2007年3月
私はなぜか時に人生相談の役回りをすることがあります。向いてないんですけどね。
ある日長々とその人の「人生の根本にかかわる苦しい問題」を聞かされて、「単純な解決方法はないだろうけれど、このように問題を捉え直したらとりあえず楽に対処できるんじゃないです?」と言ったところ「楽でない方法を選ぶのが人として当然です(大意)」と断言されてしまいました。
もちろん、安易に流れて根本的な手を打たずに時を稼いでますます事態を悪化させることは私も好みません。しかし「苦しいのでなんとかならないか」という相談に対して「こうやったら楽になるのでは?」というアドバイスを「楽は駄目}と言われてしまうと私は困ってしまいます。
「その場限りの場当たり的でその場しのぎの『解決』」などは私は提案しませんが、とにかく「解決する道」と「解決できない道」があったら自動的に「解決しない道」を選択する、と宣言されてしまうと、うっかり解決策を提示できません。「解決策があるのなら、そうじゃない道を選択しなきゃ」と、かえってその人を苦しめることになりますから。いやあ、困ったなあ。
【ただいま読書中】
『
大きな森の小さな家』ローラ・インガルス・ワイルダー 著、 こだまともこ・渡辺南都子 訳、 かみや しん 絵、講談社(青い鳥文庫)、1982年(88年19刷)、420円
「今から百年前」のアメリカ開拓民の森での生活です(21世紀初頭の現在から見たら、1世紀と数十年前になります)。先日読んだ『大草原の小さな家』の直前の生活を扱った本です。
鹿肉の薫製からお話は始まります。そして豚の解体。冬になる前に屠殺してまるまる一頭を余すところ無く利用するのですが、豚の膀胱と尻尾をもらったメアリーとローラ姉妹がそれをどうするかを読んでいると、なんともほほえましい気持ちになります。豚は可哀想ですけどね。ヨーロッパでは飼料がなくなる冬になる前に家畜をまとめて殺してその肉を保存する習慣だったはずですが、それがアメリカにも引き継がれていたということなのでしょう。しかし、手作業での解体と処理は重労働ですね。生きるためとはいえ、大変です。今、ハムだソーセージだと気楽に食べていますが、やはり動物の生命と食肉製品を作ってくれた人たちに「いただきます」と感謝しなきゃいけません。
当然のことながら「機械」はほとんど登場しません。本書で出てくるのは8頭の馬を使って小麦の脱穀をする脱穀機くらいです。あとは人間がひたすら自分の肉体と馬を使って、掘り持ち上げ削り運び組み立て……『大草原の小さな家』では丸太小屋を丸々作る話が登場します。本書ではインガルス一家は最初から丸太小屋に住んでいますが、これもきっとローラが生まれる前に父さんと母さんが作ったものなのでしょう。
冬にはローラたちが寝る前に父さんが歌ったりお話をしてくれますが、夏にはそれもできなくなります。日中の重労働でそれどころではないのです。
本書では父さんが歌う歌とともに「父さんが語るお話」がいくつもはさまります。「お話の中のお話」といえば、たとえばグリーンノウやメリーポピンズを連想しますが、本書では子どもが寝る前に親がちょっとだけ話してやるシンプルなものです。素朴で生活に根ざしていて、だからこそ現代に生きる私たちにも伝わってくるものがあります。
メイプルシロップ(本書では「かえで糖」と表記)も登場します。かえでの樹液を集め煮てシロップにし、さらに煮詰めて茶色の砂糖にする過程を読んでいると、口に唾が湧いてきます。さらに、きれいな雪を容器に集めてそこに熱いシロップを垂らして「柔らかいキャンディー」を作るシーンが登場します。これ、マイミクのきらるさんの日記で紹介されていた話のご先祖様ですね。やってみたいなあ。
生活の習慣も今から見ると面白いものですね。たとえば子どもの誕生日には歳の数プラス一つお尻を(やさしく)叩きます。そうしたらこれからの一年間無事に成長できるのだそうです。日本の節分で食べる豆の数と発想の根底は似ているのかな(新春に数え年が一つ加わるから「誕生日」と「歳の数」という点で)。入浴は週に一回です。インガルス一家はおそらくきれい好きだったのでしょう。ずぼらな開拓民だったら入浴回数はもっと減らすでしょうから。洗濯はどのくらいの頻度でやっていたのかな?
見ただけではわからないでしょうが、最初の「行った」は「いった」を変換したもので二番目の「行った」は「おこなった」です。まったく区別がつかないのは不便です。
「おこなった」は40年前の小学校では「行なった」と習ったような記憶があるのですが、それから送りがなの規則が変わったのでしょうか。それとも、私の記憶の方が変わったのかな。私が小学時代に使っていた国語辞典が家のどこかにあるはずなのですがすぐには出てこない。「昔の国語辞典」なんてサイトはどこかにないかしら。
【ただいま読書中】
女二人でインドへ料理修行に出かけた著者は、6年前には舌に合わなかったインド料理が美味しく感じられるのに驚きます。しかし台所ではびっくりの連続。スパイスを複雑精妙に組み合わせるわざもすごいのですが、野菜を一切洗わず床に落ちたものでも平気でそのまま鍋に入れてしまう衛生観念には参ってしまいます。またインド人の、時間や所有権や金銭感覚があまりに日本と違う点にもカルチャーショックの連続です。
3ヵ月の予定で知り合いのインド人宅に下宿することになった著者ですが、そこにはサーバントして12歳の少年がいました。もちろん学校には行っていません。それでも食と住が確保されるので、主人も人助けの一種として雇うのだそうです。インドの“格差”にも著者はもやもやしたものを感じます。
料理学校・英語教室・ヨガ教室と著者は欲張りに通います。ちょっと欲張りすぎではないかと私には感じられますが
女二人が異郷で苦労するユーモア仕立てのお話、と言えば『
女二人のニューギニア』(有吉佐和子)を私は思い出します。あちらを読んだのはもう三十数年前で詳細は忘れましたが、さて、こちらのインドの方は数十年後まで覚えていられるかな……と単純比較するのは不公平かもしれません。状況の過酷さはニューギニアの方がはるかに上ですし、インドの場合はまだ国や国民性や料理に関する予備知識が著者にも読者にもある程度はありますがニューギニアの方はすべてがまったく未知の状況です。また、“キャラ立て”にも大きな差があります。ニューギニアの方は「女二人」(文学者と人類学者)がしっかり生きて動いていますが、こちらでは著者と同行した人の影が薄く、ならば著者の存在感がその分濃厚かと言うとそうでもありません。著者は「ただの旅行者ではなくてインド人宅に下宿して料理修行をした」を売り物にしていますが私には著者が「旅行者の視点」を捨て切れていないように見えるのです。「骨を埋める覚悟で行け」とまでは言いませんが、インドで英語教室に行くよりも現地のことばを覚える方の努力ができなかったのかな、と残念に思います。
せっかくインド料理のにおいがぷんぷんする本なのですから、焦点を絞り込み、さらにもうちょっと対象を(自分自身を含めて)突き放した視点から描けば、もっともっと「インド」が身近に感じられただろうな。
銅や赤というのを聞いたことがありますが、一般には黒・黄・白が代表でしょう。で、イラクの状態を伝えるTVニュースを見ていてふっと思いました。イラク人は何色人種? 黒色人種ではないしモンゴロイドでもない、ということは、白人……ですか?
【ただいま読書中】
秋田茂 編著、ミネルヴァ書房、2004年、3800円(税別)
全五巻本の第一巻です。本書が扱うのは19世紀半ばから末まで。
イギリス帝国は「公式帝国」(インド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ……アイルランド)と「非公式帝国」(不平等条約を結んだアジア(含む日本)やラテンアメリカの諸国など)から成っていました。イギリスの影響力はこの帝国を超えて経済と安全保障の面で地球規模で拡がっており、「ヘゲモニー国家」と呼ばれます。
19世紀中頃のイギリスは、世界の石炭の60%・鉄と綿製品は50%・金属生産の40%を生産していました。「世界の工場」だったのです。他の国はイギリスのために農産物と工業材料を、またイギリス工業製品に対する市場を提供しました。これは「自由貿易帝国主義」と呼ばれます。もともとイギリスは重商主義でしたが、アメリカ独立やフランス(ナポレオン)による大陸封鎖によって多くの国と貿易をする必要にかられ、自由貿易へと方針を転換しました。その方針は大当たりでした。ケインとホプキンズは「ジェントルマン資本主義」論を唱えますが、これはつまりロンドン(のシティ)が全世界の経済を支配していた、ということです。金・もの・情報の集中によりシティは権力をふるいます。貿易収支・貿易外収支・他国への政治的影響力は密接にからみ、シティとイギリス帝国は特別な相互利害関係にありお互いを支え合っていました。
露仏独とイギリスが対抗するべき国は次々軍備を拡張します。膨張する軍事費に耐えかね、イギリスは方針を転じます。たとえば日英同盟によって極東は日本にまかせ、極東艦隊を撤収。各自治領にも独自の海軍を持つよう勧めます。最後には地中海艦隊まで廃止して本国艦隊に編入し「軍事費の削減と本国艦隊の増強」を両立させました。
日本がイギリス帝国の一翼を担っていたが、その関係は世界の誰も望んでいたものではなかったのは、笑えます。各自治領は自前の海軍はほとんど作れず、イギリスにバックアップされた日本の軍備増強に不安を感じ、結局本国イギリスに対する不信感が増大します。
イギリス帝国の変遷には時代の変化が投影されてます。経済は大量生産・大量消費、戦争は大量殺戮の時代になりつつありました。(戦艦のドレッドノート(弩級・超弩級)がその例です) 「日が沈まぬ帝国」であってもその時代の変化に対応することは困難で、結局イギリス帝国は没落することになるのです。
地球規模の環境変化はヨーロッパ諸帝国の発展と密接にかかわっている、という観点から環境保護運動を論じる論文が本書の最後あたりに登場します。インドの森林保護のために1864年にインド森林局が作られ1865年には森林法が制定されました。イギリスとは違ってインドでは森林の意味が大きく、インドの森林管理官がイギリス帝国での林学を確立するのに大きな役割を果たします。各国で森林局が次々作られ情報交換が密接に行われて世界規模で議論と実践ができたのは、これは「帝国」の利点と言えるでしょう。
「植民地は“ペイ”しない」の証拠として英領インドが上げられることがあります。実際インドは金食い虫で、イギリスは財政的にはインドを支えていました。しかし、外交・軍事面も考えると事情は違うでしょう。インド兵(と軍属)は19世紀のアフガン戦争・アヘン戦争から第一次世界大戦までに19回海外派兵されています。現在アメリカが「多国籍軍」を駆使しようとしている先例ですね。
そういえば「19世紀の世界にもしイギリスが存在しなかったら、世界はどれほど平和だったことか」と言ったのは小松左京でしたっけ? 「パクス・ブリタニカ」が実は「平和」よりも「紛争」を20世紀に数多く世界各地にもたらしたことを思うと、現在のアメリカの世界への影響力行使戦略が後世に何を残すのか、とっても不安です。特に、異文化を異文化として認めるかどうかの態度に英米で大きな差があるように見えるところが。
子どもの頃に「もっと真剣にやれ」と私はよく怒られました。本人は真剣にやってるつもりでちゃんと成果も出しているのに、傍から見たらへらへらと余裕たっぷりで片付けているように見えたらしいのです。
「まじめ=真剣な顔」と方程式を立てたら、笑顔は不真面目、となっちゃいます。ということは、笑いながらまじめにやっちゃ、駄目? 大切なのは表面づら?
