2006年11月
 
1日(水)公私混同
 職場に「人間の好き嫌い」を大っぴらに持ち込む人は、つまりは個人の感情と職務とが分離できない点で「公私混同をしている」と言って良いでしょう。もちろん、仕事には人間関係に基づくものもあるし友人関係から思わぬ業務の拡大ができることもありますから一概に好き嫌いを否定はできませんが、ネガティブな方向に自分の感情を働かせて他人に影響を与えようとする態度は社会人としては望ましくないように感じます。自分が好きな人間の長所と業績を数え上げ、嫌いな人間の短所とミスのあら探しをし、それを公言して周囲に賛同を求める態度は、見苦しいことこの上ないものです。おっと、私も好き嫌いで動こうとしているのかな。気をつけなくっちゃ。
 
【ただいま読書中】
とびらをあけるメアリー・ポピンズ
P・L・トラヴァース著、林容吉 訳、岩波書店、2002年、756円(税込み)
 
 メアリー・ポピンズがまた帰ってきました。
 「物語の基本パターンは、『行って帰る』こと」と言ったのは誰でしたっけ? メアリー・ポピンズではそれが逆で「来て、行ってしまう」ことが基本構造です。もしかして、メアリー・ポピンズはかぐや姫? それも何回も「来ては行く」ことを繰り返すお姫様です。こんな読み方ができるとは、日本人で良かった……と言って良いのかな?
 
 話のパターンは大体出尽くしてしまったようですが、それでも著者は、美しく楽しくほろ苦い物語を次々紡ぎます。メアリー・ポピンズの不思議な知り合いたち。公園での不思議な出来事。夢の中の不思議な出来事と思ったら実は……(夢オチの逆)
 
 そうそう、宮崎駿は「空を飛ぶ」ことにずいぶんこだわって次々作品を発表しましたが、メアリー・ポピンズでもいろんなパターンで人が空を飛びます。それがまた楽しいものばかり。本書での、スティック・キャンディーにまたがっての乱舞なんて、私もそこに加わりたいと(大人になってからでも)思わせてくれます。でもメアリー・ポピンズは「はい、もうおしまいです」ってあっさり言っちゃうんだよなあ。
 
 どの話も広がりを持っています。たとえば海底のお話は、私は竜宮城を連想しながら楽しみましたが、イギリスの子どもたちはおそらくメアリー・ポピンズの各話をマザーグースやグリムやその他の物語を思い起こしながら読むのでしょうね。私はマザーグースを知らないので、明らかにマザーグース絡みの場面では口惜しい思いをするばかりでした。
 
 そうそう、前二作の読書日記で書き忘れていました。挿絵を描いたのはメアリー・シェパードですが(本書は戦争の関係でアメリカでまず出版されたため、間に合わなかった絵が一部だけ別の人のになっています)、この人の父親アーネスト・H・シェパードは『クマのプーさん』の挿絵を描いたことで知られているそうです。親子二代にわたってお世話になり、ありがとうございます。
 
 
3日(金)釣瓶落とし
 私が釣瓶を最後に見たのは何年(何十年)前のことでしょうか。そもそも井戸さえ最近見た覚えがありません。
 地球の公転軌道が楕円になっている関係で太陽が釣瓶落としになる理由は説明できるんだそうですが、説明できようができまいが、とにかく日暮れが早くなりました。そういえば以前関東に住んでいたときに、初冬になると16時半頃大学の4コマ目が終わって校舎から出たらもう真っ暗で「今日、太陽を見たっけ?」と感じたのを思い出しました。(その頃主に授業を受けていた階段教室には、窓がなかったのです) そのかわり(と言って良いのかな?)夏の日の出は早かったですねえ。朝5時前でもすでに明るかった記憶があります。東の人間にとってサマータイム導入がメリットがあることはよくわかります。あんなに早く明るくなったのを「無駄」にするのはもったいないでしょうからねえ。でも、一時間以上「時差」がある西日本の人間にはそれは別の話なんです。
 
【ただいま読書中】
悲しき熱帯 I
クロード・レヴィ=ストロース著、川田順造訳、中央公論新社(中公クラシックス)、2001年、1300円(税別)
 
 『はじめての構造主義』で『悲しき熱帯』について非常に熱心に語られているのが私にはとても印象的でした。「自分も読んでみたいな」と思わせる熱い語り口に乗せられてしまって買ってしまいましたが、買って良かったと思っています。
 
 1930年代にフランスからブラジルに向かった航海(100人以上乗れる船を数人の一等船客が独占できた贅沢なもの。上陸したらあまりの物価の安さに大金持ち気分)と1941年にヴィシーフランスからアメリカに亡命するための航海(船室が二つしかない船に300人以上が詰め込まれた。上陸したら一文無し)とが並行して述べられます。おそらく意図的に、対照的な、あまりに対照的な二つの航海の体験は混じり合うようにあるいは対比するように記述されます。
 最初の航海は、著者がブラジルで「エリートを育てる」かたわら週末にはインディオ部落でのフィールドワークを行うためのものでした。それに対して二つめの航海は、迫害されるユダヤ人としての航海です。構造主義では「西欧絶対優位」を否定しますが、それには著者の体験が重要な鍵なのかもしれない、と感じます。ブラジルで著者が知った「迫害された過去を持つ」「現在も迫害されている」インディオの姿と、「インディオを迫害する側(西洋文明に属する側)」に身を置きながら同時に迫害されたユダヤ人としての体験。この両方を知ることで著者は「移動する視点」を手に入れたのかもしれません。「文化相対主義」というととにかく無差別にものを見ればいいのか、とついつい思ってしまいますが、判断の主体はきちんと持った上で「それ」を意識的にずらすことができるかどうか、それが構造主義の感覚的に捉えるコツなのかも。
 著者の筆は、さらに「コロンブスが実際に感じたであろうこと」にまで及びます。海の上で著者は感覚を解放し、感じたものを克明に描写します。
 第1巻の半分までがこうして航海の話で占められます。さて、そこでいよいよインディオのフィールドワークか、と思うと、話はなぜかインドへ。著者はまず北アメリカとヨーロッパを対比します。北アメリカは歴史が無く資源が豊富で人口は比較的少ない/ヨーロッパは歴史が古く資源は少なく人口が多い。そして「貧しい熱帯」であるアマゾンと南アジアも対比的な対として捉えます。人口が少ないアマゾンと人口が稠密な南アジア。それらは、共通項がありあまりに大きな違いがあり、だからこそ「対」になるのです。
 
 本書では「構造主義」は明確に語られませんが、でもそのフレーバーはたっぷりかかっています。「パラダイム」を『科学革命の構造』で提唱したクーンがその前著『コペルニクス革命』でも、言葉ではなくて本の内容そのもので「パラダイム」を語っていたのと同じように。
 
 
5日(日)20000アクセス目
 昨夜東京出張からへろへろになって帰宅したので足あとをチェックし忘れていましたが、昨日のうちに20000アクセスを越えていたんですね。そのメールチェックも今日になってから、という有様で……
 
》記念すべき20000アクセス目の訪問者は
》キョンシー さんでした!
 
 おめでとうございます。私のマイミクの約8割は@nifty時代からのつき合いですが、少数派(mixiに参加してからの新しい知り合い)であるキョンシーさんが20000のキリ番をゲットされました。良いことがたくさん(20000くらい)ありますように。
 
【ただいま読書中】
にごりえ・たけくらべ
樋口一葉著、新潮社(新潮文庫)、1949年(2006年127刷)、362円(税別)
 
 樋口一葉は「五千円札の人」だけではなくて小説家です。しかし、その「実働」時間は短く、鳴かず飛ばずだったのが『大つごもり』で転機を迎えてから結核で死ぬまでの一年間程度です。しかしその短い一年に著者は傑作を連発しました(「奇跡の一年」と呼ばれます)。本書にはその一年(と少し)の作品が収録されています。
 
目次:
 『にごりえ』『十三夜』『たけくらべ』『大つごもり』『ゆく雲』『うつせみ』『われから』『わかれ道』
 
 タイトルだけ見ても雰囲気が伝わるでしょうか。
 一読まず驚くのは独特の文体でしょう。明治の作品ですから言葉が古いのは当たり前ですが……たとえば『にごりえ』の冒頭の段落は二ページと少しあるのですが、文末を除いてその間に句点(「。」)は一切ありません。読点だけで文章はずるずると段落の最後まで続けられます。会話はありますが「」はありません。会話はすべて地の文に溶け込んでいます。
 それでも、句読点さえなく文章が続けられる、たとえば源氏物語などよりは読みやすいのですが(会話の部分も必ず「誰」が発話したかは明示されますし)……最近の小説で下手すると一行ごとに改行が入って遠目にページを眺めると字よりも空白の方が多くてスカスカ、というのとは対照的です。
 
 お話には、みごとに「救い」も「癒し」もありません。『にごりえ』のお力は場末の酌婦で、落ちぶれていく恋人(妻子持ち)源七を思い切れず自ら望むように滅亡への坂道を転落していきます。『十三夜』では、一見恵まれた良家の奥様が身分の差と夫婦仲の冷たさに絶望しますが世間のしがらみによって思い直しそこで昔の恋人に出会い……でも何も「ドラマ」は出現しません。絶望は絶望のままなのです。『大つごもり』では、一見ハッピーエンドのような幕切れですが、しかしラストではことの露見が免れただけでお峯の貧乏は何一つ変わってはいないのです。そして『たけくらべ』。ここに登場する子どもたちに「未来」への展望はありません。あるのは閉塞した現在に続く閉塞した未来への諦念です。
 
 著者が意識していたかどうかは不明ですが、私の読み方では、当時の人々のの日常の一コマを切り取った作品群からは、当時の「時代」(たとえば「四民平等って何?」という「上」に差別される庶民の怨嗟の声)が読み取れます。小さな物語を読むことは小さな穴から覗くようなものですが、たとえ「覗き穴」が小さくても、こちらが穴に近づけばそこから広い世界が見えるようになるのです。少なくとも著者の作品にはそれだけの「広さ」があると思います。
 
 
6日(月)裁判
 「イラク人」とひとくくりにできる存在があるのかどうかは不明ですが(シーア派とスンニ派とクルド人、反フセインと親フセイン、で違いが大きすぎますから)、今回のフセイン元大統領への死刑判決をイラクの人々はどう捉えているのでしょう。元大統領個人への好悪と、判決そのものへの賛成反対と、アメリカの干渉に対する考え方と、が複雑に入り交じっているのではないか、と私は想像するのですが……
 東京裁判の時の日本人もやはり複雑な考えと感情を持っていたのでしょうか。なかなか実感を持って想像はできにくいのですが。
 
【ただいま読書中】
トムは真夜中の庭で』(原題 Tom's Midnight Garden)
フィリパ・ピアス著、高杉一郎訳、岩波書店(岩波少年文庫)、1975年(88年20刷)、600円(税別)
 
 何年かおきに定期的に読みたくなる本です。
 弟がハシカになったために「隔離」のために親戚の家に預けられて夏休みを過ごすことになったトム。そこは元は大邸宅だったのを改造してアパートにしてあるのですが、一階の大時計は気むずかし屋らしく、真夜中に13時を打つのです。そしてそのときトムは不思議な庭園を目撃します。真夜中だけアパートの裏に出現する庭園で、トムは誰にも気づかれずにさ迷います。トムに気づいた例外は、動物たちとハティという女の子とそれから…… 毎晩トムは庭園に出かけてハティと遊ぶようになります。トムは毎晩出かけていますが、ハティはトムが現れるのは数ヶ月に一回と言います。トムはハティ(と回りの庭園など)が幽霊だと思っていますが、ハティはトムこそが幽霊だと思っています。トムは百科事典などを調べることで、ハティが生きているのが19世紀であることを知ります。前世紀に生きた少女との邂逅。時間は跳び、止まり、時に大きくジャンプし、トムにとっての夏休みの終わりが近づきます。小さな女の子だったハティはその間に妙齢のご婦人になっています。
 そして……、「──トムは相手がまるで小さな女の子みたいに、両腕をおばあさんの背なかにまわして抱きしめていたのよ」というラスト。数年前に読んだときには私は庭師のアベルの心理の変容と19世紀の寒冷期(テムズ川が氷結した)の描写に心惹かれましたが、今回はこのラストが効きました。
 時間は様々なものを変えます。しかし、時間によって変わらないものもあるのです。
 
