mixi日記2007年9月
知識がたくさんあってもそれだけでは教養があるとは言えません。私はそこに知恵や人格を加味し、さらにその人をコミュニケーションが豊富にできる環境に置くことで、やっと教養が育つ、と考えています。人と人との間で上手く知識が使われることが教養の一形態でしょうから。
【ただいま読書中】
国語辞典には“正しい”ことが書いてあると、なんとなく私は信頼していましたが、実際にはけっこうアヤシイこともあり、制作過程で(辞書には書けないような)人間くさいドラマもあるそうです。そういった、新しい国語辞典が作られるときどのようなことが実際に起きていたのか。それを辞書制作者に取材してまとめた本です。
『
広辞林』……戦前には花形辞書だった広辞林ですが、編者の金沢博士に対して三省堂は非常に冷たい態度でした(印税はなんと1%)。ところが戦後広辞苑が出版され、このままでは広辞林は消滅する、との危機感が会社を動かします。大急ぎで新版広辞林を作り上げます。後にその改訂版ができますが、会社の営業方針で「三省堂新国語中辞典」と名付けられたため、本屋には新版広辞林と並んで売られることになります。ところがネームバリューのおかげか広辞林の方が売れてしまい、営業の目論見は外れます(外れ続けて結局三省堂の倒産(昭和49年)になるわけです)。そこで営業は「1年間で広辞林を改訂しろ」と言い出します。無茶です。
『
広辞苑』……編者の新村出は「辞苑」を増補改訂した最初の原稿を岩波に蹴られ(もとは新村サイドの持ち込み企画だったのですが)、岩波編集部が主体となって新村は“お雇い編集者”になってしまいます。国語辞典の項目は「国語項目(一般の言葉)」と「百科項目(各種専門分野の用語)」から成りますが、岩波が問題にしたのは百科項目のお粗末さでした。そこで徹底的な書き直しが行われます。さらに基本語の解釈と用例も見直され書き直されました(国語学者大野晋が960語を書き直しています)。タテマエでは「校正」となっていますが実態は再編集です。この辺の事情は、広辞苑二版の序文(編集)と後記(版元)との食い違いからも読み取れる、と著者は述べます。まるで刑事事件の手がかりを解読しているようですが、新村サイドの主張を丸ごと信じている人も多い、と著者は少し悲しそうです。
辞書の収録語数の話も笑えます。広辞林や日本国語大辞典での収録語数の削減や水増しなど、たとえ悪意がなく誠実な人ばかりでも正確なことは言いづらい場合があることがわかります。ただし、最初の間違った数字がいつまでも引用されるのはいけません。研究は進む(たとえば「辞書の語数を数えた」なんて論文もある)のですから、いつまでも“昔の数字”を使うのは研究者として不誠実、と著者は辛辣です(自分でも一冊数えた経験があるから強気なのでしょう)。
漢字の字体の話も登場します。正字と略字が漢字にはありますが(たとえば「鶯」と「鴬」)、広辞苑では初版では約100字の表外漢字の略字体が正字として載せられ、二版では元に戻されていました。さあ、「事件のにおい」がぷんぷんです(と著者は言います)。著者は他の辞書と広辞苑を比較検討し、とうとう「表外漢字のうち広辞苑の中で正字扱いした漢字の一覧表」なるものを発見します。ところがこの一覧表、目次には載っていません。なぜ? ここからが面白いのですが、詳しくは本書を読んでください。文部省・出版印刷業者・マスコミ・学者・ユーザーが入り乱れて、漢字をいじくり回すとどうなるか、のどたばた劇が展開します。ただ、ひと言感想だけ。「官僚に文化は任せない方が良い」 そして最後には「正字って、何?」という根本的なところで著者は立ち止まってしまいます。
著者は元新聞記者ということで、ご自身の職業体験を重ねながら国語辞典と日本語の世界をさ迷います。取材に詰めの甘いところもありますが、日本語と真摯な態度でとり組む姿勢は参考になります。
2日(日)泣いていい
前田智、超満員広島ファンの前で2000安打
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=287117&media_id=8
「侍」とか「孤高」とか評されることが多いけれど、あれは豊かな感情を持った傷つきやすい魂が、勝負の世界で生きていくためにかぶった「仮面」じゃないか、と私は見ています。嬉しかったら大笑い、悲しかったら大泣き、でも良いんだよ、と言ってあげたいけれど、広島ファンとしてはもう少し「侍」でいてほしいかも。まだあのプレーを見ていたいから。ファンは我が儘です。すみません。
二つめの日記です。
「部屋はがらんとしていて、まるで生活臭が感じられなかった」という表現がありますが、この時「臭」を感じているのは、嗅覚でしょうか、それとも視覚?
【ただいま読書中】
『
千一夜物語6』マルドリュス版、豊島与志雄・渡辺一夫・佐藤正彰・岡部正孝 訳、 岩波書店、1982年(85年3刷)、2800円
本巻では331夜から414夜までです。最初は「色異なる六人の乙女の物語」。どんな色かといえば「白」「栗色」「肥え」「痩せ」「琥珀色」「黒」……って、肥えと痩せは「色」ですか? ともあれこの六人は大商人アリ・エル・ヤマニの妻妾です。……あれれ、コーランでは「四人まで」ではなかったっけ?? いや、うらやましいなんてこれっぽっちも思っていませんよ(おかだ ウソつかない)。えっと、先日読んだ『イスラームの黒人奴隷』には「妻は四人までだが、子供を作るための女奴隷はそれとは別」とありましたので、一応“合法”ということです。ついでですが、「全員平等」のコーランの教えもきっちり守られていますのでご安心を。
さて、六人の紹介がすんだところで、主人は今夜はちょっと変わった趣向で行く気です。白と黒、肥えと痩せ、栗色と琥珀色をそれぞれペアにして「自分が相手よりいかに優れているか」を、コーランと詩句を根拠としての「合戦」です。いやあ、教養と文化がにじみ出ています。感情や罵詈雑言ではなくて、しかも相手とこれからも仲良く暮らすことを前提として、自分がいかに相手より優れているかを誇示する……なかなか難しい要求ですしそれを難なくこなす乙女たちも大したものです。これまで書き忘れていましたが、千一夜物語には引用または即興の詩句の詠唱が満ちあふれています。犯罪者の言い訳でさえ詩句で行われたりします。詩のスタイルは日本人には馴染みの薄いものですが、こういった文化を重要視する社会の基本態度はどこか馴染みがあるような気もします。
……そうそう、本書でちょっと物語の“色”が変わったような印象を私は受けました。単に「面白さ」だけではなくて、物語りの技巧も進化しているようなのです。
「肉屋ワルダーンと大臣の娘の話」……これまでは誰か話す相手があってそれに対して話す、その話の中の登場人物がまた誰かに出会ってそこで話が始まる、という“形式”が守られていました。ところがこのお話ではシャハラザードから唐突にワルダーンへの「語り手の移動」が行われます。新機軸です。またここには黒人への偏見(黒人男性は性的に優れている)が登場します。初めての相手が黒人だったために気絶するまで(数でいうなら一日に十回)セックスをしなければいけなくなった大臣の娘。相手の黒人も消耗して死んでしまいます(……あれれ、“黒人は異常に強い”んじゃなかったんですか?)。そこで大猿を相手としたのですが……(私は日本の「サルがせんずりを覚えたら死ぬまでやる」を思い出しました) その事情を知ったワルダーンは猿を殺し「自分がかわりに」と申し出ます。そして驚くべきハッピーエンド。
江戸でも吉原の花魁を請け出して女房にするのが男の甲斐性、なんてのを聞いたことがありますが、処女性を重要視する割りには性に関しておおらかな態度がアラビアの基本なのかな?
細い道ですれ違った原付スクーターがどうもこわい恰好だと思ったら、両脇にだらりと足をぶらさげていました。転びそうになったらすぐに足がつけるように、ということなのでしょうが、これって危険です。
危険その1)バイクから両脇にはみ出た脚が車とかガードレールに接触するかもしれません。
危険その2)垂れた足が思わぬ時に地面に接触すると、よくて靴底が減るし、悪ければ転倒します。
危険その3)やってみたらわかりますが(実証するためにやってみました)、両足をステップから外すとハンドルにしがみつく恰好になります。これは走行姿勢を崩し操縦性を悪化させます。最低、手が疲れます。
スクーターではニーグリップ(バイクのガソリンタンクを両膝でがっちり挟みこむこと)ができません。股間はすーすーです。でも足をステップに踏ん張ることで直線は安定するしコーナーリング姿勢をコントロールすることもできます。無駄に危ないことが好きなのならしかたありませんが、基本姿勢は大事にした方が良いんじゃないかなあ、というか、こういった基本のキはどこで教わるんだったっけ。
【ただいま読書中】
『
風林火山』井上靖 著、 新潮社、2006年、1600円(税別) (底本は新潮文庫)
私の親の家の居間に転がっていたので拝借してきました。
小身で隻眼、片足が不自由で右手の中指も失っている浪人の山本勘助は、50歳を越えてからやっと甲斐の武田家に仕官します。そこで出会った武田晴信(のちの信玄)は、それまで孤独の身で浪々としていた勘助にとって初めて人間的な感情を向けることのできる存在でした。勘助は晴信の意向を汲むことに専心します。戦いの前にまず晴信の潜在意識が何を望んでいるかを知り、それを実現できる方向に軍略を立てるのです。そしてそれに成功することで、信用と信頼を勝ち得ていきます。
武田は諏訪を攻略しますが、諏訪頼重の娘由布姫を見た勘助は、諏訪の安定のために由布姫が晴信の子を生み、その子が諏訪を治めればよい、と考えます。しかしそれはいわばタテマエで、私が読み取るところでは勘助の私情(由布姫への思い。でも身分が違う。ならば自分が好きな人と自分が好きな人がくっついてそこにできる子どもに忠義を尽くそう)が真の動機のように思えますが、本書では語られない「勘助が家庭を持たない理由」も影響が大きいのではないか、とも思えます(たとえば怪我をしたときに不能になっているとか)。
めでたく(?)由布姫は男児を産みます(のちの四郎勝頼)。武田晴信は諏訪に次いで信州に手を伸ばします。近い目標は甲斐が大国となって安定すること。遠い目標は天下。木曽・伊那と武田の勢力は拡大しますが、やがて大きな障壁に出くわします。越後の長尾景虎(上杉謙信)です。猛将の景虎は、領土拡張の野心はありませんが、義による戦いはためらいません。さらに大国である今川や北條の意向、混乱する関東の情勢などが武田の行動に影響を与えます。
本書は、勝頼が初陣に出ようとする川中島の合戦(第何次かな、謙信と信玄が単騎で決戦した、と伝えられている有名な戦い)で巻を閉じます。山本勘助が何を生きがいとしたか、そしてその生と死が何を生み出し何を滅ぼしたか、余韻の残る終わり方です。
本書を原作として現在NHKの大河ドラマが放映中ですが、登場人物の数が絞られている本とは違ってTVの方では多くの人間の人生がけっこう熱く語られています。私が特に注目しているのは真田幸隆です。TVでけっこうねちっこく描かれる真田家の所領へのこだわりは、結局後日徳川との深刻な対立を招くのですが「なるほど、あれだけの思いが先祖から伝えられていたら、素直に徳川に従えないよな」と思わせる内容です。文字通り「一所懸命」ですね。
特に殺人の裁判で「被告は正常な精神状態ではなかった(だから減刑しろ)」との主張がありますが……殺人を犯したときに、もしまったく平静で正常な精神状態の人がいるのなら、そちらの方が「異常な精神状態で殺人を犯す人」よりコワイと感じます。私だったらきっと半狂乱でないと人は殺せないなあ。それともほとんどの殺人犯は冷静に「急所はここだからここをこうやって、ほら死んだ。計算通り、ウヒヒヒ」ってやってるの?
