2006年12月
 
1日(金)紅葉はもうおしまい
 これまであまり深く考えたことがなかったのですが、桜の樹の紅葉は花ほどきれいには見えませんね。
 
【ただいま読書中】
国立国会図書館入門』 国立国会図書館監修+NDL入門編集委員会編、三一書房、1998年、950円(税別)
 
 国立国会図書館法には(法律には珍しく)前文があり、そこで「真理が我らを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される」……恰好良い!
 国会図書館の奉仕の対象は、国会、行政・司法部門、国民の三者です。利用規程に関して国会議員は特権階級ですが、その特権に関してことばを選んで記述してあるところが笑えます。いや、私は気にしませんよ。彼らは特権で得た便宜に見合っただけのお仕事をしてくれればいいのですから。
 国会図書館には「図書館の図書館」としての機能もあります。国会図書館では蔵書を個人には貸してくれませんが、「図書館間貸し出し制度」があって、公共の図書館などに資料を貸し出しているのです。遠隔地で「どうしてもここに無い本が読みたい、でも上京は無理」となれば、「国会図書館から」とリクエストすることが可能、ということなのでしょうか。あるいは郵送で複写を頼む、という手もありそうです。
 個人で利用するときには、開架式ではないため、あらかじめ近隣の図書館でいろいろ下調べをしておいた方が時間が効率的に使えます。数百万冊の書籍、十万冊以上の雑誌をずらりと並べてのんびり背表紙を見て歩く、というのは一つの夢ではありますが、スペースや時間の点では非現実的ですね。
 
 戦前は検閲のために納本制度がありましたが、戦後は「一国の文化遺産としての出版物」の網羅的収集のためにこの制度が使われています。国際的にも意義があるものですから、国によっては、映画・絵画・版画・レコード・メダル・コイン・切手などを集めているところもあるそうです。
 
 国会図書館では資料を「利用できる形で保存する」……これは二律背反に私には見えます。利用したら資料は傷みますから。対策として、酸性紙の脱酸処理やメディア変換(デジタル化)が行われますが、飲食しながら閲覧したことによる汚染や切り取りの補修の話が出てきて、気分は暗澹たるものになりました。私は図書館の本に対してそんな扱いをする奴らは、無条件に嫌いなのです。
 切り取りと言ったら、国会図書館では新聞の切り抜きも行っています。特定のテーマごとにいろんな新聞の記事を切り抜いてまとめているのだそうですが、この作業は大変でしょうね。大変でしょうが、できたものはとても面白いものになりそうです。なんだかこれを見るために、国会図書館に行ってみたくなってきました。
 
 出版された時代を感じる記述もあります。「CD-ROM220タイトル、電子ブック230点」って……そういや1990年代半ばには私も「CD-ROMを何枚持っているかな」と数えたりしていましたっけ。
 
 発禁図書のコレクションや日本占領関係資料なども面白そうです。個人的には江戸幕府が所蔵していた蘭書コレクションにも興味をひかれます。
 利用者は、1996年は436,136人(一日平均1,888人) 11月をピークに7月〜12月に利用は集中して“繁忙期”と称しているそうです。どうしてここに集中するんでしょう? 行政や立法の仕事の関係?
 
 上野の国際子ども図書館が国会図書館と関係があるとは驚きました。もともとは国会図書館の支部だったそうですが、あそこはいかにも歴史のある建物の雰囲気が良くて好きなのです。
 電子図書館の構想も書いてありますが、日本中(できたら世界中)のインターネットサイトをすべて経時的(更新するごと)にアーカイブしていつでも閲覧可能にしてくれたら面白でしょうねえ。同人誌をすべて集めてくれ、と言いたい人もいるかな。
 そうそう、「国立国会図書館」は英語では「National Diet Library」です。「diet」? はい、ダイエットには国会という意味もあるのです。……知らなかったなあ。
 
 
2日(土)太陽系のお掃除
 「恐竜の絶滅は、巨大彗星の衝突に続く異常気象」という説を『恐竜はネメシスを見たか』で読んだとき、私は「では次は人類の番か」と思いました。もし同じように彗星が今の地球に衝突したら「核の冬(厳密には彗星の冬)」が発生して現代文明は簡単に崩壊してしまう、と思えたのです。
 太陽系ができた頃には、あたりには星になり損ねたかけらが充満していました。それらは宇宙を漂う内にお互いに衝突してまとまったり巨大な惑星に次々衝突して数を減らしていって今の太陽系の状態になったわけですが、そのとき一番ぶつかるターゲットになったのは、巨大ガス惑星である木星と土星だ、と私は聞きました。大きい分「的」になりやすかったのでしょう。で、身を挺して木星と土星が太陽系の「お掃除」を熱心にやってくれたから、私たちの地球はけっこう「安全」になったわけです。時には夜空を見上げて「ありがとう」と言ってもバチは当たらないですよね。
 
【ただいま読書中】
巨大彗星が木星に激突するとき』 P/Shoemaker-Levy 9;1993e 渡部潤一著、誠文堂新光社、1994年、1165円(税別)
 
 1993年、シューメーカー夫妻とレビー氏によって奇妙な彗星が木星の近くで発見されます。まるで列車のように幾つもの核が直列に並んでいるのです。過去の軌道計算によってこの彗星は一度木星に異常接近し、潮汐力によって核がバラバラにされたまま軌道上を移動しているものとわかりました。さらに、未来の軌道計算によって、この彗星は翌年木星に衝突することがわかります。世界中の天文学者は色めき立ちます。
 彗星の核に関して、情報はほとんどありません。俗に「汚れた雪だるま」と言われますが、構成成分や構造について確かなことを確かめた人はいないのです。さらに、木星の大気についても事情は同様です。主成分がアンモニアであることは確かだとしても、その分厚いベールの下がどうなっているかは推測しかできていないのです。その「わからないもの」が「わからないもの」に大々的に衝突する……そこで生じるであろう現象から様々なことが解明できるのではないか、と学者たちは期待したのです。
 
 彗星とか小惑星、と言うとなんとなく小さなものをイメージしがちですが(『星の王子様』の影響でしょうか)、著者は「富士山が、時速ではなくて秒速60キロで飛んでいるようなもの」と述べます。あんまりぶつかりたい相手ではないですね。
 計算では、もし彗星の核が1キロメートルの大きさだったら、衝突エネルギーは広島型原爆の1億倍、5キロだったら100億倍になるそうです。で、爆発(エネルギー放出)によって木星は明るく輝くはずですが、彗星の核が1キロメートルだったらマイナス四等星、5キロならマイナス十等星の明るさ(半月と同じ)になる、という結果が出ました。ちなみに木星は普段はマイナス二等星です。ところが衝突地点は、地球から見て反対側。目視はできません。そこで「鏡」を使うことが考えられました。近くにあるガリレオ衛星の明るさの変化を測定しようというのです。
 ……『無情の月』(ラリイ・ニーヴン)ですか?
 
 うらやましいのは、アメリカ政府の対応です。1993年秋にはこの彗星のために150万ドルの緊急支出を決定しました。それ以外にもNASA・ローエル財団・カーネギー財団なども研究費支出を決定します。
 ……日本政府はどんな対応でしたっけ?
 
 本書は、シューメーカー・レヴィ彗星が木星に衝突する3ヵ月前に出版されました。ですから衝突自体に関してはすべてが推測です。雰囲気作りのための緊急出版だったのでしょうか。それにしては作りは雑ではありません。さて、図書館でこの「続編」を(もしあるのなら)探して読んでみたいな。
 
 そうそう、オーストラリアのアボリジニは木星のことを「4人の子どもを持つ星」と呼んでいたそうです。肉眼でガリレオ衛星を認めていた、ということなんでしょうか。まさか、ね。いや、そうだったらすごいなあ。ティコ・ブラーエの天体観測(もちろん望遠鏡の前)もすごい精度だったと聞いたことがありますし、昔の人間の肉眼は今のよりレベルが高かったのかしら。
 
 
3日(日)新山口
 ちょっと前、久しぶりに山陽新幹線の「小郡駅」で降りようとしたら「新山口駅」になっていたので私は眼をぱちくりさせました。
 私が知っている限りでは「小郡」と「山口」の関係はなかなか面白いものです。隣接した町と市なのですが、戦前に合併話が持ち上がったときには(どちらが持ちかけたのかは忘れました)持ちかけられた方が素気なく断って相手の感情を害しました。戦争中特例で合併しましたが戦争後分離。それから相当経って経済事情などの変化で今度は反対側が合併を持ちかけたら「前回の恨み忘れたか」と言わんばかりに前回断られた方が素っ気なく断って相手の感情を害して……ということで、一部の住民には反目する雰囲気があった、というのです。だからその後も何回か合併の機運が高まっては潰れる、を繰り返したそうな。(あくまで地元民からの伝聞ですから、一部「真実」とは違っている面があるかもしれません)
 さらに話がややこしくなったのが、山陽新幹線の開通です。当時「ひかりが停車する日本唯一の『町』」と小郡町民が言いました。山口線に特急が走っていなかったことを横目でにらみながら。「こちらは市なのに特急が停車しない、と揶揄するのか」山口市民はかちんときます。そのせいかどうか、それからしばらく経って特急が山口駅に停車するようになりましたとさ。(これは「事実」と言って良いでしょう)
 それが今では「新山口」ですか。調べたら昨年めでたく(?)合併していたんですね。やっとこさ、過去のしがらみはなくなったんでしょうか?
 
※「素気ない」は「すげない」、「素っ気ない」は「そっけない」です。小さな「っ」一つで前後の漢字の読みが変化するのです。
 
【ただいま読書中】
「市町村合併」の次は「道州制」か』 森啓 編、公人の友社、2006年、900円(税別)
 
 明示はされていませんが、ある政治的なイデオロギーが感じられる小冊子です。でも、地方自治に関して考えるきっかけとしては「使える」本と言えるでしょう。きっかけが何であれ、自分の頭で考えることができるようになればいいのですから。
 
 「平成の大合併」は、結局何が目的でどんな理念に基づくものだったのでしょう? 地方の再編は「日本の将来像」と連動していなければなりません。「日本とは無関係だ。経済的に苦しいからとにかく合併だ」ではないですよね。「小さな苦しさ」を無条件に合併させたら「大きな苦しさ」になるだけですから。では、どんな日本を目指して地方は合併しなければならないのでしょう?
 「今がうまくないから、制度を変えればとにかくうまくいくはずだ」ではなくて「明確なビジョンに基づいて、あるいは、人が育って今の制度では窮屈になったから、制度を変えなければならない」の方が、「良い結果」が得られやすいはずです(そもそも前者では「何が“良い”結果なのか」も定義できません)。
 地方交付税の配分に誘導されるのは、つまりは「国の政策によって貧乏になった地方自治体が、『貧乏から脱出したければ黙って言うことを聞け』という政府の主張に従う」わけで……マッチポンプということばを思い出すのは、ちょっと古いですか? さらに、特例債に頼ろうとするのは要するに借金まみれになりたいということで……こんどは「貧すれば鈍する」を思い出してしまいそうです。
 
 「個人の合併」である結婚(や養子縁組)でも、適当にはやりませんよね。それとも「ごちゃごちゃ言わずにとにかく合併しろ、そうすればすべてがうまくいく」論者は、自分の結婚もそういった発想でやったんでしょうか。まさかね。
 
 
4日(月)内外
 室内楽があるのなら室外楽はどこにあるんでしょう? フォークダンスや祭りでの舞曲とマーチングバンドと野外ライブと路上ライブと……本物の大砲をぶっ放す「1812年」?
 
【ただいま読書中】
逆立ちする子供たち ──角兵衛獅子の軽業を見る、聞く、読む』 阿久根巌 著、小学館、2001年、2300円(税別)
 
 角兵衛獅子は、江戸時代中期から明治時代に広く見られた子供の門付け芸です。小さな獅子頭をつけた子供が、一人または複数で、逆立ちや組み体操のような恰好をして稼いでいました。
 
 獅子舞は、伎楽獅子舞(二人立ち)と風流獅子舞(一人立ちで腹に太鼓をつける)に二分されますが、風流系の獅子舞が軽業をするようになったのが角兵衛獅子に発展しました。では軽業はどこから来たかというと……遅くとも奈良時代初期に中国から日本に伝来した「散楽」(娯楽要素の強い芸能で軽業・曲芸的要素を持っていた)が庶民の芸能となって室町時代には蜘蛛舞(綱渡りが代表)となり、それが発展して軽業と名付けらます。
 角兵衛獅子に関しては、江戸中期に農民の元水戸浪人角兵衛が越後月潟村で村の窮状を救うために子供に獅子舞を教えたのが起こり、という伝説が残っているそうです。農閑期に親子で江戸に出て門付けを行うとすぐに人気となったため宝暦の頃には51人の角兵衛獅子(太鼓・笛・獅子などのチームでおそらく10組程度)が江戸で活動し、雑司ヶ谷鬼子母神では参詣土産として麦藁細工の角兵衛獅子を売るようになりました。それが天明(宝暦の20年くらい後)には「諸国を巡るもの七十五軒」という大所帯になっています。やがて彼らは「農民の出稼ぎ」から「専業化(諸国を回り続けてもう村へは帰らない)」への道を歩みます。当然「親子関係」も「親方と訓練され使役される子供(親方の子とは限らない)」へと変化します。本来神事の一種(門付けは本来、祝福・悪魔払いの役割がありました)だったものがエンターテインメントになった、とも言えるでしょう。(軽業がなんで神事なんだ、とも思いますが、「人間離れしたワザ」は神の領域、ということなんでしょうか)
 明治時代に、リズリーがサーカス興行を横浜でやり、「帝国日本芸人一座」を結成して欧米に渡ります(今年6月3日のmixi日記に書いた『ニッポン・サーカス物語 〈海を越えた軽業・曲芸師たち〉』に詳しかったですね)。その一座の中に角兵衛獅子が二人(18歳と10歳)混じっていて観衆から拍手喝采だったそうですが、彼らはその後どんな人生を歩んだのでしょう?
 明治になって、それまでの「まあ可愛らしい子供がこんな芸をする」が「まあこんな小さい子供に芸をさせて可哀想に」と世間の意識が変化します。そのため角兵衛獅子をする人々は肩身が狭くなり、すでにほとんど角兵衛獅子をやっている人がいない月潟村の村民が言われない差別を受けるようになります。しかし角兵衛獅子は簡単には滅びませんでした。「婦人子供報知」昭和七年正月号の表紙は逆立ちをする角兵衛獅子の子供です。翌年「児童虐待防止法」が実施されるのですが、ここでは新春の縁起を祝う風物詩としての扱いです(もしかしたらノスタルジーが入っているのかもしれませんが)。
 はっきりしたことはわかりませんが、角兵衛獅子をやっていた人たちの多くは軽業に行き、そのワザは軽業一座からサーカスに引き継がれていったようです。たとえば軽業「道成寺」は、白拍子や小坊主が綱渡りやブランコ、曲芸、鐘の中での早変わりをするのですが、木下サーカス(最も伝統芸を引き継いでいた)では昭和44年頃までこの道成寺を演じていたそうです。
 ……ということは、私は見ているかもしれません。子供時代に連れて行ってもらったサーカスの記憶が、今脳裡かスクリーンにさーっと蘇ってくれないかなあ。
 
 
5日(火)伴奏
 英語のaccompanist は「伴奏者」と訳されます。だけどこれって一種差別的な言葉です。実際に、かつては(「独奏」の)ヴァイオリニストはファーストクラスで「伴奏」のピアニストはエコノミー、ということもそれほど珍しいことではなかったそうな。だけど「accompany」は「共に」とか「同行」であって、従属関係を意味していたわけではないでしょう?
 たとえば「子供は子どもと書くべきだ」と声高らかに主張する人は「accompanistは共奏者とでも訳すべきだ」とか主張しても良いんじゃないかしら。あるいは「ヴァイオリンがピアノの伴奏をしているのだ」とか。
 
 実際にはことばをいじるよりも「伴奏者」の具体的な地位向上を画策した方が良いとは思いますが。
 
【ただいま読書中】
A(アー)をください ──ピアニストと室内楽の幸福な関係』 練木繁雄 著、春秋社、2003年、2800円(税別)
 
 著者は室内楽の「伴奏」を多く行っていました。そこで世間の偏見「室内楽奏者は独奏者になれない人の集まり」「伴奏者は独奏者のオマケ」に不愉快な思いをさんざんしてきたようです。
 どんなに上手い独奏者でも、単純にとにかく四人揃えたら弦楽四重奏曲が絶妙に演奏できるかといえば、おそらく答は「ノー」でしょう。室内楽には「自分が素晴らしい演奏ができる」だけではなくて「他人と音楽で(アドリブも交えて)対話できる」能力も必要なのですから。
 
