mixi日記08年2月
 
1日(金)割り箸
 「木材を使い捨ての割り箸なんかにするのはもったいない」と言う人がかつてけっこういましたが、大黒柱にできる木をわざわざ割り箸にして安く売る人はいないでしょう。丸太から四角い柱や板を取った残り、かまぼこ形になった端材を、捨てたり燃やしたりせずに「もったいない」と利用したのが国産の割り箸なのです。
 
【ただいま読書中】
割り箸が地域と地球を救う』佐藤敬一・鹿住貫之 著、 創森社、2007年、1000円(税別)
 
 「割り箸によって熱帯雨林が破壊されている」と割り箸使用拒否とマイ箸持参、を行っている人がいます。たしかに一回限りで箸を捨てるのはもったいないし環境に悪いのではないか、と直感的には思えます。
 で、本書のタイトル。まあ何というか、ある意味強烈ですね。だけど、その根拠はなかなか確かです。
 
 著者はNPO法人「樹恩」で、間伐材による割り箸を広める運動を行っている人です。間伐は森林の手入れに不可欠です。荒れた山は災害の元ですしCO2吸収も活発ではありません。しかし、間伐材を売ることができなければ、山の手入れがきちんとできません。
 かつて間伐材は建築の足場などに利用されていましたが現在はほとんど使われなくなりました。国産の木材自体が現在安い外材に押されて自給率は20%です。ついでに言うと、国産の割り箸業者も安い輸入(99%が中国)に押されて次々廃業しています。割り箸の輸入率は現在98%。ですから、間伐材から割り箸を作れれば、それは資源の有効利用であると同時に、日本の国土のためにもなります。ところが、間伐材は木材としては未熟で弱い材質です。したがって、間伐材から作った割り箸は弱くて折れやすい特徴を持っています。まあ、一回限りの使用ですからそれほど問題にはなりませんが。これが「地域を救う」の意味です。(ついでですが、割り箸作りを樹恩は障害者の作業所に委託しています。これも地域を救う(貢献する)の一環ですね)
 では次の問題。地球です。なんでも使い捨てにせずに再使用した方が環境には良いはずです。ところがどっこい、話はそう単純ではありません。たとえば「マイ箸」にプラスチックの箸を使うと、その材料は石油ですよね。環境に“良い”でしょうか? それと、材質は何にしても、清潔に使い続けるためにはきれいに洗わなければなりません。これは水質汚染の元です。
 樹恩の“お得意様”である大学生協連は、ISO14001を取得していますが、排水の基準を満たすために使用後洗浄の必要がない割り箸を採用しています。(ついでですが、水汚染を減らすためには、三角コーナーにネットではなくて濾紙をセットし、皿も洗う前にまずすべてぬぐうと、排水のBODはみごとに減少します。そのかわり紙の使用が増えます(皿を布でぬぐったら、結局それを洗うのにまた水と洗剤が必要ですから)。環境問題は、何か一つの手段ですべてが解決するほど単純なものではなさそうです)。
 使った割り箸は、現在はパーティクルボード(カラーボックスの裏面などの芯材)や炭としてリサイクルされているそうです。
 
 もろくて高価な(中国産の数倍のコスト)をなぜ使うのか、大学生協の食堂で割り箸を見つけたら、反射的に悪口を言ったりするのではなくて、ちょっと環境について考えてみたら良さそうです。少なくともそういった教育的な意味も付加されているようですから。
 
 
3日(日)鬼の金棒
 あの金棒を鋳造(または鍛造)したのは、誰なんでしょう?
 
【ただいま読書中】
妖精写真』スティーヴ・シラジー 著、 宇佐川晶子 訳、 早川書房、1994年、1942円(税別)
 
 「夜が明けたら絞首刑という状況は、人間の意識をすばらしく研ぎ澄ます」
 明日死刑になる人の手記、という体裁で本書は始まります。時は1920年代(ちょうどサー・アーサー・コナン・ドイルが子供が作った偽の妖精写真にだまされた頃です)。プロの写真家(腕は良いが商売はからきし下手)であるキャッスルは、スタジオに押し入り面会を強要するために暗室の壁に拳で穴を開ける乱暴な警官ウォルズミアから、美しい二人の少女の写真を見せられます。ウォルズミアはその写真に散らばる光の斑点を「妖精」だと主張します。妖精は見えませんでしたが、キャッスルは少女たちの姿に魂を奪われます。そこからあれよあれよと言う間にキャッスルは写真が撮影された田舎町パーキンウェルに出かけることに。道中の汽車で同室になった牧師の妻が少女たちにカメラを与えていました。少女たちの母親は事故でウォルズミアによって殺されていました(その母親とウォルズミアとの間に不倫の噂もあります)。そして「妖精」の出たという庭。キャッスルは庭の美しさに魂を奪われます。同時に牧師の妻リンダにも心惹かれます。そしてリンダの方も、キャッスルにまんざらではない様子です。
 教会の地下室、ジプシーのキャンプ、と、それ自体が不思議な異界のような場所を経由して、キャッスルはついに(“妖精”が撮影された)テンプルトン家のコテージに立ち入ります。キャッスルは新しく写真を撮りますが、妖精は写っていません。そのかわりのように、キャッスルは、夜のジョギングに励む牧師の秘密、ウォルズミア巡査の秘密、宿の娘エスミレルダの秘密、そして二人の少女たちの秘密を知ることになってしまいます。
 しかしキャッスルはまだ自分の秘密を知りません。少女たちは「妖精を見た」といい、それをいじめる「悪い小人」を退治する遊びに熱中していました。妖精も小人も大人たちには見えません。ところが……キャッスルにはそれを見ることができる力を持っていたのです。
 そして、すべての秘密が一点に集中したとき、キャッスルは死刑を宣告されてしまうのです。まるで、悪い妖精に操られたような不条理な状況の下で。
 
 今だったら技術的に解決できそうな謎もあります。しかし時代設定は1920年代。カメラもフィルムも現像技術も今とは違います。その技術的限界の中に設定された謎は、とても魅力的です。さらに「庭」の美しさ。英国の田舎の庭がどのくらい美しいものか、文章を読むだけで読者の脳裡に固いイメージが形成されます。そしてそれを踏みにじる大人たちへのネガティブな感情も。
 
 そういえば、妖精は英語でfairlyですが、これはfairと関係があるのかな?
 
 
4日(月)自分史
 なんだか最近は「自分史ブーム」なんだそうで、先日ネットでそんなアンケートを受けてしまいました。私にも自分史を書かせたいのかしら。そんな気はありませんけどね。もちろん、自分のことを語りたい人を止めるつもりはありません。そういえば「どんな人でも最低一冊の本なら書ける。自分の人生を語ることで」と言ったのは誰でしたっけ。
 
 ただ、自分の人生“しか”語れないのは、ちと寂しい人生だとも思います。
 
【ただいま読書中】
商船戦記 ──世界の戦時商船23の戦い』大内健二 著、 光人社NF文庫、2004年、838円(税別)
 
 第二次世界大戦では、太平洋・大西洋合わせて9000隻(3700万総トン)の商船が失われました。失われたのは船だけではなくて、搭載された貨物や人員もですから、莫大な損失です。本書では、第一次世界大戦まで遡って、戦時商船がどのような“戦い”を行ったのかをまとめてあります。
 
 まずは高速豪華客船ルシタニア号。20世紀初めは、人類の大移動のようにヨーロッパから新大陸に移民の波が押し寄せました。輸送手段は船です。ドイツは高速をウリにし、イギリスは豪華をウリにしました(タイタニックやオリンピック号がその代表です)。で、高速と豪華を両立させたのがルシタニア号。3万1550トン・全長236mの数字は進水当時世界最大を誇っていました。しかし、1915年にアメリカから人員と貨物と軍需物資(中立国(当時アメリカはまだ中立でした)からの軍需物資輸送は“違法”です)を乗せて航行中、Uボートからの一発の魚雷で2回の爆発を起こし、急速に沈没します。
 謎は、2回目の爆発です。はじめは積んでいた砲弾などの誘爆という説が有力でしたが、今では石炭粉での粉塵爆発説の方が有力となっているそうです。ともあれ、1959名中1200名が死亡し(3年前のタイタニックに続く、当時史上2番目の海難死者数)、そのうちアメリカ人が400人だったためアメリカ世論は沸騰、対独開戦に傾きます。ドイツとしては「攻撃するぞ」と警告をしておいたのになんで? だったかもしれませんが。
 
 ブリタニック号は、姉妹船タイタニックの悲劇を教訓として、二重船殻の採用や防水隔壁の延長など不沈構造を強化していました。戦争によってブリタニックは3000人を収容できる病院船に改造されます。しかし地中海で機雷に触れたとき、ちょうど勤務交代の時間で隔壁の扉はすべて開いており、しかも触雷のショックで電動閉鎖装置が破壊され、ブリタニックはあっさり沈んでしまいます。タイタニックと同じ場所の破壊で沈没……これは偶然かそれとも……
 1942年、横浜港に入港中のドイツ仮装巡洋艦が謎の爆発を起こしました。推定でTNT火薬79トン分の規模で、死者102名、港湾施設はほぼ全壊、港から1600m離れたところでも爆風でガラスが割れています。
 しかし、1917年、カナダのハリファックス港の爆発事故では、輸送船に積まれた2500トンもの爆薬が爆発してしまいました。市街地はほぼ全壊です(半壊以上の建物が3000棟、死者行方不明3600人、ガラスによる失明が200人……)。
 
 第二次世界大戦中商船で最大の犠牲者は、45年1月30日ソ連潜水艦に撃沈されたドイツの客船ヴィルヘルム・グストロフの9,331人です。次はソ連潜水艦に雷撃されたドイツ船ゴヤの6,666人。どちらもほとんどは本国に脱出しようとするドイツ系難民でした。日本の貨物船隆西丸の4,999人は4番目です。合計をしたら日本はダントツの多さですが(上から30隻の合計で75,000人)そのほとんどは陸軍将兵です。ところが、港で撃沈されたのに犠牲者数がよくわからない例があります。ドイツの電撃作戦に追われてフランスからイギリスに脱出するランカストリア号には、将兵5,200人とフランス民間人数千人が乗っていました。それが空襲で沈没。2,477人が救助されましたが、結局犠牲者の総数は不明で、しかも軍機扱いのため、詳細が公表されるのは沈没から100年後の2040年だそうです。
 
 本書を読んでいると、日本の「戦略の不徹底」が目立ちます。せっかく仮装巡洋艦(商船のふりをして敵を油断させて突然武器をつきつける)を造っても、少ない隻数を攻撃型と守備型に分散させ、さらに攻撃型のものを輸送目的にも用いようとします。陸軍が航空母艦を造ろうとします(上陸輸送船(内部に上陸用舟艇を収容)に飛行甲板をつけて航空支援をしようという発想ですが、大した飛行機は載せられません)。1937年に「優秀船舶助成施設」を策定して、軍事目的に転用できるように商船を造らせているのに、これまた想定した性能が中途半端。さらには、戦争が始まってからの造船計画には、戦争で異常に損耗する分を考慮に入れていません(昭和17年は当初40万トンの造船計画ですが、開戦後3ヵ月だけで23万トンの損失だったのです)。悪名高い戦時標準船の粗製濫造(雨漏り水漏れは当たり前だったそうな)はここから始まります。
 
