mixi日記2008年1月
 
1日(火)白いお正月
 こちらでは12月30日から雪でした。大晦日もそれなりに降っていましたが地温が高いからか地面には積もらず、屋根や車の上だけがうっすらと白にまぶされているのを、今朝はお天道様が明るく照らしています。
 しかし「ホワイトクリスマス」は喜ばれるのに、「一面白いお正月」はそれほど嬉しく感じないのはなぜでしょう。やっぱりきれいに晴れて「初日の出」、が日本人として“正しい”感覚なのかな?
 
 何はともあれ、あけましておめでとうございます。こんな感じで、本年も読書日記は続けていく予定ですので、よろしかったらおつき合いくださいませ。ぺこり。
 
 
2日(水)年を取る
 正月になると数えの年齢を一つ重ねるのは、ある意味合理的な制度と言えます。「カレンダーの年が変わる=「地球」が一歳年を取る」のですから、その地球上の生命も同時に「せーの」で年を取るのは当然、とも思えますから。
 ただし、肉体的な年齢と精神的な年齢はそんなに“デジタル”には加齢できません。アナログでじわじわじわじわ加わっていくので、ふだんはわかりにくい。こうやって1年ごとにその集積を確認するのは、良いチャンスでもありますし、あまり嬉しくない機会でもあります。
 1年だとそれでもまだわかりにくい(あるいは認知したくない)のですが、この10年を思うと、私の肉体は確実に5年分は年を取ったと思います。では精神年齢はどうだろう。それほど年を取れて(成熟できて)いないのではないかなあ。こんな暦と肉体と精神の年齢にギャップがあるのは、私だけ?
 
【ただいま読書中】
入門化学史』T・H・ルヴィア 著、 化学史学会 監訳、内田正夫 編集、朝倉書店、2007年、4300円(税別)
 
 「科学者」ということばは19世紀の産物です。17世紀には彼らは自然哲学者と呼ばれていました。ロバート・ボイルやアイザック・ニュートンもそれらの一人です。(ニュートンの膨大な著作のうち、物理学は1/3で、1/3は神学、残りは錬金術に関するもの、はあまりポピュラーではない知識でしょうか?)
 錬金術の歴史は古く、古代中国と古代ギリシアまでは確実に遡れます。錬金術師とは現代では「鉛を金に変えたと見せかける詐欺師」とほぼ同義となっていますが、もともとは世界の仕組みを探求しそれによって利益(不老長寿や経済的利益)を得ようとする人びとのことでした(その中で“粗悪な人”が詐欺師になったのです)。16世紀のパラケルススもその意味では正統的な錬金術師です。なにしろ「薬物」を生薬ではなくて錬金術によって得ようとしたのですから。それまでの「神がこの世のすべてを創造した」に対して「人間が人間のために新しい物質を創造できる」というパラケルススの主張は、キリスト教世界では世界観の革命でした。
 ベーコンは法律家で、「自然を裁く」ためにデータベースが充実していなければならないと考えました。その“肩に乗っ”たボイルは、データベースの充実のための手段として実験と観察を峻別しました(この“充実”“実験”“観察”についてあいまいな人が現代でも(特にトンデモ科学方面に)多いのは何ともはやですな)。ボイルはその手法を「実験哲学」と称し、実験と理論が相互に依存していることを世界に示しました。
 「燃焼はフロギストン(燃素)の放出による」フロギストン説が起きます。これはもちろん間違っているのですが、「大気に放出されたフロギストンが植物に吸収される」と説明されることなどで「世界を統一的に眺める態度」が涵養されます。この「態度」が重要なのです。間違った理論を修正することの方が、間違った態度を修正することよりはるかに簡単なのですから。さらに啓蒙主義が起きます。17世紀の科学革命と18世紀末の産業革命をつなぐ“架け橋”で、その主要成分が「化学」でした。こうしてやっと「偉大な化学者たち」が活躍する舞台が整えられます。キャヴェンディシュ、ラヴォワジエ、ラプラス、ドルトン、ペルセリウス、ゲイ=リュサック、アヴォガドロ、メンデレーエフ……きりがありません。多くの化学史の本はこの辺の人物列伝で占められていますが、私はざっくり省略します。
 本書でも書かれている18世紀〜19世紀の各国の「制度」比較は何度読んでも面白いものです。イギリスは国があまり科学に本気ではなくて、アマチュア(貴族やジェントルマン)が頑張っていました。フランスは中央集権で、エコール・ポリテクニクが頂点です。ドイツ(という国はまだありませんでしたが、その前身の連邦)では各地に近代的な大学(と大学院)が作られました。この大学がアメリカや日本の大学制度に影響を与えます。
 19世紀初頭、蒸気機関の研究から熱力学の法則が定立されます。そして化学反応の熱力学が問題となります。溶液中の電解質の研究から「イオン」の概念が生まれます。イオンとは溶液の熱力学の話だったのです。すると原子中での電気的な結合の研究が始まり、電子が発見されます。かくして「分割されないもの」であったはずの原子は内部構造を持つものに概念を衣替えしたのでした。
 量子力学、波動力学、新しい元素の生成……化学は物理学の領域に侵入し、逆に物理学は化学の領域に……両者の境界線はあいまいとなってきています。だから、ノーベル化学賞を物理学者が受賞するなんてことも起きているそうですが、大切なのは「化学と物理学の境界の定義をしっかりする」ことではなくて「現象」を確認しそれを説明するための理論をきちんと立てること、つまり「科学のお仕事をきちんと遂行すること」なのでしょう。21世紀には化学がどんなことをしてくれるのか、わくわくします。
 
 
3日(木)ラムレーズン
 めったに行かないスーパーに夫婦で行くと、ハーゲンダッツのミニカップが200円を切っていたので、ほくほくしながら3つ買いました。近くのスーパーだと安くても225円ですから。たった3つのわけ? 冷凍庫の隙間がそれだけだったのです。冬はやはりラムレーズンでしょう、ということで全部ラムレーズンで統一です。
 で、喜んで食べてみたら……なんだか違います。昨シーズンまでと違ってレーズンが大小不揃いで皮の厚みもバラツキが大きくラムもあまり効いていません。アイスクリームそのものは変化を感じませんから、もしかしたらコストカットのしわ寄せがレーズンに来たのかな。残念です。
 
【ただいま読書中】
眠れぬ親たちのためのベッドタイム・ストーリー』NIGHT LIGHTS;Bedtime Stories for Parents in the Dark フィリス・セルー 著、 西野薫 訳、 中央公論社、1991年、1602円(税別)
 
 養子二人と実子一人を育てるシングルペアレントである著者が、その子育てで経験したさまざまなことを書いたエッセー集です。知性と感情と肉体感覚とが絶妙のバランスで配合された良質な作品が並んでいます。
 子どもたちが見た「理想の家族」の話題から著者は自身がかつて子ども時代に夢見たあるいは見つけた「理想の家族」を思い出します。現実とは信じられないほど恵まれた「完璧な家族」を。そしてそれとは大きくかけ離れた自分たちの家族の状況を見て、自身の中にひそむ「羨望」に気づきます。羨望がもたらすものは何か、そして「完璧な母親」を演じることでの末息子との問答が笑わせてくれます。
 「公平」の概念についても、考えさせられ笑わされてしまいます。三人の子どもを完璧に公平に扱うことはできません。それぞれの個性に合わせ、その時の親の状態にも影響され、対応は変化します。子どもたちは喚きます「そんなの不公平だ」と。それに対して親はどうすればいいのか。「親」という初めての経験をよたよたしながら歩む人間にとって簡単な解決策はありません。著者は、謝ります。形式的な不公平ではなくて、親としての無神経さが原因となって生じた不公平に対しては、心から謝ります。すると不思議なことに、そんな時には子どもたちは寛大です。著者はそれを「間違えることは最悪のことではない、と子どもたちが学んでいる過程」と言います。そうですね、そんな大事なことは親も学んでいる最中なのでしょう。
 親が抱く怒り、過剰な母性愛、子どもたちに伝えたいもの、残してやりたいもの、子どものファッション、セックス、「ちゃんとした家」の定義(トラブル発生時)、子どもを信頼すること……様々なテーマが、決して押しつけがましくない口調でゆっくりと語られます。たとえば「三人の子供を育てるのは、サボテンとクチナシと、鉢一杯のホウセンカを育てるようなものだ。それぞれが必要とする水も日光も剪定の具合もすべて違う」。あるいは子どもを一人で送り出した後の「子供たちを暗闇の中に送り出すのは容易なことではない。だが、それこそが光へと通じる唯一の道のような気がするのだ」といった文章が印象的です。著者は、誰も責めません。と言って、甘やかしてもくれません。芯がしっかり通った優しさ、とでも言ったらいいかな。自信たっぷりの「正解」も示してはくれません。著者が子どもたちに示す「寄り添う/ともに悩む姿勢」が、エッセーを通してそのまま読者に寄り添ってきます。
 著者の視野は広く態度は公正です……少なくともそうあろうと努力しています。救世主コンプレックス(「大なり小なり世界を救うために行動しない限り、自分の人生は完結しない」という感覚)に関するエッセーで、「救う」ためには「救われたいと願う人」が存在しないといけないことを著者は見逃しません。つまり「救うこと」で救われているのは実は「救っている人」なのです。そのことを長女に関するエピソードで著者は平易に語ります。こんな文章を書きたいものだと憧れます。
 意外なのは、アメリカにも日本と似た「ご近所に顔向けできない」といった感覚や、事なかれ主義があることでした。
 
 子どもに「この本読んで」と言ってせがまれたとき、そのリクエストに応えながら「私に読んでくれるのは、誰?」と言いたくなった人、自分が「不完全な親」であることに耐えられない気持ちを持った経験を持つ人、自分自身がかつて子どもであったことを忘れがちな人、自分が自分の親によってどのように育てられたかを忘れがちな人、子育てによって自分が親としてさらには人間として成長したいと望む人、それらの人のための本です。
 
 
4日(金)掃除神降臨
 年末からマイミクさんの所にはどんどんお掃除の神様が降臨されているようで、「まあ、他人事だしぃ」と思っていたら、こちらにも突然降臨されました。ということでせっせとATOKのユーザー辞書のお掃除お掃除。細かく見ると自動登録で「余計なお世話じゃ」と言いたくなる単語がたっぷり登録されています。さらにNifty時代に登録したことば(たとえば「/POST」「SUB:」)やら昔々のメールアドレスとかが続々見つかって、容赦なく削除しました。と言っても、30分やったら疲れたので残りはまた数年後(もしかしたら10年後)にね。
 む、虚しい。せっかくせっせと“お掃除”したのに、一見して何も変わっていないじゃないの。
 
【ただいま読書中】
ゴキブリ取扱説明書』青木皐 著、 ダイヤモンド社、2002年、1400円(税別)
 
 研究のためにゴキブリを三万匹飼育した経験を持つ著者が、ゴキブリを駆除したいのならその生態をきちんと知らなければ絶対無理、と書いた本です。
 
 日本のゴキブリは全52種類、そのうち屋内に棲息するのは8種類で、その代表はクロゴキブリとチャバネゴキブリの二種類です。クロは平均体長31mm体重0.65g、チャバネは13mmと0.056g。意外に小さいですね。彼らが最も好きな空間は、クロが8〜13mmの隙間、チャバネが5mmの隙間です(著者がいろいろ実験してその数字を導き出しています)。彼らが本来の住居としていたジャングルは、冬暖かく水と食料が豊富で隙間だらけの環境……すなわち日本では人家が彼らにとっての最適の環境なのです(日本に昔からいた野生のゴキブリは除く)。
 人家への侵入ルートは、(1)自分の脚または羽で侵入する(下水管や窓や玄関など) (2)人によって持ち込まれる(段ボール、紙袋、鉢植えの植物、服の隙間……意外なルートが本書では紹介されています) です。「一匹だったら生殖できない」……それができちゃうんです。ゴキブリのメスは最後の脱皮直後に交尾を一回します。それで得た精子を貯め込んで一生受精卵を生み続けることができるのです(ミツバチと似ていますね)。
 ゴキブリは不潔です。感染源としての証明は非常に困難なのですが、たとえば過去に小児麻痺が流行したとき、感染地域のゴキブリの糞からそのウイルスが証明されています。サルモネラ菌の生存期間は、ガラスのシャーレの表面では34日・乾燥ビスケットの表面では88日ですが、湿度30%のゴキブリの糞中ではなんと180日! ということは、ゴキブリを新聞紙丸めて叩くことも重要ですが、目を皿にしてゴキブリの糞を掃除しないといけないという…… ペットの餌や糞の始末をちゃんとしないと、ゴキブリを介してペットとのキスやペットの糞いじりをしたのと同じことになるという……
 
