうひとりの囚人はカミソリの刃を飲み込んだ。どれもこれも日常的な出来事に過ぎない」
……日常?……このような「日常的な出来事」が、淡々とした態度でエピソードの集積として語られ積み重なっていきます。その「出来事」の集積が、異様な効果を読者にもたらすのです。
苛立たしいこと・理不尽な侮辱・中傷・誤解に基づく訴訟など腹立たしいことも多くありますが、著者は決して簡単に他人を非難したり侮辱したりしません。おそろしい精神力です。素晴らしい思い出も数多く、著者はそれらを大切にします。そうそう、著者は画業もひとかどの人らしく、毎年個展を開き、そこに刑務所関係の職員や元囚人を招待してカクテル・パーティーを開いているそうです。「わたしはなにかを目論んでいるわけではない。好きだからやっているだけだ」と書いていますが、これは本音かなあ?(疑惑と尊敬のまなざし)
驚いたのは、看守がストをすること。その間憲兵機動隊が刑務所の警備をしますが、不慣れなので刑務所の機能は停止します。
もう一つ驚いたのは、1981年にフランスが死刑を廃止するまで、サンテ刑務所にギロチンがあったこと。ええっ!?
さらに、著者がサンテ刑務所で勤務中に本書が出版されたこと。1994年の改革で著者は刑務所の職員から立場が病院の職員に変わったので職務上の守秘義務はなくなってはいますが、それにしても自分の職場について在職中にここまであけすけに書くとは、すごいと思います。ただ「事実の羅列とそれに対する個人的感想」はありますが「大仰な告発」はありません(というか、事実だけで告発は不必要なくらい強い力があります)。だからこそ本書はベストセラーになり、社会運動として刑務所の環境改善運動が始まったのでしょう。単に刑務所内部を見せ物にするのではなくて、社会を視野に入れて改善するべきものを改善しようとする、その態度は敬服に値します。
そういえば「精神病者の解放(精神病院で鎖につながれていた人々を鎖から解放した)」をしたのはフランスのピネルでした。フランス人って「なにか間違っている」と思うとそこに入って改善しようとするのかな?(と少数例から単純に決めつけてはいけません)
長男と話をしていたらなぜか魂に話題が展開してしまい、「魂とは何か」ではなくて「何であると解釈するか」が人間の歴史だ、と私は言い切ってしまいました。ちょっと言い過ぎ?
私の歴史の守備範囲はせいぜい古代ギリシアあたりまでですが、そこでの魂は「何であるか」よりも「どこにあるか」の方が重要な論点だったように私は捉えています。ストア派は「魂は胸に在る」だしプラトンは「頭・胸・腹」でしょ。アリストテレスは四性質説だから魂の局在は信じていなかったんじゃないかな。(私のアヤシイ記憶と推測なので、よい子は自分の目でプラトン全集なりアリストテレス全集などを確認するまで信じないように)
局在の場所がどこかはともかく、魂はキリスト教的には、神のしもべか悪魔に代価として支払うためのもの。ヒンズーだと延々と輪廻転生するものですから、現在の肉体はただの一時停泊所。古代エジプトだと「この」肉体にいつか戻ってくるもの(だからミイラにして肉体を保存する)。魂と肉体の関係はいろいろです。
で、話は飛んで現代です。今は科学の世紀ですから、魂は物質としての脳味噌の電気活動である、ということになるはずです。つまりは脳の解剖と電気生理で魂というモノが説明ができるはず。
……本当にできるのかなあ?
いや、一卵性双生児は物質としての脳はほとんど同じはずでしょ。遺伝子は共通なんですから。だったら同じ物質構造の上での電気活動はほとんど同じはずだから、魂は共通?
……んなわけはありません。私が知る限りの一卵性双生児はどれもきっぱり別人でしたから。
脳味噌は細胞の塊でそこに電流が流れていますが、顕微鏡で細胞を覗いても電流をいくら精密に測定しても、そこに魂を発見することはできないのではないか、というのが私の仮説です。細胞が集まったところの「雰囲気」というか「細胞と細胞の関係性」というか、そういった漠然としたモノの上に魂が乗っかっているんじゃないかなあ。(いや、顕微鏡の視野に「これが魂です」って表示が見えたら、それはすごいことだとは思いますけど)
【ただいま読書中】
ジョン・コリア著、村上啓夫訳、早川書房、2006年、2000円(税別)
冒頭の『夢判断』を読んで、今から三十数年前の中学〜高校時代、県立図書館でこの作品を初めて読んだときの衝撃が蘇りました。
三十八日前から、三十九階建てのビルの屋上から一日に一階分ずつ落下する夢を見る青年が精神科医を訪れます。オフィスはそのビルの二階にあります。青年が昨夜見た夢はこのオフィスの外を通過して、窓から中を覗いたら精神科医と自分の婚約者が抱き合っていた、というものです。ところが医者には身に覚えがありません。やっと青年を納得させて帰した直後、とびこんできた初診の患者は……最後の一行を読んだ後、時空がねじれるような不思議な恐怖感を覚えます。
本書には様々な夫婦が登場し、いろんな駆け引きをしています。その中で『記念日の贈物』と『死の天使』に登場する夫婦は、まるで相似形。しかしどうして男があんな目に遭うのかなあ、と嘆息してしまうのは、きっと私が男だからでしょう。
そうかと思うと『保険のかけ過ぎ』のように夫婦両方に「おいおい」と言いたくなる作品もあります。なんにせよ収入の九割を保険の支払いに充ててはいけません。
『ギャヴィン・オリアリー』は主人公がなんとノミです。東部でぬくぬくとすごしていたのが、突然ハリウッドスターに恋をして、ハリウッドまでヒッチハイクで大陸横断! やっと憧れのスターに出会えたギャヴィンが何をしたかというと……わはははは。ノミだから血を吸った? いえいえ、そんな素直な作品ではありません。
『死者の悪口を言うな』……これまた異色。読んでいる途中で「これはまるでアンジャッシュのすれ違い勘違いコントだ」と思いましたが、やはり最後でぞぞぞとします。そうですね、死者の悪口を言ってはいけません。
好き嫌いは別れるでしょうし作品の巧拙もありますが、本書の20編の短編で私は十分幸せになれました。
チンドン屋、紙芝居、ポン菓子、ロバのパン……「
三丁目の夕日 」の世界です。私はロバのパンは記憶がないのですが(家内はしょっちゅう買いに行っていたそうです。地域差かな?)、ポン菓子はよく覚えています。でっかいお釜を積んだリヤカー(はじめは人力だったのがそのうち自転車で引くようになったと記憶してます)のおじさんがやってくると、家にとんで帰ってお米と砂糖とお金をねだってました。圧力釜を開けるときのあの轟音がスリリングでたまらなかったなあ。
あ、でもポン菓子屋にはついていこうとは思いませんでした。できたてのポン菓子を家に持って帰ること(そして皆で食べること)ばかり思っていましたから。
【ただいま読書中】
南浦邦仁著、かもがわ出版、1993年、1748円(税別)
「ロバパンの歌」を流しながら、馬車で町にパンを売りに来る「ロバのパン」。「なつかしい」と言う人もいれば全然知らない人もいるでしょう。昭和30年代には全国で見られましたが、高度成長期の到来とともにほとんど姿を消してしまったパン屋さんです(現在も一部では自動車販売で残っているそうですが)。馬車を使う・音楽をかける・全国にチェーン展開する、といったユニークな商法で成功したパン屋さんです。
意外なことに、「ロバパンの歌」は、企業とタイアップして作られた物ではありません。たまたま東京でロバパンを見かけたレコード会社の人がロバパンの歌を作り、発売された歌を聞いた人からロバパンの会社の人が偶然話を聞いて、それで自分たちのテーマソングにしたそうです(だから、歌の中で売られているパンと実際の売り物とに食い違いがありました)。それまでも音楽を流しながら販売をしていて馬車で蓄音機の針がとばないように自分で機械を改良するくらい販売方法に工夫をする会社ですから、「ロバパンの歌」を知ったら「これを使わない手はない」と思うのが当然でしょう。しかし特注LP(おそらく最初から最後までロバパンの歌が延々と入っていたのでしょう)は3ヵ月で擦り切れていたそうです。大量発注のリピーターですから曲の使用許諾などはレコード会社はうるさいことを言わなかったのではないか、と私は想像します。
そうそう、本書には「ロバパンの歌」のCDが付属しています。かけると素朴な童謡のようなテンポとメロディー。家内が「なつかしい」と騒いでいます。
ロバは力が弱く(「ロバ力」は「馬力」の約1/4)言うことを聞かないので、ロバパンの馬車を引くのは小柄な馬の方が好まれました。その代表が木曽馬です。ところが戦争中、軍は軍馬の体格向上のために、小柄な木曽馬の雄を断種させました(雌は舶来の馬と交尾させる)。かろうじて神馬として生き延びた雄から戦後木曽馬は復活しましたが、なんとも乱暴なことをするものです。
「バナナは病気のときに食べる特別な物」の時代から高度成長期をむかえ、子どもの舌が肥えて蒸しパンをそれほど喜ばなくなり、またモータリゼーションによって馬車の通行が困難になるます。また、馬の飼育を依託していた家の近所から「臭い」「不潔」と苦情が出るようになり、馬車で売り歩くスタイルは廃れていきました。
20年くらい前、私が食パンと牛乳を買うにも山二つ越えて隣町まで行っていた時代、その村に週に二回「焼きたてパン」を売りに来るようになりました。近所の人たちが大喜びで集まって買っていましたっけ。なぜか一番人気はメロンパンでした。メロンパンって、各地で全然違うパンを意味するのですが、私にとってはちょっとメロン風味のコッペパンかな。
私は習慣としてトイレで事後に手を洗いますが、さて、この意味は何なのでしょう?