そうそう、判決文で時に「何十ヶ所もめった刺しした残酷なやり口」なんて表現を見るのですが、半狂乱で何十ヶ所も刺すのと、一ヶ所ですぱっと急所を突いて即死させるのと、一般的にどちらがアブナイ人でしょう。
蛇足:汚職の裁判でも「金銭授受の場で被告は正常な精神状態ではなかった」と主張したら減刑してもらえる? 腰痛をおしてサッカーをしたことで解離性障害になる人もいるのですから、違法な金をもらうことで興奮して異常心理になる人だっているでしょう。
【ただいま読書中】
ハルと名付けられたペットロボットが生きている、と主張する人(飼い主)が増えてきます。作家である主人公は妻の女優の動きを取り込んだヒューマノイド型ロボットにある種の気味悪さを感じますがそれを明確に言語化できません。本当にロボットにたましいはあるのか、それともそれは見つめる側の人間の問題なのか、そもそも「たましい」というもの自体存在しているのか(人間に魂があることを明確に証明できます?)……解決は示されず作品は幕を閉じます。(以前読書日記に書いた『
2001』にも収載されていた作品です)
「夏のロボット ──来るべき邂逅」……「ロケットの夏」(ブラッドベリ『
火星年代記』)かそれとも『
夏のロケット』?とまず感じるタイトルです。
知能とは何か、は古い問いです。しかし問いが古いからと言ってそれがつまらないわけではありません。その問いに初めて触れた人にとってそれは新しい問いです。だからこそ“誰”からそれを問われるか、はその人の人生にとって重要なことになります。
「見護るものたち ──絶望と希望」……タイトルからまず連想したのはホーガン(『
星を継ぐもの』)ですが、それともクラークのそれらしい作品群(たとえば『
前哨』)かな。これは自信なし。私の脳髄はもっとぴったりの作品があると感じているのですが、すぐには思い出せません。
カンボジア国境近くのタイの村。そこは地雷に取り囲まれていました。地雷探知犬と協力して仕事をする地雷除去ロボットを開発している日本チームは、少女と犬とロボットと、そしてタイの精霊たちとの不思議な物語を目撃することになります。
「亜紀への扉 ──こころの光陰」……街角に棄てられたロボットを拾ってしまった九歳の少女。その壊れた脚を修理し、抜き取られたメモリーを増設して新しいOSをダウンロードしてやった「ぼく」。そこから“長い長いおとぎ話”が始まります。そりゃタイトルを見たら“長く”なるのはわかります。タイトルは明らかに『
夏への扉』(ハインライン)からですから。そしてこのお話がラブストーリーになるだろうということも読む前から私は予感します。「見護るものたち」の登場人物もここに顔を出しますが、それはまあ彩り。成長し切ってしまった人工知能に対して人間が感じる感情の描写は苦い味がしますが、基本的にまっすぐ“おとぎ話”は進んでいき……最後に「ぼく」とロボットが並んで花束を持って叩く扉は……いやあ、こんな素直なエンディングは私の好みです。二人(と一台(一匹?))に幸あれ。
「アトムの子 ──夢見る装置」……一瞬『
ららら科學の子』(矢作俊彦)かと思いましたが、こちらは2003年出版だから違いますね。『
アトムの子ら』という本もありますが、素直にアトムの主題歌中の「科学の子」から、とするべきでしょう。
ロボットの正義感とは何か、を考え続ける人に焦点を当てていますが、「なぜ鉄腕アトムが正義の味方であらねばならなかったか」についてけっこう斬新な解釈が提示されます。
そして、タイルの目地のように、すべての短編の隙間を埋める「WASTELAND」の1〜6。伝説の「鉄腕アトム」を求めて放浪する少年ロボットの物語ですが、私は「一つの存在が連作短編を統べる共通テーマ」である点で『
火の鳥』(手塚治虫)を想起しました(ロビタも出てきますし)。あちらの「火の鳥」の役割(人が求めて求めて、その結果様々なドラマが生まれる)をこちらでは「アトム」が務めている、という感じです。
著者は相当ロボットについて調べていますが、もしもゆっくり話ができたらものすごく面白い話が聞けそうに思います。立場は相当違いますが、本書で見る限り、読んだ本に関しては私と波長が合いそうですから。私は感心しながら聞くだけの役割になりそうですが、それでも十分幸せかも。
職場で昼休みにTVがついているのでついつい見てしまうのですが NHKの朝ドラ「どんど晴れ」はどうも見ていて気持ち悪いのです。凛としてあるいは健気に生きるのは女性で、だらしないのは男性と決まっています(今は「改革」で恰好良く見えるヒロインの夫だって、前はお祖母ちゃんに「旅館を頼む」と言われたらふらふらとその気になってホテルの仕事(とヒロイン)を捨てようとし、でもホテルで「仕事を頼む」と言われたら旅館(と仲居修行中のヒロイン)を放置してホテルの方に夢中になって、ととってもいい加減でした)。もちろん例外もあります。たとえばヒロインに味方する男とかヒロインに敵対する女とか。でもまあ結局、男性蔑視のドラマなんですね(今「格好良い男と、それを取り巻くダメダメ女たち」のドラマを作ったら女性蔑視と言われるでしょう?)。典型的なのは披露宴の場で跡継ぎ問題に異を唱える男どもを女将が一喝するシーンです。なんともはや男どもの情けないことといったら。言っても仕方ないことを言うべきではない場所で口に出して、それを一喝されたらしゅんとするなんて、格好悪いことこの上なし。まあ、男が情けないというのは世の中の実情をそのままドラマに反映しているだけなのかもしれませんけれど。
※本年7月12日の日記でもこのドラマについて書きましたが、“味つけ”を変えてみました。
【ただいま読書中】
ジョージ・ブレットは、メジャーで23年プレーし、3154安打、201盗塁、オールスター出場13回、最高打率3割9分という殿堂入り選手です。比佐が行ったジョージ・ブレットへの3日間のインタビューをもとに本書は作られています。明日のスター選手を夢見る人のためのヒントが満載です。
ブレットの教えは具体的です。トレーニングをするのは、筋力をつけるためだけではなくて柔軟性を身につけることが目的です。トレーニングで体を作るのは技術を実現するためです。たとえばバッティングの技術には大別して3種類あります(ホームランを打つ、ヒットを打つ、バントする)。そのどれを行うかを明確に意識する必要があります(イチローはそれをやっているんでしょうね)。球を見逃す場合は必ずキャッチャーミットまで球を追え、と言います。もちろんそれには具体的な効用があります。
コーチングに対しても示唆深い発言があります。コーチは選手と共に成長するのだそうです。コーチが選手に教える。選手はその言いなりになるのではなくて、自分でも考え努力する。その結果が選手とコーチにフィードバックされ、両者が考え次の手を打つ。それを繰り返すことで両者が進歩していくのだそうです。……まるで子育てと同じですね。
精神論も出てきます。ただし日本お得意の根性論ではありません。たとえば二点差で負けている状況でノーアウト二三塁で打席に立ったら、何を意図するか。「ヒーロー」になることを夢見てホームランを狙うか、それともチームのために進塁打(右方向へのゴロ)を打つか。著者は「ヒーローになりたいというエゴを捨てろ。強攻してチャンスを潰すのではなくて、なんとしてでもランナーを本塁に返す技術を発揮しろ」と述べます。合理的な精神論です(もちろん特別な天才(マグワイヤ、ソーサ、王貞治など)は話が別ですが)。そうそう、リラックスの重要性も強調されます。練習の成果を観衆の前で発揮するのに、心身が硬くなっていたらろくにパフォーマンスできない……それはそうですね。で、ここでも最初の「筋肉の柔軟性」が重要になるわけです。
一つの筋肉だけ一つの関節だけ強くしても野球は上手くなりません。全体が重要です。トレーニングは部分を鍛える場合でも全体の流れをイメージしつつやらなければ効果が上がりません(ここでは例としてハイクリーンというパフォーマンストレーニングが紹介されています)。
速度荷重の原則も重要です。足・腰・肩・肘・手首、と時間差でそれぞれの関節が動くことで力をスムーズに伝達していきながら増速し、最終的にバットや球に最大速度を与えます。どれか一つが頑張るだけでは駄目なのです。
栄養・休養・トレーニングがコンディショニングの基本です。「試合前日にトンカツとビフテキ」はあまり推奨されないようです。トレーニングでも様々な能力が要求されますが、私がショックを受けたのは持久力のところ。本書では全日本チームで12分走で3000mが要求される、とあるのですが……これ、普通のジョガーであった私の大学時代のトレーニングの時の目標タイムです。野球選手って、意外に体力がなくていいのね。本書にも「普段から走っていれば、誰でも走ることができる記録だ」とあります。そうそう「下半身の動きをスムーズに上半身に伝達するために、腹筋や背筋の持久力が必要とされる」と本書にありますが、そういった明確な意識を持ってトレーニングしている野球選手はどのくらいいるんでしょうねえ。
用具も面白いものが紹介されています。折れにくい木製バット。インサイドから振り出してバックスピンのかかった打球を打つ練習のためのフラットバット(打つポイントが平らに削られている)。プロカット(バットのグリップエンドに取り付ける素振り用のカウンターウエイト=重心を手元に近づけることでパワースイングを体得させる)。グラブやトレーニング機器も紹介されていますが、著者は「機器がないことをトレーニングをしないことの言い訳にするな。なければ自重を使え」と言います。とりあえず始めろ、なんですね。
足あと33333は 論2さん でした。ご来訪ありがとうございましたぁ〜。
ちなみに前後賞はB2ONさんとばるた3さん。奇しくも全員無限壁仲間でmixiネームに2か3が入っている、という共通点が……
足あと22222が今年1月5日でしたから8ヵ月と1日で11111……マイミクさんの数を思うとなんだかすごいペースです(論2さんのように、マイミクではないのに定期的に覗きに来てくださる方の存在も大きいようです)。これまで閲覧してくださった皆さんに感謝感謝。未来の閲覧者の方にも感謝感謝(の先払い)。日記は適当に思いつくまま書いていますので、時々「このネタは以前に書いてなかったか」と書きながら不安に思うこともありますが、ダブりがでたらごめんなさい、と先に謝っておきます。私の発想力なんてたかがしれているのでどうしても似たことを思いついてしまいますので。
……おっと、もっとコワイのは、読書日記のダブリのほうかも。再読なのに初読のように楽しんでしまうことが時々ありますが……これは以前と感想が違っていたら勘弁してください。成長の証ということで。
そうそう、台風のことが現在気になっています。ひどい被害が出なければいいんだけど、ということもありますが、実は明日上京するものですから(週末はフルに缶詰でありがたーい話を聞いたりグループワークをする予定)。春は霧で痛い目にあったので、もしかして秋は台風で飛行機は欠航するかも、と先月から新幹線の切符を押さえていたのですが、ダイヤがぼろぼろになってなければいいんだけどなあ。
6日(2)119
(本日二つめの日記です)
ふつうはあまり縁がない(というか、できたら一生縁がないのが望ましい)救急ダイアルですが、いざというときのためにかけ方を知っておいた方が良いと思うので、ここに書いておきます。電話かけたはいいがうまく相手に通じなければ意味がありませんが、だからと言って「ドンナモノか知りたい」と試しにかけてみるわけにはいきませんからね。文字通り机上の空論とはいえ、少なくとも知識だけは持っておいた方がいいでしょう。
まずはおちついて「1」「1」「9」。当たり前のようですが、緊急事態に人はあらゆるミスをします。だけどここで間違い電話をしたら余分な時間がかかりますから落ち着いて。さ、つながりました。ここでぺらぺらと「大変なんです」なんて話し始めてはいけません。「火事ですか、救急ですか」と先方に聞かれますから、火事なら「火事です」急病人や交通事故などの大怪我なら「救急です」と答えましょう。それから本題です。でもそこで「大変なんです」と話し始めてはいけません。「大変」なのはわかっています。大変でない人が119番にかけることは(本来)ないのですから、当たり前のことを確認するのはやめましょう。119の電話を受けた相手が欲しいのは、たとえば急病なら救急車をどこへ派遣して、そしてどこに搬送するか(脳卒中だったら脳外科、骨折なら整形外科)、現時点で命が危ないのか、などの情報です。ですから「すぐ来い。がちゃん」は論外で、住所氏名をはじめとして、どこをどうしたらどうなったか、の情報提供が必要です。判断はとりあえず要りません。「きっと脳出血です」なんて素人が判断しても、なかなか当たるものではありません。だけど「おじいさんが急に倒れて意識不明。右手はもがくように動くが左は全然動かない。そういえば普段から血圧が高かった」と“事実”について的確に説明できたら、どこに運んだらよいかプロが判断してくれます。(もちろん的確な診断ができているのならそれはそれで重宝でしょうけどね。「前に○○の発作で倒れたときとまったく同じ状態に見える」とか)
さて、これでとりあえず119にかけたらどんな話の流れになるかはわかりましたね。あとは縁がないことを祈りましょう。そうそう、タクシー代わりに救急車を使う人が問題になっていますが、アメリカのように有料化するのも一つの手とは思います。ただしそうなると「金払うからすぐに来い」と使う人が出てくるかもしれません。“常連”さんは逓増制にします?
【ただいま読書中】
目次:「せせらぎ亭」(三浦哲郎)、「鯉魚」(岡本かの子)、「雷魚」(唐十郎)、「鯉の病院」(田中泰高)、「五色蟹」(岡本綺堂)、「魚服記」(太宰治)、「鯉の巴」(小田仁二郎)、「魚の李太白」(谷崎潤一郎)、「神様の招待」(森猿彦)、「魚鱗記」(渋澤龍彦)、解説(岡田夏彦)
編者が誰か明記されていないアンソロジーです。解説者が編者かとも思いましたが、解説はずいぶんやる気のない文章で、本当に編者なのか、そもそも本書が何を意図して編まれたものか、今ひとつ不明です。まあ中身が面白ければ良いんですが、熱心に売る気あるのかな?
「怪異」とか「幻魚」とタイトルにありますが、ごく普通の短編が並んでいます。ちょっとコワイのは「五色蟹」や「鯉の巴」くらいかな。これは怪談としてもとおりそうです。それから個人的には太宰はなつかしかったし、「鯉の病院」の皮肉さは楽しめましたが、でもやっぱり本書のポリシーがわかりません。何が狙いの短編集なんだろう?
■流行サンダル、エスカレーター巻き込み事故40件…骨折も(読売新聞 - 09月07日 03:12)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=290736&media_id=20
何年前になるかなあ、「ゴム長靴を履いた小さい子どもが、足をすっぽりエスカレーターの隙間には吸い込まれてしまう」事故が連続して報道されました。事故の構造としては今回のサンダルと同じに私には見えます。この記事の見出しではまるで“悪者”は「流行サンダル」のようですが、問題の本質は「サンダル」ではなくて「エスカレーターの使い方」でしょう。
「ステップの黄色く塗られているところは踏まない」「ステップの上ではいろいろ動かない」という安全上の基本を守るように親が子どもに躾けることができないかぎり、同種の事故はこれからも続くでしょう。たとえいくらサンダルを改良してもね。
エスカレーターの改造(黄色の部分に足が乗らないように物理的にブロックする)も解決策としてあるでしょうが(フール・プルーフ)、日本中に普及しているものを全部改造するのはすぐには無理でしょうし、そもそもそんな改造は理論的にも可能なのかな?
7日(2)台風を追う気分
今から駅に向かいます。台風が荒らしたばかりの関東に向かって、さて、新幹線はちゃんと走っているでしょうか。なにせ出張パックの切符なので「指定の列車に乗ること」が義務づけられているのです(キャンセルも変更も不可)。JRの責任で遅れていたり欠便になっていたら他の便に乗ることもできるでしょうが(というか、絶対乗りますが)、さて、その場合は座ることができるかな。まあどうなるかわかりませんが、今日は移動日ですから今日中に到着すれば良いや。なぜかパックにキオスクやハートインでの商品引換券が600円分ついていたので、それをありがたく使って“籠城”用の飲み物や食料を仕入れる算段ですが、さてさて、何時間かかるかな? 私は今日中に東京に入れるでしょうか? わくわく。
そうそう、JR各社のトップページを眺めていたら、私が現在知りたい「運行情報」は、JR東海とJR西日本ではページの左上ですぐにわかるところに位置していましたが、JR東日本では右の中程、(私の環境では)ページをスクロールしないと出てこない場所でした。各社の意識の微妙な違いを感じます。
ついでに……12時現在のJR東海新幹線運行情報は「 06時16分頃より、熱海駅〜新富士駅間の上下線にて、大雨のため上下線の運転を見合わせていましたが、現在は運転を再開しています。そのため、列車に遅れが発生しています。」……なんとなく悪文。原文を生かすなら「現在は運転を再開していますが、06時16分頃より熱海駅〜新富士駅間の上下線にて大雨のため上下線の運転を見合わせていましたため、列車に遅れが発生しています。」かな。できたら運転を再開した時刻とか遅れの幅(列車によって30分〜1時間半)とかの数字情報もほしいところです。
7日(3)急病人の定義
昨日の日記(2番目の「119」)を書いてから「急病人」ってけっこう定義が難しいぞ、と気がつきましたので、連続ものです(というこの日記は本日3本目ですけど)。
まずは「急」。「三日前から」は「急」ではないと言えそうです。「5分前から」は「急」と言って良さそうです。では「三日」と「5分」の間のどこかに明確な境界線が引けるでしょうか? ちょっと考えてみたのですが、けっこう難しい。
次が「病」。どの程度だったら救急車を使うべきでしょうか。そこのところも実は曖昧です。たぶん消防署も「救急車使用基準」なんてものを持ってはいないんじゃないかな(最近東京では救急トリアージというのを始めたそうですけど、救急車を使うべき/使う必要なし、の客観的な判断基準を持ってやっているのかどうか、興味があります)。大体の病人は、タクシーや介護タクシーで運べないことはないはずです。大量出血や心臓マッサージや酸素吸入がいるものは当然救急車でしょうけれど、この場合は逆に迷いようがないはず。
そして「人」。意外と知られていませんが、救急車で運べるのは「生きている人」です。タテマエが「急病の人を助けるため」に急いで病院に行くのですから、死体は運べません。だから目の前に死体が転がっていたら呼ぶべきは119ではなくて110でしょう。
そうそう、「人」と言えば、そのうちに「うちのポチが大変です」と119にかける人が出てきそうな予感がします。私の予感はよく外れますから、大丈夫とは思いますが……たぶん。
【ただいま読書中】
世界で最初に先物取引が公認されたのは、日本で徳川吉宗の時だったそうです。そういった“先進国”に今新しい人種が登場しています。デイトレーダーです。
2003年12月23日、名古屋テレビ塔展望台から100円札と1ドル札が合計3000枚ほど地上にばらまかれました。26歳の青年が「あしぎん(足利銀行)の株を1円と5円で600万株買い15円で売って大儲けした。この年でこんなに金があったら人生味気ない。微々たる金額だし、皆へのクリスマスプレゼントだ」と話したそうです。あるブログでは「ばらまかれたのはお札ではなくて情報」と指摘します。世の中の人は「若者が短期間で『人生が味気なくなるくらい』大儲けできる」ことを知ったのです。