 著者はゴキブリ退治に乗り出します。ただし「レスケミカル」(薬物をできるだけ使わない)で「ゴキブリが限りなくゼロに近い環境を作りそれを維持する」ことを目標としています。心優しいゴキブリハンターです。殺し方も「合理的で礼儀をわきまえたもの」です。ゴキブリに対して「礼儀」? なぜ著者がそう主張するかは本書をぜひ読んでください。
 現在広く行われているゴキブリ退治法は 1)見敵必殺(みつけたら、叩く・スプレー) 2)待ち伏せ(トラップや毒物をばらまく) 3)ガス室(燻蒸殺虫剤) の3種類です。しかし著者はそのすべてが単体としては有効だが、実際の現場ではそれほど有効に用いられていない、と述べます。ゴキブリの生態も都合も知らずに、やたらと人間の都合や思いこみだけを押しつけても上手くはいかない、と。そこで一般家庭では、まず調査です。床一面に粘着式のトラップを敷き詰め(「ゴキブリは部屋の隅をよく通る」はウソだそうです)、どこに多く潜んでいるかを知り、隙間を潰すようにします。次は整理整頓。それから掃除と餌の除去。きちんと退治し、住みにくい環境を作ってやり、そして日常的なメンテナンス、これに尽きるのだそうです。
 プロ(飲食店など)に対しては著者はもう少し厳しい態度です。「安全」「安心」にコストをかけない、あるいはコストをかけても見当外れのやたらと薬物ばらまきだけしかしないような態度では、経営者の見識が疑われる、と。
 
 そうそう、最後にちょっと奇妙なことも書かれています。ゴキブリの味とか、ゴキブリのにおいが実はある花によく似ている、とか(その花のファンでゴキブリのアンチファンの人に悪いので特に名前は秘します)。
 
 
5日(土)"May I help you?"
 にあたるスマートな日本語はなんでしょう? 英語だと、気軽に声をかけることができて、声をかけられた方も気軽にYesやNoが言える雰囲気です。でも日本語だと、「お助けしましょう」だとなんとなく恩着せがましく感じますし、「何か私に用?」だとつっけんどんな感じ。何より声をかけられた方が気軽にNoと言えるかどうかが大問題だと私は感じるのですが、そもそも日本語での語りかけで「あなたはイエスでもノーでもどちらでも自由に決めて良いんですよ」というニュアンスを含ませるのは結構難しいことなんですよねえ。私はなるべくそんな日本語を使うように努力しているつもりですが、それに成功しているかどうかは自信がありません。
 
【ただいま読書中】
夢の書 (上)』O・R・メリング 著、 井辻朱美 訳、 講談社、2007年、1500円(税別)
 
 著者のケルト神話シリーズ『妖精王の月』『夏の王』『光をはこぶ娘』の集大成のような作品です。おっと、最後の本は未読でした。
 アイルランドの妖精国に危機が迫っています。キーになる人物は『光をはこぶ娘』に出てきた、妖精と人間の間に生まれた娘ダーナ。物語の舞台になるのは、今回はアイルランドではなくて、カナダです。なにしろグウェン(『妖精王の月』)もローレル(『夏の王』)もカナダ在住です。二人の使命はダーナを守ること。しかし、敵の攻撃は容赦なく行われます。闇の中で手探りで身を守ろうとするようなもどかしさの中、事態はどんどん悪化していきます。最悪なのは「孤独」でしょう。妖精国にかかわる人たちはみな孤独なのです(なにしろ、この世界では妖精国のことを大っぴらに語るのは困難なことですから、誰が“仲間”なのか確認しにくいのです)。そして、「すべての生命を憎む邪悪」によって妖精国とこの世界との絆が全部断たれてしまいます。それは両方の世界が近い将来破滅することを意味します。『妖精王の月』の七者も次々倒れます。ただ、予想外の“援軍”も現れます。インドの神々です。さらにはカナダの妖精も。繰り返される「助けを求めるのは、弱さではなくて強さ」ということばが印象的です。これも時と場合によるのでしょうが。ダーナは心を開くことを少しずつ覚えます。自分が求めているものは、海の向こうのアイルランドにだけあるのではなくて、今自分がいるこのカナダでも、自分が心さえ開けば大切なものが見つかることを、逆に言えば、心を閉じればいくらでも自分を不幸にできることを、彼女は知るのです。
 ここで私は一度巻頭に戻ります。なるほど、第一章は“そういう意味”だったんですね。
 謎めいた同級生ジャンとの冒険行が始まります。期限は次に妖精国とこの世界が接近するハロウィーン。与えられたクエストは「夢の書」を発見すること。情報を求めて二人はまず「巨人」を訪れます。
 
 ここで(下)に続く。
 
 
6日(日)つきもの
 絶望と失望は希望の親友。でも誤算は計算の結果。
 
【ただいま読書中】
夢の書 (下)』O・R・メリング 著、 井辻朱美 訳、 講談社、2007年、1600円(税別)
 
 巨人も「夢の書」がある場所は知りませんでした。しかし、同じ書を探していたという聖人ブランダン(6世紀に7年かけてアイルランドからカナダに渡ったと言われている伝説上の存在)を見つける手伝いをしてくれます。二人は時空を越えてブランダンの船にたどり着きます。敵も追いかけてきますが、聖人の力の前に退散します。ブランダンは自分が焼いた「驚異の書」を復元するために旅に出ていました。彼が経験したことを書き記したものが「驚異の書」になるのです。ダーナは自分が求めている「夢の書」もまた、自分の旅のことをそのまま書いたもののことかもしれない、と思います。人生はそのまま一冊の書になり得るのです。
 ダーナに対する襲撃は執拗に続きます。守り手も集まりますが、ダーナは独力でも戦わなければならないと決意します。ただ単に自分が守ってもらうのではなくて、何かを自分で守るための戦いなのです。クエストと戦いの場面は次々に転換します。そのたびに「これは誰の夢なのか」と誰かに問われながら。そう、ダーナの旅は、常に夢と書がからんでいるのです。
 そしてついに、ダーナは求めていた書に出会います。閉じられていた門の位置もわかりますが、敵も大軍勢を結集し、ついに最終決戦が始まります。ただ、軽いファンタジーによくある表層的な「善と悪の戦い」ではありません。戦いの構造は実に複雑で、最後には、本書に何回も登場していた「一つの家族」ということばが“爆発”し、その深さと複雑さを読者の目前に展開します。これを読み解くのは、よほど人生にまともに向き合った子どもでないと無理かも(私もちゃんと読めているかどうか、自信がありません)。
 
 あ、でもその部分は堅苦しいお説教なんかではありません。本書はファンタジーです。「ある人を理解することは、その人が感じている痛みも自分のものとして感じることも意味する」とか「自分の課題は自分で片付けなければならない/でも、なんでも孤独にやるのではなくて、助けを求めてもよい/ただし、黙ってじっと誰かが助けに来てくれるのを待っているのはNG」といった、人が生きる上で大切なメッセージも伝わってきます。これを受け取るだけで、そうだなあ、思春期ちょっと前くらいに本書に出会えた子どもは、人生で少し得をするかもしれません。
 
 ただ一つ不満があるとしたら、恰好良い“戦いの主役”はすべて女性で敵役は男性(あるいは男性性をたっぷり持った存在)であることでしょう。もちろん正義に味方する男性もいますが、しょせん補助役なのです。男としては「もうちょっと男にも晴れ舞台を」と要求したいところですな。
 
 本筋とは外れたところですが、龍(西洋のドラゴンではなくて、中国の龍)や易が登場するので非常に嬉しい思いをしました。それも、平易ではあるが本質を外してはいない説明(言葉尻をとらえたらいくらでもとらえられますが、大切なのは概念を正しく使っているか使おうとしているかどうかです)を著者がきちんとしている点に大変好感を持ちました。
 
 
7日(月)姿勢
 希望の灯を遠く高く掲げて進む人は、背中が伸びた素敵な姿勢をしています。思わず真似をしたくなるような。逆に、ただお神輿に乗って楽をしたいだけの人は、みっともない姿勢をしています。思わず目を逸らしたくなるような。
 「人を見かけで判断してはならない」? はい、ごもっとも。でも「一目瞭然」ということばもあるのです。
 
【ただいま読書中】
真夜中のパーティー』フィリパ・ビアス 著、 猪熊葉子 訳、 岩波書店(岩波少年文庫042)、2000年、640円(税別)
 
 幽霊とか時空を越えた物語とかが著者の得意技かと思っていましたが、本書では著者が住む田舎を舞台としたごくふつうの子どもたちの日常生活を題材とした短編が並んでいます。読んだ手触りは、水彩画。一つの場面が切り取られた絵が読者の目の前に置かれ、絵そのものは全然動かないのにそれを観ている者の心の中で物語が動くのです。大した事件はありません。廃品回収をやっているお隣さんの所に泥棒が入ったという噂が流れたり、ニレの大木が倒れたり、川で貝が見つかったり、お祖父ちゃんを車椅子で老人クラブに連れて行ったり。なんでこんなのが「小説」になるんだろう、といいたくなるものが並んでいます。
 その中でも特に派手な“事件”は……眠っている親から隠れて子どもたちが真夜中にこっそり盗み食いをしたことでしょうか。でもまあ、これだってそんなに大騒動が起きるわけではありません。ポテトサラダがきれいになくなっていることお母さんが首をひねるくらい。あ、お墓参りからの帰りの車椅子とパトカーの奇妙なドライブ。これはたしかに大事件でした(想像するだけで、くつくつ笑ってしまいます)。たぶん村では何年も噂が続いたことでしょう。
 だけど、本書で一番すごいのは(解説にも紹介されていますが)「アヒルもぐり」かな。ソーセージとあだ名される肥満で近眼の少年。池での水泳トレーニングで底に沈んだレンガを取ってくるつもりが実際に持って上がったのはブリキの箱だった、ただそれだけのお話です。しかし、その時の体験が少年の人生を変えます。劣等感と共に生きていた少年は、自分の弱い部分を守るためにでしょう、周囲に頑なな態度を取り続けていたのですが、水底からやっと上がって水面に顔を出したときから、自分に自信を持ち、世界に興味を持ち、そして「ぼくはゆうゆう百歳くらいまで生きるかもしれない」と言えるようになるのです。ここまで劇的ではないでしょうが、おそらくほとんどの人は子ども時代に、こういった感じの世界のとらえ方が激変するような成長体験を持っているはずです。こういった体験のエッセンスを抽出しそして作品にこんなに上手く配合してみせるとは、著者はやはりただ者ではありません。世界を見る目とことばを操る腕に信頼ができる作家です。
 
 こんな小説を書ける人がいる限り、この世はまだまだ大丈夫。そう感じます。
 
 
8日(火)雪崩に注意
 その天気予報情報を一番必要としている人は、すでに山に入ってしまっています。
 
【ただいま読書中】
ニッケル・アンド・ダイムド ──アメリカ下流社会の現実』バーバラ・エーレンライク 著、 曽田和子 訳、東洋経済新聞社、2006年、1800円(税別)
 