手が汚れたから洗う……でも陰部ってそんなに汚れています? ズボンと下着にくるまれて、外界からの汚染はたとえば顔や手よりも少ないんじゃないでしょうか。手は意外に不潔ですから、陰部の汚染を予防するために(男の「小」の場合)用便「前」に手洗いをすることには意味があるかもしれませんけれど。
便が手についたから洗い流す……これは尿と大便で分けて考える必要があるでしょう。尿は基本的に無菌です(膀胱炎の人を除く)。ですから手洗いは「消毒」としては意味がありません。大便は大腸菌(その他)の塊ですし、トイレットペーパー数枚くらい菌は簡単に貫通して手につきますからきちんと洗う必要があります。ただし、着衣を整える「前」にね。服をあちこち触ってから手洗いをしても、服にいろいろなすりつけられているのですからとても清潔とはいえないでしょう。
あとは文化的な意味かな。陰部が「不浄の場所」として扱われるのなら、それを触った手を浄めるために儀式が必要です。なるほど。高速道路のサービスエリアなどでちゃちゃっと水を軽くかけるだけでトイレを出て行く人たちは、みな禊ぎをちゃんとやっているんですね。
【ただいま読書中】
フィリパ・ピアス著、高杉一郎訳、岩波書店、1992年、1845円(税別)
私が大好きな『トムは真夜中の庭で』の著者の短編集です。基本的にどの短編にも幽霊または超自然的な現象が登場しますが、それぞれ色合いが異なっていて退屈しません。
『クリスマス・プディング』……真夏の盛りに突然自家製クリスマス・プディングにとりつかれたエディ。その願いはまるで強迫観念のようにくりかえしエディを襲いますが、そのとき家の壁の中で大きな音が……
『サマンサと幽霊』……本作はこう始まります。「サマンサがおじいちゃんとおばあちゃんの家のリンゴの木にのぼったのは、これがはじめてだった。てっぺんまでのぼっていくと、そこに幽霊がいた。おやおやとおたがいにおどろいてみせたあと、幽霊とサマンサはそれぞれ仲よく枝のあいだに腰をおちつけた。」 なんだか良いムードでしょ? そして本作の最後でまたサマンサはリンゴの木に登ります。最後のサマンサのことばでほんわかします。
『黒い目』……ジェインの家に週末遊びに来たいとこのルシンダは、不吉な「予言」ばかりします。黒いクマの呪いによってジェインの家に次々不幸が訪れる、と。ジェインは腹を立てるとともにもし本当だったら、と怯えます。そしてルシンダが帰る日……
……ルシンダの立場に視点を置くと、本当に悲しい物語です。特に最後のシーンが忘れられません。
『こわがってるのは、だれ?』……大お祖母さんの百歳の誕生日に集まった親類縁者たち。ジョーはいじめっ子のディッキーから逃げ回りますがとうとうつかまりそうになります。そのとき……いや、本当にこわがっているのは誰だったんでしょう? こちらはニヤリとしてしまう佳品です。
『黄いろいボール』……こちらにはちょっと異色な幽霊が登場します。まず○の幽霊でしょ。それから○○○の幽霊。著者は思いっきり遊んでいます。だけど成長物語でもあるんです。いやあ、良い作品です。
そうそう、訳者は『こがらしの森』の原題The Hirn のHirnがOEDを調べてもわからなかった、と書いていますが、まさかドイツ語のHirn(英語だとBrain)だったりして。だとするとあの森は……ぞぞぞぞ。
今でも小学校ではベルマーク集めをやっているようですが、以前のことを思うとマークが付いている商品はずいぶん減ったように感じます。小学生時代の私はコレクションする感覚でベルマークを集めていました。お菓子などの紙箱についているのは切り取りやすいし切った後も扱いやすかったのですが、マヨネーズの袋からベルマークを切り取るとくるんと丸まって扱いが難しかったなあ。
今はベルマークのかわりにリサイクルプラのマークが目立ちますね。これも集めたら何かになればいいのになあ。ゴミの分別をちゃんと意識している、ということですから。
【ただいま読書中】
遠藤正武著、ボブ・ウィーランド/サラ・ニコルズ著(西田好伸・高橋正博 訳)、竹書房、2001年、1400円(税別)
まず遠藤さんが『腕で歩く』でボブ・ウィーランドの紹介をしてくれます。それに続いてサラ・ニコルズのインタビューによる『ONE STEP AT A TIME』。
ボブ・ウィーランドはスポーツ万能の青年で、大リーグにピッチャーとして誘われたところで徴兵、ベトナムで地雷を踏み両脚を大腿上部で失います。183cm93kgの体が88cm39kgになっていました。しかし彼は自分自身を障害者ではなくてスポーツマンであると定義づけます。帰国後大学で体育を学び体育教師の資格を得、さらに体を鍛えてパワーリフティング障害者大会に出場、優勝します。
次に彼がチャレンジしたのはデートです。自分を障害者としてではなくて足を失っただけの男と見てくれる魅力的な女性を捜します。出会いがあり、そして結婚。
ボブはパワーリフティング大会全米大会(健常者の大会)に出場します。世界記録を上げますが公認されませんでした。大会ルールに「競技の際は靴を着用」と定められていたからです。ボブは大会から追放されます。(本書には書かれていませんが、足がない分体重別では有利になるからフェアではない、という判断があったのではないか、と私は想像します)
失意のボブはテレビでテリー・フォックスの特集を見ます。癌で片足を失いながら、徒歩でカナダを横断した人です。フォックスは横断中に癌研究の寄付金を集めていました。ボブの次のチャレンジが見つかりました。車いすを降りて手で歩くパイオニアになるのです。
ボブはトレーニングを開始します。体を前に傾けて両の拳を地面につき体を前に振り出します。これで約1メートル進めます。また体を前に傾けて…… 手は血まみれとなり着地のショックでズボンはボロボロとなります。18ヶ月間の過酷なトレーニングの間に過労で2回失神しました。
1982年9月ボブはロサンジェルスを出発します。目指すはワシントン。2784.1マイル(4479.6km)の道程です。高速道路をかっ飛ばすトラックの排気ガス・砂漠の暑さ・冬の寒さだけではなくて、人もボブを攻撃します。「自分を見せ物にしてはならない」「障害者は高速道路を歩くべきではない」といった人たちです。「べき論」で人を縛ることが好きな人はどこにでもいるようです。
しかし手助けしてくれる人もいます。
はじめの一年は友人が同行してくれました。しかし途中でボブは一人になります。そこで彼は改造バンを使いました。