 日本の問題は「船」ではなくて「戦争に対する姿勢」だったんだな、とつくづく思います。
 
 
5日(火)地球の円周
 中学生のときに友人に出されてみごとに引っかかったクイズです。
 「凸凹はないものとして、地球の赤道にぐるりとロープを巻くと約4万km(海があるので実際の地球に巻くのは難しいでしょうから、地球と同じ大きさの岩石の星に巻いてもよいです)。そのロープを少しゆるめて、どこも海上または地上から1メートルのところに浮かせてぐるりと地球を取り囲んだ状態にしたとする。すると、さっき地球にきっちり巻きつけていたときよりロープは何メートル(あるいは何キロメートル)余分に必要か。大体の数字でよい。桁が合っていれば正解とする」
 で、適当に、数十キロとか1000キロとか答えると、みごとに全員不正解。
 
 きちんと考えたら正解は簡単ですよね。約6mです。地球の直径をxメートルとしたら、(x+2)πーxπ=2πメートルなのです。地球と言われたから容易にだまされましたが、これが野球ボールだったらすぐ概算できますよね(少なくともキロメートルにならないことは一目瞭然)。野球ボールでも地球でも使う式は同じ、がこのクイズのキモです。
 
【ただいま読書中】
水平線までの距離は何キロか? ──文系でも楽しめる「およそ数学」の世界』沢田功 著、 祥伝社、2007年、1300円(税別)
 
 「水平線までの距離は何キロか」「空の端から端までの飛行機雲の長さは何キロか」を厳密にではなくて「およそ」で求めるにはどうすればよいか、そしてその結果は、の本です。
 だからといって、著者は数学を“適当”に扱おうとはしていません。たとえば「分数の1/3とはなにか?」と著者は読者に問いかけます。これにうっかり「1を3で割ったもの」と答えてしまうと「それは小学校なら○だが中学なら△。高校では『割る』ということばを使わずに説明しなければならない。では、分数の1/1.7とはなにか?」です。著者が求める回答は「無数にある数の中で、たまたま3をかけたら1になる数のことを、1/3と言う」です。こう答えたら「1/0」が存在しないわけも即座に説明できます。「ゼロをかけたら1になる数」なんてものは存在しないのですから。「1を3で割ったもの」は算数レベル。しかし、著者が求めているのは数学なのです。
 
 では、砂浜に立って見える、左右に果てしなく広がる水平線は一体自分からどのくらい離れているか。これは地球に相当する円を作図してピタゴラスの定理を使えば、約5kmと計算できます。水平線って、意外と近いんですね。もちろん、高いところから見たら、水平線はもっと遠くに行きます。だから灯台は高いところに灯を灯すのです。ちなみに、東京タワーでは、大展望台(150m)は45km、特別展望台(250m)は60km先の水平線(あるいは地平線)が計算上は見えるそうです。富士山頂からは220km。もっとも、私が見たときには遠くは霞んでよく見えませんでしたけれど。
 高度1万mを飛んでいる飛行機の飛行機雲ははたしてどのくらいの長さが地上から見えているのでしょうか。これもさきほどの水平線問題の応用で解けます。計算方法は本書を見てもらうとして、頭の真上を通って空の端から端まで切れ目のない飛行機雲の長さは、約700km。ほー、ずいぶん長いものですね。ただし、人の視力の限界を考慮に入れると、視力1.0の人は500kmくらいは飛行機雲を見ることができる、と著者は計算しています。
 
 野球でヒットを打つためには、野手の間ではなくて野手を狙え、と著者は主張します。これにはベクトルの根拠付きです。イチロー選手などヒット(特に内野の間を抜くもの)を量産するバッターは、そのコツを自然に会得しているのでしょうね。
 
 よく「数式を使わずにわかりやすく」書いた本があります。しかし本書は「数式がバンバン出てくるけれど、わかりやい」本です。たとえばテーラー展開を暗算で求めようだなんて普通は思いつきませんけど、本書で多用される「計算の醍醐味」で著者はそこを乗り切ってしまいます。数学が苦手だけれども楽しみたい人には、オススメの本かも。
 
 
6日(水)清貧
 清く正しく美しく、ついでに貪らず貧しくあれ、というのは、きわめて“真っ当”な態度のように見えます。自分の人生にそれを心がけるのは、見ている人間の心を清々しくさせます。
 でも、「それ」を他人に強制するのはどうなんでしょう。主張そのものは真っ当でも、とにかく他人に強制したくて強制したくてしかたない、という態度には、“病的”な臭いがするのですが。くんくん。あるいは、自分自身がそういった態度(清貧)で生きていないのに他人にはそれを求める、という態度には、胡散臭いものを感じるのですが。くんくん。
 
【ただいま読書中】
20年後』(オー・ヘンリー ショートストーリーセレクション(1)) オー・ヘンリー 著、 千葉茂樹 訳、 和田誠 絵、理論社、2007年、1200円(税別)
 
 表紙だけ見ると一瞬星新一の本かとも思えます。私には、何か和田さんの絵に関して「刷り込み」が行われているのかも。
 
 本書に収められているのは「20年後」「改心」「心と手」「高度な実利主義」「三番目の材料」「ラッパの輝き」「カーリー神のダイヤモンド」「バラの暗号」の九編です。
 
 オー・ヘンリーの作品は、決して傑作ばかりではありません。しかし、それでも読んでいたら“安心”できます。そこに登場する人々は“生きて”います。それぞれの人の独立した人生がアメリカのどこかで交叉し、その交点に生まれたなんらかの衝撃が記録されたものがオー・ヘンリーの短編です。落ち着いた筆致は著者の人格と時代の反映なのかもしれませんが、ときどきはこうやって古いところに戻って自分が本を読むことの原点を確認するのは、私にとっては重要なことです。
 
 ちなみに本書で一番好きなのは……「三番目の材料」と「20年後」が同着です。それに僅差で「高度な実利主義」と「改心」と「心と手」と「オデュッセウスと犬男」が一団となって続いています。
 理論社が何を思って今頃になって星新一やオー・ヘンリーを新版で出しているのかはわかりませんが、私にとってはありがたいことです。
 
 
7日(木)宗教的徘徊
 巡礼は聖地や霊場をめぐって旅をしますが、教祖もまた旅をしていませんか? ユダヤ教の場合は教祖がわかりませんが、それでも旧約聖書の中は「旅」だらけです。釈迦もキリストもムハンマド(マホメット)もやたらとうろうろしています。
 もしかして宗教には、人を「移動」へと駆り立てる不思議な力があるのかもしれません。
 
【ただいま読書中】
旅の比較文明学 ──地中海巡礼の風光』吉澤五郎 著、 世界思想社、2007年、2600円(税別)
 
 世界中に「巡礼」のルートがあります。日本やインドではおおむね右回りのコースですが(たとえば四国八十八ヶ所)、西欧やイスラムでは直線的な往復です。これは多神教と一神教の違いなのかも、と本書にはありますが、日本でも往復運動のお伊勢参りなんてものもありますから、なかなか単純化は難しいかもしれません。
 ヨーロッパの中世、特に十二世紀は「旅人の時代」と呼ばれました。多くの巡礼がスペイン西北の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指しました。それまでの二大聖地、エルサレムとローマに加えて第三の波(12世紀初頭には年間50万人の巡礼者)です。(ちなみにサンティアゴとは聖ヤコブのスペイン語で、この地には聖ヤコブの墓がある、とされています) 著者はこの巡礼に、現在のEUにつながる「(一体としての)ヨーロッパ」の概念成立を見ます。9世紀の聖ヤコブの墓所発見は、カール大帝のフランク王国統一およびレコンキスタ(イスラムに支配されたスペインに対するキリスト教国の国土回復運動)と重なります。なおフランスからコンポステーラへの巡礼路は、ピレネー山脈を越える非常に険しい道のりです。
 巡礼路を通して文化も容易に広がります。たとえば小アジアの司教聖ニコラウスの伝承は巡礼路を通じて全ヨーロッパに広がり「サンタクロース」となりました。
 巡礼の道を通るのは、巡礼だけではありません。異国の文化も通ります。道は、自分の上を通るものを選択できないのです。例えば異教の像が流れ流れてキリスト教のマリア像になったりします。そこの話をもっと読みたいと思っていたら、残念ながら本書はトインビーの文明観の対話や司馬遼太郎の歴史観の話になってしまいます。キリスト教(西欧)中心の世界観の中でイスラームがどのように位置づけされるのか、も大切な話ではありますが、私としてはもうちょっとちまちました話を読みたかったなあ。もちろん、ナショナリズムや国家中心の史観や文明観よりももっとスケールの大きな文明史観とか宗教観の話も読んでいてわくわくするものではありますけれど。
 「地理と歴史の旅人」としてのトインビーについての記述が続いた後、「周辺」から見たヨーロッパというテーマが登場します。ヨーロッパは「単独のヨーロッパ」として存在し続けてきたわけではありません。常に内部で流動をし、周辺では外部と交流をし続けてきています。著者はその例として各種の美術品を上げます。それを著者は自分の足で確かめようとしますが、私には「狂言回し」を置いた方がもっと効果的な記述ができたのではないかと思えます。
 
 古代ギリシアでは「小アジア」も重要な存在でしたし、「ヨーロッパ」の基礎とも言えるローマは決してイタリア限定の存在ではありませんでした。イスラムや元も「ヨーロッパ」への侵入をしっかりしています。そのあたりの歴史のダイナミズムを今の「世界史」はちゃんと生徒に伝えているのかなあ、と私が受けた教育を振り返りながら考えていました。
 そういえば、私の学生時代にはイスラム史なんてほとんどありませんでしたが、今はしっかり教わるんですよね。ちょっと羨ましい気持ちです。
 
 
8日(金)塾の新年度
 新聞の折り込み広告を見ていて、小学生相手の塾ではすでに新年度が始まっていることに気がつきました。それはそうでしょうね、中学受験がもう終わったのですから。ということは高校受験・大学受験の塾(予備校)ももうすぐ続々と“新年度”が始まるのですね。さすが「暦の上では春」です(意味が違います)。
 で、塾によっては、有名中学への合格者数を麗々しく掲げているところもあれば掲げていないところもあります。ただ、合格者数がやたらと多い塾の広告を見ると、“分母”(何人受験したか、そのそも塾に何人所属しているか)が書いてありません。それと重複した合格者(いくつも受験していくつも合格した人)の数も不明です。そのへんのデータも公表してくれないと、その塾が“よい塾”かどうか、わからないんですけどねえ。
 
【ただいま読書中】
川べの小さなモグラ紳士』フィリパ・ピアス 著、 猪熊葉子 訳、 岩波書店、2005年、1800円(税別)
 
