2007年12月
miklyからダウンロードしてmixi-stationをブラウザに入れました。すると「最新ミュージック」が自分のトップページに登場しました。「これは一体何だ?」と思いつつ特に追及せずに放置していて、久しぶりにiPod Shuffleをパソコンに接続したら、更新と同時に「聴いた曲名をmixiに登録するか?」と質問されました。なるほど、mixi-stationにはこんな機能もあったんですね(もしかしてMusic Stationのもじり?)。とりあえずイエスとすると全部登録されて、さらにその中からお気に入りだけ別にまとめることができます。あまり考えずに適当に選んでみました。
ふーむ、私が読む本も雑多ですが、こうしてあらためてじっくり眺めると曲も雑多です。統一感なんかかけらもありません。ただ、曲名リストは本のリストよりも自分の深層心理を多くさらけ出しているようで、微妙に差褥を感じます。なぜでしょう? ただ「アーティスト別の総合ランキング」はあまり意味がありません。iPod Shuffleにオートフィルするときにはアトランダムだし、聞くときもほとんどはシャッフルプレイですから。
しかし、手持ちのCDやiTunesMusicStoreからダウンロードしたアルバムが250枚を越えてハードディスクのdドライブが満杯になっているのが大問題です。最近買ったliberaもバックアップファイルを削除して無理矢理入れたのですが、どうしよう……単純に外付けHDDを買うか、RAIDのNASの導入か……サンタさ〜ん……
【ただいま読書中】
著者は1975年22歳でいずみたくのアシスタント兼アレンジャーとしての人生を始めます。初仕事はいずみたくが作曲した「徹子の部屋」のテーマ音楽の編曲。以来CM音楽はさらっと「2000曲くらいかな」と言えるくらい作曲しているそうです。
「明るいナショナル」の歌は「CMソングの神様」三木鶏郎作曲、いずみたく編曲ですが、ナショナルのCIロゴとしての「♪ナショナル♪」の部分は著者が生み出したものだそうです。ロゴとして使える秒数は15秒CMだと1秒。4音1秒のために著者は20以上のメロディを作り、その中の一つが採用されました。
コジマ電機がコジマに脱皮しようとしていた時期、「♪コージマ♪」を著者は3つ作りました。過激なもの・明るく楽しいもの・ちょっと変わったもの。それぞれに企業のこれからの未来を重ねたものと打ち合わせで著者は説明し、2時間の打ち合わせで本部長は過激なものを選択します。そして一年後、コジマはその業界で日本一となっていました。
著者は松屋のファンだそうで、だからCMの依頼があったときに思わず熱くなって作曲してしまいます。
歌詞にクライアントからOKが出ないため、著者がとうとう作詞してしまった作品もいくつかあるそうです。“現場”から遠い作詞家よりは著者の方がイメージコンセプトをきちんと捉えている、しかもクライアントの“無理”も平気で聞くからOKが出やすかったのかな、と私は思います。
CM制作には関係者がたくさんいます。クライアント・代理店・フィルムプロダクション・音楽プロダクション・アーチスト・タレント……そして皆がそれぞれの“正義”を言い立てたとき、船は山に登ってしまいます。特にここで紹介されている花王の化粧品ソフィーナのイメージソングでは、ブランド立ち上げのイメージソングなのに商品メリットも精一杯盛り込もうとして結局“二兎を追う”と同時に“船頭が多い”状態……これはとほほになるのも無理ないです。
スピッツが売れ始めたとき、JR九州とのタイアップの話が持ち上がります。ちょうど新曲が出る時期で、皆が乗り気です(新曲がJASRACに登録される前だったら、タイアップでの楽曲使用料がずいぶん安くつくというメリットもあります)。ところが話はおじゃん。新曲のタイトルが「青い車」だったのです。「青い列車」だったらよかったのに。
「裏話」と言っていますが、それほど仰天するような話は出てきません。現役で仕事をしている人だから、差し障りのある話は出せなかったのでしょう。こちらとしてはそんな話を読みたいものですけどね。
上り坂は苦しいものです。しかし下り坂が単に楽かと言えば実は必ずしもそうではありません。上りよりも着地時の足の負担はきついし、せっかく獲得した位置エネルギーを失うのは感情的にはなんとなく面白くありません。で、どちらにしても文句を言うのは非生産的。
ならば、坂道を歩くのが嫌になったり疑問に思うのだったら、思い切って立ち止まり振り向いてみましょう。上り坂は下り坂になります。下り坂は昇りに転じます。そこでどちらに一歩を踏み出すかは、自分の自由だ〜。
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神話や伝説は、語り手によって少しずつ脚色が為されます。それはしかたないことです。人の記憶力には限界がありますし、“話を面白くしたい”のは人の“本能”なのですから。本書でも冒頭に著者は宣言します。自分なりに光や色を加えると。私はケルト神話については全く無知な人間ですが、根本的なところが破壊されず話が面白くなるのなら、それは歓迎です。
魔法や妖精が(それ以前ほどではないにしても)まだ存在し、アイルランドがエリンと呼ばれて五つの小王国に別れていた古の時代、それぞれの王国にはフィアンナと呼ばれる騎士団が置かれており、そのすべてのフィアンナを統括するのが騎士団長でした。騎士はそれぞれの王ではなくて、騎士団長とエリンの上王に忠誠を誓うのです。フィアンナ騎士団が全盛を誇ったのは、英雄フィン・マックールが騎士団長をつとめた時代でした。
フィンの父はライバルとの権力闘争に敗れ、妊娠中の妻は追っ手から逃れて荒野に逃げ込み、そこで息子フィンを産みます。そしてフィンを侍女に託し自身はまた逃亡の旅を続けます。のちにフィンは妖精族のサーバと結婚し、サーバもまたドルイド僧の魔法によって連れ去られ息子のアシーンだけがフィンによって荒野で発見されます。この「母の不在」はケルトではなにか重要な意味があるのでしょうか。
フィンは性格も武芸も容姿も優れた若者として育ち、さらに魔法によってすべての知恵も手に入れます。文武両道です。ところがやたらとトラブルに巻き込まれるのです。まったく、なぜ? 答え。フィンが英雄だから。そしてこれが神話だから。
すごいのはフィン・マックールだけではありません。超人的な能力を持つ騎士や魔法の力を持つ者が次から次へと登場します。彼らは皆それぞれの物語を持っているのですが、本書ではそれは匂わされるだけで詳しくは語られません。「またいつか語るとしよう」と言われることもあるのですが、大抵は空約束です。ただ、父の敵だろうと裏切り者だろうと、自分に忠誠を誓う人は受け入れるフィン・マックールは大したものですが、その誓いをちゃんと守る人たちもまた大したものです。
ブリテン王の息子アーサーなんて者が登場したかと思うと、王妃と騎士(ここでは騎士団長の妻と騎士)の“不倫”も登場します。アーサー王伝説のよりこちらの方が生々しいのですが、魔法が絡んでいるだけやっかいです。呪いと誓いのどちらを取るか、そのとき「誓いを破ったら騎士団長に追われるが、呪いを放置したらもっと悲惨なことになる」とかの“合理的”な判断を下す人たちの姿が印象的です。もしも私がそんな立場になったとき、そこまで冷静に決断できるでしょうか。
ちょっと奇妙な登場人物もいます。騎士団に属する三人組で、夜になるとその内の一人が死に朝になると蘇る……太陽の化身ですか? エジプトではたしか太陽は一つで夜の間に地底だったか冥界だったかをこっそり通って東に移動して翌日の出番に備えるのですが、中国の神話でしたか、太陽がたくさんあってそれが一つずつ西に向かうというのがありました。ケルト神話でももしかしたら太陽は複数なのかな。妖精にも、日の出とともに現れて日没とともに消えるものが本書には登場しますが、これもまた太陽神の神話と関係があるのかもしれません。そして本書のエンディングは“浦島太郎”です。地球の反対側の島国にもいたんですね。
本書を楽しむのに、ケルトの知識は不必要です。ただ、異世界に飛び込む勇気だけあれば、それで十分。
「万里の長城は月から見える唯一の地球の建造物」なんてことばを聞いたことがあるのですが、はたしてそれは本当でしょうか? 暇なのでちょっと思考実験をやってみましょう。
二つの観点から考えてみました。
1)月に万里の長城があったとして、それが地球から楽に視認できるでしょうか。(もし見えるのなら逆も真でしょう)
2)月より近いところからでも万里の長城が見えるでしょうか(そこで見えなかったら月からは見えません)。
私たちが月で見えるのは、肉眼だと月の海・望遠鏡でクレーターの縁です。はたして万里の長城はあの巨大なクレーター以上の構造物なのでしょうか。長城はどうもそこまでの巨大さではなさそうに思えます(特に厚みの点で)。
月よりはるかに近い、たとえばスペースシャトルの高度からならどうでしょう。スペースシャトルから撮影した写真で万里の長城が写っているのを私は見た覚えがありません。ただし、スパイ衛星なみの高倍率高解像度だったら、(さらに太陽の高度が適当なら)影を伴う線として認識できそうです。
ということで、「肉眼では、月から万里の長城を見ることはできない。非常識なほどの望遠鏡なら可能かも」が現時点での結論ではないかというのがとりあえずの結論ですが、私の考えの筋道、どこかに大穴が開いてます?
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朝日新聞が出している「サイアス」という雑誌に連載されたコラムをまとめたものだそうです。「サイアス」は読んだことがありませんが、科学雑誌だそうで、そこに著者の連載を載せるとは、キャスティングを考えた人に拍手です。まったく、何を考えているのでしょう(褒めています)。
一読して「意外」と言ったら失礼でしょうが、きわめて真っ当なコラムです。「科学的」の意味・ヒトラーのクローン人間を恐れることのばかばかしさ・ノストラダムスの予言について・21世紀の始まりは2000年か2001年か・二酸化炭素はエネルギーのごみ問題・宇宙開発の真の動機……どれも妥当なことが書いてあります。著者の作品にはけっこうはちゃめちゃな発想がありますが、それは真っ当な精神に基づいていると言うことなんでしょう。考えてみたら(考えなくても)当たり前ですね。はちゃめちゃな精神がそのまま発露されたらそれはそもそも(他人に何かを伝える)「作品」にはならないのですから。
イラストは西原理恵子ですが、これがまた面白い。本文に対して突っ込んでみたり、あるいは掛け合い漫才のようになってみたり、本文を読んでイラストを見ることで二重に楽しめます。
また、私が特に親近感を感じたのは「教科書で習ったことが今では通用しない」ことに対するぼやきの部分です。生物の分類が変わった・火山の分類が廃止になった・石器が捏造だった・日本最古の貨幣は和同開珎ではなかった……「そんなの聞いてないよ」と言いたくもなります。科学の進歩は結構なことです。でも、私たち(って、誰?)を置き去りにはしないで欲しいなあ。
学校での悪戯などは除いて、公共の施設でトイレに入っていて外から突然灯りを消されてしまったことがありますか? 私はあります。
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『
夢の山岳鉄道 』宮脇俊三 著、 日本交通公社、1993年、1262円(税別)
豊かな自然を売り物に観光客を集めようとしたら、まず必要そうなのはアクセス手段です。そこで日本あちこちに○○ラインと呼ばれる観光道路が建設されました。しかし、道路で自然は破壊され(木が伐採されたり斜面が削られたりの直接的な影響だけではなくて、森林に日光と風が入るようになって植生が変化・枯死することも重大な影響です)、排気ガスがまき散らされ、集まった人がマナー悪くあたりを踏みにじり、高山植物は大量に盗まれ……
著者はそれに対する解決策の一つとして、山岳鉄道の建設を提案します。○○ライン(多くは幅7.5m)に単線の線路を敷けば必要な幅は3.5m(軽便鉄道ならもっと狭く)、残りには木を植えます。それが育って線路に覆い被されば、森林内部への日光や風の影響も最小限にできます。排気ガスも(電気機関車なら)ありませんし、高山植物の盗掘も、車ほどには自由にできないでしょう。
ということで、著者は各地で具体的に考え始めます。道路を廃止することで生じる住民と観光客への影響。馬返しならぬ車返しの場所と駐車場の位置と広さ。すれ違いのための信号場をどこに設置するか。駅はどこに置き名前はどうするか。標準的なダイヤ。輸送目標人数とそれに対応した列車の編成。建設費。観光客にアピールする(絶景を見せる)ポイントとその方法。非常に具体的な「夢」です。
本書には日本国内から12ヶ所が上げられています。その中で私が行ったことがある場所、上高地・富士・蔵王・日光・祖谷渓では、記憶を復元してそこに列車を走らせてみました。う〜む、なかなか良さそうです。ただ、日光のいろは坂に線路を敷くというアイデアにはのけぞってしまいました。カーブが回れるのかな?