 ニッケルは5セント・ダイムは10セント硬貨のことですが、それが結合して動詞の受身形ですから、小銭だけでやりくりする、てな意味でしょうか。
 貧困層から出発してライターとしてやっと中流になれた著者は、ちょっとした取材の「思いつき」から、貧困層の体験ルポをすることになります。知らない町で実際に低賃金で働くのです。ただ“体験”するだけではありません。その収入だけで生活(主に家賃と食費)をやりくりしなければなりません。学位や職歴は表に出さない“ルール”で著者は2年以上にわたる取材(=生活)を始めますが、身に付着した特権(白人、英語が話せて読み書きもできる)が有利に働き、逆にそういった生活に「未熟」であることが不利に働いたそうです。
 最初の仕事は、時給2ドル43セントのウエイトレス。実際にはそれにチップがプラスされます。だからアメリカのウエイトレス(ウエイター)はチップを稼ぐために文字通り“必死”になるのです。チップを足しても5ドル15セントを下回ったら差額を雇用主が支給することに法律ではなっていますが、このプロジェクトの間に著者がその説明を聞かされたことは一回もありませんでした。アメリカにもホンネとタテマエがあるんですね。
 著者が同僚にインタビューしてわかるのは、スタートが不利だととことん不利になること。アパートの前金(一ヶ月分の家賃と敷金)が払えなければ、割高な週ぎめアパートに入らなければなりません。車がないため職場近くのホテルしか選択肢がない人もいます。台所用具を持っていなければ、安い食材で工夫する余地さえありません。健康保険に入れなければ、入手できる薬は割高となりさらに健康は脅かされます。貧乏人は「負のサイクル」に乗っているのです。このへんは、概念的には知っていましたが、具体的に(彼らが食べているものとか、4人があらいざらい持ち寄っても2ドルに足りないとかの)事実を知るとやはり衝撃です。「生活保護受給者は働こうとしない怠け者」という“非難”がいかに的外れかも本書でしっかり示されます(著者のような健康な独身者が必死に働いても収支のバランスが取れなくなってしまうのですから。財布がパンクしたらその職はもう続けられません。著者は“ホーム”に帰れるのですが……)。
 「不潔」に著者は敏感です。レストランの厨房や休憩室や老人ホームの食堂の不潔さ(ぐちゃぐちゃねちょねちょ)の描写は真に迫っています(というか、現実なのです)。嫌な気分になるのが、ハウスクリーニング会社の清掃指導ビデオで「水(熱湯)」が出てこないことに著者が気づくシーン。「きれいにする」のではなくて「きれいにしたように見せる」テクニックだったのですよ。
 著者が出会うのは、下流社会の人びとだけではありません。それらの人びとを働かせているそれより上の階層の人たちにも出会います。社会で侮蔑の視線にさらされて「黒人の気持ちが少し分かったかもしれない」と書くとき、著者の心は何を流していたのでしょうか。
 
 採用前に検尿を義務づけている企業があります。目的は健康検査ではなくて薬物検査というのがやはりアメリカ的。
 尿と言えば、アメリカの職場でトイレ休憩が連邦政府の認める権利となったのは1998年。ある工場労働者はぶっ続け6時間労働に対して、オムツを当てて対応していたそうです。
 
 本書にはこれでもかこれでもかと連発される悲惨な状況が満ちあふれていますが、そこを救っているのは、著者の態度です。「いつでも中流に戻れる」自分のポジションを著者は「本当の貧困層に対してこれは卑怯なのではないか」といった忸怩たる思いで書いていますが、私から見たらだからこそ本書は価値あるレポートなのです。人類学者はフィールドに骨を埋めません。必ず自分の本来の場所に戻ってきてレポートを書きます。本書で著者は、人類学者とフィールドの両方を生きます。そのためアメリカの下層の「現実」がより“リアル”に読者に伝わってくるのです。さらに文体に備わったユーモアは、本書に甘さではなくて鋭さをもたらしています。低賃金で有名なウォルマートでの“叛乱”画策など、笑って読むにはもったいない。
 アメリカが好きな人も嫌いな人も、その現実の一面を知るためには読んでおいて損がない本です。
 
 
10日(木)偽装社会
 食品偽装事件の時に「一体何を信じたら良いんでしょうか」とカメラの前で言っていた消費者がいましたが、とりあえず自分を信じるしかないのでしょうね。生鮮食料品だったら自分の目。加工食品だったら……自分の勘? あるいは「信頼できる生産者」を自分で見つける。
 最初から欺す気で製品を作っている業者に、消費者が個人で立ち向かってだまされずに済むのはまず不可能でしょう。となると、あまり私の好みではありませんが、権力の出番かな。といっても、日本の官僚は、企業を規制することで自分の権限を確認することは好きだけれど、消費者のために製品のチェックをきちんとすることは不得意ですから、あまり信頼して丸投げでまかせることもできません。
 安倍内閣は国民生活センターを縮小する予定でしたが、福田さんはそれにストップをかけたい意向のようですね。縮小中止どころか、逆に、立ち入り調査権限を持たせて国土交通省や厚生労働省や農林水産省と“喧嘩”できるくらいの組織に拡充したら、少なくとも消費者の幸福度はちょっとアップする可能性があるかもしれません。
 
【ただいま読書中】
兵士ピースフル』マイケル・モーパーゴ 著、 佐藤見果夢 訳、 評論社、2007年、1500円(税別)
 
 トーマス・ピースフルが初めて小学校に上がった日から本書は始まります。兄のジョーが幼少時の脳膜炎で“特別”な存在となっており、父親を早く亡くしているトモ(トーマス)は、ジャガイモしか食べるものがないような貧乏な生活の中でも、友達と遊び、生活を助けるために密漁をし、幼い恋をしていました。学校はマニングズ先生に支配されており、村は「大佐」に支配されていました。二人の共通点は「恐怖と暴力」。この二人に無意味に不幸にされながら、トモは成長していきます。
 トモが学校を卒業する頃、戦争が始まります。16歳の誕生日の少し前、トモは兄のチャーリーとともに志願兵となります。軍隊にも“マニングズ先生”や“大佐”がいました。ピースフル兄弟を特に目の敵にする“暴虐”ハンリー軍曹です。砲撃・突撃・毒ガス……塹壕戦での日々の中でチャーリーは負傷して後方に送られ、トモは生まれて初めて兄のいない生活をすることになります。いつも“保護者”だった兄がいなければ途方に暮れると思っていたのに、大丈夫でした。トモもいつしか古参兵になっていたのです。やがて負傷が癒えたチャーリーが帰ってきますが、ハンリーの暴虐もその度を増していきます。
 
 本の終わりが近づいてきた頃、トモが置かれた状況がわかります。彼は夜が明けたら行われる銃殺を待っていたのです。その前夜、彼は自分の18年間の人生を慈しみながら思い出していたのでした。誰が銃殺? その理由は? そもそもトモはなぜチャーリーの腕時計を持っているのか。
 
 あとがきに著者は苦々しく書きます。第一次世界大戦で、290名以上のイギリス軍兵士が銃殺刑に処せられましたが、その理由は、脱走・臆病行為・居眠り……それら兵士の多くが砲撃によるショックで精神的外傷を受けていましたが、軍事法廷は迅速で被告は申し開きの機会さえ与えられませんでした。そのことに英国政府は、彼らが不当な扱いを受けたとも認めず、謝罪もしていないのです、と。
 私には不思議なのですが、人を殺すのが好きな人間は、「敵」だけではなくて「味方」も殺すのが好きなのでしょうか。だとすると、戦争の真の目的は、何?
 
 
11日(金)少子化対策(お笑い)
 本日の日記のカテゴリーは「お笑い」です。あまり深刻に突っ込まないでね。
 
 子どもに関しての日本の現状は……1)出生率の低下 2)晩婚化 3)性交渉開始年齢の若年化 4)離婚率の上昇
 1)と2)は関連しているようですが、2)と3)の関係がよくわかりません。4)は出生率とは無関係? ともかくこれらを全部両立させて、さらに少子高齢者対策になる手段がもし存在したら、社会の何かを無理矢理変えようとしない点で、それはそれで“理想的”なのでしょうが……
 
 人は「してはならない」と言われたら、反発してしたくなるものです。ということは……そうだ、「原則として独身者はセックス禁止。でも結婚したら(届けを提出したら)誰とでもセックスOK(婚姻届と交換にセックス免許証を交付、不倫という概念は無し)」としたら、ぼろぼろ子どもが増えないかな。どっちにしても「やっていること」は同じで、それをどう社会がとらえるか、をいじるだけです。現実を追認してちょっと後押しをするだけでそれほど大きなことをするわけではありませんし、結果はすぐ出るんじゃないかしら。
 問題は、“無免許者”に対する罰則ですが……貞操帯? “仮免者”にはやっぱり実習?
 
【ただいま読書中】
あなたの知らないアンデルセン 人魚姫』ハンス・クリスチャン・アンデルセン 著、 ジョン・シェリー 画、長島要一 訳、 評論社、2005年、1600円(税別)
 
 デンマーク語からの新訳です。「童話」というカテゴリーに押し込められていたアンデルセンの作品を“(訳者が考える)本来の位置”に戻すために新訳を行なったそうです。
 
 海の底の王宮に人魚王が一歳ずつ年の違う六人の娘とともに住んでいました。人魚は15歳になったら海面に上がって「上の世界」を眺めることが許されます。末娘は、姉たちが毎年海面に上がって眺めたり聞いた海上や地上の体験を聞きながら、“上”への憧れを募らせます。「上の世界」の驚異が細かく語られますが、それに混ぜてここですでに重要なことが語られます。「人が海底にたどり着くのは死者としてだけ」「人魚は涙を流せない」。
 そしてついに末娘の15歳の誕生日。彼女が浮かび上がった海上では、大きな船が王子の誕生日を祝って花火を打ち上げていました。人魚は王子の美しさに一目で惹かれます。しかし突然の嵐で船は沈没。人魚姫は王子を救いますが、その行為は誰にも知られることがありませんでした。
 人魚姫のおばあさんは語ります。人魚は300年生きるが、人の寿命は短いこと。人魚は不滅の魂を持っていないから死んだら海の泡になるだけだが、人の魂は不滅であること。ただし、人間の男が永遠の誠実を人魚に対して誓えばそのとき人間の魂の不死性が人魚にも与えられること。
 人魚姫は魔女の所に出かけます。魔女はヘビで鍋を洗いながら、人間になれる薬を作ることを承諾します。ただしその報酬は、人魚姫の美しい声。さらに人魚姫は、二度と人魚には戻れないこと、得た足で歩くたびにナイフを踏むような痛みを感じるという代償を支払う必要があります。それでも、王子と不死の魂を得るために、人魚姫は魔女に自分の舌を与えます。それまで海底で最も美しい歌を紡いでいた舌を。
 素晴らしい声と歌を失いましたが、人魚姫は地上の王宮で一番美しい娘として遇されるようになりました。さらにその軽やかな歩き方とダンス! 王子は人魚姫をかわいがりますが、愛そうとはしません。彼の心に住んでいるのは、溺れたときに浜辺で自分を助けてくれた(と王子が思いこんでいる)娘の姿なのです。しかし人魚姫は“真実”を語ることができません。
 そしてついに王子は理想の女性に出会ってしまいます。その婚礼の夜、人魚姫は海の泡にならなければなりません。姉たちは魔女に長い髪の毛という代償を払って、ナイフを手に入れます。それで王子を殺しその心臓からの血を脚にかければ人魚姫は人魚に戻れるのです。しかし……
 
 王子を慕った人魚姫が尾を失って脚を得るのは、女が男に対して両脚を開くことを意味する、なんて解釈は、私には新鮮でした。そういえば、みなで雪山を登ったとき、ナイフを踏むような痛みを感じるだけではなくて、人魚姫だけ血の足あとを雪面に残しているのですが、そこの挿絵が妙(奇妙・微妙)にエロチックなのです。う〜む……
 
 
12日(土)仕事と楽しみ
 好きなことや楽しいことを仕事にすると、不本意なことや無駄なことをしなければならないとき、最初の楽しさとの落差が苦痛になります。だけど、仕事が好きでなくてもそれを楽しくすることは可能だし長く続けるためには大切なことでしょう。
 
【ただいま読書中】
大都会動物病院物語』山田康弘 著、 フジテレビ出版、1998年、1238円(税別)
 
 「ペットロス」を切り口に、TVスタッフが日米を取材して回った記録です。
 
 アメリカでは、大学卒業後に獣医科大学に入学して4年間臨床の勉強をし、開業するためには(人間相手の医者よりも)難しい試験を受ける必要があります。有名な病院はニューヨークのアニマルメディカルセンターです。そこは24時間営業、専門医が80人以上スタッフ総数は200人以上の大病院です。そのスタッフの一人が、ペットロスカウンセラーです。「ペットは家族の一員」と考える飼い主にとって、ペットの死は受け入れ難い衝撃です。その飼い主に付き添うカウンセラーがアメリカに存在しているのです。さらにカウンセラーは、ペットの死に日々直面している獣医師たちもカウンセリングの対象としています。
 著者らは日本でも取材をします。日本にも各所に動物霊園がありますが、そこで聞いたペットロス体験には、結構深刻なものがありました。死んだペットへの後追い自殺まであるのです。
 日本獣医畜産大学附属家畜病院では、飼い主へのインフォームド・コンセントやペットのクオリティ・オブ・ライフを重視した診療が行われていました。……なんだか、人間の病院以上に雰囲気がいいのかもしれません。さらに、腎臓移植をする病院や放射線療法をする病院が紹介されます。著者らが取材で回る動物病院には、最先端技術が存在するだけではなくて、ペットとその飼い主に対する思いやりが満ちあふれています。
 
