mixi日記07年8月
「値上げが値下げだ」と言いながら昨夜のTVニュースでいろんな映像が流されていましたが、たとえば東京銀座三越前の道路を買う人って、います? いや、路線価が売買のためではなくて遺産相続のためとは聞いていますがやはり「モノ」に値段がつけられるとついついそう思ってしまうのです。おっと、そもそも企業の土地は“遺産相続”されるのかな?
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『
千一夜物語3 』マルドリュス版、豊島与志雄・渡辺一夫・佐藤正彰・岡部正孝 訳、 岩波書店、1982年(85年4刷)、2800円
本書は「オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子シャールカーンとダウールマカーンとの物語」で始まります。明らかに一夜に語られる物語の量が減り数ページごとに朝がやってきます(第57夜くらいからわずか3ページで翌日になってしまいます)。夜が短くなったのか、あるいはシャハラザードと王とがなにか話以外に楽しいことをやっていてお話の時間が短くなったのか、それはわかりません。ただし、日数はとんとんと進みますが本巻の最初に登場する王子シャールカーンはずいぶんと焦らされます。キリスト教徒の王女アブリザは、意識してか無意識にか、王子になかなか身をまかせようとはしないのです。シャールカーンの父王は、360人の側女を持っていましたが、アブリザに横恋慕し麻酔薬を使って強姦し孕ませてしまいます。息子の恋路を邪魔するとはとんだ父ちゃんです。結果アブリザは黒人奴隷に殺され、シャールカーンはダマスに遠ざけられ、シャールカーンの妹は奴隷に売られ弟ダウールマカーンは路傍に捨てられ瀕死……って、一体この不幸だらけの物語をどうまとめるんだ、とこちらははらはら……あららら、近親相姦(兄と妹)まで登場します。旧約聖書にも近親相姦はありますが、昔はそれほどのタブーではなかったのかな?(古代エジプトでは王族の“特権”でしたっけ) 一応本人たちは「これは大変だ」と言いはしますが、魂が震えるほど悩んでいると言うより世評が気になるといった感じで、それほどの切迫感がないんですよね。そしてとうとうキリスト教徒と回教徒の間での一大決戦が始まります。いやあ、“長編”です。この物語は第三巻全部を使ってもまだ足りず、第四巻にまではみ出しています。
長さだけではありません。物語の雰囲気が第一第二巻とはずいぶん違います。やたらと人が(男女問わず)気絶します。一昔前のアメリカのドラマでもそこまで気絶の乱発はなかったぞ、と言いたくなるくらい。気絶だけではありません。やたらと人が死にます。人命がほとんど使い捨てです。そしてセックスに関しても、これまでの物語では艶笑だったのが、本巻では「次世代を生み出すための手続き」扱いに見えます。シャハラザードに一体何が起きたのでしょう?
今の季節、水田では稲がすくすくと伸びています。
もしも何も知らない宇宙人がこの光景を見たら「日本人はなんでまた草をこんなに大量にそれも整然と並べて育てるのだろう?」と疑問をもたないでしょうか。
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13世紀はじめ、第四回十字軍(とそれに協力したヴェネツィア共和国軍)はエルサレムではなくてビザンツ帝国を侵略しました。本書は、その十字軍に参加したフランスの最下級騎士の手記です。
フランス各地から集まった、四千の騎士と馬・十万の徒士はヴェネツィアから艦隊を借りる契約を結びます。ヴェネツィアは十万マールを請求。さらにヴェネツィアの半数の兵力を同行させるから戦利品の半分を寄こすこと、と条件を付けます。十字軍は八万七千マールに値切って交渉は妥結。ところが港に実際に集まった人間は予定の数分の一。十字軍側は契約金の半分も払えませんでした。そこで豊かなところを襲ってその戦利品を“借金返済”にあてることにします。かくして一行は豊かなギリシアに向かいます。大義名分と旗印は、お家騒動でドイツに亡命していたビザンツ帝国の皇子です。ビザンツ帝国の皇帝も兵隊も戦意に乏しく、新帝があっさり誕生します。しかし新帝は追加の支払いを渋ったため十字軍側はまたまたコンスタンチノープルを包囲。ところが攻撃が上手くいかないため「自分たちに非があるのでは」と神に祈ったり軍団に付いてきた売春婦を追放したりします(タテマエでは十字軍は身を清くしていなければなりませんでした)。また略奪品は軍団に持ち帰って公平に分配することや女性への暴行は慎むこと、も申し合わせます。
ついにコンスタンチノープルは占領されます。略奪の過程は詳述されませんが「大量の宝物の半分はヴェネツィアに、残りはけしからぬ風にどこかに消えた」とありますので略奪があったことは間違いないようです。末端には回ってこなかったようですが。論功行賞の場では、各人がそれぞれ自分の功績を述べ立てますが、意外なのは学僧が武勇を誇っている点です。日本の僧兵と同じ?
著者はコンスタンチノープルの豪華な宮殿や礼拝堂、聖遺物、巨大な柱塔や彫像群に目を丸くします。おそらく口もぽかんと開いていたことでしょう(と思わされる記述ぶりです)。かつては「野蛮な西ローマ帝国、文化の東ローマ帝国」と言われたはずで、ましてや著者は西ローマよりさらに“野蛮”なフランクの出身ですから、文化の厚みに圧倒されたはずです。(第一回十字軍で見物に入城したフランス軍団の司教も驚歎しています。当時パリの人口は十万だったのに対してコンスタンチノープルは五十万以上の大都市でした) でも「野蛮と文明が衝突したら、野蛮が勝つ」法則が発動しちゃうんですよねえ。おかげで「聖なる略奪」によって大量の聖遺物が西欧に広く播種され、西洋文化の種になったのではありますが。
第二回十字軍で、ビザンツと十字軍との間には不和が生じそれが本書の伏線になっているのだそうです。ノルマン人に対抗するためにビザンツと同盟を結んでいたヴェネツィアとの仲も切れていました。そこでビザンツ帝国は「西欧」に対抗するために周辺諸国と縁戚関係を結びますが、バルカン半島はビザンツから独立するために教会もギリシア正教からローマ教会に鞍替えしようとしていました。……なんだか、中国の春秋戦国時代や日本の戦国時代を思わせます。しかしヴェネツィアはしたたかです。エジプトからは贈物をたくさんもらって十字軍の行き先をカイロから変更させ、略奪品はちゃっかりかすめ取り、占領地は抵抗が少なく将来の商業に役立つ沿岸部や島々。皇帝選定では扱いやすいフランドル伯に恩を売る……なんだか一人丸儲けです。現実主義者でないと「戦国時代」を生き延びることができないのでしょうね。
「人物」「大物」「奸物」と言うけれどすべて物ではなくて人のこと。「物理」で大切なのは「理」の方(そもそも重さのない(振り子や滑車の)ヒモは物?)。「物忘れ」は忘れ物のことではなくて記憶の問題。「物狂い」は乱心ですし「物静か」は状態のこと。「物わかり」は良くても悪くても多くは人の気持ちに対するもの。「物申す」のはことば。「物入り」で必要なのはモノではなくてお金。「見物」で見るのはモノだけとは限らないし、「犬追物」は、イギリスの狐狩りを狐を犬に置き換えたような競技。「動物」「植物」「果物」「生物」は「物」と断言して良い? 「本物」「偽物」もモノだけとは限りません。「眉唾物」はモノよりもコトの方が多いはず。
どうも「物」をただの「モノ」と扱うのは「考え物」のようです。
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昭和四十五年(1970)大阪万博を当て込んで、国鉄では大幅な輸送力増強を行っていました。問題は万博“後”です。400億円も投資したのに「空気を運ぶ」わけにはいきません。国鉄の赤字は当時二兆円で強い批判を浴びていました。国鉄と電通は共同研究を始めます。「旅とは何か」を突き詰めるうちに登場したキーワードは「ディスカバー・マイセルフ」。やがてそれは「失われた旅の回復」というコンセプトのための「ディスカバー・ジャパン」になります。
万博は成功裏に終わり、国鉄の駅に不思議なポスターが登場します。ミスマッチに思える、現代的で若い女性と古い日本の風景との対比、観光地も何も具体的に宣伝しないコピー、「ディスカバー・ジャパン」サブタイトルは「美しい日本と私」(コンセプトを作った電通の藤岡さんは「美しい日本の私」の川端康成さんに頼んでタイトルを墨書してもらっています。文字通りお墨付き)。カネのない国鉄のために電通はスポンサーも見つけます。読売テレビで番組も作ります(永六輔らの「遠くへ行きたい」)。そのおかげか万博後も国鉄収入は落ちませんでした。国鉄はレジャーブームに乗ってさらに次の手を打ちます。たとえばミニ周遊券の発売です(私も学生時代お世話になりましたが、ゾーン内で急行や国鉄バスが乗降自由で、目的ゾーンまでも急行が使える点でお得感がずいぶんありました)。
同じく1970年、雑誌「アンアン」創刊。そこでの旅行特集は他誌とは違って「ファッションの舞台」としてロケ地を選択していました。モデルが行う「女性の旅」の理想像を提示したのです。71年には「ノンノ」創刊。こちらの旅特集は、実用重視でした。ノンノを持ってそこにいけば取りあえず旅ができる記事を目指しています。写真でもモデルは使わず、地元の人を多く登場させました。女性の旅ブームが起き「アンノン族」と呼ばれました。アンアンの服を着てノンノを参照しながら散策する人たちです。彼女らの発生原因としては、時代の変化(大学の“権威”の失墜(大学紛争)、イデオロギーの凋落、“正義”への不信(ベトナム戦争))と勤める女性の不満(高度成長だが、男女差別が厳然と生きている……つまり彼女らの心中は決して“安穏”ではなかった)とが絡んでいると本書では考察されています。アンノン族は露天風呂ブームを生み出しやがて海外にも進出し、アンアンとノンノの旅特集は重なり合うようになって次世代の旅雑誌の基本路線となり、旅の高級化や受け入れ側の意識改革(一見客でも受け入れる、料亭がお弁当を売り出す……)も進みます。もう一つ、アンノン族の社会的影響があります。旧来の社員旅行が若い社員に嫌われるようになったのです。
時代は変わり続けます。昭和四十年代末〜五十年代初め、相継ぐストと料金値上げで旅客や貨物の国鉄離れが起きます。そこで登場したのが「
いい日旅立ち 」(山口百恵)です。キャンペーンのマスコットに起用するとギャランティーが発生しますから、山口百恵の新曲を国鉄のキャンペーンとシンクロさせる、という苦肉の(安上がり)新手法でした。さらに「フルムーン」「ナイスミディ」「青春18切符」と国鉄は次々市場開拓の手を緩めません。それは国鉄がJRになってからも続きます。著者は「ディスカバー・ジャパン」は現在でもまだ続いている、と言います。
「旅とは何か」と問うことは、旅先(国鉄だったら「日本」)とは何かを問い、旅をする主体である「自分」を問うことでもあります。「商品を売る」ためのキャンペーンは実は文化的な事業にもなっており、それは同時に文化としての旅を成熟させていく過程でもありました。「売る」ためにマーケット(時代や社会)の変化に対応しているようですが、実は国鉄がそういった時代や社会の変化を起こす原因(あるいはその先触れ)として動いていたのではないか、とも見えます。国鉄は特定の方向に日本を変えようとしていたわけではありませんが、結果として日本は大きく変わりました。「美しい国」が口癖の人も、航空機やグリーン車ではなくて普通列車で日本中を旅したら、何か見えるかもしれません。
我が家のバジル、プランターによって色合いがずいぶん違います。種は昨年育てたものからで差はないはずだし土も同じ、置いている環境も同じなんですけど。色が濃い方は「間引きで抜いて植え直したもの」です。芽が出た時点で育ちが悪いのを抜いて、間引き菜で食べるのもナンだしもしも育ったらラッキーということで家内がせっせと別のプランターに植えたもの。「生き延びられてラッキー」とでも思ったのでしょうか、すくすく元気よく育って本来残すはずだった方を質量共明らかに凌駕しております(葉っぱがしおれていますが、これは水やり前のせいです)。
中にはもう花が咲いて種をばらまいているものもありますが、これはちょっとフライイング気味。育ちが遅いものもありますので、来年の種はあとから追いついてくるやつから取ることにして、放置放任好きに育てよ、です。去年は苗でもらったので種から育つ姿を見るのは初めてなのですが、いやあ面白いものですね。植物に無知な私でも十分楽しんでいます。一緒に育てているのに生じる個性の違いを楽しむなんて、プロでは無理なアマチュアの特権?
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『
流れよわが涙、と警官は言った 』フィリップ・K・ディック 著、 友枝康子 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫SF807)、1989年(96年8刷)、602円(税別)
かつての大スター現在はTVの人気ショー司会者ジェイスンは、女に殺されかけますが翌日見覚えのない安ホテルで目が覚め、自分が“存在していない”ことを知ります。IDカードなどは一切なく、知人に電話しても「お前は誰?」と次々言われ、古新聞にも自分の番組は載っておらず、三千万人の視聴者に人気の有名人だったはずなのに誰も自分を認識してくれないのです。身分証明がなければ生きていけない社会のためカードを偽造しようとすると、偽造屋キャシイはいかれた小娘(ラリったフラワーチャイルドのイメージそのまま)で、しかも警察への密告者でもありました。悪夢から逃れようとするたびにジェイソンはさらなる悪夢にはまりこんでいく気分です。
私から見たら、強制労働収容所・黒人断種法・人の遺伝子操作による一種の超人作製・すべての国民のデータが集められている国家・学生であること(あるいはそれを匿うこと)が犯罪・タバコは一財産要するものだがマリファナはありふれている(しかも合法)・警察が容疑者を釈放するときには盗聴器と超小型爆弾を体に埋め込む、といったジェイソンが生きている社会そのものが“悪夢”のようなものに見えますが、ジェイソンはそれほどひどいものだとは思っていません。人にとって“自分が生きている社会”は“デフォルト”なのです。
警察もジェイソンに注目します。「データが存在しない」ことはその社会にとっては異常事態なのです。ロス警察本部長バックマンはジェイソンがなんらかの手段で国家のデータバンクに手を加えたものと判断しジェイスンを捕まえますが、あっさり釈放します。自分では謎が解けないから、ジェイソンに謎を解かせようというのです。警察の外でジェイソンが出会ったのはバックマンの双子の妹(かつ妻)のアリス。アリスはジェイソンを「知って」おり(かつレコードまで持っていて)、ジェイソンに仕込まれた警察のマイクロ装置をすべて解除し家に連れて帰るとメスカリン(と称する薬物)をジェイソンに飲ませます。その時から“世界”はジェイソンを少しずつ“思い出し”始めます。ジュークボックスにジェイソンのレコードが出現し、ジェイソンを“知って”いる人が登場し始め、データバンクにもジェイソンの記録がまた出てきます。そういえば「レコード」は「記録」でしたね。歌手のレコードと戸籍記録とが消えてまた戻る、って、なにかの暗喩?
