mixi日記08年5月
 
1日(木)メーデー
 まだやってたのか、が私の正直な感想ですが、「あそこに労働組合員として参加したい」と切実に思っている人も日本には多いでしょうね。
 
【ただいま読書中】
ガンダーラの美神と仏たち ──その源流と本質』樋口隆康 著、 日本放送出版協会(NHKブックスC28)、1986年、900円
 
 ガンダーラとは、インド亜大陸の西北部、現在のパキスタン北部のペシャーワル県のあたりのかつての地名です。古くはインドの門戸にあたり、人はそこを通って中央アジアに出て西方あるいは東方に向かいました。7世紀には玄奘も旅しています。
 紀元前6世紀にはペルシアの属州となることで(西から見た)歴史に登場することになり、前4世紀にはアレクサンドロスがここまで東進しています。以後、インド系あるいはギリシア系の王朝がこの地に立ち、インドとギリシアの混淆が進みました。
 アフガニスタン北部からロシア中央アジアにかけての一帯はかつてバクトリアと呼ばれました。前250年頃そこにギリシア系の王朝が立ちますが、ギリシア文化はそこで土着の文化と混淆をします。
 紀元前1世紀?5世紀頃までアフガニスタン北部からガンダーラ、西北インドを支配したのはクシャーン民族でした。発掘された遺跡の中には多くの寺院跡が含まれています。
 
 しかし、読みにくい本です。歴史も場所も行ったり来たり、いろんな遺跡を訪ねていますが、そこで載せられる地図は縮尺がばらばらで、ガンダーラの全体像がつかめません。観光客がぶらぶらとあちこち訪ねてあちらをつつきこちらをつつき、としているような感じです。地図にしても、現物をそのまま載せずに縮尺を統一して全体図と部分図を対応させたりの編集をしたり部分的な省略をすればもうちょっとわかりやすくなったでしょうに。
 
 きわめて単純化して表現すると、東進したギリシア文化と西進した仏教とがガンダーラで出会いそこで生まれたのが仏像であった、ということになります。で、仏像はそこでUターンして東に向かいました。私たちがなんとなく東洋的なものとして見ている仏像は、実はギリシアの影響がなければ生まれなかったものなのです。
 初期の仏教では「仏陀の姿」は表現されませんでした。彫刻にも信者たちの姿などはありますが、仏陀は菩提樹や足あとで表現されています。それがガンダーラで変わります。しかし面白いですよ。ここに紹介されている「最古の仏像」は「祇園布施」と呼ばれる6人の群像ですが、皆顔がバタ臭いのです。やがて、礼拝のための仏像(仏単独の像)が現れますが、その表情は少しずつ「人」から「仏」に変わっていくのが見て取れます。「リアル」から「シンボル」へ、と言ってもよいでしょう。
 ギリシア神話の彫刻たちは、アフガニスタンあたりでその“中身”を失い、そこに仏教という“魂”が吹き込まれた、と言えそうです。で、その魂によって形式までもが変革されて、結果として現在の仏像のご先祖様が誕生した。歴史って、じっくり眺めると、まことに興味深いものです。
 
 
5日(月)9条
 「日本国憲法はアメリカの押しつけだ」という主張に私は共感できません。「無条件降伏」をしておいてほとぼりが冷めた頃になって「無条件? そんなの関係ねえ。あれはなかったことにしよう」というのは男らしくないでしょう。さらに「押しつけだ」と主張している人が、アメリカ(“押しつけ”た側)に噛みつくのではなくて尻を向けて尻尾を振り、日本(“押しつけ”られた側)に向かって吠え立てている態度も気に入りません。
 
 私は、武装中立論を支持します。「武装」からABC兵器は除外。「侵略に対する自衛のための戦い」は是認するので、そのためには9条は改正するべきだと思っていますが、こういう立場の人間はおそらく日本では少数派でしょうね。(ついでですが、「自衛」の地域的制限は「国境内」です。公海上の軍事行動は海賊行為だし、他国の国境内での軍事行動は侵略だから、自衛とは認めません。実はここは難しいところですが(核ミサイルとかテロ国家とか)、あまり例外を認めちゃうと結局「何でもあり」になっちゃいますからねえ)
 
【ただいま読書中】
狂気のモザイク(上)』ロバート・ラドラム 著、 山本光伸 訳、 新潮文庫、1985年、640円
 
 恋人ジェンナが敵側の殺し屋であることを知り、自らの手で彼女を死の道へと導いたアメリカ情報部員マイケルは、傷心のまま情報部を辞めます。現役時代には夢だった大学教員への道が開けたマイケルは、自分が監視されていることを知ります。引退したのに、なぜ? KGBも自問します。敵の中でも群を抜いて優秀だった情報部員が引退した。裏切り者の恋人が死んだから。ところがその恋人とやらはKGBの記録上どこにも存在しないのです。
 そして、マイケルは、目の前で射殺されたはずの女に、再会します。彼女は恐怖と侮蔑のまなざしをマイケルに向け、逃走します。
 ワシントンも混乱します。死んだはずの女に出会った? マイケルは精神錯乱を起したのか。それともこれはソ連の策謀なのか。あるいはマイケルが国を裏切るための複雑な手続きなのか。それともマイケルが国に裏切られていて、アメリカ政府上層部もそのことを知らないでいるのか。そもそもジェンナが敵であること、そして殺されたことは“事実”なのか? 事実であれ嘘であれ、それでマイケルはどのような行動を取ってアメリカに損害をもたらすか、あるいは“陰謀”を暴くことで利益をもたらすか……複雑な罠が何重にも構築されます。しかしその行為そのものが触れてはならないものに触れようとする企みであり、まずはアメリカ国内で“始末”のために死体が次々生まれ、ついでマイケルにも殺し屋の部隊が差し向けられます。コトはしだいに大きくなってきます。マイケルはついに最後の頼みの綱、保護者でもある政府の超大物に連絡を取ろうとしますが……
 
 マイケルの少年時代(チェコ・スロバキアでナチスに対するパルチザン、ついでソ連の圧政に対する抵抗運動をおこなった)や、「もぐら」(敵の体制の権力中枢に近いところに潜り込んだスパイ)や、日本で言うなら忍者の「草」(親の代から敵国に潜入していて平穏に暮らし、子孫の代になって怪しまれなくなってから活動を始めるスパイ)などが次々登場し、「祖国」「母国」とはなんだ、と問いたくなる状況が張り巡らされています。マイケルは命をかけて罠を一つ一つ突破しますが、その直後にまた別の罠が待ちかまえています。欺瞞を一つ一つ暴いていきますが、その下に控えているのもまた別の欺瞞です。
 
 何重にも塗り固められた偽装と欺瞞の中で、「真実」はどこにあるのか。そもそも「真実」は存在するのか? 各個人は自分が知っている真実のカケラ、あるいは自分が真実と信じる“事実”を根拠に行動しています。しかしそれは相互に矛盾しているのです。まるで悪夢の泥濘のなかをもがき進むかのようなマイケルの足取りを読み進む作業は、P・K・ディックがスパイ小説を書いたらこうなるかも、と思ってしまいます。
 
 
6日(火)KYといじめ
 空気は読むものではなくて吸うもの、は前に書きましたが、クラスや職場ぐるみのいじめの場合、「空気を読む人間」はいじめに荷担するんですよね。そちらが多数派なんですから。だったら私は「空気を読めない人間」でいいです。「空気を読めない人間」がいいです。
 
【ただいま読書中】
保健室と養護教諭 ──その存在と役割』教育科学研究室・藤田和也 編、『教育』別冊、国土社、2008年、2000円(税別)
 
 日本での保健室と養護教諭の存在が現在のようになったのは、それほど歴史が古いものではありません。さらに世界でもちょいと特異的なものです(外国では大体ナースとしての位置づけだが、日本では教諭)。
1941年の国民学校令で「養護訓導」という教育職員が規定され、戦後は養護教諭として学校教育法に規定されました。ただ、本書にもありますし私の子ども時代の思い出とも合致しますが、昔の保健室は「用(怪我や病気)がある人」のためのものでした。それが30年くらい前から「用が“ない”人」にも開かれたものになってきました。きっかけは70年代後半?80年代の「荒れる学校」。荒れる子ども、不登校、摂食障害などの問題が顕在化し始めた時期です。
 本書に紹介されている中では、当時養護教諭として(他の職種から)学校に入った人の感じたカルチャーショックが印象的です。閉鎖的で封建的で、私が生徒や学生として経験したものとはずいぶん違うものです。そして現在はそこに心理カウンセラーが専門職として(しかも守秘義務を持って)参入しているわけで、コーディネーターとして養護教諭が「学校」と「カウンセラー」を上手く?がなければカウンセラーは学校内で上手く機能しないのではないか、という危惧が本書では述べられています。かつて(あるいは現在でも)養護教諭は学校を変えるのに苦労をしたようですが、その苦労がにじみ出た発言です。結局「問題行動をする子ども」にだけ注目してそこだけ変えようとしても苦労ばかりで成果はありません。子ども・(個人としての)教師・学校のシステム・家族まで視野に入れて動けば、苦労は報われる、こともあるようです。
 また、一対一のカウンセリングではわからない問題が保健室では見える、という指摘も印象的です。たとえば、誰が何を話していても自分のことを話し始める・養護教諭が他の人と会話中でも平気で割り込む(それも、話題は自分のこと)・大人とは話せるが同世代とは話せない、など。これは学校の中に保健室があることの“利点”でしょう。もちろん「見る目」を持った養護教諭の存在が必須ですが。
 生徒も教師もいろいろ、養護教諭もいろいろです(養護教諭の集会で、その世代によって生徒のとらえ方が異なることも面白く紹介されています)。保健室登校についても、「保健室は悪の巣窟」と捉える人もいれば「関係性を広げるための入り口」と捉える人もいます。ただ、ここで挙げられている「受容」「理解」「連携」という3つのキーワードは、別に保健室限定のものではありません。そしてケアの対象も、生徒個人の体から社会にまで広げることが可能です。でも、その道を養護教諭だけ孤独に歩ませていたのでは、この社会に明るい未来はないようにも思えます。
 
