mixi日記07年7月
研修会場に歩いていけるという理由で、国際展示場真ん前のでかいホテルに二泊しました。
メールが、ダウンはできるのに発信ができないのは、たぶんメールソフトの設定をいじればよかったのでしょうが、まあ緊急事態にはG-MAILや携帯を使えばいいや、と思いましたし、禁煙部屋との指定を忘れたので部屋が喫煙部屋なのはしかたないけど、二日経ってもたばこ臭いのはやれやれですし、エレベーターホールの自動販売機は足かけ三日故障のまま放置。従業員も、フロントは感じよいのに、レストラでは過不足(席への案内は投げやりだけど皿の回収は食べている最中でも熱心にやってくる)が目立ちます。夜中に廊下を子連れがうろうろして奇声を発するし……もうここに泊まることはないでしょう。いや、そう思うホテルは日本のあちこちにあるのですが、名前をすぐに忘れるので備忘録です。
【ただいま読書中】
漢詩は古来日本人にも好まれ、訓読されたものが広く愛されました。「春眠暁を覚えず」とか「心頭を滅却すれば火もまた涼し」とか、漢詩の一部が独立して引用されることもしばしばです。著者は従来の訓読を七五調に翻訳する「戯訳」で漢詩に新しい価値を与えようとしました。本書はその集大成です。漢詩そのものと従来の訓読、さらに著者の戯訳がページ狭しとぎっしり並んでいます。
私にとっては、好きな漢詩トップ2の「垓下の歌(項羽)」と「七歩詩(曹植)」がどちらも載っているのでそれだけで満足ですが……(この二つが好き、というのは、漢詩と心理学が得意な人には、私の深層心理が丸見えになりそうであまり公表したくはなかったのですが……トップ10を全部書かなければ大丈夫かな)
しかし不思議なリズムです。従来の訓読は、たとえば屋外での高歌放吟には向いていると思います。だけど七五調は、室内で小声で呟くのに向いているように感じます。さらに、同じ七五調でも、和歌や俳句を書くにはひらがなが向いていますが、漢詩の七五調はカタカナが向いています。どこが違うんでしょうねえ。
解説も分かり易く博学多識、しかしときに辛辣です。たとえば漢の武帝の「秋風の辞」の解説では、「絶頂期にあって武帝は、忍び寄る老いという万物不変の営みに己の無力を感じ取るのである」と絶賛した上で「この詩境に比べたら藤原道長の「この世をば〜」などは児戯に類する」と切って捨てます。いや、反論はありませんが。
絶句は五言と七言が一般的で六言はあまり流行りませんでした。日本でも五七はあるのに四六調の詩はあまり流行りませんでした。言語構造は全然違いますが、なんだか面白い“共通点”です。
耿い(こうい、「い」は「偉」のにんべんをさんずいにした字)の「秋日」を典故とした芭蕉の俳句「此道や行人なしに秋の暮」や会津八一の短歌を読むと、「本歌取り」を行うには教養が必要だけど、それを理解するためにも教養が必要、つまり教養とは知の共有が無いと意味がない(あるいはもったいない)ということだな、と感じます。それを認めるのは教養がない人間としてはちと辛いけれど。
タイトルはもちろん井伏鱒二の『
厄除け詩集 』からのもじりです(そういえばこの日記でも井伏鱒二は最近よく登場しています。そう
「ドリトル先生」シリーズ の翻訳者です)。もともとその詩集自体が小説に関しては井伏の弟子、太宰治の『
グッド・バイ 』で有名になったものですが、まずはその中の于武陵(うぶりょう)の「勧酒」と井伏の訳を並べてみましょう。
勧酒
勧君金屈巵 コノサカヅキヲ受ケテクレ
満酌不須辞 ドウゾナミナミツガシテオクレ
花発多風雨 ハナニアラシノタトヘモアルゾ
人生足別離 「サヨナラ」ダケガ人生ダ
しかし著者は、最終句のように「人生ダ」と断言することに疑問を感じます。著者の訳(戯訳)はこうなります。
金ノサカズキヒトイキニ
ホシテ返シテクレタマエ
花ガヒラケバアメニカゼ
人ハワカレテユクモノヲ
著者は65歳になってから本格的に「戯訳」を始め四年八ヶ月続けたところで亡くなりました。奥さんによると、まだまだ訳したい漢詩が山ほどある、と言われていたそうです。惜しいことですが、その年齢になってからでも新しい活動を始められる人には「サヨナラだけが人生」ではなかったことでしょう。
「こんな経験をした」と言う人に対して「そんなこと、あるはずがない」と言っているのはつまり「その経験がない人間」が「その経験がある(と言っている)人間」に文句を言っているわけです。もちろん嘘は論外ですし「せいぜい一例から数例の経験」で人生や世界を語ろうとしているのならそれは風呂敷の広げすぎと言えますが、数十例とか数百例の経験の蓄積がある場合には、文句をつけている方が恥ずかしい姿をさらしていることになります(数百例で人生や世界が語れるか、と言えばけっこう判断は難しいけれど、母集団と標本の関係が適正なら統計学的判断には数百でも充分な場合はあるはず)。「あるはずがない」と文句をつける場合には、その経験数と話者がどこまで風呂敷を広げる(話を一般化しようとしている)かを確認してからの方が安全でしょう。
【ただいま読書中】
『
坊っちゃん 』夏目漱石 著、 新潮文庫、1950年(86年94刷)、200円
私が夏目漱石に出会ったのは小学校の時友人が貸してくれた『
吾輩は猫である 』だったと思います。ついで本書を読み、中学校で『
三四郎 』『
草枕 』と進んで『
それから 』か『
こころ 』で沈没しました。そのへんになるとてんで歯が立たなかったのです。思春期過ぎて読み直して少しわかったような気にはなりましたが、今だったらまた違った趣でしょうね。
たぶん皆さんご存知、「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」坊っちゃんが主人公です(と言いつつ、「親」がどのくらい無鉄砲かについてはついに詳細な記述はありません。あれは坊っちゃんの口癖みたいなものかも)。計画も無しに学校を卒業し、言われるがままに松山に教師として赴任した坊っちゃん。出迎えるは、悪戯好きの悪ガキども。様々な個性の教師たち。一挙手一投足を見つめる田舎の眼(経験ありますが、何をしても次の日噂になっているのは、鬱陶しいを通り越してもっと悪質な感情を感じることもあります)。
解説にはキャラがステレオタイプという意味の批判が紹介されていますが、たとえば落語に登場する人物たちはみなステレオタイプです。ステレオタイプでいいじゃないですか。ちゃんとキャラが立って生き生きと動いていれば。
しかし著者は、「おれは卑怯な人間ではない。臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けている」とか「おれは勇気のある割合に智慧が足りない」とか、坊っちゃんに対してちょっと冷たい描写が目立ちます。「一本気な江戸っ子」に著者は反感でも持っていたのかしら。
それより私が気になったのは本書で再々登場する「親が死ぬこと」の大きな意味です。江戸時代には「親が死ぬ」はすなわち(武士階級や大店では)「家を継ぐ」ことでした。しかし文明開化の明治の世では親が急に死ぬと一家はバラバラになるのです。坊ちゃんもそうですし、うらなり君はもっと気の毒。マドンナとも母親とも別れなければならなくなるのですから。敗者の側(坊ちゃんの江戸、山嵐の会津)だけではなくて勝者の側でも士族が時代の変化に適応できず没落していく姿は明治には珍しいことではなかったでしょう。そういった“時代”がこの小説の背景にあるのかもしれません。
単簡、容子、見やげ、酬(むくい)、一所、小供、内所話し、食い心棒、極(き)める、演舌、辛防……読めるし意味はわかりますが一瞬「あれ?」と思う単語があちこちにあります。いや、明治の本が(仮名遣いが改めてあれば)すらすら読めることの方が驚くべき事なのかもしれませんが。
ことばが通じても、話が通じるとは限りません。たとえばサソリとカエルの小咄の例もあります。(川を渡るのに、「乗せてくれたら刺さない」と約束した(つまりはちゃんと言葉が通じていた)サソリが川の途中でカエルを刺してしまって二匹とも溺れた、という例のお話です)
逆に、言葉が通じなくても何かが通じることもあります。たとえば、なんらかの感情とか行為とか。下手なことばよりこっちの方が大きい場合もあるでしょうね。もちろん、ことばが通じて話も通じるのが一番話が簡単ではあるのですが。
【ただいま読書中】
『
ドリトル先生の楽しい家 』ヒュー・ロフティング 著、 井伏鱒二 訳、 岩波少年文庫、1979年(86年9刷)、550円
著者の死後、シリーズに収載されなかった短編を夫人が集めた短編集です。
「船乗り犬」では、船に乗っている犬がいかに船を難破させそして乗組員を救ったか、が描かれます。次の「ぶち」もドリトル先生の動物園にあった雑種犬ホームに関係したお話です。血統証明つきなのに雑種犬ホームに入ることを許されたぶちの半生記です。生粋の猟犬が愛玩犬扱いをされることがいかに不幸なことか……今の日本で猟犬を室内犬扱いしている人がいることをドリトル先生が見たら、何と言うでしょうねえ。「犬の救急車」では話自体が全速力の救急車のように突っ走ります。「気絶した男」では名探偵犬クリングがドリトル家の真ん前で起きた“強盗事件”の謎解きに挑みます。犬が人間とほぼ同じ価値観を持つのはあり得ないことですが、そもそも「動物や虫と自由自在に話ができる人間」が存在することが前提の世界観に立脚した物語ですから「あり得ない」はどこかに仕舞って愉しんだ方が勝ちですね。しかし「馬が馬靴で人間の頭に打撃を与えて気絶させた。ただし蹴ったのではない」の謎、皆さんは解けますか?
ここで話は鳥に移ります。カナリアオペラのときに動物園で話されたロンドンの街雀チープサイドの冒険譚(「カンムリサケビドリ」)。アフリカからの帰りの航海で一同が出くわしたトラブル(「あおむねツバメ」)はみごとに生態学的な寓話です。
『
公園のメアリー・ポピンズ 』もシリーズ終了後に落ち穂拾い的に編まれた短編集でした。優れたシリーズはどうしてもそこに納めきれないエピソードを生んでしまうのでしょう。それはその世界がそれだけ広大なのでしょう。私から見たらドリトル先生はあまりに優れた人で、真似することなんかできません。動物どころか人間とも十全な会話ができない者ですから。でも、その生き方の一部でも真似できたら良いな、とは思います。
ちょっと向こうで、テーブルをはさんで向かい合って座った男女のカップル、ずいぶん静かです。せっかくのデートだろうに、と、余計なお世話ですが観察をすると、二人とも携帯電話をちゃかちゃかやるのに夢中です。そこでありがちな感想を持とうとしたら、昔の記憶が「待った」をかけてきました。
30年くらい前セピア色の脳内場面です。喫茶店(だったと記憶しています)に私の後から入ってきた若いカップル、もとい、アベックが、向かい合って座るなりどちらも店に備え付けの漫画を読みふけって一切会話をしていません。
なんだ、今も昔も、手に持つものは違っても、似た人たちは似たことをやっているのね。
【ただいま読書中】
「日本国憲法」と聞いた瞬間しかめ面になってとうとうと自説を述べ始める人がいますが、ここではしかめ面を捨てて、小説で憲法を読んでみましょう。“あの”著者が「不真面目に日本国憲法を読んでみる」試みをきわめて真面目に行った本ですから、そもそも最初からしかめ面は似合いません。
まずは「二十一の異なるバージョンによる前文」。カナ・小学生向け(これはもしかしたら戦争直後に文部省が小学生向けに憲法の解説で配った奴じゃないかな)・長嶋語録・漫才の解説・実演販売・落語・暴走族・サラダ記念日風……さまざまなバージョンで憲法前文が解説されます。ここだけで「へー、憲法前文って、面白いんだ」と思えてきます。
そのあと「第一章シンボル」「第二章九条」「第三章ハロランさんと基本的人権」「第四章第五章第六章第七章第八章寄席中継」「第九章第十章亜匍驢(あぽろ)団の掟」「第十一章場つなぎ」と、6編、いや7編、いや、やっぱり6編の短編小説が並んでします。で、最後に附録として「日本国憲法」の全文。
憲法をきちんと読むなんて、高校の時以来かしら。しかし本書ではあちこちで声を立てて笑いたくなるところがあります。「憲法」を読んで笑えるとは思いませんでした。たとえば「亜匍驢団の掟 第二条」なんか「団は、ライディングが好きでつるみたい者の集まりだ。つるんで喧嘩するのが目的ではない。団はどんな理由の喧嘩も永久に放棄する。そのために、団はライディングの時、ナイフや鉄パイプやナックルなど、すべての武器を持ってはいけない」ですよ。で、「喧嘩の仲裁を暴力的にするのは喧嘩か」「スパナは武器か」という“議論”が起きるのです。
私としては、軍国主義が復興するくらいなら押しつけ(お躾)憲法の“圧制”の下にあえいでいる方がまだましか、と思いますし、あのスカした理想主義を守り通すのは、武士は食わねど高楊枝というか男の美学というか、なかなか粋な姿かも、と思っています。とはいえ攻められるのは困るから防衛のための戦力は認めたいと思っているのですが、それを言うと必ず「敵のミサイル基地」などを攻撃したがる人間が出てくるんですよねえ。「防衛」を「領土内での戦闘行為」とでもはっきり定義しておいてもらわないと、安心して再軍備に賛成できません。
マスコミの関心はみごとに選挙にシフトしちゃいましたが、麻疹はもう終息したわけ、ではないですよね?(もう75日経ちましたっけ?)