ジェイソンははじめ(自分がいたのとそっくりだがただ「自分が存在しない」一点だけが異なる世界に移動させられたのか、と疑っていました。アリスも二つの世界を移動できるのか、と思っていたのですが、アリスは干からびたミイラのような姿になって死亡。バックマンはアリスの死の責任者として(かつ、近親相姦スキャンダルから自分の身を守るため)ジェイソンを殺人事件の容疑者として手配します。「自分が存在しない世界」からやっと「自分のことを知っている世界」に戻って来れたのに、ジェイソンはまたも悪夢に追跡されることになります。で、ここから謎解きが始まるのですが、それはネタバレになるのでここでは省略します。
本書はかつてサンリオ文庫で出版され、サンリオがお亡くなりになると同時に入手困難となっていましたがハヤカワでめでたく復活したものです。
タイトルはダウランド(イギリス後期ルネサンスの作曲家・リュート奏者)の名曲「流れよわが涙」によります。ダウランドはこの歌曲をのちにリュート独奏曲に編曲し直しました(当時リュートは伴奏楽器から独奏楽器へ変身しつつあった時代でした)。私の手持ちの『
ルネッサンス名曲選集(ゼンオン・ギター・ライブラリー) 』(全音楽譜出版社)にも、そのリュート曲をギター曲に編曲し直した「涙のパバーヌ」が載っています。見開き2ページの小品ですが近代音楽の萌芽が感じられる佳品です。といっても、指使いが難しい上に変則チューニング(第3弦がGではなくてF#)が必要でしかも緩急をつけた味わいのある演奏を要求されるので、私には見ただけで手が出せないとわかる作品なのが残念です。
DVD「
セロマガジン1 」を買ってみました。以前からマジシャンとしてのセロにはちょっと興味を持っていたのですが、あらためてじっくりながめて見て驚きました。まったくすごいマジシャンではないですか。単なるマジシャンというよりマジックを用いる一流の(ストリート)エンターテナーです。インタビューでは舞台でやることへの意欲を語っていましたが、“本業外”でのストリートでもあそこまでやってみせるとは。
……たとえば……
・街角で出会った人からお札を借りて紙飛行機を折る。地面にチョークで滑走路を描き、少し離れたところから紙飛行機を飛ばすと、滑走路にぴたりと着陸。
・ふらりと入ったバーガー店。カードから一枚客に選ばせてシャッフル(ここまではよくある手品)。カードを窓ガラスに向かってぶつけると、選ばれたカード“だけ”がガラスの“外側”にはりついている。
・ふらりと乗った都電。ぶら下がっているお茶のポスターからお茶のボトルを取り出す。ポスターからはお茶の写真が消えている。
魔法ではなくて手品なのですからどこかにネタが仕込んであるはずなのですが(私は質量保存やエネルギー保存則などの信奉者です)、見ているうちにネタ探しなんかどうでもよくなってきます(投げやり)。「ふらり」や「偶然」がすべて仕込みだとしても、パフォーマンスまたはアートとして洗練されていればいいのです。いや、もしも「どうせネタがあるんだ」と斜に構えて手品を楽しまないのだったら、たとえば脚本や特撮がある演劇や映画を楽しむこともできなくなってしまいます(「どうせ俳優は本当には死なないんだ」とかね)。それはつまらないですよね。もしもセロが「この手品のネタは誰にもわからない。わかる奴がいたらお目にかかりたい」とか言ったのだったら、それはそれで別の“楽しみ”が生じるかもしれませんが。もちろん、先入観や錯覚を利用している、とか、注意を別の方向に逸らして、といった基本的なテクニックが見えることもありますが、彼の手技はひたすら鮮やかです。過剰な装飾はなくスピーディーでユーモラス。楽しみましょう。
ということで本日は読書ではなくて【ただいま鑑賞中】でした。ネットでのポイントがもう少し貯まったらAmazonのギフト券にできるので、それで「
セロマガジン2 」と「
3 」も買おうかしら。
×セロ登場シーンでのアナウンサー、下手です。もうちょっと流暢に喋るか、さもなければもうちょっと間を生かすか、どちらかにしないと聞いてられません。
徳川吉宗は庶出の四男坊で、“冷や飯”を食わされていました(四男というだけで、要するに世継ぎの“スペア”ですし、母親の出自は不明(一説には百姓娘で父光貞の湯殿の世話をしているときに手がついた、とか)。育てられたのも城外の家臣の屋敷です)。それが兄たちの急死で突然紀州藩主に祭り上げられます。本人はびっくりしたことでしょうが、周囲もびっくりしたことでしょう。
“下々”のことを知っている吉宗は、まず、袖の下を取っていた役人を80人クビにします。学問はできなかったと言われますが、頭は良く、他の殿様たち(とそのお付き)よりは“世間”を知っていたことが彼の強みだったのでしょう。だから政策も地に足がついて効果的なものが多く、世間の評判も高くなり「身近な将軍」というイメージができたのでしょう。
ちなみに私が吉宗の施策の中で最も高く評価するのは「洋学の解禁」です。それまで洋書は一切禁止でしたが、吉宗によって洋書(の漢訳本)の輸入が解禁されました。また吉宗は、青木昆陽・野呂元丈に蘭学を学ぶことを命じます。彼らは長崎には行きませんでしたが、江戸にやって来るオランダ通商使から言葉を学びます。青木昆陽最晩年の弟子が前野良沢で青木が作った辞書(おそらく二百語程度)を前野が発展させ、それが「解體新書」に結実し、そこから発展した蘭学が鎖国日本をこじ開ける知的パワーになっていきます。つまり明治維新は吉宗がもたらした、と言っても良い、が私の考えです。
そうそう、乳母日傘で育てられたバカ殿様を嘲笑うのは簡単ですが、今の世にもそういった人は多いかもしれません。たとえば「東京のことばかり意識していて地方のことに疎いくせに日本全体に関して判断している官僚や政治家やマスコミ」とか。(私も東京のことは知りませんから、どっこいどっこいかもしれませんけどね)
【ただいま読書中】
「リストラとは過去の清算と未来への投資から成り立つ」という観点から、徳川吉宗の業績を評価し、それを現代に生かそうという本です。吉宗の享保の改革はいわば徳川幕府のリストラでした。だからこそ彼は「徳川中興の祖」と呼ばれます。
信長の頃からの日本のゴールドラッシュ(一時日本は世界の銀生産の1/3以上だった)の火は四代家綱の頃消えてしまいました。年貢率もはじめは七公三民だったのがいつのまにか逆転してしまいます。そのため消費経済が盛んになり商人が台頭し元禄の繁栄が生まれました。ただし、大名の台所事情は苦しくなっていました。「予算」という概念を持たない大名がそれまでの暮らし(江戸藩邸や大奥で贅沢三昧)を続けようとしたら、当然無理が生じます。
そういった時代に登場した吉宗は、まず紀州藩の財政改革に手をつけます。節約と増産。それによって紀州藩は赤字(百万両の借金)から黒字(金十四万両、米十数万俵の備蓄)に転換します。その際吉宗が上手かったのは人材登用です。あらかじめ下調べをして地方の人材をリストアップしておき適材適所で登用しています。その手法は吉宗が将軍になってからも、お庭番を使って調査をして人材を登用することに継続されています(逆の側面もあります。隠し目付を用いて汚職役人の摘発もしました)。のちの目安箱の原型になるものを和歌山城下にも設置していますが、そのルールも重要です。吉宗が直接箱を開ける・実名主義・単なる不平不満はダメで建設的な提案でないといけない(役人の不正告発を除く)……現在の、たとえば2ちゃんねるの正反対の方向性ですね。
紀州藩主として12年間手腕を発揮した吉宗は、徳川本家の後継が絶えたため正徳六年(1716)将軍となります。対抗馬の尾張継友は大奥の評判が悪く七代将軍家継の病状悪化にも対応が後手後手に回ります。津本さんはここで「大奥家族説」を唱えます。お家の跡継ぎは家族の“内輪”の問題、というわけで、だから大奥を味方につけた方が有利なのです。
将軍になった吉宗を迎えるのは“旧体制”です。しかし吉宗は唯々諾々とは従いません。といって面と向かって逆らいもしません。まずは老中たちに口頭試問です。江戸城の櫓の数とか年貢収入とか簡単な質問ですが、土屋政直以外は全滅。使いものにならないことを確認した上で吉宗は彼らが死んだり辞任するのをじっと待ちました。自分が連れてきた紀州藩士は身辺警護やお庭番などにして、重要な人事で波風は立てません。
ついに吉宗は幕府(徳川本家)のリストラに手をつけます。相対済まし令・年貢率の改訂・足高の制・上げ米制度・目安箱の設置・水野忠之と大岡忠相の登用・町火消しの設置・洋学解禁……情報と実学を重視した、それまでにない改革でした。ただし吉宗も“全能”ではありません。あくまで米経済の発想しか持てず貨幣経済には対応できませんでした。また、長期的大局的なビジョン(日本全体をどうするのか)も欠いています。しかし、「財政」とか「予算」の概念さえない時代に財政改革をしなくちゃいけなかったことを思うと、それを軽々しく責めるわけにもいかないでしょう。「何が問題か」の問題を立てることができなければ体系的な解決方法が見つかるわけないのですから(会計とか予算が普通の概念になったのは明治後期だそうです)。とりあえず出たとこ勝負で“解決”を試みたにしては吉宗はけっこう良い線を行っていたと言えるでしょう。
8日(水)原発工事現場放火の目的は?
■北海道・泊原発の不審火、仮設トイレでまた焦げ跡発見(読売新聞 - 08月07日 14:13)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=269345&media_id=20
単なる個人的な怨恨とか「火だ、火をつけさせろ〜」だったら警備の強化でおおごとにはならないでしょうが、組織的なテロだったらよほど注意が必要ですね。「火」に注意を集中させておいて別のところを別のやり口で破壊するとか、警備が“そっち”に集中している隙を見て手抜き工事をやってあとで壊れるようにするとか、一人放火現場でわざと捕まってその隙に別の所で大きなテロ工作をやるとか、いろんなやり方が考えられます。
これだけ不審火が続くと、現場ではどうしてもそちらに注目しますから、それ“以外”が心配なのです(天の邪鬼(^_^;))。
針の筵
安倍首相 靖国参拝は見送りか
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=269736&media_id=2
本日二つめの日記。
ニュースに書かれていることを整理すると……
安倍さん「明言しないことにしている」
首相周辺(って誰?)「参拝しないだろう」
小池さん「(自分は)参拝しない」
えっと、小池さんは参拝しないと言ってますが、安倍さんは言ってませんね。「首相は参拝しない」はあくまで推測。
まあ、私もここまで針の筵状態で敢えてさらに針を増やすことはないだろうから参拝はないだろうと予測しますが、でも「ここまで針があれば、あと一本くらいは誤差の範囲内だ」と開き直る、という考え方もあります。
それとも……まさか……電撃総裁交代? それこそスケジュール的に無理か。
幸せなことに私は現在夏休み中ですが、子供の登校日やらなんやらかんやらで結局一泊二日の家族旅行がやっと。私は今回は今まで行ったことがないところに行きたい/家内はとりあえず上げ膳据え膳だったら幸せ/息子は海水浴がしたい/三人共通なのは温泉に入りたい。それでわりと近場で安いところ……萩にしました。ネットで予約したのは国民宿舎よりちょい上のお値段の宿です。値段はもろに食事に出ますが、まあ良いです。上記の希望に「御馳走」はありませんでしたから。大浴場だけではなくて温泉の露天風呂もあって、のーんびりと手足を伸ばせて、しあわせでした。ただし、浴場が朝5時30分に始まると聞いた息子が、本当に5時過ぎに起きて一番風呂を浴びに行ったのには参りました。なんて寝起きが良いんだ。
海水浴場は、遠浅で砂もきれいでしかも平日だからか人も少なくてこの日は波も静かで言うことはない……と思っていたら、ウニを踏んづけました。それも二回。息子も三回踏んでます。う〜む、これがなければ高得点なのに。幸い化膿も腫れもきませんでしたけれど。ちなみに息子は、浮き身はできるようになりましたが、横泳ぎと立ち泳ぎは無理でした。というか、立ち泳ぎは私は子供時代に一発でできるようになったので、上手く言語化して伝授することができません。これは困った。
しかし萩の町の城下町部分は、本当に江戸時代が残っています。実際に迷い歩いてみて「江戸時代の絵地図がまだ使える」を実感しました。石垣や築地塀やなまこ壁が残っており、広い庭には柑橘類がぎっしり植えられて、昔の武士の暮らしが少し見える気がします。また行きたい町となりました。でも今度はもうちょっと良い宿にしたいな。
【ただいま読書中】
『
千一夜物語4 』マルドリュス版、豊島与志雄・渡辺一夫・佐藤正彰・岡部正孝 訳、 岩波書店、1982年(85年4刷)、2800円
第三巻からの「オマル・アル・ネマーン王とそのいみじき二人の王子シャールカーンとダウールマカーンとの物語」は、本巻に入ってさらに十六夜を費やしてやっと終わります。ただ、あまりの陰謀や殺戮について、前巻で私はネガティブに評価しましたが、シャハラザードに耳を傾けていたシャハリヤール王は違った感想を持ちました。自分が数多くの乙女を殺したことを後悔し始め、シャハラザードも最終的には殺すとの誓いも忘れかけている、と言うのです。人の噂は七十五日、王の誓いは百四十五夜? 「忘れた」ではなくて「忘れかけた」ではありますが。ここでシャハラザードは方針転向。こんどは鳥や獣の言葉の物語が始まります。人間の奸智に負けた獅子や漁師鳥の話を聞いていた王はリクエストを出します。「さればそちは、例えば狼とか、その他同様の野獣の類いの物語は知らぬのかな」シャハラザード「それこそちょうど、わたくしの一番よく存じている物語でございます」王「では、いそぎそれらを語り聞かせよ!」そこでシャハラザードは、もう朝だから明晩にと……王様、“操縦”されてません?
