mixi日記08年3月
なかなか「真意」というものはわからないものですが、意外に他人の「真意」は見える場合が多くありません? たとえば、誰かに対する好意を、相手はおろかご本人さえまだ明確に意識していない段階で、周囲の方が早くからそうと気がついている、なんてことはそう珍しくはありません(私は鈍感なので、その方面には出遅れることが多いのですが)。
そう、「真意」というのは、なかなか自分でも気づかないことがあるのです。だけど、自分で否応なく気づかされることもあります。何かの行動の結果に対する自己評価の場面です。何かが最初に予定したとおり上手くいったのに、ちっとも嬉しくない……これは実は「やりたくなかった」が真意ですね。あるいは逆に、最初に望んでいたのとは違う意外な結果が出たのに嬉しい……これは「嬉しい」が「真意」でしょう。
となると、自分の「真意」を知るには「これが上手くいったら本当に嬉しいか」と自問することが早道なのでしょうね。で、もし行動と真意が一致していなかったら……どうしましょう?
【ただいま読書中】
19世紀後半の著作です。
第1話は「さまよえるユダヤ人」。十字架をかついで丘に向かうイエスが、一息入れようとしたとき家の前から無情に追い払ったために、イエスの呪いによって死ぬことができずさまよいながら世界の終末を待つことになった靴屋のユダヤ人の物語が、福音書に起源を持ち、歴史のあちこち(と世界各地)に登場することを著者は分析します。30歳から100歳まで生きたらそこでまた30歳に戻される、と繰り返し続ける“人生”ですから、悲惨です。
世界各地に伝わるこの伝説を前に、著者は「まったく土台を持たない神話はない。この話もいくつかのたしかな真実を元にしてこのように巨大な構築物になった。ただ、その土台となる真実が見つからないだけだ」と述べます。それは「ユダヤ」なのか「人間の生命」なのか、さて、“正解”はあるのでしょうか。
「エペソスの眠れる七聖人」。エペソスを支配する異教の皇帝から七人のキリスト教徒が山中の洞窟に逃れます。彼らはそこで不思議な眠りにつき、目覚めたのは372年後のことでした。キリスト教の世となっており、7人は聖人となりました、という奇跡の物語です。これは5〜6世紀にメソポタミアから伝えられた物語がキリスト教化されたもので、同じエピソードは各地に(たとえばコーランの中にも)見られると著者は述べます。「長く眠る」伝説で著者が挙げるのは、ギリシア神話(エンデュミオン)、スカンジナビアの神話(ジークフリート)、伝説の島アヴァロン(アーサー王やオジェ・ル・タノワ)、アメリカのリップ・ヴァン・ウィンクル、アイルランドの上王ブライアン・ボルー……良く調べたものです。
「占い棒(ダウジング)」(木の棒を使った占いで、埋蔵金・鉱石・水脈・犯罪者など、何でも探し出せる)についても著者は冷静で論理的な態度を崩しません。日本でのスプーン曲げのときの浅薄な騒動(根拠なく信じ込む/根拠なく否定する)を思い出すと、19世紀の人間に対して思わず赤面してしまいます。
「ウィリアム・テル」……意外な“人”が登場しました。これまたヨーロッパ中に古くから見られる伝説の一亜型なのです。10世紀のデンマーク、ノルウェー神話、ペルシア、アイスランド、スイス、はては古代インドまで、頭の上に乗るのもリンゴだけではなくて、クルミやコインなど様々です。「確かな話」と思っても疑うことを恐れないように、と著者は述べます。
他にも、プレスター・ジョンとか女教皇とか尻尾のある人間とか、幾つもの話が取りあげられています。たぶんヨーロッパではタイトルを聞いただけで「ああ、あれ」とわかる話ばかりなんでしょうね。私は学がないので、すぐにはピンと来ないのが残念です。
他の文化圏から流入した話がキリスト教化されてヨーロッパの中で広がり「自分たちの物語」になる過程についての分析が読ませます。「他の文化圏の話を受け入れる」点を説明するにはユングの「元型」や「集合無意識」の概念が便利ですが、「キリスト教化」が必要なことにも注目が必要でしょう。人間が持つ共通点と相違点、それぞれについて目配りを忘れずに分析をしたら、目の前の世界は非常に立体的に見えてくるはずです。
19世紀にこのような本が書けた人を私は深く尊敬します。
「ガス自殺」「ガス中毒」は10年くらい前には死語になりかけていたはずなんですけどね、なんでまた七輪使っての集団自殺が流行することになったのやら……
【ただいま読書中】
『
時の旅人』ジャック・フィニイ 著、 浅倉久志 訳、 角川書店、1996年、1942円(税別)
『
盗まれた街』(映画は「
ボディ・スナッチャー」)で知られる著者の遺作です。30年前に発表された長編『ふりだしに戻る』で、アメリカ政府の秘密プロジェクトで過去への旅を成功させたサイモンは、到着した1880年代に留まることを選択します。しかし、彼は現代がどうなっているか知ろうとします。それが本書のお話……と前書きにあります。私は『ふりだしに戻る』(
上)(
下)は未読ですが角川文庫で入手可能なのでちょっと興味をひかれています。
不思議な話を収集しているグループから話は始まります。いないはずの妹の記憶を持つ人。ケネディ大統領の2期目を記憶している人。そして……タイタニックがニューヨークに入港した記憶を持つ人。
そして現代。「プロジェクト」が無いのに、あったという記憶を持つ人。そして過去。プロジェクトによって過去に戻ったサイモンは、プロジェクトの理論を構築したダンジガー博士の両親が出会うのを邪魔し、それによってプロジェクトの成立を阻止します。しかし、その“結果”が気になったサイモンは現代に“戻る”ことを決意します。さて、プロジェクトはあるのかないのか、ないのならサイモンはなぜ過去にいることができたのか。そして現代に“戻る”ことができたとしても、もう一回自分の“過去”に戻ることができるのか。SFでは古典的な「親殺しのパラドックス」(過去に戻って結婚する前の自分の親を殺したら、自分は生まれない。では親を殺したのは、誰?)が重層的に述べられ、だんだんこちらはわけがわからなくなってしまいます。
そんな私を放置して、話はいつのまにか「第一次世界大戦をいかに回避するか」に。しかし、ヤンキー英語しか喋れない一個人がどうやって? そこで私に天啓が訪れます。タイタニック! あいかわらずこちらは暗闇の中を鼻面を引きずり回されている気分ではありますが、少しずつ高揚感が訪れます。過去への干渉。それは“罪”です。しかし、今私たちが生きている“現在”が、もしもなんらかの過去への干渉の結果だとしたら、それを“復元”することは“罪”でしょうか?
サイモンはこんどは1912年に向かいます。ここでの「1912年の世界の描写」が、なんとも愛情たっぷりの筆致で読ませます。私たちにとっては「過去」「異世界」であっても、そこに住む人にとっては「いま」「ここ」(すなわち“リアル”)であることがよくわかります。
本書には、古い写真、あるいは写真から起こしたとおぼしきイラストが散りばめられて、雰囲気を盛り上げています。これは一見の価値有りです。(もちろん、一読の価値もあります)
本書を読んでいると「過去は身近にある」という感覚を味わえます。過去は“地平線の向こうにある遠いもの”ではなくて現在と二重写しのように存在していて単にこちらに見る眼がないから見えないだけ(それでも注意深く観察したら、過去の痕跡はどこにでもありますよね)、という感覚です。そのことに気がついて観察力と想像力を働かせたら、過去は身近になって、私もいつかは「過去への旅人」になれるかもしれません。
何かを決定するときに論理は有効な手段です。冷静に選択肢を比較検討して「良い」ものを選べばいいのです。ただ問題があります。良い/悪い、は価値判断ですから好き嫌いの感情が入っている、つまり非論理的な表現なのです。
では「論理」ではなくて「感情」ですべてが決定される世界があるとしたら、一体どうなるでしょう。「そちらに行ったら、あんたのメンツは満足されるだろうけれどみんな死んじゃう」とか「あいつは嫌いだから絶対あいつの政策は支持しない」とか……
あら? それってもしかして今の世界の一面そのものですね。
結局この世は論理じゃなくて感情で動いているのかな?