【ただいま読書中】
世界の医薬品生産・消費での“大国”は、日本・アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・スイスです。ところがこの6ヶ国の全体像を把握する書物がこれまでありませんでした。「無いのなら作ってしまえ」とできたのが本書です。
医薬品の年間特許登録数は、アメリカ1位、ドイツ2位、日本は3位です。日本が意外に健闘していますが、アメリカがどんどん他国との差を広げています。売上高でもトップ10の企業のうち、5社がアメリカ、イギリスとスイスが2社、フランスが1社(日本で最大手の武田は世界15位)です。M&Aも盛んで、日本でもどんどん企業合併が行われています。国家や社会から会社に対してぶら下げられる“人参”は、医療費増加に伴う売上上昇。逆に、“鞭”は薬価引き下げ要求とジェネリック医薬品です。研究開発費用は増大の一途、生産性は低下してきています。かくして医薬品会社は規模の増大を志向します(ジェネリックに対抗するには新製品ですが、開発には莫大な研究費と人員と時間の投入が必要。中規模の会社二つが研究所をそれぞれ持つより、大規模会社が一つ研究所を持つ方が、相対的に経費は節減できるわけです)。
アメリカでは、それまでの出来高払い制度の健康保険に替わって1990年代に民間保険会社によるマネージドケアが発展し、アメリカ人の4分の3が加入しています。これは短期的には医療費を抑制しましたが、利潤を追求する企業ゆえの限界もあります。特に保険料を支払えない(あるいは病気があるため保険加入を拒絶される)無保険者の増加(2002年に4360万人)が大きな社会的問題となっています。(このへんを扱った映画で有名なのは「
ジョンQ 」「
恋愛小説家 」ですが、新しいところでは「シッコ」(マイケル・ムーア監督)が日本では8月頃公開予定だそうですね) そうそう、アメリカでは20世紀後半に新薬開発数が激減しましたが、これはサリドマイド事件で厳しい承認制度が導入されたためです(日本では導入されませんでした)。
ちょっと意外だったのは、世界第五位の医薬品企業ジョンソン&ジョンソンの企業理念です。利害関係者に優先順位がつけられているのですが「顧客>従業員>地域社会>株主」です。「アメリカの会社は株主優先」だけではないんですね。日本の一般企業だと「社長や会長>社長や会長の一族>その取り巻き>その他」かな?
二十世紀半ばにはイギリスの医薬品業界は国際的には衰退しかけていました。ところがそこで行われた海外からの活発な投資により業界は急成長した(貿易黒字の稼ぎ頭トップ3になった)という分析が紹介されます。市場の開放がイギリスではプラスに作用したようです。
スイスでは医薬・化学はGDPの5%を占めています(多くの欧米諸国では2%)。労働時間当たりの生産性はスイス全産業の平均の4倍。国際的にもトップレベルです。高い生産性ゆえに高賃金で、レベルの高い人が労働市場に集まるのですが、これはどちらが鶏でどちらが卵かはわかりませんね。スイス国内の販売市場は非常に小さいため、全世界マーケティングがスイスの製薬会社には重要です。スイスのロシュは日本では中外製薬を取得し、規模では日本で5番目の医薬品企業です(と本書にはありますが、この論文執筆時の順番「武田、三共、山之内、第一」は、現在三共と第一が合併し、山之内も藤沢と合併したのでロシュは4位、かな)。
日本の特徴は簡単に言ったら、生産は得意・画期的な開発は苦手、でしょう。これは医薬品に限ったことではないかも。
どの国でも、ブランド薬(新規開発品)とジェネリック薬(特許権の切れた模倣薬)とのせめぎ合いが熾烈に行われています。極論ですが「新薬はもう要らない」と言えれば、薬はもっと安くなります。あるいは国策として税金を投入して新薬の開発……は会社間の競争が国家間に置き換わるだけですね。目で見える医療費は減少しても、トータルコストはかえってかかるかも。
グローバリゼーションの波がこの業界を激しく洗っています。企業の出身がどこの国かを言ってもあまり意味がないかもしれません。アメリカの大企業、ファイザーとメルクはどちらもドイツがルーツです。イギリスのグラクソ・スミスクライングループは、本社機能をアメリカに移しました。スイスのロシュもウイルス研究の拠点をアメリカに移します。国際的な投資や合併も当然です。フランスのサノフィ・サンテラボがアベンティス(フランスのローヌ・プーランとドイツのヘキストが合併した会社)に対して敵対的公開買い付けを行ったとき、アベンティスはまずスイスのノバルティスに援助(合併提案)を求めましたがフランス政府がそれを拒否。ドイツ政府が異議を唱えましたが仏独政府間交渉で合意ができ、結局半年後に公開買い付けは終了(吸収合併)、というなかなか派手な進展をしています。日本は「ぐろーばりぜーしょん」が苦手分野なので、これから日本の医薬品産業がどうなるかは不安、と本書ではまとめています。私も同感です。特に“指導・監督”する官庁があそこですからねえ。
「選挙で負けたら責任が」ともう言っている人がいますが、自民党が選挙に負けたら「政局の運用が上手くいかなくなる(衆院で強行しても参院で否決されるから結局妥協を強いられる)」ことで首相はしっかり責任を取らされますね。で、自民党総裁の首をすげ替えてもその状況が変わるわけではありません。「どんな責任」とか「『負け』の定義の議席数は」とかごちゃごちゃ論じるのは枝葉末節で、わざわざマスコミが報道するべき話題ではないでしょう。
それとも危機感を煽って選挙に勝つ(あるいは負けを少しでも減らす)ためのテクニック(マスコミ・リテラシー)? それだとあざといなあ。それとも、そんな露骨な手にのる方が間抜けなのかしら。
【ただいま読書中】
象・河馬・熊などは想像上の動物と言われている世界が舞台です。コンピュータもジェット機もあるのに、移動手段は自転車という、近未来のようなそうでないような世界。その世界のどこかに存在する「コミュニティ」は、一種のユートピアでした。人びとは穏やかで嘘も秘密も争いもなく礼儀が最重要。苦痛は速やかに取り除かれ、家族は委員会によって最適の組み合わせが決定され、どうしようもない場合(育たない子供、特別な老齢者、三度目の犯罪を起こした人)だけ「リリース」(コミュニティからの追放?)が行われます。生まれてから施設で育てられ1歳のときに家族に手渡された子どもたちは年齢別のグループ(50人限定)で育ちますが、12歳になると職業が長老たちによって決定されてそれぞれの道を歩むことになります。
自分の将来について確信を持てないままでいた11歳のジョーナスはついに《12歳の儀式》に臨みます。次々本人に最適と思われる職業を与えられる仲間たちとは別に、ジョーナスに提示されたのはコミュニティの長老「記憶を受けつぐ者」への弟子入りという驚天動地の話でした。
長老はジョーナスに記憶を引き渡していきます。そこで読者に示されるのはとんでもない世界です。「画一化」によって、丘も雪も日射しもなくなった地球。人びとは本を読むこともなく常にスピーカーの指示に従います(とくると、アンチユートピア物語にありがちな設定のようです)が、びっくりすることになぜか「記憶」と「色」もこの世界では失われているのです。そうそう、性欲も。
ジョーナスは日々受けつぐ「記憶」(新しい知識)の重荷にうちひしがれます。いや、記憶そのものが重荷なのです。厳密には、苦痛に満ちた記憶が、重荷です。たとえば、災難や戦争。「画一化」によって人類が手放したもの。しかし「画一化」は同時に別のものも手放すことを人類に強いることになったのでした。たとえば「色」、たとえば「感情」、たとえば「愛」。
そしてついに「リリース」の実相を知ったとき、その残酷さにジョーナスは打ちのめされます。その処置を受ける人に対する残酷さだけではなくて、その処置を実行する人もまた「自分自身が何をしているのかわかっていない」という残酷な状況にいることにジョーナスは気がついたのです。何とかしなければならない。ジョーナスは「記憶を伝える者」と共に「計画」を立てます。
本書は記憶(=歴史)の重さを扱っているだけではなくて、成長の苦さや孤独の悲しさの物語でもあります。同時に、「自由な個人」である人が集団を形成したときに手放さなければならない自由についての考察もまた可能です。図書館ではヤングアダルトのコーナーにおいてあったのですが、もっと(その前後に)幅広い年代層が読んで良い本のように思います。
最近、長男が山下達郎やクイーンに興味を持ち始めた様子です。で、次男に「君が好きな歌は」と聞くと、チューリップやイルカの曲名をずらずら口走るのです。別に無理矢理聞かせた覚えはありません(というか、自分でも最近ゆっくりCDを聴く余裕がなくなっています)。どうも私所蔵のCDを発掘したらしいのですが……ちょっと待てぃ。キミタチは平成の子でしょう? もうちょっとイマノジダイの歌を好きにならなくて良いのかい? いや、私としては同じ好みを持ってくれるのは嬉しいのですが、あまりに少数派になるのもちと不憫で……って、回りに会わせて自分が何を好きになるかを決める必要もありませんね。自分の琴線と共鳴する歌と出会えるかどうか、それを一生口ずさめるかどうか、が大切なんですから。
【ただいま読書中】
『
輝く草地 』英国短編小説の愉しみ3 西崎憲 編、筑摩書房、1999年、1900円(税別)
目次
輝く草地(アンナ・カヴァン)、殺人大将(チャールズ・ディケンズ)、コティヨン(L・P・ハートリー)、最後の笑い(D・H・ロレンス)、スフィンクスの館(ダンセイニ卿)、写真(ナイジェル・ニール)、ドン・ファンの生涯における一挿話(V・S・プリチェット)、ママが救けに(アンガス・ウィルソン)、ユグナンの妻(M・P・シール)、世界河(A・キラ・クーチ)
全3巻の短編集シリーズも本書でおしまい。第1巻の『
看板描きと水晶の魚 』は「文学の薫り」、第2巻『
小さな吹雪の国の冒険 』はファンタジー、そして本巻は「不思議の薫り」なんだそうですが、ひねくれ者の私にとっては、第1巻が不思議の薫りがして本書はむしろ純文学の薫りがしたりします。まあそもそも「純文学」どころか「文学」の定義自体が追究したら訳がわからなくなりそうなので(本書のあとがきでも「短編小説の定義」でずいぶん遊んでくれています)、あまり定義だの分類だのにこだわらず、100年前のイギリスを愉しむつもりでページをめくればよいのでしょう。
本書で私が一番気に入ったのは「ドン・ファンの生涯における一挿話」です。ゴースト・ストーリーですが、最後の最後ににたりにたりとしてしまいます。で、にやりとしながらため息をつきたくなるのは「写真」。もしも作者が、明治の日本で「写真に写ると魂を吸い取られる」と言われていたのを知ったら、本作の結末を変えたかもしれません(それともイギリスでも似た迷信があったのでしょうか)。ディケンズはディケンズですが、ロレンスは『
チャタレー夫人の恋人 』とはずいぶん趣が違います。(もちろん、たった一作で作者のすべてを語ることの方が無茶なのですが)
ちょっと古風なイギリス気分になりたければ、お勧めです。
「傾聴」という言葉を最近あちこちで耳にします。要するに相手を批判せずに耳を傾けること。私がこの概念にきちんと触れたのは15年くらい前「親業」の本を読んだときだったと記憶しています。あちらでは「能動的な聞き方」という言葉が使ってあったはず。その後ロジャース派(だったかな)の話で「受容的・共感的な傾聴法」なんてことばを聞いて「受容的と言ってしまうと、能動性を封じるみたいな語感だなあ」と感じましたっけ(だって傾聴の場合「聴く主体」も重要でしょ?)。
そういえば「ブレイン・ストーミング」では「批判は禁止」なんだそうですね。自由闊達なアイデア出し優先。ディベートの国アメリカではきっとこういった縛りを最初にかけておかないと、他人が出したアイデアに対して批判どころか攻撃が始まってしまって収拾がつかなくなる恐れがあるのではないか、と私は想像しています。でなかったらそういった縛りを思いつかないでしょうから。
対して日本では……最近ではクレーマーとかモンスター親とかもいますが、まだまだそれは少数派。会議などでは発言しない人の方が多い。では意見がないのかというとそうではなくて、会議がすんだ後になってぶちぶち不平を言ったり噂を流したりキーマンの所にこっそり行ってその人を動かそうとしたり……
アメリカではわーっと主張することで自分の意見を通そうとするけれど日本では主張“しない”ことで自分の意見を実現させようとしてきた、のかな? で、どちらも“軌道修正”を試みている、と。
「言うことを聞く」って、日本語だと「指示命令に従う」という意味もあるので、なかなか難しい。「言うことを聞け!」と言う人にお言葉通り傾聴をしていたら「なんでちゃんと言うことを聞かないでじっとしているんだ!」と怒られたりして。
そうそう、「言葉を知っている」と「それができる」は当然別の問題です。私は「傾聴」という言葉は知っているけれどできるかどうかはわかりません。決して「生返事をしながら聞き流すこと」ではありませんけど、そうならないという自信がないのです。
【ただいま読書中】
大学で心理学を学んだ後必死に英語の勉強をした著者は、第二次オイルショックによる就職難の中、無事英語通訳ガイドになります。初仕事は文字通り異文化との遭遇でした。京都観光をするアメリカ人夫妻は異文化そのものですが、それよりも彼らを案内して触れる日本文化もまた著者には異文化だったのです。貧乏学生からサラリーマン(初任給9万円の時代で、著者の初年度の年収は100万円)になったばかりなのに、案内したしゃぶしゃぶは一人12,000円! 著者は卒倒しそうになります。「イマァァリ」が古伊万里を意味すると知って案内した骨董品屋街もまた著者には異文化です。