雑誌「旅」(JTB)の連載が終わる頃、話は海外へ。山岳鉄道の先進国を実際に見てみようというわけです。イギリス・スイス・イタリア……著者はそこで、日本とは異なる鉄道の「思想」に出会います。
どうでも良いことですが、著者の隣りに住むのが北杜夫さんだということにはちょっと驚きました。本当にどうでも良いことですけど。
この前読んだ『
サイエンス言誤学 』にも書いてあったし、最近のマイミク(どこで読んだか失念、ごめん)の日記にもありましたが、台風が来る前、人が妙に高揚することは体験上わかります。「台風が来るぞ〜」となぜか妙にハイになっちゃう。ところが地震の場合は話は逆。「地震が来るかも」と言われたら気分はなぜか地の底に落ち込んでしまったようです。文字通り天と地なのですが、その差は一体何なんでしょう?
【ただいま読書中】
本書が出版された頃「地震の専門家(当時著者は北海道大学地震火山研究観測センター教授)がお上にたてついた」というニュアンスで報道されたのを読んだ覚えがあるようなないような。「東海地震は予知できる」という前提で大金を投入して対策を立てていた政府に対して「その前提と対策は正しいの?」と疑義を呈した本です。
地震を予知するためには、前兆現象を捕まえるのが確実です。地下水の水位の変動とかラドン濃度の変動とかが一時盛んに言われました(一般で有名なのは地震雲の方でしょうか)。ところで、どの「前兆」でも良いのですが、「前兆」が出て地震が起きた場合と起きなかった場合の比率、および「前兆」無しで地震が起きた場合の率の計算が大変です。その現象が「使えるもの」(“これ”が出たら近日中に高確率で大きな地震が起きる)かどうかの判定がなければ実用上意味がありません。毎日毎日「明日地震が起きる」と言い続ければその“予言”はいつか当たりますが、そんなの使いものになりませんよね。1975年中国の海域地震で「予知が成功した」と報じられて、一時は「前兆の研究」が世界的ブームになりましたが、今は下火になってしまいました。
地震予知は、科学の問題であると同時に政治の問題です。
1978年に制定された「大規模地震対策特別措置法」(大震法)は、「予知」が前提で、戒厳令のような規制が可能となっています。そしてこの法律をもとに大きな予算が地震予知研究に投入されました。文部省・運輸省(気象庁と海上保安庁)・建設省・通産省・郵政省・科学技術庁が一世に地震予知の“研究”に走り出し、予算と人員の奪い合いとなります。政府の委員会も複数できます。1969年に「地震予知連絡会」が国土地理院に。1979年に「地震防災対策観測強化地域判定会」が気象庁に。1995年「地震調査委員会」総理府。ちなみに三宅島の噴火の時(2000年)には、この3つの委員会と気象庁の「火山噴火予知連絡会」とがそれぞれ別々に判定とコメント発表を行っています。現場の観測網も、旧帝大の縄張り争いと重複が生じます。ジャーナリストは科学者と馴れ合い、チェック機構が機能しません。大きな地震のたびに予算は倍々ゲームのように増え続けます。
そして、阪神淡路大震災。あちこちでばたばたと「地震予知」の看板が「地震調査」に掛け替えられました。そして予算はもっとつぎ込まれることになりました。官僚は無謬なのです。もっともらしいシミュレーションが行われ、それらしい損害予測が公表されます。原発も新幹線もほぼ無傷、という前提で。マスコミは無批判にそれを垂れ流します。
著者は“現場”を知っているからでしょう、それらの人びとのおかしな行動を苦々しく描写します。本書を公表することで確実に著者は“体制内”に多数の敵を作ったことでしょう。そのせいか、本書刊行後に著者は変な罪で逮捕されています。
1995年阪神淡路震災の直後に、NiftyServeのFPSY(心理学フォーラム)に私は「縁起でもない」を切り口に地震対策についての考察を書きました。でもそのログはもう手元になく(あるいはどこかにあってももう探し出せず)記憶も定かではないので、本書を読んでまたあらためて考えています。そうだなあ、たとえば「この地域に今から3日以内に大地震がある確率は10%」と宣言されたら、明日出勤しますか? 子どもを登校させますか? 30%なら、50%なら、1週間なら、1ヵ月なら……
今朝はずいぶん冷え込んで、近所中の自動車の屋根や窓、家々の屋根などが真っ白に凍っていました。バイクで走ると、厚い手袋をしていても手が痛くなります。厚い手袋より熱い手袋が欲しくなります。
通勤途中、マンションの駐車場から急に飛び出てきた自動車が私の前に割り込んだので、「あぶないなあ」と思っていたら、露骨に挙動不審です。右に左にふらふら。何事かと観察したら、ドライバーが体を右にやったり左にやったり運転席でダンスしているのです。車の挙動不審はドライバーの挙動不審の結果でした。なんだろうとさらに観察したら、車の正面の窓がびっしり凍っていて、ワイパーを動かしても氷は落ちず、ドライバーはその隙間からなんとか前方を見ようと努力していたのでした。あぶないなあ。
車の後ろの窓はきれいなので(だから私にもドライバーの挙動不審も前の窓の状態も観察できたのです)、車を置く方向を明日から逆にするか、さもなければちゃんと氷をかき落としてから発進するか、どちらかにした方が良いんじゃないかしら。あ、サイドウインドウを開けて首を外につきだして運転する手もありますね。冷気で顔が痛くなるでしょうけれど、バイクの人間はそれに耐えられるのですから、車の人間も耐えられるんじゃない?
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太古、英雄の赤王ロスは神々の一族出身のマガと結婚していました。ところが王妃マガは王を捨て、優れたドルイド神官カトバドと結婚します。ロスは人間の娘ロイと再婚します。このマガとロスに血のつながる者たちが、本書の「赤枝騎士団」の中核となるのです。そしてその中心は、マガとカトバドとの間に生まれたデヒテラ姫が太陽神ルグとの間にもうけた息子クーフリンなのです。
クーフリンは眉目秀麗で武力に優れていましたが「笑うとき以外は、いつも心の中の悲しい音楽に耳をすませている」若者でした。彼が求愛したエウェルは、大手柄を立てることを条件とします。クーフリンは影の国の女戦士スカサハに弟子入りします。この弟子入りまでの道中だけで一大冒険です。
そこで「禁戒(ゲシュ)」という重要な概念が登場します。これはタブーなのですが、個人に課せられるものです。たとえば「戦いを挑まれたら、決して断ってはならない」というゲシュを課せられたクーフリンの息子コンラは、どんな戦いでも受けなくてはならないのです。「犬の肉を食べない」ゲシュを破った者はその罰を(個人的に)受けます。「宴会に誘われたら断ってはならない」ゲシュなんてのもあります。飲んべえには嬉しいものかもしれませんが、実はそれが悲劇の伏線になったりするのですから、油断はできません。
やがてアイルランド全体を巻き込んだ大戦乱が起きます。アルスター王国(現在の北アイルランド)に各国の連合軍が攻め込んだのですが、「大衰弱」という呪いによってアルスターの戦士は使いものになりません。元気一杯なのはクーフリンだけ。しかし“戦闘モード”に入ったクーフリンの描写は、体から様々なものが立ちのぼり周囲には炎が渦巻き、まるで劇画です。クーフリンによって戦士が次々倒されるため敵はとうとう禁断の怪物を解き放ちます。それもなんとか倒したクーフリンは、浅瀬をめぐるつらい最後の戦いに出向きます。
この物語で印象的なのは、婚礼が死と結びついていることです。クーフリンの結婚も虐殺を伴っていますし、挿話のように扱われているディアドラの物語も血なまぐさい結婚の物語です。
また、境界線をめぐる戦い(それも守る者は少数または単数)や境界線そのもののエピソードが繰り返し登場するのも印象的です。アイルランドの人々には「境界線」は何か特別な意味があるのでしょうか。
そして物語はどんどん暗くなります。クーフリンは戦いに勝ち続けますが、それは同時に「敵」を増やすことでもあります。クーフリンに家族を殺された人びとは皆恨みを持つのですから。さらにクーフリンは(しかたのないこととは言え)親友や一人息子まで手にかけてしまいます。暗すぎます。そしてまたアルスターは危機に見舞われ、クーフリンは自分が死ぬことを知りながら出撃し、名誉を守るために死にます。
古代ギリシア神話が明るい真昼の話だとしたら、こちらは夜の物語、触ることができるほど濃密な闇にいくつもの星が散りばめられたような不思議な魅力をたたえた神話です。
「適当」ということばには「それにまことにふさわしい」と「いいかげん」とまったく異なった二つの意味があります。だからうっかり「適当な対策を」なんて言うと「いいかげんなことをすると言うのか」と怒り出す人がいます。そこでもしも「ぴったり合った、という意味で使ったのですが」と言うと「ことばじりでごまかそうとするのか」とますます怒ります。「ことばにはいくつかの意味があることをご存じないのかな」あるいは「自分が無知であることを認めたくないからそれを“怒り”でごまかそうとしているんだな」と周囲で思う人がいるかもしれませんけどね。だけど、怒りと論理がぶつかったら、普通怒りが勝ちます。だから私は「適当」ということばを適当な場面で使うことが困難になって困ります。
そうそう、「適切に対応をする」と聞いて怒り出した人もいましたっけ。「適切」を「適当」と聞き間違え、しかも「いいかげん」の意味しか知らなかったのです。「この耳で確かに聞いた」と言い張る人に「聞いたのは耳ではなくてあなたの頭の方でしょ」って教えてあげたくなった私は、人間として不適当ですか? 適当がテキトーだとしたら不適当は不テキトーだから、私はまともな人間……あら、これは不適当。
【ただいま読書中】
友人の「ジャマイカでは3000円で出産ができる」のことばに、出産間近の著者はジャマイカに出かけます。夫がジャマイカ人とはいえ、それで良いのでしょうか? 国立病院の出産費用はたしかに3000円でした。ただし、待ち時間が半端ではありません。毎週水曜日に検診があるのですが、そのたびに4時間待ちです。破水してかけつけると、まずは問診、そして水のシャワーを浴びて、やっとベッドへ。しばらく放置されてからやっと診察です。陣痛促進剤が必要ということで点滴開始。入院してから20時間後、やっと出産が始まりました。寝ているベッドの上でそのまま。分娩台は、切開された会陰部の縫合のために使われるものなのでした。
22歳の時に偶然訪れたジャマイカの魅力に著者はノックアウトとなります。そしてそこで出会ったのが変な日本語を操るサーイ。日本とはあまりに違うジャマイカの“常識”にカルチャーショックを受けて帰国した著者は、ジャマイカとサーイへの思いが募っていくのに気がつきます。そしてついに結婚。二人は日本で暮らし始めますが、著者は妊娠。ところが夫はふらふらとするばかりで定職につこうともしません。著者は夫を日本に残しジャマイカに旅立ちます。出産をするために、そしてそのままジャマイカで暮らすために。
著者は思いこみが強くて突っ走るタイプです。結婚の時もそうですが、息子の新生児黄疸の時も、ちょっと立ち止まって考えたりきちんと調べればやらなくてもすんだことをいっぱいやってます。離乳食を作るにも自分で自分を追いつめています。そこまで走らなくても、ゆったりと歩いても良いだろうに、と思いますが、それが著者のキャラクターなのでしょう。というか、著者の中にジャマイカの血が最初から流れていて、それが実際に訪れたジャマイカの地と共鳴したのかもしれません。私とはタイプが違いますが、私には私の血と地があるのでしょう。