2005年12月8日、証券会社のトレーダーが「ジェイコム株を61万円で1株を売り」を「1円で61万株を売り」と誤入力してしまい、注文が殺到(そりゃそうです、61万円のものが1円で買えるのですから)、売買が大量に成立してしまい証券会社は400億円の損害となりました。株の世界では、誰かの損は誰かの得。1円で買って高値で売って儲けた投資家もいるわけです。その中に27歳と24歳の個人ネットトレーダーがいたことが報道されました。彼らはそれぞれ20億とか5億6千万とかを儲けたそうです。これによって多数の若者がネットトレードに参入することになりました(ネット証券の口座数はずっと右肩上がりでしたが、2006年1月から伸び率がぐんと伸びています)。彼らが目指すはもちろん「一攫千金!」です。書店にも「素人が一攫千金」という類の本が急増します。
しかし、ゼロサムゲームでは大金持ちはごく少数しか存在を許されません。相場が上昇している状況ならその率はあがりますが、それでも少数であることは同じです。才能・努力・知識を欠いた素人が片手間で大儲けするに頼れるのは幸運だけです。本書には「ファンダメンタルズ情報以外のノイズに基づく値動きを追いかけるノイズ・トレーダーは、ファンダメンタルズを予測しながら投資を決めるスマートマネーによって食い物にされるだけだ」とあります(言葉の意味がわからない〜)。アメリカの調査では、デイトレーダーの7割が元本をほほとんど失っていたそうです。それでも新規参入がある限り、ゲームは続けられます。
本書では「ロスを最小限に」「勝ちを得る確率を上げるために投資の回数を増やす(一回あたりは少額)」ことが勧められます。なんだか地道に見えますが、大成功したトレーダーは最初は辛抱して小さな損を繰り返しながらスキルを上げていってある日どんと成功、のパターンが多いそうです。
ネットトレーダーはどんな人なのでしょう。2005年の調査では、インターネット証券取引をしている人の55%が30歳以下で、男は47%女は8%でした。デイトレーダー(市場が開く9時から取引を始めて閉じる3時にはすべて売り払い取引を完結させる)は全体の5.8%程度。
日本人はお金に対する潔癖性を持っていますが、そのホンネは実は「人に知られず儲けたい」。ネットの匿名性がそのホンネをむき出しにします。さらに「人生の一発逆転願望」が拍車をかけます。本書に見られるデイトレーダーと中・長期投資家との思考・行動の違いの指摘は大変面白いものですが、その詳細は本書をどうぞ。
「万馬券を当てた」「パチンコで大儲けした」のかげには長い“失敗の歴史”か多くの“敗者”の姿があるはずですが、ふつうそれは人の目には触れません。しかし2006年1月17・18日の「ライブドア・ショック」では、多くの「失敗した!」のブログが登場しました。中には本当にとんでもないものもあったようです(そういえば当時少し読んだ覚えが蘇ってきました)。
デイトレーダーの手記(半生記)もいくつか載っていますが、(本人たちには悪いのですが)笑えます。世間のあちこちに見られる「儲かりまっせ」勧誘よりも、本書でのどうして失敗したかの赤裸々な告白と自己分析は、面白くてためになる、いやあ、本当に参考になりましたし、私はデイトレーダーにはなれないことがよくわかりました。いや、研鑽と自己制御と情報の裏を読む目の確かさと決断の早さ(と幸運)がないと成功できそうにないんですもの。
今日は一日閉じこもり。「TQMはどの業種でも大切。なぜなぜをトヨタでは5回ホンダでは7回繰り返す」なんて言われても私ゃ自動車は作らないよぉ。あげくに明日使う教科書をぽんと渡されて「明日までに読んでおくように」ですって? うぎゃあ。私ゃアメリカの大学院生じゃないよぉ。いや、読むだけでレポートは書かなくて良いし、そもそも文字を読むのは好きだから別に良いんですけど(良いのか?)予定していた本が読めないじゃないですか。まあ明日の帰路の新幹線内で読めば良いんですけどね。でも、強制されて読むなんて、好みじゃないなあ。しくしく
【ただいま読書中】
浮世絵の“評価”は西洋からやってきました。三大美人絵師の鈴木春信・鳥居清長・喜多川歌麿、二大風景画家の葛飾北斎・歌川広重、そして東洲斎写楽の人気が日本に輸入されたのです。瀬戸物を包んだ浮世絵の美しさに衝撃を受けて印象派が生まれた、という伝説がありますが、著者はそれに異を唱えます。当時の西洋絵画は「リアリズム」を追究し写真と見まがうばかりの細密画となっていました。ところがそこに写真が登場。「ライバル」に危機感を抱いた画家たちの前に登場したのが、輪郭を用い陰影法を採用せず(版画では無理)遠近法も限定的で(紙が小さいのであまり“リアル”に描くと遠くは豆粒になってしまう)単色構成(色同士がまじらない。これも版画だから)の浮世絵でした。西洋画家に衝撃を与えたのは「美しさ」ではなくて「発想、手法」だったのです。
しかしここで「生活と芸術の解離」が生じたと著者は言います。日本で浮世絵は「生活」に密着したものでした。床の間に飾って鑑賞するものではなかったのです。しかし西洋では日本の生活の実像はわかりません。「絵」のみを見ます。西洋人にもわかる絵だけを。それがそのまま日本に輸入され受けつがれていることに著者は不満を隠しません。そこで著者は親切に“絵解き”をしてくれるのです。
浮世絵はカレンダーとして世間に広まりました。当時の暦では、月の大小(どの月が30日でどの月が29日か)と閏月の有無が重要でした。それを絵暦として遊びを交えて一枚で表現しました。寛政の改革では「特定の人名を宣伝することはまかりならぬ」でした。そこで美人画では人名や出身地を絵でわかるように表現しました。判じ物です。それは遊びとして様々なものに拡がります。たとえば「名所の判じ物」。「あ」の字の頭の人が「さ」という臭いおならをしている絵=あさくさ、とか。宣伝ビラとしても活躍します。ある化粧品のビラは五万枚刷られたそうです(当時の江戸は100万人。宣伝対象の町人はその半数ですからすごい宣伝効果だったでしょう)。歌川国貞の「大丸呉服店前」は、一見ふつうの美人絵ですが、大丸の新しいファッションの宣伝をするスポンサー付きの美人絵でした。大量に刷られることから、幕府は検閲を厳しくしていました。それでもその目をすり抜けて政治批判をまんまとやっている浮世絵もあります。遊びも様々です。見立絵(何でもない絵に見えて、あちこちに見立てが隠されている)・さかさ絵(ひっくり返すと別の絵になる)・さや絵(刀の鞘に映すとちゃんと見える変形絵)・よせ絵(はめ絵)(遠くからと近くでは別のものが見える)・組立絵(パーツを切り抜いて配置して遊ぶ)……まだまだあるよ。そして「情報」。当時のニュースメディアである瓦版でも浮世絵は重要な機能を果たしました。
こういった「生活に密着していた浮世絵」から「生活」を引きはがしてしまって「芸術」としてだけ扱うことは浮世絵に対する“正しい態度”か、と著者は述べます。私は「当時の生活に対する無知の発露」と表現するかもしれませんが、本書はもうちょっと上品に書いてあります。
西洋文化の影響を強く受けて育った私でも、美人絵を見たら「これは美人を描いてある」とわかります。極端な省略とデフォルメで、いわば「美のイデア」が表現されているのです。省略とデフォルメ……漫画の手法ですね。浮世絵って、江戸のジャパニメーションでもあったのかな。
これだけあったら、のぞみは東京ー新大阪の片道を走破できます。トップランナーは女性でもフルマラソン。私は普通の厚みの本なら一冊読破できます。
それだけの時間、昨夜の新幹線は豪雨に降り込まれてしまいました。名古屋を出たところで前方でぴかぴか派手に稲光がしているな、と思っていたらスローダウン。「雨量計が規定値を超えたので全線停止中」と放送があってあと10分起きに「1時間当たり75ミリ」「87ミリ」「95ミリ」「105ミリ」……そこで車掌もあきれたのか数字は言わなくなりました(数字の下一桁は記憶が定かではないので適当です。十の位と百を越えたのは確実)。右カーブで傾いたまま止まっているのでなんだか筋肉が突っ張ってきます。乗客は全員座っていたからまだ良かったんですけどね。そのうち「○号車と○号車で車内販売をやっていますが、食べ物はなくなりました。飲み物もビールとコーヒーだけです」という放送が。
やっと動き出したのは停止してから2時間後。ただし、カーブから平らなところに移動するためでした。ちゃんと走り出したのは停止してから2時間半後。家に帰り着いたのは午前1時。疲れました。今から仕事だけど、一週間の始まりとしては素敵すぎます。
カチカチ
メトロノームはベートーヴェンとからめて語られることが多いようですが、その前身のクロノメーターの普及に力を注いだのがサリエリ(映画「アマデウス」での敵役)だったことをご存知の人はどのくらいおられるでしょう。クロノメーターと言えば航海用しか知らなかったのですが(時計で経度を測定する、という発想もまたすごいと思うんですけどね)、音楽用もあったんですね。世の中には知らないことが充満していて、悔しい思いです。
もしメトロノームを二時間半見つめていたら、退屈でしょうねえ。
【ただいま読書中】
私がサリエリの名前を知ったのは、映画「アマデウス」でした。あそこでは、凡庸で年老いた宮廷音楽家が天才青年に嫉妬して毒殺したことになってましたが……著者はそれを真っ向から否定します。そのために本書(本格的なサリエーリ伝記としては、ドイツ・イタリアに次いで世界で三番目)を著したと言って良いでしょう。ではその根拠は……
サリエーリは1750年ヴェネチア共和国の辺境レニャーゴに生まれます。長兄が音楽家で音楽の手ほどきを受け、両親が亡くなってからは知人の援助でヴェネチアで音楽修行。そこでヴィーンの宮廷作曲家ガスマンに才能を見出され、ヴィーンでガスマン家に寄留して音楽教育を受けます。そこでヨーゼフ二世・皇室詩人メタスターシオ・作曲家グルックと次々知り合います。グルックは、従来のイタリアオペラが歌手の技巧に頼る派手派手しいものであることに不満を持ち、ドラマ重視に改革しようとしていました。サリエーリはグルックの教えを吸収し、19歳で初オペラ「女文士たち」を作曲、20歳の「アルミーダ」で成功します。1774年に恩師ガスマンが死去。それに伴いサリエーリは弱冠24歳で宮廷室内作曲家兼イタリアオペラ指揮者に抜擢されます。アマデウス(神に守られし者)とはサリエーリのことだったのです。ヨーゼフ二世は、農奴の解放・貴族勢力の抑圧・ドイツ文化の興隆などを目指していましたが、「改革」は母親マリア・テレージアが死ぬまで手がつけられませんでした。それまではヴィーンのイタリア歌劇団をリストラしたりドイツオペラを作曲させたり、の日々です。サリエーリは、まったくスタイルが違うイタリアオペラでもフランスオペラでも大成功します。ただ、ドイツオペラは駄目でした。彼はドイツ語が終生上手くならなかったのです。
やがてモーツァルトがヴィーンにやって来ます。「ドイツの田舎者」とバカにされながら宮廷に入る工作をしますがなかなか上手くいきません。モーツァルトはそれを「サリエーリの妨害・陰謀」とします。何の証拠も根拠もなかったのですが(でも彼の手紙は後世に残り、「サリエーリの陰謀があった」証拠にされました)。
1790年ヨーゼフ二世死去。あとを襲った弟レーオポルド二世は兄の“遺産”をさっさと整理し、サリエーリは閑職に追いやられます。モーツァルトは……やっぱり登用はされませんでした。モーツァルトにとって、それもやはりサリエーリの陰謀でした。しかしモーツァルトの死の数週間前、二人は出会い、そこでモーツァルトは美しい手紙を残しています。著者はそれを「二人の和解」と言います。二人とも不遇の身で、でも音楽の徒であることに気がついたのでしょう。
サリエーリの主な弟子の一覧表が載っていますが、すごいですよ。作曲と声楽の指導で名声を博していたそうですが、シューベルトやリストも弟子だったんですね。変わり種はベートーヴェン。作曲家として地位を確立したあとでイタリア歌曲やイタリアオペラ作曲を学ぶためにサリエーリに弟子入りしています。ガスマンやモーツァルトの遺児、モーツァルトの弟子たちも引き取っています。ちなみに彼は弟子から謝礼を取っていません。鍛え上げて有能な者は紹介状をつけて就職運動もしてくれます。あまりに弟子が多すぎてとうとう学校を作りましたが、それがオーストリア帝立音楽院を経て現在のヴィーン国立音楽院になっています。
で、話が最初に戻ります。まず「凡庸」。たしかにモーツァルトの音楽はすごい。ではサリエーリは? 著者はディスクを聞いて、あるいは譜を読んで、「モーツァルトにはたしかに負けるが、悪くはない。特に現在「モーツァルト的」と呼ばれる音が先駆的に聞こえる部分がある」と述べます。これについては私も実際に体験しないと口を挟めません。「老人と青年」は明らかなウソです。だって二人は6歳差なのですから。「毒殺」も医師の証言では根拠がなさそうです。
ではなぜ、モーツァルト死後30年も経ってから「サリエーリによる毒殺説」が登場したのでしょう。19世紀になりヴィーンでは反イタリア主義が勃興しました。不幸なことに当時宮廷にいた有名なイタリア人はサリエーリだけ。当然標的になります。さらにモーツァルトの神格化が始まります。すると「生前“正しい評価”をしなかった責任者」が必要です。はいセンセイ、サリエーリ君が悪いと思います僕は悪くありません。かくして(掲示板と同様の)“祭り”が始まった、が著者の推測です。魔女狩りなんかと同じですね。人の心性は昔も今も同じということなのでしょう。
記憶にある最初に買った“本”は「少年マガジン」です。小学生のとき、同級生と組んで隔週で買ってました。負担が半分ですむし、お互いに丁寧に読むことがわかっていたから“古本”の週でも腹が立つことはなかったのです。(当時一冊50円しなかったと思いますが、私のお小遣いが月に200円だったから、自分一人では無理でした) このシステムは気に入って、大学でも「ビッグ・コミック・オリジナル」を二人で組んでかわりばんこに買ってました。
初めて買った文庫本は『
二十五時』(ゲオルギウ)。中学生のときに何を思ったか近所の本屋で購入。でも読んで良かった本です。ナチス体制下で不条理な目に遭う一家(ルーマニア人だったかポーランド人だったか)の運命を追うことで、私は現代文明に対するイメージを固めることができ、これが高校時代に書かされた論文や大学入試での小論文にも生きてくれましたから。
推理小説の文庫本で初めて買ったのは、やはり中学時代の『
樽』(クロフツ)。我ながらなかなか渋い選択です。そのあとはクイーンを続けて買いました。SFは……覚えていません。フレデリック・ブラウンかブラッドベリだろうと思います。
単行本は……覚えていません。小学生のときに何か買っているはずなんですが。全集を一冊ずつ買って揃えたのは、大学時代の『岩波講座 日本歴史』(岩波書店)と『海外SFノヴェルズ』(早川書房)が同時進行だったはず。愛読したのはどちらかと真面目に答えるなら、もちろんSFの方です。歴史の方は積ん読でした。
買ってもらった(あるいはプレゼントしてもらった)本だと、また違った“歴史”になるのですが、自分のお財布からの本を並べると、けっこう自分自身をさらけ出しているみたいでちょっと恥ずかしい思いもしますね。
……え、初めて買ったエロ本? ……なんのことかなぁ?
【ただいま読書中】
『
樽』F・W・クロフツ 著、 大久保康雄 訳、 創元推理文庫、1965年(92年56版)、612円(税別)
人は汽車や馬車で移動し、連絡は手紙、急ぐときは電報、どうしても必要なときには電話、という時代の物語です。フランスから到着した船からブドウ酒の樽を荷揚げしている最中、壊れた樽の中に金貨と死体が発見されます。ところが荷の受取人フェリックスは警察に知らせようとする船会社の裏をかいてまんまと樽を持って姿を消します。知らせを受けたスコットランドヤードは緊急手配。その網にフェリックスは引っかかりますが、バーンリー警部が訪問する前のちょっとした隙に樽は消えます。フェリックスにもその行方は見当がつきません。バーンリー警部はねばり強く捜査を続けついに樽を発見します。そしてその中には、フェリックスの元恋人アネットの絞殺死体が入っていました。強い憎しみを思わせる、素手による絞殺です。樽の発送元は、パリ。アネットの住所もパリ。バーンリーはパリに向かいます。
ここまでで120ページ。死体が見つかるまでで、凡百の作家だったら一冊書けるくらいの展開です。でも本書ではまだまだ(起承転結の)「起」なのです。
バーンリー警部はパリ警察の親友ルファルジュ警部と共同捜査を行います。ルファルジュの上司である警視総監がなかなかユニークです。午前中仕事をしたら午後は行方をくらまして夕方また仕事を始め夜の9時に捜査会議を毎日。午後は何をやってるんでしょうねえ。捜査によって、樽がフランスとイギリスの間を複雑に移動していることがわかります。フェリックス(と称する人間)が不可解な買い物をしていることもわかります。ルファルジュは、容疑者の足取りを追ってブリュッセルにまで足を伸ばすことになります。そしてとうとう証拠が見つかり、バーンリーはフェリックスを逮捕します。ここまでは「承」。
そして「転」が始まります。フェリックスの無実を信じる人は弁護士に依頼。弁護士はあまりの弁護の難しさに、「無実を証明するのではなくて、真犯人を“示唆”」する戦略を選択します。そのために雇われたのが探偵のラ・トゥーシュ。探偵は地道な捜査を開始します。警察がやったのとは別の手法で。
本書に「名探偵」は登場しません。バーンリー、ルファルジュ、ラ・トゥーシュ、いずれも事実と論理と観察と聞き込みによってねばり強く真相を明らかにしていきます。「これで終わった」と思ってももう少しやってみよう、が彼らのモットーのようです。最初のころバーンリーが足あと二個(厳密には一個半)から人間の行動を推理するシーンなど、今の推理小説でも参考にできるんじゃないかなあ。
容疑者も多くは登場せず、たった二人だけです。
フェリックスには動機がありません。人柄も正直で誠実で、会った人間は彼が犯人のわけがないと感じます。しかし状況証拠と物的証拠は彼に不利です。しかもアリバイがありません。
アネットの夫ボワラックには動機があります。しかし、彼には鉄壁のアリバイがあるのです。果たしてラ・トゥーシュはボワラックのアリバイを崩せるのか。それともやはりフェリックスが真犯人なのか。
「転」の物語は激しく動き、そして短い「結」へとつながります。
探偵たちは皆誠実で論理的です。自分が何を目的としておりそのためには何をすればいいのかが常に明確です。しかもそれを(身近な者には)秘密にしません。説明を求められたらわかりやすく説明します。つまり本書は「コミュニケーションのドラマ」でもあります。これだと地の文で作者がいろいろ説明する必要がありません。きわめて自然にストーリーが読める良作です。
11日(2)お手本を
残業代ゼロ法の言い換え指示
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=293562&media_id=4
まず厚生労働省だけでその法案通りの労働をやってみてくださいませ(棒読みモード)。厚生労働省で家庭団らんが増えるんですよね?