本当は「笑顔」は、人を傷つけるときに使用したら一番効果的な表情なんですけどねえ。
【ただいま読書中】
科学史に散りばめられた有名な科学者たちのエピソード集です。
最初は「霊感」。「ジェイムズ・ワットは、水蒸気が鉄瓶の蓋を押し上げるさまを見て蒸気機関の着想を得た」は嘘。「ニュートンのリンゴ」これもアヤシイ。でも自分の尻尾をくわえる蛇を夢の中で見てケクレがベンゼン環を思いついたのは本当(少なくとも本人がそう言っています)。
ファーブルは朝から晩までずっと「地面」をにらみ続けていて、近所の人に笑われていた。ギルバート(16世紀イギリスの物理学者で「電気学の父」)はわずか280ページの『磁石』を書くのに18年かかった。ジョン・ネイピアは7桁の対数表を作るのに25年。ガウスはゲッティンゲンの天文台にこもっていて、50年間で外に出たのは2回だけ。寝るのも研究室でだった。ジェンナーが種痘の研究に取りかかってから実際に成功するまで18年。メンデルのエンドウの研究は14年。ダーウィンはミミズの研究を30年。エジソンは一回30分机で寝る、を一日に数回繰り返すだけであとはずっと働いていた。
いやいや、すごい人たちの列伝です。
「重力レンズ」はアインシュタインですが、その百年前にキャヴェンディッシュが似た発想を持って計算をしていたというのには驚きました。ガロアが工芸大学入試で失敗を繰り返していたのにはもらい涙です。大切な論文を平気でなくしてくれる人もいるし、ニュートンとライプニッツの間で行われた論争(どちらが微積分を“発明”したか)は何ともトホホです(現在ネットでよく見る“論争”とどっこいどっこいなのがなんともはやなのです)。
とばらばら紹介するとまとまりのない科学者雑学本のようですが、「霊感」「情熱」「同時発見」「迷信」「迫害」……とテーマごとに章立てされた上で多数の科学者が登場する体裁を採っています。時代があっちに行ったりこっちに行ったりしますがそれはしかたありません。で、書名の「ユーモア」が一体どこに出てくるのか、と思っていましたが、本書の最後のあたりに「しくじり珍談」「ユーモアと機知」といった章がやっと登場します。最初の“豪傑”たちとは対照的な人間味あふれる人も科学者の中にいることがわかってほっとします。
来客を嫌うアンペールが自宅の玄関に「アンペール不在」と張り紙を貼って、自分が外出から帰ってきたときその張り紙を見て「なんだ不在か」と引き返した、とか、凍えたベンジャミン・フランクリンが満員のストーブのそばに自分の場所を確保した機知にあふれた手段とか。
気軽に暇つぶしをするには適当な本でしょう。
文字通り解釈したら「自分を信じること」でしょう。でも、自分しか信じられないのはよほど人望がないか臆病者の証拠です。
自分と同時に他人を信じる勇気を持つこと。他人からも信じてもらえる自分であること。「自信」とは、それがどちらも満たされたものではないかな。
【ただいま読書中】
ロバート・B・パーカー 著、 菊池光 訳、 早川書房、1995年、2136円(税別)
本書のタイトルを見て『
過ぎ去りし日々』(ボブ・ショウ)や『
過ぎ去りし日々の光』(クラークとバクスターの共著)を私は思い出します。前者は「スローガラス」(光速度が極端に遅くなるガラス)という魅惑的なアイテムによって起きることを抒情的に描いていましたし後者は「ワームカム」という時空間を超えて“覗き”ができるアイテムで世界がぼろぼろに変わっていく様相をダイナミックに描いていました。
もともとこの「過ぎ去りし日々」ということばは『マクベス』からだそうです。“our”が使われているところと“yesterday”に“s”が付いているところがミソなんでしょうね。
恋人グレイス・ウィンズロゥと別れて父祖の地アイルランドに半年間行っていたクリス・シェリダンが、グレイスを訪ねるところから本書は始まります。自分の祖父コンのことをクリスは調べていたのです。1920年アイルランドでIRAの“ガンマン”としてイギリス軍と戦っていたコンは、アメリカの富豪夫人ハドリと恋に落ちます。駆け落ちを迫るコンを持て余したハドリはコンを密告。絞首刑の直前コンは刑務所を脱走し渡米します。
グレイスとクリスが別れることになった原因(の一つ)に半年前にクリスが関係した“事件”があるようなのですが、詳細はなかなか明かされません。
ボストンで警官となったコンは、自らの心の空虚を埋めるためのように女漁りを続け、判事の娘が妊娠したので結婚。息子のガスが生まれます。やがて幼女強姦殺人事件が発生。犯人を追うコンはハドリと意外な再会をします。
クリスは過去の物語をグレイスに語り続けます。しかしそれは“自分の物語”でもあるようです。クリスの本当の望みは何なのでしょうか。この物語はどのシェリダンのものなのでしょうか。
ガスも成人して警官になり結婚し、クリスが生まれます。ガスは「自分は泣くことを知らないのだろう」と一人つぶやき、夫婦も親子もぎくしゃくとした関係を続けます。ガスは金を得るためにハドリの息子トムの秘密を脅迫のネタに使い……そして大学でクリスはトムの娘グレイスと出会います。自分の娘がデイトしている相手がよりによって自分の秘密を知っているシェルダン一族の息子であることを知ったトムは圧力に負けそうになります。
クリスは言います。今だったら君と別れることもできる。君に結婚を申し込むこともできる。どちらもできるようになった、どちらの結果も受け入れることができるようになった、と。
クリスはハーヴァードで犯罪学の教授になり、ボストンで特別検察官に就きます。長く同棲していたグレイスとクリスは別居します。しかし、別の人とつき合いながらも定期的に話し合いを続けています。それを心配したガスとグレイスの母ローラもまた定期的に会って話をするようになります。コンとハドリから始まったシェリダン家とウィンズロゥ家の絆の紐は三代に渡って愛と対立で編まれ続けます。
ガスは自分が背負っている“血と運命と環境の連鎖”を自分の所で断ちきりたいと願っています。でもそのためにどう行動するのが最善なのかがわかりません。実はそれを本当にわかっているのはガスの愛人なのが、なんとも皮肉です。
ガスとクリス(父と息子)/ローラとグレイス(母と娘)、このそれぞれのペアの会話がなんとも対照的で絶妙です。特にローラが娘から実地に基づいた“性教育”を受ける場面ではこちらまで面はゆさと気恥ずかしさが盛り上がってしまいます。このへんは日本的な倫理観を持った私には“異世界”の物語です。決まったパートナーがいるのに次々セックスの相手を取り替え、しかもそれを相手に隠さない……私にはとんでもないことに見えますが、彼らは不器用で不様でぎこちなくて、そして悲しいくらい真摯です。
映画の「ゴッド・ファーザー」を私はちょっと思い出しました。この作品を映画化するなら「愛と哀しみのボレロ」で使われた「親と子を同じ役者が演じる」テクニックを使うととっても面白い効果が生じるでしょうね。
よく「流暢な英語」をしゃべる人が高く評価されますが、英語人でも「英語を流暢にしゃべれる人」はそんなに多くないと思うんです。で、ふっと我が身を振り返ってみました。「流暢な日本語」を駆使できる日本人は、全日本人の何パーセントくらいいるのでしょう?
少なくとも私はとぎれとぎれにしか使えません。
【ただいま読書中】
週刊朝日に寄せられた一般からの「日本語相談」に井上ひさしさんが答えたもののまとめです。著者が面白く、かつ真面目に答えているのが楽しめます。下手な日本語に関する論文を読むよりこちらの方が楽しくてためになるかもしれません。
「……的」が多すぎる、という読者の声に対しては、この文明では名詞が増えるスピードがあまりに早くてその他の品詞がそれをカバーできなくなっている(柳田国男の言う「形容詞飢餓」)。そこで、「〜的」「〜式」「〜風」「〜っぽい」を名詞に付けることで形容詞や形容動詞の「品不足」に対応している、というのが著者の持論だそうです。しかし濫用すると知的よりは痴的に見えるようになるから、一つ二つを的確に決める、を著者は推奨しています。「的」のかわりに英語をそのままカタカナにして使う、という手もありますがこれも著者はあまりお好みではないようです(私も好みではありません)。
植物とその実は、普通同じ言葉が使われます。麦の実は麦、トウモロコシの実はトウモロコシ。ところが、稲の実は米です。わざわざ別の言葉を用います。さらに最近は「米」ではなくて「コメ」と書かれるようになっています。さて、それはなぜか……で展開される著者の論は、軽く書かれていますが含蓄があります。
重複表現・サラダ記念日・「ある」と「いる」の使い分け・擬音語と擬態語・子どもが汚い言葉を使うことについて・「素敵」の変遷……いやあ、「日本語」にさまざまな角度から切り込んでくれますが、切れば切るほど日本語の深さがわかります。「誤用」が社会で認知されていく過程も、(ソシュールが言うところの)ラングとパロールの複雑な関係を示しているわけで、よくもまあ数ページできれいにまとめたものだと感心します。さすがプロの日本語職人です。
著者は形容動詞になにかこだわりがあるようで、橋本進吉(1882-1945)と時枝誠記(1900-67)の業績を詳しく述べています。橋本は日本語を文節に区切ることによって品詞を確定し形容動詞論を確立しました。時枝はそれを否定して「形容動詞といわれているものは、体言+助動詞である」としたんだそうです。こういったちょっと堅い話もありますが、総体的にさらりとよめる良書です。
……こういった人が複数「好ましい日本語」コミュにいたら、ものすごいことになるでしょうね。
映画で初めて「格好いい!」と思ったのは中学生のとき観た「
ウエストサイドストーリー」での“不良”たちのファッションでした。ざっくり腕まくりしたワーキングシャツやタンクトップ(当時はランニングと言っていたかな)、薄汚れたジーンズや綿パン、そういったものを着こなした“恰好良い”青少年が画面狭しと歌い踊り回るのです。世間知らずの少年だった私にはあのファッション(というかあの動き)が憧れでした。
映画「
ソルジャー・ブルー」では逆でした。画面に登場する騎兵隊は皆“恰好良い”ブルージーンズをはいています(だからタイトルに「ブルー」が入る)。そして彼らはアメリカン・ネイティブのキャンプ地を襲って虐殺をするのです。見ているだけでこちらの気分もブルーになりましたっけ。
【ただいま読書中】
『
デニム・バイブル』グラハム・マーシュ/ポール・トリンカ/ジューン・マーシュ 著、 田中敦子 訳、 ブルース・インターアクションズ、2006年、2381円(税別)
ネヴァダ州リノの仕立て屋ジェイコブ・デイヴィスが難しい注文を受けたのは1870年末のことでした。レギュラーのズボンが入らない木こりが擦り切れない特別サイズのズボンを3ドルで特注したのです。ジェイコブはサンフランシスコの織物商リーヴァイ・ストラウスから仕入れた丈夫な綿織布を使い、作業場に転がっていた馬具用のリベットをポケットを留めるのに使います。ズボンは好評を博しますが、特許出願料が68ドルもするためジェイコブはリスク分散のためリーヴァイに共同事業の話を持ちかけます。「リーヴァイスのジーンズ」の誕生です。
ちなみにこのリーヴァイはドイツ出身ですがフランスの人類学者・思想家レヴィ=ストロースの親戚だという話を聞いたことがあります。。
抗夫や森林労働者の労働着だったジーンズはやがてカウボーイの“制服”になります。しかし時代の変化によってカウボーイは消滅。カウボーイ神話は、音楽バンドと映画に引き継がれ、ラジオと銀幕によってリーヴァイスのジーンズはカリフォルニアから全国へと市場を拡大します(ここで出てくるジョン・ウェインが若い! 19世紀のリーヴァイスにはベルト通しがありませんが(サスペンダーで吊っていた)、この写真でジョン・ウェインはベルトをした上にサスペンダーも使ってます)。もちろん強力なライバルも次々登場しますが(その中の最有力企業がリー)、リーヴァイスは他社がリベットを売り物にするとこんどは「赤タブ」をトレードマークにします(ついでですが、この「赤タブ」そのものが(表面の文字とは無関係に)商標登録されているそうです)
第二次世界大戦後、デニムは少年たちの普段着となります。意外なのは、1960年代のエルヴィス・プレスリーがステージや人前ではあまりデニムを身につけなかった、という指摘です。彼が尊敬するミルトン・キャンベルが「普段着でステージに上がるな」をポリシーとしていたのを踏襲していたんだそうです。しかし、エディ・コクランやマーロン・ブランドによってジーンズは“定番”となり、カウボーイや労働から離れたイメージが確立します。さらにそのころ「ジーンズ」という名称が一般に定着しました。
1970年代にデニムはファッショナブルになり黄金期を迎えます。1980年にはカルヴァン・クラインがブルック・シールズを起用してセクシャルなジーンズのコマーシャルを行い、大評判となりました(反発も大きかったそうですが)。
ベルボトムは初期から存在した・はじめの「ジーンズ」はブルーではなくて生成りだった(たまたまリーヴァイスからの青染めの布をジェイコブが使ったので“ブルー・ジーンズ”になった)・インディゴ染料はその化学的性質から糸の中心までは染めないので使い込むとそこが白くなる……けっこう「へえ」と思うことが書いてあります。トリビア集として気軽に読むこともできます。また、古いジーンズの写真がたくさん載っているので、古いジーンズファン(マニア)には垂涎ものの写真集と言えるかもしれません。
ニュースで「山火事が鎮火」と言っているのを聞いてほっとしました。火事が起きたのは良いことではありませんが、消えたのはともかくめでたいことです。それともう一つ。最近のニュースでは「火事が鎮圧された」と言うことが多くなっているようで、これがどうも私には気にくわないので「鎮火」と聞こえたのが嬉しかったのです。もちろん「火事が鎮火」は「火」がダブった重複表現に見えますが(意味も重複かな。「鎮火」とは「火事が収まること」ですから)、「鎮圧」は暴動や反乱に対して使う言葉で火事に対して使うのは私には“筋違い”に思えてならないのです。
【ただいま読書中】
トーベ・ヤンソン 著、 下村隆一 訳、講談社、1990年、1456円(税別)
「ムーミン」シリーズの中で、子ども時代の私が一番印象に残った巻です。表紙を見るだけでにんまりします。
火をふく山が大暴れをし、ムーミン谷は洪水に見舞われます。ムーミン家に集まっていた一行は、流されてきた大きな空っぽの“家”に避難します。そこは不思議なところで、壁が無くカーテンが何種類もあってそれぞれ違う絵が描いてあり、突然偽の雷が鳴り、あちこちの小部屋には偽の小物やカツラや服が何千着も並んでいたりする……つまりは劇場だったのです。でもムーミン谷の一行は劇場なんて知りません。劇も知りません。ただ「変な家だなあ」と思いながら生活をします。劇場の主エンマがそういった「無知」にいらいらする様が笑えます。
裁縫箱に乗って流されてしまったチビのミイはスナフキンと出会い、スナフキンは24人の孤児を引き取ることになってしまいます。その頃、一行からはぐれたムーミントロールとスノークのお嬢さんは牢屋に入れられます。そして残りの一行は劇をすることにします。ムーミンパパが脚本を書き、皆が出演するのです。初日興行の噂は世界を駆けめぐり、客がどんどん集まります。劇が始まるとミイが乱入し、そこでその劇が実はライオンの花嫁をめぐるごたごたではなくて、洪水によってばらばらになった家族が苦難の末に再会する物語であることが観客に明らかにされます。客もどんどん舞台に上がり、芝居はますます楽しくなります。そしてそこに、牢屋を脱出したムーミントロールとスノークのお嬢さんが帰ってきます。
私が子供時代には、劇場の不気味さとそこで暮らすわくわく感とが印象的でしたが、今回読むと、もちろんそこは相変わらず好きですが、最後にムーミントロールが持った木の皮のボートとムーミンママが持った小さなボートと“再会”するシーンが、本当にしみじみとした読後感を醸し出してくれるのに驚きます。
私は日本を愛しています。でも、時の政府を愛する義務は負いたくありません。大体「俺のことを愛するべきなのだ」と強権を振りかざして迫ってくる存在って、それだけで人の愛に値しないんじゃない?