先日の東京出張で、旅行業者から渡されたのは「ANA航空券ご利用案内書」とタイトルが打たれたぺらぺらの紙切れが二枚だけでした。再生紙のコピー用紙でデータがプリントしてあって「これは航空券ではありませんが、これで飛行機に乗れます。座席も指定してあります」ですって。インターネットで初めて航空券を買ったときにも「ちゃんと注文が通っているかしら」とチェックインして現物の航空券を手にするまで不安でしたが、今回はチェックインそのものがないんだそうです(座席が指定してない場合はチェックインが必要です)。保安検査場の入り口で、紙にプリントされている二次元バーコードを機械にかざします。すると「ピッ」と言って搭乗口案内の紙(色はブルー)が出てきます。そのまま待合室に入ります。指定されたところで待っていて搭乗手続きが始まると、以前は航空券を突っ込んでいたスロットの所にまたさっきの二次元バーコードをかざします。すると今度は赤い「搭乗券」が発券されます。これに大きく座席番号がプリントされています。自分のことは棚に上げて、慣れない人が多いと手間取るかな、と思いましたが、意外に列の流れはスムーズ。抵抗する人はごく少数でした。
うらやましかったのは、携帯電話に二次元バーコードを表示させてそれを見せている人。それと、ICカードでタッチして通っている人。あれ、紙より良いですねえ。
ただ、最近あるマイミクさんが経験した大量ダブルブッキングのような事態では、チェックインの所でストップがかけられませんから、地方の空港ならともかく、羽田のようにでかいところだとあちこちの保安検査場の入り口でチェックをかけることになって大混乱なんじゃないかしら。それとも取りあえず中に入れてしまってそこで選別? それと、空席待ちや搭乗直前に気が変わって便の変更の場合もどうなるのかなあ。
まあ、私が心配することではないのですが。
かつては市内バスや電車にも車掌がいていろいろ面倒をみてくれましたが、ワンマン化が始まって客がいろんな作業を自分でやらなきゃいけなくなりました。飛行機もその流れなんですかね。そのうち、客室乗務員も廃止になって、お茶は回転寿司よろしく、座席の背についた蛇口から客が自分で汲むことになったりして。
【ただいま読書中】
『
バドミントン教本Q&A 』(財)日本バドミントン協会 編、ベースボールマガジン社、2007年、1600円(税別)
バドミントンはハードなスポーツです。スマッシュ時のシャトルコックのスピードは(少なくとも初速は)世界最高速の時速332キロでギネスブックに載っているはずです。試合でプレーヤーは最高心拍数の80〜90%まで達した状態でラリーを展開、シャトルを拾いに行き構えるまでの少しの間だけ休息、それを30〜45分の間繰り返し続けるのです。子どもの頃に「バトミントン」と言いながら手軽に遊んでいましたが、実は奥が深いすごいスポーツだったのですね。
本書は、本格的にバドミントンをプレイしている人・コーチをしている人、を対象に、さらに高いレベルを目指すにはどうすればいいかをQ&A方式で述べています。面白いのは「目的」に非常にこだわっていること。「打点を高くする練習」については「なぜ打点を高くしなければならないのか」から始まって「高くすることのメリット、デメリット」「解剖学的な腕の使い方、腕と上体との関係」「ゲームの戦略と打点との関係」などがとうとうと語られます。単純に「こうすれば強くなる」「こうすればゲームに勝てる」と言うコーチングに対しては「強いの真の意味」「年齢やレベルと強さの関係」ついには「勝てばいいのか?」とまで言っちゃいます。本書では、正しい技術を身につけること・スポーツに対して真摯に望むこと・でもバドミントンを楽しむこと、が求められています。いやあ、バドミントンって、奥が深い。
ニュースでときどき「執拗に暴力をふるった」という表現があり、見ると時には5時間も6時間も暴行を続けていた、なんてのがあります。そんなに人を殴る蹴るを続けることができるとは体力のある奴だと“感心”しますが、同時にその執拗さにも驚きます。
肉体的な暴行ではありませんが、ことばの暴力でも同様の現象が見えることがあります。掲示板での終わらない罵詈雑言がわかりやすいですね。あるいは実生活でもじっと他人を嫌悪あるいは憎悪し続けて何ヶ月も何年も悪口を言い続けたりねちねちと嫌がらせを続けている人がいます。主張や思考の内容はともかく、あの執拗さは一体何事なんでしょう。あれだけのエネルギーを得るために“燃料”として何を燃やしたらあれだけの執拗さが生まれるのでしょう? 私にはちょっと想像ができません。いや、親の敵(古い?)とかだったらまだわかるんですけどね。
【ただいま読書中】
『
妖精王の月 』O.R.メリング 著、 井辻朱美 訳、 講談社、1995年、1359円(税別)
フィンダファー(ダブリンに住む16歳の少女、黒を好んで着るお痩せ)とグウェン(フィンダファーの従姉妹、16歳、カナダ在住のぽっちゃり)は、愛するファンタジーを求めてタラ(アイルランドの上王のかつての城塞、一種の聖地)に旅立ちます。そこで二人は「呼ぶ声」を聞き、誘われるように野宿した「人質の塚山」からフィンダファーが妖精に攫われます。グウェン(ウェールズ系のことばでグウェニヴァー、アイルランド系のフィンダファーと同じ意味)はフィンダファーを探しに西に旅立ちます。なんだか「雪の女王」を思い出しますが、グウェンが乗るのは、馬車やトナカイではなくて長距離バスやベンツです。グウェンは現実のアイルランドを旅しながら、少しずつフェアリーランドに近づいていくのです。
先日読んだサトクリフの『ケルト神話 黄金の騎士フィン・マックール』に出てきたフィンの妻グレイニアと騎士ディアルミッドの逃避行もここにちらりとだけですが登場します。アイルランドでは有名なお話なのでしょう。
本書に登場する妖精は、ディズニーに出てくるような砂糖菓子のような存在ではありません。魔法を使い、人間と同種の感情は持たず、荒々しく、彼らの世界独自の慣習と規則に従って人間には理解しがたい行動をするものたちです。独自の世界システムに生きている点で、日本なら「妖怪」が相当すると考えても良いんじゃないかと思えます。ただし人間には抗いがたい「美」を備えているところが日本の妖怪とはちょっと違うようですが。
グウェンは現実とフェアリーランドとの間を揺らぎ始めます。文字通り「現実離れ」をし始めるわけで、危険です。グウェンは、フィンダファーを救うために行動しているはずが、救わなければならないのは実は自分自身であることに気づきます。いや、「救う」ではありません。「選択」です。人間と妖精との二つの世界のどちらを選ぶか(捨てるか)を迫られているのです。ファンタジーが“リアル”になるためには、それを信じる人びとが存在することが必要です。そして本書ではその条件が揃っているのです。
グウェンはアイルランドをぐるりと回って、北の端、インチ島を訪れ、魔女と王に会います。二人の少女は恋に落ち、そしてフェアリーランドの存亡をかけた戦いが始まります。戦うべき敵はフェアリーランドを追放された不死身の大蛇。それを倒すのに必要なのは七人の天使。絶望的な戦いが行われ、そして生贄が捧げられます。
本書は単純なふわふわした“ファンタジー”ではなくて、人と妖精の成長と変容、生と死、悲しみとユーモア、愛と超克、喪失と獲得の物語です。思春期直前の子どもたちから思春期の思い出を心の中にちゃんと持っている大人たちにまで、お勧め(心が完全に干からびている人は除く)。
自動車を運転している人が当然しているべき行為に「仕業点検」があります。運転とは「業務」です(だから交通事故で運転者は「業務上過失」に問われます)。「業務」とは道路交通法では職業とは無関係で「人を死傷させる恐れがあるので十分な注意を払って行うべき行為」と私は自動車学校で習いました(30年以上前の記憶なので、だいぶぼけていますけれど)。そんな危険な業務ですから始める前には当然点検をするべきだ、が法律の主張です。はい、ごもっとも。
で、免許を持っている人で仕業点検をちゃんと毎日運転前にやっている人、手を上げて! おや、一人ですか。いつもより多いです。
というのがこの前聞いた講演での講師のお話です。この講師、あちこちで「安全」についての講習をしているそうで、そのつかみとして「仕業点検」を用いているそうな。この前なんか某自動車メーカーで「さすがに自動車メーカーなら一般人よりは多いだろう」と同じ質問をしたら、一般人と同じでフロアから全然手が上がらなかったとか。自動車メーカーの努力で、一々毎日点検しなくてもちゃんと動く機械が出荷されているわけで、それはそれでめでたいことなんでしょうね。ただ、法律違反をしても安全に動く機械を作るのは、法律違反を助長していることになるのかな?
あ゛、「おかだはやってるのか?」なんて聞かないでください。私も聞きませんから。
【ただいま読書中】
社会学の教授で家庭裁判所の家事調停員を勤める著者が“現場”で見た現代社会の記録です。まずは個別モデル(実際のケースをもとに作ったフィクション)の紹介があり、ついで著者がそこに適用する社会モデルの説明(や社会学的な研究結果などを加えて解説します。
民事の調停制度が始まったのは、意外にも昭和14年(1939)、軍人の遺族年金の受給をめぐって骨肉の争いが続出したために「人事調停法」がもうけられました。制度があれば使いたくなるのが人間の性ですから、離婚の申し立てなども多くおこなわれるようになります。戦後は世界的には珍しい男女同権を高らかに謳う憲法の下で民事調停が行われるようになりました。
家事調停員は「弁護士資格を持つ」「家事紛争解決に有用な専門的知識経験を持つ」「社会生活の上で豊富は知識経験を持つ」者が民間から非常勤の裁判所職員として任命されます。調停委員会は、裁判官と調停委員二名(男女各一人)で構成されますが、裁判官は欠席がちだそうです。事件の50%弱は夫婦間の問題、十数パーセントは子どもの監護です。
本書で著者は「DV」ではなくて「ファミリー・バイオレンス」と言います。DVだと暴力の原動力はジェンダーですが、実際には家庭内の子どもや老人、あるいは同性愛カップルの間でも暴力はあるので、それをすべてジェンダーで説明するのは困難だと考えるからです。ちなみに日本では「男性が暴力の被害者」は年間407件(約2.4%)ですが、アメリカでは10万人以上(女性の被害者が激減傾向だが男性は減っていないためか率は書いてありません)。ただしこれは「氷山の一角」かも、と著者は言います。「沽券にかかわる」と最初から通報しない、あるいは通報しても「男のくせになんだ」と門前払いされるケースが多いだろうと推測できるからです。
1998年厚労省の調査では、母子世帯(約95万世帯)の70%は離婚によるもので、養育費の取り決めをしているのは35%、実際に受給しているのは21%。平均年収は229万円。家事調停が行われた場合、養育費が支払われなかったら、家庭裁判所からの勧告・履行命令、最後に地方裁判所による強制執行ができるから支払いの保証も罰もない協議離婚よりは良いそうです。もっとも履行命令でさえ年にせいぜいふたけたの件数ですから、制度がちゃんと機能しているのかどうかには疑問がありますけど。さらに、そういった“苦しい”母子家庭のうち生活保護を受けているのは10%です。これまた窓口で門前払いされているケースが多いそうで、これって「離婚するような女には社会的制裁だ」なんでしょうか?