(本日二つめの日記でした)
革靴を見てつくづく思いました。この革がまだ皮だったころ、メンテナンスフリーで雨風雪に耐えて“中身”を守っていたのに、今は人間さまがその革を守るためにいろいろクリームを塗ったりしなくちゃいけないんだなって。
【ただいま読書中】
1986年ソビエト連邦ウクライナ共和国チェルノブイリでの原子力発電所事故。著者はウクライナ系アメリカ人だったためかこの事故に特別な興味を持ちます。
事故で大きなダメージを受けたチェルノブイリ一帯をイメージするとき多くの人が思う「色」は何でしょう。黒や灰色? 著者は事故10年後に現地を訪れ真実を知ります。それは「緑」でした。著者が目撃したのは美しくしかし放射性物質で汚染されて繁茂する生態系だったのです。(チェルノブイリは放射能に高度汚染されたから一面廃墟だろうと多くの人が予想しましたが、原爆投下後「ヒロシマには75年間草木も生えぬ」と言われたことを思い出します)
本書の次のジャブは「チェルノブイリ、ニガヨモギ、黙示録」の否定です。地名の元となったウクライナ語でチェルノブイリ(あるいはチョルノブイリ)と呼ばれるヨモギは学名アルテミシア・ウルガリス。しかしウクライナ語でニガヨモギはポリンと呼ばれます(学名アルテミシア・アブシンチウム)。学名を見たら近縁であることはわかりますが、明らかに別物です。(おまけですが、ニガヨモギに含まれるツヨンという有機毒がかの有名な酒アブサンに含まれます) 植物学とウクライナ語に詳しくない人間がヨモギの見た目で誤解したのか、あるいは乱暴にも「似ているから同じだろう」と原発事故を黙示録に話をつなぐために「チェルノブイリ」を使ったのか、どちらにしても「聖書に原発事故が書いてある」とは言わない方が良さそうに私は思います。
チェルノブイリ事故の汚染は世界に広く及びましたが、特に放射性物質によって高濃度に汚染された地域はチェルノブイリより西と北におよそ300キロ、汚染地図を見るとまるでロールシャッハテストのインクのしみのように複雑な形をしています。立ち入り禁止区域(原発を中心に30キロよりもう少し広い範囲)は人の姿も車も工場も見えず、ある意味世界でも有数の“清潔”な地域です(放射能がたっぷりあることをのぞけば)。事故直後にはものの表面に付着していた放射性物質は2004年には95%が地中に移動し、そこから植物に入り込んだものもあります。その量の測定は不可能です。そして食物連鎖に入り込んだものの測定も。現在問題になっているのは、半減期が特に長いセシウム137とストロンチウム90です(プルトニウムは植物の根からはあまり吸収されません)。
著者はガイドと護衛に連れられて線量計を見つめながらウクライナの立ち入り禁止地区を回った後、今度はベラルーシ側に向かいます。住民の強制立ち退きの基準は「年間1レム以上の被曝を住民が受ける」ことです(普通の人が自然界から受ける年間被曝量は0.1〜0.6レム)。ちなみにベラルーシで年間被曝量が5レム以上の地域は96市町村(人口2万2千以上)だったそうです。ベラルーシ政府は「事故の放射性降下物の7割が自国に降った」と公表していますが、国際的な研究では「セシウムの1/3がベラルーシに降下した」となっています。それでもすごい量です。これは風だけではなくて当時降った激しい雨のせいだろうと著者は推定しています。「黒い雨」でしょうね。ベラルーシでは避難しなかった(あるいは舞い戻ってきた)人がたくさんいました。それらの人たちに何が起きたか、そしてこれから(子孫を含めて)何が起きるのか……本書では「ロシア、ウクライナ、ベラルーシのどこが一番“損”をしたか」の比較がありますが、読んでいて暗然とします。
ここはいわば新しい学問(放射線生態学)の実験場なのですが、予算不足のため系統だった研究は行われていません。ヒロシマ・ナガサキの人体実験場で熱心に研究が行われたのとは対照的です。放射性核種を多く取り込むのは、コケやベリー類、キノコ、そして木です。したがって山火事が恐れられています。また落ち葉などを腐葉土にする小さな生物たちの世界はその全容が明らかにされているわけではありません。ということは、そこに取り込まれた放射性物質がどのような運命をたどるのかも不明です。動物たちは一見繁栄しています。しかしその将来がどうなるのかは不明です。少なくとも人の手が入らなくなったことにより、チェルノブイリ一帯では自然が謳歌していますが、放射能まみれの自然ははたして“自然”なのか、と著者はブラックな指摘をします。
事故は悲劇でしたが、チェルノブイリのその後に関する国際社会の無関心もまた悲しい現実のようです。あんまり無関心だと、また同じようなことが起きるんじゃないかしら?
捨て子のための受け入れ窓口(「赤ちゃんポスト」とか「こうのとりのゆりかご」とか呼ばれている設備)に賛否両論ある、という報道を最近見ました。
どちらの意見も一理あるなあと思いながら見ていましたが、否定論者の意見で気になったのが「捨て子を助長する」というものです。「赤ちゃんポストがあるから安心だよね。さあ、じゃんじゃんセックスして妊娠しよう。無事出産もできた。じゃあ捨てに行こうか」という長期計画で動く人はそれほどいないと私には思えるのです(西洋での実例を見ると皆無でもないようですが)。「性教育は“寝た子を起こす”」といった(現実とはちょっと離れてしまった)“理論”と同類の、ためにする批判のように私には見えます。それに、もしシステムを悪用する人がいるとしても、その“システムが存在すること”と“悪用する人が存在すること”はとりあえず分けて論じるべきだ、とも考えます。
ある体制(や施設や設備)が“悪用”されたとします。ではその悪用をなくすためにはどうすればいいかと言えばいくつかの方策が思いつけます。たとえば「厳罰に処する」「啓蒙運動や教育をする」「その体制(や施設や設備)を廃止する」……一番手っ取り早いように見えるのが最後のでしょう。そのものがなければ悪用もできませんから。だけど、一部の“悪人”のためにいろいろ制度などをいじくり回してそれで他の人が迷惑を被るのは“社会にとって好ましい”行為ではありません。極端な例を出しましょう。たとえば「救急車をタクシー代わりに使う人」(私から見たら立派な“悪人”)がいるからといって「救急車を廃止する」ことが良いことと思います? 「救急車と捨て子は違う!」……当然です。ではどこが違うのでしょう。「救急車は自分が使う可能性があるが、捨て子は無関係」だから? それは「自分に無関係なことには冷淡なだけ」に私には見えます。「急病はしかたないが、捨て子は親が悪い」……なるほど、つまり「悪人」は罰せられるべきだ、いや、自分が罰してやろう、ということでしょうか。「人を罰したい」という欲望を持つのは個人の自由ですが、それを所かまわず発露するのは私には美しい姿には見えません。
あ、捨て子を推奨しているわけではありませんから、その点はお間違えなく。「やりたい、やった、できた、捨てた」には腹が立ちます。でも、「産んだ、でも育てられない」にはそれ以外のパターンもありますよね。で、どのパターンにしても産まれてきた子どもがどこであろうと堂々と生きていけるように日本が近代化されたらいいなあ、と私は思っているだけです。言い換えたら、「捨て子」にだけ注目するのではなくて「(産まれてきた子どもを受け入れる側としての)日本全体の質の向上」がもしもできたら結果として捨て子が減る、が望ましいと考えている、となります。
江戸の町でたとえば木戸に捨て子があったら、その町全体で育てることになっていたはずです。「お家絶対」だった江戸幕府だって実子(嫡男)でつながったのは最長三代であとは親戚からの養子です。21世紀が江戸時代に負けちゃいけないでしょ。現代日本で流行っている養子差別、そろそろやめません? それができたら捨てることより「養子に出そう」が社会の主流になるでしょうし、ついでに少子対策にもなると思うんですけどね。(少なくとも、捨てることは褒められないけれど、産んだことは国策にかなうと褒めて良いかもしれませんが、それはまあ、わざわざ褒めなくてもいいかな)
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平成十八年、藤沢周平が作家デビューをする前に書いた短編十四編が発見されました。本書はそれらを集めた短編集です。著者のファンにとっては、貴重な、でも開けて読むのがちょっとこわい玉手箱、かもしれません。
で、私の感想ですが……「藤沢周平」と言えばたしかにそうですが、「これは山田風太郎の若書きだよ」と言ってももしかしたらだまされる人がいるかもしれないテイストの短編も出てくるように思います。たとえば……隠れキリシタンの盗賊団が江戸の夜を暗躍します。それに対して、老中の密命を受けた幕府隠密(なぜか江戸の長屋に住んでいる)が江戸から彼らを追い払うために活躍を……(「暗闘風の陣」「如月伊十郎」)
もちろん「これぞ藤沢節」も登場します。真面目な木地師とヤクザに身を落とした兄ともらわれっ子の妹との複雑で単純な人間関係を抒情的に描いた「木地師宗吉」。裏切られた男と裏切られた女の物語「霧の壁」。
その次の「老彫刻師の死」では突然カタカナがぽんぽん出てきてこちらは面食らいます。なんと古代エジプトが舞台なのです。舞台は変わっても登場する男と女の姿はやはり“藤沢”です。江戸で長く暮らした香具師が故郷に帰る「木曽の旅人」もたしかに藤沢周平らしい人情話です。活劇の「残照十五里ヶ原」や「忍者失格」にもその底には「人情」が流れています。もしかしたら「藤沢周平」「初期」の名前に影響されてそのように読み取っているだけかもしれませんが。
私にとって本書の作品は「藤沢周平の名前がなければ普通よりちょっと面白い作品集。藤沢の名があると、ちょっと説明過剰に感じる」という感想になります。「藤沢周平作品」は映画のスチール写真のようなものと私は感じています。映画全体大きなストーリーの流れの中、小さなカットの中でさらに一場面を切り抜いたもの。それを見る私たちは、その場面から様々なものを読み取りさらにその前後のストーリーもいろいろ想像することができます。ある種の短編小説でそれを想像させてくれるのが作者の力量です。藤沢周平はそれを「やたらと描写しないこと」でやってくれる作家です(下手な作家がやってしまうと「説明不足」になってしまうのですが)。しかし本書では、ほとんど説明されてしまっているように感じます。こちらが想像する余地があまり残されていないのです。それでも水準以上の作品が並んではいるので、悪い短編小説集ではないのですが。
ずっと前に美術商と話をしていたら「号あたり○万円の画家」という言葉が出てきました。わからなかったので聞くと、画家のランクをたとえば「この人は号あたり1万円」「この人は100万円」というように画家そのものを評価するのだそうです。号あたり1万ならその人の絵は10号の絵なら何を描いてもどう描いても10万円(号は絵の大きさの単位で大体葉書一枚くらい。数字が大きいほど大きな絵になります)。それによって画家の“ランク”が明示されるわけで「三山(東山魁夷、平山郁夫、加山又造)クラスはン百万円(それとも一千万を越えていたかな?)」と目の玉が飛び出るような金額を言ってくれました。
そのうち「額を売る(買う)」という言葉も出てきました。「絵なんかわからないから中は何でも良い。客間にふさわしいそれらしい絵が立派な額に入っていればいい」という客がけっこういたそうな。だからコストはほとんどが額、という“作品”を売買していた、というのです。
私は絵を見るとき、「額の中身」を見ているつもりですが、ある種の商売人は「額そのもの」と「その大きさ」を売っているようです。
【ただいま読書中】
奥村土牛が101歳で亡くなって四十九日の法要に残された家族(妻と7人の子)が集まります。話題は相続税。土地が4ヶ所ありますが、すべて使っているのでこれは売らないことにします。美術品(本人が描いたものと本人が集めたコレクション)は膨大な量があります。現金はほとんどありません。ではどうするか。相続税の納付期限は死後半年以内です。
作品の多くは山種美術館にありましたが、その中で所有名義が土牛になっているものがまだありました。ただし、死後6ヵ月以内に美術館に寄贈すれば税金の対象から外されます。さっそく八点が寄贈されました。ちなみに評価額総額は3億5000万円以上。
美術品に関しては、国税庁は東京美術倶楽部(画商の団体)に依託して相続税評価額を決めています。自宅にある文字通り山のような(十数部屋にぎっしりの)美術品がどう評価されるか、それは事前にはわかりません。著明な画家の作品を処分すると父が悲しむ、素描で作品になっていないものを残して父の評価を下げるのは忍びない、と子どもたちは手分けして、残された素描やスケッチブックを取捨選択する作業を開始します。捨てると決めたものを焼くのは、末っ子である(と言っても当時すでに50歳を越えていた)著者の役目でした。著者は二日間焼却炉の番人となります。
作業が終わり、これなら奥村土牛の遺作として人の前に出しても良い、と判断された素描を大きな画室に山積みして鑑査役を案内すると、値踏みするようにしばらくそのまま眺めて「1000万円」と値づけがされたそうです。手も触れないとはなんともはやです。
さて、最終的に相続税の総額は4億7千万円。延納手続きを取り(利子税がかかります)、著者が15年間で納めるべき税額は4800万円。税理士は、著作権管理会社を遺族全員で作りそこで作品を版画化して売ることで相続税に充てることを提案します。父親の方針で絵を商売することにはかかわってこなかった子どもたちは、慣れない商法に手を染めることになります。そして兄弟の溝が深まります。
1億円の絵を5枚売れば良いじゃないか、と単純に思いますが、まず50%所得税を引かれます。しかも「売らなければならない」という事情が知れたら値切られます。しかもバブルがはじけた直後。世間は思うようにはいかないのです。著者は写真家としてどんな仕事でも受け、それでも足りず、夜中に飲食店で皿洗いなどして補います。
著者は正直に(愚直に、と言っても良いでしょう)税金を納め続けます。しかし、合法的な“節税”も紹介されています。たとえば生前贈与は相続税より高い税金を課せられますが、生前贈与から2年未満の死亡の場合は、手続きをすれば、遺産相続に切り替えることができます。相続税を分割で納める場合、本来の税金(本税)とは別に約10%の利子(利子税)がかかります。ところで、本税が納付期限に間に合わなかったら延滞税が課せられますが、利子税には延滞税がありません。金が足りなかったら愚直に利子税も含めて全部払おうとするのではなくてとりあえず本税だけ納めて利子税は後日、が利口なのです。サラ金とはやり口が違いますね。あちらは「とりあえず利息だけでも入れておいてくれ」ですけど。しかし、銀行って阿漕なんですね。ここに紹介されているのが事実だとすると、銀行の実名を知りたかったなあ。
著者は「美術品相続登録制度」を提唱します。ずさんな鑑定で“価値”を決め「さあ金を納めろ」とせっつくのではなくて、遺品のリストを税務署に届けておいて、実際に売れたときにその金額に見合った税金を納める、というものです。あるいはじっくり検討してふさわしい美術館が見つかってそこに寄贈したらそこでリストから抹消。日銭稼ぎではなくて長期的な視点から美術品相続を見た方が、結局は文化発展にも寄与するのではないか、というのが著者の主張です。
相続放棄という手を選択しなかった以上、著者の経済的な苦しみは(たしかに尋常なものではありませんが)ある意味“自業自得”ではあります。ただ、美術品の散逸を招く原因の一つが現在の相続税制度である、という指摘には耳を傾けるべき点があるように思います。私個人としては莫大な相続税で貧窮する心配が最初からないから、他人事ではあるのですが。
右翼と左翼を比べたら、言葉が美しいのは右翼の方だと私は感じます。明らかに右翼の方がボキャブラリーがきれい。だけど、言葉の奥の心根の点では、右も左も似たようなものとも感じます。逆らう奴には一発食らわせるぞ、という気配がぷんぷんしています。
すると、あまりきれいではないものを美しい言葉で糊塗する点で、私は右翼の方に辛い点をつけたくなります。「自分は汚いぞ」と言っている汚い奴と「自分はきれいだぞ」と言っている汚い奴とを比較したら、私は後者に低い評価を与える人間ですので。
【ただいま読書中】
本書には子どもの詩が豊富に収載されていますが、「子どもの詩集」ではありません。著者が教師として指導した子どもたちが書いた詩を材料として、さらに多くの子どもたちに「詩を書いてみよう」と呼びかけている本です。
怒る・笑う・けんかする・おならについて書く・観察する・心を開く・とにかく書いてみる、といったウォーミングアップのあと、少しずつ著者は高度な要求をするようになります。動物の鳴き声を自分の言葉で表現してみる(たとえば犬を「ワンワン」とは言わない)・ウソを書く・自分の死を想像してみる・省略する・比喩を使い分ける・熱中する……小学生にそこまで要求するのか、と一瞬思いますが、それらの教えのあとに“実例”として上げられている、実際に子どもたちが書いた詩は“子どもの詩”でありながら“良い詩”です。
そして最後あたり、重たい詩も登場します。知能障害の子、身体障害の子、彼らとともに教室で生きる他の子どもたち、そして万引きをしてしまってそれを悔やむ少女。著者は「ぽろぽろなけてこまりました」と言いますが、私も困りました。なんでこんな詩を書いてくれるんですか。困っちゃうじゃないかぁ。
「良い詩をお手本にすること」を著者は明確に否定します。それはそうでしょう。武道で言うなら「守破離」の「守」ばかり墨守して「破」と「離」を否定する態度と同じですから。でもそのためには「相手を信頼すること」が必要です。人を一つの型にはめるのではなくて、その人がちゃんと育っていくと信頼して、じっと見守る。それができなければ健康的な「離」の瞬間は訪れません。……本書で論じられているのは、「詩の書き方」だけではありません。「人間の育て方」「人間のあり方」も論じられているようです。もちろん著者はそんなことを大上段に振りかぶって言ってはいませんが。
本書は「子どものための本」に分類されていますが、大人こそが読むべき本かもしれません。「ことばによって相手に何かを届けるためには、(音が鼓膜を振動させるように)相手の心を動かす力を言葉が持っていなければならない」「その力は、ことばに自分の心の動きがどのくらい付与されるかによって決定される」(出来合いのことばで間に合わせたら、相手の心も出来合いの動きしかしてくれない)といった、普段忘れがちなことがあらためて思い出せます。(それともそういったことを忘れがちなのは、私だけ?)