【ただいま読書中】
戦争中は旧制三高、戦後は同志社大学神学部に進んだ著者は、1950年にエール大学大学院神学校に進みます。学生として復員軍人がたくさんいましたが、彼らはかつての“敵”にも助力をしてくれました。それがなかったら著者は授業がこなせなかっただろう、と言います(なにしろ、一週間で800〜1000ページのリーディングの宿題が出るのですから)。学位取得後には、アメリカで初めての日本人宣教師としてアメリカ長老派教会で働くことになります。結局著者は日本には帰らず、ずっとアメリカで活動を続けることになります。
本書は、戦前の日本に育ち戦後はずっとアメリカで暮らした日本人が肌身で感じた日米比較です。
日本では国土は住んでいる土地ですが、アメリカは(奪うまたは買い取ることで)獲得した土地です。移民の国で混血もどんどん進みやたらと引っ越しをし個人主義でもあるため、意識して市民権を強調する必要がある、と著者は考えています。さらにアメリカには日本のような戸籍制度はありません。出生地で医者や助産婦が届ける出生証明書(またはアメリカ市民権獲得証明書)のみが市民権の証明となります。個人の特定はSS番号(社会保障番号)が使われますが(銀行口座を作るのにも納税にもこの番号が必要)、これは市民権の有無とは無関係です。だからアメリカでは「学校で国旗に向かって忠誠の誓いを唱える」ことが重要となるのだそうです。
年賀状とクリスマスカードの比較も面白いものです。特に、年賀状は束にして輪ゴムで束ねられるが、クリスマスカードは大きさ自体がバラバラだからそんなことができない、という“指摘”には笑ってしまいました。
弁護士もトップクラスはすごい年収ですが、公定弁護士(州や郡に雇われて貧困層のために弁護をする)では年収が2万ドルも無かったりするそうです。訴訟社会についても少し触れられていますが、訴訟がとても多いのは、司法の権威が確立している(最高裁の決定で文字通り国が動く)ことに由来しているらしいのは興味深いことです。逆に言えば日本はアメリカのような訴訟社会にはなりにくい、ということでしょうね。
先日のニュースで、「副大統領の犯罪」に対して有罪の評決が出たことをやっていました。こういった犯罪があることは国として恥ずかしいことですが、それを闇に葬らず堂々と裁く点では「さすがアメリカ(翻ってみたら日本は……)」という感想を私は持ちます。条文の語句解釈に堕するのではなくて「合衆国憲法の精神」を大事にする態度、とまとめたら単純化しすぎかしら。
教会の活動も多岐にわたっています。著者が属する長老派教会は教会が12000で会員が300万人、献金による基金が本部だけで8億ドル……その金はほとんどが株式市場で運用されているそうですが、面白いのは株主運動です。たとえばアパルトヘイトに反対するために株主総会で企業の方針変更を迫る、といったことを行なったそうです。教会って祈るだけではないんですね。さらにテレビ教会や、本書にはありませんがロビー活動も当然しているでしょうし、アメリカ社会でのキリスト教の影響力やその実態については、こちらの想像を超えたものがありそうです。
アメリカにおける人種差別の歴史と実態についても書かれています。日系人も“アメリカ人”から差別を受けてきました。しかし著者はそこで筆を止めません。日本人もアメリカ人に優るとも劣らないracistであると述べます。たぶんその通りでしょうね。このへんがよくわかるのが、著者が“日本人”であることの利点です。
日本人が好む「おまかせ」がアメリカにはないこと、コミュニケーション作法の違い、アメリカ人が日本でおどろいたこと、「もてなし」の違い……こうして読んでいると、私にはまったく異質に見えたアメリカのやり方にもけっこう共感できる部分が多いことがわかります。まあこれは私が日本人としては“落ちこぼれ”であることも原因の一つなのでしょうが……
しかし、終戦直後の日本では凶悪犯罪が横行していたのにアメリカでは夜でもひとり歩きができたのが、数十年経つと状況が逆転していた、という著者の感想には複雑な思いがします。世の中というものは簡単に変わっていくものなんですね。
たとえば私が火星に移住したとして、「故郷」として懐かしく思い出すのはどこでしょう。生まれ育った街、市、県、国……それとも地球? そのとき脳裡に浮かぶ具体的なイメージは、一体どんな風景なんでしょう?
【ただいま読書中】
ロバート・J・ソウヤー 著、 内田昌之 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫SF1500)、2005年、920円(税別)
カナダの鉱山跡の奥深くに設置されたニュートリノ観測所で、ニュートリノ検出のために密閉された重水タンクの中に、突然男が出現します。溺死する直前に救出された男ポンターは、ネアンデルタールでした。
言葉が通じるようになって(この言葉が通じるようになる過程がなかなか抱腹絶倒です)詳しい事情がわかります。ポンターは物理学者で量子コンピュータの理論研究をしており、どうしてもうまく機能しないコンピュータの事故で平行宇宙(つまりは“この”地球)に転送されてしまったのです。
ここで描かれるネアンデルタール人の社会が魅力的です。冷蔵庫ではなくて真空庫で食品を保存・基本的に穀物は食べない・床にはコケ・ベッドは床に沈み込むタイプ・食事には専用手袋を用いる・全人口は1億8500万人・投票権を得るのは49歳(平均寿命は73歳)・「イー」の発音ができない・フェロモンで相手の気分がわかる(したがって「男女の別」が厳密)・犯罪はほぼ皆無(これは人間性の問題ではなくて、あるハイテクのおかげです。さらに罰せられるのは遺伝子です)・宗教を持たない・社会への貢献が最も大切……いやあ、異文化です。徹底的な異文化です。
「この世界」では、孤独なネアンデルタールがなんとか“現実”を受け入れようと努力します。自分たちの種族が絶滅している(それももしかしたら現在こちらで栄えているホモ・サピエンスによって絶滅させられたのかもしれない)ことも受け入れなければならないのです。
その頃「あちらの世界」では、失踪したポンターが殺害されて死体が隠されたのではないか、とポンターのパートナーであるアディカーが裁判にかけられようとしていました。失踪の謎を解かなければアディカーは罰を受けなければならないのです。
ポンターの遺伝子を研究することになった大学教授メアリーは、ポンターが出現する前夜にレイプされたばかりでした。このレイプあるいは人の暴力行為に関しても、本作では繰り返し言及されます。重大な伏線、というか、本書に登場するテーマの一つでしょう。そしてメアリーとポンターはいつしかお互いに惹かれるようになっていきます。
レイプは性行為ではない/ビッグ・バン理論は創世記神話の焼き直し/原罪のない人間(聖母マリア)がどうやってこの世に登場できるか?/道具を作ることではなくて道具を改良することが知性の証明……刺激的な言説が次々登場します。
ファースト・コンタクトテーマのSFは、奇妙奇天烈な異星人の姿を楽しむと同時に、彼らを“鏡”として「我々の姿」を見つめ直すことも楽しめます。本作ではそれが異星人ではなくて(ほぼ)同じ地球の人類(ただし祖先がネアンデルタール)であるというだけのことです。異星人よりもさらに地球人に近いだけにもっと微妙な“鏡”です。人類がいかなる存在であるか、ネアンデルタールの目を通して眺めると、いろいろ不思議なものが見えてきます。私たちは一体何者なんでしょう?
アマチュア野球選手に裏金って……貧乏球団のファンとしてはそんな金があるとはうらやましい……じゃなくて、不公平だ不公正だ、と言っておきましょう。ついでに、不法だ、も(野球規定の話じゃなくて、会社の会計処理ともらった側が納税していたのかな?の話です)。
再発予防は、今のままでは無理でしょう。「ばれたら厳罰」は「ならばれないようにやろう」になるだけですし、「やったほうが得」と思えば絶対やってしまうでしょうし。なら「やっても得にならない」システムに組み替えるしかないんじゃない? ドラフトを完全ウェーバーにするだけである程度解決しますけど、「解決したくない人」(やった方が得をする人)はまたいろいろ理屈をこねるでしょうね。
【ただいま読書中】
ロバート・J・ソウヤー 著、 内田昌之 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫SF1520)、2005年、920円(税別)
“あちらの地球”に戻ったポンター・ボディットが、人格彫刻師(精神分析医のような存在)の診察室で「ぼくはひどいことをしました」と告白するシーンから本書は始まります。その診察室での会話と、ポンターが初めて“こちらの地球”を訪問し無事帰還してからのストーリーとがカットバックで語られます。
私は『
ゲイトウエイ』(フレデリック・ポール)を思い出します。あちらでは機械仕掛けの精神分析医を相手にロビネットが現在と過去を語るシーンとその過去でゲイトウエイで繰り広げられた冒険とがやはりカットバックされ、物語を膨らませていましたっけ。(カットバックの手法自体は前作『ホミニッド』でも使われていましたので、「精神分析の診察室」がその一つに使われる、ということからの連想です)
ポンターは帰還するとすぐに、再度訪問するべきだ/そのメンバーには自分がふさわしいと最高会議を説得します。科学者としての義務感もありますが、お互いに惹かれ合っていた“こちらの地球”のメアリーとの仲を進展させたい、という個人的欲望もあるのが、なんとも可愛いものです。
ついにポンターは(女性大使と共に)“こちら”にやってきます。最初に出くわしたのは検疫のための隔離処置。そして市民権の問題でした。パスポートがないと移動できない、そのためには市民権が必要、という理屈です(カナダ政府の、ネアンデルタール人に対して優先権を主張したい、という思惑ももちろんたっぷり)。そのころ“こちら”ではオーロラに異変が生じます。磁場が崩壊して逆転する前兆のようですが“あちら”ではそれは四半世紀前に起きていました。
読みながらちょっと気になることがあります。お互いに技術移転(貿易)を行うと「こちらの地球」にも量子コンピュータができてしまいます。すると本作での設定では理論上は何かのはずみで一度通路が閉じたら“こちら”と“あちら”に新しい通路を
設定することが不可能になるのです。お互いが持っているハイテクにお互いが驚歎するのに忙しくて誰もそのことを指摘しませんが、そのうちそれどころではなくなります。地球の磁場が消えても“あちら”では自然のままのオゾン層が宇宙線を防いでくれました。しかし“こちら”ではオゾン層はぼろぼろです。もし今磁場が消えたら地球の生命体はほとんど無防備で宇宙線を浴びなければならないのです。
“あちら”での公共交通機関である移動キューブは、空力を無視した立方体になっています。その理由は……積み重ねるため。駐車スペースが節約できるのです。たしかに“こちら”の自動車は、出発地と到着地で駐車スペースを必要とするし、一日のほとんどの時間は動いていないし、空間利用の点ではずいぶん“贅沢”なしろものです。押しボタンもありません。「ついうっかり」手をついたりの事故を予防するためです。
ポンターは、狙撃されたりメアリーと結ばれたり前巻でメアリーを強姦した犯人を見つけて罰したり、大活躍です。そして最後にポンターはメアリーに……
しかし、第三巻のタイトルは『ハイブリッド──新種──』ですよ。これって、もしかしてネタバレ?
「語りえないことについては、沈黙するしかない」……ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の有名な言葉です。これは引用する人によっていろいろな解釈が与えられていますが、私は「君子は怪力乱神を語らず」(孔子)と“翻訳”しています。ヴィトゲンシュタインは単に宗教を否定しているのではなくて、哲学と宗教をきちんと分けた上で「宗教家が扱う分野は哲学者は扱わない」と宣言していると私は思っていて、それと同列に論じるのは孔子の“本意”とは違うかもしれませんが、ともかく私の解釈では「語れる部分についてはとことんきちんと語れ。でも語れない部分については潔くあきらめろ」なのです。
【ただいま読書中】
ロバート・J・ソウヤー 著、 内田昌之 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫SF1520)、2005年、920円(税別)
前2巻とは違って、本巻ではカットバックは用いられません。話はほとんど一直線です。そのかわり、と言って良いでしょうか、各章の頭に何やら意味深な演説の一部が引用されて散りばめられます。誰がどこでいつ何をテーマに演説しているのかは、本書を読み進むにつれてわかるようになります。
「ネアンデルタールの地球には宗教が無く、こちらの地球には宗教がある」ことの不思議さが本書では取りあげられます。辺縁系の癲癇が強い宗教的体験を伴い辺縁系の障害によって信者が宗教から関心を失うことなどから、「宗教は、脳、特に辺縁系の機能と強く結合している」という仮説が立てられ、ネアンデルタールのポンターの辺縁系を電磁的に刺激する実験が行われます。対照としてまずメアリが実験を受け聖母マリアを“見”ます(ついでですが「メアリ」の語源は「マリア」)。ついで実験を受けたポンターは……
そういえば癲癇自体が古代ギリシアやローマでは神聖病と呼ばれていましたっけ。実際に「神は脳に宿っている」のかもしれません。
そしてついにメアリとポンターは二人の子供を持つことを決心します。染色体数が違うので自然交配は無理。そこで“あちら”では禁制とされていた遺伝子操作技術を用いることにします。一つ一つの形質についてどちらのものを使うか二人は相談します。デザイン・チャイルドです。ところがその技術を知った“こちら”の地球人がネアンデルタール人にだけ効くウイルス兵器を開発しようとします。ほとんど手つかずの自然が残ったもう一つの“地球”を自分たちのものにしたくなったのです。ネアンデルタールの運命は、そしてハイブリッドチャイルドは誕生できるのか、できるとしたらどのような姿で?