かくしてシャハラザードが語るのは「狼と狐の話」です。「虎の威を借る狐」(中国の故事)は有名ですが、こちらでは狐が横暴な狼をぎゃふんと言わせます。その次は「小鼠と鼬の話」その次は「烏と麝香猫の話」……登場動物はほとんどがアッラーの信者というのが笑えますが、それぞれ教訓を含んでいて、しかもその教訓がそれを聞くその時点での王の心情にピッタリ合っているという恐ろしさ。
さて、数夜に渡って動物話で“お口直し”をしたら、またこれまでの本流のお話に戻ります。こんどは「美しきシャムスエンナハールとアリ・ベン・ベッカルの物語」です。これまでも再々登場した「この世のものとは思えぬほど見目麗しい若い貴人」の愛と冒険の物語です。なんだかこれまでのお話と同工異曲とも思えますが、“お口直し”の後ですから新鮮な味わいです。シャハリヤール王ではありませんが「そなたの言葉は耳に心地よい。もっと話してくれ」状態となってしまいます。……おやおや、いつのまにか二百三十七夜です。
袈裟まで憎い、が定番ですが、袈裟を憎むことに熱心なあまり、その袈裟を着ているのが実は坊主ではなかったり、あるいは坊主は坊主でも“良い坊主”なのを無視して責めていた、なんてことはないでしょうね。中身をきちんと評価するより目に見えるものが“袈裟”かどうかを問題にする方がもちろん簡単ではありますけれど、「簡単」に走るのは下手すると手抜きの対応になってしまいます。気をつけないと、恥ずかしいことになりそう(自戒)。
【ただいま読書中】
人の体格体型を最初に分類したのは古代ギリシアのヒポクラテスです。細長の人を肺癆体型/短身の人を卒中体型に二分しました。近世には Halles,Rostan,di Giovanniなどが分類を様々行いましたが、有名なのはクレッチマー(1925)の気質と関連づけた三分類でしょう。それ以降も、体型と気質や知能との関係の研究が様々行われています。最近有名なのはメタボリック症候群ですね。腹囲の数字だけがひとり歩きして注目されています。
ついでですが、その面では中国は独自路線を歩んでいます。漢方医学では体質を重要視します(虚と実と中間証)。同じ身長と体重の「肥満の人」がいたとしても、実の肥満(堅太りでせかせかしていて早口で高血圧で脳卒中になり易いタイプ)と虚の肥満(でれんとした印象で活気を欠いた、俗に「水太り」と表現される人)とは明確に区別するのです。数字だけでは人は評価できない、という立場ですね。
体格を表現するために使われる基本的な数字は身長と体重ですが、これも様々な加工を施されます。たとえばローレル指数は「体重割る身長の3乗かける10の7乗」ですがカウプ指数は「体重割る身長の二乗」です(カウプ指数は現在はむしろBMIとして有名ですね)。ポンデュラル指数は「身長割る体重の3乗根」でリピー指数の逆数なんだそうですが、そんな計算が面倒な指数を誰が使うんだ? いやいや、まだまだありまっせ。名前がついている指数としては……ケトレー、ダベンポート、ボーチャート、ボルハルト、ピネー、ピルケ、ブリグッシュ、ペルベック、クライネベルグ、鶴見・中楯、宮川……それぞれの指数にそれぞれの概念と計算法と利用法があります。よくまあこれだけ考えられるものです。
体型についてはヒース・カーター法が紹介されています。これまたややこしいのですが簡単に言うと、内胚葉型要素(皮下脂肪)/中胚葉型要素(身長)/外胚葉型要素(体重)によって人を13区分します。
単純に身長と体重だけ見ても面白いですよ。1900年から20年ごとに日本人の各年代でのグラフが載っているのですが、1980年までは一本調子に身長も体重も増加していたのが2000年では増加率が明らかに低下しています。日本人の体格の向上はそろそろ頭打ち傾向? さらに18歳くらいで男女とも成長は大体終わりますが、2000年の男は20歳がぴょこんと体重が増加しています。女は1980年から逆に体重が18歳から20歳くらいで減少します。若い男は高卒後に太って若い女はダイエット、がしっかり統計に出ています。そうそう「年寄りは身長が縮む」と俗に言いますが、実はそれは25歳頃からすでに始まっていること、ご存知でした?
体格体型には地域差もあります。日本の児童の研究では、北ほど大きく(かつ肥満型)南に行くほど小さく細くなります(例外は四国地方)。その原因として、気候(日照時間や気温)・食事(北ほど食塩と動物性蛋白の摂取が多い)の影響が考えられています。さらに環境の影響として、農村では肥満型が多く過密地では細身型が多く、市街地では中間型が多いそうです。国際的にはいろいろなのですが、先進国では都市部で児童は小さくなる傾向があり、発展途上国ではその逆になっています。すると日本は先進国なのね。
遺伝の影響とか体格体型と運動能力との関係とかについても、面白いデータが多数紹介されています。内胚葉型体型・中胚葉型は無酸素運動が得意/中胚葉型は局所的な筋力が優れている/外胚葉型は有酸素運動が優れている……なんてのを見ると、オリンピック選手を育成するためには児童の体型に注目したら、なんて思ってしまいます。トレーニングによっても体型は変わりますから一概には言えないでしょうけれど。(そういえば漫画「
タッチ 」の双子、野球のトレーニングを全然していなかった達也が和也と同じ体型で同じ運動能力を持っているのは、やっぱり無理じゃない? 運動神経は同等でも身体能力には後天的な影響が出るはずなんですけど)
食料自給率、40%の大台割る
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=272010&media_id=2
江戸時代には日本の食力自給率は100%でしたが、それで養えた人口はやっとこ3000万人。今39%だけど1億2000万人ですから、計算上は4800万人は“養えている”ことにはなります。さらに廃棄している食料をすべて食べれば、その数字はさらに上昇します。江戸時代に比べたら善戦していると言えません? おっと、人口を半分に減らせば今鎖国しても何とかなる……わけではありませんね。自給率はあくまでカロリーベースですから、栄養のバランスがきわめて悪い食事になる可能性が大ですし、鎖国したら重油を焚いている農業は全滅ですし。「自給率を改善するべきと強く主張する人は、率先して人口を減らすか、江戸時代とまでは言わないが戦前くらいの貧しい食事をするか、で態度を見せろ」と言われたら、私はあっさり日和ってしまいそうです。
【ただいま読書中】
『
妖怪博士 』(少年探偵 三) 江戸川乱歩 著、 ポプラ社、2005年、600円(税別)
自爆したと思われていた怪人二十面相は生きていました。自分をひどい目に遭わせた明智探偵と少年探偵団に復讐するためにひそかに活動を始めます。彼は得意の変装術や催眠術で少年探偵団の団員を次々誘拐しひどい目に遭わせます。一度は明智探偵に捕まりそうになりますがみごとに脱走。今度は探偵団を丸ごと鍾乳洞に誘い込んでそこで遭難させようとします。「殺人はしない」がポリシーだったはずですが、「勝手に遭難して餓死するのは自分のせいじゃない」そうです。ま、理屈と膏薬はどこにでもくっつきますし「復讐」はすべてを正当化する、ということなんでしょう。
それに対して明智探偵も変装を駆使して対抗します。この辺の丁々発止のやり取りは、当時の少年たちの心に熱く訴えたことでしょう。というか、今の時代の子どもたちでも夢中になれると思いますよ。最後の鍾乳洞のシーンも、『トム・ソーヤの冒険』とはまた違っていかにも日本的です。ただ「オオコウモリ」のところではこちらの脳裡に「着ぐるみ」という言葉が出現してしまい、それほど恐怖を感じることができなかったのは残念でした。
昨夜は福山の花火大会でした。今年は会場が芦田川河口付近に移動したので、これまでの“経験”が全然生きないのでどうしよう、と思いながら開始2時間半前に会場入りしたら、正解でした。ふらっと上がった堤防の位置がちょうど打ち上げ場所のすぐそば、招待客エリアの隣のゾーンにちょうど一家族分のスペースが見つかったので早速ブルーシートを広げました。あとでわかったのですが、風上側で煙も火の粉も飛んでこない準特等席だったのです。音が1秒くらいで届く場所で、視野一杯に花火が拡がるのは、これはもう最高です。
場所を変えたことに関する主催者の言い分は、川幅が増したために今までの四号玉ではなくて五号が上げられるようになった/これまでは見物客は川の東岸だけだったのが、こんどは両側の岸が使える、ということです。実際には川幅が増した分、河川敷の幅が減って客の密度が増しています。去年までの会場は国道の近くだったので車での脱出もわりと容易だったのですが、今回は国道に出るまでも大渋滞。まあこちらは裏道を使うからそれほど問題ではありませんでしたけれど。
花火は昨年よりは明らかに良かった。スポンサー企業がお金を出せるくらい景気は回復しているのかもしれませんね。打ち上げのゾーンを中央と左右を意識して使い分け、さらに低空かと思えば高空と、思わせておいて水中花火。これまでにない演出が楽しめました。仕掛け花火はなかったけれど、こうしてみるとあれは必要ありませんね。
写真は、花火大会直前の微妙な空の色。あと二枚は撮った中でお気に入りのものです。光だけではなくて音も載せたいなあ。
【ただいま読書中】
『
倫敦洒脱探偵 』河村幹夫 著、 日本経済新聞社、1990年、1359円(税別)
ロンドンで金属先物取引の会社を経営する著者のエッセー集です。
イギリスでは夕方勤務が終わればさっさと帰宅して家族と過ごす、がタテマエのため、会社の接待は昼に行われます。著者が経験した銀行本店長からのランチの接待は、半年前にもらった招待状に従ってその銀行を訪ねると役員専用の食堂に案内され、そこでフルコースの料理を振る舞われて気持ちよくなって帰るというものでした。「あなたとはまたランチをご一緒したいな。えっと、空いているのは半年後ですけど」って、接待する側も大変ですね。休みなく毎日毎日豪華なランチを食べていたら、肝臓がフォアグラになっちゃいます。
休日の接待もあります。こちらは夫婦が基本。たとえばウインブルドンの接待では、会場の脇に設けられた大きなテント(マーキー)の中で、その会社の上得意(主に上流階級)たちがカップルで華やかに“社交”を行い、フルコースを食べ、その合間にテニスを観戦します。
従業員(社長を含む)の誕生日や退職の日のびっくり仕出しもあります。俗に「歌う電報」と言われるサービスですが、たとえば対象が男なら女がコスプレして職場にやってきて、そこで本人を相手にどっきりのサービスをする、というものです。本書でもいくつか実例が(著者本人が経験したものを含めて)紹介されていますが、なかなかきわどいものもあって“真面目な英国”のイメージが壊れます。
著者はあちこち動きます。アーサー王伝説ゆかりの地を訪ねたら、寂れたホテルを売りつけられそうになります。いくら元商社マンとはいっても、急に言われても困りますよね。ロンドンのガイドになろうと決心してあちこちの路地に異常に詳しくもなります(ドリトル先生に「チープサイド」というロンドン雀が登場しますが、これは「市場通り」という実在の地名なんですね)。これはシャーロキアンとしての著者の活動には大いに役立ったようです。チャリングクロス駅ガード下のノミの市では、何台かの屋台が古葉書専門でためしに「日本のはあるか」と尋ねたら出てくる出てくる、数十年〜百年くらい前の日本の絵はがき(や封筒など)が続々出てきます(当時日本からイギリスに送られたものです)。こんなの買う人がいるのか?とあきれながら、著者は数百枚の古葉書持ちになってしまいます。いやあ、イギリス人は古いものを捨てないんですね。
そして「引退後」「老後」の問題。ここではアメリカ人とイギリス人の例が挙げられていますが、著者の興味は日本に向かいます。イギリスでは無理なローンは組まず、でも引退の時には「自分の家」があるように社会システムが作られているから、年金は生活費プラスアルファで十分。しかし日本では……持ち家の人はローンがやっと済んでも次は相続の問題が生じますし、借家だったら死んだあとは家族には何も残りません。「現役時代の社会の経済システム」と「社会の構成員の人生設計」と「引退後の年金制度」とが合理的に整合性があるイギリスに対して、整合性を欠いている日本はとっても心配、ということのようです。はい、私も心配です。「老人の生活は自己責任」ですべてを片付けて良いのかなあ。
塾の宣伝ビラや掲示で「□□校に○名合格」と“実績”を誇るのはよく見ますが、高校でもやっているとは最近のニュースを見るまで知りませんでした。しかし、センター試験利用で受験料だけ払えば結果が出る入試を使うとは、知恵を絞りましたねえ。これならわざわざ受験に行かなくていいから受験生も願書を出すだけで“体力の浪費”をせずに済むし、大学は検定料が入るし、高校は“実績”が誇れるし、その人に追われて不合格になった人以外には不利益を被る人がいません。でも実際には、体は一つが進学する大学は一つなのだから、「合格したかどうか」だけではなくて「進学したかどうか」も書かないと一種の“だまし”と言えるでしょう。(少なくとも「情報の不完全な(バイアスのかかった)公開」とは言えます。
ところが逆方向の“詐称”もあるのは皮肉です。就職時に大卒枠が一杯だからでしょうか、わざわざ自分を「高卒です」と詐称して就職試験を受けて通ったのが、大阪だけで千人ですって。横浜が700人でしたっけ? これについては、何と言えばいいのか……なんのためにわざわざ大学に行ったの? 大学の“価値”って、何? こちらでは真っ当な高卒の人間をはじいて就職しているわけですから、他人に与えた損害という点では受験料高校持ちで合格しまくる人間と“罪”は同等でしょう。
しかし、片方では「大学に通ったぞ通ったぞ」と宣伝し、大学を出た人は「大学は出ていません」と就職する。何か変じゃないかなあ。しかし実際に社会で広く行われているということは、それが「普通」ということですよね。すると、変だと思う私が変? 個人の問題というより学歴に関する社会システムがなにか大きな問題を抱えているのではないか、と感じるのは、私の感覚が変??
