2006年9月
 
1日(金)秋
 窓の外から聞こえる虫の音が、昼の蝉から夜の草むらの虫に移行しています。昨夜は涼しくて、寝やすいというより肌寒い感じでした。さすがにもう9月です。
 しりとりのために言葉をあさっていたら「夏隣」ということばに出会いました。やあ、初めまして。夏の隣りといったら、春かな秋かな……おや、春の季語ですか。秋は夏の隣じゃないの?とちょっと文句を言いたくなりましたが、しかたありません。きっと人は過去を踏みつけて未来を見つめようとする存在なのでしょう。そういや「小春日和」は冬の季語でしたね。
 
【ただいま読書中】
竹取物語 全訳注
上坂信男 訳注、講談社(講談社学術文庫)、1978年初版(87年10刷)、440円
 
 おなじみ「かぐや姫」です。日本の「物語の出で来はじめの祖(おや)」と呼ばれる本作品を、今日は「ことば」に注目して読んでみました。
 まず名前ですが「かがやくように美しい」からかぐや姫、という説が紹介されています。他の説より私もこれが好きです。
 本書には「よばひ」が出てきます。「をを、かぐや姫に夜這いをかけるのか」ではありません。もともとは「呼ばふ」行為が名詞化されて「呼ばひ」となり、それが後世当て字されて「夜這ひ」になったのだそうです。ではどうやって「呼ばふ」のかというと……屋敷の回りを昼も夜も集団でうろうろしては中を覗き込んで一目姫の姿を見ようとし、音を立てれば「あら何かしら」と姫が顔を出すだろうと、笛・口笛・歌などで大騒ぎ、これが本書での「呼ばひ」です。
 ……ものすごく迷惑な行為ですね。こんな迷惑な集団にかぐや姫が無理難題を言うのも当然だ、と思えます。
 そして、求婚者たち5人がいかにひどい目に遭うか、の物語の開幕です。
 トップバッター石作皇子の課題は天竺にある仏の石の鉢……で、結果は「鉢(恥)を捨つ」。
 次の車持皇子は、蓬莱山の木の枝(根が銀・茎が金・実が白い玉)ですが……「玉さかる(玉放る/魂離る)。
 右大臣阿部御主人は、唐土にある火鼠の皮衣……「あえなし(阿部なし/敢えなし)」。
 大伴御行大納言は、龍の頸の五色の玉……「あな食べ難」/「あな堪え難」
 石上中納言は、燕が持つ子安貝……「かひ(効/貝)あり」
 全員地口オチで敢えなく討ち死にです(実際に死んだ者もいます)。やんごとなき方々も形無しです。
 
 そしてお馴染み「富士山」。かぐや姫が昇天した後残された不死の薬を、帝は一番高い山の頂上で焼かせます。そのときの一行には兵士が多く含まれていました。そこで「兵士に富む」「不死の薬」だから「ふしの山」……これはかけことばにしてはちょっと苦しいな。
 もっとも重要な言葉はおそらく「幼なし」でしょう。本書では最初と最後に翁が「幼き人」と呼ばれます。翁が幼い? 不老不死の天上人から見たら地上人は幼いのかもしれませんし、人間としての生き方が翁はあまりに現世に縛られていて幼い、というのかもしれません。「おさなし」の語源は「長無し」だそうで、するとその反対語は「長々し(おさおさし)」「大人し」となります。仏教の立場からは「幼い人」を導いて解脱させることが重要になる、とも言えますから、人生とか人間の行為の深さに思いを致すと、この物語は突然深い深いお話になるのです。源氏物語にも影響を与えている、というのもわかるような気がします。
 
 
2日(土)美しい日本
 「美しい日本」といえば私が想起するのは、川端康成がノーベル文学賞授賞式で行った記念講演「美しい日本の私」です。もう詳しいことは覚えていませんが、日本の文化を貫く精神について言及されていたように思います。
 で、今「美しい日本」を主張しているのは自民党次期総裁(予定)の安倍さんですが、安倍さんは「美しい」という言葉にどのような思いを込めているのでしょうか。新聞報道ではどうもそのへんはよくわかりません。具体的に、たとえばその「美しい日本」に、認知症の老人や精神障害者や知的障害者や身体障害者の心地よい居場所があることを祈ります。失業者やホームレスやニートや引きこもりはどうなのかな? 有権者が投票するときに「美しい政治家」にだけ投票しなければならないのかな。でも「美しい政治家」って、います? 汚いこと(情実人事、わいろ、えこひいき、インサイダー取引、特権の乱用、権力を活かして私財を蓄積……)を一切しない人が「美しい政治家」の最低条件だと私は思いますが……具体的な吟味は「私は美しい政治家です」と主張する人が出てきてからですね。
 
【ただいま読書中】
みちのく古代 蝦夷の世界
大塚初重・岡田茂弘・工藤雅樹・佐原眞・新野直吉・豊田有恒 著、山川出版社、1991年、1600円
 
 タイトルの「蝦夷」は「えぞ」ではなくて「えみし」と読みます。
 シンポジウム「いま みちのく古代」(司会は豊田さん)の記録で、前半は工藤さんと新野さんの基調報告、後半は全員による討論です。考古学者・文献学者・小説家と多士済々でけっこう熱い議論が行われています。
 
 たとえば蝦夷は「日本人」なのか「アイヌ」なのか。
 北海道にはアイヌ語由来の地名が多いことがよく知られていますが、東北地方(特にその北半分)にもアイヌ語由来と思われる地名が数多く残されています。また、山で狩りをするマタギが山中で使うマタギ語にもアイヌ語と共通の単語が多く含まれています。この二つから、蝦夷はアイヌ語(またはそれと同系統の言葉)を使っていた可能性が高い、と言えます。では蝦夷はアイヌだったのか?
 本書の議論では、そんなに簡単に二分できるものではなく、縄文時代に日本全体に各部族ごとに住んでいた縄文人が、西からの弥生人の移動と弥生文化の浸透によって少しずつ混ざり合っていった。その過程に最後まで抵抗したのが北海道のアイヌ・律令国家の下で抵抗しつつ同化していったのが蝦夷、と捉えるのが良いのではないか、とされます。「日本人は単一民族」という神話の信者には「日本は異文化の複合体」という話は受け入れ難いでしょう。残念ながらその「抵抗」は、日本の伝統である「異文化の蔑視」にもつながっている、という指摘はなかなか鋭いと思います。
 
 東北の馬はどこから来たか、の議論も白熱します。ほとんどは西から、ということでは全員一致しているのですが、ではなぜ「東北の良馬」が存在するのか? ここで一人だけ「北から来た馬がいる」説を唱える人がいます。ツングースや渤海から良馬が少数やって来たのではないか、という仮説です。これについては両派とも決め手を欠き、あちこちで出土した馬の骨の遺伝子的な解析などの結果待ち、ということになりました。
 
 古墳時代に東北にも多くの古墳が作られていたとか、北東北でも稲作が行われていたとか、高校の日本史では習わなかったぞ、の知識に次々出会えます。ついでに「日本人」ってなんだろう、という思索にも耽ることができて、なかなか刺激的な本でした。
 
 
3日(日)ピクルス
 一ヶ月前に仕込んだワインビネガーがやっと良い感じになってきたので、今日キュウリを買ってきました。太いのが三本で198円。さて、ピクルスの仕込みです。
 ……作り方を完全に忘れています。キュウリを板ずりしていたのは覚えていたのでまずはそれをやります。ごしごし。ワインビネガーを鍋に入れて、砂糖と粒胡椒と鷹の爪、オールスパイスが切れていたので、ナツメグとシナモンを投入します。さて、ここでどうしたんだっけなあ。ぐつぐつ煮て作った漬け汁をそのままキュウリにかけるのだったか、漬け汁を作るときに最初からキュウリも入れて加熱するのだったか……ま、適当にやってみましょう。しかしこんな時には、四角い鍋がほしくなります。鍋が四角ければキュウリもお行儀良く並んでくれるのになあ。さて、なんとかキュウリが密閉容器に収まりました。上手くピクルスに化けてくれるかしら。またしばらく待ちの時間です。
 
【ただいま読書中】
朝びらき丸 東の海へ』ナルニア国ものがたり3
C.S.ルイス著、瀬田貞二訳、岩波書店、1966年初版(88年24刷)、1500円
 
 四人兄弟の上二人はもうナルニア国には行けません。それはもう前の巻でアスランによって予言されていました。ということで本巻ではエドマンドとルーシィが……と思ったらユースチスという少年が出てきます。いやあ、ヤな奴です。といってもそれは完全には本人の責任ではないでしょう。素質もあるでしょうが、みごとにスポイルされた結果、とも言えますから。
 魔法によってナルニア国(というか、その東方の海)に飛び込んだ三人は、第二巻で王位についたカスピアンに会います(二人は再会、一人は初めて)。カスピアンは、叔父に追放された七人の貴族の消息を尋ねて冒険の航海に出ていたのです。
 島から島へ、旅は続きます。奴隷に売られたり、ユースチスが龍になってしまったり、死水の泉を発見したり、姿が見えなくなる魔法がかかった住民の島で魔法の諸を読み解いたり……冒険は盛りだくさんですが、アスランもよく出てきます。今までのことを思うと出ずっぱりといっても良いでしょう。笑ってしまうのは、ユースチスが「生まれ変わった」はずなのに、ときどき昔の性格が出てくること。それはそうです。そう簡単に人間ががらっと行動パターンを豹変させることができるわけはないのですから。
 
 結局この旅は、誰にとってどんな意味があったのでしょう? ユースチスにとっては次の巻に登場するための準備、と言えますし、カスピアンにとっては後に航海王と呼ばれるため、とも言えますが……どうも私には焦点が絞り込めません。まあ、難しいことは考えずに、ナルニア世界の海を楽しめばよいのでしょうね。
 
 
5日(火)殺してでも
 「自分の気にくわない意見だから、殺してでも黙らせる」は「金が欲しいから、殺してでも盗る」と、文章の構造的にはよく似ています。表面的な行動は、同じ。
 
【ただいま読書中】
ディープ・スロート ──大統領を葬った男』The Secret Man
ボブ・ウッドワード著、伏見威蕃訳、文藝春秋、2005年、1762円(税別)
 
1992年、著者はFBIを訪れます。公開された20年前のウォーターゲート事件の資料を精査し、当時の匿名情報源「ディープ・スロート」(当時のポルノ映画のタイトルにちなんで名付けられた)について探求しようとしたのです。著者は当時その情報をもとにカール・バーンスタインとワシントン・ポストの記事や『大統領の陰謀』を書きました。つまり「誰がディープ・スロートだったか」は直接会って知っています。ではなぜ今になって「そのこと」を調べようとするのでしょうか。
 1969年、海軍大尉だった著者は伝書使として訪れたホワイトハウスで、FBIの長官補マーク・フェルトに出会い、それによって自分の人生に対して重大な決断をします。
 ウォーターゲートへの不法侵入は、単純な不法侵入ではなくて、ニクソン大統領がその工作に関与し彼の選挙資金から資金が出されていました。ホワイトハウスからはFBIに捜査中止の圧力がかけられます。FBI長官はニクソンのお気に入りに変えられたばかりでした。しかし、前長官フーヴァーの信奉者であるフェルトは、「ディープ・スロート」となって情報を漏らし続けます。それは「正義の信奉者」であったからでしょうか、それとも長官になれるという期待を裏切られた副長官のニクソンに対する意趣返しだったのでしょうか。
 ウォーターゲート事件は氷山の一角でした。ニクソン政権は民主党の大統領候補に対する選挙妨害を秘密裏に盛んに行っていたのです。これが表沙汰になったら、政権が倒れます。司法省上層部は事件の拡大を望まず、裁判で検察は、ワシントン・ポスト紙に報道された事実をなかなか使おうとしません。しかし、上院に調査委員会が置かれ、主犯は爆弾告白を行い、事件はとうとう「爆発」します。
 次々明らかになる大統領の犯罪、事実の重みに圧倒され、玉石混淆の情報の真偽を吟味してどれを記事にするのかの判断に追われて、著者はディープ・スロートの「動機」について考える暇がありませんでした。様々な人ディープ・スロートに擬せられますが、著者は秘密を守ります(際どいときもあったのですが)。事件後、著者とフェルトの中は上手くいかなくなります。しかし20年経って、著者はおずおずとフェルトに連絡を取ろうとします。
 ……著者はフェルトに何を見ていたのでしょう。ただの情報屋ではないでしょう。自分の父親と同い年で、人生の岐路で的確なアドバイスをくれた、ワシントンの大物。56歳になった著者に対して「君の仕事はたいしたもんだ」と褒めることで、車のシート上でとびはねたいくらいうれしく思わせる人。ここに見えるのは、著者とフェルトの強い感情的な絆です。やっとフェルトに会いに出かけた著者は、フェルトが86歳の認知症患者になっているのを発見します。しかし、ほとんどの記憶を失い記銘力も落ちているフェルトなのに、著者のことは覚えています。フェルトの娘が「なぜかあなたのことは覚えているの」と不思議がるくらい。二人の感情の絆は、一方的なものではなくて双方向のものだったのでしょう。
 しかしフェルトの記憶は蘇りません。もう、過去の解明はできないのでしょうか。フェルトがなぜ情報を漏らす決心をしたのか・その相手がなぜ著者だったのか・何を恐れていたのか・どんな利害があったのか・本人が本当に望んでいるのは何なのか……著者が秘密を守る約束をし忠誠を尽くしている1972年の「ディープ・スロート」は、現在の自分がかつてディープ・スロートだったことさえ覚えていない人物と同一と言えるのか。著者は一体誰の秘密を守っているのか・その理由は?
 疑問の連鎖は堂々巡りの探求の旅となります。著者はこう言います。「歴史には最終稿というものがない」と。
 