笑っちゃうのは、ほとんど狼に近い種類の犬しか知らないポンターがダックスフントのスタイルを見てショックを受けるのに対して、飼い主が「これはアナグマ用の立派な猟犬だ。でもプードルとかはみっともない……」と言うシーンです。プードルも水鳥用の猟犬じゃなかった? ここは人種偏見に対する皮肉でしょうね。
本書はフェミニズム的に読むこともできますし、文明批評の書としても読めます。また、カナダ人の持つアメリカ文化に対する憧れや反感がいろいろな形で繰り返し表明されているとも読めます。
ただ、文明批評のための“道具”とはいえ、ネアンデルタールがあまりに“理想的”であることが気になります。ここで描かれたネアンデルタールの「断種による社会の浄化」が本当に上手くいくものかどうかも疑問です。種の多様性を減じ、かえって社会の活力を落とすことになるのではないか、と思うし、そもそも「遺伝子が原因の暴力」は減らせるにしてもその他の犯罪(たとえば詐欺)についてはどうなんだろう……
そうそう、“あちら”の無宗教に対比させられた“こちら”の宗教の多様性は、たとえば種の多様性と同様に進化論的に扱うことができないのかな、とふっと思いました。宗教者には怒られそうですけれど。
転生輪廻を唱える人が「この動物も虫も前世では人間だったのかもしれないから万物を尊ぶべし」と言うのを私は好きになれません。だってあまりに人間中心主義のにおいがするんだもの。別に人間でなくても、前世がずっと虫でもプランクトンでも、生命という点では同じなのではないのかな?
【ただいま読書中】
ヘザー・プリングル 著、 鈴木主悦/東郷えりか 訳、 早川書房、2002年、2300円(税別)
ミイラはかつて「貿易品」でした。
「ルネサンスの万能薬」と呼ばれたのは、エジプトから輸入されたミイラを粉にしたものでした。高貴な薬として人々はそれを服用していました。画家が愛用した顔料「エジプシャン・ブラウン」もミイラを砕いたものです。現在ミイラを意味する「Mummy」はもともと「ミイラ薬」のことで、それがそのうちミイラそのものを指すように変化していったのだそうです。ミイラ薬が薬局の棚から消えたのは、20世紀になってからのことでした。
まるごとのミイラそのものもエジプト土産などとして人気を博しました(たとえばフランスの小説家フローベールは自分でエジプトのミイラ洞窟にもぐってミイラを持ち出しています)。
チリの田舎町アリカで開催された第三回ミイラ研究世界会議に著者は取材で参加します。世界各地から自費で集まったのは180名のミイラ専門家(ほとんどが貧乏学者)。分科会などはおかれず全員が同じ発表を朝から晩まで聞きます。記者会見で記者席にいる外国人ジャーナリストは一人だけ。発表されるのは「太古のミイラがマラリアに感染していたかどうか」「ルーベンスがミイラをデッサンしていた」「エジプトのミイラから発見された脳の組織」「中国で発見された4000年前の白人のミイラ」……
小ぶりで参加者全員が知り合いの感じの良い会議ですが、もちろん対立はあります。今回の会議での大きな対立は「ミイラの解剖や解体は許されるのか」でした。研究のためには実物の分析をしなければならない、という人たちと、それは破壊だから非破壊的検査(CTや内視鏡)のみをするべきだ、という人たちです。どちらの言い分にもそれぞれ納得できる部分があります。
5日間の会議が終わるころ、著者はミイラの魅力にどっぷりとつかっていました。ミイラそのもの(ものとしてのミイラと、かつては生きていた人としての存在)に対して感じる魅力はもちろんですが、著者は「ミイラ研究者」にも魅力を感じているようで、会議の跡著者は世界のあちこちを訪ねることになります。
寄生虫の検査・遺伝子解析……さまざまな科学の目がミイラに向けられます。面白かったのはミイラの毛髪検査です。古代エジプト人と古代ペルー人の毛髪から、コカインとニコチンが検出されたのです。まさか、古代から大西洋に貿易ルートが? ニコチンは説明がつきました。煙草以外でもニコチンを含む植物はたくさんあるのです。しかしコカインは? これは今でも謎です。
ひどい傷を残したミイラも謎を提示します。この傷の意味は、死刑を執行されたのか、犯罪の被害者か、生贄の儀式の犠牲者か? その謎に取りつかれた研究者の姿がまた一つの謎です。
レーニンやスターリンなど独裁者はなぜミイラにされるのでしょうか。
チリのチンチョーロ人はエジプトより早くミイラを作っていました。
タクラマカン砂漠でみつかったミイラは、歴史を書き換えてしまうかもしれません。
ヨーロッパでは、聖人の遺体がミイラになるのは奇跡である(死体が腐らないのは神秘的)と捉えられていました。そのため、人工的にミイラを作ることまで行われていました。
魅力的な話題が次から次へと登場します。人は死を見つめることは難しくてもミイラだったら見つめることができるのかもしれません。
そして、最後にやっと日本の即身仏が登場します(無視されるのかな、と読みながらちょっと心配していました)。ところがここから話題が急展開。現代文明で広く行われている「ミイラ化」についてとうとうと著者は述べるのです。まともに受け取るとちょっとショックを感じる表現が続きますが、古代人と現代人、生と死に関する発想に実はそれほど大きな差がなかったらしいということに、安心するべきか愕然とするべきか……ミイラは現代にも“生きて”いるのです。
「子ども時代、魚は塩の味がするものと思っていた」と私に語ってくれたのは、戦前生まれで中国山地で育った人です。当時は行商人が荷を担いで歩いてやってきていたそうで、持ってくる魚は干物か塩漬けか、だったのでしょう。まさか海岸からずっと徒歩ということはなくて、近くまでは国鉄を使っていたんじゃないか、とは思いますが、それでも日にちはかかるでしょうから「鮮魚」なんてものに山間地の人がお目にかかれるチャンスは非常に少なかったことでしょう。
日本がそんな国だったのは、それほど大昔のことではありません。
【ただいま読書中】
『
プラム・クリークの土手で』(インガルス一家の物語3) ローラ・インガルス・ワイルダー 著、 ガース・ウィリアムズ 画、恩地三保子 訳、 福音館書店、1973年(88年28刷)、1900円(税別)
一家はミネソタにやって来ました。ノルウェー人が開いた入植地で町にはたったの3マイル。住むのは土手に造られた横穴式住居で、土手を歩く牛が屋根に乗ると踏み抜いてしまうような家です。父さんは馬を土地と交換し、日当仕事で牛を手に入れ、農業に本腰を入れるつもりのようです。
ローラは7歳。悪戯盛りです。行ってはいけないと言われたクリークの深みに行こうとしたり、父さんが作った干し草の山を「滑り降りては駄目、とは言われたけれど、転がってはいけない、とは言われなかった」と遊んでぐしゃぐしゃに壊したり、大雨で増水したクリークに自分から入ってみたり……危なくって目が離せません。
表紙に描かれているようにはだしであたりを走り回るのが大好きなローラですが、メアリイと初めて学校に行くことになります。見栄っ張りで意地悪な同級生、退屈な日曜学校、そして……イナゴの襲来。せっかく豊かに実った小麦畑は収穫直前に全滅です。やっとイナゴはいなくなりましたが、地面にはイナゴの卵がぎっしり産みつけられ、さらに干ばつがやってきます。とうさんは東部に出稼ぎに行きます。つま先が破れたブーツで200マイルを徒歩で。イナゴがいなくなるまで、ここで農業はできないのです。
暖冬の“イナゴ陽気”の次の冬は厳冬です。大吹雪にインガルス一家は家に閉じ込められます。絞ったミルクを牛小屋から家に持ち帰るまでにバケツからほとんど吹き散らされてしまうくらいの強風が吹き荒れます。食料のことが悩みとなります。これまでの土地では狩猟でいくらでも肉が手に入りました。ところがこの土地では兎くらいしかいないのです。ならば、自家製の肉を育てるしかない、と両親は決心します。
本書では章が全部短めで、すいすい話が進みます。ローラのとうさんとかあさんの会話も常に短めですが、言葉の短さとそこにこめられた感情の量とは比例はしていません。時には会話がなくても感情の交流があります。それを見逃さないローラの観察力には驚かされます。
この時代、まともな家庭では子どもたちは親の言いつけを聞くように躾けられています。それは厳しい体罰を伴った躾です。しかし、本書の最後あたり、子どもたちが親の言いつけに敢えて逆らわなければならない状況が出現します。そのとき、言いつけをきちんと守る「よい子」であるべきか、それとも言いつけを破ってでももっと大切なものを守るべきか、ローラとメアリイは決断を迫られます。それも寸刻を争って。そのとき二人がどうしたか、そして両親はそれをどう評価したか……子どもの成長と親の役割について、言葉少なく、しかしそこで描かれる行為によって雄弁に語られます。ここだけでも一読の価値がある本です。
「医学は理系か文系か」と聞かれたら、日本ではほとんどの人は「理系!」と即答でしょう。実際に医学部を受ける受験生はほとんどが理系クラス出身者ですし、受験科目も数学や理科(が二つ)であっても、国語や社会が受験科目ということはまずありません。つまり、日本での医学は、理系の受験生が理科系の受験を突破して医学生となってから学ぶもの、です。
ところで、たとえば新聞に登場する医学の話題は、純粋に理系だけのものに限定できるでしょうか? たとえば「遺伝子治療」「癌の新しい検査法」「画期的な手術」などは科学の範疇ですから理系の話題と言えるでしょう。しかし、同様に新聞のトップを飾る「延命治療や不妊治療の是非」「医師不足」「医者の不祥事」などはどうでしょう。こちらはどちらかといえばむしろ“文系”の話題ではありませんか?
たしかに現代医学には「科学」を代表とする理系の要素がたっぷり含まれています。それは現代医学の「背骨」と言って良いかもしれません。しかし、医学には実は“文系の要素”(倫理学、経済学、政治、社会学、法学、心理学、コミュニケーション……)もたっぷり含まれているのに、それを“無視”して多くの人が「医学は理系」という所で判断停止をしていることが、現在の医学に人が感じる不満や発生する不祥事の原因の一つになっているのではないか、そう私は感じています。
【ただいま読書中】
日本の理科教育にはいくつもの問題点が指摘されています。それを「国際比較」の観点からあぶり出し改善点を探ろう、という本です。
まずは選抜制度。日本では成績による選抜だけではなくて、経済事情(貧乏な家庭では高等教育を受ける割合が減る)という「二重の障壁」が設けられています。北欧のように希望する学生はほとんど進学できる(そのかわり大学内で厳しく淘汰される)のとは相当違います。さらに、そうやってせっかく選抜して入学した“優秀”な学生が、卒業するときには“並”になっていることが多いのです。
医学に関しても問題が指摘されています。特に生物を履修せずに医学部に入学してくる人がやたらと多いことが。生物学を知らずに人体を学ぶって……ちょっと悪い冗談のような気がします。ちなみに北海道大学医学部は2006年から入試を理科3科目にしたそうです。
世界中の高校生を集めて行われる「化学オリンピック」で日本の高校での理科教育の問題が見えます。オリンピックのシラバスでカテゴリー1(ほとんどすべての国の高校で教えられている内容、たとえば「フントの規則」「パウリの排他律」「標準電極電位」など)が日本では大学に回されていることが多いのです。さらに日本の高校ローカルのルールも学生の足を縛ります。単純な例だと「リットル」を国際標準の立体文字(L)ではなくて小文字の「l」で表現する、など。つまりは高校化学の教科書がダメダメなのだ、とこの項を書いた渡辺さんは真剣に怒っています。薄っぺらなくせに誤りが多い。検定が「これ以上書かせない」ことに偏していて、教科書検定を採用している外国のように「これは絶対書け。あとは自由」になっていない、と。
……もしかしたら文部科学省の定義では日本の教科書は「丸暗記するための本」であって「考え方を学ぶために役立つ参考図書」ではないのかもしれません。
中国やアメリカでの高校教育についても体験者から実例が紹介されます。国によって(あるいは州や学校によって)やり方はずいぶん違いますが、うまくいっているシステムでは発想の根底は共通しているようです。「人を育てる人」を育てるのだ、と。
「詰め込み教育」を批判することで「ゆとり教育」が生まれました。でもこれは日本人の学力低下をきたしました。ならばまた「詰め込み教育」に回帰するべきでしょうか? 振り子じゃあるまいし、そんなに機械的に行ったり来たりでは学生が堪りません。二つの違うシステムを冷静に比較検討して止揚することはできないのかなあ。
内容には関係ないですけど、本書は手に取ると「良い紙を使っているなあ」と思います。めくりやすいし目にやさしいのです。
探偵やジャーナリズムと医学は似たところがあると私は思います。
探偵もジャーナリストも医者も、求めるのは「真実」です。社会での現象の奥の、あるいは現象と現象をひそかにつなぐ真実を探偵とジャーナリストは求めます。症状の奥の原因としての病気を医者は追究します。しかし真実は骨のようなもので、物事の芯に通っている大切なものですが、そこにたっぷりと肉が付いて「物事」になってしまっています。表から見えるのは、真実ではなくてその回りの肉の形、あるいはそこにかぶせられた皮膚の表面です。
では、そこからどうやって真実を求めればいいのでしょうか。「骨格標本」を作製するように「真実の標本」を作ることはむずかしい。骨格はモノですが真実はコトですから。手術のように表面を切り開いて「真実」を直接見るのは、痛いし後遺症が残ることがあります。名医のように手術後の方が調子が良くなる場合もあるでしょうが、「名医」は稀です。手段を選ばず真実を暴けばよい、というものではないのです。
もう一つ方法があります。レントゲンのように骨を透視できる眼力を使うのです。その眼力の中心をなすのは、ジャーナリストも医者も論理と言葉と知識でしょう。ただし、「レントゲン写真」も一枚だけではそのすべてはわかりません。いろいろな方向から写真を撮って「真実」の「本当の姿」を見る必要があります。一方向だけの“写真”は、文字通り「一面の真実」でしかないのですから。
【ただいま読書中】
『
いぬはミステリー』アシモフ 他編、小梨直 訳、新潮社(新潮文庫)、1992年、720円(税別)
「アシモフが編んだアンソロジー」だったら、それだけで信用して良いと私は思っています。本書には16編の「犬が登場するミステリー」が含まれていますが、最初に私が抱いた期待はほとんど裏切られません。まちろん作品によってバラツキはありますが私にはあまり好みに感じられない作品でも犬が登場人物(登場犬)として光っています。
犬が加害者(犬)、逆に被害者(犬)(大量殺犬事件もあります。犬の愛好家には辛いかも)、無実の罪を着せられる、莫大な遺産を相続する(複数の短編でこういった犬が登場します。アメリカではけっこう普通の現象?)、メッセンジャー、あるいはドッグレースのような単なる背景……ミステリーに登場する犬には様々なバラエティがあるものです。よくもまあこれだけいろいろなバリエーションを集めたものだと感心します。
本書中、私が特に気に入ったのは……
・『眠れる犬』(ロス・マクドナルド):行方不明になった愛犬を探してくれ、という依頼を受けた私立探偵リュウ・アーチャーは、犬の訓練学校のオーナーと依頼人の夫の不思議な行動に注目します。
・『敵』(シャーロット・アームストロング):街の子どもたちがかわいがっていた犬が毒殺されます。子どもたちは自分たち(と犬)を目の敵にしていた男を“犯人”と決めつけ復讐しようとしますが事件には意外な真相が。最後の「どうしてわかるんだよ」というセリフが効いています。悲惨な状況での悲惨な事件ですが、読後感はほのぼのとします。
・『こちら殺犬課』(フランシス・M・ネヴィンズJr.):大学に防犯システムを売りつけようとしていた詐欺師が、ひょんなことから犬の連続殺害事件(あるいは無差別大量殺害事件)の解決を任されることになります。薄氷を踏む思いで自分の正体がばれないように警察とつき合いながら、彼が見つけた事件の真相とは……
・『シャンブラン氏への伝言』(ヒュー・ペンティコースト):ホテルのペントハウスに住む老婦人のところに武装強盗が。彼女の身を守るのはかわいらしい狆(ちん)一匹。さて、どうやって?