 余談です。
 「荒れる学校」ということばをよく見聞したのは私の記憶では1970年代?80年代後半までだったでしょうか。「教室崩壊」という言葉が登場する前の時代のことですが、授業中に教室内をうろうろしたりの授業破壊よりもはるかに暴力的なものだった印象です(ポジティブに表現するなら「陽性」と言えばいいでしょうか)。
 ところで「荒れる」という動詞を使うと「学校が荒れる」となりますが、「荒らす」と言い換えたらどうなるんでしょう。窓ガラスを壊して回る生徒が学校を荒らしている、となるのかな。ただ、暴れている生徒も実は、殺人事件で使われた凶器のようなもので、実は“真犯人”はこの文脈(「荒れる学校」)の中では隠されているのかもしれません。
 
 
8日(木)使い回し
 船場吉兆だからこうしてニュースになりますが、ほかの飲食店ではどうなんでしょう? いや、ファミレスだったらかまわない、という意味ではありませんが。
 
 ……そういえば、「残飯が多すぎる」が日本の問題の一つでしたね。料理の使い回しはその解決法の一つ、はやっぱりマズイ? 私も客の立場だったらイヤですが、ああいった店には縁がないからどっちでもいいや。
 
【ただいま読書中】
狂気のモザイク(下)』ロバート・ラドラム 著、 山本光伸 訳、 新潮文庫、1985年、640円
 
 マイケルとジェンナはついに再会し、二人ともに(おそらく別々の)陰謀にはめられたことを確認します。しかし、何のために? 目的は明かです。二人の情報部員を現場から外すため。しかしそれだけにしては陰謀が大がかりすぎます。しかもそれを暴こうとする人間はすぐに殺されていくのです。反応が過敏すぎます。それなら最初から二人を殺せばいいのですから、スジも通りません。
 二人は自分たちが「可動式の牢獄」に囚われていることを意識しつつ、姿が見えぬ敵に対する反撃を開始します。まず目指すはワシントン。そこで見つけたのは驚愕の“真実”でした。アメリカが秘密の戦争協定をソ連と中華人民共和国との間に別々に結ぼうとしていたのです。ただし、双方は矛盾する協定で、その存在が明るみに出たら即座に核戦争が起きる可能性が大です。国務省の大物の中に裏切り者がいます。マイケルとジェンナは、自分たちの生死をかけ、さらには世界の生死をかけて活動を続けます。国務長官はマイケルに告げます。裏切り者の名前はマイケルの脳内に存在すると。ただし国務長官は狂気の世界に生きていました。はたして本当にマイケルはその名前を知っているのか。あるいはその情報さえも嘘なのか。
 二人がやっと出会い二人を脅かしていた「謎」が明らかになることで、以後はハリウッド映画にありがちなサスペンス+ラブラブ話になるのか、と一瞬思いましたが、ちゃんとひねってあります。そこからさらに壮大な謎解きが始まるのです。だてに1000ページを超える長編ではありません。話はどんどん大きくなりそしてぐんぐん加速していきます。
 
 二人は、自分たちの命がねらわれているまま、スパイを狩り出す狩人となります。個人は頭に銃を突きつけられ、国家は核ミサイルを突きつけられているのです。引き金にも発射ボタンにも指がかかっている状況です。さらに、アメリカ政府内には、ソ連のKGBに通じるスパイと、KGBを裏切ろうとしている内部分派VKRのスパイが存在し、さらにはアメリカを愛するがゆえの裏切り者までいます。そして政府部内で行われる重要な決定はスパイに筒抜け。マイケルが使えるのは、自分の知識と経験と機略、そして、信頼できる味方と信頼できる敵です。信頼できない味方よりも信頼できる敵の方が“使える”というのは
なんたる皮肉か、と思います。
 
 下巻には印象的な台詞がちりばめられています。たとえば、「(特に思春期に)人は自分の秘密を友人に語る。それは人の本性」とか「愛国心を語るのは誰の特権でもない」とか。ストーリーや主人公の行動に時々破綻が見えますが、ただの脳天気なサスペンスではなく、といって深刻ぶったエスピオナージュでもなく、なかなかバランスの良いエンターテインメントです。
 
 
9日(金)二重取り反対
■「iPod」著作権料の課金案、一台数百円…メーカー側は反発
(読売新聞 - 05月08日 21:25)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=482196&media_id=20
 
 私のiPodには、買ったCDの曲とiTMSで買った曲しか入っていません。どれも購入時に著作権料を払っていますが、さらにiPodを使うためにまた著作権料を払え、と言われたわけです。
 なぜ私が著作権料を二重に払わなければいけないのか、だれかわかりやすく教えてください。
 ……違法なデータをダウンロードしたら、著作権料支払いは1回ですむよ、と政府のお偉いさんが言っている、ということ?
 
 
9日(2)格差の問題
 三流の為政者は、格差を喜びます。だってそれがあるからこそ自分が贅沢できるのですから。
 二流の為政者にとって、格差が存在することは別に何の問題でもありません。問題は「格差が存在すること」を広く知られてしまって、国民に不平や不満を感じさせてしまうことです。
 一流の為政者にとって、格差が存在することを国民に知られることは問題ではありません。それを不平や不満の種ではなくて、他の方向(上昇志向)に持って行けるのですから。
 
【ただいま読書中】
ずっと怪獣が好きだった ──造型師が語るゴジラの50年』品田冬樹 著、 岩波書店、2005年、1900円(税別)
 
 ゴジラの仕事で中国に渡った著者は、そこで出会った本から、中国では紀元前から「怪獣」という言葉が使われていることを知ります。もちろんそれはゴジラやガメラのことではありません。日本でも江戸時代の瓦版に「怪獣」が登場しますが、本書で紹介されている例では魍魎(もうりょう)のことのようです。ついでですが、怪しい存在で生物かどうかも不明の場合は「怪獣」ではなくて「怪物」と呼ばれます。
 映画「キングコング」の公開は昭和八年(1933)のことです。しかしキングコングは怪物・巨獣・巨猿で、怪獣とは呼ばれませんでした。当時の「怪獣」は、ネス湖のネッシーやヒマラヤの雪男のことだったのです。
 1953年アメリカで公開された「原子怪獣現わる」に対抗するように、昭和二九年(1954)の「ゴジラ」は「水爆大怪獣映画」と宣伝されました。映画は大ヒットし、以後数年で「怪獣」は「ゴジラ」の代名詞となります。2000年続いたことばが、あっさりその意味を変えた瞬間です。
 
 ゴジラの口がモーターで開くようになったのは「キングコング対ゴジラ」(昭和37年)からですが、ここで問題になるのは下顎の厚みだそうです。脊椎に対して頭が直角の怪獣だと、顎が厚いと首とぶつかって開かなくなるのです。これを直立ではなくて(最近流行の)猫背状態にすると、顎の自由度が高まるそうです。“そういう目”で見たことがなかったのですが、怪獣のデザインもなかなか大変なんですね。
 ちなみに最近は「着ぐるみ」と呼ばれることが一般的ですが、著者は昔から「ヌイグルミ」と呼んでいたので、それを死ぬまで押し通すそうです。
 
 て、ここでクイズです。怪獣映画史上最大のヌイグルミは何でどのくらいの大きさでしょうか? 正解は、モスラの幼虫で、高さ2m長さ10m、8人入り。写真がありますが、なんというか、迫力があります。まるで怪獣みたい……あ、怪獣だった。
 
 怪獣映画が次々封切られると、それまでの「未知のものとの遭遇(サスペンス) → パニック」のパターンが使えなくなります。客は「怪獣が出てくる」ことを知っているのですから最初から「未知のもの」ではないのです。脚本・演出・技術などがどんどん進歩して観客に受け続けるようにしなければなりませんが、それは同時に「怪獣映画」の変質を意味していました。TVには「ウルトラQ」(1966)が登場します。1話完結の怪獣番組です。(個人的には非常に懐かしい思いです) この番組(とその半年後のウルトラマン)によって、怪獣の“大量生産”が始まりました。映画でも、ゴジラがシリーズとなると観客の興味はゴジラの“対戦相手”に向きます。
 「ブーム」はいつか終わります。怪獣のブームも昭和43年には一時沈静化しました。しかし昭和45年後半から第二次ブームが始まります。昭和46年(1971)の「ゴジラ対へドラ」を著者は重要な作品と位置づけています。かつてのゴジラは、水爆をテーマとして背負っていましたが、へドラは公害という社会的なテーマを背負っていたのです。へドラは変身する怪獣で、それがのちのビオランテやデストロイアにつながり、さらに社会的テーマを持つ点でへドラはゴジラの合わせ鏡的存在であり、それがのちの「ゴジラ対ゴジラ」の作品群につながるのだそうです。
1970年代後半、怪獣映画は冬の時代となります。しかし79年、ゴジラ生誕25周年を記念してリバイバル上映が行われ、「エイリアン」や「スター・ウォーズ」からSFXがブームとなります。怪獣少年だった著者はその時期に造型師になることを決意します。
 
 しかし、怪獣というありもしないものを見てわくわくする観客と、ありもしないものの「リアルさ」を追究する制作側の人間と、怪獣映画とは不思議な人たちの共同作業で成り立っているものです。私も観客としてそこに参加していますが、なんであんなに怪獣って見ているとわくわくするんだろう?
 