第二外国語も必要と悟った著者は、昼は英語講師・夜は大学の聴講生となりスペイン語を習得します。とうとう最後にはメキシコの大学に留学しますが、そこでの体験(特に、対人関係とトイレ)は抱腹絶倒。著者は「英語圏とスペイン語圏は別人種」とさらりと言いますが、いやあ、欧米のカルチャーギャップのすごさって「欧米か」のひと言で済ますことはできませんね。
ハワイからの日系人の日本ツアーも「異文化」の意味を難しくします。日本人とアメリカ人の“間”に位置する彼らが旅する“日本”がどんなものだったかは、本書をご覧下さい。面白くてちょっと重たい話題も出てきます。
日本で外国人を迎えるだけではなくて、外国への日本人のツアーの添乗員としてもお仕事をする過程で、著者の視線は“日本”に向かいます。外国での日本人の振るまいが示す“日本”。外国人が見る日本。同じ“日本”なのに地方によって全く異なる文化。
"WANT"ではなくて"MUST"が多く、トラブルをいつまでも引き摺り、トラブルが起きたら取りあえず誰か(多くは目の前にいる添乗員)の責任にしてその人が謝罪するまであきらめないのが日本人の特徴、と言われると……う〜む、思い当たるフシはありますねえ。全員というわけではありませんけど。
単なる旅の観察記録ばかりではなくて、最後には楽しい旅の極意についても貴重なサジェスチョンがあります。結局楽しい旅になるかどうかは「良い道連れ」がいるかどうか、なんだそうです。だけど、良い道連れに恵まれるためには、自分自身も他人にとっての良い道連れでなければなりません。さてさて、ことが自分に及ぶとなると、ちょっと困ったなあ(なぜ困る?>自分)。
ページを開く前から、著者が触れた異文化についても楽しみでしたが、私にとっては異業種も異文化そのものですから、通訳ガイドの世界を知ることも楽しみでした。いやあ、期待は叶えられた、というか、もっと知りたいという気にさせられます。
本書はコンピュータ通信NIFTY-Serveのワールドフォーラム(FWORLD)での連載エッセーが基となって生まれたそうです。その時期に私もFWORLDには行っていましたが、会議室を選んでいたからかな、その連載は読んでいません。読んでいたらいろいろレス(懐かしい言葉です)をつけてやりとりができたでしょうに、惜しいことをしました。
甥っ子への誕生日のプレゼント、本人の希望がちと特殊だったためかなかなか見つからず、とうとうYahoo!オークションなるものに足を踏み入れてしまいました(彼が言うには「この手のものは伯父ちゃん(私のことです)が一番あてになる」のだそうで……)。
アテにされるのは嬉しいのですが、ネットオークションなんて初めて。そもそもYahoo!のIDがなんだったかを思い出す作業から始めなければなりません。で、オークション会場で検索をかけると……あら、いくつかあるじゃないですか。あんなにネット上をあちこち探して在庫が見つからなかったのに(ちなみに楽天のオークションでは一つも見つかりませんでした)。間違えないように入札金額を入力してボタンを押すと……あらら、「即決」とやらで私のものになってしまいました。あわわわ、こんなに簡単なの? で、待ってても何も起きません。メールをチェックすると……うっかりごみ箱に入れたものの中にYahoo!からのお知らせメールがありました。ふーん、専用の掲示板に行って、そこで出品者とやり取りをするのね。落札したのが日曜だったので翌日家内に銀行に行ってもらってお振り込み。600円の品を買うのに950円の送料と300円の振り込み手数料……一体何をやってんだか。さすがに600円(プラス送料と手数料)のブツだけというわけにもいかないでしょうから、オマケを見繕って新たに入札してみました。こちらの締め切りはもうすぐ。今のところ入札者は私だけなのですが、どうなるか、楽しみです。
【ただいま読書中】
著者は「伝統的スポーツ」の流れでボクシングを捉えます。すると、狐狩りなどもその視野に入ってきます。19世紀の「動物虐待防止法」は家畜が対象でしたが、2004年「狩猟法」で複数の猟犬を用いた野生動物の狩りが禁止されました。
そもそも「スポーツ」とは何か。語源をたどると同義語として「diversion 気散じ」(サミュエル・ジョンソンの英語辞典(1755年))にたどり着きます。「憂いからひきはなすことで心をなごませるもの」です。つまり当時の民衆娯楽は基本的にすべて「スポーツ」だったのです。それらは近代化の過程で激しい攻撃にさらされ「近代的なスポーツ」に生まれかわり(あるいは消滅し)ます。
15〜17世紀のイギリスでは、娯楽は二重規範でした。庶民のサイコロ遊び・ボウリング・テニス・フットボールなどは違法でしたが、ジェントルマン以上では合法でした。「何をするか」ではなくて「誰がするか」で違法/合法が決まったのです。もともとイングランドの軍隊の主力は民兵で、武装の中心は長弓でした。それが“怪しからぬ遊技”に時間を潰されることで民衆が鍛錬をさぼり長弓の伝統が滅びようしていることに対する権力者の危機感がこういったお触れを出させたようです(もっとも時代はすでに火縄銃だったのですが)。
前工業化時代のイギリスでは様々な“スポーツ”が行われていました。フットボールは村や町全体を使って楽しむ祭礼ですし、賞金を賭けて素手で殴り合うプライズ・ファイトも盛んでした。生きた動物を使うアニマル・スポーツ(牛掛け(犬を牛にけしかける)、闘犬、闘鶏、兎狩り(町中に兎を放して皆で追いかける)など)も重要な“気晴らし(スポーツ)”だったのです。18世紀には都市でもスポーツが盛んに行われます。しかし18世紀後半から、動物愛護を旗印にした伝統的スポーツに対する反対勢力が大きくなります。もっとも、動物愛護法が成立しても地方ではジェントリを中心にアニマル・スポーツは堂々と続けられていました。それは「地方の中央への反逆精神」によるものでもあり、当時の動物愛護運動が福音主義(人の生活は労働と休息だけから成り立つべし)に基づく世俗的な道徳律であることの限界を示すものでもありました。見逃せないのは、動物愛護運動が、当時勃興した中産階級から都市労働者や下層民への“攻撃”でもあったことです(どんな内容の主張か、も重要ですが、同じ主張を“誰に向かっては言わないか(この場合は上流階級)”も重要なデータ、ということです)。
プライズ・ファイトは常に権力者ににらまれていましたが、貴族などにも人気があったためか明確な禁止法は作られず、不法集会罪・騒動罪・騒擾罪などが適用されていました。拳闘士側は、素手ではなくてグラヴをはめラウンド制で闘う「スパーリング」でその動きに対抗します。「(喧嘩や決闘と同等の)ファイト」ではなくて「競技」だ、という主張です。1866年のヤング訴追裁判、1901年のロバーツ訴追裁判などで「競技の中での偶発的な死亡は殺人ではない=ボクシングは違法なファイトではない」と判決が出され、ボクシングは合法的な存在となります。もちろん“伝統”に固執する人はいましたが、彼らも時代には抗せず、ルールを整備しファイトを競技にすることでの“生き残り”を受け入れたのでした。
蛇足その1:スポーツにはルールが重要ですが、ルール制定にあたって歴史的に重要なのは賭博です。賭博がやりやすいと競技者以外にも人気が拡大します。“参加者”が増えたらルールは厳格になります。あまりに不公平な勝負や八百長を許しては賭博が成立しないからです。もちろん「名誉」がルール制定に重要なものもあるでしょう。たとえばトーナメント(中世の騎士の馬上試合)とか、現代のアマチュアスポーツとか。でもお金が絡んだ方がフェアネスがより強く求められるのです。「フェア・プレイ」をお金が作った、と言うと、身も蓋もありませんが。
蛇足その2:サッカーのフーリガンは“伝統主義者”なのかもしれません。伝統的スポーツには、治安破壊罪・決闘罪などが適用されていたのですから。
蛇足その3:あとがきに(日韓共同開催W杯を見ての)藤本義一氏の楽しいコメントが紹介されています。「スポーツは“良い犯罪”である。サッカーは強盗に近く、野球は窃盗に近い」。
NHKの朝ドラ、前の「いもたこなんきん」は本当に面白かったけれど、今やっている「どんと晴れ」も別の意味で面白い。「はい、今週は小さいヤマがあります」「今週はさらりと流します」「今週は中くらいのヤマです」ときわめてわかりやすい展開で人間関係は単純な生煮え状態で、「それは無いだろう」と客が突っ込めるような変なエピソードもちゃんと混ぜてくれてある意味退屈しないのですが、先日のは……ベッドに寝た母親が娘に向かって「苦労をかけていつもすまないねえ」。それに対して娘は健気に微笑みながら「おっ母さん、それは言わない約束よ」……時代劇のかつての黄金パターンですが「今どきそれは無いだろう」とべたべたな展開(「おっ母さん」のところは私の創作です。番組では「お母さん」だったかな)。それをいかにも今風の長身美女美男たちが演じているのですから、「今は平成で21世紀だよな」と思わず私はカレンダーを確認してしまいました。
……はっ、もしかしてツッコミを期待してわざとぼけてみせる脚本家の掌で踊らされている?
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1970年ロン・ノル将軍がクーデターを起こして以来カンボジアでは内戦が続いていました。パリ和平協定によって(とりあえず)銃声が止んだのが1992年のことです。UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)がプノンペンに置かれ、PKO(国連平和維持活動)の本部となりました。カンボジアの新しい“主人”は、UNTAC特別代表明石康氏とその下で軍事部門(最大規模40ヶ国、15,000人のPKF(平和維持軍))を統括するサンダーソン中将。中将の関心は、四派の円満な武装解除と1000万個と言われる地雷除去でした。ただし与えられた時間は18ヵ月。
カンボジア難民の帰還と再定住の援助を行っているのはUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)で、その傘下に集う様々な人道援助機関・NGO・ボランティアたち、文民による非軍事PKOが行われました。著者はそこに多くの日本人を見かけます。PKOといえば“軍事力の活用”しか思い浮かばないように見えるPKO協力法賛成派・反対派双方に対して、著者は現地で見た文民たちの姿こそ日本国憲法の精神の体現ではないか、と書いています。
PKO活動は、そもそも国連でも明文規定を欠いた任務です。良く言えば柔軟、悪く言えば泥縄。ならば大切なのは「“その”PKOの本質は何か」「特徴は何か」をきちんと捉えた上で「日本は“それ”に貢献できるのか/できないのか」「貢献するのか/しないのか」「するのなら何をするのか/しないのか」を国内で議論することです。賛否どちらの立場にしても、自衛隊のことに夢中になっていたらカンボジアPKOの姿は見えないし、結局有効な国際貢献への道を自ら閉ざすことになってしまいます。
武装解除は初日(日本でのPKO法成立二日前)に“失敗”しました。クメール・ルージュ(ポル・ポト派)は欠席し、プノンペン政権軍から提出された武器も使いものにならない中古ばかり。情勢は急転したのです。明石特別代表や今川日本大使は厳しい認識を示します。しかしそれは日本の判断にはなんの影響も与えていないかのようでした。著者は、賛成派も反対派も「カンボジア」を枕詞にしか使っていない(自分の考えを相手に押しつけるためのツールでしかない)と表現しています。そういった人には「現地の状況」は無意味文字列でしかなかったのでしょう。
UNTACが日本に求めたのは工兵部隊でした。来るべき選挙で全国に人員配置をするには道路確保が急務だったのです。カンボジアに到着した自衛隊施設科大隊は、サンダーソン司令に、直ちにタケオに向かうことを命令されます(PKFの部隊は、自国の政府や司令部ではなくて、現地の最高司令官(この場合はサンダーソン中将)の命令下に入ります)。ちなみにタケオは、仏印進駐(北部は昭和15年9月、南部は16年7月)で帝国陸軍が飛行場を建設した場所です。しかし、二個中隊多い増強大隊(600人)だったのに、管理部門が250人、5つの作業中隊の内2つは駐屯地造営、1つは砂利採取、1つは運搬担当のため、肝心の道路補修にあたるのは一個中隊70人だけ……お〜い。自衛隊には自衛隊独自の達成目標があったということなのでしょうか。ちなみに自衛隊の“護衛”はフランス部隊です。
カンボジア情勢の悪化にもかかわらず、「選挙の日程」は動かされませんでした。国際的な監視の目の下で、中立・公正・自由な選挙が行われることは国連の至上命令であり、「危険だから文民を引き揚げる」ことは論外でした。ポル・ポト派も態度をどんどん硬化させコンポントムにPKFが苦労して作ったポル・ポト派との間の細いパイプも切れそうになります。今川大使は、ポル・ポト派の戦略は国土分割ではないか、と推測します。UNTACが引き揚げた後武力蜂起をすることで支配地域を固定化するねらいです。フン・セン首相や明石代表もそれに近い読みをし、それぞれに対抗策を練ります。ただし、当のポル・ポト派が何を考えているかは誰にもわかりません。そして、ポル・ポト派の襲撃で、国連ボランティア中田さんと文民警察官高田さんが殺されます。自衛隊部隊の外見も「工兵」から「武装工兵」へと変貌しました。
自衛隊派遣の前提となる「五条件」は現地ではみごとに崩れてしまいましたが、法律で定められた撤退は行われる気配がありません。日本得意の「なし崩し」です(本来の意味ではなくて一般的に使われている意味で)。著者は述べます。時が経てば領分は歴史家に移るが、情勢が生煮え状態にあるときこそジャーナリズムの出番だ、と。
些細なことですが、本書では「シアヌーク」と「シハヌーク」が混在しています。シアヌークの方が少数なのですが、もしかしたらシハヌークの方が‘真実’に近いのかな?