・『真昼の犬』(レックス・スタウト):有名な私立探偵ネロ・ウルフの短編です。犬は……脇役ですね。ご主人様が殺されるのを防げないし、殺人の直後にすぐ別の人間について行っちゃうし、現場検証ではまったく役に立たない……こんな書き方をしたらまったくの役立たずのようですが、でも重要な脇役ではあるのです。
青春時代に私はさかんに映画を観ました。で、原作がある場合、先に読むか先に観るかで、感想が全然違っているのに驚きました。映画に対して厳しい評価になるのは、先に読んでいる場合です。自分の脳裡にもう作品世界がある程度映像化されているため、そこからずれた部分については許せない。でも、先に観た場合には、原作は「映画の補完」や「違う解釈」として捉えることができたのです。この差は本当に大きかった。
たとえ同じタイトルであっても、小説と映画はまったく別のものと捉えた方が良いのでしょうね。たとえば内面描写は小説のものです。映画でやたらと内面描写をやられると「なんだ、この独り言の多さは」と言いたくなるでしょう。逆に、たとえば一瞬の表情の変化は映画のものです。その描写に言葉を一切必要としません(俳優の演技力は必要ですが)。小説には描かれていないところ(部屋の細部や服装など)も画面隅々までちゃんと表現しないといけないのは映画ならではのハンディですね(引き出しを開けないタンスの中にまでちゃんと衣裳を詰める監督もいましたっけ)。
そういえば最近はコミックやゲームが映画化されることが増えましたが、これを観た人は、どんな感想を持っているのでしょう?
【ただいま読書中】
『
ローマの休日』イアン・マクレラン・ハンター/ジョン・ダイトン 著、 池谷律代 訳、 ソニー・マガジンズ、1998年、1400円(税別)
「ヨーロッパで最古の王族」の跡継ぎである19歳のアン王女は、ヨーロッパ歴訪の旅の最終目的地ローマに到着しました。来る日も来る日もがちがちに固められたスケジュールに縛られ、話すセリフもすべて脚本通りを要求され、常に人に見つめられながらロイヤルスマイルを浮かべ続け、ダンスの相手はオッサンばかり……「もうこんな生活、いやっ!!」とヒステリーを起こした王女は王宮から抜け出して街へ……
本書はほとんど映画そのままです。本書のストーリーを紹介したらそれはそのまま映画の紹介と同じになります。ただ、本ではすべての登場人物に名前(または肩書き)がきちんとついているところが違いますが。本書は映画の脚本を小説化したもの(著者の一人ハンターは映画「ローマの休日」の脚本でオスカーを取った人です)、と思って、それ以上のことは期待しない方が吉です。
よくよく見ると、“プロローグ”と“後日談”を除ければ、本体はたった24時間の物語です(『
ロミオとジュリエット』より短い)。そのうち二人が連れ立って動くのは正午から夜中までだけ、つまり半日。「映画の通りに実際にローマの名所を巡るのは、この時間設定では無理」という“研究”をどこかで読んだことがありますが、不可能を可能にするのが映像(と文字)のマジックですね。楽しそうに動き回る二人に連れられて、読者はゆったりとローマ観光と恋物語を楽しめます。
“休日”の最後に王女が王宮に帰ったのは、自分の義務を思い出したためです。そしてジョーがせっかくの大スクープ記事を没にしたのは、愛のため(スキャンダルで愛する人を泥まみれにしたくなかった)……でも、それだけ? 王女が「自分がしたいこと」ではなくて「自分が為すべきこと」をするために勇気を奮い起こす姿を見て、ジョー自身も自分の過去(現在の自堕落な生活とは違って、真剣に人生に取り組んでいた昔の自分)を思い出したのではないかな、というのが私の解釈です。少なくとも、まともな人間だったら、自分が愛した人が示す態度より低級な自分でいたいとは思いませんよね。そして、まともな人間だからこそ良い出会いに恵まれるのでしょう。「良い出会い」といっても、必ず結ばれる(ハッピーエンドになる)とは限らないところが、なんともはやですが。
私が初めて買ったパソコン(APPLE][)にはマウスはついていませんでした。BASICのプログラムで座標を指定するか、X軸とY軸のコントローラーで画面上の位置を決定していました。6〜7年後に買ったPC-9801も最初はマウス無しで(キーボード操作で)使ってました。シリアルマウスとかバスマウスというものがあって、MS-DOSでマウスドライバをわざわざ組み込んでから使った覚えがあります。
今からたとえば100年経ってから発掘現場でマウスを見つけた人は、「これ、昔の人は一体何に使っていたの?」と言ったりするようになるのでしょうね。特に今の赤外線マウスは、何かのセンサーか、と言われるかも。たしかにセンサーではあるのですが。
【ただいま読書中】
奇数ページに「これは何だ」と問題の図とヒントや質問が載せられ、その裏に正解と解説、というよくあるクイズ本の体裁です。取りあげられているのは、そのへんに転がっている石ころや竹筒から奇妙奇天烈な道具まで。各大陸ごとに章立てされツアーをするように読者は「これは何だ?」「こんな風習があるのか」と驚きながら世界中を回ることになります。
たとえばここに登場するのは……
最初にあげた石ころ。これは砂漠で水を平等に分けるための「道具」です。
竹筒。中に米と水(またはココナツミルク)を入れて火にかけます。竹が焦げた頃には中には美味しいおこわができています。使い捨ての鍋兼食器です。
古代中国の地震計や磁石も出てきます。
ヒョウタンを使った浣腸器。著者は最初それを笛と間違えて吹こうとしたそうです。
包丁を食べ物に向かって動かすのではなくて、台に固定されていてそれに向かって食べ物を押しつけて切る包丁もあります。
旅行するイスラム教徒のために、メッカの方向とお祈りの時刻を教えてくれるハイテク。
戦闘の時に使う手首ナイフや指ナイフ。(一見すでに見えるそうで、剣呑です)
丸太で作った蜂の巣箱。これは日本にもあるそうです。
まったく、想像力だけでは解けないクイズばかりです。いくつかは知っているものがありましたが、あとはまったく見当がつかないものばかり。たとえばアボリジニの道具など、アボリジニの生活や風習や文化を知らなければ、手も足も出せません。恥ずかしながら、日本からの出題でも、知らないものが続出です。
ここで取りあげられているのは基本的に古いものです。しかしふっと思ったのですが、現在広く使われている道具でも、部外者には「それ、何に使うの?」と言いたくなるものは多いのではないでしょうか。私の商売でもそんなものはたくさんありますから、他の商売の分野でもそんな面白い道具はいま現在の世界にたんとありそうです。
私に向かって「知らないんですか!」って……そうはおっしゃいますが、情報を持っている人がそこで止めずにちゃんと次に流してくれなきゃ届かないと思うんですが、その情報を握りしめているのは、あなたご自身でっせ。報告を聞いたのに忘れたのならそれは私の責任ですけどね。「自分が知っていることや思っていることは当然同時にお前も知っておくべきだ」って、私にテレパシーを要求ですか? それとも私は毎日「私に報告することない?」と“ご用聞き”をしなくちゃいけないのかな。で、それは何分おきにやればいいです?
【ただいま読書中】
1936年7月、スペインのフランコ将軍が陸軍の半分(と空軍海軍の一部)を率いてクーデターを起こします。独伊の後押しを受けた反乱軍(国民戦線)に対して国際義勇兵が参戦した共和派の人民戦線は劣勢で、39年3月国民戦線が全土を制圧、以後1975年までフランコ独裁体制が続くことになります。著者はこの内戦の「市民の戦争」という性格を強調して市民戦争と呼んでいます(“Civil War”(内戦)の“誤訳”ではありません)。反ファシズムの旗の下に世界中から結集した人々(それまでの「市民」からは外されていた、女性・奴隷や植民地の人間などの被差別階層を含む)を指し示す言葉は「市民」しかない、それが本書の出発点です。そして、国際的な広がりを持った「内戦」・「市民」の概念の確立・スペイン共和国軍の敗退(を“教訓”とした民族解放闘争の展開)・ゲルニカ爆撃に代表される無差別大量殺戮などは「現代」という時代の出発点として位置づけられます。
1931年にスペインの君主制は崩壊し、共和制の政府が樹立されます。それに抵抗する旧特権階級は軍部に働きかけ、フランコが蜂起します。フランコは主力のモロッコ兵をアフリカから輸送するために独伊から全面的な協力を得ますが、共和派が援助を求めた英仏は不干渉政策を採ります。(ドイツを反共の防波堤と思っていたからでしょうか) 市民戦線にはソ連の肩入れがありますが、内部は決して政治的に一枚岩ではありませんでした。資本主義は英米と日独伊に分かれ、社会主義は民主主義的社会主義と国家主義的社会主義に分かれ、それぞれの党派がそれぞれの思惑で動いていたわけです。
1936年は日本では2・26事件が起き日独防共協定が締結された年です。中国ではスペイン内戦を当然我が身に引きつけて対ファシズムとして考えます。国際旅団に参加した中国人はヨーロッパ留学生を中心として四十人〜百人程度らしいのですが、正確な数は不明です。他のアジアの国からも参加者がいたり、あるいはその影響を受けた運動が起きているようですが、なぜか歴史研究ではこのあたりがこっぽり抜けていて、資料も論文もほとんど無い有様だそうです。インドのネルーも当時わざわざスペインを訪れていますし、アジアがまったくスペインに無関心だったわけでもなさそうですが……
スペイン市民戦争に参加した日本人で唯一名前が残されているのが、国際旅団リンカーン大隊に所属していたジャック白井です。(フランコ側にも外人部隊があって、そちらの名簿にも日本人らしき名前があるのですが、日本人かどうか確認できていません)
「内戦」と外国人義勇兵と言えば、私がまず思い出すのはアルカイダです(アフガニスタンで対ソ連のために結集した義勇兵がそのベース)。なんだか不愉快で微妙な気分です。20世紀は、次の世紀に嫌な影響を残してくれたものだと思います。結局“諸悪の根源”は、他の国にちょっかいを出したがる国(の政治と軍隊)なんでしょうけれど。そうそう、朝鮮戦争でも中国義勇兵がいたけれど、これはそもそも「内戦」ではありませんね。
本書の着眼点は非常に面白いのですが、なにせデータ不足で内容がもの足りません。もうちょっと資料を集めてから書いた方が良かったのではないかしら。
過去:失敗をした
現在:反省と謝罪をする/しない
未来:同じ失敗をする/しない
どれとどれの組み合わせが最善で、どれとどれが最悪かな? 私が思うのは、最悪=「失敗/反省と謝罪をする/同じ失敗をする」、最善は反省と謝罪の有無に無関係に同じ失敗を繰り返さないこと。
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平成3年7月、東京佐川事件が発覚します。佐川グループ全体の不良債権は6000億円。有利子負債総額は9336億円。大阪佐川社長の栗和田は佐川グループを統合する新会社社長就任を請われ、火中の栗を拾う決心をします(後に、新規融資に1000億円の個人保証も求められます……こんな嬉しくない「社長」に、普通はなりたくないですよね)。
栗和田は、再建のための期限を3年と限り、銀行への債権放棄を求めず、会社更生法の適用も受けない(自力で再建する)という方針を立てます。年商6000億円、営業利益率17%が栗和田の判断の根拠です。同じ数字を根拠として、銀行サイドも、経営の一本化と11年で債務を処理することを求めます。ただし、経営の体力を削がないために、車両などの設備投資と減価償却は認めます。金の卵を産む限り鶏は殺さない、ということでしょう。
佐川急便ではドライバーが営業マンを兼ねています(だから「セールスドライバー」)。そして、ノルマはないけれど目標はあるそうで……でも「目標を達成できなければ営業所に帰ってくるな」って、それはノルマとどこが違うんでしょう?