 
7日(火)東京出張
 一年にあるいは数年に一回上京するだけの田舎者ですが、毎回新しい印象があります。
 今回まず目についたのは、女子高生のスカートが短いこと。前も短いとは思っていましたが、なんだか限界への挑戦をやってません? といっても、私は眉をひそめたり国を憂えるほどの良識派ではないし、かといってよだれを垂らしながら視線で追跡するほどの年でもなくなっているので、「見た」「思った」「忘れた」のレベルですけど。
 そうそう、電車の優先席ですが、地下鉄やJRの車両に比較して都電の優先席がけっこうそれなりに機能しているのが印象的でした。必要そうな人が座っている率が都電の方が明らかに高いのです。利用する層の違いなのかな。
 Tully'sは煙草の煙でもうもうとしていました。これは堪りません。次回店内でコーヒーを飲むのなら別の店にします。
 
 東京のお土産は腰痛です。普段の運動不足が効いているのか、東京では歩く距離が長くなるためか、1月のぎっくり腰が再発したようです。これは困った。
 
【ただいま読書中】
オフィスのゴミは知っている
鈴木将夫 著、日本教文社、2003年、1143円(税別)
 
 定年退職をしたあと、著者は自分の人生をどう組み立てるかを考え、まず似顔絵作家になりました。シニア・ボランティアグループ「元気に百歳」クラブも立ち上げました。ついで就いたのが早朝ビルクリ(ビルの清掃作業)です。早起きできて体を使うのだから健康にも良いしお金ももらえる、という考えからだったそうです。朝六時から八時までせっせと清掃をし、そこで見聞したり考えたことが本書になっています。
 
 著者がやっていたのは、「ごみ回収」「バキューム(真空掃除機かけ)」「ゴミ下ろし」です。時間は限られています。オフィスのごみ箱の数は膨大です。そこで簡単な定式が成立します。どこのごみ箱にもごみがぎゅうぎゅう→回収と分別に時間がかかる→バキュームや拭き掃除の時間が削られる→オフィスはそれほどきれいにならない。空のごみ箱が多い(ごみ減量に努めている・従業員が自分でごみ箱を空けたり分別をしている)→ビルクリする人がバキュームや拭き掃除を念入りにできる→オフィスはぴかぴか・カーペットは長持ちする→会社として快適な環境となる・ビルの維持コストも削減できる。
 たかがゴミ捨てですが、実は結果として大きな差が出る可能性もあるお話です。もちろん「ゴミ捨てをちゃんとやったから会社が成長した」なんて単純な話ではなくて、多くの要因の一つではあるでしょうが、「一事が万事」とも言いますよね。
 
 著者は、「ゴミ捨て」は「ビルのメンテナンスの一部」と捉え、「誰か(自分以外)の仕事」と思うか「自分もその一員としてその作業に参加しているか」と思うか、の意識の問題とします。
 さらに著者は、「ビルのメンテナンス」を「(自分自身の)人生のメンテナンス」の文脈で捉えているように私には思えます。ビルのメンテナンスは実は巨大な産業ですが、無視されがちです。もしかしたら「重要だけれど無視されがち」な問題は、社会だけではなくて人生でも、あるいは個人の肉体レベルでも数多く隠れているのかもしれません。
 
 ごみの回収や分別から、当然のように著者の意識は「環境問題」にも向かいますが、「誰か自分以外の人がやれ」か「自分もちょっと努力しよう」かは、結局「環境」問題でも同じことになるのでしょう。
 そうそう、「(ビルの)衛生」は厚生労働省の管轄で「ゴミ」は環境省とみごとに管轄するお役所は別れていますが、「協力」はできているんでしょうか?
 
 
8日(水)使い捨て
 「政治家は使い捨て」と小泉さんが述べたそうですが、世襲の職業政治家がそれまでのキャリアを捨ててきた一年生議員にそんなことを言うとは、なんとも残酷です。まあ、刺客も鉄砲玉も使い捨てが前提ですから、政治家が使い捨てでもおかしくはないのでしょうけれど。
 そういえば「これは使える」という新人でも、最初の選挙は優遇する(たとえば比例区で最上位ランクに置く)けれど、次の選挙では比例区では五位とか七位とかに置いて「小選挙区でがんばらないと、あとがないよ」とするのが自民党のこれまでのやり口だと私は思っていますので、たしかにある種の政治家は使い捨てなんでしょうね。
 
【ただいま読書中】
酒が語る日本史
和歌森太郎 著、河出書房新社(河出文庫)、1987年、480円
 
 下戸なのに、こんな本を読んでいます。(ついでですが、「上戸」「下戸」ということばは平安時代にはすでにあったと本書では述べられています。由緒正しい言葉なんですね)
 本書はまずは『記紀』『万葉集』などから始まります。酒が日本人と共にあったこと、それも「神(祭事)」や「地域共同体」の場面で登場するもので、一人で飲むものでは本来無かった、と著者は述べます。とはいっても、山上憶良の「貧窮問答歌」に登場する、庶民が糟湯酒(酒糟を湯に溶いた飲み物)をちびちびすする状景も紹介されるのですが。
 平安時代、嵯峨天皇は「農人」の魚食と飲酒を禁じます。「御神酒」は上流階級のものであって、庶民はハレの日の楽しみなどもせずにひたすら労働して税を納めよ、という発想なのでしょうか。ところがその嵯峨天皇は、藤原冬嗣による酒と詩の宴を喜んでその場で冬嗣を正四位の下から従三位に進めています。おひおひ。
 神と人とが共に嘗める酒が、いつしか人と人が絆を確認するために飲むものになり、そして、飲むために飲む・乱れて飲むものになっていったのでした。
 鎌倉時代には「好色家」と呼ばれる飲み屋が登場します。「酒」と「色」のサービス業です。いやあ、そのものずばりの命名ですねえ。
 
 「酒の飲みくらべ」が盛んに行われたのは、平安時代は延喜・天暦の時期、江戸時代は文化・文政の時期でした。どちらもその時代の絶頂期のように見えて、実は時代のほころびが生じていた時期です(延喜・天暦だと平将門や藤原純友の乱があり貴族の没落が始まっていたし、文化・文政は武家の凋落が始まっていました)。もしかしたら、鯨飲馬食が平然と行われている現代も、絶頂期であり没落が始まっている時代なのかもしれません。
 「酒を無理強いする」ことも平安時代には始まっています。個人的には「なぜ無理強いしたいのか」の心理的な機序に興味はありますが、著者は「自分と相手との一体感を求める。それも、相手を自分の内に呑み込む形で得ようとする」からではないか、と述べています。かつて「神と人が共に飲んでいた」酒を、「自分が神」「相手が人」の形で共に飲もうとしている、ということなのでしょうか。
 
 酒の飲み過ぎで身を滅ぼす人もいますし、逆に酒を飲まない(全然飲まない、あるいは上手に飲まない)ために天皇や将軍の信任を得られず失敗した人もいます。現在酒を飲んでいる(あるいは飲まない)人は、その日々の行動で「日本史」に影響を与え続けているのかもしれません。
 
 
9日(木)ページ作り
 腰痛で寝込んでいるのも退屈なので、しこしことウェブページを作り始めています。
 東京でちょっとだけ会えたねずみさんに「せっかくたくさん読んで書いているのだから、読んだ本の検索がしやすいようにして」というリクエストをされて、その時はあまり本気ではなかったのですが、帰って暇にまかせてつらつら考えるに、ページは無料で持てるし、ベクターを見たらHTMLエディターのフリーソフトがあるし、手持ちの一太郎でもHTMLファイルは簡単な編集や出力ができるし……あら、あと必要なのはやる気だけだ、と気がついたのが運の尽き。mixi日記をブログに出す手もありますが、mixiと両立させる自信がないので、日記と書庫公開だけという愛想のない形でやってみることにしました。
 しかし、HTMLの知識なんかひとかけらもない人間でも、始めようと思ったら始められるものなんですね。デザインとかきれいなレイアウトなんか無視、画像は一切無し、ひたすら文字だけ並んでいる無骨なページですけれど。今やっている作業で一番面倒なのは、ハイパーリンク。約2年分でたぶん600冊は読んでいますが、それを全部アマゾンにリンクしてやろうと思いついてしまったのです。
 やってみたら「あら、私はこんな本を読んでいたのか、こんなことを考えていたのか」と意外な発見が相次ぎます。懐かしいのですが、一々読んでいたら大変です。いやあ、商売として「ホームページ作ります」が成立するわけがわかります。とりあえず昨日は3ヵ月分の本のタイトル一覧を作って雑誌と絶版以外のすべてのリンクを張ってみましたが、もう飽きました。完成がいつのことになるかはわかりませんから、過去一年分くらいのファイルができたのでとりあえずアップしてみます。
「おかだ 外郎 の【ただいま読書中】」
http://www.ccv.ne.jp/home/m.0kada/
 
 
10日(金)商売繁盛
 近所で評判の整骨院に行きました。少し腰が軽くなったので続けて通院するつもりです。説明もわかりやすかったし治療前の「ここをこうしたらこうなるはずだ」という説明通りに自分の体も少し変わりましたので「これなら信用できるかな」という判断です。
 しかしこういった商売は難しいでしょうね。治せなければもちろん商売はたち行きません。しかし、もしもすべての患者を一回であっさり完治させたら、評判は良くなるでしょうが、リピーターもいないことになってしまいます。これまた商売がうまく行きません。
 もしも私が神のように治療過程を完全にコントロールできるくらい腕がよい治療師だったら、「何パーセントを完治させ、何パーセントはしばらく通わなければならないくらいにほどほどに『治癒』させるか」で悩むことでしょう。あ、「神」だったら悩まなくても良いのか。
 
【ただいま読書中】
宇宙の戦士』ロバート・A・ハインライン著、矢野徹訳、早川書房(ハヤカワ文庫SF230)、1979年(2001年37刷)、840円(税別)
 
 この本が出版された頃、「ハインラインは暴力主義者だ」「ハインラインは実はガチガチの右翼だった」なんて評判が立った記憶があります。一読「そうかぁ? 面白いジャン」が私の感想でした。「子どもに鞭を惜しんではならない」「軍隊によって人は鍛えられ成長する」「社会のゴミは軍隊では通用しない」「暴力以外では有効な解決が無い場合がある、いや、暴力こそがもっとも多くのトラブルを解決してきた」「軍隊経験者だけに市民権(投票権)を」といった「主張」がてんこもりの本だから、上記のような話が出てきたのでしょうが……では『月は無慈悲な夜の女王』を読んだら「ハインラインはラディカルな自由主義者だ」「いや、コンピュータ絶対の機械主義者だ」、『愛に時間を』では「ハインラインはヒッピーの親玉だ」、という「人物評価」をしなくちゃいけなくなるのかなあ。(極論すると、古代ローマ(軍人には市民権が与えられました)を舞台にした作品を多く書いたサトクリフも「反平等・反民主主義者」になっちゃうのかな?)
 
 超光速航行が可能となり人類が多くの惑星に植民しているはるかな未来、人類は「クモ」と呼ばれる異星人と戦争状態になります。足(手?)は8本、蟻や蜂のように、多くの労働者クモ・兵隊クモと、女王クモ、そして少数の頭脳クモにクラス分けされた生物で、全体主義的な社会となっているらしく「個」という概念を欠いている様子で卵からいくらでも兵隊を生み出してはわらわらと人間を襲ってきます。(朝鮮戦争での中国軍のカリカチュア?)
 それに対して人類は、先進的な宇宙船やノバ爆弾などで対抗しますが、惑星占領などの地表戦は結局昔ながらの歩兵に頼らなければなりません。厳しい訓練(SASの訓練にそっくりです)によって肉体と精神を改造されていく兵士たち。そして彼らが纏う兵装は「強化防護服(パワード・スーツ)」。宇宙服と鎧を兼ねたような、人より一回り大きなロボットのような装備で、逆フィードバックによってその中の人間が思う通りの動きを行え、筋力を増強することで巨大なジャンプやゴリラとの格闘戦も行える(そして簡単に勝てる)、という設定です。このパワード・スーツが魅力的なアイテムです。「それさえ着れば簡単にスーパーマンになれる」わけですから。
 日本ではそれが発展して、一つはガンダムのような「モビル・スーツ」、もう一つは『アップルシード(1〜)』(士郎正宗)にでてくる「ランドメイト」が生まれたと私には見えます。自称平和主義者の私としては、こういった戦争目的ではなくて、たとえば介護目的や身障者のためのツールとしてパワード・スーツが実現してくれたら非常に嬉しいと思いますけど、さて、未来はどうなるのでしょう?
 