 
6日(水)グーグルしりとり
 というコミュニティを作りました。グーグルでヒットする文字列だけを使ってしりとりをする、ただそれだけのためのコミュです。なおカテゴリーは「お笑い」です。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=1284408
 「管理者」って、NiftyServe〜@nifty時代にサブシスをやったりPATIOの設置者をやって以来ですが、生来ぐうたらで@niftyの管理コマンドも数回しか使った経験がありません。こちらでも管理者としてより参加者として活動できたらいいなあ、と思っています。
 
【ただいま読書中】
現代語訳 信長公記(上)
太田牛一著、中川太古訳、1992年、2718円(税別)
 
 1527年生まれ(信長より7歳年長)の著者が、武士として信長に仕えながら残した記録です。父信秀が優れた武将であったこと、信長が若い頃には「大馬鹿者」(原文はうつけもの?)としか呼ばれなかったこと、美濃や三河と合戦に明け暮れていたことなどがリアルに記述されています。合戦で「上槍」「下槍」があったり(詳細は不明だそうです)、四〜五間を隔てて戦う者同士がお互い顔見知りだったり、合戦が済んだら散り散りになった馬を集めて敵ときちんと交換したり、男色の色仕掛けで敵を分裂させて出世した者がいたり……こういう細部が途方もなく面白く感じられます。裁判もすごい。「火起請」といって、焼いた鉄が持てるかどうかで有罪が決定されています。神明裁判は無実の者にも残酷ですが、信長はちゃんと焼いた斧を持って三歩歩いてみせるのですからすごい。人間ですか? 織田家は内輪もめが続きますが、美濃の斎藤家も親子兄弟間で殺し合いをやっています。「統一」とは、自分のライバル(とその支援者)を殺して自分(とその支援者)が生き残ることなんですね。そして「顔見知り」との戦いから相手の顔が見えない戦いに話は拡大していきます。
 桶狭間の戦い・美濃攻略・足利義昭を支援……と話はとんとん進みますが……あれれ、木下籐吉郎の名前は近江攻めでやっと登場します。一夜城はなかったの? 墨俣一夜城については『武功夜話』には登場するのだそうですが、こちらには偽書疑惑があるそうで……ただ、『信長公記』はあくまで信長の身近に六人衆の一人(弓方)として仕えていた太田牛一が見聞した日記ですから、「『信長公記』にない」ことは「太田牛一が知らなかっただけ」かもしれません。
 細かいことですが、信長が桶狭間に出陣するときに従った五人の小姓の中に佐脇良之の名があるのに驚きました。NHK大河ドラマ「利家とまつ」ではたしか薄幸の美青年でしたが本書ではその2年前浮野の合戦で左の肘を切り落とされているのです。「切り落とされた」というのが文字通りの切断ではなかったのか、それとも片腕となっても信長が身近に置き続けたのか……ところが後に信長から勘当され家康を頼って遠江に蟄居し、武田信玄との三方原の合戦で討ち死にをしています。一体何があったのでしょうか。(ちなみにこの時武田方はまず石つぶてから合戦を始めています。鉄砲がまだ十分揃ってなかったので昔ながらの戦い方をしていたのでしょう)
 
 比叡山や百済寺を焼き討ちしたりする残虐性を持ちながら、民に感涙させる情け深い行為も行う……本書に描かれた信長の「実像」は複雑です。現在の私たちの価値基準では割り切れない原則で動いているのか、それともただの気まぐれなのか……著者は信長を崇拝して「神仏のご加護がある」などと言っていますが、そのご加護と叡山焼き討ちは両立するものだったのでしょうか。とっても不思議です。
 
 
7日(木)○寒○温
 春には「三寒四温」と言いますが、九月のこのぐんぐん涼しくなっていく様は一体どう表現すればいいのでしょうか。四寒三温というより五寒二温?
 
【ただいま読書中】
たこやき
熊谷真菜著、リブロポート、1993年、1500円(税別)
 
 日本で食べられている「たこ焼き」には三種類あります。
1)明石焼(玉子焼):明治半ばにはすでに存在(屋台で売られていた)。昔はそのまま指で食べていたのが、熱いのを冷ますために冷たいダシにつけるようになり(ここで箸が必要になった)、やがてお酒のつまみにもなるように熱いダシにつけるようになったそうです(現在ではこのスタイルが主流)。
2)ラヂオ焼きから発展したたこ焼き:昭和初期に生まれた。醤油味がついていてそのままつまんで食べる。
3)ソースをつけるたこ焼き:現在最もオーソドックスなタイプ。昭和20年代後半〜30年ころ登場。爪楊枝が複数つく。
 
 あら、明石焼きが一番古くて、私が慣れ親しんでいるたこ焼きは「最新版」だったんですね。知らなかった。
 
 まずはタコ。日本では紀元前から蛸漁が行われていました。しかし、イイダコ壷は五世紀に全国的に姿を消し、六世紀に少しデザインを変えて復活します。そういえば今月二日の読書日記『みちのく古代 蝦夷の世界』には「古墳時代に稲作は北東北まで到達していたが、一時南下して北では行われなくなった」という記載がありました。おそらく寒冷化の影響でしょう。この時期にでかい火山が噴火していましたっけ?
 型を使って焼くお菓子といえば、煎餅です。そして鯛焼き・今川焼き・モナカの皮……けっこうありますね。たこ焼きもそういった型(くぼみのついた鍋)を使って焼くお菓子の系譜に属します。
 型ではなくて鉄板を使って焼くお菓子は、利休が供していた麩焼き(味噌味のクレープのようなものだそうです)。それが発展して、餡を包む四角い銅鑼(どら)焼きになりました。お好み焼きのルーツと言ってもよいでしょう。
 では、もんじゃ焼きは。著者は東京に食べに行き、「たこ焼きは『丸いお好み焼き』ではなくて、むしろもんじゃ焼きの親戚といった方が良いのではないか」と考えます。外がかりっ・中がとろりの食感がそっくりなこと、そして「子どもの遊び」としての食品であることが共通である、と感じたのです。なるほど、玩具としての食品ですか。面白い視点です。
 小麦粉・ソース(戦後すぐには、劣悪な醤油に酢を混ぜた「ショース」で味を付けたたこ焼きも売られていたそうです)・つまようじ・鍋・屋台・屋台の主人・食べる人……著者の調査はどこまでも続きます。「たこ焼きに関する文献」なんてものは豊富にありませんから、フィールドワークをするしかないのです。とうとう「たこ焼きに似たもの」を求めて世界にまで著者の視点が広がりますが、さすがに世界中を食べ歩くことまでは無理だったようです。
 
 NiftyServe時代(今から8年前)に「明石焼きを食べるオフ」に参加したことがあります。主力組は東京から、大阪と広島から少数が……まずは神戸に集結して大阪に移動、したんだったかな。もう記憶はおぼろですけど。……あ、思い出した。メインの目的は大阪造幣局の通り抜けで桜を見ようというオフで、そのついでに美味しい店に寄って明石焼きを食べたんでした。私にとってあれはカルチャーショックでした。「たこ焼き」を箸で食べること自体がショックなのに、味が……むちゃくちゃ美味いんだもの。あれを「たこ焼き」に分類するのは、分類学上は反則だと今でも思っています。
 その対極が、ある村祭りで食った屋台の「たこ焼き」。コナは水っぽくてたこが全然入っていなくてキャベツのかけらがぽろりぽろりだけ。「小麦粉水溶き焼きソース味かよ」とがっかりしました。本書にも「屋台で客はタコがちゃんと入るかどうか目を光らせる」という記述がありますが、これはきっと著者の体験談ですね。
 
 
8日(金)金利
 ローンの金利上限は法律で規制されていますが、それがなぜか二本立てになっているので解消してすっきりさせましょう、ということになったようですが、その過程で場合によってはなにやらかえって金利が上昇するというわけのわからない現象も生じているそうです。
 そういえば、政府の規制改革・民間開放推進会議の議長は宮内さん(オリックス会長)でしたね。やっぱりそのへんに遠慮か配慮があった、ということでしょうか。
 
【ただいま読書中】
銀のいす』ナルニア国ものがたり4
C・S・ルイス著、瀬田貞二訳、岩波書店、1966年(87年23刷)、1500円
 
 前巻で「生まれ変わった」ユースチスと、学校でいじめられていたジルは、ナルニア国に呼び寄せられます(あるいは、二人がそう願ったのです)。そこで早速トラブル発生。ジルは一人でアスランに出会い、カスピアン王の世継ぎリリアン王子の捜索を命じられます。道中のヒントとしてアスランからは四つの「しるべのことば」が示されます。1)ユースチスはナルニアで最初に会った人(実は古い知り合い)に挨拶すること。2)北に向かって巨人の都の跡を発見する。3)ある石に書かれた文字を読みその指示に従う。4)最初に「アスランの名において」と誓った人の言葉を聞きリリアンを発見する。ただし、アスランは付け加えます、しるべはあなたが思うような形をしていないだろうから見かけにだまされないように、と。
 ……ところが……二人はそのしるべのことばを果たすことに次々失敗してしまいます。さらに途中で出会った敵にだまされ、ふらふらと罠に飛び込んでいく始末。
 しかし、泥足にがえもん! どんな状況でも常に最悪の予想と解釈をしてそれをしゃべることで回りを滅入らせる名人である沼人です。その陰々滅々ぶりは筋金入りなのですが、ユースチスとジルを巨人の都跡に案内するガイドのはずが、本書全体の名ガイドとなっていきます。そして、リリアンの母を殺しリリアンを拐かした悪い魔女との壮絶(?)な戦いの結果は……
 
 「女の子は剣を振り回さない」とか19世紀の決まり事は色濃く残っていますが、それは著者が育った時代の制約で仕方ないでしょう。でも、時代を超えて生き続けるものも本書にはたっぷり含まれています。たとえば「子どもを抑圧する存在」に対する戦いがいかに困難で、でもその戦いを勝つことがいかに実りの多いものか、とか。アスランは違う名前で私たちの世界にも存在する、と言っています。さて、それはどんな名前なんでしょう?
 
 
9日(土)ワンマン化
 私が子どもの頃、市内バスにも電車にも車掌さんがいました。今はワンマンとなって運転手さんが車掌役も兼務しています。客は自分で「降ります」とボタンを押します。
 そういえばデパートのエスカレーターやエレベーターも、昔は係員がいました。今はどちらも無人運転です。客は自分で行き先階のボタンを押します。(エレベーターはともかく、エスカレーターの乗り口でずっと会釈し続けていたお姉さんは結局何だったのか、とも思いますが、挨拶と万が一のときの対応係だったのでしょう)
 銀行も今はほとんどATMですね。自分でぽちぽち機械を操作します。
 買い物も、自分で籠に入れてレジまで運んで精算です。(昔のご用聞きは別の形で復活したようですが)
 スライドも、以前は撮った写真は写真屋でスライドに作ってもらって、提示するときには「スライドお願いします」と言って切り替えてもらってましたが、今は自分でスライド原稿を作って自分でソフトを操作してプレゼンテーションを行います。
 
 技術文明が進歩したら、人類は楽ができるようになるはずだったんですけど……なんだか、しなくちゃいけない仕事や覚えなければならない手順はかえって増えてません?
 
