2006年7月
「骨太の改革」と自画自賛している割には、なんだか「削りやすいところ(対象が「弱者」で仕返しがこわくないところ)だけに手をつけてみました」と数字が主張しているように読めるのですが……
麻薬中毒やアルコール嗜癖や生活習慣病の人の生活を根本的に改善するには「本人がこれはあっさり捨てても良い」と思うものをいくら捨てても意味はなくて(たとえば麻薬中毒の人がテレビの長時間視聴禁止を誓って実行する、ようなこと)、「本人が手をつけて欲しくないもの」(麻薬中毒なら麻薬、食べ過ぎの人なら食習慣)を客観的に把握してからそれに徹底的にメスを入れないと生活はきちんと良い方向には変わりません。
だとすると今回の歳出削減に関しても、国会議員や国家公務員といった「当事者」が「これは削減しても良いや」と自分で言うものではなくて、「絶対反対」というものの中にこそ、本人たちには利権があるが国民には不利益なもの(つまり、国家としては最優先で削除するべきもの)が隠されている可能性が高いと想像できます。もちろん国民のために絶対必要なものも含まれているだろうことも忘れてはいけませんけれど。
さて、どうすればいいのでしょうか。「絶対反対」と主張されるものをリストアップしてから第三者機関(裁判員制度のようなもの)で客観的に審査した方がいいのかなあ。あ、そうすると「絶対反対」と主張せずに利権を「絶対反対」リストからはずそうとする? それは大丈夫。「絶対反対」ではないのですからばしばし削減しましょう。
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櫻井稔著、中央公論新社(中公新書1837)、2006年、740円(税別)
1989年内部通報者保護法(アメリカ)、1998年公益開示法(イギリス)、2000年開示保護法(ニュージーランド)、2002年SOX法(アメリカ)……こういった世界の流れに乗って2006年4月に日本で「公益通報者保護法」が施行されました。この法律で保護されるのは「不正の利益を得る目的、他人に損害を加える目的その他の不正の目的」でないもの、と規定されています。通報対象事実も413の法律で刑罰の対象とされている違法行為です(税法や政治資金規正法はしっかりはずされています。どうやら「お上」は脱税や違法政治献金を内部告発されるのはお好みではないようです)。
通報者は労働者に限定されています。経営者や出入り業者は保護の対象外です。(派遣労働者や取引先の労働者は対象となりますが、通報先は派遣元ではなくて派遣先の企業、とされています)
さらに、通報先によって保護を受けるための条件が違います。「内部通報」の場合は本人の判断だけが条件です(通報内容が真実でなくてもかまわない、ということになります)。「行政機関通報」の場合には「真実相当性(なぜそう思ったか、の確かな理由)」が必要です。さらにマスコミなどへの「外部通報」の場合は、真実相当性に加えて「自分が不利益(解雇や危害を加えられるなど)をこうむるおそれ」「内部通報では証拠隠滅のおそれがある」「内部通報や行政機関通報をしないように圧力をかけられた」「内部通報をしてもなしのつぶて」などの要件が満たされた場合に通報者は「保護」が受けられます。通報先が外に向かうほど保護要件が厳しくなる点が、内部告発と公益通報との大きな法的違いです(そもそも内部告発は法律では規定されていません)。
「タイム」2002年年末号の表紙でPersons of the Year に選ばれたのは、エンロン・ワールドコム・FBIの内部告発を行なった女性3人でした。タイトルは「The Whistleblowers」。3人の告発手法は微妙に異なるものでしたが、結果として、エンロンとワールドコムは倒産し、名門監査法人アーサーアンダーセンも消えました。FBIは……良い方向に変化していたら良いのですが……
ついで内部告発によって明るみに出た事例が列挙されます。雪印食品や丸大ハムなどの牛肉偽装、警察や外務省の裏金作り(と個人的流用)、原発の事故隠し、三菱自動車のリコール隠し……著者は「組織に自浄作用があったかどうか」に注目しますが、わずかに中部電力会長の公私混同とワールドコムの二件だけです。そもそも「自浄能力のある組織」って、そんなにはないでしょう(こう言うのは悲しいことですけど)。だからこそ大切なのは情報公開と内部での相互チェックと外部の目……そして最後の手段、内部告発です。
だけど世間には誹謗中傷が溢れています。その中で「これはまっとうな内部告発です」と主張するために必要なのは何でしょう?
人は組織にアイデンティティの根拠を求めることが往々にしてあります。その場合、内部告発は、組織に対する「裏切り」であると同時に、自分自身に対する裏切りにもなってしまいます。だから内部告発は本人にとっても苦しく葛藤を伴う作業です。さらに「不正をただす」ために内部資料のコピーや持ち出しという企業の規定ではふつう禁止されている「不正手段」を取らなければなりません。ジレンマです。
企業の側も気をつける必要があります。「復讐」のために簡単に懲戒解雇や不利な処遇をするとそのことに対して裁判を起こされます。敗訴したら企業の評判はますます悪くなります。著者は内部告発にどう対応するかで企業の体質が問われる、と説きます。
最後の章が私にはべらぼうに面白いものでした。公益通報者保護法に規定される413の法律を一覧してから、著者は日本を「制度信仰」と「義憤」という二つのキーワードで分析します。日本人はタテマエとして「完全なるもの」を求め、そのために制度や法律を熱心に作ります。しかしそれはあくまでタテマエ。現実には不可能なことが多いのです。(たとえば原発でのパイプの亀裂。溶接部分にいつか亀裂が生じるのは当たり前のことです。しかしタテマエでは「亀裂は生じてはならない」。たとえば道路交通法。「スピードの出し過ぎはあぶない」というタテマエから無意味な速度制限が行われ「法律違反者」を大量に生み出しています(ドイツでは一般国道でも制限速度100キロ、なんてところもありますが、それでも事故率は日本とそれほど変わらず、歩行者の犠牲はむしろ少ないくらいです)。あるいはたとえば労働基準法。残業に関しては改めてここで説明するまでもありませんよね)
こうしたタテマエとホンネの乖離によって生じるのは、「裁量行政」と「良質な社会規範の欠如」である、と著者は述べます。「制度信仰」によって「守れない法律」を固守することは、結局遵法意識を犯し社会の質を低下させるのです。
それと「義憤」。日本には「義憤の需要」が大変多い、と著者は述べます。その需要に応えている代表がマスコミです。しかし義憤の発散は、カタルシスは得られますが社会の改善には結びつきません。
ではどうするか。著者は「守れない法律」ではなくて「守れる法律」を制定し、それを守る、という当たり前のことをするように言っています。
いやあ、この最終章だけで、本書を読んだ甲斐があったと思います。それに加えて新しい法律についての知識も仕入れることができたのですから、お得でした。
サッカーでは試合後握手して好敵手とユニフォームを交換する風習があるようです。そういえば中田がグラウンドに倒れ込んで顔にかぶっていたのも交換したブラジルのユニフォームでした。
ところが、先日イタリアに敗れたウクライナのシェフチェンコ選手は、試合後イタリアの選手と次々握手して相手がユニフォームを脱ぎかけるのに結局誰とも交換をしませんでした。一通り挨拶がすんだ後キャプテンマークを巻いたウクライナのユニフォームのまま背筋を伸ばして観客席に大きく手を振っている姿を見ていると、なぜかじーんときました。上手く言語化できませんが、これも「漢の美学」の一つの姿と感じます。(誤解されないように蛇足をつけますが、ユニフォーム交換をした選手が「漢」ではない、なんて言っているわけではありません。ただ、シェフチェンコが背負っているものの重さを私が彼の姿勢から勝手に読み取った(と思っている)だけです)
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ほるぷ出版、2005年、2200円(税別)
『13歳のハローワーク』(村上龍)という良書がありますが、本書はその特化版とでも言えるものです。囲碁・将棋で「飯を食う」にはどのようにすればいいのか、を丁寧に解説しています。マンガと解説が交互に登場し、さらに解説もベテランと若手(プロに成り立ての人)とが登場します。本当にこの領域に興味を持っている人間には有用なガイドブックでしょう。
ところで「囲碁将棋のプロ」といえば普通は「棋士」を思うでしょう。本書ではまずプロ棋士になるためには何歳までにどのような条件を満たさなければならないか、具体的に教えてくれます。しかしプロ棋士は、レッスンプロとトーナメントプロに分かれます。たとえプロになれたとしても、どちらが自分に向いているのかはわかりません。プロからのアドバイスは、囲碁も将棋も「自分の意思で職業を選択すること(他人に強制されたものは大成しない)」「日々の勉強(囲碁将棋の修行)が好きであること」「姿勢やあいさつが重要」「体力が重要(一局で体重が二キロ減っていることもある)」……単に「囲碁将棋が強い」だけではトッププロにはなれない世界のようです。
さらに、本書の最後には「用具製作」の話があります。囲碁についてはさらりと流されていますが(ここでクイズ。囲碁の黒石(プロ用)は「那智の黒石」で作られますが、では白石は何から作られるでしょうか? 解答は本日の日記の最後)、将棋の駒は伝統工芸士によって製作されていることが紹介されています。では伝統工芸士になるためにはどうすればいいか。弟子入りするのです。最近では自治体の後継者育成プログラムもあるようですが、結局は本人の努力次第の世界です。「職人」ですから当たり前と言えば当たり前ですけど。ここで紹介されている盛り上げ駒を使って、一度対局を楽しんでみたいものです。
クイズの答:安いのはプラスチックや硬質ガラスでできているはずですが、高級な白石は、日向のハマグリの貝殻から作られています。
中田選手の現役引退が報道で大きく扱われています。たしかに彼のような大きな存在が欠けることは日本サッカーに(だけではなくて、もしかして世界にも)損失だとは思いますが……さて、ここで私の天の邪鬼虫が発動。
本当に「中田選手が大きな存在」だと思うのだったら、なぜ活躍しているとき(たとえばちょっと前の試合やヨーロッパでのシーズン)よりも、引退発表(大きな不在の発生)の時の方が報道が大きいのでしょうか? 「いるとき(存在しているとき)」には小さく評価して「引退(不在)」に際してばたばたとあわてふためくのは、単に「評価する側」が「正しく評価すること」「自らの評価を自己責任で発表すること」に対して真剣ではなかった、と言える、というのが私の評価です。「いなくなってからやっとその大きさがわかった」はつまりは「私は人を見る目がありません」という告白でしかないのですが、無能な人間の告白には耳を傾ける価値はありません。
そうそう、これまで「中田を批判していた人」は「大きな不在」を嘆いてはいけません。「気にくわない存在」がいなくなるのですから大喜びするべきです。そうでなきゃ、首尾一貫していません。
……私? 私がもし嘆くとしたら、次のチーム作りに対する確固たるビジョンを持っていてそこに中田が不可欠、という場合には嘆くでしょうね。でも、最善の策が使えない場合には、次善の策をちゃんと準備しているのがプロです。オシム監督(予定)が元々「中田抜き」で構想を練っていたのだったら問題はありませんし、もし「中田あり」で考えていたとしても、きっと次善の策を提示してくれると期待しています。その点ではオシムさんは「第一歩」が踏み出しやすくなったんじゃないでしょうか。
日本チーム内での「中田の孤立」に関しては、彼が日本でほとんどプレイせずにすぐヨーロッパに渡ったこともきっと大きいのでしょう。でも優秀な人材を、コミュニケーションや協調を目的としていつまでも国内に置いておくと飛躍的な成長を阻害するかもしれないし……なかなか悩ましいですね。
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C・S・ルイス著、中村妙子訳、原書房、2002年、2000円(税別)
別世界物語完結編です。
エッジストウ大学ブラクトン・コレッジでは、学内の「森」を政府関係の謎めいた組織NICEに売却するかどうかでもめていました。社会学のフェローであるマーク・スタドックは、実力者フィーバーストーン(第一巻でランサムを拉致した一人、ディヴァイン)の引きでNICEに誘われます。マークの妻ジェーンはその頃不気味な予知夢に悩まされ、相談に行った人からの紹介でランサムと出会うことになります。ランサムは荘園に傷ついた体を横たえており、来るべき戦いに対しての備えをしていました。戦いの相手は、直接的にはNICEの面々ですが、実はその背後には……
ついに「その時」が来たり、ジェーンの予知夢の通り「森」の奥深くでマーリン(アーサー王伝説の魔術師)が「復活」します。マーリンを自分の陣営に引き込もうとNICEは動きます(そもそも「森」を買収したのもそのための準備だったのです)。しかし、マーリンの時代とは、自然も宗教も人も大きく変化しています。マーリンの魔法は自然に大きく依存するのですが、果たしてマーリンは以前と同じような魔法が使えるのでしょうか。魔法が使えなかったら、あるいは使えたとしてもマーリンはこの戦いでどのような役割を果たすのでしょうか。
前二作とはうってかわって、人間味(?)溢れる権謀術数の物語です。秘密警察が人手不足でしかも有能な人材が払底しているのが笑えますが、それでも冷たい権力はしっかり行使します。それに対してランサムの側が使う「武器」は……これは読んでのお楽しみ。
そして「敵」「味方」の陣営に別れてしまったマークとジェーンの「夫婦」としての運命は一体どうなるのか……
実にさらりと本書では触れられていますが、トールキンとは違った「中つ国(ミドルアース=天国と地獄の中間の世界)」をめぐる物語です。ランサムの傷はまるで聖痕扱いですが、それはあまり気になりません。ナルニアとはまた異質なファンタジーですが、私はけっこう楽しめました。
一石二鳥(いっせきにちょう)って、一朝一夕(いっちょういっせき)と音が似すぎていると思いませんか? 早口言葉よろしく続けて唱えていると二鳥がいつのまにか一鳥になってしまいそうです。やってみましょうか。一石二鳥一朝一夕一石二鳥一朝一夕一朝一夕一石二鳥一朝二夕一石一鳥……ほら、なっちゃった。
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アガサ・クリスティ著、深町眞利子訳、偕成社、1990年、680円(税別)
叙述が、ヘイスティングズ大尉の一人称をベースとしていますが、三人称が時に混じってきます。これでみごとに読者はミスディレクションされてしまいますが……叙述によるトリックと言えば何と言っても同じ著者による『アクロイド殺人事件』ですが、本書はアクロイドほど「あくどい」叙述トリックではありません。いや、アクロイドを読了したときにはもう呆然としてしまいましたが……おっとっと、ここはABCの読書日記でした。本題に戻ります。なお、微妙なネタバレ記述がありますので、未読の人はここで視線を逸らすのが吉です。
「灰色の脳細胞」エルキュール・ポアロに変な手紙が届きます。「21日、アンドーヴァーに注意することだ。ABC」と言うのですが……一体何に注意すればいいと言うのでしょうか。ポアロとヘイスティングズは警察に一応連絡はしますが手をこまねいて待つことしかできません。そして21日、たばこ屋の老女主人アリス・アッシャーが撲殺され店のカウンターにABC鉄道案内が置かれていました。そして次の手紙が。「25日、ベクスヒル・オン・ザ・シー」……そして25日にベクスヒルの海岸でウェイトレスのエリザベス・バーナードが絞殺死体で発見されます。そしてそのそばにはやはりABC鉄道案内が。
A地点(アンドーヴァー)でA(アッシャー)が殺され、B地点(ベクスヒル・オン・ザ・シー)でB(バーナード)が……これは明らかに連続殺人事件です。犯人の動機は?ポアロに対する予告の意味は?