 足の骨折で自宅から身動きが取れなくなったフランクリンさん(“理論”派のへんくつじーさん)は、家の手伝いに来るアラムさんの小さな孫娘ベット(エリザベス)に目をつけます。フランクリンさんが依頼したのは、自分のかわりに牧場の川縁で本を大きな声で読むこと。ベットは読み始めます。「イギリスにはミミズが大量に棲息する……」(チャールズ・ダーウィンのミミズの研究ですね。イギリス国土の表土はミミズのお腹を何回も通過している、だったかな)
 ベットは小さな声で話しかけられます。モグラから「おまえさんはなかなかうまく読む。また来てもいいぞ」と。だけど、フランクリンさんはお断り、だそうです。
 ダーウィンの次はテニソンの詩集です。
 どうしてモグラがそのような知性と感受性を持っているのか……の前に、なぜ人間のことばが話せ理解できるのか。モグラがベットに話す(そしてフランクリンさんには話さない)内容は、驚くべきものです。モグラは実に300年も生きているのですが、それはイギリスの王位継承事件(ジャコバイト)に巻き込まれて魔法を(それも二度も)かけられてしまったせいだったのです。幽閉されていたスコットランドから生まれ故郷(ロンドンの向こう側)を目指すモグラは、「ただのモグラ」に戻りたいと願っています。不死の生命も人間とのコミュニケーションもいらないのです。
 ベットの母親は、ベットが小さいときに家を出ていましたが、今は新しい家庭を持ちベットと共に暮らしたいと願っています。ベットのこれまで落ち着いていた生活は、モグラとの友情と、母親との新しい生活とで激しくかき乱されます。
 
 著者はのびのびとイギリスの田舎の風景を描きます。深読みするならば、その風景のすべてに“背景”や“歴史”がある、と言ってもいいでしょうが、子ども向けの本でそこまで読む必要はないかもしれません。ただ、否応なく人間の“歴史”と“社会”に巻き込まれてしまったモグラの願いが叶うかどうかにはらはらし、そして、モグラとベットが行った地下世界での冒険を楽しむだけでも、本書は十分読むに値します。
 
 
9日(土)どちらが強い?
 文化人と野蛮人がほぼ対等な戦力で戦ったら野蛮な方が勝ちます。それは当然ですね。“腕力”だったら野蛮人の方が圧倒的に強いし、暴力をふるうことに対する禁忌も文化人の方が多いけれど、野蛮人はまったくためらいなく“敵”に暴力を徹底的にふるうことができますから。(私は大航海時代に植民地にされた地域の人たちは「文化的な人間」(だから野蛮なヨーロッパ人の暴力に屈した)と思っています)
 では、暴力的な手法を封じた状態で、おバカとお利口がぶつかったらどうなるでしょう。当然お利口が口で勝つと思ったら大間違い。今の日本社会では、おバカな方は自分が間違っていることにさえ気づかずそのまま押し通すから、結局お利口な方が負けることになるのです。
 
【ただいま読書中】
天狗はどこから来たか』杉原たく哉 著、 大修館書店(あじあブックス)、2007年、1700円(税別)
 
 「天狗」は元々中国では「てんこう」と読んで、天から降ってくる/音を発する(狗とは犬の鳴き声)/災厄をもたらす、の特徴を持っていました(史記の時代)。つまり、隕石のことです。唐の時代の民間信仰では、子孫繁栄の邪魔をする「天の悪犬」として四つ足の妖怪とされました。
 日本でも最初「天狗」は「てんこう」でした。日本書紀舒明天皇の段に「大きな星が東から西に流れて音がした。人々は「流星の音だ」「地雷だ」などと様々言ったが、旻(みん)という僧は「天狗である」と言った」とあります。飛鳥時代には中国の天狗がそのまま日本でも生きていたようです。
 その後文献上はしばらく天狗は日本では登場しませんが、平安時代後期にまた登場し始めます。(例として『宇津保物語』や『源氏物語』が挙げられます) また、10世紀頃から「天狗」を「天狐」と書く例も増えます。
 そして11世紀、天台宗と関係を持った半分鳥で半分人の(現在私たちが「烏天狗」と言ったら思い浮かべる形の)「天狗」が登場します。これは怨念を晴らそうとする妖怪で、12世紀の『拾遺往生伝』では恨みをのんで死んだ僧正真済が天狗道に堕ちて恨みを晴らそうとする話が載っているそうです。天狗道? 六道輪廻に一つ追加ですか? さらにその書には、トビの形をした天狗が僧侶を堕落させる話も載っています。そういった“駆け出しの妖怪”である天狗が一躍スターダムにのし上がったのは、12世紀の『今昔物語集』によります。著者は、天台宗内部の派閥争いおよび、旧仏教(天台宗と真言宗)と新興の浄土教の対立が、当時の天狗物語の興隆に影響を与えている、と読んでいます。
 
 著者は「天狗さらい(天狗に人がさらわれる)」は、トビが食べ物をさらうことがあるように、猛禽が赤ん坊をさらうことがあったのがもとではないかと推定しています。猛禽が襲うウサギも大きなものは数キログラムになるから、文字通り「鷲づかみ」される赤ん坊も昔は結構いたのではないか、と。中国や日本の古い説話集には「赤ん坊が鳥にさらわれる話」がたくさんあるそうです。これまた「空からの災い」です。
 
 天狗の鼻については、決定打はないようですが、いくつかの推定がされています。たとえば伎楽のお面、鼻が高い西域人の影響、ペニス……著者は、天狗が半鳥半人であることのシンボルとして、はじめは嘴をつけたが「鼻の下の嘴」はバランスが悪いため、鼻を高くすることでその代用としたのではないか、と述べます。そういえば手塚治虫の『鳥人大系』では顔にはたしか鼻がなくて嘴そのものがついていましたね。
 さらに日本の天狗のイメージには中国の影響も濃い、と著者は述べます。中国には元々有翼の神や羽人がいました。さらに、半鳥半人の存在もいるのです(たとえば、鬼子母神を描いた絵では、鬼子母神の手下たちが半鳥半人に描かれています)。
 
 「図像学(ずぞうがく)」という聞き慣れない学問的手法を用いて、著者は天狗のルーツを探ります。私は烏天狗・鞍馬天狗・天狗党、くらいしか天狗ということばから連想しませんでしたが、なかなか、日本の歴史の中で天狗はユニークな位置を占める“妖怪”のようです。
 
 
10日(日)地方
 かつての自民党は農村票、社会党は労働組合、という住み分けをしていました。だから選挙制度は田舎重視でした(いまでもその名残が有権者数と議員定数のアンバランスに残っています)。ところがいつのまにか自民党は田舎を捨て都会を地盤としているようです。社会党は……消えちゃいましたね。
 
 日本の政治の基本が多数決(と根回し)である以上、「多数派」の意見は大切です。でも、少数派(たとえば今の田舎の住人)を最初から「存在を無視」する態度で良いのか、とも思います。田舎が滅びたら都会も困るでしょ? 国産の農産物は必要じゃないのかな。
 いっそ、人口と面積で投票の重みづけをしたらどうでしょう。「一人一票」×「選挙区面積による係数」で定数を定めて選挙を行うんです。これだったら「日本全体」をどうするかについての意見が拾い上げやすいかも。
 
【ただいま読書中】
戦後占領期短編小説コレクション(5)1950年』紅野謙介・川崎賢子・寺田博 責任編集、藤原書店、2007年、2500円(税別)
 
収録作品
「薔薇販売人」吉行淳之介、「八月十日」大岡昇平、「矢の津峠」金達寿、「天皇の帽子」今日出海、「虚空」埴谷雄高、「小市民」椎名麟三、「メリイ・ゴオ・ラウンド」庄野潤三、「落ちてゆく世界」久坂葉子
 
 まだ日本が連合国の占領下にあった時代、戦争の傷跡はまだ生々しく残っていたでしょうがさかんに「復興」をしていた時代。人々は、食べ物と本を求めた、と当時を生きた人に聞いたことがあります。本書はそう言った時代のカケラです。
 
 読んで、吉行淳之介はやっぱり吉行淳之介だし、大岡昇平は大岡昇平なので、思わず笑ってしまいます。特に面白かったのは「天皇の帽子」。でかいけれど空っぽの頭を持った偉丈夫が、十五代将軍の服を着て大正天皇の帽子をかぶって歩くと……という、なんとも皮肉な発想の作品です。
 
 もっと「戦後」のにおいがするかな、と思って読んだのですが、意外に焼け跡とか敗戦のPTSDとかは登場しません。これらの作品は発表時に、GHQの検閲に通り、かつ、戦後の社会に受け入れられ売れる小説である、の二つの条件を最低満たさなければいけないわけで、だからなんらかのフィルターがかかっているからでしょう。そもそも「今という時代は将来歴史になるのだから、その時に備えて今小説として記録しておこう」とする人なんてあまりいないでしょうし。
 ただ、作者たちが経験した戦争と敗戦は、作品のどこかに必ず投影されているはずです。もし戦争が心身に何の影響も残していないとしたら、そんな人は何かを書き残そうとは思わないでしょうから。あえて本書の“通奏低音”を探すなら、暗さとゆるやかな焦燥感かな(といってもやはり例外があって、金達寿の文体は透明で焦燥感の翳りはあまり感じられません)。そういった雰囲気を濃厚に示すためには、本書は現代仮名遣いで書かれていますが、むしろ旧仮名遣いを用いた方がぴったりくるような気がします。
 
 
11日(月)結婚記念日
 私たち夫婦の結婚記念日を祝して日本中が休んでくれるとは、豪気な話です。えっと……23回目の結婚記念日で本日から結婚生活24年目に突入です。私が計算を間違えていなければ。
 どこかに遊びにでかけようとか御馳走を食べに行こうとか思っていたのですが、家内が風邪をひいたので家で静かにしていることにしました。そこで昼から一家全員でカレーを作ることに。まずは私が息子と買い出し。それからタマネギのみじん切りですが、息子は途中でリタイア。タマネギの目ちくちく攻撃に負けるとは根性なしです。中火で30分くらいじっくり炒めてから、あとはもう適当に(今日はオールスパイスを少し多めにしてみました)。鍋をしばらく落ち着かせていたのですが、さて、今からカボチャや人参を投入です。どんな味になるやら、楽しみです。ちなみにカレールーは、冷蔵庫に残っていたバーモントで、手抜きです。
 
【ただいま読書中】
怪談』小泉八雲 著、 山本和夫 訳、 ポプラ社文庫、1980年(86年22刷)、390円
 
 本書には、ラフカディオ・ハーン(本人が万葉仮名で書く場合には羅布加治雄辺留武)の『怪談』から10編、『日本雑録』『骨董』『知られぬ日本の面影』から計8編の短編を収めてあります。
 
 小学校の授業で習った「ムジナ」が、私と小泉八雲とのまともな初めての出会いでしょう。(図書室で読んだ本には『怪談』などがあったかもしれませんが、あの頃は著者を意識せずに読んでいました) ムジナとは何か、など、楽しく調べた記憶がかすかに残っています。……と記憶を掘っているうちに、自信がなくなってきました。もしかしたら中学の英語の時間だったかな?
 