「最近のサンドイッチ用の食パンは、最初から耳を落としてあるの」と家内が嘆いています。大根の葉っぱと同じで、家庭での手間を省くためでしょうけれど、パンの耳がなかったら油で揚げて砂糖をふりかけるお菓子が作れないじゃないですか。子供の頃には好物だったんです。もちろん今でも。
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『
トールキン小品集 』J・R・R・トールキン 著、 吉田新一・猪熊葉子・早乙女忠 共訳、評論社、1985年、1300円
トールキンと言えば『
指輪物語 』ですが、当然それ以外の作品も残しています。その内四編の短編が本書に収載されています。前書きで「学者としてのトールキンは、言語学と文学の間に存在するみぞを埋めることに意を用い」たとされています。それと対応するように巻頭の「農夫ジャイルズの冒険」のまえがきには「(この作品は)いくつかの難解な地名の起源に照明をあて、イギリス史の不明の一時期の生活を垣間見させてくれ、ついでに物語の主人公の性格や彼の冒険が面白いかも(私の要約)」とあります。う〜む、ここを素直に読むと、トールキンは学者であるよりも物語の語り手でありたかったのではないか、と思えるのですが……(ちなみにトールキンがオックスフォード大学教授になったのは1925年。同年トールキンの親友C・S・ルイス(『ナルニア国ものがたり』)も同大の教授になっています)
「農夫ジャイルズの冒険」……人がラテン語の立派な名前をもらい、のんびりと生き、犬はラテン語は無理だが世俗語はしゃべることができていた時代。ハム村にエイギディウス・アヘノバルブス・ユリウス・アグリコラ・デ・ハンモ(通称ジャイルズ)という農夫が住んでいました。ある夜ジャイルズの農地を巨人が踏みにじりますが、ジャイルズは首尾良く巨人を追い払います。さあ、ジャイルズは村どころか国(中王国)全体の“ヒーロー”です。ところがこんどは竜がやって来ます。ところが、なんと、ジャイルズは竜に勝ってしまうのです。竜は身代金を払うことを約束しますが、当然反故にします(竜は良心を持っていないのです)。そこでジャイルズは身代金を取り立てに出かけるのですが……中王国から独立した小王国を立てることになった経緯と、小王国の地名のいわれの物語。いやあ、この語り口の巧さと美味さ、たまりません。
「星をのんだかじや」……むかしあるところにウートン大村と呼ばれる、料理で有名な村がありました。そこで24年に一度開かれる祭りのための特別なケーキが焼かれました。ケーキの中には子どもたちのために銀貨などの小さなプレゼントがいくつも隠されていましたが、その中には本物の妖精の星もあったのです。その星を食べた男の子は、父親の跡を継いで鍛冶屋になります。ただの鍛冶屋ではありません。妖精の国に出入りできる鍛冶屋だったのです。
次の24年祭がやって来る頃、鍛冶屋は妖精の国に呼ばれ、女王に面会します。心と心の会話は、鍛冶屋に喜びと悲しみをもたらします。そして、妖精の星との別れがやって来ます。星は、次の子供の所に行くのです。
「ニグルの木の葉」……木の葉を描くのがせいぜいのニグルは、旅に出る日が迫っているのにもかかわらず“大作”に取りかかっています。一枚の木の葉を描き始めたはずなのに、いつしか葉は木になり、さらに回りの世界まで描かなければならなくなってきたのです。しかし、作業は遅々として進まず、さらに次から次へと邪魔が入ってきます。特によく邪魔をするのが隣人のパリッシュ。まるで当然のようにニグルの時間を奪い、それに対して感謝もせず、ニグルの絵は全く無視しニグルのために自分の時間を使おうとはしません。とうとう旅立ちの日がやって来てしまい、ニグルは強引に汽車に乗せられます。降りたところは救貧院。しかしそこから出されてニグルが住むことになったのは、かつて自分が描いた絵と同じ風景の森でした。そしてそこにやってきたのは……
「トム・ボンバディルの冒険」……トムだトムだ、トム・ボンバディルだ。この作品は16編の詩から成り立ちます。そのうち4編は『指輪物語』に使われていますが、残りは没にしたのか、それとも本編ができた後で創作されたのか……どちらにしても贅沢な話ではあります。でも、これだけ背景を充実させていたからこそあの物語があれだけずっしりと“大きく”なったのでしょう。トムだけでこれだけ手をかけているのですから、その他の登場人物や存在について、著者がどのくらいのエネルギーを注いでいたか(そしてそれをどのくらい本に“書かなかった”か)を想像すると、脳みそがクラクラします。
映画「ロード・オブ・ザ・リング」ではトムは登場の機会を奪われていましたが、やっぱり魅力的なキャラです。彼を主人公に一つ映画が作れないかしら。
最近自宅の玄関の鍵がちょっとひっかかるようになっていました。何が起きたのかよくわからないので、次男の同級生のお父さん(たまたま我が家のハウスメーカーの鍵職人)に見てもらったら、スプレー一拭きで解決、非常に軽く回るようになりました。よくよく聞くと、鍵穴専用の潤滑剤があって、グリスとか潤滑用スプレー(有名なのではたとえばCRC-556)は鍵穴には入れてはいけないのだそうです。知らなかった。聞いたら理屈はわかります。油をつけるとそこに穴から入った埃がくっついて固まってしまい、鍵が硬くなってしまうのです。ならば専用スプレーは普通の潤滑スプレーとどこが違うかというと、溶剤はアルコールとか石油系で蒸発するもので、粉末の潤滑剤を吹き付けるのだそうです。安くあげたかったら、鉛筆の芯を削って鍵に塗りつけてそれでがちゃがちゃさせて粉を中に塗る手もあるそうな。う〜む、たしかに黒鉛は層構造だから滑りは良いでしょうね。でも面倒くさいから今度ホームセンターに行ったら鍵穴スプレーを探してみようっと。
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『
Yの悲劇 』エラリー・クイーン 著、 大久保康雄 訳、 新潮文庫、1958年(86年51刷)、400円
失踪していた資産家ヨーク・ハッターが失踪から二ヵ月後に魚に食い散らされた死体となって発見される場面から物語は始まります。遺書を書いて青酸を飲んで海に身を投げるという念の入った手順でした。ハッター家は、異常者の集団でスキャンダルの巣窟でした。その中で唯一まとも(に近い)ヨークの死によって、ハッター家における悲劇の幕が開きます。
ヨークの死体発見から二ヶ月後、まずは長女ルイザに対するストリキニーネによる毒殺未遂事件が起きます。警察による捜査は行き詰まります。そこに、聴力を失うことでハムレット俳優の絶頂期でその道を断たれ、以後「ハムレット荘」と名付けられた古風な大邸宅に引きこもっているドルリー・レーンが探偵役として登場します。さらに二ヶ月後、ヨークの妻エミリが殺されます。マンドリンで頭を殴られて。“目撃者”は視力も聴力も失っている長女だけ。しかし彼女は重要な手がかりを提供します。犯人にはヴァニラの香りがしたと言うのです。マンドリン? ヴァニラ?
次に“密室”だったヨークの実験室に何者か侵入し放火します。誰がどうやって?
レーンは焼け跡となった実験室を秘密裏に捜索し、発見したものを隠匿します。なぜ?
レーンが発見したものの一つは、ヨークが書いた推理小説のあらすじでした。ハッター家でおきた一連の出来事はすべてこのあらすじ通りに進んでいたのです。そして、その小説での真犯人は、ヨーク自身でした。
謎の断片は、まるでジグソーパズルのピースのようです。いかにもつながりそうなものが全然無関係だったり、全然関係なさそうなものが実は隣り合わせだったり。それらのピースを組み合わせてドルリー・レーンが組み立てていくのは、ハッター家の呪われた「血」と「家庭環境」です。そして最後の殺人が。
世間から隔絶された環境に住まう裕福な一族。家族は皆心身どこかに異常をもった者ばかり。一見まともな人も何か秘密を持っている。おどろおどろしい雰囲気が盛り上がったところで起きる連続殺人。間抜けな警察・さっそうと登場する名探偵。日本人としては「いやあ、犬神家ですか」と言いたくなりますが、西洋人は逆に犬神家などをみて「和製クイーンか」と言うかもしれません。というか、この時期(20世紀前半)の推理小説で、ほとんどのパターンは出尽くしているような気がします。ミルン・クロフツ・クイーン・クリスティ……おっと忘れちゃいけない、ドイル。これらを簡単に超えることはできそうもありませんねえ。最近の作家も大変です。
クイーンがバーナビー・ロス名義で書いたこのシリーズを私が初めて読んだのは中学か高校の時。「
Y 」「
X 」「
Z 」「
最後の事件 」と読んで「しまった、Yを最初に読むんじゃなかった」と思った覚えがありますが、なぜそう思ったのかの理由は失念しています。物語の筋も、途中で使われる毒物についてちょっと覚えているだけ。いやあ、記憶力が怪しいのはありがたいことです。また読み直せて楽しめますから。
この「穴埋め問題」、ほとんどの人は「東海道」と答えそうですが、「東山道」を忘れてはいけません。奈良の都から美濃ー信濃ー上野ー下野ー陸奥ー出羽、と名前の通り山の中を貫いていく動脈路でした。東海道も律令時代にはでかい道が建設されてたそうですが、中世には廃れてしまったそうで、だから更級日記や在原業平の旅はずいぶん苦しいものだったことでしょう(後者はフィクションらしいとのことですが)。鎌倉幕府が立ってから東海道がまた整備され、江戸時代には参勤交代と大阪との商業のやり取りとで東海道はずいぶん発展して今に至ります(そして東山道はいつのまにか忘れられてしまいました)。
不思議なのは江戸時代にも「東海道」と言っていたことです。「東○道」とはつまりは「都より東への街道」のことですから、江戸幕府は「日本の中心は京都」と認めていた、ということなんでしょうか。
【ただいま読書中】
ある小さな美術館で奥の細道の絵巻物を見ました。江戸時代にあんな旅をするとはすごい人だと思っていましたが、解説のパネルで旅のルートを見て改めてそのすごさに感じ入りました。元禄二年三月二七日に出発。江戸ー日光ー松島ー平泉ー酒田ーそこから日本海沿岸を越前まで歩き、琵琶湖東岸を通って美濃大垣まで、143日・およそ450里の徒歩旅行です。整備された東海道の旅とは違い、東北の街道は未整備で事情も江戸には広く知られていません。では芭蕉は実際にはどんな旅をしたのか。『奥の細道』は公開を前提としたものなので「文学」になっています。随行した弟子の曾良が丹念な備忘録を残していますがこれも旅の実情を明らかにするには満足なものではありません。そこで著者は、他の人の旅行記などを手がかりに「芭蕉の旅」に迫ろうとします。
関所(幕府が設置)や番所(藩が設置)も旅人を悩ませます。普通は手形(パスポート)を見せれば問題ありませんが、中にはややこしい難癖をつけてくるところもあります(威張った役人のやることは古今東西差はありません)。関所破りというと後ろ暗い人間がやることに思えますが、善良な人間でも「この関所を超えたかったら、十四里戻ったところで出手形をもらってからにしろ」と言われたら、迂回路を考えたくなります(本書に紹介されているある尾張藩士の例)。番所で取られる通行料は、馬鹿になりませんが、さらに手形がないからと引き返すと、また一晩泊まらなければなりません。そうやってお金を落とさせようとする阿漕な政策は、旅人を不愉快にするだけではなくて、お財布に痛手を与えます。
芭蕉と曾良の旅姿を描いた絵を見ると、僧形の芭蕉は杖と菅笠を持つだけ、同じく僧形の曾良は背中に小さな荷物を背負っているだけ、と驚くべき軽装です。二人とも僧形なのは関所の通行などが簡略化される“実利”があるためです。さらに、泊まるのは半分以上(84日)は芭蕉の知人や弟子の所です。普段から芭蕉は手紙などで地方の弟子のケアを手厚くしていたため「お師匠様がわざわざ」となれば、滞在費はタダになりますし日用品の補給も楽です。さらに連句の会(普通数日間)の合間に近所の見物もできるし別れるときには餞別名目で“指導料”が入ります。また短冊に句を書いて“販売”することも可能でした。ということで、いわば「現地調達旅人」には軽装で十分なのでした。(もっと便利なところを旅する弥次喜多でさえ、絵で見る限りもっと重装備です) だからといって芭蕉の旅が“楽”だったわけではありません。徒歩は誰にも替わってもらえませんし、整備が不充分な道が雨で泥濘になるのはどうしようもありません(江戸からそう離れていない粕壁の北でも、大雨の後道は深さ一尺の泥道になったそうです)。しかも芭蕉はきれい好き。不潔な宿は我慢ならないのです。
しかし芭蕉は健脚です。一日八里九里くらい平気で歩きますが、それは当時としてはごく普通のことだったようです。特に健脚ぶりを示すのによく引用されるのが、『奥の細道』での「鹿沼→日光」です。辰の上刻に出発して午の刻に到着しています。明け六つを午前六時としたら辰の刻は八時。わずか4時間で七里十丁(当時の江戸標準では、三十六丁が一里)を歩いた、というか走破した計算です……が、実はこれにはトリックが。この日は四月朔日(太陽暦で五月十九日)。夏至の一ヶ月前であの辺は午前四時にはもう明るいはず。すると辰の刻(明け六つの一刻あと)は六時より前ですから、実は約6時間で約28キロメートル……これだったら当時の足達者には難事ではないでしょう。(ざっと指折り算でやってますので、小数点以下には突っ込まないでください) しかし、東照宮にも(神域への)山登りにもガイドがついて、拝観料や入山料とは別にちゃんとガイド料を払っていたとは、旅をするというのは本当に物入りです。
「奥の細道」以降「宗匠に続け」と弟子たちが続々東北を旅するようになり、結果として街道や宿が整備されるようになります。『奥の細道』以前にはほとんど存在しなかった東北の旅行記も芭蕉以後(特に100年くらい経つと)続々登場します。芭蕉は俳諧の改革者であると同時に、東北の旅行環境整備の開拓者でもあったのです。
台風一過と思ったらこちらでは雷とけっこう激しい雨。そして新潟・長野では震度6強の地震です。今のところ死者が3人とのことですが、これ以上増えないことを祈っています。以前の日記にも書きましたが「大天災の時には、重傷者ほど遅れて病院にやってくる」ものですから。
まったく、天災だから来る時期をこちらが選ぶことはできませんが、せめて「忘れた頃」にしてもらえなかったのか、と天に向かって恨み言を言いたくなります。
【ただいま読書中】
『
ラヴクラフト全集1 』H・P・ラヴクラフト 著、 大西尹明 訳、 東京創元社(創元推理文庫)、1974年(96年39版)、466円(税別)
最近長男が読んだのに逆影響を受けて、図書館から借りてきました。“その手の世界”ではクトゥルー(本書ではクトゥルフ)神話の“元祖”として有名な20世紀初めの作家ですが、その世界の外側ではまったく無名なんじゃないかな。
何も知らない人にとりあえずお勧めできるのは三番目の「死体安置所にて」でしょうか。死体安置所に閉じ込められた葬儀屋が経験する怪奇の恐怖と、ブラックユーモアと、与えられた情報がすべて最後にぴたりとあるべき場所にはまる快感とがすべて味わえます。
巻頭の「インスマウスの影」はクトゥルーの一編です。周囲の町からは忌み嫌われ地図にも載っていない町インスマウス。その沖の「悪魔の暗礁」は、周囲がいかに不漁でも常に魚影が濃く、インスマウスの精錬所では材料を運び込んだ形跡がないのになぜか時々金製品が出荷されます。そこに迷い込んだ主人公は、町から出ることができなくなり、泊まったホテルで深夜異形のものたちに襲われます。ネタバレになりますが、主人公は無事脱出できます。しかし、本当の恐怖は、その“後”にやってくるのです。それは主人公の内部にひそんでいました。
巻末の「闇に囁くもの」の舞台は、周囲の村人に忌み嫌われている山中です。その屋敷に住む主人と不思議な文通をしていた主人公は「地球は9番惑星(本作執筆当時、冥王星はまだ発見されていませんでした)からの訪問者に秘かに侵略されている」という恐るべき情報を証拠付きで知らされます。
怪奇小説だからといって別にデタラメではありません。むしろ著者は論理性を重んじています。脱出経路を綿密に検討してまるで現実の街の中を移動しているかのように“リアル”なものにしたり(「インスマウスの影」)、密閉された地下室でかすかな気流を感知するために地下室の扉を通風口つきのものにあらかじめ変えておいたり(「壁の中の鼠」)、「怪奇の原因」について懇切丁寧に説明をしたり。ただ、話のベースが「常識」ではなくて「非常識」なものだから、そういった著者の努力がちゃんと読者に届くかどうかで著者の評価が決まりそうです。あと「偏り」も読者を選びそう。長男は「対話がない」ことを指摘していましたが、たしかに本書には「生きた人間同士の対話」がありません。かぎ括弧は使われていますが基本的にそれは何かの説明をしているだけです。対話の場面の描写はありますがそこではかぎ括弧はついに使われません。「対話をした」とあって、あとはその内容が地の文で書かれるだけ。また、団欒とか誰かと食事を共にする場面もありません。読んでいて寒々とした気分になってきます。
著者が生きていたのは、開拓時代は遠くなり南北戦争の痛手もそろそろ忘れられつつある時代。「自分たちの国」という思いが根を下ろすべき土地が果たして本当に「自分たちのもの」なのか、という疑問をもっている人にとって、著者の“神話”(人類発祥前に魔術を用いる太古の文明があり、その一部が現在にも生き残っている)は受け入れやすいものだったかもしれません。その土地に神話があり、その神話が「自分たちの神話」と思えたとき初めてその土地は「自分のもの」になるでしょうから。
流行していて気になる言い方といえば、十数年前に流行った相槌の「嘘」。何を言っても「嘘」かにを言っても「嘘」。「嘘」「嘘」「嘘」「嘘」「嘘」とばかり返されると、「俺は嘘は(あまり)言わない」と言いたくなりましたっけ(実際に言ったこともあります。相手はキョトンとしていましたけれど)。数年前には「あり得ない」もちょっと流行りましたが、「嘘」ほどの勢いは感じませんでした。
最近だったらコンビニ敬語。ただしこれについては、彼らが育った家庭環境でちゃんと敬語に触れていないことも原因の一つでしょうから、“大人”にも責任の一端があるとは言えます。私自身、子供の前できちんと敬語を使ってお手本を見せているかと言えば……
で、もう一つ、「私って、○○じゃないですかぁ」……反射的に「知らねえよ」とか「あんたは有名人か」とか「そう主張しているのはあんただけだろ」とかのツッコミを入れたくなる物言いですが、これって何なんでしょう? 「○○であること」は本人には明らかなんでしょうね、自分のことですから。だけどそれは「自ずから明らか」なのではなくて「自分だけには明らか」なだけ。で、そういったプライベートな事柄を、他人に対して「当然知っているべきだ」「知っていないとしても、同意以外の反応を返してはならない」ととれる言い方をして押しつけるって、なんだかコミュニケーションの大前提が成立していないように思えます。そもそも自己評価なんてアテにならないものの代表(過大評価か過小評価であることがほとんど)なんですから、そんなの他人に押しつけても意味ありません。それともその自己評価に“しがみつかなければならない事情”でもあるのかな?