【ただいま読書中】
二重らせん 第三の男
モーリス・ウィルキンズ著、長野敬/丸山敬 訳、岩波書店、2005年、2800円(税別)
 
 「DNAの二重らせん」といえば「Natureのワトソンとクリックの論文」が有名ですが、1962年のノーベル賞は3人に与えられました。その「第三の男」が本書の著者です。
 ノーベル賞受賞に関しては「他の人の功績は?」という疑問が最初から投げかけられていたと聞きます。特にX線回析のロザリンド・フランクリンが受賞者から外れたことに関しては、仕事の重要性の評価だけではなくて女性差別の観点からも批判が行われました。で、その批判が集中しがちだったのが「第三の男」です。著者がロザリンド・フランクリンの業績を「盗んだ」のではないか、と。本書は「悪の権化」とまで言われて苦しんだ人が自分について語った本です。
 
 ケンブリッジ大学での成績不良で、著者はケンブリッジの大学院への道を閉ざされます。しかし固体ルミネッセンスのPh.Dコースを問い合わせまくったところ、バーミンガム大学にランダルという専門家が着任して助手を求めていることを知ります。著者は首尾よく採用され、さっさと「レーダースクリーン上での残光」でPh.D論文を書き上げます。戦争中著者はウラン濃縮の研究を行っていましたが、シュレディンガーの『生命とは何か』を読んで生物物理学者になる決心をします。折しも「遺伝子の本体は、DNAか蛋白質か」の議論が沸騰しており、著者はランダルの下キングズ・カレッジでDNAのX線回析研究を始めます。DNAは「生きたもの」であるという信念からデリケートに扱った結果(加湿した水素で充填した空間でX線をかけるのですが、条件がとっても微妙でした)、DNAは結晶として表現できるもので、らせん構造をしていることがわかります。そこへランダルがX線回析の専門家ロザリンド・フランクリンをスカウトしてきます。「著者のかわりにDNAのX線研究をまかせる」という条件で。しかしその条件は著者には知らされず、著者とロザリンドは緊張状態に置かれます。そもそも「白熱した議論を好む」ロザリンドと宥和と協調を好む著者とではまったくタイプが違って最初から良好な関係は築けなかったかもしれません。さらにケンブリッジのワトソンとクリックとの「誰(どのチーム)が最初にDNAの耕造を決定するか」の熾烈な競争もあります。
 そして……ワトソンとクリックはとうとうDNA二重らせんの構造を決定し、著者にその論文の共著者にならないかと提案します。著者が彼らに見せたX線回析写真が決め手になったからです。著者はそれを断り、二人が論文を載せる「ネイチャー」の同じ号にキングズ・カレッジの論文も同時に掲載されることになります。しかし、もちろん、世界の注目を浴びたのはワトソンとクリックの方でした。ロザリンドは、公的にはらせん説を否定し続けていましたが、研究ノートでは二重らせんの検討をしており「正解」に「二歩遅れ」の段階でした。
 
 かつて(少なくとも二十世紀初頭まで)科学は「個人」で扱えるものでした。自宅の研究室で宇宙船やタイムマシンを作ったりできたのです(フィクションですが)。しかし第二次世界大戦後、科学は「チーム」のものとなります。本書で重要な登場人物ランダルも「自分の研究の時間を削って研究室のみなのために資源や金を集めているんだ。ああ、研究がしたい」とぶちぶち愚痴を言っています(『科学が作られているとき──人類学的考察』(ブルーノ・ラトゥール )でも「現代科学は集団のもので、実験室に不在で資金集めパーティーに出てばかりの教授も『科学者』の一員だ」という意味の表現がありましたっけ)。「個人の時代」でさえ「私は巨人の肩に乗っている」(ニュートン)わけです。それが「チームの時代」になったら「業績」は果たして誰のものなのでしょう? お互いに議論をしプライオリティを尊重しつつ他人の論文を引用しそれを発展させ、結局誰が誰の肩に乗っているのかわけがわからない状態なのですから。
 著者も言っていますが、DNA研究は学際的です。遺伝学・生化学・有機化学・物理化学など様々な分野の専門家の協力が必要です。協力がなければ科学は発展しません。そして競争も必要です。競争がなければ科学の発展は遅くなります。しかし、過度の競争や逆に対決を避けるために問題を先送りする態度は、科学の発展を阻害します。
 結局、「正解」のすぐそばにいた人々の中でなぜワトソンとクリックが「一番」になれたかというと、協力態勢とオープンな議論と実際にモデルを作ってみたこと、どうもこのあたりに秘訣がありそうです。そして「○○の仕事がなければWとCの論文はなかった」といくら言っても、それは○○さんがWとCより上だ、という証明にはなりません。○○の仕事の結果を活かすことができるチャンスは○○さんも持っていたのですから。ただ、これからはノーベル賞の受賞人数はもっと増やすかあるいは団体名義(○○教室)に与えなければいけなくなるかもしれません。第四の女(男)第五の男(女)は絶対いるのですから。
 
 
10日(日)飲酒運転
 飲酒運転による重大事故が連続していることを受けて警察庁は「『酒気帯び』の定義変更」で対応するつもりのようです。
 ……書類上の処理とか通知一通で世界が良くなればそれは良いことでしょうけれど……捕まえた後で厳しく叱っても、それでその前に起きたこと(飲酒運転や事故)は「なかったこと」にはならないんじゃないですか? 目的は「厳罰を食らわす」ことではなくて「事故(の被害者と加害者)を減らす」ことでしょう(飲酒運転を減らすことで事故が減るのなら飲酒運転を減らす方向で考えればいいし、飲酒運転を減らさなくても事故が減る方法があるのならそちらも考えればいいでしょう)。
 
 「飲酒運転」が減らないのなら「飲酒」か「運転」かを制限するしかないか、とまず私は考えます。しかし「飲酒」を制限するのは、アメリカのかつての禁酒法時代を思い出す限り、「無理」または「無茶」でしょう。で、「運転」を制限するのは困難(技術的には酩酊者がハンドルを握ったらエンジンがかからないように、なんて装置は可能でしょうが、たとえば運転者はシラフであと4人がぐでんぐでんのときにそれをちゃんと識別できるようにする装置はずいぶんコストがかかるように思います)。
 ならば「飲酒」→「運転」の「→」のところを上手く切断できればいいのですが……たとえば広い駐車場つきの飲み屋(田舎には良くあります)の近くで検問、とかは簡単に思いつきますが、では都会ではどうすればいいのでしょう。
 
 日本は酔っ払いに甘い社会で「酒の上」とか「酔ってて覚えていない」と言えば大抵のことは許される風潮がありますが、そろそろ「酒」を特別な言い訳に使うのはやめるようにするのが、迂遠なようですが結局は社会にとって「お得」なんじゃないか、と私には思えます。
 
【ただいま読書中】
ファンタジイの殿堂 伝説は永遠に(2)
ロバート・シルヴァーバーグ編、幹遙子 他 訳、早川書房(ハヤカワ文庫FT281)、2000年、760円(税別)
 
 ファンタジイの人気シリーズの外伝を集めたアンソロジーの第二巻です。
 
目次
〈真実の剣〉『骨の負債』テリー・グッドカインド
〈氷と炎の歌〉『放浪の騎士──七つの王国の物語』ジョージ・R・R・マーティン
〈バーンの竜騎士〉『バーンの走り屋』アン・マキャフリイ
 
 『骨の負債』……邪悪な魔法使いに侵略されているミッドランズが舞台です。侵略に抵抗している人々の中心である主席魔道師“ペテン師”ゼッドの命を狙って、戦争と陰謀が同時に発動します。武器として使われるのは親子の愛情。そこにゼッドに対する「親から子に伝えられる骨の負債」を持った女性アビーが絡みます。アビーは占領された町で捕虜になった自分の夫と娘を助けるためにゼッドを頼ってきたのです。魔道師・呪術師・聴罪師・騎士・暗殺者・モルドシス(聴罪師以外のあらゆる魔法が無効な女性の戦士)などが複雑にからんで物語は加速しつつ結末に向かいます。
 
 『放浪の騎士』……孤児ダンクを拾って育ててくれた放浪の騎士が旅路途中で死んだため、ダンクは独り立ちをしなければなりません。目指すはアシュフォードの馬上槍試合。負ければすべてを失いますが、勝てば(もし一勝でもできれば)相手から賠償金を取ることができるのです。途上ダンクは孤児のエッグと出会います。自分が育ててもらったことを思いだし、ダンクはエッグを従者とします。
 しかし試合の前にダンクは弱いものいじめをしていたプリンス(実際には皇孫)を止めようとして喧嘩になりプリンスを怪我させた罪で牢獄に放り込まれます。判決は「片手片足の切断」または「七の審判」(七人の騎士同士が馬上試合を行う決闘裁判)です。勝つ望みが少しでもあるとしたら決闘裁判ですが、相手はプリンス、いくらでも仲間を集められます。しかしダンクはぶらっとやって来た放浪の騎士です。金もコネもありません。さて、ダンクはどうしたらいいのでしょうか。
 
 『バーンの走り屋』……空飛ぶ竜とそれに乗る騎士の世界を生き生きと魅力的に描いたシリーズの外伝です。舞台は地上。走り屋(飛脚)の少女テナが主人公の「ガール・ミーツ・ボーイ」ものです。年頃の女性同士の会話とかファッションの細々した話(たとえば胸の詰め物)など「これは男には書けないな」と思わせる場面が次々登場して飽きません。血がたっぷり流れる暗い話が続いた後ですので、気持ちが救われた感じです。
 
 本巻はSF(の読者または作家)からファンタジイに移行した人たちの作品が集められています。はじめの二つのシリーズはまったくの未読ですが……まずいなあ、どれも読みたくなってしまいました。バーンの竜騎士は最初の2巻か3巻は読んだ覚えがありますがこれも読み直したくなってきました。
 
 
11日(月)ドライを潤す
 人間関係があまりにドライになりすぎると、そのぎすぎすを少しでも和らげる潤滑油のためかのように涙が求められます。ただし、人間関係がウエットなときには「ともに流す」ものが、ドライなときには「他人が流す」こととさらには血まで流れてしまうことが異なっているのですが。
 
【ただいま読書中】
スイス傭兵ブレーカーの自伝
U.ブレーカー著、阪口修平・鈴木直志 訳、刀水書房、2000年、2800円(税別)
 
 かつて「傭兵」はスイスの主力輸出産業でした。本書は18世紀にプロイセン軍に属したスイス人の自伝です。
 ウルリヒ・ブレーカーは1735年生まれ。父親は農業と硝石作りを主に行っていましたが仕事は上手くいかず破産したり住居を転々としたり、つまりは社会の最下層近くに位置する境遇でした。ブレーカーはたった数週間しか学校には行かず、子ども時代にはヤギ番と硝石加工だけしていた人なのに、実に立派な文章を書いているのには驚きます。
 19歳の純情な若者は恋人と涙の別れをして募兵仲介人にシャフハウゼンに連れて行かれ、そこでプロイセン軍マルコーニ少尉に巡り会い、従者となります。新兵に関する悲惨な噂とは違って将校と一緒だと優雅な生活ができます。しかしマルコーニは募兵活動で経費を使い果たし新兵は集まらず、で、哀れブレーカーは新兵に差し出されてしまいます。そして過酷な教練(殴りまくることで従順な兵隊を作り脱走の気力をくじこうとする)と生活環境(食べるのにも足りない俸給しか支給されない)に苦しめられます。
 そしてついに戦争が。プロイセン軍はロボジッツでオーストリア軍と衝突し、勝利をおさめようとした瞬間著者は戦場から脱走します。「敵」地目指して。とうとう200人の集団となった脱走兵はプラハに送られ、そこでそれぞれの出身地(スイス、シュヴァーベン、ザクセン、バイエルン、フランス、ポーランド、トルコ……)に向けてばらばらになります。いやあ、多国籍軍だったんだ。
 かつての恋人は、心変わりをしていました。仕事はありません。ぶらぶらと遊びたい盛りです。しかし、さすがに将来のことを考え、著者は伴侶を定め木綿糸の行商を始めます。さらに自分の家を建て始めます。買ったり借りたりは経済的に無理だから、自分で建てるのだそうです。著者は新妻と新居を得ましたが、同時に莫大な借金も得ました。
 あまり幸福ではない家庭生活と上手くいかない商売……そこに飢饉と赤痢が襲ってきます。借金できない貧乏人は草や行き倒れた馬の肉などを食べ、ばたばたと死んでいきました。著者は借金地獄に落ちていましたが、「道徳協会(リヒテンシュタインの読書協会)」の懸賞論文に応募した「木綿業と信用貸しについて」が懸賞金を獲得し、協会員になれと誘われます。本がたっぷり読める魅力に引かれ会員となった著者は、近所の人間からは(貧乏人のくせにインテリぶっていると)蔑まれ会員からも(貧乏人のくせに場違いだと)蔑まれます。債権者は著者から容赦なく取り立てますが債務者は著者から巧妙に逃げ回ります。なんともはやですが、そんな著者の逃げ場は神への信仰とスイスの美しい自然と家族と読書でした。
 