栗和田は、体制の変革を行いますが、社内で大きな抵抗にあいます。しかし栗和田は「使える人財(人材にあらず)」の発掘と登用に努めます。
平成5年、日本新党の細川護煕が「責任ある変革」を掲げて首相に就任します。
4年と少しで、有利子負債総額は6000億円にまで減らせます。年商1年分にまで圧縮できたわけです。そこで栗和田は店長研修を開始します。現場の人財育成です。
平成9年、栗和田は「一転して攻勢をかける」と宣言します。不良債権を処理した後の、21世紀を見据えての将来構想です。前年度に初めて営業利益が1000億円を超えたのを受けてそれを設備投資に回そうというのです。さらに「遵法精神」の徹底も打ち出されます。セールスドライバーが残業をしまくって稼ぐ、を変えようというのです。システムの改善・クール便などの新商品の開発、栗和田は社員を叱咤激励しつつ佐川急便を変えていきます。
社長就任8年目、社長解任動議が取締役会に提出されます。創業家佐川家の番頭格の副社長たちが改革に抵抗をしたのです。栗和田派と反栗和田派の勢力は僅差。栗和田はややこしい手続きの末、一時解任されますが結局副社長たちを追放しまた社長に返り咲きます。栗和田は無能な支店長も目の敵にし、全社的な改革を進めようとします。そして10年目、ついに不良債権は佐川独力で全額処理されました。しかし次の第二次アクションプランが始まっています。栗和田は経営戦略会議で全国の取締役支社長に具体的なプランを指示し、それをビデオに撮って全社員に見せます。面従腹背は許さない、というわけです。そして平成14年、栗和田は社長を退任します。55歳でした。
企業の不祥事は次から次へと本当にきりがありません。でも、ちゃんと膿を出して再発防止を誓って再出発したのなら、それはめでたいことです。トカゲの尻尾切りで何人かが“責任”を取らされ、なんとなく再出発したのなら、それはまた同じことが起きるでしょう。“ばれないこと”に全力を注いでいるか、それとも本当に生まれかわっているのか、それを検証するのは誰の役目なんでしょうね。
そうそう、東京佐川事件の政治的にダーティーな部分について、本書では省略されます(まるでバブル崩壊が悪いみたいな書き方をされていますが……)。スポットライトが当てられるのは、会社再建の部分。著者は政治には興味がないのか、それとも触れたくない事情があるのか、そちらにも興味があります。
私は下手の横好きで一時クラシックギターを弾いていました。今は爪がぼろぼろなのを口実にほとんど触っていませんけれど。そのころ主に弾いていたのがルネサンス時代の楽曲です。現在楽譜が残っているのは主に舞曲(と少しの歌曲)ですが、短調と長調の区別も曖昧で素朴ででもどこか懐かしいものが多いのです。曲の完成度とか演奏技術の点ではルネサンスの次のバロック以降の方がはるかに進んでいるのですが、あの雰囲気が私は好きです。
面白いのは、当時は「音楽のアマチュア」の方が「プロの楽士」よりも「上」だったことです。中世の大学で必要だった自由七科に音楽がありますが、これは音楽理論だけで演奏はありませんでした。そして実際に演奏するプロは要するに大道芸人や旅回りの楽士、つまりは賤民です。対してアマは貴族や皇族。社会的に明らかに「音楽のアマ」が「プロ」より上位なのです。今の音楽状況からはちょっと想像しにくいことですね。いや、それとも「音楽のプロ」の真の社会的位置は今でも社会の底辺なのかな? 特権があるとかすごく恵まれているとかすごく尊敬されています?
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笛は石器時代から存在していますが、縦笛の方が横笛より歴史が古いそうです。
18世紀までのヨーロッパで「フルート」と言われたのは「木製の縦笛」でした。木製の横笛は「フラウト・トラヴェルソ(横のフルート)」「フルート・アルマンド(ドイツのフルート)」と呼ばれました。15世紀に一時横笛の人気はなくなりますが(絵で見る限り)スイス傭兵隊では「ファイフ」と呼ばれる横笛が(太鼓とセットで)健在でした。信号伝達と士気の鼓舞が目的です。ちなみに、王の軍隊ではファイフではなくてトランペットが同じ目的で用いられました。16世紀に横笛の人気が高まり、野戦軍のファイフと室内楽のフルートが分化します。
ルネサンスフルートは木管で歌口と6つの指穴だけです。音は1オクターブしか出せず(半音は指使い(フォーク・フィンガリング)で対応していましたが、不安定で焦点のぼけた音だそうです。それが独特の魅力ではあったのですが)、リチャード・ハッカ(1645-1705)は、ルネサンスフルートでは出せないDisの音を出すために7番目の穴を開けそこに小指が届くようにキーをつけます。さらに内腔を円筒形から円錐形にして音程を正確にし音色を安定させます。バロック時代には、象牙や黒檀製のフルートが登場します。軽めの木で作られたルネサンスフルートに比べて艶と深みを帯びた豊かな音色が特徴です。
18世紀の調性論では、たとえば「ハ長調は粗雑で生意気。ニ長調はやや鋭く頑固に騒がしく喜びに満ちて好戦的で人を奮起させる。イ長調は絶望」といった感じですべての調に異なったキャラクターが与えられていました(現在の平均律とは全然違いますね)。したがって、変ト長調をほとんど吹けないバロックフルートにそれを無理矢理吹かせる曲を作曲家は書かないしフルートの方もそのためにわざわざ改造をしたりはしなかったのです。楽器の適材適所です。ところが「クラシック」の時代となり、作曲家からのフルートへの要求が少しずつ厳しくなります。それは当然、製作者と演奏者に影響を与えます。
1806年にクリスタルガラス製のフルートが登場します。重くて音質は野太いそうですが、見た目がきれいで変形せず、楽器本体に支柱を立てて弁を開閉するという画期的な構造を持っていました。そして、産業革命の進展に寄り添うようにして、1847年、銀製のフルートが発表されます。
現代では「同じ音」であるたとえば「ミのフラット」と「レのシャープ」も昔は「違う音」だったこと(となると、当時の楽譜をそのまま平均律で演奏するのは、どうなんでしょう)とか、タンギングの異様に細かい話とか、フルートの構えが右か左かは本来決まっていなかったとか、興味深い話がてんこ盛りです。著者がバス・フルートを吹いている(しがみついている?)写真だけでも楽しめます。私のような音楽の門外漢でも読んで十分“元が取れる”本です。
頭ごなしは腹が立ちます。
腹ごなしは頭にはきません。
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『
農場の少年』ローラ・インガルス・ワイルダー 著、 ガース・ウィリアムズ 画、恩地三保子 訳、 福音館書店、1973年(88年25刷)、
インガルス一家の物語と同様「今から100年ばかり前」のお話です。
ニューヨーク州の農場主の次男アルマンゾ・ワイルダーは九歳の少年です。豊かな農場らしく、常に腹一杯食事ができ(アルマンゾはいくら食べてもすぐにお腹がぺこぺこになってしまうのです)、“ニューヨーク州で一番”と自負する立派な馬を生産し、一家の銀行口座は毎年膨らみ続けています。
アルマンゾが好きなのは、食べること・遊ぶこと・農場の仕事をすること。やりたいのは子馬の調教(でも父親は9歳の子には子牛の調教しかさせてくれないのです)。苦手なのは、毎週土曜日の入浴・安息日(教会での退屈なお説教と、一日何もしてはいけないのが苦痛です)・学校での勉強。しかし、本書に描かれるのは「のどかな田園生活」ではありません。
子どもも貴重な戦力で激しい労働をこなします。農作業と家の作業ほとんどに“お手伝い”ではなくて体力に応じた“労働者”として参加します。晴耕雨読ならぬ晴耕雨釣りという楽しいイベントもあります。アルマンゾは学校はきらいですが先生は好きです。ところが教師を襲うのが趣味の悪童がいます。昨シーズンの先生はそのときの怪我が元で亡くなっています。なんとも荒っぽい時代です。学校で最年少のアルマンゾはなにができ、先生はどのようにして自分の身を守るのでしょうか。そして、ほとんど自給自足の生活は、一歩間違えたら飢餓に転落する恐れと常に背中合わせです。インガルス一家も様々な悪天候に悩まされましたが、こちらでは冬は零下40度になり、なんと独立記念日(7月4日)に晩霜(おそしも)が襲ってきます。トウモロコシが全滅の危機を迎えます。この異常に寒い年は『トムは真夜中の庭で』でテムズ川が氷結した年のことなのでしょうか。
私が心を動かされたのは、アルマンゾの成長とそれを見まもる親の態度です。独立記念日のお祭りで町の従兄弟が5セントのお小遣いをもらってレモネードを買っているのをうらやましく思ったアルマンゾが勇気をふるって父親にねだると、父親は5セントではなくて50セントを渡します。この50セントがどのような意味を持っているのかを教えながら。春にジャガイモの種芋をいくつにも切って植え、畑の世話を念入りにし、地面が凍る前に大急ぎで収穫をして冬に地下の貯蔵庫で粒より(小さい粒や腐ったものを棄てる作業)をし春に売ります。アルマンゾはそのすべての作業にかかわっています。それだけの手間を掛けたジャガイモ半ブッシュル(17リットルくらい)が50セントになるのです。父さんは言います。「これはおまえのものだ。もしほしければ、生まれたての豚の子が買える。レモネードを10杯飲むこともできる。おまえの金だ。好きなように使っていいよ」
アルマンゾは掌の銀貨を見つめます。あれだけの労働の見返りとしてはずいぶんちっぽけな、でもずいぶん重たい銀貨を。
このような“生きた教育”を子どもに受けさせるには、親にも相当の覚悟が必要でしょう。残念ながら私にはとてもできそうもありません。アルマンゾは、農場でのほとんどの作業と商品がいくらで売れるかをちゃんと知っているからこそ、その貨幣の“価値”がわかるのです。
それと、こういった自給自足の生活が、アメリカの価値観の根底にあるのかな、とも思います。独立した人間(開拓者)の自活のための勤労こそが最高の価値、というわけです。そしてそのスタイルは、家族を単位として厳しい自然と真っ向から闘い自己責任で生きていくものです。日本の農民も自給自足だったはずですが、地域共同体が大きな意味を持っていたのに対して、アメリカの農民は、もちろん隣人と親しくつき合い協力もしますが、労働に関してはどこか商取引のようなにおいがします。一家がそのまま私企業のような感じです。日本は、ムラが企業で村人はそこの従業員、といった感じかな。文化の違いといえばそれまでなのですが。
そうそう、アルマンゾが夏に自家製アイスクリームを食べているのはショックでした。19世紀ですよ。どうやって作ったかは、本書をどうぞ。
「やめないのなら、いびるぞ」と職場でせっせといじめをやって相手が音を上げて「もうやめます」と言い出すのを待っている人、どうして交渉できないんだろう? たとえば「やめてくれ。ついては退職金の割り増しをするが、他になにか条件や希望はないか?」とか。やめるやめないは人事だからビジネスですが、いじめるいじめないは、単に“それ”をする人間の人格の問題のような気がします。やってる方は「退職は自己都合の方が再就職に響かないだろう」とか思っているのでしょうが、それってただのお為ごかしでは? 目的は何だろう。退職金をけちるため? それとも単にいじめが好きなだけなのかな。
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『
ロースクール臨床教育の100年史』 マーガレット・マーティン・バリー/ジョン・C・デュビン/ピーター・A・ジョイ 著、 日本弁護士連合会司法改革調査室/日本弁護士連合会法曹養成対策室 編、道あゆみ/大阪恵理 訳、現代人文社、2005年、2500円(税別)
本書は二つの言葉から始められます。
「変化とは、未来がわれわれの生活の中にはいりこんでくる過程のことである」(アルビン・トフラー)
「過去を忘れる者はそれを繰り返す運命にある」(ジョージ・サンタヤナ)
ロースクールに「臨床」とは不思議な印象のことばですが、「clinical legal education」の直訳です。ロースクールで法律を学ぶ学生が、学校の中あるいは外で実際のケースを扱うことによって「現実の社会(あるいは社会の現実)」を知ることです。(そういえば何年前だったか、司法修習生(もちろん日本の)があまりに社会のことを知らないのに驚いたことがありましたっけ。いや、私も自分のことを世間知らずだと自認していますが、それ以上だったものですから)
かつて法律家は徒弟制度によって養成されました。アメリカでは19世紀末にケースブック・メソッドが始まり、それによって近代的な教育が始められます。1921年のリード・レポートによって法曹教育には、一般教養・理論的法知識・実務技能訓練の三つが必須とされました。20世紀半ばにロースクールでの臨床教育を推進するためにフォード財団が20年間で1200万ドル以上を財務支援します。その後の教育省がそれを引き継ぎ20年間で8700万ドルを支出しました。
アメリカでは、学生がたとえば実際の夫婦間暴力のケースを扱うことによって、社会の矛盾や制度の無力さを実感し、それによって職業的倫理観・正義感・社会に対する問題意識が成熟していくことが認められています。しかし日本では、幾つもの壁があります。まず教員。専任の教師は実務を知りません。実務家は教育をしません。そして法律の壁があります。民事ならともかく、刑事事件に学生(つまりは「資格」のない一般人)が立ち会うことは日本では許されないのです。司法試験に合格した後の司法修習生ならOKでしょうが、その“前”に知識や理論を実際に応用することを学んでおかなければならない、が「臨床教育」の意味です。さらに専門家から見て日本の司法修習制度は「裁判官養成には向いている」(と言うことは、その他の法曹家には向いていない)ものだそうです。
法律の目的はなんでしたっけ? 「法律を守らせること」でしょうか。それとも「社会正義の実現」でしょうか。そしてその目的を果たすために必要なのは「法律条文や判例をすべて覚えていること」でしょうか。それともその知識を現実に適用することができる意識と能力でしょうか。
法曹界の人間は現状を肯定し維持しようとする傾向が特に強い、と著者は述べます。それはそうでしょう。彼らの価値観の背骨は「法律を守ること」なのですから。しかしそこで巻頭の言葉が想起されます。変化を嫌うことはつまりは未来を遠ざけようとすることではないでしょうか。そして日本の社会正義の現状は、「今を守る」だけで充分なレベルでしょうか?