そうそう、本書に「無邪気な子どもたちの天真爛漫な詩」を期待したら裏切られます。だって子どもは天使ではなくて人間なのですから。私たちと同じ人間なのですから。それともそんな“天使のようではなかった”子どもを昔やっていたのは、私だけ?
昨日の話です。
家内から電話がありました。「帰りが遅くなりそうなので、ご飯だけお願い」 台所をチェックするとカレーが仕込んであります。なるほど、これでご飯さえ炊ければ夕食になるわけですね。早速お米を研いで炊飯器にセット。だけど「もう一品欲しいぞ」と幻聴が聞こえます。じゃあ作りましょう。「何が食べたい?」に幻聴の答は「ポテトサラダ」。「カレーと材料がダブるじゃないか」と言っても無視されます。野菜置き場のでかい(私の握り拳二つ分くらいの)ジャガイモを茹で始めましたが、丸ごとだと芯まで火がなかなか通らないことに気がついて中止。「熱ちあち熱ち」と言いながら皮剥いて薄切りにしてから茹でて潰します。タマネギと人参はしっかり、赤ピーマンは軽く茹でて混ぜます。キュウリは入れません。ポテトサラダの味や口当たりにキュウリがベストマッチと私には思えないから。味つけは、ホワイトペッパー少々・マヨネーズ控えめ・オリーブオイルたっぷり・カラシ明太子少々。何か甘味を、と冷蔵庫をあさると半分の柿が見つかったのでみじん切りにして混ぜます。あ、蛋白質を入れ忘れた。ま、いっか。カレーにお肉が入っていますから。ガラスの小鉢に盛りつけ終わったときに玄関のドアが開きました。良いタイミングです。
食欲よりも帰宅した家内をびっくりさせるサプライズ効果の方を期待する方が大きかったかもしれませんが、期待はかなえられました。お腹も一杯になりました。
【ただいま読書中】
『
エソルド座の怪人』(異色作家短編集20 アンソロジー/世界篇)若島正 編、早川書房、2007年、2000円(税別)
ついに本シリーズの最終巻。シリーズを読み終えてしまうのがもったいない気がして、3月に購入してからずっと棚晒しにしていましたが、とうとう我慢できなくなって手に取りました。一つ一つ、味わいながら楽しみましょう。
「容疑者不明」(ナギーブ・マフフーズ)……著者はアラビア語圏最初のノーベル文学賞受賞者だそうです。「こんな豪華なオープニングができるのも、アンソロジストの醍醐味」と編者は喜んでいます。
奇怪な連続絞殺事件が起きます。最初は元教師、次は元少将、そして商人の妻。ここまでは自宅のベッドの中ですが、次は路上で浮浪者が、五人目は走る電車の中、そして女子児童が小学校の便所で。担当のムフシン刑事は翻弄されます。犯人の手がかりがまったく得られないのです。そしてついに治安当局は緊急かつ重要な決定をします。「○について××ことを禁じる」のです。……それで良いのか?
「奇妙な考古学」(ヨゼフ・シュクヴォレスキー)……チェコからカナダに亡命した作家で、作品の多くに「プラハの春」が暗い影を落としているそうです。アメリカに亡命したと信じられていた女性が12年後に死体で発見されます。失踪ではなくて殺人。それを捜査していた刑事はこんどは「500年前の殺人現場」に呼ばれます。殺人事件の捜査だけではなくて、作品に描かれるチェコの社会情勢がなんとも陰鬱です。もうちょっと明るいエピソードもあったはずだとは思うのですが、著者にとっての“チェコ”はここに書かれたとおりのものだったのでしょう。
「トリニティ・カレッジに逃げた猫」(ロバートソン・デイヴィス)……エリザベス・ラヴェンツァとヴィクター・フランク・アインシュタインが出会ったとき、猫に何が起きたか、の物語です。ちなみに『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(メアリー・シェリー)の主人公はヴィクター・フランケンシュタイン、彼が愛する少女の名はエリザベス・ラヴェンツァです。ということで、猫の怪物ができてしまうのですよ。「面積は長さの二乗、体積は三乗に比例する」ことはしっかり無視されますが(というか、ここは著者が意識的にやっているのかもしれません)、ともかく「12匹の猫を合体させた12倍の猫」です。トイレをきれいにするために尻尾にはシャベルが装着され、しかもゴシック小説調に人の言葉を喋る猫ちゃんです。猫好きは読まない方が良いかっも。
「トロイの馬」(レイモン・クノー)……待ち合わせの女が来るまでバーで水を飲んでいる男。そこに「一杯御馳走しましょう」と声をかけたのは、トロイ出身の馬でした。シュールです。いや、馬がバーでジンフィズを飲んでいるのもシュールですが、人間同士の会話も十分シュール。なんとも奇妙な設定の上で話は進み、奇妙に終わります。
「死んだバイオリン弾き」(アイザック・バシェヴィス・シンガー)……ポーランド生まれでアメリカに移住したノーベル賞作家だそうです。本作ではポーランドでのユダヤ人社会が舞台ですが、タイトルに示される死霊憑きの話よりも、私が初めてお目にかかるユダヤ人コミュニティの風俗の面白さに目を奪われてしまいました。たとえば結婚は親が決めて相手の顔を見るのは婚約式の時が初めて、とか、昔の日本ですか?と聞きたくなる習慣が出てきます。
「ジョヴァンニとその妻」(トンマーズ・ランドルフィ)……音痴の男とその妻の話なんですが、なんとこの短編が収められたアンソロジーは数学小説集だったそうな。なるほど、その夫妻の音感に複雑な変換方程式が内蔵されていてこちらとは違う“音”を出力する、と考えたらいいのかな。
「セクシードール」(リー・アン(李昂))……「乳房」に取りつかれた人妻の物語です。あるエロティック・アンソロジーに収載されていたそうですが……う〜ん、下品な言い方になって申し訳ないけれど、これでは私は勃起しないぞ。脳の別の領域が励起はされますが。
「誕生祝い」(エリック・マコーミック)……こちらはずばり男女の性行為の描写ですが……これもエロチックではなくてむしろ……う〜ん、なんだろう、解説ではグロテスクと言っているけど、それともちょっと違うような。性が生と死であることに思いを馳せてみたりできます。
日本人のこういった「奇妙な味」の作品集が作れたらいいのにな。権利関係が複雑で困難かもしれませんが。
出張で外食が続くと、自宅に帰って食べる食事にほっとします。好みの味つけ(薄味)も重要ですが、私の場合「野菜が多い」ことが重要なのです。私は肉や魚が数食なくても我慢できますし米が数食なくても平気ですが、野菜が少ないのが2〜3食続くとてきめん体調がおかしくなってしまうのです。手軽に外食で野菜を補給、といえば中華料理かな。でもこれは味つけが濃いめ。もっと薄味で大量に野菜を食べることができる手がないかなあ(ついでに、安価に)。
もしかして私の遠い祖先は草食動物だったのかもしれません。
【ただいま読書中】
マイミクさめさんの日記でエチオピアでは独自の暦(ユリウス暦の変法で年が7年食い違っている)を使っていることを知ってちょっとこの国に興味を持ちました。たまたま出会った本書、エチオピアの歴史と現状について、めっぽう面白いことが書いてあります。
エチオピアの建国神話では、紀元前1000年頃古代イスラエルのソロモン王を訪ねたシェバ(アラビア)の女王は実はエチオピアのマケダ女王とされています。彼女はソロモンと契り帰国後メネリク(エチオピア王朝の祖・1931年制定のエチオピア憲法にも“万世一系”が明記されていました)を産みます。成人したメネリクはエルサレムのソロモンを訪ねますが帰国の時ひそかにアーク(十戒の石版を納めた「契約の櫃」……映画「
インディ・ジョーンズ 失われたアーク」のあれ)を持ち帰ります。以後約3000年、アークはエチオピアの古都アクスムの至聖所に祀られているのだそうです(西洋ではアークは行方不明と言うことになっています)。
エチオピアがキリスト教を受け入れたのは、エジプト経由で紀元四世紀。451年カルケドン公会議でアレクサンドリア教会が単性論(キリストは人ではなくて神とする)派として異端とされ、同時にエチオピア教会も異端派とされます。
著者は古都ラリベラで岩窟教会を訪問します。岩盤を十数メートル掘り下げて建造された巨大な十字架型の聖堂です。聖誕祭(ロシア正教などユリウス暦を使っているところでは私たちの暦で1月7日)に信者たちは教会およびその回りに集まり、真夜中から夜を徹して祈り続けます。クリスマスツリーもサンタクロースもありません。……そうか、エチオピアにサンタクロースはやって来ないんだ。「世界中のよい子にプレゼント」はウソだったんだな。その教会にもアークのレプリカが祀られています。
たまたま同行することになった韓国人の言動から、著者はキリスト教系新興宗教がアークに注目していることを知ります。教団名は示されませんが、統一協会(統一教会)かな? あとアメリカ人もエチオピア人を改宗させようと乗り込んでいる様子です。(「尊いものは人に押しつける必要がない」はおっとりしすぎ? でも、キリストも釈迦も押しつけはしなかったと思うんですけどねえ)
エチオピアの食生活は、旧約聖書の定めに従っています。つまりユダヤ教徒とほぼ同じ。また聖所では靴を脱ぎますが、これは「出エジプト記」でモーセが神に「聖なる土地では履き物を脱げ」と言われたことをそのまま守っているようです。男児が生後八日目に割礼を受けるのもユダヤと同じ(国としては世界でイスラエルとエチオピアだけ)。キリスト教が基本的に否定しているユダヤ教の風習を守り続けている、そしてアークも自らの王朝と建国神話と絡めて保存し続けているキリスト教国。エチオピアはずいぶん変わった、しかし興味深い国です。もしかしたらユダヤ教と完全に分離できていないキリスト教の初期の形態を現在でも一番良く保存しているのかもしれません。宗教の歴史に関する人類学的学問があったら、エチオピアはとても良いフィールドでしょう。
しかし著者は、気に入ったアルコール飲料が希望の時に出てこない、とか、ヤマハの中古ボートが新品より能力が落ちている、とか、遠くに日帰りで行くのにガイドが早起きをさせる、とか妙な文句を言います。そのうち「ホテルの朝食にご飯と味噌汁が出てこない」もし出てきても「だしが昆布カツオじゃない」と文句を言うんじゃないか、なんて心配をしましたがそれはさすがに杞憂でした。
最近見たニュースで「深く反省しているから」と2年6ヵ月の実刑判決をした上で5年の執行猶予、という判決がありました。
……本当に深く反省しているのなら、執行猶予は5年と言わず50年でも良いんじゃない? 5年でも50年でも「深く反省している本人」は困らないでしょ。もうやらないんですから。それとも「50年は困る、5年なら耐えられる」ともし言うのだったら、その反省の有効期限はたったの5年分? それが「深い反省」?
そうだ、「執行猶予一生」というのを制度化したら本当に面白いかも。「判決は死刑。でも執行猶予一生。では釈放」として社会に出したら、本当に反省している人は刑務所に閉じ込めているより素晴らしいことを社会に対してしてくれるかもしれません。刑務所の維持費も節約できます。まあ微罪でも犯してしまったら「どうせこれで死刑になるんじゃあ」とやけくそで無茶苦茶するかもしれませんけど。
【ただいま読書中】
『
死者の日』ケント・ハリントン 著、 田村義進 訳、 扶桑社、2001年、1524円(税別)
国境の街メキシコ、ティファナ。その通りを歩くハンサムで長身の米国麻薬捜査官カルホーンは、体調はデング熱で最悪、運は最低、20万ペソの借金の返済期限は明日で返すあてはなし。“副業”の米国への密入国業も当局にかぎつけられ逮捕は時間の問題。それでも彼はあり得ないような希望にしがみついて夜の街を歩き続けます。
嵐の夜が明けてティファナで「死者の日」の祭りが始まります。夜明けとともに広場にやってきたのは服役者を釈放する刑務所のバス。その一行の中にカルホーンはかつての恋人セレストの姿を見つけます。彼が教育実習生の時愛した高校生。彼女の父親にことが露見しレイプで訴えられ、自分の教師としての将来(と自分の父親の教職)を失うことになった原因の女性です。カルホーンは怒りと悲しみと欲情を覚えます。
人生の一発逆転をねらって、カルホーンは怪しげな情報をもとにドッグレースで一点買いをします。10万ペソの資金は高利貸しから。利子はなんと1日100%! 担保は命です。そして当然のように賭けは外れます。
貧乏暇無し、次々と“仕事”が入ります。カルホーンの体調はどんどん悪くなります。セレストとよりを戻す望みはあるように見えます。彼女は「まだあなたを愛している」と言うのです。でもその後に「でも、聞いて欲しいことが……」がつながるのですが、彼は「愛さえあれば」と耳をかしません。そして彼の選択はつねに裏目、状況は一本調子にどんどんどんどん悪くなっていきます。まるでカルホーンは破滅することを望んでいるに違いない、と運命が決めつけているかのように。著者はことばがからからに乾燥してぽきぽき折れるような文体でその道行きを記録します。
汗くさく気だるいメキシコの昼。一見従順だが激情を秘めているメキシコ人たち。まるでマカロニウエスタンのような犯罪小説(ノワール)です。メキシコの国境の街という舞台の雰囲気は活かされています。ただ「死者の日」というメキシコのお祭りはあまり生かされていません。別にどの日でも良かったんじゃないかな、と思えます。
映画「
ゲッタウェイ」ではスティーブ・マックィーンとアリ・マッグローがアメリカ(=現実の世界)からメキシコを目指して逃げだそうとしていました。しかし本書では話が最初からメキシコです。カルホーンはせめてメキシコ・シティに逃げだそうとは思いますが、それは最初から実現する可能性のない“夢”です。そして最後の逃避行では「駅馬車」ではあるまいに、妙な取り合わせの一同がジープに詰め込まれます。
脇役がなかなか味があります。仕事の相棒であるカルホーンが何をやっているか気づいていながらそのことを公にしたくない麻薬捜査官のブリーン(その理由がちょっと泣かせます)。なぜかカルホーンに便宜を図ってくれるメキシコの悪徳警察官カストロ。さらに、ちらっとしか登場しませんが、ロバ。いや、このロバさん、セックスショーで人間の女性相手に奮闘する、という話をカルホーンは聞かされるのですが、そんな“獣姦”をさせられるとはお気の毒なのですよ、人間の女性もロバも。
鮨屋で出てくるお茶とガリ、どちらも舌をリフレッシュさせて次の鮨をよく味わえるようにする機能だと聞きました。舌を洗う洗浄湯だから鮨屋のお茶で美味しいものになかなか出会えないんだな、と納得しましたが、ならばガリがあんなに甘ったるいのは不思議です。あれをたくさん食べたら舌はリフレッシュするよりねぼけてしまいそうです。
でもまあいいや。ともかく二つとも舌をリフレッシュさせるものだとしましょう。で、この両者、一緒にカウンターに出てますが、どう使い分けたら良いんでしょう。白身の後はお茶で赤身の後はガリ、とか“決まり”はあります?