 『ボライソー』か『ホーンブロワー』シリーズや映画「バリー・リンドン」でイギリス軍の新兵募集についての描写を私は見ましたが、あれはほとんど人買いですね。甘言で釣るか強制的に徴募するか。どちらにしても連れて行かれた先ではひどい目に遭うのです。(教練のときにはもちろん、戦場に行ったらもっと)
 本書の前半は、子ども時代の貧しいけれど牧歌的な生活とそれと対照的な新兵の日常生活です。そういった「傭兵」の部分はもちろん実に興味深いのですが、本書は18世紀の庶民(下層民)が何を考え具体的にどう生活していたかの貴重な記録でもあります。著者が借金を取り立てに行った先でどんな状景が待っていたか……ここは下手な落語より面白いものでした。
 
 
12日(火)全力を尽くせ、ただし
 私は大学時代オリエンテーリングクラブに所属していました(他に3つのクラブに属していたのですがそれについてはまた別の機会に)。オリエンテーリングは基本的に個人で地図とコンパスと歩測だけを頼りに決められたポイントを決められた順序で回る競技です。ポイントからポイントへのルートは、たとえば山裾をぐるっと回るかそれとも一気に山に駆け上がってまた駆け下りるか、などはすべて自分の選択です。時間競技ですので決断は素早く、しかし走る時間が最短になるように体力が一番有効に消費できるように効率的にルートの組み立てを考えなければなりません。
 私がこの競技で学んだこと。「限度を超えて走ると脳が酸欠になり思考力が失われる」。勢いよく南斜面を駆け上がって尾根に到達します。さて、目標は尾根道を東に300メートルたどってまた北に降りた沢の中。ところが気がつくと体は息を切らせながら西に向かって走っているのです。右と左を間違えたのでした。貴重な時間と体力をロスします。さらに現在位置を見失ったら、ロストボーイです。全力は尽くせ、ただし判断力が残る程度に。大学最終学年に「これが競技者としては最後」と参加した全日本大会成年男子Aクラスで100位以内に入るのがやっとだった平凡な元競技者が、それ以後ずっと噛みしめ続けている教訓です。
 
【ただいま読書中】
オリエンテーリング ──地図を片手に大地を駆ける
日本オリエンテーリング協会 編、大修館書店、2006年、2000円(税別)
 
 ナビゲーションとランニング、これがこの競技の本質です。
 観察眼、注意力、判断力、決断、勇気、記憶力、体力……人が持つ能力の様々なものが一度に試されるスポーツです。
 
 道具はそれほど多く使いません。地図、コンパス(方位磁石)、ウエアについての親切な紹介があります。特に等高線の読み方についてもわりと詳しい解説があります。ただ、本当に地図が読めない人は、詳しくて親切な人に教わった方が良いかもしれません。
 しかし、トップアスリートではコンパスを使わない人もいる、というのは驚きでした。「地形の中の自分」を鳥の目で常に把握しつつそれを目の前の地図に投影し続けることができたなら、たしかにコンパスは不必要です。しかし、マラソンランナー並みのスピード(トップレベルはフルマラソンを2時間20分程度で走るそうです)で不整地を走りながらその知的作業を行うには相当の……ああ、だから世界のトップしか「コンパス無し」はできないんでしょうね。
 
 特殊なテクニックもあります。たとえば「地図の整置」。競技中には体の前に地図を地面に水平に持って走りますが、実際の地形と地図の向きを常に一致させるのです。つまり南に向かって走っているときには地図の南が自分の行き先に向いているしそこで西に向きを変えたら地図は90度ぐるっと手の中で回ります。言葉で書くとややこしいのですが、慣れると自動的に地図が動くようになります。(鳥の目で見たら、地形に対して固定された地図の回りを人間が回ることになるのですが)
 「エイミング・オフ」日本語にしたら「狙い外し」でしょうか。森林の中などで遠くの目標を狙って一直線に進むと、進路に必ず誤差が生じます。そうするといざ目標の近くに来ても自分の左右のどちらに目指すポイントがあるかはバクチになってしまいます。そこで最初からわざと右(または左)に進路を逸らしておきます。そうすれば左(または右)だけを探せばよいことになり、「どっちかなどっちかな、この近くのはずなんだけど」と右往左往するより結局時間が節約できます。
 歩測:歩数をカウントしてそれに歩幅をかければ距離が出るのですが、オリエンテーリングでは歩数は莫大な数になるので「複歩」を使います。右足と左足が一回ずつ動いたら「一歩(一複歩)」です。で、地形による差(平地と登りと下り)・走るときと歩くとき・疲れ具合、で歩幅の数字を上下させてそれに歩数をかけて走った距離を出します。(私は「この状況なら100メートルが○歩」と間違えにくくて計算しやすい方法を使っていました)
 
 地図を持ったらすぐに走り出してはいけません。まずプランが必要です。ルート選択と地形に合わせた技術の選択、そして危機管理(もしルートを間違えたり位置をロストした場合にどうリカバリーするか)です。そこまで(できるだけ短時間に)考えてから走り出します。
 走りながら競技者は常に地図を読んでいます。「地図を読む」とは「地図だけを見つめる」ことではありません。地図と現実の地形を交互に眺めることが必要です。地図の等高線を頭の中で立体化して地形に当てはめれば「ここ」がわかります。「ここ」がわかればあとは自分が決めたルートを通って「あそこ」に向かうだけです。
 
 スキー、マウンテンバイク、トレイルオリエンテーリング(車椅子でできるオリエンテーリングですが、最近は健常者にも人気だそうです)などオリエンテーリングには様々なバリエーションがありますが、異色なのはロゲイン(広い地図上に散らばったポイントをフルロゲインだと24時間以内にいくつ回れるかを競う)やアドベンチャーレース(チーム戦で大自然の中を何日もかけてナビゲーションしながら移動する。自転車やカヌーやロッククライミングなどもできないといけない)でしょう。ディスカバリーチャンネルで時々アドベンチャーレースをやってますが、あれは過酷な競技です。個人の能力だけではなくてチームの力もシビアに問われるのですから。
 
 
13日(水)噂の花
 噂話は人気がありますね。好きな人は、大げさに言えば一日中他人の噂話をしているように見えます。
 ところで噂にはどの程度の真実が含まれているのでしょう? 「火のない所に煙は立たない」とも言うとおり「根拠のある噂」ももちろんあるでしょう。しかし「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とも言うわけで、単なる思いこみや無責任な放言やささやかな悪意による「根拠を欠いた噂」も流通しているのではないでしょうか。さらに「伝言ゲーム」効果があります。最初が「真実」だとしても流通過程で話はねじ曲げられているでしょうし、もし最初が「虚偽」だったら、さて、話はどれくらい面白くなっていることでしょう。
 ところで「噂話に花を咲かせる」ことの目的は何でしょう? 「仲間」の結束力を高める効果はあるでしょう。その他には? わざわざエネルギーを使って口を動かすのには、何らかの動機と報償があるはずです。
 もしも知り合いの○○さんに関する悪い噂が私の耳に届いたら、私は○○さんにその噂の真偽を質すよりも、その噂を流している人に「その噂の根拠は? その噂をさらに流布する目的は?」と質したくなるでしょうね。
 
【ただいま読書中】
貴婦人たちの華麗なる犯罪
桐生操著、学習研究社、2000年、1600円(税別)
 
 「処女王」と呼ばれたエリザベス一世は1559年に24歳でイギリス女王に即位しました。在位中最大の「イベント」はイギリスがスペインの無敵艦隊を破ったことでしょうが、そのあだ名にちなんだ地名(ヴァージニア)がアメリカにつけられたことも私には興味深く思えました。で、本書で描かれた(ほのめかされた)彼女の「犯罪」とは……七月に読んだ『マリー・ルイーゼ ──ナポレオンの皇紀からパルマ公国女王へ』でも思いましたが、高貴な人は恋一つするのも大変なんですね。権力や特権使えばやりたい放題かと思っていましたけど。
 古くはクレオパトラから新しくはウィンザー公妃(イギリス国王エドワード八世の「王冠をかけた世紀の恋」)、東からは楊貴妃や則天武后も含めて、総勢十四人の「貴婦人」の人生が本書に集まっています。悲劇的な最後を迎える人がほとんどですが、著者(二人の合作)は軽いタッチで権力と恋が織りなされた彼女らの人生を綴ります。
 
 本書に登場するエピソードは……嘘・不倫・重婚・近親相姦・獣姦・異常性愛・陰謀・黒ミサ・拷問・殺人……中には「華麗」でないものもありますしそもそも「犯罪」ではないものも含まれていますが、何が「異常」か何が「犯罪」かは、その文化や社会が規定するものです(自慰や口淫が異常性行為の文化もありますし、貧乏が犯罪であった社会もあります)から、あまり気楽に笑って読んでいられない気もします。
 しかし、ヨーロッパの王室を中心にセレクトされているせいでしょう、「貴婦人」たちに血縁や婚姻によるつながりがあるのを見ると、さて、誰が「悪玉」なのか、と思います。「その環境」では他の選択肢はなかったのかもしれませんけれど(「運命」と呼んでも良いのかもしれません)、たとえばもうちょっと多くの人が幸せになれる選択肢がある人生だったら良かったのにね、とつくづく思います。「人生の満足度」って、幸福の量だけではなくて良い選択肢の多さでも決定できるものかな。選択肢があまりに多すぎたら「選べなかった道」のことも気にはなりますけどね。
 
 
14日(木)「覆水、盆に返らず」への二つの反論
1)水は返せるさ、汚れているけどね。
2)盆なんかで水を運ぶな!
 
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レベル3』異色作家短編集13
ジャック・フィニイ著、福島正実訳、早川書房、2006年、2000円(税別)
 
 『レベル3』……存在しないグランド・セントラル駅地下3階、そこはノスタルジーへの入り口でした。ファンタジーではありがちな設定ですが、そこに著者はゲイルズバーグ(著者がカレッジに通ったイリノイ州の町)への愛をたっぷりふりかけます。そういえば著者には『ゲイルズバーグの春を愛す』という作品もありました。
 『おかしな隣人』……「お隣に越してきたのは実は」というのはアメリカの小説ではよくありますが、本作では……外国人のように小銭でまごつき閉まったドアが自動的に開くかのように体当たりをしていき140年後のことを時々話す、おかしな夫婦でした。いやいや、『レベル3』のあとにこれを置きますか? 洒落た配置です。
 『こわい』……ラジオからほんの短時間過去の番組が聞こえます。主人公がその話を友人たちにすると、似たようなエピソードが少しずつ集まってきます。共通点は「時間の混乱」。ペンキを塗り替えた後出現する以前のペンキ、子犬を飼い始める前の時点に出現した成長したあとの犬、写真に写った家族の未来像、犯罪が起きる前に警察に押収された凶器、80年前の恰好をした死体……そんな話がどんどん集積され、そして……
 『世界最初のパイロット』……南北戦争の時代。元ハーヴァード大学の教授の少佐は戦争に勝つためにとんでもないことを画策します。少佐が出かけたのはスミソニアン博物館。さてその目的は、そしてどたばたの顛末は……
 『青春を少々』……ボーイミーツガール、クロスワード、世界平和、の三題話です。しかし「Hで始まる5文字で蜂に関係した単語」を「Hives」って普通答えますか?
 『第二のチャンス』……踏切事故でぐしゃぐしゃになって放置されていた30年前の車をレストアした主人公は、その試運転の夜過去に連れ戻されます。その車がかつて属していた世界に。ところがそこで車を盗まれてしまいます。さて、主人公とその車の運命は……
 
 今の目からはそれほどアイデアが捻ってあるわけでもないし強烈なオチが用意されているわけでもありません。でもだからといってがっかりするような短編集ではありません。私の読後感は「『異色』というより『良質』なファンタジイ短編集」です。スタンダードとして読んでおくべき本、と言って良いでしょう。
 
 
16日(土)肩の荷がおりた
 職場での数年来かけて準備していたビッグプロジェクトがやっと本日一段落しました。と言ってもこの3日間ぶっつづけの最終段階一歩前(全体と個別の評価と取りあえずの総括)が終わっただけで、最終的な評価を下されるのはもう1〜2ヵ月先なのですが、ともかくこちらはもうすることは何も無し、あとはただ結論を待つだけです。もう、結果はどちらでも良いです。ストレスで最近読書量が落ちていたし日記が短めだったりあちこちの書き込みが少なかったかもしれませんが、これで復帰するぞ〜。
 