そして第三の手紙が届きます。「30日、チャーストン」。しかし誤配のため手紙が届いたのはこれまでとは違って予告当日の夜でした。連絡を受けた警察は大あわてで住民に警告を発しますが、それも間に合わず、夕方の散歩中のクラーク卿が撲殺されます(もちろんABC鉄道案内つき)。
ポアロは、事件解決と新たな事件予防のために、これまでの3件の事件関係者を集め「特務隊」を作ります。もしかしたら意識せずに犯人を目撃しているかもしれない人たちが次回の予告地点をパトロールして犯人発見に努めよう、というのです。そこに第四の手紙が。「9月11日、ドンカスター」。しかしその日映画館で刺殺されてわきにABC鉄道案内が置かれていたのは、アールズフィールド。「D」ではなくて「E」だったのです。犯人のミスか? それとも……
連続殺人には当然「連続」しなければならない理由があるのですが、こんな「理由」もアリですか、と言いたくなる結末です。もしかしたら、本書中でも何回も言及される「切り裂きジャック」もABCと同じように意図のある「連続」殺人事件だったのではないか(目的を達成したからぷつんと犯行が終わった)と著者が考えているのかな、とも読みながら考えてしまいました。
私が推理小説に夢中になっていたのは、小学生〜高校生の時期でした。本書はたしか子ども向けにリライトされたものを読んでいるはずです。今回「完訳版」の文字に惹かれて図書館から借りてきました。
最近の子ども向けにやっているTVアニメやマンガ雑誌の推理ものは、まるでクイズのように殺人テクニックやトリックを扱っているように見えてあまり面白くないのですが、本書を読んでいるうちにその原因の一端がわかったような気がしました。私が読んでいたのは推理「小説」だったのです。トリック集ではなくて。だから結末やトリックを知っていても再読が可能なのです。そうとわかれば、昔に返ってクロフツの『
樽 』や
エラリー・クイーンのシリーズ をもう一回手に取ってみたくなりました。
いつだったか首相は「改革の評価は歴史の審判を待つ」なんて恰好良いことを言っていました。私にとって歴史的な「改革」はまず「江戸幕府の三大改革」なのですが、たしかに今の「平成の改革」も将来江戸の改革と同じように歴史の教科書で扱われる可能性はあります。その教科書を選定する政権が親小泉だったら肯定的に、反小泉だったら否定的に。(ついでですが、私が習った日本史で江戸時代の改革が否定的にあるいは軽く扱われているのには、明治が江戸を完全否定する立場で昭和もその明治の延長線上にあったことも大きかった、と私は考えています)
私から見たら、江戸の改革も平成の改革も良い勝負(改革が切実に必要な状況だったのに「現実」に足を縛られて改革そのものは不徹底でしかも方法論も不適切なものがあり、結果は不十分、分野によっては改悪になった)と見えますが、江戸幕府の方がまだマシな点もあります。江戸時代に「基本的人権」「社会保障」という概念はありませんでしたから「野蛮」なことはやってましたが少なくともその概念を後退させる行為はありませんでした。しかし平成時代には、確立されているはずのこれらの概念をいろいろ理屈をつけてあるいは黙ってこっそりと後退させようとしています。つまり平成政府は江戸幕府と比較して「野蛮以下」な面があるのです。
そうそう、「歴史の審判を待つ」と言うのは「今目の前にいるお前らのことばなんかには耳を貸さないぞ。まともな議論もしてやらないぞ」という拒絶の主張ですね。みごとなコミュニケーション不全の表明だ。
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塚本哲也著、文藝春秋、2006年、2476円(税別)
ナポレオンが皇帝となったとき、懸案の一つが後継者でした。ジョゼフィーヌとの間に子どもはなく、ナポレオンはジョゼフィーヌと離婚して「後継者を産んでくれる皇紀」を求めます。第一の「適任者」はロシアの皇女でしたが、ロシア皇帝は態度を明言せずに時間を稼ぎ、さらにロシア正教とフランスのカソリックでは「改宗問題」が壁になります。そこで浮上したのが占領されたばかりのオーストリア。マリー・ルイーゼ皇女は敗戦国オーストリアからいわば「平和のための貢ぎ物」としてフランスへ嫁ぐことになります。交渉のお膳立てをしたのがメッテルニヒ(オーストリアの外相、のちのウィーン会議の主宰者)でした。マリー・ルイーゼは泣く泣く「仇敵」に嫁ぐために、40年前にマリー・アントワネットが辿ったお嫁入りの道をそのまま辿ります。マリー・アントワネットが国境を越えたのはストラスブールでしたが、マリー・ルイーゼが国境を越えたのはブラウナウ。フランスはそこまで勢力を拡張していたのでした。その町でそれから79年後にはアドルフ・ヒトラーが生まれることを思うと、19世紀は意外に我々に近い世紀なのだな、と感じます。
結婚した二人は、周囲の予想と違って、意外にも熱愛カップルになります。やがて長男「ローマ王」が誕生、ナポレオン皇帝は栄華の絶頂を誇りますが、二人の将来に影を投げかけるのは、先妻ジョゼフィーヌの存在、マリー・ルイーゼの大叔母マリー・アントワネットの死に方、そして国際情勢でした。スペイン戦争は泥沼化し、対英経済封鎖はかえって大陸の不況をもたらし人心は離反していったのです。ついにロシアが対英経済封鎖から離脱しナポレオンは20ヶ国42万の軍勢を率いてロシアに攻め込みます。しかし軍はほぼ全滅、各国の連合軍はパリを包囲し、ついにナポレオンはエルバ島に幽閉されます。フランス人からは「ナポレオンを見捨てて逃げた」とみなされ、連合国からは「ナポレオンの皇紀」とみなされ、オーストリアに帰ったマリー・ルイーゼには辛い日々が続きます。そしてナポレオンの脱出、ワーテルローの戦い、セント・ヘレナ島への流刑……ナポレオンとの縁が完全に切れたマリー・ルイーゼは、フランス領からオーストリア領となったイタリア支配の一環として、パルマ公国の女王となります。支配者としての落下傘女王ですが、意外にも善政を敷き、パルマのイタリア人たちに慕われる女王となります。時系列を無視して列挙するなら、オペラ劇場を建設し、パガニーニをパルマ交響楽団の指揮者にし、産院と孤児院を作り、軍縮を行い、ペスト流行時には先頭に立って看護にあたり、公共事業を充実させて国力をつけます。そして、ヴェルディ。本書では、著者の趣味なのでしょう、ことあるごとに音楽に関する記述が顔を出しますが、とうとう我慢できなくなったのか著者は最後のあたりでヴェルディについて蕩々と述べます。貧乏な天才少年ベルディは、謁見した女王マリー・ルイーゼから奨学金を下賜され、ミラノ留学ができたのです。苦難の道ではありましたがとうとう作曲家として成功した彼は、オペラ「第一次十字軍のロンバルディア人」をマリー・ルイーゼに捧げています。(ちなみに当時ミラノに駐留していたオーストリア駐留軍総司令官が“あの”ラデツキー将軍です)
「踊る」ウィーン会議で、「各王国」ではなくて「全ヨーロッパ」という視点が共有され、それが以後40年の平和の基礎となり、さらには現在のEUにつながっている、と著者は述べます。しかし「保守反動」メッテルニヒが言論弾圧などで強権的に維持した平和は、同時に各地にナショナリズムの炎をかき立てました。イタリアにも、南北の対立はありますが、ナショナリズムの嵐が起きます。そんな時期に「善政」を敷いた女王は、運命にこづき回され、結婚はすべてケチが付き(ナポレオンとの結婚は政略結婚、その後の二回の結婚は身分違いの貴賤結婚)、長男のナポレオン二世には先立たれ、どうも個人的には幸福な人生を送ったようには見えません。でも……ナポレオンとの結婚生活は短くても充実していただろうし、パルマ公国での生活も彼女本人および周囲には豊かなものだっただろうし、それなりに満足して死んでいける人生だったのかもしれない、と赤の他人の私は無責任に思います。……何か「ああ、あれは良かった」という思い出がないと寂しすぎますよね。今パルマには「マリー・ルイーゼ記念館」が、図書館には「マリー・ルイーゼ読書室」があるそうです。外国人の支配者を記念し続けるとは、ずいぶん珍しいことがあるものです。
よく「○○さんは強い人だ」なんてことが言われますが、「人の強さ」って何なのでしょう。「強さとは何らかの力が他の人よりあること」ととりあえず定義づけるとしても、ではその「力」にどんなものがあるかを考えると……体力、戦闘力、攻撃力、防御力、筋力、金力、思考力、忍耐力、対応力、自制力、自律(の能力)、長期展望力、想像力、心配りや配慮(ができる能力)、持続力、観察力、演技力、表現力、言語を操る力、想像力、創造力、共感する能力、推理力……えっと、まだまだあるでしょうがきりがないのでこのへんでやめます。ともかく、こういった「力」を他人より傑出して持っていたならその人は「××について強い人」と言えることになります。……なりますよね?
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ニコリ、2006年、900円(税別)
先月16日に『ニコリの数独 SUDOKU』を取りあげて読書日記で「数独の作り方はどうなってるんだろ?」と書いたら、ある親切な方から「『決定版数独』という本に載っています」と教えていただきました。アマゾンでは送料がかかる定価なので、e-honで注文しました。近所の書店で受け取る場合は送料無料ですから。
すぐに届いたのですがいろいろ都合が重なってやっと先日引き取ってきました。載っている数独128題を解くよりも早く「作り方」のページを開きますと……なるほど、「解くように作る」のですか……へぇ……ついでに「ニコリではヒントの数字は点対称になっている」……へぇへぇ……
やってみました。手書きでさっと81マスを書いてヒントとなる数字の位置を決めて本書に書かれている通りに数字を次々入れながら作っていきます。途中までは快調です。しかし、本書では「数独の神様が現れる」状況になると……スタックします。どうやっても矛盾が生じます。やり直し。位置は同じで別の数字を入れてみます。途中までは快調です。でもスタック、やり直し。今度はヒントの位置を変えてみます。途中までは快調です。でもスタック、やり直し。
あんぎゃあ、苛々します。気分転換のために本書の数独で難易度が高い「hard」の問題に挑戦してみます。一題は簡単に解けて気分が良くなります。ではもう一題……解けません。行き詰まります。
わかりました。私は数独を解く能力がまだまだなのです。解くのがまだまだだから作るのもまだまだなのです。となると、私がまずするべきことは、数独をもっとやりこんで解く能力を高めるか、もっともっと簡単なレベルの問題を作るようにするか、のようです。ふ〜む、たかがパズルですが、奥が深い世界です。挑戦し甲斐はたっぷりあるようで、なんだかわくわくします。
コーンフレーク、胡麻、三角むすび、カレーライス、スープ、キャンディ、ガム、はったい粉、南京豆、バナナ、林檎、ケーキ、玉蜀黍(丸ごとでも粒々のばらでも)……
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エリザベス・ボウエン著、太田良子訳、ミネルヴァ書房、2004年、2500円(税別)
「桜の下には死体が……」という言い伝えもありますし、タイトルは忘れましたがある集団が次々殺人を犯してはその死体を庭に埋めてその上にトマトを植える(そしてそのトマトで料理を作って美味しくいただく)、という映画もありました。では本書冒頭の短編『あの薔薇を見てよ』では薔薇の下には何が埋まっているのでしょうか。それは読んでの……お楽しみと言いたいのですが、実は作中、ほのめかしはありますが「正解」の提示はありません。確かに何かが起きたらしいのですが、それが正確には「何」であるかは明示されません。読み終えてちょっといらいらします。でも……
次の『アン・リーの店』でも、女性が二人お店で帽子を買うお話ですが、結局店で何が起きたのか詳しい説明はありません。いくらか自分の想像力を振り絞って想像することはできますが、それが「正解」かどうかはあやふやなままです。「まったく、これがイギリス式の意地悪な小説作法か」と言いたくなります。でも……
『泪よ、むなしい泪よ』……すぐに泣き出す七歳の男の子フレデリック、その母親は凛とした未亡人(を演じている)ミセス・ディッキンソン。リージェントパークでいつものように突然泣き出して置いてけぼりにされたフレデリックに話しかけた娘は、フレデリックの目は傷口で、その内側にある哀しみが流し続ける血がにじみ出ているのだと感じます。しかし何年も経ってからフレデリックが思い出すのはアヒルのことだけ……これって、タイトルにある「ミステリー」?(反語的疑問形) 表面はあくまで静かな物語で、でも水面下では……
思春期の少女をクールに描かせるとボウエンの筆は冴えます。「あたしくらいの年齢の少女の養育をいい加減にすると、その子の人生は丸潰れになるのよ」と言い放つ少女を主人公とした『マリア』、親友探しをする少イチェルを主人公とした連作『チャリティー』『ザ・ジャングル』では少女の心理が丁寧に描かれますが……やはり私にとって女性は謎です。あ、だから「ミステリー」なのか。
世間一般で言うところのミステリーもあります。初っぱなで殺人が発生するのが『告げ口』。ところが犯人(おそらくは犯人)がうろうろするのにちっとも騒ぎになりません。殺人(おそらく殺人)はあるのに殺人事件に発展しないのです。なったくどうなるのか、とドキドキしますが……
解説では「本書中白眉のミステリーかも」と言われているのが『林檎の木』です。たしかに○○の幽霊とはなかなかすごいものですが……ただ私の感覚では、ちょっと著者にしては説明のしすぎと感じます。因果関係がきれいに説明され、事件をめぐる「その他」の人々の動きも説明され、他の作品での「説明不足」「ほのめかし過剰」とはちょっと雰囲気が違います。やはり「○○の幽霊」がすごすぎるのでそうなったのでしょうが、私としてはもっとぼかしても良かったんじゃないか、と思います。
「ミステリー短編集」ではなくて「異色作家短編集」でも良かったんじゃないか、と思う、なかなかミステリアスで魅力的な作風の作品集でした。ちょっと他の作品も読んでみたくなります。
日本で「愛国心」を妙に強調する人の中には、その人が愛する「国」が「日本国」ではなくて「大日本帝国」ではないか、と思える人が混じっています。まあ、思想信条の自由がありますから、その人が何を愛そうと自由なんですけど。
戦前に「私が愛するのは『大日本帝国』ではなくて『(日本国憲法による)日本国』である」なんて公言したら、「アカだ」「大逆罪だ」であっという間に特高に引っ張られて拷問だったでしょう。それが今の時代は「私が愛するのは『大日本帝国』であって、『日本国』なんか早く消えてしまえ」と主張しても特高はやってきません(そもそも特高が存在しないからやって来ることは不可能ですけど)。信条や言論の自由とは有り難いものですねえ。
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ヒュー・ロフティング著、井伏鱒二訳、岩波書店、1951年初版(88年29刷)、500円
私が小学生のときに夢中になったシリーズの一つです。
動物好きのドリトル先生が、オウムのポリネシアに動物語を教わって人間の医者をやめて動物の医者になるところからお話は始まります。動物の言葉がわかるわけですから治療は的確に進みドリトル先生はおおはやり。ところがはやりすぎて動物が大挙して押しかけ居候がどんどん増えたためその経費でドリトル先生は破産寸前となります。そこへアフリカから、疫病でばたばた猿が倒れているので助けて欲しい、との依頼が届きます。ドリトル先生は借りた船で海に出ようとしますが船を出そうとした瞬間「アフリカはどっちだっけ?」。
やっとアフリカに上陸したドリトル先生一行ですが、船は難破し現地の王様はドリトル先生を牢屋に閉じ込め動物の王ライオンは高慢ちきで非協力的で……やっとのことで「仕事」をすませたドリトル先生と一行は、イギリスに帰ることにしましたが、問題は船もお金もないことです。そこで登場するのがオシツオサレツ。ああ、懐かしい。やっと手に入れた船は船板が腐って明日沈没予定、という代物。そこに海賊が登場します。動物たちの協力で窮地を脱したドリトル先生はこんどは海賊にさらわれていた少年のおじさん捜しを始めます。そこで活躍するのが犬のジップです。
やっとイギリスに帰ったドリトル先生たちは、まずはオシツオサレツを見せ物にしてイギリス中を旅します。それで大金持ちになってからやっと帰宅。めでたしめでたし……かな?