本書を読んでいると、単に社会学だけではなくて、心理学にも大きな活躍の場がある分野に私には見えます。
調停の第一歩は「調停とは何か」を説明することで、「裁判所に訴えられた」と感情的になっている人に冷静さを取り戻してもらうことから始めるそうです。当事者にコミュニケーション不足が目立つ(それがトラブルをこじらせている)場合は、別席調停ではなくて同席調停を著者は行います。また「家族システム」を循環的・回帰的因果関係モデルととらえているため「家族葛藤が発生してきた道と、解決する道は同じでなくて良い」と著者は言い切ります。暴力を否定することと暴力をふるう人を理解することは両立可能だ、と。「面白い」と言ったら語弊があるかもしれませんが、やはり面白い。
「?」の人は理科の授業を思い出しましょう。生米のデンプンはβデンプンでそのままでは人は消化吸収が困難です。しかし加熱するとβデンプンがアルファ化されて消化吸収しやすくなります。で、炊いたご飯を乾燥させた糒(ほしいい)が古来そのまま囓れる保存食・携行食として使われていました。アルファ米はその糒の現代版です。ご飯を乾燥させたものが一食分くらいずつ袋に密閉されており、お湯を注げば20〜30分・水でも1時間くらいでご飯に戻ります。電子レンジだったら3分です。
たまたまアルファ米のちらし寿司をもらったので食べてみましたが、味は……子ども時代に食べたアルファ米よりは確かに美味しくなっていますが、喜んで買いたいとも思いません。よくよく見ると商品には「業務用なので一般には小売りしていません」とあります。業務用? なるほど、防災用品としてとか、あとは自衛隊の携行食かな。私が次回こんな製品にお目にかかるとしたら、地震などの後かも。その時には感謝しながら頂きます。
【ただいま読書中】
『
夏の王 』O・R・メリング 著、 井辻朱美 訳、 講談社、2001年、1500円(税別)
本書の献辞は「わが愛するフィンダファーに──感謝をこめて 母より」。著者は愛娘をフィンダファー(一昨日の日記に書いた『妖精王の月』の主要登場人物)と名付けているんですね。
双子の姉妹、オナーとローレル。ことばや考えることが好きなオナー。体を動かすことが好きなローレル。合わせて完全な二人。でも……祖父母が住むアイルランドに二人で訪れた昨夏、オナーは事故で亡くなりました。日記に謎めいた記述を残して。そこに書かれているのは……カナダの少女、七者、そしてミディールという名前。そう、本書は『妖精王の月』の後日譚なのです。
オナーは妖精のために「使命」を果たすはずでした。しかしそれを果たす前に命を落としたため、この世と妖精国の間で宙ぶらりんとなっています。ローレルがかわりにそれを行えば、またオナーに会えるかもしれないと妖精によって告げられます。ローレルは言下に承諾します。その使命とは、妖精たちにとって特別な夜「夏至祭」に最初の火を灯す「夏の王」を探し出すことでした。夏至祭まではあと1週間。ローレルの“アイルランドの旅”が始まります。列車で相客になったのは「おばば」(『妖精王の月』の登場人物です)。幸運な出だしのようですが、なぜか妨害をするために妖精が襲撃してきます。味方の側の妖精からの助力はなく、ローレルは人間や妖精よりも古い種族ライーンに出会います。ライーンは夏の王に妻を殺されていましたが、それでもアイルランドと妖精国が引き裂かれるのを防ぐため、ローレルに協力を申し出ます。
話の途中で夏の王がどこにいるのか実は誰なのかは読者には簡単にわかります。しかし、ローレルはそれに気づかず(認めず)、為すべき事を為し辿るべき道を辿らなければなりません。そして、人と妖精は取り替えられ、敵は味方になり、双子は揃わず、妖精たちは分裂し、不思議な島が見える人と見えない人があり、女船長は過去の人であると同時に現代の人であり、夏の王によってかがり火が灯されなければならないのに夏の王はそれよりも戦いを選び、妖精の国を助けるための戦いなのに妖精たちは戦いを静観し、人は大きな何かの一部であり同時に人の中に様々な何かの一部があり……まるで良く磨かれたコインが吊されて「表」と「裏」がくるくると回っているかのように、話はまばゆく輝きながら進行していきます。ローレルが一歩“ゴール”に近づくたびに“ゴール”の姿はきらきら煌めきながら揺らぎ変貌します。美しい夢は容易に悪夢にすり替わるのです。そして、またもや悲しい戦いが行われ、ローレルが最後に見た「白い貴婦人」の顔は……最後が「夢オチ」でなくて良かったと心から思います。
本書には特に私の心に残ることばがあります。「笑うのは恥ずかしいことじゃないさ。悲しみも恥ずべきことじゃない。笑いながら悲しむのも、恥ずべきことじゃない」……そして「傷ついた女王が王を救う」のです。1年間も全然笑みを浮かべられなかった女王が、その傷の大きさと深さにもかかわらず。『妖精王の月』を読んだときにも思いましたが、これらの本が児童書の棚にあるのは、何か間違っているような気がします。いや、ひたすらふわふわした砂糖菓子のようなファンタジーではなくてこんなずっしりした甘さも苦みも効いた本を子どもたちが読むことには大賛成なのですが。
サッカーのサンフレッチェ:J1からJ2に降格。
野球のカープ:エースピッチャーの黒田と4番バッターの新井がFAで流出。
【ただいま読書中】
『
詩集 十八歳 』谷川俊太郎 著、 沢野ひとし 絵、東京書籍、1993年、1262円(税別)
著者が若いとき(タイトルからすると18歳の時? 各詩につけられた日付は1949年から1950年となっています)に毎日のように書いていた詩から、『二十億光年の孤独』に収めたものを除いた大部分が収載された詩集です。詩人としての著者の原点ということなのでしょうか。
一読、朗々と吟じるよりも、黙読するのに向いた詩が並んでいます。内省的で少し硬いことばが目立ちますが、文学青年(少年?)にありがちな青臭さはありません。詩人の魂はすでに発動していたということでしょう。
当然ですが、若さがあります。たとえば幼年時代を遠いものとしてみるところ。私も青年期には、自分の成長によって幼年時代がぐんぐん遠ざかっていくものと感じていましたしそれが喜びでした。だけど今の初老期には、幼年時代が常に自分のとなりにいたことがわかります。おそらく私が死ぬ日まで私の幼年時代は私に寄り添っていてくれることでしょう。それを大事に生きていこうと思えること、それが青年期との違いかな(少なくとも私個人の話です)。
子どもがある程度大きくなったとき、「この子は、新幹線も飛行機も乗っているのに、普通列車に乗ったことがない」と気づきました。自分のことを思い出して、ちょっとショックでした。私の場合、100キロくらいだと普通列車(当時はディーゼル)が当たり前、それ以上になると急行や特急で、新幹線に初めて乗ったのは中学の修学旅行のとき、飛行機は就職してからだったのですから。
順番が変だと思いながら、機会があったので普通に乗せましたが、ボックス席ではなくてロングシートでは「旅」をしている雰囲気ではありませんね(駅弁も食べにくいではありませんか、というか、ホームで駅弁を売っている駅の少ないこと)。時代が変わるとはこういうことなんですね。
【ただいま読書中】
『
青春18きっぷ旅行術 』松尾定行 著、 JTB(マイロネBOOKS)、2002年、1000円(税別)
昨日の読書日記から偶然「18」つながりですね。本書は青春18切符初心者のための本だそうです。
「大垣夜行」で本書は始まります。懐かしいなあ。今は「ムーンライトながら」という名前がついてしかも全席指定になっているんですね。オンシーズンの切符は「プラチナチケット」と呼ばれて入手困難だそうです。特にコミケと重なると大変だそうで。今から30年前には、そんなに人気が出るとは思いませんでした。真夜中前の東京発の快速電車に乗って、酔っぱらったサラリーマンに囲まれてぐーっと寝て目が覚めたら名古屋近くでこんどは登校途中の学生がいっぱい回りにいて「最終に乗ったらいつのまにか始発に化けた」と思った記憶が残っています。
青春18切符は、5枚綴りで1枚(1日分)が2300円。「青春」とあるけれど、別に年齢制限はありません(子ども料金もありません)。これでその日のJR普通と快速には無制限に乗れます。さて、どこまで行けるでしょうか。朝1番で東京駅を西に出発すると、23時30分に山口県小郡(今の新山口駅)に到着できます。上野から北へなら、青森まで。一日中普通電車のシートに座って(あるいは立って)乗り換え乗り換え乗り換えの連続ですけれど。逆に「どこまで乗れば“モト”が取れるのか」も著者は計算してくれます。東京発なら、東海道本線の吉原、中央本線の塩崎、上越線の岩本、東北本線の矢板、常磐線の大甕(おおみか)、内房線の千歳、まで乗れば普通に乗車券を買うより得になります。距離にしておおむね150キロ、乗車時間は2〜3時間といったところです。新幹線を使わなければならないような急ぐ旅でなければ、ちょっとこの切符を使うことを考えても良いでしょう。著者は楽しそうに「東京=京都、青春18切符の旅」のモデルプランを提示します。東海道をぶらぶらと途中下車をしながら10時間、朝出発して夕方には到着です。
さらに、いかに切符で“得”をしても他のことで浪費をしたのではあまり意味がありません。著者は宿泊も安いところで、と主張します。公共の宿とか駅前旅館とか。ひどいところでダニに食われても、それもまた思い出、と著者は言います。まるで奥の細道ですね。
もちろん日帰りで活用する手もあります。一番効率的なのは、5人グループで片道70〜80キロ以上の日帰り旅行にこの切符を使うことです。
一人でのんびり長旅も良いですし、グループでわいわいも楽しそう。久しぶりにこちらも「移動」ではなくて「旅」をしたくなってしまいました。
民主主義の理念と縦割り行政の組織は、相性が悪いでしょう。なるべく多くの人の意見をまずは広く聞いてから集約しようとする態度と、自分の省益だけを最大限にするために努力する態度と、だもの。
【ただいま読書中】
著者の父親は、日系二世としてアメリカで生活していて、1942年家族ごと日系人集団強制収容所(キャンプ)に送られ、1945年にそこからさらに単身司法省の抑留所(ノース・ダコタ州ビスマーク)に収容されました。本書は、証言による「歴史」の研究であると同時に、著者個人の“ルーツ”に関する記述でもあります。
アメリカは、民主主義ではなくて人種主義の国、と著者は述べます。人種差別が横行し“正しい声”ではなくて“大きい声”が幅を利かす、と。その歪みが極端な形で出たのが日系人の集団強制収容でした。米本土の日系人の90%、約11万人が合衆国憲法と法律に違反して強制収容されたのです。
東洋人排斥は1884年中国人排斥法以前からのアメリカの“伝統”でした。そしてターゲットが日本人となってから……1893年サンフランシスコ教育委員会の日本人入学拒否、1900年太平洋労働同盟の日本人労働者排斥決議、1913年カリフォルニア州排日土地法(日本人に土地の所有を認めない)、1924年排日移民法……アメリカ西海岸には、ずるくて何を考えているのか分からない劣等黄色人種というイメージが定着しますが、著者はそれには一世の、ハワイとは違って孤立しがちだった態度にも責任の一端があると考えています。
1942年はじめ、大統領令9066によって日系人はほぼ全財産を放棄させられて強制収容をされます。まずは競馬場などを改造した集合所へ(映画「マーシャル・ロー」だったか、イスラム系の人が競技場に強制収容される場面がありますが、あれは“実話”だったのです)。そこから砂漠の中の収容所に日系人は移されますが、二世部隊への志願やアメリカへの忠誠を誓うことで収容所から約半数が出て行きます。
戦後日系人は全米に散ります。西海岸は反日感情が高いため、“ふるさと”を捨てて東部に住む人も多くいましたし、数%は日本に“帰”りました。
収容所での生活は、人類学者・社会心理学者には絶好のフィールドでした。『菊と刀』(ルース・ベネディクト)もその“成果”の一つです。
非合法な収容所の中にさらに非合法な施設が作られました。「忠誠」を誓わない人たち(主に15〜17歳の少年たち)を選別して閉じ込める獄舎ですが、そこは「ブルペン(牛小屋)」と呼ばれ当局は獄舎であるとは認めませんでした(「ブルペン」だから「獄舎」ではない、という論法です)。そこでは殴るのに使われた野球のバットが折れるほどの拷問も行われています。
一世はナショナリズムの強かった日本を祖国とし、異国で生活することと子どもの教育に熱心でした。二世は、偏見との戦いと二つの国(文化)を母体とすることによる“アメリカ人”としての誇りを持ちます。三世は、高度に成長した日本と“弱体化する(病める)”アメリカを祖父母とは違った目で見るようになり、人種差別に対しても「日米」だけではなくて「世界」を視野に入れて行動するようになります。
アイデンティティ・シフトと言えば、日本人も戦前と戦後で大きなシフトがありました。ただ、戦前生まれが日系一世・団塊の世代が日系三世に相当すると考えると、「二世」(戦うことで自らのアイデンティティを獲得した)がいません。だから日本の民主主義は“弱い”のかなあ。
私が馬刺しを初めて食べたのは、山梨でした。肉の赤みに独特の風味を感じて美味いなあと素直に思いました。熊本で食べたときには店の人が「これは冷凍じゃないから」とずいぶん力を入れて宣伝してくれましたが、その時にはそれほど美味いとは感じませんでした。
で、今年の一連の食品偽装を締めくくるかのように「霜降り馬刺し」の偽装ですか。工場で肉に脂身を注入した加工霜降りを天然物として高く売っていた……漫画の「庖丁人味平」だったか「ミスター味っ子」だったか忘れましたが、安い肉を霜降り風にするために肉に細かい切れ目を入れてそこに脂身の破片をたくさん差し込むという“加工”をしてみせるシーンがありましたが、現実は漫画より奇なり、なんですね。
しかし、「馬の霜降り」に大きな違和感を感じるのですが、私の感覚は変ですか? 馬の肉の内部に脂肪がたっぷりつくのはつまりは運動不足ということではないかと感じるのですが、運動不足の馬って、美味いのかな?(はい、ただのダジャレです)。それとも馬が牧場を走り回っていても脂が自然に入り込む筋肉部位があるということなのかしら。
以前から日本の「霜降り信仰」になにか不健康なにおいを感じているものですから、ちょっと気になっただけですけれど。
http://sakurago.jf.land.to/index.htm#toku
このページでは、馬の脂身を「赤身とセットで食べればまさに霜降り特上馬刺し」と宣伝しています。なるほど「口の中で混ぜれば一緒」ですね。何よりお安いし。
【ただいま読書中】
『
ハチミツの話 』原淳 著、 六興出版、1988年、1200円
働き蜂の寿命は30〜40日。はじめの10日くらいは巣箱の中で、あとは外でお仕事をします。外では一回に300〜600の花を訪れて、体重の半分〜ほぼ同じ重量の花蜜を体内の蜜胃に貯め、さらに足には体重の半分以上の重さの花粉団子をくっつけて、時速24キロですっ飛ぶます。では中では何をするか。ローヤルゼリーを分泌して女王蜂や幼虫に食べさせたりの育児や巣作り、そしてハチミツ作りです。外勤の蜂から受け取った花蜜を、蜜胃の中の酵素で(二糖の蔗糖を単糖のブドウ糖と果糖に)分解し、また、大顎と舌の間で伸ばして水分を飛ばします(含水率を50%から20%にまで濃縮します)。
女王蜂は「王台」という巣室に生み付けられた卵から生まれます。特別なのは卵ではなくて巣室の方です。で、育児係の蜂が他の幼虫よりたくさんローヤルゼリーを食べさせます。その結果が立派な産卵マシーンのできあがり(一年で20万個も産卵します)。結婚飛行では、アタックしてきた雄蜂から交尾して精子嚢を引きちぎります(雄はそのまま墜落死)。数回の交尾で700万個ほどの精子を得たら、それを貯精嚢に貯め込んでちびちび使いながら2〜4年ひたすら産卵し続けます。産むのが受精卵だったら雌・未受精卵なら雄になるので、巣室に合わせて一つ一つ受精させるかどうかコントロールします。驚くべきバースコントロールです。
……なんだか、“ローヤル”ゼリーというと有り難そうな響きがありますが、20万個蜂の卵を産むようになる蜂の成長ホルモン兼性ホルモン含有物質がそんなに羨ましい人間がいるというのも、不思議です。
蜂の数が増えすぎると巣分かれが行われます。娘女王蜂がそろそろ羽化する時期を見計らって、母親が働き蜂の6割くらいを引きつれて旅立ちます。蜂が集団で飛び、枝にとまるときには球状になる(蜂球)ので人は驚き騒ぎますが、旅立ちの前に蜂はたっぷり蜜を飲んでいるし人にかまうような余裕はありませんから騒ぐ必要も恐れる必要もありません。
ちなみに、日本で養蜂されているのはセイヨウミツバチです。ニホンミツバチは飼育には向いていなくてほとんどが野生のままです。
本書には蜂屋の仕事が具体的に書かれています。巣箱の重さはひとつ50〜60キログラム。蜂屋はそれを軽々と扱います。蜜が貯まったかどうかも巣箱をひょいと持ち上げてその重みの変化で判断します。ある程度たまったら、巣板を外して遠心分離器へ。ミツバチからの“搾取”ですね。なお、女王蜂さえ無事なら、どの巣板をどの巣箱に戻しても問題はないそうです。
蜂屋は大体桜前線に少し遅れて北上するそうですが、本書では、鹿児島のレンゲがすんだら一挙に青森のリンゴまで2000キロを30時間で一気に移動しています。途中で蜂が騒いで巣箱の温度が上がったら蒸殺によって全滅ですから、気が抜けない旅です。移動してもそこで期待通りの花が咲かなければ蜂蜜は得られません。巣箱を襲う熊やスズメバチを警戒し、冬になったら砂糖を溶かした餌を蜂に与えて春を待ちます(餌を作るために五右衛門風呂でお湯を沸かし、それを電気洗濯機に砂糖とぶちこんでかきまわすのです)。自然を相手の厳しい商売です。
蜂蜜に関する雑学も満載です。
人は昔から蜂蜜を食べています。8000年前のスペインの洞窟壁画にも、梯子を使って蜂蜜を採集している人の姿が描かれています。養蜂が始まったのは紀元前5000年くらいのようです。ただし、ミツバチを殺さずに蜜だけを奪う近代養蜂が始まったのは19世紀半ばからでした。また、欧米では転地しない定地養蜂が主流です。蜜の品質は安定しませんが、コストはとても安くなります。蜂蜜酒の作り方も載ってます。世界各地での蜂蜜を使った料理やお菓子、薬としての用法、防腐剤としての使い方、はては武器。……武器?