【ただいま読書中】
『
「白バラ」尋問調書』フレート・ブライナースドルファー 編、 石田勇治・田中美由紀 訳、 未来社、2007年、3200円(税別)
1943年、スターリングラード攻防戦に敗れて20万以上のドイツ将兵が倒れた頃、「すべてのドイツ人に呼びかける!」というビラ(中身は、ナチスがドイツを敗北に導き、かつユダヤ人を虐殺していることを責めるもの)が、ザルツブルグ・リンツ・ウィーン・シュトゥットガルト・ミュンヘンなどで一斉に郵送され、あるいは街頭に「自由」「打倒ヒトラー」とペンキで大書されました。「白バラ」の仕業です。政府や秘密警察は戦慄します。戦況が悪いだけではなくて国内に混乱が起きたら、敗戦は必至。なんとしても“反逆者”の組織を暴き出して禍根を断たねばなりません。
実は白バラの正体は、ミュンヘン大学の学生が中心で、その周辺の人が何人か手伝う、小さな“組織”でした。組織といってもアマチュアで、結局何回かビラを配ったりの活動の後、メンバーは次々逮捕されます。最初に逮捕された3人は、4日後に民族裁判所で公判、その夕方には(文字通り)ギロチンに送られました。しばらく後にさらに3人が斬首され11人が禁固刑を受けています。
この民族裁判所は、ヒトラーの意を受けた裁判官によって運営され、国家(ナチス体制)に反逆する者には極刑で望んでいました。「白バラ」を死刑にした裁判長フライスラーが率いる第一法廷は、彼がその職にあった1942年10月〜1945年2月までで2295人を死刑にしています。(最後は裁判所で仕事中にベルリン空襲で死亡だそうです) 「白バラ」の首を斬った死刑執行官は1945年にバイエルン州法務省に採用されランツベルク監獄に派遣されました。ニュルンベルクで有罪となったナチス戦犯の死刑を執行するために。
本書後半には尋問調書が収められています。著者は「一次資料として扱うには注意が必要」と述べます。なぜなら、調書は尋問する側が記述し、その内容に被疑者が手を加えることは普通できません。捕えられた側は、自分の罪を軽くし、さらに仲間や家族に累が及ばないように細心の注意を払って供述します。捕えた側は“真実”を追及すると同時に、自分の功績を誇るために都合の良いことをなるべく書こうとします。著者はこの資料を読むとき「批判的に慎重に取り扱う」ことを読者にも要求します。
この姿勢が必要なのは、歴史の資料すべてを読む場合に必要なものでしょう。資料であるということ自体がすでに誰かのなんらかの“操作”を受けているわけですから。
ともかく、“あの”ナチス支配下にさえ、それに抵抗しようとする人々がいた、そしてその努力は“失敗”(誰も指一本上げようとはしなかった)ことは確かなようです。だけど、その記録は残されています。私たちはそこから、何を学ぶべきなのでしょうか。
何かと言えば「ねじれ」「ねじれ」とマスコミが嬉しそうに報道していますが、何がそんなに問題なんでしょう? たしかに強行採決は減りましたが、そのかわり衆院での再議決や両院協議会などが目立つようになりました。結局内閣は自分の意をなんとか押し通しています。
たとえばアメリカでは、議会の多数派と大統領の所属政党が違う場合は珍しくありませんが(中間選挙でよくひっくり返ってます)、それを一々「ねじれ」とは言いませんよね。どうやって自分の主張を相手にのませるかの議会工作を活発にやるだけでしょう。まあ、公明正大な工作だけとは限らないでしょうけれど、ともかく押したり引いたり脅したり妥協したり、いろいろやるわけです。それが民主的手続きの一面ではないかと思うのですが……日本では意見が対立すること自体が「あってはならないこと」なのかな? ねじれたら「大連立」という発想の国だからなあ……
【ただいま読書中】
著者は長州人です。
元治元年(1864)四ヶ国連合艦隊が関門海峡を封鎖した長州藩に対して砲門を開きました。馬関戦争です。結果は長州の惨敗。14の砲台に据えられていた青銅製の大砲(最低でも117門)は戦利品として連合艦隊に持ち帰られてしまいました。
尊皇攘夷とは、本来は別ものの尊王思想と攘夷思想が「反幕」のために結合したものです。黒船がやってきた時代、長州藩は(というか、ほとんどの藩では)クニの内部を固めるために“ガイアツ”を利用しました。長州藩で行ったのは、節約と俸給削減と富国強兵です。ところが攘夷が“暴走”してしまいます。文久三年(1863)、関門海峡を通る外国船に対して次々砲撃が行われたのです。
それに対する報復として、まずはアメリカ軍艦ワイオミング(北軍の軍艦で、南軍の軍船を追跡して日本にまで来ていました)が長州の海軍(木造軍艦4隻)を壊滅させます。ついでフランス軍艦2隻が海岸の砲台を壊滅させ陸戦隊を上陸させて村を焼き払いました。
攘夷派はあせります。慎重派(外国は強い、と言う人)を粛清し、藩内から銅をかき集めて大砲を製作します。お寺の鐘や女性の鏡まで供出させたそうです。さらに隠棲していた高杉晋作を現役復帰させ奇兵隊を作りました(ただし、新式武装で訓練された奇兵隊がその真価を発揮したのはそれから数年後の対幕戦でのことです)。
そこに、イギリスを中心とした連合艦隊(イギリス9隻、オランダ4隻、フランス3隻、アメリカ1隻……砲291門、兵員5041名)が長州を襲いました(そのとき、横浜を守るために、イギリス艦4隻、アメリカ艦1隻、香港から呼び寄せたイギリス陸兵1300が配置されています)。
かくして、軍艦・大砲・ライフル 対 青銅砲・火縄銃・弓矢 の戦いが始まりました。人的損害は連合軍の方が多かったようですが、長州は蹂躙され、青銅砲は戦利品として各国の軍艦によって持ち帰られてしまいました。
1966年、著者はフランス、パリのアンヴァリッド(廃兵院)で保存されていた長州砲1門確認します。あまり大事にされてもいない様子に「長州に里帰りを」と申し出たところ、にべも無く拒絶されました。「戦利品は返還しないことになっている。国会議決があれば話は別」なのだそうです。以後、長きにわたる長州砲の里帰り運動と他の長州砲の探索が始まります。著者にとって長州砲はただの大砲ではなくて、「日本」が「世界史」に登場したときの記念物なのです。それも、長州の人たちの様々な思いがこもった。
1984年、安倍晋太郎外務大臣(この人も長州人)がミッテラン大統領と交渉し、長州藩主が使った甲冑と交換の形でお互いに“貸与”する契約でフランスの長州砲が里帰りを果たします。著者の願いは一つかないました。
さて、もう一つ。1983年にはロトゥンダの大砲博物館で、1991年にはアメリカ、ワシントンの海軍博物館海兵隊資料館で著者は長州砲を確認します。残るはオランダ。ところがこれがなかなか見つかりません。しかし1999年、意外にもアムステルダムの国立美術館で発見されます。
著者は自分で「虚仮の一念」「性懲りも無く」と書いています。たしかにそう見えます。ただ、単なるモノではなくて、そこに込められた人の思いと、そのモノの歴史的意味に注目したら、そこまで夢中になって、まるでライフワークのように(というか、ライフワークそのものとして)取り組むことができるわけがわかるような気がします。そして、そんなテーマを発見できた人生が、ちょっぴりですが、うらやましくも感じられます。
「道路は大切だ」との主張、一見もっともらしいのですが、そこに本当に道路を必要としている生活者の視点が入っているのか、私には疑問に思えます。「道路」ではなくて、道路「工事」が大切なんじゃないの?と。工事からの「分け前」が大切な人は、道路だろうがハコモノだろうがダムだろうが、とにかく「工事」が行われることが大切なだけじゃないかなあ。
あ、「工事」じゃありませんね。「分け前」が大切なのでした。
【ただいま読書中】
空軍の体制におとなしく納まりきれず、少佐で退役したキムブルは、14人のパイロットと多くの技術者を空軍から引き抜き、航空機製造会社を興します。作ったのは新しい戦闘機システム。アルファ・カットというステルス戦闘機とそれを管制するカッパ・カットという空中管制機で、カッパ・カット一機でアルファ・カットを最大24機操ることができます。しかも値段は最新鋭のF-15の半値以下。アルファ・カットはカッパ・カットとペアで動くことが前提なので、高価な電子機器のほとんどを搭載せず、カッパからのデータリンクで動く(つまり単独行動はほとんどできない)ように割り切ってコストダウンをしてあるのです。斬新な発想です。
ところが売り込みは不調で会社は破産寸前。そこにCIAから“救いの手”が。300万ドルの一時金と海外へ売りこみに出る許可証を取ってやろうと言うのです。代償は、ミャンマーを乗っ取ろうとしている麻薬王ロン・ポトの私設軍隊を壊滅させること。各国をデモンストレーション飛行のツアーをしてアルファ・カットのシステムを売り込み、その途中でちょいと足を伸ばしてロン・ポトの軍隊と交戦しさっさと壊滅させる、という予定です。
ところが、彼らの敵は国内にもいました。空軍情報部がキムブルとCIAの足を引っ張ろうと動き出したのです。彼らも傭兵を使います。事故に見せかけて飛行不能に追い込むためまずはエンジンを狙撃、ついで小さな爆弾を仕掛けて空中事故を装おうとします。しかし妨害工作は不調。とうとう敵はスティンガー・ミサイル(人が携行できる地対空ミサイル)を持ち出します。そのミサイル攻撃をかわして、アルファ・カットとカッパ・カットは無事“任務”を成功させることができるのか。そして、会社は倒産を免れることができるのか?
本書の最初と最後のあたりに「命令に従うのが苦手」というフレーズが登場します。ハリウッド映画でも定番ですね。最後にはやんちゃ(命令違反)をして、結局“ヒーロー”になるのが。
気の利いた会話も多く盛り込まれていますが、ほとんどは一往復。ストーリーもシンプルで、悪役もヒーローも脇役もきわめてわかりやすく人物造形されています。よく「ジェットコースターのようなストーリー展開の映画」という表現がありますが、それをジェット機でやってみました、という冒険小説です。1〜2時間暇つぶしをしたいときには、お勧め。
調査捕鯨船に薬品瓶などを投げ込んだ自然保護団体にひとこと。
「海洋汚染、反対」
【ただいま読書中】
『
蟹工船・党生活者』小林多喜二 著、新潮文庫、1954年(86年70刷)、240円
いわずと知れたプロレタリア文学の“古典”です。
どんなものでも「“それ”が受け入れられる」ためにはそのための受容体(レセプター)が存在しなければなりません。麻薬が人に影響を及ぼすのは、人の内部に「麻薬レセプター」が存在するからです。「赤化」というと、共産主義嫌いの人にはまるで「思想」が毒ガスか汚染物質のようなイメージでしょうが、思想は言葉によって伝えられるものである以上、少なくとも「人がそれを受け入れる」にはそれなりの「受け入れるための素地」が準備されていなければならないはずです(人が「聞く耳持たない」状態では、どんなにありがたい説教も危険思想も「馬の耳に念仏」のはずですから)。
では、戦前の共産主義に対しては何が“レセプター”だったのか。小林多喜二の『蟹工船』ではそれが克明に描写されます。
会社は1年に一千万円の儲け(時代が昭和初期であることをお忘れなく)、株主の配当は二割二分五厘。社長は代議士になることを夢見ています。船に軍人や役人が訪れたら、飲めや食えやの大盤振る舞い。監督はそういった上層部の人間にはぺこぺこしていますが、蟹工船の従業員に対しては専制君主気取りです。
ところが船の“反対側”では……粗末な食事と脚気の蔓延、粗悪な住環境(寒さ、雑魚寝)、虱や南京虫、監督などによる気まぐれな暴力、そして重労働。
働かせるためのキーワードは「お国のため」です。「大日本帝国」「日本男児」「国富」などのことばを監督は連発します。さらに駆逐艦が護衛します。それはロシアから貴重な船団を守るためですが、時にはロシア領海で密漁するときの護衛役でもあります。
こんな状況で「働かない者がますます豊かになり、実際に汗水たらして働いている自分たちはまるで使い捨てのように死んでいくだけ。それを“改善”する手がある」と言われたら、飛びつかない人間はあまりいないでしょう。もちろん暴力でその行動を抑制することはできます。だけど、暴力で人の心の持ちようまで自分の思う方向に向けることは困難です。
『蟹工船』は、群像の作品です。個人はほとんど明確に描写されません。最初から「名前を持った個人」を描く作品ではないのでしょう。
そうそう、本書には「兎が飛ぶ」という表現が出てきます。激しい風に波の表面が次々白く吹き散らかされていく様のことです。ずっと前に読んだ漫画(『人間交差点』だったかな)にそれがたしか「静岡の表現」とあってなかなか素敵な言い回しだなと思った記憶があるのですが、小林多喜二は小樽の出身、そしてここで飛ぶ兎は漁民を苦しめるオホーツクの海面です。
『党生活者』は逆に「個人」の物語です。非合法な共産党活動を続ける主人公に焦点が絞られています。
軍需工場に臨時工としてもぐりこんだ主人公は、摘発を恐れながら地下活動を続けます。具体的には、ひそかにビラを配ったり工員たちの雰囲気を盛り上げて、“仲間”を作ること。短期目標はサボタージュやストライキ。長期目標は……なんでしょう……革命?