 ただ、それでめでたしめでたしではありません。日本の制度では、6年間大学で獣医学を学び国家試験を通れば立派な獣医師で何をやっても法的には許されます。しかし(本書出版時には)日本の教育では臨床教育は貧弱で、専門医制度もなく(だから専門家がいたとしてもたとえば「腫瘍科」といった看板も出せない)、技術や態度の点で優れた人とそうでない人の間にとんでもない格差が存在しているのです。“悪い”獣医にあたったら、目も当てられない事態になるのでしょうね。
 日本の獣医学は、出発点が畜産だったから農林水産省が管轄しています。それはそれでいいのですが、畜産にしてもペットにしても「人との関り」に注目すると、農水省“だけ”にまかせておいて良いものか、とも私は思います。野生動物だってたとえば「鳥インフルエンザ」なんて問題があるでしょ? 農水省がその時だけは十全に能力を発揮しさらに厚労省や文科省・総務省・国交省・防衛省などと円滑に連携できる、と思う人、手を上げて!(手を上げる前に、BSE(狂牛病、と当時は呼ばれていましたね)のことを思い出しましょう)
 
 ペットロスに現場で直面している獣医が、マスコミが安易に使おうとする「ペットロス症候群」ということばに否定的だったのが印象的です。簡単にレッテルを貼ってしまうと、「レッテルは読むけれど、その意味は考えない」(日本にやたらと多い)人々によって真の問題が矮小化単純化されてしまうことを恐れての態度ですが、その気持ちはよくわかります。
 
 そういえば「ペット同伴可の宿」はよくありますが、「ペットとともに入れるお墓」もあるんだそうです。私はそこまでペットに思い入れのない人間ですから「へーっ」としか思いませんでしたが、需要は結構あるんじゃないかな。
 
 
13日(日)水道水を飲む
 水商売人だけではなくて、「いまどき水道水なんか、飲む人がいるのか?」と言い放った大臣もいましたが、飲めない水を供給するのだったら上水道の存在意義はありません。古代ローマ人でさえその理屈はわかっていてせっせと水道橋を作っていたわけですし、お江戸八百八町も「水道」なしには成立していません。
 結局前発言は“撤回”されたはずですが、その後コップに注いだ水道水を飲み干す(カイワレ大根などでも行われた)セレモニーはありませんでしたね。
 
【ただいま読書中】
水道サービスが止まらないために ──水道事業の再構築と官民連携』宮脇淳・真柄泰基 編著、時事通信社、2007年、3200円(税別)
 
 日本で最初の近代的な水道は、明治20年横浜が最初です。明治政府は水道は公益優先と定め明治23年に水道条例で、内務大臣の認可の下に地方自治体が水道を経営することが定められました。昭和32年には水道法ができます。
 平成17年現在上水道普及率は97%、水道事業者は9,396(うち簡易水道は7,794)。地方公共団体が経営する水道事業は地方公営企業法によって、公共の福祉と企業会計の両立を求められています。管理者は首長の下に位置しますが、人事と財務を独自に執行する権限を有します。
 ここで話は「地方財政改革」に及びます。地方の財源は地方交付金に頼っています。ところが交付金の分配については、わざとしたのかと思えるくらい根拠や計算方法があいまいにされています(いました)。地方の債務も話がこじれています。地方債なのにその実質的な返還義務は国にあるものがたくさん混じっているのです。これでは地方の財政改革は一筋縄ではいきません。(そもそも「国が返してくれる」と思っていたら、自分の所の債務に対しての真剣みが減じるでしょう) 水道事業での資金調達をどうするか、それは大変な問題なのです。地下の配管は定期更新を必要とします。新しい設備投資(オゾンや活性炭を用いた高度浄水処理装置など)も必要で、それは巨額の投資を必要とするのです。
 イギリスの水道民営化の原動力は、財政再建でした(日本の国鉄民営化と似ています)。しかしフランスでは、伝統的に水道は地域ごとに分散した事業形態だったため、水源保護を含めた環境規制を通じての改革が行われました。フランスでは、教育もですが、中央集権的な手法がお好きなようです。そうしなければ国民がすぐバラバラになってしまうのかな。
 
 水道の“敵”は、地震・風水害・渇水・クリプトスポリジウム……本書には見あたりませんが風評(「水道水は危険」と商売人や政治家が公言すること)。あと、受水槽など施設管理の不行き届きです。
 水道事業は意外にエネルギーを消費します。平成16年度の電気使用量は約77.74億kWhで、日本の僧電力使用量の0.9%(ほとんどがポンプです)。そこで地球温暖化対策として単位水量あたり電力使用量10%削減や石油代替エネルギーの使用が目標として掲げられています。
 経営も大変です。大口ほど割高になる逓増型料金体系を取っているところが多いのですが、すると大口需要家は自分で井戸を掘ってしまいます。また、これからの日本の人口減に伴い、水需要は減少します。団塊の世代の大量退職(失われる技術)も水道事業の継続に影響を与えることが予想されています。高度成長期に大量に敷設された施設の更新も迫っています。実は日本の水道は現在危機的な状況にあるようなのです。
 では「水道の未来」はどうなるのでしょうか。本書では「公共選択アプローチ」によって「官」と「民」がともに主体として考え行動することを提案しています。単なる公から民への丸投げではなく、民が公の庇護下に事業を行うのでもない、過去の脆弱な「民活」や第三セクターの裏返しを本書ではイメージしているようです。「本当にそうなったらいいね」と私は呟きます。これは水道だけの問題ではありません。本書では水道を論じているようで実は「日本の未来」が論じられているのです。
 
 「水道水が飲めないのなら、ナントカ還元水を飲めばいいのよ、おほほほほ」と言うわけにはいきません。水洗トイレや風呂や食器洗いや洗濯をどうします? 工業用水は? 自治体と民間が連携するのは良いとして、国も長期的で具体的なビジョンを示し続けて欲しいなあ(私が知らないだけ?)。たとえば、「総合水処理業」として、上水道・中水道・下水道・環境の水、これらすべてを扱えるように法整備を行うとか、今すぐできることがあるはずです。
 本来地中からしみ出た水は「きれい」なはずです。それをせっせと汚しておいてから、きれいにしなくちゃ、とエネルギーを投入するのはずいぶん無駄な努力をしているように感じます。そのへんから何とかならないのかなあ。
 
 
14日(月)ちゃんとさん
 せいたかとのっぼはさん、ちびはちゃん。でぶもちゃん。
 う〜む、頭に「お」がつくのはちゃんになり易いのでしょうか。でも、おしゃまおばかはさんだなあ。で、めがねは……ちゃんかな。
 
【ただいま読書中】
日本で初めてカーブを投げた男 ──道楽大尽平岡Xの伝記物語』鈴木康允・坂井堅次 著、 小学館、2000年、1600円(税別)
 
 安政二年に江戸では直下型大地震がありました。その騒然とした空気もさめやらぬ安政三年(1856年)に平岡X(ひろし)は家康以来続く武士の子として生まれました。父は下役から始めて江戸城明け渡しの時には事務方最高責任者にまでなった優秀な人でしたが、Xは遊びと悪戯好きの悪童で、明治四年(1871)満15歳でアメリカに留学させられてしまいます。そこで彼が夢中になったのは、汽車とベースボール。当時のルールでは、ピッチャーは(今のソフトボールと同じタイプの)下手投げで、しかもバッターが要求するコースに投げなければなりませんでした。それだと延々打たれ続ける恐れがありますから、少しでも打ちにくくしようと思ったら、速球と変化球の組み合わせです。平岡も投手としてアメリカで頭角を現します。鉄道会社でも優秀な工員との評価を得た平岡は、5年後に帰国します。お土産に、ローラースケート靴とバットとボールを持って(当時の野手は素手あるいはせいぜい手袋だったので、グローブはありません)。帰国初日、新橋駅のプラットフォームでローラースケート初滑りを平岡は行います。当時の日本では他に固くて真っ平らな地面がなかったからなのですが、これが実は日本初のローラースケート実演だったのです。
 すでに一高ではアメリカ教師から教わってベースボールが行われていましたが、そのすぐそばの神田の練兵場で平岡が家族や友人たちと本場直伝のベースボールで遊ぶのですから、わっと人が集まります。
 滞米中に岩倉使節団の通訳を務めた縁で、伊藤博文の口利きを得て、平岡は鉄道局に勤務します。そこでの出世はとんとん拍子なのですが、工員たちにベースボールを教えます。ボールが壊れたら、自分たちで作ります(さすがに皮を縫うのは靴屋に依頼していますが)。野手は素手ですから、突き指・爪を剥がす・指の骨折なんてのはしょっちゅう、なかなかハードな「お遊び」です。(その前の時代には、打者走者をアウトにするには球をぶつけていたのですから、これでもずいぶん文明化しています)
 ベースボールが「野球」と翻訳されたのは明治27年(1894)一高の中馬庚によります。当時「塁球」や「底球」(京都三高が使用)が使われていましたが、中馬は執筆中だった『一高ベースボール倶楽部史』に「野球」を使いました(ちなみに、中馬の3年先輩の正岡子規が4年前から使っていた雅号が「野球」だったことが影響を与えているだろう、と著者は推定しています。さらについでですが、子規は雅号を27も持っていて、幼名の「のぼる」をもじって野球(=ノ・ボール)としたと言われています(他に「能球」という雅号も使っています。これものーぼーるね)。また子規はベースボールはすべて「野球」ではなくて「ベースボール」や「球あそび」などと書いているそうです)。
 アメリカ大リーグ(ナショナルリーグ)結成は1876年です(アメリカンリーグは1901年)。明治11年(1878)平岡は「新橋アスレチック倶楽部」を結成し監督兼投手になります。お揃いのユニフォームは、ニッカボッカに赤いストッキングと今から見たら古風ですが、当時としては新奇だったことでしょう(羽織袴に下駄履きで野球をやっていた時代です)。1882年には日本初の対抗戦開始。相手は駒場の農学校(のちの東大農学部)でした。そこで平岡が投げるカーブは「魔球」と呼ばれます。学生野球も盛んとなり、学生たちは盛んに新橋倶楽部に来ては平岡のアドバイスを仰ぐようになりました。平岡は「野球の神様」的存在になっていたのです。
 当時輸入に頼っていた機関車や車両の国産化を目指し、35歳で平岡は官を辞し平岡製工所を作ります。現在の東京ドーム東側の広場の位置です。“悪童”ぶりはあいかわらずで、父親のお通夜でも幽霊騒ぎを起こしたりしています。仕事は順調で、お茶屋遊びはもっと順調。花柳界では平岡大尽とあだ名されるくらいです。しかし自分だけ遊ぶのではなくて、会社には安心クラブという社員が遊ぶスペースを作ります。水害の時には工場周辺の被災者にまで差し入れをします。カッポレ・画・袋物の収集・音曲・釣り……本書に紹介される多才ぶりには驚きます。しかもすべてに「粋」という芯が通っているのですから、まったくただ者ではありません。そして、老後に災難が次々彼を襲ってもその姿勢は変わりません。本物です。武士の背骨が通った良質な江戸っ子、かな。
 
 昭和34年、野球殿堂入り第一号に、正力松太郎と平岡Xが選ばれました。
 
 
15日(火)KY(これで良いのか?)
 「空気を読む」ことに非常に長けた人は、戦前の日本では「鬼畜米英」「贅沢は敵だ」「この非国民め」で、戦争に負けたら即座に「一億総懺悔」「民主主義万歳」だったんでしょうかね。
 
【ただいま読書中】
ピーター・パン』J・M・バリ 著、 厨川圭子 訳、 岩波少年文庫、1954年(92年43刷)、670円
 
 「ディズニーのアニメは見ているけれど、原作は読んでいない」という人が多そうな作品です。(偏見かしら)
 
 ダーリング家の子どもたちの夢に、ネバーランドからピーター・パンが訪れていました。ところが“事故”で影を失ったことから、ピーター・パンは子どもたちの“現実”に登場します。両親と、あてになる乳母だけれど正体は犬のナナ、彼らの不在を狙ったかのように。そしてついに3人はおとぎの国目指して飛び立ってしまったのです。
 島には、男の子たちと海賊とインディアンがいます。インディアンが腰にぶら下げている頭の皮は、海賊のと男の子のと両方があったって、知ってました? さらに人食い動物たちも。なんとも剣呑なおとぎの国です。
 
 とまあ、あらすじを追っていくのはこれくらいにしておきましょう。
 著者がしょっちゅう顔を出してメタ構造になったりしていたのが、途中でとうとう“読者”が登場してくるのには、もう笑ってしまいました。100年前の読者たちには、これは衝撃だったんじゃないかな。
 