【ただいま読書中】
『
保存食品開発物語』スー・シェパード 著、 赤根洋子 訳、 文春文庫、2001年、800円(税別)
実りが少ない季節を生き延びるため(科学的に言うなら、限られた資源である食物を微生物に盗まれないため)人類は様々な保存食品を各地で開発してきました。「定住生活」も「食品の保存」を要求しました。長距離旅行、宗教上の戒律(キリスト教では肉を食べない日があるので内陸へ魚を輸送する必要が生じた)、冬(冬に飼料が入手できない時代には秋に繁殖用以外の家畜のほとんどを殺して保存食品にした)、侵略(兵隊の携行食)などの理由も保存食品開発の動機として強力です。
まずは「乾燥」。各地でいろいろなものが乾燥食品になっています。アメリカ先住民のペミカンは、肉を乾燥させて粉末状にし、熊の脂肪と果実を混ぜます。蛋白質・脂肪・ビタミンが一挙に摂取できる優れものです。中国では中華料理で今も様々な乾物が用いられていますね。日本でも1万年前から肉・魚・貝などが干物にされていたそうです。肉や魚は戻す手間がけっこう大変なせいか(例:棒鱈)だんだん人気が落ちましたが、ドライフルーツは世界どこでも人気です。ただし、イギリスは果物の天日干しに向いた気候ではないためか砂糖を使った保存の方が主流になりました。豆や穀類も乾燥保存が普通です。パンも二度焼いてかちかちに乾燥させて保存しました。この「二度焼く」がビスケットの語源で、固くて歯が立たないビスケットを液体に漬けて戻して食べていた風習が現在のチャウダーなどにハードビスケットを割り入れるところに残っている、と著者は述べます。
次は「塩」。塩漬けの目的は、まず乾燥です。次が殺菌または静菌。他の保存法の前処置としても塩は良く用いられます。さらさらの細かい塩より粗塩の方が保存性と風味を高めるので人気でした。ちなみに大粒の塩をイギリスではコーンと言っていました(コーンビーフの「コーン」です)。肉を塩漬けしたあと乾燥させたりスモークするハムも様々な種類が紹介されています。どれも美味そうです。ハムにする肉も豚だけではありません。牛、山羊、子羊、ガチョウ、アザラシ……なんでもありです。ヨーロッパでは野菜の塩漬けが盛んなのは東欧です。様々な野菜だけではなくてトウガラシや果物まで塩水漬けにします。ただ、ヨーロッパ全体では野菜の塩漬けは酢漬けの前段階です。
ということで第3章は「酢」。本としての流れがきわめてスムーズです。構成が良く練られていると感心します。しかし本書は16章もあるのです。まだまだ話は続きます。知らない食物が登場したら「ほほう」と感心します。知っている食物が登場したら(特に日本のものだと)なんとなく嬉しくなります。ナポレオン戦争途中での缶詰の華々しいデビューももちろん登場します。パイはそれ自体が密閉容器(しかも食べられる)、という楽しい話も登場します。保存が利く調味料と言えば魚醤ですが、その歴史は古代ギリシアまで遡ることができます。塩魚から作るソース「ガロン」がローマに伝わって「ガルム(またはリクアヌム)」になりました。東南アジアで魚醤は現役ですし、日本でもたとえばくさやを漬ける液は魚醤そのものですよね。
薫製・発酵・砂糖漬け・濃縮・密閉・冷凍・脱水……様々な技法が登場します。必要があれば人は工夫するものです。なかでも発酵食品がその独特の風味(有り体に言うなら「臭さ」)によって民族のアイデンティティと結びつくことがある(身内意識を醸成・それが食べられない他者を排斥する)との指摘は興味深い。たかが食い物ですが、奥が深いものです。
現代の台所では冷蔵庫も食品の“保存”に一役買っています。「保存食品」ではなくて少しでも「自然(生)」に近い食品を買ってきたら我々は当然のように冷蔵庫に保存します。でも……冷蔵庫に頼りすぎたら「自然な食生活」から遠ざかることにならないでしょうか。冷蔵庫の中に長期間だらだらと“保存”されている食品は、はたして“自然”なものなんでしょうか? さらに、本書中にもありますが「冷蔵庫に保存しなければならないハムやソーセージ」は本物の“保存食品”なんでしょうか?
以前「イラク派兵反対」を自衛隊の基地の前で叫んでいる人のニュースを見て私は不思議に思いました。何の意味があるのだろう、と。せめて防衛省か国会の前だったら、まだわかるんですけどね。
軍人は基本的に命令で動きます。命令に従って動く集団に対して「その命令に従うな」と主張するのは自由ですが、それを聞いて「はい、そうします」と言う軍人は(ほとんど)いません(命令系統のもっと上から別の命令が出たのなら話は別ですけど)。もしその軍人の行動を本当に変えたいのなら、命令系統に働きかける必要があります。せっかくエネルギーを使ってさけぶのなら、役に立たない場所でさけぶより、この世を変える可能性がある場所でさけぶべきではないかなあ。でなかったら、そのさけびはただの自己満足か、負け犬の遠吠え扱いでしょう。
【ただいま読書中】
巻頭の座談会(宮嶋茂樹・勝谷誠彦・橋田信介)がブラックで笑えます。爆弾を落とす側からの映像はたとえば湾岸戦争で多くの人が眼にしましたが、イラク戦争では橋田さんが「落とされる側」にいた、ということから……橋田「でも、絶叫して正義をうったえるみたいなことはしないよ。……(略)」勝谷「しかしねえ、今回も戦場ではビビリまくってろくな仕事もしてないのに、日本に帰ってきたらテレビなんかでチヤホヤされているのがいるよね。よりによってああいうカスをつかむなんて、日本のメディアがどんなに腐っているかがよくわかる」宮嶋「そいつら、有名になりたいんでしょ? 私もそうですよ。有名になって、ゼニさえもうかるんだったらいいんです」などの、(おそらく)ホンネばりばりの発言が続出します。立派なタテマエ・行動はカス、という人が読んだら血圧が200くらい上がりそうな発言もぽんぽん。三人の間で意見が割れても穏やかな座談が続きますが、中身は過激です。自衛隊のイラク出兵に関しても、行き先が戦闘地域か非戦闘地域かの議論はくだらない(軍人は国のために死ぬのが当然だから)、問題は“それ”が国益かどうかをきちんと説明できるかどうかだ、というところまでは意見が一致していますが、国益に関しては三人の意見が割れています。
さて、座談会がすんで還暦戦場カメラマンの登場、と思ったら、まずバグダッドの66歳の八百屋が登場。彼がなぜ自爆テロをすることになったのか、の遺書(ただし創作)が本書の前書きです。『
殺される側の論理』(本田勝一)をちょっと思い出します。
かつてニュースカメラマンだった著者は、1972年のクリスマスにはハノイにいて北爆を受けていました。そこで手に入れたサイコロが「日本脱出」と言ったので、タイに移住します。しかしそこでカミさんが「わたくし、サトに帰らせていただきます」宣言。著者の口ぐせは「さみしいなー」になります。友人のやはりニュースカメラマンのユキオちゃん(ポルポト政権崩壊直後のカンボジアで1年間過ごした経験あり)の口ぐせは「金がないなー」。そこにイラク戦争の噂が。しかしビザが出ません。ならば別の手です。著者の老後資金一万五千ドルを抱え二人(合計110歳)はイラクに向かいます。今度の取材で帳尻は合うのか、との不安を抱えながら。そして開戦の日、著者らは国境を無事(?)越えます。投宿したバグダッドのホテルでスクープ映像を撮りトルコ放送の衛星回線を借りて日本に送ります。しかし情報省の役人から「プレスセンターに登録するように」との命令が。バグダッド陥落までごまかし続ける気なのに、これではすぐに偽造ビザがばれてしまいます。しかもホテルは、右が情報省・左は高射砲陣地・後ろはイラク放送局と爆撃の“危険地帯”で二人が知らないうちに閉鎖されてしまいます。戦況の悪化と連日の修羅場で、情報省の締めつけもいつの間にか緩んでしまいましたが、油断したため著者は国外退去を命じられます。ところがシリアで大逆転。著者らはまたイラクに入国します。こんどは正式のビザで。「我々はボランティアだ」と胸を張って言うシーンが笑えます(参考までに。ボランティアには志願兵の意味があります)。そしてバグダッド陥落の日が。市街戦。姿を消す民兵。掠奪。倒されるサダム・フセインの像。
パレスチナホテルのロイターのオフィスが米軍戦車の砲撃を受け二人死亡、とのニュースが飛び込んできます。著者は現場に駆けつけ、戦車の砲撃ではなくてB40(持ち運び式のロケット砲)でやられたとの印象を得ます。さらに同時刻に砲撃されたレストランで著者は不発の戦車砲弾を視認します。著者の結論は「どさくさ紛れの“敵国”に対するイラク兵の個人的報復」。数ヶ月後米軍は「この事故は米軍の正当行為」と言いますが、著者はそれを「敵側につく記者に対する警告と恫喝」と捉えます。
興味深い記述がいろいろあります。「TV映像では爆撃現場で人が焼かれる独特のにおいは表現できない」「戦争と戦場は次元がまったく違うからそれをごっちゃにして論じても無意味」「“大量破壊兵器”はアメリカがイラクにつけたイチャモン」「戦争国家では命が大事にされるが、平和国家では軽んじられる」「双方の軍隊がきちんと戦争をしているときはまだ比較的安全。本当に危ないのは一方の軍隊が崩壊する直前かその直後」「米兵はパスポートもビザも持たずにイラクに入国した」……う〜む。「自衛隊の派遣地が安全かどうか」は「戦場」について論じているだけで「戦争(政治)」については論じていないんですよね。まあ、いかにも日本的ではありますが。
仕事帰りに寄った図書館内ででかい声で喋っているおっさんがいると思ったら、携帯電話でした。うるさいから「外のホールで使え」と注意しようとしたら、図書館の職員に先を越されました(文字通り追い越されてしまいました)。すると「すみません。向こうから突然かかってきたものだから」。
……自分がしていることの言い訳に他人を使うのは人として卑怯だと思います(小学生レベルのツッコミ)。「電話に出ない」、あるいは電話に出て「今喋れないので、数分後にかけ直します」とか「すぐ外に出るから二十秒待ってください」とかの選択をせずにその場ででかい声を出す(出し続ける)ことを選択したのは“電話をかけた側”ではなくて“電話を受けた側”ですよね。
いやあ、実に見苦しい、いや、見苦しくはありません、聞き苦しい言い訳でした。いい年してそういった判断力を欠いている姿はたしかに見苦しいものではありますが。
【ただいま読書中】
陸上部がない中学校で中学対抗陸上大会に駆り出されたバスケット部の中沢は、学校を堂々と休めることにご満悦で、バスで隣りに座ったガールフレンド小川の胸を揉んで眼をとろんとさせたりしています。足に自慢の彼が割り当てられたのは800。「勝つのは俺だぜい」と自信満々スタートした彼をあっさりかわして一位になったのは別の中学三年生、広瀬でした。翌年度、二人はそれぞれ別の高校に進学し陸上部に所属することになります。
ある程度類型的なキャラ造形です。中川は筋骨隆々、頭脳ではなくて筋肉で走るタイプです。テキ屋一家に育ちそれなりに“修羅場”もくぐり、自分に絶対的な自信を持ち、考えるより行動しろ、がモットーで誘った女は必ずついてきます。対して広瀬は中肉中背で頭脳明晰、何事に対してもクールな態度を崩しません。高級住宅地に住み、神経質なくらい自分の体に気を配り細かくトレーニングの計画を立ててそれを実行し続けます。もちろん、栄養や休養についての目配りも忘れません。趣味は息こらえ。女の子は苦手です。
この二人の少年にそれぞれ魅力的な少女たちがからんで、あっちでもこっちでもややこしい関係が生じます。あ、中沢は、小川姉妹との三角関係から、大会で出会った100ハードルの伊田(全国レベルの選手)に一目惚れして純情路線まっしぐらになったから単純化された、と言えます。ただし悩みは深まるのですが。広瀬は、海岸で出会って(たぶん)惚れてしまった脚と性格が悪い美少女山口が、交通事故にあった直後自殺した陸上部の先輩相原の恋人だったことを知り複雑な気分です。もうこの世にいない人との“三角関係”なのですから。さらにおませな中学生奈央(広瀬の妹、酒タバコ夜遊び、兄貴にキスしながらそのペニスをさぐったり)がそこに絡んでますます話はややこしくなります。広瀬は、山口と相原の関係を知っても特に嫉妬の感情は動きません。しかし山口が相原と広瀬の関係に嫉妬していたことを知り、(おそらく)初めて自分自身の心を見つめ始めます。それまでわざと見つめようとしていなかったものを。
中沢と広瀬は夏休みに陸連の強化合宿に参加します。こんどは伊田をはさんで奇妙な“三角関係”が生じます。広瀬は“走る機械”としての伊田に感歎し専門的なアドバイスをしますが中沢にはそんな広瀬が理解できません。女の子のそんなところを見てどうすんの?です。
広瀬は山口とどうしても寝ることができません。相原の影のせいなのか、それとも広瀬はホモセクシュアルだったのか。ところがそこに伊田が……
そして秋の新人戦。台風一過のぴんとした空気の中、二人の少年はゴールを目指し体をきしませながら競走を始めます。
世界を風のように疾走する少年たちの物語ですが、明日どころか数時間後のことも考えずに全力疾走していた過去の自分のことを思い起こさせてくれる本でもあります。いや、過去だけ見てたらいけないな。今でも数秒だったら全力疾走はできるはず。そう自分を信じなければ。
アメリカでは800まではDASHで、それ以上がRUNと呼ばれる、と本書にはあります。つまり800は一番長い短距離なのです。その「800の魅力」についても著者は饒舌です。100や200は、あまり考えずに(本当は考えているのですが)とにかく一生懸命走ればいい。5000はともかく持久力。だけど800は、短距離並みのスピードで他のランナーと駆け引きをしなければなりません。時には肘打ちやスパイクという荒っぽい“駆け引き”もあります。陸上競技で“楽”な種目はありません。でもその中でも800くらい様々な要素を同時にしかも短時間に要求される競技は珍しいんじゃないかな。ヨーイドンで筋肉を爆発させて一気に走るには長すぎる。でも持久力で勝負するには短すぎる。爆発したがる速筋を慎重にコントロールしつつ2周を一気に走り抜く頭脳の冷静さが必要です。緊張とリラックスの両立も。
日本では「陸上」と言えば駅伝かマラソンですが、それ以外の競技にもそれぞれ本当に魅力的な“物語”があります。もっともっと注目してください。私もかつては(しょぼい)ランナーだったので、著者とともにお願いします。
22日(土)不思議な順番
道州制で私案 全国を12道州に
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=301112&media_id=4
まず「道州制ありき」を言ってから「目的については次回」ですか。で、3回目の会合で「本当の目的は」かな。
どうせ道州制を敷くのなら、関所を復活させましょう。新幹線は州の境界で一々止めて乗客は関銭を払います。ついでに州兵も置いたらどうかしら(^_^;)。目的がわからないから、何でも好きなことを言っちゃいます。
小学生のときにこの問いを聞いてなかなか納得のいく説明に出会えませんでしたが、高校のときにだったか「鶏は死ぬまで鶏だが、卵からは鶏以外が出てくる可能性がある」と聞いてやっと私は納得できました。もっとも今度は「卵から出てきた“鶏ではないもの”」がどうやって子孫を残すのか、それが新しい疑問になってしまったのですが。
「科学的な疑問」に終着点はないみたいですね。
【ただいま読書中】
1970年代、S・J・グールドは発生学と進化生物学の統合を唱えました。進化とは形や機能の変化でそれは遺伝子の変化によるものですが、その実例を我々は持っていません。だから発生学でのブレイクスルーが進化学の展開のために必要だったのです。
80年代、ショウジョウバエと人間(を含めた多くの動物)に相同遺伝子(同じ役割を演じる遺伝子)が発見されます。さらに多くの器官の発生にも動物のグループを越えて同じ遺伝子が関与していることが判明します。発生に関与する遺伝子を種間で比較する研究=進化発生生物学Evolutionary Developmental Biology、略してエボデボEvoDevoが発生学と進化生物学の境界領域に発生します。
ショウジョウバエの研究は様々なセンセーションを起こしました。たとえば眼のマスター遺伝子は、ハエとマウスとヒトのものが同等であることがわかりました。ハエの胚にマウスの眼の遺伝子を導入したところ、“ハエの眼”が形成されました。遺伝子が“どこに存在するか”も発生には重要なのです。ハエの心臓(背脈管)を形成するのはティンマン遺伝子(命名の由来は『オズの魔法使い』)ですが、哺乳類でも同じ遺伝子が心臓を形成しています。現在そういった“マスター遺伝子”は10個くらい見つかっていますが、それらはすべてDNA結合蛋白で、遺伝子のオンオフを行っていることもわかっています。そうそう、はりねずみファンに一つサービス。ヘッジホッグ遺伝子はハエの幼虫では毛をふさふさにしますが、脊椎動物では(特にソニックヘッジホッグ遺伝子が)多指症を起こすそうです。
動物のボディデザインを良く見ると、モジュール構造になっている部分が多くあります。人間の腕と脚は構造的にはそっくりです。複雑に見える蝶の模様もモジュール構造の集積です。もっとわかりやすいのは節足動物の体節構造でしょう。問題は「遺伝子が何を作るか」だけではなくて「何を何回作るか」でもあるのです。例えば「蛇男」を作るのはけっこう簡単です。取りあえず胸椎を現在の12個から60とか120に増やせばひょろりんと長い胴体ができます。実際に蛇はそうやって長い体になっています。
様々な動物がカンブリア紀以前からのツールキット遺伝子を共有していることがわかって、旧来の進化論はひっくり返りました。同時に旧来の反進化論も転けたはずですが本人たちはどうせ気づいていないでしょうからそれはおいといて……こんどは、それほど“共有”があるのなら「種の違い」は一体何なんだ、という疑問が生じます。
ショウジョウバエの剛毛を作るのに使われるツールキット遺伝子の一つが蝶や蛾の鱗粉を作るのに用いられていました。つまり鱗粉は変化した剛毛だったのです。蝶の幼虫で遺伝子がどのように発現するのかが研究され、ショウジョウバエのディスタルレス遺伝子が蝶では従来の肢づくりというお仕事だけではなくて蝶の斑点作りという“新しい仕事”もこなしていることが発見されました。遺伝子が新しいスイッチを獲得することによってそれは成されていました。そしてその話はシマウマの模様にも一直線につながっていきます。
進化に関して生物はまったく新しいものを設計するのではなくて“すでにあるもの”を活用する(違う用途に転用する)はグールドがそのエッセー中で何回も強調していましたが、ダーウィンは最初から器官に関して言っています。そしてその原則は、遺伝子に関しても言えることのようです。進化のためにまったく新しい遺伝子を作り出すのではなくて、古いものを使い回す、ただ、そのオンオフや使い方をちょっと変えてみる、それで上手く生き延びて子孫が残せたら定着。駄目なら滅亡、というわけです。これは自然でわかりやすい。だから「個体発生は系統発生を繰り返す」のかな?
