07年2月
 
1日(木)朱鷺と神風
 少子化対策での政府のばたばたを見ていて私が連想したのは、朱鷺です。「朱鷺が減った」「なんとかしなきゃ」とばたばたして、結局日本の朱鷺は絶滅してしまいました。人が「保護」しようと何か手を打つたびに朱鷺の数が減っていくのは、まったく皮肉なものでした。
 なぜ人の努力が実を結ばなかったか、の一因として、私は「朱鷺に注目したこと」があると考えています。「朱鷺が減少したのだから朱鷺に注目するのは当たり前」……それはそうですが、たとえば「エサが自然界に減ったのなら、人が採ってきて朱鷺の口にエサを押し込めば良いだろう」「減少で“出会い” が減ったのならオスとメスを同じゲージに入れておけば繁殖するだろう」……こういった不自然な朱鷺の“少子化対策”はことごとく裏目に出たわけです。朱鷺が減少したのは、運命かもしれません。運命だったら受け入れるしかありません。朱鷺が減少したのは、自然破壊によるものかもしれません(私はこれが主因だと考えています)。それだったら破壊された自然をそのままに朱鷺の減少を食い止めることは最初から不可能でしょう。では佐渡島全体を自然保護区に指定しますか。それには住民から反対が出そうです。
 朱鷺を取るか人間の生活を取るかの二者択一か、あるいはその中間のどこかにうまい妥協策を見つけるか、その決定こそが政治家のお仕事だと思うのですが、いつのまにか朱鷺保護センターのゲージに朱鷺をいかに押し込めるかの技術論に話は矮小化され、結局朱鷺は滅びました。
 
 もう一つ私が連想したのは、特攻隊です。戦況が思わしくない状態で個人が自分の命を捨てて敵に突っ込んでいくことが組織的に求められました。戦況が悪いのは彼ら個人の責任ではないと私は思うのですが、とにかく彼ら個人が自分の命で“責任”を取らされたのです。
 社会状況が変化して少子化になったとき、その“責任”を「女が産まないのがいけないんだ」と個人としての「女」に取らせようとする態度と似ていると私は感じます(若き兵士の命を使い捨てと扱う態度と女を機械と扱う態度も似てる)。問題があるのは、戦況(環境)であって、もう個人の努力でどうこうなる段階ではないと思うのですが。
 
 こういった状況にした“戦犯の責任”を追及しても社会を良くするわけにはいかないでしょうが、それなら“個人の責任”を追及するのはもっと意味がないでしょう。「運命」を受け入れるのか、あるいは腹をくくって「環境破壊」に対抗するか……それとも「神風」が吹くのを待ちますか?
 
【ただいま読書中】
ムーミンパパの思い出』ムーミン童話全集3
トーベ・ヤンソン著、小野寺百合子 訳、 講談社、1990年、1456円(税別)
 
 生まれて初めて風邪で寝込んだムーミンパパは、退屈しのぎに自伝を書くことにします。出だしはムーミン捨て子ホームの階段です。厳しいヘムレンさんに育てられることにあきあきしたムーミンパパは、冒険家になるために家出します。出会ったのは機械の発明に夢中のフレドリクソン。彼は動力船を作ったばかりで、甥っ子のロッドユール(実はスニフのパパ)と船出しようとしていたのでした。ムーミンパパとなぜかまぎれ込んできたヨクサル(実はスナフキンのパパ)が同行することになります。竜のエドワードの“助け”で無事進水できた「海のオーケストラ号」ですが、モランに追われているヘムレンおばさんをムーミンパパはうっかり助けてしまいます。しかしニブリングがおばさんをつれていき、ニョロニョロの集団が目の前を通り過ぎ、不思議な雲に一行はつきまとわれます。
 そして王様の園遊会(びっくり大会)。そこでムーミンパパがもらった賞品は……いや、ここはもう笑うしかありません。王様もムーミンパパも良い味を出しています。フレドリクソンは王様の下で発明にいそしみ、ムーミンパパは自由の村を作り、ミムラには末娘が生まれてミイと名付けられます。ロッドユールはソースユールと結婚し、落ち着いた生活が皆の上に訪れます。しかし、冒険家になりたいムーミンパパは不満です。そのとき、ムーミンパパに向かって海がムーミンママを投げて寄こします。
 
 不思議な物語です。とても本当のこととは思えません。ムーミンたちもツッコミを入れますが、最後にすべてはムーミンパパの創作ではなくて“真実”であることがわかります。(「ムーミンの世界がトーベ・ヤンソンの創作だろう」という無粋なツッコミはしないで下さい) 「自由」に生きている登場人物たちですが、実は「自分がしたいことだけをする」のではなくて(中にはそんな人もいますけど)、大体は他の存在にも気を配って生きているのです。その姿を見たら「自由」と「勝手気まま」は違う、と子どもたちは学べるかもしれません。学べないかもしれませんが、それでも良いです。ムーミンの世界を楽しむだけでも豊かな時間を過ごせるわけですから。
 
 
2日(金)水色
 紅茶をカップに注いでいる途中、ほんの一瞬ですがカップ内側の全体の色が素晴らしいきらめきに包まれるのを目撃できることがあります。そのときの紅茶の量と周辺の光と私の目の位置とがぴったりベストポジションにはまった時にだけ感じることができる希有な瞬間なのでしょう。これまでの人生で何回もお目にかかったことはありませんが、嬉しいことに粉雪があたりに舞った今朝は「それ」に遭遇できました。ちょっと幸せ。
 
【ただいま読書中】
ペンシルビルの連結』日本建築学会 編、社団法人 日本建築学会、2006年、1900円(税別)
 
 ヨーロッパの古い都市と日本の都市との大きな相違点は、統一感です。たとえばパリでは建物の高さはほぼ揃えられ、建物の雰囲気もほぼ統一されています。しかし日本は「雑多」です。ビルの大きさも形も色もみごとにばらばら。特に狭小地に建てられた間口の狭いペンシルビルがまるでバーコードのように連なる景色は、日本特有と言っても良いそうです。日本では「美観」よりも「機能」と「効率」が優先されて都市開発がされている、というわけです。
 しかし、このペンシルビル、本当に機能的で効率的なのでしょうか。狭いビルフロアにそれぞれ階段とエレベーターと廊下とトイレを作っていたら、使えるフロア面積はどんどん減ってしまいます。さらにビルとビルの間に空間もあります。ビルの裏に抜ける通路を設けたら、一番商業価値の高い一階フロアの稼動面積がさらに減ります。
 ただし、ペンシルビルにも利点はあります。まず「日本独特の“景観”」として売ることができます。そして、都市開発上の利点です。大きなビルばかりだと再開発が大ごとになりますが、小さなビルをちょっとずつ壊して建て直していく手法は都市開発にフレキシビリティを与えます。そこで本書では、ペンシルビルの欠点を矯正し「ペンシルビルが並んでいる現状」を生かしてその街の価値を向上する手段として「ペンシルビルの連結」という提案が行われます。
 
 連結による利点として、ビルとビルの隙間が利用できるようになることがまず上げられます。地震や大風での揺れが抑制できます(地震で隣同士のビルが衝突するパウンティングも減らせます)。旧耐震基準のビルを補強するのに、ビル単体では工事が大変ですが、うまく連結したらはるかに簡単に耐震性能が向上できます。
 なお連結方法には、鋼材やコンクリートによる「剛連結」と制震ダンパーによる「柔連結」とがあります。どれが有利かはケースバイケースなので厳密な計算が必要です。
 
 設備の面からはまた別の見方ができます。たとえば揚水ポンプを共有化したりビルの隙間をパイプスペースにしたら、経済的ですしメンテナンスも楽になります。連結によって不要となったエレベーターシャフトなどを縦穴として換気に用いたり、設備を共有して空いた屋上スペースを緑化したり太陽光発電に使えば、空調費用が節約できます。
 次は防災上のメリット。ペンシルビルの場合、避難路は「下」しかありません。しかし連結したら「横」が選択できるようになります。火災の時、これは大きいと思いませんか?(ただし、火や煙も横に簡単にくるようだったら逆効果ですが)
 事業面からの検討もされています。オーナーの立場からは、コストはかかります。権利関係は複雑になり防犯面での不安も生じます。これはデメリット。しかし、賃貸面積が増加し、耐震性能アップで保険料は下がり、省エネができ、資産価値が上がります。これはメリットです。
 ただし、他人の持ち物をくっつけるわけですから、解決するべき問題は山ほどあります。建築基準法、所有権(建物、土地)、テナントの行動(工事中退去できるかどうか)、抵当権のからみなど、クリアするべきものは多く、計画をきちんとまとめるのは大変でしょう。デメリットやメリットも、対等ではなくて片一方に偏する可能性は大です。そのとき不利になる方をどのように救済するかも考えなければなりません。
 
 この100年くらいかけて「私権」によって日本の都市の「公」は細分化されてしまいました。それを「連結」によって“公の復権”をさせることは、決して「私の制限」ではありません。むしろ街の価値を高めることになりひいては「私」にも大きなメリットがある、というのが本書の主張です。上からの押しつけの「公」ではなくて、「私」から提案される「公」(共同性)の再構築、これが上手くいったら活力ある街並みができるでしょう。そう、大切なのは表面の美しさではなくて、街の活力なのです。
 
 
3日(土)曲がった針金
 安全ピンとゼム・クリップ(紙をまとめるのに使う針金製のクリップ)の形(針金がどう曲がっているか)を、実物を見ずに紙にすぐ描けますか?
 
【ただいま読書中】
20世紀をつくった日用品 ──ゼム・クリップからプレハブまで』柏木博 著、 晶文社、1998年、2300円(税別)
 
 部品に互換性を持たせて大量生産するシステムは、アメリカで始まりました。だからヨーロッパではこのシステムをはじめ「アメリカン・システム」と呼んでいました。1800年前後に綿繰機ついでライフル銃の量産が行われ、それがアメリカの工業生産の基礎となっています。(規格化を信じない人のために、銃を何十丁もばらして部品を適当に拾い出して組み立ててちゃんと作動することを見せる、という公開実験まで行われたそうです)
 大量生産と言えば流れ作業、流れ作業と言えばフォードですが、自動車の大量生産でフォードが果たした役割はとても大きいものがあります。流れ作業という工場の中だけの話ではありません。もちろんベルトにつく労働者が互換可能になった、というのは大きいのですが、一定の“品質”の労働者を得るために労働者の教育や飲酒の習慣チェックなども行うことからフォードは労働者の家庭生活の管理にまで踏み込みます(始業時間・終業時間によって、家庭のリズムも定められます)。また、部品の輸送や倉庫の管理システムを定めることで、部品はどこで生産しても良いし組み立てもどこで行っても良いことになり、結果として社会全体にシステム管理の発想が拡がっていきました。「規格化」は、部品だけではなくて、労働者、そして社会全体に波及したのです。
 秦の始皇帝は、単に軍事的に中国を統一しただけではなくて、各地でバラバラだった文字・度量衡・道路の幅などを統一しました。つまり文化的な一定の“規格”で全土を律したわけです。さらに思想まで規格化しようとしましたが(焚書坑儒)、それは幸い失敗でした。で、20世紀は「20世紀の文化」によって地球が統一される過程の世紀と言えるでしょう。「アメリカの文化」と簡単に言いたいところですが、アメリカ自体が移民の国だし、そこで生まれた「アメリカ文化」も他の文化に影響を与えると同時に影響を与えられて変化し続けていますから、話は単純にはできません。
 
 本書には80以上の日用品が取りあげられ、それぞれについての蘊蓄(あるいはトリビア)が紹介されます。一見カタログ的な本ですが、通読すると「20世紀がどのような世紀であったのか」が身近なものを通して見えてくるような気がします。
 20世紀を代表する言葉として「工業化」「規格化」が上げられ、自動車・食料・住宅・家電などが次々登場します。特に私が面白かったのは「コンタクト・レンズ」。アイデアの原形はなんと16世紀、レオナルド・ダ・ヴィンチだそうです。彼は「水」をチューブにいれて目に装着することを考えていたそうです。17世紀には眼球にゼラチンを塗って保護した上に装着するガラスレンズが登場し、19世紀末には一応使えるものが登場します。20世紀にはプレキシガラス、ついでプラスチックレンズ。そして現在のソフトレンズは水分がたっぷり含まれていますが……あらら、ダ・ヴィンチのアイデアに回帰したのでしょうか。そもそも生体のレンズは水分をたっぷり含んだ“ソフトレンズ”なのですから、目をこらすと焦点調節が可能なソフトレンズ、が開発されたら便利なんですけどね。
 「20世紀の日用品」としての「観葉植物」が取りあげられているのも面白いのですが「カギ」もなかなか。19世紀にカギは普及したのですが、守るべき財産なんかない庶民がカギを使うようになったのは、プライバシーの概念が拡がったから、だそうです。そして1861年のイエール錠は、シリンダー内のピンが5本あれば10万通りのカギが生み出されるんだそうです。一つの概念が普及するために、一つの装置(カギ)の量産化が必要だった、つまり、概念と装置とは仲良しだったということなのでしょう。
 そうそう、「白手袋」の項では、アメリカで白手袋がブームとなった時代についての記述の後「ミッキーマウスが白手袋をしているのは、彼がドブネズミではなくて、人間であるということを意味するためである。……(中略)…… それでは、日本の政治家が選挙の時に白手袋をするのは、何故なのか、考えてみてみよう」なんてことまで書いてあります。
 
 
4日(日)手前味噌
 知人の実家が秋田にあるそうで、そこの手作りのお味噌を頂戴しました。大豆を栽培するところから始めているそうで昔ながらの伝統的な製法だそうです。そう聞いてありがたく思ったからだけではないでしょう、私の好みより塩味はちょっとキツイのですが、雑味が無いきわめて素直な味に感じられました。昔の人が手前味噌と言いたくなる気持ちがわかったような気がします。
 
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大西洋 漂流76日間』原題 Adrift
スティーヴン・キャラハン著、長辻象平 訳、 早川書房、1988年、1700円(税別)
 
 12歳でヨットに出会った著者は、以来ヨットに夢中。小型艇での大西洋横断を夢見続けそのための技術を習得します。26歳で小型クルーザー「ナポレオン・ソロ」の設計・製作を行い、その船で大西洋一周の旅に出ます。大西洋を一往復半したとき「ソロ」は難破します。著者は救命イカダで漂流を始めます。著者が必要なのは、経験・用意・装備・幸運。はじめの3つには問題はないと著者は考えます。食料と水は少ないのですが、魚獲りの道具はあるし太陽熱蒸留器も装備しています。漂流経験者の経験を知っていますしサバイバル・ブックも持っています。では、最後の幸運は? それは誰にもわかりません。漂流二日目、30歳の誕生日に著者は航海日誌をつけ始めます。
 二つ積んである太陽熱蒸留器は、一つは膨らまず、もう一つは塩水しか作れませんでした。絶望しかける著者ですが、泣くことは許されません。涙という形で水分を失う贅沢は許されないのです。11日目、蒸留器をなんとか使えるようにして希望が湧いてきます。次の心配は、イカダが持ちこたえるかどうか、鮫に襲われるかどうか、食料が得られるかどうか、です。13日目、ついにシイラが獲れます。7キロの魚肉、これで何日生き延びられるでしょうか。海中ではそのシイラの連れ合いがイカダに体当たりを繰り返します。そして鮫の攻撃。しかしそこで著者は船と出会います。距離はわずか1マイル。照明弾を打ち上げ手持ち信号に着火しますが……それを無視して船は行ってしまいます。そしてそれは1回だけのことではありませんでした。(漂流者が船に無視されるのは、珍しいことではないそうです)
 やがてイカダの回りに小さな生態系が成長します。イカダの底やロープにエボシガイがびっしりつき、それを食べにシイラなどの魚が群がります。著者はエボシガイを“収穫”し、魚を水中銃で獲ります。しかし、炭水化物とカロリー不足は著者の肉体と精神力を確実に削っていきます。漂流40日。イカダの耐用保証日数です。イカダの空気漏れは激しくなり、水中銃のゴムついでモリ先は失われ、皮膚の傷は化膿し、蒸留器は作動不良となります。やっとその頃、ニューヨーク沿岸警備隊が活動を始めていました。著者はそのことを知りようもなかったのですが。
 