 
10日(土)バター
 10年くらい前だったか、牛乳が過剰生産で、捨てるのはもったいないと脱脂粉乳やバターをじゃんじゃん作って在庫していたら倉庫がなくなって困っている、なんて記事を新聞で読んだ覚えがあります。それが今では生産調整をやり過ぎてバター不足で困っているそうな。スーパーの棚も、バターのところがずいぶん寂しくなっています。「キャベツが足りない」と報道された次のシーズンには、作りすぎて出荷しても箱代も出ないと畑でトラクターがキャベツを踏みつぶしているニュースが報道されたりしたのを思い出します。たとえば農水省が、もうちょっと調整を上手くできないんですかねえ。監督官庁のお役人は「監督」がお好きなはずなのに……あ、「支配」は好きだけど、「管理」は上手くないんだな。
 
 ところでバターが「足りない」「足りない」と皆が困っているかのような報道ですが、実際に困っている人は困っているのでしょうが、そんなに「皆」が困っているのでしょうか? 「ヘルシー(で安い)」と多くの人はマーガリンを買っていて、お菓子やパン作りとかの趣味を持っている日本人は一般人では少数派ではないかと私は思うのですが。もしかして別に普段は使わないけれど「足りない」と聞いて買いだめしている人がたくさんいるんじゃないでしょうね。
 
【ただいま読書中】
アレクサンドリア』E・M・フォースター 著、 中野康司 訳、 晶文社、1988年、
 
 第一次世界大戦中、著者は国際赤十字に志願してアレクサンドリアに赴任しました。その地の魅力を知った著者は、旅行案内書を書きあげます。2000年の歴史を持つ町の案内書です。
 ナイル川によって天然の良港となったアレクサンドリアの地には、紀元前から人が住んでいました。そこにやってきたのが、ペルシアを破った若干25才の大王アレクサンドロスです。アレクサンドロスはギリシア風の都市建設を命じます。マケドニア人のアレクサンドロスにとって(家庭教師がアリストテレスだったこともあるでしょうが)ギリシア文化はあこがれの対象だったのでしょう。
 アレクサンドロス没後、マケドニア人のプトレマイオスがエジプトを支配します。アレクサンドリアに建設された大きなものは、高さ120mのファロス大灯台・学園都市ムーセイオン(50万巻の蔵書を誇る大図書館が有名です)・セラピス神殿(ギリシアとエジプトの“ハイブリッド”の神殿)……アレクサンドリアでは、王家の神権と干渉する宗教や哲学にはあまり見るべきものはなく、そういった心配のない科学が栄えた、と著者は言います。ユークリッドの数学・天文学(プトレマイオスの天動説や閏年の設定)・エラトステネスによる地球の外周の計算などが知られています。ところが著者がいうところの「科学精神」はキリスト教の勃興と歩調を合わせるように衰退し始めます。
 ローマが勃興し領土を拡張します。プトレマイオス朝は200年間ローマの同盟国であり続けますが、クレオパトラのときその歴史を閉じます。ただエジプトは特別扱いで、他の属州とは異なり皇帝の直轄地として扱われます。表向きの理由は宗教でしたが、本当の理由は経済でした。エジプトは巨大な穀物倉庫として扱われたのですが、ともかく「ローマによる平和」をエジプトも享受することになりました。そこには、エジプトとギリシアが両立し、さらに大量のユダヤ人も流入していました。
 キリスト教が広まり、迫害を受け、結局ローマの方が敗れます。エジプト教会は迫害を受けて多数の殉教者が生まれた「殉教者の年(西暦284年)」を自らの暦の元年としています(そういえば、エチオピアの暦もこの流れでしたね)。ところがアレクサンドリアのキリスト教はエジプト独自の発展を遂げてコプト教となり、異端論争が起きると同時に人種間の争い(エジプト対ギリシア)も起きてしまいます(ユダヤ人ややられる一方)。
 4000年の歴史を持つエジプトの宗教は、そう簡単に新しい宗教に上書きをされるようなものではありませんでした。アレクサンドリアの文化は大きく花開きます。新プラトン主義や、アレクサンドリアで哲学的な発展を遂げたキリスト教からはグノーシス・アリウス主義・キリスト単性論などが次々生じます。
 7世紀初めにアラブ人が侵入しますが、太陽神を崇拝する彼らは宗教的には寛容なものでした。そしてイスラム。エジプトは陥落し、さまざまなキリストはまとめて一掃されてしまいます。そしてアラブの支配は16世紀にトルコにとってかわられ、そしてナポレオンがやってきます。トルコに対するエジプトの反乱を支援する名目で。イギリスはトルコを支援し、フランス軍を撤退させます。エジプトは歴史の中でふたたびヨーロッパの“一部”となり、以後たびたびヨーロッパからの遠征軍がアレクサンドリアを訪れることになりました。著者がこの地を訪れたのも、その流れの中での出来事です。
 
 ある都市の地理と歴史について概略を述べた、たしかに本書は「旅行案内書」です。ただし普通のガイドブックのようには使えません。思索の旅へのすぐれた案内書です。自分が惚れ込んだ町について、こんなすてきな案内書が書けたら、と思います。いや、惚れ込んだ町はあるんですけどね。
 
 
11日(日)受け継がれるもの
 正月になると私の父親は駅伝漬けとなります。元旦の社会人ニューイヤー駅伝、2日?3日は箱根駅伝がずっとTV画面に映っています。ときどき話を聞くと「この選手は大学3年の時には……高校の駅伝では……」と注目している選手についても語ってくれますが、そんなに長い期間ずっと目を引く選手に注目し続けるとは、やはりこの競技が好きなのでしょう。
 その影響か、私も正月になるとTVのチャンネルをついつい駅伝に合わせてしまうようになってしまいました。まだ何となく見ているだけの浅いファンですが、そのうち私の子どもたちを相手に「この選手が若い頃には」なんて熱く語るようになってしまうかもしれません。
 親父から、何か見えない襷を渡されてしまったのかな。
 
【ただいま読書中】
箱根駅伝 ──襷の記憶』B・B・MOOK 518、ベースボールマガジン社、2008年、1200円(税込み)
 
 プロローグの「箱根駅伝と円谷幸吉の仮定法」(武田薫)が泣かせます。東京オリンピックの2年後、陸上自衛隊幹部候補生学校に入学した円谷は資格(防衛大学卒または一般大学卒)をクリアするために中央大学の夜間部にも入学します。自衛隊体育大学で実業団登録をされていたために大学生として走ることはできませんでしたが、もしも彼が箱根駅伝に参加していたら、彼が箱根で走れるように一緒に考えてくれる人がいたなら、彼は死なずにすんだかもしれない、と武田さんは仮定します。襷を渡してくれ、そして襷を渡す相手がもしもいれば……
 
 大正9年(1920年)2月14日午後1時、有楽町の報知新聞社前を4人のランナーがスタートしました。東京高師(のちの筑波大)・明治・早稲田・慶應による四大校駅伝競走大会の始まりです。優勝したのは東京高師でタイムは15時間5分。現在の箱根駅伝より4時間くらい悪いタイムですが、ゴールも真夜中となり、地元の青年が松明を持ってコースを案内したそうです。
 戦争による中断はありますが(昭和16・17・19・20・21年は中止。18年は「関東学徒鍛錬継走大会」として、靖国神社?箱根神社のコースで行われています)、今年の84回大会まで「伝統」と「襷」が引き継がれ続けています。出場回数・優勝回数ともにトップなのは、早稲田でも日体大でもなくて、中央大学。こういっては失礼ですが、ちょっと意外でした。82回出場(79回連続出場中)で優勝が14回。今年参加した学校で、中央に次ぐのは、79回目(11回連続)出場で優勝12回の日大と77回目(32回連続)でやはり優勝12回の早稲田です。今年優勝の駒澤は42回目(42回連続)出場で優勝は6回目です。
 
 駅伝って面白いスポーツで、出場選手のベストタイムを合計したらそれで順位がそのまま決定されるかというと絶対そうならないんです。なぜかわかりませんが必ず「何か」が起きます。
 レース中の駆け引きも楽しめます。ペース配分を変えてみたり、抜くときに一気に抜いたりしばらく後ろについて前の呼吸を窺ってからひょいと抜いたり、抜くのもすぐ傍を抜いたりわざと離れたところを抜いたり……は、マラソンでも同じようですが、それにプラスして個性のある選手をどこに配置するかの戦略が重要となります。エースを先に使うのかそれともあとに取っておくのかとか、新人と上級生をどう配分するか、とか。さらに、去年走った選手が卒業していなければ、今年はどんな走りをするか、を楽しむこともできます。
 
 興味がない人から見たら、ただ、えっちらおっちら人が走っているだけなんですけどね。
 
 
12日(月)速いドライバー
 なにごとにも名人がいるもので、車の運転でも名人がいます。プロのレーサーの運転テクニックは、同じ自動車を操っているものとは思えないものすごさなのです。彼らはまるで車が自分の体の延長上の存在のように自由自在に操ります。
 私が好きなレースの一つは(ヨーロッパで大人気の)F1です。もともとはF1/F2/F3と整然とランク分けされていてわかりやすかったのですが、いつのまにかF2がF3000に名前を変え、最近ではGP2とさらに名前を変えたのでなんだかわかりにくくなりました。
 F1ではドライバーのことを「パイロット」と呼ぶことがあります。その資格を持つのは世界で二十数名のみ。その中で現在私が注目しているのが、スペイン人のアロンソです。かつて「皇帝」と呼ばれてF1に君臨していたミハエル・シューマッハ(ドイツ人、フェラーリで優勝しまくっていました)に勝つことで引退に追いやったドライバーですが、昨年度はちょっと不幸でした。世界チャンピオンとして名門マクラーレンに移籍して「さあ、長く続く黄金時代だぞ」と思っていたら、マクラーレンで育成されたスーパールーキーのハミルトンがめちゃ速くて優勝をしまくって、とうとうチーム(セカンドドライバー(=ハミルトン)を含めて)が世界チャンピオンを一丸となってバックアップするのではなくて、最後には体制が二分されてしまったのです。そういったチームの運営態度に嫌気がさしてアロンソは今年度はルノーに移籍。はっきりいってチーム力はルノーはマクラーレンに劣ります。これは苦労するぞ、と思っていましたら、意外にもルノーの戦闘力が今年は大幅にアップ。ところが頭を押さえつけるチャンピオンがいなくなって自由自在にできるようになったはずのハミルトンが今年はあまりさえません。
 つまりアロンソは「速い車を速く操縦する」だけではなくて、遅い車を速くするように開発する能力も持っていた(だからアロンソがセットアップした車を与えられたハミルトンも速く走れた)、ということなのでしょう。そういえばシューマッハがフェラーリに移籍したときには「なんであんなチームに」と思いましたっけ。当時フェラーリは「かつての名門(=そのときには二流)」だったのです。ところがシューマッハが行ってしばらくしたら車はどんどん速くなりチームクルーの動きはきびきびとなり、つまりシューマッハも「車を開発する」「チームを改善する」仕事をやってのけたドライバーだったのです。その結果が世界チャンピオンの座でした。
 車のスピードを競う世界で、「速い車に乗って車の操縦が上手ければいい」で済まない(ことがある)のは面白いものだと思います。アロンソがこうして世界チャンピオンに返り咲くか、ハミルトンがマシン開発力を身につけるかあるいはその力のある人をチームに向かい入れることができてトップに躍り出るか、あるいは他のパイロットが出てくるか、今年のシーズンはまだ4戦が済んだだけですが、今年もいろいろ楽しめそうです。
 