そして話は「ヒト」へと進みます。ヒトもまた、動物たちと共通のツールキット遺伝子を持っているのです。「ヒトは動物とは別格」でもなければ「ヒトは進化の頂点」でもありません。「ヒトは進化の過程の一部」なのです。
本書はあまりに膨大なデータ量と面白さのため、私には正確な要約ができません。専門的な興味はなくても「自分はどこから来たのか」を知りたい人は、ぜひご自分の眼で読んでください。グールドほどの読みやすさがないのが残念ではありますが。
食糧自給率アップが政府の政策だそうです。
先日見たスーパーの鰻、みごとに国産と台湾産ばかりになってます。かつて棚を占領していた中国産はみごとに姿を消してますから(産地偽装をしていない限り)鰻に関しては自給率アップになっているわけです。ということは、「中国産食料への新たな不安を煽ること」は自給率アップの手っ取り早い方法と言えることになります……で良いのかな?
しかし、単純に自給率アップ(最終的には自給自足)が本当に好ましいのかなあ。たとえば「自給自足の都道府県」ってあります? 別に県内で食料が自給自足でなくてもそんなに不安なんか無いですよね。むしろ「さすが羅臼の昆布」とか「四万十の川海苔は最高!」なんて喜んでいます。それが国境の向こうに視線を向けた瞬間しかめっ面になるのは……まあ良いですけどね。そういった人はきっと本物のシャンパンなんかも飲みたくないのでしょうから(私はアルコールには無縁だから、シャンパンに限定したら、たしかにどーでもいいことではありますが)。
ところで、国境の向こうで捕れた魚は、国内産? 漁船の燃料が外国産の場合は、自給率はいくらか割引?
【ただいま読書中】
『
シャイニング(上)』スティーヴン・キング 著、 深町眞理子 訳、 文春文庫、1986年(91年5刷)、563円(税別)
有名な作品です。私は映画(キューブリック監督)は観ましたが小説は読んでいなかったため、楽しみながらページをめくりました。映画では、ジャック・ニコルソンの顔のアップとか妻が襲われるシーンや迷路のシーンもこわかったけれど、私が一番怖さを感じたのはジャックが熱心にタイプを打つシーンでしたっけ。
二十世紀初めに建設された、コロラド州のリゾートホテル「オーバールック」は、冬には摂氏マイナス25度の厳寒と積雪で外界から隔絶されてしまいます。閉鎖中のホテルに冬季管理人として一家で住むことになった作家(ただし今までに売れたのは短いのが四篇だけ)のジャックは、アルコール依存症でしたが現在は禁酒中。癇癪持ちで他人や家族を傷つけた前歴アリ。銀行の残は600ドルで切羽詰まってはいますが、邪魔が入らない(しかも支出をせずに済む)環境に一冬こもって現在執筆中の(厳密には行き詰まっている)戯曲を完成させようと目論んでいます。妻のウェンディは、母との辛い関係が成人後も尾を引いて、人生に対して消極的な(というか、強引な他人に引きずられる)態度で生きています。五歳の息子ダニーは父親っ子ですが、他人の心の内がわかることがあり超感覚的な予知夢(それも正夢)を見るという特技を持っています。夢に出てくる友達トニーは「行ってはいけない」とダニーに言います。
ホテル終業の日、一家が業務の引き継ぎをしていると、コックのハローランがダニーに「君は“かがやき”を持っている」と話しかけます。人の心が読める/予知ができる能力をハローランは“かがやき”と呼んでいました。タイトルのシャイニングです。ハローランは“かがやき”を持つ人間を見分けることができます。ダニーの母親は少し持っていそうです。しかし父親は、わかりません。何かありそうなのにそれをきちんと把握できないのです。「本当に困ったら全力でわしを呼べ。どこにいても駆けつけるから」とダニーに言い置いてハローランはフロリダに出発します。一家三人だけが巨大なホテルに残されます。
ホテルには“何か”がいました。ハローランが言うところのかがやきを持っていたメイドやハローランが浴槽に見たおぞましいもの。最上階の豪華スイートルームの壁にダニーが見た血しぶきの幻影。死んだはずなのに復活したスズメバチの群れ。そういえば、初代の冬季管理人は、家族を惨殺して自分も自殺したのです。
ジャックは地下室をあさっていて古いスクラップブックを見つけます。そこにはホテルの歴史が綴じられていましたが、その中にスイートルームでのギャング同士の惨劇がありました。ジャックは知りませんが、その写真はダニーが見た血しぶきの幻影と一致していたのです。たしかにこのホテルには何かがいるのです。少なくとも幽霊は確実に。
三人にそれぞれ内的緊張が高まります。一日に二回蒸気を抜いてやらなければどんどん圧が高まってしまうオーバールックホテルのボイラーのように。
そして、雪が。
「パパ殺す」著者が正当性訴え
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=301998&media_id=2
草薙という人が捜査資料である調書を著書に引用した、としての取り調べですが、さて、これは何罪に該当するんでしょう? 医者には守秘義務がありますから(もしもこの供述調書を見せたのがこの医者だとすると)医師法違反に問われるでしょう。公務員にも守秘義務があるからもし公的病院に勤務する公務員なら公務員法違反も。それと、さらに刑法違反もプラスされるはず。だけど、民間人がカメラで撮影は……情報の窃盗でやはり刑法? ということで「秘密漏示罪(刑法第134条)」が適用されるんですね。それと、医者を上手く説得してやらせたのだったら犯罪教唆も?
しかしTVでもいろいろ言っていましたが、草薙さんの主張(言い訳)は苦しいですね。問題は「資料を手元に置いている(借り物であって所有者ではない)相手から承諾を取ったかどうか」ではなくて「その資料が公表して良いものかどうか」なんですから。それを「正当な取材活動」って……ふだんからそんなことばかりやっている、ということなのかしら。
資料をそのまま引用しなくても、「関係者の話では○○と言っているそうだ」ですんだことでしょう。これだったら情報源をあっさり特定されることもなかったでしょうに。あっさり見抜かれてから「情報源は秘匿する」と胸を張られてもねえ。脇が甘いジャーナリストがジャーナリズムの倫理を誤用している、といったところかな。
【ただいま読書中】
『
シャイニング(下)』スティーヴン・キング 著、 深町眞理子 訳、 文春文庫、1986年(91年4刷)、563円(税別)
雪に閉じ込められたホテルの中で、一家はそれなりに幸せに暮らしています。CBラジオもスノーモービルも壊れて外界と一切連絡ができない状況ではありますが。しかし少しずつ不気味な影は迫り、ジャックは少しずつ取り込まれていきます。その過程が本当に不気味に描写されます。妻のウェンディは母親との関係がネックでしたが、ジャックは実は父との関係が問題だったのです。“ホテル”はその現在も血が滴っているジャックの心の傷から彼の中に侵入していきます。やがて“かがやき”を持たないはずのウェンディにも妙な音が聞こえたり変なものが見えたりするようになります。“ホテル”が力を増しているのです。
フロリダで仕事をしているハローランの心の中でダニーの悲鳴が響き渡ります。“ホテル”の手先となってしまった父親に殺されかけている、恐怖の悲鳴が。
上巻で様々張られた伏線が次々一本に収束していく有様はみごとです。“ホテル”がジャックに与えるアルコールとか閂とか、あまり物理的な現象を出してくれるのはやや興醒めですが(だって話が簡単になりすぎてしまうんだもの。心理的な恐怖だけで押しまくった方が、もっとコワイ話になったと思います)、映画とはまた違ったホラーです。ホテル全体が巨大な幽霊屋敷だなんて、なんてホラ話でしょう、もとい、ホラー話でしょう。
「お詫びしたいと思います」「……どうぞ」
「お詫びします」「……どうぞ」
「お詫びしたいと思います」は“意思の表明”、「お詫びします」は「これからお詫びするぞ」という自分の行動の予告あるいは“宣言”であって、お詫びそのものではないですよね?
さらに追い討ち(?)をかけると、「お詫び」はすればいいというものでもありませんよね。「お詫びをする側」はすればそれで気がすむかもしれませんが、「お詫びをされる側」がお詫びをされたとしてそれで気がすんだかどうか、それ以前にそもそもお詫びされることを望んでいるかどうか、ちゃんときちんと確認してます? それ無しでは「お前の気持ちなど知ったことか。俺がお詫びしたいからお詫びしたんだ。どうだ参ったか」と胸張ってるだけで、それは(関係を持つべき相手が存在する)お詫びではなくて、自分しか存在しない世界での自己満足あるいは自己充足でしかないでしょう。
【ただいま読書中】
1923年(大正十二年)関東大震災。帝都復興祭は1930年のことでした。帝都が二回焼かれたのは、実は20年とちょっとの短い間隔でだったのです。
1931年(昭和六年、満州事変勃発の年)、東京市赤坂区青山から日本橋区米沢町(昭和九年から両国に町名改称)へのお嫁入りです。著者の両親の結婚です。本書では、両親および著者が過ごした下町生活(1945年の大空襲で滅亡し、のちに妙なイメージだけ(たとえば住民の多くがべらんめえ口調で喋っている、とか)が復活した“下町”ではなくて、ホンモノの下町)を具体的に描こうとする本です。(著者はきれいな下町ことばは聞いているけれど、べらんめえは両国では聞いたことがないそうです)
関東大震災後に復興された東京の下町は江戸の香りは残しつつ、モダニズム(たとえば小学校は、アール・デコ調の鉄筋コンクリート、暖房完備、水洗便所)で作られていました。著者が育った両国薬研堀の和菓子屋立花屋は、土蔵造りとモルタルとの折衷で、帳場の前には磨き込まれた大黒柱、帳場の背後にはステンドグラス。三和土と応接間(ふだんは著者の読書部屋)を仕切るのは大きなスイングドア。なんとも奇妙な和洋折衷住宅です。
東は大川(隅田川)、市電も走っています。著者の父の時代には川に水練場も設けられていたそうです。街はまるごと名店街で、買う・食べる・飲む・遊ぶ、が全部できたそうです。ちょっと変わっていると感じたのは「ごはん屋」。ご飯だけを売っている店です。大家族(プラス奉公人)の商家でご飯が足りなくなったときに走っていく店、ときけばなるほど、と思いますが、店が一軒やっていけるほどの需要があったんでしょうか?