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『
キューポラのある街 』早船ちよ 著、 鈴木義治 絵、理論社、1963年(76年愛蔵版初版、86年22刷)、940円
時は昭和三十年代、豚コマ100グラムが35円、「かあちゃん」のビニール工場での時給も35円で、百円札と百円玉が併用されています。場所は鋳物工場が建ち並ぶ川口。主人公のジュンは中学三年生。とうちゃんは鋳物工場のベテラン炭焚き職人ですが、オートメ化が進む時代の流れに乗れず、少しずつ仕事の場が狭められています。一家は貧乏でかあちゃんはいつもお金の心配をしています。ジュンの弟タカユキは小五ですが、家の金に手をつけたり得体の知れない金を持っていたり、どうもグレ始めている様子です。飼っているハトに関してだけはとっても素直なのですが。
オープニングはなかなか衝撃的。一家に同居している叔母ハナエ(漁師の夫は李ラインを超えたと韓国に抑留中)が破水し、ジュンがお産に立ち会うシーンです。赤ん坊と後産の臭いがジュンにまとわりつきます。それからしばらくしてジュンは初潮を迎えますが、そこでの血の色彩描写は(男にとっては)やはり衝撃的です。女性にとってはどうなんだろう。これは私にはわかりません。嗅覚・視覚ときたら次は触覚ですが、それはジュンの初キスシーンですね。唇を這うぬるりとした気持ち悪さが、本書を初めて読んだときの私(思春期でした)にはなんとも印象的でした(今に至るまでしっかり覚えているくらいです)。その前の口紅のシーンからすでに伏線が張ってあったのではありますが。
その日暮らしの生活の苦しさの描写はきわめて具体的で(たとえば、蒲団は一家五人で三組だけ。ジュンのパンティの替えは継ぎの当たったのが二枚だけ。かあちゃんの晩ご飯のおかずは漬け物だけ……)、学業優秀なジュンが高校進学を望んでそれが叶えられるのかどうか、読者はハラハラさせられることになります。やがてジュンは、金持ちのお嬢さんノブ子との会話の中で、視野が「自分の家庭」から「社会(の構造)」に広げられます。この「視野の拡張」は、ある種の快感ですね。難問に直面した状況でも「こんなことに自分は気づいていなかったのか」とわかるだけで(たとえ解決方法が見つからなかったとしても)、気持ちはずいぶん楽になります。そしてジュンが「自分は個人であると同時に社会の一部でもあり、その社会の中で自分が生きていること」「家庭は自分と社会の間に位置し、自分の一部であると同時に社会の一部でもあること」に気づくシーンを読むことで、読者の視野もまた著者によって強引に広げられることになるのです。
そうそう、李ラインと同時に、ジュンやタカユキの同級生が北朝鮮に“帰還”するかどうか悩んでいる姿も目を引きます(特に、父は北朝鮮へ、母は日本に残る、となってしまったサンキチの決断の重さがずしんときます)。そして南も北も区別せず「チョーセン」とまとめて呼ぶ日本人も登場します。著者がご自分でも言っておられますが、本書はテーマてんこ盛りです。ただ、「社会」を描こうとしたら「そこに存在するもの」から著者は安易に目を逸らすわけにはいかなかったのでしょう。
それぞれの思いを胸に生きる人たち。それぞれの思いを叶えようと“日常”に潰されかけながらも必死に生きる人たち。彼らについて著者は過剰な説明や描写はしません。むしろ、ある人にスポットライトをあててちょっと見せたかと思うと、不親切なくらいさっさと場面を切り替えます。
本書は当時の読者にとって決して「他人の物語」ではありませんでした。身近な、あるいは「自分自身の物語」だったのです。たとえその「自分」がキューポラがない街に住んでいたとしても。でも現代だったら「自分の物語」はどんなものになるのでしょう? 塾帰りの小学生が栄養ドリンクをきゅーっとやるシーンから? でも、「自分」と「家庭」と「社会」の関係についての考察はそう大きな変化はないんじゃないかな。
私が子どもの頃、市内のデパートにエスカレーターが導入されました。今と違って上りだけでしたが“文明の驚異”を感じました。その後休日にデパートに家族で出かけたら、エスカレーターで最上階まで上がってあとは階段でぽくぽく降りる、が我が家の定番の行動になりました。その頃エスカレーターの乗り場で、足を出すタイミングがつかめないで困っている老人をよく見かけました。あの程度のスピードでも対応できなかったのです。
なんでそんなことを思い出したかというと、“わがこと”になったから。先日上京したとき、券売機の前で乗り換えルートを選んで行き先まで切符を買うのに、画面に行きたい駅名が出せず、数秒間とはいえ固まってしまい、結局適当に買って降りる駅(あるいは乗り換え駅)で精算をする、という手段を選ぶしかなかったのです。いやあ、悲しいなあ。年は取りたくないものです。でも、何も知らない人間でもそれほど困らずに切符くらい買えるように親切なシステムを作って欲しいな、とも思います。知ってる人は字なんか読まずにさっさと選択できるのだから、余分な文字があっても気にならないでしょ? だったら「わからない人のための案内」を画面に文字で出してくれても良いと思うんですけど。(ちなみに私が困ったのは、「羽田ー日本橋ー九段下」のルートで羽田の京急で券を買おうとしたら日本橋からの乗り換えルートが表示されなかったことと、「羽田ー天王洲アイルー国際展示場」で「天王洲アイルで乗り換え」を選択すると、値段だけがいくつか表示されて駅名が出なかったこと、です。「お金を入れたら券が出る」前にいくつも操作を要求されると、お上りさんにはハードルが高いです)
【ただいま読書中】
日本人は歴史的に肉食はあまりしてきませんでした(童話に狸汁が登場するし、江戸時代に何回も「犬食い禁止令」が出されたり江戸に肉屋(ももんじ屋)があったことから、まるっきり肉を食べなかったわけではないことはわかりますが)。宗教的な禁忌というより、国土の制限から牧畜の余裕はなく、魚と植物で十分自給自足できていたのでそれで食文化の型が完成した、が一番大きな原因ではないかと私は想像しています。それが文明開化から「西洋人と対等に」ということで肉食が公認(推奨)されました。率先して範を垂れたのは、16歳で即位した明治天皇でした。毎日牛乳二合を飲み、晩餐に西洋料理を採用しました。
そうそう、神戸牛はもともと、牛肉を食べたい外国人が「日本にないのなら自分でなんとかしよう」と輸入して飼い始めたのがルーツだそうです。(ハリスもミルク飲みたさに宿舎の寺で牛を飼って「生臭を寺に入れた」と日本人の反発を買っています)
いくらお上に勧められても、馴染みのない獣肉に対して庶民が示したのは拒否反応でした。しかし、牡丹鍋の猪を牛に替える、といった「日本化」によって少しずつ肉食は日本人に受け入れられていきます。使う調味料は醤油や味噌で、最初から「ステーキはレアに限る」ではなかったわけです。「文明開化」「牛肉を食わぬ奴は文明人ではない」のスローガンのもと、牛鍋屋が人気を博すようになります。そして牛鍋の次はすき焼きです。味噌か醤油か、割り下を使うか使わないか、と様々な試みによって現在の関西風関東風のすき焼きができあがります。ところが牛肉が流行するとさっそく「偽牛肉」が登場します。馬肉を牛肉として売るのです(夏目漱石『
三四郎 』にも偽牛肉の話が登場します)。また、病死した牛の肉を売ったのがばれて肉屋が舌を噛んで自殺未遂なんて事件(明治五年)も本書で紹介されています。肉の偽装は日本の伝統?
和洋折衷ブームによって、珍妙な料理も多数登場します。どじょうのトマトシチュー・サラダ入りおにぎり・レモン最中・アンモニアまんじゅう……(特に最後のはなんだ?) なんともはやの大混乱ですが、その中から和洋折衷の“スター”あんパンが登場したのですから、いろいろやってはみるものなんでしょう。
そして本書の“メインディッシュ”とんかつの登場です。明治の「肉解禁」からとんかつが誕生するまでになんと60年もかかりました。西洋の、薄切り肉を炒め焼きするカットレットが日本風のとんかつに変身するまでに、それだけの時間が必要だったのです。それは調理法の工夫に時間が必要だっただけではなくて、それまで馴染みがなかった豚肉を日本人が受け入れるのに時間が必要だったのでした。養豚が盛んになったのは1900年頃農商務省が欧米から種豚を輸入したころです。またその時期には家庭で洋食を作る環境が整備されてきていました。
しかし大正〜昭和初期のとんかつの食べ方は(今の目からは)風変わりです。まずソースをたっぷりかけます。それからころもをはがし酒を飲みながら肉だけ食べます。仕上げとして、残ったころもを崩してご飯に混ぜて食べます。つまり、“二回楽しめる洋食”だったわけです。私は子供時代に、皿に盛ったご飯にウスターソースをかけて食べていた時期がありますが、似た発想なのかな?
とんかつはそこで終わりません。カツ丼・串カツ・カツカレーとどんどん“発展”していきます……おやおや、全部私の好物ではありませんか。
「洋食」の定義として私が賛成できるのは「ご飯に合う(箸で食べる)西洋料理」です。そこで重要なのは「ご飯」(主食)の存在です。主食をいじるのは賛成できないけれど、副食だったら工夫の余地がある、という態度で、西洋料理をご飯に合うように味つけや調味を工夫したのが現在の洋食につながったのでしょう。それは西洋料理を不完全に再現したとか単に模倣しただけとか、ではないはずです。
しかし、明治の代では日本の料理にきちんと定着できなかった「パン」がカツのパン粉としてちゃんと台所にもぐり込んでいたのは面白いですね。
ところで「カツサンド」は、和食・洋食・西洋料理のどれなんでしょう?
「積善」はあるのに「徳を積む」もあるのに、「積徳」と言わないのはなぜ? そういえば「積善」と対をなす「積悪」ということばもあるのですが、どちらが多く使われていましたっけ……もしかして、スピード時代にはどちらもあまり使われていない?
