2006年6月
 
2日(金)オリンピック
 「どのオリンピックを最初に覚えているか」でその人の世代が大体わかるような気がします。
 私の場合はもちろん東京五輪。目の前を通っていった聖火リレーとテレビ中継を学校の講堂で見たことはしっかり覚えています(視聴覚教室などは無かった時代でした。でもTVでやったのが何の競技だったかは覚えていません)。チャスラフスカヤ選手の優美なポーズやマラソンの円谷選手がゴールしてがっくりしているのに優勝したアベベ選手は余力がたっぷり残っている感じだったのが今でも深く印象に残っています。
 その次のメキシコではもちろんサッカー。そしてミュンヘンの惨劇。
 
 そうそう、オリンピックの順番を覚えていますか? アテネの前は? その前は? さらにその前は?
 
【ただいま読書中】
スノーボール・アース ──生命大進化をもたらした全地球凍結
ガブリエル・ウォーカー著、川上紳一監修、渡会圭子訳、早川書房、2004年初版(05年6版)、1900円(税別)
 
 1964年(東京オリンピックの年)、ボストンマラソンで生まれて初めてフルマラソンに挑戦したポール・ホフマンは2時間28分7秒で九位に入賞します。当時の世界記録に約14分差。夏の地質学調査をあきらめて本格的にトレーニングすれば秋のオリンピックに参加できるだろうか、とポールは悩みます。そのとき彼がマラソンを選択していたら、本書は生まれなかったかもしれません。現実には彼は研究を選択し、現在は、時にマラソンも走る地質学者(でハーバードの教授)になっています。
 カナダの北極圏で順調にキャリアを積んでいたポールは、官僚的な上層部と衝突して研究所を辞職、ハーバードに移って新しいフィールドワークの場をナミビアの先カンブリア紀の岩に求めます。大陸移動の証拠を得ようとしていたのですが、なぜかあちこちに氷河堆積物(アイス・ロック)が見つかるのです、赤道直下なのに。しかもそれは、先カンブリア紀の生命爆発の時期に一致しています。アイスロックと熱帯の温かい水の中でできる炭酸塩岩がくっきりとした境界線でくっついています。それはなぜなのか。ポールは考え始めます。
 大陸移動で極圏に入ったことがない土地でもなぜアイス・ロックが見つかるのか。アイス・ロックの地層の直後になぜ地球各地で炭酸塩岩の層があるのか。その発生メカニズムは? ここで何人もの人が「全地球凍結」を思いつきます。しかし先人は、炭酸塩岩の発生メカニズムが説明できず、また、凍結した地球の氷が溶けるメカニズムも説明できませんでした(一度凍ると太陽光線を高率に反射するから地球は暖まりにくくなります)。ポールは、共同研究者のダンと共に「アイスロックと炭酸塩岩・炭素同位体・鉄鉱石のなぞなどはすべて説明できた。地球は数十万年間あるいは数百万年間凍りついていたことがあるからだ。しかもそれは一回だけではなかった」と世界に宣言します。さらに地質学的な話だけではなくて生物学的(単細胞→多細胞動物への進化)についてもポールは言及し始めます。
 科学的に意外な現象がいくつも紹介されます。たとえば凍結した地球には「季節」があり、夏と冬の温度差は極端に大きいこと。凍結した地球では雨は降らないが、そこで地球温暖化ガス(二酸化炭素)はどう振る舞うか。……極端化された環境を考察することで、現在の地球環境がいかに巧妙に働いているかがわかります。本書は過去の地球に関する仮説の本ですが、同時に現在の地球に関する本でもあります。
 
 著者は本書に登場する科学者たちの人柄と行動について、詳細に書きます。単に面白おかしく「変わり者の科学者」を登場させたいからではなくて、「物語」に厚みを与えるために。石からは地球の物語が読めます。そしてそれを読むための科学者の行動(フィールドワークや実験室での研究や議論)も物語そのものです。そしてその科学者自身も一個の物語。このように重層的に書くことによって本書は大変面白い科学読み物になっています。全地球凍結をポール・ホフマンの前に言い出したブライアン・ハーランドに関しても、その人柄の描写や遭難したときの話など、さらりと書かれていますが、著者が周りの人間に暖かい視線を送っていることが私にはうかがえる書き方です。
 ただ、科学者同士の「論争」には著者はげんなりしている節があります。揚げ足取りや文脈をねじ曲げた誤引用、感情的な人格攻撃……ネットのあちこちで見られるフレーミングやクソ議論と同類ではありませんか。「知的な優秀性」と「人格の高潔さ」が相関関係にないことは知っていますが、それでもやっぱり私もげんなり……『科学が作られているとき』には学問的に書かれていた「論争(による正当性の獲得)」がこちらでは生々しく書かれています。
 
 本書は『恐竜はネメシスを見たか』の直系の子孫と言えます。二冊に共通するのは全地球的かつ歴史的かつ様々な科学を俯瞰して見る視野が示されることと、現場にいる人たちの人間くささです。フィールドワークに関しては『スノーボール・アース』の方が厳しいかな。北極圏ではクマに襲われ、アフリカでは怒った象の群れと単身素手で対峙するのですから。
 NHKスペシャル「地球大進化」でも「全球凍結」は印象的な回でしたが、テレビは情報量が少ないのでCGのきれいさが目立っていました。本書で背景情報が充実したのでどこかにしまってあるビデオを見直してみようかな。
 
 
3日(土)1.25
 「1.29ショック」ということばは2年前でしたっけ? このまま順調に出生率が低下していったらそのうちに中国の一人っ子政策がなぜか日本で大成功した、ということにもなりかねませんね。
 お役所もこうなったら恥も外聞も捨てて、出生率上昇のためのアイデアを全世界から公募したらどうでしょう。その中から使えそうなものをかたっぱしからやってみるの。でも本当に使えるかどうかまず試験してみる必要がありますね。その「実験」の場はもちろん厚生労働省です。まず身をもって「それ」が使えるかどうかを試してみて、省内で出生率が上がればそれを全国に拡大していくのです。あ、そうそう、出生率低下が問題だ問題だ、と言っているマスコミ各社も実験に参加してもらいましょう。まさか自分たちはその「問題の外側」にいる、なんて思っていないですよね。
 
【ただいま読書中】
ニッポン・サーカス物語 〈海を越えた軽業・曲芸師たち〉
三好一著、白水社、1993年、2330円(税別)
 
 1864年、横浜にアメリカから「リズリー・サーカス」がやってきます。横浜での巡業は大入りでしたが他の地域での巡業は許可されず、結局リズリーは牛乳屋を始めます。しかしそれも失敗。めげないリズリーは日本の軽業・曲芸師を18人集めて「帝国日本芸人一座」を結成し、1866年(慶応二年)アメリカに渡ります。演し物は、足芸・手品・曲コマ・角兵衛獅子などなど。最終的に目指すはパリ万博。サンフランシスコでの興行は成功し、つぎはニューヨーク。一行はまず海路パナマに向かい、ついで汽車に乗り換えてパナマ地峡を横断、また海路ニューヨークに向かいます。これだけで24日の旅です。そうか、この時はまだ大陸横断鉄道もパナマ運河もできていなかったんですね。ワシントン興行ではジョンソン大統領まで見物にやって来るという大成功で一行は意気揚々とパリに向かいます。ロンドンで曲コマ師の松井菊治郎が病死しますが、葬ったロンドンの墓地にすでに日本人の墓が二つあったというのには驚かされます。さらに、当時渡欧した一座は彼らだけではありませんでした。パリでは他の日本人一座とかちあって技比べをしています。鎖国が解けたばかりなのに、当時の日本人は逞しく世界中に出かけていったのですね。
 明治になってから、日本から西洋を目指す軽業・曲芸師たちの数は増加し、逆に日本にやってくる西洋のサーカスや曲芸一座も増えます。エンターテインメントの東西交流です。そうそう、明治20年2月には上野動物園に虎の子どもが二頭(雄雌一頭ずつ)お目見えします。実はこれ、当時秋葉原で興行中だったチャリニ曲馬一座で生まれたものを上野で生まれた熊の子と交換したものでした。なにしろ動物園では本邦初の虎ですから人気は沸騰。動物園への入場者は急増したそうです。これが本当の「虎の子」と著者は洒落ていますが、一昔前に上野動物園にパンダが初めてやってきたときのような騒ぎだったのかな、と思います。日本人は、昔からそれほど変わっていないのかしら?
 
 
4日(日)本日は不漁
 潮干狩りに行ってきました。朝起きたら(少し前に書いた)ポイントの行使を次男が言い出して、小潮だし午前10時前の干潮だからろくに遊べないぞ、と思いながらも朝飯くったらすぐ出発。駐車場代とフェリー代合わせて2000円で昼過ぎまで親子三人で遊べました。
 成果は……タイトルの通り。やっぱり大潮の時でないと駄目ですね。次男は辛気くさく貝を掘るよりも流木を振り回しながら半ズボンが濡れるくらい海に踏み込んでます。まあ、良いんですけど。私も腰をかばいながらですから戦力にならないし。
 しかし自宅を出たら1時間以内に海で遊べる(で、やろうと思えば冬には1時間でスキー場にも行ける)環境は考えてみたら贅沢なものかもしれません。ちゃんと使えてないのが残念ですが。
 
 写真は潮干狩りから港まで帰る途中で見つけた、赤いポストと消火栓。レトロな町です。あと、手押しポンプがあったらよかったのになあ。探せばどこかにあったかも。
 
【ただいま読書中】
日本の名湯を旅する ──中部・北陸編』 JAF出版社温泉ガイド
地図・旅行書籍編集部 編集、JAF出版社、2006年、1800円(税別)
 
 旅をするのにインターネットでチェックするのがいつのまにか当たり前になりましたが、私はガイドブックを見る方が落ち着きます。本書は135温泉の354の宿を網羅的に紹介しているガイドです。いやあ、範囲が広すぎて情報が薄くなっています。温泉を紹介するのならたとえば県単位とか思い切って温泉単位で絞り込まないと、宿もほとんど名前だけの紹介……と思っていましたが、巻末を見て納得。本書はJAF出版社のものですから巻末にロード・マップが掲載されています。そう、本書はある意味JAFとJAFが出している地図の宣伝でもあるのでしょう。だったらなるべく広い範囲を紹介して、次々車で訪れてくれ、という主張にするのも「正解」です。
 
 料理の写真、美味しそうです。お風呂の写真、くつろげそうです。でも、どんなにきれいに浴室の写真を撮ってあっても、実は私には無意味です。だって、眼鏡を外したらほとんど何も見えないんですもの。
 
 付加価値のためか、特集が「文人が愛した温泉」で、湯ヶ野温泉(川端康成)・新穂高温泉(井上靖)・湯ヶ島温泉(梶井基次郎)・芦原温泉(水上勉)が上げられています。本読みには嬉しい特集ですが、もうちょっと数を増やしてもらえなかったかなあ。本のスペースの関係で難しいとは思いますが。
 コラム「温泉まめ知識」もいろいろ書いてありますが、私が興味を持ったのは「医師の指導で効果的な湯治を」「温泉たまごは個性的」「温泉入浴プログラム」です。私がいま抱えている腰痛と肩痛、温泉で治せるものなら治したい。
 
 コラムには飲泉のことも書いてあります。ただ、本書で見る限り、飲泉ができる温泉が意外に少ないこともわかります。レジオネラの問題が本当に解決しないと、安心して飲泉はできないんじゃないかしら。塩素を浴槽に放り込んだから安心、てな問題ではないでしょう。
 
 
5日(月)何があった?
 秋田の小学児童殺人事件で、殺人の前に川で死体で発見された女児の母親が逮捕されました。容疑は現時点では死体遺棄ですが、もしそれが確かなら、「あら、こんなところに死体が。捨てておきましょう」のわけはありませんから、彼女が犯人ということになるのでしょう。
 その場合、彼女の娘の死亡とはどうつながるのでしょう?
 事故だとすると、「あれは事故ではない」と思い込んだ容疑者が事故ではないことを「証明」するために近所の子どもを殺した。あるいは「あの家の人間に殺された」と勝手に思い込んで「復讐」のためにその家の子どもを殺した。この二つを私はとりあえず思いつきます。
 もし事件だったら……こんどはその犯人が問題になります。赤の他人だったら……「あれは事件だ」ということを「証明」するために容疑者が……(前の段落に書いたとおり) それとも容疑者が自分の娘を殺した? その場合は「あれは事故ではない。早く事件として捜査して犯人(=自分)を捕まえてちょうだい」と主張するために新しい事件を起こした、ということもあり得ます。
 おっと、大切なことを忘れていました。容疑者が犯人ではない、という場合です。騒いでも騒がなくても捜査には影響はないので(少なくとも手助けにはならない)、静かに見まもることにいたします。
 
【ただいま読書中】
ファーブル昆虫記』第1巻 上
ジャン=アンリ・ファーブル著、奥本大三郎訳、集英社、2005年、2381円(税別)
 