まずバンで数マイル進み車いすでその日の出発点に戻ります。車いすを道端の藪などに隠して(盗む人がいるのです)両の拳でバンのところまで「歩」きます。バンに乗り車いすを取りに戻りそしてまた同じことを繰り返します。途中でオートバイの男マーシャルが声をかけます。「おい、俺がワシントンまで一緒に行ってやるよ」。本当に一ヶ月後彼は仕事を辞めて現れ、それから二年間ゴールまで付き添いました。オートバイで先行して泊めてくれるように途中の家に交渉したり食料や水の調達をしたりぶらっと寄り道をして見た素晴らしい景色の話をしたりするのです。それは、路肩しか睨んでいなかったボブには天の助けでした。泊めてくれる人も多くいます。夜はその家で眠り日中は5マイルほど進んでからまたその家に戻り、家が遠くなったら次の家に頼む。その繰り返しです。
ただボブは深刻に横断をやっていたわけではありません。途中で定期的に家に帰り(「三ヶ月会わないと離婚の理由になる」とボブは言ってます。ジョークではなくて真実かも)、奥さんに会い講演などで旅費を稼いではまた大陸横断に戻ります。
旅の途中、ボブは様々な人に出会います。希望を失った人、ホームレス、崩壊した家庭の子どもたち、人種差別者、障害者差別者……それらの出会いをボブはきわめて楽観的に語ります。彼は素朴なクリスチャンで本書でも繰り返し神の愛を語りますが、押しつけがましくはありません。彼自身がなにかを押しつけられることが嫌いだからではないか、と私は想像しています。それと過剰な積極性。これも失ったものの大きさを考えると、そのようにとにかく前向きに生きるかさもなければうちひしがれて生きるかの二者択一だったのだろう、と想像します。
ともあれ、一日平均5マイルずつ着実に進み続けたボブは3年8ヵ月6日後にワシントンに到着しました。「自分が進む一マイルに5ドルを」と募金を募ると31万ドルも集まり、国際赤十字などに寄付できました。大統領とも会見でき、めでたしめでたし。
そして1986年、ボブはニューヨークマラソンに出場します。トライアスロンにも挑戦します。彼の挑戦は終わりません。
遠藤さんは朝日新聞社時代にボブの取材を行い、自分も大陸横断を試みました。ただしレンタカーで。フリーウエイを快適にとばすとボブの一日の行程を5分で走れます。それでも最後にはへろへろでした。まったく、世の中にはとんでもない人がいたものです。そしてそんな人生を知ると、こちらも一歩前に進む元気と他人に分ける優しさをもらえたような気がします。
「ペンは剣より強し」って本当でしょうか? 私から見たらペンは剣と同等なのですが。だって sword と words は「s」の位置が違うだけでしょ?
【ただいま読書中】
ロバート・ブロック著、小笠原豊樹訳、早川書房、2006年、2000円(税別)
私は記憶力が乏しいのですが、今回ほど乏しくて良かった、と思ったことはあまりありません。以前読んだ記憶がほとんど消滅しているため、本書をほとんど白紙の状態で読むことができてじっくり堪能できたからです。
解説には「ブロックは、言葉に幾つもの意味を込める」と書かれていますが、私はむしろ音楽を連想しました。たとえばピアノ曲。右手が弾いているのがメロディだと思い込んで聞いていたら、実は内声部にみごとな旋律が描かれていてそれが最後に明らかになってあらびっくり、というのに近い印象なのです。演奏中著者はわざと右手を強めに演奏するから、聴衆(読者)はまんまとミスディレクションされるのですが「すべて」はちゃんと最初からそこにあるのです。
『治療』はまだいいです。登場する欧米人は明らかに異文化の中に置き去りにされていて、何かおどろおどろしいことが起きるぞ、ということに対して読者も覚悟ができますから。しかし冒頭の『芝居をつづけろ』……これはいけません。みごとに私は「高音部のメロディ」にだまされました。最後で「あんぎゃあ」と叫んでから再読したら、こんどは「低音部」の方に目が行ってしまいました。細かい部分の著者の描写はみごととしか言いようがありません。ちゃんと全部描かれているのです。そしてタイトル(The Show Must Go On)。あらためてタイトルをじっと見ると背筋が凍る思いがします。……ふう。
「ワン・アイデア・ストーリー」ということばがありますが、アイデアだけでは小説が完成しないことがよくわかります。アイデアと筆力が必要です。やはりプロはすごいや。
『ショウ・ビジネス』……もうこちらも「準備」ができていますから「あ、ここは伏線だな」と気がつきます。で「起」「承」ときて「転」……ななななんで?(とりみだしている) そして「結」……またやられました。しっかり著者にやられてしまいました。しかし本作の「怖さ」のもう一つの側面は、フィクションの世界に留まらず現実の世界に本作が言及していることでしょう。
『ベッツィーは生きている』……起・承・転・転・転……です。最後の一行で私は「もういや!」と叫んでしまいました。原題では最後に「?」がついてますが邦題ではありません、なんてことはもうどうでもよくなります。
『うららかな昼さがりの出来事』……『不思議の国のアリス』はそれだけでややこしい作品ですが、そのお話が「現実」を浸食します。いや、本作では「現実」の方が「アリス」を浸食しているのかもしれません。
著者は「サイコ」の原作者だそうで(知りませんでした)、そう聞くとこの短編集の通奏低音がある程度理解できるような気がします。あくまで「気がする」だけですけれど。ともかく、読んでびっくりしてもう一回読んで楽しみましょう。
西欧社会に関する本を読んでいてうらやましく感じるのは、バカンスの存在です。金持ちではないごく普通の人でも「一ヶ月ほどバカンスで○○へ」と平気で出かけています。
日本ですと、休みを取ることの難しさと金銭的負担とで最初からあきらめてしまいます(あるいは相当の覚悟を決めて休みを取ります)。なんとか休みを取っても普通にホテルや旅館に泊まるとお財布が保ちません。私は小食なので旅館などに泊まると「こんなに御馳走にしてくれなくて良いから量を減らして料金も下げてくれたら(経済的には)長く泊まることができるのになあ」と思うことがしばしばでした。
西欧では安く長期に滞在できる施設が充実しているそうで、うらやましい限りです。
ただ、ちょっと検索をかけてみたら、「長期滞在型」という宿泊サービスは日本のあちこちでやっているようですね。国民宿舎なんかだったらけっこう安くあがりそうです(といっても一ヶ月すごしたらすごい金額になりそうですけど)。
知人が南洋のリゾートにでかけたとき、ホテルのプールでたまたまヨーロッパから来ている人と知り合って「ここに日本人は珍しいな。何週間いるの?」と聞かれたそうな。「4日」と答えるのが悲しかったそうです。
だけど日本人が長期間のバカンスとまったく無縁だったかというとそうではないでしょう。といっても私が思いつくのは、江戸時代のお伊勢参り、それから湯治くらいですけれど、どちらも長期間仕事から離れ、そして安い料金でしたね。ふうむ、私もバカンスじゃなくて「ちょっと湯治に行ってきます」だと長い休みが取りやすいかな?