 
13日(火)怖い人
 「あなたは怖い人だ」とは、本当に怖い人に面と向かっては言えないセリフです。
 
【ただいま読書中】
イギリス潜水艦隊の死闘』ジョン・ウィンゲート 著、 秋山信雄 訳、 早川書房、1994年、2427円(税別)
 
 マルタ島はシシリー島(イタリアのつま先が蹴飛ばしている)の60マイル南方に位置します。北はイタリアとナチスに占領されたフランス。南は北アフリカ戦線。地中海の要所に位置するため、島に駐屯する英軍(と島の住民)は枢軸軍の猛攻にさらされました。最盛期には2年間で爆撃が6000回です。チャーチルはマルタ放棄を拒否します。それは地中海東半分を放棄することになるからです。しかし急いで配備されたのは、旧式の兵器でした。敵の補給路を寸断するために、カニンガム提督は地中海で力を発揮する小型の新型潜水艦(U(ユニティ)級と呼ばれました)を要求します。乗員30数名のU級は速度が遅く3週間の哨戒が限度で持てる魚雷も8本と小型ですが、エンジンが市販品で部品が共用可能という特徴も持っています。これはマルタで活動する上で大きな利点で、U級にとって地中海はある意味最適の“職場”でした。ただし、敵によって数万発の機雷が敷設された危険な海域でもあったのです。
 地中海は潜水艦にとっては難しい海でした。変化する塩分濃度と複雑な潮流、浅い海底(ぶつかりやすく潜水艦にとっての逃げ場がない)、透明な海水(上空から発見されやすい)。マルタは敵に包囲されており日常的に猛爆にさらされています。石灰岩の岩山をくりぬいた防爆壕で潜水艦の整備と一時の休息のあとまたすぐに出撃です。それでも休息のために帰投できるのは幸運です。帰ってこない潜水艦も多かったのですから。彼らは、出撃し、そのまま消息を絶ちました。
 装備品や食糧の不足も深刻でした。ジブラルタルやアレクサンドリアから、大型潜水艦が途中で索敵をしながら物資をマルタに運び込みます。綱渡りのような戦い方です。ガダルカナルで日本も潜水艦で物資補給をやったはずですが、海に対する明確な戦略を持たないヒトラー(北アフリカ戦線のためにはマルタが重要、を理解していませんでした)が相手だとはいえ、英軍も楽な戦いではなかったはずです。
 第10潜水戦隊は、最大時でも10隻の潜水艦しか有しませんでしたが、ドイツ軍に与えたダメージは深刻でした。イタリア・ドイツの石油の備蓄も乏しくなり始め、リビアを進撃中のロンメルは中東を目指すことになります。当然イタリアからアフリカへの輸送は増強されます。第10戦隊が待ちかまえている海域へと。潜水艦は大戦果を挙げます。ロンメルが求めた6万人の人員のうち1割しか到着しなかったこともあるそうです。
 面白いエピソードもあります。マルタで連合軍に参加したポーランド軍人は、母国が枢軸側に宣戦布告していなかったため国際法上は戦えないためどうしたか、とか、ポーランド軍人は潜水艦の中で1日に8食だったため、食料がすぐに尽きてしまったとか。潜水艦同士の魚雷戦という珍しい出来事も載っています(それも、対イタリア潜水艦と対Uボートがありますが、さすがに水上を航行中の艦に対する雷撃です。両方が潜水中だったらとても興味深いのですが、当時の魚雷の性能からは、ちょっと難しいですね)。
 ドイツ軍はマルタ侵攻を計画しますが、シシリーの空軍をロシア戦線に転じたり北アフリカ戦線に転じたりで結局マルタを落とすことはなく、マルタの戦力は(損害を受けながらも)地中海のドイツ軍補給線を脅かし続けることができました。これが欧州での戦いの(少なくとも南半分の)帰趨を制したことは間違いないでしょう。
 1942年11月エル・アラメインでロンメルはついに敗北を喫します。もしマルタの“妨害”がなくて補給が万全だったら、戦局はまた違った様相になっていたことは間違いありません。小さな島の小さな潜水艦が大きな影響を戦争に与えたのです。ヒトラーはあわてますが、そのときにはマルタの制空権はイギリスのものになっていました。そしてついに連合軍の大陸への反攻第一歩としてシシリー上陸作戦。マルタはその基地となります。
 
 艦名が、アージ、ユニーク、アップライト、ユニオンなどと書かれるから最初は気がつきませんでしたが、全部「U」で始まるんですね。もともと英軍では潜水艦はP-212などと艦番号で呼ばれていましたが、地中海での活躍を知ったチャーチルが艦名をつけろ、と要望したのだそうです。金をかけずに現場の士気を高める良い方法です。
 U級はドイツのUボートに比較したら、ずいぶん見劣りのする潜水艦ですが、イギリスって不思議な国です。複葉機のソードフィッシュといいこのU級潜水艦といい、“劣った(最新鋭ではない)”兵器にもちゃんと活躍の場を見つけてやるのですから。「兵器の性能ですべてが決まるわけではない」は真実なのですね。
 
 
 
14日(水)プロ
 日本語のプロは英語のprofessionalからきていて、対語はアマチュア、は日本語の“常識”と言って良いでしょう。だけど私はそこで疑問を持ってしまいました。
 professionalってもともとは何?
 MacBookに入っていたプログレッシブ英和辞典を引くとprofessionという言葉があります。意味は「知的職業」「専門的職業」。さらに「公言、明言、告白、宣誓」と「信仰告白」。プロと信仰告白と、どんな関係があるのでしょう? さらに最初の「知的職業」に「弁護士、医師など」と例が挙げられているのも気になります。これはどちらも中世ヨーロッパの大学で教えられた専門コースなのですが、もう一つのコースが神学なのです。(中世ヨーロッパでは職業は基本的に徒弟制度で伝えられましたが、大学教育を必要としたのが、神学・法学・医学でした)
 こんどはprofessをひきます。他動詞では「ふりをする」「信仰すると確言する」「公言する」「専門家だと名乗る」「教授として教える」「教団に加える」。自動詞では「信仰を告白する」「宣誓して宗門に入る」。
 
 なるほど、「プロ」の源流が見えたような気がします。中世ヨーロッパではキリスト教が絶対です。ですから大学で専門家教育を受けるためには信仰告白(「大学で専門家教育を受けその成果を社会で発揮するのは、神のためです」の宣言)をする必要があったのでしょう。ですからその専門家教育を行う人はprofessor(professした人)なのです。となると、この単語を単に「教授」と訳すのは、本来あった大事なもの(信仰面)を欠落させているような気がします。というか、現在日本にごまんといる「教授」たち、誰に何を告白したのかな?
 
【ただいま読書中】
『家で病気を治した時代 ──昭和の家庭看護』小泉和子 著、 農文協、2008年、2667円(税別)
 
 私が好きな歌「小さい秋」に、病気のせいでしょう、家の北向きの部屋で寝ている人がかすかな隙間から秋の気配を感じる場面があります。熱に浮かされたような目をしていて、「溶かしたミルク」(脱脂粉乳のことでしょうが、昔は「滋養」をつけるための特別な食品だったことでしょう)を飲んでいるとは、もしかしたら結核だろうか(なにか急性の伝染病なら秋の気配をしみじみ感じるほど長くは寝ていないでしょう)、などと私はこの歌を歌ったり聞いたりするたびに想像をたくましくしていました。
 以前の日記「生老病死」でも触れましたが、かつての日本では自宅で生老病死に関するほとんどのことをやっていました。生と死が身近にあったのです。本書ではその中で「病」に関して昭和前半に家庭で相当高度なことをやっていた事実を具体的に取り上げます。著者は昭和の初期の生まれ、そういった昭和の家庭看護を身をもって体験した最後の世代です。
 しょっぱなの自家製湿布の描写がリアルです。著者の思い出として、カミツレ草の湿布・芥子泥の湿布が紹介されていますがどちらも強烈なにおいがしそう。作る方も大変だったが貼られる方も大変だったって……効果は……少なくとも皮膚の刺激は保障できそうですが、さて、どのくらいの薬効があったのやら。
 思わず笑ってしまうのは『細雪』(谷崎潤一郎)を「家庭看護」の観点から分析した章です。戦前の裕福な家庭でどのような家庭看護が行われたのか、「衛生」という概念をどのように捉えていたのかが(フィクションではあっても)具体的に表現されているからですが……衛生にこだわりすぎて強迫神経症になってしまった人が登場します。また、ビタミンB不足(脚気)に対して、なんと家庭で家族がお互いにビタミン注射をやっていまlす。それも日常的に、まるでアリナミンでも飲むかのように。このへんで私の笑いは引っ込みます。都会の富裕層(しかもフィクションが根拠)とはいえ、戦前の家庭看護はけっこう高度なこともできていたようです。
 
 ……ところでカミツレって、たしかピーターラビットでお茶にして飲んでいませんでしたっけ? どんな味とにおいなんだろう?
 