 ピーター・パンについては多くが語られています。たとえば『ピーター・パン・シンドローム』ではピーター・パンは成長を拒む男の象徴です。たしかウェンディに注目した本もあったはず(本書ではウェンディに生理は来ませんから、性的な意味は重要ではなさそうですが)。そうそう、ティンカー・ベルは「体が小さいから、感情も一つしか持てない」なんて言われようですが、移り気で忘れっぽいのはピーター・パンも同様です。
 で、従来路線をなぞってもしかたないし、と思いつつページをめくっていて、どうも気になったのが「お父さん」です。子どもが産まれたら「どのくらいコストがかかるか」なんて計算に夢中になる、おとぎの国との対照に置かれた「現実」の代表かと思っていたのですが、これがどうしてどうして、みごとに現実離れしています。先ほどの病気のコスト計算でも、おたふくかぜ・はしか・風疹・百日咳……と思いつくあらゆる病気のコストを計算して、これではやっていけそうもないとなるとおたふくのコストカットなどをして辻褄を合わせますし、安く上げるために乳母は犬にしますし、なにより「家族に認めてもらいたい」という欲望が丸出しなのです。ダーリング家に訪れたピーター・パンは、もしかしたらお父さんの願望(あるいは、彼が忘れてしまった、でも彼の心の奥にちゃんと存在している自分の子ども時代の思い出)が具現化したものではないか、とさえ思えます。最後にピーター・パンは窓の外に閉め出されてしまいます。しかし、窓の内側では、子ども時代の思い出を取り戻した一家が「それから幸せに暮らしました」なのです。
 
 
16日(水)理解できました
船場吉兆が民事再生法を申請
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=383935&media_id=2
 
 船場吉兆の民事再生法の申請とともに社長が創業者の娘(記者会見で取締役の息子に一々セリフを教えていた人?)に変わるというニュースです。
 
 TVのニュースでは弁護士は「(この人事を)理解して下さい」と言っていましたが、「店の方針は以前と変えるつもりはない」との“理解”でいいですか?
 
 
17日(木)次の総選挙のための備忘録
 「元農水相」「元厚労相」が何人出馬するでしょうか。
 「小泉チルドレン」や「刺客候補」もできたら選挙前に検索して思い出しましょう。
 有権者は「公約」を「誤解」のないように心して読む必要があります。(「公約かそれともそれほど大したものではないものか」と確認しておく必要があるでしょう。ついでに公約違反をしたときにどのようなペナルティを払うのかちゃんと担保されているのかどうか、も)
 
【ただいま読書中】
水害現場でできたこと、できなかったこと ──被災地からおくる防災・減災・復旧ノウハウ』水害サミット実行委員会事務局 編著、ぎょうせい、2007年、2476円(税別)
 
 激甚な水害を経験した首長が集まっての水害サミットが平成16年から開催されています。本書はそこで集積された貴重なノウハウを事務局が集めたものです。実際に苦労した経験者ならではの、机上の空論ではない具体的な意見が並んでいます。
 
 収集した情報を入力するのは、専任職員を置いた方が良い(きっとここでは、複数の人間が入力して混乱が生じたのでしょう)。連絡はFaxよりは電子メールの方が良い。もしFaxを用いるのならiFaxが一度に大量に送れて便利。近隣に応援を求めるためには、普段から相手先の電話番号などを整理して持っておく必要がある。応援に来てくれた人に対応する職員を決めておくこと。議会への対応が災害時には遅れがちだから、正副議長や常任委員長に災害本部に詰めてもらう。住民への伝達は、あらゆる手段を用いるべし(広報車の声は、豪雨の中では届かないと思った方がよい)。情報が集中するのは自治会長。避難勧告は首長が直接放送で(落ち着いた態度ではなくて)緊迫感を持って伝えたら効果的。いきなり避難勧告を出しても人は逃げない。要援護者に対する支援が必要。電源の確保(発電機、燃料の確保。自動車のシガーライターから取ることも可能)。浸水で孤立した避難所には大型ダンプで物資を届けた(重いから流されない)。行政管理を越えての連携が重要。土砂の撤去には、個々の業者ではなくて業界団体を窓口としたら便利。撤去した土砂はごみや流木が混じっていて産業廃棄物扱いになる。土砂の仮置き場や最終処分場をあらかじめ設定しておく必要がある。ごみ処理でリサイクル法対象の家電は別にしないといけない(災害ごみでもリサイクルは可能)。避難者への心のケア。安否確認。住宅応急修理には「半壊」が条件だが、水害の場合その法的適用が困難。ボランティアセンターは早めに立ち上げる(ボランティアが入ってくることで被災者は勇気づけられる)。マスコミへの情報提供は、定例会見と掲示板の速報が効果的。
 そして、平常時の対策。
 職員の意識。住民の意識(自助意識の育成)。防災訓練はより実践的・具体的に。
 
 そういえば、私の学校が火事になったときにも、その直前(たしか前の週)に避難訓練があったのですが実際に火が出た時にその“訓練”はみごとに何の役にも立ちませんでした(訓練では盛大に鳴っていた非常ベルも鳴りませんでした)。“儀式”としての訓練は、無意味です。やるのだったら、実践的でなきゃ。少なくとも「人の命を救いたい」「被害が出るにしても、最小限にしたい」と本当に思うのでしたら、ね。
 しかし、水害の防災訓練は地震の時には応用が利くでしょうが、新型インフルエンザなどのパンデミックのときにはどうでしょう。これはこれでまた別にやっておく必要があるのではないかなあ。
 
 
18日(金)路面電車
 私は別に「鉄」ではないのですが、学生時代には鉄道を使ってぶらぶらすることが多かったし、ふらりと訪れた先に路面電車があればべつに目的も無しに乗っていました。その中で今廃止になっているのは……京都・名古屋・仙台……
 
 なんであんなに熱心に路面電車は廃止されたのでしょう? たしかに、往復二車線の道路が線路の撤去で四車線になれば、渋滞の長さは単純計算で半分になるはずです。だけど“実際”はどうでした? 路面電車を廃止した地域では渋滞が解消しましたか? 「ある主張が正当であると見える」と「ある主張が正当であった」はまったく別の事柄です。
 「路面電車を廃止するべきだ」とかつて主張した人は、「廃止した結果、ほら、こんなにいいことがあった」と今示すべきではありませんか?
 
【ただいま読書中】
パーフェクト・ストーム』THE PERFECT STORM ─ A True Story of Men Against the Sea セバスチャン・ユンガー 著、 佐宗鈴夫 訳、 集英社、1999年、1900円(税別)
 
 ボストン近郊の漁港グロスターを母港とするメカジキはえ縄漁船アンドレア・ゲイル号は、30日海に出ては6日間陸で過ごすサイクルを繰り返していました。そこに初めて参加した下っ端船員のボビーは、4500ドルも手に入れます。もしこの手取りが続けば(水揚げが多く、かつ、メカジキの値段が崩れなければ)別れた妻への慰謝料が払えさらに新しい恋人と結婚もできそうです。
 彼らが向かう漁場グランドバンクスでは、コロンブスから12年後にはすでにヨーロッパ人によって漁が行われていました。豊かなタラの魚影を求めてわざわざ大西洋を渡って漁をする人々がいたのです。しかしそこは、荒天でも有名なところでした。漁場および港町の歴史、漁業の実際(漁業が一種のバクチであること、乗組員は20時間労働を20日続けること、漁具があまりに高価なのでそれを回収しなければ漁場を離れることはできないこと、死の危険が到る所にあること)、漁業テクノロジーの進歩、資源の減少による漁獲量規制、船が浮き傾き復元し沈む物理的メカニズムなどが淡々と語られます。
 そして1991年10月、漁期もそろそろ終わろうとしている時期の北大西洋暴風海域、日本の第七八永伸丸を含む何隻かの漁船の配置が読者に知らされます。そこに季節外れのハリケーン・グレイスが近づいてきます。アンドレア・ゲイル号は改造で重心が高くなったところへ魚を満載しておりしかも製氷器の故障で十分な氷が得られないため魚が悪くなる前にと帰港を急いでいました。そのためか船長のビリーは、まっすぐ嵐に突入してしまいます。20メートルの波浪警報が出されているまっただ中へ。のちにこの嵐は「百年に一度の大嵐」と呼ばれます。ビリーはアンテナを失ったらしく、それ以後の消息はいっさいわかりません。しかし著者は、丹念な取材からその場の情景を再構成します。
 アンドレア・ゲイル号から200マイル南西には遠洋マグロ漁の永伸丸がいました。操舵室の安全ガラスは波で割られ舵が効かなくなり、英語ができない船員たちは乗り組んでいたカナダ漁業監視員のリーヴズに衛星電話での連絡を頼みます。4隻の船が救援に向かいますが、激浪で引き返します。(結局永伸丸はなんとか自力で入港できました)
 ハリケーンに別の低気圧が“合併”し、暴風と波浪はますます激しくなります。メキシコ湾流の温かい海水がエネルギーをどんどん補給します。その中を、沿岸警備隊の飛行機・ヘリコプター・船が進みます。人命を少しでも救助するために。近くを航行中の船舶も(ちゃんと進めるものは)それに協力します。大暴風の中で、文字通り命を賭けた救助活動が続けられるのです。この章で印象的だったのは、詰め所に電話がかかるなり救助活動から戻ってぐったりしていた隊員たちが全員黙って室外に向かうシーンです。トイレで用をすませて、1分後にはブリーフィング、そしてすぐに出動なのです。
 沿岸警備隊のヘリの航続距離以上の所は、空軍州兵の担当です。彼らのヘリHー60は空中給油が可能です。しかし、ハリケーンのまっただ中での給油は「銃口にダーツを投げ込むような」離れ業でした。とうとう一機のヘリが燃料が尽きたために不時着水をすることになります。20メートルの波が立っている海面へ。ある隊員は時速50マイルで海面に激突し、右腕と右足の骨折・肋骨骨折3本・腎臓破裂の重傷を負います。海面を漂う隊員たちは死を覚悟します。彼らを救おうと200人のレスキュー隊員が現場に向かいます。近くにいた監視船も救助に向かいます。しかし、12ノットの速度でスクリューを回しても暴風で3ノットに減速されてしまいます。ヘリを目印に現場に到着しても、海面からどうやって安全に遭難者を引き上げるのか……迫力のシーンが続きます。
 
 同名映画では船がビルよりもでかい波に向かって行きその“斜面”をよじ登っていってついに力尽きてずるずると後退しひっくり返るシーンがありました。本書に紹介されているアメリカ海軍の研究では、それは“実話”なのです。アンドレア・ゲイル号は嵐の中で忽然と姿を消しました。凡庸な作家なら「わかっていること」だけ書こうとするかあるいは自分の想像力だけに頼ろうとするでしょう。しかし、その“周囲”の状況を丹念な取材できちんと再現することで、著者はアンドレア・ゲイル号の最後を本書で蘇らせます。遺族にはつらい本でしょうが、でも「何が起きたのか」と宙ぶらりんな気持ちでいた人には、「これで諦めがついた」と言ってもらえるものかもしれません。
 
 
19日(土)光が集まる場所
 夜道をバイクで走ると、所々に光が集っているのに気がつきます。街灯の下・家々の窓からこぼれる灯り・車が通らない交差点の信号……夜の空間が光に切り取られて浮かんでいます。そこを私は駆け抜けます。
 
【ただいま読書中】
光をはこぶ娘』O・R・メリング 著、 井辻朱美 訳、 講談社、2002年、1500円(税別)
 
 先日読んだ『夢の書』の前に読んでおくべきだった本です。著者のケルト神話シリーズでは、『妖精王の月』『夏の王』と『』の間に位置します。
 
 アイルランドに暮らすゲイブリエルとダーナの父娘は、父親がカナダに帰る話を持ち出したために衝突をしています。この衝突もまたゲイブリエルがカナダに帰りたい理由の一つでした。思春期になりかけている娘を育てるには、母親がわりの存在が必要だと感じたのです。で、それに一番近い存在が、カナダに住む自分の親族である、と。
 森でダーナは妖精の国の住人に会い、そこで使命を果たせば「願い」をかなえてやると言われます。ダーナの願いは、3歳の時に突然姿を消した母親ですが……
 妖精を見る視力を与えられたダーナは、この世界と妖精の世界が複雑に絡み合っていることに気がつきます。なんと環境保護運動にも妖精の後押しがあったりするのです。しかし、異なる世界に暮らすことは元の世界の何かを犠牲にすることを意味していることでもあります。たとえば、記憶。異なる世界に住むことで前の世界に関する記憶があいまい、あるいはすっかり失っていることがけっこうあるのです。
 伝えるべきメッセージを携えてダーナはアイルランドを旅します。自分の母親と同じように忽然と父親の前から姿を消しての旅立ちです。鹿と走り、タンポポの綿毛となって飛び、狼と走り、湿地で泥まみれになって遊び回り、地下の通路の抜け……そしてやっと眠らされていた王にメッセージを届けたダーナは、つらい決断をします。使命の褒美としてかなえてもらう「願い」を、自分のためではなくて皆のために使おうというのです。しかしそれは、もう一つの旅の始まりでした。こんどは皆のためではなくて、自分のための旅です。そしてダーナは、自分の母親の出奔の理由を知ります。
 