【ただいま読書中】
『
完訳 千一夜物語 1 』マルドリュス版、豊島与志雄・渡辺一夫・佐藤正彰・岡部正孝 訳、 岩波書店、1982年(86年6刷)、2800円
バートン版が一番有名なのかと思っていましたら(そう思うようになったのは『
リバーワールド』シリーズ (フィリップ・ホセ・ファーマー)の影響でしょうね)、本書では「マルドリュスのフランス語訳『千一夜物語』は戦前すでに世界的名声を博していた名著であった」のだそうです。昭和15年から岩波文庫で出版が始まりましたが戦争で中断したりして完了したのは昭和34年。本書はその新版(単行本)です。
妻に裏切られたシャハリヤール王は、お后とそのお相手の奴隷の首を刎ね、毎夜年若い処女と寝てから翌朝殺す、を三年間続けます。とうとう相手を見つけられなくなった大臣は自分の娘シャハラザードを王に差し出すことにします。シャハラザードは妹ドニアザードを寝室に呼び、その前で王に抱かれた後で妹にお話をせがませます。そしてゆるゆると不思議な話を語り始めるのでした。さあ、千一夜の始まりです。
最初の夜の話は、魔神との約束で命を差し出そうとする商人が三人の老人と出会い、魔神に対して命乞いをしてくれる老人たちが話す不思議な物語です。魔術を使える妻が嫉妬のため妾とその息子を牛に変え犠牲に捧げさせようと画策するが……という劇中劇ならぬ話中話です。いや、シャハラザードが語る物語の中で語られる物語だから、シャハラザード自身を入れたら話中話中話かな。しかし、二番目の老人の話に登場する女魔神が「アッラーの思し召し」と言うのは、なんだか変です。キリスト教だったらサタンが「全能の神のおかげで」と言うのと同じになるんじゃないかなあ。
第三夜は「漁師と鬼神の物語」です。網に引っかかった壷を開けたら中から鬼神が、という有名な話です。「助けてくれたお礼に、殺してやろう」という鬼神に対して漁師は知恵を絞ります。しかしこのお話でも話中話があります。漁師が語る「イウナン王の大臣と医師ルイアンの物語」です。で、その物語の中にさらに「シンディバード王の鷹」「王子と食人鬼との物語」という物語が登場します。えっと、これは、話中話中話中話? わはははは。そこで話は漁師から漁師が捕った魚と王との物語にシフトします。荒技のストーリー展開です。
こうして話は悠々と次から次へと語られ続けます。本巻の終わりでやっと24夜。このペースだと40巻本になってしまうぞ、と私は思わず心配してしまいますが、ちょっとカンニングすると13巻でおしまいのようです。
本書にはエロティシズム(性と死)が豊富に盛り込まれていますが、エロにも二種類あります。からっと乾いたものとじめっと重いものと。前者の代表は、裸の女と男が自分の陰部を指して「なんと呼ぶ?」とお互いに言わせるシーンでしょう。処女がその日会ったばかりの男とそんな遊びをして良いのか、とこちらも明るく笑うしかありません。後者は、浮気がばれて問いつめられて口では否定しながらも相手の男に目配せした女に嫉妬した鬼神が裸にした女の四肢と首を順々に切り飛ばしていくシーン。ううう。
しかし姦淫・殺人・貪欲と次々「悪いこと」が登場しますが……十戒はどこ?(イスラムでも旧約聖書は生きていますよね) さらにイスラムでは禁止のはずの飲酒さえも堂々と登場します。ここまであっけらかんといろんなものを盛り込んでも「アッラー」の名を唱えればOKなんだろうか。
次男は今日が一学期の最終日……のはずだったのですが、今年から二学期制が導入されたため、単に一学期の途中に長大休暇が挿入されてしまった形となって、今日は単に休みの前日。だから授業も給食もいつも通りです。終業式も通信簿もなくて、明日から突然お休みなのです。なんか変な気分です。別の学区の二学期制の学校では秋休みを入れて、そのかわり夏休みを短くした、というところもあるのですが、こちらでは10月の三連休がそのまま「秋休み」なんだそうな。こちらもなんか変な気分です。そうそう、給食のおばさんたちは、労働時間が増えたことになりますね。普通だったら学期の最後の数日は給食はないのですから。あらら、お気の毒。
で、ちょっとややこしいことが生じました。次男が塾に行きたいと言い出したものですから、とりあえずこの夏の夏季講習(一週間だったかな)を受けることになったのですが、その初日が今日。ところが回りの小学校は終業式だから、塾は午後にどんと講習を入れています。ところが次男の小学校は午後も授業あり。おかげで講習の最初の授業、次男の学校の生徒は誰も受けられません。しかたないので塾の方で便宜を図ってくれて、夕方に次男たちだけ追加の授業、ということになりました。同じ授業を二回することになった講師の人には気の毒ですが、こちらも学校をさぼって塾に行くわけにも行きませんからねえ。
【ただいま読書中】
『
ブラウン神父の知恵 』G・K・チェスタトン 著、 中村保男 訳、 創元推理文庫、1982年(93年13刷)、485円(税別)
ブラウン神父の第二短編集です。私はこのシリーズは全部買っているはずなのですが、とりあえず手元に見つからないので図書館で出会った本書を借りてきました。
小柄なローマ・カトリックの教区神父ブラウンは、なぜか不思議な犯罪現場に居合わせてしまう、という希有な才能を持っています。もっとすごい才能は、ほとんどその場で謎を解いてしまうことです。犯罪現場とは離れた場所で安楽椅子に座ったまま、犯罪の話を聞いただけで謎を解いてしまう「アームチェアデテクティブ(安楽椅子の探偵)」ということばがありますが、ブラウン神父の場合は、「居合わせた探偵」とでも言うべきでしょうか。あまり綿密な捜査活動はせずに、もちろん派手なアクションも無しで、じっと状況を見つめ人から話を聞き出すだけで事件を解決してしまいます(話を聞くのは神父の得意技でしたね)。さらに著者は、単純な謎解きで話を終わらせません。ドレヒュス事件の陰を作品に投影したり(「ヒルシュ博士の決闘」)、安っぽいジャーナリズムへの皮肉をしっかりこめたり(「「紫の鬘」)、当時の素朴な科学絶対主義を批判したり(「器械のあやまち」)、大英帝国に各地の植民地からさまざまな移民が集まって来ている状況をトリックに用いたり(「銅鑼の神」)、謎解きの置かれた“環境”を忘れません。昔は子供の雑誌の附録によく推理小説のトリック集がついていましたが、そこにあるような簡単なトリック解説を読んだだけで「ブラウン神父」を読んだ気になったらそれは大間違い、ということです。事件の根底を流れる人の心理に対するブラウン神父の洞察一つでも簡単に要約できるものではありませんから。
最近の報道でこの表現をよく見かけるのですが、「クラス」がどこかに落ちていません? 「エコノミーな病気」ではなくて「エコノミークラスに代表される狭い席でじっとしているために血栓が発生する病気」ですよね。大切なのは「エコノミーかどうか」ではなくて「座席にじっとしていることとそれによって発生する病気」です。クラスを抜いたら意味が変わってしまうように思えるのですが。
【ただいま読書中】
『
芭蕉自筆 奥の細道 』芭蕉 著、 上野洋三・櫻井武次郎 編、 岩波書店、1997年、3360円(税込)
最近発見された芭蕉自筆の『
奥の細道 』です。前半は写真製版で現物が載せられ(下に活字で同じ内容が載せられています)、後半は句読点や読みがなをふった文章が起こされている、という懇切丁寧な内容です(ただし現代文への翻訳はありません)。前半をぼーっと眺めているだけでなぜか幸せな気持ちになれます。何ページか進むと、貼り紙をして訂正している部分が目立つようになります。場所によっては最初に書かれた文章が紙の下にうっすらと見える部分もあります。学術的にはこのあたりがものすごく興味深い部分なんでしょうね。私はあまり「学」に縁がないのでそのへんはするっと通過ですが。
出だしは有名な文章です。「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也。船の上に生涯をうかへ馬の口とらへて老をむかふるものは日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」ここまでとんとんとんと歯切れ良く文章が進み、唱えると快感です。しかし、第四文はちょっとだらだらとした旅路への想いの吐露で、あまり名文とは感じません。やたらと長いし……読んでみたいですか? 「いつれの年よりか片雲の風にさそはれて漂泊のおもひやます海浜にさすらへて去年の秋江上破屋に蜘の古巣をはらひてやゝ年も暮春改れは霞の空に白川の関こえむとそゝろかみの物に付てこゝろをくるはせ道祖神のまねきにあひて取もの手につかすもゝ引の破をつゝり笠の緒付かへて三里に灸すゆるより松嶋の月先心もとなし」……ふう。
しかしそれだけ憧れていた松島で芭蕉は句を詠んでいません。曾良の「松島や鶴に身をかれほととぎす」が載っているだけで、本人は「予は口をとちて眠らむとして」……あれれ、あれだけ「松島の月」に恋いこがれて旅に出るようなことを言っていたのにねえ……(その熱心さをわかってもらうために前段落で長々と引用しました) 出発のときだって、親しい人が千住まで船でやって来て、なみだなみだでお別れして、後ろ姿が見えなくなるまで見送ってくれるくらい悲壮な決心の旅立ちだったのに。
ところで(好きな人にはごめんなさいの発言ですが)松島ってそんなに絶景でしたっけ? 初めて見たときには、瀬戸内海の多島美のミニチュアにしか見えず、私はそれほど感激しませんでした。なにしろ子供の時から多島海は見慣れているものですから。いや、もちろん美しいとは思うのですが、どうせミニチュアだったら函館郊外の大沼くらいコンパクトな方がそれはそれで別の面白さだと思うのです。閑話休題。
後半はけっこう駆け足です。特に越後なんか数行でっせ。いくらなんでも扱いが軽くありませんか。ずっと付き従って旅のマネージメントをやっていた曾良とも山中温泉であっさり別れていますし、芭蕉ってけっこう性格はキツイ人かもしれません。
あと一週間で参議院選挙の投票です。
今の公職選挙法では、ネット上での「選挙活動」(特定の候補者を有利にあるいは不利にする活動)は禁止されているそうですが、「投票に行く」ことは憲法で保障された権利/義務のはずですから、そのことについて述べます。つまりこの日記は選挙活動ではありません。
現状に満足している人は投票に行きましょう。今の制度を守る可能性が高い人に票を投じるために。
現状に不満な人は投票に行きましょう。棄権することは「適当にやってくれ、俺は知らん、まかせた」の「白紙委任」で、その後文句を言う権利も捨てることですから。
100%自分の主張にピッタリの人はいません。だけど、ベストでなくてもベターを選択すること、それが人生でしょう。
いそがしい人は期日前投票に行きましょう。30年前の不在者投票の無愛想ぶりを記憶している者には、最近の職員の対応ぶりのにこやかさは夢のようです。手続きもかつての「なんで不在? 遊びだなんて、許さないぞ」からずいぶんゆるくなっています(ゆるくなりすぎて、二重投票や別人になりすましての期日前投票が可能になっているのはどうかと思いますけど)。手続きは面倒くさそうですが、海外でも投票は可能になっています。
ちなみに私の選挙区、二人区で自民と民主が分け合うのは確定のようで、こちらが遊べるのは比例区だけのようです。面白くないなあ。でも投票には行きますけれど。
【ただいま読書中】
『
泣いた赤おに 』浜田廣介 著、 偕成社(偕成社文庫2005)、1975年(83年9刷)、450円
子供時代に本書を読んだ人は幸いです。その理由はここには書きません。読んだ人にはわかっているし、読まない人にはわからないことですから。
「ココロノ ヤサシイ オニノ ウチデス。/ドナタデモ オイデ クダサイ。/オイシイ オカシガ ゴザイマス。/オチャモ ワカシテ ゴザイマス。」ここを読むだけで懐かしさがこみ上げてきます。そして、赤おにが泣く前に、こちらが泣きそうになってしまいます。
全体を通して平易で気持ちの良い文章です。音読したらその良さが改めてわかります。意識的な繰り返しが効果的なリズムを生み文章はすらすらと流れます。さらに最後の一行が、どの作品でもこちらの心に響きます。オチではありません。むしろ、読者の心を天上へと誘う、あるいは地平線の向こうを見たくさせる、とてつもなく大きな世界を含んだ一文なのです。
ただし、単に平和でのどかな「癒しの物語」ではありません。本書に収載された作品の多くでは大切な何かが失われます。「泣いた赤おに」では友人の青おに。「黒いきこりと白いきこり」ではくまときつねとりすの命。「第三のさら」では、天使が皿を壊してしまい、人に与えられるはずだった神からの恩寵は永遠に失われてしまいます。「ひとつのねがい」では主人公の街灯は最後に折れて倒れてしまいます。「ますとおじいさん」ではおじいさんは自分が放流したマスが池で育ったかどうか見届ける前に心を残しながら死んでしまいます。失われたものだけ見れば、それは悲劇です。失われたものと同時に、得たものもありますが、単に両者の量を比較して「得たものの方が多いからいいじゃないか」という主張を著者はしません。失われたものとそのかわりに得たものを淡々と併記して、「悲しむことと喜ぶこと、その両者が人生にはあるんだよ」「何かを選ぶことは、選ばなかったことをあきらめることなんだよ」と子どもたちに示しているようです。
人生に疲れたとき、本書から一日に一編ずつ読んだら、少しは癒されるかもしれません。少なくとも、生き続ける勇気が少し自分の中から湧いてくるでしょう。
アホな右翼とアホな左翼が出会ったら、喧嘩になるだけで会話は成立しないでしょう。
アホではない右翼とアホではない左翼が出会ったら、お互いの考えを変えることができるかどうかは別として、少なくとも会話は成立しそうです。
もちろん上の言説には“先例”があります。「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」(論語)。私は君子にはほど遠いけれど、せめて小人にはならずに生きていきたいと願っています。あくまで願いですけどね。
【ただいま読書中】
「水の神話」を中心軸に据えて、ユーラシア大陸の神話を読み解こうとする本です。
旧約聖書・古代インド・古代ギリシア・ローマ、とごく“普通”に話を進めていってその次に登場するのがケルト神話というのがちょっと変わっています。私はここで「を、期待できそう」と読む姿勢を正します。アイルランドにゲール人が定住する前、五つの種族が順々に移住をしてきていますが、それがそのままケルト神話に反映されているのだそうです。神話では最後にやってきたトゥア・デーダナン族は神族、先住のフォウォレ族は負けて魔族となり、最終的に神族は魔族を滅亡させると手に入れた地上の世界をゲール人に譲って“異界(一種の桃源郷)”にこもってしまいます。地上の世界は巨石塚とその下の地下水を通じて異界とつながっています。
ついで取りあげられるのメソポタミア神話。これまた珍しい。神々を生んだのは、男親アプスー(淡水)と女親ティアマト(塩水)。それにムンム(生命力)が絡んで(どう絡んだのかは本書からは読み取れません)、淡水と塩水が混じり合うことですべての神が生まれてきます。数代後の水神エアは「王殺し(先祖のアプスーを殺して王となった)」を行い、その子マルドゥクは火の神となり火・水・土・風の四大をもとに世界を創造します。
本書ではこのメソポタミア神話こそがユーラシア神話の大元ではないか、と仮説を立て、ギリシア神話などとの類似を述べています。