【ただいま読書中】
井上忠恕/後藤信男 著、STEP、2003年、1400円(税別)
国際協力事業団(JICA)のウルグァイ獣医研究所強化計画でウルグァイに派遣されたお二人の共著です。日本ではほとんど知られていない小国について、少しでも知って欲しいという願いがこもった本です。(どのくらい知られていないかというと、著者が国会図書館で検索をしたら「ガット・ウルグァイ・ラウンド」関連の本は150冊あったのに「ウルグァイ国」に関する本は2冊だけだったそうです) そうそう、『アンデスの聖餐』の「主人公」はウルグァイの学生チームでしたね。私も著者と同様、そのことはきれいに忘れていました。
まず質問。ウルグァイはどこにある?
回答:日本から見て地球の真裏。南米の大西洋岸、ブラジルとアルゼンチンの間です。ご存じでした?
ウルグァイの「歴史」は1516年にスペイン人ソリスが上陸したことによって始まります。もちろん先住民のことは無視されます。無視というか滅亡させられたというか。ただ、現在のウルグァイ国民のかなりの数は自分たちに先住民の血が流れている(混血である)こと誇らしく語るのだそうですが、これはなぜなんでしょう。自分のアイデンティティなのか、それとも滅ぼした先住民に対する贖罪意識の裏返しなのか……
ヨーロッパ人が求めた地下資源(金や銀)をまったく産出しなかったため「無価値の地」と呼ばれたウルグァイですが、畜産に適していたため「価値のある地」となり人口も増えます。1750年のマドリッド条約でブラジル領となりますが1828年に独立します。
音楽の話題。ウルグァイはラ・クンパルシータ発祥の地ということで有名だそうです。それから国歌はなんと11番まであるそうな。オリンピックなどでフルコーラスやったら大変でしょうね。
つぎはサッカー。サッカーワールドカップ第一回大会は1930年に開催されました。奇しくもその年はウルグァイ憲法発布百周年。スペイン・イタリアとの激しい誘致合戦に勝ってウルグァイが招致に成功したのは1929年。突貫工事でメインスタジアムを建設しましたが、大会が始まったときにはコンクリートはまだ生乾きだったそうです。なお、当時のウルグァイは牧畜で金持ち国だったので、参加国の経費を全部もったそうです。太っ腹! そしてなんと優勝。それがフロックでなかったことは、ブラジルで行われた1950年の第四回W杯でも優勝したことで明らかでしょう。リオデジャネイロのマラカナン競技場(20万人収容)で行われた決勝戦(決勝リーグ戦最終戦)の相手はブラジル(2勝0敗)、ウルグァイは1勝1分け。勝った方が優勝です。圧倒的な攻撃力を誇るブラジルが先取点を上げますが、堅守を誇るウルグァイはそれ以上の失点を許さず逆に2点を取って逆転しました。観衆17万人のうち悲嘆した二人が自殺、心臓麻痺で二人が死亡……「マラカナンの悲劇」と呼ばれます。日本のドーハの悲劇どころではありませんね。
社会福祉や社会保障は大変充実しているそうです。たとえば教育では大学まで無料。一年に一回有給休暇を4週間分連続して取らなきゃいけない。う、うらやましい。
本職だけあって、ダチョウや牛の話も大変面白いものです。ダチョウの羽根や睫毛の意外な利用法が紹介されます(というか、ダチョウにはほとんど捨てるところがないそうな)。牛も3年間放牧されているのでほとんど野生状態で集めるのが大変だそうです。でもグラスフェッド(牧草で育つ)だからグレインフェッド(穀物で育つ)とは違って健康的だし、なによりBSEとは無縁。なんだか、ダチョウやウルグァイの牛肉を食べてみたくなりました。
タレたっぷりの焼き肉を口に頬張ったとき何を味わっているのでしょう? 1)肉の味 2)タレの味 3)肉とタレのミックス
1)だったらタレは不要ないしもっと量は少なめでよいでしょうし、2)なら肉が不要でタレをご飯にでもかけて食べれば安上がりです。3)だと肉質が問題になりそう。カルビとホルモンとタンそれぞれに最適のタレが同じものとは思えませんから、肉の種類ごとにもみダレとつけダレを準備しますか? 焼き肉専門店ならともかく家庭では無理ですよねえ。
【ただいま読書中】
カルロス・ゴーン著、中川治子訳、ダイヤモンド社、2001年、1840円(税別)
著者はフランス国籍を持つブラジル生まれのレバノン系ビジネスマンです。
20世紀の初め、レバノンからブラジルへ13歳の少年が一人で移住しました。著者の祖父です。著者はブラジルで生まれ、学齢に達すると(多くのレバノン系ブラジル人がやっていたとおり)母親とレバノンに「戻」ります。学校での成績は優秀でしたが、そこで教えを受けたラグロヴォール神父の「分かりやすい人間であれ。明晰な言葉で説明せよ。やると言ったことはやり遂げろ」が著者の「原点」となります。パリのエコール・ポリテクニークに進学し、課外活動でアメリカ人留学生と交流することで英語が上手になります。卒業前にミシュランからスカウトの電話がかかり、そこから著者のビジネスでの経験が始まります。ミシュランは当時ブラジルに進出を計画中で、ブラジルに精通しフランスの大学を卒業したエンジニアを必要としていたのです。ミシュランは研究所配属を提案しますが著者は製造現場を志願します。そこで著者は最初の教訓を得ます。「管理者が現場の状況を把握していないと何が起きるか」です。著者は26歳でル・ビュイの工場長になります。30歳で南米事業を統括するCOO(最高執行責任者)としてブラジルへ。その時ブラジルは年率1000%のインフレで会社は巨大な損失を被っていました。
勇躍ブラジルに渡る直前、著者は将来の奥さんリタに出会います。著者と同じくレバノン育ちで多国語を操る共通点を持っていましたが、彼女の時代にはレバノンは内戦状態で悲惨な事態を見聞きしており、それが彼女に強さを与えていました。
二人は結婚しブラジルに渡ります。ハイパーインフレに対抗するために著者は、負債・生産コスト・製品価格・支払い条件・労務コストをすべて見直します。さらに方法論も。問題を先送りせずに即決することと多職種が孤立せずにコミュニケートすること。著者は現場を歩き回り、ミシュラン・ブラジルを3年後には黒字に転換させ、4年目にはミシュラングループで最大の利益を上げる企業にします。
1989年、著者はミシュラン北米のCEOとなり、ユニロイヤル・グッドリッチとの統合に取り組みます。それはビジネスにおけるアメリカスタイルとフランススタイルとの統合でした。著者は両者のマネジメント・チームを統合し新しい戦略(複雑な状況に置ける簡潔な答え)を策定し、各職種の代表を集めてクロス・ファンクショナル・チームを作り、会社全体の改革を行います。
ミシュランは同族企業で、最高経営委員会の一員となった著者にはそれ以上の地位はありません(しかも個人的に強い絆を持っていたフランソワ・ミシュランが息子に経営権を渡すのは時間の問題でした)。著者は転職を検討します。そこにルノーから誘いがかかります。提示されたポストは副社長。ルノーCEOのシュヴァイツァーは官吏から転身組ですが、国営企業から民営化途上のルノーの体質と戦略を転換するために優秀な外部の人間が必要だと考えたのです。新聞は「火星人、ルノー副社長に就任」と書き立てました。著者は、クロス・ファンクショナリティの欠如、無難すぎる目標設定、アイデア重視実行軽視、という問題点(過去の過ち)を是正するように動き始めます。1996年(著者がルノーに移った年)ルノーは10億ドルの損失を出しましたが、著者は「3年で200億フラン(24億ドル)のコスト削減」を宣言し、社内からアイデアを募ります。リストラクチャリングは成功し翌年には黒字に転換、次に著者は日産との提携を提案します。欧州企業からグローバル企業に生まれ変わるために。そのためにルノーは手持ちの金すべて(54億ドル)をつぎ込むという巨大なリスクを負うことになりました。
著者が来日した頃報道されていたような単なる「コスト・カッター」でないことはわかります。「燃えるプラットホーム」からいかに逃げだし明日を構築するかの目標を提示し、社員のチームを組織し、そのチームからの提案を選択して最終的な責任を取ることを明示する。社長がするべきことは小さなマネージメントではない、という主張もよくわかります。そしてその結果様々な痛みが生じることも、そしてそのことに対して著者が無感覚ではないことも。
しかし、逃げ道(自分の年金や天下り先)をしっかり確保した上で「痛みを伴う構造改革」などと恰好良いことを口先だけで言っている人とは覚悟の程が違います。詳細は本書を。
家族も大変です。突然世界中を転勤し、しかも転勤先は修羅場ですから旦那は仕事に集中してます。異文化の中での生活がどんなものか私には想像しかできませんが、真の意味での「グローバリゼーション」は、カルロス・ゴーンとその家族を見たらある程度わかるのかもしれません。
お猿と人間の違いの一つが毛の本数ですが、毛に関してはもう一つ「散髪が必要かどうか」があります。私が知る限りお猿の世界に理髪店はありません(私が知らないだけかもしれませんが)。伸びた毛が邪魔でお猿が自分で切っている、というのもなさそうです(私が知らないだけかもしれませんが)。すなわち、猿と人の大きな違いとして、散髪をするかどうか、があるわけです。
では、原始人はどうなのでしょう。毛髪がどんどん伸びると藪で引っ掛かったりして生存には不利だと思うのですが実際にはどうだったのでしょう。あるいは、ミッシングリングのあたりでは?