 しかし「6人乗りの救命イカダ」とは、著者の描写と見取り図を見る限り「体育座りで身をすくめた状態なら6人が詰め込めるイカダ」という意味のようです。立つことはおろか背筋を伸ばして座れるのは中央部だけ、寝るときに身体を伸ばすこともできない、そんな環境で数日以上過ごしたら、私は十分以上滅入ってしまうでしょう。しかし著者の漂流はまだまだ続くのです。
 
 著者の工夫の才は驚くべきものです。チューブの穴を閉じるのにフォークを用いたり、粘着テープの糊が剥がれたのをこそげてつぎあてに使ったり、鉛筆を三本組み合わせて原始的な六分儀にして位置測定をしたり(海図に記入した推定現在位置はほとんど正確でした)……生き延びるためにとことん工夫をします。それはサバイバルに二重の効果があります。実際に肉体を生き延びさせる効果と、心を動かすことで死への誘惑に負けないようにする効果と。
 
 著者は自分が西インド諸島に向かって漂流していることを知っていました。やがて「ゴミのハイウェイ」に出会い、目的地が近いことを知ります。しかし71日目、ついに蒸留器が完全に壊れます。真水はあと降雨に頼るしかありません。そこで著者は、蒸留器を雨の集水装置に作り替え始めます。著者は雨を待ちます。1マイル向こうで雷雨がありますが、著者の上には降ってくれません。そして76日目、著者の目の前に島が現れます。そして漁船も。いつもとは違うところに鳥が群がっているのを不思議がりそこで漁をしようと思っていた3人は当惑して著者を見つめます。こんな恰好でなぜこんなところにいるんだろう、と。彼らは尋ねます。「島に行きたいか?」。著者は答えます。「もちろん」そして船がまだ空っぽなのを見て、自分のイカダの下の“生態系”を指して付け加えます。「まず魚を釣ってください。それまで待てます」
 著者は言います。「孤独と絶望感にさいなまれるにつけて、わたしはさらに厳しい試練を経験し、それに耐えた人々のことを考えることによって、そうした状況を克服する糧とするのである」 著者の経験もまた、他の誰かの糧となることでしょう。著者が海で獲った生き物たちの命が著者の糧となったように。
 
 ちなみに、海難漂流者の90%は、三日以内に死亡するそうです。水欠乏や餓死には早すぎます。すると、人は絶望によっても死ぬのでしょう。
 
 
5日(月)すり減ったタイヤ
 日本中を走っている自動車が何百万台あるいは何千万台あるのかは知りませんが、それに4をかけた数以上のタイヤがくっついているわけです。バイクの場合は走っている数に2をかけただけ。で、タイヤは使えば使うほど日常的にどんどんすり減っていきます。ということはすり減った分だけゴムの欠片が道路に擦りつけられているあるいは飛び散っているわけです。
 なんだか、日本中がゴムの微粒子にすっぽり覆われているような気がしてきました。
 
【ただいま読書中】
日本の宇宙戦略』青木節子 著、 慶應義塾大学出版会、2006年、2800円(税別)
 
 国際宇宙法の解説書です。宇宙開発の歴史・国際宇宙法の概要・衛星通信の歴史と展望・日本の宇宙利用政策の解説・宇宙のゴミ(スペースデブリ)問題・各国の動向、についてコンパクトにまとめてあります。
 
 1919年、最初の大西洋無着陸横断に25,000ドルの賞金が賭けられました。それをみごとに獲得したのがご存知リンドバーグ(1927年)です。以後航空機は飛躍的な発展を遂げました。その再現を狙ってか、1996年「アンサリXプライズ」が公表されました。3人乗りの同じ宇宙機で2週間以内に2回、100キロ上空まで到達した最初のチームに賞金1000万ドル、です。各国から27チームが参加し、2004年にアメリカのスペースシップワンが賞金を獲得しました。
 大切なのは、資金集め(スペースシップワンは、ポール・アレン(マイクロソフト社の創始者)から2500万ドルの援助を受けています)、宇宙機の開発、そして米連邦航空局(FAA)から打ち上げ許可を得ることでした。アメリカはまだ良いです。法が整備されていて、要件を満たせば許可が取れます。日本ではそのための法がしっかりしていません。だから民間のチームが宇宙機を開発しても、打ち上げどころか試験飛行もできないでしょう(航空機の開発の本で、日本では試験飛行ができないのでアメリカに運んで、というのを読んだことがあります)。必要なのは、しっかりしたビジョンに基づく宇宙法です。
 
 本書では宇宙法の前にまず国際法の説明があります。私はそのへんにはうといので助かります。国際法の存在形式(法源)には3種類あります。一つは条約。国家間の明示の合意です。これはわかります。次が慣習国際法。各国がこれまでこうやってきたんだからこれからも続けましょう、と法的確信をもっているもの。たとえば外交官特権とか公海自由の原則なんかが当たります。そして最後が「法の一般原則」です。各国の国内法に共通する一般的な法原則で国家関係に適用できるものです。国際司法裁判所ではこの法の一般原則を用いて裁くことになるそうですが、法源としては弱いという批判があるそうです。
 ともあれ、宇宙に関しては細かく決まっていないことが多いため、これから紛争が起きたら、法の一般原則が用いられることになるのではないか、というのが著者の予想です。
 
 で、条約とか国連総会決議などで宇宙に関してはさまざまな取り決めが行われてきました。平和利用とか独占の禁止など。しかし問題は、罰則がないことです。
 つい先日、中国が衛星の破壊実験でデブリ(宇宙ごみ)を大量に地球周辺にまき散らして他の衛星に損害が出るのではないか、という騒ぎが起きていますが、これに関しても罰則はありません。やった者勝ちです。
 
 実は「領空」には高さの上限が定められていません。厳密には宇宙空間まで「おらっちの領空だ」と主張することも可能なのです。したがって地球軌道上の人工衛星を「領空侵犯」で撃ち落とすことも理論的には合法、なのですが、実質的には領空侵犯とはなりません。その根拠は、最初の人工衛星スプートニク1号が打ち上げられたとき、その軌道の下の国がどこもソ連に抗議を申し込まなかったから。つまり黙認しちゃったわけです。ということで宇宙空間を人工衛星が飛ぶことは領空侵犯ではない、が既成事実になっちゃいました。
 それを“応用”しようとしたのが「月の土地を売ります」「火星の土地を分譲」と言っている会社です。たとえばルナー・エンバシー社は「地球外のあらゆる天体は自分たちの所有物である」とロシア大統領と国連に「通告」したが反論がなかったことをその「所有権」の根拠としているそうです。今の宇宙条約ではそれは無理だし「反論がなかった(できなかった)」のではなくて無視されただけでしょうけれどね。
 ここで私が思い出すのは『月を売った男』(ハインライン)です。どうせ月の土地を売るのだったら、この作品のハリマンくらいの綿密な“仕事”をしてもらいたいものです。月の土地で楽して儲けようだなんて、片腹痛い。
 
 濃縮ウランを搭載していたソ連の衛星コスモス954号が墜落してカナダに放射能を帯びた破片をばらまいた事件では、ソ連は結局「損害を与えた」ことを認めませんでした。カナダは損害賠償600万カナダドルを請求しますがソ連は「見舞金」300万カナダドルを支払うことで和解しています。これは共産主義国家の宿痾、というわけではないでしょう。ちょっと話は遡りますが、第五福竜丸事件のときもアメリカは国際法違反を認めず(当時の国際法では「公海上での核実験は禁止」という条文がなかったのがその根拠)、結局損害賠償ではなくて見舞金ですませています。
 
 で、“平和国家”日本はいかに宇宙に進出するべきでしょうか。そもそも世界各国の内でどのくらいが宇宙を本当に“平和利用”したいと思っているのでしょうか。で、どう利用する(あるいは利用しない)のが、人類と地球のためなのでしょうか。「ロケット作って打ち上げれば良いんだ」ではすまない、複雑で難しい問題です。
 
 
6日(火)恋愛妄想
 日記の下書きに「ストーカーは恋愛妄想に基づいて、迷惑・有害な行動を取る人である」と書いて、はたと考えてしまいました。「恋愛妄想」に引っかかったのです。「妄想」とは「他人には了解も訂正も困難な、本人の強い思いこみ」と定義できると思いますが、すると「恋愛」そのものも妄想の一種と言えません? 「なぜあの人ではなくてこの人が好きなんだ?」なんて理由は他人には(もしかしたら本人にも)了解困難ですし、もちろん訂正も困難です(「あの人を好きになってはならない」と説得されてすぐにやめられるようなら、あるいは「あの人を好きになれ」「はいわかりました」では、それは最初から恋愛ではないですよね)。その思いはもちろん他人のではなくて本人の思いこみです。ほら、恋愛も妄想の一員である資格を十分満たしています。
 ただ、問題にするべきは「何が妄想なのか」ではなくて「人がその妄想を支配(コントロール)しているか」あるいは「人がその妄想に支配されているか」でしょう。ストーカーは明らかに「支配されている」人です。では相思相愛のカップルは……妄想を支配しているカップルだと幸福な結果が待っていそうですが、どちらか片方あるいは両方が支配されている場合は不幸が待っている確率が高くなりそうです。
 ……えっと、どこか間違えてます?
 
【ただいま読書中】
狼の一族 ──アンソロジー/アメリカ篇』異色作家短編集18
若島正 編、早川書房、2007年、2000円(税別)
 
 異色作家短編集もあと3冊となりました。ここからは過去のシリーズから離れて今回初めて編まれたアンソロジーです。編者の方針は、17巻までの作家は採らない・本邦初訳の作品だけ。18巻がアメリカ、19巻がイギリス、ラストの20巻はそれ以外の地域から。特に「初訳」という条件が厳しそうです。良い作家の作品はたぶんほとんど訳されているでしょうから。
 
目次
ジェフを探して(フリッツ・ライバー)、貯金箱の殺人(ジャック・リッチー)、鶏占い師(チャールズ・ウィルフォード)、どんぞこ列車(ハーラン・エリスン)、ベビーシッター(ロバート・クーヴァー)、象が列車に体当たり(ウイリアム・コツウィンクル)、スカット・ファーカスと魔性のマライア(ジーン・シェパード)、浜辺にて(R・A・ラファティ)、他の惑星にも死は存在するのか?(ジョン・スラデック)、狼の一族(トーマス・M・ディッシュ)、眠れる美女ポリー・チャームズ(アヴラム・デイヴィッドスン)
 
 ライバー、エリスン、ラファティ、ディッシュといったお馴染みの作家が並んでいて目次だけでわくわくしますが、それ以外に並んでいるのもひと癖もふた癖もある作家たちばかりです。
 『貯金箱の殺人』……「27ドル50セントで人を殺して欲しい」。初対面の12歳の少年にこう切り出された比較文学の教師は、少年の依頼に応えて動き始めます。もちろん殺人を犯す気はありませんが少年(とその母)の力になれたら、と思ったのです。ところが本当に殺人事件が起き、教師は真犯人に仕立て上げられる逃げ場のない罠にはまっていることに気がつきます。
 『ベビー・シッター』……アメリカの連続ドラマは人間関係がややこしいのが特徴だそうですが、本作はその「ややこしさ」を小説の形式で表現したかのようになっています。分断し混ぜ合わせ混乱させそして最後には……
 『象が列車に体当たり』……象と列車の衝突事故の、“驚愕の真実”です。読み終えて、呆然とするべきか笑うべきかわかりません。
 
 ライバーはライバーです。エリスンは「エリスン」になる直前のようです。で、ラファティはやっぱりラファティです。この言葉の意味を知るためには、本書を読んでもらうしかありません。
 
 
7日(水)ぽりぽりぼりぼり
 節分で残った豆(砂糖のコーティングつき)をかじっていて、「これは口の中で砂糖入りのきな粉を作る作業だな」と気づきました。
 
【ただいま読書中】
空室が満室に変わる究極の方法』浦田健 著、 日本実業出版社、2004年、1500円(税別)
 
 アパート・マンションの大家のための本です。いかにして「金持ち大家さん」になるかのノウハウが詰まっている、という触れ込みですが、私はそれを消費者の視点から読みます。私は現在は賃貸には住んでいませんが、将来はまたどうなるかわかりませんし、大家の視点を知っておけば不動産屋の言うことをどう読み解けばいいのかの参考にもなる(=賢い消費者になる)だろう、という目論見です。
 
 最初は単純な数式が登場します。売上=家賃×稼働率+副収入、収益=売上−経費。それと、不動産屋はあなた(特定の大家)のためだけに動いているわけではない(=他にも顧客をたくさん抱えている)、という指摘も。つまり「金持ち大家」になるためには、家賃を下げず常に満室にし副収入を増やし経費を減らすことが基本で、他人任せではいけない、ということです。ということは、借りる側からは、ただ家賃が安いことがウリで大家の誠意や存在感が感じられない物件はそれだけで“ハズレ”の確率が高い、ということになりそうです。
 
 著者は釣りのたとえを用います。コマセ餌を撒いて魚を集めるように、広告で客を集める(内見をしてもらう)。集まった魚を釣るように内見をした客を契約に持ち込む。そのためにはどのように広告を作ればいいのか、きわめて具体的に著者は述べます。
 家賃を下げないためにはどうするか、著者がまず勧めるのは礼金・敷金の見直しです。たとえ入居時の売上が落ちても、空室が続くよりも早く入ってもらって毎月確実に家賃が入る方がトータルで見たらプラスという発想です。さらに「敷金ゼロ礼金ゼロ」の物件の場合、家賃を少しだけ割高にして(大家の)リスクを回避してあることが多いそうです。「ゼロ」に安易に飛びついてはいけない、ということですね。
 内見のお客が来たら次は効果的なプレゼンテーションです。そこで工夫があるかどうかで契約率はまったく違ってくるそうです。
 そして夢の稼働率100%。これは不可能です。どんなに理想的な条件が重なっても、引っ越しの日にはどうしても空きが生じます。しかし著者はあきらめません。「どうして世の中の大家さんは、満室になったら募集をやめるんだ?」と言います。満室だからこそ空室待ちの列を作って、空いたらすぐに次の人、としておくべきなんだそうです。そのための一つの手段が口コミ。現入居者から次の人を紹介してもらうのです。もちろんそのためには「自分の知り合いを紹介したい」と思わせるような物件と大家である必要がありますけれど。
 さらに「不動産」を「稼動」産に、と著者は言います。たとえば駐車場。テナントが昼だけ駐車場を使うのなら、夜は別の人に貸したらどうだ、と。あるいは駐輪場を有料にする。自動販売機・携帯電話のアンテナ設置・コインランドリー・トランクルーム・広告スペース貸し……著者はさまざまな提案を行います。ただし、それらをすべて一人の大家がするのは無理です。そこでアウトソーシング。
 ただ、ここで紹介された「方法」だけを真似て小手先でやっても、たぶん駄目でしょう。著者が求めているのは「大家が本気になってアパート・マンションの経営に取り組むこと」なのですから。ホテルがリピート客を獲得するために客にサービスするのと同様に、アパ・マンの入居者が毎日毎日“滞在”を継続したくなるようなサービスをしろ、と著者は言うのです(「釣った魚には餌をやれ」ということでしょう。なにしろこの“魚”は逃げるし口もきけるのです)。「大家はサービス業」だそうです。わあ、これは大変な商売ですねえ。だけど借りる側からしたら快適なサービスをしてもらっているという実感があれば、満足度はぐっとアップ。同じ家賃ならもちろん、少々の差だったら快適な方に住みたいと思うでしょう。
 そして悪徳業者の見分け方、表面利回りと実質利回りの大きな違い……このへんは消費者からはあまり参考にならない部分ですが、もしこれから部屋を内見に行くことがあったらこれまでとは違った目でその部屋(家)を見ることができそうです。
 
 
8日(木)エロ
 安全日の計算方法とその根拠とか正しいコンドームの使い方とかその他の避妊法とか性病の症状や予防方法や治療法についても知ることができるゲームやマンガや小説がもっとあっても良いんじゃないかしら。別に「性教育」と肩に力を入れなくても「セックスをしたい」という欲望を「安全なセックスをしたい」にちょっと変更するだけなんですから、それほど難しいことじゃないように思うんですけど。やっぱり、売れないかな? エロをたっぷり混ぜても、だめ?
 