私が好きな言葉は「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」(論語)。単に和すればいい・同ずればいい、というものではありませんが、和することも同ずることもできない場合は、独り言を言うのには問題ありませんが、他人ときちんとコミュニケーションをする場合にはまずどこかで訓練してくる必要があるでしょうね。
【ただいま読書中】
『文藝春秋 四月特別号』文藝春秋、2007年、730円(税込み)
普段は買わない雑誌ですが、新幹線の中で読むにはちょうど良いと思って持ち込みました。正解でした。読み応えがあるし、でもすっすと読めるし、良い雑誌です。
本書の目玉は「小倉侍従日記」です。抜粋で70ページくらいに圧縮されていますが、ノモンハンあたりから終戦までの昭和天皇の“肉声”が記録された侍従の日記です。
昭和14年5月3日から始まっていますが、「小倉、侍従職皇后宮職庶務課長を拝命す。今日以降、小倉之を記録す。」とありますし、宮内省の用箋に書かれていることから、公的な記録としての日記ではないかと私は思います。(現代でも、各職場での当直の人は当直日誌を記録として残しますね。それと同じようなものではないでしょうか) しかし、冷たい公的な記録ではありません。秩父宮(三国同盟推進派)が面会を申し入れてきたのに対する昭和天皇の「困つたな困つたな」という呟きもしっかり記録されています。あるいは皇后との「コンフリクト」や、皇族との衝突や、皇太子の教育を巡ってのどたばたも。
一読、昭和天皇が“独裁者”ではなかったことがよくわかります。むしろ、自分を押さえなるべく全体の「和」を大事にしようとしている姿勢がよく見えます。(そういえば昭和天皇が受けた帝王教育では、たとえば食事などで出されたものを「不味い」と言ってはならない(出した者が責任を問われるから)、というのがあったと聞いたことがあります。「綸言汗の如し」が徹底していたのでしょう) しかしその姿勢は、「自分の言うことを聞かない者」を強く押さえることを不可能にします。内心では戦争拡大を望まないのに「みながこの方針で一致しております」と言われたらそれを却下できません。逆に、“錦の御旗”を利用しようとする者は、「これが上意である」と嘘でも良いから我意を回りに押しつけて“世論”を形成できたら、それで勝負が決まるわけです。そしていざ戦争が始まったら“最高責任者”として戦争を推進するしかないのです(立場上否定するわけにはいかない)。「やっちゃえやっちゃえ、なんとかなるさ」で始めておいて、上手くいかないとさっさと逃げようとした人もいたみたいですけれど。
しかし、昭和17年の年末、侍従たちと戦局について話をしていて「自分の花は(皇太子時代の)欧州訪問の時だつたと思ふ」とは……なんだかとっても悲しい人生に見えます。あ、人ではなくて現人神だから「人生」は不味いのかな。ともかく、天皇がにこにこと穏やかに微笑んでいられる国であってほしい。これからずっとね。
あと「これが捏造TV番組の現場だ」(全日本番組製作社連盟)や「負け犬労組解体論」(伊藤敦夫)など、現在の政治や経済について久しぶりにいろいろな記事を楽しめました。これで730円なら安いなあ。
かつて「ハッカー」は「コンピュータに非常に詳しい人」に対する尊称でした。しかし、そういったハッカーの中で、システムや他人のコンピュータに対して悪戯や犯罪を行う人間が出てくるようになると「ハッカー」という言葉は尊称から「コンピュータ犯罪者の別名」に転落してしまいました。本来のハッカーたちはそれに抵抗して「悪い奴はクラッカーだ」と主張しているようです。私も「ハッカー」は良い意味と刷り込まれているものですから「ハッカー」と「クラッカー」を区別しますが、「(コンピュータやシステムを)ハックする」は悪い意味だと感じます。保護されているべき情報にも、防御を平気で破って触ることができる人には、やはり抵抗を感じているのでしょう。
【ただいま読書中】
ケヴィン・ミトニックは“伝説のハッカー”でした。新聞報道では「ミトニックは17歳でパシフィック・ベル社のコンピュータに不正侵入して電話料金を書き換えた」「北米防空司令部(NORAD)のコンピュータに侵入した」などと報じられ、DEC社のシステムに侵入して損害を与えた疑いで逮捕されます。電話が通じなくなったりファイルが消えたり巧妙な欺瞞情報が流れると、それはミトニックの仕業とされます。ミトニックは悪ふざけが好きで金目当てで動こうとはしない、だからこそ危険、とみなされ、出所した後も厳しい監視がつけられます。職に就こうと面接に行くとそれを追っかけて保護観察官から店に連絡が行きます。「前科者だから店のセキュリティには気をつけるように」 ……当然ミトニックはまともな職に就けません。当然違法行為をまたする、と当局は彼を危険視します。そして、おとり捜査が行われました。ハッカーにうまい話を持ちかけさせて、それで“悪いこと”をしようとしたところを逮捕しよう、というわけです。
ところがミトニック(と仲間)は、その動きを察知し、自分たちが盗聴されていることを確認するとこんどは逆にFBIの盗聴を行います。(盗聴と言えば、アメリカの捜査機関が盗聴する場合には裁判所の許可が必要、と思っていましたが“抜け道ソフト”がある上に、電話会社が“盗聴”するのはほぼ自由(連邦法で保証されている)、という“事実”です。良いのか?) そしてついにFBIが本気で動き始めたのを知ると、姿を消します。
著者は、ミトニックたちの取材を始め、彼らと電話で時々話すようになってから、自分の電子メールがハックされていることに気づきます。管理会社に言っても「そんなことは不可能です」と断言されるだけです。著者はミトニック(おそらく著者のメールをハックしている張本人)に直接聞きます。返事は「不可能? 本当にきちんと守られているのは、軍事コンピュータくらいだろ」でした。この電話連絡も、セキュリティに注意を払ったものです。固定電話でも携帯電話でも、無防備に相手にかけたらすぐに位置を特定されてしまいます。ですからあらかじめ決めておいた公衆電話を使うのです。まるでスパイ同士の連絡のようです。ただ、人気の少ない場所で深夜の公衆電話に2時間もかじりついている著者の姿は、露骨にアヤシイのですが。
携帯電話のクローニング(他の電話で同じ電話番号を使えるようにして、電話料金を正規のユーザーに回す)を追跡していた電話会社は「2万5千ドル以下の犯罪では動かない」という警察の尻を叩いてついにブライアン・メリルと名乗る犯人のアジトを見つけます。ブライアンは間一髪逮捕を逃れますが、実は彼がミトニックでした。シアトル警察は大魚を逸したのです。
そして、有名なNSAの“探偵”下村努が登場します。
コンピュータ犯罪もので私が最初に読んで感銘を受けたのは『
カッコウはコンピュータに卵を産む』(クリフォード・ストール、草思社)です。わずか75セント分のシステム不正使用に気づいた天文学者(コンピュータ担当)がそれを追跡していくうちに国境を越えてとんでもない世界に迷い込んでいく過程が大変印象的でした。この本の出版は1991年ですからインターネットはまだまだ一般人のものではなかった時代です。そういえば、初期のハッカーが玩具の笛を吹いて電話料金を無料にする話が載っていたのは、アップル社の創始者たちの本(タイトルは失念)だったと記憶しています。電話にしてもコンピュータにしても、ネットと犯罪は切っても切れない関係なのかな。
来月から職場を変わることになってばたばた/家内が子ども会の副代表をみごとに引いてきて「WORDは使えないのか」「電子メールは」と問い合わせ電話が急増/家庭内でも他のこと(詳細は内緒)でばたばた……とどこもかしこもばたばたしていたら、「好ましい日本語」コミュニティの管理人をやることになりました。18,000人以上のでっかいコミュニティです。いやあ、ここまで“イベント”が集中しますか?
「管理人」と言えば、落語によく登場する江戸の長屋の大家さん(基本的に雇われ管理人)や『めぞん一刻』の音無響子さんをとりあえず思い出しますが、掲示板の管理はそんなにのほほんとはできないんでしょうね。自由に書きたいことを書き散らかしているだけの方が本当は気が楽なんですけどねえ。
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ミトニックを追跡していた下村努のコンピュータがハックされます。何重にも防御されていたはずの下村の電子メールが何者かに盗み読みされたのです。巧妙なやり口をミトニックは著者にわかりやすく解説します(手口をTCP/IPパケット詐称と彼は呼びます。あくまで「自分がやったことではない」というエクスキューズ付きですけれど)。しかし不思議です。下村はあまりに基礎的な防御をしていなかったのです。もしかしたらこれは防御を破ろうとするところを押さえて犯人の居場所をつかもうとする罠だったのかもしれません。あるいは本当にケアレスミスか。“真実”は、著者にも読者にもなかなか見えません。
マスコミは不公正な態度を取ります。起訴もされておらず司法当局によって正式な犯罪容疑をかけられてもいないミトニックを「あれもやったこれもやった犯罪者」と決めつけて報道していたのです。しかし、ではミトニックが“潔白”かと言えば、それもアヤシイのです。金庫の鍵を一瞬で解除してしまう人を「泥棒する気だ。いや、もう何か盗んだかもしれない」と非難する人と、「鍵を開けただけで何も損害は与えていない」と抗弁する人の対決、と例えたらいいでしょうか。
WELLというプロバイダでハッキングが見つかります(ついでですが、著者が電子メールに使っていて、(おそらく)ミトニックにそれを読まれていたのもWELLです)。あるべきではない場所に異常に大きなファイルが見つかり、その中に下村努の電子メールも含まれていることがわかります。侵入の跡がたどられます。電子的な臭跡の先には、ミトニックがいました。彼は逮捕され、「数十億ドル相当もの企業秘密にアクセスしていた大泥棒」と喧伝されます。“それ”が真実かの検証もされず、推定無罪の原則も忘れられて。逮捕した下村(とその記事を書いたマーコフ)は一躍“ヒーロー”とあんります。しかし、下村たちがミトニックを逮捕するときに使った携帯電話の監視装置は違法な(他の携帯電話のプライバシーを侵害するおそれがある)ものである疑いが浮上します。
ミトニックが求めたものは「金」ではなくて「情報」でした。秘匿された情報、それにアクセスし「俺はこれを簡単に操作できるんだぞ」と誇ること、それが彼の喜びだったようです。そのためにミトニックは、コンピュータ技術だけではなくて「ソーシャル・エンジニアリング」(特定の人物になりすまして、電話先の人間から情報を聞き出す技術)を駆使します。雰囲気と散りばめられたキーワードの群れで、人は驚くほど簡単に相手をたとえば自分の同僚の仲間、と信じるのです。
しかしミトニックにも弱点があります。自分の気持ちをはっきりと相手に主張できないのです。自分の妻と浮気をしている親友を怒鳴りつけることさえできません。そして逃亡者時代のミトニックの信条は「人を信じるべからず」。彼が得意なソーシャル・エンジニアリングでは「相手に信じてもらうこと」が必須なのに。
ニューヨークタイムズの一面トップでミトニックをでかでかと取り上げていたジョン・マーコフは、逮捕の第一報も(まるで予定稿のような)すばらしい記事で報じます。まるで逮捕の現場にいたかのように……というか、実際にいたのではないか、という疑惑があります。つぎに彼はミトニック追跡の本(『テイクダウン』)を出版すること(とその映画化権)で莫大な金を得ることになります。彼は「正義の味方」だったのでしょうか。それとも記者としての倫理に目をつぶって自分の本のために一人のハッカーを意識的に犠牲にした人間なのでしょうか。著者は簡単な結論は出しません。私は本を閉じて考え込みます。
日本で初めて気象観測所ができたのは明治8年内務省のもとにおかれた東京気象台です。県立で古いのは明治16年の広島県立広島測候所。毎日3回記録を東京気象台に送っていたそうです、郵便で。戦争体制をとるために昭和13〜14年に各自治体の気象台は国に移管され昭和18年には文部省から運輸通信省に所轄が変更されました。軍も独自の気象観測を行い、陸軍気象部は航空機による観測も行っていました。海軍の組織は水路部と呼ばれていたそうです。中央気象台は昭和31年に気象庁となります。ちなみに所轄は、運輸省→国土交通省です。(出典『黄砂 その謎を追う』岩坂泰信)
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「気象」(地球環境)という視点から黄砂を見た本です。
黄砂が発生するのは、タクラマカン砂漠(タリム盆地の底)、その北側の天山山脈を越えたあたりに広がるコルパンテユンギド砂漠やバダイジャラン砂漠、黄河大地、ゴビ砂漠(モンゴル高原)が有名だそうです。発生地では強風によって砂塵や土砂が巻き上げられて砂塵の雲となります。移動する内に大きなものは下に落ち、軽いものだけが日本にやってくるのです。したがって発生地付近では、畑が駄目になったり家畜が死ぬのはよくあることだそうです。
1979年、人工衛星ひまわりで黄砂が高度数キロメートルの自由大気圏(自由対流圏)を雲のように移動して太平洋の真ん中まで(ときにはアメリカ本土まで)流れていく様子が捉えられました。同年、ライダーと呼ばれるレーザー光を使ったレーダーのような装置で数キロメートル上空での黄砂の動きが観測できるようになりました。これによって黄砂には高度によって濃度に大きな差があることがわかりました。(サハラ砂漠の砂塵は貿易風(低い高度)で移動しますが、タクラマカン砂漠の砂塵はもっと高い高度を移動)
北太平洋で海面上の大気を分析していたアメリカの海洋学者は、ナトリウム(海のしぶき由来)濃度は年中変化しないのに、アルミニウム濃度は春に高いことに注目しました。アルミは鉱物に多く含まれています。つまり、黄砂の影響です。黄砂がプランクトンの餌(ミネラルや栄養塩の供給源)となり、排泄物として黄砂が海底に層となって沈殿していることもわかりました。そしてそのプランクトンを食べた魚を私たちが食べているのです。
飛行機を使って黄砂を直接捕獲する研究も行われました。日本上空を浮遊している黄砂は数ミクロンの大きさです。見るのに電子顕微鏡が必要です。そしてその表面に硫黄化合物が付着していることもわかりました。二酸化硫黄がミスト化(エアロゾル化)したものは地球を寒冷化する作用があります(太陽光線を反射するから)。では黄砂は地球温暖化にどのような働きをどのくらいしているのでしょうか? 黄砂が多い地域では酸性雨は減少する傾向があります。では黄砂は環境に“良い”のでしょうか、それとも“悪い”?