コワイ話もあります。ボツリヌス菌です。これは嫌気性菌で蜂蜜の中でも平気で生きています。蜂蜜の5%にこの菌がいて、1歳未満の人は腸内細菌などでの防御が働きにくい……ということで「乳児には蜂蜜を食べさせるな」となるわけです。「文脈を読まずに一つの単語だけに反応する人」がここでも大騒ぎをしたらしく(「蜂蜜はアブナイ!」「食べてはいけない!」)、著者は「ちゃんと全部聞いてよ」と言いたそうです。
最後は地球環境から化粧品にまで話が及びます。ハチミツのように粘っこくて、いろんな物を含んでいる本です。
西の人間にとって、たとえば北関東三県の名前と位置関係を正しく言うのはけっこう難題だったりします。でもそれは西の人間が無知なわけではなくて、逆に関東の人間にとっては中国五県(特に鳥取と島根の関係)が難題だったり。
で、北海道の支庁の名前と位置についてはまるっきり無知な点で両者は“対等”だったりするのです。
【ただいま読書中】
『
写真ノ中ノ空 』谷川俊太郎 詩、 荒木経惟 写真、タカハシデザイン室 ブックデザイン、株式会社アートン、2006年、1600円(税別)
ちょっと変わった構成です。本を開くと90度捻らないといけません。ページが左右ではなくて上下になりますが、上のページに詩・下のページに写真、で始まります。そのうち上下が入れ替わって写真が上になったり、全面写真になったりあるいは全面詩になったり、空白のページがはさまったり、時には写真がカラーになったり……「本書を読む行為」そのものが、詩を一行ずつ読み段落で途切れて立ち止まる行為をなぞっているかのようです。そう、本書は正しく一冊でまるごと“詩”集なのです。
もちろん「詩」はすべて「空」の詩、「写真」はすべて「空」の写真です。
「空の写真」とはいっても、雲一つ無い青空を白黒で撮影したらわけが分かりません。だから本書に写っている「空」は「雲」だったり、電柱や木々のてっぺんだったりします。ただ、風景写真では「人」がいるかいないかで写真のインパクトが違うことがありますが、空の写真ではさすがに人を撮しこむことは困難だったようですね。
私が好きな詩「かなしみ」も載っています。
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい
この前半部分だけで私は一度本を閉じます。空を見上げ、遠い目になります。そういえば、カメラを持っていないときに限って良い雲が浮かんでいるのを発見して惜しいなあと思っていたのは何年前のことでしたっけ。今はカメラ付きの携帯を持ち歩いているからいつでも写真は撮れるはずなのに、逆に「良い空」には出会えなくなりました。私も何かを空のどこかに落っことしてしまったのかもしれません。
毎日せっせとmixi日記を書いているのに、なぜか書きたいものがどんどん貯まってきます。これはたまらんとある特殊領域のものはブログに書いて“消費”することにしました。すると面白いのです。まだブログ初心者なので偉そうなことは言えませんが、あれだけブログが流行るわけが分かるような気がちょっとしました。たとえばアクセス数の多さ。mixiでは私の日記へのアクセスは大体1日で50くらいです。ところがブログでは最初から1本のエントリーで150アクセスくらい来ます。2本投稿したら300以上。コメントはmixiの方が見やすいけれど、トラックバックをもらうと妙に緊張します。
なんだか面白いので、もう一つブログを始めたくなりました。と言っても、さすがにもうネタがありませんから、mixi日記とほぼ同じものをこんどはためしにココログに載せてみることにしました。まったく、何をやってるんだか。さて、なにか反応がありますやら。(ここを読んでいる人は見なくて良いです。ほぼ同じ内容ですから)
【ただいま読書中】
『
歌う石 』O・R・メリング 著、 井辻朱美 訳、 講談社、1995年、1456円(税別)
前書きを読んで、紀元前1500年頃青銅器時代のアイルランドが舞台……と思ったら、まず登場するのは現代アメリカの少女ケイです。捨て子で、奇妙な夢や幻視をよく体験するせいか家族も友達もなく、独学で古アイルランドを身につけた彼女は、「歌う石」を求めてアメリカからアイルランドに渡ります。幻視に導かれるように巨石遺跡をくぐったケイは、古代アイルランドで伝説のトゥアハ・デ・ダナーン族の少女アエーンと出会います。アエーンは記憶を失っていました。「過去」を持たない少女二人は自らの謎を解くために、まずは失われたダナーン族の古の四つの宝を探求する旅に出発します。迫り来る侵略からダナーン族を守るためと思っていたのに、その旅の途中で二人は「侵略」の裏の事情を知り、悩むことになります。特にアエーンは敵の王子と恋仲になってしまい、悩みは倍増なのです。
アイルランドを行ったり来たり、二人の探求の旅は続きます。それは運命に抗うと同時に運命を受け入れる、あるいは運命を受け入れさせるための旅でした。
「巨大な運命の力に翻弄される人間」と簡単に書くと、まるで選択肢がほとんど無い出来の悪いロール・プレイング・ゲームのようですが、本書ではそんなことはありません。登場人物は運命にふり回されているだけではなくて、悩み選択し自分なりに生きるための強さを保とうとします。そのひたむきな努力と「強さ」が読者に感銘を与えます。物語に現れる運命の急上昇や急降下での“スリル”を楽しめばよい、というものではないのです。
やがて、アエーンの“正体”が明らかになります。なぜ彼女の心がバラバラになり過去が失われてしまったのか。そしてアエーンは自らの脚で走り出します。自分の命と未来を賭けて、種族の未来を賭けて。自分以外の種族の未来も、賭けて。
ついに侵略が始まります。ダナーン族は手を取り合い、魔法の歌を歌い始めます。美しいシーンです。そしてまるで『指輪物語』のような西方への船出もあります。壮大なファンタジーが紡がれます。
探索の旅がついに終わったとき、ケイは尋ねます。「私はだれです」と。その答は……
かつて戦国時代を表現するのに多用されたことばですが、今はそれほど好まれないようですね。なぜだろう。群雄割拠の方が恰好良い?
【ただいま読書中】
『織田 vs 毛利 ──鳥取をめぐる攻防』(鳥取県史ブックレット 1)
鳥取県総務部総務課県史編さん室 編、鳥取県、2007年、500円
戦国時代末期は、各地の地域国家の戦国大名と、「天下」を目指す織田信長・豊臣秀吉との争いの時代です。16世紀後半の中国地方は毛利氏の支配下にありました。1577年(天正五年)羽柴秀吉を総大将とする織田軍が毛利氏への攻撃を開始します。各地で激しい戦いが繰り広げられ、山陰地方最大規模の攻防戦が、鳥取城をめぐる戦いでした。本書では、旧来の「因幡民談記」「陰徳太平記」「絵本太平記」などの江戸時代の文献をもとに描かれることが多い鳥取城の戦いを、一次資料を基に描き直したものだそうです。
因幡・伯耆はもともと山名氏が守護に任じられ守護代として様々な国人が国を支配していましたが、応仁の乱以後大規模な乱が起きます。それに乗じたのが出雲の尼子氏でした。16世紀初頭に西伯耆に進出し世紀半ばには伯耆を制圧、因幡に手を伸ばします。それに対して山名氏の権益を守るために但馬の山名祐豊が因幡に進出。毛利元就は1557年大内氏を滅ぼして周防・長門を手に入れ、1562年に出雲に進出します。1566年尼子義久が降伏、尼子勝久が尼子再興の兵を挙げますが(山中鹿之助の「我に七難八苦を与えたまえ」はこの時期でしたっけ?)、1567年元就の次男吉川元春を中心に毛利氏の山陰支配は固まります。
信長の上洛は1568年。はじめは毛利と織田の関係は友好的でしたが、将軍義昭が信長と不和になって毛利を頼ってから、仲が険悪になります。1577年羽柴秀吉は信長の命で中国攻略を開始。但馬の山名氏を攻めて、尼子勝久を播磨上月城に置き中国進軍の先兵とします。
ところが毛利も播磨に進出、尼子勝久を殺します。しかし備前の諸将が相次いで織田方に寝返り、毛利がその対応に忙しくしている間に播磨一国は秀吉によって平定されます。次の戦いの焦点は但馬です。どちらが国人を掌握するか、の競争が激しく行われ、有力武将が次々織田方について戦況が不利となった毛利は、戦力を山陽に集中させることにします。結果、山陰で毛利と結んでいた山名一族は孤立し、秀吉軍の攻撃を受けることになりました。山名氏を滅ぼした秀吉はついに1580年因幡を攻めます。各地の城は落ち、鳥取城は孤立し、ついに降伏します。しかし吉川元春が巻き返し、ついに毛利方が鳥取城を奪還、吉川経家が1581年城主として入ります。しかし問題は深刻な兵糧不足でした。秀吉軍の侵攻と田畑の荒廃で兵糧がないのです。そこに秀吉軍の二度目の来寇が。秀吉は鳥取城を厳重に包囲し籠城戦に持ち込みます。因幡国内はほとんど押さえてあり、さらに海上ルートは封鎖され、隣接した国外でも宇喜多・南条などの有力武将が織田方についているため毛利の援軍の到着は困難な状況だったのです。雪が降るまで粘れば包囲軍は引き上げるとの目算による籠城でしたが、鳥取城内では餓死者が出る悲惨な状況となり、10月に吉川経家は降伏します。自分の自刃とひきかえに城兵たちの助命を申し出たのでした。翌年秀吉は備中高松城を包囲、水攻めとします。毛利輝元は和睦を決意しますが秀吉の要求は、伯耆・出雲・美作・備中・備後の割譲と城主清水宗治の切腹。交渉は難航しますがそこに本能寺の変の知らせが。秀吉は要求を伯耆・備中の半国割譲に値下げしてさっさと交渉をまとめて京都にとって返します。交渉上手ですし、その後の織田家中のどさくさに紛れて毛利が盛り返しても「交渉がまとまっていたはずだ」と言い立ててちゃんと新しい境界を尊重させています。