ところが地下活動をするためには、下宿などで怪しまれないように「世の人並みのこと」をしなければなりません。このギャップがなんとも笑えます。地下活動をしない人は堂々と「世間知らず」をやれるのですから。しかし、何をするにしても警察とスパイを警戒し、何をするにしても党の活動が最優先で「個人の生活」など存在しない“個人”って……読んでいてだんだんこちらの息が詰まってきます。
この二つの作品とも、最後は“薄明るい希望”を提示して終わります。暗い時代に自分たちがやっていることの“意味”をポジティブにとらえたいと、そういう終わり方をしておきたかったのでしょうが、その直後著者は逮捕され即日処刑(拷問死)。なんともはや、ですな。
[PR企画]ライラの冒険 黄金の羅針盤 | 大人の読書感想文
http://mixi.jp/pr.pl?id=10
昨年の11月だったかな、『
ライラの冒険』の映画の宣伝で、原作の感想文の募集がありました。以前書いたレビューを応募したら、最優秀の一つ下、ライラ賞になりました。
ふむ、めでたい♪。
……でも、賞品はなんだったっけ?(覚えていません) 何を書いたっけ?(それも実は……(^_^;))
【ただいま読書中】
フランスでだったかな、「個人が使う時間の1/3は仕事のために、1/3は自分のために、1/3は地域のために」という言いまわしがあるそうです。そんな“贅沢”は私にとっては夢のまた夢ですが……
本書は、まもなく“会社人間から卒業”する人々に対するセカンドステージへの招待状です。濡れ落ち葉ややることがなくても引きこもりにならないように、という“親切心”からのもの……かな? 多くの人はやみくもに「地域」に参加しようとしますが、「地域デビュー」に失敗する人は珍しくありません。本書ではまずは肩書きを捨てて、ボランティアから始め、そして、会社人間の時に獲得した特技を生かしてのコミュニティ・ビジネスを勧めています。
コミュニティ・ビジネスとは、地域の問題を解決するのにビジネスの視点を入れ、地域を活性化するために利益を上げることを目的とした“ビジネス”です。これだったら会社人間でも思う存分腕が振るえます(腕があれば、ですが)。大切なのは、個人の“自分興し”と地域の活性化と事業性のバランスです。
形としては、株式会社・事業組合・自営・NPO法人……いろいろな選択肢があります。目的・資金力・人材・地域の特性などで適当に選択を、とのことです。法人として大切なのは、人材育成と収益で、事業計画を立てるところでもそれは強調されています(どんな“商売”でも大切なことですけれどね)。
最後の章では、各地の具体例が載っています。さすがに地に足が付いています。どこぞの都会にこもっている評論家のふわふわした“田舎礼賛”とは違っています。ただ、(当然と言えば当然なのでしょうが)成功例だけなんですよね。こういった本には向かないかもしれませんが、本当は失敗例とその分析も厳しく載せておいたら、少なくともこれから同じ道に進む人たちが同じ轍を踏む確率は減少していたかもしれません。
私は、もう十数年は現役でいるつもりですが、その後何をするか……そのとき「これが自分の特技だ」と言えるモノがあるかどうか、ちょっと心配ではあります。遊ぶのは得意だからなんとかなるかな?
ことばは心が紡ぎます。きれいな心からはきれいなことばが流れ出します。では、汚いことばはどうして発生するのでしょう? それは心が不完全燃焼をしている証拠でしょう。どんなに優秀なエンジンでも不完全燃焼だったら汚いガスが発生しますから。だったら心の整備が必要です。「臭いものに蓋」をするよりもね。
【ただいま読書中】
『
秘戯書争奪』山田風太郎、角川文庫、1986年、540円
黒船来航によって日本国がてんやわんやとなった時代。老中阿部伊勢守は十三代将軍家定の虚弱体質に困り抜いていました。法印(奥医師)の見立てでは虚弱で早漏。このままではお世継ぎも望めません。となれば混乱にますます拍車がかかります。そこに法印が妙案を。京の朝廷典薬頭が秘蔵する『医心方』(中国の古医書を平安時代の医師丹波康頼が編集したもの)の「
房内篇」(房中術の集大成=セックスの聖典(性典))にはきっと解決策があるに違いない、と言うのです。(医心方・房内篇に関しては史実です。ちなみにこの典薬頭は半井(なからい)家で、その子孫の一人がNHKの夜のニュースで天気予報をやってます) ところが長年の確執のため「見せてくれ」と言っても京都は素直にうんとは言いません(これも史実)。ついに阿部は甲賀忍者(くの一)を使って秘戯書を盗むことを決断します(ここから風太郎ワールドです)。くの一7人を束ねるのは、法印の甥(剣は免許皆伝、ハンサム、長身、漢方の奥医師の家の出身のくせに蘭方を勉強中という変わり種、婚約者有り)。さて、いかなる珍道中に相成りますやら。
幕府方の秘密はあっさり漏れ、京都は対策を立てます。甲賀に対抗して伊賀者に秘戯書の護衛をさせることにしたのです。甲賀は全員女忍者、伊賀は全員男忍者。「
伊賀の影丸」だったらここで命を賭けた忍法合戦の開始ですが、本書では、軸となるのが「秘戯書」、対抗するのが男女7人ずつ……ストーリーがどちらに向かっていくかは容易に想像できますね。そう、忍法合戦ならぬ淫法合戦なのです。それも命を賭けた。普通のセックスではなくて房内篇に書かれていることに則っての“合戦”ですから、なんとも奇々怪々。しかも著者はその中に「男恐怖症の女忍者」と「女嫌いの男忍者」の“合戦”なんてものを混ぜてくれます。さて、この二人の対戦はいかなる“淫法”になりますやら。かと思うと、(やっと)真っ当な剣豪同士の対決になるかと思ったら、片方は下帯一丁でしかも男根丸出しで対決を始める、なんてのも。……なんで?
さらには、体を接することなく交わりたい、性器を失って(羅切)交わりたい、さらには交わりながら刀も交えたい……もう無茶苦茶な要求が伊賀側から続出します。で、それをかなえようと軍師役は四苦八苦……
著者は遊んでます。思いっきり遊んでいます。もう行くところまで行ってしまえ、ということでしょうか、最後にはバーチャル・セックスまで登場します。「
ヴィーナス・シティ」も真っ青ですな。医心方って、“そんな本”ではなかったんですけどねえ……(笑)
10日(月)なす
私の家ではLAN回線を設置しています。ブロードバンドルータを置いてそこにマック(古いiMac)とWin-XPマシンがぶらさがっていますが、マックは2年くらい前にハードディスクが飛んでしまい、バックアップを取ってなかったデータが全部消えてしまった過去を持っています。今はWin機の方がどうも不安定で、いつ飛ぶかわからない予感が。そこで共有できるハードディスクをネットワークにぶら下げることにしました。いや、それぞれに外付けをするのが面倒くさいものですから。目的はとにかくデータのバックアップを急ぐことと、本体のハードディスクに空間を空けることです。
導入を考えたのは、NAS(Network Attached Storage)と呼ばれるジャンルのハードディスクで、同容量の外付けハードディスクより1万円は高くなりますが、そのかわり家庭内LANに繋げばどちらのマシンからでもアクセスできるのがメリットです。
多くは望まないのでヤマダ電機にあった一番安いやつ(IOデータの250GBで、型番が古くて売れ残っていた、18000円より少し安いもの)を買いました。ネットに繋いで電源をオンにしたら2分で使用可能になります。Winからは一回では認識しませんでしたが、結局それほどストレス無くつながりました。早速iTunesの曲データ約12GBを移します。iTunesがネットワーク越しだと認識してくれないので(だから新しいNASにはiTunesモードというのがあって、そのまま認識できるようになっているそうです)、NASにドライブ番号を割り当てて外付けドライブ扱いにしてやりました(こうしたらマイコンピュータからも簡単に認識できますので)。そうしたらiTunesが今までと同じに使えるようになりました。これまではノートのハードディスクが一杯でもう何も入れられない状態だったのです。さあ、無料のポッドキャストなんかもばんばん落とせるぞ。調子に乗ってiTunesの設定ファイルもNASに移すと、iTunesが固まっちゃいました。さすがにそこまでは無理みたい。
意外に苦戦したのがマックの設定です。自動認識しないから、まずはルータから自働取得したIPアドレスを入力してやる必要がありますが……番号がわかりません。ブロードバンドルータの説明書はどこだ? 結局Win機でネットワークを覗いてハードディスクのIPアドレスを見つけました。ったく、素人にもっと優しい機械であって欲しいものです。
でもまあ、1980年代末に初めて98にハードディスクを外付けしたときには、参考書を2冊読んでしまいましたからねえ。その時のことを思うと、楽な時代になりました。
新しい本は古本になります。だけど、自動車は新車が中古車になります。
【ただいま読書中】
明治四年(1871)11月12日、訪米使節団が横浜港を出港しました。その中に8歳〜15歳の少女5人も含まれていました。二人は早々に帰国しますが、永井繁子は10年、山川捨松と津田梅子は11年の留学生活を送ります。帰国後彼女らは、西洋のマナーを身につけた妙齢の婦人で英語がぺらぺらということで一躍「鹿鳴館の花」となりました。さらに彼女らがきちんとピアノのレッスンを受けていたことも忘れてはいけません。
西洋音楽導入の気運が高まり、東京音楽学校が作られ、お雇い外国人教師が日本人を指導します。ボストンとウィーンに音楽留学した幸田延やライプチヒに留学した滝廉太郎などが“エリート”として卒業しますが、同時に日本中に西洋音楽が普及していきました。明治十年代には全国で28000の学校が作られ、その中にはオルガンを備えたものが増えていきました。ピアノに比べて安く(45円対1000円)調律の手間もかからないのがその理由です。その一つ、浜松尋常小学校のオルガンを修理した流れ職人山葉寅楠は、オルガンの国産かを始めとうとう明治二十二年に山葉風琴製造所を作ってしまいます(要するに舶来品のデッドコピーですが)。文章にしたら2〜3行ですが、ここだけでも紆余曲折の長い物語がありました。そして山葉に先行するのは横浜の西川製造所。輸入品との戦いだけではなくて国内でも戦いがありました。
オルガンの次は国産ピアノです。ところがこれがノウハウと技術の塊なのです。鋳物のフレームは弦の張力20トンに耐えなければなりません。響板は音に直接関係し、木目・材質・組み合わせ・接着剤などで微妙な加工がされています。アクションは複雑な機構をしています。木工・鋳鉄・機械技術・フェルトなどの“バック”が必要なのです。西欧では17世紀末にピアノの原型が製作されました。ピアノの改良に尽力した作曲家がベートーヴェンです。メーカーに要望を言うだけではなくて当時のピアノの音域を越える曲を作曲したりして改良を促していました。つまりは、西洋音楽の伝統と産業革命の近代とを合わせ持った楽器ですから、そう簡単にデッドコピーはできないのです。
日清戦争直後、寅楠は社名を「日本楽器製造株式会社」にあらためます。アメリカ各地の工場を見学した寅楠は、部品は輸入する半国産でピアノ製作を始めます。第一号は明治三十三年(1900)、半国産とはいえピアノの生命線である響板は国産でした。寅楠はさらに、木工技術を生かして家具製造など経営を多角化させます。