【ただいま読書中】
約束の地』(スペンサーシリーズ)
ロバート・B・パーカー著、菊池光 訳、 早川書房、1978年(88年17版)、1600円(税別)
 
 スペンサーシリーズの4作目です。(『誘拐』『失投』は見つからなかったので、後日別の図書館で捜索する予定) スペンサーにはスーザンという恋人ができています。職業は高校のカウンセラー、離婚歴がある40才くらいの女性で子どもは無し。運動と読書好きで頭の回転が速く行動力がある点でスペンサーと共通点があります。
 探偵事務所の引っ越しから本書は始まります。新しい事務所での依頼人第一号はハーヴィ・シェパードという男で、失踪した妻パムを捜してくれという(いつもの)お話。大金持ちで何一つ不足はないはずなのに、と主張する夫からは現実の妻に関して役に立つ情報はほとんど得られません。娘の反応は、「わからない」と4回言い、肩を6回すぼめるだけ。それでもスペンサーは動き始めます。
 パムは友人(ウーマン・リブの活動家)のアパートにいました。ところがこの友人たち、とんでもない過激派で、男性優位社会に対抗するためには銃器が大量に必要だ、そのためには資金が必要だ、金は銀行にある、銀行は男性優位社会の象徴だ、だから大義によって銀行強盗は許される、と銀行を襲い抵抗したガードマンを射殺してしまいます。見張り役のパムも殺人の従犯です。こんな時パムが頼れるのは……スペンサー。
 ハーヴィは、事業が行き詰まってギャングの高利貸しから金を借りていました。依頼を受けたときに知人の取り立て屋を見つけたスペンサーはハーヴィに警告しますがハーヴィはそれを無視します。妻を見つけたが帰りたいと希望していないから場所は言えない、と主張するスペンサーを首にしたハーヴィですが、スペンサーの“予言”通り取り立てが厳しく暴力的になるにいたって、スペンサーに泣きついてきます。選択肢が無くなってから泣きつくよりもその前に、と思いますが、小説としてはこれで面白くなります。選択ができない状況でスペンサーがどんな行動をするのか、と読者は期待できますから。
 この妻と夫を同時に救えないか、とスペンサーは考えます。単に事件を解決するだけではなくて、夫婦の危機を救いたいと思うとは、カウンセラーであるスーザンの影響なんでしょうか。そこで、ギャングと過激派を手玉に取る、上手くいっても失敗しても自分の命と生活に危険が及ぶ綱渡りのような作戦をスペンサーは選択します。
 
 本書中何回も登場するスペンサーとスーザン(あるいは他の人)との“議論”で、「スペンサーがいかなる人間であるか」が話題になるたびにスペンサーは「自分の行動を見たらわかるはずだ」と繰り返します。普通は表面と内面との関係によって「実はどのような人か」が論じられることが多いでしょうが、動的な行動の軌跡によって自分を表現したいと望むのはいかにもスペンサーらしいと言えるでしょう。
 なにしろスペンサーは表面的にはマッチョの中のマッチョです。本書では女も(グーで)殴ります(生まれて初めて、と言い訳はしてます)。もちろん女を殴ったことの前後には“文脈”があるのですが、表面だけ見たら典型的な男根論者に見えちゃうんですよね。でも女性に料理を作ったときに「料理の大家」と呼ばれるのを拒絶して「それは女性差別の発言だ。女性が男に料理を作ったときに料理の大家だと褒められたりはしないだろ」なんてことも言う人間なのです。まあこれはただの照れ隠しじゃないか、と私はにらんでいますけど。しかしスペンサーが作る料理って、美味そうです。
 
 ボストンを中心とした街の描写は相変わらず魅力的ですが、それは「スペンサーという探偵の視点」からの観察と表現であるという“ユニークさ”ゆえであることに私はやっと気づきました。“スペンサーという属性”を帯びた探偵はこのように街とそこを行き交う人々を観察しているのか、と感じさせてくれるパーカーの描写は、プロの芸です。
 訳文は『ゴッドウルフ』より相当読みやすくなりました。ただ、同一人物の「〜んだ」と「〜のだ」くらいは統一して欲しいな、とは思います。
 私が一番笑ったのは「約束の地」という会社の社長に納まって自分が大物だと思いこんでいるハーヴィが、その「約束の地」が旧約聖書から採られていることさえ知らずにいることにスペンサーがげんなりするシーンでした。無知はスペンサーより強力です。
 
 
9日(金)ひと言確認
 私は全然記憶がないのですが、小学生のとき学校でものすごく怒られていたことがあるそうです。ところが私はちっとも反省しない。それで教師はますます怒り狂う。ところが教師が怒っていたこと(何かが壊されていたらしいのです)に私はまったく無関係だったのです。疑いはじきに晴れて無罪放免でした。教師の怒りはまったく無益で無意味。
 で、目撃者に言わせると、私があきれた顔をして教師を見ていたのが印象的だったそうです。そりゃ、小学生だって大人にあきれることはありますよ。ひと言確認すれば(私に「お前がやったのか?」とか、職員室で「壊された○○、誰か事情を聞いていますか?」)、あんなに必死に怒る必要はなかったのにね。
 まあ、そんな人は珍しくありません。「名探偵コナン」の目暮警部よろしく、一つの証拠だけで、あるいは自分の思いだけを根拠として「お前が犯人だ」とうるさく言い立てている人のなんと多いこと多いこと。
 
 現行犯逮捕の裁判だって争点があります。まして“現行犯”ではない状況で事情も何も聞かずにいろいろ決めつけることができる人って、「人生で自分は知らないことがない」と人生をなめているのか、単に考え無しでそそっかしいだけか、なんらかの妄想に基づいて行動している人か、のどれかなんでしょう。(「妄想」という言葉で私が精神障害者を差別している、とはとらないでくださいね。6日の日記に書きましたが、私は「恋愛」も妄想の一種と考える人間です)
 
【ただいま読書中】
ユダの山羊』(スペンサーシリーズ)
ロバート・B・パーカー著、菊池光 訳、 早川書房、1979年(89年11版)、1400円(税別)
 
 今回の依頼人は車椅子に乗った大金持ちディクスンです。依頼内容は「わしたち(依頼人の一家、と依頼人自身)」を殺したテロリスト9人を見つけ出すこと。報酬は、生死にかかわらず、一人あたま2500ドル。手がかりは9枚のモンタージュ写真。依頼人が爆弾で吹き飛ばされたときに目に焼き付けた犯人たちの姿。
 スペンサーは爆破現場のロンドンに飛びます。手がかりは、なし。スペンサーは自らが囮になります。暗殺者が現れ、銃撃戦になり、死者が二人誕生し、スペンサーは負傷します。そして次の刺客。スペンサーはまた負傷します。スペンサーは助っ人を呼びます。前作『約束の地』ではスペンサーの敵方だったホーク。スペンサーと同じく元ボクサーでスペンサーと同じくらい(あるいはそれ以上に)タフな男。
 囮は猟犬に転じ、テロリストたちを駆り立て始めます。あたふたと逃げ出した獲物を追いかけ、スペンサーとホークはデンマークそしてオランダと移動し、イギリスのグループがアマチュアで、プロのテロリストであるポールのいわば下請けをやっていただけなのを発見します。とうとう9人については解決しましたがポールは逃亡。スペンサーは「これにて依頼は完了」とする気はありません。葉を片付けて根を放置するのは性に合わないのです。
 「モントリオールオリンピックの入場券をポールが入手していた」という情報を信じてスペンサーたちはカナダに飛びます。ポールがそこで何を企んでいるのか、どうせろくなことではありません。ディクスンの伝手で入手した入場券を使って、満員のメインスタジアムの中をスペンサーは巡視します。
 
 これまでのスペンサーシリーズとは色合いが異なってきているように私は感じます。なによりスペンサーの“理解者”としてのホークの存在が大きい。生き方の規範が全然違う二人なのに基本周波数が共通なのか共鳴しながら二人は物語をドライブしていきます。
 そう、ドライブですね。これまでは糖蜜のような状況の中をスペンサーが苦労して動く軌跡が物語になっていたのですが、今回はキャラが立った登場人物が3人もそろったのですから、物語は安定して走り出します。それはそれで安心なのですが、天の邪鬼の私は居心地の悪さも感じます。こちらの予想を(良い意味で)裏切り続けてくれたスペンサーが、こちらの予想内の反応をするようになるのは、いやなのです。と思っていたら、大丈夫、ちゃんと裏切ってくれました。
 
 さて、こうなるとシリーズの定番、魅力的でなかなか死なない悪役も欲しくなります。過去の作品でやっつけた悪人たちが刑務所から出てきてスペンサーに復讐を、という話もあり得そうですし、シリーズの先を読むのが楽しみです。
 そうそう、「目的」を失ったディクスンの行く末も気になります。ただの「スポンサー」で片付けるにはちょっともったいないある種の魅力を感じる人なのです。
 
 
10日(土)2ちゃん
 何でもありの無法地帯ではアナーキー(なんでもあり)が原則のはずなのに、「空気を読む」能力が要求されるのは、なぜ?
 
【ただいま読書中】
ジェノサイドの丘 ──ルワンダ虐殺の隠された真実(上)』フィリップ・ゴーレイヴィッチ 著、 柳下毅一 訳、 WAVE出版、2003年、1600円(税別)
 
 1994年初夏、ルワンダ共和国で多数派のフツ族による少数派のツチ族(とツチ族をかばうフツ族の穏健派)の虐殺が行われました。人口750万人の国で殺されたのは80万〜100万人。使われたのは主に“ローテク”のマチェーテ(山刀)。著者は言います。広島・長崎以降、もっとも効率的な大量虐殺だった、と。
 
 そもそものはじめ、ルワンダにはピグミーの穴居人が住んでいました。あとからフツ族とツチ族がやってきましたが、ルワンダには文字がなかったため詳細は不明です。フツ族は主に農夫でありツチ族は牧夫でした。旧約聖書で兄のカインが農夫で弟のアベルが牧夫で神がアベルの供物(家畜)を好んだように、ツチ族の方がルワンダでは“エリート”となります。ただ、同じ言葉・同じ宗教で混住し結婚も繰り返していたためその区別は曖昧なものでした。そこへやって来たヨーロッパ人が唱えた「ヨーロッパ語族に身体的特徴が一番よく似たアフリカ人こそ、支配者にふさわしい」という概念がアフリカに定着します。ルワンダではそれは直毛で鼻梁のある鼻を持つツチ族でした。ドイツは二重植民地としてルワンダを支配します。ドイツ人はツチ族を支配し、ツチ族がフツ族を支配するのです。第一次世界大戦によってルワンダはベルギーに与えられますが、ベルギーもその構造を踏襲します。1933〜34年の人口調査でフツ族(85%)ツチ族(14%)トゥワ族(1%)とベルギーは人種を確定しIDカードを発行します。これによってそれまでは曖昧だった人種にしっかりした境界線が引かれ、それを超えることは許されなくなりました。つまり「国家」によって人種が確定されたのです。
 もともとベルギーも、少数派のワロン人が多数派のフラマン人を支配していました。それが社会革命で平等な社会になったのですが、ルワンダにやってきたフラマン人の牧師たちは「虐げられたフツ族」に感情移入し「社会革命」を目指します。ただし、それは「平等」を実現するものではなくてフツとツチを逆転させるものでした。(ついでですが、ルワンダはアフリカ一キリスト教化が進んだ国です。人口の65%がカソリックで15%がプロテスタント)
 私見ですが、これはベルギー人の「正義」の概念の発露だったのかも、と思います。少数派のエリートに支配されていたフツ族を「平等」にするだけでは過去の“損”が残ります。だから逆転させることの方がバランスがとれる、と。
 1959年、ルワンダで「初めて」の組織的な暴力沙汰が起き全土に拡がります。フツ族はツチ族の家に放火して回ります。ベルギー軍はフツ族に肩入れします。ツチ族も最初は反撃していましたが、やがてフツ族による一方的な虐殺に事態は推移します。1960年代前半の間欠的な虐殺で、国外へのツチ族難民は25万人となりました。1973年にまた虐殺の嵐が吹き荒れますが、75年からは差別はあるものの虐殺はなくなりました。ちなみに、1959年から国外に難民として逃れたツチ族とその子どもは合わせて100万人でその半分はウガンダにいるそうです。
 白人にとってルワンダは楽園でした。冷戦下でアフリカには東西どちらかの雇われ独裁者と反政府軍が充満していたのですが、ルワンダは平穏だったのです。各国からの開発援助が集まり、大統領とその取り巻きの懐は重くなりました。しかし国の財政は苦しくなり、フツ族の中の反政府派が勢力を得ます。そして1990年、反政府軍であるルワンダ愛国戦線(RPF)がウガンダから侵攻します。それに対してルワンダ政府は、すべてのツチ族はRPFの同調者であり、フツ族でも穏健派はツチ族の同類、とします。「フツ至上主義」の誕生です。94年の予行演習のように、弾圧と虐殺が繰り返されます。1993年、ハビャリマナ大統領はRPFと和平条約を結びますがフツ至上主義党からはそれは裏切り(=ツチの同調者)でした。94年4月6日大統領の暗殺。政府は犯人はツチと国連平和維持軍と主張し、1時間後に組織的なジェノサイドを開始します。「100日で100万人虐殺」のオープニングでした。隣人が隣人を、教師も医者も聖職者も、殺して殺して殺したのです(殺すためのシフトが組まれていました。殺すことを拒否したものは「同調者」として殺されました)。
 本書ではそのジェノサイドから逃れた「オテル・デ・ミル・コリン」にページが割かれています。今年はじめ公開された映画「ホテル・ルワンダ」の舞台になった場所です。虐殺指名リストに載った人たちが1000人以上も閉じ込められたホテルで何が起きどうやって彼らが生き延びたのか、それは本書を読むか映画を観てください。
 