 ピアノ演奏で他の楽器の演奏法からいかに豊かなヒントが得られるか、に著者は饒舌です。「ピアノは孤独な楽器だ」と自ら言うことの裏返しなのでしょうか。
 ピアノ演奏のテクニックについては具体的です。フーガのテクニック、タッチ、遠近感(単に音量の調節にはあらず)、ペダリング、残響や倍音の活かし方などを、実験や練習方法をきわめて具体的に述べています。
 体の使い方についてもわかりやすく具体的ですが、私も習った「手を卵形にして鍵盤を弾く」スタイル、あれは実はチェンバロに最適のテクニック、という指摘(それもちゃんとした論証つき)には、笑ってしまいました。子どもの時に厳しく言われた「手の形」「手首の角度」は何だったんだろう。
 目撃者の証言によれば、フォーレの演奏は、指が鍵盤に吸いついているようで離れないスタイルだったそうです。ところがそれで様々な音色を出していたそうな。一体どんな指の使い方をしていたのでしょうか。少なくとも「卵形」では無かったようです。
 フォルテの出し方も、ただ単に強い音では駄目で、美しい音で出さなければならない、と著者は主張します。それはそうですよね、楽器なのですから。そのためのテクニックとしては、腕の重さを生かすやり方と指をはじく速度で出すやり方とがあるというのですが……たしかにエネルギーは質量か速度ですが……(全員ではないでしょうが)ピアニストがそこまで意識してフォルテのテクニックを使い分けているとは知りませんでした。
 
 印刷された楽譜を盲信するな、という指摘も面白いものです。「作曲家の意図」を論じるのならたしかに楽譜が頼りです。しかし、現在流通している印刷された楽譜は、実は作曲家自筆の楽譜とは異なっている場合がやたらと多いんだそうです。つまり、「(作曲家以外の)他人の編集」が加わっているわけ。
 しかし、本書では自筆譜がいくつも紹介されて印刷譜との異同が指摘されていますが、自筆譜って読みづらいですね(特にベートーベンのは書き殴りの暗号みたい)。読むのに疲れて曲が頭に浮かんできません。まるで私が自分の悪筆を解読しようとしている時みたいです。そういえば昔は本も自筆本を筆写していたんですよねえ。こうしてみると、編集という作業が介在してしまうにしても、印刷技術は有り難いものだなあ。
 また、ピアノの発達とそれに関連した作曲家たちの物語もありますが、「演奏する側」の視点からは、これまで私が聞いていたのとはちょっと違った作曲家の人間像が描写されます。小説でも、読者と評論家と実作をする小説家とでは評価が違うようなものでしょうか。もっともそうなると、評論家の存在意義がよくわからなくなるのですが……
 私が好きなフォーレに関して著者はこう書きます。(ヴァイオリン・ソナタ イ短調Op.13) 「冒頭からピアノがいきなり、彷徨いの旅を始め、ヴァイオリンが登場した時には、調性も嬰ハ短調に変わってしまう。…(中略)…ここからは、フォーレが尊敬していた大作曲家──シューマン、ブラームスなどが嵐の中に顔を出す。引用と思われるメロディが登場すると、嵐は静まる。時が止まるようにヴァイオリンが高音のEを伸ばし、ピアノによるホ長調の和音が鐘のように3度鳴ると、フォーレは目を覚ます。そしてヴァイオリンのメロディがメランコリックに下降を続け始めるのだが、この途中で本来のドビュッシーが一瞬聞こえてくる。ところが、それはピアノによる遠くからの雷に消されてしまう。そして、雷鳴が徐々に近づいてくるとともにソナタは再現部へと戻っていくのである。」
 曲に負けない、魅力的な文章だと思いません?
 
 しかしこの本、索引を付けて欲しかった。読み物としても面白いのですが、ここまで情報が詰め込まれていると、索引を引きながら読んでも面白そうな本ですから。
 
 
6日(水)本が一杯
 注文していた本が本屋に届いていました。全部で四冊。県立と市立の図書館から本を借りてきました。こちらはそれぞれ五冊ですから、全部合わせて十四冊。おお、これでしばらくは読む本に困りません。少なくとも二週間は。
 
 ついでですが、書店での支払いに図書カードを使ったらほとんどきれいにカバーしてくれて現金の追加が「\1」でした。書店で一円玉一枚を払ったのは、初めてです。
 
【ただいま読書中】
王家の風日』宮城谷昌光 著、文藝春秋、2001年、2095円(税別)
 
 今から三千年以上前、六百年続いた商(殷)末期の物語です。
 20世紀になって甲骨文字や殷墟が発見・発掘されることで商は神話や伝説から歴史に“昇格”しましたが、甲骨文字の解読ではずいぶん宗教的な国家だったようです。商のあとの周(特に春秋戦国の諸子百家)以降の中国が哲学的なのとは対照的です。というか、古代では「宗教的国家」が当たり前で、2500年前の中国やギリシアが例外的なのですが。
 まず登場するのは商王朝29代の王、乙(いつ)。その弟、箕子(きし)と干子(かんし)。乙の後継者として、長男啓と三男受が読者に紹介されます。商に朝貢する国は一説には三千国と言われますが、それらはお互い同士争いながら商への叛旗の機会を窺っています。特に西方の大国周は、討っても討ってもじわりと回復する不気味な国です。そんな難しい時代に乙は没し受が跡を継ぎます。受の初仕事は、父の葬礼のための生贄集めです。現役の兵を殉死させるかわりの奴隷として異民族を“狩り”にいくのです。商の兵に襲われた遊牧民の村からやっと逃亡した子どもたちは成長して“反商過激派”となり、そのリーダーが太公望でした。
 
 “普通”の歴史では周が善玉で殷が悪玉なんですが、本書は商(殷)の人々に焦点を合わせているため“立場”が逆転しています。といっても、単純に周が“悪者”になっているわけではありません。商には商の立場や守るべきものや言い分がある、ということを真っ当に書いてあるだけです。
 周は時間を稼ぐために商に入貢します。人質は周君姫昌の嗣子伯邑考。商の受は、空っぽの国庫をどうするか頭を悩ませると同時に、宗教国家である商でいかに王の専制を確立するかの道(王の意思に反した占いが出ないようにする方法)を探ります。諸侯はとまどいます。それまで商王は神霊の意思を伝える依代であり神そのものではなかったのですから。受は自分に逆らうものに対する焙烙の刑という残虐な火刑を考案します。「この王にはついていけない」と考えるようになった商の外側の諸侯は「別の旗頭」を探すようになります。
 周公は長男を文字通り犠牲にすることで受王の信頼を得ます。諫言する干子(商の東方の諸侯を束ねていた)は王に殺され、箕子(北方を束ねていた)は自宅幽閉。さらに受王の兄微子(啓)は亡命します。商王は自ら自分の両腕を切り捨てたに等しい行動をしているのです。
 周の側にも苦心があります。単に軍事力で商を破っても、それで自分が天子になれるわけではありません。大義名分が無ければただの反逆者・弑逆者なのです(甲が乙を殺しても、それで甲が乙になれるわけではありません)。天と万民の支持が必要です。それをどうやって求めるか。
 そして決戦の日が来ます。
 
 商の最後の王紂王の名前は普通「悪逆な王の名称」と解釈されていますが、もとは「狩りが好きな王」という悪口ではない意味もあった、とか、商に滅ぼされて各国に散った夏の残党が結束し周とも手を結んで商への反逆を企てた、とか、言われてみたらなるほど、という解釈もこちらに提示されます。
 「商」を題材にしたらついていける読者は少ないでしょうに、そこを敢えて素晴らしい小説に仕立て上げた著者に、拍手。
 
 
7日(木)「た」と「だ」
 「あの人のため」とか「会社のため」とかさかんに言い始めると、大体その人は「だめ」な方向に踏み込んでいます。
 
【ただいま読書中】
鷲は舞い降りた 完全版』ジャック・ヒギンズ著、菊池光 訳、早川書房、1992年、1942円(税別)
 
 内藤陳さんは『読まずに死ねるか!』で本書のことを何と言っていたかな、と一瞬思いましたが、内藤さんの本を読むよりこちらを先に読みたいので本箱を発掘するのはあきらめました。あの本にも縁があれば会えるでしょう。
 
 陰鬱な田舎町の墓場でのプロローグから読者は一瞬で作中世界に連れ込まれます。しかし、「鳥に詳しいヴェルナー」「(14ではなくて)13」「秘密を隠そうとする村人」と思わせぶりな伏線が次々張られて、私は困ります。
 1943年、クーデターが起きたイタリアで幽閉されたムッソリーニをドイツの特殊部隊が強襲救出します。気をよくしたヒトラーは「チャーチルも誘拐しろ」と命じます。たとえチャーチルを殺したとしてもドイツ劣勢の挽回は不可能なのに、この無茶な作戦のために多くの人が動員され、誰かが動くことによって別の誰かが動かされ、運命が次々クロスして世界が動いていきます。本当は出会うべきではなかった人々、違った環境だったら違った関係が築けたであろう人々……本書は、冒険小説に分類されますが、その本質は「人の運命の交叉」について描いた本です。それと「戦争の愚劣さ・残酷さ」についても。さらには「崇高な人の行動」についても。様々なテーマが読み取れる娯楽小説です。
 
 本書に登場する各個人にはそれぞれ名前があり過去があります。そういった人たちは、「運命」としか呼べないものによって動かされ、あるいは自由意思で動き、ついにはイギリスの田舎町に密かにドイツ空挺部隊員が忍び込みます。チャーチル首相を誘拐するために。偽装は(ほぼ)完璧。彼らを怪しむ人はいません。しかし、ほんのちょっとの手違いと齟齬と些事や勘違いによって、綿密に組み立てられた計画は少しずつ狂っていきます。そしてそういった「人」は一人ずつ傷つき死んでいきます。
 しかし、愚劣な体制に生きる立派な人間が、自分が守るべきもののために戦う姿を見るのは、辛いものがあります。
 
 ドイツにも「めかじき作戦」と呼ばれる人間魚雷のような武器があった、というのには目を疑いました。二つの魚雷を連結し、上の魚雷(ガラスの風防つき)に人がまたがって目標に接近し、ぎりぎりのところで下の魚雷を切り離して逃げ出す、という半特攻兵器です。日本の人間魚雷と違って理論上は生還可能ですが、船から撃つ拳銃弾が届く範囲くらいまで近づくのですから普通ただではすみません。これ、実在の兵器なんでしょうか?
 
 「完全版」について。
 本書は当初発表された版に、各個人のエピソードや後日談を書き足したものだそうです。たぶん好みは別れるでしょうが……
 映画の「ニュー・シネマ・パラダイス」も初回公開版とあとからの完全版とでは「後日談」のところが大きく違いました。私ははじめは「最初の方が良かったなあ」と思っていましたが、何回か観ると「完全版の方がやっぱり良いか」と思えるようになりました。本書も何回か読み比べたら、完全版の方に軍配を上げるかな、という予感がします。
 
 「アイゼンハワーは全軍歴を通じて戦闘を一度も経験していない」「ヒムラーは愛と友情と希望について何も知らないに違いない」なんてシビアな言説もありますが、「その香りを、彼は死ぬまで忘れることがなかった。」「この戦争では勝者はいないのだ。犠牲者しかいない」「おじさんはどうしてドイツ人なの? どうしてぼくたちの側につかないの?」「そういえるだろうな、きわめて控えめな表現だが」「今夜は、奇跡はこれでおしまいだ」……印象的な言葉がまるで機関銃の銃弾のように次々こちらの心を射抜いていきます。それは快感です。その快感を味わうためには、本書は一気読むすることをお勧めします。
 
 私はもう読んだから、「読まずに死ねるか!」ではなくて読んでない人に向かって「死ぬ前に読め!(命令だよ)」、です。
 
 
8日(金)支配
 地球を「支配」している生命体は……細菌、(生命かどうか議論はあるでしょうが)ウイルスとミトコンドリア、植物、昆虫、寄生虫、魚……えっと、あと何がありましたっけ?
 
【ただいま読書中】
フルハウス ──生命の全容── 四割打者の絶滅と進化の逆説』スティーヴン・ジェイ・グールド著、渡辺政隆訳、早川書房、1998年、2200円(税別)
 
 たしか買っているはずなのに本棚で見つからないので(ついでに『パンダの親指』の上巻もなぜか行方不明なのを発見(泣))、図書館から借りてきました。タイトルを見たら何の本かは一目瞭然ですね。進化論と(大リーグの)四割打者を論じている本です。
 
 まずは「統計がいかに人を騙すか」から話は始まります。集団がグラフ上左右対称の正規分布なら「平均値」「メジアン(中央値)」「モード(最頻値)」はグラフの中央で一致します。しかし、歪んだ分布だとその三つはばらばらになります。それを常に念頭に置いて物事を判断する必要がある、と著者は説きます。そのとき題材として用いられるのが、著者の病気、中皮腫(著者の発症当時、生存期間のメジアンは八ヵ月)です。
 次に取りあげられるのは「進化の一本道」という誤謬。私が高校時代の生物で習った「馬の進化(足の指は減り続けと体格は大きくなり続けるという「進化」)」がこてんぱんにやられます。「馬」は一本道で進化したのではなくて、まるで灌木の枝のように様々な種類の「馬」が自然で試され、たまたま「現在の馬(エクウス属)」が生き残ったに過ぎず、そこから逆戻りして「一方向のストーリー」が組み立てられただけ、と著者は言うのです。そういえば『ルーシーの膝 ──人類進化のシナリオ』(mixi日記05年10月8日)では人類に関してこれと同じことが言われていましたっけ。ダーウィニズムは(というか、「進化」は)首尾一貫しているんですね。
 
 さて、お待たせの「四割打者」です。1941年、レッドソックスのテッド・ウィリアムズは最終日(ダブル・ヘッダー)の前日に打率三割九分九厘五毛(記録上は切り上げられて四割)で監督には「10年間四割打者は出ていないし、優勝にチームは無関係だ。ゲームに出て打てなかったら打率が下がるから、休場したら」と勧められます。しかし彼は両方の試合にフル出場、八打数六安打で打率を四割六厘としました。(ちなみに、同年ジョー・ディマジオは56試合連続安打記録を作りました。また、テッド・ウィリアムズは1957年のシーズンに三割八分八厘の打率を残しています)
 1901年(アメリカンリーグ発足の年)から1930年までに、リーグ最高打率が四割を超えた年は九回もありました。ところが1931年から1940年は四割打者が出現せず、そして1942年からこっちもまたゼロ行進です(イチローは惜しかったですねえ)。「四割打者の絶滅」……これは何を意味するのでしょうか。「過去には本当に素晴らしい打者がいた(現在はいない)」……なるほど。ところが著者は「打撃技術が向上したからだ」と主張します。
 え? 打撃が上手くなったから最高打率が下がる?
 世間一般の説明は逆です。著者はそれをまず紹介します。まともでないものもまともに見える(部分的には正しい)ものも。マスコミの重圧、ハングリー精神の欠如、ナイトゲームの導入、投手力の向上(分業体制の確立、昔より豊富な変化球)、守備力の向上(グラブの革新)、データ管理の向上……しかし、「技術の向上」は守備だけではないでしょう。また、「投高打低」が原因だとしたら「平均打率が低下していないこと」の説明がつきません。ここで著者は「系の“全容(フルハウス)”」に注目せよ、と説きます。打者全体を「最高」と「最低」の間に分布する集団として見つめ、「四割打者」はその釣り鐘状分布の右端に位置する部分として認識するべきだ、と。すると新しい説明が登場します。著者はそこで、フィールドワークで巻き貝のパターンを丹念に分類する学者のように、大リーグのレギュラー打者全員の打率の標準偏差を計算し始めます。過去百年分。
 ここから先は本書を読んでいただきましょう。大げさに言うなら、驚愕の事実と考察に出会うことができます。
 
 大病を患ったのに、グールドの筆は、軽妙で冷静で緻密で博識で……なんでこんな人が早く死んでしまうんだぁ(泣)。
 
 
9日(土)執拗
 必死にあら探しをして乙さんの悪口を言い続けている甲さん……なにをそんなに嫌っているのかは私にはわかりませんが、あの執拗さを見ていると、とりあえずなにか「問題」を持っているのは悪口を言われている乙さんではなくて言っている甲さんの方では?と思えます。
 
【ただいま読書中】
真空飛び膝蹴りの真実―“キックの鬼”沢村忠伝説』 加部究 著、文春ネスコ、2001年、1500円(税別)
 