 「親の自殺や離別に、子どもは自責の念を抱く」ことが、本書ではちょっと捻って使われています。いや、子ども向けのファンタジーですよね、これ。ここまで述べていいのかなあ。
 
 本書の最後あたりで、ダーナの次の冒険が予告されます。さらに途中で『夢の書』にもダーナは出会っています。「他の国の妖精」に関する言及もあります。うわあ、ちゃんと次作のための伏線が張ってあったんだ。著者はどこまで構想を練ってから本書を書き始めたのでしょう? ちょっと準備が良すぎるような気もするのですが……でもまあそれくらいの“物語”の一部を切り取るから、面白さが後を引くんでしょう。
 
 
21日(月)東芝のおかげ
 新聞にビラが入っていました。「東芝からのお詫びとお願い」と赤い紙面に白抜きのでかい文字が書いてあります。なんでもカセットVTRとエアコンに発煙発火の恐れのある機種があるそうで……我が家のビデオはパナソニックですがエアコンはどうだったかなあ、と見ていると普段使わない和室のエアコンが東芝でした。ただ、確認すると型番が違うので今回はパス……のはずが、フィルターがほこりまみれなの。しかたないから掃除機を持ち出して吸いましたとも。まったく、東芝のおかげでいらない手間が……あ、これは本来やっておかなきゃいけなかった、必要な手間だったんだ。東芝さん、不必要にあたってごめんなさい。おかげでお掃除ができました、ぐすん。
 
【ただいま読書中】
チキチキバンバン ぼうけんその1』CHTTY-CHITTY-BANG-BANG イアン・フレミング 著、 ジョン・バーニンガム 画、渡辺茂男 訳、 冨山房、1980年、1300円(税別)
 
 図書館の書棚で著者の名前を見て即座に借りることを決定しました。「007」の著者がこんな本も書いていたとは知らなかったものですから。
 
 カラクタカス・ポット元海軍中佐は、妻のミムシーと8歳の双子ジェレミーとジェマイマと暮らしていました。生活はかつかつだったのですが、探検家で発明家の元中佐が斬新なキャンディーのアイデアを売ることで一攫千金(といっても、『チョコレート工場の秘密』に出てくるお菓子ほど斬新ではないのが残念ですが、1964年の作品だったらしかたないでしょう)。その金で一家は自分たちにピッタリの「特別な車」を探し始めます。でもなかなか「これ!」というものに出会えません。ところが、崩れかけた小さな修理工場の裏で、明日にもスクラップにされようとする巨大なオープンカーに出会ってしまいます。1914年型のメルセデスのシャシーに8リッターのマイバッハ空冷式エンジン(飛行船ツェッペリン号に使用されたのと同型)を載せた自重5トンの車、もとい、鉄くず一歩手前の車です。一家はそれが気に入り、安く引き取ります。修理屋はうれし涙を光らせながら「あなたがたは、ごみすて場行きの運命から、こいつを救ってくださった。もしこいつがその恩返しをしなかったら、わたしは、ぼうしをたべてみせますよ。あいにく、ぼうしなんか、もっちゃいませんがね」と言います。
 一家は早速整備に取りかかります。ところが不思議なことが起きます。いじっていないところが整備されていたり改造されていたり、はては一家にも見当がつかないスイッチが操作盤にどんどん増えていたり……まるで車が自分の意志を持って、自分自身を改造・整備しているかのようなのです。車のナンバープレートは「GEN11」。子どもたちはそれを「GENII」(ジーニー=精霊)と読みます。
 そしてリストアが完了した日、エンジンをかけると車は大きなくしゃみを2回と小さな爆発音を2回立てます。「チキ チキ バン バン!」と。まるで自己紹介をするかのように。高速道路での初ドライブは大成功。ところが次の休日は道が大渋滞。皆が苛々し始めたとき、操作盤のスイッチの一つに灯がともり文字が浮かび上がります。「引け」 皆が首を捻っていると次の文字が浮かびます。「まぬけ」 「引け、まぬけ」……ポット氏はスイッチを操作します。すると、車は空を飛び始めるのです。
 
 いやあ、楽しい本です。こんな薄い本でこんなに楽しくなっちゃって良いんでしょうか。いいんです。
 
 
22日(火)イラク公演
 WWE(アメリカのプロレス団体)は年に一回、クリスマスシーズンにイラクで公演をします。22時間かけて軍の輸送機で人と機材を運んで、アメリカ軍の基地をあちこち訪れて慰問し、元サッカー場にリングを組み立ててそこでプロレス。集まった数千人の兵士たちは、実に幸せそうにボードを掲げ声援を送っています。
 レスラーやディーバ(女性のメンバー。一見プレイボーイ誌のカバーガール、というか、実際にそうなった人も何人か。もちろん、レスリングもします)たちは、軍の護衛付きとはいえ、危険を承知でイラク国内を移動します。ヘリに乗るときには防弾チョッキを着ていますが、RPGくらって墜落するときにチョッキは役に立たないでしょうね。
 軍に娯楽担当の将校がいて、公演を取り仕切っているのには驚きます。国で見ていたのと同じ番組を目の前で観ることは、兵士が国とのつながりを確認できて士気高揚につながるから、軍としても重要な行事なのでしょう。映画「地獄の黙示録」にもプレイボーイメイトが慰問に訪れるシーンがありましたっけ。
 私はこの“戦争”の大義は否定しますが、それでもこういった一生懸命な人々の姿には心を打たれます。昨年(か一昨年)の公演の時には、夫婦ともイラクに派兵されていた兵士がいました。子どもたちを本国に残している会いたい、とTVカメラに写真を見せていましたが、彼らは無事に帰国できたのでしょうか。
 
【ただいま読書中】
ブログ・オブ・ウォー ──僕たちのイラク・アフガニスタン戦争』マシュー・カリアー・バーデン 著、 島田陽子 訳、 メディア総合研究所、2007年、1900円(税別)
 
 兵士たちが書くブログは「ミルブログ(ミリタリー・ブログ)」と呼ばれます。本書はアメリカで人気のミルブログ「Blackfive」の著者が編集したものです。「戦争」を兵士の肉声(それもリアルタイムのもの)で再構成した本書は、ずっしりと重たいものに満ちています。
 
 派遣されることが決まったとき、兵士がまず書くのは、家族や友人たちのことです。なぜ自分が派遣されなければならないのかの理由を探して、戦争の大義を書く人もいます。
 イラクでの生活も肉声で語られます。野球帽を被ることで正気を保とうとする人(異常な環境ではそういったちょっとしたことが重要なのです)。襲撃されて負傷した体験を生々しく書いたブログもあります。前線基地の“首長”になった中尉のブログは、ちょっと笑えます。イラク人スタッフが多く雇われているのですが、彼らを管理し給料を払い首を切る……普通の企業の管理部門と変わりません。そういえば、基地には空軍と陸軍それぞれのジムがあり、朝5時半にはもう混雑しているとは……一体彼らはどんな生活パターンなんでしょう。で、朝5時に起きてジョギングをしながらそのジムに向かった三等軍曹は、迫撃砲弾に襲われます。
 「癒しを与える人」に一章が割かれています。衛生兵・従軍看護師・戦闘救命員・従軍牧師……彼らのブログには、血と苦痛と硝煙のにおいがします。
 自分に死が突きつけられた状況で「引き金を引かない」決断が語られ、逆に戦場で戦うことも多く語られます。戦士には戦士の、管理者には管理者の思いがあります。初めて撃った男の目を見つめたときに、何も感じなかったことへの戸惑いも語られます。笑っちゃうのは、戦車の陰で狙撃されながらも髭を剃るやつのブログ。
 もちろん銃後の人たちも自分の思いをミルブログに書き込みます。別れのつらさ、待つつらさ。恋人や子どもがいる部隊が損害を受けた、と聞いて感じる不安と恐怖。愛する人が無事だったと知って感じる安堵、そして死者がいるのに安堵した自分に対する自己嫌悪。
 ……そして、帰らざる人々。帰ってきた人々。
 
 本書では『ブラックホーク・ダウン』への言及がけっこうありますが、あれは米軍兵士にとって大きな“トラウマ”になっているのでしょうか。
 戦争という巨大な怪物の全貌を知ることはなかなか困難です。しかし、そのカケラを少しずつ丹念に拾い集めることはできます。たとえばこういったブログを読むことによって。
 この戦いで死んだ人の今の思いも何かで読みたいと思います(あの世との通信はできないんですよねえ)。それと、イラクの人のブログも。「武装勢力」とひと言で片付けられている人たちにも、「思い」はあるはずですから。
 
 米軍基地では、インターネットアクセスがかつては自由でした。だから兵士のブログを全世界で読むことができました。しかし政府には政府の都合があります。インターネットアクセスは兵士が「国とつながっている」実感を得られるために“与えて”いたものなのに、政府が“外”に見せたくない戦争の事実もまたネットを通じて拡がってしまったのです。だから現在は「機密情報が漏れて、あるいは、機密でなくても個人情報が漏れることによって、攻撃を受けやすくなる」ことを公式の理由に“アクセス制限”がかけられるようになっているそうです。さて、この米政府の説明がホンネだと思う人、手を上げて。
 
 
24日(木)楽
 何か新しいことにトライしようとしたとき、とにかくネガティブなことを言って足を引っ張ろうと努力する人がいます。ところがそんな人は「これは欧米ではスタンダードだ」と言うところっと態度を変えて詳しく調べもせずにそれに盲従しようとしたりします。おいおい、です。どちらにしても「自分の頭で考えない」点は共通で、それはそれで楽でしょうが、それはそんなに楽しい人生ですか?
 
【ただいま読書中】
ふしぎ盆栽 ホンノンボ』宮田珠己 著、 ポプラ社、2007年、1500円(税別)
 
 「凸凹した地形」とか「素敵な高低差」とやたらと口走る著者が、ベトナムでたまたま出会ったのが、ホンノンボという不思議な“盆栽”でした。盆栽といっても、主役は植物ではなくて岩です。水を張った鉢などの中に大きな岩を置いてありますが、トンネルが穿たれていたり、階段が作られていたりするものもあります。さらにはそこにミニチュアの人形などが置かれています。そこに生えている苔や草をジャングルなどに見立てれば、3Dの風水画のようなものです。ミニチュアの代表は、釣り人(つまりは太公望)、碁を打つ老人(北斗星と南斗星の故事をご存知?)、西遊記などですが、なんとなく道教的なにおいがぷんぷんします。さらに製作者のセンス(というか、稚気?)がホンノンボの出来を大きく左右します。いいかげんで、でものどやかな仙境なのです。
 「ミニチュアを置いた盆栽」といえば本書でも言及されているパラダイス山元さんの「マン盆栽」ですが、ホンノンボは“違う”のです。ただし、どこが違うかは著者はなかなか白状しません。道教・仏教・仙人の住む山、などの単語をあちこちに散りばめ、楽しみながら旅を続けます。
 ベトナムのあちこちをうろうろする著者につき合っているうちに、ホンノンボに使われる岩を産出するニンビンに読者は連れて行かれます。あたり一面の水田の中ににょきにょきと険しい岩山が突出している、“リアル”ホンノンボのような地形の土地です。著者は感動します。「メリハリのある標高!」「思い切った海抜!」と。
 
 「中国にも似たものがあるぞ」と言われて著者は中国にも出かけます。ただ、香港で見たのは「どれもこれも何かが本気である。本気感がにじみでている」「洗練されすぎている」ものでした。著者が求めているものとは“違う”のです。
 佛山はミニチュアの宝庫でした。著者は大喜びで買い集めます。ベトナムのより小さくて精巧で、これをホンノンボに置いたらどんなになるだろうかとワクワクできるものが大量にあるのです。しかも、安い。安いものなら1元(15円)、標準的なのなら5〜30元なのです。
 でも、やっぱりホンノンボは“違う”のです。あまりきっちり辻褄が合わせてないゆるやかな世界。そこには見る者が想像力を自由に羽ばたかせる余地がたっぷりあります。さらに、だらだらとベトナム旅行を繰り返すうちに、ついに著者は「ホンノンボが水槽につかっている理由」を突き止めます。もっともそれが本当に“正しい”ものかどうかは誰にもわからないのですが。
 