 派遣されていた平和維持軍は限定された任務のみを与えられ(たとえば死体をむさぼり食う犬を射殺すること)、限定された地域に閉じ込められていました。特にアメリカは、ジェノサイドを止めるどころか、国連軍の縮小をさせました。現地の司令官が「5000人の兵士と戦う許可さえくれれば、ジェノサイドをただちに止められる」と報告していたのに、アメリカは「ジェノサイド」という言葉の使用さえ拒否しました。この時(そしてそれに続く何十日か)のアメリカの“怠慢”は、著者の記述を信じるならば、犯罪的と言って良いでしょう。フランスの手も汚れています。自国の権益を守るために軍を派遣しルワンダ国軍を支援しようとします。しかしRPFは支配領域を拡大し、そしてそこからジェノサイドの実相が全世界に発信されるようになりました。
 形勢が不利になり「自分たちは被害者で、自衛のためにツチ族を殺した」と主張したフツ族急進派は、自分が生き延びるためには本当に“被害者”になって国外逃亡するしかないことに気づきます。フランス軍の展開でRPFの侵攻は鈍り、フツ族による虐殺は一ヵ月余分に可能となり、ジェノサイドの実行者は武器を持ったままザイールに逃亡する余裕ができました。
 ジェノサイドを黙殺した国際社会は、ザイールに流入した100万人以上のルワンダ人(フツ族)を援助することに熱中します。彼らが「国に帰ったらツチ族にまた同じことをしてやる」と公言しているのを聞いて不愉快に思ったとしても、「人道」団体はお仕事をしたのです。
 
 ついでですが、著者の両親は、ナチスから逃れてアメリカに亡命した難民です。
 
 
11日(日)1122
 私たちの結婚記念日を日本中が祝ってくれるので、お礼に護国神社に参ってきました。22年前に結婚したところのすぐそばです。11日で22年だからタイトルになっているのであって「良い夫婦」の洒落ではありません。ありませんとも。その証拠に「良い夫婦より良い豆腐の方が腹が膨れる」と言って叱られた宿六がここに約一名おります。
 
【ただいま読書中】
大草原の小さな家』ローラ・インガルス・ワイルダー 著、 ガース・ウィリアムス 画、恩地三保子 訳、福音館書店、1972年(88年40刷)
 
 「人が増えすぎた」ウイスコンシン州の「大きな森」からローラたち一家は西のインディアンの土地を目指すことにします。ミシシッピイ河の氷がとける前に渡河しようと、冬に出発です。幌馬車でいくつものクリークを超え草原を越え、とうとう一家は気に入った大草原で足をとどめます。一番近い町は40マイル向こうのインディペンダンス。一番近い隣人は2マイル向こう。数マイル四方に数人(数家族)しかいない、人より狼の方が多い環境です。とうさんは馬車を解体し、丸太を集めて小屋を造ります。
 丸太小屋と馬小屋作り、井戸掘り、家具作り、食料集め(狩り)ととうさんは大車輪です。かあさんも、事故で足に大怪我をしますが、それでも家事や育児に八面六臂の大活躍。手持ちの材料と自分が使える技術しかない状況です(バターが欲しかったら、自分で乳を搾ってそこから作らなければなりません。そのためには牛を飼わなければなりません。そのためには……)。でも一家には、常に笑いと音楽(歌とヴァイオリン)があります。
 夏になると蚊が大発生し、一家は「おこり熱」にかかります。クリークの近くに住む移住者がつぎつぎやられる熱病です。助けてくれたのは、インディアンを診る黒人の医者ドクター・タンと近所のスコットさんでした。おこり熱の原因は「クリーク近くの悪い空気」「スイカを食べたから」「夜の空気」などと言われていますが、実は蚊が媒介するマラリアでした。19世紀末の中部アメリカには、まだヨーロッパの最新科学は届いていないことがわかります。
 
 クリスマスに代表される楽しいこと、あるいはこわいことや悲しいこと(かあさんが怪我をする、狼の群れに取り巻かれる、インディアンが突然家に入ってきて食料を要求する、井戸の底に有害ガスがたまる、ボヤ、野火、嵐……)もありますが、私が一番注目したのは日常生活です。普通ハレは注目されますがケは無視されます。しかしこの時代に“普通の人”が何を考えていたのか、どう生活をしたのか、子どもたちは何をして遊んだのか、そういった“普通”のことにどのくらい価値があるか、それは失わないとわからないことでしょう。
 たとえば幌馬車の旅ではスパイダーと呼ばれるフライパンが活躍します。炉を作らなくても焚き火にそのままかけられるように、フライパンの底に五徳が接着されているようなものです。かさばるし洗いにくそうですが 馬車で旅する場合には、大変役に立ちそうです。役に立つと言えば、子どもたちも熱心に家事をします。「お手伝い」ではなくて役割分担です。ちょっとしたことがすぐに生死の問題になるようなぎりぎりの生活では役に立つ人を遊ばせておく余裕はないということでしょう。さらに子どものしつけ(食卓での行儀、言葉遣いなど)もきわめて具体的に書いてあります。そこで「良い子」のメアリイに対してローラがあまり「良い子」ではないのが笑えます。
 
 インディアンに対して「良いインディアンは死んだインディアン」とだけ言う人もいます。「インディアンにも良い人も悪い人もいる」と言う人もいます。ただ未知のものに怯えるだけの人もいます。そして、政府とインディアンとの協定で境界線が引かれ、インガルス一家はインディアンの土地にいることが確定されて出て行かなければならなくなります。「インディアンの道」を西に向かって帰ることのできない旅に出るインディアンの部族の姿と、せっかく定住しかけた土地からまた幌馬車の旅を始めるインガルス一家の姿とが悲しくダブります。
 
 そうそう、最初は引っ越しの馬車の中から外を覗く少女が二人、引っ越し先では草の中にトンネルを見つける、という描写はもしかして「トトロ」に影響を与えているのかな?
 
 
12日(月)新しいシステム
 新しいシステムは必ず新しい問題を引き起こします。だから、何かの問題を解決するために新しいシステムを構築するよりは、問題を解決した結果新しいシステムが構築される方が、まだ優れていると言えるでしょう。後者でも「新しい問題」は起きるかもしれませんが、少なくとも「古い問題」は解決されたのですから。
 
【ただいま読書中】
ジェノサイドの丘 ──ルワンダ虐殺の隠された真実(下)』フィリップ・ゴーレイヴィッチ 著、 柳下毅一 訳、 WAVE出版、2003年、1600円(税別)
 
 世界のマスコミはルワンダの内戦をはじめは無視し、それから“公正”に報道しようとしました。「フツ族がツチ族を殺し、ツチ族がフツ族を殺している。それだけだ」と。そういった報道を見ていた著者は、ジェノサイド発生から1年後、ルワンダに出かけます。少しでも現実に近づくために。
 1995年はじめには25万人の国内難民(フツ族)がキャンプ生活をしていました。キャンプには難民とジェノサイド実行者が混在し、実行者たちは自分の安全のためあるいはジェノサイド再開のためにキャンプが維持されることを望んでいました。キャンプの外にいたRPF軍による銃撃とキャンプ内での同士撃ちにより大量の死者がキベホキャンプで発生します。死者の区別はすぐにつくそうです。フツ族はマチェーテ(山刀)を主に使うけれどRPFは使わないから。これは新たなジェノサイドなのか、著者は疑問を感じます。
 RPF軍の目的は、人種対立(フツ族を倒すこと)ではなくてルワンダ政権打倒。特徴は規律正しさでした。ただし復讐のための殺人を完全に防止することはできません。ジェノサイド実行者たちはそれを大々的に報道し「フツ族は被害者である」「国に帰ったら逮捕され皆殺しにされる」と喧伝します。プロパガンダに長けた人たちはその“魅力”をフルに発揮して、国内では多くの人をジェノサイドに駆り立て、国外ではプロパガンダを真に受けた人道団体から“可哀想な難民”として国際援助をたっぷり受け取りそれで武器を買い集めました。
 結局「フツ族は“自衛”のためにツチ族を殺した」というプロパガンダは、国連調査団によって否定されました。1948年に国連総会で「ジェノサイド条約」が締結されてから初めて、「フツ族によるツチ族に対するジェノサイド」の罪が認定されたのです。
 
 RPFが政権を掌握して九ヵ月で、75万人のツチ族難民が国外から“帰国”します。RPF幹部さえ驚きます。なぜ比較的安定した安全な生活を捨てて「墓場」に住みつこうとするんだ? そして国内では軋轢が生まれます。それでなくてもツチ族とフツ族(フツ族の中でもフツ至上主義者と穏健派、ジェノサイドの実行者と黙認した人と反対した人)の間の関係は微妙です。そこに国外から新来のツチ族が大量に入ってくる。それも各国の異なる文化を背負って。容易には晴れないジェノサイドの暗黒の霧の下で、トラブルは深く進行します。
 ユニセフの調査ではジェノサイドの期間中、ルワンダの子ども6人に5人が流血を目撃しているそうです。それがこの国に明るさをもたらすとは思えません。そして革命後、人種間結婚は激減しました。ジェノサイド実行者たちは確実に“ポイント”を上げているのです。
 1996年にはザイールで、モブツ派とフツ至上主義者の連合軍がツチ族の掃討を始めます。しかし今回は反撃がありました。ムグンガに閉じ込められた75万人の難民に注目が集まりますが、国連は難民を閉じ込めているモブツ派・フツ至上主義者連合軍への武力行使を禁止します。反モブツ軍(とそれを手助けしたルワンダ軍)は結局武力で相手を打ち破り、難民をルワンダに帰国させました。
 
 ジェノサイドの“罪”は「人々を絶滅させようとする“発想”」そのものにある。人の苦しみは、その前では何ほどのものでもない、と著者は言います。そして著者の耳を通って心に到達する言葉は「正気」から発せられた言葉です。RPFの戦士でかつ政治指導者カガメもその「正気」の人の一人です。防衛省のオフィスでカガメと話すとき、著者はリンカーンを想起します。カガメは言います。「難民キャンプには無実の人間もいるが、彼らにとってそれは悪い状況だ」「ときには、真実を言うのが一番簡単だという場合もある」……そして部屋のドアが開き、著者はルワンダの“現実”に戻っていくのです。その悪夢のような現実を作ったのは、顔も名前も定かでないフツ至上主義者ですが、それを手助けしたのが言葉だけは立派でダブルスタンダードを駆使する「国際社会」であることを、「殺される側」にいた人はきっと忘れないことでしょう。(国際社会が反共のためにナチス宥和政策を採り結果としてホロコーストを“後押し”したことを私たちは同様に忘れてはいけないでしょう)
 
 想像してみましょう。日本中で1800万人の人が何らかのレッテルを貼られてそのうち
1200万人が殺されることを。町内で十軒に一軒の家が、マンションで十室に一室が、隣人が隣人たちに襲われてそこに住む家族が殺され(あるいは国外に逃亡し)家が焼き払われることを。学校も病院も教会も血まみれになっていることを。あなたが隣人に山刀でたたき切られることを。あなたが隣人を山刀でたたき切ることを。そして、“それ”は初めてではなく、もしかしたら最後でもないことを。それがルワンダのジェノサイドです。
 著者は言います。「権力とは主として、たとえそのために多くを殺さなければならなかったとしても、自分の物語を他者の現実に押しつける能力だ」。そしてその権力は、ルワンダ以外のどこでもほぼ同じように機能できるのです。ジェノサイドは(あるいは世界で起きているほとんどの出来事は)“野蛮な国で起きている自分とは無縁の他人事”ではなさそうです。
 
 
13日(火)お正月の芸人たち
 少し前のお正月番組では「正月にだけTVで会える芸人さん」がけっこう登場していました。傘回しの染太郎・染之助とか漫才のいとしこいしとか。夢路いとし・喜味こいしの「君、僕」口調でゆったりと語られる漫才は、若手のスピーディーなものとはまた違って、優雅ささえ感じられるお笑いでしたが、どうしてもっとテレビに出ないんだろう、と子ども心に不思議でした。「テレビによく出る(=有名である)」と「良い芸人である」が頭の中でイコールで結ばれていた子ども時代のお話です。
 
【ただいま読書中】
いとしこいし 漫才の世界』喜味こいし・戸田学 編、岩波書店、2004年、2600円(税別)
 
 漫才は昭和初期には、唄・楽器演奏・踊りなども入った華やかだが猥雑な舞台芸(萬歳)でした(元来は、めでたい言葉によって招福する言祝(コトホギ)です)。しかしエンタツ・アチャコからしゃべくりだけの芸が始まります。エンタツ・アチャコにはスラップスティックな動きも取り入れられていましたが、それとは別に、脚本家の書いた漫才脚本をしゃべるだけでスマートに演じる路線も生まれます。そちらの路線の最高峰の一組が、いとしこいしです。
 
 前書きの「ご笑覧くださいませ」とあるのを見て、もうこちらは笑わされてしまいます。はいはい、じっくり「ご笑覧」させていただきましょう(我ながら、変な日本語です)。
 
 いつかラジオでこいしさんが話しているのを聞いたことがあるのですが、いとしこいしもはじめは踊ったり楽器演奏も練習していたのですが、エンタツさんかアチャコさんから「しゃべりだけでやれ」とアドバイスされてそれからはしゃべり一本で行くようになったそうです。ただ、客はそれでは納得しないので、舞台にたとえばギターをぽんと置いておいてそれを見た客が「ああ、あれをいつか演奏するんだな」と“安心”させておいてから舞台(もちろんしゃべりだけ)を勤めたそうです(このエピソードは本書にも登場しています)。
 戦争前に子ども漫才でデビューした二人ですが、戦争で弟は少年兵に志願、広島で被曝。九死に一生を得ます。終戦後漫才活動を再開し脚本家の秋田實と出会い、公演だけではなくて、ラジオや映画の俳優として、あるいは番組の司会としても大活躍するようになります。
 こういったいとしこいしの“歴史”も面白いのですが、本書の後半は「いとし・こいし名作選」です。15本もの漫才の口演がそのまま文字化されています。「あ、これ知ってる」「これは知らない」「うわあ、時代が感じられる」……ページをめくるごとに嘆声が守れます。しかし、ネタを落語やシェークスピアや浄瑠璃から拾っているとは、漫才といってもなかなか油断ができません。読んでいると、だんだん脳裡に二人の語り口が蘇ってきます。そうそう、こんな声で、こんな口調で、こんな間で…… それを“聞いて”いるとだんだん目の前に二人の姿が見えてきます。そうそう、こんな表情で、こんな姿勢で、こんな手振りで…… 幻聴でしょうか幻視でしょうか。なんでもかまいません、お二人の漫才をもう一度見たいなあ。TVではなくて生で見たかったなあ。
 