日露戦争、スペイン風邪、第一次世界大戦後の不況、関東大震災などが次々襲ってきますが、ピアノは日本中に広がっていきました(そのころアメリカではピアノの大衆化が進行しています)。日本楽器は日本の中では独占的な楽器製造企業に育ち、輸出も考え始めますが、そこに大争議と金融恐慌が襲います。なかなか楽はできません。その危機を救ったのは、住友から入ってきた川上の合理化・科学路線と、ドイツから招聘したシュレーゲルによる製作の大改革でした。
ピアノは日本でもブームとなり、昭和七年には、日本楽器からスピンオフした河合楽器をはじめとして中小ピアノメーカーが30くらいあったそうです。
第二次世界大戦では、合板技術を生かしてピアノ工場では飛行機の木製プロペラなどが製作されました。同時に細々とピアノ製作技術の継承も行われていました。空襲で工場は壊滅状態となりますが、戦後すぐに復興が始まります。目標は、スタインウェイです。
ヤマハは、月賦制度を取り入れ、音楽教室で子どもたちにピアノの楽しさを普及させてその結果としてピアノの需要が増加する戦略をとりました。アメリカ輸出が始まったときには、ヤマハ音楽教室も同時に“輸出”されています。かくして昭和30〜40年代はピアノの“黄金時代”となりました。団地の三畳間にもピアノが置かれた時代です。
ヤマハは普及品の次に高級品に挑戦します。しかし、ピアノは、近代技術の産物であると同時にヨーロッパの音楽文化の伝統そのものでもあります。なかなか簡単には“良いグランドピアノ”は作れませんでした。
さらには「調律」の問題があります。調律とは音の高さを調節するだけの作業ではありません。ピアノのメカニズムを調整する「整調」、ハンマーのフェルトを様々に調整して音色を整える「整音」を同時に行わなければならないのです。ちなみに当時のスタインウェイの整音は、一台のグランドピアノで平均9時間かかったそうです。一日に何台も「調律」する日本とは“常識”が違ったのです。
ピアノは、工場を作ればできるものではありません。技術を持った「人」が必要です。さらにピアノをピアニストに合わせて調整する調律師という「人」も必須なのです。「もの」をつくるというのは、大変な作業なんですねえ。
「嘘をつかない人間がこの世に存在する」ことは、嘘つきにとっては信じがたい事実でしょうが、それは同時にビジネスチャンスでもあります。騙してお金を取るための。
【ただいま読書中】
『
アメリカ・インディアン史』W・T・ヘーガン 著、西村頼男・野田研一・島川雅史 訳、北海道大学図書刊行会、1800円(税別)
タイトルに主張があります。世間一般では「インディアン」ではなくて「ネイティブ」と言うべきでしょうが、本稿では著者に敬意を表して「インディアン」で通します。
ヨーロッパの白人が「新大陸」で見出したのは、600種類の文化と100種類以上の言語で構成された「インディアンの国」でした。インディアンが見たのは、馬と金属器とマスケット銃でした。両者の衝突は複雑でした。インディアンはインディアンで部族同士での争いがあり、各国の植民者は植民地同士で争い、対インディアンの方針がばらばらです。さらにキリスト教も教団同士で方針が一致しません。ところがこの「方針の不一致」がインディアンの方に不利益を強います。武装蜂起をしても圧倒的な武力で鎮圧され、では平和をと思っても誰と交渉してよいのかわからず、やっと条約を結んでもそれは守られないのです。
そもそも「野蛮人」から奪ったり殺すことは、政治的にも経済的にも宗教的にも「正義」でした。「死んだインディアンだけが良いインディアン」だったのです。
やがて各国の植民者が「アメリカ人」になるにつれ、インディアンは組織的に狩られるようになります。一時イギリスがインディアンたちと組んでアメリカに対抗しようとしますが、結局これもインディアンへの風当たりを強くするだけでした。インディアンは、甘言と詐欺行為と暴力によって強制移住をさせられます。空き地に移動するわけではありません。移動した先には別のインディアンがいて新たな衝突が起きます。さらにその後を「フロンティア」が追いかけてくるのです。
「フロンティア」が西進するにつれ、インディアンはどんどん西に追われます。『
大草原の小さな家』シリーズにインディアンが集団で西に向かうシーンがありますが、これを読んだとき私は『
指輪物語』のエルフが西へ出港するシーンを思い出しました。ただし、エルフは悲しみの旅ですが、インディアンは絶望の旅です。
東部のインディアンが絶望的な状況になった19世紀、平原インディアンは白人から手に入れた馬と銃を自由に操るようになっていました。西部劇の「アメリカ・インディアン」像はここから来ています。(砂漠に住む部族や農業をする部族もいるんですけどね)
アメリカ国家の枠組みが完成した後も、白人とインディアンの関係は一方的、というか、もっと悪くなります。文化の変容の強制や、公共の福祉の名の下の国家的統制が行われるようになったのです。そして最後には「自由を与える」と称して保護を打ち切ろうとする動きさえ。歴史や社会学の観点からは、「あまりに力の差がある文化の“衝突”」がいかなるものかを知るためには、15世紀以降のインディアンの歴史は宝庫でしょう。当事者はあまり欲しくない宝の山かもしれませんが。
そういえば、日本の時代劇で「者ども、出会え出会え」でわらわら出てきてばったばったと切られる人の役が、西部劇でのインディアンの役回りでした。それが変わったのは、映画「
ソルジャー・ブルー」からでしょう。そして、インディアンが文化を持つ人たちであることを明示したのは……「
ダンス・ウイズ・ウルブス」かな。
かつてヨーロッパ各地の都市では、中世からの伝統で、ユダヤ人を特定の地区に集めて住まわせていました。ゲットーです。場所によっては、その周辺を壁で囲んで物理的に隔離していました。それを強化したのがナチスです。一番有名なのはワルシャワですが、その他の占領した東欧諸国の都市でも強制的にユダヤ人を一ヶ所に集めていました。絶滅強制収容所に送りこむまでのつなぎ、とも言えます。ゲットーのタテマエはユダヤ人の自治でしたが、軍隊による隔離は厳重でした。ワルシャワ・ゲットーではユダヤ人による武装蜂起がありましたが、それに対しては親衛隊が武力による鎮圧をしています。
今、ガザ地区でユダヤ人がパレスチナ人に対して行っていることに、よく似ています。
【ただいま読書中】
『
自動車爆弾の歴史』マイク・デイヴィス 著、 金田智之・比嘉徹徳 訳、 河出書房新社、2007年、2600円(税別)
自動車爆弾は「貧者の空軍」と呼ばれます。大量の爆薬(数百kg、トラックだとトン単位)を楽に運んで目標に肉薄することができ、しかも都市に溶け込んでいて隠密(ステルス)性も充分です。せいぜい数千ドルと安価なのも“魅力”です(ほぼ同等の爆発効果を持つアメリカの巡航ミサイルは100万ドル近く)。
ナポレオンの時代から荷馬車に仕掛けをして暗殺、は試みられていたそうですが、近代的な乗り物爆弾は、1920年イタリア系移民のアナーキスト、マリオ・ブタが荷馬車に仕掛けた爆薬をウォール街で爆発させて40名を殺したのが最初とされます。自動車爆弾はその後散発的に行われましたが(ナチス支配下のパリでも、レジスタンスが親衛隊を殺すためにやっていたはずですが、そのことは本書には登場しません)、組織的には1947年シオニスト右派(ユダヤの過激派)シュテルン・ギャングが英国警察やパレスチナ人に対してトラック爆弾を用いました。パレスチナ側の“報復”もまた同じ手段でした。その頃使われたTNTやダイナマイトなどはその後プラスチック爆弾に変わりますが、1970年代には、肥料から安価に製造される強力な爆薬が広く用いられるようになります(最初は農家用の雑誌に農業で爆破作業が必要な場合に、と紹介されていたそうです。これによってテロリストは爆薬を入手しやすくなりました)。1980年代には“グローバル化”がおきます。自動車爆弾と携帯電話とインターネットによって「グローバル・ネットワーク・テロリズム」が始まり、情報は共有され、世界のどこでも自動車爆弾が爆発する時代になったのです。(92〜98年に16の都市で1050名が死亡・12000名以上が負傷しています)。地域は西ヨーロッパと中東が双璧です。
さらに自動車爆弾の威力を増したのが、自爆テロリストの登場です。それによって自動車爆弾は、路肩にこっそり放置して敵を待つ「罠」から、自らターゲットにつっこんでいく「ミサイル」に変貌したのです。
本書ではロバート・ペープの研究が紹介されていますが、それによると自爆テロリストは心理的には正常で「地元の愛国者」なのだそうです。彼らは圧倒的な力を持つ侵略者が自分たちの文化や価値観を押しつけようとしたときそれに対して抵抗しようと自爆テロを行うのだそうな。ちなみに日本の神風特攻隊については、「ベテランがほとんど死んで未熟パイロットしか残っていない/飛行機の数だけはある/戦況は圧倒的に不利」という状況で選択された“(最上とは言えないにしても)ある意味当然”の戦術ではないか、という評価が本書ではされています。2800機が参加して成功率は14%、34隻撃沈・368隻に損害・4900名死亡・4800名以上負傷、という戦果だそうですから。
少なくとも自爆テロリストを狂信者として片付けていたら、おそらくその“根”を断つことは不可能でしょう。
さらに「ソフトターゲット」の問題があります。テロリストが狙うのは、軍事基地や警察などの“敵”の軍事組織だけではありません。市場・デパート・証券取引所・ガソリンスタンド・投票所・教会・寺・美術館……社会(すなわち“敵”の体制)にダメージを与えられるものならなんでもありなのです。観光立国なら勧告客が集まる場所がターゲットになります。“弱い部分”を多数抱えた都市には車が溢れ、いつどこで自動車爆弾が爆発するかわからない、そんな状況なのです。(自動車爆弾から安全を確保しようとしたら、数百メートル幅の緩衝帯が必要で、それでも爆発に指向性を持たせられたらターゲットは無傷では済みませんい)
アルカイダがCIAの援助で力を得た経緯の紹介とか、イラクでは2005年の5月だけで500台の自動車爆弾で9000名の死傷者、とか、興味深いというかおそろしいことがいっぱい書いてあります。そういったテロを根絶するために必要なのは……本書にもあるように「武装解除するべきは『精神』」なのでしょうね。具体的にどうやったらいいのか即効性のある策はまだ思いつけないのですが。
「日本は食糧自給率が低いのに、残飯の量が多い(けしからん)」とよく聞きます。ちょっと待って。なんだか不自然なにおいがする文言なのですが。試しに“対偶”を取ってみましょう。「日本は食糧自給率が高いから、残飯が少ないのはけしからん」……これはどう見ても“正”ではなくて“偽”です。
つまり、自給率とは無関係に、残飯が多いのはよくないのではないでしょうか。
そういえば今日の昼間、お弁当についていたパセリを私は残しました。あれも「残飯」にカウントされちゃうのかなあ。
【ただいま読書中】
『
日本以外全部沈没』筒井康隆 著、 徳間文庫(筒井康隆自選短編集3 パロディ編)、2002年、571円(税別)
「日本以外全部沈没」……星新一がタイトルのアイデア出しを行い、著者が小松左京の許諾を得てさっと書いたという短編です。やっぱり元ネタを読んでいた方が楽しめますが、読んでいなくても一応笑えるでしょう。ただ、当時の国際情勢や映画スターの情報がないとつらいかも(ここに登場する政治家やスターはもうほとんど死んでいますから)。しかし1973年にすでに「地球温暖化」のおそるべき末路についての考察をしていたとは、著者はすごい人です(誤解による賞賛)。
「小説「私小説」」……「私小説」のパロディというより、「私小説作家」のパロディかな。ちょっと悪意が入っています。小説のアイデアを得るために女中部屋に夜這いをかける老作家って……(笑) 本作を読んでいて私は急に川端康成を読みたくなってしまいました。うん、次は川端を読もう。