 既読者には説明は不要でしょうが、プロヴァンスの美しい春の描写で本書は始まります。まるで「サウンド・オブ・ミュージック」のオープニングのダウンスケール版のように、春の野原の上を著者の視点は飛び回り少しずつ地表をクローズアップしていくと……そこにいるのはマリアではなくて糞の山。そしてそこに集っている糞ころがしたちです。ファーブルは絶対狙ってやってますね。なぜにわざわざ初っぱなが糞ころがしですか。いや、糞ころがしでも良いですが、なんでこんな美しい出だしにしますか? あまりに印象が強すぎて、私は初めて読んだ小学生のときにしっかり記憶にこの構成が刷り込まれてしまいました。
 『ファーブル』の初訳者である大杉栄(無政府主義者、関東大震災直後のどさくさ、甘粕事件で殺される)が「其の徹底的糞虫さ加減!」と感歎したスカラベの行動をファーブルは精緻に観察します。観察するだけではなくて実験し解剖をし、スカラベの「本質」に迫ろうとします。その態度はまさしく科学者です。しかし本書の美しさと愉しさは、ファーブルの心が芸術家であることを示しています。科学と芸術の両立、それが本書の魅力です。さらに虫の生態についても詳しくなれるのですから、一粒で何回美味しい本なのでしょうか。
 糞ころがしの次に登場するコブツチスガリも印象的です。肉食の幼虫のためにゾウムシを一頭(本書では昆虫は「頭」で数えられます)丸ごと、運動神経だけを殺して巣穴に保存し、卵からかえった幼虫はその新鮮なお肉を食べて成長していく……このイメージは強烈でした。ただ、私は『ファーブル昆虫記』で虫好きにはなりませんでした。私が学んだのは、今にして思うと、論理的な思考と観察の重要性です。観察が伴わない思考は机上の空論だし、思考が伴わない観察はただの見物でしかない、それを学んだような気がします。コブツチスガリの行動を精密に観察し論理的に思考をすることでその生態の謎を解くファーブルの態度は、現代においても立派に通用するものです。
 
 ……子ども時代に『ファーブル昆虫記』をもう少し深く読み込めていたら、私は今よりもう少しまともな大人になれていたかもしれません。ああ、残念。
 
 
7日(水)戦犯
 靖国神社とA級戦犯の話ではなくて、日本人をたくさん殺した日本人戦犯の話です。
 たとえばガダルカナル島(餓島)。最前線の島にほんの少しだけ守備兵をつけただけで工兵と軍属を派遣するって、囮ですか? で、米軍に島を攻撃・占領されたら「どうせ敵は少数だろう」と確認もせずにその「少数」に見合うだけの部隊を送ってぼこぼこにやられる。あわてて戦力を逐次投入するも、結局人数も装備も不足、食料は現地調達……これでは兵隊に無駄死にを強制しているだけです。あんなにたくさん悲惨な状況で殺した責任者、出てこい! いや、現地の指揮官は出てこなくて良いです。こういった作戦を立てた人、その人を私は個人的に戦犯認定。
 事情はある程度はわかります。補給線が伸びきっていて、占領地域も多すぎて手が回らなかったのでしょう。要するに進出限界点を越えていたわけ。だったらそこで止まる、という選択肢はナシ? そういった判断と決断ができない人が、エライの?
 
 あるいは、ポツダム宣言を「黙殺」すると決めた人たち。8月の5日より前に受けていれば、少なくとも広島・長崎はなかったでしょうし、ソ連の対日参戦もなかった……かな? ソ連に関してはまた別の形で何かあったかもしれませんから断言は避けます。
 それでも、アメリカによる日本人数十万人虐殺への共犯として、ポツダム宣言をすぐに受けないように行動(妨害)した人を私は個人的に戦犯認定です。
 
 結果から批判するのは簡単? 戦争は結果論です。「殺人」ではなくて「過失致死」だとしても、そんな「過失」を犯す人間に、戦時であろうと平和時であろうと組織の上の方にはいて欲しくありません(本当は組織の下の方にもいて欲しくない。敵の側にいるのは大歓迎ですけど)。
 それに情状酌量をするとしても、戦犯認定をした「後」ですね。
 
【ただいま読書中】
別れを告げに来た男』 新潮文庫
フリーマントル著、中村能三訳、新潮社、1979年初版(87年17刷)、360円
 
 ソ連の宇宙科学の大物アレクサンドル・ベノヴィッチがイギリスに亡命します。西側は驚喜しますが、ベノヴィッチとペアを組んでソ連のロケット開発をリードしていたもう一人の大物ヴィクトル・パーヴェルまでが続いてイギリスに亡命してきます。イギリスの驚喜は狂喜乱舞に変わります。しかし、パーヴェルから事情聴取したエィドリアンは違和感を感じます。パーヴェルの態度そして行動に、普通の亡命者とは違ったものが感じられるのです。しかし、狂喜乱舞をしている政府はそんなエィドリアンの違和感を一蹴します。さっさと情報を搾り取ってアメリカに高く売りつけよう、と細心の注意を払って事を進めようとするエィドリアンの事情聴取に口をはさみ「はやくはやく」とプレッシャーをかけます。
 
 フリーマントルのスパイ小説は、ちっとも派手ではありません。ハリウッドや007の映画のような、銃撃戦もカーチェイスもラブアフェアもありません。人々は淡々と「お仕事」(日常業務)としてスパイ業務を行い、その結果何かがおきることもありますが、ほとんどの場合はなにもおきません。読み進むにつれて、仕事場に持ち込まれた日常生活のかけら・心の中で思うだけで語られないことば・語られないことばに対する憶測などがつぎつぎ積み重なり、フリーマントル独特の世界をゆっくりと作っていきます。特に主人公エィドリアンの性格描写はみごとです。12カ国語をあやつり頭脳は天才級なのに、優しい性格を「弱さ」と曲解されて周りの人間に侮られ踏みつけにされる……その頭脳を正しく評価するのはイギリス側ではなくて「敵」であるソ連の人間ですし、その優しさを高く評価するのはエィドリアンと妻の離婚問題が発生する原因となった妻の交際相手です。「味方」には利用されるだけで侮られ「敵」には高く評価されるとはなんとも皮肉ですが、人生ってそんなものかもしれません。頭が切れなくても他人を操作することに長けた人間が権力を握っていたら、結局エィドリアンのような人間は……おっと、なぜか感情移入をしてしまった。
 
 ……ただ、エィドリアンの行動を見ていると、決断とか毅然ということばを欠いた「優しさ」は、結局「弱さ」と区別がつかなくなってしまうのではないか、とも思います。はじめは表面上だけ。しかしその「癖」がついてしまったら本質的にも。
 
 
8日(木)「いや、なんでもない」
 本当に何でもない状況では最初から使われない言葉。
 
【ただいま読書中】
オー・ヘンリー名作集
オー・ヘンリー著、西田義和訳、文化書房博文社、1990年、1748円(税別)
 
 著者は生涯で約300編の作品を書いていますが、そのすべてが短編なんだそうです。本書ではそのうちから17編が取りあげられています。『賢者の贈り物』で始まり、中締めが『最後の一葉』、そしてラストは『取り戻された改心』……読んだことがない人でもあらすじは知っているであろう有名な作品が多いラインナップです。
 『賢者の贈り物』……クリスマスのプレゼントのために、妻が自慢の髪の毛を売って夫の金時計のために鎖を買えば、夫は自慢の時計を売って妻のために櫛を買ってくる……なんとも間抜けなすれ違いですが、そこに敢えて「賢者」と持ってくるところが著者らしい。行為だけ見たら著者が述べているように「愚かな子供っぽい」カップルですが、ではなぜ「賢者」なのか? 私は二人の犠牲の精神と静かな愛情に「賢者」の資格を求めたいと思います。
 「二人の愛情」といえば、『賢者の贈り物』ではじーんとくるのに、『アラカルトの春』ではラストの「いとしいウォルター」という部分を読んだ瞬間こちらは爆発的な笑いを誘われるのですから、まったく著者は曲者です。
 アクセサリーを描写してからそれにくっついたご婦人、と言ってみたり(『多忙な仲買人のロマンス』)、「それから暦がうそをついて、春がきたと告げた」と書いてみたり(『アラカルトの春』)、著者のものの見方はちょっと一般とはずれていますが、でもそれは別に意地悪や自慢や皮肉とは無縁なのです。
 『水車のある教会』……ここでは慈善がテーマなのかな、著者はやっぱりキリスト教徒だな、などと思って読んでいて……最後に近づいてやっと私は気づきます。これは、いや、著者の書く物語はすべて「小さな奇跡の物語」なのだ、と。奇跡のような出会い、奇跡のようなすれ違い、奇跡のような勘違い……一人あるいはせいぜい二人までの世界にしか影響を与えない小さな奇跡ではありますが、その奇跡は当人(たち)には間違いなく大きな奇跡なのです。考えてみたら「今ここに私がこうして生きていること」も実は奇跡的なことではあるのですが、そのことに著者は静かに気づかせてくれるのです。
 
 苦言も一つ。訳文のこなれが悪い本です。特に『一ドルの価値』は読んでいて苦痛でした。せめて各文章の末尾は統一して欲しいし、「仕返しをしょう」「「復讐をしょう」は「仕返しをしよう」「復讐をしよう」でしょうし、なにより女性がときに男言葉を使うのは勘弁して欲しいなあ。
 
 
9日(金)スポーツとビール
 日本では、ビールと共に楽しめないスポーツは人気が出ない、と私は思っていました。例えば、ゴルフや野球。どちらもビールを飲みながら観戦できます。ゴルフなんかビールを飲みながらプレイする人までいます。だけどサッカーではビールをのんびり飲んでいたら決定的シーンを見逃してしまいます。ボールが動いている限り、じっと見まもらなければなりません。だからサッカーは日本ではなかなか人気が定着しないんだ、と思っていましたが……Jリーグが創設され、ワールドカップへの出場が日常の出来事になり、どうも事情が変わってきたようです。
 ……また別の「理論」を考えなきゃいけないな。
 
【ただいま読書中】
サッカーMONO物語
伊東武彦著、ベースボール・マガジン社、2000年、1500円(税別)
 
 サッカーに関するモノといえば……ボール・シューズ・ユニフォーム……あとは何があったっけ?……と思いつつ本書の目次を開きます。私が思いついたもの以外で並んでいるのが、フリーキック練習器・ゴールポスト・ビブス・イエロー&レッドカード・キーパーグラブ・キャプテンマーク……単にボールを蹴るだけのスポーツなのに、いろんなモノが必要なんですね。
 本書はJリーグ開始2年目から5年目まで『週刊サッカー・マガジン』に連載されたものをまとめたものです。著者が前書きで書いているように、サッカーの技術と同様モノも日進月歩です。したがって本書はすでに「古い」本です。でも、モノと人のドラマは古くないはず。
 
 「ゴールポスト」に関して、私はいろいろ新発見がありました。たとえば日本中でゴールポストを見たら貧しさがすぐわかる、とか。ゴールポストは移動式と埋め込み式に大別できます。サッカー専用のグラウンドなら移動させる必要はありませんから地面に埋め込まれた固定式、そうでないサッカーに関して貧しい環境(たとえばそのへんの学校のグラウンド)では持ち運びできるように箱形のゴールとなっています。簡単に見分けるのは、開口部のゴールバーの後ろにもう一本支持バーがあるかどうか、です。移動式だと箱形を維持するために美観を損ねる余分なバーが一本ついているのです。
 時にシュートがバーやポストを叩いて跳ね返されるシーンがありますが、それを見るたびに私は「あの細い棒を狙ってシュートしても当たらないだろうになんでわざわざあそこに行くかねえ」などと思っていました。ところがこのことについても本書では、ポストやバーの太さは12センチ(ピッチを縁取るラインと同じ太さ)と規定されているため、全表面積は1.5平方メートルになる、とあります。意外に幅を取っているんですね。だとするとシュートが命中するのも確率的にはそれほど不自然ではない、ということになるのでしょう(数字を言われるとすぐ頭を下げちゃう私)。
 「ビブス」……練習試合の時に練習シャツやユニフォームの上に羽織るチョッキのようなウエアです。このビブスの色によって選手は自分がレギュラーなのか控えなのかを知らされます。この章は、まず北沢選手のビブスの色に対するこだわりについての話から始まり、そしていつの間にかカズ選手に視点が移ります。日本のトップでプレイしていたカズが、いつの間にかベテランになりフランス・ワールドカップの選考メンバーから最後の最後に落とされた後のお話は印象的です。力が落ちてもチームで果たすべき役割があることを信じそれを模索し続ける態度には頭が下がります。旬の人間にだけ注目し次から次に「人気者」を追いかけているだけではいけない、と思います。
 「イエロー&レッドカード」……このカードが登場したのは1960年代後半(メキシコオリンピックの直前)。競技規則に明文化されたのは1992年。意外に歴史が新しいんですね。知りませんでした。
 「ボール」……白黒の亀甲形ボールがサッカーボールの定番、と思っていましたが、実はそれが最後にワールドカップで使われたのは74年西ドイツ大会で、そのあとからはデザイン商品が次々使われています。ところが亀甲形ボールが日本で定番になったのは1965年に日本サッカーリーグが発足してそこで公式球として採用されてからで、それまでは茶色か白のバレーボールタイプのボールが広く使われていたそうです。ただ、高校サッカーでは規則で亀甲形ボールが使われ続けています。
 1987年のトヨタカップは雪の中で開催されましたが(私もあの時の画像は覚えています)、そこで使われたのはカラーボールでした。しかし店に在庫がありません。やっと倉庫から一つ見つかりました。しかし試合開始後10分、雪の中での酷使に耐えられずボールが破裂します(これは私は覚えていませんでした)。予備球はあと一つです。さあ、どうする?
 ……いやあ、ボール一つでも面白いエピソードは山ほどありそうです。蹴ると音が出る「メロディーメイト」が盲学校で愛用されて、とうとう晴眼者のチームと対戦するエピソードは……県立盲学校チーム「ペガサス」は合宿をし、連日八時間以上の練習をします。しかしスコアは0ー24の大敗。ところが試合後、対戦チームの大森FCがこの試合に備えて二ヵ月以上狭いコートに対応するための練習を積んできたことを盲学校の顧問教師は知ります。これがスポーツですよね。ちなみに3年後にペガサスはついに大森FCから初得点を奪います。その時のスコアは1ー2。これだけで本が一冊書けますね。というか、誰か書かない?
 キャプテンマークでの柱谷、キーパーグラブの小島、シューズでのジョン・ホリンズ……やはりモノと人との物語は、ちっとも古くはなりません。サッカーのことをまるで知らない人でも楽しめる本です。サッカーのことを知っていたら、もっと楽します。
 