 
14日(水)読書
 「本を読む」と言うけれど、実際に人が「読」んでいるのは、文字です。人に情報を伝えるのは紙の上のインクのしみですから。では、人が「本」を読むとき見つめているのは「文字」だけでしょうか? 私が読む本には楽譜も載っていることがありますが、それはまた別の話として、人は、文字と行間と装幀とにおいを味わいながら「読」んでいるのではないでしょうか。
 ですから私はあらすじだけ知ってその本を読んだ気になることにはあまり賛成できないのです。たとえデジタルデータで楽に手にはいるとしても、やはり「本」を読みたくなるのです。
 
【ただいま読書中】
何かが道をやってくる』レイ・ブラッドベリ著、大久保康雄 訳、 東京創元社(創元SF文庫)、1964年(99年52刷)、600円(税別)
 
 雷鳴に追われるように避雷針売りの行商人が町にやってきます。彼から「君たちの家のどちらかに今夜雷が落ちる」と避雷針を押しつけられたのは、あと一週間で14才になる、二分違いで生まれた隣同士の少年、ウィルとジム。いつも風に吹かれる木の葉のように走り回っている少年たち。一週間後には“大人”になってしまう運命をまだ知らない少年たち。
 雷はやってきませんでした。でも、10月にはやって来ないはずのカーニバルが町にやって来ます。午前3時に南北戦争時代の汽車が激しい慟哭のような汽笛を鳴らしながらカーニバルを運んできます。引き込み線の向こうに魔法のようにテントが立ち上がり、町の人々は見物に押しかけます。
 小さなカライアピー(簡素なパイプオルガンのような楽器)がむせび泣きます。鏡の迷路で人が溺れ、回転木馬が逆回転するのをウィルとジムは目撃します。葬送行進曲を逆に演奏しながら逆回転する回転木馬に乗っている人が、一回転ごとに一歳ずつ若返っていくことを。このカーニバルには秘密があることを二人は知ります。それも黒い秘密が。夜の闇に乗って、盲目の魔女は気球で秘密を探ろうと町の上を這い回ります。町の人は一人また一人と姿を消し、そのたびにカーニバルには奇形人が増えていきます。
 
 ウィルの父親は39で結婚し現在54才。作中で何回も「老人」と評されますが、それは年齢だけの話ではなくて、職場の図書館で本の山に埋もれて生きている彼の生き方が老人のものになっているからです(本人は「今日をなおざりにして明日を生きている」と表現します)。しかし、子どもたちの危機を見て彼は自分が得意なこと、つまり資料を調べ始めます。常識ではあり得ない子どもたちの話を彼は信じ、そして「同じ」カーニバルが定期的に(20年から40年に一回)必ず秋に町にやってくることを三人は知ります。彼らの正体は、目的は何なのか。それを探る暇もなく、三人はカーニバルの一行に捕まってしまいます。
 
 本書は、不気味な何かが町にやってくる物語であると同時に、少年が大人になる物語です。さらに、子どもであり続けることをあきらめていた大人が、もう一度自分の人生を生きる覚悟をする物語でもあります。「こわいのは死ではない。死の前にあるものだ」ということば。そしてカーニバルの虚無と戦うのに使える唯一の武器が一体何であったか。そのことが読者に生きる勇気を与えてくれます。
 
 
15日(木)余人をもって代え難い
 他人がそのように評価してくれるのが偉大な人間。そのように自己評価しているのは、尊大な人間。
 
【ただいま読書中】
町工場巡礼の旅』小関智弘 著、 現代書館、2002年、2000円(税別)
 
 日本では一般に町工場は軽く見られています(というか、もの作りにかかわる職人全体がこの国では軽く見られる風潮があります)。しかし、日本のもの作りに関して、大企業だけあればいいと思うのは大きな間違いです。「自動機械を使えば人手いらずでそこそこの精度のものが大量生産できる」これは正しい言説です。しかし、あくまで「そこそこの精度」です。熟練職人がそういった機械を使いこなすと「驚異的な精度」が出せるのです。
 「いざなぎ越え」の好景気なんだそうですが、町工場に関しては「平成不況」のようです。町工場に関しては世界に誇るレベル「世界のオータ」である東京都大田区では、1992年に8200あった工場が10年で2000以上減少しました。
 
 「これまでの親会社と下請けの関係は親子関係。息子が多少だらしなくてもやはり息子。親が無理言ってもやはり親。だけどそんな甘っちょろい時代は終わり。これからは愛人関係。お互いに魅力が無くなったら、おつき合いは終わり」と言い切る中小企業経営者の言葉はシビアです。
 技術の移転はできます。プログラムも組めます。しかし、技能の移転(伝承)は簡単にはできません。著者はもともと旋盤工ですからすぐに旋盤の話が始まります。たとえば旋盤で精密に削ると歪みが生じます。素材そのものが持つ内部応力や熱による変形です。それをあらかじめ予測して加工するのが熟練工です。そのために適した治具を作るのも熟練工です。治具は設計図にも手順書にも書いてありません。人がそれを工夫するのです。
 金属で「完全な平面」を作るのにどうするか。まず3枚の金属板を作ります。板に光明丹という紅色の白粉のようなものを塗って二枚の板を摺り合わせると凸の部分がこすれて地金が出ます。そこをキサゲというノミに長い棒をつけたようなもので削ります(棒の端を腰に当てるて腰をひねるそうです)。慣れた人はミクロン単位で削ります。3枚の板のどの二枚を組み合わせても光明丹が全体に薄く残るようになったらどれも「真っ平ら」になったわけです(二枚だと凸レンズと凹レンズのようにうまく合わさる場合もあるから三枚使うのです)。ものによっては「中央部だけ2ミクロン高く」といった注文が来ることもありますがそれもキサゲで対応できるそうです。
 レーザーでの微細な加工、たとえば顕微鏡で350倍に拡大したらやっと読める程度の文字を刻むテクニックを持った工場の話も面白いものです。その技術をジャガイモの皮むきに応用できるというのです。土が付いたジャガイモはまず水洗し皮を剥き、15%くらいがゴミになります。農民が「良い土」と言う畑の土は流されてしまいます。ところがレーザーを使うと、水洗不要で土は畑に戻せるし、ゴミは1/10になるのです。つまりはレーザーでポテトチップが10%増量できるかも……(なんでも皮の直下で水蒸気爆発を起こさせるような原理だそうです)
 
 著者は「職人」を、ものを作る手だてを考え、道具を工夫することができる人だと巻gなえています。最近ではそれに、自分の技能をやさしい言葉で他人に伝えることができる人、という定義が付け加わったようです。
 かつては「互換可能」「大量生産」と「職人わざ」とは両立しないものだったようですが、今ではいかに高精度の部品を大量生産するかの過程で目に見えない部分の工夫をする部分に職人のわざが生きているようです。
 
 本書で特に心に残った言葉、二つ。
(自動化されたネジ製造機械の前で)「誰が作っても同じように作れると思うでしょうが、これで規格に合格すればいいとしか考えない男の作るネジと、こんなものを納品したらウチの工場が笑われる、と目を光らせている男が作るネジとでは、一目見ただけで美しさがちがうんですよ」
「自然界に雑草という名の草がないように、労働現場に雑用という名の仕事はない」
雑用(仕事を上手く進めるためのメインの業務の周辺の細々した仕事)を馬鹿にする人は、仕事そのものも馬鹿にしているということなんでしょうね。
 
 
16日(金)放置国家
 一般会計が赤字赤字と騒ぎながら巨大な特定会計には手をつけない財務省。
 毎年毎年無駄遣い報告はするけれど改善努力はしない会計検査院。
 日本の農業と林業を瀕死の状態にして平気な農水省。
 環境問題を成り行きにまかせている環境省。
 製品で死者が出たとメーカーから報告を受けても国民には情報提供をしない経産省。
 出生率の予測を外しまくり少子化には無策で自殺や過酷なサービス残業に手をつける気配もなく工場のHACCPの認定をしたらあとは知らんぷりの厚労省。
 逸材の海外流出にも教育現場の荒廃にも目を逸らしたままの文科省。
 耐震偽装を見抜く気もなかった国交省。
 
 「小さい政府」だったら、権限は最小限であとは民間にまかせる、でも良いとは思います。だけど日本は「小さい政府」ですか? ずいぶん監督権限をふるっているように見えるんですけれど。で、「監督」の名の下に正直者と弱者をいたぶることには熱心だけど、あとは何をしていたんだろう。大きな問題を放置することに熱心だった?
 
【ただいま読書中】
また、あした ──日本列島 老いの風景
山本宗補 文・写真、アートン、2006年、1600円(税別)
 
 団塊の世代が大量に定年を迎えることがマスコミでは盛んに取りあげられていますが、それは同時にその親の世代が大量に老人になっていることをも意味します。「高齢化社会」という言葉で一括りにされていますが、ではその個々の老人はどのような存在なのか、そのことに関して真剣な議論が日本で行われているようには私には見えません。
 70代の人たちは、昭和初期、いわゆる戦前派で若い頃(あるいは幼い頃)に戦争を経験しその後の日本を背負って来た人たちです。80代は大正生まれ、90代半ば以上は明治生まれですが、この世代はもう本当に少なくなっていることでしょう。
 本書では著者が日本中を歩いて撮影した老人の写真が詰まっています。いい顔をした人もいますしあまりそれほどではない人の顔もあります。俗に「皺の一本一本に人生が刻み込まれている」と言いますが、写真だけでその人の人生が読み取れるほど、私は人を見る達人ではありません。そもそも「人生」は写真に写るものなのでしょうか? いきおい、キャプションに頼ってしまいます。
 さらに私は老人のアップより、風景の中にいる人の写真の方に惹かれます。その人がどのようなところで生きているのか、わかりやすい気がするのです。
 
 死ぬとき、一人で死ぬのは嫌です。できるなら自宅で。でもそれは家族に負担を背負わせます。大家族なら分担できますが、今の少人数の家族では負担は特定少数に集中します。その負担から逃げる奴に限って口は良く動いてその言葉は実際に負担を負っている人に向かいます。
 ただ、在宅で死ぬことは残された者にとっては「死を受け入れるプロセス」になるという“良い面”もあるように感じます。今の、「病気になった」→「入院した」→「死亡した」→「死体が家に帰ってきて」「お葬式」……これは議事進行にはなってはいますが、「私の心」が「あの人の死」を受け入れるプロセスとして、これが本当に“良いもの”なのでしょうか?
 
 「老老介護」。このことばは田舎ではよく見聞きします。たとえば「70才の“子ども”が95才の親の面倒をみている」のです。
 親に認知症があれば親は“幸い”かもしれません。少なくとも自分が置かれている状況が理解できませんから。ただしその場合“子ども”の側の負担は重くなっています。
 親の頭がはっきりしていたら、今度は親の側の辛さが増しています。「自分が“子ども”に負担を掛けていること」をはっきり認知できるのですから。
 
 ついでですが、認知症(ボケ、痴呆)を「老化によるひどい記憶障害」と思っている向きが多いようですが、病気の名称にもあるとおり「認知」の障害(および知能の低下)がメインです。記憶の障害はそのついで。「老人」(老い)の理解はなかなか難しい。
 
 
17日(土)じん
 「神」も「人」も「じん」と読めるのは、偶然の一致でしょうか?
 
【ただいま読書中】
日本人なら知っておきたい 神道』武光誠 著、 河出書房新社、2003年、720円(税別)
 
 「日本人は無宗教」とはよく聞きますが、除夜の鐘を聞いてから初詣に出かけたり山頂でご来光を拝む人たちが無宗教であるとは私には思えません。(「山頂でのご来光」は、山岳信仰と太陽信仰の合体わざと言えるでしょうが、拝んでいる人は一神教的に「山岳神」「太陽神」をとらえているわけではなくて八百万の神の一つを拝んでいる/自分がその中に含まれている自然界そのものを拝んでいる、という感覚のはずです)
 神道では人と自然の間に明確な境界線を設定しません。神でさえ、人の延長上の存在です(「人は死ねば神になる」と言いますね。あるいは「ご先祖様が守ってくれる」)。それどころか、生命と無生物の間にさえ排他的な境界を設定しない不思議な「宗教」です。
 神道では「産霊(むすひ)」という概念が重要です。これは霊(神秘的な力)によって「生命」を生み出すこと(苔むすの「むす」)ですが、神道では「万物」にこの概念が適用されます。生物だけではなくて無生物にもです。たとえば「精魂こめて」作られたモノにも生命が宿ります。左甚五郎が彫った鼠が走り回っても、それほど不思議ではないわけですし、工場でロボットを擬人化して愛称をつけるのも当然の行為なのです。
 
 神道には戒律がありません。人は本来善であるという信頼をベースとし、人間関係を重視しているからです(ただ、人間関係は窮屈になります)。だからもし穢れ(気枯れ)があっても禊ぎをすればOK、としています。(禊ぎとは、冷たい水を体表にかけることで体内に熱を産生させ、それが体表に出てくることを利用して表面近くの「きたないもの」を押し出すこと、と聞いたことがあります。決して物理的に「水洗」しているわけではありません。体内の「気」が重要です)
 
 『儒教とは何か』(加地伸行、中央公論社)は、日本での“仏教”葬式と儒教との微妙な混淆から話が始められていますが、本書では「日本のクリスマスは神道行事」とあります。日本人は宗教を平気でミックスしちゃいます。神道は仏教や他の中国由来の思想や宗教と相互に影響を受けながら変化してきました。(そもそも仏教がインドから中国に伝来して定着したときに儒教や道教の影響で“変質”した(だから玄奘が“西遊記”の旅をする必要があった)ことについては、ここでは触らないことにします)
 聖徳太子の十七条憲法も、第二条は仏教ですが、儒学や法家の思想も見えます(公務員は上の命令をきちんと守ってお仕事をするように、のところ)。第三条は神道かな。
 神社は飛鳥時代に寺院が造られるようになってからのものです。同時に、この時期に「国家」の概念が神道に導入されて「個人の祭り」「家の祭り」「集落の祭り」に「国の祭り」が加わりました。その際、各地に伝えられていた神話を整理して、それまで各地で祀られていたオオクニヌシの上位に太陽神である天照大神が置かれました。つまり、大国主命の父親スサノオとその姉アマテラスの話は朝廷によって後付けされたわけです。それは地方政権(大国主命)と中央政権(天照大神)との関係をそのまま反映した“神話”でした。
 修験道(山岳信仰・神道・仏教・道教・陰陽道などが集合)は、神と仏を協調的に捉える平安仏教(本地垂迹説=神は仏の姿の一つ)の影響でしょうし、鎌倉仏教では仏教が神道から“独立”する傾向が強いからそれに対抗するために教派神道が生まれた、と言えるでしょう。室町時代には神社の組織化が進みます。江戸時代、国学の本居宣長は「古事記に返れ」と主張します。一種のルネサンスですな。復古神道の平田篤胤は、朱子学も仏教も排し、その思想は尊皇攘夷につながりました。明治の神仏分離令/廃仏毀釈によって、神道と仏教は別れ、別々の道を歩むようになります。明治政府は国教として神道を扱いましたが、私からはそれはキリスト教の形を借りてその三位一体の所に天皇をはめ込もうとしているようにも見えます。本来の神道ではありません。
 著者は私より“過激”です。飛鳥時代の“国家神道”さえ「神道本来の姿ではない」と言いたそうです。やまとの神道原理主義かな?
 