そういえば、人類社会で「理容」が「業」として成立するようになったのはいつ頃からなのでしょうか? 西洋だと中世には床屋外科があるし古代エジプトにも床屋があったそうですが、東洋だといつ頃からなのかなあ。
……はい、今日私は床屋に行きました。
【ただいま読書中】
スティーヴンソン著、田中西二郎訳、新潮文庫、1967年初版(1988年43刷)、200円
「名前は知っているけれど、読んだことはない本」の一冊でした。ネタバレをしますが、未読の方は悪しからず。
大柄で社会的に成功し善の象徴たるジーキル博士と小柄で体が弱く悪の権化のハイド氏の意外な関係は、って、たぶんほとんどの人は知っているでしょう。同一人物の善悪の二面性です。ただ、肉体は全然違っているため、ハイド氏に会ったジーキル博士の友人もその「二人」の関係にはなかなか気がつきません。
……質量保存の法則はどうなってるんだ?などと20世紀の常識で19世紀のフィクションを切っても意味がないでしょう。本書は寓話ですから。
寓意に関する心理学的な解釈は他の人に任せて、私はジーキル博士が人格の分離に使用した「薬」に注目してみます。本書が発表された19世紀は、錬金術が化学となって科学に昇格した世紀です。世間一般では科学史に取りあげられるような化学研究の成果に注目が集まりますが、私は「人が化学的に合成された薬品を積極的に摂取するようになった」ことに注目します。実はこれこそが近代錬金術の成果だったのです。「神によって作られた肉体」を「神ではなくて人間が作り出した物質でコントロールする」ことは、すなわち人間の神からの乳離れを意味します。単に「薬物」というモノが重要なのではなくて(もちろん有用な薬物は治療の局面では重要ですが)、「人工物で自分が自分の体をコントロールする(できる)」という概念を人類が獲得したこと、それが重要なのです。これも「神は死んだ」の準備段階の一つです。
最後にジーキル博士はその薬物の裏切りにあいます。それは「神の鉄槌」ではなくて「科学の裏切り」と捉えるべきでしょう。フランケンシュタインと同じですね。19世紀は「科学の世紀」で素朴な熱狂がありましたが、同時に新しい物に対する不安もたっぷりあったのでしょう。
しかし「人の善悪の二面性」だなんて言いますが、ジーキル博士は本当に善の象徴? だって心おきなく悪を為す(罪はハイド氏が被り、ジーキル博士は罪を問われない)ために薬品を開発するんですよ。その発想だけで十分悪人だと思うんですけど。
まず「意味は文字に存在する」という仮説を立ててみます。しかし「あ」とか「う」とかをいくら睨んでいても何もわかりません。したがってこの仮説は棄却されました。
つぎに「意味は単語に存在する」という仮説を立てます。「愛」とか「青海原」とか「こんちくしょう」……おお、これは「文字」とは違って何らかの意味が見えそうです。しかしその「意味」とは何か、を他人に説明しようとしたら「ほら、『愛』だよ『愛』。わかるだろ」では何も伝わりません(発話者が「愛」に関して何らかの思いを持っているらしい、という事実(または推測)は伝わりますが)。「愛」と言っても、神に対する愛もあれば人に対する愛もあります。人に対する愛でも家族に対する愛もあれば他人に対する愛もあれば人類皆兄弟の愛もあります。つまりその単語を説明するためにはたくさんの単語、すなわち、文章が必要となります。
ここで話はタイトルに戻ります。「意味は文脈に存在する」。本当は「文字」ー「単語」ときたら次は「文章」でしょう。しかし文章に関してもまた同じことを言わなければならないから省略したのです。
……省略はダメ?
えっと、一つの文章で意味がすべてわかるかというと、その話す人と聞く人、その文章が置かれている状況によってまるっきり意味が違ってくるから「意味は文章に存在する」とは言えないのです。
たとえば「お前は泥棒をしてはならない」という文章。この文章を見てどう思います? まともな文章にとりあえず見えます。でも状況を考えてみましょう。「親が子どもに言っている」「泥棒の親がそれを知らない子どもに言っている」「泥棒の親が泥棒の子どもに言っている」「改心した泥棒の親がそれをしらない子どもに言っている」「改心した泥棒の親が現役の泥棒の子に言っている」……そのすべてで同じ文章の意味が違ってません? 発話者を「泥棒」に限定してもこの騒ぎです。発話者が泥棒以外だともっともっと別の意味が出てきそう。つまり「お前は泥棒をしてはならない」というシンプルな文章も、どんな文脈に置かれるかによってまったく意味が異なってしまうのです。逆に言えば文章だけ見ていても真意はわからない、ということ。大切なのは全体の文脈です。
「何あたりまえのことを言っているんだ」と言われそうです。いや、私もそう思います。だけどこの世では「あたりまえ」のことがなかなか通りません。文章どころか些細な言い回しや単語に拘泥する人がいかに多いことか。
そうですね、たとえば差別用語。差別用語を攻撃する人(正義の味方)は多いのですが、たとえば差別の文脈で使われた差別用語と差別撤廃の文脈で使われた差別用語とを無差別に攻撃してよいでしょうか? もし文脈を無視して「差別用語狩り」を熱心に行うと、たとえば『夜明け前』や『橋のない川』も攻撃対象でっせ。いいのかなあ。
【ただいま読書中】
ミヒャエル・エンデ著、丘沢静也訳、岩波書店、1990年、825円(税別)
30編の連作短編集です。解説には「ひとつずつ順番に、大きくゆがんだ鏡像となって前の話を映しだし、最後の話がまた最初の話につながっていく」とありますが、天の邪鬼の私はむしろ逆に、一つ一つの話がその「次」の話の一部の投影を受けているように感じました。作品が一つずつ「鏡」だとしたら、その鏡が「前の作品(過去)」よりは「次の作品(未来)」を映すと思う方が読者の想像力を刺激しません?