 
10日(土)ダイヤの乱れ
 事故などで列車が大幅に遅れたときに、苛立った客が駅員を殴った、なんてニュースが流れることがあります。それを見ると私は不思議に思います。だって列車が遅れたのはその駅員の責任じゃないでしょうし、もしその駅員の責任だとしても客が駅員を殴ってなにか良いことが起きる可能性は限りなく低いというのが私の判断だからです。
 私が一番待たされたのは……学生時代に事故のために国鉄が完全に不通になって一晩駅で過ごしたことかな。22時に乗るはずの列車がやって来たのはたしか朝の5時頃。あくびしながら乗りましたっけ。待合室の椅子は一晩過ごすには向いていないことははっきりわかりました。
 あとは……これまた古いのですが、国鉄の遵法闘争(懐かしい死語です)で乗っていた夜行寝台が三時間以上遅れたことがあります。大学の入学式に向かっていたのに、まったく何たることだ、と思いましたが、遅れることは折り込んで前日に到着するようにスケジュールを組んでいたので、延着払戻金でその夜の宿泊料金が出せてかえって儲けた気になりました。(入寮も入学に合わせていたので、前日は近くに泊まったのです)
 
 何かの陰謀で列車が遅れたのなら私も怒りますが、事故だったらある程度はしかたないですよね。怒った客への応対よりもダイヤの復旧の方に職員の全精力をつぎ込んでもらいたいなあ、というのが私の要望です。少なくとも私は「怒った客」になる予定はありませんから。
 
【ただいま読書中】
列車ダイヤのひみつ
富井規雄著、成山堂書店、2005年、2600円(税別)
 
 まるで子ども向けの本のようなタイトルですが、中身は成人向けです。といっても「鉄」だったら中学生くらいで読めるかもしれません。
 
 実際のダイヤの図が紹介されていますが……読むのはまだ何とかなりますが(といっても、五秒刻みで発着が読み取れるように工夫された記号や列車番号などを解読できるようになるには相当年期が必要でしょうけれど)、これを組む(スジを引く)のはものすごく大変であることは一目瞭然です。コンピュータプログラムも発達してきてはいますが、やはり「どのようなダイヤがよいか」を人が決める以上、結局ダイヤ作成は職人芸だそうです。
 
 ダイヤはただスジを引けば良いというものではありません。車両の運用(編成や検査・清掃なども含む)・乗務員の運用・構内作業(駅や車両基地での車両の移動スケジュール)などもすべて含めて計画する必要があります。つまりダイヤは鉄道というシステムに働く者すべてが共通に持つべき情報なのです。
 どのようにきれいなダイヤを運用していても、必ずそれは乱れます。遅延の一番の原因は、乗客。乗降に時間がかかったり特定のドア(エスカレーターのそばなど)に乗客が集中してなかなかドアが閉められなかったりしたら、それは遅延を生み出します。さらに事故や災害。ほんのわずかの初期遅延も放置したら雪だるま式に拡大していきます。
 遅延が生じた場合、ダイヤを一時的に変更して遅延を元に戻すことを「運転整理」と言うそうです。一度乱れた多数の列車を同時に動かし、遅延によってたまった乗客をなるべく早くさばく……言うのは簡単ですが、やるためには頭の中にスパコンが必要です。
 はじめからダイヤに余裕を含ませておけば外乱には強いけれど、効率は悪くなります。1時間当たりで運転できる本数が減ったり車両や人員が遊んでしまったり電車が長く止まっているためにそのホームが使えなくなってしまったり……余裕がなければ悲劇が生まれやすくなりますが、余裕が多すぎたらそれは無駄。そのせめぎ合いの中でダイヤは決定されます。
 
 本書ではダイヤグラムを組む目的は、1が安全運行、2が定時運行、と述べられていますが、例としてJR西日本の複々線とそれと交わる東西線・宝塚線との絶妙な接続が上げられているのを読むと、複雑な気分です。これは著者の責任ではないのですが(本書の発行は平成17年の2月)、あの事故が発行の前に起きていたら、本書の内容はもっと違ったものになっていたでしょう。、
 
 本書からおまけのトリビア。「出発進行」とは鉄道用語です。出発信号が青信号の場合にかけることばですが、これは青信号を進行信号と呼ぶからだそうです。
 もう一つ。「定時運行」の定義は国によって違います。5分以内の遅れを定時運行とする国もありますし15分でもOKという国もあります。ちなみに日本は「1分」。1分以上遅れたら「遅れた〜」という世界でも珍しい国なんです。
 
 
11日(日)ドミニカ棄民
 先週書こうと思ってうっかり忘れていました。
 国の甘言を信じて移民したらひどい目にあった、というのが明治時代の話かと思ったら戦後のことなんですね。で「ひどいじゃないか」と政府に抗議しても相手にされないからとうとう裁判になった、ということです。で、判決が出たのがつい先日のことですが……「政府のやったことは確かにひどい。でも古い話だからなかったことにしてやれ」って……
 
 国の言うことを信じて移民する人は、つまりは「政府を信じる人(つまりは政府の信奉者)」です。その「政府を信じる人」が政府を相手に訴訟を起こす、ということ自体が実は彼らにとっては大変なことです。その思いの重さを国や司法はそんなに軽く蹴飛ばしていいのかなあ。
 指名手配された容疑者が海外に逃げた場合には時効は停止、ではありませんでしたっけ? それと同様に被害を受けた人が日本の法の保護下にいなかった期間は「時効」からはずしてはいけませんか? 法を機械的に適用する人には別に問題はないのかもしれませんが、社会正義の実現という観点からはそれは「正しい」態度ですか?
 
 小泉首相は「今後ともしっかり対応を」と言ったと新聞には書いてありますが、「今『後』」ではなくて、現在完了進行形での「今」に対する対応はしないのかな。
ドミニカ移民について詳しくは「ドミニカ移民 裁判」などで検索してみてください。
 
【ただいま読書中】
ダイ・ハード』 原題 NOTHING LASTS FOREVER
ロデリック・ソープ著、黒丸尚訳、新潮社(新潮文庫)、1988年、427円(税別)
 
 「ダイ・ハード」と「ロボ・コップ」の共通点は? ヒーローものでタイトルが同じ文字数で……映画の続編が出れば出るほど駄作になっていくこと(ファンの人には、ごめん)。
 
 第二次世界大戦の英雄で、戦後は警察官だったリーランドはクリスマスを過ごそうとロサンジェルス行きの飛行機に乗ります。映画とは違って、離婚した妻はすでに死んでおり、訪ねるのはやはり離婚して二人の子を育てているやり手のキャリアウーマンである娘のところです。空港に迎えに来たのは豪華なリムジン。連れて行かれたのはさらに豪華な40階建てのビルです。中ではでかい契約を取れた祝いを兼ねたクリスマスパーティーが開かれてましたが、そこでリーランドはコカインの臭いをかぎ取ります。娘は何かまずいことに足を突っ込んでいるのではないか、と疑念を抱くリーランドですが、そのときテロリストがビルを占拠します。
 偶然裸足のワンマンアーミーとなってしまったリーランドは、たった一人でテロリストと戦うことになります。相手は突撃銃やマシンガンやプラスチック爆弾やロケット・ランチャーを持っていますが、リーランドが所持しているのはたった一丁の拳銃だけ……と、ビル内でのできごとやことの流れは大体映画と似ていますが、映画と小説で大きく違うのがヒーロー像です。想像力が非情に豊かで、閉所恐怖症と落下恐怖症があるヒーローなんです。しかも孫持ち。そうそう、ピストルも違います。映画ではベレッタM92でしたが、本書ではブラウニング(私はブローニングという方が馴染みがあるのですが)。一人、また一人とテロリストを始末していくやり口は、テロリストの視点から描いたら立派なホラーです。姿が見えない敵によって仲間が一人ずつ理不尽な死に方をしていくのですから。
 そうそう、テロリスト像やテロの目的に関しては、本書より映画の方が詳しく(かつ納得のいく)描き方をされています。なぜビルを占拠するのか、そしてその事実をなぜ外に知らせるのか、どう脱出するのか、などについては脚本家の腕が良いな、という感想を抱きました。原作の雰囲気をちゃんと移植した上でさらに詳細を書き込んでいるのですから。
 
 なおリーランドに関しては「The Detective」という前作があって、フランク・シナトラ主演で映画化もされているそうです(「刑事」)。縁があったらお目にかかりたいものです。
 
 
12日(月)早起きは三文の得?
 サマータイム推進論者の言い分を聞くと、省エネになるし明るい内に退勤した人がこんどはスポーツなどをするから景気も上向く、ということらしいですね。省エネと景気上昇とが上手く両立するのか?と聞きたい気もしますが、それ以前に、サマータイムよりもクールビズの徹底の方が省エネには貢献しそうですし(いくら勤務時間をシフトしても、どうせオフィスでは蛍光灯とエアコンはつけっぱなしでしょうから)、定時退社の徹底の方が「五時から」の遊びの励行には役立ちそうです。というか、定時退社ができない状態のままではいくらサマータイムで勤務時間をシフトしても結局日本の状態は「一時間ずれただけ」で大きな変化はナシ、となるのがオチではないでしょうか。
 早起きが好きな人は、他人に強制していないで自分だけでも早起きして散歩やラジオ体操をしていたらどうなんでしょう。その姿がとっても素敵だったら、強制しなくても周りの人間がどんどん真似をするかもしれません。
 
【ただいま読書中】
まことに残念ですが… ──不朽の名作への「不採用通知」160選
アンドレ・バーナード編著、木原武一監修、中原裕子訳、徳間書店、1994年、1553円(税別)
 
 まことに残念ですが、アメリカの読者は中国のことなど一切興味がありません:『大地』パール・バック
 この少女は、作品を“好奇心”以上のレベルに高めるための、特別な観察力や感受性に欠けてるように思われます:『アンネの日記』アンネ・フランク
 船竿の先で触れるのもごめんだ:『十人並みの女たちの夢』サミュエル・ベケット
 ……たいして将来性のないマイナーな作家だ。この作品は、一般読者にはおもしろくなく、科学的知識のある者にはもの足りない:『タイム・マシン』H.G.ウェルズ
 連載するには短かすぎ、読み切り物としては長すぎる:『緋色の研究』アーサー・コナン・ドイル
 
 出版社が原稿を送ってきた人に対して書いた断り状を集めた本です。
 素直に笑って良いものかどうか、と思いながらも、私は笑い転げてしまいます。こういった引用だけで今日の日記は終わってしまいそう。「こんな名作を没にして」と没にした編集者をネタに笑うこともできますし、「こんな口実で断るのか」と編集者の苦労をしのびながら笑うこともできます(やっぱり笑うのか)。
 
 本書のコラムも充実しています。たとえば、ギネス・ブックによると、「出版社に拒否された回数のもっとも多い原稿は、スティーヴ・カントン著『ダスティ・ロード』の314回」だそうです。……ほ、ほんと?
 さらにコラムから。チャック・ロスというフリーライターが、全米図書賞を受けた小説『異境』(イエールジ・コジンスキー)の最初の21ページをタイプして無名の新人として出版社に送りつけたところ、全部の社から突き返されました。さらに小説全部をタイプして送っても、結局14の出版社(と13のエージェント)がけんもほろろに断ってきたそうです(なんと、その中には『異境』を出版した社もあったそうな)。う〜む、作品の知名度とか価値って……
 