 でも、本書を読んでいて、記憶が薄れる“良い”効用をいくつも発見しました。楽しい“新発見”があったのです。たとえば、「うばざくら」は「姥桜」ではなくて「乳母桜」(再話もとは『諸国奇談』)。また、「ろくろ首」は、私は首が伸びる妖怪と思っていましたが、ここで紹介されるのは「首が体から離れて飛んでいく妖怪」です(元ネタは、十返舎一九の『怪物興論』)。昔の日本人は、もっと昔から伝えられた魅力的なお話を楽しみながら大切に保存し続けていたんですね。
 明治時代にハーンが発見した(そして愛した)「日本」は、実は明治ではなくて、江戸時代より前の「日本」でした。今の日本人が愛している「日本」は、さて、いつのどこの日本なんでしょう?
 
 
12日(火)六道
 六道輪廻は、ヒンズーの思想で、魂が6つの世界(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)で輪廻転生を繰り返し続ける、という考え方です。はじめの3つよりはあとの3つの方がまだ嬉しい世界ですが、それでも輪廻を繰り返す(脱出できない)点でそれは「苦」なのです。ブッダはそこからの脱出ルート(解脱)を説いた点で画期的だったのですが、それはともかくとして……
 
 ふっと思ったのですが、動物の寿命が大体人間より短いのは、魂が畜生道に留まる時間を少しでも短くするための天の計らいかもしれません。やはり、かつて人間として経験したこの世界をこんどは動物(あるいは昆虫)として経験するのはつらいことでしょうから、さっさと転生をさせてくれるのです。それとも畜生には畜生だけの世界があるのかな?
 
【ただいま読書中】
銀齢の果て』筒井康隆 著、 新潮社、2006年、1500円(税別)
 
 ひと言で言うなら、映画「バトル・ロワイアル」の老人版です。
 
 少子高齢化で老人が満ちあふれた日本では、老人が数十人存在する一つの地区や老人ホームに限定して、厚生労働省の管轄の下に一ヶ月の間に70歳以上の老人がお互いに殺し合い、最後に残った一人だけが生き残ること(と、以後のバトルを免除されること)を許されるという「シルバー・バトル」が行われることになりました。その間、老人たちへの医療サービスは停止(だって、どうせ殺されるのですから)、殺害を妨害した者は法律によって罰せられるのです。さらに、万が一複数人が残った場合には全員厚生労働省の係官によって殺される、という縛りがかかっています。その地域で生き残れる老人はただ一人なのです。そして日本中でシルバー・バトルが終了したら、それから40年はバトルはなし、ということになっています。例外は人間国宝クラスの人だけ。
 本書の舞台、宮脇町五丁目でも、ついにシルバー・バトルが始まりました。古くからの顔なじみたちが、これから一ヶ月の間、自分たちが住む地元で殺し合うのです。
 暴力団は銃器をこっそり売り歩きます。老人たちは自殺し・殺し・殺され・殺し損ね・殺され損ね・病死し・衰弱死し……少しずつその地区の老人数と残日数がマスコミによってカウントダウンされていきます。このへんの描写のリズムは“筒井康隆”です。いやになるくらい筒井です。ライフルで狙っても老眼で狙いが定まらないとか、出刃包丁で刺しても力が足りなくて致命傷が与えられないとか、妙にリアルな描写が続きます。著者ももう老境ですから、自分を見つめることでいろいろなことがわかるようになったのでしょうか。
 
 章立てや段落間での一行開けを一切せずに場面が転換されていきます。ところが内容はちゃんとつながっているので、映画のカットのようなんだけど、カットがあったことに数秒後に気づく、という面白い効果が読者の脳内に生じます。これは一種の快感です。そのうち「そろそろ場面転換だぞ」と身構えながら読んでしまったりします。最近の、短い一文、下手すると単語一つで改行が繰り返されて紙面がすかすかの作品と比較したら、ちゃんと“仕事”がされています。また、途中には「葬いのボサ・ノバ」(作詞:筒井康隆、作曲:山下洋輔)の楽譜まで登場します。ここまで徹底しますか……
 
 バトル終了まであと三日。宮脇町五丁目にはまだ三十人近くの老人が生き残っています。厚労省の役人は早く最終バトルに入れとやいのやいのの催促を各人にします。たくさん生き残ったら、役人が処刑をしなければならない、それはイヤなのです。しかし最終日、機関銃で防備を固めた屋敷への焼き討ちをきっかけに、宮脇町五丁目は“発狂”します。ここもやはり“筒井康隆”です。
 しかしまあ、これは絵空事なのか、それとも本当に将来の日本でこういったことが行われるようになってしまうのか……
 
 
13日(水)アメリカン・ドリーム
 日本語だと、立志伝中の人ということばもありますが、成金とか成り上がりとか、なんだか芳しくないイメージのことばもあります。しかしアメリカ語だとさっぱりしていますね。なにしろドリームですから。
 ただ、経済的なイメージが強すぎると感じるのは、平民のひがみ?
 
【ただいま読書中】
できない人ほど、データに頼る』原題:SEE FEEL THINK DO アンディ・ミリガン、ショーン・スミス 著、 酒井光雄 監訳、 西原徹朗/松田妹子 訳、 ダイヤモンド社、2007年、1429円(税別)
 
 19世紀にはマーケットリサーチは未熟でした。マーケットは小さく顧客と企業の距離は近かったことが原因です(あと、それほど製品の完成度が高くなかったり、企業が顧客満足度を考えなくても良かったことがあるかもしれません)。しかしマーケットが巨大になるにつれ、顧客調査が重要になります。まずはアンケート。これは「顧客が何を考えているか」はわかりますが「顧客がなぜそう考えるのか」はわかりません。そこで企業は、経済学・統計学・心理学などを駆使して調査をしようとします。膨大なデータが集まりますが、ところが不思議なことがおきます。そうやってデータを重ねれば重ねるほど、企業と顧客の間の距離が大きくなる現象が蔓延するようになったのです(たとえば、満を持しての新製品が、あっさりこける)。
 本書には作家デビッド・テーラーの「調査はバックミラーである」ということばが紹介されています。そして、「新製品を発売する」「これまでにないサービスを提供する」「新しい発想を試してみる」人たちにとって、未来に突入するときに見るべきはバックミラーではありません。
 
 原題を見たら著者の主張はわかります。経営者は「見る」「感じる」「考える」「実行する」を重視しろ、です。データばかり座り込んで見ているのは凡庸な人間、と言いたそうですが、さすがにそこまでは言いません。でも「優秀な経営者は」とかいう言い方は何回も使います。
 さらに、上記の4つのシンプルな行動を支える3つのスキルについても細かく述べられます。「観察する」「共感する」「問題解決する」です。
 こう並べたら、べつに難しいことには見えません。しかし“きちんと行う”のはどれも難しいことです。たとえば「観察する」のは、ただ眺めることではありません。そのビジネスが置かれた広い世界を念頭に置いた上での観察です。共感するのも、論理や計算重視のアングロサクソン文化には難しいことでしょう。感情を適切に用いなければならないのですから。
 本書では、著者の主張にかなう多数の成功例と、著者の主張に反した結果の少数の失敗例とが紹介されています。
 
 ここまで読んで、ふっと思いました。原題はずいぶんポジティブです。さらに中の例示もほとんどはポジティブ。なのに、日本版のタイトルはなんだかネガティブです。これもマーケティング戦略によってネーミングされたのだとしたら、日本だとこういったネガティブなことばの方が人目をひく、という計算が出版社にあったのでしょう。
 ということは、アメリカでは成功体験が注目されるが、日本だと失敗体験の方が注目されやすい、という文化の違いがあるということなのかな。
 
 
15日(金)行けないところには行かない
 こちらでは冬でもあまり雪が降りません。だから冬支度をする車は少数派です。だけどたまには雪が降って道路に積もることがあります。
 こんなときに困るのは、渋滞です。いや、車の速度が遅くなるのは当然なのですが、ノーマルタイヤのまま「行けるところまで行こう」の人(自動車)が困ります。本当に行ける所まで行って、二進も三進も行かなくなってチェーンを巻き始めたり道路の真ん中に立ち止まって途方にくれたりされると、進路を目の前で塞がれたこちらも途方にくれてしまいます。せめて広くて平らなところで止まってよね。こちらは最初から冬用タイヤをつけて、さらに(おそらくは使う必要の無い)チェーンまで用意しているから、この程度の雪で強制的にストップさせられるのは不本意なのです。
 
【ただいま読書中】
法律事務所』THE FIRM ジョン・グリシャム 著、 白石朗 訳、 新潮社、1992年、2136円(税別)
 
 ハーバード・ロースクールを3位という優秀な成績で卒業したミッチは、メンフィスの小さな法律事務所から破格の条件で誘われます。年俸は8万ドル(ニューヨークだったら12万ドルに相当)、BMWの新車つき、優遇ローンで安く住宅が入手できる、学生ローンの肩代わり……などなど、聞いていてこちらもよだれが出ます。しかも、20年間厳しい労働をしたら、億万長者になって早期リタイアできるというのです。
 貧しい学生でハングリー精神が旺盛なミッチは、妻とともにメンフィスに向かいます。話にウソはありませんでした。破格の条件も、厳しい労働も。朝5時半から深夜までミッチは働き続けます。今は時給100ドルだが早く出世して時給300ドルの身分になってやる、と。
 しかし、この事務所には“裏”がありました。事務所の弁護士たちは盗聴・盗撮をされており、不可解な死に方をした弁護士が相次いでいたのです。やがてFBI捜査官がミッチに接触してきます。「法律事務所はマフィアの出先機関で、まっとうな弁護士業務を隠れ蓑に、マネーロンダリングなどの不法行為を大々的にやっている。その捜査に協力してくれ」と。
 しかし、その接触に気づいたマフィアは、ミッチを警戒し、罠にはめようとします。ミッチが情報収集を頼んだ私立探偵も殺されます。このまま弁護士の仕事を続けて、近い将来FBIの手入れにあって逮捕されるか、それともFBIに協力してそのかわりマフィアに一生追われる立場になるか、ミッチは一人悩みます。家には盗聴器が仕掛けてあり、妻と相談することもできないのです。
 と、ここまでで頁の約半分。ここから物語は加速しますが、それは読んでのお楽しみ。計算高いミッチが、いかに自分を追うFBIとマフィアの両方から逃げようとするか、その途中でいかに巧妙に自分の利益も確保しようとするか、そのあたりがわくわくしながら楽しめます。普段の仕事で賠償などの値切り交渉や値上げ交渉を日常的にやっている感覚で、自分の身売りの値段の交渉もきっちりやる部分は、笑えます。
 そうそう、誰の作品だったか「救急車を自分の車で追跡して名刺を渡して訴訟を勧める弁護士」の話が登場していましたが、本書にもちらりと話だけ登場します。アメリカでは“常識”なのかな。裁判が難航して当事者の表情がどんどん険しくなるのに、弁護士だけは懐がどんどん暖かくなってニコニコする、なんて表現もリアルです。本書がベストセラーになったのには、そういった弁護士がひどい目にあうのを読みたい、という欲望がアメリカにあったからかもしれません。訴訟社会で生きるのは、日本人には難儀なもののような気がします。今から日本もそうなりそうですけれど。
 