【ただいま読書中】
ファイア 火の自然誌
スティーヴン・J・パイン著、寺嶋英志訳、青土社、2003年、2600円(税別)
 
 火の三要素は、燃料・酸素・熱です。
 燃料は生物(主に植物)によってもたらされます。地表にたっぷり燃料があるようになったのは今から四億年前のことでした。
 酸素は20億年くらい前から大気中に増え始め、燃焼に十分な量になったのは約五億年前のことです。
 そして熱。火山は大規模な点火源ですが、固定的で地域に偏りがあり、噴火も気まぐれです。むしろ雷の方が、小規模で環境を選びますが(火がつきやすい燃料が適正量必要だし、たっぷりの雨を伴ったら火がつきにくい)地球の歴史の中では点火源の主役と言って良いでしょう。
 
 著者は「火の歴史」を論じ、生物と火の関り(生物が存在しなければ火も存在できない(燃料も酸素も生物由来)。逆に生物も火に適応しなければならない)、本当の自然保護や保全とは(雷による山火事は、消すのが自然か、自然鎮火まで放置するのが自然か。雷シーズンの前に下生えなどを先に燃やしておいて壊滅的な大火災を予防するのは、自然か不自然か)、人類と火の関係(人類は火によって恩恵をこうむるが、火もまた人によって持ち運ばれ燃料を供給してもらうことで利益を得ている)などについて次々と問題を提起します。じっと見つめられた炎がちっとも落ち着かずにその姿を変え続けるように、著者の筆致はまるで流れるように次々にその姿を変えていきます。
 
 狩りにも火は用いられます。農業にも火が用いられます(焼き畑農業だけに限定されません)。そして、人の社会で火が入手した物は、実は農業が火に与えた物なのです。こうして火は、野生状態から家畜化されていきます。やがて農業の中心部は火を使わないものになりますが、その周辺ではやはり火を使う農業は健在でした。やがて都市が発達します。すると都市の火が生まれます。そして産業の火も。
 
 ラスト近くの世界地図は興味深い物です。「生きているバイオマスを燃やす世界」と「化石燃料を燃やす世界」に、この地上はみごとに二分されているのです。それと同時にこの世界は「火が過剰な地域」と「火が不足している地域」にも分けられます。
 
 「万物は火である」はヘラクレイトス(古代ギリシア)、「万病の原因は火である」は劉完素(金元医学の大家)です。「火・水・風・土」は四大元素、五行は「木火土金水」。火は人以前から存在していましたが、人と出会うことで人を変え、そして人によって火も変えられ、そして火と人は常に一緒にいるのです。本書は「自然誌」とタイトルにありますが、実は火の歴史と火の体制をめぐる長大な叙事詩でもあります。生物と火の不思議な関係をじっくり噛みしめると本当に不思議な味がします。
 
 
17日(日)尿意
 映画やテレビドラマで、遊んでいたカップルが夜中に「朝日を見に行こう」と車で出かけて街から遠く離れた海岸で仲よく並んで「朝日がきれい」と眺めるシーンがときどき出てきます。私は尋ねたい。「トイレは一体どうしたんだ?」と。
 
【ただいま読書中】
おなら考
佐藤清彦著、青弓社、1994年、2000円(税別)
 
 「屁」と「おなら」、今では同じものですが、かつては別のものだったそうです。著者は例証として「屁ならまだいいがおならの気の毒さ」「屁をひったより気の毒はおなら也」という古川柳をあげます。かつては「屁」は男ことばで「おなら」は女ことばだったそうな。
 
 おならで人死にが出たことが本書では紹介されています。
 1978年デンマークでお腹の手術中に、電気メスによって腸内のガスが爆発してしまったそうな。日本でも手術中の爆発事故はあるそうですが、こちらは幸い死者は出ていません。
 明治時代の日本では、おなら一発で三人が死んだ記事が新聞にあります。婚礼の翌日仲人に挨拶に行った花嫁がつい一発。それに仲人の奥さんが皮肉を言ったものですから花嫁は帰宅して自殺。責任を感じた仲人の奥さんも自殺。世をはかなんで花婿も自殺……あらまあ。
 おならがきっかけでの喧嘩や殺傷事件も明治の新聞にはいろいろ載っていますが、今ではちょっと考えられないことですね。
 
 おならをかばうお話もあります。酒宴の席でつい一発の芸妓をかばうために青年が「自分が」と名乗り出た。おかげで芸妓とのロマンスが、という「良い話」もあります。『春記』(藤原資房の日記)には「天皇の御前でつい一発やってしまった義忠を配流するかどうかの議論が起きて、資房が『天に誓ってそんな音は聞こえなかった』と頑張ってその話はなくなった」とあるそうです。「一発」で「流罪」ですか。これはきつい。
 痴漢におしりを触られた女性がびっくりして一発やったら痴漢の方もびっくりして逃げ出した、なんて話もあるそうです。……これ、撃退法で使えませんかね?
 
 そういえば、「教室の後ろから二番目の奴が授業中につい一発やってしまった。教室の皆が後ろを振り向いたのでやった奴も後ろを振り向いた。最後尾の人間が真っ赤になった」というお話も昔聞いたことがありましたっけ。
 
 おならが「主人公」の「転矢気」という落語があります。落語以外でも文学の世界でおなら関連で本書で名前が出ているのは……芥川龍之介・太宰治・坂口安吾・安岡章太郎・藤本義一……いやあ、著者はいろいろ読んでいます。「馬の屁に吹きとばされし蛍かな」これは一茶。
 
 屁を売り物にする人もいます。たとえば『放屁論』(平賀源内)や『半日閑話』(太田蜀山人)に紹介されている霧降花咲男。「屁芸」によって人気を博した芸人だそうですが、さて、その芸とは……
 動物についても著者は忘れません。スカンクは実は平和主義とか、イタチの最後っ屁は本当かとか、河童の屁(屁の河童)とは何か、とか……って、河童は動物?
 
 ところで、「そんなの屁でもない」の反対語は「それは屁だ」でしょうか? 文法的には正しいように見えるのですが……
 
 
18日(月)読書の秋
 私にとっては四季すべて(プラス土用)が「読書シーズン」なんですけどね。でもどうして秋には「スポーツ」とか「食欲」とか頭にいろいろつけやすいんでしょう?
 
【ただいま読書中】
虹をつかむ男』異色作家短編集14
ジェイムズ・サーバー著、鳴海四郎訳、早川書房、2006年、2000円(税別)
 
 300ページ弱の短編集ですが25編も短編が詰め込まれています。つまりどれも短い。色合いも様々で……様々だからちょっと説明しにくいなあ。
 邪魔になった妻を地下室で殺そうと思ったらそれを見透かされてそれでも妻は地下室までつき合ってくれる話とか、ごろつきが世界的なヒーローになってしまって大統領以下が困ってしまうとか、『マクベス』の「真犯人」は実は別の人だとか、自動車運転が大の苦手の夫が拠ん所ない事情で気の強い妻を助手席に乗せてロングドライブをしなければならなくなる話とか、自分がすっぽり隠れることができる箱を探している男とか、「ダムが決壊した」というデマで街に何が起きたかとか、人の「上」に乗っかるベッドとか……なんとも奇妙なお話がてんこ盛りです。夫婦者が登場する場合、大体男の方が気が弱いのはご愛敬ですけれど。
 
 なお表題作は「虹を掴む男」(ダニー・ケイ主演)として映画化されています。私は未見ですが、そういえばタイトル名だけは聞いたことがあります。こんど貸しビデオ屋でぼんやり探してみようかな。
 
 
19日(火)現実と空想
 現実をまるでゲームのように扱う愚かな人間の行動から、「現実と空想の区別がつかない」ことは現代日本では罪悪視されていますが……では「現実と空想を峻別すること」は素晴らしいことで「現実と空想を混同すること」はしてはならないことなんでしょうか? たとえば「同情」とか「共感」はどうでしょう。想像力が無い人間は最初から他人に同情や共感なんかしないでしょうし(「貧乏なのはそれ自体が罪なのじゃよ、がはははは」とあざ笑う成金)、逆に現実認識がない人間の「同情」や「共感」はただの薄っぺらでマニュアル通りの上っ面の感情の表出でしかありません(「まあ、なんておかわいそうな。他人の前でそういった人に同情している私って、す☆て☆き」)。
 他人に対する同情や共感は現実と空想を適度に混合しなければならない作業でしょう。もし「現実と空想の区別がつかない」ことが問題だとしても、必要なのは「なにか特定の単一物に罪を負わせること」ではなくて「適度な混合」ができない人とそのテクニックを教えることができない環境をまずは問題視することではないかなあ。おっと、その前に「現実認識力」と「想像力」の両方を育てるやり方も確立しなくては。私にとって「ゲームのように人を殺す」人間はその両方ともが欠如しているだけのように見えるものですから。
 
【ただいま読書中】
ファンタジイの殿堂 伝説は永遠に(3)』 ハヤカワ文庫FT282
ロバート・シルヴァーバーグ編、斉藤伯好 他訳、早川書房、2000年、860円(税別)
 
目次
〈時の車輪〉『新たなる春』ロバート・ジョーダン
〈ゲド戦記〉『ドラゴンフライ』アーシュラ・K・ル・グィン
〈オステン・アード・サーガ〉『灼けゆく男』タッド・ウィリアムズ
〈ディスク・ワールド〉『海は小魚でいっぱい』テリー・プラチェット
 
 本短編集で一番没入できたのはやはりゲド戦記です。好きなシリーズですから。
 最後の最後、もう一回タイトルを見て私はにやりとしました。
 ゲドが死の国から帰還したものの、内海に竜が目撃されロークに大賢人は不在で島々の王は正式の戴冠ができていない時代。人と竜がかつては一つの種族だったという伝説がまだ失われていない世界。
 「自分に力があることはわかっているが、それがどんな力かわからない。自分がなにものかもわからない」状態の少女トンボはそれを知るためにロークの魔法学院を目指します。学院は女人禁制であることはわかっていますが、そこ以外に自分が持つ疑問への回答が得られる場所はないのです。学院の守りの長は彼女の真の名を聞いて禁を破ってトンボを中に導き、賢人会議が開かれます。なんと9人の賢人がトンボを受け入れるかどうかの議論をわざわざするのですが、会議は真っ二つに別れてしまいます。様式の長はトンボを受け入れ学院外の森に彼女の場所を用意します。それに対して呼び出しの長はトンボを敵視し排斥しようとします。そして……
 最後の「ディスク・ワールド」は、文字通り「巨大な亀の背中に立つ4頭の象によって支えられた平面世界」でそれが宇宙を遊泳しているのだそうです。で、そこで繰り広げられるのが「ゾンビや狼男が混じって生きている社会で機会均等法が施行されたらどうなるか」とかの不思議な「ファンタジイ」。本書に収められているのは、筋金入りの魔女をめぐるどたばたですが、いやあ笑っちゃいます。ファンタジイが嫌いでも英国流のユーモアが肌に合う人にはお勧めです。
 
 ゲド戦記は外伝以外はたぶん全冊我が家の本棚に揃っているはずなので通読は可能です。可能なんですが……シリーズの最初と最後ではずいぶん雰囲気が変わってしまいましたので、一気の通読をすることがはたして「良い」ことか「悪い」ことか、私には即断できません。読むこと自体は「好い」ことなんでしょうけれど。
 
 
20日(水)夜のスーパー
 めったにやらないのですが、この前たまたま20時頃スーパーに寄る機会がありました。うわあ、人が多い。それも連休直前のせいか子ども連れがいっぱいうろうろしています。こんな小さい子をこんな時間に外を連れ回していいのか?と思う私は昭和半ば育ちです。「カラスが鳴くからか〜えろ」が骨の髄に染みついているのです。でも今は人の活動時間が以前と比較してずいぶんシフトしています。人の生活パターンがシフトするから商業も時間をずらさなければならないのでしょうし、店の時間がずれるから人の活動パターンもまたそれに合わせてシフトするのでしょう。さて、どちらが鶏でどちらが卵なのやら。
 昭和末期〜平成初期に職場直近のジャスコはたしか18時か19時閉店で17時になったら「五時から市」なんて値引きセールをやっていてけっこうお世話になってました。とりあえず17時になったら職場を抜けて買い物をして、また職場に戻ってひと仕事(あるいは二あるいは三仕事)。いや、その時間に食材などを仕入れておかないと、近くにコンビニもないので生きていけない状態でしたので。
 あの「五時から市」は今もやってるのかしら? 今だったら「8時から市」? 24時間営業のスーパーはどうしましょう。「突然ですが不定時賞味期限切れ直前セール」……はちょっとタイトルが長すぎます。
 
【ただいま読書中】
新版 戸籍と人権
二宮周平著、解放出版社、2006年、1200円(税別)
 