 エドガー・ライス・バローズ、J.G.バラード、ギュンター・グラス、アンブローズ・ビアス、マルセル・プルースト、アガサ・クリスティ、チャールズ・ディケンズ……「ええっ、この人のこの作品が、こんなことばで没だって?」と言いたくなるリストです。未読の作品については評価できませんから、なるべく広い範囲でたくさん読んでいればいるほど本書を楽しめるかもしれません。ただし、「名作」を没にした人を間抜け扱いして喜ぶ本ではありません。私でも篩い分けの場にいたとしたら、自分の感性に合わないものは没にするでしょう。で、「自分の感性に合わないもの」は「他人の感性には合うもの」ですから、もし私が没にしたものが他人の手によって世に出てヒットしたら、私は「名作を没にした間抜け」になってしまうわけです。ああ、そんな場で仕事をする立場でなくてよかった。
 
 「残念ですが」というのは断るためのただのまくらことばでしょうが、歴史をふりかえってみたら本当に残念なのはベストセラーを逃した編集者です。だけど、もし「これは売れないだろうけど、しかたない、採用しておいてやろう」といった程度で採用されていたら、熱意のない編集者のもとではその本はベストセラーにはならなかったかもしれません。その場合には残念なのは読者の方です。
 
 結論は平凡です。出版社には、多彩な人材がいることが重要でしょう。世の中が多彩な人材で成り立っている以上、そのどこかにマッチする作品であるかどうかの判断をチームでやれば落ちは確率的に少なくなるはず。どうやってもゼロにはできないでしょうけれど。
 ということで作家は何回断られても作品を送り続ける必要があるのでしょうね。「日本語が破綻していて、何が書いてあるのか読めない」という断り状が続けて来ない限り。
 
 
13日(火)想像力
 人によって想像力の種類と範囲と量には個人差があります。
 もし「読者」が「作家」よりも想像力が豊かだったら、作家の作品は売れません。その作家の本は読者にとって自分の想像力を刺激してくれずすぐに先が読めて面白くない駄作ですから。でも読者がまったく想像力を欠いていたら、やはり文学作品は売れません。まったく想像力を欠いた人間は「字」や「文」は読めても「文脈」や「行間」は読めません。論文ではあるまいし、ただの「字の羅列」は作品として価値が無くしたがって売れないのです。
 想像力のほどほどの配分と適度な個人差、それが文学が芸術および商業として成立するために重要な要素なのでしょう。
 
【ただいま読書中】
タイムマシン』 フォア文庫愛蔵版
H.G.ウェルズ著、塩谷太郎訳、岩崎書店、1994年、
 
 昨日の『まことに残念ですが…』で「……たいして将来性のないマイナーな作家だ。この作品は、一般読者にはおもしろくなく、科学的知識のある者にはもの足りない」と評された作品です。すると私は一般読者でもなければ科学的知識のある者でもない、ということになるんだなあ。ちょっとがっかり。自分自身のことをもうちょっとまともな存在だと思っていたのに。
 
 ともあれ、SFの古典です。「SFの古典」であると同時に、初版が1895年(明治28年)ですから、普通の小説としても古典と言ってよいでしょう。自分の小説が一つのジャンルの開祖となることは、功名心を持った小説家なら持ってよい夢の一つでしょうが、ウェルズは、生物改変(『モロー博士の島』)・透明人間(『透明人間』)・ファーストコンタクトおよび異星人との戦争(『宇宙戦争』)とSFの中でいくつものジャンルを開拓しました。この想像力はうらやましい。
 
 「時間旅行家」(夜会服を着たり市長などとつき合っているところを見ると、当時の中産階級以上の人ですね)は、「この世は四次元で、時間軸に沿っての移動も空間移動と等価に扱える」という理論からタイムマシンを発明します。完成したマシンに乗って取りあえず出発しますが、到着したのは80万年後の世界。人類は心身共に幼児レベルに退行していました。退行はしていましたが、一見ユートピアのように見えました。争いはなく食料(果物)は豊かで安全は保証され(害虫も害獣も病気もない)男女平等のエロイの社会。しかし時間旅行家の未来社会に対するこの解釈は間違っていました。地上で優雅に暮らしているエロイたちは恐怖心とは無縁のはずなのに、暗闇だけをひどく恐れていました。それはなぜか……ってもったいぶる必要はありませんね。地下に住むモーロックのせいです。
 エロイとモーロックの対置は産業革命やイギリス階級社会への風刺だし、廃墟になった博物館は科学の進歩に対する風刺のようにも見えますが、本書はもっと深く「人類の文明」あるいは「人類の存在」そのものの目的を問う作品、と言えます。
 「タイムマシン」そのものは「科学への信頼」の産物と言えるでしょう(マシンがちゃんと機能する、と「信頼」しているわけですから)。でも、科学が人を幸せにしたか(タイムマシンが主人公や主人公の周りの人を幸せにしたか)と言うと…… だからこそ時間旅行家は巻末で再度旅立たねばならなかったのですが……ウェルズ家から許可を取って正式に本書の続編を書いたのは誰でしたっけ? 数年前に読んだはずなのに、タイトルも作者も忘れてしまいました。書庫にはあるはずなんですけどね。 
 
 最後に登場する滅びかけた地球の黙示録的世界……3000万年後とは私にはずいぶん近い時代のように感じますが、ヴィクトリア朝時代にはまだ地質学は発展途上で、ですから3000万年は十分(現代での正しい意味での)地質学的年代であると当時の人には思えたことでしょう。滅びかけた太陽と今とはまったく異質な「地球」のイメージは、今読んでもなかなか強烈なものがあります。
 
 ……ところで、オープンエアタイプのタイムマシン、航時中に時間旅行家が吸っていた酸素は、いったい何時の酸素なんでしょう?
 
 
15日(木)どろんどろん
 印を結んで呪文を唱えたらどろんどろんと白煙が立って忍者がでっかいガマに……は、私より一世代前の「忍術」のイメージでしょう。私の世代になると、「隠密剣士」「伊賀の影丸」「サスケ」「カムイ外伝」ちょっと新しくなって「忍者部隊月光」で育った口ですから、忍術は呪文ではなくて超人的な体術の世界です。「忍者は子どもの時、成長が早い麻の種をまいて、ぐんぐん伸びる苗を毎日飛び越える訓練をする。すると自然にだんだん高く飛べるようになって、だから忍者になったときにはあんなに高いところまでジャンプできるようになるんだ」を私は子ども時代に憧れと共に信じていました。だってテレビ画面では実際に忍者があんなに高く跳んでいるんですもの、ワイヤーアクションも無しに(もちろん当時、ワイヤーアクションは使われていません)。
 実は今でも私は忍者を信じています。忍び装束でいたらかえって目立つぞ、とか、手裏剣をどうやって所持していたのか疑問だ(裸で懐には入れられないでしょうし、袋に入れていたらがちゃがちゃ音がしますし、袋に手を突っ込んだとき自分の手を怪我しそうです)、とか、考えることは色々ありますが、「忍者」が果たしていた機能(情報操作(収集、偽情報を流して敵を攪乱)や個人レベルでの戦闘(ゲリラ戦や暗殺・放火など))は誰かが戦時あるいは平和時にも果たさなければなりません。そういった機能を果たしている人を「忍者」と呼んでよいと思うのです。
 そうか、ジェームズ・ボンドは西洋の忍者だったんだ。
 
【ただいま読書中】
忍術 ──その歴史と忍者』新装版
奥瀬平七郎著、新人物往来社、1995年、2913円(税別)
 
 中国では古くは伝説の伏義や黄帝の時代(紀元前2300年)に用間(間者・間諜を用いる術)が行われたそうですが、それを理論化・体系化したのは孫子です。孫子の兵法は全13篇からなりますが、その第十三篇が「用間」です。
 日本で記録に残っている最初の忍術関係者(?)は聖徳太子である、と本書では述べられます。「忍術の伝書」に聖徳太子が大伴細人という志能便(しのび)を身近に置いていたとあるのがその根拠だ、と言うのですが……当時のインテリは中国からの輸入書には一通り目を通していたはずですからその中に『孫子』があってもおかしくはないのですが、さて、ことの真偽は?
 他に登場する有名な関係者は、天武天皇、役小角(役行者)、源義経、楠木正成……
 特に役行者の部分は読んでいてわくわくします。仏教と神道のハイブリッドと言える修験道が中央政権によって迫害され、山に立てこもった修験者たちが中国から伝えられた兵法と日本古武道(たぶん当時は「古」はついていないとは思いますが……)とを駆使することで討伐のために山岳に侵入する官兵部隊を相手にゲリラ戦を展開し、それが日本の忍術の祖となった、と著者は言うのです。
 ……たしかに、日本の国教(天皇家の宗教)は神道ですから、仏教を導入するのは「国家反逆罪」です。仏教擁護者として知られる聖徳太子が自らの行動を周囲に納得させるのにどんな論理のアクロバットを用いたのかは私にはわかりませんが(本地垂迹説はもっとあとです)、少なくとも役行者が官憲に追われたのは確かなことのようです(根拠は続日本紀や日本霊異記)。そこでなんらかの「術」が無ければ、個人または少人数で官兵の大部隊に数十年以上対抗することはできなかったでしょう。その「術」が忍術だとしてもおかしくはありません。
 平安末期、北伊賀の土豪服部氏が平家の配下として勢力を伸ばします。東大寺の寺領だった南伊賀の大江氏は服部氏と協力して東大寺に反抗し、結局伊賀は寺領だから中央政権は政治的に手が出せず、でも地侍が東大寺に反抗してそこも宗教的に手が出せない、という権力の空白地になります。そこで忍術は日本のどこにもない独自の発展を遂げました。
 そして楠木正成。古流忍術の一は義経流ですが、二は楠木流だそうです。義経流が奇攻を特徴とするのに対して楠木流は奇守が特徴です。その楠木流や伊賀の忍者たちのバックアップがあったからこそ、南朝はあれだけ長期間北朝に抵抗することができた、と著者は言うのですが……この主張には役行者まで遡ることができる地理的歴史的なスジが通っていているように思えて、私はなんだかワクワクしてきます。
 江戸時代に忍者は(主に江戸幕府の)権力機構に組み込まれ、司法隠密になることで結局忍者としては衰退していきました。権力から距離を置いて戦乱の世を生き抜いた忍術は、世の中が平和になり自らは権力に組み込まれることで活力を失ってしまったのでしょう。さらに権力も忍者を活用する術を忘れ、その結果が第二次世界大戦……というのはちょっとストレートすぎますけどね。
 
 
16日(金)自省
 「この世は弱肉強食だ」と主張する人は、警察官やプロレスラーに殴られたら文句は言わないはず。
 女性の容姿をからかって喜ぶオヤジは、自分の容姿をネタにされたら深く傷つく。
 「これくらいの小銭、ケチケチするなよ」という人は、その「小銭」を払わずにすませようとする魂胆が丸見えな点で、一番ケチケチしている。
 「俺の言うことを聞け!」という人は、他人の言うことは聞かない。
 「なんでお前はそんなに頑固なんだ!」と言う人も、相手に負けず劣らず頑固である。
 「疲れているから」などと妊婦に席を譲らなかった女性は、自分が妊娠したら「妊婦にどうして席を譲ってくれないんだ」と怒る。
 「私はこんなに愛しているのに、どうしても応えてくれない」と言う人は、自分が愛されていないだけ。
 「お愛想!」という客は、無愛想だ。
 
 まあ、例外も多いでしょうけれど。
(小銭の件は昨年7月の日記に書いていますが、もうみんな忘れてますよね?)
 