 
11日(土)残念無念
 戦前、交通死亡事故の場合、原則として遺族に慰謝料はありませんでした。「慰謝」は本人に対して行うべきことで他人に慰謝する必要はない、という考え方からだったそうです。で、本人が死亡した場合にはもう慰謝するべき対象が存在しませんから慰謝料も発生しない、という理屈です。ところが「残念」と言いながら死んだ人がいたことから話が変わっていきます。「残念」と言ったのは相手に対する慰謝の請求である、という裁判が起こされ、原告が勝ちました。それ以降、裁判所は、被害者が慰謝料の支払いを請求する意志を明示すれば、その請求権は相続される事としました。
 これも変なんですけどね。遺言が「残念」だったら慰謝料有り、「助けて」や無言だったら慰謝料無しです。ということで戦後は遺言があろうと無かろうと、不法行為の被害者には慰謝料有りと一律で定められて現在に至ってます。
 
 最近「いじめの遺書」が問題になってます。これ関連のニュースを聞くと、私は戦前の「残念」を思い出すのです。明らかな「問題」が目の前にあっても、死にゆく人間が「残念である」ときちんと大声で表明しなければ世間は無視する……これって、世間の問題ではありませんか?
 
 「語られなかった言葉」は「存在しないもの」ですから誰にも伝わりませんが、「語られなかった思い」も「存在しないもの」として良いのかなあ。「語られたもの」だけに注目していて良いのかなあ。
 
【ただいま読書中】
メランコリイの妙薬』(異色作家短編集15) レイ・ブラッドベリ著、早川書房、2006年、2000円(税別)
 
 私が知っている(イメージしている)ブラッドベリよりも、ちょっと苦くちょっと黒い作品が並んでいます。もちろんブラッドベリはブラッドベリなのですが。
 
「すばらしき白服」……貧乏なメキシコ系アメリカ人六人が、一人10ドルずつ出し合って60ドルのぱりっとした夏用の白い背広を買います。それをかわりばんこに着て何か良い思いをしよう、という目論見です。しかしその服は彼ら全員にとって思いもよらない意味をもたらすのです。私は「たんぽぽのお酒」の雰囲気を思い出しました。
「結婚改良家」……「賢者の贈り物」の変奏曲、ととらえることもできる作品ですが、さて、こちらの夫婦は「それから幸せに暮らしました」になれるのかな、と不安を感じます。
「かつら」……意中の人に自分の思いが通じないのは頭の傷痕のせいだと思っている男は、それを隠すためにかつらを買います。しかし、彼女が男に見ていたのは別の「穴」でした。文字で描写されない心理描写がちょっとコワイ作品です。
「贈り物」……手荷物重量オーバーでプレゼントをロケットに持ち込めなかった両親が、息子のためのクリスマスプレゼントにしたのは……極限まで切りつめられた言葉で描写されるこのイメージの壮大さには心をうたれます。
「四旬節の最初の夜」「月曜日の大椿事」……共通するのは「アイルランド」「運転」なのですが、この二つの単語で喚起されるイメージは、(私にとっては)「とまどい」でした。同時に、著者にとっての「アイルランド人」は実は「火星人」「地球人」とほぼ同様の意味(差異)を持っているだけなのかもしれない、とも感じています。
「穏やかな一日」「たそがれの浜辺」……共通するのは「浜辺で出会った(非日常的な)もの」でしょう。しかし、前者の夫婦・後者の若者二人の人生(日常)が作品全体を通して鳴り響き続けていることを見逃してはいけません。非日常はやってきて去っていきますが、人生はそれまで続いており、それからも続くのですから。
 
 解説の菊池秀行さんが書いているとおり、ブラッドベリは「イメージの作家」です。そうだなあ、彼の短編集は美術館にたとえることができるでしょう。並んでいる絵一枚一枚が一編の短編です。読者はその前に佇み絵を覗き込み、そしてある瞬間そのイメージが大きく変容してまたさっと元に戻るのを目撃するのです。「今見た変化は、本当にあったのだろうか」と呟きながら読者は次の絵(短編)の前に移ります。絵は前と同じように静かに壁に掛かっています。
 
 
12日(日)逆ハン
 車やバイクでコーナーを曲がるときに使うテクニックの一つに、行きたいのとは逆の方向にハンドルを切る(たとえば左に曲がっている最中に前輪が右を向いている)ことがあります。これを逆ハン(あるいは「カウンターステア」「カウンターをあてる」)と言います。普通の運転ではあまり縁がないでしょうが、ラリーではおそらく必須のテクニックでしょう。
 学生時代、早春に福島県の山中のユースホステルをバイクで出発したら、道が凍っていて「ひえー、ひえー」と言いながら山を下ったことがあります。前輪も後輪も勝手につるつるずるずる滑ってくれるので転ばないようにするだけで必死でした。そこへ、山の下から勢いよく上がってきた軽自動車が、後輪を滑らせて逆ハンをぴたりときれいに決めて実にみごとに登りのコーナーをクリアして私とすれ違っていきました。いやあ、ほれぼれする運転でした。運転していたのはごく普通の中年女性でしたが、地元でこういった道に慣れているにしても鮮やかなものでした。
 私にはあまり関係ないものだと思っていましたが、バイクで高速コーナーを回っていて自分が逆ハンを当てていることに気がつきました。そのときは右コーナーだったのですが、右手がちょっと押し気味(つまりは左手がやや引き気味=前輪は少し左を向いている状態)だったのです。理屈はわかります。コーナー侵入時にハンドルを少し左に向けたらバイクは左に曲がろうとして車体は遠心力で右に倒れます。そこにアクセルコントロールを加えることで車体を安定させて傾きを利用しながら右コーナーをクリアしているのでしょう。もちろんすべてのコーナーでやっているわけではありません。ちょっと意識して自分の運転を見つめてみると、コーナーの曲率・速度・路面状態などで微妙な調整が行われているようです。
 運転に限らず、ふだん無意識にやっていることで、自分がその意味に気がついていないことって、まだまだたくさんありそうです。世界は自分がその存在にさえ気がついていない謎に満ちています。
 
【ただいま読書中】
はじめての歯車』渡辺忠 著、技術評論社、2006年、1980円(税別)
 
 初級・中級技術者向けの「歯車入門書」です。
 まずは歯車の種類ですが……円筒歯車・平歯車・はすば歯車(右ねじれと左ねじれ)・斜交かさ歯車・冠歯車・すぐばかさ歯車・はずばかさ歯車……さらに、内歯と外歯、ラック、ねじ歯車、ウォームとウォームギア、フェース・ギア、ハイボイド・ギア、スピロイド・ギア、オフセット……「うわあ、勘弁してくれ」と言いたくなります。
 歯の形も一筋縄ではいきません。二つの歯車は、かみ合って、力を伝達して、離れなければなりません。しかも、そのすべての過程をスムーズに行わなければならないのです。(がっちりかみ合って動かないのは論外ですが、あそびが大きすぎて振動が起きたり騒音が出てもいけません) したがって、歯車の歯とみぞには厳しい設計と測定が行われます。ノギスやマイクロメーターが用いられるそうですが、中学や高校の技術の時間に使った経験はありますが(マイクロメーターは大学の実習でも使いましたっけ)、さて、手が覚えているかしら。
 歯車の「強さ」に関しては、曲げと摩耗との両方を考慮する必要があります。そのための式と表も掲載されていますが……どうしたのでしょう、私の脳は理解を拒否してくれます。脳の歯車がどれか壊れたのかな?(人間の体は分子レベルで精密に組み立てられた時計のようなものだ、と述べたのは、デカルトでしたっけ?)
 メンテナンスは、オーバーホール(1500時間ごとだそうです)とオイルの補給。破損して交換部品がない場合には応急修理。
 
 そういえば「『社会の歯車でしかない』ということばは歯車(の重要性)を馬鹿にしている」といつかの日記に書きましたね。たしかに歯車一つを取ってみても、きちんと注目するとものすごく大変です。
 
 
14日(火)孤独
 社会の中で感じる孤独感は、自分の回りに理解者が欠如していることかまたはコミュニケーションの断絶を意味していることが多いでしょう。ただ、その場合でも「自分が存在していること」は確固たる「事実」のはずです。しかしもっと深い孤独は、自分自身が存在していることにさえ確信が持てなくなってしまった状態ではないでしょうか。
 
【ただいま読書中】
嘲笑う男』(異色作家短編集16) レイ・ラッセル、永井淳訳、早川書房、2006年、2000円(税別)
 
 私がこの本に初めてであったのは……おそらく35年くらい前、県立図書館の薄暗い閲覧室だったはずです。「サルドニクス」「役者」……覚えてます覚えています。そして「モンタージュ」。よく覚えています。覚えているのですが、読んでいて初めての時のようにわくわくします。当時の薄暗さが染みついたような図書館室内の匂いまで思い出せそうです。
 
「サルドニクス」……有名な医者ロバート卿は、かつて憧れた令嬢が結婚した相手が、顔の筋肉がかちかちに硬直して常に歯をむき出しにしている男サルドニクスであることを知ります。サルドニクスはロバートに自分の顔の治療を依頼、いや、強要します。その強要のネタとそれに対するロバートの対抗策、そして急ぎすぎた結末。
 グール(屍食鬼)を狂言回しに使ったゴシックホラーの体裁の作品ですが、実は一番コワイのは何かというと……欲望・孤独・「普通の人」の心・科学・女……人によって様々なものが上がりそうです。で、何をあげるかでその人の心の深層があぶり出されてくるというコワイ作品でもあります。
「アルゴ三世の不幸」……こちらは一転、SFです。たぶんSFだろうと思います。舞台は木星のかげのアステロイド・ゼロですが……でも、出てくるのが魔法使いと○○○では、SFをはやっぱり言いにくいかなあ。
「モンタージュ」……モンタージュという手法のあざとさ、ソ連という「システム」の危うさに高校時代の私は強い感銘を受けましたが、すれっからしになってしまった今の私は、むしろ人の心の奥の残酷さを暴き出す著者の筆致に……まさに、本作の最終行「ぐうの音も出ない」状態にされてしまいました。
「永遠の契約」……ライバルをけ落とし権力者に取り入り、大きな声では言えないいろいろな手を使ってスターダムの階段を駆け上っていく女優リリス・ケイン。彼女が出会う“決定的”な場面には常に代理人の姿がちらつきます。そして最後に彼女が果たすべき契約は……
「役者」「遺言」……古典の教養は必要ですね。たとえ「異色作家短編集」を読むためだとしても。
 
 「バベル」には「『何人も孤島にあらざるや』と書いた地球のある作家」という記述がありますが、これはジョン・ダンではありませんでしたっけ? そして「永遠の契約」には女優の代理人として「ジョー・ダン」が登場します。あれれ? もしかしたら著者は、ジョン・ダンのファン?(ただのダジャレです)
 
 「バベル」ということばを21世紀に作品化したら、たとえばテッド・チャンの「バビロンの塔」(『あなたの人生の物語』収載)になりますが、レイ・ラッセルはなんともふにゃふにゃしたショートショートにしてしまいます。でも、そのふにゃふにゃ感がたまりません。まさに1950年〜60年代のにおいがぷんぷんする短編集です。
 
 
15日(水)言葉の「誤解」
 「一揆」と言えば「(江戸時代の)百姓一揆」と私はつい思ってしまいますが、それは「誤解」で、もともとは「心と行動を一つにした政治的共同体」を示す言葉だったんだそうです。つまり「暴動」「反乱」と「翻訳」するよりは「共同体による地方自治」と解釈した方が実態に近いわけ。
 そういった国人の「一揆」を潰して大名の元に一本化する過程が戦国時代で、その作業が完成したのが織豊〜江戸時代(だから一揆は「悪者」にされた)というわけです。
 
 そうそう、「悪者」と言えば、たとえば「悪」という文字。「悪い」というネガティブな意味で現在は捉えられますが、かつては「強い」というポジティブな意味がありました。たとえば源義平が「鎌倉悪源太義平」と讃えられていたのを私は思い出します。
 
 昔は昔今は今、と言われたらそれまでなんですけれど。
 
【ただいま読書中】
黒田悪党たちの中世史』新井孝重著、日本放送出版協会、2005年、1120円(税別)
 
 伊賀の国には平安時代から奈良東大寺の荘園が散在していました。本書の舞台になる黒田庄もその一つです。
 10世紀には東大寺は荒廃していました。11世紀になり大々的な再建が行われますが、それは、藤原氏の氏寺である興福寺との間で「伊賀の国の資源(人と木材)の奪い合い」の様相を呈します。その結果は「剥山(はげやま)」の出現→洪水、でした。耕地は荒れ果てますが、荒れ地の再開発によって公領は寺領となっていきます。古代寺院が中世寺院に脱皮するためには、宗教・政治とともに経済力が必要ですが、その一つの形が黒田荘の歴史に見てとれます。
 