その後も因幡・伯耆の支配者は次々変わります。今の「鳥取藩」が始まったのは、1617年、姫路城主池田光政が因幡・伯耆に移封されてからのことです。
鳥取城の戦いは、単なる城攻めではありません。何年も前から準備し、各地に味方を配置し、最後の最後に“シンボル”としての城を落としているように見えます。しかし、秀吉は一気の決戦を企み、それを信長が「のんびり大事にミスの無いようにやれ」と諭していたとは、ちょっと意外でした。
……しかし今日の読書日記、漢字が多いですねえ。遠くから見たら画面が真っ黒。
私は何かを頑なに信じている人の信条は尊重しますが、ついツッコミを入れたくなる悪い癖を持っています。
で、世の中には、宗教ではなくて科学を盲信する人もいるわけです。口では「宗教のような非科学的なものを信じるとは」と言っているけれど、その態度はまるで科学を「神」の座に置いたような。この世で最上のものは科学であるそれ以外はゴミだ、と言いたそうな。
そんな人にはこんなツッコミを入れたくなります。「あなたの結婚は科学的なもの? あなたの友情も科学的に育んだものなの?」 非科学的な怒りをかいそうなので怖くてなかなか聞けませんけどね。
【ただいま読書中】
構造主義も科学論も好きなので思わず手に取ってしまいましたが、はて、そんな読者はどのくらいいるんだろうか、とちょっと(ちょっとだけ)自問。
ポパーとウィトゲンシュタインで話が始まります。妥当でしょうね。科学が宗教・哲学・迷信とどこが違うかを明確にするには、扱う対象や態度ではなくて「手続き」(反証可能性)によるべきだ、とするポパーの態度は、私には元師匠だったアドラーに対する反発が強すぎるような気がするのですが、少なくともその態度はわかりやすいものですから。
唯名論(名称が個物を含む)と実念論(まず存在するのは個物)に次いで、私が好きなソシュールが登場。ソシュールの思想とデカルトの図式に従うと、確実に存在するのは「私」「観念(ことば)」「現象」の三つだけと著者は主張します。人が目撃する現象を記述すると、現象は概念になります。概念はどこに存在するのか、それが客観的に正しい根拠はどこに求めればいいのか……
「客観」について、カント・ヘーゲル・フッサールに寄った後、著者は「科学とは現象(見えるもの)を構造(見えない同一性)によってコードしつくそうとする(言い当てようとする)営為」であると断言します。科学理論とは「構造」です。理論(構造)は外部ではなくて私たちの頭の中にあるため、著者の科学論では外部世界の実在性を仮定する必要がありません。(ここまできたら、私は当然「唯識」を想起しますが、本書では完全に無視されてます。思想は西洋出身じゃないと駄目?) 我々が目撃する「現象」は時間を含み「変なるもの」です。しかし「同一性」は時間を含みません。この両者を結びつけることはそのまま矛盾を生起します。ではどうするか……プラトンの「イデア」、アリストテレスの「四因」、過去に様々な人が様々な回答を与えていますが……著者は「構造が時間を生めばいいのだ」と軽く言います。(この「時間」へのこだわりを見ていると、ホーキングの虚時間に連想が飛びます)
「人が世界を認識すること」を、噛んで含めるようにわかりやすく説いた本です。ただ、わかりやすいとは言っても、ソシュールとアリストテレスの入門書くらいは読んでおかないとつらいかもしれません。「エライ哲学者」の名前は出てきますが、その権威に頼らず、自らの見解を堂々と(しかもわかりやすく)述べてあり、私は好感を持ちます。論理展開にスジも通っているようです。特に「科学」だけではなくて「科学史」を構造主義科学論の手法そのものを使って解釈しているのには、読んでいて気持ちよく笑ってしまいます。
物理学(および物理学史)に次いで著者の“本業”生物学も取りあげられます。たとえば「メンデルが行ったのはコード化である」と言われたら納得です。「進化論は、進化を説明するのではなくて、生命の多様性を説明するための理論である」と言われたら、これも納得。
「何が問題か」をちゃんと意識することの重要性を著者は何回も繰り返します。これも結局「記述しコード化する」ことですから、その重要性は当然なのですが、「自分が何を本当に問題にしているのか」を意識するのは人間には難しいんですよ。「構造」は自分の内部に存在するのに、自分の目で一番見えにくいのが自分自身なんですから。
そうそう、本書の手法に従えば、心理学も「科学」としての手続きが可能になります。というか、近代的心理学の祖フロイトは「科学」によって人の心を解析しようとしたんでしたね。「心」は(たぶん)人の中にあるもので、心の仕組みに関する理論も(宇宙のどこかや神の懐にあるのではなくて)人の心の中にあるものです。だから、自己言及性さえ上手に処理できれば、心の働くメカニズムについてコード化することは可能(なはず)です。
本書の最後に「人が科学理論を正しいものと信じる心的機構は、宗教を信じるようになる心的機構と同じ」とあります。びっくりする人も多いでしょうね。では、科学と宗教はどこが違うのか。それは科学の「形式」にあります(詳しくは本書をどーぞ)。さらに、「科学の真理性」を信じるな、と著者は主張します。では、何を根拠に何を信じるのか。科学理論の正当性に優先するものがこの世に存在することも示され、素直な読者は混乱します。
科学論・科学史論、そして社会に関するわかりやすい視点を提示している点で、良書です。
昔のダンプは、荷台の回りに板囲いをして縁を高くしてそこにこんもりと砂利を積んで走っていました。少しでもたくさん荷物を運ぶための“知恵”だったのでしょう。「過積載は禁止」とうるさく言われるようになってそういった姿は見なくなりましたが、先日目の前に小さなトラックでしっかり板をさしているのを見かけました。「朝から住宅地で何やってるんだろう」と思って角を曲がると、そこにも別のトラックが。なるほど、この地区は今日は資源ごみの日で、回収される前に業者がかっさらおうとしているんだな。
どこだったか、行政と業者がけんかしているところもありませんでしたっけ? 行政も資源ごみで少しでも利益を得ようとしているのに、それを「鳶に油揚げ」ではたまらない気持ちなのでしょう。
そういえば、昔はちり紙交換がよくやって来ましたねえ。民間業者に負けずに効率的に資源ごみを集めるために、あれを行政がやってくれないかなあ。
【ただいま読書中】
イタリア移民の孫ジョー・サレルノは厳しい躾を受けて育ち、サウス・フィラデルフィアで配管工となります。結婚後寂れたリゾート地アトランティック・シティに住みますが、その後1976年にカジノが公認され、同時に組織犯罪も活気づくことになりました。
フィラデルフィアは禁酒法時代以前はユダヤ・ギャングの縄張りでしたが、シチリアやカラブリアのマフィアが内部抗争を繰り返しながら勢力を伸ばしてきていました。1960年代〜70年代のフィラデルフィア・マフィアのボス、ブルーノは、暴力と麻薬を嫌いこじんまりとした組織運営をやっていましたが、発展するアトランティック・シティに膨大な利益の夢を見るギャングたちの目にそれは「時代遅れ」のものと映っていました。
カジノ建設を通して、ジョー・サレルノはマフィア一族とお近づきになります。はじめは“クリーン”な関係でしたが、やがてジョーの目前で殺人が行われ、ジョーは死体の始末を手伝わされます。「おまえはもう、おれたちの仲間だ」と言われながら。しかし、暗殺リストで次の順番になっていたのは、ジョー・サレルノ本人でした。
警察からそれを聞き、ジョーはすべてを供述する気になります。ただし、家族と本人の安全保障があれば、ですが。ジョーと一家は証人保護プログラムの適用を受けることになります。これは、犯罪組織にたてついて裁判で証言しようとする証人の安全を守るために、隠れ家と新しい身分を提供する制度で、1960年代はじめにロバート・ケネディ司法長官の努力で生まれました。担当するのは合衆国保安官局。彼らが受け入れるのは毎年500人くらいですが、ほとんどが犯罪者で、そのため担当者には抜きがたい偏見が生じていました。ジョーはそれを身をもって知ることになります。
一家がきわめて事務的に移された新しい土地での新しい生活(過去について口に出せず、友人や家族と連絡を取ってもいけない)、不慣れな仕事、妻とのトラブル、そして裁判。被告となって自分に復讐する決意に燃えているマフィアのボスたちの目の前で証言するだけでも苦痛なのに、弁護士の反対尋問によってジョーは、いつのまにか自分が殺人犯人のような印象を陪審員に与えることになってしまいます。評決は無罪。ジョーはマフィアの復讐を恐れ合衆国を逃げ回ることになります。もし見つかったら、20万ドルの賞金欲しさのヒットマンがやって来るのですから。保護プログラムで支給されるのは月に1200ドル。しかも規定に違反したら停止されます。生きるためには仕事が必要ですが、これまでの職歴や過去を明らかにせず裁判のたびに事情を明らかにせず長期欠勤する人間が定職に就くあるいはそれを維持するのは困難なのです。
フィラデルフィア・マフィアでは“戦争”が起きていました。内部抗争からの殺しの連鎖です。さらに“復讐”のため、ジョー・サレルノの父親が撃たれます。FBIはそれを「政府に対する挑戦」と取ります。“暗黒街のルール”が破られたのです。連邦検事はジョーに再度の証言を求めます。ジョーは逃げ、マフィアと警察の両方に追われることになります。この時までにジョーが受けた扱いを見ると、政府は実は「マフィアに対して敵対証言をする人間」を好ましく思っていないんだな、と感じます。マフィアに味方してがっぽり儲ける弁護士もいるし、証人をいじめて喜ぶ司法関係者もいる。「社会正義」って、何なんでしょう?