【ただいま読書中】
後世に伝える言葉 ──新訳で読む世界の名演説45
井上一馬 編著、小学館、2006年、1800円(税別)
 
 「演説」というと格好いいですけれど、要するに「スピーチ」です。(addressとかorationとも言うそうですが)
 本書では古今東西の「名演説」を45本厳選して紹介していますが、前書きで演説の「基本中の基本」がまず述べられます。
 
1 最初にこれから話をする内容について簡潔に述べる
2 実際にその話をする
3 最後に、自分が話したことを簡潔にまとめる
 
 なるほど。たしかに結婚式や学校の行事でよくお目にかかる「退屈なスピーチ」は、みごとにこの基本を外していますね。結局「自分が人々に何を話したいのか、どう語りかけたいか」をまず自分で把握していること、が基本なのでしょう。自戒しなくては。
 
 私が「演説」と言って画像付きで思い出すのは、キング牧師の「私には夢がある」演説(本書に収載)とケネディ大統領の「人類を月へ」演説(残念ながら本書に収載された彼の演説は、大統領就任演説と「ロバート・フロストを讃えて」の二つだけ)です。どちらも私の脳内では白黒画面です。
 私が「スピーチ」と言って画像付きで思い出すのは、映画「ウェスト・サイド・ストーリー」で、マリアが働いている衣料店で同僚を前に「スピーチ」をするシーン。ミス・アメリカ気取りで愛について語るマリアの姿は本当にチャーミングでした。
 
 本書に収められた演説は、古くはブッダの火の説法やソクラテスの最後の弁明から、新しくは1996年ラトガー大学卒業式に来賓として招かれたデヴィッド・J・マホニーの「百歳まで生きる卒業生諸君へ」まで、変わったのでは「ラ・マルセイエーズ」(言わずとしれたフランスの国歌)やマーク・アントニーの「シーザー追悼演説」(シェークスピアの「ジュリアス・シーザー」から)なんてのまで、バラエティに富んでいます。
 通読して、優れた演説には共通項があるように思いました。最初に書いた「基本中の基本」もそうですが、言葉遣いが、ただの話し言葉ではない、だからといって書き言葉でもないのです。私は話し言葉と書き言葉は別のジャンルの言語だと思っています(実際に、話し言葉をそのまま原稿に書いたら楽に読めないものになりますし、逆に書き言葉をそのまま喋られたら聞いていて理解しづらいものです)。しかし優れた演説の言葉遣いは、書き言葉の厳密性と話し言葉の分かり易さが両立しているように思えるのです。
 5W1Hで言うなら、誰がなぜ何についてスピーチするか、はもちろん重要ですが、いかに語るか、も大変重要だ、ということなのでしょう。「誰かになんとか自分の思いを少しでも多く伝えたい」という熱意がそういった言葉遣いを選択させるのでしょうが、これは、レトリックや洒落た言い回しや巧言に凝る以前の基本的な問題です、おそらく。
 
 そうそう、本書で私が特に気に入ったのは、バーナード・ショーの「アルバート・アインシュタインを讃えて」です。毒舌、大好き。
 
 
17日(土)エレベーター
 プログラムの不具合というきなくさい話題がとうとう登場しました。こうやって小出しにするのは愚策、と私は思いますが、会社には会社の理由があるのでしょう。
 ただ気になるのは、「○○件の故障」とさかんに報道されてますが、シンドラー以外のメーカーでの故障率はどうなのか、それとシンドラーでも各国での故障率に差があるのかどうか、も知りたいところです。それがわからないと「日本でシンドラー社は○○件の故障」といくら言われてもそれが多いのか少ないのか私には判断できません。
 
 公共施設では競争入札でエレベーターは設置され、保守点検も結局入札で安い業者が請け合う、ということになっているのでしょうね。ということは、安請け合いは事故のもと、ということ? 冗談じゃないですけど。
 
【ただいま読書中】
ニコリの数独 SUDOKU』別冊宝島1313
宝島社、2006年、525円(税込み)
 
 アメリカの「ナンバープレイス」というパズルが日本で「数独」と名付けられ、そして昨年から世界中で爆発的に流行し「sudoku」が共通語となり(今年度のオックスフォード辞典に載ったそうです)各国で選手権まで開催されるようになる……これは一種のサクセスストーリーです。
 ルールは簡単です。基本パターンは、3×3のマス目で形成された正方形が9つ集まって9×9のマス目になっています。そのマス目に一桁の数字を一つずつ入れていきます。ただし、縦1列・横1列・3×3の正方形、そのどれも1〜9の数字は一回ずつしか使ってはいけません。ヒントはすでに書き込まれているいくつかの数字。これを頼りに残りのマス目を埋めていくのです。
 雑誌を見ると様々なバリエーションがあります。幾何学:外枠は9×9だけど中の3×3の正方形が変形している。足し算・引き算:隣り合ったマス目、端と端のマス目などの和や差がヒントとして記載されている。三角:正方形ではなくて三角形に数字が並んでいる。対角線:対角線にも1〜9が一つずつ並ぶ。まだまだいろいろな工夫がされています。よくもここまで思いつくもんだ、と感心します。
 本書では変形ではなくて、基本的な「数独」パズルが並んでいます。難易度も高くありません。第一番は、私は3分で解けました(といっても実は大したことはないはずです。世界選手権参加者レベルだったらこの程度の問題は一目見た瞬間ほとんど考えずに次から次に数字を書き込んでいくことでしょう)。数独初心者はまずはこの本で初級トレーニングをしてからもっと難しいパズルに挑戦、というのがお勧めのコースかな。
 
 しかし、解くのも難しいのに、問題作成にはどんなロジックを使っているんでしょう。最初に正解場面を作ってから数字をどんどん削っていくのだろう、と想像していますが、どこまで削ってもOKなのか、「これだけのヒントで解けるはず」という最低限の保証をどうやってつけているのか、私には全然想像ができません。
 さらに、パズルには難易度があるだけではなくて、ときに作者の個性や「ここがわかるかな?」というメッセージを感じることがあります。しらみつぶしに考えていたらいつかはそこにぶつかるのでしょうが、なんとなくぼんやり見つめていて「ここに3がにおうな」とまわりに視線をとばしてから思考を二回ひねりくらいしたらそこには3しか入らないことがわかった瞬間の快感。「なるほど、作者はこれを求めていたのね」と一方的な会話をしてしまいます。
 会社が抱えている作者の体質が違うのでしょうか、雑誌によって問題の雰囲気の違いを私は感じます。今のところ私が気に入っている雑誌は「ナンプレファンSpecial」(世界文化社)、どうも気に入らなかったのは……悪口になるから書くのはやめておきましょう。
 
 
18日(日)高機能
 実はもうずいぶん前に過ぎていたのですが、親父の喜寿の祝いを買おうと夫婦で街に出かけました。私が子どもの頃に父はけっこう写真を撮っていて、アルバムを見るといかにも手焼きという雰囲気の印画紙が貼ってあるし、私に最初のカメラを買ってくれたときにも嬉しそうにいろいろ蘊蓄を語っていたのを思い出したので、プレゼントはデジカメと決めました。近年カメラをいじっている様子はありませんが、老後の趣味の提案、というやつです。
 陳列をじっくり見て驚きました。小さい・軽い・高機能・起動が早い……うわあ、と言いつつ見とれてしまいます。でも電源スイッチがわかりません。いろいろいじくっていると、カモと見て店員が寄ってきます。
 7〜8年前だったかな、懸賞で当たったデジカメは30万画素で、その頃雑誌に載っている「高機能」デジカメは100万画素、ミリオンとか呼ばれて憧れの的でした。それが今では私の携帯電話でさえ200万画素のカメラ付きなんですから当然予想はしておくべきでしたけれど、それでも「500万画素」「600万画素」がずらりと並んでいるのですから改めて文明の進歩には驚きます。それどころか、一眼レフではないコンパクトタイプなのに1000万画素なんてものまであります。それで一体何を撮るの? ポスター? でも家庭用のプリンタで対応できるのかしら。そんな写真、メモリは食いそうだしmixiにアップするのだって大変……というか、私は普段640×480のモードで撮影してmixiにもそのままアップすることにしています。これは要するに30万画素しか使わない、ということですよね。1000万なんて素人が日常的に使うものなんだろうか?
 これで驚いて見せていると店員が「メーカーも競争が大変なんです。こちらのメーカーは画素数で負けているからかわりに……」と示したポップが「ISO1600」!。これまた「何に使うの?」の世界です。月光写真でも撮るのでしょうか。私がこれまで撮った一番暗い写真は、夜景や花火やケーキの上で点火されている蝋燭くらいですが、これもISO400程度で十分でしょうし、暗かったら画像ソフトで修正すればすむでしょう。
 店員さんは可笑しそうに「でもどこか数字のウリが無いとお客さんが選んでくれないものですから」「ふーん、この数字に目がくらんで買う人もいるんですか」「ふふふ……」「じゃあ他のメーカーはシャッタースピードだったりして」「ああ、このへんは普通です」と示されたのが「1/2000」……もう私は絶句です。何を撮るの?
 
 結局、老人でもボタンが押しやすい/ホールドがしやすい/手ぶれ防止機能付き/メニュー画面が出しやすい/メニューが選択しやすい/パソコンにUSB接続可能、を条件として選択しました。私個人の好みとしては、もう少しレンズが明るい方が良いのですが、万が一親父が「こんなのいらない」と言ったなら、もちろん喜んで私用として頂戴いたしますです、はい(真顔)。
 今日は父の日だから持って行こうと思っていたのですが、なにやらボランティアだそうで会うのは延期。う〜む、包みを開けていじってみたいなあ。いや、セッティングとすぐ使えるようにこちらが説明できるようになるためです、はい(真顔)。
 
【ただいま読書中】
廃墟
海老沢泰久著、ベネッセ、1994年、1359円(税別)
 
 平成5年〜6年「海燕」に掲載された短編を集めたものです。共通するテーマは「男女の機微」。最初の短編の主人公が異常に集中力のあるプロ野球の投手、次の作品が内気なボクサーなのでスポーツ特集なのかな、と思っていたらその次は写真家、その次は渓流でのイワナ釣りです。写真家はイワナの写真も撮っていたし「なんとなく連作」なのかとも思わせる構成ですが、第五作『女の気持ち』はそれまでの四作とは全く無関係に会社帰りの男がデパートに寄ってそこで出会った女と、というもので……う〜む、やはり寄せ集めの短編集だったのか、とちょっとがっかりしましたが……でもこの作品が本書の中では一番笑えました。「女の体だけを求める男」というステレオタイプをまず作品背景にセッティングしておいてから、それを完全に逆転して見せてくれるのです。女の方からは「私はこんなことは思ってない」と異議申し立てがあるかもしれませんけれど。もう男としては笑うしかありません。別に身に覚えがあるわけではありませんが(と、なぜか言い訳がましく)。
 
 しかし、結ばれたいと夢にまで見た相手と結ばれたときに感じる満足感(達成感)よりもその幸福の絶頂のあとには何が待っているのだろうという漠然とした不安感を書かせたら上手い作家です。色事のシーンがちっとも色っぽくないのが難点ですが。
 そうそう、「夢に関して、二つ悲しいことがある。一つは夢が叶わないこと。もう一つは夢が叶ってしまうこと」と言ったのは誰でしたっけ? その点、本書中唯一のハッピーエンドと言って良い『春の風邪』はこちらを和ませてくれます。
 
 
19日(月)産科医が足りない
 日本各地でお産が困難な「出産困難地」が出現しているようです。かつて「無医地区(無医村)」が全国で問題になった(そして根本的解決は結局できなかった)ことを私は思い出します。
 私の乏しい記憶では、世界的・歴史的に都会よりは田舎の方が出生率は高いはず(つまり田舎は都会への人供給源と言ってよいわけです)。その田舎が限界を超えて根こそぎ人を都会に出してしまって人が少なくなったから日本全体で少子化となった、というのも少子化の一つの要因ではないかしら(それですべてが説明できる、とまで強く主張はしませんが)。
 
 ……ところで、日本で出生率は減少している(=出産数は減少している)わけですよね。となると、近視眼的に「産科医が足りない」→「産科医を増やす」という「増員対策」では近未来に「産科医があまった。どうするんだ」の事態になることが簡単に予想できます。幸い出生数が激増したらそちらは心配いりませんが、「増員対策」で増えた産科医の分だけ他の分野の医師が減りますからそのことにどう対応するかも考えなきゃいけません。事態はけっこう複雑です。どうやって医者の職替えを強制(あるいは誘導)するか、の方法論も重要ですが、結果としてそれが上手くいった場合でも上手くいかなかった場合でも、それぞれ問題は生じるのですから。
 こうなったら「里帰り出産」のかわりに出産環境が良い地域への「出産ツアー」なんてものを企画するしかないのかなあ。「里帰り出産」自体が「良い出産環境」を求めての妊婦の移動だったわけですから、やってることは本質的には差がない、と主張するのは、無理?
 
 そうそう、もし出生数が回復したら、産科医だけではなくて小児科医も足りなくなります。今の少子社会でも小児科医は足りないのですから、子供が増えたら当然今のスタッフ数では手が回りません。
 「出生率回復政策」を検討している人たちは、そのことにもちゃんと回答を準備しているのかな? それともそんな心配や準備はする必要がない?
 