 末法思想および平安末期の戦乱・飢饉から浄土教が庶民の間に広がり、人々に思想的なまとまりを作ります。また、この時代には名(みょう)(帳簿上の課税単位でその代表が名主(みょうしゅ))から郷(実際の集落)に課税対象が移行します。それによって住民に「同郷意識」が生まれました。地域共同体としての「村(と村人)」の誕生です。
 やがて武装集団「悪党」が生まれます。江戸時代の無宿人とは違って、悪党は村落の「外」に根拠を構えました。だから鎌倉・室町幕府の弾圧にも耐えて奔放な軍事および経済活動を継続できたのでしょう。
 さらに、寺の中にも「悪党」は発生します。悪僧です。弘長二年(1262)醍醐寺の定済法務(のちの東大寺別当)は対立する衆徒に対して数百の悪党(主力は僧籍を剥奪された凶類の徒)をもって襲撃しようとしました。それに房人と呼ばれる在俗の兵が加わります。ために都は大騒ぎになったそうです。そして、黒田の荘園を管理していた武士も、時代が変わって東大寺が直接支配をしようとすることに抵抗してまた悪党化していきました。悪党に対して危機感を強めた鎌倉幕府の追討に対して、悪党たちは武力であるいは賄賂でしぶとく抵抗しました。(南朝があそこまで北朝に抵抗できたのも、悪党の力が大きかったようです)
 こうして、かつては「兵(つわもの)」の誇りであった「悪」はポジティブなイメージからネガティブなイメージへと転換していきました。
 
 南北朝の動乱により、伊賀の国は寺・幕府・守護の誰もきちんと支配できない権力の空白地帯になります。戦乱で日本各地には国人領主が誕生しますが、伊賀では東大寺を形式的な「公」としてかつぐ、惣国と呼ばれる一揆体制(地域共同体自治体制)をとっていました。縦の人間関係を軸とする封建体制とは対照的な、横の人間関係を軸とする体制です。それは天正九年(1581)織田信長による伊賀侵攻(天正伊賀の乱)まで続きました。
 
 中世の荘園から生まれた村が、けっこう(近代的な意味ではないにしても)「民主的」なものだったというのは実に面白いものです。
 
 ところで「悪」「一揆」ということばについては、注意が必要です。これは日記の部分にちょこっと書きましたが、詳しくはウィキペディアなどをご参照ください。
 
 
15日(2)津波警報
 0.5〜1mの津波、と言われたら「たぶん大丈夫(大被害は出ない)だろう」とは思いますが、それでも何もないことを祈ります。
 TV画面を見ていると警報が出ている海岸が塗りつぶされていますが、ちゃんと北方四島も入っているんですね。情報はちゃんと伝わっているのかな?
 
 
16日(木)島のシンクロニティ(?)
 一昨日の読書日記(『嘲笑う男』レイ・ラッセル)で
 
》「バベル」には「『何人も孤島にあらざるや』と書いた地球のある作家」という記述がありますが、これはジョン・ダンではありませんでしたっけ?
 
と書きましたが、今日の『海からの贈物』の「つめた貝」の章に
 
》「人間は島ではない」とジョン・ダンは言ったが
 
とありました。うわあ、私は2日先の未来を覗いていたのでしょうか?
 
 こちらの著者アン・モロウ・リンドバーグは「私は我々人間が皆島であって、ただそれが同じ一つの海の中にあるのだと思う」としています。私が好きなサイモンとガーファンクルの歌「I am a rock」には「I am a rock, I am an island」という悲しく印象的なレフレインが登場します(果てしない絶望とそれでもどうしても捨てきれない希望に関する歌です。ラストの「And a rock feels no pain. And an island never cries.」(高校の時に覚えたまま書いてますので、微妙に違うかも)の部分では、今自分で書いていても涙がにじみそうになります)。
 そうだなあ、私も人は島にたとえることができると思います。ただし、それが絶海の孤島であったとしても、水平線の向こうに別の島が存在していることを知っている島です。「泣くものか」と言いつつ涙ぐむ島です。
 
【ただいま読書中】
海からの贈物』GIFT FROM THE SEA アン・モロウ・リンドバーグ著、吉田健一訳、新潮社(新潮文庫)、1967年(2004年75刷)、400円(税別)
 
 “あのリンドバーグ”の夫人の著作です。しかしここでは“リンドバーグ”という名前には大きな意味はありません。一人の女性が、一人の人間が小さな島の海辺で一人で過ごして考えたことが、こちらの心にしみてくる言葉でまるで繰り返し打ち寄せる波のようなリズムで綴られています。
 浜辺で見つけた小さな「ほら貝」。かつて生きた貝が作り、後にヤドカリが住み、そして今は浜辺に捨てられた貝殻を見つめて、著者は「簡素な生活」について思索します。あるいは「つめた貝」。女は回りに与え続けることを求められているが、ではその女はどうすれば満たされるのか。つめた貝は著者に語ります。「一人だけの時間を持ちなさい」と。赤ん坊に母乳を与えるには栄養補給が必要なように、回りに与え続けるためには一人だけの時間を持って自分自身を充足させる必要があるのです。さらに「一人になりたいから」と社交を断る人を、変わっているとかわがままであると評するこの(アメリカ)文明についても著者の思考は広がります。
 面白いのは、著者が教会を「女が『自分』になれる場所」としている点です。たしかに教会では、奥様とかお母さんとかの役割を女は求められません。ただ一人の人間として神に対することだけを求められるわけで、そこで女は祈り捧げ受け入れられ、それを通じて更生した、と言うのです。一歩間違えたら「この不信心者め」と怒られそうな意見ですが、私にはたしかに教会にはそのような社会的役割もあったのではないか、と思えます。しかし、ここまで冷静に自分自身と社会を見通す視線はちょっとコワイですね。
 著者が次に手に取るのは、薄く壊れやすい二枚貝「日の出貝」です。著者がここで見るのは人間関係です。永遠の愛を誓ったとしても変わっていく夫婦。常春を望んでも必ず夏になり秋になる人間関係。その変容を受け入れ、でも原点を忘れないようにすること、その大切さを著者は説きます。「永遠で固定的な関係は排他的」と著者は言います。私は驚きますが、その意見を受け入れます。たとえば「100%の愛で結ばれたカップル」がいたとします。もしその人たちが「ずっとそのまま」を望んだら彼らは他の人(他の家族や子ども)を愛せません。どちらかが誰かに気持ちを少しでも向けた瞬間に彼らの間の愛は「100%」では無くなってしまうのですから。著者はそこで「牡蛎」を持ち出します。生きることにしたがって少しずつ己の姿を変えていった貝殻を。そしてその次には「たこぶね」を。
 
 著者が自らの机上に乗せるのは、(ごく少数の)貝殻です。貝殻を通して著者は自分自身を見つめ、自分を通して女性一般を見つめ、さらには人間と社会と文明を見通します。貝殻一つで著者の考えは地に足をつけたしっかりした思索になります。ここに机上の空論は存在しません。
 書かれたのは前世紀の半ばですが、本書はちっとも古くありません。今でもそれは海から、そして著者から読者への贈物です。そういえばもうすぐ家内の誕生日。私はこの本を贈りましょう。
 
 
17日(金)戦争
 パリ不戦条約(1928年)にはこうあります。
 「締約國ハ國際紛争解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳肅ニ宣言ス」
 
 なんだか日本国憲法第九条第一項の「親御さん」みたい。で、日本が戦争をするためには、日本国憲法の前文と第九条をカイセイするだけではなくて、このパリ不戦条約も何とかしなくちゃいけません。締約国ですから。
 前やったみたいに「これは戦争ではない。事変である」と主張する手もありますが、それこそ「後世の歴史家」に何と言われるかも考えておかないとね。あ、でも、20世紀後半でちゃんと宣戦布告があった「戦争」って、どのくらいありましたっけ?
 
【ただいま読書中】
殺さない兵器』NON-LETHAL WEAPONS 江畑謙介著、光文社、1995年、1456円(税別)
 
 ベトナム戦争ですでに戦争は「TVで見るもの」になってはいましたが、当時はフィルムカメラで撮られ空輸され編集されてから放映されるものでした。ところが湾岸戦争ではヴィデオカメラでリアルタイムで放映されるようになります。1992年のソマリアへの米海兵隊の上陸作戦は、先にソマリアに入っていた報道陣が海岸で待ちかまえて撮影するという有様でした(海兵隊に対する攻撃がなかったのは本当に幸いだった、と著者は述べます)。カメラの前であまり残虐シーンを繰り広げると政権の人気にかかわります。さらに「新兵器」開発をしたい産業側の都合、「応用」が効くこと(暴動鎮圧や無関係な者が混じった状況でのテロリスト対策など)もあり、非殺傷兵器(他にもいろんな呼び方があるそうです)の開発が盛んになりました。
 非殺傷兵器の代表は、スタン・グレネードでしょう。大音響と閃光でテロリスト(と人質)の視力と聴力を一時的に奪う手榴弾です。ただ、私のような一般人まで知っているほど有名になってしまうと、たとえばハイジャック犯は耳栓とサングラスで“武装”するでしょう。対抗手段を採られないためには武器には秘密のベールをかけておいた方が得策と言うことになります。
 本書では様々な兵器が紹介されます。
 たとえば、レーザー。「殺人光線」ではなくて、目に照射して視力を奪います。一見非殺傷的ですが、視力に永久的な障害を与えたり、パイロットに対して使用した場合には墜落して命を奪う恐れはあります。殺傷か非殺傷かの「線引き」はなかなか困難です。
 1962年に南太平洋高度400キロで1.4メガトンの水爆が爆発させられました。1300キロ離れたハワイオアフ島では大停電が起き、人工衛星の太陽電池が破壊されました。核爆発による電磁パルス(NEMP)による現象です。核によらないEMPで指向性を高める研究が行われているそうですが、もしこれが現在身近で使われたら、私たちの社会は電力供給やデータ通信網が破壊されてあっさりダウンしてしまうでしょう。
 マイクロウェーブで内部に水を含んだコンクリートや人体を破壊する研究もあります。電子レンジでチンするのと同じですね。さらに、無力化ガス、粘着剤(ゴキブリやネズミ捕りの人間版)、滑剤(たとえば道路や滑走路をツルツルにする)、金属劣化剤や腐食剤、生物兵器(プラスチックやゴム、金属や燃料を食べる細菌)、コンピュータに対するハッキングやコンピュータウイルス……いろんな「兵器」が考えられるものです。冒頭の「マシュマロでも人は殺せる」ということばを思い出します。(そうそう、たしか『死霊狩り』(平井和正)では「新聞紙一枚でも人は殺せる」と言っていましたっけ。もっとも、言ったのが小指一本でも人を殺せる人間だったからそのまんま信じるわけにはいきませんけれど)
 著者はこういった非殺傷兵器開発“ブーム”に対しては批判的なようです。暴力を行使する側のオプションが増えるのなら意味はあるでしょうが、下手すると「殺さない」ことが武力行使の選択を容易にしてしまう(我慢せずにすぐに武力を行使してしまう)恐れを指摘します。さらに、「武器を使用する目的(ゴール、大きな戦略)」が明確でないと勝てません。勝利は、武器の威力やバラエティやオプションの豊富さから自動的に得られるものではないからです。さらに、非殺傷兵器の効果判定の難しさや環境への影響についても著者は述べています。
 
 「非殺傷」と言われると、一瞬「良いもの」と思ってしまいそうになりますが、「きれいな水爆」と同様、言葉だけを見て判断しない方がよい、と著者に諭されたような気がしてきました。
 
 
18日(土)遷都
 五行では世界は五つに分類されます。木火土金水です。この並びは相生説(木が燃えて火になる、火が消えて土(灰)になる……と次々後ろのものを生み出す)ですが、もう一つ、土木金火水の相克(相勝)説(土をつき破って木が生える、木を金(斧)が切る……と次々後ろのものが前のものに勝つ)があります。
 中国では、王朝が交代するとそれを五行で説明しようとする人々がいました。○○王朝は木だからその次は火だ、と。結局それは権力の移行を理論化・正当化する試みだったのでしょう。
 
 で、ここからは私の夢想です。五行は方角にも配当されます。木(東)、火(南)、土(中央)、金(西)、水(北)です。で、日本の「都の位置(の移動)」を五行で説明できないか、と思いついたのです。
 とりあえず新しいところで、京都から東京への移動は、中央→東、と見えます。それだと土→木なので相克説です。しかし、これを西→中央だとすると、金→土で……あら、相生説の逆行になってしまいます。やはり相克説を採りましょう。まてよ、実際の権力の位置を考えると、安土が水(北)・大坂が土(中央)とすると、その次が江戸だから木(東)できれいに並びますね。
 すると東京の「次」は、金ですから西日本になるのが妥当です。さあ「西京」誘致目指して西日本の権力者の皆さん、頑張りましょう。
 福原・大津・奈良・難波をどうするか、は、一切考えておりません。「飛鳥」とひとくくりに言っても、その中でも細かい移動はありましたよね。さらに「倭(日本)」の大きさと形をどう考えるかによっても方位は変動するから(「日本の国境」が北に移動するにつれて、都の「位置」は南および西にずれていくことになるはずです)、都の(絶対的および相対的な)位置を決定するのはさらに難しそうです。
 