2000年春、著者らのグループは敦煌で気球を上げて直接黄砂を採取します。それによって、敦煌上空の黄砂は硫黄で汚れていないが日本上空では汚れていることがわかりました。では、どこでどのようなメカニズムで? 石炭を燃やして生じる亜硫酸ガスが疑われますが、詳細はまだ不明です。
私に特に面白く感じられたのは「知る過程」を解説した部分です。ライダーや電子顕微鏡で「自分が何を見ているのか」を解明していく手順が科学の素人にもある程度わかりやすく書いてあります。何しろ「世界で初めて」の世界ですから、画面に見えるものが何であるかを教えてくれる人も教科書もないのです。ではどうやって“スタンダード”を確立し、それが“正しい”ことを確認するのか。この部分があるおかげで「科学の入門書」としても本書は使えます。
しかし「環境」はややこしいものです。たとえば砂漠化を抑えようと闇雲に植林をするのは考えものです。砂漠の地下水の量は限られています。限られた地下水を一部で大量に吸い上げると、そこより下流では水が欠乏し塩分が地表に析出してそれまで草地だったところでも完全な荒れ地(砂漠)になってしまうことがあるのです。「環境」を扱うには「一点集中」型の思考やアプローチ方法は向かない、ということなのでしょう。もしかしたら宇宙まで含めた“グローバル”な視点が必要そうです。
昔の西部劇映画(「
ソルジャー・ブルー」だったかな)で、馬車の乗降をするご婦人のくるぶしがロングスカートの裾からちらりとのぞくとそれを見た荒くれどもが興奮する、というシーンがありました。普段しっかりガードされているから、たまに見えると希少価値があるわけでしょう。普段あっけらかんと見えていたら荒くれどももあそこまで興奮はしなかったはずですが……あ、現代も状況は同じかも。
たとえばミニスカート。スカートが短くなればなるほど出ている部分は多くなるわけですが、ロングスカートで「くるぶしが見えた、ふくらはぎが、膝が」と言っていたのと同じことをミニスカートはいている女性を見て男は言わないわけです。(それとも言うのかな?) むしろ男のスケベ心は(段々面積が小さくなっていく)「隠された部分」に向かっていってせっかく露出されている部分にはそれほど注目しない……それともしているのかな?
その点でチャイナドレスは“巧妙”ですね。ロングだけどスリットからちらりと脚をのぞかせる。あれはミニスカートより色気を感じます。もっともあのドレス、もともとは騎馬民族の衣装だった(チャイナドレスを中国に持ち込んだ清朝は、騎馬民族による少数支配でした。古い画に見る漢民族の服はむしろ和服に近いし、チャイナドレスタイプは、たとえばアメリカン・ネイティブの民族衣装にも似たものが見えます)ことを思い出すと、衣裳の“誤用”とも思えるのですが……
【ただいま読書中】
『
シルバー湖のほとりで』(大草原の小さな家シリーズ4) ローラ・インガルス・ワイルダー 著、 足沢良子 訳、むかいながまさ 画、草炎社、2006年、1800円(税別)
暗い出だしです。シリーズ第3作でイナゴに襲われた後一家には収穫はあまりありません。借金はやっと返しましたがこんどは猩紅熱が一家を襲い、長女のメアリーは失明します。そして第1作からずっと一家に寄り添っていた愛犬ジャックは年老い身動きも難しくなっています。
父さんに鉄道工事で働く話が舞い込みます。一ヶ月に50ドル! そして西部に行けば農場も手にはいるのです。父さんは乗り気ですが夫婦の意見は割れます。そして、ジャックの死。13歳のローラは自分がもう子どもではなくなったことに気づきます。ジャックを失った悲しみを受け入れ、「メアリーの目」となり、幼い二人の面倒を見、母さんを助けて先行する父さんの後を追わなければならないのです。それも“馬よりも速く走る(そして時々事故を起こす)”鉄道に乗って。
父さんは工事現場で売店と給料支払いの係をやっていました。荒くれどもが集まって現場はすさんだ雰囲気で、母さんは怯えています。しかし工事は終わり冬がやってきます。一家は測量技師のための家で冬を越すことになります。そして本シリーズ恒例のクリスマスイブ。冬が終わると人がどっと押し寄せ、みるみる町ができます。渡り鳥はもうシルバー湖に降りようとはしません。父さんの好きな狩りはまたやりづらくなっていきます。
集まってくる人に追われるようにインガルス一家は町から農地に移ります。そのときローラはアルマンゾ・ワイルダーとすれ違います。もっともローラが惹かれたのは、アルマンゾの馬車を引く美しい馬の方にだったのですが。さらにローラには「教師になる」という将来が提示されています。思春期を迎えたローラの未来の人生が少しずつ具体的になっていくのです。そして「メアリーの目」として周囲の状況を言葉にするときの言語センスの素晴らしさによって、ローラの未来の側面がもう一つ暗示されます。
バッファローがほとんど絶滅し狼もいなくなってしまった“空っぽの大草原”の描写が印象的です。自分たちの世界が進歩することと輝かしい未来を信じつつ、自由に狩りができる環境がどんどんなくなっていくのを嘆く父さんのことばには、様々なものが読み取れる気がします(それはおそらく、読者が何を読み取りたいかによって決定されるのでしょうけれど)。
人は見たいものを見る動物です。
たとえば火星の運河。人々は望遠鏡をのぞいて火星の表面に見える不思議な模様を運河に違いないと信じ、詳細なスケッチを残しました。そのとき確かに地球人の目には「運河」が見えていたのです。
あるいはホムンクルス。顕微鏡によって精子が発見されると、その中の子どもが小さく折りたたまれておさまっている、というホムンクルス説が一世を風靡しました。(その微小な子どもの精子の中に次の世代のさらに微小な子どもが……と入れ子細工になっている、というのです) この説では、精子が種で女性は畑、ということになります。卵細胞が発見されていないから仕方ないといえば仕方ないのですが、当時の人は鮭の受精行動なんか観察していなかったのかしら。
【ただいま読書中】
「植物の性」を中心に据えてはいますが、非常に広がりを持った話題を扱った本です。
著者は「大きなポケット」を持つことを主張します。現代は人が持つ「知のポケット」がどんどん小さくなって、「ポケットの数」を競う傾向が強くなっている、と著者は嘆きます。そんな“専門バカ”ではなくて、大きなポケットになんでも放り込んで総合化あるいは具体化できる知的能力が大切なのだ、と著者は言うのです。たしかに、まったく無関係に思える知識が、自分の脳内のネットワーク上で思いもよらない出会いをしたときに感じる快感は、「小さなポケット」では絶対味わえないものですからねえ。そういえば一昨日読書日記に書いた『黄砂』でも、アメリカの海洋学者が黄砂の研究に巻き込まれていましたっけ。これも意外な出会いの好例ですね。
植物の交配実験と大陸移動説にも意外な関係があります。ブラジル原産のジロー(ナス属)とインド原産のナスは人工交配すると種間雑種が得られます。つまり祖先が共通。でもナスは海を泳げませんから、昔ブラジルとインドは地続きだった時代がある、となるわけです。各大陸でのタバコ属の分布からも、南アメリカから各地にその祖先が伝播しそこで独自に種文化を遂げた様子がわかります。特にオーストラリアには、昔は温暖だった南極大陸を経由して伝わったそうなのです。
TV番組製作者に対する不信感も露骨に書かれています。もっとも、デメリットばかりではない、とフォローを入れるところが著者の人柄なのでしょうけれど。
日本人が国際貢献に関していかに下手くそか、も上げられています。これは別の方面でも実態を聞いたことがあるのですが、わざわざ金を使って日本の評判を悪くする人って、国賊?
植物のめしべは“乱交”を強いられる、というのも刺激的な表現です。著者は狙ってやってますね。虫媒花にしても風媒花にしても、どんな花粉がめしべにつくかの選択権をめしべは持ちません。自分のおしべの花粉だったら一番身近でめしべにくっつく可能性が高くなりますが、多くの植物では自家受粉の禁止メカニズム(近親相姦の禁止と同じ)が働きます。また、異種植物の花粉を拒絶するメカニズムもあります。では、ダイコンのめしべの柱頭にダイコンとキャベツの花粉を混ぜてつけたら……キャベツの花粉は拒絶されます。ではでは、ダイコンの自家花粉とキャベツの花粉を混ぜたら……なんと、ダイコンとキャベツの属間雑種が生じるのです。
「個体維持と種族維持の矛盾」についても面白い話が展開します。たとえばダイコンは、太らせるためには肥沃で温暖な条件が良くて、種を取るには厳しい環境が良いのだそうです。生物は、個体がのびのびと生きられるときには種族維持という個体が“損”をする作業をする気にならない、ということなのでしょう。すると現在の少子高齢化は、種族維持よりは個体維持に日本人が向かっている証拠なのかしら。
最後に登場するのは「あご・ほっぺ理論」です。「あごはどこか」「ほっぺはどこか」と言われて迷う人はあまりいません。しかし、「では、その境界は?」と問われたら言えますか? 著者はこの“理論”で「自然界は連続的(で多様性に富む)」と主張します。そして、“教育の場”で教えるべきは、単純に区分して対立的に世界を捉えることではない、と。「少数のエリートだけを育てることが“教育”の目的で、あとの大多数はおとなしく体制に従う存在だったらいいのだ」と考えている人には受けが悪い主張でしょうけれど。
歴史を勉強するためには、地理の知識もあった方が良いでしょう。地理に全く無知で世界史が理解できるとは思えません。いや、日本史も無理でしょう。たとえば陸奥と京の位置関係を理解せずに平安時代が“わかる”とは思えませんから。さらに、地学の知識もあった方が良いでしょう。地層の知識があれば古代の発掘の理解が深まります。気象の知識によって昔の人々の行動の原因がわかることがあります。世界はバラバラなものではなくて、どこかで必ずつながっているのです。
【ただいま読書中】
『
項羽を殺した男』藤水名子 著、 講談社、1999年、1800円(税別)
秦の始皇帝亡き後、天下を争ったのは項羽と劉邦でした。項羽は百戦百勝、対して劉邦は戦にはからきし弱く、しょっちゅう負けては逃げ回っていました。ところが最終的に天下を統一したのは劉邦でした。本書は、強かったのに負けてしまった項羽に対する著者からのラブレターのような短編集です。ただし、ラブは「愛」ではなくて「恋」ですね。少なくとも本書に登場する人たちは、項羽を愛しているというよりは恋しているようですから。
『項羽を殺した男』……劉邦の漢軍の包囲から(「四面楚歌」)項羽が脱出します。かつて項羽のために軍馬を養っていましたが、脱走し劉邦軍に身を投じた経歴を持っている呂馬童は、項羽を追跡します。項羽を討った者には千金の報償と万戸侯の地位が約束されていますが、呂馬童が欲しいのは怪物(英傑・軍神・鬼神)としての項羽からかけられた呪縛からの解放でした。
『虞花落英』……春花(虞美人)が項羽に見惚れているシーンからこの短編は始まります。始皇帝の後宮から項羽によって略奪(解放?)された彼女は、以後四年間ずっと項羽に寄り添ってきました。そして四面楚歌の状況になり……
虞美人草。和名ヒナゲシ。春の花。一名麗春花。花言葉は潔白、あるいは、清楚な愛。
『范増と樊かい(「かい」はUnicode:U+5672)』(はんぞうとはんかい)……「鴻門の会」(こうもんのかい)における人間模様を描いた短編です。項羽を巡る男たちの……三角あるいは四角関係の物語です。項羽の亜父と呼ばれる范増は和解を求めてきた劉邦を殺すべき、と主張します。従兄弟の項荘は、范増に指示をされて項羽のために劉邦を殺す決意をします。しかし、項羽の叔父である項伯は劉邦を守ることを主張します。皆、項羽のためと思って行動しているのです。そして項羽は、はじめは劉邦を殺す気でしたが、みごとにタイミングを外されていつしか「殺さなくてもまあいいか」という気になっています。しかし范増はどうしても殺す気です。それを察した劉邦側の張良は、忠実な武人樊かいを項羽の本陣に突入させます。
『九江王の謀反』……劉邦方の武将である英布の物語です。項羽が死んで6年後ですから一体どこに項羽が登場するのかと思っていましたら、意外な形で堂々と出てきました。せっかく項羽を滅ぼして漢を立てた劉邦ですが、その後がいけません。功臣を次々殺すのです。「しっかり働け。用がすんだら殺してやるから」はいけませんよね。で、それに対して英布がどう行動したか、ですが……私だったらどうしたかなあ。やっぱり反乱しかないのかしら。
『鬼神誕生』……項羽の少年時代の物語です。秦の始皇帝によって国を滅ぼされた項羽と叔父の項梁は流浪生活を送りました。秦の圧政は過酷なものです。「遅刻は死刑」なのですから。10歳の少年を、父がわりに育てようとしていた項梁は、いつのまにか主客逆転になっていることに気づきます。
……圧制者で独裁者の始皇帝を倒すためには、倒す側も同じ要素を持たなければならないのは、なんとも皮肉と言えば皮肉です。項羽も劉邦も冷酷な面を持っています。それがわかりやすいのは項羽でわかりにくいのは劉邦ですが、実は劉邦の方がずっと冷酷なのかな、とも思います。むっつり助平ならぬ、おだやか冷酷?