「モダン・シュニッツラー」……まるで「ポッコちゃん」を思わせるようなオープニングから話は次々滑っていきます。作を貫く軸は「エロ」。
「デマ」……視覚的な階層構造を示す作品です。いったい生原稿はどんな風に書かれ、版下はどうなったのか、興味があります。何しろ4段組ですからねえ。
「バブリング創世記」……第一章の始まりは「ドンドンはドンドコの父なり。ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み、ドンドコドン、ドコドンドンとドンタカタを生む」で、これが全5章18ページも続きます。改行無しにこの調子で埋め尽くされたページを見ていると(読まなくても)だんだん脳内麻薬が分泌されるのか、気持ちが良くなってきます(真顔)。
「裏小倉」……百人一首のパロディです。パロディというか最近流行りの言葉を借りれば「そら耳百人一首」かな。読んでいてとにかく笑えます。
全13編、筒井康隆はやっぱり筒井康隆です。
自慢ばかりしている人がそばにいると鼻につくものですが、それでも「(根拠のある)自分のこと」だったらまだ許せます。根拠のない自分の自慢や他人のことをまるで自分のことのように自慢するのは、これは鼻につくどころか、私にとっては「許せない」領域の行為です。だって、根拠がないのだったらそれはただのホラだし、他人の自慢は「他慢」でしかないのですから。
他慢をだらだら聞かされるなんて、たまんないですよね。
【ただいま読書中】
『
伊豆の踊子』川端康成 著、 ポプラ社文庫、1980年(85年13刷)、390円
一昨日の『
日本以外全部沈没』中の「小説「私小説」」を読んだせいか、急に再読したくなりました。図書館に飛び込んで、館内に鳴っている閉館予告の音楽にせき立てられながら急いでひっつかんだのが本書です。あら、振り仮名と挿絵付きだわ。
「伊豆の踊子」「十六歳(十四歳)の日記」「禽獣」「百日道先生」「母の初恋」が収載されています。
若い頃に読んだ「伊豆の踊子」は、なんだか甘酸っぱい物語に思えました。だけど、この年になってから読むと、なんだか背中がぞくりとします。
まだ「学生さん」ということばが尊敬を持って使われていた時代。孤独な旅をしていた旧制高校生の「私」は、旅芸人の一行と道連れになります。「旅情」というと聞こえは良いけれど、単に孤独な自分に酔っているだけだった「私」は、その旅の過程で世界が広がり、人の厚意を受けることと人に好意を示すことができるようになります(それができるのが最初から当たり前、の人にはこれが「私」にとってどのくらい大きなドンデンなのかはわからないでしょう)。ただし、「私」が世界を眺める眼の鋭さは変化しません。
その「私」が祖父を看取ったときの日記が「十六歳(十四歳)の日記」です。「写実」です。やはり眼の鋭さは同じです(だって、同一人物なのですから)。
「禽獣」では、人と獣が著者によって同一平面に並べられて眺められます。本質的な差は無いように(実際に、無いのでしょうけれど)。さらに「生死」と「性」も同じ平面に並べられます。これにも私は異論がありません。
「百日道先生」と「母の初恋」は、解説には「ほのぼの」ということばが使われています。どちらも母娘がともに同じ男に思慕を示します。しかし、これは私小説(のようなもの)。私は裏返しに読みます。「一人の男」が母と娘を愛する物語である、と。「ほのぼの」なんて、とんでもない。これは男の思い(一歩間違えたら妄執)を示しているように私には思えるのです。「小説「私小説」」も真っ青です。ただ、著者もそれは意識しているのではないかなあ。「母の初恋」で、主人公はかつての恋人の娘(彼女が最初に結婚した相手との娘)を縁あって養女とし、しばらく育てたのに妙に急いで嫁に出します。そのまま手元に置いたらまずい事態が出来することを予感したからだろうと私は想像します。その娘が、嫁ぎ先を出て主人公の家に帰ってきてぽつんとひと言告白をするのは、これはもう願望充足としか言いようがありませんけれど。まあ、日記ではなくて小説なのだから良いのです。
バイクで一方通行の道を順方向に走っていると、向こうから逆走(それも右側通行)してきた車にクラクションを思いっきり鳴らされました。いや、向こうから見たらこちらはたしかに邪魔でしょうが、法律違反をしている人が法律を守っている人を怒鳴りつけるって、なんか変じゃないです?
それからしばらく経って、今度は別の一方通行の道でのことです。こんどはこちらが逆走の方向ですが、ただし一方通行の標識の下には「二輪のものを除く」とあるのでかまわないのです(しばらく行ったら一方通行だけど「自転車を除く」になるのでそこで曲がります)。ところがまたまた向こうから来た車(これまた右側通行)にクラクションで怒鳴られました。いや、一方通行の道は右側通行可ですから、先方の通行そのものには問題ありません。しかし「二輪可」なのですから、左側を走っているこちらにも問題はないのです。
そういえば以前家内が「午前8時半まで一方通行」の道に9時前に入ろうとしたら、向こうから来た車に思いっきり怒られた上に進入を妨害されたことがあったそうです。この世には「道路交通法よりも俺様基準の方がエライ」人が多いんでしょうか?
しかし、標識が読めない人や文字が読めない人や、「クラクションは呼び鈴ではない(危険を知らせるために使いなさい)」という道路交通法の条文を記憶できていない人が免許証を持って堂々と運転している状況は、あまり嬉しくありません。まあ、そんなことを言っても、向こうの耳は“一方通行”で、こちらのことばは届かないでしょうけどね。
【ただいま読書中】
子どもが事故に一番多くあう“現場”は、家庭です。著者は統計をじっと眺め、同じ事故が毎年毎年繰り返されることに気づきます。さらに、“リピーター”がいます。事故にあった子どもの1割は、また事故にあうのです。
まずは誤飲から。
最初に登場するのはアルコール飲料です。子どもがアルコール? たとえば、小学校低学年の子どもが缶チューハイをジュースと間違えて一気飲み……これはけっこうコワイ例です。
アルコールのつぎはタバコ。タバコをそのまま食べたり、灰皿の吸殻を食べたり、子どもは何をするかわかりません。
タバコの次は薬です。カラフルで適度な大きさの錠剤はまるでお菓子のように子どもには見えるようですが、なぜか薬を誤飲するのは男児が女児の倍。
飲み込んだものが存在するのは、胃腸だけではありません。食道に停滞したり、方向を間違えて気管に行ってしまったり。気管に入るもので多いのは、ピーナッツ。ついで豆(節分の翌日は、乳幼児の気管支異物の多発日だそうです)。気管は、窒息の危険があります。こんにゃくゼリーが有名ですが、プチトマトやイクラで窒息死や重い後遺症の例もあるそうです。
次は溺水事故です。
0〜1歳児が溺れるのは、圧倒的に家庭風呂です。先進国でもダントツの多さです。「浴槽のふちの高さが50センチ以下」「残し湯をする」「子どもが一人では入れないような工夫をしない」……この3つがそろっている日本の家庭(日本の6割)は、幼児の溺水危険地帯なのです。
そういえば私も幼稚園に入る前に、風呂で足が滑って溺れたことがあるそうです。親にすぐ救助されて事なきを得ましたけれど。
こんどはやけど。子どもの3人に1人はやけどの経験者だそうです。医療機関を受診するのはそのうちの1割で、さらにその1割が入院となっています。
ちなみに人生で一番やけどをしやすいのは、生後6ヶ月からの1年間だそうです。家の中の熱源は、すべて子どものやけどの原因になる、と考えたほうがよさそうです。原因として多いのは、(熱いものが入っている)茶碗・ストーブ・アイロン・魔法瓶・鍋・花火……本当になんでもありです。
著者は「病気で健康が障害されるのと同じように、事故も健康を障害するもの」と考えています。つまり事故は「健康問題」なのです。
また、「事故が起きる前(予防)」「事故がおきたときの対策(救急処置)」「事故の後(医療体制やリハビリテーション)」の3つに分けてそれぞれ考えることが必要だ、と著者は主張します。で、欧米に比べて日本で一番遅れているのは予防のところだ、と。(だからいつまでも同じパターンで事故が繰り返されるのでしょう)
本書では、子どもの事故を予防するためにはまず実態を知ろう、と、事故サーベイランスが提唱されています。しかしそれが「不注意な親を責めるため」だったら意味がありません。「注意しなさい」の注意だけで事態が改善するのなら、誰も苦労はしないのです。子どもを殺そうと思いながら日常生活をしている親なんていないのですから。精神論よりも具体的で有効な提言を、という(具体例に基づいた)著者の主張は、きわめてわかりやすく納得できるものです。
ネットをうろうろしていたら、たまに良いことがあります。iPodのイヤホンがちょっと調子が悪くなってどうしようかと思っていたら、ものすごく安くソニーのノイズキャンセラーイヤホンが入手できました。買えば1万円以上はするものがほとんどタダ同然で(それでも高級品に比較したら安物ですけど)。
試しに使ってみました。スイッチを入れるとホワイトノイズのような音がシャーと聞こえます。「まさかこれで外界の音をマスキングする、じゃないよね」と思いながら音楽を流してみました。話しかけられたらわかります。とりあえずパソコンのファンの音はよく消えます(感覚的には半分くらいになる感じ)。
新幹線でオンオフを試してみましたが、それほど著明にノイズが消える感じではありません。ささやかな雑音だったら効果的、でした。ボーズだったかな、なんかすごい宣伝をしている(スイッチを入れたら静寂が、てな感じ)ノイズキャンセラーヘッドホンがあったと記憶しているので、また“ラッキー”を期待してネットをうろうろしようかしら。でも最近は暇が……
【ただいま読書中】
理系の高校生に、基礎的な数学の問題を出し、その正答率だけではなくて、自信率(自信を持って解いた生徒の率)や教師の予想(どのくらいの生徒が正答するか)を調査して2005年の同様の調査と比較したレポートです。「学力低下」「理数離れ」が大きな声で言われていますが、それがはたして本当なのか、の調査です。
そもそも理系の生徒は日本にどのくらいいるのでしょうか? 実はきちんとした調査はありません。本書では「数V」「数C」の教科書採択数を、高校で必修である数Tの教科書採択数で除して、20%という結論を出しています。意外に少ないと私は感じます。私の高校(男女共学)では、感覚的に文系理系は半々くらいでしたから。
本書では、数T〜V/数A〜Cの範囲の中から、基礎的・基本的な問題を作成、あるいは過去の大規模調査で使用されたものの中から選択し、正答率が50〜95%になるように11問のセットを組んであります。テストをするのもなかなか大変です。
ちょっとやってみましたが、図形問題は苦手です。集合や論理問題はなんとかなりそう。といっても、私の受けた教育には集合が入っていないので、なんとか力ずくで解いてしまいます。
……私の数学力はともかく、本書の結果です。
単純な考察は書かれていませんが、2005年と2006年の比較を見る限り、高校生の数学力は低下をしているようです。まだ2年間の比較ですから軽々しく“結論”を述べてはいけないでしょうが、これを長期的にやったら日本の将来を真剣に憂うべき結果が見えるようになるかもしれません。
そうそう、単年度で見ても、がっかりする結果があります。「なんでこんな問題を間違えるんだ?」と言いたくなる問題(たとえば三角関数の定義を問うような問題)で不正解がぼろぼろと。これで日本の将来は大丈夫なのか?