 すごい民間療法の紹介もあります。「腸チフスを梅肉エキスで治した」「胃癌を菱の実で治した」「死んだ子どもを蘇生させた」……現在の健康情報雑誌にも「□□で○○が治った」「××が治った」との記事が満載ですが、これは日本の“伝統”だったんですね。
 民間療法といえば、私が子ども時代に田舎に遊びに行って火傷をしたとき「味噌を塗れ」「いや、醤油を塗った方が良い」とまるで人の火傷を餅のように扱われて目を白黒したのを思い出します。結局何を塗ったんだったかなあ。
 さらに、結核に対する、石油を飲む石油療法には私は目をぱちくりです。なんでも結核を悲観して自殺しようと石油を飲んだ人が死ぬ代わりに結核が治ってしまった例があったそうで(実例か都市伝説かはわかりません)、それで“ブーム”が起き、石油のせいで体調を崩して死んでしまう人まで出たそうです。そりゃ、石油を飲んで体調が良くなるとは思えませんよね。
 
 妙な療法もありますが、それは現代社会でも怪しげな健康商売はいくらでも見られることですから「昔の人間は」などと一概に否定できません。ただ、現在と違うのは、病と死(つまりは生)が家庭の中に身近にあったことです。今の日本では、妙な健康信仰ははびこっていますが、いざ病気となったら病院に丸投げですよね。
 別に昔は良かったと言うつもりはありませんが、少なくとも家族の病気に立ち向かおうという「覚悟」の点で、現代人は昔の人に対しては少し恥ずかしがった方がよいかもしれません。
 
 
15日(木)ヒーロー
 歴史とは、単なる事実の叙述ではなくて、感情の記録であることも多いでしょう。後から書くのですから、どんなに客観的に書こうとしても必ず主観が入るでしょうし、最初から主観ばりばりで書く人だっているでしょう。(年表だったら客観的かと言えば、そうではありません。「年表に何を収載し何を捨てるか」の作業の時点ですでに「選択」(作業者の価値判断(=主観))が入っています)
 
 たとえば歴史上の誰かを「英雄」として扱うかどうかは、後世の人間がその人を英雄として扱いたいと願うかどうかによって決まります。ここで重要なのは、「その人が実際にはどんな人間だったか」ではなくて「後世の人間がその人をどう扱いたいか」の方です。ですから歴史を読む場合「それが誰(あるいは何)についてどう書かれているか」だけではなくて「誰がその歴史を書いたか」にも注意する必要があります。ま、5W1Hに注意、は小学校で習うことではありますが。
 
【ただいま読書中】
秦の始皇帝』陳舜臣 著、 尚文社ジャパン、1995年、1553円(税別)
 
 小説ではなくて、秦の始皇帝に関するエッセー集といった趣の本です。
 
 中国を英語でChinaと呼ぶのは、紀元前3世紀の中国統一王朝「秦(しん)」が語源だ、という説があります。秦は戦国時代には最強の国でしたが(戦国時代の中国で秦が占めた位置は、USAが現在の世界に占めている位置以上の重さだったかもしれません)、天下は有名な「合従連衡」によってもめにもめており、結局中国全土を統一したのは始皇帝でした。もし始皇帝が現れなければ、中国は統一されず、現在のヨーロッパのようにいくつもの国に分割された姿のままであったかもしれない、と著者は述べます。中国統一といえば、殷や周のような“先例”もありますが、現代につながる「一つの中国」「中国人(という概念)」が生じたのは始皇帝以後のこと、と著者は考えているのです(私もその意見には賛成です)。
 
 日本でも戦国時代は長かったように感じますがそれはせいぜい1世紀。ところが中国の「戦国時代(厳密には前半が春秋、後半が戦国)」は周の統一がゆるんで乱世となってから始皇帝が統一するまで5?600年です。さすが悠久の歴史を誇る国です。で、春秋と戦国の境目はいろんな説がありますが、著者は「鉄器の登場」を挙げています。戦国は鉄器によって生産力が上がり国力が増して中央集権がやりやすくなり、同時に鉄の武器で強い軍隊が持てるようになって統一がしやすくなったのだ、と。
 
 始皇帝は複雑な人物だったようです。実利を重視する現実主義的な面を持つ一方、大変迷信深い所もありました。新しもの好き(「皇帝」という言葉を作り、その自称として「朕」を採用しました)であり、革新的な政策を数々行っています(たとえば「同文」(各国で異なっていた文字を統一)、「同軌」(車の車輪の幅を統一)、「馳道の建設」(幅70メートルくらいの立派な道を全国に張り巡らせました)、「郡県制の採用」「度量衡の統一」「人種などにこだわらない人材の登用」など)。さらに法家の思想によって、厳罰主義を取りました。
 本書で述べられている始皇帝の人物像を読んでいて、私は織田信長を連想していました。武力によって天下統一を行う人物は、どこか似た面を持っているのでしょうか(あるいは信長が始皇帝を自身の“モデル”にしたのかもしれません)。
 
 映画の「HERO」で、私は始皇帝を暗殺しようとする超人的な人びとだけではなくて始皇帝その人がHEROではないか、という感想を持ちました。実像がどうであれ、歴史が整えた舞台に颯爽と登場して天下統一というその役を演じきった始皇帝は、歴史に残るヒーローであることは間違いないと言えるでしょう。これは私の主観ではありますが。
 
 
16日(金)メール依存症
 寂しいからメールに夢中になる……ということは、メールのやりとりでその寂しさは満たされているんですよね。満たされたらそこで満足しないのかな? 満足できないのだったら、「寂しさを満たす手段」としてのメールは選択ミス、あるいは「寂しい」という前提自体が間違っている、ということになりますが。
 
【ただいま読書中】
ハワーズ・エンド』E・M・フォースター 著、 吉田健一 訳、 集英社、1992年、2330円(税別)
 
 妹ヘレン・シュレーゲルから急な婚約をにおわせる手紙を受け取ったマーガレットは、妹が滞在する(ロンドンから汽車で1時間の所に位置する)ハワーズ・エンドの富豪の屋敷を訪れます。姉妹の家系にはドイツ人の血が入っており、インテリでリベラルな考え方をしています。対するハワーズ・エンドのウィルコックス家は、典型的なイギリスブルジョワです。両家の縁は婚約が一晩で取り消されたことで切れたはずですが……
 美人で交友関係が派手に見える妹は、実は人を引きつけることで自分を維持しており、姉は堅実で地味に見えるけれど実は自分を押し通していく強さを持っている、この対比が鮮やかです。さらに主要人物以外の脇役も豊かな描写がさりげなくされています。たとえば、姉妹の叔母マント夫人は……「彼女は過去に起ったことを歪める能力が非常に発達していて、きわめて短い期間に、自分の粗忽が今度の事件で演じた役割のことをすっかり忘れてしまった」。「いるいる」と私はつぶやきます。
 先日読んだ『アレクサンドリア』で著者は短い言葉で本質をつかむ手腕を発揮していましたが、本書でもそれは縦横に駆使されています。ベートーヴェンの交響曲第5番の描写の部分で、私は笑い転げてしまいました。
 しかし本当に特徴のある文体です。ほとんど素っ気ないともいえることばで、情景や心情が明確に浮き彫りにされます。言葉の豊かさは、文字数に比例しないことがよくわかります。固定した場面をゆったりと描写していたと思ったら、場面転換はあっけにとられるくらいスピーディー。私はこの才能に嫉妬さえ感じます。
 かみ合わない会話や中途半端にされる会話がそのまま描写されていて、臨場感があります。映画のシナリオのようにてきぱきと会話が進行したりしないのが現実だよな、と思いながら読めますが、そのかわり事態がなかなか進行しないのでもどかしい思いはしますし背景がなかなか読者には飲み込めませんし。ここで私は「リアリズム」とはなんだ、と考えます。現実の会話をそのまま描写してもそれはただのだらだらにしかなりません。著者が適切に編集し伝えるべきものが伝わるようにして初めて「リアル」になるのです。ところが時々著者が生で顔を出して読者はメタの世界に連れ込まれます。なかなか一筋縄ではいかない人です。
 
 両家の人びとは再会します。序盤でさっさと退場してしまうウィルコックス夫人について、思慮深く突発事にもちゃんと対応ができる、理性と感情とが両立した人として、著者は愛情を込めてと言っても良いくらいの描写をします(著者にとって「理想の母親」像なのかもしれません)。都会での知的で洗練されてあわただしい生活と、田舎でのゆったりとした生活が対比され、そして全く異なる環境で生きている両家の接触と別離と再接触と再別離と……サイドストーリーでも出会いと別れが繰り返され……マーガレットは意外な形でハワーズ・エンドを“手に入れる”ことになります。
 
 巻頭言に著者の「ただ結びつけることさえすれば……」とあります。解説では「人と人のつながり」と解釈していますが、私にはそれだけではなくて、「日と日」「思い出と現在」のつながりも重要なもの、と著者が言っているように本書を通して読めます。さらに「違った階級」「イギリスと世界」「貧富の差」「男と女」「思想の違い」などを異なったものが次々本書では結びつけられたり離れたりします。19世紀の「世界の中心はヨーロッパ」が揺らいだのが20世紀初めのはずですが、そういった時代の風潮(と大英帝国のほころびの始まり)が本書には投影されているのかもしれません。私としては、「著者自身と英国社会」の結びつきについても興味がかき立てられる筋立てでした。空気がしっとりとして微風を感じる環境でゆっくり読みたい本です。
 
 
17日(土)
プロレスと大統領選
 私がプロレス好きであることはこれまでにも何回か書きましたが、昨日もアメリカのプロレスWWEを見ていたら、なんとクリントン・オバマ・マケインさんが登場。ちょうどその番組を収録した州の放送日の直後に民主党の予備選が行われることに引っかけて、民主党だけでは“公平”ではないだろうということで共和党の候補も混ぜて、それぞれプロレスの対戦の合間に各候補者が抱負を語ったテープをまるでCMのように放送しているのです。しかもその内容が、有名なプロレスラーのキャッチなどを交えて、いかにもプロレスファン向けのメッセージの雰囲気に。たぶんWWE側の広報や脚本家が協力したのだと思います。で、一番平板でつまらなかったのがヒラリー・クリントン。硬い表情で自分の主張だけ淡々と述べてほとんど遊びがありません。オバマは魅力を振りまこうとして善戦していましたが、意外にもと言ったら失礼かな、一番面白かったのはマケイン上院議員です。プロレスのエッセンスも生かして自分が言いたいこともちゃんとチャーミングに言っていました。
 
 日本では考えられないことですが……なんで考えられないんだろう? それは聞く側の問題もあるのかな。
 
【ただいま読書中】
平常心 ──サッカーの審判という仕事』上川徹 著、 ランダムハウス講談社、2007年、1500円(税別)
 
 サッカーに限らず、スポーツの審判はある意味報われない仕事です。反則を取って笛を吹けば「今のが反則か?」と選手や監督やそのチームのファンから文句を言われます。ラフだけれど反則ではない、と笛を吹かなければ「反則を取らないとは、向こうの味方か?」と反対側のチームからやじられます。選手もやじられるのは同様ですが、ファインプレーは褒められます。ところが審判の“ファインプレー”は無視されます。
 仕事を分類するなら「裏方」です。ところがこの裏方、表に立たなければいけません。表には立つのですが、裏方ですから目立ってはいけません。名前も基本的には覚えてもらえません。なんとも報われない仕事です。走る距離も半端ではありません。サッカー選手でもっとも走るのはミッドフィルダーで一試合に約10kmくらいと言われていますが、サッカーの審判は12kmです。それはそうですね。球の移動に従ってフィールドの端から反対の端まで走るのですから。著者は学生時代に膝を壊し、以後何度もメスを入れていますが、それでもあれだけ走っていたのですね。
 