最初の裁判から10年後、マフィアのボスに対して「殺人」ではなくて「組織犯罪」の罪を問う裁判が始まります。証言を求められたジョーは証言台にふたたび立つことを決意します。何が彼にそう決意させたのか、そしてその結果は……
「ブリの旨味が染みこんだ大根が美味しい」なんてセリフが有名ですが、ということは、ブリはダシガラ? 私はブリの一番美味しい食べ方は照り焼きだと思っているから、こんなことを平気で言っているのかもしれませんけど。
【ただいま読書中】
『
サバの文化誌 』田村勇 著、 雄山閣、2002年、2200円(税別)
サバの食べ方はいろいろあります。刺身・しめサバ(東西でやり方が違うそうです)・船場汁・竜田揚げ・すき焼き・胡椒焼き・味噌煮・塩辛(内臓で作ります、魚肉で作る地方もあります)・缶詰(水煮)・焼きサバ・押しずし……相撲の「サバ折り」も、干したサバを焼いて食べるとき二つに折って食べたことからではないか、という説が紹介されています。サバは日本ではポピュラーな魚でした。若狭には「鯖街道」まであります(若狭から京まで十六里の街道)。
「サバ」が日本の文献に登場するのは『出雲風土記』秋鹿郡の項の「佐波」です。万葉集にもサバ漁の有様が詠まれているそうです。その語源にはいろいろな説があって、退屈しません。まずは「小さい歯」→「小歯(さば)」、次が群れを作って多いから古語の「サワ(多い)」→サバ、特徴的な背中の模様から「背斑(せまだら)」「背青斑(せあおは)」から……『日本国語大辞典』にはさらにひねった説もあるそうですが、ここでは省略します。
サバは信仰とも関係があります。西日本各地では中元に刺鯖(頭を取って背開きして塩漬けにしたものを二匹刺し合わせたもの)を贈る風習がありました。お盆に親の供養に供えるところもあります。本書ではこれが現在の「お中元」のルーツではないかと推定しています。神饌(神祇に供える飲食物)として鯖が各地で好まれたのは、魚体が大きくてきれいで塩で長持ちして崩れにくいことが重要だったのではないか、と著者は推定しています。神様もこの美味しい鯖が好きに違いない、という人間の思いが大きかったのではないか、が私の想像です。
日本は、サバの輸入国であり、かつ輸出国です。漁獲量は年によってムラがありますが、大体20〜70万トン。輸入はほとんどノルウェーからで年間10〜20万トンです。輸出しているのは缶詰です。年間数千トンをパブアニューギニア・インドネシア・チャド・ギリシャなどに輸出しています。そういえば、学生時代にはお世話になりましたっけ。安いしおかずにも酒の肴にもなりましたから。
サバは黒潮に乗って回遊しますが、例外的に一ヶ所に定着しているものもいます。有名なのが関サバです。海底に温泉が湧いていて動きたくないのかな? そういえば金色の筋が入っている美味いサバは『美味しんぼ』にも登場していましたっけ。
かつて鯖は「大衆魚の王様」と呼ばれていましたが、王様としての歴史は意外に浅いものです。しかも今はその座をサンマに奪われています。その歴史を述べたところで意外な知識を得ました。「メンタイ」です。戦争中、大衆魚の代表はスケトウダラ(スケソウダラ)でした。朝鮮半島でもタラは盛んに食べられていたのですが、その朝鮮での呼称「メンタイ」が日本にも入ってきたのです。ほとんどは「明太子」としての用法ですけれど。
赤ちゃんがなかなか寝つかない、とは言いますが、病気で寝つく、とは最近はあまり言わないように思います。
お見舞いの時に鉢植えの花を忌避する理由として「根が付いているから」とは言いますが「寝つく」を普段使わなければ無意味な理由ですよねえ。「私がもらうとしたら、切り花はすぐしおれるから生命力の点では鉢植えの方が励まされる」と言いたくなる私は、ただの天の邪鬼?(はい、そうです)
【ただいま読書中】
サントリーで缶コーヒー「BOSS」を開発した人の著作です。
著者は1981年にサントリーに入社、冷凍食品開発に携わります。与えられたテーマはビーフシチュー。ところが著者は大の肉嫌い。しかたないので「自分の好み」を優先しない商品開発(だって、自分の「好み」ではなくて「嫌い」なのですから)を行います。肉好きな人の好みを知り、官能試験を行って客観的なデータで回りを説得する作業です。結局サントリーが冷凍食品事業から手を引き、著者はこんどは缶コーヒー部門に配属です。当時サントリーには「WEST」というブランドがありました。ところがこれがぱっとしない。著者は新しいブランド立ち上げのための商品開発チームを立ち上げます。各部から人を集めブレーンストーミングですが、実はサントリーではこれは新しい試みでした。コンセプトをまずぎりぎりまで追い込みますが、これも今まで社内では初めて。今まではなんとなくターゲットを設定しなんとなく商品を開発していたのです。
新しいターゲットは「働く男」(缶コーヒーのヘビーユーザーは男だったのです)。長時間の労働の休憩時間に、ほっと一息つくための缶コーヒー、それがコンセプトとなります(今年の10月20日の読書日記『黄金のおにぎり』に書かれていたブランド戦略(ターゲットを絞り込め)と一致しますね)。素早く飲めるように量は少なめ、疲れを取るために甘さは控えめにしない。当時の風潮に逆行する商品コンセプトですが、ターゲットである客のためにはこうするしかない、と著者たちは自信を持って主張します。ネーミングについても、それまでは専門家がつけていましたが、今回は開発チームが頭を絞ります。コンセプトを本当に理解している人がそのコンセプトへの思いを込めたネームをつけようとするのです。かくして生まれた缶コーヒーブランドが「BOSS」でした。
バブルの時代には、缶コーヒーの売り上げは自動販売機の台数にほぼ比例していました。「商品の魅力」ではなくて「自動販売機の設置台数」が問題だったのです。しかし時代は変わります。著者は「コーヒーの質」を重視して新しいブランドを立ち上げました。そしてそれは同時にまた新しいスタートでもありました。「ブランドができたらおしまい」ではないのです。著者はそれを駅伝に例えます。
著者はコーヒー産地を訪れます。ブラジル、コロンビア、グアテマラ、メキシコ……大規模農園でのコーヒー豆の状態を著者は知ります。収穫が人手にせよ機械にせよ、ブラジルの大規模農園だと同じ熟し具合の豆を収穫するのは困難です。どうしてもバラツキが生じるのです。さらに脱穀の方法も、水洗式と自然乾燥方式とがありますが、ブラジルの自然乾燥式だと品質の不均一がそのまま残ってしまいます。それをブレンドするのがクラシフィカドールと呼ばれる人びとです。どんな豆が欲しいかは、クラシフィカドールにいかに正確に自分の要望を伝えられるかにかかっています。さらにコーヒー栽培に日系移民が多くかかわっていることを実見して、著者のモチベーションは上がります。コーヒー豆は単に「麻袋に詰められたただの食材」ではないのです。焙煎にもこだわったあげく、とうとうコーヒー豆焙煎のための子会社ができてしまいます。グアテマラのコーヒー豆を活かした新商品開発、香りを豆から取りだし缶に閉じ込めるための新しい抽出機開発などで著者は「職人」と出会います。
缶コーヒーを作るにはコミュニケーションが重要、というのが面白く読めました。開発チーム内でのコミュニケーション。コンセプトを理解してもらうため会社上部とのコミュニケーション。そして製品製造のためには工場とのコミュニケーションが重要です。さらには産地のクラシフィカドールとのコミュニケーション。製造過程の職人、そして何より重要なのがユーザーとの“コミュニケーション”です。一度ユーザーをつかんでも、ユーザーは変化するものですから、それを追い続けること、それがブランドを維持することなのでしょう。たかが缶コーヒー、されど缶コーヒー。私は缶コーヒーはあまり飲みませんが、こんどBOSSを飲んでみようかな。職場の自動販売機に入っていたかしら?
久しぶりに親の家に行ったら、パソコンがただの机の飾りになっているのを発見しました。ところがDVDプレイヤもないくせに昭和のDVD全集を買っていて「見たい」とひと言。はいはい、「パソコンで見られるよ」と、電源の入れ方から再伝授です。トレイを引き出して「はい、ここにDVDをセットして」……ケースから取り出す手つきがおぼつかなくて思わず手伝いたくなりますが、心を鬼にして(?)見守ります。「DVDムービーを開始する」ボタンを押して「ほら、自動的に始まったでしょ」……で良いはずなのに、音が出ません。あれれ? ケーブルの接続をチェック、コントロールパネルを開いてボリュームコントロールをチェック……どちらも問題ありません。よくよく見るとキーボードにボリュームコントロールがありますが、こちらも問題なし。一体何が起きたのでしょう? もう一回ディスプレイ回りをチェックして、消音ボタンを発見しました。それを押すとめでたく音が出始めて、めでたしめでたし。あとはソフトとパソコンの終了のしかたを教えて、解決……ではないでしょうね。一回では無理でしょうから、しばらく経ってからもう一度手順を確認する必要があるでしょう。
事情を聞くと、親父は使わないけれど甥が時々遊びに来てはゲームをするのに使っているのだそうです。きっと彼が音を消していたんだな。おっと、すると次回彼がゲームをしようとしたら突然音が出てびっくりするかも。ま、人生にたまにはサプライズも必要でしょう。
【ただいま読書中】
『
王子とこじき(上) 』マーク・トウェイン 著、 河田智雄 訳、 偕成社文庫3074、1979年(85年5刷)、450円
同じ日に生まれて見た目はそっくりな、どろぼうとこじきの両親の息子トムと王子エドワードの取り替え物語です。いくら16世紀のお話とは言っても、王子とこじきが服を替えただけで周囲にばれずに済むわけはない、と思っていたら、ちゃんと周到な“準備”が行われています。トムは貧民街で育ちますが、(不完全とはいえ)教育を受けています。王から貧民街に追放された神父(ということは、学がある人)から、ラテン語や礼法を習っているのです。さらにカリスマやリーダーシップがあって、子どもながら周囲の大人に指示をあたえることもできています。また、体の清潔のことにも気を配る子で、テムズ川に飛び込んでは泳ぐことで体をなるべくきれいにしているのです。……なるほど、これなら突然王宮に入っても王子の役が演じられる……とは思いませんが、そこで生じるトラブルが著者の腕の見せ所=“物語”になるのでしょう。
宮廷のトムは王の命令(トムが絶対逆らうことができないもの)によって、王子としての生活に励むことになります(王はトムではなくて実の息子に「ちゃんと王子として生活しろ」と言ったつもりだったんですけどね)。そかしそれは、トムが夢見ていた王子の贅沢三昧なだけの暮らしとは“一味”違う苦々しさがひそんでいます。周りの人間も、“王子”のあまりの変わりように驚きますが、各人それぞれ合理化をします。それはみごとに。病気だ、記憶喪失だ、気が狂ったのだ、本人が言うように他人が入れ替わったとしたいがあんなにうり二つの子がいるわけがない、入れ替わったのだとしたら王子になったら嬉しい貧乏人がわざわざ「自分は王子ではない」と言うわけがない……人は“真実”を嫌うものなんでしょうか。逃げられない籠の鳥となったトムは、ともかく勉強を始めます。しかし病弱な王は、立太子の儀式を始めます。トムが次期国王になってしまうのです。
貧民街でエドワードは、父親や群衆の手荒い歓迎を受けます。「自分は王子だ」と言うたびに何を馬鹿なことを言っているとぶん殴られます。そこに立太子の知らせが。ロンドン中は祝賀に沸き立ちますが、エドワードはトムに自分の地位を盗まれたと考え、復讐を誓います。浪士ヘンドンと出会ったエドワードは、貧民たちの生活を実際に体験します、というか、せざるを得ません。
王が死に、トムは最初の命令を出します。王の最後の命令、ノーフォーク卿に対する処刑命令の取り消しです。……ノーフォーク卿? そういえば王の娘にエリザベスとかメアリーがいます。おお、あの時代なのですね。次は不充分な証拠に基づく残虐な死刑の廃止。やっていることは立派で慈悲深い君主ではありませんか。著者がにやりと笑うのが見えるようです。
ということで、下巻に続く。
「できていない人間」に対して「できる人間」が「ほら、こうすればできるだろ」とアドバイスする図は納得できます。「できる人間」が「できてない」と指摘している図にはちょっと首を傾げてしまいます。わかっているのなら教えてやれよ、なのです(一から十まで懇切丁寧に教える必要はありませんが、手本を示す(論より証拠、背中で教える)とかヒントをやるとか、いろんな“育て方”はあるでしょう)。だけどだけど、「できていない人間」が他人に向かって「お前はできていない」とえらそうに“指摘”している図には、私は首を傾げすぎて天地が逆転しそうです。説教されている本人に成り代わって「じゃあ、お前がやってみろ」と言いたくなりますな。
【ただいま読書中】
『
王子とこじき(下) 』マーク・トウェイン 著、 河田智雄 訳、 偕成社文庫3075、1979年(82年2刷)、450円
下巻では、王宮のトムはあまり登場しません。もっぱらホームレスとなってイギリスをさ迷うエドワードに焦点が絞られます。いやあ、悲惨ですよ。エドワードが見るのは、微罪や不充分な証拠でむち打ちや死刑(それも絞首刑から釜ゆでや火あぶりまでメニューは豊富です)になる人びとの姿です。見るだけではなくて、エドワード(真実の皇太子〜新しい王)自身が囚われの身となって獄舎生活を経験させられます。当時の英国では、実に12ペンス以上の窃盗は、それだけで死刑だったのです。(江戸時代の日本は、たしか十両の窃盗で死罪、あるいは窃盗三回目でも死罪、でしたね)
彼の新しい保護者となったヘンドンは、小貴族でしたが外国で長く囚われていて、やっと脱出して自分の領地に帰るところでした。エドワードもそれに同行します。ところが歓迎されると思っていたヘンドンが発見したのは、自分は死んだことにされていて、領地も婚約者も“盗まれ”ていたことでした。正当な権利を言い立てるヘンドンは逆に詐欺師として逮捕されます。刑罰は恥辱刑である晒し者。縛って市中に晒して群衆のあざけりを受ける刑です。ところがそこにエドワードが「王の名においてこのようなことは許さぬ」などと口を挟むので事態はややこしくなります。王の名を騙るのは反逆罪なのです。子どもでも刑罰があります。むち打ちです。しかし、エドワードにとって「むち打ちを受けた王」というのはそれだけで屈辱です。そこにヘンドンが助け船を出します。
二人は“正義”を求めてロンドンに向かいます。しかし戴冠式を控えて大群衆でごった返した市街で、二人は離ればなれになってしまいます。
久しぶりにトムの登場。彼はすっかり王の役に馴染んでそれなりにそつなく“お仕事”をこなしていますが、それでも不安定な気持ちは隠せません。さらに、「権力者だからなんでも自分の思うようになる」と思っていたらどっこい、ちっとも思いが通らないので困っています。そしてついに戴冠式の日が来ます。このまま本当に戴冠を受けて王になってしまっても良いのか、トムの心は揺らぎます。そのとき目撃したのは……
本書が発表された当時、評価が二分されたというのが笑えます。著者を単なるユーモア作家と思っていた人は、本書の素晴らしさに感動し、逆にユーモアの“欠如”にがっかりして酷評した人もいたとのことです。う〜ん、ユーモアはたっぷり入っていると思うんですけどねえ、当時の読者は貧乏人の生活の悲惨さや刑罰の過酷さに目を奪われてしまったのかなあ。こんな面白い“お話”を楽しむのに、いろいろ理屈をこねなくても良いと私は単純に思うんですけどねえ。
ちなみに本書には挿し絵もたっぷり入っていますが、出版時のものを使っているそうです。なかなか古くさくて味があります。
私が小学校〜高等学校で一番時間を過ごしたのはもちろん教室ですが(まじめな生徒・学生だったのです)、次は図書室でしょう。小学校は“修業時代”ですから適当に読んでいましたが、中学では意志を持って主に小説を読んでいました。小説以外を真剣に読み始めたのは高校の図書室。たとえばブルーバックスや岩波新書やノンフィクションを貪り読みましたっけ。パラドックス・エントロピー・量子論・確率などのことばは(授業ではなくて)ブルーバックスで覚えました。もちろん小説も捨てたわけではなくて、平行して、エドガー・アラン・ポーや太宰治や高橋和己などの真面目な路線も片端から(文字通り書棚の端から反対の端を目指して一冊ずつ)読んでいました。(不真面目な路線? それは県立や市立図書館で間に合わせてました)
……なんだ、何でも読むのは今とあんまり変わってないじゃないの。まったく、私は成長のない奴です。
【ただいま読書中】
高校の時に読んでショックを受けた本(のうちの一冊)です。新装版になったそうですが、どこが変わったのかな?