【ただいま読書中】
平成五年度 代表作時代小説
日本文藝家協会編、1993年、2136円(税別)
 
 前書きで早乙女貢さんが、四半世紀前に有名な月刊誌の有名な編集長が「歴史小説や時代小説など、もはや誰も読みはしない。これからはスポーツ小説だ」といった、と恨みがましく書いています。「どうだ、時代小説は隆盛だぞ、参ったか」と胸を張るか、「仕返し」をするのなら「こんな不明な人間もいる」と実名をさらせばいいのに、と思います。イジメと同じでやられた側(言われた側)はずっと忘れませんがやった側(言った側)はけろりと忘れて今はまた別の人をいじめていたり「これからは経済小説だよ」などと言っているんじゃないでしょうか。早乙女さんはそんな「軽い」連中は放っておいて、自分が好きなジャンルに勝手に入れこんでいればいいのにな、と私は無責任に思います。
 
 本書に収録されているのは……
『乙前』(瀬戸内寂聴)、『発狂』(早乙女貢)、『樹影』(永井路子)、『笠原騒動』(南條範夫)、『妖瞳』(皆川博子)、『豊饒の門』(宮城谷昌光)、『山梔子』(安西篤子)、『鬼討ち』(伊藤桂一)、『水鏡』(戸部新十郎)、『魔笛』(白石一郎)、『供先割り』(杉本章子)、『生キ過ギタリ二十五』(高橋義夫)、『月冴え──王朝懶夢譚』(田辺聖子)、『白露記』(古川薫)、『高麗屏風』(宮本徳蔵)、『影刀』(黒岩重吾)、『ばてれん兜』(神坂次郎)、『裾のしめり』(梅本育子)、『第二の助太刀』(中村彰彦)、『鼓と鬼太刀』(井口朝生)、『喧嘩屋市之丞』(北原亞以子)、『連理』(泡坂妻夫)、『雪の菅笠』(村上元三)、『倒れふすまで萩の原』(童門冬二) の二十四編です。ふう、目次を入力するだけで疲れました。
 
 バラエティに富んだラインナップです。私見では「これが年度代表作?」と言いたくなるのも混じっていますが、これは好みの問題でしょう。
 
 他人がどうして時代小説を好むのかは知りませんが、私がどうして時代小説を好むのかは……やっぱり知りません。好きだから好き、としか言いようがないのです。ただ、「自分が今ここに生きていること」を見つめたとき私の視線はすぐにその背景(「今」「ここ」でない時点と地点)に向きがちです。これは私の性向なのでしょう。時代小説はそういった私の視線が向いたまさにその時点の延長線上に存在しているのです。で、そこでふりかえって過去から今を見つめるとこんどは未来が見たくなります。「未来」で「ここではない場所」のお話、となるとSFです。ということで私はSFも好きなのでしょう。あくまで推定で断言ではありませんけれど。
 
 
20日(火)記憶の不思議
 ワールドカップに関して、「ドーハの悲劇」や日本が初出場の1998年フランス大会での一次リーグの対戦相手がアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカであったことは今でもしっかり覚えていますが、では前回、2002年日韓大会で日本が一次リーグで対戦した国と成績は……実は覚えていません(もちろん調べればすぐわかることではありますが……皆さん、覚えています?)。一次リーグを突破してトルコに負けたのは覚えているのに。私の記憶って、少なくともサッカーに関しては「負けたこと」の方が残りやすいのかな?
 
【ただいま読書中】
オノマトペ 《擬音語・擬態語》を考える ──日本語音韻の心理学的研究
丹野眞智俊著、あいり出版、2005年、3800円(税別)
 
 オノマトペとは「音による命名、音自身が名になる」という意味があるそうです。こう書くと難しいのですが、つまりは、ワンワン・ニャアニャアといった擬音語、背筋をしゃんと伸ばす・すたすた歩くといった擬態語、それをまとめてオノマトペと言います。日本では江戸時代の国学者鈴木朖(1764〜1839)が『雅語音声考』でオノマトペを四種類に分類しています。以後も様々な研究が行われましたが、本書に紹介されているうちで私が興味を持ったのは金田一春彦(1976)です。人が何かを話すとき、模写(話の内容が実態に少しで近づくように特殊な節をつけて話す)には主に擬声語(擬音語)、象徴(表現に効果を持たせるために一部の音を高低変化させる)には主に擬態語が用いられる、と金田一はしました。つまり「生きた言語」の中でオノマトペは機能するのです。
 なるほど、ここで本書のタイトルの意味と狙いが見えてきたような気がします。まえがきで「音象徴」(「あ」と「い」では「あ」の方が大きく感じる、といったこと)に言及されているのも伏線ですね(学術書を推理小説のように読んでいます)。
 オノマトペの分類で、音象徴が清音と濁音でも見られるそうです。たしかに「からから/がらがら」や「はらはら/ぱらぱら/ばらばら」では受ける印象が全然違います。さらに著者は、オノマトペ以外の日本語音韻そのものにも音象徴が機能しているのではないか、と考えていますが、もしそれが本当に機能しているのならそれが「言霊」の正体かもしれません。たしかに単語の「意味」ではなくて「音」によって受ける印象が異なることはあるように思いますから。
 
 著者は様々な集団を対象として研究を行っていますが、面白いのは幼児での研究です。荒い分析しかされていませんが、子どもは外的世界を単なる音や声で写すことから、年齢とともに複雑な外的世界と自分の感覚との関係をオノマトペで表現するように発達している、と著者は考察しています。オノマトペは自然の模倣ですが、子どもが言語を学習する過程も模倣で、その過程でオノマトペがどんどん変化していくのは当たり前、と言えば当たり前なのでしょうけれど。
 
 人が世界を認識するとき、普通の言語は「最大公約数」に抽象化されていて実感が乏しくなります(コミュニケーションの機能を果たすためには言葉が共通化されてしまうのはしかたないことなのですが)。そこで世界を心に取り込むときに「それ」を少しでも個別化するための手段の一つとしてオノマトペを用いているのかもしれません(ラングをパロールにするための一つの手段として)。「庭にミミズがいる」という平たい言い方よりも「ミミズがいる。ぬらぬらしている。うげ」の方が実感がこもって個人的な世界のリアリティが増しますからね。ところが通り一遍のオノマトペ(誰でも使うもの)ではこれまた表現が平たくなります。だからオノマトペはどんどん「発達」していくのかもしれません。
 
 
21日(水)冗談ではない
 簡単に冗談にしてはいけない事柄ももちろんありますが、「絶対そのことは冗談にしてはいけない」という命令が世の中に行き渡っている状態はすなわち「そのこと」がタブーとなっているわけです。タブーのない社会は陰影に乏しく魅力のない世界のように私には見えますが、逆に人為的強権的タブーの多い社会は窮屈でやはり魅力のない世界のように私には見えます。「簡単に冗談にしてはいけない」けれど「『そのこと』が日常に溶け込んでしまって自然にユーモアに転化した世界」はそれなりに魅力的なんじゃないかなあ。
 たとえば皇室ネタ。ゴシップ誌にばんばん皇室ネタが載るのは私の好みではありませんが、だからといって「浩宮さん、立派になったねえ」「そうそう、昔はあんなに可愛い子どもだったのに」なんて会話も「不敬である」と罰せられるようでは、皇室が敬愛されているのではなくて敬して遠ざけられているだけのように感じるのです。肝心なのは「(ユーモアの)話題になった」ことではなくて、どのような態度で話題にしているか、でしょう。あくまでわかりやすい一つの例としてあげただけで、別に話題を皇室に限定したいわけではありません。マスコミやネット上で言葉狩りをされている領域全般について、私は同じような感覚です。単に冗談という潤滑油を欠いた社会が好みではない、というだけのことかもしれませんけれど。
 
【ただいま読書中】
カスピアン王子のつのぶえ』ナルニア国2
C.S.ルイス著、瀬田貞二訳、岩波書店(岩波少年文庫2102)、1985年、550円
 
 『ライオンと魔女』から一年、四人の兄弟姉妹は寄宿学校目指して汽車で旅行中でした。ところが、不思議な力に強く引っ張られ、四人はふたたびナルニアの地を踏みます。見つけたのは、かつて四人が王座に君臨したケア・パラベル。しかし、半島だったはずの地は島となっており、宮殿は荒れ果てています。まるで数百年も放置されたままのように。
 殺されかけていた小人を助けた四人はナルニア国の魔法が失われ外来のヒトによって支配されていること、それに対して正統な王の後継者であるカスピアン王子が、隠れていたナルニアの本来の生き物を集めて軍を組織していることを知ります。しかし暴君の王を相手の戦いは不利で、カスピアン王子は助けを求めるために魔法のつのぶえを吹き鳴らしたのでした。四人の子どもたちは、カスピアン王子に勝利をもたらすために、すっかり姿を変えたナルニアでの旅を始めます。
 話としては第一作と似通っていますが、シリーズものの特権で、前回「悪い子」だったエドマンドが今回は「とってもよい子」だったり、ピーターとスーザンの扱いが前作から変化していることで子どもから大人になることによって失うものがあることが示されたり、いろいろ細々と楽しめます。
 
 「人の心がすさんでいって、でも形だけは人のままだったら、どうやって本当の人とけものの人とを見分けるの?」という問いかけにはどきりとします。ヒトとヒトデナシは、たしかに見かけでは区別できません。ではその行動をみるしかないのでしょうか。
 同時に、このルーシィの指摘と、松露とり(アナグマ)が何回か言う「けものは心を変えたりしない」というセリフとの対比が少し重く響きます。ヒトデナシの行為はよくケモノにたとえられますが、それってケモノに対して失礼なんですよねえ。ケモノにとってのその行為は自然で正当なものですが、ヒトデナシが行うのは自分の欲望のためにやってるだけなんですから。
 
 作中活躍した懐中電灯、なんだかその後の運命が気になります。
 
 
22日(木)ゴミを洗う
 少し前に再生プラスチック処理場の風景をTVで流していたのですが、分別は基本的に手作業なんですね。大変です。そこで困ることとしてあげられていたのが、まず異物の混入。それはそうでしょう。再生できないプラスチックや、そもそもプラスチックでないゴミがぞろぞろ流れてきたら分別作業は困難になります(困ったことにその例がやたらと多いそうです)。さらに再生プラスチックだけになっていても、他のゴミが付着しているもの(一番多いのは食物)は困るそうです。それはそうだ。いろいろ混じっていたらせっかく再生したプラスチックとしての品質が下がって意味がありません。
 私はお菓子の袋などは残った菓子クズなどは燃えるゴミの袋にぱんぱんと空けてから袋を再生プラのゴミ容器に捨てるようにしていましたが、ねちょねちょしたものが付着したもの(たとえばレトルトの袋)のようなものはどうしたもんでしょうか。袋を切り開いて中をきれいに洗ってから捨てるべき? 手間が大変ですし、こんどは下水への負荷が心配になります。こちらを立てればあちらが立たず、さてさて、どうしたもんでしょうかねえ。
 
【ただいま読書中】
中四国・北九州・阪神エリア いまどき体にいい温泉 ──新時代の楽しいネオ湯治
「がんぽ」編集部編、南々社、2006年、1400円(税別)
 
 「ネオ湯治」の提案、というテーマで作られた本です。昔の湯治というと、薄暗い共同湯に長逗留して安く上げるために自炊、というイメージです。逆にいまどきの「温泉」というと、一泊だけして豪華な食事で宴会、忙しく何回か入浴してさっさと立ち去る、というイメージです。「ネオ湯治」はその両者の中間で、数日程度の短期間ではあるがゆったりと快適に過ごしてそこの温泉を楽しみ気分のリフレッシュと健康面での改善を得る、というもののようです。今の日本人には現実的なバカンスと言えるでしょう。
 本書で特にこだわっているのは「新鮮」「清潔」です。泉源から距離が離れていたら、温泉を温泉たらしめている成分のうち揮発成分はある程度とんでしまいます。循環型の浴槽ですと時間が経つとともに、さらに循環系路中のフィルターなどで温泉の成分はやはりなくなってしまいます。ですから本書では、源泉までの距離を明記し、「足元湧出」(泉源そのものを囲って浴槽にしている)を最高に新鮮なお湯としています。特に炭酸泉は源泉から離れたらどんどん炭酸は減少しますし途中で加熱されたら炭酸がゼロになります(栓を開けてしばらく放置したりお燗したサイダーはシュワッとしませんよね)。またどのタイプの温泉でも、いくら源泉に近くても途中で加水されていたら成分が薄くなります。したがって完全かけ流しかどうかも重要です(もちろん単純に「かけ流しが◎、薄めたのはすべて×」ではありません。源泉の成分濃度が十分濃いのを熱いから少し薄めたのと、源泉が薄いのをかけ流しにしているのとを単純に比較はできませんから)。
 さらに、いくら新鮮なお湯でも浴槽が不潔だと効能は落ちますし、気分も快適ではありません。そこで浴槽の清掃が何日に一回されているか、も取材して清潔度に対しても配慮を見せています。
 
 取材は編集部が手分けして行なっているようですが、中に一人(あるいは二人?)臭い・味・お湯の手触りにうるさい人がいるようで、非常にこちらの感覚に訴える紹介文を書いています。なんだかその文章を読むだけで、自分が現地の浴槽につかって感覚を解放しているような気になっています。
 本書では「転地」の効用についても書いてありますが、たしかに日常から数日でも良いから離れて、ぬるめのお湯にゆったりつかってのんびりしたいなあ。医学的(科学的)な裏付けについても書いてありますが、私にとってはそれはオマケで、根拠があろうがなかろうが、温泉につかってほや〜んとする快感は間違いないのですから。
 
 
23日(金)1番2番3番
 メロディーは2番でも3番でも1番と同じものの使い回しが効くのに、歌詞は別のものに変えなければならないのは不思議です(そもそも同じ歌詞同じメロディだったら「2番」「3番」じゃないですね)。
 逆に、1番と同じ歌詞だけど違うメロディで「2番」「3番」なんて歌は……あれれ、私の内部に抵抗を感じました。これは何?
 