 最後にトリビアです。神職になるにはどうすればいいでしょうか。一つは、各県の神社庁の講習と試験。二つめは、國學院大學(東京)・皇學館大學(伊勢)の神道学科か神道専攻科を卒業すること。最後は各地の神職養成所。著者は2番目のルートが「日本史や国文学の知識も身につけることができる」とオススメのようです。(現在2万人あまり神職がいて、1割が女性だそうです) ちなみに巫女には資格はないので志願者は各神社にお問い合わせください。
 
 
18日(日)ノン
 団塊の世代についてちょっと考えていたら、昔の大学紛争のときに「ノンセクト」という不思議な集団がいたことを思い出しました。賛同できる主張があるから人が集まってセクトを形成するのに、「主張無し」「紛争には参加したい」人たちが「ノンセクト」と呼ばれていたように私は記憶しています。そして「学生運動には参加しない」人たちは「ノンポリ」。
 今の政治で、無党派と呼ばれる人たちで、選挙に参加する人は昔のノンセクトに相当して、選挙に参加しない人はノンポリ、かな。
 なんだ、世代に関係なくやることは同じなんだ。
 
【ただいま読書中】
少年探偵団』(少年探偵 二) 江戸川乱歩 著、 ポプラ社、2005年、600円(税別)
 
 東京の夜を、闇の色をした怪人が跋扈し始めます。はじめはただの悪ふざけをしているだけのようでしたが、そのうち怪人の目標は、少年探偵団の一員、篠崎始君の家であるらしいことが知れます。篠崎家には、元はインドにあったという「呪いの宝石」があり、それを怪人(インド人)は狙っているのです。
 宝石はまんまと盗まれ、少年探偵団の小林少年と篠崎家の緑ちゃん(5才)はインド人に囚われます。あわやというところで二人は救われますが、インド人はかき消すように姿を消します。
 そこで、待ってました、明智探偵の登場です。(ちょーん、と木を入れたくなります)
 
 明智探偵の「謎解き」は、年少の読者にもわかるように懇切丁寧です。でも、それが小説の展開に上手くマッチしていて、ちっともくどくありません。子どもに面白いものをきちんと書ける人の文章は、大人が読んでも面白いのです。さらに「二十面相が人を殺さない」ことが保証されていることから、読者は安心して犯罪物語に没入できます。
 
 そして、私が好きなシーン、怪人二十面相が黒塗りの気球で脱出するシーンです。警官隊の包囲から気球でまんまと脱出するも、空中で4台のヘリコプターに取り囲まれた窮地から、二十面相は一体どうやって脱するのか。今読んでもわくわくします。
 
 本書の後半は別の事件で、二十面相は相変わらず変装をしますが、こんどは少年探偵団の方も変装で対抗です。大人には無理でも少年だったら変装できるものがある、というのは、なかなか気がつきにくいものですが、書いてもらうと楽しいですねえ。
 
 今ふっと思ったのですが、この話を「昭和初期にあった実話」として映画化できないでしょうか。当時の風俗を精密に再現して、その“舞台上”で怪盗と少年探偵団の話を展開するのです。たとえば携帯電話がない時代にどうやって迅速に連絡を取り合うのか、あのもどかしさなどが上手く再現できたら、面白い映画になると思うんですけどね。
 
 
19日(月)病院のにおい
 18世紀半ばに、ゼンメルワイスが「消毒」の概念を提唱し、リスターが石炭酸による消毒を始めました。新しい「消毒の概念」が世間に受け入れられるためには長い年月が必要でしたが、いったん受け入れられたらどこの病院も石炭酸のにおいがするようになったそうです。なんでもかんでも消毒しようとして、それこそ空気まで消毒するために石炭酸を噴霧する、なんて無駄なことも行われていたそうな。
 私が子ども時代、近くの医院も独特のにおいがしていましたが、あれはクレゾールだったのでしょうか。
 そして今、あちこちの施設や病院では次亜塩素酸ナトリウムのにおいがしています。と言うか、そのにおいが全然しないところは、ノロウイルスに対して、無頓着なのかよほど自信があるのか、どちらかなんでしょうね。
 
【ただいま読書中】
ロンドン・ペストの恐怖』 ダニエル・デフォー 著、 栗本慎一郎 訳、 小学館、1994年、1300円(税別)
 
 14世紀のヨーロッパを荒らした「黒死病」はヨーロッパ全人口の三人に一人を殺したと言われる大流行でした。その後もこの病気は小流行を繰り返しますが、その最後の大きめの流行が本書で扱われる17世紀ロンドンでの流行です。
 著者は『ロビンソン・クルーソー』で知られた人ですが、本書は彼が幼児の時に体験したロンドンでのペスト流行を、後日資料を集め回想して書いたノンフィクション仕立ての作品です。
 
 「オランダでペストがまた発生した」という噂が1664年秋のロンドンに流れます。新聞も無い時代、航海者が噂をもたらし、そのあと情報が拡がっていく過程もすべては口コミです。そしてついに、1664年の暮れ、ロンドンのドルアリーレーンあたりでペストによる死者が二人出ます。翌年2月に同じ教区でまたペストの死亡者が発生。そこから疫病はどんどん他の教区に拡がっていきます。
 人々の行動には醜いものがあります。統計をごまかそうとして死亡報告をいじったり、(金持ち限定ですが)さっさとロンドンを逃げ出したり。貧乏人は、呪いやイカサマ治療に頼ります。そして人々の不安につけこむ“商売人”は大繁盛となります。
 公的な対策として行われたのは「家屋閉鎖」でした。病人が発生した建物を閉鎖して一家を丸ごと閉じ込めてしまう方法です。17世紀初めにそのための法律「疫病感染者の寛容なる救助と取り扱いに関する法令」が国会で制定されていました。施錠されて閉鎖された家屋には監視員が配置され、誰も脱出しないよう昼も夜も見張ります。ちなみに疫病発生家屋の目印として戸口には長さ30センチの赤十字と「主よ、憐れみたまえ」という文言が書かれました。
 これは残酷な仕打ちです。著者も書いていますが、一家を丸ごと隔離するよりも患者だけを隔離病棟に入れれば残りの家族は助かるかも知れないのですから。おとなしく全滅する家もありましたが、知恵を絞って脱出する人々もいました。
 
 著者は穴を見物に行きます。長さ12メートル幅4〜5メートル深さは浅いところで3メートルくらい深いところで6メートル近く。そこに死体運搬馬車で運ばれてきた死体が投げ込まれます。著者の教区で最初の穴は、2週間で114体放り込んだところで一杯になりました(深さ1.8メートル以上浅いところには死体を埋めてはならない、と治安判事が命令していました)。穴はいくつもいくつも掘られます。
 ロンドンでは次々人が死にます。家の中だけではなくて、道を歩いていた人がそのままぱたんと倒れて死ぬことも珍しくなくなり、そのうち人は道端に死体が転がっていることに慣れてしまいます。1665年夏の死亡週報は、一日1000人の死亡を知らせています(あくまで数えることができた数で、実数はもっと多かったはずです)。1665年に疫病死したと死亡週報に載せられた人数は68,590人ですが、著者は10万人はいたはずと推定しています(ちなみに当時のロンドンの人口は約50万人)。
 
 本書には寓話として、ロンドンを脱出した貧乏人が一つの集団となって田舎で生き抜く物語が登場します。田舎の人たちはそのグループを警戒します。病気を持って来たかもしれない、と思うからです。しかし逃げてきた人たちも他の人たちを警戒します。自分たちは孤立して行動しているからすでに病気を持っていないことは(自分たちには)わかっていますが、田舎の人といえども知らずに病人と接触して疫病を持っているかもしれないからです。結局お互いが“潔白”であることを証明するためには、しばらく離れて生活してどちらも発病しないことを確認するしかありません。「信頼」の熟成には時間がかかるのです。
 
 二つの不思議なことを著者は指摘します。食料は不足せず、便乗値上げもなかったこと。そして、長期間放置されたままになっている死体はほとんどなかったこと。これには行政の努力が大きいようです。パン屋に対する特別な法令が出され、夜になれば死体の回収が行われました。ただ、行政から検査員や監視員に任命される市民はたまらない思いだったようですけれど。
 著者は後世のためにいくつかのアドバイスを書きとめます。病気からは逃げること。非常時には都市の人口を減らすこと。貧乏人に普段から少しでも健康的な生活をさせること。そして、困難なときにも善行をすること。著者はその「善行」の数々を上げます。しかし大災厄が終わったあとのロンドンでは、それ以前の対決や権力闘争がよみがえっていました。まるで自然の猛威に対して手を取り合うことを人が学び損ねたかのように。
 著者が喝破した人の本性(その良き部分と悪しき部分)は、現代にもそのまま通じるもののようです。
 
 
20日(火)言葉の彫刻
 「詩って何?」と聞かれて説明にちょっと困ったことがあります。小学校中学年相手に「散文・韻文」なんて単語は使えません。まして「定型詩」「自由詩」なんてことを言い出したら話がややこしくなるだけです。と言って、小学生がよくやる、ぶつ切りの単文を並べ立てただけのものを「詩」とは呼びたくない。結局「小説や作文は、言葉を並べて一つの作品を作るもの。ちょうど糸をたくさん使って模様のある布を織ったり、毛糸で編み物をするようなもの。でも詩は、言葉をノミにして作品を石から削り出すようなもの。余分なものをどんどん捨ててぎりぎり最低限の言葉だけを残したもの。だから詩はほかのところに比べて文章が短くて余白が大きい」と言った感じの説明をしました。
 ……う〜む、これでわかってもらえるかしら?
 
【ただいま読書中】
プリズン・ボーイズ ──奇跡の作文教室』マーク・サルツマン 著、 三輪妙子 訳、 築地書館、2005年、2200円(税別)
 
 三年かけて書いていた小説が行き詰まってしまっていた著者は、ひょんなことからロサンゼルス中央少年院(日本での少年院と刑務所の中間に位置する施設)でボランティアとして作文教室を持つことになります。収監されているのはほとんどが殺人・強盗などの重罪犯。アメリカでは少年犯罪にも厳罰が処せられ、保釈無しの終身刑がばんばん言い渡されています。たとえば教室の初期メンバーであるナタニエルは187年の刑です。
 教室にやってきた少年たちに著者は強制はしません。強制したところで「書ける」ものではないことをプロとして知っているからでしょう。求めるのは、1時間のうちに何か書いて、それを自分で読み上げることだけです。その作業をすることで少年たちは自分を見つめることと他者に対して心を開くことを学びます。それは同時に、自分でさえ知らなかった自分自身を知る過程でもありました。
 書かれた文(作文や詩)を読んだ人々は驚きます。“社会のクズ”であるどうしようもないギャングたちが、感受性を持っていたことに対して。そして、作家が刑務所に通うことの動機やこういったプログラムは慢性の犯罪者に対してではなくてその予備軍に対して行われるべきではないか、という疑問をもちます。その方が社会のためではないか、と。疑問をぶつけられた著者は困ります。それは著者自身の疑問でもあるのですから。
 面白いのは著者の変化です。最初は引っ込み思案で他人の顔色をうかがう生活態度だったのが、少しずつ行動の主体である「自分」が固まっていきます。本人はそれをあまり意識していないようですが、他の人とのやり取りの変化にそれが見て取れます。
 
 犯罪者に対してこのような“サービス”をすることに否定的な意見もあります。希望や快適さを与えるのではなくて惨めな状態で閉じ込めておけばいいのだ、と。もちろん罰は与えられるべきです。でもそれは「犯した罪」に対して与えられるもので、「人間(の尊厳)」を貶めるために罰を与えるのは、罰を与える側・与えられる側双方に“良いもの”ではないようにも思います。「復讐」だったらみじめにするのもアリでしょう。でも、当事者以外がわざわざ復讐をする権利は無いとも言えます。困ったことに、復讐として閉じ込められている少年は、出たら自分も復讐してやる、と考えるのです。
 同時に、安易な同情も不必要でしょう。彼らはそこにいるべき理由があってそこにいるのですから(本書には冤罪、あるいは、不必要に重罪とされていると思える例もありますが……)。
 では結局この作文クラスの“意味”は一体何なのか。それは本書を読んだら読者が自分なりのイメージを掴めることと思います。
 
 著者が初めて受け持ったクラスで、ある少年が書いた「作文」を引用します。。
「おれはひとりで海を見ている。風が顔にあたるのを感じながら、波が砂に打ち寄せる音を聞きながら。それ以外、なにも聞こえてこないし、なにも感じられない。周りを見渡すが、だれもいない。からだが震えてくる。腕に鳥肌がたつのがわかる。
 そこに立ちながら、どうしておれはこんな人間になってしまったんだろう、どうして寒さと寂しさしか感じられないんだろうと、思い悩む。
 いったいどこから狂ってしまったのか? どうしてここに、ひとりで立っているんだ? どうしてだれもここでおれといっしょにいてくれないんだ?」
 
 
21日(水)本物志向
 江戸時代には「みりん風調味料」は存在しませんでした。「みりん」しかなかったのです(ですから「本みりん」ということばも無かったんじゃないかしら)。
 三倍醸造の日本酒も存在しませんでした。清酒はすべて米と麹と水だけで仕込んだものでした。醤油は大豆から作られていました。油を搾ったカスから手っ取り早く作った醤油なんてありませんでした。
 ただし、すべてが“本物”だからといって、では江戸時代のは美味い日本料理だったか、と言えば疑問です。調味料の組み合わせは今と違いますし(刺身を味噌やカラシで食っていたはず)、保存や輸送技術が未熟ですから旬のものしか食べられません。トマトやキュウリの季節は毎日トマトやキュウリです(「江戸時代」「トマト」「キュウリ」「毎日」をキーワードに一人ツッコミをしようかと思いましたが、省略)。ですから別に江戸時代を賛美しようとは思いませんが、文明が進んだら大量生産の不味い偽物がはびこって「本物志向」をわざわざ言わなければならなくなるのは、なんとも皮肉な現象だとは思います。私自身、そういった大量生産品のお世話になって育ったので、全否定を簡単にできないのも、皮肉な感じです。
 
 政府は「海外で正しい日本料理の普及」運動をするそうですが、その前に国内で伝統的に「正しい製法」を維持している業者の励みになるような政策を採ったらどうなんでしょう。酒に限定しても、米以外から作ったアルコールが混じっていても「日本酒」・米が混じっていても「ビール」って、悪い冗談に見えるんですけどね。
 
【ただいま読書中】
みりんの知識』森田日出男 編著、幸書房、2003年、2800円(税別)
 