1871年、イギリスのマックスウェルが『セオリー・オブ・ヒート』で、分子あるいは原子サイズの小人を想定しました。酒を水で薄めてしまったとき、瓶を壁で仕切ってそこに小窓を作ります。右からアルコール分子がやってきたら通し水分子だったら窓を閉める。左から水分子がやってきたら通しアルコールだったら窓を閉める。小人がそれだけの“仕事”をするだけで、あ〜ら不思議、左のお酒はどんどん濃縮され、右は純粋な水に近づいていきます。この常識(エントロピー)に逆らった存在が「マックスウェルの悪魔」と呼ばれました。
本書ではまずおもちゃの「水飲み鳥(平和鳥)」から話が始まり、永久機関について述べられます。目的はもちろん熱力学の第一法則(エネルギー保存則)の説明。ところがこれだけでは、我々の目の前で石が周囲の熱エネルギーを集めて位置エネルギーに変換する(=地面から空中に飛び上がる)現象がおきないわけや、ストーブにかけられたヤカンの水が凍りつかないわけが、説明できません。つまり、現象を説明するためには第一法則だけでは不充分なのです。そこでエネルギーの方向性に関する第二法則が必要になります。混ざったものは分離が困難なのですが、ところが第一法則とは違って「絶対不可能」とは言えません。「確率的に困難」なのです。そこにマックスウェルの悪魔がつけ込む隙があります。とはいえ、実際に分子サイズの弁を作ってそれをちゃんと機能させることは(現在の技術では)不可能です。残念。
私が今高校生だったら「マックスウェルの悪魔が電子を見ることができるか?」(量子論に従えば、電子は確率的な存在ですから)というツッコミを入れるかもしれません。あるいは、マックスウェルの悪魔が使うエネルギーはどこから得てそれで生じる熱エネルギーをどう処理するのか、とか。マックスウェルの悪魔を実在させるためにはどんな条件を満たせばよいかと真剣に考えていた昔の高校生の自分の方が、魅力的だな。残念。
私の人生のブンガクに関する何パーセントかは、教師によって決められています。高校一年の時「誰でも良いから好きな作家の本を何冊も読み込んでレポートを書け」と現国の教師に言われて「先生のお薦めの作家は?」と聞いたら返ってきた答が「安部公房」。知らない作家だったので読んでみたらめっぽう面白くて、結局当時入手できる全作品を読破した、は以前日記に書いたことがあるはずです。(レポートに何を書いたかは忘れました)
大学時代には教養課程の英語の授業でやはり同じような課題を出されました(夏休みの宿題だったかな)。そこで同じ質問。すると返ってきた答が「かーと・う゛ぉねがっと・じゅにあ、が面白いぞ」。はい、これもお初でした。丸善の洋書コーナーでペーパーバックをあさったら何冊かあったので早速購入。「
Cat's Cradle 」「
Welcome to the Monkey House 」とあと何だったかな。翻訳も買ってズルして楽しようかと思ったらまだ訳がほとんどない時代で、しかたなく辞書を片手にしこしこ読みましたっけ。レポートに何を書いたかは例によって忘れました。ただ、タイプライターでレポート作成が義務づけられていたので(教師が読みやすいレポートで楽しようということだったのでしょう)、タイプライターなんかそれまで触ったこともなかったのになぜか「ホームポジション」ということばと意味は知っていたおかげで、ぽちぽち練習しながら打っていたのがだんだん速く打てるようになりました。それがのちにパソコンのタッチタイピング(ローマ字入力)で役に立つことになるのですから、人生、何が有効になるか無駄になるかはわからないものです。
で、カート・ヴォネガット・ジュニアの方は、のちに翻訳が次々行われましたが、そのうちに名前からジュニアが消えました。まさか年を取ってシニアに育ったのかな。
【ただいま読書中】
『
青ひげ 』BLUEBEARD カート・ヴォネガット 著、 浅倉久志 訳、 早川書房、1989年、1700円
ジュニアが取れたカート・ヴォネガットの作品です。トルコでの虐殺を生き延びたアルメニア人のアメリカ移民の子ども、第二次世界大戦で傷痍軍人となった抽象画家ラボー・カラベキアンの(偽)自伝、ということになっています。もちろん、一癖も二癖もある“自伝”ですけれど。
ストーリー自体を紹介してもしかたないでしょう。第二次世界大戦とその前と後の時代をめぐるある種のホラ話です。ちょうど落語でトントンと扇子で床を叩いたら場面が転換されるように、次から次へと数段落ごとに場面が変わっていきます。各場面はつながっています。つながっていますが断絶もしています。あるキーワードでつながるのですが、そのキーワードが前後の場面で同じ意味を持っているとは限りません。ラボー・カラベキアンは己の人生を、時空間を自由自在に移動しながら語ります。カート・ヴォネガット節が全開です。使われる小道具は「絵」。画家を目指す少年。陸軍で将軍の肖像画を描いたり偽装(敵の空からの偵察で味方の部隊がばれないようにする)を専門にする部隊。画家として大成功しそして大失敗をする主人公。それにからむ、恐るべき人びと。恐るべき時代。ラボー・カラベキアンが持つ(そして使おうとしない)“才能”はスーパーリアリズムです。でかいキャンバスに描かれた「蠅の糞くらいの大きさ(小ささ)」の人間も、拡大鏡で見たらちゃんと誰かわかるように描いてあるのです。水滴が描いてあったら、その水滴の上にはそこに映る世界がそのまま描き込まれています。もう「なんて無茶苦茶な」と苦笑しながら読むしかありません。
そして本書には、常に死の影があります。すでに死んだ人のことを思い出すとき、強迫的なまでにラボー・カラベキアンは「(この人が)死ぬまでに○年」と書きます。あるいは彼がつき合う女性は(一部の例外はありますが)未亡人、または近い将来の未亡人です。
そしてラスト……おお、これは素直に感動できますぞ。カート・ヴォネガットの場合「素直」ということばが褒めことばになるかどうかは微妙ではありますが。未読の人は(本書でなくてもカート・ヴォネガットの作品ならどれでも)手に取ってみてください。決して大損はしないはずです(得もしないかもしれませんが、そのときは、ごめん)。
「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」ということばがありますが、どちらからも学ばない人は何と呼べばいい?
【ただいま読書中】
目次
「時代に呼ばれた男たち」 対談 早乙女貢・萩尾農
「織田勘十郎信行」 童門冬二
「傀儡政権足利義昭」 星亮一
「浅井長政」 新宮正春
「松永久秀 ──病」 萩尾農
「天涯一人 ──荒木村重」 火坂雅志
「信康事件の謎」 小林久三
「明智光秀」 南原幹夫
「その後の反逆 ──羽柴秀吉」萩尾農
織田信長に逆らった(殺そうとした)人間のリストは長大です。その最初は“身内”の織田信行と柴田勝家で、最後は明智光秀……が一般の認識ですが、本書では“その後”の反逆者として羽柴秀吉を上げています。なるほど。たしかにそうですね。
本書と同じテーマでは『反逆』(遠藤周作)という長編小説があります。あちらと違ってこちらはアンソロジーですが、テーマ性の統一も作品の出来もバラバラで、これなら遠藤周作を再読した方が良かったか、と思いました。
アイデアがちょっとキラリと光って見えたのは、「浅井長政」です。著者は織田信長・浅井長政両者がお互いを裏切り者と罵っているが、結局お市の急報(つまりは夫に対する裏切り)が戦局を決定づけた皮肉さを指摘しています。またお市の三女小督が家光を生むことで、結局浅井の血が徳川に伝わった歴史の皮肉も。
この世界に“脇役”や“どうでもよい登場人物”はいません。ただ、その時空間を「歴史」として切り取ったとき、それを切り取った人間やそれを読む人間が自分の視点から勝手な重みづけを行って「この人は歴史の主役」「こいつは脇役」としているだけです。歴史の脚注のような扱いの武将たちにも、それぞれの思いと守るべきものと人生があり、それが信長という強大な勢力と出会うことによって進路変更を強いられ、抗い・従い、あるいは一度は従っても反逆に踏み切ったりする「人生の決断」をすることになりました。
豊臣秀吉は人たらしの名人と呼ばれて、戦う敵の中に内応者を作るのが得意でした。だったらその逆もあって不思議ではないでしょう。さらに(信長に対する反逆者の多さを見ると)信長が部下にかけるプレッシャー自体が味方の反逆心を煽った可能性さえあります。でもまあ、そこまでプレッシャーを駆使するくらいのパワーを持っていないと、戦国時代を終わらせるという大事業は担当できなかったでしょうね。で、「仕事が済んだ奴」はさっさと捨てていた信長が、こんどは「仕事は済んだ」と時代から捨てられたわけです。なんとも皮肉ですな。
たまには贅沢をしよう、ということで、俗に言う「マルセイユ石鹸」を買いました。買ったのは主成分がオリーブオイルのでかい奴です。写真でわかるかな、一辺が8センチちょっとの立方体で重さが600グラムちょっと。不思議なことに、ビッグバーと呼ばれる2.5kgのものは1万円もするのに、それを4つに切り分けてその3つを箱に入れたものは5000円です。値段の計算が合いませんが(さらに今回はなぜか消費税分の値引きがありました)、ともかく私が買ったのは100グラムあたり280円くらい。我が家が普段食べる特売の牛肉くらいの値段です。牛肉とは違ってこちらの方は普通に使ったら1年は楽に保ちそうですから、贅沢と言っても長持ちのする贅沢です。
独特の緑色で、無香料なのに匂います。オリーブオイルと言うよりオリーブの実を煮詰めたのかと言いたくなるにおいです。泡立ちは良好。普通は石鹸をタオルに擦りつけますが、こいつはでかいから置いたままタオルを石鹸に擦りつけます。(大きすぎるのなら切れ、と切断用の釣り糸も同封されていましたが、でかい方が面白そうなのでブロックをそのまま風呂場に持ち込みました。石鹸受けからちょっとはみ出てますがなんとか乗っています)
今冬から妙に全身が痒くなって「今年は乾燥がひどいのか、それともこれは噂に聞く老人性掻痒症か」と思っていましたが、宣伝文句ではオリーブには天然の保湿成分がたっぷり含まれているそうで、それのおかげかはたまたそれを読んだせいか今日は痒みがずいぶん少ないような…… 私の皮膚はすぐその気になるだまされやすい奴なのかもしれません。
【ただいま読書中】
私が初めて出会った「電子楽器」は1982年前後、当時持っていたパソコンAPPLE][のシンセサイザーソフトでした。画面上でサイン波あるいは方形波をいくつも足し合わせて基本波形を作り、それに倍音設定をすることで「ある音」を作り、そうしてできたいくつかの「音」を五線譜に置いていくことでメロディあるいはハーモニーをつける(ただし同時発声は4音まで)をするという、大変手間のかかるソフトでした。もっとも当時、個人がシンセサイザーを持つというのはそれだけで大変なことではあったのですが。
1896年サンクトペテルブルグで生まれたレフ・テルミンは研究していた電子振動から着想を得て世界で初めての電子楽器テルミンヴォックスを1920年に発明します。(1926年には機械光学式テレヴィジョンシステムも開発しています) レーニンの支持を得たテルミンはのちに波乱の人生を送りますが(観ていませんがそれを扱ったのが映画「テルミン」だそうです)、私にとって面白いのは、電子楽器なのにアナログという点です。楽器内部には周波数が少しずらされた二つの高周波発信回路がありそれが足し合わされて「音」となります。そこに、アンテナと演奏者の手が回路の中の静電コンデンサとなってその容量を変化させる(アンテナと手の距離を変える)ことで音程が変化する、が楽器テルミンの原理です。シンセサイザーとは発想がずいぶん違います。だから演奏風景はまるで奏者が踊っているかのように見えます。
本物のテルミン(ヴォックス)は教卓くらいの大きさがありますが、本書の附録は掌に乗るくらいのトイ楽器です。電子回路も組立済みですから、ドライバーが回せる人なら20分くらいで製作が可能です。ただし、難しいのはそこから。チューニングがなかなか大変なのです。調整しようと手を近づけたら、その行為がすなわち静電容量の変化ですから音が変わってしまいます。説明通りやってなんとかチューニングができたら、さて、演奏……にはなりません。初心者のバイオリンは悲惨な音(あるいは音ではなくて悲鳴)がしますが、テルミンも似た現象となります。キーンという甲高い音がして一応アンテナに手を近づけたり離すことで音階が上下しますが、コントロールがほとんどできないのです。手が震えたりアンテナが震えたり、音の固定さえ困難です。
これは挑戦しがいがあります。しかし、こんな面白いものが2300円で入手できるとは、良い時代です。
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