 中国くらい大きくてあるていどまとまった形の「国」でないと、五行を運用するのはやはり困難なのかな。
 
【ただいま読書中】
中国傑物伝』 陳舜臣 著、中央公論社、1991年、1311円(税別)
 
 著者が中国史から選んだ「傑物」16人が登場します。
 臥薪嘗胆ということばがありますが、臥薪は呉王夫差/嘗胆は越王句践で、句践のブレーンだった范蠡(はんれい)がトップバッターです。范蠡は句践を良く助けついに復讐を果たさせます。しかし、そこでさっと実業家に転身、そちらでも成功しています。その転身の理由は……
 次は子貢。孔子の弟子で弁舌さわやかな金儲けの名人でした。紀元前五世紀、大国斉が小国魯を討とうとしたとき、子貢は呉(王は夫差)や越(王は句践)を巻き込み、魯を保全し斉を弱め越王を覇者とする道を開きます。
 「奇貨居く可し(きかおくべし)」の呂不韋は、趙に人質として送られてきた秦の王孫子楚を投機の対象として「買い」ます。その行動は大正解で、子楚の長男政はのちの始皇帝となるのです。呂不韋は丞相から相国に昇格し得意の絶頂となります。かかえた食客は三千人、その見聞を集めて『呂氏春秋』を編みます。しかしあっさりと始皇帝によって呂氏は殺されてしまいます。殺された理由として著者があげるのは……
 始皇帝暗殺を企てて失敗した張良は劉邦と出会います。項羽を破ったあと、張良はいわば隠者として漢王朝を支えます。「成功」したあとも重用された理由は……
 病已(へいい……病が已むように、という意味の人名です)は、漢の武帝の皇太子の孫でした。しかし皇太子が武帝に殺されたため赤ん坊の病已は獄につながれます。皇太子の無実が証明されて釈放されますがそのまま民間で育てられました。ところが複雑なパワーゲームのおかげで18歳で帝位に就きます。漢の宣帝です。「民間人」が帝位に就くのは劉邦以来ですね。庶民の実情を知る皇帝は善政を敷きます。ただし晩年はちょっと……
 ここでやっと時代はBCからADに入ります。
 しかし陳舜臣さんの「傑物」の選択は渋いなあ、と思います。歴史の焦点のど真ん中ではなくて、そこからほんの少し外れたところから面白い人物を拾い出しているように私には見えるのです。中国史はすごい人物の宝庫ですからたとえアトランダムに指さしても高率に「面白い人物」に当たるような気もしますが、そこで陳舜臣さんの「選択」が働くとこんなに粒ぞろいの短編集ができあがります。そうそう、最終話の「黄興」は20世紀のお話です。さて、そこで取りあげられているエピソードは……それは本書を読んでのお楽しみ。
 
 
19日(日)丸善
 高校時代「丸善に行く」ことは私にとってはちょっと特別なことでした。ろくに読みもしないのに専門書や洋書のコーナーをうろついて少しリッチな気分を味わっていました。高給文房具やバーバリなどの洋品は貧乏学生には縁がなかったので最初から無視していましたっけ。年末には洒落たカレンダーやポスターが階段の壁面にずらりと並べられ、「いつかここに並べられているものを、どしどし買ってやる」なんて思いながら私が唯一買えるペーパーバックのコーナーに向かいました。書棚の上の表示には「1ドルが400円換算」とか書いてありましたっけ。(記憶は確かではないので、400円ではなくて450円くらいだったかもしれません)
 「支店でこれなのだから本店はどんなのだろう。いつかは東京の丸善に行きたいなあ」と思っていたら、高校三年の時に上京するチャンスがあって、東京駅八重洲口から地下道を日本橋目指して勇躍歩きました。地上に出てきょろきょろしたらすぐに「丸善」が見つかって……でもそこで私の記憶は途絶えています。本を買うことに関しては、新宿の紀伊国屋やそのころ開店した八重洲ブックセンターでうろうろ迷いながら本を物色した思い出の方が私にとっては大きなものになっています。結局丸善には「行く」ことだけが目的だったわけなのでしょう。
 結局私の街の丸善は2002年に閉店してしまいました。現在はまったく別の店になってますが、今でもその前を通ると高校の時の高揚感がほんの少し蘇ってきます。「〜に行く」と特別な意味を持って言える店を持っているかどうか(あるいはその思い出を持っているかどうか)は、けっこう人にとって大切なことなのかもしれません。
 
【ただいま読書中】
檸檬』梶井基次郎 著、新潮社(新潮文庫)、1967年(2006年68刷)、400円(税別)
 
 「丸善に檸檬を置く」で有名な表題作ですが、恥ずかしながら未読でした。読んで驚きました。ここに描写されている著者が丸善に感じる高揚感、これは高校時代に私が丸善に対して感じていたものに似ているのです(私のはさすがにここまで濃密ではありませんでしたが)。檸檬の匂いを嗅ぐことで、まるで熱病に浮かされたように丸善に突入して本を物色する著者。そして最後に、憑きものを落とすように檸檬をぽんと置いて出ていく。著者が檸檬に仮託したのは自身の一体何だったのでしょう?
 「桜の木の下には死体が埋まっている」はけっこう有名なフレーズですが、もしかしたら本書の『桜の樹の下には』が出典なのでしょうか(それともさらに先行作品があるのかな?)。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」で始まる本作は、それが空想か夢想か幻想か妄想かのヒントを私に与えないまま、早口の一人称でさっさと語り終えられてしまいます。残るのは美しい花と死が重ね合わされたイメージだけ。私は、満開の桜とそれが散っていく滅びの予感に震えながらページを閉じるのです。
 『冬の日』……冬至前後の風景描写(と心理描写)の短編です。冬枯れの世界はまるでモノクロのように読み取れますが、ときにそこに「色」がつきます。庭の芝に干された赤い蒲団・黄色い灯を滲ませる窓硝子・黒い屋根瓦を打ってころころ転がる霰・青く澄み切った空で次から次へ美しく燃える浮雲……花火に照らされたように一瞬世界に「色」がつきそして次の瞬間世界はまたモノクロに戻ります。花火といっても著者の花火は、でかい打ち上げ花火ではなくて線香花火なのです。
 『ある崖上の感情』……崖から下の町を眺め、そこに見える窓の中を想像している主人公。灯りがともったそれぞれの窓の中にはそれぞれの生活が、他の生活のことなどまるで知らぬ顔で存在しているのですが、主人公はそれらをすべて覗き込むことができるのです。でも、それらの数々の窓のどこにも主人公の「居場所」はありません。彼は一人崖の上にいるのですから。
 
 昭和の初め、東京でも省電でちょっと郊外に出たら森や闇が残っていた時代。肺結核を抱えた著者は、自らの内部の「熱」を文字にして少しずつ吐き出します。作品にはそれぞれ発表年がつけられていますが、それが少しずつ進むにつれ(著者の死が近づくにつれ)て結核についての記述が増えてきます。まるで著者は喀血で文字を綴っているようです。もちろんそれはこちらの幻想なのでしょうが。
 
 
20日(月)オカリナ
 我が家にはオカリナが二つあります。私が学生時代に遊びでいじっていた赤いプラスチック製のものと、社会人になってから買った陶器のと。素朴な音色が好きでずっとTVのそばに置いていたのですが、そういえば引っ越すときにどこかの箱にしまって、さて、今どこにあるのやら。
 そうそう、プラスチック製のものはともかく、焼き物の方はどうやって音程を合わせているのかが不思議です。指穴をいかに精密に成形しても焼けば収縮して音程は狂うでしょう。だったら大まかに作っておいて焼いたあとで穴を微調整するのでしょうか。それはずいぶんな手間に思えるのですが……
 
【ただいま読書中】
オカリナ物語 ──土塊の音色』 石間万範 著、ショパン、2006年、2800円(税別)
 
 オカリナの「ご先祖」は紀元前2700年頃の中国にまで遡れるそうです。球形フルートの範疇で、「?(Unicode u+5864)」……私の環境では読めませんね「けん(土へんに員)」、あるいは「?(Unicode u+58CE)」……「くん(「燻」の火偏を土偏に変えた字)」と呼ばれたそうです。
 現在のようなオカリナは19世紀半ばになって作られました。ちょうどその頃、日本では新撰組が活動していた時期に、イタリアでは独立戦争が行われていました。オカリナを考案・製作したドナーティは世界初のオカリナ五重奏団を結成しますが、彼は近藤勇と一歳違いで土方才蔵と同い年、合奏団には沖田総司と同い年の人も含まれていました。ただ彼らは新撰組とは違って、もちろん独立戦争に従軍した人もいますが同時にオカリナ普及のためにヨーロッパ各地を「転戦」しています。はじめは「なんだ、子どもの玩具か」という扱いでしたが、実際の演奏を聴いた人々は、その音色と演奏技術に惹かれてオカリナのファンになっていきます。
 ちなみに「オカリナ」とはイタリア語で「小さなガチョウ」と言う意味ですが「バカ」という意味もあるそうです。で、まだオカリナが普及する前に若者の一団がオカリナを吹きながら道を練り歩いていたら警官が「こんな深夜に一体何をしているんだ?」若者たちは「オカリナ!」警官は「何、本職を愚弄するか!」で逮捕されて裁判沙汰に、というまるでフィクションのような実話もあったそうです。
 スペインが凋落しヨーロッパの情勢は変動していました。普仏戦争のどさくさ紛れにイタリア軍はローマを占領、プロイセン(というかヨーロッパ全体)でビスマルク体制が始まり、フランスはパリ・コミューンから第三共和制になります。本書ではオカリナを狂言回しに、こういった近代ヨーロッパ史を「勉強」することも可能です。特に山賊たち(オカリナ五重奏団の名称です)があちこちをうろうろするものですから、それを追うだけで当時のヨーロッパ各地のいろいろな姿が見えてきます。
 
 細かいことですが、本書で私が面白く思ったのは写真です。19世紀の集合写真では、楽団員はみなばらばらの方向を向いていてポーズを取っている(全員カメラから視線を逸らしている)写真が多いのですが、20世紀になるとカメラを注視する人が多くなります。カメラによる集団撮影に関して、何か社会的な意識変化があったのでしょうか。
 
 本書にはCDも付属しています。当然、最初から最後までオカリナの演奏が入っているのですが……すごいですよ。有名なところではヴェルディやモーツァルトのオペラやヘンデルのハレルヤなんかも入っていて、素朴な響きもありますが、とてもオカリナとは聞こえない超絶技巧も味わえます。各合奏団が使用したオカリナも記載されていますが、オカリナ作者によって音色が違うのもちゃんとわかります。バスオカリナは大きくて重そうで、肺活量も必要そうです。オカリナの製作も演奏もする著者が、本書では最初からバスオカリナ(とその演奏者)にこだわっていた理由もオカリナの写真を見ていたらなんとなくわかります。あれはきっとすごい肉体労働だもの。
 
 
21日(火)四割打者と三割打者と二割打者
 大リーグで四割打者がなぜ出現しなくなったか、については我が敬愛するS・J・グールドが『フルハウス 生命の全容 四割打者の絶滅と進化の逆説』で論証していますが、今日の私は打率について考えています。よく「三割バッター、偉い」「二割バッター、だめ」という判断がされますが、さて、それは本当なんでしょうか。
 たとえば単打しか打たない四割打者(甲さん)と2塁打しか打たない三割打者(乙さん)がいたなら、どちらが「良い」打者でしょう? どちらも四死球や犠打はないものとします。打率の数字だけ見たら甲さんの方が高いのですが、もし私が監督だったら乙さんの方を高く評価したいと思います。甲さんが塁に出ても一塁からはなかなか得点に結びつきません。しかし乙さんだったら三割の確率で打点か得点が生まれそうです。打線に甲さんが二人続いていたら確率16%で走者一二塁ですが、乙さんが二人続いていたら大体二試合に一回は確実に1点です。
 さらに、全打席の半分は四球で出塁して、残りの半分は二割しか打率がない丙さんがいたら? この場合には「四割打者」の甲さんより「二割打者」の方が出塁率は高いのです。なにしろ全打席の六割も出塁するのですから。すると、この場合には二割打者の方が四割打者よりもエライ?
 