 みりんの主原料は、もち米・米麹・焼酎(またはアルコール)です。
 日本酒では米が米麹で糖化されてブドウ糖となり酵母がそれを代謝してアルコールとしますが、みりんではアルコール溶液中でもち米が米麹(主に黄麹菌)によって分解されて糖類・アミノ酸・有機酸などが生成されます。醸造は行われません。
 なぜうるち米ではなくてもち米かというと、うるち米には十数パーセントのアミロースが含まれているけれど、もち米はほとんどがアミロペクチンで高濃度(最初は40%)のアルコールの中でも糖化されやすいから、だそうです。米が麹によって糖化されるにつれてアルコール濃度は下がっていき(最終的には14%くらいになる)、糖の濃度は45%くらいにまでなります。みりんが甘いわけです。
 戦国時代には一部上流階級のアルコール飲料でしたが江戸時代には一般人も飲むようになりますが、やがてみりんは調味料として使われるようになります。特に醤油との相性が良いことが一般に知られるようになったのは『豆腐百珍』の「でんがく」で「麹、みりん、醤油を等分に合わせる」と紹介されてからではないか、というのが著者の推測です。(かつてみりんが「飲料」であったことは、お正月のお屠蘇に残っています)
 
 調味料としてのみりんの機能は、甘味の付与、煮くずれ防止、てり・つやの付与、消臭、テクスチャーの改善(口当たりを柔らかくする)、防腐効果、などです。著者はそこで電子顕微鏡を持ち出します。ジャガイモを煮るのに水と15%みりん溶液とで比較して、断面を顕微鏡で覗くのです。すると、みりんで煮た方が細胞壁が崩れずに細胞の中身も保存されていました。つまり煮くずれ防止機能が証明されたのです(アルコールの作用と糖類の浸透圧による、と著者は推測しています)。てり・つやに関しては、料理を三次元変角光度計や立体物光沢分析装置にかけて、みりんがてりやつやを増していることを示します。テクスチャーでは、肉を煮るのにみりんがたとえ少量(アルコール分として0.3%)でも含まれていたら肉の保水性が増して料理が柔らかく仕上がることを実験結果から示します。
 著者たちの努力は半端ではありません。
 
 酒を調味料として使うといって、西洋料理で私がすぐ思い出せるのは、ワインやマデイラ酒を使うことと、フランベという技法。対して日本は、みりんや清酒、煮切りですね。素人の勘ですが、まだまだ日本料理でみりんなどを活用する余地はたっぷり残っているのではないでしょうか。西洋の素材でも、お米から作った調味料を使ったらご飯に合う料理になり易いのではないか、とも思えます。
 本書でも後半に美味しそうな料理のレシピが写真入りで沢山紹介されています。私が笑ってしまったのは、同じ料理をマデイラワインと白ワインで作り比べて官能試験(つまりは食べ比べ)をしているところです。こんな試験だったら、喜んで受けたいな。
 
 みりんは酒税法で扱われる「アルコール」ですからかつては酒店でしか販売できませんでしたが、1996年に「みりん小売り免許の緩和」が行われ、スーパーなどでも販売できるようになりました。調味料なのに立派な酒扱いって、なんだか変な気がします。
 
 焼酎を製造するための蒸留技術は、本書では火縄銃と同じく南蛮渡来と言われています。ただ、中国では元の時代にすでに焼酎があったからそれが朝鮮半島経由で伝わってきた可能性もありますし、15世紀には琉球で焼酎が作られているので海上貿易路を通って日本に入ってきた可能性もあります。
 何はともあれ、日本料理が現在のように定まったのは実はそれほど昔のことではない、ということが、みりんの歴史を見ているとわかります。
 
 
22日(木)姓
 よみの「せい」は「生」によるのでしょうが、なぜ「女」偏なのでしょう。もしかして古代中国は母系集団だった? たしかに、ふらふらしている男よりも女の方が集団の基盤としてはアテになるでしょうから、母系の方が集団としてはまとまりやすいとは思います。だから「姓」が女を軸にするのは無理がないでしょう。
 
 そういえば、平安時代の妻問い婚。女の家に男が通う、と単純に解釈していましたが、子どもができたらその子の「姓」はどうなっていたんでしょう? 藤原の子どもは藤原ですよね。子どもは女が産み育て、姓は男が与えるのかな。でも、複数の男が通っていたらどう解決するんでしょう。それと子どもを育てる経済的基盤はどうするんでしょう? 生まれた子どもは男も女もその「母」の家にいるわけですが、母に官位や役職はないですよね。「母」の父または夫が養う?
 通ってきた男の中から最終的に一人が婿に入る、ということなのかしら。でも、そいつが逃げたらどうするんだろ。心配しすぎ?
 
【ただいま読書中】
新訂 徒然草』 卜部兼好 著、 西尾実・安良岡康作 校注、岩波文庫、1928年(90年83刷)、398円(税別)
 
 中世(鎌倉時代)の有名なエッセー集です。高校の古文の時間に読んで(読まされて)以来の出会いかな。序段はさすがに覚えています。「つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」……この文章は、黙読ではなくて音読するべきですね。
 解説によると、著者は在家のまま出家した人です。竹林の七賢人を私は想起しますが、本書は単なる世捨て人のエッセー、ではありません。本当に世を捨てたのならこんなに世の中や人について詳しく観察や考察をできるわけがありませんから。しかし「在家で出家」とは不思議なことばです。鎌倉時代には「出家の手続き」の厳格さにこだわるよりも「出家した後何をするか」の方が重要視されたのかもしれません。だから鎌倉新仏教が民衆に広く受け入れられたのかな。これは“原因”と“結果”が逆かもしれませんが。
 
 人物評・人生訓・生活の知恵・ことばのトリビア・名人上手のエピソード……さまざまなエッセーが積み重ねられます。切れの良い“分析”(たとえば第百二十七段は「改めて益なき事は、改めぬをよしとするなり」の一文だけ)を次々読んでいると、著者は世俗を離れたは良いが己の知性を持て余している、そのようにも見えます。ただし著者は知に溺れません。世間をちょっと斜めから突き放して見てはいますが、冷笑的ではなくて苦笑止まりの態度です。厭世的な段や、子孫なんか絶えてしまえ(第六段)・男は妻を持つべきではない(第百九十段)といった末法思想の影響かな、と思われる記述もありますが、不思議に絶望感は漂いません。。
 四季についても、『枕草子』では「春は曙!」と元気一杯なのに、こちらでは「折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ」(第十九段)です。両者とも「をかし」と「あはれ」が使われてますが、『枕草子』はどちらかといえば「をかし」優位、『徒然草』は「あはれ」優位の印象です。これは、時代の違い(平安と鎌倉)、著者の性差と年齢差、著者の置かれた環境の違い(朝廷の中と世捨て人)、などによるものでしょうが、「日本的情緒」というものも実は簡単に一口にまとめるのは難しいものなんだ、とつくづく思います。
 兼好の「あはれ」には老荘の影響も感じますが、著者自身、自分の愛読書として老子・荘子も上げています(第十三段)。といって、ただ静かに「あはれ」「あはれ」と言っているだけではありません。「仁和寺の法師」の話のように、ストレートに「人のおかしさ」を描くところもあります。
 あるいは「智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず」なんて厳しいこともずばりと言います(第三十八段)。
 著者の性格はちょっとひねくれているのかな、と思わせる部分も多々あります。たとえば第三十一段。雪がきれいに降った朝、わざとそのことに触れずに文を出し、相手が「なぜ雪を無視するのだろう。あなたはひねくれている」と文句を言ってくるのを面白がっています。いや、このひねくれ根性、私は大好きです。
 
 もしも兼好法師が現代に生きていて、たとえばmixiで日記を書いたらどんなものになったでしょう。ちょっと読んでみたい気がします。
 
 そうそう、兼好法師は「在家の出家」ですが、生活はどうしていたんでしょう? 上流階級であることは間違いありませんが、経済的基盤がなければうかうかと世を捨てるわけにはいきません。隠棲するにも世の中のことをきちんとしておかなければならないのですから、大変です。
 「そうそう」をもう一つ。タイトルはどうして『徒然草』であって『徒然草紙』や『徒然草子』ではないのでしょうねえ。
 
 
23日(金)そのあと
 夢や生き甲斐は、そう簡単に実現しないものにしておいた方が良いかもしれません。だって“それ”が実現してしまったら、そのあと、どうします? 思い出だけ噛みしめて生きるのはちょっと寂しい。次から次に新しい夢探しや生き甲斐探しをするのはせわしない。実現したあともそれにへばりついているのは見苦しい。
 とかくこの世はままならぬ。
 
【ただいま読書中】
世界で一番いのちの短い国 ──シエラレオネの国境なき医師団
山本敏晴 著、 白水社、2002年、1400円(税別)
 
 アフリカ大西洋岸の国シエラレオネは人口は約450万人の小さな国ですが、平均寿命が25〜35歳と世界最短。長期化する内戦で難民や国内避難民が大量に発生し、国連やWHO、そして国境なき医師団(MSF)などが援助を行っています。著者はMSFのスタッフとしてシエラレオネで半年過ごしました。本書にはその体験がまとめられています。
 
 朝4時半のお腹ぐるぐるで目が覚めるところから本書は始まります。部屋からトイレに行くのも一苦労。やっと入った地面を掘っただけのトイレでは巨大ゴキブリがのそのそしています。読者が“期待”する“未開の地”のイメージが展開されます。
 
 MSFはNGOで、特定の政治や宗教団体とは無関係です。紛争地に行く場合も、なるべく中立を保ちます。提供するのは医療サービスだけ。完全に特化しています。MSF日本はまだ小さな組織で独自の活動はできませんが、ヨーロッパ各国のMSFは巨大なNGOです。
 
 シエラレオネではダイヤモンドが採れます。それを狙った隣国リベリアの後押しを受けた“反政府軍”RUFによって内戦が引き起こされました。RUFは一般市民の四肢切断を行ったり子ども兵を使うなど問題の多い組織ですが、そこからシエラレオネのダイヤモンドが流れ流れてアルカイダの資金源となっているらしい、と聞くとぎょっとします。本書の執筆時点現在平和プロセスが進行中で、たとえばキリスト教系団体が子ども兵のリハビリをやっているそうです。イスラムが70%の国でキリスト教?と思いますが、旧約聖書は共通だからそれを使って「善悪」を最初から教えているのだそうです。5歳のときから人を殺すことが普通だった人を社会に戻すのは、大変な作業でしょうねえ。
 
 このような環境ではプライオリティ(優先順位)が大切です。市内にはRUFがうようよ、郊外には政府軍がいる状況で、爆弾で破壊され電気も水道も無い病院をどうやって再建し機能させるか。医療知識が皆無のスタッフに、何をさせ何から教育するか。理想を立て具体的な目標を上げ優先順位をつけ実行し定期的にチェックして方針を変更し……
 コミュニケーションも大切です。政府軍・反政府軍・地元の人たち・援助に参加している各種団体、それらすべてと協調的に動かなければ有効な活動はできません。これは大変な難事です。
 
 MSFに参加する人はさまざまですが、単に旅行好きとかちょっといいことがしたいといった“軽い”理由で参加する人の方が、理想に燃えて参加する人より現地での順応力が高く“使える”ことが多いそうです。過酷な環境では柔軟な人間の方が燃えつきたり自分の理想に基づく硬直した態度をとらないから有用な結果が得られやすいのでしょう。
 著者の態度は「現地重視(地元の言語を覚え、コミュニケーションを重視し、現地の習慣を尊重する)」と同時に「現地と距離を置く」、というなかなかバランスを取るのが難しいものです。これは自己満足に陥るだけの国際協力にならないように、ピース・コロナイゼーション(人道主義の皮をかぶった文化的侵略行為)にもならないように、という配慮でしょう。また「先進国の人間が教えてやる」という態度ではなくてお互い対等の人間としてつき合うこと、さらに「自分がいなくなったあとも、同じレベルの医療活動が継続可能なように」することにも著者は心を砕きます。こういった現実的な理想主義者がもうちょっと増えたら、この世界では紛争そのものがもうちょっと減るんじゃないかなあ。あ、でも、政府などではあまり出世しないタイプかも。
 
 
24日(土)自泳
 泳ぎが達者な人間なら、溺れている人を救助することができます。でも、泳ぎがそこそこの人間がうっかり溺れている人に近づくとしがみつかれて共に溺れる可能性が高い。ではどうしたらいいか。高校の臨海学校では「人を集めろ」と習いました。泳ぎがそこそこの人間でも集団になれば溺れている人を救助できる可能性が高くなるのです。
 上手い泳ぎ手が「どうだ、おれは上手いだろう」とすいすい泳ぎを誇示するばかりで、人に教えるわけでもない/溺れている人を救うわけでもない、だったらその人がわざわざそこにいる意味はない。といって泳ぎが下手な人間が、「自分は誰かに助けてもらうべきだ」とすべての努力を放棄しているようだったら、それはその人の人生の意味がない。上手い人間は限界を目指す/規範となる/独力で救助する/感謝される。そこそこの人は協力する。溺れて助けられたら、感謝する/上手くなるように努力する/上手い助け方を他人に教える。それぞれの人がそれぞれの立場でいろんなことができるわけで、できることをやればそれでいいわけです。
 私は「社会」を“そういうもの”と思っています。
 
【ただいま読書中】
初秋』ロバート・B・パーカー 著、 菊池光 訳、 早川書房、1983年(89年20刷)、1500円(税別)
 
 スペンサーシリーズ第7作です。
 離婚した夫メルが連れ去った15歳の息子ポールを取り戻して欲しい、とのパティ・ジャコミンの依頼をスペンサーはやすやすと完遂させます。しかしパティは息子の顔をみてもちっとも喜ばず、さっさとボーイフレンドと出かけてしまいます。ポールはTV以外のなにものにも興味を示さない状態です(身なりをかまわない、食べたい物はない、したいこともない)。両親はポールが生まれてから親身に世話をしたことが無く、単に相手の面子をつぶすためだけにポールの身柄を確保しようとしているようです。
 メルは街のちんぴらを使って一度ならず暴力的にポールを誘拐しようとします。それを撃退したスペンサーはパティの依頼でポールを田舎に匿うことにします。ネグレクトによってスポイルされたポールに対してスペンサーは自分ができることをとにかく伝えることにします。小屋作り・ジョギング・ウェイトリフティング・ボクシング・料理・詩……「何もできない」状態の子どもが「何かできる」ようになってそれを踏台として次のステップ「自立」へ進んでくれることを願って。
 メルとパティの妥協が成立し“トロフィー”のポールはメルの所有となります。しかしポールはスペンサーの元から離れることを望みません。彼にはやっと自分自身の目標ができていたのです。しかしそれは、法的にはスペンサーが子どもを誘拐していることになります。さらにメルは街のギャングを使います。スペンサーは疑問に思います。どうして“真っ当”なセールスマンがギャングを知っているのか? 不正のにおいをかぎつけたスペンサーは、メルとの取引のために動き始めます。
 しかし、本作でスペンサーは、誘拐・家宅侵入・窃盗・暴行・殺人(の共犯)・恐喝……とんでもない重罪犯ですぜ。しかもそれのほとんどを少年の目の前でやってます。良いのかなあ……
 
 “世界”にまったく興味が無くてただうずくまったまま人の言葉を平べったく受け取るだけだったポールが少しずつ成長していく様は読み応えがあります。本書の献辞は著者の二人の息子さんへのようですが、著者の「父」の面が色濃く出た作品と言えるでしょう。まあ、どうみてもばりばりのマッチョ男が、シェークスピアをやたらと引用したり、強面で平然と暴力沙汰をやってのけた後「こわかった」ともらしたりするのを聞いていたら、「世界は見かけ通りではない。それは自分がそう見たいと思っているからそう見えるだけ」と学ばざるを得ないですよねえ。
 