 「本籍地はどこでも自由に移動できる(住んでいない場所でも可)」「戸籍筆頭者は結婚時に選択された姓の人間が自動的に登録される」「離婚したら筆頭者ではない方に朱でバツがつけられる(だからバツイチと言われる)」「戸籍に載るのは二代まで(三代以上になると新しい戸籍が作られる)」「養子は、男は養子/女は養女、と記載されるが、特別養子の場合は『長男・長女……』と記載される」「『長男・長女』は婚姻ごとに決定される(再婚して(あるいは離婚後再婚しなくても)子どもができたら、また長男・長女から始まる)」
 戸籍について様々なトリビアが紹介されています。出版社を見て敬遠する人がいるかもしれませんが、それほど強烈な主張はなくてわりとおだやかに戸籍についての説明を行っている(ついでに戸籍は個人のものにするべきという主張を行っている)本です。
 そうそう、住民票の閲覧は料金さえ払えば自由にできるので業者が特定の、たとえば「子どもがこんど入学する人の住所録」といったリストを作っていますが、こういった営業(業者もだけど、役所も料金を取って営業しているわけです)目的で住民が届け出た個人情報をだだ漏れにしちゃっていいんですかねえ。
 「明治時代の戸籍制度によって日本のイエ制度ができたのであって、それは江戸時代の武家の家制度とは別物」という本書での指摘には頷かされました。たしかに武家(あるいは商家の老舗)では養子に跡を取らせて「家」を守ることも行われていました。そこで大事なのは「血筋」ではなくて「お家」だったわけです。農民の方は「田分け者」を出さないために苦労していましたが、明治のイエ制度はむしろこの江戸の農民のやり方を踏襲したものといった方が良いのではないでしょうか。
 
 ではクイズです。戸籍筆頭者甲とその配偶者乙の間に三人の子どもがいます。上から長男A、長女B、次男Cです。「性同一性障害者の性別の取り扱いの特例に関する法律」によって長男Aが女性に性別を変更しました。さて、Bは次女に、Cは長男になるのでしょうか?
 答え:BとCは変更ありません。Aは甲の戸籍から除籍されAを筆頭者とする新しい戸籍が作られます。甲との関係は「長女」。つまり甲と乙には長女が二人いることになります。なんだか不必要にややこしいですね。今の民法では遺産相続や親の扶養義務で「長子」か「長子以外か」で差はないのですから、単に「子」として性別を記載するだけじゃ駄目なのかなあ。
 
 本書では、個人の人権や尊厳よりも明治以来の「伝統」を守ろうとする人は家制度に基づく戸籍制度の変更を嫌う、と言っていますが、不思議です。だって大日本帝国憲法を好む人にとっては、死ぬときに「お母さ〜ん」と言う人よりは「天皇陛下万歳」と言う人の方が好ましいはず。つまり家制度は大日本帝国主義者にとっては敵なんです。ですから戸籍を現在の家族中心から個人ごとにばらして国家が個別管理した方がいろいろやりやすいんじゃないかしら。まあ、何をやりたいか、にもよりますけれど。
 
 
21日(木)二世三世
 TVで語る姿を見ただけの感想ですが、お父さんは少なくとも「政治家」だったけれど、こんどの新しい自民党総裁は「政治家の息子」って感じです。育ちの良さは感じさせますが、インタビューでは公約をそのまま繰り返すだけで語彙は乏しいし声の響きは薄いし政治理念も地に足がついたものを自分の言葉で語ってくれません。これからの成長待ち、ですか。
 しかし、昔は「井戸塀」と言いましたが、今の政治家はどんな立派な(あるいはみすぼらしい)家に住んでいるんだろう? まあ、あれほど熱心に子どもが跡を継ぎたいと思うんだから、きっと「良い商売」なんでしょうね。
 
【ただいま読書中】
馬と少年』ナルニア国ものがたり5
C・S・ルイス著、瀬田貞二訳、岩波書店、1966年(86年22刷)、1500円
 
 ナルニアから砂漠を隔てた南に位置する強大なカロールメン国の海辺に、シャスタという少年が乱暴な父親と住んでいました。シャスタは拾われっ子で奴隷に売られようとします。そこで出会った口をきく馬(つまりはナルニアからさらわれた)ブレーの導きでシャスタはナルニアに脱出しようとします。途中でやはりナルニアを目指す少女アラビスとやはり口をきく馬フインと道連れになった一人と一頭(あるいは一頭と一人)は砂漠の手前の都タシバーンでトラブルに巻き込まれバラバラになってしまいます。トラブルの主な原因はアーケン国(ナルニアとカロールメンの間の国)の王子コーリン。なぜかシャスタとうり二つだったのです。コーリンはナルニアのスーザン女王やエドマンド王と共にタシバーンを訪れていたのですが、カロールメンの王子ラバダシがスーザンを奥さん(あるいは奴隷)にしようと強要していました。ナルニアの一行は知略によって脱出しますが、ラバダシはアーケンを急襲しそこを足がかりにナルニアに侵攻、スーザンを誘拐しようとします。それを知った二人と二頭(あるいは二頭と二人)は、砂漠を横断してアーケン国に急を知らせようとします。多くの人と動物の命がかかった競争が始まります。
 第一巻『ライオンと魔女』で主人公だった4人がナルニアで王と女王になってからしばらく経ってからのお話です。第一巻でほとんど描写はされませんでしたが、彼らの治世はけっこう長い期間でしたから、様々な事件は起きていたはずです。その中でなぜこのエピソードが取りあげられたのかそのわけは著者とアスランだけが知っているのでしょう。
 
 約1年前に『魔術師のおい』(ナルニア国ものがたり6)を読んでからぼちぼちとシリーズを読み続け、とうとう残るは『さいごの戦い』だけになりました。一応図書館から借りてきましたが……なんだか読み終えるのがもったいない気分です。返却期限ぎりぎりまで棚に飾っておこうかなあ。
 
 
22日(金)愛国強制
 「日の丸・君が代の強要は違憲」という地裁判決が出ました。
 「強制されなければ国を愛さない」というのは国民としてはどうかと思いますが、「俺が強制しなければ人はこの国を愛さない」という考え方も愛国者としてはどうかと思います。人は自分のルーツに普通は愛着を持つものです。さらに、本当に素晴らしい国だったら強制しなくても愛されるでしょ?(それは人でも同じことですよね。本当に素晴らしい人だったら「評価しろ」と命令されなくても素晴らしいと回りは思いますし、逆に、「俺を尊敬しろ」とか「俺を愛せ」なんて言う人って……) 
 それと「俺が人々をこの国を愛するように強制してやる」というのは「俺様がすべてを仕切ってやる」ということで「俺>人々」であると同時に「俺>この国」という構図にもなっています。そんな「俺様愛国主義者」って、なんだかとっても傲慢な雰囲気です。
 
【ただいま読書中】
ドラゴンフライ ──ミール宇宙ステーション・悪夢の真実(上)
ブライアン・バロウ著、北村道雄訳、寺門和夫監修、筑摩書房、2000年、2300円(税別)
 
 「ライトスタッフ」の世界では、宇宙開発は選ばれた超エリートのものでした。選び抜かれた素晴らしいヒーローが優秀な人材の支援のもとに一致団結して困難に立ち向かう、というまるで映画のような世界です。しかし時代は変わり、かつての国家の英雄はまるで宇宙が仕事場の労働者のようになっていました。
 アメリカの宇宙飛行士の間では、ロシアとの共同ミッションは不人気でした。そこに志願した奇特な飛行士リネンジャーは、科学者としては優秀だが完全主義者でコミュニケーションが下手でチームプレイができない(他人を自己目標の達成手段としか見ない)人間でした。ロシア側は長期滞在で心理的問題が起きることを懸念しますがアメリカ側はメンツ(自分たちが選抜したクルーにロシアがいちゃもんをつけるな!)と志願者が少なかったせいもあって強引にリネンジャーをミールに送り出します。
 NASAを牛耳っているのは、ジョージ・アビー。宇宙飛行士の最終任命権者です。彼のご機嫌を少しでも損ねたら、その宇宙飛行士に未来はありません。逆にお気に入りになれたら何度でも宇宙に出られます。やり口は陰険そのものですが、NASAでアビーに公然と逆らえる者はいません。その結果、自由で率直な議論が阻害されてしまいます。
 ソ連が崩壊してロシアになって、宇宙開発は予算がひどく削減されました。さらにロシアとカザフスタン・ロシアとウクライナの緊張関係がミールに悪い影響をあたえます。そしてアメリカでもロシアでも宇宙飛行士と管制官との感情的対立があります。
 さらにミールは、設計寿命は5年だったのに、NASAとのミッションのときにはすでにそれをはるかに越えていました。老朽化が始まり小さな故障が頻発するようになっていました。
 アメリカ内部はぎくしゃく、ロシア内部もぎくしゃく、そしてアメリカとロシアの「協力関係」もぎくしゃく、施設はぼろぼろ……そこで事故。酸素発生装置から火災が発生したのです。幸い誰も怪我はしませんでしたが、地上の支援体制の齟齬が露呈します(たとえばアメリカ側はミールの内部構造についてほとんど無知でした)。
 人間側の事情は無視して事故は続きます。プログレスロケットとのドッキング実験が失敗して、ロケットとミールはあわや衝突寸前ですれ違います。停電が起き電力低下がミールの姿勢を不安定にします。そして冷却剤(エチレングリコール)が漏れ始めます。修理のために冷却システムを停止したため、ミール内部は38度にまでなり、さらに二酸化炭素濃度が上昇します。それでもミッションは続きます。アメリカ側はミールの中を知りません。そしてロシア側はミッションが中止されることでNASAからの資金が途絶えることを恐れ、事態を過小評価しようとします。
 
 しかし「文化の違い」は些細なところに典型的に現れるものです。たとえばドッキング手順。アメリカは手動ですがソ連は自動でした。ソ連は個人を信頼していなかったからすべてを中央(あるいは中央の認可を受けたプログラム)によって管理していたのです。
 
 内容とは関係ありませんが、落ち着かないレイアウトです。二段組みの割に字間行間とも少し空き気味で、余白は上が8mm下が7mmときつきつ。ページ左右の余白は、内側(とじ目の側)が20mmなのに外側は10mmです。真ん中にこっぽりと空白の帯があって、なんだか字が外側にこぼれていきそうな印象です。
 
 
23日(土)評価
 「ノーベル賞をもらうとはすごい研究だったんだ」ではなくて「すごい研究だからノーベル賞を受賞した」のです。
 
【ただいま読書中】
ドラゴンフライ ──ミール宇宙ステーション・悪夢の真実(下)
ブライアン・バロウ著、小林等訳、寺門和夫監修、筑摩書房、2000年、2400円(税別)
 
 上巻は1997年の出来事でしたが、下巻は1992年までいったん戻ります。
 1990年代はじめ、NASAは七年間と80億ドルをかけた宇宙ステーションフリーダムが実現せず、予算削減と士気の低下の中、宇宙開発の存続と組織の維持のための「大義名分」を探していました。ブッシュ政権は支持率の低下に悩みクリントンに政権を奪われることをおそれ、人気回復のための政策の目玉を探していました。折しもエリツィンが訪米しますが、実質的な協議事項がほとんどなく担当者は悩んでいました。
 そこで突然「宇宙での米ロ協力」というミッションが登場します。NASAも知らないうちに。ロシアはそれを喉から手が出るほど欲しいドルが(それも大量に)入手できるチャンスと見ました。そこでミールにアメリカ人宇宙飛行士を交代で長期(4ヵ月)滞在させる「フェイズ1」と呼ばれる共同ミッションが始められました。そこで得られた経験と資材を元に国際宇宙ステーション(ISS)が建設されロシアもそのモジュールを一つ供給することになります。(日本も一つ供給することになっていましたが「ロシアの隣は駄目」という主張が通って基本仕様が変更された、というサイドストーリーも本書には紹介されています)
 
 そして話はまた1997年に戻ります。
 「問題児」リネンジャーに替わってミールに入ったのは「最もロシア的なアメリカ人」と呼ばれたフォールです。フォールは(ロシア文化の好き嫌いは別として)ロシア人クルーに溶け込まなければミッションは成功しないという信念からチームを重視して行動しようとします。しかしまたも事故。不十分な準備で始められたドッキング実験が(リネンジャーの時と同様に)失敗し、今度はロケットがミールに衝突、穴から空気が流出し始めます。減圧事故です。穴の開いたモジュールはやっと閉鎖できますが、衝突のショックでミールはゆるやかに回転し始め、太陽電池の角度がずれたための電力低下が生じます。電力がなければ無線も生命維持装置もコンピュータも止まります。ストレスからロシア人船長には不整脈が発生します。
 このあたりの話は緊迫感があります。著者は「ロシアの宇宙飛行士は率直に語ってくれた」と述べていますが、たった3人の乗組員でも目の前で起きた同じ「事実」を違って受け止めている場合があることがそのまま示されます。まったく違った解釈が列挙されると「真実は何なんだ」と言いたくなりますが、かえってリアルな印象です。
 