【ただいま読書中】
私の日本史教科書ではほんの数行で片付けられていた支倉常長ですが、「乗った船はどこの?」「なぜインド経由ではなくて太平洋ーアメリカー大西洋、なのか」「そもそも目的は何か」「そして成果はあったのか」などの疑問を私は持っていました。
スペインは、カトリックと手を取り合って世界に勢力を広げました。インカ帝国やアステカ帝国は滅ぼされ、インディオは銀鉱山などで奴隷労働をさせられていました。スペインが求めたのは金銀、香料、ついで人的資源(奴隷)でした。16世紀後半にスペインはフィリピンを占領、メキシコとの間の海路を開拓します。
1533年に灰吹き法が導入され日本の銀生産量は飛躍的に向上します(8月7日の日記『
徳川吉宗の人間学 ──変革期のリーダーシップを語る 』にもありましたが、当時の世界の銀年間生産量は60万kg、日本の輸出量はその1/3を占めていました)。当然その情報はスペインも知っていました。カソリックを尖兵として日本侵略を狙うスペイン、それに対抗するポルトガル、新教側のオランダやイギリスという図式が見えてきます。本書では、秀吉の朝鮮出兵は「中国征服」を謳うことによって、フィリピンを起点としてアジア支配を狙うスペインの機先を制することが目的だったのではないか、という推測が紹介されています。
支倉は1571年生まれ。文禄の役では伊達軍の一員として朝鮮に渡っています。伊達政宗は江戸で聖フランシスコ会の医僧と知り合います(当時の日本では、修道僧の医術は「南蛮外科」として珍重されていました)。政宗は徳川幕府のために通訳を務めた聖フランシスコ会の僧ソテロを仙台に招きます。さらに幕府の船手奉行の大工を仙台に派遣してもらいメキシコ使節団の船建造を始めます。つまり、伊達と徳川は“協同”して支倉使節団を派遣したのです。その目的はおそらく世界の情報収集と貿易だったのでしょう。アドバイザーとして他のスペイン人僧侶たちも参加し「サン・ファン・バウティスタ号」は完成します。当時の世界標準から見ても大型の約500トンのガレオン船でした。
西洋の事情も複雑です。プロテスタントとカトリックの対立があり、さらにカトリック内部での対立もあります。1576年には法王グレゴリウス十三世が大勅書で日本の“担当”はポルトガルと定め1585年の小勅書で「日本の伝道はイエズス会に限定。それに違反したら破門」としました。1581年にポルトガルはスペインに併合されていたので「スペインのイエズス会」だけが“正しい伝道者”で、聖フランシスコ会(やドミニク会やアウグスティヌス会)は“正しくない”ことになります。かくして日本ではイエズス会と聖フランシスコ会の壮絶な足の引っ張り合いが始まります(宣教と支配のイエズス会に対して、聖フランシスコ会は布教と貿易を旗印にしつつありました。大英帝国の先取りのようです)。ついでですが、スペインの“無敵艦隊”がイギリス海軍に敗れるのは1588年です。世界はねじれながら進んでいき、あとに歴史を残します。その中で支倉は、徳川の黙許のもと伊達政宗に与えられた使命を果たすための足あとを世界に残します。著者は「少年使節に比して支倉は過小評価されている」と不満を縷々述べていますが、カソリックのメインストリームから外れた聖フランシスコ会・没落し始めた大国スペイン、という“背景”がその“歴史的評価”を形作ったのかもしれません。また国内の事情もあります。藩幕体制を固める時期に、徳川と伊達は内政と国内外交と国際外交を秤にかけてけっこう危険な“綱引き”をやっていたことでしょう。
支倉は150人の日本人(過半数は各地の商人)と30人のスペイン人からなる使節団を率いてメキシコ(新イスパニヤ)に渡り、そこからさらに15人の日本人と共に大西洋も渡ります。スペイン本土へ、さらにはローマへまで。どこでも使節団は熱狂的な歓迎を受けます。好奇心だけではなくて、宗教的・政治的・経済的な思惑によって。
支倉常長は19冊の日記を残しましたが、それはすべて失われています。(後世、それを見た大槻玄沢が『金城秘うん(韓のつくりをへんとして、右側の上が「因」、下が「皿」)』を書き残しています) 著者は他の文献や絵画資料を用いますが、イエズス会のものは“(反フランシスコ会)ネガティブ・キャンペーン”の分を割り引くべき、という立場です。
「地理上の発見時代」に“発見された側”が正式な外交使節を自力でヨーロッパに送り返してきた例は他にどのくらいあるでしょうか。もしかしたら私たちのご先祖様は、とんでもない壮挙を成し遂げていたのかもしれません。
終戦記念日、遺族ら冥福祈る
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=274691&media_id=4
「祖国復帰」を願っていた沖縄の人たちは、自分たちや自分たちの子孫があれから30年以上経ってもまだ“こんな状態”だと期待してはいなかったでしょう。
「祖国に帰りたい」と願った中国残留孤児の人たちは、まさか“こんな状態”で暮らすことになるとは思わなかったことでしょう。
……戦没者、戦傷者、遺族、被爆者、その他戦争で心身に傷を負った多くの人々、そして彼らの記憶を受けつぐ人々……
日本の戦後は、まだ終わってはいません。
【ただいま読書中】
『
紅はこべ 』オークシイ(男爵夫人) 著、 中田耕治 訳、 河出文庫、1989年、602円(税別)
ときはフランス大革命、怒れる民衆によって貴族たちは次々ギロチンの露と消える毎日です。絶望した貴族たちは脱出を試みますが厳しい検問によってその努力は無に帰すどころか、逮捕される場面が人々の娯楽とさえなっていました。そこにイギリスから「猟犬の牙の間から野兎を引ったくる“スポーツ”」を楽しもうと若い貴族たちがやってきます。フランス貴族を救うだけではなくて「誰それをいつどのようにして脱出させたか」をわざわざフランスの担当者に通告してみせるふてぶてしさ。ボスのコードネームは「紅はこべ」。
冷静に考えたら無理のある設定です。イギリスとフランスはそもそも犬猿の仲。もし私が当時のフランス貴族だったら、脱出するにしても一にオーストリア、二にスペインかイタリア、かな。イギリスに喜んでいくとは思えません。紅はこべの部下は「厳重に秘密を守る」なんて言う口の端からぺらぺら情報を明かすし密書は平気でそのへんに置きます。さらに、イギリスでの最初の舞台で貴族たちが集まるのが、地元の漁師たちがたむろする酒場兼宿屋。階級社会なのに、庶民の場に貴族がたむろして良いんですか?
さて、その小汚い宿屋にフランスから脱出してきたのはド・トゥルネー伯爵夫人。彼女は紅はこべに感謝すると同時にフランス貴族に対する“裏切り者”として、イギリス貴族と結婚した共和主義者マルグリート・ブレイクニーを非難しますが、まさにその時ブレイクニー夫妻がその宿屋に到着します。一同が顔をつき合わせた宿の食堂では緊張が高まります。物語はのっけから盛り上がっています。
才気煥発のマルグリートと美男で金持ちだが愚鈍なサー・パーシー・ブレイクニーの夫婦仲はしっくりいっていません。そこにフランスでは旧知の仲で現在はフランス全権大使ショーヴランがマルグリートに接触してきます。つき合いの広さを生かして紅はこべに関する情報を集めて欲しいという依頼、いや、脅迫です。脅迫のネタは、マルグリートの兄の命。愛する兄を救うためマルグリートは情報を集めますが、それをショーヴランに渡した後になって紅はこべの正体を知ります。かつて、その気はなかったのにフランスの貴族をギロチンに送る手助けをしてしまったことを悔いているマルグリートは、また同じ“過ち” を犯さないため迫り来る身の危険を知らせようと紅はこべの後を追い、フランスに渡ります。
紅はこべと王党派・ショーヴランとフランス軍兵士たち・マルグリートの追跡劇の開始です。しかし悲しいかなマルグリートは陰謀にも追跡にも不慣れな素人です。ドジを踏みマルグリートの身柄はショーヴランの手中に。王党派が身を潜めている小屋は兵士に包囲されてしまいます。紅はこべとマルグリートの運命は! そのときどこかから響くイギリスの歌……
冒険小説と言えますが、私にはロマンス小説に読めました。お互いに秘密を抱えた夫婦が、一度壊れた関係をどうやって修復するのか、その過程も読ませます。本書の発表は20世紀になってからですが、19世紀の雰囲気を濃厚に残した小説として楽しめるでしょう。
省エネのために、車が停まっているときにはなるべくエンジンを切ろう、という運動があります。私も二輪でやっていました。ただし、何かあったときにすぐ逃げられないのはイヤですから、踏切や長い赤信号で安全な状況である(後ろがカバーされている/何かあってもバイクを押してでも逃げられる)と確信が持てる場合に限定していました。これによってたしかにガソリン(とオイル)は節約できます(できたはずです)が、エンジンの始動回数が増えますから、結局バッテリーに負担がかかりました。上がってしまったのです。バッテリーが上がっても、自動車とは違ってこちらはキックでエンジンが始動できます。ただ私のスクーターのキックペダルは左側に付いてます。以前乗っていたバイクは右側だったから、またがったままキックペダルに体重をかければ良かったのですが、こちらでは一度下りてスタンドをかけた状態でないとキックできません。面倒です。そのうちプラグも調子が悪くなって交換になりました。そしてついに充電して復活させたバッテリーが完全にダウン。交換となりました。一度上がったバッテリーは寿命が短くなっているから仕方ないのですが。
トータルで考えたら本当に環境(と私の財布)に良いことをしているのかどうか、疑問に思うようになって、アイドリングストップはストップして現在はやっていません。
P.S.今朝足あとが32333になってました。踏まれたのは あち さん。キリ番ではないけれどたまたま気がついたものですからなんとなくご報告まで。
【ただいま読書中】
まずは基本、というところで「燃焼」「熱分解」などの説明が始まります。何がどう燃えるかによって発生するものは異なります。
火災時の煙は、可燃物が燃えたときの生成ガス・液体微粒子・固体状の粒子(煤など)から成ります。とくに煙粒子は有毒ガスを吸着している場合が多く、煙を吸引することで有毒成分が体内にダメージを与えます。
タバコの煙は、1立方センチメートルに約100億個の微粒子(大きさは大体0.2ミクロンくらい)を含みます。タール・ニコチン・一酸化炭素・シアン化物など、体に良くなさそうなものがてんこ盛りです(ニコチンのヒトの致死量は15〜30ミリグラム)。かつては薬として用いられたこともあるのに現在では嫌われ者の役回りとなったタバコですが、タバコの葉には防虫効果成分があることもわかってきました。そのうちに「タバコ由来の防虫剤」が製品化されるかもしれません。
ダイオキシンの話も載っています。そういえば、何年か前には子ども会のキャンプファイヤーを中止するかどうか、なんて話がありました。子ども会の活動程度は誤差の範囲内ではないかと思うのですが……というか、木材を完全燃焼させたら、ほとんどは二酸化炭素と水蒸気になるのだから、不完全燃焼させない技術を伝えることも大切なのではないか、と言ったら“環境意識”が足りない?
しかし、なんでも完全燃焼させればいいわけでもありません。木材を不完全燃焼させると、炭素・酢酸・アルコール類などが生成されます。それを回収して利用すれば結果として温暖化ガスの排出が抑制できるのです。「木酢液」です。これは、農作物の成長促進・害虫忌避・家畜の食欲増進・糞尿の消臭・消毒・入浴剤・塗装・染色・雑草防除・健康飲料などに利用されています。製造は簡単で、炭焼き窯に煙突をつけるだけです。我が家でも田舎に住んでいるときにはムカデ除けに木酢液を家の周囲に撒いていました。今はプランターの防虫用です。
他にも「よい煙」があります。たとえば蚊取り線香の煙。それから薫製の煙。薫製は、食べ物だけではなくて、建築用の材木にも用いられます。
詩歌に詠まれた煙も紹介されています。古くは仁徳天皇の「民のかまどは賑わいにけり」(民のかまどから煙が上がらないのを見て生活の苦しさを推定して3年間税を免除した結果、かまどから煙が上がるようになった)とか、万葉集の舒明天皇「鴎」という歌(大和には群山(むらやま)あれど とりよろう 天の香具山 登り立ち 国見を見れば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は)。新しいところでは(と言ってもこれももう“古い”かもしれませんが)唱歌「われは海の子」の「けむりたなびくやまこそ我がなつかしき住みかなれ」。
煙だけではなくて霧やスモッグや香道にも話がとびます。私としてはもうちょっと煙だけに話題を集中させても良かったと思います(たとえば狼煙の話などはもっと突っ込めたはずです)。ただ、「煙」というだけで毛嫌いするのではなくて、世の中には「よい煙」があることを示した点では意味のある本だと言えるでしょう。
一昨夜スツールに腰掛けようとしてすべって、尻もちをついてしまいました。大きな音でびっくりしましたし「しまった、ぎっくり腰が再発するかも」と一瞬いやな予想が脳裡によぎりましたが、とりあえず痛みはないしどの関節も動きは正常、日常動作も支障なし。やれやれ、ほっとしました。ところが昨朝、車を運転しているとどうもお腹がほかほかするのです。車から降りると温感は消えましたが、帰りの運転中またほかほかと。まさか一昨夜の衝撃で腰の神経の配線が変わってしまって、特定の恰好をしたら温かみを感じるようになったのでしょうか。映らなくなったテレビをたたいたら映るようになる、じゃないんですけど。で、今は臀部に何やらヒリヒリ感が。注意を向けているから、神経が何かを作り出しているのかもしれませんけどね。
【ただいま読書中】
ラグビーが好きな日本の難聴者たちとそのサポーターが、あちこちから集まりラグビーを楽しむどころか、「桜のジャージー」を着て世界に挑戦しようとする物語です。
といって、「幾多の困難を乗り越えて“可哀想な障害者”が夢をかなえる」お涙頂戴物語ではありません。著者は視野が広く、過剰な思い入れを排して読む側の世界に自然に新しい視点を導入してしまいます。ラグビーについても詳しいし、聴覚障害者と健聴者それぞれの特性についても詳しいからその両者のコミュニケーションギャップについての指摘も的確です。普段は見ないのですが著者紹介を見ると、ラグビー高校日本代表候補、フランス留学で一流クラブに所属、突発性難聴から後遺症が残りライターとして独立、デフラグビーの選手になって世界選手権に出場、という経歴です。両方の世界を知っているのは“強み”です。それを得るために払った犠牲も大きかったことでしょうけれど。
まずは群像の紹介です。一人一人がデフラグビーと出会うことで人生が変わってしまう話が次々紹介されます。変わるのは本人だけではなくて、コーチもチームも家族も。そして小さな流れが合流して大河になるように、日本にこれまで無かった一つの新しい世界が登場します。
ラグビーでは一人がボールを抱えて突進するだけではあっさりボールを奪われてしまいます。さらにラグビーでは“前”にボールをパスすることはルール違反。常に自分より“後ろ”にパスをしなければならないのです。そこで重要なのはコミュニケーションです。
それと同じことが、日本でデフラグビーを立ち上げるときにも起きました。運営面で健聴者のサポーターが“ボールを持って突っ走”ってしまったのです。それは、突っ走った側が悪いとかちゃんとフォローしないのが悪いとか責めてもしかたないことで、問題にするべきは“その原因となったコミュニケーションギャップをいかに改善するか”です。本書の最初に登場する倉津さんが、高校チームで経験したコミュニケーションギャップとその改善の過程を私はここで思い出します。
ラグビーでは、チームの中で一人一人の役割が違います。ポジションとその時の状況によってそれぞれに役割と責任があり、全員がそれをきちんと果たすことでチームは機能します。しかし、プレイヤーだけでチームが成り立っているわけではありません。プレイヤーにもプレイヤー以外にもチーム“外”でチームのために果たすべき役割と責任があるのです。さらにその“外”は、社会そのものにも拡張されます。