余談ですが「ドリトル」と東京空襲で有名な「ドゥーリトル」とが同じ綴りと知ったときにはけっこうショックでした。しかし、それ以外でも『ドリトル先生』は戦争との関連を持っています。
訳者の井伏鱒二さんが本書を知ったのは昭和15年、石井桃子さんの勧めだったそうです。「アフリカゆき」が出版され、「航海記」が連載され始めたときに太平洋戦争が勃発。ドリトル先生はそこで蒸発してしまいます。ドリトル先生が日本で復活するのは戦後のことです。
ドリトル先生が出版できない体制と、自由に出版され子どもに愛されている体制、どちらを私が好むかは……あらためて書く必要もないですね。
ついでですが。石井桃子さんの解説によると「ドゥーリトル」を「ドリトル」にしたのは井伏さんの発案だそうです。たしかに、小学生の私にとっては「ドリトル」はすっと心に入り込む名前でした。「ドゥーリトル」だとちょっとどこかに引っかかったかもしれません。
フランスチーム敗戦の責任を問うにはかっこうのスケープゴートになってしまいました。いや、ジダンの行為(頭突き)を弁護するわけではありませんが……もしジダンがあれをやらなかったら「決勝まで行ってなんで負けたんだあ」と騒ぐ人が、監督かPKを失敗した選手をしつこく責め立てていたことでしょう(あるいは主将としてのジダンの責任を問うたかもしれません)。かつてイタリアが優勝を逃したときにPKを失敗したバッジョをしつこく責め立てたように。
私は不思議に思います。もし決勝敗戦の責任がジダンにあるとしても(もし、あるとしても、ですよ)、では決勝までチームを連れて行った「責任」については責めている皆さんは目をつぶるのかな、と。
個人的に面白いのは、優勝したイタリアからではなくてフランスのジダンがMVPに選出されたことです。これが日本のプロ野球界だったら「不祥事」をグラウンドで起こした選手は除外されるでしょうし、そもそも選考の対象が自動的に優勝チームに限定されていることでしょう。(日本のプロ野球で、MVPが優勝チーム以外から選出されたことはどのくらいありましたっけ? これが大リーグだと所属チームが優勝したかどうかには無関係にMVPが選出されているように見えますけど)
オールスターの選出では「どのくらいすごいプレイをする選手か」ではなくて「有名チームに所属しているか」「どのくらい人気があるか」が優先し、MVP選出では「選手がワンシーズンを通してどのくらい価値のあるプレイをしたか」ではなくて「チームが優勝したかどうか」にこだわるファンや評論家や記者が幅をきかしている限り、日本のスポーツ界の成熟はまだまだと言えそうです。
【ただいま読書中】
スタンリイ・エリン著、田中融二訳、早川書房、2006年、2000円(税別)
エラリイ・クイーンの序を読んでいるうちに、背骨の下側のあたりがもぞもぞし始めます。今から30年以上前の高校時代、薄暗い県立図書館の閲覧室で勉強しているふりをして読んだ本書(の前の版)が私の脳ではなくて脊髄に記憶を残していたようです。あの時はたしか夏、図書館には冷房なんかない時代で、錆の浮いた鉄枠の窓が大きく外に向かって開かれていたことまで思い出しました。そして『特別料理』を読み終えたときに感じた衝撃も。
『特別料理』……ミステリーや異色作家短編集をある程度読み込んだ読者なら、このタイトルで料理の材料について想像することはいくつかに限定できるでしょう。でも問題は「特別料理の正体が何か」ではありません。いや、それはたしかに作品の重要な要素ではありますがそれ“だけ”を問題にするのは、食事に行ったレストランで「アミルスタン羊は、アフガニスタンとロシアの境界の高原で産出するが、その美味はごく限られた人間しか知らない」と蘊蓄を垂れるのに夢中で、そのレストランの雰囲気や壁際に控えたウエイターの表情や運ばれてくる料理の形や色彩や香りや味は一切無視するのと同じ態度です。この『特別料理』を味わうためには、蘊蓄は一時脇に置いて、料理そのものを隅から隅まで貪欲に味わう必要があります。いや、貪欲というのは言い過ぎでした。素直にゆっくり読めば自然に目から読者の脳にお話は飛び込んできます。脳ではなくてあるいは脊髄にも。30年以上前の記憶が肉体感覚を伴って生き生きと蘇るのは、喜びであると同時に一種の恐怖でもあります。
『お先棒かつぎ』……失職中のクラブトリー氏が新聞広告でみつけた「おいしい」お仕事。決められた時間決められたオフィスにたった一人でこもって配達された文書から指定された会社に関する情報を拾い出すだけ。一瞬シャーロック・ホームズの『赤毛連盟』を連想します。しかしクラブトリー氏が住んでいるのは貧相な下宿屋で、彼を外に誘導することに意味があるとは思えません。やがて氏の前に雇用主が姿を現し驚くべき「仕事」をいいつけますが……ラストでのクラブトリー氏の行動を知り、『特別料理』でもぞもぞしていた背筋がこんどは凍りつきます。
『クリスマス・イブの凶事』……タイトルからして禍々しい出来事を予想できます。よりにもよってクリスマス・イブに凶事? しかし、実際に何があったのかは最初から明らかにされます。殺人が行われ、犯人も明らかなのに犯人は裁きを逃れたのです。では「凶事」は、過去のことではなくてこれから起きるのでしょうか。しかし主人公はそれを予防するために全力を尽くし、とりあえず成功します。では「凶事」とは一体何なのでしょうか。……ラストシーン、私は映画「サイコ」のラストを連想しました。たしかに禍々しい出来事です。
『君にそっくり』……好青年だが貧乏なため汲々としているアーサーは、元は上流階級の出身で今は没落しているチャーリーと知り合い、彼から「上流の香り」とでもいうものを吸収します。いつしか二人の雰囲気はそっくりとなり、社長令嬢に見そめられたアーサーは……となると出てくるのは「太陽がいっぱい」ですね。映画と同じく殺人もあり、本来の持ち主ではないお金を使うシーンもあります。でも怖いのはそこから。最後にタイトルが効いてきます。
最初の『特別料理』はやはり特別です。しかしそれ以外の作品も逸品揃いです。少なくとも2100円(税込み)と読む時間を投入するだけの価値は十分あります。少なくとも私にはありました。
今から20年くらい前にスタースプリンターがいました。1984年のロサンジェルスオリンピックでは、100・200・走り幅跳び・100×4リレーの4種目で金メダル、という快挙を成し遂げています。
そういったオリンピックや世界陸上での活躍をTVで見たある人が「天才は良いなあ。それにもともと黒人は身体能力が高いんだろ。世の中は不公平だ」と言いました。私はかちんときました。「黒人だから? 天才だから?」それだけの上に胡座をかいて彼が栄誉を勝ちとっているとは私には思えなかったのです。それに、カール・ルイスが天才だとしても(たぶん天才でしょうけれど)、もし彼が私やそのぶーたれ言っている人と同じように冬になったら炬燵にもぐり込んで蜜柑を食いながらぼーっとテレビを見ているような生活をしていて、それで100メートルを10秒未満で走れるでしょうか?(反語疑問形だが内容は断定) こちらも向こうも同じ生活をしていて、それで向こうは金メダルこちらには「ご褒美」は一切なしならそれはたしかに不公平です。でも、カール・ルイスは私たちがやったらあっさり死ぬくらいの努力をしているはずです。天才的な素質を持つ人が常人にはできないくらいの努力をした結果を天才でもなければ努力もしない人間が羨むのは無意味でしょう。で、言わなきゃ良いのにそれをそのまま言ってしまいました。
その結果、人間関係がどうなったかはご想像の通りです。私にはもうちょっと言葉に関して努力が必要です。昔も、今も。
【ただいま読書中】
『超二流のススメ。』
三村敏之著、アスリート社、2001年、1429円(税別)
「超二流」というちょっと変わった言葉を私が初めて聞いたのは今から20年くらい前だったでしょうか。どなたかのエッセイだったと私の記憶は主張していますが、どの雑誌の誰のエッセイだったかについては私の記憶は沈黙します。ただ、少なくとも私の記憶が言うことを信じるなら、そこでの「超二流」とは……人は一流と二流と三流に分けられる。しかし一流になるのは難しい。才能と人並み外れた努力が必要。その努力も生半可なものではなくて、自分自身のプライベートな時間や家族と過ごす時間もすべて犠牲にする覚悟がいる。だったら、あえて一流を目指さなくても二流で良いじゃないか。ただ、普通の二流ではつまらないから「超二流」を目指そう。仕事はそのへんの並の二流より上、しかしプライベートタイムや趣味は一流よりも確保する、そんな生活で仕事と私生活のハイレベルでの両立を目指すのが超二流だ。……たしかそんな主張でした。
けっこうショックでしたが、私にはその主張がすんなり飲み込めました。自分が仕事と家庭生活で目指していることをすっきり言語化されたような気がしたのです。
もちろん「自分は二流だ」と認めるのは、辛い経験です。本当はそんなことは認めたくはありません。でも、すべての人が一流になれるわけではありません。ほとんどの人間は二流以下、が厳しい現実です。さらに「意識だけ一流だが実体は二流(以下)」なんてのは社会の迷惑です。だったら「自分は一流かもしれない」という幻想を追い続けるよりもさっさと「自分は二流。でも目指すは高いレベル」と宣言した方が、自分にも社会にも有益です。少なくとも私はそう考えました。(この場合の一流二流は、たとえば「村でトップ」とか「会社では一流」レベルではなくて、学会とか世界レベルでのお話です)
本書での「超二流」は、上記したような個人としての職業と私生活の関係ではなくて、チーム理論です。それは著者が何回か挙げる「石垣のたとえ」によく現れています。一流の選手は少数の大きな石。でも大きな石だけでは石垣は作れません。二流の選手は小さな石。どちらも頑固にその形を変えません。そこで自らの形を柔軟に変えて大きな石と小さな石をつなぐ存在、それが超二流の選手たちだ、と著者は言うのです。一流と二流と超二流、そのすべてがそろって強固な石垣ができるのだ、と。「一流と二流は頑固に形を変えない」はおそらくコーチや監督を経験した著者のホンネでしょう。私の商売でも一流と二流の人間はたしかに自分の専門分野(守備範囲)を頑固に守ろうとしますから、スポーツの世界でもそれはあるだろうな、と思えます。
著者はカープのショートとして、自分の特徴を活かす打撃でなんとか三割バッター(一流バッター)になろうと模索していました。しかし努力しても努力してもその目標は達成できません。昭和50年、前年最下位の広島カープはルーツを監督として迎えました。ルーツは目標を「優勝」とし、著者にはこう言います。「君には三割は望まない。二割七分で良いからゲームを進める工夫をして欲しい。それとショートとして全試合出場」……著者は悩みます。個人としての目標を捨てろと命じられたのですから。しかし葛藤を乗り越えてチームのために2番バッターとしての役割を果たした結果(著者だけではなくて他の選手も自分の役割を果たした結果)広島カープは初優勝をしました。しかし翌年著者はもう一度「一流」への挑戦をします。チームが優勝争いに絡まなかったこともありほぼ自由にバッティングを行った結果、本塁打は約3倍に増えましたが他の打撃成績は軒並み昨年以下でした。「自分はここまでの選手だったんだ」と著者ははじめて自分を客観的に見ます。しかしその認識を得たときには、もうすでに著者の引退は目の前に迫っていたのでした。
著者は「超二流」を「一流以下」とは見ません。指揮官としては、大きいけれど固定化した役割しか果たせない一流よりTPOによっては超二流の方がはるかに使いやすい、と主張します。
たしかに、V9時代の読売ジャイアンツは、川上堀内王長嶋だけで勝っていたわけではありません。柴田・黒江・森・高田・末次など大スターの脇に徹する人々がきっちり自分の役割を果たしていたからこそ「常勝」だったのです(それにしても……ジャイアンツのファンではない、というかむしろアンチだった私なのに、なんでこんなにずらずら選手の名前が出てくるんだ?)。最近のジャイアンツはそこを勘違いして、スターを集めれば何とかなる、とでも思っているかのようです。まあ、そういった勘違いはアンチとしては大歓迎なんですけどね。もっとも私は最近丸くなったのか、あまりアンチ感情が動きません。そのせいか現在のジャイアンツの選手なんてほとんど知らないや。閑話休題。
著者が特に重視するのは「自分の特徴を生かすこと」と「工夫」です(努力をするのはプロなら当たり前だから重視しないそうです)。肉体的な素質が一流であっても精神的な素質が足りなければその選手は一流にはなれません。そこでどのくらい視野を広げ自分自身を客観的に見つめ状況に柔軟に対応し練習に工夫をするか、そこでその選手が二流で終わるか超二流になって一流選手よりもチームに貢献できるかが決まります。そしてそういった超二流の選手たちをいかに柔軟に使いこなすかが指揮官の腕です。
そうそう、怠ける口実として「超二流」を使う(一流になろうとする目標から逃避する)人は結局超二流にも二流にもなれず三流になるのがおちでしょう。先にも書きましたが著者はプロが努力するのは当然、必要なのは自己認識と状況判断と練習の工夫、と主張しているのですから。
いつかタカハシさんがトイレを徹底的に掃除する話を書かれているのを読んでからずっと「我が家もそのうちやらなきゃなあ」と思っていましたが……ついに思い立ってやってみました。使い捨て手袋(家内が普段使っているものなのでサイズが小さくて窮屈でした)をはめてから洋式トイレの蓋と便座を外してみると……うひゃあ、期待したほどではないにしても、細かいところがしっかり汚れています。しこしこと磨いてから脱臭フィルターをはずすと……黄変した埃の層がへばりついてます。歯ブラシで掻き取ってきれいにしましたが……結局これは男性陣の責任です。洋式トイレに向かって小便をしたらどうしても小便混じりの水(あるいは小便そのもの)がまわりに飛び散ります。それが積もり積もって予想外のところに汚染を定着させているのでしょう。本当は水タンクも外してその下も掃除したかったのですが、説明書にはタンクの分離までは載っていなかったのであきらめました。
我が家は贅沢にも男性用小便器のあるトイレもあるのですが(で、私は必ずこちらを使うのですが)、子どもたちはどうしても近くの洋式トイレを使う・しかも子どもだから小便も元気・その結果いろいろ飛び散る、ということです。ふうむ、どうしましょう。
1)子どもたちにも「おしっこは常に小便器に」と強く言う。
2)汚した「責任者」に掃除させる。
3)気になる人が掃除する。
……どれが一番平和で実効があるかしら。とりあえず、また汚れた頃に「こんなに汚れているよ」と見せることからかな。
【ただいま読書中】
『
宇宙戦争 』The War of the World(1898)
H・G・ウェルズ著、雨沢泰訳、偕成社(偕成社文庫3254)、2005年、700円(税別)
19世紀に出版されたSFの古典です。しかしタイトル(原題)を見て私は考え込んでしまいます。世界大戦はまだ起きていない時代、火星には運河があると考えられ、ライト兄弟はまだ空を飛ばず、そして本書の内容にも関連することで重要なのは輸血は行われていたが血液型(ABO式)はまだ知られていなかった、という時代に本書は出版されたのです。著者の時代や世界を見る目は、ちょっとスケールが大きすぎません?