 そうそう、何年前だったか、本書を原作とする映画の宣伝を見たとき「ザ・ファーム 法律事務所」というタイトルで「the farm?」と思ったのは私です。恥ずかしい。
 
 
16日(土)たまご
 昭和三十年代、卵はたしか一個10円くらいでした。葉書1枚とラムネ1本は5円、市内バスや電車は10円、公衆電話は一回10円で時間制限無し。牛乳は1合瓶の中身が12円だったかな。
 病気になったら「滋養をつけなきゃ」と卵が出てきたのには、その栄養価だけではなくてお値段も大きな要素だったかも。ま、あの頃の卵は全部有精卵で、殻がざらざらした新鮮な奴は白身は二重で黄身はこんもりと盛り上がっていて、本当に滋養がありそうに見えるものではありましたが。
 
【ただいま読書中】
バイオ燃料 ──畑でつくるエネルギー』天笠啓祐 著、 コモンズ、2007年、1600円(税別)
 
 世界中で穀物や飼料が不足し、食料の値段が上がっています。その原因が、バイオ燃料。
 バイオ燃料と言って私が思いつくのは、戦争中の松根油と人造石油です。前者はたしかにバイオと言って良いでしょうが、後者は石炭から作るのでバイオではありません。まあ、どうでもいいトリビアですが。
 
 アメリカでは、大豆畑がトウモロコシに転作され、大豆とトウモロコシの輪作だったところはトウモロコシの連作にする動きが加速しています。連作障害で病虫害が増えたため、遺伝子組み換えトウモロコシが引っ張りだこ。さらに小麦からの転作も始まっているそうです。アメリカでは、石油の中東依存への対抗と、地球温暖化政策との合わせ技でバイオ燃料が戦略的に推進されているのです。(植物が空気から固定した炭素をまた戻すだけだから、二酸化炭素に関してはプラスマイナスゼロ、という主張なのですが……実は生産過程で石油を燃やしているのです)
 
 バイオ燃料は、主にバイオエタノールとバイオディーゼルに二分されます(バイオメタノールもありますが、これはまだ実用化されていません)。アメリカ大陸は北も南もエタノールが主で、ヨーロッパはディーゼルが主です。日本で「天ぷらのにおいがする車」と報道されるのはバイオディーゼルでしょうね。
 ディーゼルエンジンは、1892年にルドルフ・ディーゼルが発明したときには植物油を燃料にしていました。だからバイオディーゼルに“戻す”のはそれほど難しいことではありませんが、ネックになるのは、コストと植物油の凝固点です。菜種油は摂氏−13度ですがパームオイルは+12度。寒いところでは使いものになりません。今のところは軽油に混ぜて使うしかないでしょう。
 
 人為的な地球温暖化の主原因は、化石燃料の使用です。といいつつ、本書に載せられた二酸化炭素のグラフは、阿漕です。本文では産業革命以来20〜30%も二酸化炭素濃度が増加した、と言いつつ、グラフは1980年より後のものだけ。しかも棒グラフの先端だけを拡大して増加分を大きく見せています。駄目ですよ、こんな素人を欺すようなテクニックを使ったら。そういえば、ブラジルの熱帯雨林の破壊のところで「マクドナルド」が登場していますが、マクドナルドがブラジルの熱帯雨林を切り開いて牧場を、は否定されているんじゃありませんでしたっけ? なんか、意余ってことばが過ぎる、といった感じです。せっかくデータを集めて、国際戦略とか大企業がバイオ燃料に飛びつく理由を述べているのですから、原発や遺伝子組み換えや大企業に対する嫌悪感を押さえて、もう少し落ち着いて分析した方が本書全体に対する信頼感が増すと思います。
 
 ところでバイオ燃料は、地球温暖化に対する“決め手”なのでしょうか。地球温暖化に対してなにか“特効薬”を求める態度は、好き放題食べて飲む生活スタイルでメタボリック症候群になって、そこで“特効薬”を求める個人と似ているように私は感じます。といって、自分が現在の生活を一切捨てて江戸時代と同レベルの生活ができるのか、と問われたら困ってしまうのですが。昭和の半ば頃の生活だったらできますけどね。そうそう、休耕田に稲を直まきしてできた米を発酵させてバイオ燃料(要するに焼酎)にはできないのかしら。政府の補助があればお安くできそうなんですけれど。燃料は藁を使えばいいし。
 
 
17日(日)教育の義務
 「学校で学ぶ」ことで重要なのは、「ガクモンの入り口を教えてもらう」ことでしょう。そこから奥にはいるかどうかは、学校ではなくて個人の責任です。
 
【ただいま読書中】
アキレスと亀』清水義範 著、 角川文庫、1992年、456円(税別)
 
 本書には短編が9編収められています。はじめから4編「決裂」「偏向放送」「パーティー」「酔中動物園」はどれも「○○でホンネで話したら」の共通点を持っています。○○に入るのは、外相会談・マラソン中継・ホームパーティー・職場の忘年会。もうはちゃめちゃです。
 かと思うとその逆、はちゃめちゃに語られたものがどのように現実に受け入れられるように“翻訳”されるかを描いた「超現実対談」。これを本気に取ると、これから雑誌の対談を読むたびに、まずは笑ってしまいそうです。
 最後の二つ、「花里商店街月例会議」と「アキレスと亀」も「会話そのものの面白さ」で括ることができるでしょう。いかにもありそうででもたぶん現実には存在しないであろう会話が淡々と描かれているだけなのですが、これがまた妙におかしいのです。時代に遅れてしまった小さな商店街をどうやって活性化するかの会議や、飲み屋で先輩が新人社員にいろいろ教えているだけの“場面”なのですが、まったく著者はいろんなところに“面白さ”を見つけてくれるものです。感心します。(ちなみに、「アキレスと亀」はもちろんゼノンのパラドックスの“あれ”です。もっともこれはタイトルにしてもらってはいますが、作中ではただの狂言回しですけれど。別に「企画書の作成ノウハウ」でも良かったわけですし)
 
 ホラーもあります。体育教師の子どもが怪我をして手術を受けます。ところがその主治医は、学生時代にその教師に暴力をふるわれて後遺症が残っていたのです。医者は教師にその事実を静かに語り始めます。徹頭徹尾穏やかに。そして、手術が成功しても、“ちょっとした見落とし”や“不運”によって子どもがひどい目に遭う可能性があることを示唆します。そう語ることが彼の復讐なのです。……いやあ、コワサとともに不愉快な後味が残ります。人が語るタテマエや決まり文句がどの程度のものか、「ことばを扱う達人」である著者がことばをメスとして使って会話の表面を覆う夾雑物をひん剥いていったとき、そこに見えるものから目を逸らしたくなります。でも、それが、人が生きる“現実”なのでしょうね。
 
 
19日(火)オマケの効果
 年末に懸賞が当たって、今使っている商品がもう一つ届きました。けっこう値段が高いものなので「わ、うれしい」と戸棚にしまってあるのですが、気がつくと現在のものの使い方が少しだけですが荒くなっています。在庫がもう一つ、という感覚がアクセルになって使用量が増加しているのかもしれません。
 
 もしかして、そうやってたくさん使う癖がついて、トータルでの消費量が増加することを期待してのオマケなのかな?
 
【ただいま読書中】
狂牛病日誌』ジャン・イブ・ノ 著、 原山優子 監訳、吉田尚輝・田中勝子 訳、 東洋経済新報社、2002年、1800円(税別)
 
 BSEが初めて発見されたのは1986年、1995年にはイギリスで初めて変異型クロイツフェルト・ヤコブ病による死者が出ました。日本での初の感染牛は2001年。
 
 本書の著者はルモンド紙の医学担当記者で、スイスの『医学と衛生』に連載された記事をもとに2000年から2001年のヨーロッパの状況を描いています。
 まずは2000年1月の「1999年にスイスで発見されたBSEは50頭」という衝撃的な報告。これは「スイスにBSEが多い」のではなくて「ちゃんと検査をした国はスイスだけだった」ことを意味しています。そして2月末に肉骨粉を使用していないはずのデンマークで、1992年以来はじめてBSEが発見されます。食糧農業相は、危険部位をすべて市場から回収し新しい解体法を導入し消費者には手持ちの牛肉をすべて捨てるように勧告します。それに対して「当然だ」「大げさすぎる」と賛否両論です。
 7月の記事では、フランスが検査に対して異様に熱意を欠くことが指摘されます。もしかして、検査することで思ったよりBSEが蔓延していることがわかっては、と思うあまりのろのろしているのか、と著者は推測を述べます。
 
 本書で描かれるのは単にニュースを時系列に並べただけのドキュメントによる「ヨーロッパの2年間」だけではありません。歴史と科学の両面からBSE(と国際関係)について厚みのある記述が続きます。
 屠殺場で実際に何が行われているのか、消費者は目を逸らすことができなくなった、といった記述もあります。たしかに、どのように“安全”に食肉が“処理”されているかを知るためには、どのように牛が殺されているかを知らなければならないのです。
 ただし、時系列に並べる“効用”もあります。特に各国政府が「BSEは他国の問題。わが国は安全である」と高らかに宣言していたのが、いざ調べたら国内でも見つかってバツの悪い思いをする、どころか、国民からの信頼感を失ってしまうのを何度も繰り返し読むことができます。結局、行政と政治システムの機能不全が、被害の拡大を招くのです。早く手を打っていれば被害者の数は数分の一ですんだはず、と著者は警告します。
 
 イギリスでの患者数は、本書に「イギリス」という国名が登場するたびに増加します。60人、75人、85人、と。牛にいたっては18万例だそうですが……桁はあっているのかな? で、イギリス政府が畜産農家には牛を群れごと屠殺したことに対して補償するのに、人間の被害者には補償しない態度であることを、著者は痛烈に批判します。(後日イギリス政府は、人間にも補償をすると方針変更しました) 狂牛病が初めて出現したときのイギリス政府の対応はずいぶんヘタレたものでしたが(薬害ナントカのときの日本の厚労省とほとんど同類です)、そのヘタレぶりはあまり変化していないようです。
 ただ、1999年に、イギリスで16歳未満の人間が3人もBSEを発症したというのはショッキングです。原因は色々考えられているようですが、潜伏期のことも考えると、離乳食なのでしょうか。
 
 「悪意」の存在もあります。狂牛病とわかっていて、その牛を流通経路に紛れ込まそうとした業者が告発されます。禁止しても禁止しても肉骨粉を製造したり使う人が後を絶ちません。
 「○○は禁止されている」で“安心”する態度がいかに間違っているかが良く分かります。禁止してもやりたい人はやるのです。
 
 教訓:「規則は100%は守られない」。
 
 
21日(木)ゼミの思い出
 私が大学時代に所属したゼミでは、本題に入る前にまずヤスパースの『哲学入門』を輪読していました。ドイツ語で。哲学ともドイツ語とも無関係なゼミだったんですけどねえ。私の通った大学ではゼミは教養課程のみで専門課程に入ったらそこでおしまいになるはずだったのに、あまりに出来が悪い学生たちと思われたのか、私たちが専門に入ると同時に教授が退官されてもゼミは特例で継続となって結局私たちが卒業するまで名誉教授を大学に引き留めることになってしまいました(県境を三つ越えて、ゼミの時だけ来校していただいたのです)。で、輪読は結局途中までしか行きませんでした。30年近く経ってもまだ“宿題”をやっていないのか、と恩師はあの世(仏教徒でしたから、きっと極楽)であきれ顔かもしれませんが、こんどは日本語で挑戦です。
 