さらにラグビーでは「ボールをつなぐ」ことが重要です。一人がじっと抱え込むのではなくて、自分を盾として別の人にボールを渡し続けることがフィールドで行われます。それと同様に「デフラグビー」という“ボール”も次の人へ次の世代へと渡されていきます。それを下敷きとして、本書の最初に出てきた倉津さんが最後に再度登場する構成は、実に巧みです。著者は相当考えて本書を作っています。
「コーチ論」に関しても傾聴に値する話が紹介されています。東京オリンピックの4年前、日本サッカー強化のために初の外国人コーチを招聘しようと訪独した日本サッカー協会会長野津さんは、候補の一人であるクラマーのオフィスに掲げられたことばに感銘を受けます。「物を見るのは魂であり、目それ自体は盲目である。物を聞くのは魂であり、耳それ自体は聾である」。これを見て野津は「この人しかいない」と即決したそうです。
さらに心に残る言葉がいくつも登場します。「ラグビーを通した平等」(ニュージーランドデフラグビー協会のモットー)、「Rugby opens many doors」「障害者スポーツでは、障害が重い選手を基準とすべき」「聞こえない人が、健聴者と同じように働きスポーツを楽しむことはまだ一般常識ではない。聞こえる人の指示に従うのではなく、自らの意思と責任で行動することは当たり前ではない」……
そうそう「ドア」と言えば、初のデフラグビー全日本監督は、文字通り“開ける扉を間違えた”結果デフラグビーの世界に飛び込んできた人でした。このエピソードは抱腹絶倒です。ラグビーは本当にいろんな人のいろんな人生の扉を開けてしまうんですね。
この著者の名前は覚えておいて損はないと思います。できたら次作は、著者本人についての物語を読んでみたいな。
お盆の時期、広島の墓場は華やぎます(写真はその一例)。派手な色遣いの色紙を使った盆灯籠をお墓に供えるのが安芸門徒(浄土真宗)の習慣なのです。同じ浄土真宗でもたとえばお隣の備後ではこんな派手なのは見たことがありませんから、安芸だけのローカルな風習かな。この時期にはコンビニや高速道路のサービスエリアでも販売されます。ちなみに普通売られているタイプは1000円でお釣りが来ます。
問題は後片付け。今の墓参りって「その時だけのお参り」がほとんどでしょ。お盆が済んでから墓場に残された(紙と木でできた)盆灯籠がどうなるか、それが問題なんです。
【ただいま読書中】
『
千一夜物語5 』マルドリュス版、豊島与志雄・渡辺一夫・佐藤正彰・岡部正孝 訳、 岩波書店、1982年(85年4刷)、2800円
「幸男と幸女の物語」では話中話の新しいパターンが登場します。引き裂かれた若い二人がやっと再会したが王の許しがないと一緒になれない状況で、二人に同情した王女が二人の物語を架空の話として王に語り、この場合王だったらどうするか、と判断を言わせます。王は(めでたく)みごとに引っかかります。
「「ほくろ」の物語」……不妊の原因は、女ばかりではなくて男の側の可能性もある、という概念が登場します。これは当時の世界では画期的なものではないでしょうか。特に「男の卵から出る汁」(睾丸からの精液)と「女の粒」(卵子?)という表現に、私は驚きました。前成説(精液の中にホムンクルス(人間の原型)があってそれが女の体内で成長して赤ん坊になる=「男は種、女は畑」)は顕微鏡が発明されるまで(発明された後でも)西洋では支配的な考えだったはずですが、アラビア世界では違っていた、ということなのかな。しかし、結婚後40年間子供ができなかった夫婦にあっさり受胎させる薬(ほとんど漢方薬)が登場しますが、すごい薬もあったものです。そういえば洗礼者ヨハネも何十年も子ができなかった夫婦の子でしたよね。しかし本書のやっと産まれた美少年「ほくろ」はヨハネとは相当違った人生を歩みます。世間知らずの美少年が名うての男色家につけねらわれることからその人生をスタートさせるのですから……
さて、このへんまでは順調だったのに、その後で王のリクエストに応えて語った話がお気に召さず、窮地に追い込まれたかに見えたシャハラザードですが、そこで「シンドバード」が始まります。これまでは、高貴な人間や大商人あるいは奴隷という、王族が身近に知っている人間が主な主人公でしたが、今回は荷かつぎシンドバードというまったくの平民という新機軸……と思っていたら、荷かつぎシンドバードは大富豪の船乗りシンドバードと出会います。おや、こちらが本当の主人公なんですね、という趣向です。第1の航海では、鯨と海馬が登場します(読んだ人、詳しいことを覚えていますか?)。第2の航海ではロク鳥です。無人島に置き去りにされたシンドバードが大鳥に運ばれたのは、ダイヤモンドの谷でした。第3の航海で船乗りシンドバードが出会うのは人食い巨人です。次が人食い大蛇。まったく、これだけ次々危険な目に遭えば「財産も十分あるし、もうやめた」となってもおかしくないのに、冒険好きの血がそれを許しません。第4の航海に出かけたシンドバードを待つのは、虜にたっぷり食わせて太らせてから食べる、という人を家畜化する知恵を持った食人鬼の群れでした。やっと脱出したシンドバードは、鞍を知らない国の民に鞍を作ってやることで大儲けします。そこで結婚して幸福に暮らしていたシンドバードですが、そこには夫婦間での殉死の習慣がありました。どんな危険も平然と乗り越えてきたシンドバードは、取り乱します。妻が病死してしまったからです。死者の洞窟に閉じ込められたシンドバードはどうやって生き延びそこからいかに脱出して金持ちになれるでしょうか。第5の航海では、またまたロク鳥が登場し、背中にしがみついてはなれない爺様も登場します(「ゲゲゲの鬼太郎」にそんな妖怪がいませんでしたっけ?)。第6の航海ではすべての船を引き寄せて難破させる島。そして第7の(そして最後の)航海は、これまでとは違ってシンドバードは本人の意思に反して航海に出発し、世界の海の果てに迷い込み有翼人と出会い、27年経ってやっと帰ってきます。
荷かつぎシンドバードは、船乗りシンドバードの館に通うだけで、毎日御馳走を食べ毎夜面白い冒険談を聞きお土産に金貨百枚を毎回もらえます。なんとうらやましい。シャハラザードは逆で、話を聞かせることで毎夜自分の命を買い取っていることになります。
本書最後は「美しきズームルッドと「栄光」の息子アリシャールとの物語」。没落商人と美しい女奴隷とのなんとも奇妙な恋物語ですが、ここにはクルド人の40人の盗賊が登場します。ズームルッドを輪姦しようとして失敗し、最後には罰を受けるという役回りですが、これまでの物語で“悪役”は大体黒人かキリスト教徒でしたが、クルド人もアラビア世界では嫌われ者だった、と言うことなんでしょうか。
わりとよく行く郵便局、以前は「貯金・保険」と「郵便」と「振り込み」の窓口が分かれていて、受付の番号券は「貯金・保険」の客だけが取って他のは直接窓口に並ぶ形式でした。それがこの前から郵便以外はどの窓口でもサービスが受けられるようになりました。それはそれで便利なのですが、番号札の機械の表示が相変わらず「貯金・保険のお客さまは券を取ってお待ち下さい」のまま。振り込みがしたい私はとまどいましたよ。窓口の表示はなくなっているし、でも番号札は「貯金・保険」だけ。私はどうすりゃ良いのよ、と。まごまごしていたら、窓口の中から「券を取ってお待ち下さい」とにこやかに愛想良く案内がありました。「表示は『貯金・保険』となってるけれど、振り込みも?」と確認するとにこやかに愛想良く「券を取ってお待ち下さい」……
券を取ったら即座に呼ばれましたが(窓口には誰も並んでいなかったのです)こんな場合私が欲しいのは愛想良さではなくて的確な表示です。こちらにも判断力はあるのですから「貯金・保険」なんて限定抜きで「券を取ってお待ち下さい」とあれば迷いません。ただ、私がよく行くもう一つの郵便局では、窓口に行列がなかったら局内に入ってポケットから振り込み伝票を取りだした瞬間「券を取ってくれ」ではなくて「こちらへどうぞ」と窓口から声がかかります。こんどからそちらの局をメインに使うことにします。
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中村汀女・堀辰雄・小林秀雄・水上勉・斎藤茂吉・幸田文・円地文子・西條八十・寺田寅彦・草野心平・立原正秋・陳舜臣・森鴎外・泉鏡花・永井荷風・幸田露伴……錚錚たるメンバーによる随筆集です。全部で36人。薄い本ですが、これぞ日本語の悦楽。
巻頭は北原白秋の「薔薇二曲」です。「一/薔薇ノ木ニ/薔薇ノ花サク/ナニゴトノ不思議ナケレド」「二/薔薇ノ花/ナニゴトノ不思議ナケレド/照リ極マレバ木ヨリコボルル/光コボルル」 これを読むだけで読者の心に花が咲きます。
どれも珠玉の一編ですが、たとえば竹西寛子の「花宴」……陸軍病院に通じる城の堀に沿った道の桜並木。春に咲く桜の花と、白衣の傷病兵の思い出。「白衣が、優雅と頽廃と矛盾なく共存する」という表現がこちらの心に突き刺さります。あるいは「山茶花」(幸田文)……「紅葉も終わりました。菊もすがれました。梢にいくつか残っていた渋柿の赤い実も、もうなくなりました」で始まるきわめて平易な文章の連なりですが、一年の終わりと花の散る情景と、そして人生の終わりとを重ね合わせた描写がみごとです。
本書に収載されている随筆はほとんどが1970年代のもので1980年代はじめのものが少数もっと古いものがごく少数ですが、上述の「花宴」や「苺と牡丹」(円地文子)などのように戦争の思い出が書かれているものがいくつもあります(「苺と牡丹」では、寺田寅彦が亡くなったあとの香典返しの縮緬の風呂敷(寺田自筆の戯歌「すきなものいちごコーヒー花美人ふところ手して地球見物」が染めてあった)が空襲で焼かれてしまった、というもの)。花を見て思い出す自分の人生、または花から連想する亡くなった人が戦争に関連していることが、当時はまだごく普通だったのでしょう。
本書で私が心ひかれる作品を並べてみると、テーマの(本書では)「花」に関する描写だけではなくて、そこにどんな人生や人間関係が重ね合わされているか、に私の好みや興味の焦点が向いているようです。これはあくまで私の好みであって、読者によってそれぞれ、「自分のテーマ」によって好きな作品のリストが様々作れることでしょう。
今でも新聞や雑誌などに随筆は毎日毎週大量に発表されているでしょう。そのほとんどは読み捨てられる、あるいは最初から一顧だにされずにそのまま消え去っていくのでしょうが、大量のゴミの山から光る石を集めて年間名随筆集を作る、なんて企画は無意味でしょうか。なんだかもったいない気がして仕方ないのです。
夏の甲子園、ベスト4が出そろいました。ところであんなに頑張っている応援団に対して、応援は必要ないのでしょうか。
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1939年戦争が始まったとき、英独の海軍は英軍優勢でした(駆逐艦部隊は1対8の比、Uボートは57隻(作戦可能なのは46隻、大西洋まで出られるのは22隻)だけ)。もっとも潜水艦にあまり熱心でなかったのはイギリスも同様です。
フランス人の祖父(母方)を持ちイギリスに親戚も多い“ドイツ人海軍士官”である著者は、複雑な思いで駆逐艦士官として出撃します。ノルウェー占領の後、著者はUボート部隊に配置転換されます。Uボートは第一次世界大戦ではほぼ無敵の存在でしたが、新式爆雷・水中聴音機・レーダー・航空機の発達などで第二次世界大戦では必ずしも無敵とは言えなくなっていました。それでもイギリスの通商線を破壊するには強力な武器で、ドイツはUボートを大量に進水させていたのです。1941年、著者は新造のU333の艦長に任ぜられます。作戦を次々遂行する著者ですが、ドイツ船(それもイギリス軍捕虜をたくさん乗せている)を撃沈して軍法会議にかけられたり、敵船と衝突して損害を受けたりもします。1942年にはフロリダ沖で戦いますが、連合国はUボートの数を過大評価していると著者は述べます。たとえば50隻アメリカ沖で戦闘可能なUボートがいても、その過半数はドックで修理中、残りの半数は作戦海域への往復中のどちらか、戦闘中なのはその残りの10隻程度になる計算、だそうです。それでもアメリカの油断もあって大戦果を上げたUボート部隊ですが、アメリカは本気になって対策を立て始めます。それに対してドイツの対応は遅れました。戦術にも問題があります。単独の潜水艦が広大な北大西洋を行き当たりばったりで動くのでは“獲物”に遭遇するチャンスはごくわずかです。そこで船団を発見したら近くのUボートは集結して“狼群”として襲いかかる戦術が採られました。ところがそのためには通信をしなければなりません。その通信が連合国に傍受されていたのです。さらに連合国は北大西洋を空からカバーしました(陸上基地から偵察機や攻撃機を哨戒に飛ばすだけではなくて、空母を輸送船団の護衛につけるようになりました)。Uボートは、水面下に押し込められ、狩人のはずが狩られる側にまわってしまったのです。
Uボートが戦わなければならないのは、敵軍だけではありません。フランスの造船所で働くフランス人にはレジスタンスが混じってサボタージュを行うし、ラジオによる宣伝工作もあります。そうそう、イギリスのUボートに関する宣伝工作部門の責任者はイアン・フレミングでした。適材適所ですね。悪天候や事故、そして崩壊する補給システム。
1943年5月は「暗い5月」と呼ばれました。それまで一ヶ月に数隻から多くて16隻だったUボートの損失が、その月に40隻を越えたのです。ドイツ海軍は、連合国が新技術を開発したのかそれともスパイや裏切りか、と考えますが、見当がつきません。デーニッツ元帥はUボート戦中止を考えますが、ヒトラーは拒否します。全戦線でドイツは劣勢になっており、北大西洋に大量の連合国軍を引きつけているUボートは(撃沈され続けたとしても)それだけで“存在価値”があったのです。Uボートは“味方”にも攻撃されていたのでした。やがて商船一隻あたりUボート一隻以上が損耗するようになります。著者も出撃してもまったく戦果なく命からがら帰投するようになります(それでも命があるだけマシだったのですが)。
1944年ノルマンディー上陸作戦で、Uボートのほとんどは艦船ではなくて航空機と戦う羽目になり、大打撃を被ります。そこに遅すぎた新兵器登場。画期的なUボートXXIの登場です。理論上は史上最強の潜水艦でした。しかしすでに新兵器一つで戦況がひっくり返るような状況ではありません。造船所は爆撃され、Uボート乗組員は歩兵になります。
戦争が終わったとき、それまで戦闘に参加した820隻のUボートのうち718隻が失われ、39,000人の乗組員のうち32,000人が死亡、5000人が捕虜になっていました。
映画「
Uボート 」のシーンが脳裡に蘇ります。狭苦しい艦内で迫り来る「死」をじっと見つめていた水兵たち。あの重苦しさは画面のこちら側でも絶えきれないものでしたが、人がどのくらい静かに勇敢になれるかも教えてくれました。著者は言います。「その戦争は、ほとんどの人が望まないものであり、ドイツ人の信念と犠牲的精神と兵士の勇気をとりわけひどく濫用したのであった」と。
小さい子が、肩車やおんぶされて見せている最高の笑顔、あれを、肩車やおんぶをしている人は見ることができないんですよねえ。
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著者は「癒しの書」として『
古事記 』を読むそうです。
兄妹が性交して民族の祖になったという神話は東南アジアには数あるそうです。しかし、兄と妹が性交して国(や神々)を生んだというのは珍しい。古事記では伊弉諾尊(イザナギノミコト=誘う男)と伊弉冉尊(イザナミノミコト=誘う女)とが性交して島を生みます。ところが最初のはヒルコでぐにゃぐにゃの失敗作。あっさり水に流されてしまいます。これは女の方が最初に声をかけたのが失敗の原因、ということでこんどは男から声を掛け女がそれに応じる形にすると大性交、もとい、大成功。淡路島はじめ日本列島が次々生み出されます。これは男尊女卑思想の現れ、が定説ですが、著者はちょっと違った解釈をします。女から誘った場合男は本気が半分くらいでもついそれに応じてしまうかもしれません(あちこちに種をばらまきたい衝動が悪いのです)。でもそれでは永続的な関係になりません。それに対し、女は妊娠出産のリスクを考慮して慎重に決断をします。だから、男が声を掛け女がそれに応諾する形だと長持ちするカップルになる、ということを象徴しているのではないか、と言うのです。ちなみに私も「男尊女卑思想の現れ」には否定的な考え方です。私は陰陽に関しては原理主義的な考え方をしているので、陰と陽には差はなし、と信じています。もしどうしても陰陽が男尊女卑なら「陽陰」と改名してからにしてください、が私の主張です。