火星で不思議な爆発が目撃されしかもそれが毎日10日間連続するという異常な事態から本書は始まります。著者はそれが火星からの侵略の始まりであることを隠しません。やがてロンドン近郊に住む主人公の家の近くに大きな隕石が衝突し、見物に出かけた主人公は「それ」が人工物であることを発見します。翌日別の場所にまた新しい飛来物が到着、さらに翌日別の場所に、と10日連続で火星からイギリスに次々飛来物がやって来ますが、もう数えている余裕はありません。最初の飛来物から出現した火星人は、三本足の竹馬に乗ったボイラーのような戦闘マシーンで移動を開始すると同時に、町を破壊し人々の殺戮を開始したのです。軍隊は歯が立たず、ロンドンはパニックとなり、600万の住民は続々と避難を開始します。しかしそこから恐怖の第二幕が開きます。火星人の食料は動物の生き血だったのです。そして、火星人から見たら地球上で一番目立つ動物は……人間です。
人類は容赦なく火星人に踏みにじられます。まるで人間に踏みにじられる蟻のように。著者はその光景を冷徹に描写します。機関銃や大砲や砲艦によって植民地を圧倒的に支配していた大英帝国軍が、まるでその裏返しのように、毒ガスや光線銃によって火星人に圧倒されます。
また、「人類の未来像」についても、よくもそこまで19世紀に予想できた、と驚嘆します。進化論や比較解剖学や骨相学で学問的な地ならしができた上に構築されたものですが、不必要な臓器が消滅し(消化器官がなくなっているから血液を食料にする必要があるのです)異常に大きな頭脳と目玉だけと言って良い生物像を提示し、しかもそれが人類の将来の姿と重なるかもしれない、と言われたらちょっと苦い気持ちになります。
さらに怖いのは「戦後」の展望です。火星人が地球を支配し、しかも人類の全滅を望んでいないのなら、人類は二つに割れるだろう、と言うのです。火星人にすり寄って我が身の安泰を望むグループと、火星人に徹底的に抵抗しようとするグループとに。幸い本書ではそういった「戦後」は訪れませんでした。地球の微生物が立派なお仕事をしてくれましたが、異種蛋白の摂取で火星人が死ぬ方が早いんじゃないかな、とも思います。19世紀には蛋白質に立体構造が存在することや光学異性体は知られていないからそれを望むのは無理な注文でしょうけれど。
数年前、我が家がまだWOWOWに加入していた頃には、地上波ではWOWOWのCMを流していませんでした(少なくとも私は見た記憶がありません)。ところが自分のCMをWOWOWでは流していたのです。「WOWOWがいかに素晴らしい番組を流しているか」とか「○日には無料視聴がある」とかの内容でしたが、「視てくれ、と今まさに視ている人に宣伝しても無駄だよね」と私は冷たく思っていました。特定の番組の宣伝ならともかく、「WOWOW自体の宣伝」は、「視ていない人」に「視てくれ」と言わなきゃ(そしてその気にさせなきゃ)まるっきり意味がないでしょ?
最近はけっこう地上波でWOWOWの宣伝をやっているので、それがきっかけで視聴者が増えたらWOWOWのためには良いことだな、と思います。私が再加入するかどうかは……まだわかりません。時々見たい映画をやっていることもありますが、DVDを借りてくるのとどちらがコストパフォーマンスが良いのか、ちと(あるいは大きな)疑問なものですから。「見ないけど取りあえず録画だけしておこう」は結局見ないままになることが多いですし。
【ただいま読書中】
森岡浩之著、早川書房(ハヤカワ文庫JA 547)、1996年初版(2000年17刷)、500円(税別)
遙かな未来、人類は宇宙に拡がっていました。ちょっと変わった生態系を持つハイド星系の惑星マーティンでも人類の植民者の末裔が栄えていました。そこへ宇宙からアーヴと名乗る種族の艦隊がきわめて優美に侵略してきます。元は同じ人類ですが宇宙で生きるように遺伝子を改変し強大な艦隊を持つアーヴは惑星マーティンに通告します。抵抗してもしなくてもどちらにしても支配する、と。
マーティンの首席ロック・リンは、自分をアーヴ貴族にしてもらうことと引き替えに宇宙防衛システムのキーを渡します。マーティンの人々は裏切り者とリンをみなし、その息子(マーティン暦で8歳、地球暦で10歳)のジントはアーヴについて学びアーヴ貴族となるために惑星デルクトゥーに単身送られます。そして7年後、アーヴ貴族の義務である軍務に就くために巡察艦ゴースロスに乗り込んで帝都を目指します。宇宙港でジントが出会った翔士修技生は16歳のラフィール。妙に尊大で素直な彼女は、実は貴族の上、皇族でした。アーヴでは皇族も軍務の義務があり、そこでの生存競争と出世競争にトップで生き残った者が次期皇帝になる決まりがあったのです。
帝都を目指すゴースロスは、アーヴ帝国の敵「四ヶ国連合」の艦隊と出会います。館長は「貴重な荷物」であるジントとラフィールを艦載機で逃がしてから戦闘に突入します。二人は燃料補給のためにフェブダーシュ男爵領に着陸しますが、腹に一物ある男爵によって別々に軟禁されてしまいます。さて、二人の運命は。「富を生む」と言われるわりにはちっとも詳細に説明されない惑星マーティンの生態系とは一体どんなものなのか。ジント・リンって林神人? とか、様々な謎を秘めたまま、お話は第二巻へ。
遺伝子改変の結果、髪の毛は青っぽく、前頭葉の航法野に直結した空識覚と呼ばれる空間認識能力を持ち、不老(25歳くらいの外見のままで200年以上生きる)で美貌揃いというアーヴ族。宇宙空間に居住し地上に降りるどころか地上を統治することさえ「優雅ではない」と拒絶する人々ですから、当然その社会制度や倫理観は地上人とは大きく異なっています。その中でもちょっと変わった存在らしいラフィール。それに対するジントは、生粋の地上人ですが身分はアーヴ貴族のため地上とは切り離され、でもアーヴの一員という意識は当然なく、自分が何者か確定できない状態です。このアーヴ社会の中で変わった者同士の二人連れが一体どんなドラマを作っていくのか、楽しみです。
前から気になっていたシリーズなんですが、なぜか食わず嫌い状態でした。昨日『宇宙戦争』を読んで、古いのを読んだからこんどは新しいのを、ということでやっと読むことにしました。いや、素直に楽しめますわ、これ。あっという間に第一巻を読了してさっさと第二宇宙速度で第二巻に突入します。
最初に価値の代用品をつくって流通させたら「正式な貨幣」と呼ばれ、二番目以降に作成されたものは「偽金」「偽造貨幣」と呼ばれます。やってることはほとんど同じなのにね。
【ただいま読書中】
森岡浩之著、早川書房(ハヤカワ文庫JA 552)、1996年初版(2000年15刷)、540円(税別)
「敵艦隊来襲」の知らせを持ってやっと惑星クラスビュールにたどり着いたラフィールとジントですが、時すでに遅くそこはすでに四ヶ国連合の艦隊に占領されていました。警告をもたらす任務は果たせず、敵に囲まれて燃料も尽き、二人は惑星に不時着します。さて、困りました。二人とも異邦人。ジントはまだ地上人ですからまるっきり地上世界に縁がないわけではありませんが、ここは出身惑星ではありませんから言葉から勉強しなければなりません。ついでに言うとジントは(非常に好意的に言っても)世慣れたタイプではありませんから見知らぬ惑星をすいすい動けるわけはないのです。ましてラフィールは、いわば天上のお姫様です。放っておいても目立つ上に性格は激情型、地上でのいわゆる常識はかけらもありません。
さらに情勢は複雑です。惑星はアーヴに支配されているので基本的にアーヴに対する反感が支配しています。そこに四ヶ国連合軍が民主主義で帝国の支配からの解放を謳いながら占領を行います。ところが(戦時下ですから)その手続きは当然非民主的なものです。住民は占領軍にも反感を持ちます。
つまりラフィールとジントの周りは、敵か、敵の敵だが味方ではない人々ばかりなのです。やがて「アーヴが不時着したらしい」と知られ、占領軍の追っ手がかかります。二人は異世界での逃亡を続けます。
その頃宇宙では艦隊同士の決戦が始まろうとしていました。誇りを価値の最高に位置させるアーヴにとって、自分の帝国の一部が占領されるという「侮辱」は許しがたいものだったのです。平面宇宙(と通常空間)での戦争です。
そのころ、逃げ続けていた二人に、意外な味方が現れます。「俺たちの人質になれ」というのがその申し出です。
いやあ、笑ってしまいます。スター・ウォーズとは逆で、帝国が主役(善玉)で敵役が「民主主義を標榜する国家群」です。『銀河英雄伝説』では両者はイーブンの扱いでしたがこちらではアーヴがあまりに魅力的なものですから「帝国が善玉でもまあいいか」と思ってしまいます。帝国軍兵士を主役にしたら「スターウォーズ」と同じ舞台設定でもまったく物語になったのでしょうが、民主主義が絶対的に善の世界では受けないでしょうね。
帝国と言えば、古代ローマの影響が強いアーヴ帝国システムです。着るのは長衣だし紋章にもこだわりがあるし、「十翔長」「百翔長」はもろにローマの「十人隊長」「百人隊長」からでしょう。そして市民権獲得も。惑星上に住む領民が軍役に服したら帝国国民になれるシステム(+軍務が教育と密接に関係していること)は古代ローマそのままです。(古代ローマでは、属州の人も軍務に服したら教育が与えられ、退役したら(生きて退役できたら)ご褒美として市民権が与えられました) アーヴって、日本人の末裔が作り出した生命体の末裔の筈なのに、地球の歴史に強いのかな?
お笑い芸人を絶叫マシンに乗せたりひどく辛い思いをさせたり危険な目に遭わせているのを笑って眺める、という趣向の番組が時々あります。
あれ、本当に面白いです?と他人に聞くよりも私の意見を言います。面白くありません。たとえばそこに出演するのがお笑い芸人ではなくて、ドラマで主役をやっているタレントたちや、コメンテーターとして良識ぶった(あるいは機知の効いた)発言をしている人たちが同じ目に遭っているとしたら、やはり同じように見ながら笑えます? あるいはタレントではなくて近所の子どもたちが出演して同じようなひどい目に遭っているとしたら? お笑い芸人以外がやっても面白くも何ともないものをお笑い芸人がやっているというだけで反射的に笑えるほど私のお笑い神経は敏感ではないのです。
たしかにかつてはドリフターズなどは肉体的に派手などたばたをやっていました。しかしそれはスラップスティックという「芸」だったはずです。今TVの画面でお目にかかるどたばたは「芸」になっていません。じたばたしているだけです。お笑い芸人が、本気にせよ演技にせよ、絶叫しているだけのシーンはまことにつまらないものです。(ここで私が責めているのは「お笑い芸人」ではなくて、そういった番組を企画構成している側です、念のため)
【ただいま読書中】
大学合同考古学シンポジウム実行委員会 編、学生社、2006年、2400円(税別)
埴輪は謎に包まれています。いつ誰がどこでどのように作って、どのように運送してどのように埋設したか。(何かに使われたのだとしたら)どのように用いられたのか。わざと壊されてから埋められたものはなぜ壊されたのか。時代による変遷はどのようなものか。工人の個性は発揮されたのか。
本書は、早稲田大学・明治大学の大学合同考古学シンポジウムから発展した「埴輪模倣製作実験」で早稲田・明治以外に七大学が参加し三五〇本の円筒埴輪を製作した報告です。実際に製作してみることで、「現在我々がながめている埴輪」の「時間」を巻き戻してさらに多くの情報を取ることができるのではないか、という目論見でこの実験は行われました。
実際に製作を初めてわかることも多くあります。たとえば製作時間。手が慣れると高さ50センチ程度のものだと一本を一時間くらいで製作可能でした(粘土の準備(掘り出しや砂を混ぜたり練る過程)や焼成は別として)。さらに、全くの素人だったのに、手が慣れるにつれてだんだん標準化が生じます。どんどん作品がモデルに近づいていきます。つまり、個人としての製作者の同定が困難になるのです。
もともと埴輪はいくつかの「型」に分類され、それは年代の差と工人集団の差によると考えられていました。しかし、ある工人が製作した埴輪を他地域に運んでそこでそれをモデルとして埴輪製作を行ったとしたら、表から見るだけでは「型」の差がつけられない可能性があることになります。その場合には、工具や土の成分や焼成方法の差によって分類する必要があるでしょう。
細かいことですが、円筒埴輪の多くは、基部は粘土板を丸め、その上に粘土紐を巻き上げあるいは輪積みする方法で製作されます。粘土板は板の上で伸ばされるので、片面には板目が残り、反対側には工人の掌紋が残ります。将来はそういった事実の分析で、製作場所とできることなら製作年度まで特定できたら、いろいろ面白いことがわかりそうです。
さらに面白いのは、ブラインドテストです。石器の専門家など数人にほとんど情報を与えずに、製作実験で作られた埴輪のうちから84点を示して分類をさせたのです。さすが考古学の専門家たち、と言いたいところですが、中には同一人物の手になる埴輪を別のグループに入れたりする「ちょんぼ」も見られます。これは、製作したのが熟練工ではなくて素人であることや、中には一度製作してから3ヵ月くらいして再度製作した人もいたことなどの事情が絡んでいます。
ただ、これは面白い問題提起です。私たちが埴輪を見るときは「すでにできあがっている埴輪」「壊れずに残っている埴輪」を見た目でパターン分類しがちですが、製作過程から考えるともっと別の分類方法がありそうです。そしてそれは埴輪に限定されるものではありません。考古学は、「モノ」を相手にしている学問のようですが実は「頭の中」で解決している部分が非常に多いように私には見えます。それをもう一度「モノ」の側に引き戻して実証的に学を進めるために、こういった実験的な手法はきわめて有効である、と私は感じます。
……できたらこんどは古墳の製作実験をやってくれないかなあ。
「好ましい日本語」コミュで「『2.9999・・・』は『ほぼ3』なのか」という話題を読んでいてふと思い出したことがあるので、今日は思い出話です。
「1/9」(きゅうぶんのいち)は小数で書くと「0.1111111・・・」と循環小数になります。(たとえば123123・・・だったら「循環」だけど同じ数字を繰り返すのは「連続」であって「循環」とは言えないぞ、というのは私の子ども時代の感想です) で、「1/9=0.1111・・・」が成立するとして、その両辺に9をかけると、左辺は「1/9×9=9/9=1」、右辺は「0.1111・・・×9=0.9999・・・」。あれれ、「1=0.9999・・・」になってしまいました。どうして?ということで、当時中学生だった私はたまたま数学の教育実習にきていた教生のところに質問に行きました。教生はちょっと困った顔をしました。「微分が使えれば簡単に説明できるんだけど……」とぶつぶつ言っていますが相手は中学生坊主、中学校の数学レベルで説明しなければならないのです。実を言うと私は個人的にちょこっと微分はかじっていたので「微分で説明」でもちっとも困らなかったのですが(たまたまその頃読んでいた本にその入門があったのです)、いらないことは言わない主義なので黙ってました。結局彼は「じゃあ、1から0.9999・・・を引き算したらいくつになる?」という説明を採用しました。「0.000000000000・・・ えっと……」「ね、いつまでたってもゼロしか出てこないだろ。つまり差はない、つまり9/9は1なんだよ」
……たしかにそうなんですが、片方は1でもう片方はゼロで始まる数字です。視覚的にはゼロと1は全然違うんですよねえ。ということで、私は論理的には納得しているのですが感覚的にはまだ納得していないのです。
【ただいま読書中】
ラフィールとジントは旅亭に潜伏しますが、いくら隠れたつもりでも異文化ばりばりの組み合わせ(しかも片方は絶世の美少女)ですから目立ってしかたありません。当然のように占領軍と惑星警察の捜査の手が伸びますが、きわどいところで二人は逃亡を再開します。とにかくアーヴの艦隊がクラスビュールの制宙権を取り戻すまでの我慢なのですが、問題は制宙権を取り戻したとしてもアーヴには地上軍がないため惑星上までは手が出せないことです。軌道上から惑星中をなぎ払って良いのだったら話は別ですが。
とうとうクラスビュールへの「門」をめぐって、アーヴ軍と人類統合軍との戦いが始まります。平面宇宙での戦いは静かで残酷です。平面宇宙での物理法則(速度は質量に反比例する)によって機雷は確実に艦船に迫ります。モニター上で機雷が船に融合したとき、そこでは多くの生命が失われるのです。
一方ラフィールとジントは文字通り地下に潜っていました。惑星地下の洞窟です。そこにも占領軍の追っ手が迫り、ラフィールの空識覚をたよりに移動した二人はなぜか遊園地に紛れ込みます。機械仕掛けの動物たちを巻き込んでの撃ち合いが始まります。そしてとうとう二人は「葬儀屋の仕事場」に入ります。
「ヤングアダルトの視点からの宇宙戦争」といった趣の作品ですが、たとえば「子どもの視点からの魔法世界」である『
ハリー・ポッター 』とはまた一味違った出来です。私から見て、ジントは異世界(未来)の住人ですが、ジント本人にとっても出身惑星のマーティンはそもそも人類にとっての異世界です。さらにそこにアーヴが侵攻することによってそこは自分の領国となりさらに人類統合体が侵攻して完全に自分とは縁が切れます。そしてそこから転々とする世界はすべてジントにとって未知の異世界。そしてそこへの道案内をするのが、私ともジントとも異なった文化と価値観と肉体を持つ天空の住人アーヴであるラフィール(遺伝子を自由自在に操る(操らなければ宇宙では生きられない)人々にとってたとえば「家族」「血縁」という概念が我々とは隔絶したものになるのはきわめて「自然」なことでしょう))。このように層別に積み重なった「異」によって構成された本作は、どこを見ても差異だらけ。逆にその仕掛けによって二人の逃避行(と書くと意味が違ってきちゃうかな)がすんなりとこちらに受け入れられます。
とりあえずラストはハッピーエンドなのかな。もっとも「え〜、これでおしまい?」と言いたくはなりますが。できることならハッピービギニングであって欲しいな。
子どもが小さい頃、やたらと電話や訪問で「お子様が小さいうちから英才教育を」との売り込みがありました。一番多かったのが英語教育でした。「3歳までに英語をたたき込んでおかないと手遅れになってしまいます」なんてさも怖そうに言ってましたっけ。今は下の子どももそれなりに大きくなったおかげがそういった早期英才教育の売り込みはぱたっとなくなりましたが……ちょっと疑問があります。早期英才教育がそんなに有効なのだったら、当時そういった教育を受けた人たち(今は大人になっている人たちも多いはず)はきっと「英才」になっているはずですよね。
……なっているんでしょうか? 日本には英語ぺらぺらの英才がそんなに大量に定着しています? 日本の教育レベル・知的レベルは「早期英才教育」によってぐんぐん上昇し続けています? 「早期教育の有効性についての理論的根拠の主張」ではなくて「現実」を私は知りたいと思います。それと、(もしあるのなら)教育の失敗による悲惨な実例(副作用)とその頻度についてもね。
で、こんどは小学校で早期英語教育を始めるそうな。やれやれ、なんで英語? なんで早期? そんなに日英の同時通訳者が大量に必要な事情が日本にあるんですか?