 唐手(空手の原形となった実戦的な拳法)を子ども時代からたたき込まれ、大学空手で名をとどろかせていた白羽秀樹は、キックボクシングを日本に広めようとするプロモーター野口にスカウトされます。1966年のことでした。野口はもともと日本ボクシング協会の理事で、ボクシングの人気を高めようと外国人選手を発掘していてタイと強いつながりができ、その縁でムエタイ(タイ式キックボクシング)に出会ったのでした。沢村忠のリングネームで第1戦に勝った秀樹は「空手対キックボクシング」のキャッチフレーズに乗せられたように次の対戦を迎えます(「空手チョップ」の力道山が死んだのはその3年前のことでした)。第2戦で秀樹はぼこぼこにやられます。16度のダウン、37カ所の打撲傷、出血傷は13カ所、折れた奥歯が5本……一ヶ月の入院でした。秀樹は「負けたままでは終われない」と思います。秀樹が沢村忠になった瞬間でした。沢村はとんでもないトレーニングで全身を凶器にします。後日、空手の心得がある記者が試しに沢村の腹を殴ったら、指を骨折してしまったくらいに。修行でタイに渡った沢村は、若手のテクニックに驚き、同じことをしていては敵わないと悟ります。ではどうするか。何かオリジナルの技が必要です。タイには存在しない技……飛び膝蹴りを沢村は思いつきます。
 
 野口はTBSに売り込みをかけます。当時売れていた、オールラウンドな発想の必要性を説いた『多様性の論理』(マクルーハン)の影響を受けていた運動部長の森は「パンチ・キック・投げ・頭突き、とにかく何でもありの格闘技」に興味を示します。ついにタイ国ミドル級チャンピオンとの東洋ミドル級チャンピオン決定戦がTV中継されることになります。「サンデースポーツ」でたまに放送されるキックボクシングは予想以上の視聴率を稼ぐようになり、ついにレギュラー放送が開始されます。1968年のことです。
 私はこの時期にキックボクシングを知りました。沢村忠が空手出身であることなど知らず「なんでタイの国技なのに日本人がチャンピオンなんだろう」と不思議に思いながらTVを見ていました(ムエタイとキックボクシングの違いも知らなかったのです)。真空飛び膝蹴りはたしかに格好良い決め技でしたが、いつの試合だったか、何回顔にパンチをもらっても全然防御をせずに相手の間合いでチャランボ(前蹴りと膝蹴りと回し蹴りの中間のような技)を出し続けていた頑固な姿を今でも覚えています。
 沢村は、とても人間にできるとは思えないような生活(たとえば睡眠時間が1週間で10時間、毎週試合があるから年中減量をしているのと同じ……まだまだすごいエピソードが本書には書いてあります)をしながらキックボクシングを日本に広め定着させようと日本中を飛び回ります。マネージャーの遠藤や鶴巻、レフェリーの李など、裏方にも「サムライ」が揃っていますが、やはり沢村忠がスーパーヒーローでした。しかし、沢村がスーパーな存在であればあるほど、こんどは別の問題が生じます。沢村無しではことが進まなくなってしまったのです。
 
 1970年、TVアニメ「キックの鬼」が放映されます。私はこの時期ほとんどTVを見なくなっていたし、私の地方では放映されなかったのかもしれませんが、これの記憶は全然ありません。沢村の人気は沸騰し、しかし選手としての全盛期はそろそろ終わろうとしていました。1972年、沢村の連勝記録はついに134でストップします。しかし、体重で10キログラム重いその相手をリターン・マッチですぐに撃破。沢村はまだ戦い続けます。1973年(讀賣巨人軍が九連覇、王貞治選手が三冠王の年)には日本プロスポーツ大賞を受賞。キックボクシングの成功で音楽界にも進出した野口プロは(沢村はレコードも出しています)、1971年に新人として売り出した五木ひろしが73年に「夜空」でレコード大賞を受賞。74年1月には二人の合同受賞パーティーが帝国ホテルで開催されます。キックの「成功」が五木ひろしを生んだ、とも言えるでしょう。
 後発団体「全日本キック」(沢村が属するのは「日本キック」)のコミッショナー石原慎太郎は「沢村がタイ選手に次々勝つのはあやしい」とか「こちらのチャンピオンと戦え」とか沢村側を挑発してますが、これって結局相手の足を引っ張って自分の首を絞めただけではなかったか、と私には思えます。日本での足の引っ張り合いよりも、キックボクシングをアジアから世界に広めよう、とした方が関係者とファンはみな幸せになれた可能性があったんじゃないかしら。結局「大黒柱」の沢村が引退したらキックボクシングの人気は急下降してしまったのですから。やり方さえ間違えなければ現在人気のK−1の位置にキックボクシングがいてもおかしくなかったと私には思えるのです。もったいないなあ。
 
 ちなみに、TBSのキックボクシングの時間枠は「クイズ100人に聞きました」に引き継がれたそうです。
 
 
10日(日)虹と月
 今日は町内清掃の日。「腰がだるいなあ。たしか雨が降ったら清掃は中止だよなあ」と思いながらだらだら外に出たら、顔にぽつりと細かい水滴が触れます。あれれ、雨かな、と空を見上げたら青空。雨願望が錯覚を呼んだのか、と思っていたら西北の空に虹を発見しました。公園の端、視界が大きく開けた場所に移動したら、北の山から西の山に連なる大きな大きな虹です。そしてそのそば、西の空には下弦前のまだ太い半月が。
 家に閉じこもっていたら、こんな良いものは拝めませんでした。今日はちょっと幸せな日です。
 
【ただいま読書中】
鷲は飛び立った』ジャック・ヒギンズ著、菊池光 訳、早川書房、1992年、1845円(税別)
 
 先日読んだ『鷲は舞い降りた 完全版』の続編です。
 第二次世界大戦に関して、イギリスで「100年機密」に指定されている(それも前作に関連した)情報を著者がつかむ、ということから本作は始まります。
 前作でチャーチル首相誘拐のためにイギリスに降下したドイツ落下傘部隊は、隊長のクルト・シュタイナ中佐以下ほぼ全滅しました(一人だけ本国に生還)。しかしそれは欺瞞情報でした。シュタイナは重傷を負いましたが生きていたのです。
 イギリス側はわざとその情報をドイツ側にリークします。ドイツの出方を見ようというのです。ヒムラーはシェレンベルク将軍にシュタイナ救出を命令します。ただし「3週間以内」の制限付きで。ヒトラーにも内緒の秘密作戦に失敗した“英雄”をどうしてわざわざ救出しようといのか。「失敗」を表に出そうというのか、シェレンベルクはヒムラーの真意を測りかねます。ヒムラーが述べる救出をする理由・時間制限のある理由があまりに根拠薄弱なのですから。しかも、厳重に警備されているロンドン塔や捕虜収容所からどうやってシュタイナを救い出し、さらにドイツまで運べばいいのでしょうか。作戦そのものの困難さにプラスして、ヒムラーが何を企んでいるのかにまで気を使いながらの行動が始まります。
 
 今回ストーリーの中心となるのは、前回の作戦で負傷して中立国ポルトガルに逃れていたアイルランド人のリーアム・デヴリンです。パイロットはアメリカ人のエイサ。イギリスでデヴリンをバックアップするのは、IRAメンバーのマイクルとその姪メリイ、それにイギリス没落貴族でファシズム擁護派のマックスウェル・ショウとその妹ラヴィニア……まるで国際連合軍です。ただし彼らが活動するのは「敵地」であるイギリス。デヴリンは「力」ではなくて「頭脳」でことを解決しようとします。
 無事イギリスに潜入したデヴリンですが、それを知ったヒムラーは期限をさらに一週間短縮します。これまた不可解な行動です。
 ドイツで繰り返されそして失敗し続けるヒトラー暗殺計画、そして「この戦争を早く集結させるためには何が必要なのか」という問いかけとその残酷な回答……前作では魅力的なキャラクターが生き生きと、ときにユーモアを見せながら舞台狭しと動き回っていましたが、今作では少し話が重たくなります。人の行動も足取りが重くなっています。特に前作で文字通り“英雄”だったクルト・シュタイナ中佐が舞台の“背景”に退いているのが私には残念ですし、「この人は死ぬな」と思った人は次々まるで予定通りのように死んでいくのです。ただしその分、大きな部分の謎解きの面白さは増しているとは言えるのですが。
 
 もちろん、前作をふまえてにやりとさせられるシーンはたくさん盛り込まれています。たとえば、「共和国万歳」と「脚を折れ」、とか。デヴリンが闇商人を撃ったらろくなことが起きない、とか。まあ、あれがデヴリンの性格だから、と言いたくなるくらい人物造形がみごとで説得力があるので、しかたないのでしょうね。
 
 
11日(月)公孫樹の落葉
 初冬の空に向かって黄金色に燃え立つ木から、風もないのに炎のかけらがすとんすとんと次々落下し続けています。樹の下の地面が一時黄金に敷き詰められて、そしてもうすぐ裸木を見て「どれが公孫樹の木だったっけ?」とさえ誰も思わない時期になります。
 
【ただいま読書中】
沖縄に電車が走る日』ゆたかはじめ著、ニライ社、2000年、1500円(税別)
 
 沖縄がかつては琉球王国だったことを知っている日本人は何パーセントくらいでしょうか。ペルリ提督も日米和親条約とは別に琉米修好条約を結んでいます。それが1872年(明治五年)に勅語によって王国は琉球藩となり、1879年の「琉球処分」(アメリカ合衆国がハワイに、中華人民共和国がチベットにやったようなことを想像すればいいのでしょうか)によって沖縄県が誕生します。
 ついでですが、日本人と鉄道の出会いは、ペルリ提督が持ってきたお土産の蒸気機関車の模型でしょう。(ジョン万次郎の乗車経験は別とします)
 
 著者は1977年に国鉄全線を完乗したあと私鉄の乗り歩きをしていましたが、沖縄にだけ鉄道がないのを残念に思っていました。ところが調べると、南大東島に軽便鉄道(サトウキビ輸送用)があるではないですか。電話がつながるのに数時間、旅館は島に一軒、鉄道の運転はサトウキビシーズン(冬)だが多忙期は人を乗せるどころではないからチャンスはその直前の試運転の時だけ、船は那覇港から10日に一便(天候次第)、飛行機は一日一便(14人乗り)だが地元民優先で風が吹いたら欠航……それでも行くんですね。テツは偉大です。その後この鉄道は廃止されましたから、「行けるときに行っておけ」「買えるときに買っておけ」なのでしょうか。
 
 数年後著者は沖縄に赴任します。これは運命です。そこで知ったのは、那覇にもかつては線路があったことでした。1914年(大正三年)に路面電車が営業を開始していたのです。那覇港から首里まで全線6.9kmですが、バスなどとの競争に負けて1933年に廃線になっています。全国的に珍しいことに「県営」の軽便鉄道もありました。しかしそれは戦争でめちゃくちゃになって消滅してしまいます。
 著者は鉄道の復活を訴えます。バカ高くて沖縄の風土に向いているとは思えないモノレール(ゆいレール)よりもLRTトラムの方が安くて融通が利いて人に優しい、と言うのです。どうせ金を使うのなら、地域に活力を与える新しい構想が欲しい、と。(これは、せっかくゆいレールを造っても採算のことばかり心配している(そして実際には黒字にするだけのアイデアも行動力も持っていない)お役人に対する皮肉かな、と私は読み解きました)
 
 子ども時代に鉄道模型に夢中になり将来は電車の運転手、と思っていた人が、志かなわず挫折して判事になってしまい、それでも子どもの頃の夢を忘れず(本人の言葉によれば)「もぎとるように」暇を作っては全国の鉄道に乗り続ける……これはこれで素敵な人生に見えます(結局国鉄のあと私鉄も完乗したそうです)。そういった人が「鉄道がない」沖縄に住むことになるとは、人生は面白いものです。ただ、沖縄を見つめる視線の背景に著者が持っている日本全体の分厚い体験や思い出がどのように作用しているのかな、と興味を覚えます。
 ……そうか、著者は子ども時代の夢を、ちょっと形を変えて結局実現したと言えるんだ。
 
 
12日(火)民活の国
 政府は「民活」とか「地方分権」とか耳に心地よい言葉を並べて実際には「面倒なことは誰かやってくれ。もう疲れたよぉ」と言っているようにも見えますが、日本の行政は実は昔から民間を活用していたんじゃありませんか?
 
 たとえば消防団。消防署を整備できないところではボランティアに頼っています。
 たとえば税の徴収。各人が税務署に申告をするかわりに、企業の中で税額を計算し天引きをし年末調整の計算までやっています。すべて企業の人件費を使って。
 たとえば教育。今もし塾などが廃止されて公教育だけになったら、日本の教育はどうなると思います?
 たとえば町内会。ボランティアが行政の末端を担っています。
 最近だったら、障害者自立支援法。不安に思った障害者が問い合わせをすると「わからないことは病院で聞きなさい」が行政の返事でした。法律の周知徹底は民間のお仕事のようです。
 
 国民は歯を食いしばって、本来行政が負担するべきことを負担し続けてきています。“楽”してきたお上がさらに“楽”したい、と画策すればするほど、この世には「美しい言葉」が満ちあふれるような気がします。
 
【ただいま読書中】
つまみ食い 新会社法』山田真哉 著、青春出版社、2006年、476円(税別)
 
 カバーには「500円でわかるシンプル版」、帯には「図解で会社法がわかるのは、この本だけ!」とあります。別に会社を興す気があるわけではありませんが、まあ何かの役に立つかも、と読んでみることにしました。ついでですが著者は、ベストセラー『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』で知られています。
 
 タイトルに「新会社法」とありますが、実はこれまで「会社法」という法律はなかった、というところから話は始まります。「商法」「有限会社法」「商法特例法」によって「会社」規定されていたのを、2006年「会社法」としてきちんとまとめた、というわけです。それに伴い、多くの変更が行われました。
・「最低資本金(株式会社だったら1000万円)」が廃止されました。やろうと思えば「資本金1円」でも会社を興せます。(もちろん、登記や当面の運転資金は必要ですが)。法律改正前にも「1円株式会社」は特例で作れるようになっていましたが、これは定款に「5年以内に資本金を1000万円にする(できなければ解散)」とあるはずですので、「1円会社」のままでいるためには定款を変更する必要があります。
・「有限会社」を新たに設立することはできなくなりました(今ある有限会社は存続可能です)。
・類似商号(会社の名前がそっくりさん)は禁止されていましたが、その制限が撤廃されました。作る側からすると、設立前に使われていない名前を検索する手間が省けることになります(もちろん、商標登録されている場合は話は別です)。消費者の側からすると「そっくりの名前の会社」だとしても、こちらが思っているのとは別の会社である可能性を常に念頭に置いておかなければならない、ということになります。
・会社の種類も変わりました。以前は、株式会社・有限会社・合資会社・合名会社の4種類でしたが、こんどは、株式会社・合同会社・合資会社・合名会社、となります。新しく登場した合同会社は日本版LCCとも呼ばれるそうで、役員が無限責任を負わないのが特徴だそうです。また、会社ではない新しい法人、LLPも登場しました。これは「有限責任事業組合」で、出資者(複数)が経営にタッチする組合(会社ではない)だそうです。LLPは安く作れ、会社ではないから法人税がかからず、出資者は個人(または法人)とLLPの損益通算が可能なので“お得”だそうです。
・取締役の責任は、無過失責任・連帯責任から原則過失責任に変わりました。また、賠償責任に限度額が設けられています。株主代表訴訟などへの対応でしょうか。
 
 笑っちゃうのは、破産してまだ復権していない人は以前は取締役になれませんでしたが、新会社法ではそれが可能になっていることです。「再チャレンジ」は社会の限られた一部ではすでに制度としてちゃんとできるようになっていましたとさ。
 
 
13日(水)甘い蜜柑
 「糖度センサーで測定した」と“甘さ保証つき”の蜜柑を家内がスーパーで買ってきました。食べてみると確かに甘くて美味しいのですが……つぎにご近所の実家が作っているという頂き物の無農薬の蜜柑を食べたら、こちらの方が甘さは少し落ちるのにもっと美味しいのです。なぜかと考える必要もありません。さきほどの甘さ保証の蜜柑は極端に言うなら甘いだけだったのですが、頂き物の方はほどよい酸味とのバランスが良いのです。
 結論:「甘いだけの蜜柑」はそれだけの蜜柑。
 
【ただいま読書中】
ヘリコプターは面白い』宮田晋也 著、大河出版、1998年、1300円(税別)
 