【ただいま読書中】
哲学入門』ヤスパース 著、 草薙正夫 訳、 新潮文庫、1954年(88年53刷)、280円
 
 本書はもともと1949年に連続12回ラジオ講演されたものです。ラジオで一般市民が“こんなもの”を聞いていたということ? はあぁ……
 
 第一講「哲学とは何ぞや」:科学を理解するには学習・練習・方法が必要だが、哲学的な判断は自分が人間であることをもって十分、と著者は述べます。さらには、哲学とは「根源的な問い」である、とも。哲学者とはギリシャ語では「知を愛する人」の意味です。そして「哲学」は「真理を所有すること」ではなくて「真理を探究すること」。つまり哲学では、答よりも問いの方が重要。哲学は、例えば宗教や政治から攻撃されます。ならば哲学を弁護するものは……ありません。だって、何の役にも立っていないんだもの。ただ、人間のうちに間違いなく存在することを根拠とし「哲学すること」に迫りゆく力に頼ること、「永遠の一なる哲学」の回りを回転し続けること、それが哲学、だそうです。
 第二講「哲学の根源」:まずは驚き(プラトン)や驚異(アリストテレス)。次が懐疑。そして「私(の弱さと無力)」を認めそしてそれを捨てること。まあこのへんはわかりやすいと言えます。
 第六講「人間」は最後が強烈です。「人間であることは人間になることであります」……ボーボワールの「女は女として生まれるのではなくて、女になるのだ」をちょっと思い出します。この『第二の性』も1949年です。“そんな時代”だったのでしょうか。
 神や信仰について述べるところでは、ことばは非常に柔らかくまるで宗教に対して肯定的であるかのように見えますが、でもヤスパースはすっぱりと「神は存在しない。なぜなら存在するのはただ世界と世界生起の法則だけだからである。世界が神である」と言い切ります。(一瞬朱子学の理気二元論を思い出しました。世界は気(ものの本質。原子と言ったら近いかも)と理(物理法則と言ったら近いかも)から成る、という考え方です) ヴィトゲンシュタインの「沈黙しようぜ」とは違ってヤスパースは饒舌です。ただ、ヤスパースが嫌う「神」は「人に何かを強制する神」つまりは「神の名を借りて、自分の意志を他人に押しつける行為」ではないかと私には読めます。「不明瞭な信仰的感情」「狂信」もまた同時に嫌われているようです。ヤスパースが信頼を寄せるのは「人間」です。芯に哲学を持った理性的な人間でしょう。
 第九講「人類の歴史」:ここに有名な「紀元前500年」が登場します。世界史の枢軸とも呼べる精神的な“巨人”の登場する年代です。中国の孔子・老子をはじめとする諸子百家。インドはウパニシャッドと釈迦。イランのツアラトゥストラ。パレスチナのエリア、イザヤ、エレミヤ、第二イザヤ。ギリシアでは、ホメロス、パルメニデス、ヘラクレイトス、プラトン、悲劇作者たち、アルキメデス。この時代、人間は自分自身と自己の限界を意識するようになったのです。紀元前500年とは、哲学と世界宗教が生まれた(=神話が破壊された)時代なのです。
 
 ヤスパースにとって歴史とは、「人間とはいかなるものであるか」「人間とはいかなるものになりうるか」があらわになる場所、だそうです。歴史をそう認識しているからこそ、最終の第十二講が「哲学の歴史」になるのでしょう。ヤスパースの観点からそれは「宗教と哲学の関係史」です。ただ、ヤスパースにとって「歴史」は「何か絶対のもの」ではありません。「哲学すること」の意義は「現在性」にあります。その現在性を照射するために歴史が必要なのです。
 
 本書の付録に「はじめて哲学を学ぶ人びとのために」があります。ここの柱は3本。
1)科学的研究への参加
2)偉大な哲学者に関する研究
3)日常の良心的な生活態度
 1)はおそらくヤスパースにとって哲学を宗教(あるいはエセ哲学)と区別するために必要な態度なのでしょう。そして2)は、大学などに時々見られる「カント教の教祖」「ヘーゲル中毒者」になれ、というのではありません。研究の主体は「自分」です。カントはカントの、ヘーゲルはヘーゲルの哲学を先人の業績の上に自分で作ったのだから、誰かの言いなりになるのではなくて自分の哲学を打ち立てるために先人の哲学を参考として研究しろ、というのです。
 そしてそのために必要なのは3)です。私は笑ってしまいましたけどね。これだから私は哲学に縁がないんだな。
 
 一日一講で二週間あれば読み切れるだろう、というのが当初の目論見だったのですが、結局途中で図書館の借り出しを延長して約四週間かかってしまいました。それでもちゃんと読めたかどうか不安ですが、たとえ生煮えでもしばらく心の中で熟成させていたらそのうち消化できるかもしれません。自分の成長を待つことにします。ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』も階下の書棚で出番を待っているのですが(もう何年も!)、これにはまだしばらく待っていてもらわなければいけないようです。
 
 
22日(金)皇太子よりエライ人
 「長男夫婦は孫を見せに祖父ちゃん祖母ちゃんのところに定期的に連れてくるべきだ」と間接話法(本人に言わずに、周辺を迂回して伝わるように言う技法)で言った人は、たぶん皇太子よりエライんでしょうね。孫の顔を見たければ、自分から出かければいいとか「遊びにおいで」と電話すればいいとか思う私は、ただの庶民ですから、もちろんナントカ長官よりエラクありませんが、それでも「いらんクチバシを他人の家庭に偉そうにさし込むな」くらいは言いたくなりました。
 
【ただいま読書中】
モスラの精神史』小野俊太郎 著、 講談社現代新書1901、2007年、760円(税別)
 
 「モスラ」は変な怪獣です。あまり強そうではない「蛾」の怪獣というだけで突飛なのに作中で変身(文字通りメタモルフォーゼ)をします。南洋の島の出身なのに、東京には海から上陸するのではなくて、内陸のダムに出現して山を下りて侵攻しています(しかも横田基地は蹂躙するのに皇居は避けるルートです)。さらに、ザ・ピーナッツが歌い日劇ダンシングチームが踊るという「興行」の面が入っています。どうしてこんな不思議な映画ができたのか。サブカルチャーということで軽視されがちなこの分野に、著者は面白真面目な考察を加えます。著者にとって「モスラ」は、ただ単に怪獣があばれまわるだけの映画ではないのです。
 
 この映画には原作があります。『発光妖精とモスラ』で中村真一郎・福永武彦・堀田善衛の合作です。純文学の畑の人ばかりで、偶然でしょうが全員1918年生まれです。純文学者が怪獣映画の原作を書く、しかも合作、というきわめて異色な行為です。著者はここにさらに三島由紀夫の影響まで見ます。
 
 なぜ「蛾」?
 日本人にとって「カイコ」は馴染みの深い存在でした。映画「用心棒」で三船敏郎が窓から見るのが一面の桑畑、という場面ももちろん本書に書かれています。ただしそれは“失われつつある日本”でもありました。モスラが誕生した1961年は、人々が和服を着なくなり絹から遠ざかりつつあった時代でもあったのです。そのことに対する思いは、この映画のどこかに色濃く投影され、観衆はそれを感じていたはずです。
 さらに、映画公開の前年は、60年日米安保の年です。反対する人が大規模なデモで国会議事堂を取り囲んだ、そういった騒然とした雰囲気が残っていた時代です。
 映画には当時の「時代」も色濃く反映されています。「小さな日本」「失われた南洋諸島」「顔の見えない日本政府」「60年安保と地位協定」「原水爆実験」そして「戦後」。「戦後は終わった」との宣言にもかかわらず、戦争の記憶はまだ現役で、大国(戦勝国)に対する屈折した思いは、たとえばモスラでの悪役興行師が、原作ではロシリカ国(ロシア+アメリカ)の人間として描かれているところにも窺われます。(映画ではロリシカ国になりました。ああ、ややこしい)
 「キングコング」の影響も強いと著者は読み解きます。「美人と怪獣」「興業」「文明と野蛮の対比」などがそのためのキーワードです(さらに言うなら「美人と怪獣」は「美女と野獣」からの系譜です)。ただし、キングコングもできなかったニューヨーク(映画ではニューカークシティ)の破壊をモスラがやってのけたのは、戦争体験の影響もあるのでしょう。戦争体験と言えば、怪獣から逃げまどう群集シーンにも、著者は(空襲等の)体験者がもつ真剣さを見ています。
 
 原作では、モスラが繭をかけるのは国会議事堂にされていました。それを群集が取り囲み(シナリオ初稿では、安保でのニュース映像を使う予定だったそうです)日本政府が自分で自分の国会を攻撃しなければならなくなるのですが、そういった政治的な色が嫌われて、映画では繭は東京タワーにかけられました。他に高い建物が当時の東京にはなかったのです。(そういえば、平成ガメラではギャオスが東京タワーに巣を作る美しいシーンがありましたし、平成モスラでは繭は国会議事堂だったと記憶していますが、もう政治的な意味は皆無でしたね)
 色々な意味が込められていた怪獣映画も、ただの娯楽作品として消費社会の中で消費されてしまいました。ただ、著者は「初代モスラ」の精神を継いだのは、「風の谷のナウシカ」だと言います。どこが似ているんだ、と当初は思いましたが、本書を読んでいるうちになんとなく納得してしまいました。なるほど。
 
 
23日(土)新学習指導要領
 文科省は基礎も活用もと欲張ったことを言っていますが、モンスター親はそれにプラスして子どものしつけも学校に要求しているんですよね。社会の側も、たとえば万引きを捕まえたら学校に連絡して親の仕事を教師に肩代わりさせようなんてしていません? もうちょっと教師に「ゆとり」が必要なんじゃないかなあ。
 
【ただいま読書中】
飛ぶ教室』ケストナー 著、 偕成社文庫、2005年、700円(税別)
 
 クリスマスの物語。
 
 ドイツのキルヒベルグにある寄宿舎付きのギムナジウム(ドイツの進学校、10歳で入学)が舞台です。5人の4年生がクリスマスに体育館でやる演劇の練習を始めます。劇のタイトルは自作の「飛ぶ教室」。クラスが飛行機で、ヴェスヴィオ火山・ピラミッド・北極・天国と飛び回って勉強をする、というあらすじです。ところが劇の稽古に邪魔が入ります。同級生が実業学校の生徒たちの捕虜になったのです。ギムナジウムと実業学校との間にはずっと確執があって、とうとうそれが数十人ずつの大げんかに発展します。(『坊っちゃん』(夏目漱石)にも学校同士の大げんかがありますが、本書の方がずっと明るくてかつ「男らしさ」へのこだわりが強いように感じます。日独の文化の違いかな?)
 喧嘩に勝って寮に凱旋した5人を、厳しい上級生と厳しい規則と、正義を重んじる舎監の「正義先生」が出迎えます。正義先生は、罰を予想してうなだれて並ぶ5人に語りかけます。自分の子ども時代の経験を。それはまた同時に、権力を玩ぶ幼い子どもである6年生に対する語りかけでもありました。この時、多くの人の運命が変わります。
 そしてクリスマス休暇が近づきます。寮生にとっては、ひさしぶりに両親と会えるチャンスです。しかし、様々な事情で寮に残らなければならない者もいます。「勇気」を見せるために骨折して動けなくなったウリ(本当は勇気ではなくて恥を知る気持ちを見せたのですが、外見上は同じことでした)。父親が失業して旅費がないため家に帰れないマルティン。4歳の時に親に捨てられ一人で大西洋を渡ったジョニー。彼らのクリスマスが少しでもあたたかなものでありますように。彼らのこれからの人生が少しでも……
 