 長男に教わったのですが、最近ではOPS(出塁率+長打率)が一部で評価されるようになっているそうです。野球が「投手と打者の勝負」だけだったら「打率」「本塁打数」で打者を評価するのも間違いではないでしょうが、野球は「一打席だけのゲーム」ではありません。チームの勝利への貢献を考えたらOPSのようなちょっと複雑なパラメーターで考えないと、「本当に貢献している人」を見失うかもしれません。
 ……それは野球には限りませんね。
 
【ただいま読書中】
「ゆらぎ」の不思議な物語 ──宇宙は考える』 佐治春夫 著、PHP研究所、1994年、1456円(税別)
 
 著者は前書きで金子みすゞの詩を引用します。
「だれにもいわずにおきましょう。
朝のお庭のすみっこで、/花がほろりとないたこと。
もしもうわさがひろがって。/はちのお耳へはいったら。
わるいことでもしたように。/みつをかえしにいくでしょう。」
 
 日常の何気ない風景の中にひそむ自然の摂理、それを感じ取る感性、そのことを著者は語ります。そんな著者の感性に裏打ちされた本書は、「ゆらぎ」を通して宇宙から人間までを概観する大学の講義を1年分に再現したものです。大学の授業は金子みすゞの詩と音楽で始まっていたそうで、本書も12編の各章は金子みすゞの詩で始まります。
 
 星のまたたきが機械的な規則正しい点滅だったら私たちはそれを「美しい」と感じるだろうか、と本書は始まります。著者は、予測不可能であること・再現性がないこと、つまりは「一期一会」が美しさと感動の源泉だ、と述べます。……これって科学の本ですよね?(本文中でも、金子みすゞだけではなくて、正岡子規、芭蕉、サン・テグジュペリ、ハイドンのオラトリオなどがばんばん引用される「変」な本です(「変」はこの場合褒めことばです))。星のまたたきや雲の形から話は「カオス」に進みます。それが一月分の講義です。
 二月は「人は星のかけら」であることが述べられ三月はビッグバン、そして四月の講義では「夜空が暗いことから、宇宙に『始まり』があることと宇宙が『有限』であることがわかる」と述べられます。どうして「わかる」のかの理屈は是非本書をお読みください。
 七月の講義では有名な「1/fゆらぎ」が登場します。十月の講義では1/fゆらぎをE.T.との対話に使えないか、と面白いアイデアが述べられます。宇宙の始まりは「無のゆらぎ」であること、フラクタルについて、不確定性原理についても著者は述べます。
 宇宙論について、柔らかな言葉と柔らかな心で知りたい人には、一読をお薦めできる本です。
 
 
22日(水)the
 英語人は最初は字ではなくて耳で英語を覚えていますよね(「耳が先」は英語人にかぎらないでしょうけれど)。すると彼らは字を覚えたときに「the(ザ)」と「the(ジ)」が同じ単語であることにショックを受けないのでしょうか。
 
【ただいま読書中】
対訳 ジョン・ダン詩集』(イギリス詩人選(2)) ジョン・ダン著、湯浅信之 編、岩波書店(岩波文庫)、1995年、553円(税別)
 
 今月14日の『嘲笑う男』(レイ・ラッセル)と16日の『海からの贈物』(アン・モロウ・リンドバーグ)で続けて「ジョン・ダン」に出くわしたものですから、「ジョン・ダンって何者?」という興味を持って、図書館の書庫から出してもらいました。
 ということでジョン・ダン(1572-1631)の詩集です。いやあ、古い英語です。ほぼ同じ時代のシェークスピアの英語は「これ本当に英語?」と言いたくなるものだったのに比較して韻文のせいかまだ読みやすいのですが、それでもやっぱり「古語だ〜」と悲鳴を上げたくなります。こんなの英文学科の人にまかせなきゃ駄目だな(読む前から投げています)。たとえば“THE STORM”の冒頭4行は……
THOU which art I, ('tis nothing to be so)
THOU which art still thyself, by these shalt know
Part of our passage; and, a hand, or eye
By Hilliard drawn, is worth an history,
これはクリストファー・ブルック氏への書簡詩なんだそうですが、こんなお手紙もらったら私は読まずに食べちゃうかもしれません。(ついでですが、辞書によると。thouはyouの単数形で、thyselfは今だったらyourself、thouのときだけbe動詞はartになりshallはshaltになるんだそうです。で'tisは"it is"の短縮形。whichは強調かな)
本書の訳は「君は僕である(友達なら、そんなことは当たり前の話)」と始まっていますが、古語っぽくやるのなら「汝は我なり(輩なれば当然のこと)」とでも遊んでみたいところですね。 
 読んでいて難しいのは、言葉の表面だけではなくて、「それが意味するもの」が私にちゃんと伝わっているかどうかにこちらが不安を抱えてしまうことです。元々詩が苦手で英語も苦手な人間がよりによって昔(日本では織豊〜江戸時代)のイギリスの詩を読むなんて、無謀としか言いようがありません。たとえば解説で「eagleは男性の象徴でコンパスは不変の象徴」と言われてもすぐにはピンときません。いや、eagleは“king of birds”ですからkingだな、とは思えますが……ちゃんと読めているのか、いやきっと全然読めていない、と思いながらページをめくるのは、ストレスです。
 
 でも“A LECTURE UPON THE SHADOW”(影法師に関する講釈)は気に入りました。恋人二人が正午の陽の下に立ち止まった情景を詠っているのですが、踏んでいる彼らの影が午後に入って伸びていくことを「愛の変容(移ろい)」にたとえた詩です。詩の最後は
Love is a growing, or full constant light;
And his first minute, after noon, is night.
とぷつんと終わります。影が西に回った(光が最高潮からちょっとでも欠けた)瞬間が愛の闇夜だって……すごい発想だなあ。ここで『海からの贈物』でリンドバーグが「100%の愛を維持することを求める人たち」について語っていたことを私は連想します。
 
 “THE FIRST ANNIVERSARY”(一周忌の歌)には“AN ANATOMY OF THE WORLD”(この世の解剖)という副題が付いています。ある女性の死によってこの世界全体の骨格の関節がばらばらになったことと原罪によってこの世界が呪われていることとの対比から最後には宇宙にまで話が広がる壮大な詩です。しかし何でANATOMY?
 1543年にコペルニクスが『天球の回転について』で天動説を提唱して古代からずっと西洋天文学を支配していた地動説に挑戦し、同年ヴェサリウスは解剖書『ファブリカ』でそれまで「権威」として古代ローマ時代以来ずっと西洋医学を支配していたガレノスの解剖学を実証的にひっくり返しました。この二つの「時代を変革した書」が出版以来数十年を経てジョン・ダンの詩にもじわりと影響を与えているのだったら、話としてはずいぶん面白いのですが……
 
 
23日(木)企業減税
 10月31日の読書日記に書いた『学習塾のまじめな話 ──「できる子」より「わかる子」に』(小宮山博仁)には「ごく一部の優秀な生徒(ビラで「有名な○○校に合格!」と宣伝できる人)はいわば企業宣伝のためのエサで、そのエサにつられて集まるその他大勢の生徒がその進学塾を経済的に支えている」という意味のことが書いてありました。だからこそ塾に大きなメリットをもたらしてくれる少数の「優秀な生徒」に対しては塾が学費減免も行えるわけです。(進学塾ではない塾では話はまた別です。念のため)
 で、最近の新聞に繰り返し載っている「法人税減税」は、なんだか「塾の特待生」と似た構図に私には見えます。
 結局有名進学校に入学もできずお金だけはきっちり納める“資金源”としての多くの生徒と、政治資金や天下り先の提供によって政策を左右したり優遇措置を受けたりもできずにただ納税するだけの“資金源”としての一般国民。似ていません? ああ、生徒の方がまだマシですね。良心的な塾だったら、少なくとも払っただけの教育は受けられて、第一志望の進学校へは行けなくても第二第三への進学や学校の成績の上昇は期待できるのですから。
 
【ただいま読書中】『富豪刑事』 筒井康隆 著、新潮社、1978年、750円
 
 読む前には、大富豪の刑事が金にあかせてとんでもない捜査を行って事件を解決するお話、という印象を持っていたのですが、微妙に違いました。
 冒頭の短編「富豪刑事の囮」では、「容疑者に対して刑事とばれてはいけない」「容疑者が金銭的損害を受けたら補償する」「容疑者が金欲しさに犯罪を犯さないように配慮する」「容疑者が精神的打撃を受けないように配慮する」……けっこういろいろ“縛り”がかかっています。野放図に金さえ使えばよい、というお話ではありません。
 第二話「密室の富豪刑事」……密室殺人事件を解明するために富豪刑事が採った手段は……いやあ、無茶苦茶です。犯人はわかっている。殺害手段も丸見え。なのに富豪刑事は……
 第三話「富豪刑事のスティング」……こんどは誘拐事件です。給料が遅配気味の小さな会社の社長長男が誘拐され、500万円をまんまとせしめた犯人は子どもを返さずさらに500万円を要求します。しかしこんどは金がありません。そこで富豪刑事はその金を提供しよう、と申し出ます。そこまでは普通(いや、「普通」ではないのか?)ですが、そこで「籠抜け融資(籠抜け詐欺の逆)」が登場します。いやもう、笑っちゃいます。犯人捜しなんかもうどうでも良くなってきます。というか、共犯者はすぐにわかるので、犯人捜しをする必要はほとんど無い、と言った方が良いのですが……
 第四話「ホテルの富豪刑事」……ホテルで殺人事件が起きます。殺されたのは新婚旅行中の新婦。ところが当日のホテルはヤクザと警察官でぎっしりとなっていたのでした。夫は外出中で、そのフロアでは対立するヤクザ同士が撃ち合いをやっていました。さて、真犯人は……いや、最終話でやっと「推理」小説になりました。もちろん「富豪」ならではの舞台立てもありますけれど。
 
 普通は犯人を当てるのが推理小説ですが、これは(もちろん犯人が誰か、も問題にはなっていますが(なっている話もありますが))「捜査方法を当てる推理小説」と言って良いのではないでしょうか。ただ、普通だったら捜査方法を推理するのは困難です。したがって思考の範囲を狭めるために“ヒント”が必要。その一番重要なヒントが「お金をバンバン使うこと」です。刑事は非常識なくらいの富豪です。では、どうやってお金を使えば犯人がわかるでしょうか?
 
 ……なんというか、「推理小説」という“ジャンル”全体へのパスティーシュですか?
 ……面白いから、良いんですけど。
 
 
24日(金)不○○なやり取り
 電話がかかってきます。「おかださん、今日○○の打ち合わせをしたいんですけど……」
お「今日はいくつか予定が入ってますが……なんとか時間を作りましょう。で、そちらはいつだったら都合が良いですか?」
相手「あ、何時でもおかださんの都合に合わせます」
お「そうですか。では一時はどうです?」
相手「あ、すみません、そこにはちょっと××が入っていて……」
お「……だったら……そのあと空いているのは……三時半はどうです?」
相手「あ、すみません、そこにはちょうど□□があって……」
お「……」アナタノアイテイルジカンアテクイズデスカ? セイカイガデルマデワタシハエンエントコタエツヅケナケレバナラナイノ?
 
 逆のバージョンもあります。
相手「今日の午後、おかださんはいつなら空いていますか?」
お「今日だったら……2時からの30分間か4時からの15分間なら空いています」
相手「そうですか……では3時はどうでしょう?」
お「……」ナンノタメニコチラガアイテイルジカンヲキイタノデスカ? ミミソウジシテイマス?
 