 短期間のミッション(たとえばアメリカのシャトルミッション)ならクルーの組み合わせはそれほど問題にはならないでしょうが、長期間(たとえば火星への有人探査)だと能力だけではなくて心理学を重視した人選が必要でしょう。たとえばストイックな性格の人はチームを維持するためには重要ですが、なにか問題がある場合にそれを早期に浮き彫りにするのは苦手です。自己主張が強い人は、人の和を乱してしまいます。命令に従い命令を下すことに慣れている人は、想定外の事態が生じしかも的確なサポートや命令がもらえない状況では無能です。どんな性格でも、それは状況によってあるいは周りの人間の組み合わせによって長所にも短所にも働きます。少人数で一緒に長期間過ごし、しかも想定外の事態や事故が次々起きることが予想できる状況で、チームのメンバーをどのような組み合わせにするのが最適なのか、そしてそれを支援する地上のサポート体制をどう組んでおくのが最適なのか……そこに雑音、たとえば政治が口をはさんだらどんな悲劇が起きるか、ちょっと考えてしまいました。
 
 
25日(月)四知
 後漢の時代(西暦だと1〜3世紀はじめ)、宦官が宮廷の実権を握り官僚は腐敗していましたが、高潔な官僚ももちろんいました。その一人楊震(ようしん)は、高潔ゆえに冷遇されていましたが、やっと地方の太守に任命されたとき、かつてその優秀さを見込んで引き立てた王密が訪ねてきて、以前の礼として金十斤を密かに贈ろうとしました。しかし楊震は受け取りません。王密が「これは賄賂ではないし、ほかに誰も知りませんから」と述べると楊震は「天知る地知る子知る我知る」(天も地もあなたも私も知っている。(誰も知らない、ということはない))と言いました。『十八史略』で「楊震の四知」として知られているエピソードです。『後漢書』の「楊震伝」では「天知る神知る子知る我知る」となっているそうですが、ここは「神」よりは「地」の方が言葉の納まりがしっくり来ます。
 *ついでですが、子は「子ども」の「子」ではなくて、二人称の代名詞です。
 
 ネットで検索するとこれを「天知る地知る人知る我知る」と書いてあるサイトもあります(実は「子」よりも「人」の方が検索ヒット数が少し多い)。しかし、「人」だと意味が変わってしまいます。「人は知らないとあなたは言うが、しかしすでにこれだけのもの(人)が知っているのだ」というのがこの話のキモなのですから。
 
 大切なのは基準としての「天地(陰陽)」主体としての「我」でしょう。「人に知られてしまうか」「ばれてしまうか」を基準にするのではなくて、自分の良心がそれを許せるかどうか、が判断基準だと判断や行動はぶれません。たとえば、公共の場で騒いで周囲に迷惑をかけている子どもに向かって「静かにしないと怒られるよ」と騒いでいる親は「優しい親である自分は怒らないけれどこわい他人は突然怒り出すかもしれない」「怒られなければ何をやっても良い」と自分の子どもに教えているわけですが、そこで本当にするべきは「誰に怒られようと怒られまいと、してはいけないことはしてはいけない。それを自分で判断できるようになりなさい。判断できないくらい幼いのなら私が教えよう」と言うことのはずです。
 
【ただいま読書中】
テツはこう乗る ──鉄ちゃん気分の鉄道旅』光文社新書252
野田隆著、光文社、2006年、740円(税別)
 
 鉄道好きを俗に「鉄」と言い、その度合いを「鉄分」と言ったりします。本書は筋金入りの鉄である著者が「鉄の世界」の魅力(のおそらくほんの一部)を読者に紹介しようとする本です。
 本書ではテツをおおまかに四分します。「乗りテツ」「撮りテツ」「収集テツ」「模型テツ」です。それはさらに細分化されるのですが、ここでは省略。この中で私が一番親和性を感じたのは乗りテツです。学生時代に帰省や遊びの旅行で、いかに効率よく乗り継ぐか、いかに安くあげるか、と時刻表とにらめっこをしていて楽しかったことを思い出しました。もしかしたら私は隠れ鉄だったのかもしれません。
 
 テツが鉄道で何を見ているか、何を聞いているか、何を考えているか、何を妄想しているか……鉄であることでどんな得があるか、どんな得がないか……著者はいろいろあげてくれます。
 役に立つ知識もあります。たとえば品川や新橋から東京駅を目指すとき、降り口が八重洲側だったら、山手線や京浜東北ではなくて東海道本線に乗れ、と著者は言います。空いているしホームから改札まで歩く距離がぐんと短いから。なるほど。こんどやってみよう、と私は思います。
 
 鉄の行動や思考は、非鉄からは不可解です。
 たとえば電化区間と非電化区間、あるいは電化区間でも直流と交流の境目(全国に十数カ所)でテツはわくわくとします。
 わざと回り道をする。一列車遅らせる。普段と違うルートを乗車してみる。新幹線で敢えてこだまに乗る。寝台特急で徹夜する。……こう列挙するとテツの行動は不可解です。でもその理由を知ると……やっぱり物好きだな、という感想です。でも、とっても楽しそう。たまになら真似をしても良いかな、と思わされます。おやおや、私もテツの世界に少し引き込まれつつあるのかしら。
 
26日(火)上の覚え
 上役の覚えがめでたい人間(仮に10の仕事力を持っているとします)が他人の助けを借りながら20の仕事をしたらチーム全体ではなくて覚えのめでたい人間だけが「よくやった」と評価されました。その上役の覚えがめでたくない人間が独力で30の仕事をしたら「なんだ、まだできるんじゃないか? きっと普段は力を出し惜しみしているんだ」「独力でやるとは協調性のない奴だ」と評価は下がり次回の仕事の目標は上がりました。
 無能な上司の下にいる有能な部下は、無能な教師の下にいる優秀な学生と同様、不幸です。
 
【ただいま読書中】
神様の墜落 ──〈そごうと興銀〉の失われた10年
江波戸哲夫著、新潮社、2003年、1500円(税別)
 
 1912年ブリ漁で裕福な村に生まれた水島廣雄は早稲田大学に進学、興銀に入ります。そこは帝大(特に東大)出がエリートとして幅をきかせる世界で居心地が悪かったのか、46歳でそごうに副社長として入社。百貨店業界では二流だったそごうで出店を次々成功させ50歳で社長に就任します。(そごう三店目となる東京有楽町店を出すときのイメージソングが「有楽町で会いましょう」(フランク永井)だったそうです) 当時は「百貨店は殿様、問屋は家来」だったのを「対等の関係」としたり、従業員を大事にしたり、新規出店はすべて独立法人としたり(そごう本体(大坂・神戸・有楽町)以外は決算報告を公開しない)、と、水島は斬新な手法を駆使して拡大政策を採り、1979年にそごうは10店舗となりこんどは20店舗をめざします。それまで鼻も引っかけなかった銀行も(特に長銀と興銀が)「借りてくれ借りてくれ」と貸し出し競争です。しかし……そごう内部は水島のイエスマンが実権を握り水島(あるいはそのお気に入り)ににらまれた人は冷や飯を食わされるようになっていました。これは水島が重視したのが「規模」と「立地(特に交通アクセス)」であって「コンセプト」や「人材」ではなかったからでしょう。さらにバブル景気がそごうの後押しをします。水島はそごうの世界展開を夢みます。しかし悪質な業者に引っかかり、たとえばバルセロナそごうでは一千億円、シドニーでは三百億円をぼったくられます。1990年に円・株・債権のトリプル安(バブル崩壊の始まり)、しかしバブル期に計画されたそごうの海外出店は、90年にインドネシア・バンコク、92年ロンドン、93年シンガポール・バルセロナ、94年クアラルンプール、と止まりません。銀行もやっと真剣になって財務調査をしようとしますが、各店の経理はばらばらでグループとしての数字も出せないいいかげんな状態でした。融資は止まり、水島は社長を退任します。ただし人事権を持った会長になっただけで、結局そごうの危機に関する実態は何も変化しませんでした。
 そごう内部での生ぬるい認識(景気が回復したらそごうはすぐに復活する)とは別に、世間は動いていました。98年にはメインバンク長銀が破綻します。もう一つのメインバンク興銀も一行ではそごうを支えきれません。水島個人の責任はすべての役職辞任で、そごうは債権放棄で再生する計画となりますが、そこに政府から一本の電話がかかってきます。新生銀行の債権放棄が「税金を私企業に投入するのか」という批判を招いたのです。結局三党から債権放棄案の撤回を要請され、そごうは民事再生法の適用を申請することになりました。いやあ、経済は難しい。政治が絡むともっと難しい。
 西武百貨店を建て直した和田繁明が請われてそごうの顧問(次期社長含み)に就任します。和田は、一兆五千億円の債務免除・13店舗の閉鎖・三千人の人員整理をおこない、そごうの再生に成功します。皮肉なのは、数年後に和田が去った西武が二次破綻を来たしそごうからの援助を得て生き残りの道を模索し始めたことです。
 そごうの破綻は、そごうの経営陣だけの責任ではなくて、企業ともたれ合っていた銀行の問題でもあります。しかし興銀は結局「責任者」は出しませんでした。興銀は今、第一勧銀・富士銀行と合併してみずほ銀行になっています。
 
 
27日(水)免許講習
 私は一応優良運転者なんだそうで、今回の免許更新も視力検査と30分の講習だけで済んでしまいました。
 しかし退屈な講習でした。「法律で決まっているからやってるんです」感が濃厚で、講習の目的や意義がこちらには1ミリグラムも伝わってきません。
 もし私がこの講習を交通安全に関して有意義なものにしようとするなら……前回免許更新してからのこの5年でどのような法律改正がおこなわれたかのポイントを10分間講義(今回だと、駐車違反について厳しくなったことと酒酔い運転に社会の目が厳しくなっていることと、二輪車の二人乗りの規制が緩和されたこと、でしょう)。それから仮免の学科試験のような感じで簡単な問題(運転標識の意味、交差点での優先順位など)を20題(これも10分間で)。これで8割取れた人は実技チェックとしてシミュレーターで5分間運転。学科で落第した人は再試験(今度は100題で9割以上が合格)。希望者には学科講習。三ヶ月以内に合格しなかったら免許は取り消し。
 今回の講習で聞かされた「中型自動車免許では自重何トンまでが運転できるか」なんてどーでも良いことよりも「免許を取るときに覚えた道路交通法の基本をちゃんと忘れずにいるか」の方がよほど普段の交通安全には重要なことのように思うのです。脇で見ていて「どう見てもこいつは法律や規則を忘れているぞ」という運転者を排除するためにせっかくの機会を生かしてもらいたいなあ。そうそう、もしこのシステムが動いたら、現在の老人差別はやる必要がなくなります。不適格な者は年齢に関係なく再教育のラインに乗せることができますから。
 
【ただいま読書中】
さいごの戦い』ナルニア国ものがたり7
C・S・ルイス著、瀬田貞二訳、岩波書店、1966年(85年20刷)、1400円
 
 第四巻『銀のいす』から七代後のチリアン王の時代、「アスラン」がナルニアに現れます。そばについている毛長サルによると「アスラン」はひどく怒っており、ナルニアの住人たちはナルニアから木材を切り出してカロールメンに売りさらに住人たち自身もカロールメンに身売りをしなければならない、と言うのです。チリアンはそれが詐欺であることを見抜きますがカロールメン軍に捕えられます。異変に気づいたナルニアゆかりの人々は魔法の指輪(第六巻『魔術師のおい』)でナルニアに行こうとしますが、何かの手違いでユースチスとジルだけがナルニアに出現し、チリアン王を救います。チリアンはナルニアの勢力を結集してカロールメン軍に対抗しようとしますが、城は奇襲を受けて占領され、ナルニアの生き物は虚言に虚言を重ねられて何を信じてよいかわからない状態です。そこにカロールメン国の神タシまでもがやってきて混乱に輪をかけます。今はこれまで、とカロールメン軍に切り込むチリアン王一行。そこに……
 いや、本物のアスランが登場するのは「お約束」ですが、それ以外にも意外な登場人物が続々と……
 