なんて言うかなあ、言いたいことがあってそのための手段として英語を使う、ならまだわかります。たとえば長男がオーストラリアでホームステイをしたときは、もちろん英語ができなければどうしようもない状況でした。そして共通の話題(息子と先方の子どもの場合、WWE)があって非常に助かったそうです。(ただし、「グローバリゼーションのためには英語が必須」と主張している人が「オージー英語」を正式に認めているかどうかは知りませんが)
だけど「とにかく英語を仕込めばいいのだ」では、言いたいこと(頭の中身)が空っぽで口だけ良く動く人間を作るだけじゃないのかな。たとえば私が外国人だったら、日本の舞踊・スポーツ(武道)・日本のマンガやアニメ・日本文学・日本の歴史・日本食・邦楽・茶道・華道・寺社仏閣の由来や建築様式・祭り・富士登山など詳しく聞きたいことは山ほどあります。「英語のできる」人たちは、そういったことに関してぺらぺらなのかしら?
英語はぺらぺらだけど教養もペラペラ、には私は反対なのです。
【ただいま読書中】
出口保夫・林望 著、PHP研究所、1997年、1143円(税別)
二人のイギリス好きによる連作エッセー集ですが、別に無責任なイギリス礼賛の本ではありません。著者は二人とも視野にイギリスだけではなくて日本を常に置いています。
林さんは前書きでこう述べます。「私はイギリスを愛する。しかし、イギリスにかぶれているわけではない。私は、それよりももっと我が祖国日本を愛する。だからこそ、その日本に対して、少しく苦いことも言わなければならないのである」
著者が憎むのは「現実離れした思いこみ」です。「イギリスの食事は不味い」と思い込んだら、実際には食べていないのに(あるいは食べても)「イギリスの食事はすべて不味い」とだけ言い張る日本人。「イギリスのデザートは甘い」と思い込んだら実際に食べて他の日本人が「これは日本のより甘くない」と言っても「絶対甘すぎる」と言い張る日本人。そういった、「現実」よりも「自分の思い(こみ)」を固守するある種の日本人の態度に対して著者は苛立ちを隠しません。……そういった種類の日本人は「イギリス以外」に関しても同じような態度で周囲に鬱陶しい思いをさせているのではないかな、とは思いますけど。
笑っちゃうのは、日本のパンとイギリスのパンとを食べ比べて「日本の食パンは白くて味がなくて軟らかいだけでスカスカ。イギリスの食パンの方がじっくり噛みしめると香りと味がある」という著者の主張に対して「イギリスのパンは食ったことがないが、不味いはずだ」と強硬に主張する日本人がいたことが紹介されていることです。「両方食ったことがある人」に対して「片方しか食ったことがない人」が「こっちの方が美味い/不味い(はずだ)」と教示を垂れる図は……なんとも滑稽としか言いようがありません。ちなみに私は日本のパンしか食ったことがありませんが「軟らかい」ことが売りの食パンはたしかに味が薄くて不味いと思っています。ただ、イギリスのパンが美味いかどうかは、自分でいろいろ食ってみるまで判断を保留します。(日本で売られている「イギリスパン」は「イギリスのパン」じゃないですよね?)
イギリスの外交官は、ケンブリッジやオックスフォードで、ギリシャ哲学・文献学・ラテン学などを「専攻」し、そういった教養を伴って任地に赴任し、しかもそこに長期間滞在して現地の文化を研究すると同時に人脈を作ります。つまりイギリス文化の代表者でありかつ現地との文化的交流者なのです。対して日本の外交官は多くが東大文一出身、すなわち、法律を学んで任地に赴きます。しかも滞在期間は短期間。さて、この人たちは「日本文化」に関して何を代表し何を現地で成就しているのでしょうか?
著者はどうも口が悪くて、「大学は本来教養を身につける場所だが、日本の大学(帝大)は官僚養成機関に過ぎない」と言います。「いや、理系は違うでしょ」とか「じゃあ私学は文化を重視しているの?」とか言いたくなりますが、それは重箱の隅つつき。大切なのは「日本の大学(特に文系)」がどんな文化的位置にあり何を達成しているか、でしょう。国内で達成できないことは国外でも達成できないでしょうから。
ヨーロッパ(特にイタリア・フランス・イギリス)の古い大学は、日本で言うなら大学院に相当する高等教育機関で、哲学などの一般教養を身につけた人が「専門職」(特に神学・法学・医学)になるために進学する場所でした。つまり「教養が豊かなのは入学のための当然の前提条件」だったわけです。日本ではその形だけ真似て最初の二年を「教養課程」なぞと称していますが、経験者であの二年で「教養」が身に付いたと思う人、もしいたら手を挙げてください。ちょっとその「教養」を見せてもらいたいと思うのですが……いませんか?
著者は、特に林さんは「人間関係」を重視します。『イギリスはおいしい』でもしきりにそのことは書いておられましたね。そして著者がイギリスの人間関係で特に感じるのが個人主義です。しかしそれは「我が儘の言いたい放題」ではありません。著者に言わせれば、温かい心を持ちシャイな人々が相手(個としての相手と相手との関係)を尊重するために用いる手段としての個人主義であり、それは同時に「パブリック」の確立に通じます。個人主義とパブリックの両立とは一見難しそうではありますが、徹底した個人主義こそが「パブリック」の基礎なのです。「自分が個として確立し他人から尊重される」から「個として確立した他人を尊重する」ことができる、そしてその「尊重」が個としてではなくて社会としておこなわれることが(イギリス式の)「パブリック(公共)」(本書では触れられていませんが、それにプラスしてイギリスが階級社会であることもパブリックの成立に重要だと私は思います)。逆に、日本のような未熟な人間によるぐずぐずの個人主義(自分主義)の国ではイギリスのような公共の概念は成立し得ないことになります。「今の日本には公共心が足りないからもっと道徳教育を」というのは実は的外れで、個人主義の確立をした方が公共心はきちんと育つ可能性が高いと言うことになるのですが……個人も公共もきちんと獲得せずに大人になった人たちはもう手遅れですね。(身分制度でがっちり固められた社会だったら「身分相応の振る舞いを」と強制することで日本式の「公共」が維持できるかもしれませんが……あ、そのための格差社会の構築?)
本書の最後あたりに、イギリスのランドマーク・トラスト会長の、「歴史は『環境』である」ということばが紹介されています。ヒトは「空間に生きるもの」ではなくて「時空間に生きるもの」です。そして、「時空間」の一部である歴史は当然「環境」(の一部)なのです。ならば「環境破壊」は軽々しく行うべきではありません。
……まるで私は保守主義者だな。いや、環境の改変はあっても良いと思います。だけど環境の激変は種の存続にかかわるから慎重に対応しなければならないと思うだけなのですが。
そうそう、日本では「過去の全否定(歴史環境の破壊)」がけっこう軽く行われますが、逆に「『過去の否定』の否定」も注意深く行わなければなりません。戦後のアメリカ式民主主義(と資本主義)の導入によって戦前社会(価値観)の否定が行われましたが、その否定を否定する人は、では明治維新(文明開化・江戸時代の全否定)や徳川政権の成立(織田・豊臣政権の否定、戦国時代の否定)についても否定するのかな? 「過去の全否定」をすべて否定するのなら、それは首尾一貫している、と評価できますが、どれかは否定してどれかは肯定するのなら次には「その恣意性は何故?」と私は聞きたくなるでしょう。
EUで様々なものが統一されようとしていますが、その流れの中で「イギリスらしさ」(とくに制度面)はどうしても変更を強いられるはずです。その過程はなかなか興味深いとは思いますが……あ、今日はずいぶん長くなっちゃったな。このへんで。
「愚か者」とは、愚劣な行為を頻繁にやってのける人のことです。
愚劣な行為に熱中している人の表情はたいてい美しくない、むしろ醜悪です。
したがって、「醜悪な表情をよく見せる人間は愚かである確率が高い」と言ってもかまいません。
三段論法(?)終了。
……美しい愚か者にはまた別の考察が必要かな?
【ただいま読書中】
チャールズ・ボーモント著、小笠原豊樹訳、早川書房、2006年、2000円(税別)
著者は小説家であると同時に脚本家として、トワイライト・ゾーンやヒッチコック劇場で活躍したそうです。しかし34歳でアルツハイマー病と診断され38歳で死亡……惜しい話です。
『黄色い金管楽器の調べ』……闘牛士志望の貧しい少年ファニートは思わぬチャンスを掴みます。大舞台にデビューできるのです。しかしマネージャーのエンリケはなぜか不機嫌です。とまどいながら準備するファニートにエンリケは驚くべきことを話し始めますが……「さもなくば喪服を」と言ったのはエル・コルドベスですが、ファニートは「何の因果でおれはこんな幸運に恵まれたのだろう」と思いながら「おれの死体をきみにあげよう」とつぶやきます。
『黄色い金管楽器の調べ』と同様に「見物される死」という共通項でくくれるのが『人里離れた死』です。こちらに登場するのは田舎でのダートトラックレースで賞金を稼いでいるくたびれたレーサーです。ポケットにある最後の6ドルから1ドル使って食事をし、3ドルの部屋に泊まり、このレースで3位以内に入らないと一文無し。しかしいくら頑張って走っても目の前の3位の車を抜けそうもありません。そこで彼は……
『越してきた夫婦』……越してきたばかりでまだあたりになじめない夫と近隣ともうなじんでしまった妻とのすれ違い。夫の心をかき乱すのは、その家でかつて自殺者が出たこととそれをまるっきり気にしていない妻の態度と近隣の謎めいた雰囲気です。やがて夫は恐るべき「真相」を知るのですが……
同じく「隣人」でくくれるのは『隣人たち』です。1960年、白人の住宅地に引っ越してきた黒人のマイルズ一家は冷ややかに迎えられますが、やがて嫌がらせが始まります。まずは「出ていけ」という脅迫状。そして牛乳瓶が割られ車のタイヤが切られ庭に火のついた十字架が置かれ……「次は手榴弾だ」と書かれた脅迫状が結びつけられた石が窓ガラスを割って部屋に飛び込んできた夜、近所の人たちが大勢玄関に押し寄せてきます。マイルズに向かって代表のジェンセンは……どうしてこんな展開で最後の一文でじーんとした余韻を感じるのでしょうか?
『淑女のための唄』……新婚旅行に船旅をしようと港についた二人は驚きます。乗る予定のレディ・アン号は、きれいなオレンジ色と思ったらそれはすべて錆でこの航海後に廃船にされる予定。さらに、乗客はすべて老人だったのです。しかも排他的な乗客たちは「金を出すから船から下りてくれ」と言う始末。かつて新婚旅行で乗船してレディ・アン号に惚れこんだ人々のセンチメンタル・ジャーニーだったのです。意地になった二人は強引に乗船し(というか、切符を持っているのだから当然の権利なのですが)大西洋横断の旅行を始めます。頑なだった老人たちとも少しずつ交流ができるようになった頃、二人はまたもや下船を…… 本書の中で私が一番好きな作品です。
『お父さん、なつかしいお父さん』……「過去に戻って結婚前の自分の父親を殺したら、殺した自分はどうなる?」というオーソドックスなタイムパラドックスものなのですが、本作では実際に実験で「それ」を行ってしまいます。しかしその結果は……いやあ、地口オチで来るとは思いませんでした。最後に笑わせてくれます。
同じく笑わせてくれるのが『性愛教授』。「不感症の女性など存在しない」と断言する性愛指南にかけては世界一二を争う教授が巻き込まれる騒動とは……
著者は引き出しをたくさん持った優れた作家だったようです。早世が惜しまれます。
たとえ同じ内容だとしても、熱い言葉で書かれた本を読んだ人が一斉に暴動を起こす確率はたぶんゼロに近いでしょうが、熱い演説を聴いた人々がすぐに行動に出ることはあるでしょう(暴動や革命)。
その差は一体何でしょう?