 ライト兄弟の初飛行は1903年、有人ヘリコプターの初飛行はそれから4年後のことでした。無人ヘリの飛行は、竹とんぼにまで遡れば何千年前のことでしょう。
 
 ヘリコプターが浮上する原理は簡単です。メインロータ(中央のでかいプロペラ)の断面は飛行機の翼と同じ(だから回転翼と呼ばれるわけ)ですから、ローターがぐるぐる回ればベルヌーイの原理によって揚力が生まれます。ここまではわかります。私がわからないのが、どうしてヘリコプターが前進できるか、です。もちろん回転軸が前傾すれば前進するベクトルが生まれます。しかし、空中でホバリングしているヘリコプターをどうやって前傾させるんでしょう? 答は簡単で、右手で握っているサイクリックスティック(飛行機の操縦桿に当たるもの)を少し向こうに倒せばメインロータが前傾するのです。するとヘリ全体がするすると前に向かって動き出すわけ。サイクリックスティックを左右に動かせば左右に、手前に引けばバックします。
 左手はコレクティブピッチというレバーを握っています。これはメインロータのピッチを動かすことで揚力を調節するものだそうです。車で言ったらアクセルかな。ところがここから話がややこしくなります。バランスが取れてホバリングしている状態で揚力を増せばヘリは上昇しますが、同時に回転トルクも増加します。するとその反トルクで機体はメインロータとは逆方向に回ろうとします。(ドラえもんのタケコプターが反トルクをどうやって消しているのかは謎ですが……) そこで登場するのが左右の足で操作するテールロータペダル。多くのヘリの尾部に付いている小さなプロペラはメインロータの反トルクで機体が回転するのを防いでいるのですが、ペダルの微調整で機体を安定させるのです。さらにヘリに吹きつける風でも機体は移動や回転をしますから、それにも対応しなければなりません。ヘリの操縦は複雑で大変です。
 
 飛行機は飛行速度が遅すぎると翼が揚力が発生しなくなって失速墜落します。それと似た現象がヘリコプターでも見られます。全速前進をすると、回転するプロペラの、進行方向に向かう側は自分の回転速度プラス対気速度で大きな揚力を得られますが、自分の尾部に向かう方向(後退翼)では自分の回転速度マイナス対気速度分しか揚力を得られません。つまりあまり速く飛ぶと後退翼が失速するのです。このことによってヘリコプターの最高速度は物理的に規定されることになります。
 
 飛行中に突然エンジンが停止したら、飛行機は滑空でなんとか不時着しようとします。ではヘリコプターは? 滑空はできません。ただ、エンジンが止まってもフリーホイーリングユニットのおかげでメインロータは回転を続けることができます。もちろん上昇はできませんが下から上に吹き抜ける風のおかげでメインロータが回転していくらかの揚力が生まれ、下降・着陸ができます。これを「オートローテーション」と言います。といっても落下傘降下のような感じではありません。タイミングを計りながら4本の手足で細かい調整をする必要があります。著者は「ビルの50階の高さからエレベーターが落下。7秒で地上にぶつかる。手動ブレーキをかけることができるチャンスはただの一回。それにミスれば激突する、のと同じ状況」と表現しています。
 ヘリ免許取得に関しても日米のシビアな比較が載っていますが(日本は2年で700万円、米は2ヵ月で136万円(1ドル120円で換算))、笑っちゃうのが、日本は等級分けがやたらと細かく、さらに「水上ヘリ」の免許があることです。日本には水上用ヘリはきわめて少数しか存在していないのに、お役所は頑固にこの免許を維持している、と著者は皮肉っています。
 
 私はヘリの操縦をしようとは思いませんが、模型のヘリの操縦にはちょっと気が惹かれます。
 
 
14日(木)先
 「先のこと」は未来なのに、「先月」は過去のこと。「物語の先」はあとのことなのに、「先に出発する」は前のこと。これで会話がちゃんと成立するのは、驚異です。
 
【ただいま読書中】
マルドゥック・ヴェロシティ 1』冲方丁 著、早川書房(ハヤカワ文庫JA)、2006年、680円(税別)
 
 「この頃SFマガジンが面白くないなあ。若い作家が下手になったのか、自分の感性が年取ってすり減ったのか……」とぶつぶつ言い続けるようになって10年間。私を“救って”くれたのが2003年に出会った“若手作家”の『マルドゥック・スクランブル』でした。自己の有用性を証明しなければならない「武器」であるウフコック(ふだんの形はねずみで知性と感情を持つ。ドラえもんの四次元ポケットよろしく体内の亜空間からどんな武器でも取り出し自在に変形するが、自分を「使ってくれる人」が必須)と出会った悲しい少女バロット。敵役は巨大な拳銃を持ち重力を自在に操るボイルド=ウフコックのかつての相棒。
 一挙にその世界に連れ込まれた私は、「面白い、これは面白い」とウワゴトのように呟きながら三分冊を一気に読み終えました。
 で、本書(ヴェロシティ1〜3)はスクランブルの前日譚です。「スター・ウォーズ」がエピソード4〜6を公開してから1〜3に戻ったのと似ていますね。
 
 戦争で回復不能な状態になってしまった「敗残兵」に特殊な治療と肉体改造を施す研究所。被験者はそれぞれ超人的なスーパーウエポンに改造されていました。改造の結果あまりに特殊な存在になってしまったため軍は彼らを使いこなせず、研究所は彼らを「チーム」として編成する試みを行います。初めはツーマンセル(二人一組)、それが上手くいけば四人組、とチームの人数を増やせれば軍の部隊として動かすことができる、という目論見です。
 味方を誤爆し覚醒剤中毒で廃人同様となっていたボイルドは、研究所で人工重力発生器を体内に埋め込まれ、また、睡眠を必要としない体に改造されていました。そして彼の相棒として選ばれたのが、ウフコック。ナイーブな性格のネズミ型万能武器。研究所でボイルドの回りにいるのは、元斥候で変身能力を持つレイニー、元通信兵で聴覚を失ったが音を自在に操れるワイズ、両眼を失明したが特殊なナノテクワームを散布することであらゆる所を“見る”ことができるクルツ、人語を喋り透明になることができる犬オセロット……まだまだいますが、なんとも“ユニーク”な登場人物(+動物)ばかりです。何かを失い、かわりに何かを得、孤独になりそしてまた関係を得つつある存在がやたらと多いのです。
 
 軍によって廃棄処分と決まった研究所は襲われますが、取引によって各被験者は3つのうちから一つの未来を選択することになります。ボイルドとウフコックは「自らの有用性を社会の中で証明する」道を選択します。
 ボイルドとウフコックを含む12人(厳密には10人と2匹)の部隊名として選ばれたのは「マルドゥック・スクランブル09(オーナイン)」。これがダブルオーセブンのようにダブルオーナインだったら当然私が想起するのは「サイボーグ009」です。肉体を改造されてそれぞれに特徴のある「武器」になってしまった人々。そしてチームの絆、強力な敵との戦い。「武器」として人の社会の中で生きることの困難さ。009たちは社会からは半ば孤立して生きていましたが、09のメンバーはわざわざ社会に出て行くのです(そうしなければ食っていけないし、有用性を証明できなければ“廃棄”されてしまうのです)。
 彼らは、証人保護プログラムで“仕事”を成功させます。裁判に不利になる証人を殺害しようとするギャングたちを撃退し、ついにギャングのボスを刑務所に送り込んだのです。「09」には仕事が殺到します。しかしその成功は、ダークタウンの暗部の口を大きく開けてしまったのでした。仕事で連携するべき司法や警察も無条件では信頼できません。そもそも09のボスであるクリストファー自身も、マルドゥック市の上層部とのつながりが“きれい”なものとは言えないフシがあるのです。
 章は「100」から始まりそして少しずつその数字を減じていきます。第1巻ではまだ「09」のメンバーは誰も失われていませんが、しかし彼らに近づく死の臭いがぷんぷんします。
 
 
15日(金)なからい
 日本最古の医書『医心方(いしんほう)』は、世界の一部では「房内篇」で妙に有名です。要するに房中術(ハウ・ツー・セックス)に一つの章を当てているのですが、なぜ医書に房中術かと言えば、つまりは「健康のためのセックス」というとらえ方をしているからです。これってある種の人にとってはものすごく魅力的なお話です。セックスをしてしかもそれで健康になれる、というのですから。大義名分が無くてもセックスに励みたい人が大義名分を得たら鬼に金棒(?)です。
 『秘戯書争奪』(山田風太郎)には、朝廷が秘蔵する『医心方』(厳密には「房内篇」)を将軍のために強奪しようとする忍者たちと守ろうとする忍者たちとの(忍術ではなくてセックス)秘儀合戦が描かれているそうですが(残念ながら私は未読)、実はこれは荒唐無稽なだけのホラ話ではありません。
 『医心方』は室町時代に天皇から典薬頭半井(なからい)光成に下賜され、以来ずっと半井家が大切に保管していました。そして徳川家がそれを欲しがり、京は断り続け、幕府はとうとう裏から手を回して『医心方』を“借り”て写した、というのは史実のはずです。で、それを欲しがった目的も、将軍の性と健康。つまり『秘儀書争奪』は何パーセントかは“真実”なのです。
 
 NHK7時のニュースで平日の天気予報を担当している半井(なからい)さんを見るたびに私はそんなことを思い出してしまいます。もしかしたら彼女は公家の末裔かも、と思いながら天気予報を聞いても、降水確率に変わりはないのですけれどね。
 
【ただいま読書中】
マルドゥック・ヴェロシティ 2』冲方丁 著、早川書房(ハヤカワ文庫JA)、2006年、680円(税別)
 
 ファミリーのボスが排除されてめでたしめでたし、とはなりませんでした。ボスの謎の「バック」は明らかにならず、後継者争いや労働争議でシティの混乱は激化します。
 第1巻で09メンバーの邪魔をしていたカトル・カール(09より前に民間で活動していた機械化傭兵部隊。誘拐・脅迫・暗殺・拷問が売り物)のメンバーがついに読者に紹介されます。奇しくも09と同じ12名ですが、それぞれが異能で異形、きわめてアブナイ狂戦士ぞろいです。たとえば、生きるナパーム弾、エンジン付き一輪車に乗った鞭使い、上半身だけの巨人の赤ん坊、全身が(ペニスまでも)銃の人間、対人地雷を振りまく巨大ゴキブリ、尖った手足と顎の巨大な蚤……まったく危険なサーカス団です。
 09部隊はカトル・カール相手に苦戦を続けますが、それはむしろ09部隊の評価を高めます。なにしろこれまでカトル・カール相手に数秒以上持ちこたえた人はいなかったのに、彼らは善戦を続けているのですから。
 しかしついに09部隊から最初の犠牲者が出ます。ただし予想外の方向からその死はもたらされました。ボイルドは捜査を続け、死そのものを内包するナタリアと出会います。ボイルドは彼女に言います。「俺がお前の願いを叶えてやることは不可能だろう。だがそれを妨げるものを取り除くことはできる」。それに対する彼女の「願い」は意外なものでした。
 
 本書を読んでいて私は「伊賀の影丸」(横山光輝)を思い出しました。公儀隠密と敵と同数ずつの忍者が選択されてお互いに忍術合戦を行って一人ずつ死んでいき最後には影丸だけが生き残る、といったストーリーがあったように私は記憶しています(40年以上前の記憶なので、相当あやしくはなっていますが)。それと同様に、本書では両方の部隊がお互いの能力合戦を行い、そして双方から一人ずつ死者が出ます。おそらく第3巻で、死者の発生スピードは加速していくのでしょう。
 孤独な存在からツーマンセルを結成し、さらに部隊へと関係を作ってきた人々(と動物たち)が、その関係を壊されていくのです。一心同体のように行動しているボイルドとウフコックがどうして別れることになるのか、そのとき一体何が生まれるのか……暗い期待を抱きつつ私は本書を閉じます。
 
 
16日(土)ノロ
 「急に増えたな。10年前にはこんな病気、聞いたことなかったぞ」というのは、ある意味“正解”でしょう。だって20世紀には“彼ら”は「小型球形ウイルス」という名前で2002年に「ノロウイルス」と“改名”したのですから10年前には「ノロウイルス感染症」という言葉自体はなかったのです。もちろん言葉はなくても感染症としての実態はしっかり存在していたのですが。
 しかし、冬に多い食中毒だなんて、なんて天の邪鬼なウイルスなんでしょう(普通食中毒は夏です)。便や吐物で汚染されたトイレのタオルを介して感染したり、乾いた吐物から微粒子のように立ちのぼって人を感染させるとは、なんてタチの悪いウイルスなんでしょう。しかもアルコールや洗剤での消毒は効かないし異常なほどごくごく少量のウイルス量で発症するし潜伏期間は短いし(1〜2日)検査には時間がかかるし(ウイルスの検出には1週間くらい)……ああ、もういやだ。
 
【ただいま読書中】
マルドゥック・ヴェロシティ 3』冲方丁 著、早川書房(ハヤカワ文庫JA)、2006年、680円(税別)
 
 エスカレートする戦いの中、ボイルドは拳銃を56口径から64口径に乗り換えます(ちなみに「でかい銃」の代表の44マグナムは44口径、コルト・ガバメントは45口径……さらについでですが、口径の前の数字は弾の直径が1インチ(25.4mm)の何パーセントかを示しています。軍用でポピュラーな9ミリ弾は約35口径ですが、64口径は16ミリ弾になります……モンスターだ。こんなのを手で持って撃ってはいけません)。
 09はボスのクリストファーを誘拐され、かつてカトル・カールを立体駐車場に誘い込んだことの鏡像のように、建設中の法務局ビルに誘い込まれます。09メンバーの特徴は把握され対策を立てられています。さらにサーバーはハックされ通信は傍受され、チームプレイはずたずたにされます。各個撃破される危機です。味方は次々傷つけられ、そして死んでいきます。しかし、重大な損害と引き替えに09はカトル・カールの隠れ家の情報を得ます。警察と共同して09はカトル・カールを急襲します。合法的な復讐戦です。
 そしてボイルドは知ります。自分がやってしまった友軍爆撃の真相を。ボイルドとカトル・カールの過去の交錯。さらに09の分裂。強引に引き裂かれるパートナーシップ。物語は一見停滞しても水面下ではぐんぐん加速していきます。ボイルドは決断します。この“事件”を解決するのではなくて制圧しようと。その結果ウフコックは“濫用”されます 。ボイルドはウフコックと訣別し、「俺」から「我々」になる道を選択します。それは同時にウフコックと戦うことを意味していました。眠らない兵士と眠る武器との別離です。
 しかし、殺されるために、そして、09のメンバーを殺すために登場するカトル・カールの面々は、怖くはありますがちと哀れです。「しゃぶってやるぜ!しゃぶってやるぜ!」「カリカリガリガリ」「いくよいくよいくよ!」なんて情けないセリフ以外をほとんどしゃべらせてもらえず、ただひたすら都市の戦場で跳んだりはねたり撃ったり撃たれたりしているだけなのですから。まあ彼らの「言葉」がコミュニケーションの意味を持たないことに関してもちゃんと理由はあるのですが……
 
 残念ながら最終的な「真相」や「バック」の解明が証人の証言で行われてしまったため、そこで物語のドライブ感が損なわれてしまいました。そうだなあ、たとえば「事件の報奨金の“スポンサー”が実は都市の名家で、金を使って“合法的”に相手の勢力をそごうとする名家同士の暗闘に09が巻き込まれていたのだが……」といった“解決”でもOKで、むりやりすべての「事実」(それまで張った伏線)の合理的説明を行わなくても良かったんじゃないか、と私は思うのですが、著者はまじめで義理堅い人なのかもしれません。
 
 ボイルドは「錆びた銃」というあだ名も持っていました。『オズの魔法使い』ですぐ錆びるブリキ男は「心」を探していましたが、ボイルドは結局「自分の良心」を無くしてしまったわけです。本書は最後に「エピローグ(第0章)」で終わります。「0」の次はまた「1」に戻って、『マルドゥック・スクランブル』に続きます。
 
 
17日(日)江戸の名医
 「江戸時代の名医は腹を触っただけで胃癌がわかったが、今の医者は検査検査と検査漬けにしないと胃癌一つも診断できない」なんて意見があります。「江戸時代には赤ひげがいたが、今はいないのか」という意見もあります。
 だけど……「江戸時代にわかった胃癌」とは、つまりは触った瞬間にごつごつした「癌の感触」が外からわかる「進行癌」「末期癌」ではないでしょうか。そもそも当時医者に担ぎ込まれるのは、病気によって飯も食えなくなった状態の人で、早期胃癌の人が「検診をしてくれ」と江戸の町医者を受診したとは私には思えません。ですから「末期癌を触ったらわかる」はそんなに大したことなのかしら。
 「赤ひげ」は一人しかいませんでした(そもそもフィクション、ということはここではおいておきます)。というか、そういった「名医」が評判になるということは、全体のレベルはそこまで高くなかった、ということです。グールドの『フルハウス』でも書かれていましたが、全体のレベルが上がれば偏差の幅は小さくなり突出した存在は減少します。つまり「名医がいる」ということ自体が「医療の全体レベルが低い」ことを意味しているわけ。近代医療はむしろ「名医が存在しない(どこでも同じ医療が受けられる)」を目指すべきでしょう。
 現在の医療レベルを江戸時代に戻したい、というのならともかく、そうでないのなら、あまり江戸時代のことを引き合いに出さない方が良いんじゃないかなあ、と私は思います。
 