 ギムナジウムでは最上級の6年生たちは下級生に対して大いばりです。それは当時のドイツの教育が権威と暴力によって構成されていたことの反映でしょう。それに対して著者は異議を申し立てます。それは彼の個人的なヒューマニズムによるものかもしれませんが、「民主主義であれナチズムであれ“権威”には従ってしまう」当時の社会の風潮を見ての社会的な異議申し立てでもありました。ナチスがケストナーの作品を根こそぎ発禁処分にしたのは、当然でしょう。彼らにとってはきわめて都合が悪いメッセージを子どもたちに伝えられては困るでしょうから。
 本書は1939年の作品です。そして、作中にある「すべての事件は、やった者だけではなくて、とめなかった者にも責任がある」が、強く心に響きます。このメッセージは、(残念ながら)今も生きています。
 
 まあ、そういった難しいことは置いておいても、他にも重要なメッセージが本書には書き込まれています。主要登場人物である5人の少年たちは、それぞれが自らの内なる悲しみと向き合っています。脇役も含めて“子どもらしくひたすら明るい”少年など一人もいません。その悲しみと少年たちのそれぞれの個性に従った悲しみに対する態度とが、本書の厚みをさらに増しています。さらにサイドストーリーで登場した実業学校のリーダーとは、「敵」のはずなのに不思議な友情が芽生えます。ある人について判断する場合、「その人がどこに所属しているか」ではなくて「その人が実際にはどのような人か」の方が重要だ、ということなのでしょう。それを忘れている大人も多いようですが。
 
 ケストナーは子どもたちに求めます。深く悲しむことと悲しみに耐えることを。知恵と勇気を持つことを。
 ケストナーは大人たちに求めます。子ども時代を忘れないことを。
 
 
24日(日)そこのけそこのけ
 出会い頭の状況で、小さな車に対して大きな車が「邪魔だ邪魔だ、どかんかい」と大きな顔をして追い払っているような光景を時々見ます。同じことは、バイクに対して自動車がやったりしています。なんだか人間の本性の一つに、自分より小さなものに対して威張りたくなる、というのがあるみたい。
 もしかしたら今回のイージス艦と漁船の事故も、ふだんそんな感じでの“バトル”が海面で行われていたことの延長に生じた不幸な結果かもしれない、と私は想像しています。沈没した船に先行していた漁船は、“ルール”に違反して左に舵を切って難を逃れたわけです。安全のためにルール違反をしなくちゃいけない状況って……
 
【ただいま読書中】
58歳からの楽々運転術』徳大寺有恒 著、 草思社、1999年、1500円(税別)
 
 運転に関しては超ベテラン(元はトヨタのワークスドライバー)、年齢的には還暦になったばかりで“初心者老人”の著者が、老人ならではの運転に関して述べた本です。著者は58歳ころから、視力・聴力・筋力・反応速度・感受性などが低下(変化)してきたことを自覚したそうで、老人にふさわしい運転について述べても良かろう、というのが本書を書いた動機だそうです。
 よく「年寄りの運転は危ない」と言われますが、厳密には「年寄りの中には危ない運転がある」わけです。ですから日本での老人の運転免許書き換えの時の講習に著者は感心しません。なぜなら「年寄りから免許を取りあげる」ことが目的となっていて「老人に安全な運転をさせる」ことがおざなりになっているからです。
 
 著者はヨーロッパでは時速200キロ以上で平気で走りますが実に安全に走れるそうです。それには、道路標識や区分などの道路システムとドライバーのマナーの成熟度、および車と人の関りについての社会の認識が高いレベルに達していることが大きいそうです。
 ところが著者が年を取ると、日本では、雨や夜間にはとたんに標識が見にくくなります。老人に見やすい標識、という発想がありません。車でも、中には運転しやすいものもありますが、そもそも「老人に運転しやすい工夫をした車」って聞きません。
 脚力が落ちたからパワーアシストでブレーキを軽くすればいい……著者はそれには反対です。ブレーキはスイッチではなくて、自分の意志通り軽く踏んだら軽く効き強く踏んだら強く効く、これが安全のためには肝心なのです。
 
 かつて教習所では「送りハンドルは厳禁」「ブレーキはポンピング」「早めのシフトアップ」と教えていました(今はどうなんでしょう?)。私もそう習った口ですが、著者はそんなの時代遅れのナンセンスと言わんばかりです。車庫入れの時にポールにぶつかったかどうかなんてそんな形式重視の“教育”よりも、たとえば濡れた路面での急ブレーキを体験させておくことの方が安全に関してははるかに重要ではないか、が著者の主張です(私もそれには大いに賛同)。そして、現代の交通の流れの中にそういった「昔の癖」を持った老人たちが放り込まれていることが、また問題だ、と著者は述べます。
 
 ただ、ここで著者が説くのは、ごく基本の基本です。ミラーの確認、正しいドライビングポジション、安全ベルトをきちんとすること、ルール(特に見通しの悪い交差点での一時停止)の遵守、自分自身の能力(の変化)の把握……ただ、それがなぜ必要なのかがプロの視点から語られます。こんなの教習所では習わなかったぞ、の連続です。
 そうそう、老人でなくても役に立つこともあります。たとえば、最近の車には暖機運転は不必要。チョークを引いて水温計がぴくりと動くまで暖機しないと走り出してエンスト、は昔の話で、電子制御されたエンジンはさっさと走り出した方がガスコントロールが安定して、無意味に二酸化炭素をまき散らさずにすむのだそうです。地球温暖化と石油の節約、さらには時間の節約、良いことだらけですね。
 老人とは無関係ですが「抜け道マップ」に対する著者の反感にも共感します。通る人間には「抜け道」でも、通られる側には「生活道路」なんだぞ、と。
 
 カーナビの取扱説明書と道路標識のわかりにくさが本書では取りあげられています。私にはこれは同根の問題に見えます。「わからない人にわかるように説明すること」が日本では軽視されていることがどちらの原因でもある、という点で。
 
 あとは……読んでいて、自分の運転ぶりを思い出しながら笑ってしまいます。あせらない、良い格好をしない、駐車場は広いところを選ぶ、点灯ははやめに……私も50歳を過ぎた頃から、自分の運転が少し変わってきたことに気がついています。まあ、著者の書き方だと(「運転をしたい」というバイアスがあるにしても)そういった自分の変化が自覚できるうちはまだ大丈夫、ということになりそうです。ま、事故に遭うのは嫌ですし、人を傷つけるのも嫌ですから、基本を再確認しながら毎日運転しなきゃね。
 
 
25日(月)気がもめる
 一昨日は、走っているバイクがよろけるくらいの北風でした。昨日は「まだ冬だぞ」と言いたいかのように雪が舞いました。で、北は吹雪で、北海道大学の入試が一日延期になったんですって?
 実は知人の子どもさんがそこの受験だったのです。それも前の日に北海道に入る予定だったそうで、試験が一日後ろにずれたのは良かったのでしょうが、問題は宿泊も一日後ろにずらせることができるかどうか……家内が聞いてみたら、同じ宿の連泊は駄目だったけれど、別の宿が確保できたそうで……やれやれ。
 なんにせよ、気のもめる季節です。
 前にも書きましたが、受験は春〜初夏にできないのかなあ(秋はやめておきましょう。こんどは台風で気をもむことになりますから)。
 あ、大学入試が後ろにずれると、受験産業は(商売できる期間が延長するから)商売繁盛になって嬉しいでしょうが、困ることもありますね。春になって在校生のシーズンが始まってしまうと、受験生と教室の奪い合いになるかも。
 
【ただいま読書中】
ロシアの核(上)』デイル・ブラウン 著、 伏見威蕃 訳、 早川書房、1994年、1748円(税別)
 
 1992年ロシアでは強硬派の大統領がエリツィンがシベリアに流刑にしました。モルドヴァではロシア系住人がルーマニア寄りの姿勢を嫌ってドニェストルの独立を宣言します。その間に挟まれたウクライナは西側に接近していました。特にトルコはウクライナに好意的です。アメリカ大統領は(クリントンのことでしょう)民主党で軍隊嫌い。ロシアはモルドヴァのロシア系住人を支援すると同時に黒海への出口を確保するために、西寄りとなったウクライナに対して強硬に出ます。領空侵犯をされたウクライナは怒りますが、同時にモルドヴァも、ウクライナがロシアに自分の領空を利用させたと反発します。
 
 根っからのF-111戦闘爆撃機乗りで、砂漠の嵐作戦で極秘任務(本人も早く忘れたいと思っている記憶)についたメイス中佐。女性で初の戦闘機パイロットファーネス少佐。この二人は、その極秘任務のときイラクの領空で出会っています。メイスは攻撃を受けてぼろぼろのF-111で、ファーネスは空中給油機で。
 この二人には、空軍のコミュニティから“村八分”になっているという共通点もあります。そしてその二人が同じ予備役部隊に所属したとき、ロシアは、モルドヴァだけではなくて、ウクライナも攻撃し始めます。まずは空戦で、つまりは“バトル・オブ・ウクライナ”の開始です。ウクライナ空軍トゥイチーナ上級大尉も旧式のミグを駆って次々とロシア機を撃墜し、“英雄”となります。
 その翌日、ロシアはウクライナに核攻撃を行います。
 
 しかし……女性パイロットを採用するに当たっては、不妊処置か強制避妊処置が必要とされている、という設定です。もし妊娠したら飛行は胎児に悪影響がある・戦時に現役パイロットが出産や育児休暇をとることは考えられない、というのが表向きの理由ですが、もう一つの理由がなんとも暗いものです。もし捕虜になったら強姦されて妊娠するかもしれない、それを予防する。敵に捕まえられたら、パイロットでなくても強姦を覚悟しなければならないのでしょうけどね。
 
 著者は、米軍機だけではなくてミグやスホーイの操縦についても実に嬉しそうに描写します。根っからの戦闘機乗りなのでしょうね。
 さらに、がちがちの軍人を描かせたら、著者は名人です。命令一途でパワー(軍事力と権力)指向のいかにも憎々しい軍人ですが、著者はよほどそんな人たちに苛立った過去を持つのかな、と思わされます。著者が理想とする軍人は、有能で状況判断力があって対応が柔軟で、そして見栄えのいい人、なのかも。
 そして著者が嫌うのは、覚悟が足りない者(つまりはヘタレ)です。特にヘタレの権力者に対しては著者の筆は容赦がありません。クリントン(とその夫人)ファンの人は本書は読まない方がよいでしょう。
 
 
26日(火)通じる
 「思いが通じる」のは良いことですが、相手の思いにはお構いなしに自分の思い“だけ”を通じさせるのは、いわば錐をもみ込むのと同じで、通じさせることによって相手を傷つけているかもしれません。
 