性交の前にかけた声は、イザナミ「ああなんて愛しい男なの」イザナギ「ああなんて愛しい乙女なんだ」。「愛」です「愛」。そして「まぐはひ」なのですが、古事記では「麻具波比」「婚」「目合」などと表記されます。著者は「まぐはひ」は、単なる性交ではなくて、出会い・見つめ合い・言葉を交わす・相手に愛しい気持ちを抱く・性行為・結婚などを幅広く含む言葉ではないか、と言います。
黄泉の国のイザナミを迎えに行ったイザナギが結局逃げ出して、大岩をはさんで、イザナミ「あなたの国の人草を一日に千人殺そう」イザナギ「ならば一日に千五百人産屋を建てよう」と会話する場でも、「愛しい我が夫」「愛しい我が妻」と呼びあいます。別れの場面でもかつての愛の名残が顔をのぞかせます。著者は言います。「『古事記』は大ウソの歴史物語と先に書いたが、それ以前に、人間の愛とまぐはひの真実が語られている神話なのである」 ……なるほど、癒しの物語ですね。
姉弟のアマテラスとスサノオは、天の川を隔てて立ちます。アマテラスはスサノオの剣を口に含んで噛んでからぷーっと吹くと三柱の女神が生まれます。スサノオがアマテラスの勾玉を口に含んで吹くと男神五柱が生まれます。女が男の剣を含む、男が女の玉を含む、そして子どもが生まれる……まぐはひの隠喩でしょうか。でも姉と弟でっせ。
もともと近親相姦タブーは世界中にありますが、神あるいは神に近い人間(たとえば王)では特権でした。だから世界各地の神話では神の近親相姦が登場するし、クレオパトラは弟と結婚します。
七夕伝説のように美しく始まった物語ですが、スサノオは姉の田を荒らし大嘗殿に大便をまき散らし、アマテラスが神の御衣を織っている機織り室に皮を剥いだ馬を投げ込みます(そのショックで天の服織女は機織り道具で女陰を突いて死んでしまいます=これはアマテラスがスサノオに強姦されたことを意味する、という説があります)。結果、アマテラスは天の岩戸に引きこもってしまうわけですが、太陽がなくなって困った八百万の神々はアメノウズメの“ストリップ”でアマテラスを外におびき出します。日本書紀では“ストリップ”はありませんが、著者はここに、かつての太陽神猿田彦を重ね合わせます。なかなか面白い読み方です。
オオクニヌシの性愛譚もなかなかです。詳しくは『古事記』か本書をどうぞ。ニニギのところでのアゲマンサゲマン論考も面白いのですが、そこから真っ直ぐ進んで「古事記には国つ神の視点、日本書紀には天つ神の視点が濃厚」と言われて私はのけぞります。本はいろいろな読み方ができるものですが、古事記を「愛とまぐはひ」の視点から読んでいてこんな結論を出されるとは思いませんでした。いやあ、楽しい本です。性愛の観点から古事記を読み解くと神代から人代になっても興味深いエピソードが次から次へと登場します。いやあ、古典って、楽しい。楽しい視点から古典を読み解く人の本は、もっと楽しい。
「原因→結果」はわかりやすい関係です。原因があるから結果がある。それをひっくり返せば、結果がある以上何らかの原因があるはずだ、となります。きわめてシンプルな構造です。
しかし、世の中には「例外」が満ちあふれています。
例外の例1:「被告は不幸な生い立ちで……」 不幸な生い立ちが犯罪の原因とすると、不幸な生い立ちの人のほとんどが犯罪を犯さないことの理由が私にはわかりません。
例外の例2:スギ花粉はスギ花粉症の原因です。しかしスギ花粉を吸ったすべての人に花粉症が出るわけではありません。アレルギー体質? しかし、スギ花粉を吸ったアレルギー体質の人すべてに花粉症が出るわけでもありません。インフルエンザウイルスはインフルエンザの原因です。しかし、ウイルスを吸い込んだ人すべてがインフルエンザになるわけではありません。(逆に、ワクチンを打っていてもウイルスに負けてインフルエンザになる人もいますが、これを言い出すと話がさらにややこしくなりますね)
シンプルな化学反応でも「環境条件」が重要です。たとえば水素と酸素が化合して水になる反応でも、常温でガスを二つ混ぜただけでは水は発生しません。環境だけではありません。複合的な原因、結果から原因へのフィードバック(それもネガティブとポジティブの二種類)、たくさんの因子の相互作用……ああ、ややこしい。でも、それが現実です。
「単一の原因」→「単一の結果」という考え方は、概念としては成立するけれど現実世界では単純すぎて使いものにならない、と言ったら言い過ぎ?(でも言っちゃいますけど)
【ただいま読書中】
「ロックンロール!」のかけ声と共にヴァンパイアの群れに襲いかかるチーム・クロウが逆襲を食らいます。メンバーのほとんどを失ったリーダー、ジャック・クロウは、新しいメンバーと共にアメリカに向かいます。意外な人間をチームに加えるために。そしてまたヴァンパイアを狩るために。明らかにそれは罠なのですが、罠とわかっていてもチームはヴァンパイアを狩らなければならないのです。倉庫にひそむ24人のヴァンパイアを殺戮した後、チームはマスター・ヴァンパイア(人をヴァンパイアに化す元凶)を狩りはじめます。木の杭を発射する十字弓と清められた銀の弾丸を使い、ハイテク鎧帷子を身につけハロゲンランプの十字架を胸に光らせた“十字軍”として。ロックンロール! 超人的な強さとスピードを発揮する肉体を誇り、人を容易く魅了し身も心も支配し、自らを「神」と称する存在に対して、ただの人間が挑みます。ロックンロール!
チームに同行することになった美人記者ダヴェットはヴァンパイアにかかわる秘密を持っていました。ヴァンパイアは単に吸血することで犠牲者を次々ヴァンパイアにしていくわけではありません。人を一種の“ヴァンパイア中毒”とした上でさらに一段深みへと人を誘います。その過程でほとんどの人間は死んでしまうのです。
チームの面々はマスターヴァンパイアのさらに上位に位置するヴァンパイアの存在を知ります。ゲームのラスボスに挑むように、クロウはそのヴァンパイアへの戦いを始めます。その戦いが終わったとき、チームにはまた大きな損害が出ていました。
決まり文句を使うなら「スタイリッシュなヴァンパイアもの」でしょうか。原題は「VAMPIRE$」ですが、本書の「チーム」はたしかに「吸血鬼狩り会社」です。お金をもらってヴァンパイア狩りを請け合う“プロ集団”なのです。で、美女がヴァンパイアに魅了される色っぽいシーンもちゃんと出てきます。クリストファー・リーの映画のような様式美ではなくてもっと淫欲的なものです。ところがそれは単なるセックスシーンにはなりません。だってヴァンパイアは……(面白いところなので、ネタバレなし。気になる人は本書をどーぞ)
本書を読んでいて私は小説ではなくて映画、それも新しめの「
インタビュー・ウイズ・ヴァンパイア 」とか「
ブレイド 」とかを思い出していました。きびきびした文体で描かれる“悲しい戦い”は、まるで映画を観るような気分になれます。気軽にヴァンパイアものを楽しみたい方にはお勧めです。
安倍首相は「家族揃って夕食」「一家団欒」がお好きなようですが、ご自身が子ども時代にはあまり一家団欒はなかったそうです。自分が味わえなかった幸福を他人には味わわせてやりたいとは見上げた主張です。だけど、そのためには解決するべき課題がいくつか日本会社社会にはあります。たとえば単身赴任は禁止しなければなりません。残業も禁止ですね。定時にオフィスは空にしましょう。もちろん仕事の後の“つきあい”も禁止。それから長時間通勤もアウトです。子どもに夜更かしをさせるのは不健康です。ならば食事・風呂・団欒のあとある程度の時間が経ってから早寝をするためには、18時か19時には夕食としたいですね。ならばそれまでに帰れる範囲でしか通勤をしてはいけません。そうそう、夜勤や遅出といったシフト勤務も一家団欒の敵です(というか、首相の考えに対する敵対勢力ですな)。子どもの側も、夜遊びはもちろんですが、遅くまでのクラブ活動や塾も駄目ですね。
これらを一挙に解決するのはけっこう大変だと思えるのですが、首相には何か秘策があるのでしょう。とりあえず“できること”で、国会は17時に終了して、職員を全員帰してあげます? まずは本気の姿勢を率先してきちっと見せてもらえると嬉しいな。
【ただいま読書中】
『
殺しの接吻 』ウィリアム・ゴールドマン 著、 酒井武志 訳、 早川書房(ハヤカワポケットミステリ1753)、2004年、1000円(税別)
マンハッタンで一人暮らしをする女性が次々絞殺されます。犯人は殺害後女性を裸にしてトイレに座らせ、顔に口紅でキスマークを描きます。事件を担当することになったモーリス・ブランメル刑事は「過剰な手がかり」に悩みます。たとえば指紋は、拭き取るどころかあたり一面にべたべた残されているのです。そこに犯人から電話がかかってきます。その口ぶりでは、新聞(それも「ニューヨークデイリーニューズ」ではなくて「ニューヨークタイムズ」)に自分の事件が大きく(それも“正当”に)載せられることが犯人の願いの一つのようです。犯人と刑事は何回も電話で話し込み、やがて奇妙な“絆”が二人の間に生まれます。はじめは月末だけだった犯行がついに連夜となり、街はパニックになります。犯人はひとりほくそ笑みます。
幕間劇もなかなかです。たとえば深夜の動物園で……「ねえ、押しつけがましく思われたくはないんだけれど、少年が少女にキスするべきときが急速に近づいていると思うわ」「ここではだめだ」「何がいけないの?」「明るすぎる」「明るい?」「そう」「聞いて」「何だ?」「わたしは目を閉じるわ」
あるいは、モーリスが母親の家に連れて行った婚約者にこてんぱんにやられるシーン。苦くて酸っぱくて、でもユーモラスです。
犯人は神父・警官・気弱なセールスマン……はては女性にまで化けます。しかもそれをぺらぺら刑事に喋ります。自信過剰の演技者です。手口のパターンが見えたと報道されたらわざとパターンを外します。ところがそこに模倣犯が登場します。強姦をし指紋を残さないという点で明らかにこれまでとは違うのですが、これも「パターン外し」と思われたことに真犯人は傷つきます。「この事件は本当に自分がやったのではない」ことを信じてくれるのはモーリス刑事だけです。そしてモーリスの所に「自分が絞殺魔だ」と自首してくる人間が続々と……
犯人もモーリスも、母親との問題を抱えています。生きた母親と死んだ母親。そして母親を殺したい息子。殺せなかった息子。女の首を絞める両手が、一体誰のものなのかわからなくなった男。そして、犯人と刑事と模倣犯が同じ部屋で過ごす恐怖の夜がやってきます。最後は、「まだわかってないんだな」……一体何がわかっていないのでしょう。わかりたくないのでしょう?
著者は「
明日に向かって撃て 」と「
大統領の陰謀 」でアカデミー脚本賞を受けた人ですが、本書でも、プロットと会話のリズムが秀逸です。ただ、解説によると本書の映画化作品は小説とは別物になってしまっているようです(そもそも脚本を書いたのも著者ではありません)。ただし本人は「自分は脚本家ではなくて小説家」と言っていたそうです。たしかに小説家として成功した著者の作品をたくさん読んでみたかったと思います。
ラーメンに時々ぱりぱりの海苔が乗っています。私がこいつに初めてお目にかかったのは高校三年生で初めて東京に行ったときのことですが、それ以来、この海苔をいつどのように食べたものか“結論”が出ておりません(ちょっと大げさ?)。ぐずぐずしていたら海苔がスープを吸ってくたっとなってしまうし、といって最初から海苔を食べるのもなんだか変だし。それともあれはスープに溶いてしまうもの?
【ただいま読書中】
1980年代から北米の精肉産業をフィールドとして調査していた著者たち(文化人類学者、社会地理学者)の報告です。
1900年頃からアメリカの農業は大規模化の道を歩みました。現在北米の農地を支配しているのは多国籍企業です。人々の嗜好も変わりました。 20世紀はじめには旬の物を好んでいたのが、世紀末には加工された便利な食品が好まれています。20世紀の間に牛肉の消費はそれほど伸びませんでしたが若い牛のそれも骨なし肉が好まれるようになりました。かつては高級品だった鶏肉の消費量は激増して牛肉と肩を並べています。100年前のアメリカ女性は食事の準備と後片付けに週に44時間を費やしていましたが、1950年代にはそれは2時間に減少します(いや、いくらなんでもそれは減りすぎだろうと私は思うんですけどね)。収穫量は増大します。たとえば1950年にトウモロコシは1エーカーあたり38ブッ
シェルだったのが2000年には137ブッシェルです。しかしそれに反比例して農民の取り分は減少します。かつて農民は農業の主要メンバーでしたが、今では農業を構成する「生産」「加工」「貯蔵」「輸送」「消費」の一部門の担当者でしかないのです。生産コストは、(養鶏の場合)雛の数・雛の死亡率・使った飼料の量・得られた製品の量・かかった経費、で計算されます。この数字がすべてなのです。
かつてはカウボーイが牛の群れを田舎から都会の消費地まで連れて行きました。生肉の貯蔵が困難だったからです。今は輸送コストと労働コストの削減のため食肉工場が田舎に進出しています。ところが労働力が足りません。その結果が移民の採用による南部小都市の人種構成の変化です。異文化の低所得者の増大によって、行政も影響を受けます。
労働環境は過酷です。仕事はつらく事故は多く、給与は低い。一例として上げられているケンタッキー州タイソン工場では年収16,120ドル……それでもその地域では「良い給料」です。その金額の低さから連邦の援助、たとえばメディケイド(低所得者医療扶助制度)や無料学校給食の資格もあります。個人の医療保険にはなかなか入れないし会社が労災をあまり認めないので(コストに反映しますから)メディケイドは重要な要素でしょう。離職率は公表されていませんが、著者らの調査では工場によって年間72%〜250%(!)。著者らは労働争議が起きた工場で参与観察を行います。工場内では文化の衝突が起きていました。白人とヒスパニック間の言語と文化・会社の文化と労働文化の衝突です。労働者は言います「誰かが怪我するまで誰も気にしてくれない」「経営者は弱みをつかまれるまで耳をかそうとしない」。現代の「ジャングル」(アプトン・シンクレアが100年前の食肉工場での労働者の悲惨な状況をレポートした本のタイトル)に分け入った文化人類学者が目撃したのは「コミュニケーションの不在」でした。そしてもう一つの事実。「人間は牛より安い」。この社会で“安いもの”は大切にはされないのです。
環境破壊も重要です。悪臭・地下水汚染・くみ上げによる地下水の水位低下など。また、エサに混入される抗生物質によって耐性菌が次々生み出されて人間に影響を与えていることも重大な問題です。食肉産業の重要な顧客、ファーストフードによってアメリカ人に(あるいは全世界で)不健康が蔓延していることも。
著者は述べます。もっと食品に関心を、自分たちの社会と環境に関心を、と。大量生産・効率重視の食肉生産は、環境にも社会にも負の影響を与えているのです。
そして本書がアメリカで出版された直後、2003年にアメリカでBSEが発生しました。
日本でも農業は大規模化・企業化の道を歩んでいます。社会は農業を変え農業は社会を変えます。では、日本はアメリカ化の道を歩みたいのか、それともそれとは違う道に行くのか、消費者もちょっと考えておいた方が良いように思うのですが……
日本ではあれだけ「読書感想文」「自由研究」を過去からずっと全国規模でやってきているのに、日本中に読書大好き人間や自由な研究大好き人間が充満していないのは、なぜなんでしょうねえ?