【ただいま読書中】
川田順造著、岩波書店(同時代ライブラリー16)、1990年、850円(税別)
言葉のない社会は(おそらく)ありませんが、文字のない社会は珍しくありません。日本でもかつてアイヌは文字を持たずユーカラという口承文化を保持していました。文字はあってもそれが少数者に独占されている社会もありますから、「ほとんどの人が文字を使用可能」な社会は歴史的には実は珍しいのかもしれません。(そういえば、中国の文字が入る「前」に、なにか文字らしきものは日本には存在しなかったのでしょうか?)
著者は西アフリカ、現在のブルキナ・ファソに住むモシ族を対象とした文化人類学的フィールドワークをもとに、無文字社会の歴史と文字社会の歴史についての考察を行います。
「文字がない」と面白い現象が起きます。たとえば著者が、今から特別に過去の王の名前を朗唱する、というのでわくわくしながら会場に待機していると、村人が集まってまずは太鼓の演奏が始まりました。朗唱の前の儀式だろうと思ってじっと待っていると、それが延々と続いていつまで経っても終わらない。やっと太鼓が終わったらみんなさっさと帰って行きます。「ちょっとちょっと、王様の名前は?」と呼び止めて聞くと「今やったでしょ」。太鼓の音(演奏)が王様の名前の朗唱だったのです。(著者は後に太鼓の叩き方も学んでいます)
同じ王朝から枝分かれした別の部族が持つ口承が、枝分かれ「以前」について異同があることや、同じ部族で半世紀くらい間隔をあけて採集された口承が明らかに異なっていたりしたことから、著者は口承による「歴史」は流動的で「現在から過去を解釈したもの」であると考えます。ただし「そんなものは『歴史』ではない」と貶めるのは、文字による歴史を是とする「西洋中心主義」にすぎない、とも言っています。大切なのは、口承が「そのようなもの」であるとして、それを客観的・普遍的に解釈することが可能かどうかですが、その客観性・普遍性の根拠が西洋の価値観にあるのなら、それはただのイデオロギーの発露でしかないのです。
そういえば『星界の紋章』にも「アーヴが文字を獲得する前には言語の変化は激しかったが、文字を得てからはその変化が穏やかになった」という記述がありましたっけ。おそらく文字という「不動の存在」(およびその普及)によって(ソシュールの言葉を借りるなら)パロールに対するラングの優位性が成立しやすくなるのでしょう。
こういった学術的な話題にSFが顔を出すのは変? しかし本書でも「文字記録は個別参照性が特徴である」と述べるとき、その例としてレイ・ブラッドベリの『華氏451度』を挙げています。文字がなければ人々は権力者の話し言葉(朗唱や演説)に集団で耳を傾けるしかありませんが(したがって支配しやすい)、読書という個別の行動が一般的になると集団の中で個が覚醒して支配者には都合の悪いことが起きやすいのでしょう。だから焚書が……って、話がずれちゃいました。
文字を持たない社会の歴史は神話とほぼ同一です。それに対して文字を持つ社会の歴史はいわば年表です。しかしこの二つは完全に断絶しているわけではありません。まず中間形態があります。文字が少数の人間に独占されている場合は「秘儀としての文字」が主に宗教的に用いられ、一般人は文字とは無関係な生活を続けます。また、他地域との交流があります。交易などで他の部族(文字を持つもの、持たないもの)と交流することで、確実にその部族は何らかの文化的影響を受けます。
「中途半端な文字の普及」は面白い話題を派生させます。文字があれば法令を徹底させることができます。「法は不知を許さず」と権力者が言うためには支配される民衆が文章としての法を読めなければなりません。ところが皆が文字を読めたら文字の秘儀性は失われ権力者の崇高性のヴェールが一つ失われます。さらに読書という個別参照性を各人が獲得すると権力者に盲従する人が減ります。……これは権力者のジレンマですね。
世界は、本来時空間全体に拡がって連続的に推移しているものです(「世界線」と表現しても良いでしょう)。それを(文字か文字でないかは関係なく)「ことば」で表現した瞬間、あるポイントに世界は「歴史」として収束していきます。そのポイントをいくつか並べてから擬似的に「連続したもの」として扱うのが我々の「歴史」感覚でしょう(その典型が「年表」)。そして、「どのポイントに注目してどのポイントは無視するか」「どの『流れ』を重視するか」の態度が歴史に関する「イデオロギー」です。
文字社会に生きる我々はついつい「記録されたものが歴史だ」と思いがちですが、記録されなかった部分も歴史だし、記録されたけど無視される部分も歴史なのです。
そうそう、蛇足ですが、たとえば2ちゃんねるのような巨大掲示板は、形式として文字を用いてはいますが実は「無文字文化」と言ってよいのかもしれません。あそこにあるのはすべて「発言」であって「著述」ではないし、個別参照性もありませんよね。
「幅のない線」「存在だけの点」「理想気体」「重さがない滑車」「摩擦のない斜面」「大きさのない質点としての星」……
まったく、数学だの物理学だの化学だの「学の世界」は非常識な存在が堂々と幅をきかしている不条理な世界ですなあ。
【ただいま読書中】
ジュール・ベルヌ著、加藤まさし 訳、高田勲 絵、講談社(青い鳥文庫)、2000年、620円(税別)
今では「ふしぎの海のナディア」は知っていても本書は読んでいない、という人はけっこう多いんじゃないでしょうか。ま、いいんですけど。
1866年、世界各地で海中を進む巨大な物体の目撃が報告されます。やがて船舶への被害が出始め、とうとう200隻以上の船がこの謎の怪物のせいで行方不明となったと言われるようになりました。アメリカで学術調査中だったパリ博物館教授の「わたし(ピエール・アロンナクス)」は、怪物と衝突した船腹の傷から「突然変異で巨大化したイッカク」説を唱え、怪物調査(退治)に向かう巡洋艦エイブラハム・リンカーン号にフランス代表として乗り込むことになります。ついに怪物を発見した一行ですが事故で「わたし」は船外に投げ出されてしまいます……ということで、ご存知ノーチラス号(とネモ船長)の登場です。(ちなみにネモはラテン語で「名無し」だそうな)(さらに、「怪物」「アメリカ」「フランス代表」から「アメリカ版ガッジーラ」を連想するのは、変?)
海水から電気エネルギーを取り出すことで無寄港航海を達成し、地上世界とは縁を切って世界を放浪するネモ船長と忠実な部下たち。なんとも不思議な世界です。読者の前に紹介されるのは、海底での狩り・巨大な真珠・海底火山の爆発・氷山の下をくぐって極点へ到達・大だことの死闘・謎の軍艦との戦闘……ネモ船長(と船員たち)が復讐の念に取りつかれているのは何故なのか・復讐の対象はどこなのか、は謎のまま、「わたし」はノーチラス号から脱出します。学識があり芸術を愛するネモ船長が、憎しみを忘れて海底探検を続けられるように祈りながら。
本作が発表されたのは1869年(明治二年)で、まだ実用的な潜水艦は世界に存在しなかった時代です(南北戦争で実験的な潜水艇は使われました)。その時、化学反応による電力で潜水艦を動かすという発想ができるとは、ベルヌはタダモノではありません。ただ、惜しいこともあります。氷山の下をくぐって南極点に到達しているのですが、これは北極にしておけば良かったのになあ。北極点到達一番乗りは1909年ビアリーによるものです(で、アムンゼンとスコットの南極点一番乗り争いが始まります)から19世紀には北極も南極も大陸なのか島なのかただの海なのかはまだ詳しくわかっていなかった時代なので仕方ないと言えば仕方ないのですが。1958年にはアメリカの原子力潜水艦ノーチラス号が北極海を潜航したまま通過する、という洒落たことをやってくれていますが、アメリカ海軍にもベルヌの愛読者がいたのかしら?
「男が好む女の肉体的タイプがどんなものかは、男性雑誌のグラビアを見ろ」と言ったのは誰だったかなあ。たしかに女性雑誌に載っている「女性が好む女性の肉体的タイプ」とは相当違った傾向があるようですね。
【ただいま読書中】
石村眞一著、法政大学出版局、2006年、3200円(税別)
本書では「俎」は祭祀で用いられるもの、「まな板」は食物を包丁で調理するときに用いるもの、と定義づけられています。古代中国での俎は生贄を捧げるためのものでした。最古の出土品は3000年以上前、石器によってほぞ接合された足が付いたものです。まな板は新しく漢代以降の副葬品として出土していますが、こちらも短い足つきで座位で使用したと考えられています。中国では魏・晋時代(4〜6世紀)に立位で使用されるまな板が登場したようです。壁画では豚が乗っかって解体されていますが、たしかに豚一頭だと座ってやるより立ってやった方が力が入りやすいでしょうね。
足つきのまな板って、まるで小さな机みたい、と思いますが、事実は逆です。俎が家具に影響を与えているのです。木製家具で、「案」「几」「机」「卓」といったものの発達に俎が深く関わっているのだそうです。「案」って何だ?と思いますが、神社で必ず見ることができる白木製で細くて長い足が八本付いた幅の狭い机のようなものが案の一種だそうです。几は床几とか脇息。
日本のまな板は中国伝来と考えられていますが、最古の出土品は4世紀後半のものです。長さが70センチもあって下駄のような足が付いています。
ここから著者は、日本の歴史史料に登場するまな板を次々ピックアップしていきます。「総花的で学術的ではない」という批判がありそうですが、「とにかくどのようなものがあるのか全部さらってみる」態度は私には好ましいものに思えます。たとえば上流階級と庶民とでまな板の使い方(=調理のやり方)に差があるかどうか、も現実を見ると少しずつわかってきます。
著者は、現在残る包丁式は、かつて中国で俎の上で生贄を捧げた儀式が日本では仏教の影響で獣から魚にかわり、さらに稲作民族の特徴(淡水魚に親しむ)からその魚も鯉になったもの、と推定しています。現在の包丁式では生きた鯉は用いませんが、『貞丈雑記』には生きたものを用いるとあるそうなので、著者の推論は当たっているかもしれません。
歴史の後は「現在」の話です。著者は日本各地を調査し、さらには世界各国でもまな板調査を行います。コンパクトにさらりと書かれていますが、この労力は大変だったことでしょう。いやあ、使う場所によってまな板も様々です。形・大きさ・材質・足の有無・足がある場合もそれが長いか短いか・表面の形状(平らか蒲鉾のように盛り上がっているか)・どこで使うか・そもそもまな板を使うか使わないか……このバリエーションの豊富さは普通の人の想像を超えています。興味を持った方はぜひご一読を。
私が特に面白かったのは『
サザエさん 』での「調査」です。1946年〜1970年の連載からまな板が登場するシーンを丹念に拾い出して、1960年代後半に、流しが人造石研ぎ出しからステンレスになるのとほぼ同じ時期にまな板が足つきのものから足なし(両面使用可能なもの)に変化していることを指摘しています。同時にその時期以降には座位で調理(畳の上にまな板を置いてその上で切る)シーンが登場しなくなります。……当然でしょうね。足がないまな板を畳の上に置きたいとは思いませんから。
日本でまな板から足が消えたのは、流しで魚をさばくのに足がない方が流しの角に置いたりの応用が利くことと、水洗いがし易いこと、両面が使えた方が何枚も使い分けるより便利、といったことが理由ではないか、というのが著者の考えです。私は「まな板はただの板」と刷り込まれているのですが、皆さん、机のような足のついたまな板を使ってみたいと思いますか?