 2002年ワールドカップで、審判の行動に疑惑の目が向けられたことがありました。それに対してFIFAは様々な手を打ちましたが、その一つがチーム制です。同じ国あるいは同じ大陸から主審一人と副審二人を選抜して一つのチームで固定して試合ごとに使う、という制度です(クラブ世界選手権などで各チームはテストされました)。また、フィットネステストも厳しくなりました(要するに、きちんと走れない審判が一人でもいるチームは失格です)。著者は主審として2006年ドイツでのワールドカップに選抜され、二人の副審(日本人と韓国人)とチームを組んで参加しました。
 著者は高校・東海大学・社会人(フジタ工業)とサッカー選手でしたが、膝の前十字靱帯を切ってしまいます。著者はクビを宣告されますが、そこに人生の転機が。Jリーグ創設に伴って選手経験者を審判に育成するプロジェクトがあり、そこから審判にならないかと誘われたのです。
 審判の仕事は、反則を“摘発”することだけではありません。試合の流れをコントロールしてフェアで選手が能力を発揮できて観客に面白い試合にすることが重要です。そのために必要なのは、正しい判断と毅然とした態度。著者はトップリーグにあがる前からそれを徹底しようとします。この「徹底」というのがくせ者で、「敵」も作っちゃうんですよねえ。ミスをねちねちあげつらう人もいますが、問題は「ミスをするかどうか」ではなくて「そのミスを繰り返し続けるか」ですが。
 本書には、細部に面白いことがいろいろあります。たとえばドイツワールドカップの試合で、ハーフタイムにFIFAの審判委員がやってきて「もっとTV画面に映れ」と言ったことなど。プレイに肉薄して「一番近くで見ているんだぞ」と判定の説得力を増す、ということでしょう。日本人はつい「選手のプレイの邪魔をしてはいけない」と遠慮してしまいがちですが、発想がずいぶん違います。そういえば大リーグの審判も「そのとき一番正しい判定ができる場所」にポジションを取ろうとしていましたっけ。FIFAが審判の家族を(一人ですが)その試合に無料招待、というのも審判がいかに重要視されているかを物語っています。
 
 しかし……もしも選手全員がフェアプレイをするのだったら、審判は不必要なんですよね。それが理想ですけど…… 「審判がいないスポーツ」だったはずのゴルフでも、最近は競技委員という名前の立会人が付き添っていますね。これが、人間の、本性?
 
 
18日(日)成長
 ヒトは生まれたときは動物です。それをきちんと躾けたら野蛮人にはなれます(なれないこともあります)。野蛮人を教育したら野蛮な文明人になります(なることがあります)。野蛮な文明人を躾けることに成功したら、礼儀正しい文明人になります。
 
 躾って、偉大ですねえ。教育とどっちが偉大なんだろう?
 
【ただいま読書中】
サークル・オブ・マジック ──魔法の学校』デブラ・ドイル、ジェイムズ・D・マクドナルド 著、 武者圭子 訳、 小学館、2002年、1800円(税別)
 
 時代は中世。ブレスランドの国は乱れ、戦乱が続き盗賊が跋扈する国となっていました。騎士見習いとして叔父の城で修行していたランドルは、そこで出会った魔法使いマードックに弟子入りを志願します。見かけはしょぼいが実は大魔法使いであるマードックが望むのは、かつての平和な時代。彼はランドルが魔法の才能を持っていることを認め、国を徒歩で横切り遠い町の魔法学校に連れて行きます。
 魔法の学校と言えば、世間ではハリー・ポッターでしょうね。私はこの作品は好みではないのでゲドの方を思い出すことにしますが。
 カリキュラムはシンプルです。寄宿舎に入って2年くらい学んだら進級試験があり合格できたら個人指導を受け、その後卒業試験。その後の修行の旅をすませたら学校に戻って教員の資格認定試験。イギリスのパブリックスクールとドイツのマイスター制度を足した感じです。もっとも楽な道ではありません。進級試験に通って個別指導まで行けるのは10人に1人、そこからさらに10人に1人が無事卒業できますが、苦難の修行の旅に出る人はほとんどいないのです。魔法使いが増えないわけです。
 ランドルは悪戦苦闘します。城では文字を習っていなかったのに、突然本を読まなければならない生活に放り込まれ、しかも古代語も使えなければならないのです。方言もネックです。成績は振るわず、落第の危機が続きます。豊かな才能を持っていてそれを発揮することができるのにそれをちゃんと生かそうとしない人が目の前にいます。ところがランドルは魔法使いになることだけが望みなのに、2年かかって蝋燭に火をともすことさえできません。ただ、味方もいます。尊敬するマードック(ただし不在がち)、数少ない友人、そして家族を盗賊に皆殺しにされた芸達者な少女リース。
 進級試験の日。ランドルが示した力をめぐって、試験官である学校の理事たちの意見は割れます。結局仮進級。入学の時も仮入学でしたから、ランドルはいつも「仮」です。しかし、マードックと並ぶ大魔法使い(ついでに、マードックとは犬猿の仲)ラーグもランドルの秘められた才能を見抜き、個人教授を引き受けます。ラーグの下でランドルの才能は開花を始めます。しかし、それはランドルが望んでいた魔法とは違ったものでした。そしてきわめて荒っぽい“卒業試験”を受け、懲罰として魔法を使うことを禁じられてランドルは修行の旅へ発ちます。その途中でかつて一緒に騎士の修業をした従兄弟のウォルターと出会います。ウォルターも若い騎士として修行の旅をしていたのでした。
 ランドルが直面しているこの世の不条理に対して、ウォルターは憤慨し、ランドルを従者として採用することで旅の手助けをします。しかし、ウォルターはトーナメント(騎士同士の試合)で不正な手段で重傷を負い、それを治すには大魔法使いの力が必要となります。ランドル・ウォルター・リースの三人は、よろよろと険しい山を登ります。そこで出くわしたのは、悪魔によるこの世への侵攻計画でした。さあ、大変です。魔法も武器を振るうことも封じられたランドルに、一帯何ができるのでしょうか。
 
 メインはランドルの魔法使いとしての成長物語ですが、少年少女たちが行う冒険物語でもあります。特に本書の3人は、性格も境遇も職業も全然違うのに、組み合わせが絶妙で会話はほのぼのとしていて、でも彼らに与えられる試練は厳しくてはらはらどきどきの展開で世界はきっちり構築されていて、と、本書は良い物語の条件を満たしています。
 小学校上級から後期高齢者まで、楽しめる本でしょう。
 
 
19日(月)珍しいもの
 裏表のない政治家
 話し下手な人の簡潔な話
 わかりやすいお役所の文書
 
【ただいま読書中】
よく使うのに間違っている日本語 ──テレビ・新聞には誤用乱用がいっぱい!』奥秋義信 著、 中経出版、2002年、1300円(税別)
 
 まずは誤用から。「汚名挽回」「重要参考人の指名手配」「わたしって……の人」といった“メジャーどころ”から本書は始まります。「押しも押されぬ」「古式豊かに」といった、(私にとっては)ちょっと立ち止まって考えなければならないものもあります。しかしここまで読むだけで、マスコミの言葉遣いの乱れのひどさが印象づけられてしまいます。
 次が「(感動などで)鳥肌が立つ」。本来鳥肌は、寒さや恐ろしさで生じるものですから「誤用」なのですが、著者はこれを誤用と言うよりも変化と捉えています。実際にそれまで「とても感動した」くらいしか言い方がなかったところで表現の幅が広がったわけですから。
 「犬も歩けば棒に当たる」……この棒が本来は災いだって、ご存じでした? 私は知りませんでした。これも言葉の変化ですが、世界のあちこちにある「犬も歩けば……」系のことわざは大体「幸運に出会う」ことになっているそうです。日本のことわざも国際化したのかもしれません。
 「全然+肯定形」もちと難しい。昭和の用法では誤用ですが、明治まで遡れば、坪内逍遙や夏目漱石が肯定・否定両方で用いています。「とても」という先例もあります(これももともとは否定を前提として用いられていましたが(例「とてもかなわない」「とてもできない」)、1890年代頃から肯定形でも使われるようになったそうです(「とても暑い」「とても美味しい」)。
 「こだわり」については、以前日記で書きましたが本書にも当然のように登場しています。やはり今広く使われている用法は、変です。私は本書を読んでその確信を深めました。
 ただ、著者は「檄を飛ばす」を日本語の「変化」に入れていますが、私はこれを「激を飛ばす」とでもしない限り「誤用」として扱いたいと思っています。「耳障り」を良い意味で使えないのと同じです。(「耳触り」にするのだったらokかも)
 
 全然知らなかったこともあります。私にとってまずは「痛み分け」。これは双方が不満を持っての引き分けのことかと思っていたら、相撲用語で片方が負傷したための勝負無し、のことだそうです。同じく、相撲界で横綱に対して「心技体」は間違いで「心気体」が本当、も「横綱」の意味を考えたら納得です。
 「五里霧中」は「五里/霧中」ではなくて「五里霧/中」、も意味を考えたら即納得ですが、正直あまりこういうことは考えたことがありませんでした。言葉にはもっと敏感にならないといけませんねえ。あ、五里霧中は知ってました? なら、一衣帯水・登竜門・正誤表は?(こう聞く以上「一衣/帯水」「登竜/門」「正誤/表」ではありません)
 「三ヶ月」の「ヶ」はカタカナの「ケ」の小文字ではない、はご存じでした? 「箇」のたけかんむりの一つが「↑」の形の略字になり、それがさらに崩されて「ヶ」になったのだそうです。戦後「↑」は使用禁止になりましたが、なぜか「ヶ」は生き延びているのが著者には不満のようです。
 「知らしむべからず」「流れに棹さす」「フリーマーケットのフリー(日本語ではありませんが)」など、誤用しがちな言葉についてもわかりやすく書かれています。ただ、あまり「誤用」を言い立てると、角が立ったり窮屈になりますから、できるだけ気持ちよくしかも正しい日本語を使いたいものだと思います。思うだけですけれど……現実は厳しい。
 
 
20日(火)流れ星
 が消える前に願いをかけるとかなう、と言いますが、「世界が平和になりますように」と祈る人と同時に、武器商人が「商売繁盛」と祈ったら、どちらをかなえるかを決めるのに神様は悩んだりしないんでしょうか?
 