 こちらの都合を聞くのは単なる社交辞令で、結局自分が最初に決めた時刻におかだを従わせたいだけなのか、それとも単に記憶力が乏しいのか、あるいはそれ以外の可能性がありますか? 私は「両方の空いている時間を最初からお互いに提示して摺り合わせる」公平な交渉が好みなんですが、ある特定の人は「最初から明示しない自分の希望の時間におかだがテレパシーを使ってでも合わせるべき」としか思っていないようです。不公平ですね。ところが「交渉」(というか、おかだに対する一方的な押しつけの試み)が不調に終わるとそんな人は「おかだは非協力的だ」と吹聴して回ります。不愉快ですね。
 
【ただいま読書中】
公園のメアリー・ポピンズ』 P.L.トラヴァース著、林容吉 訳、岩波書店、1965年(88年24刷)、1900円
 
 これまでの三冊のメアリー・ポピンズの「外伝」というか「追補」とでも言える本です。おなじみの公園でメアリー・ポピンズたちが登場する少し長めのエピソードが六編本書には収められています。
 
 「まことの友」……物思いに耽ってしょっちゅう操作を忘れる信号係/仲良しの狩人とライオンの置物二つ(ただし、壊れた方には狩人がいない)/三つ子のお巡りさん、とくれば、三題噺よろしく当然公園にはライオンが出現します。そして片足が義足のお巡りさんも。
 ……最後に私は、バンクス氏の言葉を借りて、こう呟くしかないですね。「エグバートって名前は知らなかったよ!」
 「幸運の木曜日」……ひどく落ち込んだときにマイケルは一番星に願い事をします。「幸運に恵まれたい」「一人でほっといてもらいたい」「誰からも何キロも離れていて、どこか、楽しみの多いところにゆきたい」。翌日願いは叶います。すべて叶ってしまい、それでマイケルは不幸になってしまいます。
 ……この話を(というか、他のエピソードも)夢オチにしないのは素敵です。
 「物語のなかの子どもたち」……なんとも奇妙な感触のお話です。今回公園に登場したのは、ジェインの持っている本の登場人物である三人の王子たち(と一角獣)。しかし彼らは、自分たちが現実でジェインの方こそ物語の登場人物、だから自分たちは物語の中に飛び込んだのだ、と主張します。私たちが本を読むように本も私たちを読んでいるのです。私たちは読んだ本のことを忘れてしまいます。悲しいことですけれど。でも、本は私たちのことを忘れません。だからその本にまた出会えたとき私たちの心には最初に出会った時の思い出が蘇ってくるのです。
 最後は「ハロウィーン」……これまでのメアリー・ポピンズに登場した人々(や人にあらざる存在)が公園に大集合します。ただし、影ですけれど。で、「翌日」はメアリー・ポピンズの誕生日。はたして彼女は何歳なんでしょう??
 
 
25日(土)間
 TVの政治討論番組はあまり好きではないのですが、それでもたまに見てしまいます(そして「見るんじゃなかった」と後悔します)。ああいった番組で私が何より嫌いなのは「間」が無いことです。日本語の「美しさ」の一つに「間」があると私は思っていますが、ああいった番組で「間」がありますか? ありません。急流のように喋り相手の言うことに一切耳を貸さずそれどころか相手の言葉を途中で遮りとにかくやりこめようとする人の行為は、「間」を欠いています。つまりただの「間抜け」です(本来の「間抜け」とは逆の方向になっていますけれど)。
 逆に過剰な間を使う人もいます。「お前は一体何が言いたいのだ。はっきり簡潔にしゃべれ」と言いたくなる人がいかにも頭が悪そうにだらだら喋り続けているのを聞くとこんどは私はいらいらします。これもまた緩急の「間」が適切に使えない人です。この場合には「間」は抜けているのではありませんから「間抜け」ではありません。ただの「間違い」です。
 
【ただいま読書中】
華栄の丘』 宮城谷昌光著、文藝春秋、2000年、1429円(税別)
 
 時は春秋時代、小国宋で冷遇されていた華元は、国王昭公の暗殺(というか、暗殺に関与せず、次期国王の文公にも関与させなかったこと)を機会に右師(右大臣=宰相)に任命されます。初仕事は文公の暗殺阻止。そして政変を機会に攻め込む機会をうかがう周辺各国との和平。しかし、内訌は止まりません。文公を狙う陰謀の奥にさらに別の陰謀があります。華元の有能な部下は主(と宋の国)を守るために動き始めます。国にとって大切な人が殺されてから敵を討っても遅いのです。しかし、証拠も無しに誅するわけにもいきません。華元は腹を決め、天命を待ちます。しかし……
 「わしは何という暗君であろう」と言う文公と、「わたしには徳がない」「わたしは名宰相にはなれそうもない」と言う華元。この二人は実は良いペアなのかもしれません。
 楚と晋の代理戦争で鄭と宋が戦うことになります。そこで椿事が起き華元は虜囚となってしまいます。鄭は莫大な身代金を要求します。
 
 「凛として」は現在では死語ですが、彼らはまさにそのように生きそのように死のうとしています。宋はもともと難しい国です。周が殷(商)を滅ぼしたときその生き残りに祖霊を祀るためにと建国を許した国で(だから宋の都は商丘)、自ずから覇権を求めることは許されず、回りの国には軽んじられ、それでも礼に生きることが宋の人の基本的な信条になっているのです。したがって彼らは、自らの生死や戦いの帰趨を超えたものを常に見据えています(もちろんそれができない(=生に執着したり勝利に拘泥する)人もいますが……)。小国で中華の中で異姓(周の子孫)に取り囲まれ礼に生きてしかも戦乱の世を生き抜かねばならない……これは難事です。はなはだ難事です。
 さらに時代が変わりつつあります。礼と王道の春秋時代は少しずつ変質していて、もうすぐ礼は廃れ覇道の戦国時代になるのです。幸い(?)華元も文公も戦国時代の本格的な到来は見ずにすむのですが、それでも超大国にはさまれ、そのむき出しの武力には苦悩させられます。それが、文公の死後、華元が楚と晋の間の和平交渉を取り持つことになるのですから、人の人生とはまことに面白いものです。
 
 華元と士仲の対話で、人に仕えるには「有能」よりも「有徳」であることの重要性と、「徳は、生まれつき、そなわっているものではない。積むものだ」と華元が述べたことが印象的です。これはもちろん士仲が有能であり、しかも薄徳であると自認できるくらいに優秀な人間であることが大前提で成立する会話なのです。そして、人に向かって言ったことばはそのまま自分に返ってくるのです。
 私は華元や文公や士仲のような生き方はできませんが、せめて背筋だけは伸ばして生きたいと思います。自分の欲望を恥ずかしげも無くむき出しにしたり持っている権力に溺れたりする人間ではなくて、凛と生きる格好良い人のせめて恰好だけでも真似をしたいですから。
 
 
26日(日)言論の自由
 「核武装」に関して、もちろん閣僚にも「言論の自由」「思想の自由」はあるでしょう。あるでしょうが、それを権力者が言うことに私は違和感を感じます。「言論の自由」「思想の自由」って、本来「支配する側」ではなくて「支配される側」の方が言い立てるものではありませんか?
 教師には「日の丸/君が代」に関して「言論の自由」はありません。(と断言してはまだいけないのかな、地裁レベルでは判断が分かれていますから。でも高裁ではたぶん「公務員だから『言論の自由』は制限される」となるのではないか、というのが私の予想です) でも閣僚には「言論の自由」がある……なんだかやっぱり、変だなあ。昔の選挙権みたいに、ある程度以上の税金を納めている層だけが“その権利や自由”を持っているのだ、だったらわかりやすいんですけどね。
 
 そうそう、「言論の自由」があるから、たとえば「学校や教委にばれないいじめの“上手い”やり方」や「失敗しない強姦のやりかた」などについて論じることも、OK? さんざん論じて「やっぱりそんなことしちゃいけないよ」とひと言最後に言えば、それでOK? 私はそんなことを人前で堂々と“論”じたい人の品性(と思想)を軽蔑したくなるのですが……
 
【ただいま読書中】
現代語訳 信長公記(下)』 太田牛一 著、中川太古 訳、新人物往来社、1992年、2718円(税別)
 
 安土築城から下巻は始まります。大きな石、膨大な柱の数、豪華な内装……この世のものとは思えない城を信長が造ろうとしていたことが伝わってきます。
 本書でも、上巻に続いて相変わらず合戦の連続ですが、その合間に鷹狩りの話題が多いのが目立ちます。徳川家康がよく鷹狩りを行っていたというのを読んだ記憶がありますが、当時の戦国大名にとって鷹狩りは、趣味であると同時に軍事訓練でもある重要な行動だったのでしょう。あちこちから鷹の献上も行われ、優秀な鷹を信長に贈ることでご機嫌を取り結ぼうとする人々の苦労が感じられます。(秀吉なども鷹狩りは熱心にやっていたのかしら?)
 15日の『黒田悪党たちの中世史』で伊賀の立場から書かれていた伊賀大乱については、こちらでは「巻十四(天正九年)」に九月のエピソードとしてわずか3ページほど触れられているだけです。ただし、記載は素っ気ないのですが、参加した武将の数と名前を見ると、織田方としては相当力を入れた戦いであったことがうかがえます。織田信雄をはじめとして名のある武将だけで二十三人が四方向から伊賀の国に侵攻しています。過剰な戦力といって良いでしょう。「絶対失敗しないぞ」という意気込みが伝わってくるようですが、戦場となった伊賀の国がどのくらい荒らされたか、私には想像することすらできません。
 
 その他、宗論や御所での行事、変な犯罪者の話なども適宜折り込まれ、退屈しません。著者はとにかく“面白い”ことはなんでも記録しておこうとしているようです。
 謀反も相次ぎます。松永久秀・別所長治・荒木村重……そして明智光秀。
 
 著者は、時には「有り難いことである」とか「光栄なことであった」とか主観を混ぜますが、大体において客観的に事実を記述しようと努めているようです。信長最後の場についてもその方針は曲げられません。自分の主君が討たれたわけで、普通だったら冷静には書けないと思うのですが……さらにことさらに明智光秀を悪者扱いもしません。淡々と、本当に淡々と信長の最後を描きます。この「冷静さ」はタダモノではない、と私には思えます。もしかして信長は著者にはそれほど愛されてはいなかったのかな?
 
 
27日(月)いじめに厳罰
 教育再生会議の「いじめは禁止」「いじめには厳罰」というスローガンと処置の真の目的は何なんでしょう? いじめの根絶、それとも処罰感情の満足?
 たしかにいくらかの効果はあると思います。特に、私が受けたような「陽性のいじめ」(暴力、暴行、脅迫、器物損壊など)に対しては一定の抑止効果があるでしょう。(でも、それは現在の刑法でも対応できません? 「いじめ」と呼ぶからわけがわからなくなるだけで、ちゃんと「暴行」「傷害」とか呼べば良いのです)
 しかし、「陰性のいじめ」(陰口、無視、その他私には思いつけないあるいは書きたくないようなどろどろした陰湿な行為)に対しては「厳罰」は意味あるとは私には思えません。せいぜい的外れの人に的外れの「罰」を食らわせ、実質的な「主犯」はますます手口を巧妙化させるのがオチだと予想します。
 さらに、「過剰使用」もコワイものです。たとえば……子ども同士が喧嘩して「お前とは絶交だ」と言って翌日話しかけられても無視をしたら、無視された方が「シカトされるといういじめを受けた」と主張して、結局無視した方が「罰」をくらう、なんてことは無いでしょうか? ……「健全」な喧嘩といじめの区別、その場にいない部外者にできます? その場にいても即断できます? 「○○ちゃんと遊んではいけません」と自分の子どもに命令している困った親を時々見ますが、これも「いじめ」と認定されたら子どもが罰せられるんです? それとも親?
 
 いちゃもんつけるだけではナンですけど、私にはいじめ撲滅のための良い知恵はありません。上記したように「陽性のいじめ」に関しては罰もOKと思いますが、「陰性のいじめ」に関しては即効性のある特効薬を思いつけないのです。いじめが大好きな人間はどうやっても何かをやるでしょうから。
 ……時間はかかりますが、躾と教育を通して「大勢に安易に流されない自己を持つ」「異議を申し立てる勇気を持つ」さらに「自分が共同体に属していることの意識をきちんと持つ」ことができる人間が増えれば、現在の「いじめを看過して、結果として暗黙の支持を与えている」いじめのまわりの多くの人間が「いじめ反対勢力」に育ってくれるでしょうから、そうしたら結果としていじめが減る可能性は高まります。ただしそのためには「自己の確立」と「自分が属する共同体への意識」との両方がバランス良く育っていないといけません。片一方だけでも大変なのに、両方育ててさらにバランスを取る……どちらか片一方だけのファンが多いことを思うと、これは難事ですねえ。
 
【ただいま読書中】
南朝全史 ──大覚寺統から後南朝へ』 森茂暁 著、講談社(講談社選書メチエ334)、2005年、1500円(税別)
 