朝日新聞の「信用する・しない」調査では、信用するかしないかを問われた12項目で、天気予報を信用する人は94%、裁判を信用するは72%、宗教は30%、ワーストは政治家と官僚で彼らを信用するのはともに18%……
「信用している」の項目個数が多いグループほど生活満足度が高くゆとりのある生活をしていると感じているそうです。これは、信用できる人に囲まれているから満足度が高くなっているのかもしれませんし、逆に、満足感やゆとりがあるからこそ人を信用することができるようになっているのかもしれません。つまり、「○○を信じる(信じない)」とは「○○」についての言説であると同時に、「そう語る人」についてのある種の開示でもあるようです。
そうそう、気になるのは、「信用できない企業が多い」と答えた人が60%あることです。いや、一連の偽装騒ぎを見ていたらそう答えたくなるのはわかりますが、ではそう答えた人やその家族は「企業」に勤務していないのかなあ。自分が勤務している企業も信用できないの?
【ただいま読書中】
紀元前5世紀、アテナイの絶頂期、毎年3〜4月に春の祭典「大デュオニュシア祭」が
開催されました。その目玉は、野外劇場で行われる演劇です。新作ばかり、1日に3本の悲劇と(狂言風の)サテュロス劇が1本(のちに喜劇も1本追加で演じられるようになりました)。それを3日間連続で開催し、最優秀賞を決める「競演」です(賞品は常春藤の冠だけですが、その栄誉は輝かしいものだったそうです)。観劇は市民の義務とされ、貧しい人のためには観劇手当ても支給されたそうです。だけど、悲劇は1本2時間、サテュロス劇でも1時間。全部見通すの大変だったことでしょう。
演じるのは、仮面をかぶった数人の役者(プロ)とコロスと呼ばれる12〜15人のダンシング・コーラスチーム(市民から選抜されました)。脚本を書くのは詩人で、劇の題材は神話・伝説に限定されていました。その“解釈”が詩人の腕の見せ所だったのです。
ものすごい数の悲劇が上演されたと考えられますが、現存するのは33篇です。
トロイア戦争から凱旋したアガメムノンは、妻クリュタイメストラによって殺されます。息子オレステスと娘エレクトラはアポロンに命じられ「父の仇討ち(つまりは母親殺し)」を行います。親殺しを許さない復讐の女神とアポロンは対立し、正義の女神アテナが司る法廷での決着となりますが……
この物語を詩人アイスキュロスは「正義」(神への信頼)の観点から『オレステス』三部作に描きました。劇中の裁判の過程で神への信頼が一時は揺らぎますが、最後にはそれは回復されカタルシスが生じます。同じ題材を詩人ソポクレスは『エレクトラ』で人間ドラマとして描きます。忍従の生活を強いられていたエレクトラが死んだと思っていた弟オレステスに再会し、みごと仇討ちを行うドラマです。ハッピーエンドです。
ソポクレスの作品で有名なのは『オイディプス王』でしょう。ストーリーも秀逸ですが、劇では“真相”を登場人物も観客も全員知っているのにオイディプス本人のみが知らず、「オイディプスがいつどのようにして“それ”を知るのか」と観客がハラハラする“サスペンス”も楽しめたはずです。ヒッチコックがよく用いたテクニック(場面には写っている“危機”に主人公が気づいていないのを見て観客がハラハラする)を思い出します。
「心の悲劇・情熱の悲劇」を生み出したのは、エウリピデスです。代表作『メデイア』では、金の羊の毛皮を求めるアルゴー号の遠征隊長イアソンの裏切りにより、憎悪で狂乱した妻メデイアが子殺しを行う悲劇が描かれます。悲劇をもたらす人間の行動を起こさせるのは、神でも運命でもなくて、人の心である、とエウリピデスは描きます。
ついでですが、「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」はエウリピデスが愛用していたそうです。
ギリシア神話は扱いに注意が必要です。うっかりすると、神話を語っているつもりでそれを題材とした悲劇について語ってしまう可能性がありますから。
たとえばプロメテウスについても、私たちは「人類のために犠牲となった神(一種の救世主)」と捉えがちです。しかしそれはアイスキュロスの悲劇『縛められたプロメテウス』が“元ネタ”です。アイスキュロスが典拠としたヘシオドスの『神統記』では評価は逆で、人類の黄金期(人が神とともに豊かな生活をしていた)を終わらせた“主犯”で、怒ったゼウスが人間から火を取りあげたらゼウスを欺してこっそり火を人間に与えた「浅慮の者」だ、と言われているのです。これはヘシオドスとアイスキュロスの200年の“時差”と世界のとらえ方の違いでしょうが、ともかくあまり素早く「神話がわかった」などとは思わない方が良さそうです。
磨くのは結構ですが、うっかり変なものをつかんでこすってしまうと、磨り減らすだけになってしまいます。
【ただいま読書中】
『
PLUTO 04』(愛蔵版)浦沢直樹 作、手塚治虫 原作、2007年、小学館、1400円(税込み)
うっかり昨年買い忘れていたのを思い出したのでAmazonに注文を出しました。
かつて、ペルシア王国の天才科学者ゴジ博士が大量破壊兵器となるロボット兵団を作り上げたという噂が流れ、各国の科学者とロボットからなるボラー調査団が調査しましたが、発見したのは大量のロボットの残骸だけで大量破壊兵器は発見されませんでいた。しかしトラキア合衆国は納得せず第39次中央アジア紛争が勃発、ペルシアは焦土と化します。
ボラー調査団のかつてのメンバーが一人ずつ(あるいは一体ずつ)殺され(破壊され)ていきます。次に狙われるのは……お茶の水博士。ゴジと名乗る客(ロボット)が自宅を訪ね、アトムを闘わせろ、と要求します。そのための脅しとして、竜巻がお茶の水博士の孫の家を襲います。アトムは竜巻に飛び込み、死にます。
その頃、やはりボラー調査団のメンバーだったゲジヒト刑事(ロボット)も命を狙われていました。狙うのは狂信的な反ロボット教団のメンバーアドルフ。病的に反社会的な行為を繰り返していた兄をゲジヒトに殺された仇討ちです。しかし皮肉な成り行きで、ゲジヒトがアドルフの護衛をすることになってしまいます。
電子頭脳の天才天馬博士は、ロボット法13条(喜怒哀楽を抑制する)がある限り完璧なロボットはできないと考えています。人に近く感情を持ち成長をする、それが最高の電子頭脳である、と。しかし、高度に発達したロボットが感情を持てば、その中には怒りや憎しみも含まれることになるのです。
感情を持つロボット。それは最高のロボットなのでしょうか。それも、人類にとっては、と、そのロボットにとっては、の二つの局面で問う必要があります。さらに天馬博士が巻末で言う「間違える電子頭脳こそが完璧なんだ。その時誕生するのだ。地上最大のロボットが……」の意味は?
マック専用のブラウザーと思っていましたら、Win用のものもありました。早速ダウンロードして試してみました。あら、マシンを再起動せずにそのまま使えます。ブックマークは……あらら、IEのもFireFoxのもどちらもさっさと読み込んですぐ使えるようになっています。手間がかかりませんねえ。
利点は……軽いことです。サクサク動きます。IEは論外ですが、愛用のFireFoxもどうももっさりしていてちともたつくことが多かったのに比較して、体感速度は数割アップ。検索ウインドウに「最初に戻る」ボタンが付いているのも、検索して枝道に奥深く入った後最初の検索画面に戻るときには大変便利そうです。
画面は……違和感があります。シンプルなのです。ただ、FireFoxの画面上部が(mixiツールバーを入れたせいもあって)ごちゃごちゃしてきたのと比較して……慣れたら私はsafariに軍配を上げます。とにかく広く使えるのはありがたい。
難点は……まずは検索ウインドウにAmazonがないこと(いれることができるかどうか、まだ未調査です)。それと、マウスジェスチャーが(まだ)できないこと。少なくとも私が探した範囲ではplug-inが見つかりませんでした。画面を睨みながらマウスの右クリックを押してひょいひょい画面を前や後ろに移動し新しいタブを開いたり閉じたりするのに慣れると、もうこれ無しでは生きていけないのです。ブックマークも、全画面で選択するのは最初違和感がありました。今まで左側のサイドバーで選択するのになれていましたから。ただ、不必要なときにはボタンに片付けておくのはそれはそれで合理的です。よく使うものはフォルダーごとブックマークバーに入れておけばいいのですから。
もう少し様子を見てからですが、主力ブラウザを変更することになりそうな予感がします。
【ただいま読書中】
『
PLUTO 05』(愛蔵版)浦沢直樹 作、手塚治虫 原作、2008年、小学館、1600円(税込み)
ボラー調査団の一員、闘神ヘラクレスもまた殺されます。ヘラクレスはペルシアでの戦いでの記憶から敵の正体に気づいているようですが、それは明かされませんでした。
ゲジヒトもまた自分の記憶(と夢)に苦しんでいます。消去しても消去しきれない憎悪の記憶がメモリーのどこかに残っているようなのです。
そしてウランは、アトムの死を受け入れられず苦しんでいます。悲しみに敏感になり、町をさ迷うウランは、とても大きな悲しみが凝結したお墓にたどり着きます。墓に刻まれているのは「天馬飛雄」。
「死」んだアトムを復活させるため、天馬博士は科学省を訪れます。そこで天馬博士はお茶の水博士に、あることを提案します。
平凡な感想ですが、「親子(特に父息子)関係」を強く感じる作品です。天馬博士と息子のトビオ。その“代理”であるアトムと天馬博士。“養父”であるお茶の水博士とアトム。ここまでは原作にもあるものですが、本書ではさらに、手塚治虫と著者の関係が重ねられます。手塚漫画で育った著者は、いわば「手塚の息子」のようなものですが、息子には息子の、父には父の悩みがあったことでしょう。本書で、人間もロボットも悩んでいるように。
1)人生に成功した人の成功の秘訣は、個別例としてなら参考にできます。一般化できればよいのですが、それは困難です。失敗をいかに成功に結びつけたかの話は、これは大変参考になります。
2)人生に失敗した人の成功の秘訣は参考になりません。だって成功していないんだもの。失敗談は、同じ轍を踏まないために大変参考になります。
3)人生に成功も失敗もしていない人の場合は、成功譚も失敗談も、こちらの人生にはあまり参考になりません。要するに成功も失敗もしない秘訣なんですから、聞いても大体は時間の無駄。
【ただいま読書中】
時代小説に“会って”しまった著者が、時代小説について書いたエッセーを集めたものです。ちょっと変わった視点をお持ちです。
宮本武蔵について取りあげるのは『ハンニバル・ライジング(
上)(
下)』(トマス・ハリス)。
『
羊たちの沈黙』の前日譚、若き日のハンニバルが初めて殺人を犯すとき宮本武蔵が“登場”するのです。ハンニバルが宮本武蔵をなぞっていることから、時代小説とホラー小説の読み直しが必要、と著者は指摘しています。
『
刀狩り ──武器を封印した民衆』(藤木久志)では、刀狩りのあとも村には大量の武器が残されていたこと/しかし一揆ではそれらは使われなかったこと、から、刀狩りとは武器があってもそれを使わない「約束」であった、と断定されていることが紹介されています。『
七人の侍』のあの暴力に対しておろおろするばかりの情けない村人像もどうかとは思いますが、著者が言うとおり、まるで民衆と権力が対等であったかのような藤木論もまたちょいと極端、と思えます。“真相”はどのへんにあるのでしょうねえ?