【ただいま読書中】
半所有者
河野多恵子著、新潮社、2001年、1000円(税別)
 
 小ぶりで感じの良い装幀です。まずはぱらぱらとめくってみます。フランス綴じかと一瞬思いました。ページがずいぶん分厚いのです。よく見ると片面コピーを二つ折りにして綴じたような感じ(コピー本と言うんでしたっけ?)で綴じてあります。紙自体はコピー紙よりは倍以上厚みがあるもの(和紙?)ですけど。まさか本当にフランス綴じではあるまいな、とペーパーナイフの位置を思い出しながら天地から折られたページの裏を覗きます。白紙です。あ、思い出しました。これは袋綴じと言うんでした。
 常識で考えたら、図書館にフランス綴じの本が小口を切られずに並んでいるわけはないのですが、なにせ44ページの短編、あっと言う間に読み終えそうなので読む前にいろいろ遊んでみるのです。
 
 内容は……病死した妻が無言の帰宅をしたその夜、息子夫婦は翌朝3時か4時にまた来ると言い残して一時帰宅し、男は妻の遺体と「二人」きりとなります。男は六法全書を開きます。「遺体の所有者」は誰なのかを確認するために。しかし法律には、男が望むことは明確には書いてありません。いや、そもそも男が望んでいるのは本当は何なのでしょうか? 男は屍姦に及びますが、そこで冷たさと同時に自分の肉体が女に転化する感覚を味わいます。
 
 さて、死者を所有するのは誰なんでしょう。死者が所有できるのなら、生者である「私」を所有するのは誰なんでしょう。そもそも人は人を所有できるのでしょうか。人は物を所有できるのでしょうか。法律的には人が物を所有できることは規定されてます。では人は死者を物として所有できるのでしょうか。それとも死者は人であって物ではないのでしょうか。
 この男は、なぜ「妻の亡骸を自分が所有しているかどうか」という疑問をもつことになったのでしょうか。その疑問の結果の行動が、なぜ屍姦だったのでしょうか。
 
 たくさんの疑問がぐるぐると私の頭の中を回ります。ページの裏は白紙でしたが、この作品の「裏」には一体どんな文章が書かれているのか、なんだかとっても気になります。
 
 
24日(土)李と瓜
 日銀総裁が村上ファンドに投資、と聞いて、最初はそれほど問題とは思いませんでした。総裁であろうが平であろうが、個人の財産を投資するかしないか/投資するとしたらどこに投資するかの選択は個人の自由ですし、そのファンドが後日問題を起こすかどうか投資した時点で予想することは普通の人間には不可能ですから「あの」村上ファンドに投資していたこと自体をそこまで責める必要があるのか、と思ったのです。
 ただ、漏れ聞いた範囲内では、投資の方法には問題があると感じました。金融政策に関わる公的な地位にある者が、お金に関して公私混同をしてはいけません。これは職業倫理の問題でしょう。ですから、投資会社などに預けて「自分が○○の地位にある間は、一切自分には連絡を取らないでくれ」と任せっきりにするのだったらOKです。
 
 もちろん、日銀総裁が独裁的に金融政策を決定しているとは思いません(私の想像では、むしろ自分の思い通りにならないことの方がはるかに多いはず)。だけど、お金に関して公私混同をしない/公私混同をしていると疑われる行動もしない、は最低限必要でしょう。日銀は政府から独立して中立的な立場で金融政策を決定するのがお仕事なのですから、総裁個人のお金も中立的な立場に置いておいて欲しいものです。
 
 そうそう、なんだか儲かったことを責める記事もありますが、これは何が問題なんでしょう? 人が儲けたのが腹が立つ? いやいや、ハイリスク/ハイリターンなんですからこれについては自己責任ですまして良いんじゃないかなあ。それとも「リスク」には、自分のお金を失う危険だけではなくて、こうして大儲けしたことを皆の前で責められる、ということも含まれていたのかな。
 
 ところで国会議員や官僚で、村上ファンドの恩恵を大いにこうむっていた人はいないんでしょうね? 国会なんかでなんだか一人だけ必死に責めているのは、視線を自分たちから逸らそうとしているからではないか、と疑い深い私は思ってしまうのですが…… 投資だけではなくて、便宜や(これは民主党の議員が受けていましたね)それから政治献金や情報提供を受けていた人は、皆無なのかなかな?
 
【ただいま読書中】
メジャーリーグ、メキシコへ行く ──メキシカンリーグの時代』 原題 The Veracruz Blues
マーク・ワインガードナー著、金原瑞人訳、東京創元社、2005年、2400円(税別)
 
 1946年、変化の年、帰還兵たちは戦前の生活を取り戻そうとしていましたが、実際に出会ったのは、住宅不足・心変わりをした恋人・食糧の配給制度・高騰した物価と戦前と同じレベルの賃金……頻発するスト・人種暴動・KKKの復活……そんな時代に行われたメキシカンリーグによる選手引き抜きの話を、著者は事実をもとにフィクションとして描きます。著者は登場人物を「鮮やかな夢に出てくる人物のように描き出す」ことを目指していますが、さて、ページをめくったらどのような夢を見ることができるのでしょうか。
 
 本書の語り手はフランク・ブリンガー・Jr、1946年には作家志望のスポーツ記者です。舞台になるのは、USA、メキシコ、そしてキューバ。登場するのは、実在の(あるいは虚構の、あるいは名前だけ実在の)野球選手、そして名脇役(あるいは迷惑役)としてヘミングウェイやベーブ・ルースなど。
 
 戦争によって大リーグは苦境に立っていました。現役プレイヤーたちは出兵し観客は減少、その中でこれまでだったら大リーガーになれなかっただろう選手たちが「大リーガー」としてプレイしていました。戦争が終わり選手たち(と観客)が帰ってきます。しかしトレーニング不足と実戦勘の不足から帰還した選手たちは元通りのプレイができるだろうかと不安を抱いていました。戦争中野球をしていた人々も不安を抱いていました。自分たちが大リーグを支えていたのに、突然帰ってきた連中が自分のポジションを奪うのではないか、と。白人大リーグから隔離されてニグロ・リーグで野球をしていた黒人たちは、白人と戦っても勝てるのに人種差別によって冷遇されている、と不満を持っています。「白人」として扱われていたメキシコ人やキューバ人も二等白人扱いで差別されて頭に来ています。
 そういった状況に登場したのが、メキシコの大立て者、ホルヘ・パスケルでした。ホルヘ(英語読みだとジョージ)は高給と人種差別が存在しない環境を餌に、アメリカから有能なプレイヤーを大量にメキシカンリーグに引き抜こうとします。それに対して、大リーグのオーナーたちは、自分たちの利益を減らさずに選手をいかに引き留めるかとメキシコに行った選手をどう罰するかに頭を悩まします。
 メキシコの観客は熱狂します。目の前で「大リーガー」やニグロ・リーグのスター選手たちがプレイするのですから。当時のアメリカの観客とは違って、選手の肌の色が白だろうと黒だろうと混血だろうと、良い野球を彼らは見たかったのです。とうとうベーブ・ルースまでエキジビションで登場します。熱狂は頂点に達します。
 しかし、ホルヘが一番愛したチーム、ベラクルス・ブルースは、「金持ち球団」が金にあかせて名選手を買い集めたにもかかわらず、成績は低迷していました。最近の日本やアメリカでも聞いたことがあるようなお話です。
 そういった数十年も前のシーズンを、フランクはかつての選手や関係者をインタビューして回って作品として再構成します(という設定のフィクションです)。彼らはあけすけに語ります。野球について、ホルヘについて、メキシコについて、アメリカについて、もちろん自分たちと自分の家族や友人たちについても。
 
 本書のもう一人の主人公は、「メキシコ」です。ブーイングのかわりに口笛を吹きひいきチームの負けを受け入れるが勝ったときには熱狂的に騒ぐ球場を満たしたファン。「死」に対する独特の考え方(古代の競技で、敗者ではなくて勝者に死が賜られたこと)。
 さらにメキシコ革命時に行われたアメリカ海軍によるベラクルス占領(1914〜15)についても触れられています。当時アメリカ陸軍は国境を侵犯していますし、日本のシベリア出兵に対してアメリカはメキシコ出兵をしていたんですね。知らなかった。
 
 そうそう、本書でちょこっと気になったのが、結婚の誓約で「死が二人を分かつまで」の部分に対するこだわりです。それは誰の死なのか、それとも何の死なのか、と疑問が提示されるのですが……ここを「愛の死」としたら、離婚はカソリックでも何にも問題ない、となっちゃう、と言いたいのかな?
 
 
25日(日)帰国
 ワールドカップ日本代表が帰国した、とニュースがありました。
 なんでこんなにさっさと帰ってくるんでしょう。現地でもう少し観戦して、という選択肢は不可能だったのかなあ。もちろんビデオでも分析はできるでしょうけれど、実際に現場で見ることで学ぶことは多いと思うのですが。
 
【ただいま読書中】
34丁目の奇跡
ヴァレンタイン・デイヴィス著、片岡しのぶ訳、あすなろ書房、2002年、1200円(税別)
 
 たしか最近映画になったはず、と思っていましたら、なんと最初の映画化は1947年だったんですね。子役はナタリー・ウッド……をを。
 
 主人公。氏名:クリス・クリングル、年齢:口とおないどし、歯よりやや上。姿はサンタクロースにそっくりのおじいさん。ちなみに「クリス・クリングル」はサンタクロースの別名。本人は「自分は本物のサンタクロースだ」と主張しています。
 さて、このクリスが住んでいた老人ホームを追い出されて仲よくしていた動物園に身を寄せるところからお話は始まります。どうして老人ホームを追い出されたかというと、クリスが「自分はサンタクロースだ」と主張したから。そんな「妄想」を持つ人は精神病院へ、と言われたのでクリスはホームを出たのです。
 しかし、捨てる神あれば拾う神あり、メイシー百貨店がクリスマスセールでのサンタクロース役にクリスを雇います。なにしろ姿がそっくりなので適役なのです。玩具売り場でクリスは子どもたちの希望を聞きます。メイシーに無かった場合、クリスは平気でそれを売っている他の店を教えてやります。店としては「売り上げが減る」とクリスにそういった行為をやめさせようとしますが、客は「なんて親切な」と感激し、かえってメイシーの売り上げは急上昇。それを知った他の店も同じように「善意の紹介」を始めます。それはデパートだけではなくて他の業種の店にも波及します。善意の連鎖です。
 しかしクリスの言うことに最初から耳を貸さない人、聞いても信じない人もたくさんいます。メイシーで働くリアリストのキャリアウーマン、ドリス(離婚歴一回、六歳の娘スーザンと二人暮らし)もその一人です。ドリスに恋をしているフレッド(ドリスとスーザンの向かいのアパートに住む弁護士)は、ドリスに愛されたいと思うと同時に母親の影響でリアリストになりつつあるスーザンになんとか子どもらしさを持たせたいと心を砕きます。そしてクリスはフレッドの応援をしたいと思います。しかしまたもや「妄想」のためにクリスは収監され、とうとう裁判になってしまいます。フレッドはクリスの弁護に立ちます。争点は「サンタクロースは実在するか」。
 裁判の行方はどうなるのか。そしてクリスマスの夜、一体何が起きるのでしょうか。
 
 心温まる物語です。できたら、一人ではなくて、誰か親しい人と一緒に読むことをお薦めしたい本です。
 
 
27日(火)社会的入院
 を減らすには二つの手段があります。一つは強制的に入院を減らす(病院を減らすとか自己負担を増やす)。もう一つは社会を変える。私には今の「医療改革」は、前者のように見えます。この手法は、社会を変えるよりは即効性はありますが、圧力をかけるのをやめたらあっと言う間に元に戻っちゃいます。圧力をかけ続けたらどこかが壊れます。それも弱いところから。
 
【ただいま読書中】
結核の文化史 ──近代日本における病のイメージ
福田眞人著、名古屋大学出版会、1995年、4500円(税別)
 
 タイトルを見てまず思い出すのは『隠喩としての病い』(スーザン・ソンタグ)です。しかし、なぜか本書の参考文献の中にこの本は上げられていません。通読して『隠喩としての病い』の影響を強く感じるのですが、著者は読んでいないのか、それとも参考文献リストを私が読み落としたのか、ソンタグがまとめたことは欧米の「常識」なのか……
 
 かつては日本の死亡原因の一位は結核でした(日本では明治〜昭和30年までで約1000万人が結核死しているそうです)。結核は日常的な存在であり、文学の世界でも正岡子規や女工哀史などいくらでも結核を扱ったものがありました。しかし今は……たまに「集団感染発生!」がニュースになるくらいで、すっかり「過去の病気」扱いのようです。でも、厚生労働省の結核発生動向調査年報集計をちらっと見ると、日本では今でも一年間に約3万人が結核にかかり約2000人が結核で死んでいます。昔に比べたらずいぶん改善した、と言えますが、「過去の病気」がまだ年に2000人もの命を奪っている、というのは、多すぎる、とも感じます。
 