スーパーのチラシにウナギの蒲焼きが目立つので「あ、今日は土用丑の日だ」と気づくのが私です。そういえば今年の母の日もチラシを見て思い出したんだったっけ。で、調べてみたら、今年の夏土用は新暦で7月20日〜8月7日まで。まだ土用に入ってすぐなんですね。
土用についてのミニ知識
五行説(木火土金水)で四季はそれぞれ「木=春」「火=夏」「金=秋」「水=冬」となってます。で、残りの「土」をどうするか古代中国人も悩んだらしく、それぞれの季節の間に二週間ちょっとずつの日数を取って分散して「土」を配置しました。つまりは季節と季節の移行時期で、これを「土用」と呼びます。したがって土用も立派な季節ということになります。日本ではなぜかこの時期の夏土用だけ生き残ってますが本来はあと三回土用があるはず。そうそう、「丑の日」も、昨日が丑の日だったということは、指折り数えたら(数えなくても)12日後はまた丑の日ですから8月4日も丑の日です。もし昨日ウナギを食べ損ねていても大丈夫、8月4日に「土用丑の日のウナギ」に関してはリターンマッチが形式的には可能です。ウナギにとっては迷惑な話でしょうけどね。
【ただいま読書中】
『月刊アスキー 350号』2006年8月号
アスキー、2006年、1280円(税込み)
月刊アスキーがとうとう休刊となりました。
そういえば、日本では雑誌をやめる場合でもなぜか必ず「休刊」と言うから、本当に一時中断の場合と結局区別がつかないので不便です。どうしてちゃんと日本語を使わないのか、不思議です。閑話休題。
1977年創刊以来約30年のアスキー誌の歩みは、ほとんど「パソコンの歴史」と重なっています。したがって今号の、過去をふりかえる特集は懐かしいものばかりとなりました。
巻末にこれまでの表紙が第1号から最後まで全部載っていたのでじっと見ていると……1982年の12月号の表紙に見覚えがあります。おそらくこれが私が買った最古のものでしょう。いや、別に買った雑誌の表紙を全部リストにして覚えているわけではありませんが、たまたま前回の引っ越しの時にこの本が隅っこから出てきて「懐かしい」とぱらぱらめくって見たものですからそのとき表紙の記憶もリフレッシュされてしまったのです。私は本は捨てませんが、雑誌は読んだら基本的にはすぐ捨てます。ただ、数年に一冊は記念(あるいは資料)として保存しておくので、今でもこの号は本箱のどこかに残っているはず。表紙にはグランドピアノがデザインされていて特集は「コンピュータミュージック」。当時私はAPPLE][のシンセサイザーソフトでいろんな楽器の音が出せないか、と試していた時期でしたが、この特集はあまり参考にはならなかった覚えがあります。
いや、大変だったんですよ。もう記憶はセピア色ですが、まず波形を決めます(大まかには正弦波か方形波、あるいはその変形)。ついで倍音の設定(相当高音まで倍音を減衰させない、という不自然なことをやると、エレキギターの音色に似てきましたっけ)。ごちゃごちゃやって音色がなんとか決まったらあとは楽譜の打ち込みですけど、たしかあの時のソフトでは同時発声は4音までだったかなあ。冨田勲やYMOのようなものはできるはずがありませんでした。まあ、プロが大金と人員と手間をかけてやってる仕事と、素人が出来合いのソフトと仕事の合間の時間で作る物とを比較してはいけませんけど。
とまあ、ついつい思い出話をしたくなるような「歴史」が詰まった雑誌です。これは捨てずに保存決定だな。……あ、表紙に「完全保存版」と最初から書いてある……
最近「好ましい日本語」コミュニティのトピックで「申し訳ない」が不定期に繰り返し話題になります。
いろいろな人の発言を読んでいて特に面白かったのは、「申し訳ない」が「申し訳+ない」という連語としてとらえることもできるが「もうしわけない」の一語の形容詞としてとらえることもできる、というところに引っかかりを感じる人が多いことです。
まずは「○○ない」という形容詞について考えてみます。これ、意外と多いのです。たとえば「あ」で始まり「ない」で終わる形容詞だけで、「あえない」「味気ない」「あだない」「あっけない」「あどけない」「危ない」「あられもない」……でかい辞書をちゃんとひけばまだあるかもしれませんがとりあえずこれくらいは思いつきます。語頭が「あ」以外となるともっともっともっともっと山ほど出てくることでしょう。
で、これらの形容詞、たとえば「危ない」は「危」+「無い」ではありませんよね。危険が無いのだったら「危ない」ではなくて「危なくない」です。つまり形容詞「○○ない」の「ない」は「無い」ではない、と言えます。
と言ってから、自分が言ったことをひっくり返します。実は「○○ない」の「ない」には「無い」もありそうなのです。
たとえば「みっともない」。これは元々は「見とうもない」が「みともない」に変化し、それがさらに促音が加わって「みっともない」になったのだそうです。つまり「○○ない」には「○○無い」も含まれているわけ。
こういった、連語で「○○」+「無い」が元となった形容詞としては、たとえば、「勿体ない」「あっけない」「拠ん所ない」「素っ気ない」「仕方ない」……これまたいくらでも出てきます。見分けるコツは……そうですねえ、「○○」と「ない」の間に「が」が入るかどうか、というのはどうでしょう。(日本国公認の見分け方かどうかは知りません)
で「申し訳ない」。これは「申し訳」が「ない」と分けられますから元は連語だと推定できます(意味からも、申し訳(申し開き・言い訳)ができない、ですからやはり連語でしょう)。ということで「申し訳ない」は「申し訳無い」である、と言うことも……可能でしょうか? だって「申し訳」なんて名詞を使う機会がそんなにあります? 私が「申し訳」と言い始めたらその後にはまず間違いなく「ない」が付いて出てきます。「ない」を丁寧表現したつもりで「ありません」と言うことはありますが、「申し訳のしようもございません」とか「申し訳がございます」とか「申し訳をするんじゃありません」なんてことは言いません(かろうじて「これで申し訳が立つ」「申し訳程度の雨が降る」という用法ならなんとか使えそうですが、これとてそんなにしょっちゅう使うわけではありません)。つまり私にとっては「申し訳」という名詞は生きた存在としてはほとんど存在しないのですから、(少なくとも私にとっては)もともと「申し訳」は「無い」のです。
これでいいのだ。
そうそう、関係ないですけど、「素っ気ない」(そっけない)と「素気ない」(すげない)……「っ」一つで漢字の読みが違ってきちゃうのは面白いですね。
【ただいま読書中】
筒井康隆著、新潮社(新潮文庫)、1979年初版(87年22刷)、320円
私が筒井康隆にまともに出会ったのは、高校時代の『わが良き狼(ウルフ)』だったと思います。別に熱狂的なファンというわけではありませんが、気になる作家で、数年に一回は必ず何かを読んでいます。
本作では、怒りが高まると文字通り我を忘れてしまうサラリーマン「おれ」が主人公です。意識がぷつんと切れている間に「おれ」は超絶的な暴力を相手にふるってしまうのです。普段は小心者だけど一朝事あれば暴力のプロ、って、どこかの願望充足ストーリーですか?と言いたくなりますが、「おれ」は冷や冷やです。「自分」がその暴力をコントロールできないのですから。自分が何をしでかすかわからないためなるべくトラブルから避けるように小さくなって生きている「おれ」は、地方都市で勢力争いをする暴力団同士の対立とそれと複雑に絡んでいる社内での派閥争いとに同時に巻き込まれてしまい、心ならずも暴力団の用心棒をパートで引き受ける羽目に陥ります。重役秘書の恋人から情報を得てなんとか派閥抗争から遠ざかろうと「おれ」は努力しますが、やがて抗争は警察や市役所も巻き込み、町全体が「戦場」となっていきます。このへんの暴力描写は「ああ、筒井康隆だ」と言いたくなるものです。
「おれ」はどうして我を忘れるのか。社内では誰が味方で誰が敵なのか。「おれ」に殺人の罪をなすりつけようとしたのは誰でその理由は。「おれ」の恋人が持っている秘密は何か。町全体が破壊されようとする戦いの帰趨はどうなるのか。話は火砕流か土石流のように激しく暴力的に巻末目指してずんずん流れていきます。
しかし、解説(山田正紀さん)では「ハードボイルド」という言葉が出てきますが、本当に本書をハードボイルドに分類しちゃって良いのかしら? むしろハードボイルドの形を借りて読者の想像力を試している作品のようにも私には思えます。たとえば「(バーに入ってきた3人に対して)彼らはそれぞれ三種類のやくざの典型だった」とか「(駐車場に停められているのは)伊丹の性格そのままの色に塗られたワーゲンだ」とか、一見説明をしているようで実は具体的には何も述べていない表現がごろごろ出てきます。「なぜ『おれ』が我を忘れて暴力をふるうのか」の「原因(と思われる現象)」も、言葉をたくさん費やしてはありますが、実は何もきちんと解明も説明もされはしません。読者はそこに自分の想像力を駆使して「色」を塗っていかなければならないのです。いや、その作業は楽しいものではあるのですが、けっこう読者に対して不親切な小説ですよ、これ。私はへらへら笑いながら楽しく読んじゃいましたけど。……暴力描写をへらへら笑って読むって……私の血にも何か問題があるのかな?
バイク置き場でずらり並んだナンバープレートを見ていたら、たとえば「14489」とか「25428」とか、同じ数字が二回(以上)登場するプレートがずいぶん多いことに気づきました。なぜだろう、と思いましたが、こんな時にはさっさと計算ですね。
ナンバープレートに5桁の数字がある場合、問題は「5つの数字がだぶらない(5つの数字がすべて異なる)確率はどのくらいあるか」となります。そしてその数字を1(100%)から引けば「どれかの数字が重なる確率」が求められることになります。
一桁目は「1〜9」ですが、これは何であってもかまいません。二桁目は「0〜9」からの選択ですが一桁目の数字とかぶらないものは9/10です。三桁目が前二つとかぶらない確率は8/10……こうして五桁目までの数字を全部かけたら「5つの数字を適当に選んだ場合、そのすべてが異なる確率」が出てきます。計算は、9/10×8/10×7/10×6/10=3024/10000。おやおや、約30%です。ということは、5桁のナンバープレートでどれかの数字が重なる確率は約70%。つまり「5桁のナンバープレートでは、どれかの数字が重なっている方が『普通』」ということでした。なんだ、つまらない。
【ただいま読書中】
アミール・D・アクゼル著、水谷淳訳、早川書房、2005年、1800円(税別)
地動説が天動説に「勝った」はずの19世紀、地動説の「弱点」は「地球が自転していることを直接的に証明できないこと」でした。「他の惑星も自転している。だから地球も自転しているはずだ」は類推でしかないのです。デカルトは「大砲の弾丸は自転の影響を受けて狙いからずれるはず」と考え、ニュートンは「落下する物体は地球の自転により真下よりも東にずれるはずだ」と考えました(今の言葉を使うならコリオリ力ですね)。ニュートンの依頼を受けてフックが落下実験を行いましたが期待通りの結果は得られませんでした。フック以後の精密な落下実験でも、東だけではなくて南へのずれも観測されたため、実験の信憑性が疑われたのです。
1851年、パリの地下室で精密な振り子がその軌道を描き始めます。それこそが「フーコーの振り子」でした。たとえば北極点で振り子を動かすとします。振り子は「宇宙(絶対座標)」に対して一定の平面上を動こうとします。しかし地球は回ります。したがって地球上の人間から見たら「振り子の方」が少しずつ最初の方向からずれていき(北極点と南極点では)24時間経ったらぐるりと一周して元に戻ります。その振り子の「ずれ」は緯度によって異なります。この「振り子のずれ」こそが「地球が球体で自転している」ことの直接的証明だったのです。
ジャン・ベルナール・レオン・フーコーの実験によって「動かぬ証拠」が見つかりました。しかし、話はそこから始まります。フーコーは専門教育を受けず学位も持たないアマチュアで、当時の「科学者」集団では必須とみなされていた数学的才能も欠いていました。したがってフーコーは「仲間はずれ」だったのです。排他的な専門家集団は、フーコーの業績を(意味を理解した上で)評価しませんでした。実験前には「そんなことは起きるはずがない」と決めつけ、実験後には「そんなことはすべて自分たちが知っている方程式で説明できる(だからフーコーの「業績」ではない)」と主張したのです。そしてフーコーが提出した「フーコーの正弦則」(24時間を緯度のサイン(sin)で割ったものがその地点で振り子が一周する時間)にケチを熱心につけました。「専門的な数学教育を受けていない者が言うことなど信じられるか」と。あら探しの次は無視でした。フーコーはこんどはブラジルで実験を行いましたが、科学アカデミー紀要ではフーコーの名前は取りあげられませんでした。まるでそんな人など存在しないかのように。
そこに登場したのがルイ=ナポレオン(あのナポレオンの弟ルイ・ボナパルトとジョセフィーヌの娘オルタンスとの間にできた子供)です。彼は数奇な運命(オランダ国王の王子→フランス政府転覆計画/スイス・アメリカ・イギリスでの亡命生活)の末フランス共和国大統領になっていました。彼は大統領よりは国王になりたい人で、科学にも深い興味を抱いていました。大統領はパンテオンでの公開実験を命じます。国会と対立し科学アカデミーともしっくりいっていたとは言えない大統領は、この実験によって「自分が味方にするべき者は誰か」を見極めようとしていたのでした。公開実験は成功しフーコーは「大衆の英雄」(かつ、大統領のお気に入り)になります。フーコーは一般新聞に自分の実験の平易な解説を書きましたが、これまた当時の科学の状況からは型破りの行動でした。難解な論文を専門雑誌に書くのが当時の(もしかしたら現代でも)専門家の「常識」だったのですから。フランスの科学アカデミーはそれもマイナスに評価しました。しかし、フランス「以外」の科学者はフーコーを高く評価しました。フーコーが実験助手あがりだろうが学位が無かろうが、そんなことよりもフーコーの実験(アイデアと実践)とその結果、それを説明する正弦則、それこそが評価するべき対象だったのです。
フーコーは立ち止まりません。振り子の次に彼が取り組んだのはジャイロスコープの発明です。発想は単純です。絶対座標では、振り子だけではなくて回転物の自転軸も「固定」されるのです。フーコーはあっさりジャイロスコープを作り上げましたが、それが世の中に受け入れられたのは数十年後のことでした。
ルイ=ナポレオンは第二帝政を敷き、失業中のフーコーに「帝国天文台付き物理学者」という職を与えます。フーコーは様々な発明や器具の製作を行い(フーコーが製作した大型反射望遠鏡は現在でもマルセイユ天文台で使われているそうです)、光の速さの測定では29万8000kmという、当時としては最も精密な値をはじき出します。国王の後援と友人の科学者の後押しにもかかわらず、頑なにフーコーを拒絶していたフランスアカデミーがやっと彼の入会を認めたのは1865年、フーコーの死の3年前のことでした。
大文字の「科学革命」によって(西欧では)時代は近代に突入しましたが、科学が実際に目に見える形で大衆の前に登場したのは19世紀「技術者の時代」になってからです。
そうそう、「科学技術」は「かがくぎじゅつ」という一語ではなくて「科学/技術」の二語と私は捉えていますが、この「技術(テクニックではなくてテクノロジー)」が発達したからこそ、フーコーの精密な振り子(重心が精密に定められ、あらゆる方向に自由に振ることができ、外乱を受けにくいもの)が登場しました。しかし技術者は科学者より一段低い身分です。これは技術者を哲学者の下に置く古代ギリシアからの伝統でしょう。だからフーコーは専門家集団からは不当に差別されてました。今でも「フーコー」はこの世界のあちこちで口惜しい思いをしているんじゃないかなあ。
かつて奴隷制は世界各地で人気のある制度でしたが今はほとんど滅びたようです。
「人道」とか「権利」とかの概念のおかげなんでしょうが、純粋に経済的に考えても奴隷制は算盤に合うものではないように私には思えます。だって奴隷の労働は効率が良くないでしょう。教育も志も達成感も個人目標もない人間がノルマだけを頼りにしゃんしゃん働くとは思えません。さらに、働かせるための人的コストがかかります。監督や逃亡の見張りです。怠ける奴隷に鞭をふるう役も必要です。これらの人は直接的な生産労働をしませんから全体としての効率は人数割りで考えるとさらに下がります。
それだったら奴隷を自由にして「君たちは個人として大切な存在だ」「働けば働くほど見返りとして良いことがあるぞ」と動機づけをしてやる方がはるかにマシです。これだと放っておいても「自分のために」と勝手に熱心に働きますから個人としての労働効率が上がりますし、全体としても監督や見張りや鞭で殴る人間が減らせますから、使用者としては大満足です。自律的に頑張る人間から、いろいろ理屈をつけてピンハネをすれば良いのです。
……あ゛、資本主義と民主主義の組み合わせって、そういうことだったのか。
【ただいま読書中】
ルブラン著、南洋一郎訳、ポプラ社、1958年初版(97年104刷)、680円(税別)
ご存知、怪盗ルパン全集の第一巻です。
私は小学生のときに定期的に別の小学校にお邪魔する機会があったのですが、そのとき使っていた教室の学級文庫にこの全集がずらりと並んでいてとってもうらやましかったのを思い出しました。私の小学校の学級文庫はとっても品揃えが乏しかったものですから(少なくとも私が夢中になって読みたい本はありませんでした)。空き時間にむさぼり読んでいましたが、結局全冊を読破することはできなかったはず。心残りだったなあ。
ジェーブル伯爵邸から美術品が盗まれます。盗んだのはアルセーヌ・ルパン。ルパンは撃たれ重傷を負いますが敷地内で忽然と姿を消します。そこに高校生探偵イジドールが登場、ガニマール刑事やシャーロック・ホームズとルパンを追います。やがて謎の言葉「空洞の針」がフランス歴代の王が蓄積した財宝の隠し場所を示すことがわかります。ルパンはその財宝を狙っているのです。暗号の解読・財宝の隠し場所の探索・ルパンの追跡、とストーリーはぐんぐん進みます。
今読み直すと、ストーリーには矛盾があちこちにあり登場人物には説明のつかない不可解な行動も多くあります。(たとえば、マッシバン博士の「空洞の針」に関する論文を読んだら「どうしてこのようなことがわかったのか」と私だったら問い合わせをするか直接会いに行くでしょう。イジドール君はまったく放置してましたけど) だけど、良いんです。そういった「矛盾」を細かくあげつらったり修正していたら本作のダイナミズムは失われてしまうでしょう。ルパンの怪盗紳士ぶり、イジドール君の天才ぶり、敵役のホームズの間抜けぶり(当時の英仏対立の反映でしょうか)、そういった人物像をキャラものとして楽しめたら良いのだ、と私は感じます。特に美少女レイモンドの不可解な行動とその最後は……しみじみ可哀想だなあ。
知的な謎解きの楽しみのためなら、それこそシャーロック・ホームズを読めばいいのです。もちろん私はそちらも大好きです。ホームズでは主に19世紀末ビクトリア時代のロンドンの情景が楽しめ、ルパンでは(特に本作では)同じ頃のフランスの田舎が堪能できる、というオマケがあるのも嬉しいものです。
本物か偽物か知りませんが(というか、他人が書いた「メモ」という時点で事態は「伝言ゲーム」に突入していると私は思いますが)「昭和天皇が不快感」というメモが出たら、各報道機関の世論調査で「首相の靖国参拝には反対」という意見が増えたそうですね。
……なんで? 自分の意見よりも「天皇陛下が反対なら自分も反対にしておこう」という「上の顔色をうかがう人」が多いということ? なんだかなあ……
【ただいま読書中】
トルーマン・カポーティ著、瀧口直太郎訳、新潮社(新潮文庫)、1968年初版(88年42刷)、400円
表題作で私が思い出すのは……オードリー・ヘップバーンがティファニーの店頭でコーヒーを飲むシーンと「ムーン・リヴァー」の曲……ただし本作にはどちらも登場しません。
まだ一作も売れていない作家志望の「私」が当時18歳のホリー・ゴライトリーに出会ったのは第二次世界大戦中のニューヨーク。彼女は自分の名刺に名前と「旅行中」とだけ記し、飼っている猫のは名前をつけず、檻をきらい、ハリウッドデビューを拒否し、周りに群がる崇拝者たち(ほとんど全部が42歳以上)からかすめ取る「チップ」で生活しています。
やがてホリーのルームメイトのマッグがホリーに言い寄っていた大金持ちと駆け落ちをし、ホリーはマッグのフィアンセ(ブラジルの外交官)の子供を妊娠し、麻薬密輸幇助で逮捕され、その前後のどさくさで流産をし……常に「旅行中」のホリーは、大都会に紛れ込んだ野生の鳥のようで、自由気ままに生きそしてブラジル(あるいはアフリカ)に旅立っていきました。後に残された男たちは、彼女の残影とともに生きていくだけなのです。
本書には表題作以外に3つの短編が収められています。
『わが家は花ざかり』……ハイチの娼館で売れっ子のオティリーは「愛する人」ロイヤルと出会い山の中の家に連れて行かれますが、そこには呪術師として近隣で有名なロイヤルの祖母が嫁いびりをしようと待ちかまえていました。そのいびりに対してオティリーがした仕返しとその結果は……
そういや、オティリーが娼館に入ったのは、『ティファニーで朝食を』のホリーが結婚したのと同じ14歳です。著者にとって「14歳の少女」には何か意味があるのかな?