【ただいま読書中】
マンモグラフィってなに? ──乳がんが気になるあなたへ』 美奈川由紀 著、日本評論社、2006年、1600円(税別) (美奈川の奈は本当は「大に示」ではなくて「木に示」です)
 
 まずレンブラントの「バテシバ」が提示されます。この絵のモデルはレンブラントの妻ヘンドリッキェ(当時28歳)ですが、絵に描かれた左乳房に(見る人が見たら)明らかに乳がんの徴候があるのです。実際彼女はそれから九年後に亡くなっています。
 乳がんは、ヒポクラテスも記載しているくらい「古い病気」です。しかしその正体はまだ完全に解明されたわけではありません。2000年には日本での乳がん新規罹患者は約35,000人、乳がんによる死亡者は9,200人でした(ちなみに、日本人の好発年齢は45歳、乳がん死亡のピークは55歳です)。そしてその数はどちらも年々増加傾向にあります(死亡者はこの20年で2倍)。ちなみに欧米の30〜64歳の女性のがん死亡のトップは乳がんです。
 
 著者は自らマンモグラフィを体験します。そのとき「予備知識を持っていた方がスムーズに受けられる」という感想を持ちます。何も知らずに初対面の技師に上半身はだかで対し「痛い目」にあったら「二度と受けるものか」と思うでしょう。しかし、マンモグラフィは「痛い」のです。そしてマンモグラフィは「痛い」ほど「良い」検査なのです。
 乳房は乳腺と脂肪から成りますが、痛みを感じるのは乳腺です。日本人は欧米人に比べて乳腺が多く、したがって圧迫で痛みを感じやすくなっています。しかしボケのないきれいな写真を撮るには乳房を数センチの厚みまで平らにしなければなりません。さらにその厚みが薄ければ薄いほど被曝量が減る、というオマケもあります。したがって欧米人は20キログラムくらいの圧で乳房をつぶします。日本人はそんなのには耐えられませんから10〜12キロくらいです。それでもひどく痛むのだそうですが……
 
 「乳がんの検診に婦人科へ行く」……これは厳密には間違いです。もちろん、婦人科にも乳がんが得意な医者はいますが、乳がんの専門家は乳腺外科、または外科です。ところが日本のアンケートでは乳がんで受診する人は、婦人科が53%、外科が31%、乳腺外科が27%……まだまだ啓発活動が必要です。そういえば「ピンクリボン運動」のこと、みなさん、ご存知ですか? マンモグラフィにかかわる技師も医師も、そのための試験を受けて合格していることもご存知でしょうか。
 
 そうそう、本書には面白いエピソードもいろいろあります。
 「○は女の命」とよく言いますが、江戸時代には「乳房が傷ついた女は死ぬ」と言われていました。文字通り「乳房は女の命そのもの」と考えられていたわけです。ところが華岡青州は牛の角に胸を裂かれた女性を治療した経験からその言い伝えが嘘であることを知っていたそうです。
 マンモグラフィが乳がん死亡率を減少させるのには有効ではない、という論文が2001年に「ランセット」に載ってから起きた大騒動も、部外者から見たら面白いものでした。当事者には胃潰瘍ができる思いだったでしょうけれど。
 
 乳がんの発生メカニズムがわからない以上「確実な予防」はありません。できるのは「がんができたらなるべく早期に見つけて処置をする」ことです。
 「しこりを見つけたらこわい」と自己検診をしない人もいますが、「しこり」には良性と悪性があります。専門医にかかって良性だったら安心できるし、悪性だったら育つ前に処置した方が良い(一年で直径は倍になるそうです)、ということです。さらに、小さければ小さいほど手術で乳房が温存できる可能性が高まります。乳がんができるのは悲しいことです。でも、せめてその「後」に対しては、泣きながらでも良いですから、選択できる中で最善の道を選択した方が良いでしょう。死なずにすむ病気、死なずにすむ状態の人には、死んで欲しくないのです。今は、乳房温存術や人工ボディも選べる時代になりました。選択肢が増えた時代ですから「あきらめる」「放置する」を選ぶのはできるだけいろいろなことを試したあとにして欲しいと思います。
 
 
18日(月)船旅
 私がこれまでに一番長い時間乗った船は、舞鶴から小樽まで日本海を北上するフェリーです。土曜の深夜に出発して月曜早朝に到着する、二泊三日だけど乗船時間は30時間くらいの「船旅」でした。結局日曜は丸々一日船上で過ごしたのですが……さて、一体何をしていたのやら、四半世紀くらい前のことで、記憶が全然残っていません。船内に映画館(ビデオ・シアター?)があったのですが「閉鎖中」とあってがっかりしたこと、食い物が高くて「乗船前に買って持ち込むんだった」と後悔したこと、船が全然揺れなかったことだけは覚えています。「船がなぜ揺れないか」のメカニズムについての説明も船内にありましたが、内容は忘れました。たしかスタビライザーがどうこう、と書いてあったような。
 全然揺れなくても私の記憶はどんどん脳からあふれ出てしまうようです。
 
【ただいま読書中】
船旅への招待』斉藤茂太 著、PHP研究所、1997年、1359円(税別)
 
 つい先月亡くなられたばかりの著者は大の旅行好きだったそうです。北杜夫の著作のどれかに「母親がすごい旅行好き」とあったのを読んだ記憶がありますが(昭和半ばに南極まで行った、と書いてありました)、旅行好きって遺伝するんでしょうか?
 
 本書はまず様々な思い出話で始まりますが、出征の時に乗った船まで「船旅」にカウントしているのは、さすがと言いたくなります。
 笑っちゃうのは、ソ連の客船のお話です。ソ連は「友好団体」優先で、著者は予約して支払いもしている部屋よりランクを下げた部屋に毎回入れられ、しかも差額を返してもらえない、という扱いを受け続けていました。それが時代が下がると、少なくとも差額は返してもらえるようになって「ソ連は変わった」と実感するようになります。
 
 そして本書の後半は……1996年「飛鳥」の世界一周ファーストクルーズに著者は参加します。横浜を出発して3日目、船長のスピーチが「本船は九州に別れを告げて横浜に向かって走っています」……たしかに三ヶ月後の目的地は横浜ですけどね……
 香港で船から上陸した著者が「香港でどうしても乗りたいもの」とそそくさと向かうのがスターフェリー。船に乗るために船から降りるんですね。シンガポールではこんどはロープウェイです。ただしこれは「乗りたい」から乗るのではなくて、このロープウェイが港の上空を通過するため「飛鳥」を真上から撮影できるからなんですが。このとき著者は80歳。お元気です。
 しかし読んでいると多忙な毎日です。ある1日には……「システィーナ礼拝堂」の講義・マジック教室・丸かご作り教室・ヨガ教室・チーフパーサーのトーク・インド料理教室・写真教室・シュノーケル教室・囲碁教室・ダーツゲーム大会・ダンス教室・カジノトーナメント・ショーが複数・映画、食事は一日七回……「絶対船客を退屈させないぞ」という会社の固い決意が伝わってきますが、全部につき合っていたら身が保ちません。さらに、航海が進むにつれて船客同士の交流が深まり同好会が次々生まれます。全部参加したら体がいくつあっても足りません。ほどほどが大切です。「長期クルーズで勤勉に日課をこなしました。でもそれで疲れ果てました」なんてのは洒落になりませんやね。著者は「心の要求水準を適度に切り下げること」の大切さを説きます。
 
 著者が体験したクルーズ(96日、スイート泊)をすると、今だったら101日間でSスイートなら1600万円(一人分、早期割引)、Aスイートなら1000万円。宝くじでも当たったら切符は買えますが、さて、周囲は金持ちや著名人だらけなんですよねえ。まあ船内で肩書きにどの程度の意味があるのかは知りませんからそれはなんとかなるとして、私にとって大きな障害になりそうなのがドレスコードです。「カジュアル」は普段の恰好だし「インフォーマル」はしまい込んであるネクタイを引っ張り出せばなんとかなりそうです。問題は「フォーマル」。普段縁がないから困ります。私はタキシードは結婚式の時に貸衣装で着ただけですし家内はドレスなんか持ってません。どうもこの夫婦は世界一周クルーズには憧れるだけでやめておいた方がよさそうです。あ、家内は和服を着るという手があるか。すると問題はやはり私です。タキシードを着る練習をしなくちゃ。あ、その前に宝くじを買わなきゃ。
 
 著者は元兵士のせいか、本書では戦跡や船が沈んだあとについての記載が目立ちます。それとご両親の足跡についての記述も。旅をしてまったく未知の土地に行ったとしても、人は自分の人生を通してその場所を、あるいは自分の人生そのものを見つめているのかもしれません。
 
 
19日(火)空のひっかき傷
 朝空を見上げたら、東西(または西東)方向に5本、南北方向に1本飛行機雲がありました。どちらを向いても飛行機雲だらけです。高空では飛行機雲が出やすい気象条件だったのでしょう。ぼんやり見ると、空にまるで細い(所によっては太い)傷が縦横につけられたみたいです。
 写真を撮ろうかと思いましたが、私のケータイのカメラでは全天をカバーできないのであきらめて心に焼き付けておくことにしました。
 
【ただいま読書中】
日本戦艦物語(1)』(福井静夫著作集第一巻) 光人社、1992年、2136円(税別)
 
 戦艦は英語でBattleshipですが、この言葉は19世紀末から用いられるようになりました。帆船時代の戦列艦は積んでいる大砲の数で表現されました(「百門艦」とか)。大きさによって大型の戦列艦、中型のフリゲート、小型のスループ・コルベットといった区別はありましたが厳密な分類ではありません。1850年頃から蒸気機関が採用され、ほぼ同時に甲鉄による防御も普及します。船体は木製から鋼鉄製となり、弾丸と甲鉄はお互いに激しい競争をします(矛が発達したらそれに破られないように盾が、盾が発達したらそれを破るために矛が、の循環です)。巨大な主砲を有効に使うために船体は大きくなり旋回式砲塔が採用され、邪魔になる帆柱は消え去ります。こうして「戦艦」が誕生し、1889年のロイヤル・サブリン型、1894年のマジェスティック型によって近代戦艦の歴史が始まりました。
 日清戦争で清が保有していた「定遠」「鎮遠」は世界的にも第一級の戦艦で、定遠は自爆しましたが鎮遠は捕獲されて帝国海軍初の戦艦となります。ついで日露戦争に備えて日本は英国に戦艦を次々発注します。日英同盟さまさまです。ロシアが派遣して来るであろう艦隊の構成に合わせて、戦艦と装甲巡洋艦で日本艦隊は構成されました。結果、日露戦争直前には日本は英仏露に次ぐ世界四位の海軍国になっていたのです。
 
 戦艦を含む大艦隊同士の艦隊決戦は意外に例が少なく、日露戦争の黄海海戦と日本海海戦、第一次世界大戦のジェットランド海戦くらいしかないそうです(ドッガー・バンク海戦は巡用戦艦同士)。日本は非常に貴重な経験をしているわけです。しかし、日露戦争後、世界は激しく動きます。日本海海戦の教訓から各国は新鋭艦を続々開発投入しました(その最初の代表が英国のドレッドノートで「ド級」「超弩級」という言葉を生みました)が、日本は国内製造を始めて質の確保が難しく、さらに性能の劣るロシア艦を浮上修理して再使用することに手を取られて、結局日本艦隊は質が低下してしまっていたのです。それでも、造船所を整備し天才的な造船官の発想によって、日本海軍は世界に追いつけ追い越せの努力を続けます。
 戦艦はおそろしいスピードで発達し続けました。しかし、第一次世界大戦時、海軍の活動(移動距離や戦闘(発射砲弾数))の中心は巡洋艦になっていました。この時代にすでに戦艦は“過去のもの”になろうとしていたのです。すべてのもののスピードがゆっくりの時代には、遠くまで届く巨大な打撃力は絶対的な存在でした。しかし、高速での勝負が問題になると「巨大さ」は「でかい的」でしかなくなってしまうのです。巡洋艦は高速で移動できますが戦艦はそれについていくことができませんでした。そして、飛行機や魚雷の時代がもうすぐ始まろうとしていました。日本はそこで高速戦艦の概念を採用します。
 その頃米国が海軍国として伸してきます。本書には日米の設計思想の違いが紹介されています。日本はとにかく機能を盛り込めるだけ盛り込んでから個別に工夫して個艦優位性を獲得しようとするのに対して、米国は割り切れるとことはあっさり割り切り艦隊全体としての運用を考えて構築する、とまるで対照的だ、と著者は述べます。日本は「個」を重視し、米国は“全体”主義……なんだか政治体制と“逆”みたいですね。
 
 著者は東大で造船を学び、終戦ちょっと前に海軍造船官となります。本人の言葉によれば“現役”だったのは8ヵ月。冷たい言い方になりますが“戦争に乗り遅れ”てしまった人です。が、だからこそ「現場に密着する」「現場から離れて客観的に見る」の相反する立場を取れたのかもしれない、と私は感じます。日本を愛しているが、だからこそ日本の到らない部分についても事実に即して判断をためらわない態度は、私にとっては学ぶべき所が多いものです。
 
 
20日(水)変容
 甲さんが乙さんに「○○」と言いました。それを聞いた乙さんはその意見に賛成でも反対でもとにかく反応をして「××」と言いました。この時、甲さんの「○○」を聞く前と聞いた後で乙さんは少し変化しています。乙さんの「××」を聞いた甲さんはそれにまた反応して「□□」と返します。この時先程の乙さんと同様、甲さんはその前と後で少し変化しています。ですから「□□」は「○○」とは異なっているはずです。
 「変化しない」ためには耳を塞いでいなければなりません。常に同じ言葉を発し続けなければなりません。でも、まともに言葉のやり取りをしていたら、そんなことは不可能でしょう。
 つまり、まともなコミュニケーションをしている人は、常に変容し続けているのです。
 
【ただいま読書中】
デカルトの密室』瀬名秀明 著、新潮社、2005年、1900円(税別)
 
 著者によると本書は『メンツェルのチェスプレイヤー』の続編に当たるものですが、単独で読めるようになっているそうです(私も『メンツェル〜』は未読です)。
 
 世界的な人工知能コンテスト「チューリング・プライズ」に画期的なロボットと登場したフランシーヌは「人工知能の定義の前に、そもそも人間は知能を持っているのか?」と問いかけ、さらに逆チューリングテスト(密室に閉じこもった人工知能と人間二人の中で、どれが一番“機械”らしいかの判定)をするよう挑戦します。人間代表として指名されたのは、育成型の人工知能を搭載したロボット「ケンイチ」を開発している尾形。その後誘拐された尾形は「中国語の部屋」に閉じ込められ、救助に向かったケンイチはフランシーヌを射殺します。しかしケンイチは尾形を殺したと思っています。
 やがて「プロメテ」という企業がフランシーヌそっくりの精密なロボット(アンドロイド)を市販しようと強力なプロモーションを開始します。さらにそれと同時並行する形でインターネット上に「フランシーヌの知」とも言える人工知能のようなプログラムが定着し爆発的に増殖/発展し始めます。これは「知の新しい形」なのか、それとも……
 
 *チューリングテスト:人工知能がタイプされた文字だけで人間とコミュニケートして、人間と区別がつかない応答ができるか(人間らしいか)どうか、というテスト。
 *中国語の部屋:これについては本書を読んでください。あと、アシモフの三原則(とそのもじり)やフレーム問題も出ますが、これもちゃんと親切な解説が載っています。
 
 デカルトの『方法序説』が重要な小道具として登場します。別に“予習”しなくてもOKですが、もし読んでいたら一度読み返しておくと本書の面白さが倍増するかもしれません。エキセントリックな登場人物によるちと牽強付会な解釈もありますが、笑いながら読めば良いんじゃないかな。
 本書にはさまざまな“密室”が登場します。デカルト劇場の密室・モラルの密室・リンクした密室・リンクしていない密室・二重の密室・三重の密室……なぜ人間の(あるいは機械の)「知的能力」を論じるときに「密室」が登場するのでしょうか? そういえば知とは離れた例ではシュレディンガーの猫も密室に閉じ込められています。人が思考実験をするときには非現実的で極端な例をおくことが多いのですが、すると「密室」を使わなければ論じることができないもの(たとえば(人のであろうと人工であろうと)知能)とは、密室には存在しないことが前提の存在ということになるわけです。
 もしかして、「コミュニケーション」こそが「知能」の実体? いや、たしかに“密室”に閉じ込められて外と何の交流もしていない存在の場合「それが知能であるかどうか」以前に「存在しているかどうか」の判定ができません。だとしたら「知能の確認」はすなわち「“それ”とのコミュニケーションの確認」になってしまうのですが、そのときコミュニケーションの相手である〈わたし〉は誰が確認してくれるのでしょうか?
 さらに「物語」の重要性も。尾形は研究者であると同時に作家であり、ケンイチも小説を読むだけではなくて自分で書き始めます。「世界と“わたし”との関り」を記述するとき「物語」が存在する意味の重要性を著者は示唆します。
 