著者は各地の「洪水伝説」から「命の水」(インド神話なら神酒ソーマ)の共通概念を取りだし、その上に各地の「羽衣伝説」を乗せます。インドネシア・インドには日本のものとほぼ同一の羽衣伝説があります。そして北欧には白鳥の化身としての女性たち(ヴァルキューレ)のお話が。ヴェトナムの羽衣伝説はなかなかワイルドです。三人の天女の羽衣を隠した若者は殺されてしまいます。しかし“助けた亀”の恩返しによって生き返った若者はまたまた羽衣を隠し姉妹の末娘と結婚、一男をもうけます。やがて妻は隠されていた羽衣を発見して天に帰還、残された夫と息子は亀の薬で巨大化して天宮へ。大騒動の後一家は地上へ戻ってめでたしめでたし。
本書では「羽衣」と白鳥の関係にも注目していますが、ヴェトナムやインドネシアに白鳥っていましたっけ? むしろ渡り鳥一般を見た古代の人間が、渡り鳥を「ここ」と「ここでない世界」とを翼によって結ぶ神秘的な存在と考え、彼らと自分たちとを結びつける話として羽衣伝説を発生させた、というのもあり得る仮説のように思います。
しかし、離れたあるいは隣接した地域に似た構造の神話があった場合、ついつい伝播したのかと考えたくなりますが、可能性はそれだけではないでしょう。
小説のネタ探しではないのですから、他国からの旅人や漂着者から聞いた神話の一部だけを「あの神様、気に入ったからうちの神話にも採用しよう」とはなりません。神話は文化や宗教と密着しているのですから、そこから離れて神話だけがふわふわ伝播するとは私には考えにくいのです。むしろ「人の発想はどこでも同じ」(その極端な形がユングの「原型」)の方が考えやすいと私は思います。もし伝播するとしたら、人の移動に伴うか、あるいは政治的・宗教的な意図がある場合でしょう。
たとえばヒンズーと仏教では同じ神々が登場しますが、それぞれ立場が違います。(ヒンズーでは釈迦はヒンズーの神々の一人だし、仏教ではヒンズーの神々が釈迦のガードマン) 宗教的あるいは政治的に神話をいじくっているわけです。もっと政治的に神話をいじる場合として、征服・非征服があります。征服した方が、自分の神話に被征服側の神話を組み込んで「征服の正当化」を行う場合です。日本神話でも、国津神・天津神のあたりはそのにおいがぷんぷんしますね。
「ユーラシア大陸各地に類似した構造の神話がある。特に「水の神話」が根源的である」という指摘は面白いものですが、そこでもう一歩踏み込んで、せめて『全国アホ・バカ分布考』くらいの地理的・歴史的考察をしてくれたら、もう少し本書の説得力が増しただろうにと思います。「あそこもここも似ている似ている」だけですませたら「bone(ローマ字読みしたらボネ)と骨(ホネ)は音が似ているから、日本語と英語はルーツが同じ」と言うのと同類になってしまいます(boneと骨は今即席ででっち上げた物なので「似てないぞ」という指摘は、勘弁)。
もちろん「神話」ではなくて「民話」だったら移住ではなくて商行為のような人の移動によっても伝播するでしょう。インド→インドネシア→日本・朝鮮の羽衣伝説は、その経路かな。
アップルのiPhoneが評判になっています。ネットを眺めていると、良く言う人もいれば悪く言う人もいる。なかなか皆さん勝手なことを言っています。ただ、べた褒め一辺倒の人ってちゃんと使っているのかな、と思いますし(使い込んだらいろいろ不満が出てくるはずでしょう?)、逆にくさすことしかしない人もちゃんと使っているのかな、と思います(どこか良いところもあるんじゃないの?)。で、悪口ではない「批判」の中でも、ちょっと気になるのが「アップル社が切り捨てた部分についての未練をべんべんと述べる」もの。
アップル社はけっこう思い切りの良い会社で、「これまで重要だとされていた機能」をあっさり捨てて新製品を出す傾向があります。たとえばiMacではフロッピーディスクをあっさり捨てました。Macintoshも出たときには拡張性ゼロでしたし、当時のパソコンでは“常識”だった「フロッピーディスクドライブは2台」を捨てて1台としました。当然のように「アップル社が捨てたもの」に対して「ないと困る」という“批判”が多く聞かれたのですが、実際にそれでひどく困ったという経験が私にはありません。「アップルにないもの」を使いたいときにはアップル以外のマシンを使えばすむことで、アップルならではの利点はMacintoshを使うことで十分得られました。Macintoshの不便さでめそめそするより、現世のご利益を享受すればよい、メーカーが思い切りがよいのならユーザーも思い切れば良いし、合わなければその会社(あるいはその製品)は見限れば良いだけのことです。
アップルだけだと内容が偏りますね。サブノート型ノートブックパソコンも取りあげましょう。これも出始めた頃「A4型と比べて、タッチタイプがやりにくい」と文句を言う人がたくさんいました(パソコン雑誌でプロでもピッチがどうのストロークがどうの、と盛んに文句を言う人がいましたっけ)。だけどA4の使い勝手をB5に求めるのはそもそも無理難題でしょう。A4のキーボードを使いたいのならA4を使えばいいのであって、B5にはB5ならではの使い方があるはずです。(そもそもお気に入りのフルキーボードが“標準”なのなら、A4ノートブックにテンキーがないことに文句を言いますか? ……いや、もちろんたまには欲しいこともありますけれど)
別にメーカーに迎合する必要はありませんが、だからといってメーカーが自分の思いを(たとえ物理的に困難でも)すべて叶えるべきだ、というのもちょっとどうかな。どこかで自分の思いも切らないと何もかも収拾がつかなくなるんじゃないかしら。
【ただいま読書中】
新聞によく載っている「金庫がバールのようなものでこじ開けられていた」という記述に引っかかるものを感じた主人公は「バールのようなもの」の正体探しを始めます。「バールでこじ開けられた」と書かずに「バールのようなものでこじ開けられた」である以上、「(バールではない)バールのようなもの」でこじ開けられているのです。では「それ」は何なのでしょう。なぜ「バールのようなもの」と表現して「そのもの」の固有名詞を書かないのでしょうか。主人公はそのわけを探ると同時に「バールのようなもの」の探索を始めます。しかし、「バール」はあるのに「バールのようなもの」はなかなか見つかりません。主人公は困ります。別に「バールのようなもの」を使って悪いことをしようと思っているわけではありませんが、気になるではありませんか。皆は平気でその言葉を使っているということは、その正体を知っているわけで、自分だけ知らないのはなんとなく腹が立つではありませんか。そしてついに主人公が出会った「バールのようなもの」とは……(「バールのようなもの」)
歌舞伎俳優の独白をそのままシェークスピア俳優に置き換えてみました、という趣向で始まりますが最後は意外にも……(「役者語り」)
みどりの窓口で日常繰り広げられる静かなどたばた。(「みどりの窓口」)
ある地方新聞の1992年正月特別版をまるごと作ってしまいました。(「豪奥新報元旦号第二部」)。
「その地名の謂われ」を逆にして「愛知県の地名」がすべて妖怪の名前からついたものだとしたら、という発想から書かれた短編です。いやあ、もっともらしい妖怪が次から次へと登場します。ついでに著者の知り合いらしい人の名前も列挙されるのはご愛敬。(愛知妖怪事典」)
そして最後の「新聞小説」。各紙の新聞連載小説の一回分を列挙してみました、という趣向です。いやあ、これは笑えます。単なる列挙ではなくて中に一文だけ“仕掛け”がしてあって……私はここで「地方新聞をその土地から離れた自分の家に送ってもらうのに、連載小説が面白かったから、なんて余計なことを書いて申し込んだために、ある犯罪が明らかになってしまった」という短編を思い出してしまいました。誰の何と言う作品だったかは忘れましたが。
面白いのですが「清水義範ならではのものすごい面白さか」と問われたら即答するのにちょっとためらいを感じる作品が並んでいます。ちゃんとひねってはあるものの基本的にワンアイデアストーリーばかりなのです。作者に張られた「パスティーシュ」というレッテルを見て本書を読むと期待はずれかもしれません。ただし「クスリと笑える短編集を読みたい」だったらその期待は裏切られないでしょう。
昔全日本サッカー監督をやっていたトルシエさんは“敵”が多くていろんな批判や非難をされていました。選手起用や育成に関するものは様々な意見がありましたが、「これは言いがかりでは?」と思えるものもありました。そういったものの中の一つが「選手に対してフランス語で喋って日本語を使おうとしない」という意見です。
本当に「日本人選手と監督は日本語でのコミュニケーションが必須」なのなら、トルシエさんにこう言っていた人はトルシエさんの後任のジーコさんや現在の監督オシムさんに通訳がついていることにもかみつくべきでしょう。でもそんな“批判”は(私が知る範囲では)聞きません。選手起用とかスケジュールとかについては皆さん相変わらずいろいろ言っていますが。じゃああの「日本語を使わないのはけしからん」は結局何だったんでしょう?
【ただいま読書中】
『
スクープ撮! 』アントニオ・パニョッタ 著、 菊地真美 訳、 講談社、2001年、1600円(税別)
カメラマンの著者はバブル景気の最中に来日し、日本に「まっとうなジャーナリズム」が存在しないことに驚くと同時にチャンスを感じます。この環境なら思う存分仕事ができて日本のジャーナリズムが伝えないニュースを伝えられるから。たとえば記者クラブの存在を著者は「接触による腐敗」と表現します。記者クラブは情報操作に手を貸していますが、情報を握っているもの(権力者)が報道機関を牛耳るのは発展途上国と専制国家と日本だけだ、と(イラク戦争でUSAもここに加わりましたね)。
地下鉄サリン事件の日、著者はカメラの前で踊っていました。金がなくなったためアルバイトでCMモデル(森高千里の「ジン・ジン・ジン」のCM)をやっていたのです。オウム真理教への強制捜査が行われ、警察は情報を小出しにします。著者は自分の目で事実を確認しようと現場に向かいます。著者が見た第七サティアン内部は、警察発表ともオウム真理教の発表ともずいぶん異なるものでした。その写真を“証拠”としてつきつけ、著者は記者会見の席で上祐に向かって「You are lying.」と言います。ところがそれは「You are a liar.」と報道され大騒ぎとなります。著者としては不本意です。言葉ではなくて写真で評判を取りたいのですから。
しかしまあ、著者はしたたかです。「ガイジン」を武器に著者はするりするりとあちこちの隙間からもぐり込みます。麻原の法廷で違法な撮影を行い、著者はまたもや大騒ぎの渦中に身を投じることになります。著者は、大メディアは腐敗していてジャーナリズムというより官僚になってしまっているから、自分のようなフリージャーナリストが活動するしかない、と考えています。大メディアにはきっと別の言い分があるでしょうね。
次は1997年、動燃東海事業所アスファルト固化処理施設での火事です。動燃は情報を出そうとしませんが、著者はさっさと侵入して(といっても、鍵がかかっていない通用門を抜けて、切られていた鉄条網の切れ目をくぐっただけで)自分で情報を取ってしまいます(「取って」は「盗って」かも)。警備員に捕まった著者を目撃した新聞記者は、抜け駆けをした著者を罵るのに忙しくて大スクープ(著者の行為そのものと中で著者が見たものを即座にインタビューして得ること)を逃してしまいます。あらあら、もったいない。
最後は北朝鮮。中国との国境をあっさり越えた著者は、北朝鮮で貴重な体験をします。しかしこの国境越え、ちょっとぽかんとしてしまいます。そんな越え方って、あり?
「報道の自由」が絶対的なものか、には疑問がありますが、少なくとも著者は(本書に書いている限りでは)「自由の濫用」は避けようとしているようです。それは阪神淡路震災のときに即日現地に飛んで写真を撮ったときの「私のストロボの光は、被災した人たちの肌に食い込むクギなのだ。ここでの私は、単なるのぞき屋ではないか。私は自分を憎んだ」という記述にも現れています。自分は撮影ではなくて救助をするべきではないか、という自問は誰にとっても重すぎるものです。
それと、カルト教団や官僚や原発推進派から目の敵にされるのは当然(?)として、同業者からの妬みや中傷の悪辣さ(具体的にいろいろ書いてあります)には、こちらも気が重くなります。悪口を書かせたらそれはプロですから、さぞ本人にはこたえる書き方だったことでしょう。あまり鵜呑みにしないように、メディアリテラシー(または「眉に唾」)は大切です。もちろんその態度は本書に対しても貫くべきですが。
書き間違いや無効な票は明らかに無駄な票と言えます。落選した候補に投じた票も「無駄になっちゃた」ですね。だけど、圧勝した候補に投じた自分の票もまた「無駄」とは言えませんか? 自分の票があってもなくても選挙の結果は1ミリも動かない(何らかの効果を有していない)点では同じなのですから。
ならばどんな場合なら「自分の一票が無駄ではなかった(有効だった)」と言えるのでしょう。たとえば一票差で当落が決定して、かつ、当選した人に自分が投票していたら、その時は「自分の票が無駄にはならなかった(自分の一票によって当落が決定された)」と主張できます。でもそんなことってほとんどないわけです。ということは、ほとんどの場合は無駄になることが前提で投票しなくちゃいけない訳。
……しまった、こんなことを投票前に考えるんじゃなかった。棄権は票ではなくて権利の無駄ですから、棄権よりは自分の票が“無駄”になる方がはるかにマシですけどね。
【ただいま読書中】
『
CIA失敗の研究 』落合浩太郎 著、 文藝春秋(文藝新書445)、2005年、720円(税別)
諜報機関が扱うモノは、「情報information」と「諜報intelligence」に大別されます。前者は生のデータ、あるいは合法的なデータ。後者は情報を分析・加工したもの、あるいは違法に入手したデータ、と定義も混乱しています。アメリカの諜報機関は15もありCIAがその中の一つに過ぎません(しかもその中で最大のものでもない)。
「スパイ」は諜報機関が用いる手段の一つに過ぎません。諜報の手段は、人的諜報HUMINT、画像諜報IMINT、信号諜報(通信傍受)SIGINT、測定・評価諜報MASINT、公開諜報OSINT、に大別されます。MASINTはまだ定訳がありませんが、たとえば北朝鮮の大気を分析して核開発を探ったりする手法です。007のような人間(HUMINT)を私のような素人はまず想起しますが、実際にはそれ以外の手法も従来から重要でした(第二次世界大戦の諜報で一番大きな成果は、アメリカによるドイツ・日本の暗号解読でしょう)。ただ、HUMINTはなかなか“表”に出ないので評価が難しい点を忘れてはいけません。
9・11同時テロ直後にCIAの「アラビア語軽視」(アラビア語や文化が理解できる人間がほとんどいなかった(当時のCIA職員16000人中アラビア語に堪能なのは5人だったそうです)が問題になりましたが、実は“先例”があります。冷戦時代には「ロシア語軽視」だったのです。(なんだか「鬼畜米英、敵性語は禁止」を思い出します) その結果「ロシア語ができる」というだけでふだんの行動や金遣いにあからさまに問題や不審点がある人物が作戦本部に登用されてしまい、後日ソ連の二重スパイだったと判明したエームズ事件が起きてしまいます。同じく1990年代には、CIAはメキシコ金融危機やインド核実験の予測を外しますし(どちらも公開情報だけで民間で予測されていました)、スーダンの民間工場をアルカイダの毒ガス工場と誤判断して爆撃させ、ベオグラードの中国大使館も爆撃させてしまいます(99年のコソボ空爆で、CIAが提案した唯一の爆撃目標でした)。もちろん“成功”もあるのですが、1990年代にはどうも“失敗”の方が目立つようです。長官も「こんな人で良いのか?」と言いたくなる人が次々と就任しています。CIAは、アメリカのためではなくて自分たちのための官僚主義の巣窟になっていたのでした。現場で体を張るものよりも机に向かい続けるものの方が早く出世し、部門間の競争(足の引っ張り合い)も目立つようになりました(たとえば“新参者”の対テロ部門は90年代には軽視されていました)。