『ダイヤのギター』……刑務所の牢名主的存在のシェファーは殺人で99年の刑を宣告されています。そこに傷害で入ってきたティコ(18歳)とシェファーは不思議な友情で結ばれます。しかしティコは脱走を試みそれに追随しようとしたシェファーは……若さや自由に対する羨望の物語なのかな、と読みながら思いました。そういえば『ティファニーで朝食を』も、若い女性に目をとられますが、やはり若さや自由を男たちが羨望する物語とも言えそうです。それと、生きることと孤独も重要な因子です。
『クリスマスの思い出』……ひねりも何もないストレートな物語のように見えます。60歳を超えた「おばちゃん」と7歳の「ぼく」。この二人がどのようにクリスマスを迎えたか(フルーツケーキを焼き、クリスマスツリーを飾り……)の物語なのですが……『ダイヤのギター』でシェファーが文字が読めない囚人たちに来た手紙を読んでやるときに、悲惨な内容を本人が喜べる内容に読み替えてやっていたのと同じように、記憶を辿る「ぼく」は悲惨な内容を懐かしく暖かい物語に読み替えて語っているのではないか、と感じます。「ぼく」の境遇に関して詳しい説明は省略されています(そもそも7歳の子供にそんな説明は不可能でしょう)が、ここで書かれている家庭はずいぶん問題がありますよ。ううむ。私も過去をふりかえったとき、やはり記憶を読み替えているのだろうか?
カポーティは『
冷血 』で有名ですが私は未読です。この分だと相当期待できそうなので、もし図書館にあったら借りてこなきゃ。
ある会社での目撃談です。建物は……そうですねえ、1階から11階まで。その2階にいると思ってください。8階まで行きたいのですが、あいにくエレベーターの籠は天辺に止まってこれからそろそろ降りてきそうな……そんな状況です。
私は「↑」のボタンを押しました。するとそこへ息も荒く中年の男が走ってきてぱんぱんと勢いよく「↓」ボタンを押しました。籠がゆったりと降りてきますが待ちきれないのかまたぱんぱんと「↓」ボタンを押します。
……おいおい、それは加速ボタンじゃないよん。大体そんなに急いでいるのなら、階段を使ったら? 廊下をここまで走ってきたその元気だったら一階下りるくらい平気でしょ?(私の内心の声です)
やっと籠が到着しました。扉が開くと何人か乗っています。当然行き先は下向きのままですから私はやり過ごします。で、急いでいたおじさんは……険しい顔をして「下に行くのか?」
……はあ? 上階から下りて来たエレベーターに人が乗っていたら、それはそのまま下に行くでしょう。大体あなたは「↓」のボタンを押したでしょ? 何が問題なの?(私の内心の声)
籠の中からは「下に行きますよ」と声がかかりました。早く扉を閉めたいのでしょう。おじさんはしぶしぶ乗り込みます。
扉が閉まり、籠は1階に到着し、それからまた上がってきました。扉が開くとなぜかさっきのおじさんが一人で乗っています。なぜか不機嫌そうです。私が乗るとまたまたボタンが壊れそうな勢いで「閉」ボタンを叩きまくります。あのう、あなたの腕と動作が邪魔で私が行きたい「8」が押せないんですけど。で、3階に着くとおじさんはどたどたと飛び出ていきました。
一体何だったんでしょう? さっきも思いましたけれどそんなに急いでいるのなら、階段を使えば良いのに。あんなに元気なら1階分くらい、昇でも降でも平気でしょう。さらに、なぜ最初に「↓」ボタンを押したのでしょう。それがなかったらあの籠は2階を通過できたのですから少しは時間が節約できたはずです。本当に急いでいるのだったらわざわざ籠を不必要に止めて時間をかけさせる必要はないはず。
……まさか……あの人にとってエレベーターのボタンは「呼びたい方向」なのだろうか。上にいるエレベーターを下に呼ぶから「↓」ボタン……まさかね。それだったら一階のボタンが「↑」しかないことの意味がその人にとっては大問題になります。
「一つ不合理なことをする人は、その周辺でもたくさん不合理なことを繰り返している」と一般化してからあっさり忘れた方が良いのかな?
【ただいま読書中】
高斎正著、集英社、1994年、1553円(税別)
「世界ではじめて自動車が作られて、最初に二台が路上で出会ったときに、史上最初の自動車レースがおこなわれた」という有名な言葉があります。ことの真偽は定かではありませんが、たとえば貴族の子弟(はじめは上流階級の人しか買えません)が何人か集まって愛車の自慢をしたら、そこで当然レースが行われた、と考えるのは自然なことでしょう。
自動車普及黎明期の19世紀末、フランスでは自転車が大ブームでした。レースも盛んでしたが、「ル・プティ・ジュルナル」という新聞社がスポンサーとして盛んにレースを行っていました。論説委員のピエール・ジファールは伴走車として初めて自動車に乗り(それまでは馬車)、その性能に驚きます。これからは自動車の時代だ、と直感したジファールは自動車を集めてのイベントを企画します。ただし、当時の自動車はまだ性能が未熟なため、レースではなくて信頼性を確認するためのタイムトライアルとしました。日があるうちに走りきれる距離と言うことで、パリから128キロ離れたルーアンがゴールに選ばれます。
走行会の3日前に予選会が行われました。ルーアンまでの途中の町マント(パリから50km)までを4時間で走りきれるものだけが本戦に出場、としたところ、21台が本戦に進めました。内訳は、ガソリン自動車が13台、蒸気自動車が8台です。
そうそう、本書ではガソリン車が注目されていますが、実際には18世紀には蒸気自動車が登場していて性能的には成熟していたのです。も一つそうそう、電気自動車もガソリン車の前に登場しています。あまり実用的ではなかったようですけど。
結果は……走行時間で一位のドディオン伯爵の蒸気自動車(蒸気トラクターで馬車を引いて走った。かまたきの助手が一人。馬車には友人が4人同乗)で6時間48分(平均速度18.8km/時)でした。なお、マントでの2時間の昼食会は時間には含まれていません。
「なんだ、時速20キロも出ないのか」とは言わないように。当時の自動車は……車輪は現代の自転車用のに毛がはえた程度の木製・ハンドルはステアリングスティーラーと言って床から突き出した棒で遊びが大きくキックバックが強いのに敏感で、強く握って柔らかく動かさなければならない代物・サスペンションは原始的な板バネでショック吸収はほとんどなし・運転手はむき出し・道路は未舗装ででこぼこ・見物人や家畜が平気で道をうろうろ・車体は幅が狭く重心が高く転覆の危険性が高い・ガソリンエンジンは現代の原付程度の馬力で定速回転しかできない(アクセルなし)上に隙間だらけで未燃焼ガスが漏れ放題・蒸気エンジンは「枯れた技術」で信頼性はあるがかまたきの助手が必要で水も大量に載せる必要がある(だからドディオン伯爵の車は自重2トン)……私はこんな状況では絶対「レース」をしたいとは思いません。たとえ時速15キロでも。
本書には書かれていませんが、ルーアンに到着後の集会から「フランス自動車クラブ」が誕生し、それが世界自動車連盟(FIA)へと発展しています。「金持ちの道楽」から「実用品」へと自動車が変わるきっかけにもなったこの走行会の意義は大変大きかったようです。
気になったのは「語り手」です。妙に丁寧な口調のこの人は一体誰なんだろう、と思いながら私は読んでいました。まさか『
アクロイド殺し 』(アガサ・クリスティー)や『
マン・プラス 』(フレデリック・ポール)のような、語り手にも大がかりな仕掛けがある、なんてことではあるまいな、と思っていたのですが結局……
しかし、巻末で蒸気乗り合いバスの可能性が示唆されていますが、これは『
パヴァーヌ 』(キース・ロバーツ)を思い起こさせます。もしガソリンエンジンが発明されていなかったら、我々のモータリゼーションはどんなものになっていたんでしょうねえ。
半年前に腰を痛めてから蕎麦打ちをしていないせいか、なんだか料理虫がうずうず動いてます。といっても、蕎麦を打ってまた腰を痛めたら悲しいので、それは封印。最近ずっとやっていないピクルス作りの方をやろう、という気になりました。でも私の場合はその前に、ワインビネガーを作るという作業があるのです。だって買ったら高いでしょ。酒を飲まない人間から見たら使いかけのワインを酢にするのはきわめて経済的な行動なのです(酒飲みには別の意見があるでしょうけれど)。ワインの口を開けてしばらく放置したら上手く酢になることもありますがカビが生えたら悲しいので、私は使いかけのワインに酢をどばっと足してしばらく放置する方法を用います。まともな食通には怒られそうですが、これ、簡単で効果的なのです。
えっと、今使えそうなのは……もらい物のトスカーナのなんちゃらワインが不幸せそうに一本転がっていますが、まだ封を切ってない。家内が料理に使いたい、と言っていたからそれである程度減ってから手をつけるか、何か容器を探してそちらに中身を移してから作業を開始するか……我が家ではペットボトルをほとんど見ないので、こんなときには不便です。開いた牛乳パックでやってみようかな。
……いや、公言しないとまたずるずるとやらないまま時間が過ぎてしまいそうなので、ここに書けば自分が動くだろう、という目論見なのですが……さて、数週間後に日記に「ピクルスができた」と私は書いているでしょうか?(誰に聞いているんだろう?)
【ただいま読書中】
ジュール・ヴェルヌ著、江口清訳、角川書店(角川文庫)、1978年初版(94年13刷)、417円(税別)
ときは1872年、ところはロンドン、時計の振り子のように几帳面に毎日正確なスケジュールで生きているフィリアス・フォッグ氏のところに新しい従僕がやってきます(前の従僕は、髭剃り用のお湯の温度を2度間違えたために馘首されたのです)。この主人の下でなら時間的に落ち着いて安定した生活ができるだろうと期待してやって来たジャン・パスパルトゥーですが、その日フォッグ氏が所属する革新クラブで、カード遊びのついでの雑談からの「新聞に載っている通りのスケジュールで、80日間で世界一周が可能か」の賭けをフォッグ氏が受け、二人は急遽ロンドンを発つことになります。予定では、船でスエズを抜けてポンペイに上陸してインド亜大陸は鉄道で横断、また船に乗ってシンガポール・中国・日本を経由して太平洋横断、アメリカ大陸横断鉄道の旅のあとまた船で大西洋横断、というものです。計算上は一日の余裕もない旅程です。
現在世界一周早回りをするとしたら、飛行機の乗り継ぎでしょうが、これだって出発が遅れたり荷物がなくなったり接続が上手くいかなかったり、ナニカが起きると思いませんか? それを汽車とガス灯の時代に、ぎりぎりタイトなスケジュールで動こうというのです。さらに「世界一周だと? うろんなことをする奴め、きっと犯罪者が逃亡しているに違いない」と早合点した刑事が妨害に動こうとします。
フォッグ氏の目的は「80日で一周すること」だけですからそれ以外の無駄なこと(見物など)は一切しません。「冷静で科学的な人物」なのです。対してパスパルトゥーは行く先行く先で大喜びで見物に出かけトラブルにも巻き込まれます。最大のトラブルは、インドの真ん中で寡婦殉死を強制されようとしていたアウダ夫人救出劇でしょう。あ、パスパルトゥーの行方不明とかアメリカン・ネイティブの列車襲撃もありました。
ヨコハマでは、軽業一座が描かれます。6月3日の日記に書いた『
ニッポン・サーカス物語 』の情景です。そういえばあちらではサンフランシスコ→ニューヨークは24日かかっていますが、本書では一週間です。ほんの数年でずいぶん違うものなんですね。
まるで見てきたかのように世界各地の珍しい風俗や風習が紹介されますが、著者はこういった情報はどうやって得たのでしょう? まさか「取材旅行」を敢行したとは思えませんが……ただ、作中でフォッグ氏が本当に見ているのは世界に点在する「イギリス」で、現地はその風味づけに過ぎない、とも言えるでしょう。大英帝国は偉大です。
本書を分類するなら「ユーモア冒険小説」でしょう。当時は世界を旅行することが「冒険」だった時代です。その時代の匂いがぷんぷんする本書は、逆にその匂いゆえに「古く」なることなくこれからも生き続けていく……と信じたい。
その匂いの中には「階級」意識もあります。『馬なし馬車による走行会』でも「ドライバー」ではなくて「車のオーナー」が表彰されたように、アウダ夫人を助けたパスパルトゥーではなくてその主人のフォッグ氏が評価されるのです。まあでも良いです。最後の章のタイトルは「フィリアス・フォッグは世界一周をして、幸福のほかには、何ものもかち得なかったことが明らかになったこと」ですから。パスパルトゥーも無事ガス灯の火を消せたし、めでたしめでたし。