【ただいま読書中】
笑いを売った少年』ジェイムズ・クリュス 著、 森川弘子 訳、 未知谷、2004年、2500円(税別)
 
 終戦直後のドイツ、走っている汽車に別の汽車が追いついて横に並び、そこから窓越しに豪華な食事が差し入れられるという幻想的な光景で本書は始まります。明らかに「これはフィクションです」という宣言です。そしてそこから1週間かけてゆっくり語られるのは……ファンタジーという形式を借りなければ語ることができない人生の真実です。
 
 つらい家庭環境で育った少年ティムは、最後はしゃっくりで締めくくられる、おなかの底から出てくる楽しくてたまらないようなダイヤモンドのような笑い声を持っていました。どんなにつらい生活でも、この笑い声さえあれば乗り切れるのです。しかしティムはその笑いを売ってしまいます。代価はどんな賭け事にも勝てる力。
 競馬でどんな馬に賭けても必ず勝てます。貧乏な少年のティムは、金持ちの少年のティムになります。ただし、笑いも幸福も無邪気な心も人に対する信頼もないティムです。ティムは後悔します。
 笑いを売った契約では、もし賭に負けたらティムは自分の笑いを取り戻せることになっています。ティムは勝つことが不可能なはずの賭を繰り返します。自分の笑いを取り戻すために。ところが、どうしても賭に負けることができないのです。とうとうティムは世界一の大金持ちになってしまいます。
 ティムはビッグ・ビジネスの世界に参入します。ブランド・マーガリンの市場を確立しようというのです。ティムは世界一周の旅に出、笑いを失った代わりに多くのものを学びます。ビジネス、上流階級との交際法、そして人と人の関係についてと平等とは何かについて具体的に。ティムは自分の笑いを取り返すために複雑な策を弄します。もっと単純な方法があるのに。彼の友人はそれに気づいていましたが、ティムの笑いを買った男爵(あるいは悪魔?)によって、ティムと友人との接触は禁じられていました。それでも味方は現れます。
 16才の誕生日は、契約書で始まり契約書で終わります。ティムを取り囲む牢獄の壁はどんどん分厚くなるようです。しかしそこで、救いの道が見えます。虫眼鏡が必要な秘密の手紙は暗号で書かれており、それは笑いを取り戻す道を指し示していたのです。
 
 笑いは内面への自由。動物と人間を区別するもの。笑いは希望。人を変えるもの。著者は笑いについて繰り返し様々な表現をします。笑いは一言で言うにはあまりに大きく複雑で、いくら言葉を重ねても十分ではないからでしょう。だけど、実際に笑い声を上げることができたら、笑いについての言葉はとりあえずどうでも良くなってしまうのですが。
 本書は「まだ笑うことのできるすべての人々のために」とあります。
 人は幸福を求めるものですが、そのためには「幸福」をきちんと知っているあるいは「幸福のイメージ」を持っていなければなりません。ファンタジーはそのイメージへの入り口を示すことが可能です。そして、本書を読んでそこをくぐるためには、笑えばいいのです。ダイヤモンドの笑い声を持っていなくても、口元に笑いじわを刻めば、きっと大丈夫。
 
 
22日(木)朝食
 英語でbreakfastとは上手い言い方だと思いますが(fast(断食)をbreakする)、特に昔、日没と同時に眠りにつく生活をしていた時代には長い夜の空腹をおさめてくれる朝の食事は実にありがたいものだったことでしょう。私は朝食を食べないと一日の活動ができないタイプなのでますますそう思うのかもしれませんが。
 ところで、昔々の農業以前の時代、朝食はどうやっていたんでしょう。それこそ「朝飯前の一仕事」で狩猟に行ってくる……腹が減って動けないよう(アンパンマン)になりそうです(私だけ?)。生肉は腐りそうだし、干し肉は……夜の間に肉食獣をおびき寄せるエサになりそうで怖いなあ。あ、だから狩猟は採集とセットだったのかも。肉に偏らない栄養のバランスも重要ですが、朝食を代表とする保存食が必要な状況のための食糧確保術。
 
 ……食いしん坊の歴史観(?)なので、たぶん全然違うでしょうけれど。
 
【ただいま読書中】
ツシマ(上) バルチック艦隊遠征』ノビコフ・プリボイ 著、 上脇進 訳、 原書房、2004年、1900円(税別)
 
 著者はバルチック艦隊に水兵として参加し、日本軍に捕虜となった体験を持っています。それをベースとし、さらに多くの兵隊たちへのインタビューや公文書をもとに作られたのが本書です。最初の一篇の出版は1933年、当時はルポルタージュ文学というジャンルは存在せず「これは文学か」とまず論争となったそうです。
 
 著者は帝政ロシア海軍の主計兵で「第一太平洋艦隊が日本海軍によって旅順港に閉塞された」という新聞記事を読んでいるときに、日本に派遣されるバルチック艦隊の新造戦艦アリヨール(乗員900名)に転属となります。著者が共産主義者だったため“懲罰"として戦場に出されることになったのかもしれません。新しい職場には、厭戦気分が蔓延していました。将官は残酷で気まぐれに暴力を振るい、軍艦を支配しているのは「恐怖」でした。ただ著者は鋭い着眼で、個々の人間だけではなくて「不正義のシステム」を問題としています。
 もともと練度の足りない水兵が多く、サボタージュをしたり兵役を逃れようとする者に加えて懲罰兵という罰の代わりに戦場に派遣される兵隊(軍紀違反だけではなくて政治犯)も多く混じっています。訓練はずさんでてきぱきと大砲の弾込めはできず撃つのはあさっての方角です。指揮官もお粗末で、艦隊どころか単艦での操船さえままならない有様。さらにそこに「日本軍の艦隊が待ち伏せをしている」という噂が。ドイツ領海でついに「日本駆逐艦の艦隊」相手に最初の「戦闘」が行われてしまいます。「戦闘」(というか、パニック)が終わって海面に漂うのは、破壊された漁船の群れでした。同士撃ちさえありました。これは国際問題になり、艦隊はスペインで足止めを食らった後、イギリスの巡洋艦隊がつきまとうようになります。石炭補給や入港で協力的なのは、ドイツとフランスですが、やがてフランスも協力を拒否するようになります。
 喜望峰を回りマダガスカルにやっと到着した頃、203高地が落ち旅順で艦隊が壊滅したことが知らされます。バルチック艦隊の目的(第一艦隊を救助し、日本海の制海権を奪う)は失われました。日露艦隊の戦力比較では、主力艦だけで日本が約2倍の優勢との論文が発表され、乗組員は絶望的な気分になります。ドイツも石炭積み込みへの協力を渋るようになり、艦隊は燃料のアテもなくよろよろと東に向かいます。そこに1月9日ペテルブルグでの「血の日曜日」を報じる外国の新聞が……
 インド洋では給炭所がないため、洋上で石炭運搬船から手作業で石炭を何度も各艦に移しました。兵員は疲弊します。軍紀は乱れ、暴動が起きないのが不思議なくらい……まるで『蟹工船』の軍艦版です。
 
 軍艦の中の階級制度を社会と対比させての考察も私にとっては面白いものでした。帆船時代は農奴社会そのままです。それが蒸気機関の導入で「技師」が士官として乗船するようになりました。「貴族」と「奴隷」だけの社会に異分子階級が誕生したわけです。帆船の時代には艦長は艦内のすべてを把握できました。しかしテクノロジーの進歩は古い人間を置き去りにします。かくして艦内の実権は、テクノクラートの集団に移っていったのです。
 資本主義社会も中産階級の登場で近代化したことを思うと、体制の違いがあっても社会の変化(成熟?)の原則は似ているのか、と思います。
 
 著者がこの作品を書いたのは、戦争の20年以上あとのことです。そこでは「バルチック艦隊が負けたこと」「ロシアがソ連になったこと」は“真実"であり、それが著者の記憶に何らかの影響を与えている(「現在」を正当化しようとする)ことは間違いないでしょう。しかしそれを“割り引いて"も本書は日露戦争について(少なくとも私にとっては)新しい光を当てるものです。
 
 
 
23日(金)でも
 愛の鞭でも暴力は暴力
 花泥棒でも窃盗は窃盗
 酒の上でも不始末は不始末
 
【ただいま読書中】
ツシマ(下) バルチック艦隊壊滅』ノビコフ・プリボイ 著、 上脇進 訳、 原書房、2004年、1900円(税別)
 
 艦隊は朝鮮海峡を目指します。足の遅い輸送船を外さず隠蔽工作も一切せず“堂々"の進軍です。見る目があるものは、輸送船は艦隊速度の点で足かせになる上にその護衛で巡洋艦が割かれて武力が減る、といらいらしますが、指揮官は無策で日本海に突入しようとします。当然のようにあっさり日本軍に発見されます。はじめは高速軽巡がつきまとい、そしてついに日本艦隊が。日本軍はみごとに統制がとれた動きで高速のままロシア艦隊の前を横切ってすれ違う方向に向きを変えます。ロシア艦隊も隊形を変えようとしますが、混乱が起き全体の速度が鈍ります。日本艦隊はロシア艦隊の横で順次円運動を行い、ロシア艦隊の進行方向に順行します。このときがロシアのチャンスでした。艦隊運動は一度始めたら容易にそれを変更することはできません。日本艦が回頭するポイントは一定です。そこを狙い撃ちすればよかったのです。しかし、指揮官ロジェストヴェスキーはむざむざとそれを見逃しました。日本艦隊は悠々と全艦向きを変え、そして砲撃戦が始まります。 
 著者はこの戦いを「ツシマ海戦」と呼びます。
 1時間で勝敗は決しました。
 戦いの最中、著者は戦闘中の持ち場である手術室に詰めていましたが、のちに各艦の水兵たちにインタビューすることで戦闘の詳細をリアルに記述しています。ロシア側からの試射は各艦が行ったため、あがる水煙のどれが自分の撃った砲弾によるものかわからなくてしまったのに対し、日本は一艦が試射を行って距離を測定してそれを各艦に伝達したため砲撃はきわめて正確でした。速力に勝る日本艦はまず敵の戦艦戦隊に砲火を集中し、移動によって目標を変更しました。ところがロシア提督の命令は「敵の旗艦を攻撃せよ」。命令絶対のロシア艦隊は、近くの敵艦ではなくて射程距離外の三笠めがけて発砲を続けます。状況の変化によって命令を変更しようにも、先頭の旗艦は日本軍によって集中攻撃を浴び、ぼろぼろにされていたため、各艦の対応は遅れました。
 第1ラウンドが終了し、煙と海霧によって両艦隊の接触は一時断たれます。その隙に南進すればロシア艦隊の多くにはまだ生き延びるチャンスがあったかもしれません。しかし彼らはウラジオストクに入港する望みから北進し、第2ラウンドが始まります。ロシア艦は次々沈没し、生き残った艦も内部は破片と死体と海水に満たされます。
 水雷艇が獲物を探しては魚雷を発射してくるのを撃退し続ける一夜が明け、著者が乗る戦艦アリヨールを含む5隻の「艦隊」は日本艦隊に包囲されます。戦っても一方的ななぶり殺しになることは明らかなため、ついに降伏の信号旗と白旗代わりのテーブルクロスが上げられます。艦上は一種の無法地帯となり、水兵が公然と士官に反抗する光景さえ見られました。(「戦艦ポチョムキン」はそれから1ヶ月後のことです)
 