藤沢周平の『木曽の旅人』と『帰郷』の比較も面白い試みです。最初期の短編では藤沢周平は「時代小説を書こう」としています。しかし円熟期には「小説を書こう(たまたまそれが昔の話)」としているようです。この違いは大きい。小説の面白さという点で、とんでもない差が認められます。それは単に書き慣れなどの問題ではなくて、「自分が何者であるか」「何を書こうとしているのか」の意識の問題なのでしょう。
『
奇蹟 風聞・天草四郎』(立松和平)では「視点」そのものが取りあげられます。なんとこの本の視点は「白鳩、ノミ、シラミ、ダニ」なのです。一応理屈はあります。全滅した城内の状況を誰が語れるのか、という。だけどねえ……
「何かを書くことは、結局“自分”を書くことでもある」は私の持論ですが、本書でもあちこちに著者の“自分”が登場します。たとえば『
小説 圓朝』を扱ったところでは、そこに描かれている師匠殺し(弟子が師匠を超えていくこと)を扱うことで、著者が師匠を持たないことが告白されます。我流は自由ですが苦しさもあります。それに対して師匠持ちには師匠持ちの苦しさがあると言うことなんですね。「師匠殺し」というときついことばですが、「出藍の誉れ」「守破離」「型破り」など、“師匠”によって与えられた枠や型を破って新境地に達するためには並々ならぬ努力が必要なはずですから。
……なんだか、読みたい本がどっと増えてしまいました。困ったなあ。
美味しいものを食べていてその説明書きにたとえば「素材にこだわり」とあると、私はがっかりします。「素材を吟味する」とか「厳選する」という「日本語」があるのですから、そちらを使って欲しい(この場合は「吟味」の方が良いですね。ものが食材ですから「味」がある方が望ましく感じます)。
何を見ても「かわい〜い」、何を食べても「美味し〜い」「まったり」の世界が好きになれないのと同じで、何でもかんでも「こだわり」「こだわる」だと、それはずさんな言語感覚に感じてしまい、さらには、そんなずさんな感覚で作られたものなのか、と私は思ってしまうのです。
そもそも「何かにこだわる」のは、もともとは拘泥・固執・執着の類語で、あまり良い意味ではありません……なんて言っているのもまた、私のこだわりなのかしら。
【ただいま読書中】
・1946年ジョージ・オーウェルは「政治演説で、何を意味するか考えて注意深く選ばれた単語は少なくなり、プレハブ式の部品のように組み立てられた文がどんどん多くなっている」ことを指摘しました。
・独裁dictatorshipと書き取りdictationはラテン語では同じ単語です。
・著者の主張は一つ。「『何もないもの』についてのメッセージを発するのを止めろ」。
著者は「プラスチック・ワード」の基準として30項目を上げますが、それを一々ここでは書きません。おおざっぱにまとめると「国境を越えて蔓延し日常言語を侵しつつある、ある種のことば。歴史を欠いており、一見科学的で権威の雰囲気を持ち、ポジティブなイメージを持っているが、内容は空虚で具体的な文脈でその意味を特定できない」。具体的な例として「発展」「セクシュアリティ」「アイデンティティ」「近代化」「構造」「教育」「情報」「問題」「システム」「進歩」「未来」「成長」……問題はそのことば自体にではなくて、ステレオタイプしか生み出さない用法にあります。(著者はドイツ人ですので、ここでナチスの言語統制を例に引きます)
もちろん、意味があいまいなことばはこれまでもありました。たとえば「愛情」。しかし、人が具体的な文脈でその単語を使用したときには、その意味を文脈で定義することが可能です。この場合「あいまいさ」はことばの「豊かさ」に通じます。しかしプラスティック・ワードの場合、人は文脈の中でその単語の意味を定義することができません。逆にその単語が文脈の方向を決定してしまいます。これはことばの「貧困さ」です。
科学用語が日常用語として用いられるとき、その内容は変化しています。しかし外見は同一のため、その変化は隠されてしまいます。無定形のプラスチック・ワードの誕生です。
著者は、流行りことばやキャッチフレーズとプラスチック・ワードは違う、と論じます。その大きな違いは、プラスチック・ワードが一見中立的であるにもかかわらず、流行りことばと違って寿命が長く、キャッチフレーズのような動詞を欠いていてもなんらかの方向性を示すことでしょう。プラスチック・ワードは、まるでレゴブロックのようにそのことばに一定のことばが自動的に接続されることで、「何も具体的に語っていない」にもかかわらず、なにか大層なことを語ったかのような効果を示し、誰もそれに効果的に反論できず、さらには回りのことばにも悪影響を与えていくのです。
笑ってしまうのは、著者がドイツの都市開発構想を、プラスチック・ワードのモジュール的性質を利用してそのままインドの保健政策に“変換”してみせる手際です。プラスチック・ワードは相互に交換可能だからこそできる“技”です。
プラスチック・ワードが蔓延しているとき、問題は「何について論じているか」ではなくて「プラスチック・ワードがのさばっている状況かどうか」なのです。今の日本では、たとえば会社の企画会議でプラスチック・ワードが活躍していることでしょう。行政なんかプラスチック・ワードの塊ですね。典型的な例では「改革」なんてどうでしょう。本書にあるとおり、一見科学的・権威あり・内容は空疎・具体的な定義や内容に対する反論が困難・レゴのようにいろんなことばと組み合わせが可能(教育、政治、医療、行政……なんでもありです)……みごとにこのことばはプラスチック・ワードの資格を満たしています。ということは、このことばをむき出しで得々と語る人の話は、眉に唾をつけて聞いた方がよいと言うことですな。
私は四十代には四十肩とぎっくり腰を体験しました。で、先日からこんどは左肩に痛みがぐさぐさと。寝返りを打つたびに痛みで目が覚めるので、最初の夜はほとんど眠れませんでした。おそらく五十肩でしょう。今頃になって車のタイヤを夏用に戻したのですが、そのとき腕にちょっとだけ負担をかけたのがたたったのかもしれません。やっと口の中のアフタが治って食べるのが楽になったと思ったら、こんどはシャツの脱ぎ着などが不自由です。半身麻痺の人の苦労が少しだけ実感できます。指は動くのでこうやっていろんな原稿を打つのには支障がないのが、せめてもの救いですけれど。でも、左手をキーボードの上から下ろすのには右手の助けが必要です。左手独力ではホームポジションからぴくりとも移動できません。やれやれ、まったく困ったものです。(常にベストポジションに左手がいるのは、それはそれで“便利”ではありますが)
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イギリスをローマが支配していた時代から千年くらい経過した後。
ノルマン人に農場を襲われて家族を殺されたサクソン族の少女フライサは、同様にノルマンに圧迫されているヴァイキングの植民者の末裔が住むイギリス湖水地方に逃げ込みます。そこで彼女は、同じ境遇である少年ビョルンの竪琴弾きの魂が覚醒するのを目撃します。
彼らが住む地は「盾の輪(シールド・リング)」と呼ばれました。ノルマン人から隠れて勢力を温存する地と砦です。しかしノルマンの赤毛王ウィリアムは、その地の秘密を暴こうと捕らえたサクソン人やヴァイキングたちに拷問を加えます。老戦士はしみじみ言います。拷問にあってもシールドリングがどこにあるかを白状しない人たちのことを思いながら「われらの最後の砦は、人の心の中にある」と。
赤毛王は大軍勢を北の地に差し向けます。少しずつ圧迫されるヴァイキングとサクソン人。援助を期待していたスコットランドは内紛でアテにはできません。兵士は次々倒れ、とうとう子どもや女まで戦場に駆り出されます。著者お得意の「民族が滅びる前の光芒」がここでも切なく描かれます。
……サトクリフを児童文学に分類しているのは、誰?