投影されるのは前後の話だけではありません。ときには遠く離れた物語の断片が他の物語の中に見出されることもあります。たとえば4の「時限爆弾と消防士」は18にも登場しますし、3の「光のインパルス」は26にも登場します。カードでも作って真剣に探したら、そういったつながりの複雑なネットワークができるかもしれません。そう、もしかしたら本書は巨大な物語を幾つもの断片に分解した、あるいは異なる視点から表現した一種の「群盲象を撫でる」の小説版なのかもしれません。スタイルもストーリーも登場人物もバラバラですが、実は根は一緒。ただ、あまり分析的に読むと、エンデの世界を本当に楽しむことはできないかも。もっと大らかに、たとえば『夢十夜』を読むような感じで軽く流していった方が、結局本書の世界の中に自分自身をとっぷりつけ込むことができるんじゃないかな、と思います。
私は子ども時代「眉は立派な顔だ」とよく親戚に言われていました。「眉『は』」ということは他は立派じゃないってことよね、とひそかに傷ついたりしていましたが(半分本当)、別に皮膚の表面で勝負する人生を送る気はないからまあいいや、てなもんでした。ところが年を取るにつれて眉はますます立派になり、有り体に言うなら、草ぼうぼう状態になってしまいました。そのうちカイゼル髭みたいに先っぽをひねくり回すこともできそうです。
そうそう、立派な眉といったら、社会党の村山さんの顔が思い浮かびます。画面で見たら眉の散髪をしたくなる顔でしたっけ。
【ただいま読書中】
レイ・ブラッドベリ著、北山克彦訳、晶文社、1971年初版(87年49刷)、1100円
目覚めたとき「今日から夏だ」とわかる朝、少年たちははしゃぎながら野原で金の花を摘みそれをおじいさんが絞ってたんぽぽのお酒を作ります。それは夏のエッセンス、六月の女神。たんぽぽのお酒。たんぽぽのお酒。たんぽぽのお酒。
1928年の夏、いつもと同じ、同じだけど特別に素敵な夏。ブラッドベリは歌います。夏の歌を。少年の歌を。
でもブラッドベリが歌うのは夏の生の歓喜だけではありません。夜の闇に潜む沈黙と死、失われていく若さ、近づく秋の気配、友との別れ……そして「幸福マシン」のなかで幸福を味わった人は、それが現実のものでもなく永遠に続くものでもないことに気づいたとき、泣くのです。
1928年の夏、イリノイ州グリーン・タウンではいくつもの死が人々に訪れます。ダグラス少年はそれを5セントのメモ帳に書きとめます。人が死に、好きだったものが壊れていくのが真実なら「……それならば……ダグラス・スポールディングも、いつか……きっと!」と。メモ帳を照らしていたホタルは広口瓶から放され、夜のなかに消えていきます。
夏が終わったとき、蓄えられたたんぽぽのお酒は……
ブラッドベリはやっぱり良いなあ。
中古家電に張りつけるPSEマーク、問題になっていますね。しかし1000ボルトをかけて漏電検査って、デリケートなマシンは欠陥商品でなくてもそれだけで壊れちゃいそうです。ちなみに私が以前使っていた冷蔵庫、200ボルトかけたらしっかり壊れました。
しかし、いつからPSEマークは手段から目的になったんでしょう。もともとは家電が安全なものだということを示すために貼るマークで、つまり目的は「消費者の安全」でマークはそのための表現手段だったはずです。それがいつしか「貼らせること」「貼ってないものは販売させない」ことが目的化しているように私には見えます。まあ、お役人のやることだから……ですませちゃいけないんでしょうけれど。
ところで「マークが貼ってあること」は「その商品が安全であること」の証明になるんでしょうか? 「マークを貼った時点=検査をした直後」では安全(かもしれない)と言えるでしょうが、その後のことまでマークは保証してくれませんよね。だったら「このPSEマークは現在も有効である」というマークも新しく作ってその脇に貼らないといけないんじゃないかなあ。
【ただいま読書中】
畑中幸子著、日本放送出版協会、1996年、825円(税別)
14〜15世紀、リトアニア大公国は東欧の強国でした。北はバルト海、東はモスクワ、南はクリミア・黒海まで支配する「大国」だったのです。しかしモスクワ大公国の興隆とともにじり貧となり、1569年にはポーランドと従属的な合併を行います。18世紀に3回にわたって行われたポーランド分割にともない、こんどはロシアに編入。独立運動は続けられていましたが常にポーランド、ついでロシアによって「反体制派」は流刑などの処分を受けていました。1920年に帝政ロシアから独立しますが、ソ連・ポーランド・ドイツなどから干渉を受け続け、1939年独ソ不可侵条約の秘密の付属議定書によって、バルト三国は独ソによって勝手に「ソ連に帰属」と決められてしまいます。ソ連軍は直ちに進駐し、国内の政敵対策とポーランドへの敵対だけを考えていたリトアニアの政治家は何も抵抗ができませんでした。リトアニア軍の主立った将官や佐官は集団で連行され、射殺されたりシベリア送りとなります。ついで行われたのがジェノサイドです。ソ連は、ウクライナ・ラトヴィア・エストニアとともにリトアニアでもジェノサイドを行いました。だからこそ第二次世界大戦が終了してもリトアニアではパルチザンが活動を続け、ソ連はパルチザンとその支持者に対して徹底した弾圧を加え続けたのでした。
逮捕・拷問・処刑・流刑・財産没収と、ナチスがやったのとソ連がやったのとはあまり差がありません。ちなみに1940年からの1年間でシベリア送りとなったのは(名簿が残っているだけで)、リトアニアから30,500人、ラトヴィアから34,250人、エストニアから59,700人だそうです。(で、その直後ナチスに支配され、それからこんどはスターリンの恐怖政治。結局リトアニア人は全部で約20万人がシベリアに送られ生還したのはその半分だったそうです)
ただ、「森の兄弟」と呼ばれたパルチザンについては、現在でもリトアニアではタブーとされています。パルチザンの生存者がきわめて数少なく、またそれを取り締まった側が沈黙を守っていること。パルチザンを狩り立て残虐に扱ったのはロシア人よりその手先となったリトアニア人(イストリビテリと呼ばれました)であり、密告が奨励されて国内がバラバラになっていたこと。パルチザンも活動末期には食料を盗んだりして国民の支持を失っていたこと。様々な要因があって、沈黙が支配するようになっているのです。著者は定期的にリトアニアに通ってインタビューを重ねますが、「歴史家はなぜドキュメントばかり重要視して生き証人に話を聞かないのか」といぶかります。
私はリトアニア人の強制移住や虐殺については、たしか『
ゴルゴ13 』かSFの短編(タイトルは失念)で初めて知りました。いやあ、歴史を知る点でエンターテインメントを馬鹿にしてはいけません。
今日の新聞一面には「外科医が7人に安楽死」という記事がでかでかと載っています。
……安楽死? 医者の独断で呼吸器を外すのは、殺人(あるいは死期を早める行為)ではありませんか? 少なくとも従来の判例の「安楽死の要件」を満たさない限り日本の法律ではそれは、たとえ家族の承認があろうとも、違法行為のはずです。
新聞の社会面を見ると当該外科医は「信念を持っている」そうですが……あのう、大切なのは信念の有無ではなくてその信念の内容です。
臨床倫理にはMPQCということばがあります。
http://square.umin.ac.jp/masashi/kangaekata.html
「M」は医療者、「P」は患者本人、「Q」はQOL(生活・生命の質)、「C」は周囲の状況です。このすべての問題を洗い出し、多職種・家族・病院外の人間まで含めて検討する、それが医療における具体的な倫理です。「倫理」が問題になる状況では事態は複雑で「たったひとつの正解」なんて普通ありませんから、このように問題を切り分けて優先順位をつけて個別に判断することが必要でしょう。
ここで重要なのは「医者の独断」は、すべてを満たすべき四分割表の「M」のさらに一部であることです(Mは「医療者」であって、医者は医療者の一部でしかありません)。医者が「信念によってこう決めた」と言ってもまだ「M」の意見統一とさらに「PQC」の検討が必要なのです。
また、「家族の意向」は「P」ではないことも忘れてはいけません。法定代理人以外の家族はつまりは他人です。「P」はあくまで患者本人の意向で、家族の意向は「C」を構成するたくさんの因子の一つでしかありません。「本人は元気なときには『いざとなったら××をして欲しい』と常々言っていたから、口がきけない今もそう思っているに違いない」という証言だったら「P」に入れることはできますが。
つまり「医者と家族が同意した」だけですべてを決定するのは間違っている、と私は考えます。
さらに記事で気になる表現があります。「病院に独自のガイドラインがなかった」って非難する口調で書いてありますが、それはそれぞれの病院独自の判断、つまりは「M」だけで患者の生き死にに関するすべてを決めて良い(ガイドラインさえあれば良かった)、と言う主張でしょうか。「お前らが独断で動け。俺たちは後追いで批判だけする」がマスコミの基本的態度? それは「M」の独断を許すということですが、それで本当に良いんですか? 国民的議論(かつてマスコミが大好きな言葉でしたよね)は不必要なのかなあ。私は必要だと思いますし、そのためにマスコミが果たすべき役割や責任は非常に大きいと思うのですが……取りあえず、やる気無し?