アルカイダは1988年に創設され、92年にはアメリカに対する最初のテロ(イエメンで爆弾テロ)を実行します。93年自動車爆弾によるワールド・トレード・センター爆破事件。94年ハイジャックした旅客機を国連本部・ホワイトハウス・国防省などに突入させる計画の存在を国防総省が警告。98年ケニアとタンザニアでアメリカ大使館爆破事件(前年にはアルカイダの内部から密告がありましたが、CIAは無視)。そして98年末、ワールド・トレード・センターへの旅客機突入計画をCIAは知ります。2000年イエメンでアメリカ海軍駆逐艦コールの爆破。2001年7月にアルカイダによるアメリカとイスラエルに対する大規模なテロの恐れが警告され、8月に航空訓練学校に通う不審なアラブ人が一人FBIに逮捕されます。しかし自爆テロの情報が入っていた彼のコンピュータは調べられませんでした。そして9月10日「明日決行」というアラビア語のメッセージをNSAは傍受します(ただし翻訳したのは同時テロの後でした)。
諜報機関の仕事はジグソーパズルに例えられるでしょう。幾つものパズルを混ぜ合わせてその中からピースを拾い集めて特定のパズルを完成させる作業です。手に取った「そのピース」が「どのパズル」のものなのか、そもそもそのピースが正しい形を保っているのか、誰も保証してくれません。後知恵で「ピースがほとんど揃っていたじゃないか」と批判するのは簡単ですが、“事前”にその判断ができる人はあまりいないんじゃないかなあ。もっともCIAの場合は、FBIその他の諜報機関との足の引っ張り合いに忙しすぎて、お互いの手持ちの情報の交換さえ録にやっていなかったことが大問題ではあるのですが、競争社会では協力より競争ですからそれは仕方ないことでしょうね。ブッシュやクリントンという外交軽視の大統領を選択したことを含めて、アメリカ全体として“その道”を選択したのですから。
本義は聖なる職ですから僧侶や神官のことですが、日本では教師や医師も聖職者扱いされたことがありました。それは「社会にとってものすごく大切な領域だから、実社会のしがらみやどろどろから離れていて欲しい」という社会の願望や期待が投影されていたのではないか、と私は想像します。
現在日本で進行中の教育改革や医療改革は、そういった「聖域」にむき出しの経済や政治を持ち込むプロセスです。そうそう、福祉もずいぶん経済の概念を持ち込まれて改革されてしまいました(現在進行形)。これはつまりは「“聖職者”を“普通の人間(労働三法に保護される労働者)”に直す改革」とも言えます。聖職者が多すぎることが社会として望ましいかどうかは疑問ですが、さて、聖なる領域が存在しない社会というのはたとえば弱者にとって住みやすいところなのかしら。たとえば経済優先の医療・福祉・教育って、みなさんお好きですか? 今さら言ってもしかたありませんけれど。
蛇足です。政治改革は上記とは逆に、政治に食い込んでいる経済を政治家から遠ざける方向にきちんとすること、ですよね(政治家には別の意見があるかもしれませんが)。同じ「改革」という文字列を使うから、勘違いしそうです。
【ただいま読書中】
『
千一夜物語2 』マルドリュス版、豊島与志雄・渡辺一夫・佐藤正彰・岡部正孝 訳、 岩波書店、1982年(85年5刷)、2800円
第一巻の続きで、第24夜「せむしの男および仕立屋とキリスト教徒の仲買人と御用係とユダヤ人の医者との物語──つづいて起こったことども──ならびに彼らがおのおの順番に話した出来事」では、一つの死体が、ユダヤ・回教徒・キリスト教徒とぐるぐる回されそれぞれの場所で騒動を起こします。まるで「
ハリーの災難 」(ヒッチコック監督)です。そして全員が一堂に会していつもの物語合戦が始まります。ここでのキーワードは、財産と恋と体の一部を失うこと。まるで落語の三題噺です。例によって話中話中話がありますが、その中で一番幅を取っている“口数が少ない床屋”(の兄たち)の物語が、内容はそれほど奇想天外ではありませんが、その長さたるや、いかに床屋が“口数が少ないか”がよくわかります。さらにこの物語は「話を聞く王様」がなかなか満足しない点でもこれまでの話とは変わっていますが、さらに最後の最後にどんでん返しが。物語自身の面白さでは劣るものの、語り口の技法では第一巻より進歩しているように思えます。あ、艶笑度は本巻の方が第一巻より明らかにアップしています。シャハラザードもいろいろ“進歩”しているのかな。
かと思うと、スーダンの三人の黒人宦官が語る、なぜ自分が宦官になったかの物語では、第三の宦官パキータはあらすじだけちょちょいと話しただけでさっさと退場してしまい、話は商人ガネムと生き埋めにされた乙女クワトとの物語にシフトしてしまいます。
本書を読んでいると、アラビアでもディープキスをしていたとか、アラビアの宦官は睾丸は切り取るが陰茎は残す(中国の宦官は両方とも取られる)とか宦官にするための手術は床屋が行う(床屋外科?)とか、金持ちは気前よく財産をばらまくことが社会で高く評価されるとか、余計な知識が身に付きます。さてさて、やっとこれで44夜。まだまだ先は長い。
もうそろそろ結果が出ますが、さてさて、どんな結果が出て、それが次のどんなものの原因になるのでしょう? 当然のことですが今生きている人のほとんどは明日以降も生きていくのですから、「結果が出ておしまい」では困ります。
そうそう、どんな根拠があるのか知りませんが「○○党が勝ったら日本経済は……」良くなるとか悪くなるとかの言説を見ると「読売ジャイアンツが優勝したら日本経済はよくなる」とか“予測”している人の言説を思いだします。そういえばあっちの“予測”が当たったことと外れたことのどちらが確率が高かったっけ?
【ただいま読書中】
シャーロック・ホームズもチャレンジャー教授も登場しない、コナン・ドイルの短編集です。
「消えた臨急」……列車消失トリックですが、レトロです。どのくらいレトロかというと、消える臨急はSL。トリックの主体をなす線は炭坑への支線。イギリスからアメリカに渡るのに使われるのは客船。
「甲虫採集家」……新聞に載った雇用広告は奇妙な条件でした。期間は一日または数日、しかも「医師、身体強健、精神堅固、昆虫学者ならなお可」というのです。条件を満たしかつ興味を持ったハミルトンを雇ったのは医師資格を持つ貴族。どうも家族の醜聞が関係しているようで、雇用主はつまびらかな事情を明らかにしません。それでも高給と謎に惹かれハミルトンは雇われることにします。連れて行かれたのは貴族の義弟の館。そこでハミルトンは不寝番をすることになります。なぜ甲虫。なぜ医師が二人。なぜ不寝番。
「時計だらけの男」……走行している列車の一等車の二つの車室から三人の男女の姿が消え、そのかわりに乗るところを誰も見ていない若い男の射殺死体が残されていました。なぜか死体のポケットには金時計が六つも。
「漆器の箱」……読んでいてアガサ・クリスティの「アクロイド殺し」を思い出しました。ハイテクを小説のネタにすることは、いつの時代でも当然のことだったんでしょうね。
どの小説も提起される謎は魅力的ですが、謎解きは、犯人や目撃者から後日もたらされた手紙や、裁判での証言など、あまりドラマティックではありません。やはり、名探偵・探偵の助手(証言者あるいは解説者)・きちんと謎を解けない間抜け役、が揃わないとミステリーとしてはどきどきできないのは、そんな体になってしまった私が悪いのか、それともそんな風に躾けてくれた過去の推理小説作家たちが悪いのか……さて、これもミステリーかな。
一見キリがよくない数字ですが……
文科だか鈍化だか知りませんがそんな人たちに「キリの良い3でもいいよん」なんてことを言われた「例の数字」の1万倍の整数部分です。「いちまん」はキリがよいでしょう?(諸般の事情で小数点以下は省略)
ちなみに今回の“キリ番”をゲットされたのは ぺん さん でした。私のマイミクさんは生活パターンが似た人が多いのか、足あと帳を見るとわりと固まった時間帯に足あとが集中していることが多いのですが、今回もある程度ゆるい塊の中からみごとゲットされています。おめでとうございました。(なお“前後賞”は Canonさん と ITALさん でした)
アクセス22,222は今年1月5日で「ふふふふふ」と洒落ましたが、なんだか足跡がつくペースが速くなっているような気がします。時間が加速している?
【ただいま読書中】
『
週末の鬱金香 』田辺聖子 著、 中央公論社、1994年、1068円(税別)
日曜に図書館をうろうろしていたら、次男が「これ面白そう」と背表紙をびっと指さした勢いに負けて借りてしまいました。田辺さんの作品を読むのはたぶん初めてのはず。内容が小説なのかエッセーなのかも知りません。まあ取りあえず本を開いてみましょう。
「冬の音匣(オルゴール)」……NHK朝の連続ドラマ「
芋たこなんきん 」での二人のなれそめを思い起こさせる内容です。ただしこちらで出会うのは、ニューヨークに憧れる28歳のキャリアウーマンといつかは独立を夢みる電気会社の職人(27歳、けっこうハードな過去あり)です。二人のやり取りは、なんというか気持ちの良いテンポで進みます。感情に走るでなし、といって論理に堕するでもなし。ただ、冗談と本気の境界を「ここで間違えたらあかん」という場面できちんと見極めることができるのは、やはりフィクションだからでしょう。現実世界ではなかなかこうはいきません。3回目のデートでのプロポーズ……「(二人の年を)合わせて五十五や、分別ざかり、いう奴よ」には笑ってしまいます。ハシテラを二人でぱくつく素敵な夫婦になれるだろう、と勝手に私は応援します(ハシテラが何か、は本書をどうぞ)。
「夜の香雪蘭(フリージア)」……こちらに登場する男女は58と60。ぐっと渋めです。美貌が自慢の従姉に対する複雑な感情。その夫だった人に対するもっと複雑な感情。夜に満ちる花の香りのような感情と感情の絡みが静かに描写されます。
「卯月鳥(ほととぎす)のゆくえ」……市場で荒物店を一人で守る卯女子(うめこ)は40年ぶりに市場を訪れた上垣と“再会”します。一人になったときの口癖が「死にたくはないけど、いつ死んだっていい」か「いつ死んだっていいけど、死にたくはない」の卯女子にとって、上垣との会話はひさしぶりの「人との会話」でした。泊まりがけのデートの約束をすっぽかされた卯女子ですが……
「篝火草(シクラメン)の窓」……こちらは64と68……読者としてはもうこうなったら年齢なんかどうでも良くなってきます。二色のシクラメン、一期一会、「レンタル」の人との思い、生きていてくれるだけでありがたい存在……「余生」ってなんだろう、との想いが脳裡をふとよぎります。まるで一瞬通り過ぎた花の香りのように。
「雨の草珊瑚」……一人で暮らす34歳の占い師。商売上の秘密は「匂い」。人の無意識の感情を嗅いでしまう能力を持っているのです。彼女は隣で一人で暮らす男の匂いに惹かれます。二人は少しずつ接近しますが……
「週末の鬱金香(チューリップ)」……「男に人気の女と女に人気の女との違い」についての考察、と言うとちょっと硬いけど、「なんであんな人間が異性に人気なんだ」と思ったことがある読者には、男女を問わず身近な話題が展開します。しかし「裏表女」の悪口ばかり言っている(思っている)主人公だって、けっこう「裏表」じゃないですか。まあそれが可愛いんですけどね。
「生きがいとは、人との関り」という著者のささやかな主張が巻を貫いています。ささやかだけど、大切なことです。ただし「良い人」との関りに限定ですけどね。
1)放射能漏れは観測されていません。(当日)
2)実はちょっとだけ洩れてました。(翌日)
3)洩れていたけれど、大量の海水で薄まるから放射線障害が生じる心配は科学的にはありません。(数日後)
こんな“一貫した態度”を見ていたら、4)5)があるのではないか、と疑う人が出てきても不思議はないでしょう。。
4)放射線障害が発生したと言う人がいるが、確認できません。(何年も後)
5)放射線障害が発生したけれど、受忍限度内です。(さらに何年も後)
【ただいま読書中】
核燃料サイクルで核燃料は様々な施設の間を動きます。ウラン鉱山・精錬工場(ウラン溶液を精製・濃縮・沈殿して黄色いペースト(イエローケーキ)にする)・転換工場(イエローケーキの不純物を除去して天然六フッ化ウランに転換する)・ウラン濃縮工場(天然ウランに0.7%しか含まれないウラン235を2.5〜5%まで濃縮する(多数派のウラン238は核分裂しません))・再転換工場(六フッ化ウランをUO2粉末に再転換する)・成形加工工場(粉末ウランを整形焼結して燃料ペレットを製造、ペレットを管に詰めて燃料棒とする)・原子力発電所……ここでおしまいじゃないですよ……再処理工場(未分裂のウラン235とプルトニウムを回収)・使用済み燃料中間貯蔵施設・MOX燃料工場(再処理過程で得られた粉末をプルサーマル用燃料集合体として成型加工)・低レベル放射性廃棄物埋設センター・高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター・高レベル放射性廃棄物最終地下処分場……これで書き落としはないかな。これだけの施設が一ヶ所に固まっていれば話は楽ですが現実はそうではないので「輸送」の問題が生じます。
輸送中に大切なのは「容器から放射線・放射性物質が洩れないこと(作業員と経路住民への被曝防止)」と「収納物が臨界に達しないこと」です。また、六フッ化ウランは放射線についてはそれほどおそろしくありませんが外界に放出されると水分と反応して有毒なフッ化水素が発生することが問題となります。
核燃料等の輸送に関する法的な根拠はIAEAがまず作り定期的に改訂しています。その規則や勧告を各国が自分たちの法体系に取り入れて様々な法令を出しています。内容はさすがによく考えられていてどこにも隙はないように見えますが、問題はやはり「それが現実にちゃんと行われるか」と「想定外の事態に対応できるか」でしょう。前者の心配は「バケツでウラン」で実証されてしまいました。後者の方は「想定外を想定することの難しさ」を考えると頭が痛くなります。さらに、マニュアルが完備していると安心してしまうタイプの人間は、平時に異常事態を想定する人間を自分の身近から排除しようとしますがいざちょっとでもマニュアルから外れた事態が起きたら使いものになりませんからねえ。想定外(マニュアル外)の事態にも臨機応変に対応できる人間を育成するマニュアル、なんてものはどっかにないかしら。
輸送容器に対していろいろな強度試験が行われますが、ちょっと気になったのは自由落下試験が15トン以上(使用済み燃料・高レベル廃棄物)の場合0.3mということです。5トン未満(濃縮ウラン、燃料棒、MOX燃料、酸化プルトニウムなど)でも1.2m。平時の積み卸しではそれで充分な想定なのでしょうが、輸送中に高架道路や橋を通過中に大地震で道路が破壊されて下に落っこちた場合、なんてのは「あり得ない」「想定外」ですませて良いのかなあ……と思っていたら、ちゃんと9mの落下試験がありました。800度の熱環境に30分とか水深15メートルの水圧に8時間とかの耐久試験もあります。よかったよかった。あとは「偽装」がないことを祈るだけです。
テロ・事故・災害(天災と人災)などを私はとりあえず思いつきますが、さて、それらに対してどこまで手を打つべきなのでしょう。心配性の私としては、特にテロが気になります。爆弾作りや都市でのばらまき目的での強奪も心配ですが、港湾やターミナルなどを汚染させる目的で自動車爆弾なんかで襲われたとき中身が洩れないことを祈ります。いや、悪意とやる気で満ち満ちた人間は、どんなことでも思いついて実行しますから。