 
25日(日)彫刻
 美術展などで彫刻を見ていて「ミケランジェロのダヴィデで、彫刻に関しては一度ピリオドが打たれたのではないか」と思うことがあります。あれを超える人体彫刻はもう作れないでしょう。
 だから現代彫刻は抽象に行ってしまうのかな。
 
【ただいま読書中】
炎に消えた名画』 チャールズ・ウィルフォード 著、 浜野アキオ 訳、扶桑社(扶桑社ミステリー0966)、2004年、829円(税別)
 
 新進の美術評論家として売り出し中のフィゲラスは、高名なコレクターキャシディから驚くべき話を聞きます。伝説の虚無的シュールレアリスムの大家ドゥビエリューが近くにいるというのです。最初の作品「No.One」こそ数千人が見ていますがあとの作品は数人の批評家しか見ておらず、しかもそのすべては火事で失われています。その火事の後ずっと沈黙を守っていたドゥビエリューがフランスからフロリダに秘かに引っ越しており、しかも毎日創作活動を行っている……単独インタビューを実現させさらに最新の作品を見てそのことについて記事が書ければ、自分の経歴にぴかぴかのでっかい箔がつくことになります。しかしキャシディはそこにまた驚くべき付帯条件を付けてきます。ドゥビエリューから作品を盗んで欲しい、というのです。目的はコレクションの充実。フィゲラスは悩みます。(ついでですが、「No.One」は要するにきたない壁に掛けられた素通しの額縁です。額の中に見える壁には亀裂があります。その額、および亀裂に関して膨大な議論が行われましたが、その建物からドゥビエリーが引っ越したため作品はすでに再現不可能です)
 フィゲラスにはもう一つ悩みの種があります。別れようと決心したのに結局きちんと別れることができないでいる恋人ベレニスの存在です。
 フィゲラスはベレニスをつれてドゥビエリューが一人住む家に出かけます。予想外に二人は温かく迎えられ、会話も弾みますが、こちらは予想通りドゥビエリューは作品を見せてはくれません。業を煮やしたフィゲラスは、ドゥビエリューの留守中にアトリエに押し入ります。そこでフィゲラスが見たのは……そしてそれを元に作り上げられたフィゲラスの“記事”と“作品”は……
 
 いっそアトリエの全景をそのまま写真にとって「これがドゥビエリューの最後の“作品”だ」とでもしたら良かったのに、と素人は思いますが、それまでの“伝説”とフィゲラスの“思い”とがそれを許さないのでしょうね。とうとうフィゲラスは……捏造(?)に手を染め、さらに別の犯罪にも……
 
 フィゲラスにはコンプレックスがあります。手が思うように動かないために絵が描けず、しかたなくことばによって美術を論じる評論家になった、と信じているのです。でも、それは真実なのかな? 手が動くかどうかは技能ですが、そしてもちろん技能は必要でしょうが、美術にはもっと根源的なもの、美への欲望や衝動が必要なんじゃないでしょうか。それとその美を追究するためにはその他のものを捨てるだけの潔さも。フィゲラスにそこまでの覚悟があるようには私には見えません。
 もう一つ。ことばが多ければ多いほどそれだけ真実が浮き彫りにされることはあるでしょう。しかし、多すぎることばによって真実が隠されてしまうこともあります。ことばを使うべき時と使ってはならない時、それをきちんと使い分けることができるかどうか……なんてことを言うと評論家という商売は(部分的にではありますが)成り立たなくなりそうで、そうすると評論家を主人公にした小説も成立しなくなります。これは困ったなあ。
 
 
26日(月)地獄と極楽
 地獄の鬼の福利厚生は、どうなってるんでしょう。鬼だから地獄で悪人の魂を罰する仕事が好きなんだ、としても、何か動機と報酬がなければ、たとえ鬼でも仕事を延々と続けられないと思うのです。それともあそこは鬼にとっては“天国”?
 そういえば、地獄は閻魔大王と鬼たちで運営されていますが、極楽は誰がどうやって運営しているんでしょう。お掃除なんか誰がするんだろ?
 
【ただいま読書中】
深く静かに潜航せよ』原題 Run Silent, Run Deep
エドワード・L・ビーチ 著、 鳥見真生 訳、 柏艪舎、2003年、1800円(税別)
 
 本書はフィクションですが、非常にリアルなフィクションです。
 太平洋戦争勃発直前、第一次世界大戦で数年活動した後退役していた潜水艦までドックの奥から引っ張り出されていました。そして1942年には潜水艦の数が3倍に増やされることになります。潜水艦学校で古い潜水艦を使って学生の訓練などを行っていたリッチは最新の潜水艦ウォルラスをもらいます。冷静で情勢判断と計算を優先させるリッチに対して、副長のジムは勇猛果敢で突撃タイプです。この二人の対比が物語を盛り上げます(原題をもじるなら、リッチは“Consider Silent, Consider Deep”の人でしょう)。
 擬装・訓練・移動・また訓練……潜水艦乗組員たちに休む暇はありません。超特急で準備をすませたウォルラスが目指すのは、豊後水道。瀬戸内海から出入りする輸送船団が目標ですが、そこでとんでもなく腕の良い日本海軍駆逐艦の艦長“豊後ビート”にウォルラスはあやうく沈められそうになります。実際にその哨区でアメリカ潜水艦は次々豊後ビートにやられていたのでした。
 “敵”は日本軍だけではありません。「自分の昇進の邪魔をした」とリッチを恨む副長のジム、不発がやたらと多く時にはぐるっと回って自艦目指して帰ってくることさえある魚雷、生まれて初めて一目惚れしたのにすでに婚約者がいるローラ(しかもそのお相手はジム)……リッチはさまざまなものと“戦”わねばなりません。
 リッチは負傷します。陸に上がっている間に、親友やかつての部下たちを豊後ビートに殺されます。リッチは復讐を誓います。頭脳派のリッチは、相手の行動パターンを読みその裏を掻くことを考えます。相手の頭の良さを逆用しようというのです。与えられた新造艦イールがそのための武器です。またも猛訓練、新兵器の投入、頭脳戦……リッチは使えるものはすべて使って日本の輸送船団を次々屠ることで豊後ビートを誘い出そうとします。
 
 本書に登場する潜水艦同士の魚雷戦は、たしか第二次世界大戦ではなかったはずですが(ホーミング魚雷ではないから遠距離での深度調整が不可能)やはりリアルに描かれます。それも大西洋と太平洋で行われるという大サービスです。誰と誰の間で行われ、その結果はどうだったかは、本書でお楽しみください。
 
 本書では、自分が「戦列に加わる」ことができず見まもっているだけの歯痒い思いが、形を変えて何回も繰り返されます。艦長試験を受けている自分の副長がミスをしそうなのに、それにアドバイスをしたら失格になるのでじっと耐える艦長。出征する兵士を見送る家族。部下の出陣に対してアドバイスしかできない司令官。実は読者も「見まもっている」だけの存在なんですけどね。
 
 
27日(火)一二五
 いつだったか、ある機材の導入で意見が割れたとき「一に顧客、二に会社、三四がなくて五に自分の好み、を基準に選択したらクリアじゃない?」と言ったら、「うんうん」と肯く人と不機嫌そうに反発する人にきれいに反応が分かれたのが(内心で)笑えたことがあります。反発した人が「一に自分、二に自分、三四がなくて五に自分」のタイプだったからかな。自分が使いやすいものが良い、それはわかります。でも、みんなも使うんだよ〜。
 
【ただいま読書中】
癒しのレジェンド ──銀座最後のキャバレーリポート』三浦紅緒 著、 新風舎、2005年、1400円(税別)
 
 銀座のキャバレー「WR」(おそらく「白いばら」)で9年間働いた著者が、そこで見た人間模様です。おそらく著者の性格なのでしょう、嫌なタイプの客はそれほど数多くは登場しません。本書で著者が紹介する人は必ずどこかに長所や魅力があって、「世の中って、こんなに良い奴ばかりだったか?」と思ってしまいます。
 しかしこのキャバレー、システムが面白いですね。明朗会計で、ホステスさんたちは「売上制(客に使わせた金の何%かが自分のものになる)」ではなくて「指名制」なので、どうしても客それぞれを大切にするようになります。罰金やノルマもないから雰囲気は明るくて自主的で、専業ではなくて兼業のホステスが多い。著者自身もOLとの掛け持ちだったそうです。
 笑っちゃうのは「かわいい女の条件は、素直・無邪気・恥じらい。かわいげのない女の条件は、開き直り・怠慢・威圧感」という指摘です。これ、男にも言えるんじゃないかしら。
 
 最近は「老人力」とか「鈍感力」とか新しい「力」がいろいろ登場していますが、本書には「幸福力」がでてきます。それは「幸福になろうという決意」「何が自分にとっての幸福かの決定」「嫌なことを早く忘れる」の3つから成るそうで、これを1)方向性の決定 2)具体的対策 3)マイナス要因の削除、と一般化するとさまざまな分野に応用できる、と話が急にでかくなります。……これ、キャバレーの話ですよね?
 そうそう、会社ぐるみのリコール隠しが発覚した某自動車会社は、幹部から平社員まで、品性下劣な行為を平気でやってくる集団だったそうです。モラルの低さをまさかこんな形で公表されるとは思っていなかったでしょうね。
 
 下戸の私はキャバレーには縁がありませんが、本書を読んでいると気軽におしゃべりを楽しむサロンとして使えるのならそんな場は残っていって欲しいな、と思います。おそらくここにも一種の理想化が働いているのでしょうが、現実のドロドロから離れて少しは夢も見たいですよね。
 
 
28日(水)タミフルと転落死
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=166427&media_id=4
 
 現時点では何を書いても「想像」でしかないのですが……
・タミフルの副作用
・インフルエンザの症状(脳症)
・タミフルとインフルエンザウイルスとの“二者協同”
・タミフルと本人の特異体質との関係
・タミフルと本人の免疫反応(たとえばウイルスに対して産生したインターフェロンなどの量)との関係
・タミフルと本人とウイルスとの“三者協同”
・環境
 
 とりあえず“原因”として考えられるものをこれくらいは上げられるわけです。まだあるかもしれませんが、とにかく一つ一つ可能性をつぶしていく必要はあるでしょう。
 安易に薬を使うことには賛成できませんが、安易に薬のせいにしてそこで思考停止するのにも賛成できません。
 
 日記に追加です。
・脳の発達段階との関連(ばるた3さんから頂戴したネタ)
・他の薬(たとえば熱冷まし)との相互作用
・ウイルスとタミフルと他の薬との相互作用
 
 血中タミフル濃度との関連があるかどうかも問題にしたいな。あ、それから、ウイルスがタミフル耐性かどうかも。
 
立ち入り禁止
 (本日二つめの日記)
 子ども時代不思議だったのは、公園の芝生の「立ち入り禁止」の立て札。「すわって入れば良いんだろ」と子どもギャグを言ってましたが、それよりもその札を立てた人がどうやってそこに入ったのかが不思議でした。
 芝の養生のためだと今はわかりますが、立て札を無視して入る人が後を絶たず、結局芝は擦り切れたままだったような記憶があります。「擦り切れた所は踏まないで」と具体的に範囲を明示して論理と良識に訴えるのは……日本ではあまり有効ではないのかなあ。
 
【ただいま読書中】
校庭芝生化のすすめ』社団法人ゴルファーの緑化推進協力会 編、日本地域社会研究所、2006年、2800円(税別)
 
 私が初めて上京したとき驚いたことはいくつもありましたがその中の一つが電車の窓から見えた「学校の校庭が舗装されている!」でした。土埃はたたないでしょうが、転んだら擦り傷がどうなるんだろう、と他人事ながら不安に思いましたっけ。
 その後読んでいた本で「イギリスの校庭は芝生」とあってこちらにもショックを受けました。私にとって「校庭は土」が常識だったのに、それが日本でも世界でも通用しない常識であるらしいことを知ったからです。
 
 本書はタイトル通りの本です。
 まず現状。日本の校庭の芝生化率は平均して小・中学校が約3%、高校が約7%です。都道府県によって大きく差があるのですが、グラフを一目見て目立つのは……北海道(小中が10%、高校が55%以上)、鹿児島(小中20%、高校35%以上)、沖縄(小25%、中20%、高5%)、宮崎(小20%、中18%、高ほとんど0)、秋田(小中20%、高1%くらい)、青森(小中10%)……北海道の高校は半分以上が芝生の校庭って、本当ですか?
 
 芝生化のメリットとして上げられているのは、土埃が立たない・怪我をしにくい・夏涼しい・見た目が美しい・散水量が減った(芝生の方が水が必要に思えますが、土埃を押さえるために散水していたところではかえって水の使用量が減るそうです)。デメリットは、コスト・管理の手間・スポーツの種類によっては芝は向かない(陸上のトラック競技など)・アレルギー……面白いのは「芝生だと軟弱な児童が増える」という反対意見です。「転んで怪我するくらい元気な子の方がよい」と言うのですが……芝生の方が怪我がしにくいからサッカーなどではかえって思い切って走り突っ込んでいく子が増えるはずなんですけどねえ。「怪我」(「膝小僧の勲章」)という“結果”だけではなくて、それまでの“現状”とか“過程”も見た方が良いんじゃないかと思うんですが……
 
 種類によって芝の性質は大きく異なります。
・ノシバ:耐寒性があり管理も楽な品種です。ただし、初期育成が遅く損傷からの回復に時間がかかります。
・コウライシバ:ノシバより美しいがやや弱い品種です。耐塩性は高めです。
・バミューダグラス:草勢は強く踏圧に強いのが特徴です。寒さに弱く冬季には休眠します。
 その他に、セントオーガスチングラス・ケンタッキーブルーグラス・トールフェスク・レッドフェスク・チューイングフェスク・ペレニアルライグラスなどさまざまな“芝生”をそれぞれの性質に応じて利用することができます。
 
 実際に施工する場合、大切なのはまず合意の形成だそうです。校長主導で少数の教員だけが熱心にかかわっても、特定の人の負担が大きすぎ、かつ、“ベテラン”が異動したあとの問題が生じます。ですから、学校全体での学習型芝生づくり、あるいは、PTAや地域ボランティアによる園芸型芝生づくりを本書では勧めています(ですから本書は小学生高学年でもある程度読める体裁と内容になっています)。
 それから具体的な工程計画。学校という特殊事情を考えて搬出入の時間から条件を厳密に考える必要があります。もちろん植える芝によって工事の適期を選択する必要もあります。
 コストが一番かかるのが土壌改良です。あと、芝を張るか蒔くかでもコストは違います。あとスプリンクラーの設置や排水設備も必要です。
 維持管理も大変です。土の定期チェック・刈り込み・灌水・施肥・除草・養生(再生のための使用禁止)……
 
 芝生の校庭は、鑑賞用ではありません。それを有効に使うことによって人が育つあるいは自分が育つためのツールです。ならば初期投資だけではなくて維持のための投資と人材育成まで考慮した計画を立てて……というのは最近の日本人の不得意分野ですね。それでも、子どもたちがのびのびと快適に走り回る校庭を一種の公共財として育成していったら将来の日本に良い影響が出るのじゃないかなあ。「美しい学校」です。