著者はあくまで「自分が育った世界(町内)」に話を限定します。「下町が〈人情共同体〉というのはカンチガイ」と著者はあっさり述べます。戦後すぐのラジオドラマ「向こう三軒両隣」、1953年からのTVでの下町ドラマ群、1969年からの映画「
男はつらいよ」シリーズ、これらによってフィクションによる「下町のイメージ」が日本人に刷り込まれた、と。しかし著者が育った中流の商人が集まった下町では、貧乏をベースにした人情物語ではなくて、見栄と美学によるつき合いがあったのです。(両国に貧乏人がいないわけではありません。裏店に住む人とか、水上生活者(東京オリンピックの頃に姿を消しました)などを著者は目撃しています) ただし、職人が多い地域ではまた別の世界だったのかもしれません。そういった多層性が文化の豊かさかな。
著者は、戦争によって下町の文化が滅びたとしますが、それは単に戦災で町が焼けたからではありません。もちろん、帰ってこなかった名店が多かったことも一因でしょうが、徴兵や動員で人が不自然な移動をさせられたこと、学童疎開で子どもが田舎にやられて下町の地域と家庭と子ども文化が破壊されたこと、戦争によって妙な“文化”が押しつけられ各家庭の文化の継承が阻害されたこと、それらにプラスして戦後の混乱で地方の人間の流入が多くネイティブ・スピーカーが相対的に減少して下町ことばが失われたこと、などが原因と著者はしています。著者は特にことばの問題を重要視しています。ことばは文化の産物であると同時に、文化そのものを体現するものだからです。
あと、映画や演芸についても多くが語られていますが、ここでは省略。
しかし、戦争で人為的に異常な環境に置かれて文化の伝承を受けられず、児童疎開で留守にしている間に生まれ故郷が灰になってしまったら、私だったらアイデンティティが揺らいでしまいそうです。実際、著者にはその気が見えます。「美しい国」の根底には「文化の健康的な継承」が欠かせませんよね。
でまかせ議員
おまかせ有権者
【ただいま読書中】
『
透明人間』原題the invisible man H・G・ウェルズ 著、 雨沢泰 訳、 偕成社文庫3248、2003年、700円(税別)
二月の寒い日、アイビング村の宿屋〈駅馬車亭〉に変な客がやってきます。火を焚いた部屋の中で帽子もコートを脱がず、やっと脱いだと思ったら顔には包帯がぐるぐる巻きでゴーグルのような色眼鏡をかけ、顔で見えるのは妙にてかてかした鼻先だけ。次の日大量の荷物が届けられます。書籍と実験器具のようです。男は部屋に閉じこもってなにやら実験をしている様子ですが、ちょっとでも邪魔をすると、いらいらと感情を爆発させます。
宿の女将ホール夫人は、男を気味悪く思いますが、払いが良いので追い出す気にもなれません。オフシーズンに長逗留してくれるのは、少なくとも宿の財布には、良い客なのです。医者のカスは男に興味を持ち、話をします。男は、なにか特別な薬の調合法を人に教わったのにその紙をうっかり燃やしてしまったのだそうです。それを説明しようとポケットから男はうっかり手を出しますが、カスが見たのは空っぽの袖でした。男は金が尽きたらしく宿の払いをためるようになります。そして村の牧師館に泥棒が入ります。姿が見えない泥棒が。宿では家具が勝手に部屋の中を踊り回ります。
そしてついに、泥棒を逮捕に来た警官と村人たちの前に「透明人間」が姿を現します。いや、人間が姿を消します。えっと、どっち? 私は混乱します。透明人間出現(あるいは人間の姿の消失)で町も混乱します。混乱の中、這々の体で逃げ出した透明人間がまた戻ってきたために、町は大混乱となります。
村から村へ、盗みをはたらいたりして逃避行を続け負傷した透明人間がとうとう逃げ込んだのは、偶然にも旧友ケンプの家でした。そこで透明人間は「いかにして人体を透明にするか」の原理を明かします。いや、なかなか秀逸なアイデアです。かつて私が「透明人間」につけたいちゃもんは、すでにウェルズによってちゃんと考察されていました。
しかし、ここで透明人間が語る「学の世界」のおぞましさ……研究員の業績を盗もうとする教授、ぽかんと口を開けたままで教官の時間を盗む学生、そして常に足りない金。現代と変わらない世界がそこには存在します。だったら自分も盗めばいいじゃないか……と考えてはいけませんよ>透明人間さん。
もう一つ、“しかし”。「レントゲンのX線はあやしい」なんて透明人間が言うのは、これはやっぱりユーモアですよね。それとも当時の世界では、そういう声もけっこう大きかったのかしら。
透明人間でいることのメリットとデメリットも述べられますが……よくもまあこれだけ思いつく、と言いたいくらい“悪いこと”が並べられます。著者は「ちょっと透明人間になってみたい」なんて思わない方がよさそうだ、と読者に思わせたいのかな? そしてついに“透明人間狩り”が始まります。このへんはまるっきり活劇です。さらに透明人間の(異常)心理も詳しく描写されます。これは彼だけの特異な事情なのか、それとも透明人間になったらみなこうなるのか、それはわかりませんが、私には駄作に思えた映画「インビジブル」は案外ウェルズのこういった心理描写を忠実に再現しようとした作品だったのかもしれません。
一つの作品で、科学・心理・冒険・推理・ホラー・昔の風俗、さまざまな楽しみかたができる、非常に“お得”な小説です。“面白い小説”を読みたい人は、読むべし。
古代中国では「天命によってこの世を支配している(だから人は誰も逆らえない)人が天子」と信じられていました。(西洋の王権神授説にちょっと似ていますね) ところが中には「これは支配者としてはちょっと……」という人もあります。そのとき天は「それじゃあリセットね」と新しい人に新しい天命を出します。前の支配者は、ポイ。それが「天が命を革(あらた)める」=「革命」。(出典は『易経』だと聞きましたが、私は原典を確認していないので自信たっぷりに断言するのはやめておきます)
結局、革命を起こした側の自己正当化屁理屈なんじゃないかとの疑いが濃厚ではありますが、一応リクツは通っています。
ところで、この知識を知ったとき、私の内的世界はくらっと傾きました。「フランス革命」「ロシア革命」が古代中国の世界とすぐに結合しなかったものですから。
【ただいま読書中】
超能力に詳しくない人のために解説。テレポーテーションとは要するに瞬間移動です。似たことばにテレキネシスがありますが、これは物を手のかわりに超能力で持って移動させるもので、物質は眼に見える経路を取って動きます。テレポーテーションの理論は色々ありますが、一番簡単なのは「もの(人体)を一度原子に分解して瞬間的に遠くに移動させそこでまたもとの形に組み立てる」、です。だから歴史的に見ると「原子論」が確立することがテレポーテーションの成立に必要だったように私には見えます。「この炭素原子とあちらの炭素原子は等価」でなければ、一度人体をバラバラにして再構成することは不可能ですから。ところが20世紀はじめの高名な科学者マッハのように「原子論なんかウソだい」と言い張る人がいるのをみてもわかるように、原子論はけっこう“新しい”んです。
物質転送を扱った最も古い小説は『体のない男』(エドワード・ペイジ・ミッチェル、1877年)です。早いですね。チャレンジャー教授もののひとつ『物質分解機』(アーサー・コナン・ドイル、1927年)にはテレポーテーションが登場します(ただし「テレポーテーション」ということばが登場したのはそれから数年後)。戦後は様々なSFにテレポーテーションが登場しますが、アメリカ人に一番馴染みがあるのはTVシリーズ「
スター・トレック」でしょう。転送ビームで人体を送るための「スコッティ(ミスター・スコット)、ビームアップしてくれ」は有名なセリフです。
テレポーテーションはフィクションの世界の専売特許ではありません。現在真面目に研究されています。ただし、人や動物を転送するような華々しいものではなくて、量子テレポーテーションですが。まずは光の研究(光は粒か波かその両者か、の有名な論争)から量子力学のおさらいです。駆け足ですが、ボーアとアインシュタインの論争のところなどはなかなか面白い。一種、科学の裏話ですね。量子力学と情報理論が統合されて量子情報科学が生まれ、その研究対象の一つがテレポーテーションだ、と著者に断言されて、私は「ほほう」と呟きます。そこで重要なのは「エントロピー」です。シャノンの論文「コミュニケーションの数学的理論」(1948年)では、メッセージを送るときにエントロピーを考慮することで転送エラーの発生確率を望むだけ小さくできることが明らかになっているのだそうです(私にはちっとも明らかではありませんけどね。モデムやCDの誤り訂正のことだ、と言われたらなんとなく「そうか」と思います)。個人的にちょっとショックだったのはこのシャノン・エントロピーが物質の領域外にも適用できることと、「情報は物理的な構造を持つ(何らかの形でコード化しなければならないから)」という記載です。さらにコンピュータ科学が発展して「計算」にかかるエネルギーコストを研究したところ、計算そのものはまったくエネルギーを無駄にせず、エネルギーロス(廃熱)は情報が消去されるときに発生することがわかりました。それが量子コンピュータ研究の始まりです。
そして1992年、モントリオールでテレポーテーションが“発明”されます。
人体を「原子の塊」ではなくて「情報の塊」とすれば、「情報をコード化」「転送」「物質化」することでテレポーテーションは可能です。もし人体が「原子の塊」だと、送ったはいいがついたのは死体だけ(魂が送れなかった)ということがあり得ますが、「魂」が原子などの物質ではなくても「情報」ならば、それも一緒にテレポーテートすることが可能です。ただし、情報抽出は量子レベルで行われますから、もとのものは波動関数を徹底的に乱され独自性を失います(つまり“死”にます)。さてさて、テレポーテーションをするべきかそれとも……って、まだテレポーテーションはできないんでしたね。まだ今のところ原子以上の大きなものは。
ああ、「ジョウント」(『
虎よ虎よ』アルフレッド・ベスター)・「ステッピング・ディスク」(「
ノウン・スペース・シリーズ」ラリイ・ニーヴン……この人には『テレポーテーションの理論と実際』というそのものずばりの短篇もありましたっけ)・「どこでもドア」(「
ドラえもん」藤子不二雄)などのことばが私の頭の中を飛び回ります。私の頭蓋内でも小さな情報のテレポーテーションが発生しているのかな?
古代中国では奇数は陽/偶数は陰でした(ゼロが存在していたら、中国人がそれをどう扱ったのかには非常に興味がありますが、それはまた別のお話です)。一桁の数字で最高の九は陽の数としても最高。だからその二つが重なる日(九月九日)は重陽の節句(陽の最高数字が重なるめでたい日)とされました。現在の日本では一月一日から七月七日まではちゃんと特別な日なのになぜか重陽は無視されていますけれど。(日本人は、四つの土用の中で夏のだけ残したり、上元と下元は忘れてお中元だけ残したり、不思議なことをする民族だから、今さら驚く必要はありませんが)
ここまでは9月9日に書こうと思って忘れていたネタです。で、ここからが本題。昨日足あとが34567になりました。陽の数三から同じく陽の数七に向かって一直線に進行する、見ようによってはまことにめでたいダイナミックな数字の列です。踏まれたのは ぺん さんでした。おめでとうございます。陽陽たる風があなたの人生に吹きますように。(そういえば七月三十日の足あと31415を踏まれたのも ぺんさんでした。踏んだ方としては「これもあれも“キリ”番?」と反応に困る数字でしょうが、私のような人間のマイミクになった縁と思ってあきらめてください)
【ただいま読書中】
私にとって「ドゥリットル」と言えば、イギリスならドリトル先生・アメリカなら東京初空襲の隊長です。日米開戦からわずか4ヵ月後、1942年4月18日、空母ホーネットから発進したB25爆撃機16機が、東京・横浜・名古屋・大阪・神戸を空襲しました。空母には戻れないためそのまま中国に抜けて着陸あるいは不時着をするという無謀(自殺的)な行動です。さらに、旧日本海軍のエース(零戦を駆って64機を撃墜)坂井三郎氏が、普段は絶対他人を褒めないのに、ドゥリットルの訃報を聞いたとき威儀を正して「あの方は雲の上の人です」と言うのを著者は目撃します。ドゥリットルとはどんな人物だったのか、著者は興味を持ちます。
1909年、フランス人ルイ・ブレリオが自作機で英仏海峡を横断し“英雄”となります。その手記を貪り読んだうちの一人が、アラスカに住むドゥリットル少年でした。彼は自分でグライダーを作り始めます。9メートルの崖から飛んだグライダーはあっさり墜落。ドゥリットルはめげずにグライダーを修理してエンジンをつけます(暴風雨で、飛ぶ前に破壊されてしまいましたが)。ボクシングでも、小柄な彼はフライ級またはバンタム級でトッププロとも渡り合えるファイターでした。大学3年の1917年、アメリカはドイツに宣戦布告、ドゥリットルは飛行士官候補生に応募します。でんでんでんでん“武勇伝” (つまりは事故)が様々ありますが、それは実際に読んでもらうとして……
第一次大戦後、空の冒険家たちはアメリカ大陸横断に挑戦していました(「遠距離飛行」の定義が数百キロの時代です)。GPSどころか地上からの管制もジャイロもありませんから、粗末なコンパス(方位磁石)と、夜は天測(星から位置を割り出す)、昼は地形目視で位置と方向を把握します。機体は壊れやすく飛行場の整備は不充分です。1922年、ドゥーリットルは24時間以内の横断飛行に初成功します(3481キロ、飛行時間21時間19分。途中で給油(と朝飯)が一回)。リンドバーグの大西洋横断の5年前のことです。MITで書いた修士論文は、加重による機体破壊とパイロットのブラックアウトを世界で初めて指摘したものでした。複葉機でそこまでのgをかけてしかも安全に脱出して論文を書く……並のパイロットではありません。
次にドゥリットルはシュナイダーカップにカーチスR3C機で挑戦し、世界記録で優勝します(シュナイダーカップは水上機によるエア・レースで、アニメ映画「紅の豚」にもそこの優勝者カーチス君が主人公のライバルとして出てきましたね)。
1930年ドゥーリットルは軍を辞めシェルの航空部門を率います。宣伝や技術開発を行い世界各地(日本や中国を含む)を旅行、戦争が迫っていることを知ります。1940年軍に復帰(シェルは無期限休暇扱い)、航空機生産の管理を担当します。(しかし、戦艦の実物を使っての爆撃実験で、たった二発の爆弾で戦艦が沈んだのを見ても「航空機は戦争では役に立たない」と言い張る陸海軍のお偉方の姿……どこの国にもこんな人はいるんだなあ、と思わされます) そして、バトル・オブ・ブリテンと真珠湾。真珠湾から2週間後、大統領は日本に対する速やかな報復攻撃を望みます。陸軍の爆撃機を空母に乗せて日本を空襲するアイデアが登場。幅23m長さ150mの滑走路から離陸でき爆弾2000ポンドを積み3200kmを飛べる中型爆撃機が一種類ありました。B25です(ただし燃料タンクの増設が必要)。しかし空母への着艦はできません。この爆撃行の陸軍側の責任者にドゥーリットルは任命されます(というか、本人がそれを勝ちとります)。発艦は意外に簡単でした。ホーネットが全速で航行すると時速37km以上出ます。向かい風に向かえば対気速度はさらに増します。B25は時速83で浮揚します。つまりその差分だけ爆撃機は加速すればよいのです。
護衛するのはホールジー(ハルゼー)提督の空母機動部隊。ただし真珠湾の痛手で戦艦は一隻もありません。もしこの艦隊が大損害を受けたら、太平洋からアメリカ海軍は姿を消すことになってしまうバクチです。日本にはあまり近寄れません。最終目的地重慶の前に一度着陸して給油をする予定でしたが、 “受け入れ側”中国の飛行場も日本軍の攻撃で損害を受け、誘導用のビーコンの設置も行われませんでした。ドゥーリットルは早稲田付近を爆撃し、中国に抜けますがそこで燃料が切れパラシュートで脱出します。他の機も(ウラジオストックに着陸した一機をのぞいて)すべて墜落か着水。ドゥーリットルは「自分は失敗した」と感じます。しかし……
明日から郵政民営化だそうですが、結局「真の目的」は何だったんでしょう? 国鉄の分割民営化はよくわかります。お上にたてつく国労を弱体化させることと、赤字をなんとかしなくちゃいけないのと、もう甘い汁がそれほど吸えなくなった、というのが大きな理由でしょう。専売公社や電電公社はそれにつき合わされたといった恰好です。だけど郵政(特に田舎の特定郵便局)は自民党の集票マシンとして役立っていましたよね。それを捨てることを上回るメリットって一体何だったんだろう?
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東京空襲の功績で准将に昇進したドゥリットルは、北アフリカ戦線に転属します。あまり幸福そうではありません。現場からのたたき上げの(しかも一度は民間に出ている)人間は、ウエストポイントで鍛えられた“エリート”を好む将軍には信用されないのです。
ここで話は「メンフィス・ベル」になります。第二次世界大戦中にイギリスから25回も出撃した爆撃機の愛称ですが(当時の爆撃隊員の死亡率は一回の出撃で4〜6%でした。25回も生き延びるのは確率的にはなかなか大変なことです)、ワーナーブラザース映画「
メンフィス・ベル」はそれを映画化したもので製作者の一人がキャサリン・ワイラーでした。「ベン・ハー」「ローマの休日」などで有名なウィリアム・ワイラーの娘ですが、父親の方は第二次世界大戦にドキュメンタリー映画「メンフィス・ベル」を撮っているのです。それも自分がカメラを持って爆撃に5回も同行して。
その頃ドゥリットルはイタリアやドイツ南部の爆撃を担当していました。イギリスからの出撃に比べてどちらかというと地味な役回りです。しかし、ノルマンディー上陸の日が近づき、上層部はドゥリットルを中将に昇進させイギリスに派遣されたアメリカ航空隊の総司令官とします。上陸前に徹底的に爆撃でドイツ軍を叩いて弱体化させておく意向で、それができるのはドゥリットルだと期待されたのです。彼は、それまで「爆撃隊の護衛」のために爆撃機に縛りつけられていた戦闘機に対して「護衛に一部を残せばあとはドイツ軍迎撃機を追撃して良い」と自由を与えます。この変更は戦闘機乗りには歓呼の声で迎えられました。ドゥリットルがもともと戦闘機乗りだったからパイロットの心理がわかることもありますが、護衛が減ることで一時的に爆撃機の損害が増えてもドイツ空軍を早くすりつぶした方が結果としてトータルの損害は減る、という冷徹な計算もあったようです。
東京・ローマを初空襲したドゥリットルは「枢軸国の首都の初空襲、全制覇」を狙いますが、ベルリン空襲への参加は司令部に却下されます。もし撃墜されて死亡・捕虜になったら連合国側のダメージが大きすぎる、が理由でした。そのかわりかどうか、彼はDデイには上空をP38ライトニングを自分で操縦して飛んでいます。下の状況の偵察と制空権の確認が目的でした。とにかく理由をつけては飛びたがる司令官……根っからの戦闘機乗りですね。
ちなみに、実在のメンフィス・ベルの機長モーガンは“英雄”として帰国しましたが、そこで最新鋭のB29を見て志願、日本爆撃に参加します。ヨーロッパでは対空砲火・迎撃機・悪天候が爆撃機の“敵”でしたが、日本では強い偏西風が“敵”でした。さらに、B29を“支配”したがる海軍と独立して空軍になろうとする航空部隊との“戦い”もあります。そして本書では東京大空襲が“上”と“下”から描写されます。
本書では、戦略爆撃と戦術爆撃の区分や、アメリカとイギリスの爆撃ポリシーが全然違うことも述べられています。対ドイツの場合は戦況がその違いに大きな影響を与えたように本書ではあります。そういえば2005年12月9日に日記に書いた『死闘の本土上空 ──B−29対日本空軍』でも米軍が行った戦略爆撃と戦術爆撃の違いとその理由について書いてありましたが、こちらは陸軍と海軍の思想の違いが大きいからとあったように記憶しています。
「スーパーチャージャー」と「ターボチャージャー」の区別が厳密にできていない、といった瑕疵はありますし、メンフィス・ベルやマクガバン(のちの上院議員)への“寄り道”もありますが、私がこれまで知らなかったドゥリットルの行動について詳しく知ることができたので、読んで良かったと思える本でした。マクガバンの所で、普段は高空から爆弾を落とすだけでその結果については実感として知らない爆撃機の乗員が、引っかかった爆弾を外すために低空を低速で飛んでやっと外したらそれが農場を直撃したのを見てしまい「自分は人を殺した」とショックを受けるシーンは、人間心理を考える上でなかなか示唆に富むエピソードに思えます。そして“後日談”の部分で、私はほっとため息をつきます。
そうそう、上下巻でカバーの文字色が上巻は赤・下巻は青なのですが、栞のヒモの色もそれに合わせてあります。なかなか洒落た感じの装幀です。