 最後の「戸口を続々と列をなして通って行く生き物の群れ」のシーンで私は手塚治虫のアニメ「展覧会の絵」の最後のシーン(キエフの大門)を思い出しました。「外側より広い内側」で「夢から覚めた」人々(と生き物たち)は、このあとどんな物語を紡いでいくのでしょうか。「ハッピーエンド」と言いますが、物語がエンドになっちゃうのは面白くありません。「いろいろあったけれど、さて、ここからですよ」と言われて引かれてしまうと、あとが気になって気になってしかたありません。嗚呼、続きが読みたいなあ。
 
 
28日(木)消えたハンドル
 私は現在、過去のmixi日記から読書日記部分を少しずつレビューに登録しています。この春から過去に遡りながらやっと昨年9月分まで入力できましたので、残りは八ヵ月半、200冊と少しでしょうから毎日一冊ずつ登録したら来年4月には終了です。先は遠い。
 その過程で過去の日記を読み返していると、コメント欄でハンドルネームが消えていることがあるのに気がつきました。発言だけは残っていて発言者が誰かわからない状態です。mixiから退会されたからこうなっているのでしょうが、mixiの会員がどんどん増える一方でやめていく人もいるんですね。「このコメントはたしか○○さんだった」とまだ覚えているものもありますが、mixi外のアドレスを知らないともう連絡の取りようがありません。なんとなく寂しい思いで古い日記を私は眺めています。
 
【ただいま読書中】
スウェーデン・スペシャル1 ──高福祉高負担政策の背景と現状
藤井威著、新評論、2002年、2500円(税別)
 
 本書は歴史から始まります。北欧の歴史……私はほとんど知りません。しかし、ある国の政策を論じるとき、その背景としてその国の歴史は知っておいた方がよい、という意見には賛成です。何かが存在するとき。そこにはほとんどの場合それが存在するに至った歴史があるはずなのですから、それを無視していろいろ論じても深いことは言えないはずです。過去を無視して現在を語るのは、現在を無視して未来を語ることと同等でしょうから。
 スウェーデンは、デンマーク・ノルウェー・ロシアなどともめていましたが、ナポレオン戦争で戦勝国側に入ったあと、中立政策を採り始めます。列強が覇権を求める帝国主義時代に背を向けて、軍隊は専守防衛、政策は当然国内重視です。第二次世界大戦でも国の舵取りは困難を極めましたが、戦後は無傷で残った工業施設を活かしてスウェーデンは好景気に沸きました。
 国民性も特徴があります。著者が大使として赴任したかの国で感じたのは「個人志向(独立独歩)」と「地域コミュニティへの強い帰属意識」です。それと、政府(政と官)への信頼感。著者は、政治手法がスウェーデン独特の「真に民主的な手法」であることが大きいと考えているようです。また、そうでなければ、たとえば付加価値税が25%というとんでもない税負担に国民が長期間堪えられないでしょう。
 
 意外な指摘もあります。「大きな政府」を目指している政治に対して、若者は保守的なのだそうです。「自分の金は自分で好きなように使いたい」「福祉なんて自分には縁が遠い話」と思う若者は、当然のように「小さな政府」を支持するのです。
 また、医療システムは硬直化しています。著者(と家族)の具体例も紹介されてますが、いくら素晴らしい医者や看護師がいても、この国では病気はしたくない、と思う感じです。欧州某国の「診察の結果、あなたは○○癌です。手術が必要ですが、手術の予約が取れるのは……2年後ですね。予約されますか?」を私は思い出しました。
 面白いのは、住宅手当が子どもの数に連動していること。「子どもが多い人には広い家が必要。そうでなければ不公平」という考え方によるのだそうですが、なるほど、合理的な判断です。
 
 結局「どのような負担でどのような福祉をするか」のシステム構築には、国民性・政府への信頼・経済状況(そのシステムにふさわしい産業構造になるよう政治が誘導できるか)、などの要素が絡みます。単純に「あの国のシステムは素晴らしい、早速採用しよう」というのは上手くいかないでしょう。
 
 で、日本(現在、私見では「低負担中福祉」)は「高負担高福祉」の道を選択できるでしょうか?
 ノーパンしゃぶしゃぶなどでの接待・グリーンピアなどの無駄遣い・公団や特殊法人への大盤振る舞い・官製談合・裏金作り・年度末の予算辻褄合わせの大量支出など、日本の公務員のお金に対する感覚は一般人のそれとはちょっと違って特殊ですから、手放しで「高負担」の部分を任せてよいのかどうかは疑問です。もちろん現在の福祉行政の現状を見たら「高福祉」の部分が可能かどうかも疑問を感じます。
 もちろん「高負担」に対する国民的拒絶反応もあるでしょうし……ということで、日本では高負担高福祉の道は選択されない(選択しても上手くいかない)だろう、というのが私の予想です。「コストパフォーマンス(コストに見合った見返りがあるかどうか)」に関する冷静な議論がおきそうもないのはちと情けないですが。
 
 先週の総選挙でスウェーデンでは野党が勝ったと報道されていました。さて、これでスウェーデン・スペシャルがどのように変貌していくのか、そしてそれがどのようなヒント
を日本が得ることができるのか、私はちょっと期待して見ていきたいと思っています。
 
 
29日(金)裏
 岐阜県の裏金問題、4000人以上の処分と報道されていました。すごい数に見えますが、口で軽く叱る程度のものも含めて数を増やしたんじゃないか、と私は意地悪く見ています。
 しかし「罰が正しく与えられたか」の検証は誰がやるんでしょう? 「どうせ誰も反論できない状況だから、この金の責任は普段から気にくわないあいつにつけておいてやろう」とどさくさ紛れに「操作」が行われたり、本来は罰せられるべき人間がコネやら何やらを使って上手く逃げ延びていたり、なんてことが「裏」で行われていない、という保証はあります?
 それと、罰の目的。再発予防に今回の処罰はどのくらい有効なものなのでしょうか。まさか「今度やるときにはもっと上手く隠すように」というメッセージは含まれていないでしょうね。
 
 ……異色作家短編集の読み過ぎかな?
 
【ただいま読書中】
ネット時代の商標と商号
窪田法律特許事務所著、エクスメディア、2006年、1480円(税別)
 
 別に何かを出願しようというわけではないのですが、普段身の回りに溢れている商標や商号がどんなものなのか知りたくなって本書を借りてきました。
 知っている人は知っているでしょうが、簡単に言えば「商標」は商品(サービス)の名称で「商号」は会社の名前です。それぞれ他と区別するためにユニークさが求められ、届け出をしていれば法律で保護されます。その法律は、商法・会社法・商標法・不正競争防止法……キャラクターの場合にはさらに、著作権法や意匠法も関係します。うわあ、ややこしい。届け出先は特許庁。オンラインでの申請も可能ですが、インターネット経由の他専用ISDN回線も使用できる……って、なんだかとっても懐かしい思いがしました。ニフティ時代に私は28.8kbps(キロボー)のモデムを使ってましたが(でも実際に使ったのは2.4k〜14.4kが多かった)、ISDNで68kbpsでつないでいる人がとってもうらやましかったのです。今でもこの回線は生きているんだ。
 先行商標や商号と似ていないかどうかは、三種類の類似性が審査されます。外観類似(みため)・称呼類似(発音)・観念類似(意義や観念)。このすべてがOKだったら新規登録が可能になります。しかし「称呼」って初めてお目にかかりました。「証拠」と称呼が類似しています。といって「呼称」にしたら「故障」や「胡椒」と類似するし……「呼び名類似」じゃだめなのかしら。
 
 特許電子図書館 http://www.ipdl.ncipi.go.jp/homepg.ipdl を本書のガイドに従ってのぞいてみましたが、面白いサイトです。本書で最後に紹介されているのは、トップページから「図形商標検索」に行ってそこでウィーン図形分類リストをのぞくことですが、私もここはお勧めします。いやあ、面白い図形が次から次へと。また、その分類名も笑えるものが多くあります。お暇でしたら皆さん、どうぞ。
 
 「先取」の原則(届け出は早い者勝ち)があると本書にはありますが、時には例外もあるようです。アメリカで「WWF」と言えば野生動物保護の団体ですが、実はそれより先にプロレス団体がWWFと名乗って全米(やヨーロッパ、最近では日本でも)興行をしていました。で、後発のWWFが「紛らわしい」と裁判を起こして「パンダとプロレスラーを混同するやつがいるか?」というプロレスWWFの主張は通らず敗訴、WWEと名前を変更することになりました。なまじっかプロレス団体の方もけっこう有名だったから「混同」が起きる、という判断だったようですが、法律や原則はともかくパンダの方がプロレスラーに優先する、ってのはなんだか無理が通って道理が引っ込んだ印象です。きっとアメリカではプロレスラーは保護の対象ではないのでしょう。
 
 
30日(土)レジ袋とシール
 お気に入りのパン屋に私は定期的に買いに行きますが、そこが最近「レジ袋持参だとポイントシールを一枚オマケ」というサービスを始めました。もちろん持参しますとも。「レジ袋はゴミ袋にも使えるから」と思っていたら結局余ってそのままゴミとして捨てることが多い、と家内に聞いて「もったいないお化け」が発動していたのです。この数ヶ月でたぶん20回近くレジ袋を持参してシールを余分にもらったはずです。ついうっかり持参し忘れて新しいレジ袋をもらってしまったときには「もったいない〜」と思いましたが、今使っているのがよれよれになったときの予備にします。(私は「ついうっかり」が多いのです。いつかは財布を忘れてパン屋に行ったことも……) しかしこのレジ袋、薄いのに丈夫ですね。何回使ってもなかなか擦り切れません。一回で燃やしちゃうのは、もったいないもったいない。シールがもらえて、ありがたやありがたや。
 
【ただいま読書中】
「レジ袋」の環境経済政策 ──ヨーロッパや韓国、日本のレジ袋削減の試み
舟木賢徳著、リサイクル文化社、2006年、2400円(税別)
 
 まだレジ袋がなかった頃の日本では、買い物かごをぶら下げた女性(割烹着姿)が店先にいる、のが日常風景でした。買い物は主婦の仕事であり、仕事持ちの人が仕事帰りに買い物、という生活パターンは念頭になかったわけです。1972年に四国の業者が現在のようなレジ袋を開発すると、レジ袋はそれまでの包装スタイル(たとえばクラフト紙袋(現在TVコマーシャルの中だけ(とごく少数のお洒落な店)で生き残っているもの)を一挙に駆逐します。著者の試算では日本で1年間に消費されるレジ袋は、Lサイズ換算で444億枚(国民一人が一日に一枚)だそうです。
 原料としてあるいは生産エネルギーとして原油が使われ、燃やせば大気汚染、埋めれば軽さの割にカサがあるので処分場を消費し、放置したらそのへんで目障りですし海に入ったらクラゲと間違えて鯨や亀が喉に詰めます。本書はそういったレジ袋の使用を削減するための試みとその効果、各国の取り組みについてまとめてあります。
 
 一番に思いつくのは「レジ袋の有料化」ですが、これは実例を見る限りそれほど有効な方法ではないようです。
 まず店が嫌がります。自分の所だけやったら「じゃあ無料のところに行く」と客が逃げる恐れがあります。地域でやったら境界線の店が不利です。さらに「すべての店が一律」は独占禁止法に違反です。有料化のやり方によっては、店のシステム変更が必要で下手すると莫大な金がかかります。
 客も嫌がります。今まで「無料」だったものにたとえ少額といえども金を払わなければならなくなるのですから。(実際には「無料」ではなくて商品のコストに忍び込ませてあるのですけれど)
 私としては、イギリスやフランスで行われているレジ袋のリユース/リサイクルが好みに合いました。少し厚めで丈夫なレジ袋を有料で販売します。それを何回も(何十回も)使用して擦り切れたら、こんどは新品と無料で交換。古いのは中古プラスチックとしてリサイクルに回す(新しいプラスチックと混ぜてまたレジ袋を作るのに使う)のです。これなら無理なく使えそうです。たたんで鞄やポケットに忍ばせておけば、仕事帰りの買い物でも使えます。ただ、インセンティブ(要するにごほうび)は欲しいですね。ポイントシール一枚でも良いですから。「環境」という錦の御旗をふりかざしレジ袋を「敵」として責め立てても、おそらく環境問題は簡単に解決しないと私は考えています。私にとっては、地球全体のことも重要ですが、目の前の袋にお金を払わなきゃいけないかどうかも重大な問題なんですから。さらに、新しい行動が自分の生活スタイルに無理なくマッチするかどうかも大切な問題です。
 
 そうそう、笑っちゃう事例が紹介されています。韓国でごみ収集が有料化されたら、「家の前を掃除する」美風が廃れてきたというのです。掃除してごみが集まったら自己負担で出さなければならないのが嫌われたらしい、というのですが……日本の美風も大丈夫かな?