【ただいま読書中】
ベルンハルト・シュリンク著、岩淵達治 他 訳、小学館、2003年、1714円(税別)
かつてドイツで弁護士をし、今はフランスで翻訳家をやっているゲオルクは、2年前に恋人と別れた痛手がまだ癒せず作家になる夢も捨てきれず(といって、何も書いてはいないのですが)、ぎりぎりの生活をだらだらと続けていました。そこに夢のような美味しい翻訳の仕事の誘いが降ってきます。そのオフィスで出会ったフランソワーズと恋に落ちたゲオルクに、さらにかつて仕事をしていた翻訳事務所のオーナーが急逝したという知らせが。ゲオルクはそのオフィスの跡を継ぎ、新型軍用ヘリコプターの設計書の翻訳を引き受けます。しかしゲオルクには気になることがあります。フランソワーズが自身の過去についてほとんど語らず、また時々不可解な行動をするのです。ある深夜、ゲオルクはフランソワーズが設計書を写真に撮っている現場を押さえ、その告白で彼女がポーランドの出身で家族を人質に取られてスパイ活動をしていることを知ります。でも、フランソワーズはどうもアメリカ出身のようなのです。恋人に対する不信感と、自分もスパイの片棒を担いでしまったことへの恐怖から真実を追及しようとすると、彼女は姿を消し、ゲオルクは脅迫され村八分となり、さらにはフランス官憲にまで迫害されます。KGBとフランス警察がつるんで一般市民を迫害? 話は不可解です。ゲオルクは謎を解こうとアメリカに飛びます。しかしゲオルクはこんどはアメリカ警察を敵に回すことになります。フランソワーズのポーランドに関する話は二重の偽装だったのか、では自分は一体誰が誰をスパイしている陰謀に巻き込まれたのか。人を信じられなくなったゲオルクは、謎を解き恋人を奪還し自分自身を取り戻すためにニューヨークからサンフランシスコにまで飛びます。赤ん坊を胸に抱いて。
スパイ小説でもあり、へたれの兄ちゃんの恋と冒険と成長の物語でもあります。しかし途中で消えてしまったヘレンが、不憫だ。
「人間関係が壊れたらいやだから」と一方が言いたいことを我慢している状態は、すでにその関係は壊れています。少なくとも健全な状態ではありません。そんな関係を無理して維持する必要はあるのかな? 我慢を上回るメリットがあるのなら話は別ですけど。
【ただいま読書中】
ジョン・フレイヤー著、古谷直子訳、ブルース・インターアクションズ、2005年、1600円(税別)
1999年8月、著者は大学院の授業を受けようとニューヨークからアイオワシティにシビックでやって来ました。トランクに荷物を詰め込んで。そして1年後、夏をニューヨークですごした後やはりシビックでアイオワシティにたどり着いた著者は、シビックのトランクの荷物は1年前と同じなのに、アイオワシティの自宅は物であふれかえっていることに気づきます。もしかしたらこんなものはすべて要らないんじゃないか? 全部始末して、人生にリセットをかけて最初からニューヨークでやり直すことだってできるんじゃないか? 著者はイーベイ(インターネットオークション)に次々持ち物を出品して競りにかけます。こんなものが?と思うような物でも売れていきます。しかし、一つ一つ選別したら時間がやたらとかかりますし、売った後生活が不便だからとまた買うと荷物は減りません。とうとう著者は無差別に持ち物を「全て」オークションにかけることにします。友人たちの助けを借りて自宅にある物をすべてリストアップしてオークションにかけ、インターネットで「allmylifeforsale.com」というドメインを取得して自分のサイトを立ち上げ、オークションの経過を報告します。そして1年後、オークションで1927件の入札が成立し売上高は約4900ドルとなりました。
本書は自分の持ち物を全て売るというプロジェクトの経過について簡単に(本当に簡単に)触れている以外は、全てのページが著者が売った品物の写真と説明(誰からもらったかとかどう使っていたか、そして誰に売ったか)で成り立っています。徹底しています。
徹底していると言ったら、著者の生き方も徹底しています。たとえばトースターを売ったら、その後著者はもうトーストは食べません。だってトースターがないのですから。
何度出品してもどうしても売れない物(たとえば使いかけのうがい薬)とごみ以外は何も残っていないがらんとした部屋を見回した後、著者は旅に出ます。売った品物がどのように扱われているかを「どうぞ、見にいらっしゃい」と招待してくれた人を訪ねて全米を動くのです。その経過も自分のサイトに報告します。そこで著者は「物には過去(自分が使っていたときの、あるいはその前)の歴史と現在〜未来(新しい持ち主の元で)の歴史」とがあり、「自分は物を失ったが、そのかわりのようにいろんな人とのつながりを得た」ことに気がつきます。
日本だと清貧の勧めとか捨てる技術になるところを、さすがアメリカ人、それを全世界的な規模(海外からもオークションには参加していますから)のイベントにしてしまったのです。
しかし、物によっては本当に「人生」の断片そのものです。ノートブックパソコン(日記などが入ったHDDもそのまま)、アドレスブック(友だちの住所などもばっちり)、留守番電話のテープ、撮影済みのフィルムが入ったままのカメラ、著者の友人とデートする権利……そんなものまで売るか? しかしそう言った物を買った人もあっけらかんとメールを著者に寄こし、それがまた公開されるのですからちょっと面白すぎます。
私の職場は「10年勤続するごとに連続特別休暇」がもらえます。で、私はその権利をあと一ヶ月で失うので(資格を得て1年以内に消化しないといけないのです)、明日から1週間休むことにしました。年度替わりの忙しいときに休むとは、なんと非常識な野郎でしょうか。でも、休みます。休みますとも。
腰の養生のためにできたらゆっくり湯治でも、と思っていましたが、子どもの登校日だの家の定期点検だのが入ってきて、結局近場の温泉やスーパー銭湯に日帰りで行くくらいしかできそうにありません。それでも子どもたちは家族で一緒に出かけることを楽しみにしている様子です。
……そんなに家族全員で出かけることがなかったっけ? ……あ゛、もしかして一年以上(私や家内の実家が関係しない純粋におかだ家だけのお出かけで考えると、もっと数字は大きくなります)……ちょっと反省。子どもが不憫じゃ。
少しmixiも休んで本当にの〜んびりしようかな。
【ただいま読書中】
景戒 著編、中田祝夫 全訳注、講談社(講談社学術文庫)、1978年初版(88年9刷)、480円
奈良末〜平安初期に成立した日本最古の説話集です。作者(「きょうかい」と読んでください)は僧で本書は一応仏教説話ということになっていますが、上巻は雄略天皇(5世紀)〜奈良時代初期までの説話を扱っていますので、仏教伝来前の話も混じっています。(中巻は奈良時代中期、下巻は奈良時代末期です)
そうそう、本書は「にほんりょういき」と読んでください。ついでですがフルネームだと「日本国現報善悪霊異記」となります。日本のこの世での善因善果悪因悪果の不思議な物語集、ということになるのでしょうか。
第二話「狐を妻として子を生ましめし縁」……奥さんをもらって子どももできたが、実は彼女は狐で、というよくある(?)お話ですが、最後がすごい。犬に吠えられて正体がばれて狐は出ていきますが、男は「子どもまで作った仲じゃないか。いつでもおいで。一緒に寝よう」と声をかけます。で、そのお言葉に甘えて時々やってきて寝るから、「来て寝る」=「来つ寝」→「きつね」だそうな。緊張感があるんだか無いんだか。