【ただいま読書中】
サバンナは遠いものでした。子ども時代に見たTV番組の影響か、サバンナでの動物研究を目指した著者は、サバンナでの研究実績のある京大理学部を目指しますが入学できたのは農学部。やっと大学院で理学部に入れますが、まずはニホンザル研究を申し渡されます。1986年にやっと勇躍サバンナに出発ですが、格安の大韓航空機はまずソウル、そしてアラスカのアンカレジを経由して(まだ冷戦時代、ソ連上空は飛べませんでした)パリに到着。そこでカメルーンのビザを取得(当時日本にはカメルーン大使館がありませんでした)。カメルーン・ドアラ空港に到着したのは日本を出国して6日後のことです。本題が始まる前に疲れを感じます。でもまだまだ。空港からがまだ遠い。のんびりしたお役所仕事とポンコツ車に悩まされながら目的のサバンナ(カラマルエ国立公園(東西15キロ南北2キロの“小さな”公園です))に到着するまでさらに2週間かかります。サバンナは本当に遠い。
本書の主役は、パタスモンキー。サルとしては珍しくサバンナを生息地としています。雄は体長62cm体重12kg尾長62cm、雌は 49cm6kg51cm。体型はすらりとしなんと時速55kmで走った記録があるそうです(霊長類最速)。準主役はタンタルス。パタスより一回り小さいサバンナモンキーです。著者の学問は「採食生態学(採食行動の5W1Hの研究)」です。ある動物がある時期にある場所である食べ物を食べているのを観察したら、それがなぜなのかを追及します。「なぜ」「なぜ」「なぜ」と繰り返して、その採食行動がその個体・その種族にどのような意味があるのかを明らかにするのですが、著者はさらに「種間比較」という手法を用います。たとえばパタスは食べるがタンタルスが食べない果実があったら、それはなぜなのかを考えるわけです。これは聞いただけで面白そうです。さらに「研究者の生存戦略」としても正しい態度に私には見えます。過去に単一の種に関してすでに先行研究がある場合、それをなぞるだけなら二番煎じです。しかしそこに新しい視点を導入すれば、過去の資産を生かしつつ自分独自の新しい領域を開拓できます。ただし手間は大変ですね。サバンナで野生動物にずっとおつき合いしなければならないのですから。それも最低限二つの群れに。
サルの避難所は木です。捕食者が来たら発見サルは警戒音を発し群れは一斉に避難します。眠るのも樹上ですが、ヒョウがいる地域では群れはばらける傾向があります(群れが発見されにくくするためでしょう)。足が速いパタスはタンタルスよりも木から遠くまで出かけます。行動範囲はけっこう重なっているのですが、食べているエサの種類はタンタルスの方がパタスより多品種です。パタスが食べる葉は蛋白含有量が多い種類ですが、タンタルスはそれほど“高品質”ではない葉も食べています。体がでかくて足が速いから広範囲で“良いもの”だけ食べることができるけれど、逆にたくさん良いものを食べなければ体(と生命)を維持できない、とも言えます。野生の環境には高品質のエサは多くないことをお忘れなく。
著者は繁殖に関しても5W1Hを問います(ただし、原則としてハレムには雄は一匹なのでWhoではなくてWhomですけれど)。多くの動物は餌が豊富な雨期に出産しますが、パタスは乾季に出産します。著者は乾季に移動力が高いパタスにとって利用しやすいエサが豊富だから出産がその時期になったのではないか、と仮説を立てます。調査の結果乾季にパタスはアカシアの豆・ガム・バッタなど食べるために高い移動能力が必要なエサを食べていることがわかりました。
「乳母行動」という変わった行動も見られます。新生児を抱いている母親から他の雌が赤ん坊を預かって面倒をみる行動です。これは母親の負担を軽くする(預かってもらっている間に採食などができる)メリットがある、と想像できます。若い雌ザルの乳母行動は、“子育ての練習”と想像できます。ところが大人の雌も乳母行動を行います。さらに他の群れから赤ん坊を(無理矢理)“預か”ってしまうのを目撃した著者はその行動の意味に首を傾げます。
本書では「サバンナを駆けるサル」という私には馴染みがない存在に親しくなれるという効用がありましたが、同時に、サバンナで研究に夢中な人(=著者)の姿が見えてくるという副産物もありました。著者が恥ずかしがらずにもうちょっと自己開示をしてくれれば、もっと本書の魅力が増したのになあ。
信号が変わった直後です。信号待ちで停止した交差点の右前の方で派手なクラクション音が長々としました。何か、と見ると、赤信号を無視して突っ込んできた車が青で発進してきた車に対して「邪魔だ邪魔だ」と鳴らして蹴散らしているのです。怒鳴りつけられた方はびっくりして急ブレーキ。なるほど、赤が通れば青は引っ込みました。しかしあの信号無視の車、いつか事故を起こすと思います。自業自得でしょうから運転者に同情はしませんが、事故の相手が無傷で済むことだけは祈ります。自分がその事故のお相手にならないことも。
【ただいま読書中】
『
龍の子太郎 』松谷みよ子 著、 田代三善 絵、講談社、1979年(86年14刷)、880円
小学生のときに夢中になって読んだ本です。親の家にまだ置いてあるはずですが図書館で久しぶりに出会ったので借りてきました。
きびやひえを食べるのがやっとの山村で、龍の子太郎という男の子がのびのびと育っていました。両親はおらず「龍の子だ」「まものの子だ」と囃されていますが本人は全然気にせず、ばあさまが作ってくれたひえの団子を腰に山に出かけては動物たちと遊ぶ毎日です。しかしある日、仲良くなった少女さえを鬼にさらわれ、山の畑で怪我をしたばあさまから出生の秘密を聞かされます。妊娠中に夫を山の事故で失っていた太郎の母たつは、ある日突然龍になってしまっていたのです。なんとか太郎を生みますがその引き替えに視力を失ったたつは北の湖に去ったのでした。「もし龍の子太郎が、つよいかしこい子になって、わたしをたずねてきてくれたら……」と言葉を残して。
太郎は、さえを鬼から取り返し、母親が住むという北の湖を訪れるために旅立ちます。まず動物たちの助言で太郎は天狗に助けを求めます。天狗は太郎に百人力を授けます。太郎はその力で赤おにをかみなりさまの所に追いやります。ついで赤おにのボスの黒おにが相手です。食べ比べ、相撲、化け比べと勝負は続きますが、ついに太郎は勝利します。おにの岩屋には金銀財宝がぎっしりですが、太郎は村のじいさまから百姓に一番大切なのは財宝ではなくて水、と教わります。黒おには水田の水を支配していたのです。水が豊かな村では米が取れます。黒おにを退治してくれたことに感謝した村人によって、今まで食べたことがない御馳走が太郎の前に並べられます。太郎は食べる食べる、こいのみそしる二十ぱい、おおきなむすびが八十八……八十九個目にかじりついたところで太郎は突然泣き出します。山里の貧しい生活、米の味も知らずに苦しみながら生きている人々、それなのにのんびりとばあさまに団子ばかりねだっていた自分を思い出したのです。
北の湖を求めて歩き始めた太郎はにわとり長者の沼で龍を呼びますが、出てきたのは白蛇でした。にわとり長者の田んぼで働いて報酬として米を得た太郎は、湖の近くの山でまた苦しい生活の人々を見ます。太郎が持っている米を食べればとりあえずは幸せになれます。太郎は皆に米を分けようとしますが、人々は米を自分たちで作りたいと言います。しかし田んぼにできる土地はありません。太郎は、山より大きくなって山をどしどし海に投げ込んで広い土地を作りたいと願います。
命を脅かす難関を乗り越えてついに太郎はお母さんの龍と対面します。たつがなぜ龍になってしまったかが明かされ、そしてクライマックス。太郎は龍にまたがり山に体当たりです。
「自分のためだけではなくて、他人のために生きることの大切さ」というシンプルでしかし力強いテーマが読者の心に訴えかけます。ただ、私は「突然終わった“子どもの日”」や「子どもが親を越えていくこと」も重要なテーマに思えます。自分のことだけを考えていればよかった子ども時代から他人のために自分に何ができるのかを考えて行動しなければならなくなる日は、社会の中で生きていれば必ず来ます。龍の子太郎のように劇的な形ではないでしょうけれど。いや、太郎でさえ、旅をする途中に様々な生き物に出会い試練に耐え成長する必要がありました。そして成長して“一人前”になったあとでも、最後にまた、さえや龍や山の動物たちと協力する必要があります。現代的な観点からは環境破壊という点で問題はありますが、人の生き方を示す本としては子どもには必読書と言って良いのではないかな。
27日(月)死刑にするかわり
面識ない女性拉致、男3人逮捕
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=282391&media_id=4
あまりの身勝手に腹が立ちます。「誰でもよかった」「顔を見られたから殺した」「死刑が嫌だから自首した」……って、これ「改悛の情」とか「再発しない可能性」とか、期待できます? 顔を見られたくなければ顔を隠せ(つまり最初から殺す気だったんでしょ)、とかツッコミどころは満載だけど、それでも「殺されたのが一人だと死刑にはしない」「犯罪人の人権最優先」理論が発動するんでしょうね。
そうだ、死刑ではなくて、有害ゴミ処分場に生き埋めにするのはどう? 「生き」埋めだから死刑じゃないし、行き先としても適当じゃない?
昔々、まだ台風におなごの名前がついていたころのお話じゃ。ジェーンとかキティとか、バタ臭い舶来美女が日本で暴れていたころにゃあ、水害はある意味単純なものじゃった。大雨が降る。川が増水する。堤防が決壊する。ほら、洪水じゃ洪水じゃ大洪水じゃ。水が引いた後、「床上浸水が○○戸、床下浸水が○○戸」とニュースで伝えられて、後片付けをしているところに保健所が消毒にやってくる。んん、なんで消毒じゃと? そのころの便所は汲み取りじゃ。便所の下にでかい穴を掘ってそこにふだんは貯めておる(バキュームカーって知っちょるか?)。そこにどっしゃと浸水してぐらんぐらんとかき混ぜたら、どうなる? あたり一面糞だらけ。井戸も汚染されちょる。放っておけば伝染病が蔓延するから消毒じゃ。
ところが今ではどうじゃ。堤防は頑丈になってめったと切れんようになった。ところがじゃ、堤防が切れんでも大雨が降ったらこりゃどうじゃ。地下街が水浸しになって人死にが出よる。下水管点検中の人が不意の出水で溺死する。大雨で雨水管が一杯になってマンホールから噴き上げて住宅街が浸水する。
文明は本当(ほんま)に進歩しとるんかのう。
【ただいま読書中】
まずは情報集めから話は始まります。天候がどうなるのか、自分が今いる場所は危険なのか、避難するとしたらどこに……そういった情報を自分でいかに収集するか、がまず大切です。ついで、実際に水害にあったら、どのようにサバイバルするか。いつ逃げるか、何を持ち出すか、どのルートを選択するか……自分の命は原則として自分で守らなければいけません。著者は「失って一番悲しかったのはアルバム」と述べますが、だからといってアルバムを持ち出すために命を賭けることは当然推奨されていません。
記述は具体的です。たとえば非常持ち出し袋に入れるものの一つに使い捨てカメラがありますが、目的は罹災証明。災害後、仮設住宅への入居や税金の減免のためには“証拠”が必要ですから、被害を受けた住宅の写真を撮っておけ、というわけです。生活再建の公的支援もあります。たとえば全壊家屋の再建・新築には最高200万円、大規模半壊家屋の補修には最高100万円が被災者生活再建支援法に基づいて支給されます。200万円でどんな家が建つと行政が期待しているのか私にはわかりませんが、ないよりはマシでしょう。
借家の場合、全壊だと借家権は消失します。ただし大家が再建する場合には、建物が完成するまでに申し込めば借家権は復活します。再建しない場合は借地権の申し込みができます。一部損壊の場合、大家には修繕義務があります。ただし、多額の費用が必要な場合にはその義務は免除されるそうです。法律(罹災都市借地借家臨時処理法)としてはなんとなく常識的な物言いですが、実際に現場では厳しい折衝が必要そうですね。
分譲マンションの場合、話はさらにややこしくなります。所有者の数が多いので合意形成が困難なのです。損害の程度で必要な賛成者の割合が変化しますが、復旧には1/2〜3/4、建て替えには4/5以上の合意が必要です。(阪神淡路大震災以前にはもっと高い割合での合意が必要だったように記憶していますが、詳しいことはもう忘れました)
以前にも日記で書いた災害用伝言ダイアルについて本書でも述べられています。大規模災害時には電話はまず通じません(メールは制限がかけられないそうですが、遅延があるかもしれません)。そこで「171」(「家族が“いない”」と覚えましょう)。そして自宅の電話番号を入力したらそれでお互いの伝言が聞けます。とりあえず「生きてる」とか「○○にいる」がわかるだけでもそれを聞く家族の安心度は全然違うでしょう。
行政機関が行っている訓練や保険の種類についての説明もあります。成人男子では水深が膝まででも歩行速度は1.6kmに、膝を越えたら1.1kmに落ちるというデータも紹介されています。データといえば、都市化に伴うヒートアイランド現象が上昇気流を活発化させ降雨量が増加することも紹介されています。最近の集中豪雨の増加の一因として都市化もあるのかもしれません。地球温暖化によって豪雨と少雨が増加するという不気味な説もあるそうです。洪水の歴史についても簡単ではありますが紹介されていますし、取りあえず水害について一覧したい人には便利な本です。そうそう、雨音が聞こえる「やや強い雨」で10〜20mm/時、土砂降りの「強い雨」が20〜30mm/時、下水管が溢れたり山崩れを起こす「激しい雨」で30〜50mm/時、を覚えておくと有用かもしれません。
ジェーン台風(昭和25年)や第二室戸台風(昭和36年)で大阪が水害を受けたときの経験者に話を聞いたことがありますが、都市が水浸しになるといろんなことが起きます。私の印象に残っているのは、水浸しの道では側溝もドブも開いたマンホール(蓋は大体ずれているそうです)もわからないこと。無防備に歩くととても危険です。そこで絶対安全な「路面電車の軌道」を歩いて移動したそうです。水面下は見えませんから目印は頭上の電線。ここなら路面に「穴」は開いていませんから。路面電車のある街だったらこれは小ネタとして覚えておいて損はないでしょう。ただ、通電している電線が切れていた場合には話は別です。
言語聴覚士という商売があります。言語障害や嚥下障害に対して働きかけて機能の改善を目指す、たとえばリハビリテーションの世界では重要な役割を持った人たちですが、日本でその存在が“公認”されたのは、理学療法士や作業療法士より遅れて1997年のことでした(これは法律が成立した年。第一回国家試験は99年)。なぜ遅れたかの原因の一つとして縦割り行政があると私はにらんでいます。理学療法士や作業療法士のフィールドは医療や福祉で担当は厚生省でした。ところが言語障害者が多いのは、教育・福祉・医療の分野です。すると関係する役所は、文部省と厚生省です。さて、日本のお役所は他のお役所と協力的でしょうか。現役の時には権限を振り回すことができ引退したら天下り先、をそんなに気軽に“他の省庁”に任せるわけがありません。それは相手も同様ですから結局話はなかなかまとまらない、ということになるはずです。
そうそう、臨床心理士では関係するお役所が三つでした。産業現場(労働省)・学校や子どもの施設(文部省)・医療や福祉(厚生省)……二つの役所の綱引きでもややこしいのに、三つどもえですから、話が簡単にまとまるわけがありません。省庁再編で厚生労働省が生まれて話は少し楽になったかと見えましたが、省vs省が内部抗争に変わっただけ。
官僚には「自分たちが日本を支えている」という自負があるでしょうし、実際彼らの働きによって日本がよくなってきた面もあります。しかし強い薬には“副作用”もあるのです。さて、どうすれば今の日本はもっとよくなるんでしょうねえ。政治献金をするか天下り先を用意したら、もうちょっとスムーズにいくのかな?