ヴァイキングは隘路にノルマン軍を誘い込みます。大勝利。ただし、つかの間の勝利です。ノルマン軍はさらに大軍を送り込んできます。さらに大量の馬も。フライサはビョルンとともにスパイとなって敵軍に忍び込みますが捕らえられヴァイキングたちの隠れ里の位置を吐かせようとする拷問にあいます。竪琴弾きにとって命ともいえる大切な手を炎で焼かれたのです。でも「砦は人の心の中」にありました。
そして「どこにも行けない道」での最後の決戦。
「ローマ・ブリテン」シリーズで重要な小道具だった「イルカの指輪」がここにも登場します。ただし、ずいぶん古びているし改造も加えられています。昔と変わらない、でも変わっていくもの。
同じモチーフが本書のエンディングにも現れます。今までと同じようで、でも同じではありえない生活。その変化を作っていくのは、未来を所有する人たち=子どもや若人です。
……サトクリフが児童文学を書こうとし続けるわけが、ちょっとわかったような気がします。過去を踏まえて未来を見ようとしたら、そこには子どもが登場“しなければならない”のです(私個人の読解ですけれど)。
春の気配に浮かれて、バイクの手袋を真冬用から少し薄いものに替えました。しばらく走ったら、うう、手が冷えます。
そういえば、毎年思うことなんですが、夜桜見物ではけっこう体が冷えますよね。
考えてみたら当たり前ですね。気温が、2月が最低・8月が最高として、年間のグラフを書いたら(実際とは少しずれるでしょうが)きれいなサインウェーブを描くものとしたら、3月の平均気温は1月とほぼ同じはずですし、4月の気温は12月と同じくらい。12月や1月には「寒い寒い」と言っている気温を、今は“春”だからいくらことばで「暖かい」と言っても体が感じる温度は“冬”と同じだから冷えるのです。
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『
地獄の季節』ジャック・ヒギンズ 著、 田口俊樹 訳、 早川書房、1991年、1700円(税別)
偽造パスポートでパリに出かけた青年エリックは麻薬とアルコールの影響で溺死し、棺桶でイギリスに送り返されます。迎えたのは盗難車の霊柩車。それが事故を起こし、エリックがSAS隊員の縁者だったことからSASが動き出します。フランスで司法解剖されたエリックの腹の中にはヘロインの袋がぎっしり詰められていた形跡があり、さらに血液からヘロインとコカインだけではなくてスコポラミン(アヘンアルカロイド)とフェノチアジン(スコポラミンの副作用を減弱する)が検出されます。エリックが死んだのは、事故ではなくて、麻薬組織による計画的な殺人(と死体の利用)だったのです。
エリックの義母サラは復讐を誓います。その実行を引き受けたのは、優秀な殺人マシーンだったけれど膝の故障のために25歳でSASを除隊しなければならなかったイーガン。彼もまた妹を同じ麻薬組織に殺されていました。
ここで面白いのは、サラとイーガンが“大物”だということです。サラはやり手のビジネスウーマンで、親友の一人がアメリカ大統領です。イーガンの伯父はロンドンを支配するギャングの大物です。だから麻薬組織も軽々しくこの二人を排除できません。組織の用心棒ジェイゴ(元イギリス陸軍大尉、不名誉除隊)は二人に付きまとい、手がかりになりそうな人間を先回りして“処置(殺して証言できなくすること))”しますが、時には窮地のサラを救ったりもします。
このジェイゴが面白い存在です。敵役で主人公の邪魔ばかりするのですが、妙なところで一本スジが通っているように感じられて、へんてこな魅力があります。著者もジェイゴに愛着があるようです。その証拠に……おっとっと、ネタばれはやめておきましょう。
そして話は、主人公が追い込まれた袋小路を突破するたびに大きくなっていきます。とうとう、シシリーのマフィアとアイルランドの過激派のつながりがあぶり出されてきます。さて、二人でこの大組織を二つも敵に回すことができるのでしょうか。そして、その二つの組織をつなぐキーマンである「スミス」の正体は……
本書で一番印象的だったことばです。
「どうして人間というのはそんなに残酷になれるの?」
「残酷なのは人間じゃない。人生さ。…(中略)…人生は人間を過酷な状況に放り出して、人間にいっさいの選択の余地を与えようとしない。それが残酷なのさ」
(一見、若い女性と年取った男性の会話のようですが、実は中年女性と若い男性の会話です。この設定にも“意味”があるのですが、ハリウッドだとあっさりお手軽なロマンスものにしてその意味を損なってしまうでしょうね)
こういった会話を読むと、著者が「20世紀の古きよきもの」を人格のエッセンスとして持っているように思えます。「古きよきもの」とはただのノスタルジアではなくて、人が生きていくための基盤となり得るものなのでしょう。私はそう信じます。
「しまった、もっと勉強しておけばよかった」と後悔する人がいます。
「しまった、もっと勉強しておけばよかった。よし、今から始めるぞ」とその場で始める人も、たまにはいます。
【ただいま読書中】
『
女工哀史』細井和喜蔵 著、岩波書店(岩波クラシックス6)、1982年(単行本初版は1925年、改造社)、1800円
近代的な紡績工場は、幕末の薩摩藩で島津斉彬が工場を建設してイギリスから輸入した機械を据えつけたことに始まります。家中の子女を女工、若侍を男工として採用しましたが、当時最先端の自動機械を扱う人は一種の“エリート”でした。
明治になり日本中で紡績が盛んになります。著者はそれを3期に分けます。
まずは日清戦争まで。まだおおらかな時代で、就職する方は大喜び、退社も自由でした。
次は日清戦争から日露戦争まで。過酷な労働環境が広く知られるようになり、会社は様々知恵を絞るようになります。強制送金制度(親を安心させるために賃金を親元に送る)、年期制度、身代金制度などが普及しました。一瞬目を疑うのが、教育制度です。私立尋常小学校を会社が作るから安心して子どもさんをお預けなさいな……尋常小学校? つまりは小学生を就職させるのです。
そして第3期が本書で著者がもっとも力を入れて書く時期です。増産増産なのに、結核などで体を壊したり脱走したりで常に人手不足のため、プロの募集人が活躍するようになります。これがまたひどいもので、甘言を弄したり嘘八百を並べ立てて契約をさせておいて、少し器量が良い娘は“味見”をしてから女郎屋に売り飛ばしたりを平気でやっていたそうな。あるいは“手持ち”の女工を集団で脱走させて新しい工場に就職させて給料からピンはねしたり……今東京に多いと言うカラス族(街中で女性に声をかけてキャバクラなどに就職させて給料からのピンはねをしている人たち)のご先祖様かな。
募集パンフレットもすごいこと(甘言)が一杯並んでいます。工場で働いたら、人気者になって大もうけできて教養も高まる……マルチの勧誘のご先祖様?
「可哀想な女工たちの境遇を知って、涙しよう」と思った人には、本書ははじめは肩透かしかも知れません。とにかく「データ」の嵐です。募集パンフレット・会社の組織図・給料体系・寄宿舎の構造・女工のスラング(渋チン、さぼる、新米、えこひき、など)・女工の好んだ小唄……さらには個人の具体的なエピソードがいくつも登場します。かくして、当時“女工”と呼ばれた人々の像が立体的に読者の内側に再構成されていきます。
勤務は11時間。仕事中はずっと機械が動いているためトイレにもいけません。休みは日曜だけ。工場は24時間稼動なので昼勤と夜勤が1週間ごとに交替ですが、11時間労働だと隙間が開いてしまいますね。そこで「残業」です(残業をせずに定時に帰るためには「早退届」が必要でした。もちろんそれを出したら会社ににらまれます)。仕事で失敗をしたり上達が遅かったり会社に対して素直でないなどでにらまれた女工には懲罰制度があります。体罰や罰金や外出禁止。家族からの差し入れは最初から禁止、読む本にも制限があります。書信も制限され(時には勝手に没収され)、ヘアスタイルや服装も厳しく規定されます。ひどい寮では布団は二人に一組です(昼勤と夜勤が交互に使う)。
食事は、不味くて不潔で栄養不足の「三不」です。しかし、三等米でも「白米」。当時ほとんどの農家では「米の常食」が行われていなかったので、それでも会社は誇らしげに「白米を食わせている」と宣伝できたのでした。悲しい時代と思えます。
その結果は、脚気・結核・精神障害(病名は書いてありませんが、描写を見ると虐待や酷使によるうつ病や精神錯乱などでしょう)・環境(高温多湿騒音塵埃)による病気・社会的転落(当時の女郎には女工出身がずいぶん多かったそうです)……12歳〜35歳の女性の死亡率が0.71%の時代に女工の死亡率は2.3%と著者は試算しています。内務省の統計では乳児死亡率が15.8%ですが、女工の生んだ乳児死亡率は32.0%です。
著者はもともと織布工で紡績工も経験があるそうですから、書いてあることが一々具体的です。女工に向ける視線は「集団」ではなくて「個人」を見ているようです。さらに“歴史”や“世界”に対する視点も持っています。だからこそ、女工を通して当時の社会を描ききることができたのでしょう。“天災”(地震や火事)で女工が大量に死んだのも、著者は「きちんと建物を建てるとか非常口を機能させれば防げた。これは人災だ」と言い切ります。正しいことばです。病んでいるのは女工だけではなくて、当時の社会も病んでいたのです。いや、「当時の社会」ではありませんね。その病根は今でもしっかり生き残っていますから。
著者は本書出版直後に急死したそうです。もったいないことです。
30日(日)古い背広
私が就職したときに親が作ってくれた紺の三揃え、ふだんスーツを着ない生活だったから時々しか袖を通していませんでした。結婚してからはなぜか縮んできたらしく少しずつきつくなってきて、長男の百日(ももか)祝いの時に着ましたがそれ以後着ることはありませんでした。
その長男が今回大学入学のためスーツがいるだろうというので、引っ張り出して着せてみたら……ちょっとウエストが緩いけれど、あとは肩幅からズボンの長さからみごとにピッタリ。20年前のスーツでっせ(というか、作ったのはそれからさらに数年前)。なんだか妙に嬉しい気分です。さて、あとはネクタイむすびの特訓です。
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『大どろぼうホッツェンプロッツ』プロイスラー 著、 中村浩三 訳、 偕成社 1966年(2000年改訂48刷)、900円(税別)
ピストルを持ちベルトにサーベルと七本の短刀とをさしている大泥棒ホッツェンプロッツが、カスパールのおばあさんからコーヒーひきを強奪しました。カスパールと友達のゼッペルはホッツェンプロッツを捕まえてコーヒーひきを取り返す決心をします。さて、そこから泥棒と少年たちの丁々発止のやり取りが……いやもう、最初からクスクス笑いが止まりません。本書は人前では読まない方がよいです。で、結局二人の少年はホッツェンプロッツに捕まってしまいます。せっかく二人の帽子を取り替えて“変装”までしたのに。
ホッツェンプロッツによって悪党の魔法使いツワッケルマンに売り飛ばされたカスパールは、朝から晩までせっせとジャガイモの皮むき生活です。なにしろ夕食はバケツ六杯分のジャガイモのから揚げ、という大魔法使い様なのです(ほかのなんでも魔法でできるのに、ジャガイモの皮むきだけができない、という笑える設定です)。ところがそこで出会ったスズガエル(正体は妖精アマリリス)から脱出の方法を聞いたカスパールは、ゼッペルの帽子を残して逃げ出します。怒ったツワッケルマンは帽子を魔法陣に置いて「持ち主」を召還します。ゼッペルの登場です。いやもう、ここで私は腹を抱えてしまいます。お互いに同じくらいびっくりした魔法使いと少年がお互いの顔を見つめ合っている状況を想像したら……ああ、お腹の皮がよじれるぅ。
一方カスパールはアマリリスの教えの通り、妖精草を手に入れて戻ってきます。さあ、これでアマリリスは自由の身となれます。
さて、アマリリスから三つの願いをかなえてくれる金の指輪をもらったカスパールが唱えた願いとは……いや、もう嬉しくなります。そして、水曜なのに日曜で、二部合奏をするコーヒーひきと生クリームたっぷりのプラムケーキで話は大団円……のはずですが……各章末に登場する著者の「ないしょの話」は別のことを読者に告げています。最初から最後まで楽しめるお話です。
31日(月)解決法は進学?
岡山での突き落とし事件、父親がTVインタビューで「進学させてやればよかった」と嘆いていました。
冷たい言い方をしますが、それは本当の“解決法”でしょうか? 「進学できない」が殺人の動機になる人は、たとえ進学できてもこんどは「留年した」「卒業できない」「就職に失敗した」「プロポーズを断られた」といった人生の重大事の挫折を味わうたびになにか犯罪を犯してしまわないかなあ。
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