で、その子どもは強力で足が速い、というのは、第三話「雷(いかづち)の憙(むがしび)を得て、生ましめし子の強力在りし縁」と共通点があります。異能には超自然的な根拠がある、というのが昔の日本の常識だったのでしょう。
第四話「聖徳皇太子の異(くす)しき表(しるし)を示したまひし縁」は、景戒の聖徳太子に対する崇拝の念はよく伝わりますが、ちょっと突っ込みたいところが。十人の訴えを同時に聞いたとか(囲碁将棋チェスの多面指し(打ち)ですね)、道端の乞食が実は聖者であると見抜いて太子が衣を与えのちにその衣を(下賤の穢れがついていると周囲が心配したのに)平気で着た、は良いのですが、さらに後日その乞食が死んだとき墓を作って葬り、あとで様子を見に行ったら墓は開いていないのに死体は消えていた、「聖者は聖者を知る」だったのだ……ちょっと待って。墓を開いていないのに死体が消えていることがどうしてわかるの。論理がウロボロス(自分の尻尾を飲み込む蛇)になっています。死体が消えていることがわかっているから墓を暴くんだけど、墓を暴いたから死体が消えていることがわかる……しかも死体への執着は仏教思想(魂の輪廻転生からの解脱が重要で、死体はその抜け殻)とは無関係です(キリスト教だったら「墓から死体が消える」は別の意味で重要ですけど)。この時代、日本の仏教はきわめて「日本的」だった、ということでしょう。こんなことを言って仏教の聖者としての聖徳太子を崇拝する人にはごめんなさい、ですけど。
第七話「亀の命を贖ひて放生し、現報を得て亀に助けらえし縁」は、備後の僧弘済(ぐさい)が助けた亀に助けられるお話です。玉手箱はありませんが盗賊ならいます。
原文は漢文ですが、校注者が親切にも読み下し文にしてくれています。さらに原文についていた万葉仮名などの注をそのまま振り仮名に活かしているそうです。短めで読みやすい文章ですし、ゆったりと日本古代の雰囲気にひたってみるのはいかがでしょう。
マスコミが自民党のいろんな人の写真を並べています。「ふうん、この人はお父さんとちょっと顔が似てるな、こっちは似てないな」とか思いながら画面を眺めていますが、なんでマスコミってあんなに嬉しそうなんでしょう? 競馬予想じゃあるまいし、あれで何か良いことがあるのかな……あ、時間が潰れてスポンサーからお金がもらえるのか。それは嬉しいよね。
で、どんな人が今と将来の日本にとってふさわしい人なんでしょう。そのためには今の評価と将来の日本がどのような姿であるべきかの予想が必要ですね。そうすればその条件にふさわしい総理大臣の資質条件が出てきます。で、候補にその条件を当てはめれば、自動的に誰がふさわしいかがはじき出せると思うのですが……そんなややこしいことをやっちゃダメ? 選挙の結果選ばれた人に応じて日本の未来は選択されるべき? なんだか「田舎の病院を作るけど、どんな医者が行くかは都会の選挙で決める。その医者によって病院の科目が変わるから、その地域の疾病構造も病院に合わせて変わるように」と言われてるような気がするようなしないようなするような。
しかし、総理大臣だから偉い人だ、ではなくて、偉い人が総理大臣に、であって欲しい。「地位が人を作る」という言葉もありますから、伸びしろがある人が総理になるのには賛成ですけど。
【ただいま読書中】
長谷川五郎著、河出書房新社、2005年、2000円(税別)
私がオセロを知ったのは1970年代の真ん中当たりです。著者がツクダに話を持ち込んだのが1972年、日本オセロ連盟ができたのがその翌年ですから、けっこう初期から知っていたんだな……と思っていましたら、なんとオセロの原形は1945年にまで遡るそうです。空襲で焼けた水戸で中学生だった著者の発案で原形と様々なバリエーションゲームが出来、著者が製薬会社の営業マンとなるころには今の形(盤が緑色、コマが白と黒)に落ち着いていたそうです。
オセロは、ルールを覚えるのは数分間、でも奥は非常に深いものです。家庭レベルでは「隅を取ったら絶対有利」「隅の一つ内側(2の2の地点)は打つな」が鉄則ですが、競技レベルではそれは絶対的なものではなくて、状況とタイミングですべてが決まることが実戦譜で示されます。
著者たちは日本選手権を始めてから世界に普及させるために「イギリスのチェスチャンピオンに日本のオセロチャンピオンが挑戦」という企画を成立させています。その結果オセロは世界で評判となり、結局囲碁よりも9年早く世界選手権を始めています。著者も最初から書いていますが著者と含めたオセロ関係者の「普及の努力」を惜しまなかった態度には頭が下がります。
日本選手権で、石を返しているときに手が滑って一個の石を落とし、それを拾っている間に時間が切れて負け(実は盤面は勝ち)なんてエピソードを読むと、そのシビアさにはしびれます。囲碁や将棋でも時間切れ負けがありますが、ふつうは一手打つ/指すとすぐ対局時計を押せます。でもオセロでは石を返さなきゃいけない。もし大量に石を返す必要があるとそれをやっている間に時間切れ、もあり得るわけです。そんなのあり?
さらに盤が大きい(10×10)のグランドオセロとか、角が多い88オセロなんてのもあるそうで、好敵手がそばにいたら楽しめることは請け合いですね。
怪しい我、ではありません。
今日陶器のティーポットを洗っていたら、ばきっと取っ手が折れてしまいました。力が余ったな、新しいポットを買わなきゃ、指が痛い……で見ると血がぽたぽたと。左手の薬指第二関節の脇がざっくり切れてます。とりあえず一時間上に持ち上げて押さえてみましたが止血しません(たぶん指の脇の動脈が切れたのでしょう)。しかたなく外科に行って縫ってもらいました。問題は結婚指輪。すぐに外さなかったものですから傷が腫れて指輪が取れません。医師が「これは早く外しておかなきゃ」と言いながら力ずくで取ってくれました。傷にこすれて痛い血が出るひぃぃぃ。
薬指が曲がらないので「S」や「W」が打ちにくくて困ります。
そうそう、某マイミクのように来週抜糸を自分でやってそれを写真で公開しようかしら? 見たい人がいるかな。
【ただいま読書中】
手塚治虫原作、浦沢直樹作、小学館、2006年、1400円(税込み)
第1巻末でアトム、第2巻末ではウランが登場しましたが、この巻末ではいよいよPLUTOが……登場したことになるのかな。
深読みしようと思えばいくらでもできるでしょう(やろうと思えば、原作と一コマ一コマつき合わせて検討することだってできそうです)が、私はただシンプルに浦沢ワールドを楽しむことにします。たとえば、ロボットと人との区別がつきづらくなった時代にだからこそロボット排斥運動がどのような方向付けをされるのか、といった手塚さんとはまったく違ったアプローチを楽しむには、手塚さんの記憶でさえ一種のノイズとして働く可能性がありますから、
今回の豪華版の付録は「まんがノート」です。浦沢さんが高校生時代に『羅生門』を未来に移して描いた漫画ですが、みごとに手塚タッチです。「守破離」ですね。
31日(金)13579は素数か
足あと13579番を踏まれたのは Canon さんでした。おめでとうございます。すべての奇数を使った登り龍というのも珍しいですね。なにか良いことがありますように。
で、この数字を見ていると「もしかしてこれは素数ではないのではないか」という予感がしたものですから検討してみました。「正解」を書く前に、皆さん、ちょっと予想をしてみてください。
「13579は、素数か否か」
予想できました?
で、答ですが、素数ではありません。37×367に分解できます。では、367は素数でしょうか? これは答を書かずにおきましょう(いぢわるモード……というか、これの検証は簡単ですよね)。