 1272年、鎌倉幕府との宥和を進め絶大な権力を誇った後嵯峨天皇亡き後、後継者と目されたのは後深草上皇とその弟である亀山天皇でした。結局亀山が実権を握り1274年には8歳の我が子に譲位します(後宇多天皇)。後深草は凋落しますが、北条時宗は両統迭立の政策を採り後深草の皇子を後宇多天皇の皇太子に据えます。のちの「持明院・大覚寺両統」の始まりです。さらに、亀山天皇の末子恒明親王(大覚寺統)が自身の立太子をねらって持明院統に接近することで両統の対立はさらに大きくなりさらに複雑になります。しかし、後二条天皇(後宇多院の長子)が24歳で急逝し、政権は持明院に移りますが、東宮には尊治(たかはる、後宇多院の次子、のちの後醍醐天皇)が据えられます。(このへんは『増鏡』やその他の文献から生き生きとした引用がされています)
 持明院統はどちらかというと幕府に依存する傾向が強く、それに反発するかのように大覚寺統は鎌倉幕府からの自立を目指します。幕府は本音ではあまりこの問題にかかわりたくなかったようですが、両統から工作があるためしかたなく立太子に介入していたようです。
 後宇多院の工作によって尊治は31歳(当時としては異例の“高齢”)でやっと天皇になれます。しかしそれは、後宇多院にとっては愛する孫邦良(長子後二条の息子)への「つなぎ」でしかありませんでした。政権から遠ざけられそうな持明院統、持明院からの強力な働きかけを受ける幕府、「一代の主」(一代限りの天皇)と称された後醍醐、衰えつつある力を振り絞って孫に政権を渡したい後宇多院……様々な思惑が入り交じります。そして元亨四年(1324)後宇多院が逝去。後醍醐天皇の親政が始まります。
 幕府が天皇の位に口を挟んでくる限り自分は「一代限り」……となれば後醍醐天皇が倒幕に向かうのも無理ありません。早くも元亨四年九月(後宇多上皇が没して三ヵ月後)には第一次倒幕クーデター(未遂事件)正中の変が起きます。そして建武の新政。
 後醍醐天皇は武家に替わって自分がすべてを管理するために「綸旨絶対主義」を取ります。ところが様々な階層の人に綸旨を乱発したため内容が矛盾したり不整合となり、さらに謀(にせ)綸旨が横行し、日本は大混乱となってしまいます。
 足利尊氏は後醍醐天皇の「片腕」として建武新政に貢献しましたが、天皇の綸旨絶対(武家は公家の下)に満足できず建武二年に兵を挙げます。そこで必要だったのが「錦の御旗」(このことばはすでにこの時代にありました)です。利害が一致したのが後醍醐によって廃位に追い込まれていた光厳院(持明院統)です。光厳院から院宣によって「権威」を得た尊氏は室町幕府を開きます。一度は和睦するも(光明天皇(光厳院の弟)の皇太子として後醍醐の息子成良を立てた)、結局吉野に逃れた後醍醐天皇は南朝を立てます(壬申の乱直前、大海人皇子も吉野に逃れたことを私は思い出します)。
 南朝は約60年間続きました。天皇は、後醍醐・後村上・長慶・後亀山の四代です。史料が少ないためその実像は確かではありませんが、著者は綸旨や『新葉和歌集』の詞書きなどを読み解くことで、南朝が、公家・武家・女官・僧侶・神官などの人がそれなりに豊富で、小ぶりでも「朝廷」としての機能を果たしていた、と述べます。
 九州入りした懐良親王は太宰府を落として征西府を置き対明貿易を行います(11年後には幕府に滅ぼされますが)。けっこう南朝方も頑張っています。
 
 幕府の動きも不可解です。尊氏は「尊」の字を捨てません。軍事的に圧倒できるのに、吉野攻撃で「とどめ」を刺しません。常に「平和的な合体」を望んでいるようです。義満による南北合体も、まるで詐欺のような手口で「平和裡」に行われました。
 
 地方の人間にとって、天皇から直接綸旨をもらった経験は、「権力者」に対する考え方に影響を与えるでしょう。公家は仕える先を変えることができる、という経験をしました。幕府は朝廷を操ることを覚えました。結局持明院統と大覚寺統の争いは日本のあらゆる階層に影響を与え、その結果が戦国時代だった、とも言えるのでしょう。
 
 
28日(火)妥当な判決でしょう
■学納金訴訟、大学側に条件付き授業料返還命令…最高裁(読売新聞 - 11月27日 16:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=122515&media_id=20
 
 「入学金」が「他人を排除して自分の入学権利を確保する対価」なら、返還要求は無理でしょう。
 これから、ソフトバンクを見習って「入学金¥0」をウリにする大学が続々出現したりして。入学辞退者は当然すごいでしょうけれど、何とか入ってくれた人の授業料と受験料で食っていけるようなら、ビジネスモデルとしてはアリじゃないかしら。
 
 
29日(水)乾燥機
 洗濯物が乾くには日照よりは通風が大切、と聞いたことがあります。たしかに太陽の熱で洗濯物の水分が沸騰するよりは、回りの乾燥した空気に水分がどんどん移行していくことで乾燥する方が効率は良いのでしょう。
 ならば、乾燥機も熱ではなくて乾燥した空気を大量に使うことで「天然の乾き具合」に近づけることはできないでしょうか。空気を熱して相対的な湿度を低下させている理屈はわかるのですが、その熱で洗濯物がけっこう傷む気がするんです(乾燥機を使っていた学生時代の経験だけでものを言っているので、最近のは違うのかもしれませんが)。ついでに中に太陽灯を仕込んでおくと「お日様の匂いがする」洗濯物に……ならないかな?
 
【ただいま読書中】
メタンハイドレート ──21世紀の巨大天然ガス資源』 松本良・奥田義久・青木豊 著、日経サイエンス社、1994年、2136円(税別)
 
 メタンハイドレートについて私が初めて聞いたのは……15年か20年くらい前だったと思います。ところがメタンハイドレートの歴史はもっと古いものです。
 ガスが水と“結合”してハイドレートと呼ばれる氷状の固体物質を作ることは19世紀初めから知られていました。1930年代には、シベリアのガスパイプラインでしばしば閉塞事故が起きました。その原因がガスハイドレート。ガス中の水分が高圧で低温の環境でガスと反応してハイドレートを作るのです。その研究から海底や湖底に自然に存在するメタンハイドレートのことも少しずつわかるようになりました。
 メタンハイドレートは、水分子が作った立体網状構造の内部の空隙(大きさは5〜6オングストローム)にガス分子が入り込んで包接されることで形成されます。理論的には水1リットルにメタンガスなら216リットル含むことができるそうですが実際には150リットル程度のことが多いそうです。といっても、ただ溶存させるだけだと水1リットルに2〜5リットルのガスが溶けるだけなので、メタンハイドレートは非常に多くのガスを含むことができるわけです。簡単に言ったら、水と大量のメタンガスをぎゅっと圧縮したシャーベット。不安定(ハイドレートになる条件がシビア)なので、ちょっとの条件変化ですぐにガスが抜けて出ます。
 有限の化石燃料に頼り切っている現代文明にとって、これは新しい「エネルギー資源」です。地震波探査によって世界各地の海底に生物由来の有機物が分解してできるメタンからのハイドレートが存在する可能性が高いことがわかったのでコトは大きくなります。1985年には、アリューシャン海溝斜面には約6兆立方メートルの天然ガス資源が存在すると試算されています。全世界では、控えめな見積もりでも2000兆立方メートルの埋蔵量、という説があります。
 おお、現代文明のエネルギー危機は救われた……のかな? 問題点はもちろんいろいろあります。メタンが燃えて発生する二酸化炭素は温室ガスです。ただし、石炭や石油から天然ガスに転換したら発生する二酸化炭素を抑制することはできます(石炭・石油に比較して単位熱量当たりメタンが発生する二酸化炭素は50〜70%と少なめです)。メタンガスも温室ガスです。もし世界中でメタンハイドレートの商業的な採掘が行われたら、採掘時に放出されるメタンガスは、牛のげっぷどころではない量になるでしょう。深海からの採掘・保存・輸送に関する技術的な問題も解決しなければなりません。
 
 面白いのは、「二酸化炭素ハイドレート」の研究も行われていることです。放出二酸化炭素削減のためにハイドレートに閉じ込めよう、というのです。これが上手くいったら経済成長を抑制せずに二酸化炭素発生を抑えられることになるのですが……貯まりすぎた二酸化炭素ハイドレートが暴走して爆発的な大放出、なんて嫌な事故もありそうです。心配しすぎかなあ。
 
 
30日(木)添加物の功罪
 食品への「添加物」はもちろん少ない方が良いのでしょうが、単純に添加物を「悪者」にしたらすべて「解決」なのでしょうか? たとえば防腐剤。不必要な防腐剤はもちろん不必要ですが、食品の流通経路が長くなった結果、途中で傷んでしまった食品で食中毒になってしまうのは困ります。明らかな毒は困りますが、食中毒も困る。どちらかを選べと言われたら、私は食中毒よりは軽い毒の方を選びます。もちろん私の健康を明らかに傷害したり子孫に影響が出る毒は食中毒と同等と判断しますが。
 腐らない食品というのがあれば解決なんですけど、それは夢想ですよね。あるいは地産地消の徹底……メニューが偏りそうだし、なにより人口密集地(たとえば東京)は食うものがありますか?
 
【ただいま読書中】
高下駄とキッチンシューズ ──板さんの見たロンドン和食事情』 横川正夫 著、朝日新聞社、1992年、1553円(税別)
 
 『イギリスはおいしい』はイギリスで日本人がイギリス(料理)を食べるお話でしたが、本書はイギリスで日本人が日本(料理)を食べさせるお話です。「イギリス」と「料理」を「鏡」に「日本」を見ています。
 板前として働いていた著者は、外国人相手の日本料理学校を開きたいという夢を実現させるために渡英します。英語の勉強と外国人相手の料理修行とができて一挙両得と考えたのです。ロンドンの日本料理店で働く著者は、その業界で働く様々な人と異文化の出会いから様々なことを感じます。
 タイトルの「高下駄とキッチンシューズ」も実はある種の人物(たち)の象徴です。それがどんな人たちかは本書をどうぞ。
 
 外国人相手に日本料理を披露しようとしたら、醤油も味噌も無い。さて、そこで著者はどんな献立を組んだか。そしてその苦心のコースの末路(?)は……冒頭のこのエピソードは、本当に笑わせてくれますが、同時にいろいろ考えさせてもくれます。
 イギリス人から見たら、日本料理も韓国料理も区別できない、というのも軽いショックです。だって……違うでしょ? ところがそのイギリス人は「味噌・醤油を使う。ご飯をお椀に入れる(「椀」を使うこと自体が異文化だそうです)。箸を使う。砂糖を多用する。ものを食べるとき音を立てる。だから似たようなもの」……むう、納得してしまいそうです。まあこちらから見たら「西洋料理」とまとめて言ってしまうのと同じようなものでしょうか。
 結局異文化に無関心だと大同小異の大同の方だけ見えて、関心を持てば持つほど小異の方が見えてくる、ということなのでしょう。
 
 キッチン内部も様々な民族の坩堝で、当然食文化の衝突が起きます。それが一番顕著に出るのは従業員の食事です。余った食材で一度に作ってしまおうとすると、宗教上のタブー・「食材」の定義(たとえば「魚の頭」は日本人にとっては食材ですが、多くの民族ではせいぜい「犬のエサ」)・マナーの違い(アラブ人はげっぷが満足感と感謝の表明、欧米人は食卓で派手に鼻をかむ(鼻をすするのはマナー違反なんだそうです)、日本人はずるずると音を立てる(これが鼻をすする音に聞こえてさらに顰蹙をかう)、日本では一汁一菜はきちんとした食事だがたとえば韓国だと「匙で食べるもの」と「箸で食べるもの」が揃わなければならない……)、などと「文化の衝突」が日々キッチンで起きるのです。
 
 著者はロンドンで出会ったイギリス人女性と結婚します。彼女は著者に会うまで日本料理は食べたこともなかった人ですが、日本に来て離乳食のお粥の味見を繰り返していて、ある日突然「米の味」がわかるようになります(欧米人にとって米飯は「味がないもの」なんだそうです)。ファーストフードに馴らされているはずのアメリカでも豆腐やスシがブームとなります。結局「日本料理は繊細な感覚を持っている日本人でなければわからない」ではなくて「味覚はつまりは訓練だ」と著者は言います。
 
 「日本料理は日本の郷土料理」と著者は述べます。その郷土料理を、イギリスやアメリカで慣れない食材で作り出そうとする苦労も読ませますが、私が印象的なのは著者が常に「食べる人」のことを念頭に置いていることです。お椀を手に持ってすする習慣を持たない人に味噌汁を出すのなら、スープ皿にスプーンでも良いではないか、というわけです。それで一度でも(純粋伝統料理ではないにしても)「日本」料理を味わった人の多くは「次の段階」に進めるはずです。著者が講師になったイギリス人相手の日本料理講習会の質疑応答で、料理の盛り合わせと華道・茶道との関係、といった質問まで出るのはちょっとすごすぎるとは思いますけれど。
 「日本料理は現在歴史上何度目かの再編成期だ」とも著者は述べます。たしかに世界中の食材が集まり、日本人の食習慣は激変しつつあります。しかし、それでも変わらない部分はあるわけでそれこそが「伝統」なのでしょう。日本の中にいたのでは(あるいは高下駄でロンドンを闊歩していたのでは)おそらく気づかないユニークな指摘がこの本には豊富に含まれています。