【ただいま読書中】
ロシアの核(下)』デイル・ブラウン 著、 伏見威蕃 訳、 早川書房、1994年、1748円(税別)
 
 ウクライナはトルコに亡命政府を立てます。生き残った軍用機もトルコに移します。それに対してロシアはこんどはトルコを攻撃し始めます。
 ホワイトハウスの内部ではすったもんだがあり、やっと「偵察機」(本当は戦闘爆撃機)RF-111が12機やっとトルコに派遣されました。「撃たれるまで撃ち返すな」との命令のもとに。ところが彼らがトルコに到着するのは、本書(下巻)の半分過ぎです。いったいこの物語をどうやって収束させるのか、他人事ながら心配になってきます。しかも主人公たちがトルコの飛行場に集結したとき、ロシアの超音速爆撃機が空襲をかけてくるのですよ。
 
 本書での“悪役”はロシア大統領のはずですが、その人物描写はほとんどありません。もの足りない思いです。だけどちゃんと不愉快な人物は次々登場します。読んでいてイライラさせられる“悪役”は、軍事を「ショー」としか見ない政治家(または政治家を志望する軍人)、優柔不断なリーダー、弱虫のくせに威張りんぼの将軍……すべてアメリカ人です。それに対して、ウクライナの“英雄”の恰好良いこと。アメリカ側のヒーロー(とヒロイン)も食われています。
 そうそう、昨日本書の上巻の感想で「クリントンがコケにされている」ようなことを書きましたが、この大統領は南部出身の民主党でホワイトハウスの中では女房の尻にしかれていて柔弱でジャンクフードが大好きで徴兵逃れの過去を持つ……つまりはクリントンとブッシュ(子)の合成のようですね。著者はブッシュ(子)が大統領になる事も予言していたのでしょうか。
 
 自分自身があやうく核ミサイルを発射する羽目になりそうになったパイロット(ロバート・レッドフォード似)は、こんどはロシアの核に対峙することになり、またもや核ミサイルの発射命令を受けます。こんどは彼は発射ボタンを押せるのでしょうか。
 
 本書で活躍するのは、F-111とかミグ23とか、最新鋭ではない飛行機です。著者には「旧式」として扱われるものに対する何らかの美学的意識があるようですね。そんなの、私は嫌いではありません。さらに旧式の飛行機が新鋭機を相手に闘うための戦術とその空戦描写は、さすがに上手いものです。恋愛模様のしょぼさがおかげで目立たなくなりました。まあ、デイル・ブラウンに恋愛ものを期待して本を開く人はあまりいないでしょうけれどね。
 
 
27日(水)地方の独立心
 戦前だったか戦後だったかは忘れましたが昭和のいつだったかにけっこう本気の「九州独立論」があったそうです。第一次産業の農業・林業・漁業は盛ん、第二次産業の鉄工業や造船もあるし、なによりエネルギー源の石炭が豊富(時代がわかりますね)。これだけそろっていれば日本から独立しても十分やっていけるではないか、という論でした。
 そういえば、『吉里吉里人』(井上ひさし)では東北の村の日本からの独立が扱われていましたっけ。こちらも産業的には自立可能だったかな。
 江戸時代にはほとんどのクニは半独立で自給自足をしていたのですから、それに帰る形でだったら道州制の議論も意義のあるものになるかもしれません。
 何かと言えば「お国(日本)に頼ろう」とする人間たちでは、地方も自治もへったくれもありません。もっともそんな人間は「日本」でまとまっていても結局また別のもの(たとえばアメリカ)に頼ろうとしてしまうのでしょうけれど。
 個人でもそうですね。「あんたにべったり。頼り切ってぐてーとしている」人間がいくら集まってもきちんとした“チーム”は作れないな。
 
【ただいま読書中】
世界の小国 ──ミニ国家の生き残り戦略』田中義晧 著、 講談社選書メチエ、2007年、1500円(税別)
 
 1944年には国家の数は71でした。それが2006年には193です(コソボを入れたら194?)。そのうち44ヶ国が人口100万人以下の“ミニ国家”です。それに対してクルド人は2500万人もいるのに国がありません。……むう。
 
 「小国」の定義は国連が与えています。実にシンプルに「人口100万人以下」。
 
 ヨーロッパには“古い小国”がいくつもあります。サンマリノ(「世界最古の共和国」と自称)、リヒテンシュタイン、ルクセンブルグ、マルタ、バチカン……それらはいずれも周辺諸国との政治的外交的駆け引きを続けることで(時に占領されることがあっても)「国」として生き延びてきました。国として大変な苦労をした歴史を持っていますが、現代では「巨大な市場」のすぐそばに位置するという利点もあります。
 “新しいミニ国家”もあります。戦後は実の多くのミニ国家が独立を達成しています。1960年代のアフリカ、あるいは最近の太平洋……
 たとえばツバルは9つの島からなる、面積25.9平方キロ(安芸の宮島とほぼ同じ)、独立当時人口7000人ちょいの小国です。経済基盤はきわめて弱く、GDPは一人当たり1600ドル(2002年)。主な輸出品は切手で、国庫歳入の4割近くが英国からの援助でした。ところがインターネットがこの国の運命を変えます。国のドメイン(“tv”)が主にテレビ局に人気となって、大金が入るようになったのです。おかげで国連分担金が払えるようになって、189番目の加盟国になりました。意外な“産業”です。
 別の意外な調査結果も紹介されています。ミニ国家の方が政治的自由や市民の自由に関して「自由な国家」である率がミニではない国家よりも高いのです。さらに、経済成長するほうが民主主義が育つ傾向も認められます。「衣食足りて礼節を知る」なのかな。
 ミニ国家の弱点は、「小さいこと」です。国内の市場規模は小さく、マンパワーは不足しています(たとえば世界中に外交官を配置することは無理です)。産業も単一のものに頼りがちです。しかし、これからもミニ国家は増えてくることでしょう。
 
 地球には、4〜5000の民族が存在しているそうです。もし一つ一つの民族が“独立”を始めたら、現在の国の数はどうなるでしょう。現時点では「多民族国家」は“必然”なのです。では、民族主義のようなミニ国家の存在意義は? 著者はあわてて結論は出しませんが、グローバリゼーションが単にフラットなものにならないためとか、国連や国際会議での票数が大国と同じ「1」であることを活かしての影響力行使とかに著者は注目しています。
 
 ちょっと変わった視点から見ると、世界はまた違った形になるということでした。
 
 
29日(金)好きな理由
 別に熱烈なファンというわけではありませんが、好きなバンドはいくつかあります。たとえばドゥービーズ。魅力的なボーカルとメロディ・適確な演奏・分厚いコーラス……こう並べて、「あ、クイーンと同じだ」と思いました。ドゥービーズとクイーンが同じなんて、どちらのファンにもブーイングを食らいそうな感想ですけどね。私にとってはどちらも(熱烈ではないけれど)好きなグループなのです。
 
【ただいま読書中】
クイーン 果てしなき伝説』ジャッキー・ガン/ジム・ジェンキンズ 著、 東郷かおる子 訳、 扶桑社、1995年、1922円(税別)
 
 16歳のブライアン(クイーンのギタリスト)が、金もないし既製品のギターも気に入らないしで、ギターを自作するシーンから本書は始まります。18ヵ月かかったそうです。彼は完成したギターでテクニックを磨き、友人たちと「1984」というバンドを組みます。やがてそれは学生バンド「スマイル」になり、ドラマーとして歯科の学生ロジャーが参加。さらにボーカルのフレディが加わって「クイーン」となります。あと必要なのはベーシストです。オーディションを繰り返し、やっと現在のジョンが参加します。
 ところが順風満帆とは行きません。レコード会社との契約は難航し、やっとプロデビューしてもシングルは批評家たちから総スカン。それでも少しずつ人気が出始めますが、最初に人気が沸騰したのは、日本でした。イギリス、アメリカがそれに続き、フランスはずっと遅れて人気が出ます。しかし、音楽批評家たちの評は辛辣なものでした。本書ではこれでもかこれでもかときつい批評が続きますが、これは「こんな人気バンドをコケにしやがって」という個人的な恨み晴らしのようにも読めます。(しかしまあ……たとえばクイーンとデヴィッド・ボウイとの共作「アンダー・プレッシャー」に対する「サウンズ」誌の評は「クイーンの演奏は、驚くべき素晴らしさだ。だが、ボウイとマーキュリーのヴォーカルがすべてを台無しにしている」。「メロディ・メイカー」誌は「実に暗示的なシングル。ボウイには熱意と哀愁を充分に感じるが、ミスター・マーキュリーのキイキイ叫ぶだけのパフォーマンスに関しては、別にコメントする必要はない」……なんだか、評している、というより、自分の好みを主張しているだけ?(そうそう、フレディがオペラ歌手と曲を共作したときに、明らかに批評のことばに苦労しているのが見えて笑えます。たぶんそういった新しい領域に関するボキャブラリーを批評家たちは持っていなかったのでしょう)
 
 クイーンは、音楽やファッションだけではなくて、PA機器や照明に対するこだわりも強いバンドでした。本書にもそのことは繰り返し出てきます。また、「ボヘミアン・ラプソディ」でプロモーション・ビデオを作ったのも先駆的な試みでした(MTVの何年も前のことです)。
 やがてパンクロックの時代となり、「クイーンはもう時代遅れ」と評論家たちは書き立てます(と、本書では主張されています)。しかし、クイーンは変わり続けていました。時代遅れなのは批評家たちの方だったのかもしれません。フレディは長髪を切り口ひげを生やし、映画「フラッシュ・ゴードン」のサウンド・トラックも発売されます。そして、ジョン・レノンの殺害。時代は変わっていきます。(ちなみに「フレッシュ・ゴードン」はフラッシュのポルノ版パロディですのでご注意を)
 南アフリカ公演は物議を醸します。反アパルトヘイトの運動家から咎められたのです。クイーンのメンバーは(当時としては珍しいことに)現地で反アパルトヘイトを宣言し、さらに黒人の学校への援助を行ってきたのですが。(これは後にポール・サイモンも同じような目に遭います。政治的な意図ではなくて南アフリカの黒人ミュージシャンと共演したのが「アパルトヘイトを助長する」と攻撃されました。教条主義の“正義の味方”には、現地に出かけて実情を知り黒人の状況を少しでも良くしようとする具体的な活動は、単に「自分たちが嫌っているものに触ろうとする行為」であって、どんな触り方であれお気に召さないようです)
 
 しかし、アメリカ長期ツアーがイギリスの税制(年のほとんど国を空けていると、税金が安くなる)の結果によるとも取れる記述があります。イギリスのファンから見たら、税制を逆にして欲しいんじゃないかなあ。
 本書は、ファンにとってはおそらくデータ集として(○年○月にどこにツアーした、どこと契約した)価値がありそうです。ただ、内面への迫り方(ヒューマン・ストーリー)にはもの足りないものを感じます。まるで披露宴での仲人の新郎新婦の紹介みたい。そして1991年11月のフレディのエイズ死も、まるで美しい話になっています。これで良いのかなあ。