 他者の交流の基本は、まず「視線」とケンイチは教わります。相手を見つめることが大切/見つめすぎることは失礼、と。そういえば、ビデオチャットでは「目を合わせる」ことは可能なのでしょうか? カメラは画面の相手の目の位置にはついていません。では相手の画面のことを思って「カメラ目線」にしなくてはいけない? でもそれだとこちらが相手の視線を感じられません。
 さらについでですが、本書では編集者(の立場)に対する気遣いもけっこう感じられます。現実世界で著者が編集者と良い関係を保てている、ということなのかしら。
 
 
21日(木)裏庭のロケット
 かつてタイムマシンは個人住宅の研究室で作られ、月ロケットは住宅の裏庭で作られる物でした。これは“それ”がフィクションだから、ではなくて、昔(少なくとも20世紀初めまで)は科学が“そのようなもの”だったからです。たとえば19世紀のイギリスでは科学はジェントルマン階層のもので、だからこそ啓蒙主義が意味を持ちました。
 しかし20世紀半ばに、それまでの科学後進国アメリカが科学の中心となります。戦争で欧州の優秀な科学者が主にアメリカに亡命し、戦乱で欧州では研究どころではなくなり、さらにアメリカでは軍産科学複合体ができることで現在のようなビッグ・サイエンスが成立して現在に至るのです。科学技術を研究開発する最小単位は、現在おそらく大学の研究室でしょう。数学や理論物理学で理論をこつこつと組み立てるのは個人の仕事でしょうが、モノを扱う場合はそれ以下の規模では相当困難なはず。
 もし今「個人がこつこつとマンションのリビングでタイムマシンを組み立てている」という話を小説化するとしたら、作者は相当苦労しなければならないでしょう。技術的な困難と戦う必要があるだけではなくて、「科学(技術)は組織で行われるもの」という現代の“常識”とも戦わなければならないからです。
 ただ、かつて組織の産物であったアニメ映画も現在個人製作が可能になったように、いつかは科学もまた個人の元に戻ってくるかもしれません。
 
【ただいま読書中】
科学大国アメリカは原爆投下によって生まれた ──巨大プロジェクトで国を変えた男』歌田明弘 著、平凡社、2005年、2800円(税別)
 
 ヴァニーヴァー・ブッシュは機械いじりが好きな少年がそのまま真っ直ぐ育ってMITの副学長になったような人間で、戦争直前にワシントンのカーネギー研究所長に転職し1941年にはロックフェラー微分解析機(アナログ・コンピュータ)を完成させます。ワシントンという地の利と役職を生かして、ブッシュは軍産科学複合体制の確立を目指します。彼の原動力となったのは「科学を公共に役立てたい」という熱意でした。
 ブッシュはルーズベルト大統領に直接働きかけてNDRC(国防研究委員会)を立ち上げます。それまでのやり方とは違って、NDRCは自前の研究所を持たず、企業や研究機関と個別に契約を結んで開発を委託しました(予算が節約できるし、機密情報は分割することで守りやすいし、研究者は慣れた環境で仕事が続けられる、という様々な利点があります)。1941年、NDRCと医学研究所をまとめて統括するOSRD(科学研究開発局)が設立され、ブッシュはその長官になります。そこで開発されたのは、火炎放射器・ペニシリン・DDT、そして濃縮ウラン。しかし原爆はまだまだ実現不確定な「遠い目標」でした。
 科学者は政治や軍事には疎く、政治家や軍人は科学に疎い。そこをブッシュは強引に統合していこうとします。軍産科学複合体を確立しようというのです。ところが、科学者も政治家も軍人も、原爆のことは「でかい爆弾」ということ以外何一つ知りません。原子爆弾によって何が起きるのか、自分が責任を取れない未来に直面してブッシュはためらいます。しかし、「ナチスが先に原爆を作ったらどうする」「何億ドルもつぎこんだのを無駄にするのか」という声に背中を押され、マンハッタン計画は前進を続けます。皮肉なことに1942年にはドイツは原爆開発をあきらめて動力源としての原子炉研究を細々と継続するだけになっていたのですが(ノルウェーの重水はそのために必要でした)。……「イラクの大量破壊兵器」を思い出しますね。
 “味方”であるはずの英国との原爆の情報移転に関する厳しい折衝や米国政府内の不統一を見ることでブッシュは原爆が兵器としての意味だけではなくて政治的な意味を持った存在であることを知ります。
 1945年ルーズベルト大統領が脳溢血で死亡。跡を継いだトルーマンは詳細をほとんど何も知らない状況で原爆の使用を決断しなければなりませんでした。原爆を使用することで影響を与える目的とする人々は3種類。まず日本人。心理効果を与えることを期待しましたが、実際にはあきらめ気分(敗戦の予感)を少し上乗せしただけでした(調査では、被爆地以外では明らかにネガティブな心理的影響を受けた人は6%だったそうです)。ついでソ連。戦後の米ソ対立はすでに予想されており圧倒的な力を誇示する必要があると考えられました。しかし実際の原爆使用を見たソ連はプレッシャーを感じて原爆開発を加速させ4年後には自前の原爆を持ちます。そして最後はアメリカ国民。政府が民意で動く以上、20億ドルもつぎ込んだ“成果”を使わずに“無駄”にするわけにはいかなかったのです。こちらは当初の目的を果たせたようです。
 戦後科学技術は巨大プロジェクトチームによるビッグ・サイエンスとなりますが、ブッシュはそこから離れてパーソナルなコンピュータの未来を夢みるようになります。「メメックス」というハイパーテキスト構造について彼はエッセーを書き、それが形を変えて現在のパソコンに実現されています。
 
 著者はブッシュのもののとらえ方を世界を単純化しすぎと批判しますが、実は著者もその弊から逃れることができていません。たとえばブッシュの外観への単純なこだわり、あるいは「原爆を投下された側」という割り切り。日本人が全員原爆に関して“同じ側”に立っているとは私には思えません。著者は、被爆者を一番差別したのは同じ日本人だったことや、広島市民が「反核平和」だけではないこともご存じないのかな。
 
 
22日(金)高い評価
 普段は見えないことが「異常事態」ではよく見えることがあります。たとえば私が体を壊したときにも、いろんなことがわかりました。
 職場で、効率が落ちてしまった私の周辺で、「何か自分にできることはないか」とこまめに動いて助力してくれる人、何もせず冷ややかに見ている人、そして「これができていない」「これもできていない」と私のあら探しをする人がいました。で、一部では最後の人が一番高評価を受けたりしているのです。それはそうかもしれませんね。「これができていない」と指摘する人と指摘される人がいたら、それは当然指摘する人の方が「優秀」なのですから。
 でも……私は「自分は動かないで、重箱の隅をつついて非難する」ことよりも「助力・協力する」ことの方が好きなんですけどねえ。「他人の足りないところを指摘して得意がる」人よりも「自分が他のメンバーに貢献できているかどうかを気にする」人の方が好きなんですけどねえ。
 
【ただいま読書中】
木を植えた男』ジャン・ジオノ著、フレデリック・バック絵、寺岡襄 訳、桑原伸之 構成、あすなろ書房、1992年、1365円(税込み)
 
 “わたし”が南フランスの荒れ地で、一人で生きる初老の羊飼いエルゼアール・ブフィエに出会ったのは1913年のことです。彼は3年前から荒れ地にカシワのドングリを10万個植え続けていました。芽を出したのは2万個。育つのはその半分、と彼は見こんでいました。かつて小川があって今は枯れ果てている谷間にはカバの木を植えようとも計画をしていました。地下には水があるはず、と彼は信じていたのです。
 第一次世界大戦が起き、“わたし”は従軍します。戦後“わたし”はまたあの荒れ地を訪れます。ブフィエは、若木を食べる羊を手放し蜂蜜飼いになっていました。相変わらずドングリを植え続けており、そして1万本のカシワは10歳の木となって著者たちの背丈を超していました。そして谷間には、小川が復活していたのです。
 “わたし”は毎年ブフィエを訪れるようになります。変化はゆるやかに、しかし確実に進行していました。もちろんすべてが上手くいくわけではありません。ある年にブフィエが植えた1万本のカエデは全滅しました。ブフィエはカエデはあきらめ、1年後にはそこにブナを植えます。
 森林監視官が見回りの途中ブフィエを見つけ、おごそかに言い渡します。「“自然の森”を守るために、火を焚いてはならぬ」と。政府の派遣団がやってきて、森を国の保護区に指定します。炭焼きから守るためです。“わたし”はその派遣団の中にいた友人の営林監督官にブフィエを紹介します。監督官は森に驚歎し、監視官を任命して森の安全を確保します。
 第二次世界大戦が始まり、木が伐採されようとします。ブフィエは相変わらず木を植え続けていました。ただ黙々と、孤独の中で。魂の中に理想のともしびを掲げながら。戦争が終わります。かつての荒れ地は楽園に変わっていました。
 
 ソフトフォーカスの絵が本全体の雰囲気によく合っています。読者は本の中で「ブフィエの森」を彷徨い黙想し、そこから自分でなにかをつかむことを求められます。キリスト教的解釈をするならブフィエの行為は祈りそのものと捉えることができるでしょうが、非キリスト教徒の私としてはどう解釈したものか……ま、性急に結論を出す必要はないでしょう。木が育つように、ゆっくり考えていっても良いんじゃないかな。
 ご立派な言葉を並べ立てることが格好いいとか、ドングリを植えるにしても人前でやりたいとか思う人には向かない本でしょう。
 
 
23日(土)治癒
 「○○が治癒した」と聞いたら、次の二つのどちらが“正しい”と思います?
1)○○が治って元の体に戻った
2)○○が治る気配がない
 
 普通は1)ですよね。ところがところが、労災の行政用語では2)なのです。
 
 労働者災害補償保険法(労災保険法)第13条・療養補償給付の行政解釈によると、「“治癒”とは、症状が安定し、疾病が固定した状態にあるものをいうのであって、治療の必要がなくなったものである。すなわち、負傷にあっては創面の治癒した場合(しかし、個々の傷害の症状によっては、その治癒の限界が異なることはありうる。)、疾病にあっては急性症状が消退し慢性症状は持続しても医療効果を期待し得ない状態になった場合等をいう」とされています。また、判例によれば「補償の対象となるのは、医学的にみて通常医療効果の期待し得られる場合に限られ、効果的な治療方法が期待し得られなくなったときは、たといなお身体の障害が残存しても治ったものとされ、治療方法の効果を医学上一般的に承認せられているものでない限り療養補償の対象とはならない」だそうです。(もちろん労災から放り出されるわけではなくて、障害認定は受けられます)
 
 つまりお役所は「症状が固定した状態」を「治癒」と定義づけているわけ。これ、「治癒」じゃなくて「後遺症が残った」という方が正しいんじゃないかと思うんですけど……
 要するに誰かが「労災で金を出したくないから早く“治癒”になってくれ。ならないんだったら言葉の定義で治癒にしてやる」と考えたんじゃないかな。でもそういった“お利口”な人は、自分の親の認知症(痴呆)がひどい状態で固定したら「ああよかった。認知症が治癒した」と言うんだろうか。
 
【ただいま読書中】
三池炭坑 ──1963年炭じん爆発を追う』森弘太・原田正純 著、NHK出版、1999年、2500円(税別)    (本のリンクは要約版にしてあります)
 
 炭坑には斜坑(初期投資は軽いが、深い地層になるとコストがかかるようになる)と立抗(初期投資はかかるが、大規模炭坑では斜坑より結局コストが安い)の二方式がありますが、日本では主に斜坑が選ばれました。しかしそれでは海外の石炭に結局コストで負けます。そこで労働コストの削減です。明治初期、まずは囚人を炭坑労働者として採用しました(佐渡の金山と同じですね)。三池炭坑初代事務長の団琢磨男爵は「(出稼ぎの)農民抗夫は学もなく使いものにならないが、囚人は扱いは難しいが1年も経てば熟練抗夫となる」と高い評価を与えています。実際農民抗夫の離職率は異常に高いものでしたが、囚人は脱走さえ防げば奴隷的に使用できて“お得”だったのです。それは同時に「炭坑労働は社会の最下層」という社会的蔑視をも生み出しました。第二次世界大戦中には熟練工が不足し、穴埋めは勤労奉仕隊や朝鮮・中国人やオーストラリア人捕虜でした。
 
 戦後も「合理化」の名の下にコスト削減が行われます。それは安全コストの切りつめも含んでいました。
 1963年三池炭坑で炭じん爆発が起きます。爆死者は5名でしたが、構造の問題や救助の遅れによって急性一酸化炭素中毒で453名が死亡、後遺症が839名という大事故でした。事故調査に入った政府技術調査団は三井鉱山の“証拠隠滅”と戦わなければなりませんでした。炭じんが貯まりやすい場所が事故直後にきれいに水洗されてしまっているのです。調査団の目的、炭じん爆発を起こす炭じんの量と場所を確定し再発予防対策を立てることがこれでは果たせません。(三井鉱山は監督官庁には「週に一回掃除している」と報告していましたが、実際には2年半手つかずでした) 事故の第一原因は炭車の暴走ですが、その原因は3年ごとに交換するべき連結リンクを10年間使用していたことでした。第二原因の火源は、暴走する炭車が高圧ケーブルを切断して飛び散ったスパークです(地中にケーブルを埋めておけばそれは予防できました)。ところがその鑑定書は握りつぶされ、検察庁は不起訴の決定をします。調査途中に操業再開が許可され“現場”は消滅します。再調査が行われ炭じん爆発は否定され三井に有利な報告書が提出されますが、その調査費用は政府ではなくて三井鉱山が全額負担していました。
 熊本大学医学部神経精神科はCO後遺症患者の集団検診を定期的に行っていました。この教室は“現場に出る”がモットーだったのです。その暗然とする検診結果については本書を読んでいただくとして、私が感じたのは「日本の“病根”は、明治から今までずっと続いている」ということです。行政の怠慢/企業の擁護には熱心/被害者の救済には不熱心、のスクラムは過去のものではないでしょう。水俣病・イタイイタイ病・薬害エイズ・アスベストなどのキーワードをここに置いておきましょう。
 
 
24日(日)サンタを困らせる
 次男がせっせとサンタクロースにお願いの手紙を書いていました。こちらには見せてくれませんが、どうも人気のゲーム機をお願いしているようです。しかし我が家では小さい子どもにはゲーム機を扱わせたくないのです。そこで私もサンタクロースにお願いすることにしました。「サンタさんお願いです。どうか我が家にはゲーム機を持ってこないでください」と。次男にもその旨を通告しました。さて、サンタさんはどちらのお願いを聞いてくれるのでしょうか。今夜が楽しみです。
 そうそう、私の通告を聞いて次男は早速サンタさんへのお手紙の改訂版を作っていました。相変わらずこちらには見せてくれませんが、人気の玩具をお願いするつもりのようです。きっとサンタさんの倉庫にはもう在庫がありませんってばぁ。
 
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音楽から沈黙へ フォーレ 言葉では言い表し得ないもの……』ウラディミール・ジャンケレヴィッチ著、大谷千正・小林緑・遠山菜穂美・宮川文子・稲垣孝子 訳、新評論、2006年、4500円(税別)
 
 カバー表にはフェルメールの「音楽のレッスン」が大きくあしらわれています。背表紙にも同じ絵が小さく、そして裏表紙にも全体の1/6くらいの大きさで同じ絵が……バーコードが邪魔です。あんなでかいバーコードを二本も置こうと決めた人は、本の装幀が美術の一分野であることは二の次なのでしょう。
 私は「フォーレの音楽」は好きですが「フォーレについての蘊蓄」は皆無です。しかしこの素敵な装幀に惹かれてしまいました。知識を得ることが吉と出るか凶と出るか、それは読んでのお楽しみ。
 
 一読気がつくのは、主語で「私たち」が多用されていることです。(もちろん一番多いのは「フォーレ」ですが) ほんの少し前に読んだ『Aをください』の主語が「たち」抜きの「私」であることと対照的です。「私たち」は、著者が論じる対象を客観視している証明なのかもしれません。
 著者はフォーレの活動時期を三分し、それぞれを詳細に検討します。ただし著者は、フォーレの歌曲の「分析」ではけっこう饒舌ですが、器楽曲ではちと口ごもりがちになります。「分析」は論理優位の作業でしょうから「ことば」がある方が作業がやりやすい、ということなのでしょうか。
 ここで私は一度本を閉じてタイトルをながめます。「言葉では言い表し得ないもの」……まるで本書の存在価値そのものを自己否定をしているような文字列です。しかし、音楽はどこまで「ことば」で言い表すことができるのでしょうか。表現できるとして、その「中身」を言葉を通して他の人がどのくらい「共有」できるのでしょうか。
 