 私より年下の人にとって、結核ですぐ連想できるのは……「となりのトトロ」でしょうか。さつきとメイのお母さんが入院していたのは、作中明言はされていませんでしたが明らかに結核療養所(サナトリウム)です。あるいは新撰組の沖田総司。喀血しながら人を斬り志半ばで夭折する姿は、日本人が結核に対して感じていた「浪漫」の代表と言えます。
 西洋と同様、日本でも結核は「ロマンチックな病気」であると同時に、差別の対象でもありました。私の子ども時代には「肺病の家系」がまだ死語ではなかったのを思い出します。
 「家系」と言えば、コッホが結核菌を発見するまで、結核には「伝染説」と「遺伝説」がありました。同じ家族に多発することから両説が唱えられ、患者のそばにいても発症しない人がいることは伝染説への反論の根拠とされ、伝染の原因としては未知の病原体や瘴気があげられました。今から見ると幼稚な議論ですが、当時得られた情報と知識と科学水準ではしかたないでしょう。1882年(明治15年)3月25日に福沢諭吉が時事新報に掲載した「遺傳病之能力」で結核遺伝説を述べた前日にコッホが結核菌発見を発表した、というのには歴史の皮肉を感じますけれど。
 もっともコッホも万能ではありません。1890年にコッホが「結核に対する画期的な新薬『ツベルクリン』」を公表したとき、その発表を直に聞こうとイギリスからベルリンに駆けつけた医者の一人がコナン・ドイルでした。しかし、世間の熱狂(ツベルクリンで世界が救われる!)とは別にドイルは冷静に「新薬」を評価し「これは治療に役立つという根拠がない。ただし検査には有用だろう」とデイリー・テレグラフ紙に原稿を送ります。さすがホームズの生みの親、冷静で知的です(ツベルクリン反応が確定するのは1907年です)。
 ついでですが「英独対立」は別の形で日本に出現します。日露戦争で「脚気」が多くの日本兵(歩兵)の命を奪ったことは有名ですが、脚気を出さなかった日本海軍はイギリス式で食を重視し、日本帝国陸軍はプロシア式でイギリスのように食を重視するのは「科学的」ではない、として米飯(白米)に固執していたのです。(さらについでですが、当時の海軍軍医のトップが森鴎外です)
 
 正岡子規・夏目漱石・森鴎外・石川啄木・樋口一葉・竹久夢二・堀辰雄……天才と夭折は結核を軸に結合され、結核のイメージを確固たるものにしていきます。また、結核は上流階級の病気、というイメージも形成されます。西洋でも日本でも、結核だけこのような美化されたイメージを獲得できたのは、いったいなぜなんでしょう?
 その原因の一つは「サナトリウムの存在」だったかもしれません。季候の良い場所のサナトリウムで利用豊かな食事をして規則正しい生活を長期間行うためには、ある程度の財政的裏付けが必要です。有り体に言うなら金持ちしかサナトリウムには行けません。そこは「別世界」で、特に芸術家にとっての創作環境としてはけっこう良いものでもあったようです。しかし、サナトリウムの外側は「現実」が取り囲んでいました。結核は死病であり伝染性であることは広く知られるようになり、たとえば中野の国立療養所建設には地元の強い反対運動が起きます。しかしそれは「お上に逆らう百姓一揆」と片付けられ、道路建設とひきかえに地元住民は和解します。(なんだか、空港や原発や産廃処理場で同じ構図が繰り返されているような気もしますが……)
 著者はサナトリウム文学が日本の私小説を形成し、昭和になって抗生物質で結核の治療が可能になったとき私小説は「死」んだ、と言います(ストマイ治療を勧められた堀辰雄のことば「僕から結核菌を追っ払ったら、あとに何が残るんだい?」が紹介されています)。
 「私」小説とはいってもそこに社会は当然投影されているわけで、社会の中で大きな存在である結核の扱いが変わったらそれは当然文学にも影響を与え変質した文学がまた社会に影響を与える(結核のイメージを変化させる)……あら、ややこしいわね。
 
 あと、厚生省は富国強兵を目的として設立された(徴兵される者に高率で結核患者がいたので、衛生を良くして国民全体の結核を減少させようとした)とか、結核に対して世間が持つ医学的イメージの変遷とか、いろいろ面白いことが満載です。
 
 
29日(木)明日は我が身
 新聞に「実験で石綿付きの器具を使って石綿肺」の記事がありました。読むと……げげ、石綿付きの金網? これって、理科の実験の時にビーカーの水を熱するときなどに三脚とビーカーの間にはさんで下からアルコールランプで炙っていた、あの金網? 私は小学校の理科の実験でよくこれに触っていました(「私は」というか、当時の小学生は全員でしょう)。記事の教授とは違って、日常的に触っていたわけではありませんからリスクは相対的に低いでしょうけれど、それでも気分がよいものではありません。当時の教師は生徒よりトータルで長い時間触っていたでしょうから、もっと気分が悪いでしょうね。
 
 そういえば、当時のワクチン集団接種も、今にして思うとオソロシイものでした。だって針が使い回しだったのですから。私の記憶では、インフルエンザだったか日本脳炎のワクチンで、学校医が注射器を持つとまず一人にぶすり、「はい、次の人」で二番目の人にそのまま(針を替えずに)ぶすり、そして三人目にもぶすり、で液を使い切って次の注射器を取りあげる、という「流れ」でした。「黄色い血」はすでに知られていたはずですから血液感染の概念はもうあったはずですが、「針に付着したごく微量の体液から病気が感染する危険がある」という概念はまだ一般的ではなかったのかな。
 
 「昔の人間はもの知らず」「文明開化前は野蛮人」と片付けるのは簡単ですが、今普通に行なっていること(常識だと信じていること)だってもしかしたら明日には「それはとんでもないことだ」になるかもしれません。だから私はあまり軽々に「過去を非難」する気にはなれません。文字通り「明日は我が身」ですから。だからといって「過去をすべて正当だ」とするわけにもいきませんし……さてさて、困ったなあ。気分が悪いなあ。
 
【ただいま読書中】
沈黙の惑星を離れて マラカンドラ 火星編』 別世界物語1
C.S.ルイス著、中村妙子訳、原書房、2001年、1800円(税別)
 
 イギリスの寒村を徒歩旅行中の言語学者ランサムは、二人の男に拉致されます。目が覚めたときランサムは自分が宇宙船の中にいることを発見します。目指すは惑星マラカンドラ。そこの住人ソーンが要求した人身御供として運ばれている最中だったのです。
 マラカンドラに到着後ランサムは脱走します。ソーンとは違う生き物フロッサが言語を用いていることを発見したランサムは、少しずつ言葉を覚えてフロッサと意思の疎通を図ります。フロッサは、農業と狩りと詩作にふける人(?)たちでした。
 キリスト教徒であるランサムは、現地の住民フロッサを教化しよう、と思いますが、地球に関してもキリスト教に関してもそう詳しいわけではなく、逆にマラカンドラについても自分たちの信仰体系についても確固たる信念と知識を持っているフロッサからは自分が「無知で野蛮な生き物」と見なされていることを感じてショックを受けます。
 やがてランサムは、マラカンドラに住む三種の知的生命体を支配する、でも地球の神とはどうも違うらしい、超自然的な存在オヤルサに会うための旅に出ます。
 
 しかし、SFでは火星に行く手段はいろいろありますが、地球製のUFOに拉致されて、とはなかなかユニークです。笑ってしまいました。また「なぜ地球人が火星に進出しなければならないか」を英語からマラカンドラ語に翻訳するシーンはもう抱腹絶倒としか言いようがありません。美辞麗句の衣をはぎ取ったら人が実際に何を求めているのかがここまで露骨に現れるとは……これからの外交はすべてマラカンドラ語でやったら良いかもしれませんね。少なくとも誤解を残す余地はなくなりますから。
 
 しかし「古い」小説ですが、もしこれが天動説の時代に出版されていたら大騒動になったでしょう。「天界」に幾つもの惑星が浮かんでいて、それぞれの惑星は基本的に対等、というのは明らかに神に対する「反逆罪」ですから。天動説の時代には「神や天使の領域」は月の軌道まででした。地球は「神によって人に与えられた特別な惑星」だったのです。それが本書では、地球のオヤルサは「曲がってしまい」その結果地球は天界に何も伝えてこない「沈黙の惑星」に成り下がってしまっているのです。おやおや。
 
 
30日(金)エアコンの音
 夜になると近所でエアコン室外機の音が低く唸っているのが聞こえる季節となりました。我が家では季節に抵抗(?)してエアコンをなるべく使わないようにしているので、開けた窓から吹き込む風に混じったそんな音を鑑賞することができます。
 今の家は風通しがよいので助かっていますが、前世紀に住んでいたのは裏町の借家で、家の裏手にはどんとアパートが立ちふさがって風を遮断し前は道路で輻射熱がこもるという環境でした。そこでも長いことエアコン無しでいたのですが、今思うと何年もあの暑さによく耐えられたものだ、と我ながら感心します。子どもがアセモだらけになるのが不憫ではありましたが、「温度調節に関する自律神経の訓練だ」などと私はほざいておりました。それが本当に効果があったのかどうかは不明です。
 私の子ども時代の夏には、夕凪が終わると山風が涼しいくらいに吹いて、寝るときには窓を閉めるくらいでした。今ほど家が建て込んでいなかったしヒートアイランド現象も地球温暖化もまだそれほどなかったからでしょう。今の、ちょっと暑いとすぐに窓をぴしゃりと閉めてエアコンのスイッチを入れることができる生活は、快適ではありますが本当にこのまま続けていって良いのかな(可能なのかな)、とも思います。なんて言ってても、7月には「暑い暑い、もうたまらん」とエアコンのリモコンのボタンを押しているのでしょうけれど。おっと、明日から7月だ。
 
【ただいま読書中】
ヴィーナスへの旅 ペレランドラ 金星編』 別世界物語2 PERELANDRA(1943)
C・S・ルイス著、中村妙子訳、原書房、2001年、1900円(税別)
 
 ランサムの家を訪ねた「ぼく(ルイス)」は、ランサムがオヤルサの命で金星に旅立つところに立ち会います。2年後、「帰宅」したランサムは10年は若返って見え、驚くべき話を始めます。
 ランサムが到着した金星には大洋があり、ランサムはそこに浮かぶ巨大な浮島に上陸します。そこで出会った全身緑色の「女性(人間型)」……彼女はいわば「知恵の実を食べる前のイブ」でした。
 そこに宇宙船で到着したのは、前作での悪役、ウェストンでした。ウェストンはいわばエデンの園での蛇の役目のようで、「イブ」に知恵を与えようとします。ではランサムはなぜその場に立ち会わねばならないのか。ウェストンの妨害をするのが自分の使命だと感じたランサムは努力しますが、人間離れをしたウェストンの体力と知力には太刀打ちできません。悩んだランサムは、ついに自分が何であり何をするべきなのかを発見します。
 
 本書は「神学的SF三部作」と呼ばれるシリーズの第二巻です。で、「神学」は当然のようにキリスト教のものと考えられているようですが、それにしては異教的なイメージが豊富すぎます(そういえばナルニアもそうでしたね)。しかし、著者は敬虔なキリスト教徒のようです。その「矛盾」をどう説明すればいいのでしょうか。
 異教徒である私から見たら、キリスト教そのものがローマ帝国に拡がっていったときにすでに異教化していたのではないか、と感じます。アラム語ではなくてギリシア語やラテン語で語られるキリスト教はすでにイエスが語った教えそのものではなくて変質している、と言って良い、と思うのです。それがさらにヨーロッパに拡がる過程で現地の「異教」を取り込みます(聖書や死海文書にサンタクロースは登場しませんよね)。でもそれは「悪い」こととは思いません。仏教も、東南アジアと中国では違った発展をしましたし、中国経由で日本に来たらさらに変質しました。それと同じようなことだ、と私は思っています。大切なのは「人にとって何が一番大事か」を見失わないこと。それと、美辞麗句にごまかされないこと。
 著者は、昨日の日記でもちらっと触れた「地球限定のキリスト教」に不満を持っていたのではないか、と私は想像しています。神が全能なら、全宇宙に普遍的に存在しているはず。さらに、そういった存在を人間が簡単に認識できるはずはありません。人間の感覚・思考力・想像力・行動には大きな制限があるのですから。それなのに「神についてきれいに矛盾無く説明できている」言説があるとしたら、それは何かをごまかしているか、真っ赤な嘘であるか、の可能性が強い、ということになります。
 ですから本書は、著者によるキリスト教の新解釈の提示、なのかもしれません。ちょっと読み過ぎかもしれませんが。
 
 しかし、不思議な機械によって負傷した姿で異世界の花とともに帰還する、というシチュエーションはもろに『タイムマシン』ですね。著者は『マラカンドラ』でH・G・ウェルズに言及していますから、オマージュなのかもしれません。(あとがきや解説では無視されていますけど) そう、大切なのは、「異世界への旅」だけではありません。「帰還する」ことも大切なのです。ついつい「旅」が注目を集めますが、それは「帰還」あってのこと。人類学者のフィールドワークと同じく、神話の語り手も帰還することによって初めて神話を構築することができるのです。