 本書では文献とか学者とかの「権威」は登場しません。ベトナムで偶然出会った不思議な“盆栽”に、著者はふらふらと惹かれ、惹かれた理由を自分で考え、とりあえずの結論を自分で出してしまいます。それはもしかしたら「歴史」とか「定説」からは外れたものかもしれませんが、それでもOKという気分にさせられます。ホンノンボのゆるやかな世界観はおそらくどんなものでも許容してくれることでしょうから。
 
 
25日(金)憲法改正手続き
 「国民投票法」が登場したとき、護憲派の人たちがなぜあんなに抵抗しているのかが私にはわかりませんでした。護憲派の人たちは「憲法が改正されて、日本が戦争をする国になってしまう道筋がついてしまう」心配ばかりしているようですが、国民投票法ではその“逆”も可能なんですよ。つまり、なんとでも解釈できるような文面の9条を、その精神を強化すると同時に明確に戦争ができないような条文に変えることだってできるわけ。その主張が正しくて国民がそれを支持すれば、ですが。
 「単に憲法を変えたくないだけだ」というのなら、それにもやり方があります。たとえば「憲法改正には「国会の3/4」「国民の2/3」「国民投票で投票率が50%以上」を必要とする」などと今の憲法の改正条項の所を改正してしまうのです。そうしたら少々のことでは憲法がちょこちょこ変わることがなくなります。
 
 もちろん反護憲派の人も、同じことは可能です。さっさと憲法9条を変えて戦争が簡単にできるようにして、さらに憲法改正手続きを簡単に改正できないように強化しておくの。(もちろん、憲法全体の整合性を保つために、憲法前文もいじる必要がありますけど)
 
 さて、真剣に自分の主張を通したいのなら、お互いに「国民」に堂々と自分たちの主張を訴えた方が良いんじゃないかなあ。私は正々堂々の論戦が好みなんですけど。
 そうそう、実際に上に書いたように動くためには国会の発議が必要ですから、そのためには自分たちと同じ主張をしてくれる国会議員をたくさん確保する必要があります。面倒くさいですね。でもそれが“民主主義”でしょ? ただそのためには、国会議員が各人それぞれ何を考えているか明示してくれないと、ちゃんと選択できないんですよ。テレパシーを持たない私には、他人の顔を見たって考えていることはわからないのですから。
 
【ただいま読書中】
バビロンの影(上)』デイヴィッド・メイスン 著、 菊池光 訳、 早川書房、1994年、1748円(税別)
 
 オープニングがまず魅力的です。映画「ディア・ハンター」を少し思わせる鹿狩りのシーンなのですが、こちら(スコットランド)で登場するハンター(イギリス軍人)をガイドする鹿猟師の優秀さが光ります。沈着冷静、自然を読むのに長けており、射撃の腕は抜群。なるほど、自然と射撃ねえ、と一瞬やはり映画の「スターリングラード」(スナイパーと狼)を思い出しながら私は一人肯きます。
 1992年、EUがまだECだった頃、イギリス政府のある大臣がイラクのサダム・フセイン暗殺を計画します。しかし、国家が直接行うわけにはいきません。そこで白羽の矢が立てられたのが、特殊部隊を退役して繁盛している警備会社を経営するハワード。成功報酬としてハワードは1000万ポンドを要求し、スペシャリストによるチームを結成します。少人数のチームでイラクに侵入し、複数の影武者に惑わされずに確実に本人を殺害する計画です。
 作戦は砂漠の真ん中の予定ですが、計画で使う予定の機材は……ゴムボートにオール、移動便器、軽量ブロック10トン、缶詰マーガリン4トン、冷凍コンテナ、冷凍エンドウ豆1トン半……
 
 こういった小説では、細部の説明(たとえば『ジャッカルの日』での、偽造パスポートの入手法とか狙撃技術に関する記述)が重要ですが、本書では説明が詳細なところとわざと説明を省かれるところがなかなか素晴らしいリズム感を読者にもたらします。
 「1200ヤード向こうの直径6インチの標的を狙撃」の説明で、狙撃手は「湿度はそれほど問題ではない」と言いますが、「ゴルゴ13」では問題にしていましたっけ。空気抵抗や火薬の燃焼速度に影響を与えるのだったかな。地球の重力、気圧と温度、さらにマグナス効果(弾の回転で進路が逸れる)も着弾点をずらします。弾がいつ超音速から亜音速になるのかも弾の挙動に影響を与えます。さらに風が吹き生きている標的は動きます。この物理的で即物的な話と、撃たれた人間がスコープの向こうで血しぶきを上げて倒れるという感情的な情景とが直接結びつくのですから、読者としては心の整理が必要です。
 
 貴重な情報が入手でき、ついにチームはサウジアラビアからイラクに侵入します。ぼろぼろの救急車で。ところがそこで起こした“一騒動”が、アメリカ情報局の関心を引いてしまいます。さて、チームは無事イラクの奥に進んで標的とコンタクトできるのか。不審な動きに気づいたアメリカはどう動き、それがチームの任務にどう影響を与えるのか……ということで下巻に続く。
 
 
27日(日)辞任
 NHK会長は任期満了数時間前に辞任しましたが、コンプライアンス担当役員なども一緒に「責任を取って」辞めたんでしたね。
 ということは、新会長は気に入らない人間はコンプライアンス担当役員に任命しておくと良いかも。根本的な体質改善をしない限りどうせまたすぐに一騒動あって、またやめる人間が必要になるでしょうから。どうせやめさせるのなら、自分の気に入らない人間でしょ?
 
【ただいま読書中】
バビロンの影(下)』デイヴィッド・メイスン 著、 菊池光 訳、 早川書房、1994年、1748円(税別)
 
 アメリカの分析官は衛星写真や空中警戒機のデータなどを過去に遡って詳細な分析を行うことで、ハワードのチームがイギリスから出発したことを突き止めます。イギリス・サウジアラビアなどで大がかりな捜査が行われますが、問題はイラク国内にもぐり込んだ人間たちをどうするか、です。
 サダム・フセインを排除するべきかどうか、アメリカ内部で意見は割れます。否定的意見が強いのが意外ですが、その論の中身はわかりやすいものです。サダム・フセインが突然殺されたらイラクは最低3つに分裂し、国内で大混乱が起きます。すると周辺諸国、特に、トルコ・イラン・シリアがイラクに手を伸ばすのは明らか、それをアメリカとしては座視できないのです。なるほど。21世紀の現在も米軍がイラクに駐留しているのは、イラクのためというよりもそういった周辺諸国に対するにらみの意味が大きいと考えればいいわけですね。
 ブッシュ大統領は、チームが隠れている倉庫めがけて戦艦ミズーリから巡航ミサイルを発射します。「サダム・フセインを殺させてはならない」のです。間一髪、ハワードたちはミサイルから逃れ、狙撃地点に到達します。あとは標的が現れるのを待つだけです。ついに現れた標的に対して、弾が発射されます。しかし、それは替え玉でした。
 イラクを脱出するチームの面々に追っ手が迫ります。アメリカの情報機関が持てる力をすべて使ってとんでもないことを企んだ“一味”を逮捕しようとするのです。さて、ハワードたちは、イラクからとアメリカの手から無事脱出できるのでしょうか。なにしろ、白昼堂々と「自分たちは欧米人でござい」と顔をさらしながら国道を通行しようというのです。しかも、敵地では侵入時と同じルートを通って撤退してはならないという、軍事上の犯してはならない鉄則に背いて。
 
 いやもう、様々なアイデアがてんこもりで「笑っちゃうしかない」点がてんこ盛りです。事件の背後にずっと隠れていた「大佐」とか「大臣」とか、その正体を知ったときにも私を襲ったのは笑いの軽い発作でした。
 ただ本書の難点は「人間が描けていないこと」です。一応いろんなパターンのキャラクターは登場しますが、どの男も一皮剥いたら同じ人間が出てきそうなくらい人物造形は薄いのです。女に到っては、一皮剥く必要さえありません。ただ、細部の精密さ・ストーリーの面白さ(ぐんぐん引き込まれます)、ついでに軍人上がりの著者の処女作という点を考えたら“割り引いて”評価しても良いでしょう。なにより湾岸戦争直後にこんな小説を書けたことに感心します。
 
 
28日(月)納経
 家内が何を思ったか昨年から写経を初めて、とうとう百日間続いたのでそれを納めにお寺に行くのにつき合いました。小学生の次男も一枚書いていたので、合わせて百一枚。お寺では二人分ということで御神酒を二本頂きました。
 せっかく滅多に行かないところに行ったので、ついでに(と言ったらいけませんね)祈祷もお願いしたのですが、お坊さんが読経しながら太鼓や木魚を叩くのを全身で感じているとだんだん気持ちが良くなってきて、これが行くところまで行ったら法悦の境地になるのだろうな、と感じます。足は痺れますけれど。
 帰りに、焼きたての○○まんじゅうを買って熱々のところをいただいたら、普段のふにゃっとした食感とは全然違って表面がぱりぱり中がほくほく。こればっかりは店で買わないと駄目ですね。ついでに焼き栗の店を見つけました。この前TVで「栗を低温で保存しておくと、デンプンが糖化されて美味しくなる」というのを見たばかり。聞いてみると国産の栗で在庫はもう少しだけ、とのこと。ポン菓子のような圧力をかけて焼く機械を使って皮にきれいに割れ目が走っています。はい、買いましたとも。帰宅してすぐ食べたら大粒でほっこりしていて天津甘栗とはまた違った美味さです。袋にはオーブントースターやレンジで温めるように書いてあります。魚焼きグリルでやってみたら、あら、美味しさがアップ。そういえばあのお店、昨年から始めたとのことですが、春や夏は何を商売にしているんでしょう?
 あれれ、お経の話はどこに行ったんだ? やっぱり私は「花より団子」の人間です。
 
【ただいま読書中】
現代思想の遭難者たち』いしいひさいち 作、講談社、2002年、1800円(税別)
 
 タイトルはもちろん『現代思想の冒険者たち』からです。このシリーズにはさみこまれていた月報に掲載された漫画に書き下ろしを加えたものだそうです。そういえばあのシリーズ、何冊か持っていますが(「読んだ」とか「理解した」とか書いていないことには、注目しないでください)、そんな漫画を読んだ覚えがあるようなないような……そういえば本書のトップ「ハイデガーとアレント」のエピソード(を扱った漫画)にはなんとなく覚えがあります。
 
 しかし“もの”がものだけに、どんな漫画かといえば……やっぱりいしいひさいちです。哲学用語を散りばめ、いしい流に料理してくれています。「哲学の本質」の解説は『冒険者』の方にまかせ、本書では「哲学のエッセンス(らしきもの)」を人がどのように受け取るか、に焦点を当てているように私には読めます。(私は哲学や思想は苦手なので、そういう読み方しかできない、とも言えますが) デリダの所の「それじゃどうしろと言うんだ」の繰り返しには、もう笑っちゃいます。“真面目”なデリダのファンには怒られるかもしれませんけれど。
 ただ、いしいさんはポパーにはずいぶん甘いですね。ファンなのかな? 私は、クーンに対する態度の点で、ポパーには厳しくなってしまうのですが。
 
 あまり知ったかぶりをするのは避けますが、本書を通読すると、現代思想家たちが必死にいろいろ考えていたことが結局何をこの世界にもたらしたのか、と思います。優秀な人たちが様々なことを主張しましたが、その努力は深い深い穴を掘ることに向けられて、一般人からは地表にぼこぼこ穴が開いているのが見えるだけ、になってしまったのではないか、と。いや、穴の中にはそれなりに“深い”世界があるのでしょうけれど、結局思想家たちはその穴の底で“遭難”しているのではないか……ちょっと深読みしすぎかな。単純に哲学のパロディを楽しむだけで十分かも。
 
 
29日(火)平和と戦争
 「仲が良い」とは単に「喧嘩をしない」ことではなくて、「喧嘩をしても、相手を決定的に傷つけることはせず、さらに、上手に仲直りができる」ことです。そこを勘違いして「喧嘩をしない」ことを目的にするから、非道い目にあっても「これで怒ったら関係が壊れる」とか我慢してますます非道い目にあってどんどんストレスが貯まって不幸になるわけ。一方がやりたい放題やって一方が我慢するだけなんて、それは表面上はたしかに「喧嘩のない穏やかな状態」に見えますが、少なくとも健全な人間関係はそこには存在しません。そして「仲が良い」とは健全な人間関係のことなのです。
 