 リズム・転調・メロディー・歌詞などについて、延々と詳細な評論が続きます。様々な曲のタイトルが挙げられ様々な作曲家の名前も挙げられます。馴染みの固有名詞の場合には「こんなイメージを付託しているのかな」とある程度見当がつきますが、それでも著者と私が同じイメージを共有している保証はありません。読んでいてちょっとずつ私は不安になります。
 
 私があれっと思ったのは、たとえば「嬰ハ長調は輝かしい調」といった言い方です。さらにフォーレが多用する転調についても著者は「○調から×調への転調はうんぬんかんぬん」と述べます。 
 著者はそれほど明確に断言していませんが、フォーレは音符の流れだけではなくて、転調によっても演奏家と聴衆に多くのことを語りかけている、とは言えるでしょう。しかしその転調は著者が述べるように「苦悩のニ短調がニ長調に転じて確信を表す」といった形かどうかは疑問です。ほとんどの聴衆は楽譜を見ながら「今ニ短調だ。あ、ニ長調に変わった」なんて聞き方はしません。調が変わったことには当然気がつくでしょうが、それが正確には「○長(短)調」であるかどうかではなくて、転調によって自分がどんな感覚的(感情的)変化をきたしたかの方に注目しているはずです。さらにフォーレは「今が何調であるか」がわかりにくい和音を使うことがけっこうあります。まるで「分析」を拒むかのように。
 労作ですが、一般聴衆の一員である私にとってはやはりフォーレは「論理による分析対象」ではなくて(言葉では言い表し得ない)「感覚と感情で味わうもの」だったようです。
 
おまけ)
 モーツァルトのレクイエム。私はその底に「苦」を感じます。「苦しさ」「苦々しさ」。露骨に言うなら「俺はまだ死にたくないよぉ」という呻き。
 フォーレのレクイエムに私が感じるのは、透明な諦念です。「ここまで良く生きた。そしてここで良く死ぬのだ。ああ、天国が私を待っている」という受容と満足。
 私はクリスチャンではありませんが、自分の葬式にはフォーレのレクイエムを流して欲しいと思っています。あ……自分では聞けないなあ。残念。
 
 
25日(月)Mー1グランプリ
 今年もM−1が行われました。昼過ぎから敗者復活戦が行われているのをだらだらと見ていたらいつの間にか夕方。のんびりとした休日でした。決勝戦を勝ち上がった三組の面々についてはその選択も順位も珍しく審査員と意見が一致していました。いつもだったら「その採点はないだろう」と文句をTVに向かって言っていることがけっこう多いのですが。
 三位で勝ち上がった麒麟も去年より面白くなっているし、漫才師も審査員も客も、どんどん進歩し続けているのかもしれません。漫才師も大変ですね。自分たちの持ち味を維持しつつ新境地を切り開き続けなければならないのですから。「前と同じ」はプロとしては褒められることですが、コンテストでは減点材料になってしまいます。特に新しい人たちが次々登場する環境では。
 最終決戦でのフットボールアワーも大変面白かったのですが、“元気の良い店員”のセリフがもうちょっと聞き取りやすい方が良かったなあ。威勢が良すぎて言葉自体は不明瞭だけど何を言っているかはちゃんとわかる、となっていると良かったのですが。チュートリアルはもう爆笑。二つのネタの順番を変えても結果は同じだったのではないか、と思っています。日常的にあるはずのごく普通の出来事(冷蔵庫を買う/自転車のベルを盗まれる)がどうしてあんなに面白く異化されてしまうのか、感心しました。
 ただねえ、審査員にもうちょっと若い人とか女性も混ぜて良いんじゃないかしら。いや、今年の審査結果(チュートリアル優勝)に不満があるわけではないのですが。そうそう、過去の優勝者もゲストとしてどこかで出番を作ってやれないでしょうか。特番でも良いですけど。
 
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ムーミン谷の彗星』トーベ・ヤンソン著・絵、下村隆一 訳、講談社、1990年、1458円(税別)
 
 私が子供時代に読んだムーミン全集の第一巻は『たのしいムーミン一家』でしたが、今の全集は著者が書いた順番に組まれていて本書が第一巻となっているのだそうです。アニメ(先日亡くなられた岸田今日子さんの声)で記憶している人も多いだろうシリーズですが、私にとってはやはり記憶の基底は本です。
 
 ムーミンがムーミンパパやムーミンママやスニフと楽しく暮らしているムーミン谷に(というか地球に)巨大な彗星が迫ってきます。空は赤く染まり地上はどす黒くなり海や川は干上がります。この世の終わりかも、と不安にかられたムーミンとスニフはおさびし山のてっぺんにあるという天文台に行って真実を知ろうとします。その旅の途中で出会うのが、スナフキンやスノークやスノークのお嬢さん(フローレンまたはノンノン)。何かを収集することに夢中でそれ以外のことはまったく目に入らないヘムル。星の観測に夢中で衝突の時間まできちんと計算できるのに地球が滅びる可能性にはまったく無関心な天文学者。悲観的なことだけを言い続けて周囲を気落ちさせる名人の自称“哲学者”じゃこうねずみ。ひたすら会議と記録に夢中の几帳面なスノーク。ムーミンの友達のスニフは、弱虫で無責任で依存的……なんとも個性的な面々です。経験豊富で何でも知っている兄貴分のようなスナフキンだって“常識的”とはとても言えない行動をしています。そうだなあ、一番“まとも”なのはもしかしたら売店のおばあさんかもしれません。だけど、彼らに共通するのは「自分は何が好きか」がきちんとわかっていることです。その点に関しては彼らはそれぞれ自信たっぷりです。スニフだって「これは全部きみたちの責任だぞ」と断言しながらげろげろ吐き戻しています……これはちょっと違うか。
 
 私にとって本書で一番印象的なのは、空に大きくかかった彗星に追われるように、干上がった海底を旅の一行が竹馬で旅するシーンでした。自分が知っている世界が異世界と化してしまったものに直面する不安と滅びの予感に満ちています。もし「ムーミン」を「ほのぼの」というキーワードで捉えている人がおられたら、一度本を読まれることをお勧めします。
 
 
26日(火)老け顔
 江戸時代、女性は結婚したらお歯黒をし出産したら眉を落としていました。明眸皓歯のどちらも犠牲にして人工的に老け顔にするわけです。老け顔にするのは女だけではありません。男も丁髷を結うのに月代をきれいに剃ってましたがこれは禿頭を人工的に作っているわけで(僧侶と医者は最初から坊主頭でした)これも老け顔と言えるでしょう。月代は戦国時代に兜を安定させるために始まった、と聞いたことがありますが、町人もやるのですからこれは“実用”のためではないでしょう。そういえば武士の役職も上は「中老」「老中」「大老」だし、奥女中の筆頭は「老女」です。
 江戸の日本文化は「老」に対する独特のこだわりがあったようですね。
 
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江戸美人の化粧術』陶智子 著、講談社(講談社選書メチエ)、2005年、1500円(税別)
 
 著者は資料として化粧をする姿を描いた浮世絵を集めていましたが、「美艶仙女香」という商品が多くの絵に描かれていることに気がつきます。この商品は一体何なのか、そしてどうしてこの商品だけが突出して浮世絵に描かれているのか、その疑問を追っていったのが本書です。
 
 庶民のメディアである浮世絵は江戸時代に大量に生産され大量に消費されていました。その一つのジャンルが美人画です。江戸で評判の美人を描いて配るわけです。今だったらグラビアとかブロマイドにあたるものでしょう。有名なのは鈴木春信が描いた「明和の三美人」や喜多川歌麿の「寛政の三美人」です。ところがこれらの浮世絵を並べてみると「三美人」の区別がつかないことに著者は気づきます(というか、誰が見ても一目瞭然です)。もちろん画家によって個性はありますが、とにかく「この画家が美人として描く」パターンは確立していてどの“美人”も「同じ顔」なのです。(マンガで、作品が違っても主人公はほぼ同じ顔、と似た現象、と言ったら良いでしょうか) ここで大切なのは「美人という評判が立っている」「春信(歌麿)が描いた」という“事実”であって、「絵の顔が現実の顔にそっくり(リアル)である」ことはちっとも重要ではないのです。江戸の人間は現代とは「美」に関する感覚がずいぶん違っていたようです。
 違っていたと言ったらもちろん「美人の基準」も異なっていました。たとえば「目」。江戸の化粧書「都風俗化粧伝」には「目が大きすぎるのは見苦しい」とあります。といって無理に小さくしようとすると目つきが悪くなります。対策は、白粉を目の中にはいるくらいまぶたに塗り込む。アイシャドーの逆の発想ですね。別の方法としては「目八分」です。立っているときは一間前、すわったら三尺前の地点を見る、伏し目がちにすることをこの書では勧めています。つまり当時の「化粧」は「化粧品を使う」ことだけではなくて「立ち居振る舞い」も含んでいたのです。
 お歯黒は、お歯黒水と五倍子粉を房楊子などで交互に歯に塗りつけてタンニン鉄を形成させるわけですが、日記部分に書いた既婚女性だけではなくて、新吉原の花魁もお歯黒をつけていたそうです。彼女らは当然独身ですが、一夜妻という意味だったのでしょうか。吉原の回りの溝は二千人の遊女のうがい水で黒く濁り「お歯黒どぶ」と呼ばれていたそうです(実際にはただの黒濁したドブだったのかもしれません)。
 
 そして本題の「美艶仙女香」。本体は白粉ですがニキビやアセモにも効く薬で股ズレにも効くと“効能”をうたっている……化粧品兼医薬品です。当時は本当にあちこちで宣伝されていたらしく、「なんにでもよくつらを出す仙女香」「仙女香やたらに顔出す本のはし」という川柳まであるそうです。今だったらメディアというメディアで宣伝しまくっている、ということでしょう。役者絵(出てくるのは当然男)で美艶仙女香の宣伝をしているものまであります。人気役者のファンには女性が多いから、目的は当然そちらでしょう。さらに当時の歌舞伎役者はファッションリーダーです。彼らの言動はマーケットに大きな影響がありました。あるいは「東海道五十三次」や相撲絵にまで美艶仙女香が登場しています。草双紙でも、ストーリーに紛れ込んでいたり挿絵に登場したりといったさりげない宣伝だけではなくて、今の雑誌や新聞の宣伝のような独立した宣伝として堂々と自己主張もしています。「広告宣伝の先駆者」と扱っても良い商品ですね。当時の宣伝担当者が今生きていたら、斬新な宣伝手法を開発しているかもしれません。(前に読んだ『江戸の生薬屋』にも、戯作者が副業に薬や化粧品屋をやっていてその宣伝を自分の作品の中でやっていることが書いてあったのを思い出しました)
 
 本書の文体、というか口調はずいぶんくだけていて、まるでブログを読んでいるかのようです。話の筋道も論文のように結論目指してまっしぐら、ではなくて、結論と大筋は決まっているのだけど実際の過程は、ここをやったらこんどはあちらをつついて、あ、ここをやり忘れていた、とちょっと戻って、と、まるで化粧の手順みたい。本書の主題にはこちらの方が向いている、ということなのでしょう。
 
 
27日(水)冬の食中毒
 「牡蛎にあたった」だと「お気の毒に」だったのに、「ノロウイルス感染症になっている」だと回りからさーっと人が消えそうです。基本的に同じ事象なのに、なぜ?
 
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日本戦艦物語(2)』(福井静夫著作集第二巻) 福井静夫著、光人社、1992年、2136円(税別)
 
 第二巻では第一巻の続きで第二次世界大戦にすぐ行くかと思ったら、話が一度明治に戻ります。第一巻のまとめや補充で話があちこちします。
 日清戦争では、清の大戦艦に対して小型砲を雨あられと撃ちかけて打撃を与えました(大口径砲も準備したのですが、あまりに使いづらくてほとんど活用していません)。日露戦争ではロシアの本国艦隊でスエズ運河を通過できるものに対抗できる六六艦隊(戦艦六隻、装甲巡洋艦六隻)を編成しました(喜望峰回りだとイギリス側にしか薪炭補給基地がありませんでした)。つまり戦うための(勝つための)ある程度きちんとしたビジョンに基づいて戦争を始めていたわけです。
 
 第一次世界大戦後連合側の各国は海軍軍備(特に戦艦)の増強を競いますが、当然それは国家財政を圧迫します(たとえば日本の初期計画では、国庫の1/3〜1/2を艦隊建造と維持につぎ込むことになっていました)。これは堪らん、という自分の事情と、相手を牽制するためにワシントン海軍軍縮条約(戦艦の制限)・ロンドン海軍軍縮条約(補助艦の制限)が相次いで結ばれます。
 
 「日本の戦艦」と言えば「大和」「武蔵」ですが、著者は「陸奥」「長門」の姉妹艦を重要視しています。大正〜昭和十年代にはこの二艦が国民にも世界にも広く知られた「戦艦の代表」でした。世界で最初に四十センチ砲を搭載し連合艦隊旗艦を最も長く勤めたのは長門であり、終戦時には長門が日本で稼動可能な唯一の戦艦でした。結局長門はビキニ環礁での原爆実験に使用されて沈没しています。
 戦艦「土佐」は軍縮条約によって進水直後に廃艦となりました。そこで海軍は太っ腹にも砲弾・魚雷・爆弾で実際に攻撃し、その過程で防御力の評価を行うことにしました。実船による実験です。貴重な知見が沢山得られましたが、特に水中弾(砲弾が目標の手前に着水してそのまま水中を進行して舷側に命中する)の威力が確かめられ、結果として九一式徹甲弾(直接打撃だけではなくて、水中弾としても使える)が開発されました。水中弾については「それに気づいた」こと自体が軍の機密とされていたそうです。
 
 機密保持と言えば、昭和12年(軍縮条約が切れる年)の大和のための予算獲得も、機密保持をしながらさらに大蔵省の査定をくぐり抜ける(予算を削られたら設計変更をしなければなりません)ためにいろいろテクニックを使っています。ただ、大和が開戦前に完成して、その情報を連合国側がつかんでいたら、開戦の様相はまた変化していたかもしれません。「日本にとんでもない巨大兵器がある」ことがわかり、しかも航空機の有用性が(真珠湾の前ですから)まだ実証される前だと、米国の戦略構想は影響を受けていたはずですから。ただの「イフ」の世界のお話ですけれど。
 
 本書には専門家ならではの興味深い指摘があちこちに散りばめられています。たとえば、「大型化」に関しては軍艦よりも客船の方が楽、という指摘は意外なものでした。客船は航路が決まっているから修理用のドックは寄港地に置けばいいけれど、軍艦はどこが戦場になるかわからないのでどこでも近くで修理できる(ドックに入れる)ことが重要だから、だそうです。また、相手(敵)も死にものぐるいで努力することを忘れるな、という当たり前の指摘もあります。自分が必死になって何かを達成したらついそれに酔ってしまうことに対する自戒ですね。つまりは「敵を信頼しろ」ということで、これはけっこう難しいことかもしれません。囲碁将棋のように盤面が公開されていても相手の思考を“信頼”することは難しいのですから。また、大和の特徴を著者は(当時世界最大の戦艦だったにもかかわらず)「小型」であったこと、とします。同じ性能だったら欧米なら7万トンになったはずを6万トンに押さえたことを日本の技術力の成果とするのです。著者は単体としての大和型戦艦を高く評価します。しかし同時に単に巨艦であることのみを誇りとし単純に礼賛する世間の風潮を否定します。作られたものは本来の目的で用いられ使命を果たさなければならない、とするのです。技術者らしい視点です。そしてそういった視点からの意見は、今の日本にも必要なもののように私には思えます。
 
 
28日(木)今年の指折り重大ニュース
 指折り数えながら今年をふりかえってみました。
 ぎっくり腰が二回。とほほ。
 良いニュースとしては、今年は私の投稿が新聞で五回活字になりました。同じ県に私よりはるかに高頻度で投稿が採用されている人がいるのでなんとか来年はもっと頑張りたいのですが…… ただ、一年で五回、はなんだか中途半端ですね。六回だったら12ヵ月が割り切りやすいのになあ。
 
 そうそう、指折って数えていると次男が「僕も五つあるよ」。学校や子ども会でもらった賞状が今年五枚もあるんだそうです。ふうむ、将来有望かも(親バカです)。
 もう一つそうそう。「活字になる」と書きましたが、今の新聞は活字ではなくて電算写植(と言うんでしたっけ?)で作られているんですよね。この場合「活字もどきになった」とでも言えばいいのでしょうか。
 
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江戸大名下屋敷を考える』 児玉幸多 監修、品川歴史館 編、雄山閣、2004年、2400円(税別)
 