【ただいま読書中】
言語聴覚士(Speech Language hearing Therapist 略してST)とは何か、STになるにはどうすればいいのか、を知りたい人のための本です。
本書にはヘレン・ケラーの「water」の有名なエピソードが紹介されています。あれは「手に触っている冷たいべちゃべちゃしたものの名前がwaterである」と彼女が学んでいるわけではありません。「ものにはすべて名前がある」という“概念”を彼女が会得した瞬間だったのです。この世界ではすべてのものには名前があってことばで表現され、単語は文法によってつながれます。人はことばを習得することで世界を認識しています。ではそのことばが障害されたら、その人の内的世界はどうなるでしょう。そしてその人はどうやって自分の外側の世界を認識できるでしょうか。
そういった言語障害を持つ人に対して、指導・訓練を行うだけではなくて、障害者の回りの人に説明したり理解を求めて本人の環境改善を行うこともSTの仕事です。STの法的根拠は「言語聴覚士法」です。学問としては「言語聴覚障害学」という若い分野で、言語学・心理学・医学・物理学・統計学などが関連しています。
言葉は“鎖”になっています。(音声言語の場合)想念が言葉(記号)に置き換えられる→神経や筋によって言葉が口から出る→空気が振動→相手の耳に入る→脳に伝達される→言葉の意味が理解される、の鎖です。このどこが断たれても言語障害が生じます。その原因は大きく三つ。1)聞こえの問題 2)発声器官の問題 3)脳の問題(これは先天的な言語発達遅滞と後天的な失語症に大別されます)。STはそのすべてに対応しなければなりません。
STの仕事場は様々です。医療・福祉・教育(「ことばの教室」「難聴学級」など)・地域(「失語友の会」「銀鈴会(喉頭摘出者)」「言友会(吃音者)」など)……
お国柄も様々です。アメリカでは国家資格ではなくて職能団体ASHAの認定資格ですが、言語障害分野での大学院修士号・認定試験合格・インターン1年、が必須です。特筆すべきはその人数。2000年時点で10万人です(ちなみに日本は5600人)。16%は医療、48%は教育分野で働いています。イギリスのSTは6500人。ほとんど医療職ですが、ここで特筆されるのは低賃金。食えないからなかなか定着しないそうです(そういえばイギリスの医療改革ではやたらと給料を下げたので、医者などが大量にアメリカに流出していましたっけ)。ノルウェーでは逆にSTのほとんどは教育分野で働いています。統合教育で様々な障害児が身近にいる環境だからかもしれません。教員資格を取ってから短大に2年、あるいは、大学に4年半通ってSTになってから教員の資格を取るための実践教育講座をもう1年、が標準コースのようです。
日本では1958年に仙台市通町小、59年に千葉市院内小に「ことばの教室」ができてからSTの必要性が言われるようになりました。1960年にはWHOのパーマー教授が来日、大学での言語聴覚障害分野での専門家養成を勧告しますが、政府は動きません。言語聴覚士法が成立したのは上に書いたように97年、施行は98年、第一回国家試験は99年でした。現在は、上智・金沢・愛媛の専攻科・大学院で指定科目を履修するか、指定大学・専修学校を卒業するか、で国家試験受験資格を得られます。
しかし法律を読んでいると面白いですよ。私が一番笑ったのは34条。「国家試験受験の時カンニングしたら許さない」のくだりです。そんなことわざわざ法律に明記しないといけないのかな? あ、「法律に駄目と書いてないから、OKだ」と解釈する言語に関して杓子定規な人がいたら困るからか。
人の話を最後まで聞かずに自分の主張をしゃべり出す人は、日本語の特性をわかっていませんね。話を最後まで聞かないとその人が話している対象について否定的なのか肯定的なのか、わからないじゃないですか。人の意見をちゃんと聞かずに“反論”したって、それは無意味な行動じゃないです? あ、コミュニケーションが目的なら無意味だけど、それ以外のことが目的なら意味があるのかな。たとえば自慰、もとい、示威。
【ただいま読書中】
『
棄ててきた女 』(異色作家短編集19 アンソロジー/イギリス篇) 若島正 編、早川書房、2007年、2000円(税別)
「水よりも濃し」(ジェラルド・カーシュ)……昔々「輸血によってドナーの性質が移る」と信じられていた時代がありました。だから乱暴者をおとなしくするために子羊の血液を輸血した、なんてこともあったというのですが、本当なのでしょうか? 本作で登場するのは人間同士の輸血ですが、アレルギーや人間の好みが相手に移ってしまうという“おそろしい”現象が起きてしまいます。ただその科学的妥当性を論じるよりも、ここに登場する人間たち全員の奇矯さを楽しむべきでしょうね。
「ペトロネラ・パン ──幻想物語」(ジョン・キア・クロス)……たとえばとても可愛い赤ん坊を見て「このまま時が止まってしまえばいいのに」と思ったことはありませんか? もしそれが(ちょっと変わった形で)実現してしまったら……一見美しく、でも残酷な短編です。
「白猫」(ヒュー・ウォルポール)……ハリウッドで成功を夢みるが何も手にできない男。彼は一人で暮らす裕福なイギリス人女性に注目します。これこそ自分の“成功のチャンス”だと感じた男は彼女の邸宅を訪れますが、そこには彼をじっとにらみつける巨大な白いペルシャ猫が。プロポーズをした男にそれから毎夜悪夢が訪れ、そして……
「顔」(L・P・ハートリー)……著者は怪奇小説家として知られているが、本作は“普通ではない”普通小説、という惹句です。いつも同じ顔の女性を描き続ける男。彼を心配する友人たち。ところが友人が「まさにその顔の女性」ドリスを発見したために話は思わぬ方向に動き始めます。男たちは中産階級、ドリスは労働者階級でウエイトレスをしていたのが娼婦に転じます。男と女、友人同士、階級意識、様々なものがすれ違い続け思わぬ結末が……伏線が目立つので結末自体には驚きませんが、それまでの「すれ違い」が楽しめます。たしかに「普通」ではありませんわ。
「何と冷たい小さな君の手よ」(ロバート・エイクマン)……無言電話で話は始まり、間違い電話・回線障害・かけてもつながらない番号・かけないのにつながる番号と話は膨らみ、長いコードと孤独が味つけをします。電話交換手とかサナトリウムという言葉が時代を感じさせますが、本書の恐怖と狂気は、携帯やメールで情報としては昔よりは密につながっている現代にそのまま再現できそうです。
「壁」(ウィリアム・サンソム)……ロンドン空襲で消火活動に当たる消防士の独白ですが、読んでいて私が思い出していたのは、バスター・キートンです。チャップリンと同時代の喜劇俳優でニコリともせずに面白いことをする人でしたが、彼が危険なギャグを体当たりで行うものの中に壁が出てくるものがあったよなあ……なんて思っていたら、本作も意外な展開に……って、ほとんどネタバレかも。
「棄ててきた女」(ミュリエル・スパーク)……わずか5ページ半ですが盛り上げるだけ盛り上げておいて最後が……あああ、意地悪な短編です。職場に何かを忘れたことを気にしながら家路につく「わたし」。どうしても気になって仕方ないため下宿から職場に引き返し「まるで恋人のように抱きしめた」ものとは……「やられた」と呟きながらもう一度最初から読み直すことしか私にはできません。
ほかにも、ジョン・ウインダムとかアントニー・バージェスとかいかにもイギリスっぽい異色短編がてんこ盛りです。本書で異色で奇妙で豊饒な時間をお過ごし下さい。
展覧会で、展示されているモノを夢中になって見ている人よりも、説明パネルを熱心に読む人の方が多いのを見ると、なんだかなあ、と思います。「読む」より「見る(観る)」方が楽しいんじゃないかな、ってね。もっとも私自身もモノではなくてそのような行動をする人を見ているのですから、あまり偉そうなことは言えませんが。
……いや、「北京故宮博物院展」に行ってみたら、西太后の服とか溥儀の自転車とか19世紀よりこっちの新しい物が中心であまり熱中できなかったのです……と言い訳をしてみたりして。
【ただいま読書中】
「
千一夜物語 」に黒人奴隷が何回も登場しますが、大体は敵役とか憎まれ役です(たとえば王妃が王の目を盗んで浮気する相手はまず間違いなく黒人奴隷)。それでもアメリカとは扱いがずいぶん違います。そもそもアメリカへの奴隷ビジネスは、大規模で主に農業生産のため(男女比は2:1)でしたが、イスラームの奴隷ビジネスは(アメリカよりはるかに古く)小規模でサーヴィス分野(妾、コック、荷かつぎ人、兵士など)が対象でした(男女比は1:1)。どちらでも奴隷は奴隷でしたが、著者はイスラーム世界の方がキリスト教世界よりも奴隷がやや人間的に扱われた、と言います。その理由は、イスラーム国家が宗教的で学問や軍務で信仰に仕える方が経済事業で財をなすより大きな名声を得られたこと、長子相続制度や高利貸し制度がなく過度の拝金主義が抑制されたこと。奴隷出身の将軍や王がイスラームにはいたことで政治と奴隷制の関係が、「黒人専用の教会」がイスラームの中には存在しないことで宗教と奴隷制の関係がある程度わかるそうです(キリスト教国家と比較して)。そうそう、黒人奴隷兵士はアメリカ南北戦争でも存在していたそうですが(北軍側は映画「
グローリー 」、南軍側は「
風と共に去りぬ 」で描かれていましたっけ)、南北とも将軍はおろか黒人将校もいませんでしたね。
イスラーム世界の歴史についても簡潔にまとめられていますが、地中海〜アジアまでと範囲が広いので書く方も読む方も大変です。面白いのは16世紀ころ。スンニ派のオスマンとシーア派のサファヴィー朝(ペルシア)が対立して、オスマンはフランスと、サファヴィー朝はオーストリアと組んだことです。これが結局はイスラーム世界の衰退を招いてしまいます。インドでは8世紀からイスラームの征服が始まっていました。16世紀には他宗教に寛容だったのがやがて宗教的な不寛容が支配的となり多数派のヒンズー教が不平分子となり、そこにさらにポルトガル・オランダ・デンマーク・フランス、そしてイギリスがやってきて、ムガール帝国は衰退します。
イスラーム世界ではムスリムの奴隷は解放されることが推奨されていました。解放した主人には天国での報償が約束されます。ムスリムの女奴隷を解放して結婚させると二倍の報償です。主人が女奴隷を性的に扱うことはコーランでも認められていましたが、子どもができたらその子は自由人です(自由人の父が自分の子を奴隷にすることは認められません)。いくら奴隷のご主人様だと言っても、奴隷の母親と幼少の子どもを引き離すことは認められません(「そんなことをする奴は、復活の日に神によって自分が愛するものから引き離される」のだそうです)。(もっとも、人を一度奴隷にしておいてそれを解放して「ああ、良いことをした」というのには「だったら最初から奴隷にするな」とツッコミを入れたくなりますが……あ、仏教の放生会と発想は同じなのかな)
戦争や貿易によって奴隷は“供給”されていましたが、常に数は足りず“高価な商品”でした。黒人だけではなくて白人奴隷がいたこともイスラームの特徴です。
イスラームとキリスト教世界の黒人奴隷制には“接点”があります。レコンキスタ(イスラムに支配されたスペインがキリスト教によって“解放”されたこと)の後スペインにはムスリム(黒人奴隷を含む)が多く残されました。はじめは宗教宥和政策が謳われましたがそれは10年しか保たず、やがてユダヤ教とイスラームに対する迫害が始まり、ついでに黒人を鉱山や農園労働に使うために新大陸に輸出することが始まりました(新大陸のインディオはもう奴隷として使えるほど数が残っていなかったのでしょう)。これはやがてアフリカ大陸からの“(黒人奴隷)大西洋貿易”に発展します。
19世紀に西欧では「反奴隷制」運動が起き、その矛先はイスラーム世界にも向きます。人世紀王主義者の目には、豊かだったアフリカの村落が荒廃したのはイスラームの奴隷貿易の責任なのです。(……自分たちの過去(あるいは現在)の行状を無視し、国自体を奴隷化する植民地を経営しながらどの口がそんなことを言うのかな、なんて思いますが……さらに、太平洋と大西洋の鯨をほぼ全滅させておいてから南氷洋の捕鯨にいちゃもんをつける人たちのことも連想しますが……それが“西欧の伝統”なのでしょう) 奴隷制は“非合法”とされますが、現地(植民地政府、駐留軍、民間業者)には別の思いがあり、奴隷は密貿易で運ばれ、死亡率は激増します。そうそう、奴隷市場は20世紀後半にもまだしっかり存在していたこと、ご存知でした? 今でも子ども兵なんかは奴隷の一種かな。