 ならば「平和である」とは「戦争状態にはない」ことを意味するのではなくて……えっと、なんて表現すればいいのでしょう? 「たとえ戦争をしても……」……いやいや、戦争をしてはいかんでしょう。多かれ少なかれ「決定的に傷つく」人が出ますから。
 
【ただいま読書中】
戦下のレシピ ──太平洋戦争下の食を知る』斎藤美奈子 著、 岩波アクティブ新書37、2002年、760円(税別)
 
 戦争中の食べ物と言ったら「すいとん」「芋の葉やツル」「カボチャ」……(ちなみに私の父は戦争中に一生分のカボチャを食べたからもうそれ以上はいらないそうです)。だけど当時の日本人が実際にどんなものをどんな風に食べていたのかは、具体的には広く知られていません。
 話は戦前から始まります。戦前の日本では、農村と都会では貧富の格差がとんでもないものでした。土間のかまどで調理し、米はハレの日にしか食べられない農村(「おしん」の世界ですね)。水道・電気があり台所で調理し、米が日常的に食べられ日本料理だけではなくて洋風料理や洋風菓子まで作られる都会。婦人雑誌も明治末には150種あり、大正期には200種が創刊されました(それが終戦時には3種類になってます)。そこで家庭料理の“イデオロギー”が醸成されました。「栄養」と「愛情(主婦が家族のために手をかけて料理をするのは愛情の表れ)」です。
 十五年戦争の初期は「いけいけムード」です。「興亜時代の端午のお節句料理」として「鉄兜マッシュ」「軍艦サラダ」「飛行機メンチボール」なんてものが紹介されていますが、これ、レシピを見る限りけっこう美味そうです。あるいは「我が地方の自慢の料理」のページに「満州料理」が載ったりもしています。
 しかし、1938年には国家総動員法、39年に白米禁止令(七分づき以上は禁止)40年には節米運動が始まります。しかし自主的な節米は進まず、とうとう配給通帳制度が始まります。日本人って、あまり国家の言うことを聞かない国民ですか?
 節米料理として推奨されたのは、混ぜご飯(芋・豆・穀類を米と同じくらい入れる)や炒めご飯、代用食(パン・うどん・パスタなど)、そして、ボリュームのあるおかずを食べて米の消費を減らそう、といった献立……まだこの時期には切迫感はありません。栄養とか満腹感とかが考慮されています。しかし「興亜パン」は……メリケン粉に大豆粉、海草の粉、魚粉、野菜などを混ぜた蒸しパンですが……ベーキングパウダーで無理矢理膨らませた、なんとも不味そうな“パン”です。本書にあるとおりこれは「人間用の配合飼料」ですな。しかし笑っちゃうのは、戦意高揚のために「日の丸弁当」を推奨していたら、実はそれでは節米にならないことに気がついて、さっさとそれを“なかったこと”にしていること。それと当時米に外米(インディカ米)が6割混ぜられていたこと(だから混ぜご飯や炒めご飯が推奨されるわけです)。十数年前の米不足の時の「タイ米ミックス」を思い出します。これが本当の「歴史は繰り返す」?
 節米が必要だった原因は「食べ過ぎ」です。大正末期には一人が平均一日三合の米を食べていました(宮沢賢治の「一日ニ玄米四合ヲタベ」の世界です)。朝鮮や台湾からの移入で不足分を補っていましたが、朝鮮の凶作で全然足りなくなったのです。戦争が激しくなるとそれに輸送の問題が加わります。米を運ぶ船を戦争に回したいのです。配給制度によって一人一日二合三勺となり、1940年には「国民食栄養基準」(栄養所要量の公的な基準)も定められます。成人男子で1日2400Cal・蛋白質は80g……問題はそれが実現可能な目標だったか、ですが……男は戦地へ女は軍需工場に駆り出されて食料生産性が落ちています。そういった食材を数時間並んでやっと手に入れた人がどんな料理にしたか……涙ぐましい努力がつぎつぎ登場します。雑誌のレシピも、ただ「魚」とか「貝」とか、「手に入ったものを何でも使え」になり、さらに分量表示も消滅します。あるものはすべて使って家族全員に行き渡らせなければならないのです。手作りお菓子もあります。里いもでおはぎ(ねばりがあります)、おからをチョコレート色になるまで煎って代用チョコレート(著者が試したら、ココアパウダーのようになって美味しかったそうです)……
 
 「戦争の影響で食料がなくなるのではない。食料がなくなるのが戦争なのだ」と著者は述べます。日本帝国政府は、戦地での食料調達やそこへの輸送を軽視していました。同様に、国内での食料生産や輸送も軽視していました。腹が減ったら、戦には勝てませんなあ。貴重な教訓です。
 ……もしかして、「天皇陛下万歳」からあっさり「民主主義万歳」に切り替わったのは、空腹があまりに長く続いたから?
 
 
30日(水)地獄の住人
 もし地獄の定義が「神の不在」ならば、我々は地獄の住人なのでしょう。
 
【ただいま読書中】
縛り首の丘』エッサ・デ・ケイロース 著、 彌永史郎 訳、 白水社、1996年、1748円(税別)
 
 本書には「大官を殺せ」「縛り首の丘」の二つの短編が収められています。
 
「大官を殺せ」……「この呼び鈴をならせば、遠い中国の金持ちの大官が死に、その遺産がすべて君にもたらされる」と提案されたらどうします? リスボンで安月給(月に2万レイス)に耐えて内務省の官吏として実直に働いていたテオドーロは、迷った末に鳴らしました。すると、本当に莫大な財産が届けられたのです。1億600万レイスが。
 テオドーロは金満家として名を馳せます。しかし彼は鬱々とした日々を過ごします。金目当ての人間に取り巻かれていることも不満の一つでしょうが、なにより「自分が誰かの死に対して責任がある」という思いが重すぎるのです。さらに、遺産を遺族から“盗んだ”ことも。
 とうとうテオドーロは北京を訪れます。大官の遺族を探すために。探し当ててどうしたいかの明確なビジョンはないのですが、ともかく何かをしたいのです。しかしそこで彼を迎えたのは、甘い誘惑と石つぶてでした。
 最後にとってつけたような教訓「美味しいパンは、自分の手で日々稼いだパンだけである」がついていますが、これはたぶん意識して蛇足をつけてますね。そこまでの不思議な道行きと心の揺れが醸す奇妙な味で、十分楽しめます。
 
「縛り首の丘」……セゴビアの町、大貴族ラーラの若い奥方リオノールの君に、若くて美大夫の騎士ドン・ルイが恋をします。しかしその思いは夫の知るところとなり、嫉妬に狂います。妻をセゴビアからカブリルの町に移し、偽の手紙でドン・ルイをおびき出して殺そうとするのです。リオノールの君は、ドン・ルイのことなど知りもしないのに。セゴビアからカブリルの町への近道は「縛り首の丘」。縛り首用の石柱が4本立ち、吊された罪人が腐って(あるいは動物に食われて)落ちるまでそのままにされている場所です。そこでドン・ルイは、不思議な“供”を得ます。吊されていた死体が「お供したい」と言ったのです。結局死人はまた殺されることになります。そして生者の間では一波乱が……
 
 なんだが、昔懐かしいにおいのする作品集です。解説を見ると著者は19世紀に生きた人で、たしかに「古い小説」ですが、私は本書を読んでいて、なぜかカフカを読みたくなっていました。全然タイプが違う小説なのに、なにか“におい”が共通なのです。透徹した文体、人に寄り添うようで突き放した視点、そして皮肉とユーモアが入り交じった奇妙なにおい。宗教もしっかりとふりかけてありますが、よくよく見るとそれは“脇役”です。すでに「神は死」ぬ徴候がよく見えます。
 
 
31日(木)衝突
 人は自由に生きることがなかなかできません。そうしようとしたら(そうしようとしなくても)必ずなにかに衝突します。個人と個人が衝突した場合は、“勝負”や“交渉”ができます。個人と個人は対等なのですから。でも、見かけは「個人と個人」でも、その内容が「個人と社会」の場合もあります。この場合には「個人の利益」と「社会の利益」のぶつかり合いということになり、多くは個人が負けます。
 仕事で管理職をやったりしていると、見かけは「個人」なのに役割は「社会」ということが多くあります。私としては「個人でありたいのに」と思いつつ「社会」として行動するわけで、忸怩たる、というと言い過ぎですが、なんだかすっきりしない思いがどうしてもつきまといます。別に役職を持っていなくても、人が複数集まればそこはなんらかの「社会」です。となれば、そこに含まれている「個人」は実は「社会」の側面を持ってしまうのです。
 私はmixiのコミュニティの管理人なんてものもやってますが、これも見た目は「個人」ですが実は「社会」そのものなんですよね。「社会」をやるなんて個人には荷が重いようにも思うのですが、というか、仕事のあとの公私の私のときくらい「個人」をやらせろ〜(魂の叫び)。幸い最近トラブルはありませんが、それでも純粋に楽しく発言を読む前に「規約違反はないか」とか気にしなくちゃいけないのは、面白くありません。
 
【ただいま読書中】
死体は生きている』上野正彦 著、 角川書店、1990年、1165円(税別)
 
 元東京都監察医務院長だった著者の『死体は語る』の続編です。30年間監察医を務め、2万体の異状死体を検死したり解剖したそうですから、ネタはいくらでもあることでしょうね。しかし、「警察のように状況から事件を考えるのではなくて、死体から考える」という視点からは、こちらの意表を突く記述が次々登場します。
 
 まずはことばから。「検死」は死体を外から見て死因を推定することです。変死の場合には検死が行われます。しかし、検死でわからなければ、監察医によって解剖をすることができます。(ただし、監察医制度が日本でほぼ完璧に機能しているのは東京都だけです) 監察医の判断でできる解剖を「行政解剖」と呼びます。それに対して、犯罪の死体を検事の指揮下でみることは「司法検死」「司法解剖」と呼ばれます。(根拠となる法律が異なります)
 
・首つり(縊死)の区別も載っています。呼吸ができなくなって窒息死するのは非定型的縊死です。では定型的縊死とは? これはひもが左右対称にかかりかつ全体重が一気に作用した場合に、両側頸部神経叢が圧迫されて反射的に心停止をきたしてあるいは頸部の動静脈が一瞬に圧迫閉塞されて急死する状態です。(そう言えば「足が地面についた状態でも首つり自殺はできる」は著者の前著で読んだのだったかもしれませんが、それは非定型なのですね) だから「真似をしてみよう。苦しくなったら綱をつかめばいい」とか思ってうっかりやってしまうと、あっさり手足が麻痺して心停止、ということもあるのです。
・幅広いもので首を絞めて索溝が残らないようにし、さらに放火して体の表面を焼いて証拠が残らないようにした事件。それを解決したのはやはり解剖でした。監察医は意外なところを見ることで死因も凶器も死亡時間も推定できました。見る人が見たら、死体は雄弁なのです。
・親友4人が一台の車で遊びに出かけてガードレールを突破して急斜面を転落、4人とも死亡といういたましい事故がありました。ところが遺族から運転者(と目された人の家族)に対して賠償請求が。当時はまだ交通外傷の鑑定は未成熟で、経験豊富な著者のところに話が持ち込まれます。記述内容から見てまだ昭和の中頃、エアバッグとか安全ベルトがある時代ではないですから、4人の体がこんがらがった状態で発見されたはず。それでも全身の写真を見て著者は誰が運転していたかを(根拠をつけて)述べます。それは皮肉な結果でした。一番強硬に賠償を要求していた家族の息子が運転者だったのです。
 バイクでも同様の事例があるそうです。二人乗りでともに死亡して「自分の子どもは同乗者だった」と“運転者”側に賠償請求していたら、鑑定で逆だったのがわかったそうな。……えっと、こんな場合、「自分が相手に要求していたこと」をそのまま相手にしてあげるんですよね?
・車庫の中の車内で死亡していた男女二人。締め切った車庫でエンジンをかけっぱなしにしていての一酸化炭素中毒です。女は下半身裸、男のズボンのチャックが開いています。ナニカをしている最中だったのでしょう。ところが死後変化が、女は二日前、男は五〜六日前に死亡した様子なのです。同時に死亡していないと言うことなのでしょうか? 一体二人に何が?
 
 監察医制度は、死因を究明するためだけの制度ではありません。不審な死を遂げた人にその“言い分”をきちんと語らせることは、死者だけではなくて生者のためにもなるものだと思います。