 大名屋敷は、上屋敷(殿様の本宅で江戸城近く(丸の内や霞ヶ関など))・中屋敷(隠居や後嗣の住居。江戸城外堀沿いが多い)・下屋敷(災害時の避難所や物資の集積所。江戸郊外に置かれた)、の三種類に分類されます。
 参勤交代で江戸に大名を集めた幕府は、それぞれの大名に屋敷(の土地)を与えました。江戸では城は将軍だけのもので大名は皆屋敷に住むのです。ところが参勤交代の行列の人数を収容するためだけでも一つの屋敷ではどの大名も手狭となったため、上中下の三つの屋敷を与えることが原則となります。幕府によって与えられた屋敷は拝領屋敷と呼ばれ、税金はかかりません。しかし、それでも足りない大名は、ますます拝領したりあるいは自力で土地を求めて屋敷を確保しました。大名が自力で確保したものを抱屋敷(かかえやしき)と言います。たとえば熊本藩は二十数カ所の屋敷を持っていましたし、大名の中では別格中の別格である尾張藩など四十カ所以上の屋敷を持っていました。(尾張の上屋敷は市ヶ谷(現在の自衛隊の場所)で七万五千坪。下屋敷の代表は和田戸山御殿(現在の新宿区戸山)でなんと十三万坪の広さ(拝領が八万五千、抱えが五万一千坪)でした)
 ちなみに、抱屋敷は建前は田畑ですので、塀を巡らすことは禁止されていました。許されたのはせいぜい簡単な垣根や溝だけです。防犯の問題が生じそうです。さらに大名はその土地にかかる年貢を支払う必要がありました。大名が年貢を払う……江戸幕府の大名支配はなかなか徹底したところがあります。
 下屋敷は庭園や所によっては田畑もあり、近所の農民が整備やイベント(お姫様の田植え見物など)に“協力”していました。その見返りは“特権”です。さらに下屋敷内の鎮守などを日を決めて一般公開することもけっこう行われていました。大名屋敷と言っても、開放的なものもあったわけです。(そういえば『江戸の生薬屋』にも、町人が大名屋敷に薬を買いに行く話が紹介されていましたっけ)
 
 発掘調査もいろいろ面白いものです。仙台藩の下屋敷を発掘したら味噌製造所が出てきて、発掘した人が「はじめ何を発見したのかわからなかった」と述べたりします。もちろんこれは仙台味噌の工場です。初めは自家消費用だったのが、江戸で評判となって製造量を増やしたのでした
 東京を発掘したら発見できるのは基本的に「江戸」です。平安や奈良はあまり期待できません。ある意味考古学的には面白い土地であるように思います。問題は地価が高すぎてゆっくり調査する余裕がないことですけれど。
 
 現在の品川区には大名屋敷が27もありましたが、そのほとんどは下屋敷です。地図を見ると品川宿の回りはすべて「村」の時代です。安くて環境の良い土地を求めて大名は郊外に進出していたんですね。
 大名だけで約三百人、旗本が五千人、御家人は一万七千人、幕府はこのすべてに屋敷の土地を下賜していたのですから、江戸市中は武家地だらけだったでしょう。(旗本も、上級の者は上下の屋敷を下賜されていました) 明治になってからの調査では、江戸市中(朱引き内)の土地の七割が武家地(残りの半分が町地、半分が寺社地)だったそうです。なんだか不思議な街だったんですねえ。大名屋敷は表札なんか出さないから、知らずに行ったら即座に迷子になりそうです。
 
 
29日(金)ページ作り
 私のウェブページは着々と建築が進んでいます。
http://www.ccv.ne.jp/home/m.0kada/
 今盛んにやっているのは、ハイパーリンク貼りです。ある程度コンテンツが貯まるとそれを結びつけるのが面白くなってしまいました。ファイルの途中へのリンクもやっと覚えました(「ブックマーク」ってこのためにあったんですね。いや、熟練者には笑われるでしょうが、まるっきりの初心者が「習うより慣れろ」でやってるから進歩の効率は悪いのです)。画像を出すリンクはまだやってません。描画速度が落ちるのもいやだし、私は基本的に文字人間なので、これで良いのです。
 でもずっとマウスを握っていると右手が痛くなってきます。少しでも省力化するために、HTMLエディターとして使っている一太郎のメニューをいじり、ショートカットキーを多用しますが、機械的な作業を繰り返していると飽きてしまいます。私の意思を汲んだ一括変換ができないものか、と思います。
 
 ハイパーリンク貼りのためにAmazonの検索を一日に何十回も使っているのですが……これは使い勝手が悪い。日本語を入力しているのに時に洋書がずらりとならんだり、きちんとタイトルのフルネームを入れたらヒットしなかったり(で、いろいろ工夫して探し当てたらそこの表示は最初に私が入力したフルネームだったり)、どんなロジックで動いているのかまだ今ひとつわかりません。さらに最近購入した本がもう絶版になっていたりすると泣きそうな気分になってしまいます。逆に「これはもうないだろう」という古い本が堂々と出てくることもあります。引っ越しの時に久しぶりに出会えた本を思わず読みたくなるのと同じで、寄り道が多くなりそうで困ります。時間が足りないのになあ。
 
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日本の川を旅する ──カヌー単独行』野田知佑 著、講談社、1989年、1165円(税別)
 
 著者は日本中の川をカヌー(あるいはカヤック)で旅しています。基本的にはできるだけ上流からツーリングを始めてキャンプしながら海まで下っていくという、私から見たら非日常的な生活を日常的に送っている人です。本書では北海道から九州まで、14本の川を下って川面すれすれから著者が見た“日本”が描かれていますが……「日本の川の話はとても体に悪い」と著者は言います。日本の川を旅し現状を見聞すると日本人の駄目な点がくっきりと浮き出されて怒りで体が震えるから、だそうです。
 著者の旅は様々なものに妨害されます。一番の大物はダム。川を殺す土木工事や水の汚れ。そして、川に無理解な人。たとえば「誰の許可を取って川を下っているのか」と偉そうに文句をつける建設省河川パトロールが、川を堂々と汚染している大工場には知らん顔、というのには失笑するしかありません。そもそも法律的には、川下りに建設省の許可は不必要なのですが。そして、東京周辺での釣り人とのトラブル(悪口や石を投げてくる)。
 
 ゆるやかな流れは悠々と楽しみ、急流はしっかり偵察した上でテクニックを駆使して下り、良い淵があったら船を止めて素潜りをして魚を手づかみしたり釣りをする。川に来ている人と話をしものをもらう(著者はやたらとものをもらっています。あ、それから、著者が積極的に話しかけるのは若い女性限定、だそうです。本書では実際にはお年寄りがやたらと登場していますけど)。上陸したら、酒を飲み本を読みゆったり楽しい時間を過ごすのです。飯ごうで飯を炊くのは、準備にも後片付けにも時間がかかるので著者はなるべくやらないそうです。ラーメンやチーズ・クラッカーが常備食で、捕る魚もヤマメ・イワナ・アユ・マスなどの焼いたらすぐ食えるものだけで食べるのに手間がかかるものは川に戻す。著者は“川遊び”にいそがしいのです。
 
 著者は川下りが大好きです。しかし、出発する前から気分が陰々滅々とする川もあります。その代表が多摩川。「水さえなければ多摩川は素晴らしい川だ」と著者は言います。汚水・行儀の悪い釣り人で著者はどんどん不愉快になりますが、しかし本当に著者が慄然とするのは、それを上回る人間の無感覚ぶりです。汚れに汚れ洗剤の泡が漂う汚水の上で、貸しボートに乗ってニコニコしている人々の姿。著者は、どんな汚れにも慣れてしまう人の姿に恐怖し、飯を食って小便をして寝てしまいます。
 
 川を下れば、山と川と海の関係が見えてきます。そして川と人間の関係も。過疎で人は減っているのに下水の量は増え川はどんどん汚れていきます。「日本最後の清流」は地元の人に言わせれば「山と川が好きな人にゃここは天国じゃ」ですが、天国は若者には向かないらしく彼らは都会に行ってしまいます。清流を売り物にして観光客を集めたら清流が汚されます。そして政府は川を殺す(自浄作用をなくす)ことにたいそう熱心です。それは、自然環境だけではなくてかつて存在していた「川ごとの独特の文化と人間関係」をも殺す(=「美しい国」を壊す)ことなのですが……“あの”河川パトロールの親玉には、子分以上に多くのことは期待できない、ということなのでしょうか。
 
 
30日(土)無事故無摘発
 結婚したら車の平均速度は約10キロ落ちました。子どもができたらさらに10キロ落ちました。今では私は優良運転者です。できればこのままゴールド免許を続けたいと思ってます。保険は安くなるし、免許更新も楽ちんですから。
 ……あ、「無事故無違反」と「無事故無摘発」は、似ているけどちょっと(相当?)違いますね。
 
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初心運転者の心理学』(実践女子学園学術・教育研究叢書9)松浦常夫 著、実践女子学園、2005年、非売品
 
 公開されている指定自動車教習所の卒業生の事故率では、卒業後1年以内の事故者は100人あたり1.79人(1999年から5年間の平均)で、一般ドライバーの約2倍という率になっています。これはどの国でも似た傾向にあり、つまり初心運転者はアブナイのです。
 同時に若年ドライバーはほとんどが初心運転者とオーバーラップするため、若年者特有の運転行動も初心運転者の事故に大きな影響を与えます。
 本書では初心運転者と若年運転者をできるだけ分離して、それぞれの運転傾向と事故について検討しています。
 
 初心運転者(免許取得後3年未満)事故の特徴は、単独事故が多い/第一当事者の割合が高い/事故当たりの死傷者数が多い/カーブ地点での事故が多い/事故時の速度が高い、という特徴を持っています。さらに統計上、同乗者あり/人口集中地区/高速道路・自動車専用道路/初めての道路/初めての車/急ハンドル、が初心者事故に特有な項目として浮かび上がってきます。
 
 運転経験年数が長い人ほど事故率は低くなります(経験効果)。しかし、19〜20歳の人間に限っては、経験年数が長い人ほど事故率が高くなります。これは経験よりもライフスタイル(早く免許を取りたい、たくさん運転したい)が強く効いているのではないか、と著者は推定しています。
 50歳までは年齢が高いほど事故率が下がります(年齢効果)。年を取ってから免許を取得したらどうなるかというと、免許取得後2〜3年の調査では、取得年齢が若いほど事故率が高くなります。しかし、22〜29歳では、同じ経験年数だと年齢が高い人ほど事故率が上がります。(たとえば26で免許を取ったら、それより若くて取った人より事故が多くなる、ということ) 単純に「経験を積めばいいのだ」「若い奴には免許をやるな」というのは「初心運転者の事故撲滅」には役に立たない、ということでしょう。
 
 経験を積むことによって、机上の知識は生きた知識になります。その結果予測が立てやすくなり、それは運転の余裕につながります。また、経験を積めば積むほど車に慣れ、また未知の状況への不安感は減少します。こうして初心者は、知識/技能/態度/動機のすべての面において向上していきます。著者は、人格と運転技術と、両方が成熟しないといけない、と示唆しています。
 
 初心運転者に事故が多いということは、免許取得前の訓練が不足していることを意味します。ただし、充分な訓練を、と完璧主義になると時間とコストが膨大になってしまいます(「免許取るのに1年かかる、コストは200万円」だったら、あなたは教習所に通いますか?)。ではどこで妥協するべきか、改善点はないのか、と著者は考えます。
 毎月送ってくるJAFメイトには予知テストが載っています。運転席から見た写真が掲載されていて、その数秒後を予測するのです(多くの場合ヒヤリとすることが起きます)。それに近いものをカリキュラムとして免許取得前に取り込んだら、それほどコスト増をきたさずに“経験”を積むことができるのではないか、と著者は提案します。できたら写真のように固定したものではなくて、そのたびに違う危険が生じるようにしてある、バーチャル・リアリティを用いたシステムだと“実戦的”でしょう。
 また著者は、車載器具の操作練習も必要、と提言します。よく事故の後「○○の操作に気を取られていて」と言い訳をする人がいますが、それに対する対策です。「私はラジオも操作しません。時計も見ません」と誓う人だけこの練習は免除、ですね。
 
 ただ、「経験年数が増加したら事故率は減少する」は、単純に熟練による結果なのか、それとも淘汰なのか、と考えると、ちょっと怖い思いになりました。
 
 
31日(日)魔女
 ほうきにまたがって空を飛ぶ魔女、股ズレは大丈夫なんでしょうか。
 
【ただいま読書中】
塩の世界史』R・P・マルソーフ著、市場泰男 訳、平凡社、1989年、4204円(税別)
 
 動物が塩を必要とすることは明らかですが、どのくらいの量が必要かについては実は確定されていません。ともかく人類の歴史と塩とは切っても切れない関係であることは確かです。ヨーロッパでは古代ローマ時代に塩水泉からの塩が生産されていましたし6世紀には塩がヴェネチアの主要商品です。中国では紀元前2000年に製塩に関する記述があります。日本は岩塩を使わない珍しい国ですが(全世界では、岩塩の方が海水からの塩より多く消費されているそうです)、江戸時代には3000万人分の塩を海水から取っていました。
 
 製塩業は農業に近い、と著者は述べます。特に海水から製塩する所では、天日乾燥による塩作りは季節に左右されるもので、たしかに塩は「収穫」と呼ぶにふさわしいものでした。人工的に煮詰める場合には周辺に燃料があるかどうかが重要な要素です。海の近くで気象条件も森林も揃っていて製塩が盛んに行われていても、木を切り尽くしたらそこはもう寂れるしかありませんでした。
 さらに、塩は基本的に安価でかさばる商品です。また、水に濡れることも嫌います。したがって、輸送がきちんとできるかどうかも生産地として成立するかどうか、重要な要素でした。また、塩が人間や家畜に必須な物質であるため、洋の東西を問わず権力者は塩に税金をかけました。税率を高くしても消費量が落ちないという、珍しい性質を持った課税品だったのです。
 ちなみに、海水を単純に煮詰めたらそのまま水分だけ飛んで残りが全部固体の「塩」になる、という単純な話にはなりません。どろどろした水和物(=ニガリ)が残って蒸留の邪魔をします。このへんの科学的な解説(条件の違いによる塩類の析出の順番)は、無機化学に興味のある人には楽しめると思います。
 
 イギリスでは製塩業が盛んでしたが、森林が寂しくなるとちょうど石炭の時代となり、さらに岩塩が発見されてこんどはそちらでの製塩が盛んとなります(西ヨーロッパで広く岩塩が発見されるようになったのは1830年頃からです。意外に遅いんですね)。ただ、イギリスの岩塩鉱山では、女はもちろん幼児までもが抗夫として働いていたそうです。国民皆兵ならぬ皆抗夫?
 このあたり、1850年で本書の第一部「調理用の塩の時代」は終わり、第二部「化学用の塩の時代」になります。
 
 「塩」は様々な影響を与えて西洋文明を発展させました。
 海水の起源と塩水泉や岩塩との関係を考えることは、地質学に影響を与えます。(特に海水に含まれている臭素が岩塩には見られないことが重要視されました)
 地中深くに存在する岩塩採掘のためにボーリング技術が西洋では発達しますが、その技術は20世紀になって石油採掘で大いに活躍します。
 18世紀末から本格的になった塩の“不純物”(カリウム塩・カルシウム塩・マグネシウム塩・臭素など)の研究は様々な副産物を生みます。まずその代表として登場したのが人造ソーダ(炭酸ナトリウム)とポタシ(炭酸カリウム)でした。この二つは石鹸とガラス製造に重要で、さらにポタシは硝石製造(つまりは火薬製造)に欠かせない“戦略物質”でした。ポタシを初めとするカリウム塩は19世紀中には肥料製造や織物工業などで広く利用されるようになりました。
 人造ソーダの需要が落ち始めるとこんどは合成染料の時代が始まります。さらに、レーヨン、アルミニウム、フェノール樹脂などで、ナトリウムは引っ張りだこでした。塩水の電解法で水酸化ナトリウムが大量に生産されると、副産物として塩素も発生します、19世紀にはこれの消費先を見つけるのが大変でした(せいぜい漂白剤、それと毒ガス)。ところが20世紀には塩素がよく売れるようになります。プラスチック、溶剤、自動車用液剤、殺虫剤、除草剤などの製造がさかんに行われて塩素が大量に消費されるようになったのです。そこでこんどは“過剰なナトリウム”をどうするかが問題になります。
 生産された塩類(やその加工物)は最終的には自然にばらまかれます。「環境汚染」です。しかし、もっと生のかたちでのばらまきもあります。アメリカでの塩の消費第二位は、道路への塩撒きです(雪や凍結対策)。その結果かどうか、この数十年でエリー湖の塩分濃度は5倍になったそうです。このままで良いんでしょうか?
 これまで存在しなかった「塩」の本です。労作です。