 さて、そこから捕虜生活の始まりですが、それについてはあまり詳しく書かれません。私としては『ビルマの竪琴』よりは『俘虜記』(大岡昇平)や『黒パン俘虜記』(胡桃沢 耕史)に近い生活だったのではないか、と思うのですが。共産主義思想を持つと言うことで「非国民」として収容所の中で狙われ、結局日本側によって収容所の外に出されてしまいそこで恋愛もあった様子で、そのへんをもう少し書き込まれたらもっと面白かったとは思うのですが、著者からはそれはツシマ海戦の「後日談」あるいは「余談」に思えたのでしょうか。
 
 ただ、誤植が多いのはいただけません。「具合」が「具体」、「水兵」が「水平」、「千早」が「手早」になっていては、まるで判じ物です。「短艇」と「端艇」が混在しているのもなにか意味があるのでしょうか。「黒色火薬」と「黒煙火薬」も登場しますが……たしかに「黒色火薬」は「有煙火薬」ではありますが……
……良い本なのに、文字通りの瑕疵が目立つのが残念です。
 
 
24日(土)コストカット府政
 大阪府の職員が行列を作るべきは、どこかの法律相談所ではなさそうです。だけど、羽曳野市の職員に「生保を受けたかったら」とセクハラされて裁判に勝って得た賠償金を「はいはい収入ですね」と当の生保の事務所に取り上げられた女性の場合は、どこかの法律相談所に行列を作って相談しても良いんじゃないかしら(ちなみに市は賠償金と同額をその職員に払わせているんだから、結局自分で払った賠償金以上を“取り返し"た計算になりません?)。
 で、本当に女性が行列に並んで、大阪府知事が弁護士の立場だったら、なんて主張するのでしょう?
 記事がmixiニュースでは見つからないので、朝日から。
http://www.asahi.com/national/update/0523/OSK200805230091.html
 
【ただいま読書中】
サークル・オブ・マジック 邪悪の彫像/王様の劇場』デブラ・ドイル&ジェイムズ・D・マクドナルド 著、 武者圭子 訳、 小学館、2003年、1800円(税別)
 
 やっと念願かなって魔法使いとして修行の旅を始めることができるようになったランドルは、リースとともに旧友のニックが住むシンゲストーンの町を訪れます。そこで死の呪いをかけられた男から強い魔力を持つ彫像を届けるように頼まれます。彫像は、どん欲なフェス卿と魔法使いバーナートの間で奪い合いの対象となっており、兵士や魔法使いが次々襲来します。
 かくして、未熟な魔法使いとリュート弾きと大工の弟子と傭兵の冒険が始まります。一行は魔法学園で彫像の鑑定と適切な処置をしてもらおうとターンズバーグを目指しますが、その進路は強力な魔法で南にねじ曲げられ森を出て見つけたのは彫像が作られたとおぼしき(そしてニックの故郷である)ウィドシガードの街でした。
 この邪悪な彫像は、まるで『指輪物語』のあの「指輪」のようです。あまりに強力なため魔法使いはその力を使いたいと渇望し、その代償に自分の魔法力と生命力を吸い取られてしまいます。ランドルは彫像を狙う様々な勢力と戦うと同時に、この彫像に自らを捧げたいという衝動とも戦わなければなりません。さらに、意外な人物(幽霊)が登場します。前作でランドルが殺してしまったラーグですが、さて、彼(幽霊)は敵か、あるいは……
 
 ランドルは再びリースと二人になり、さらに南を目指します。リースの故国オクシタニアです。街の広場で大道芸を演じていたところ、二人は王宮の劇団にスカウトされます。リースは俳優と歌い手として。ランドルは特殊効果係です。なにしろ魔法を使うことでSFXが具現できるのですから、こんな人がいてくれたら演出家としては便利です。照明や音楽・効果音、さらには舞台上で人を変身させたり幽霊を登場させたり、自由自在なのですから。人を傷つける魔法を使いたくないと強く思っていたランドルにとっても、人を喜ばせる魔法は望ましいもので、ぐんぐん腕を上げます。
 しかし、そういった明るい日々にも影が忍び寄っていました。暗い権力闘争です。王をねたむ双子の弟が、魔法の力を借りることで王を暗殺して自分が王位に就こうとしているのです。ところが王は弟を殺すことを望んでいません。王の味方は、王の意向によっていわば片手を縛られた状態で敵と対さなければならない状態でした。ランドルは心ならずもその陰謀に巻き込まれ、その過程でまた人を殺してしまいます。
 舞台が劇場だけに、一人二役とか二人一役とか変身とかが入り交じり、誰が誰だかそのうち訳がわからなくなります。そもそも敵同士も双子なのでそっくりなのです。作者は完全に遊んでいます。しかし、ランドルは確実に成長しています。魔法の技が上手になるだけではなくて、人としても内面に深みが出てきていることが読み取れます。朴念仁ですけど、これはしかたないか。
 巻末でランドル(とリース)は従兄弟で騎士として武者修行中のウォルターと再会し、故郷のブレスランドに帰ることになります。もちろんそこでも波瀾万丈の冒険が待っているのでしょうね。楽しみです。
 
 解説には、チェスタトンが「健全でまともな少年が驚異に満ちた世界に飛び出し奇想天外な事件に遭遇するからこそ物語は面白いのであって、もともと異様な男や女がなんの変哲もない平凡な世の中でなにをどうしたとリアルに描いても面白い話になるはずがない」と言っている、と書かれています。たしかに「健全でまともな少年」(けっこうこの設定はホネ。しかもその成長を描くのも筆力が必要)や「驚異に満ちた世界」をきちんと構築することは難しい作業でしょう。「異様な人間」を設定して、それを自分がよく知っている平凡な世界で動かす方が、はるかに楽(ただし、異様な人間が変化(あるいは成長)する過程をきちんと書き込めればそれはそれで読み応えがあるでしょう)。ファンタジーと言っても、なかなか一筋縄ではいきません。
 
 
25日(日)隣人
 都会だと「隣」は文字通り「隣」ですが、田舎だと「一番近い隣は2キロ向こう」なんてこともあります。で、日本の場合、「隣」はどこなんでしょう。東隣は米国、でいいのかな。
 
【ただいま読書中】
サークル・オブ・マジック ブレスランドの平和』デブラ・ドイル&ジェイムズ・D・マクドナルド 著、 武者圭子 訳、 小学館、2003年、1800円(税別)
 
 ブレスランドに戻ったランデルは戦場にいました。強力な魔法に守られた鐘楼城の包囲戦です。そこでランデルは、戦争で傷つくのは兵士や騎士だけではなくて、身分の低い民衆も多数傷ついていることを目の当たりにします。魔法が使えるから使う、魔法を使いたいから練習する、ではなくて、自分の魔法を一体何のために使うべきなのか、ランデルは「自分の人生の目標」を魔法によって問われることになります。
 旧知の敵の魔法使いによって城に拉致され魔法を封じられたランデルは、そこで時の輪廻も体験します。時の流れを行ったり来たりするため、話は混乱し続けます。「ついさっき」とはいつ? そして「あと少し」とは実際にはどのくらい?
 前作では舞台が劇場だから、誰が本当には誰かがわからなくて混乱するおもしろさでしたが、今回は鐘楼が舞台なので、時間を混乱させる……毎回設定が凝っています。しかも「舞台効果をやっていてよかった」と前回の経験がちゃんと生かされていることがわかるようになってます。
 
 しかし、敵の魔法使い、以前も嫌な奴だと思っていましたがその「嫌さ加減」が10倍くらいパワーアップしています(魔力ももちろんアップしているので相手をするのが大変です)。見事な敵役兼嫌われ役ですな。
 そしてランドルは、恩師のマードックにもできないことがあることを知り、しかもそれを自分ができることに二重のショックを感じます。少年が(部分的にとはいえ)「父」を超えた瞬間です。
 そしてランドルには次の冒険が示されます。国に平和をもたらすために、王位継承者を妖精の国に迎えに行く役です。しかし、妖精国に入った人間は変化をまぬがれません。リースとウォルターも同行を申し出ます。魔法使いと騎士、そして吟遊詩人の冒険が始まります。
 
 本シリーズは、原作の2冊ずつが合巻されて日本では出版されています。つまり原作での第5巻と第6巻が本書ということになります。お得感はありますが、やはり「本のまとまり」という点では、別々に、あるいはせめて本の中間でしっかり分ける編集をしてほしかったな、と思います。
 
 で、本書の後半は妖精国での冒険から。
 永遠の美の国のはずだった妖精国には、かすかな腐臭と荒廃の気配が漂っていました。人間界の荒廃が妖精国にも悪い影響を与えていたのです。無事王位継承者を人間界に連れ帰ったランドルたちですが、そこにはすでに「王」を名乗る者が国の半分をまとめていました。ランドルは故郷のドーン城に向かいます。そこで国の半分を相手に戦争を始めなければならないのです。さらに、人間界の混乱に乗じて悪魔が侵入しようとする気配もあります。人間と悪魔、両方を相手に最後の戦争が始まろうとします。
 これまでは誰かに頼り誰かに助けられ誰かの指示に従って動くことが多かったランドルですが、こんどはひと味違います。決して喜んでではありませんが、自分が決定し自分が他の人をリードしなければならない場面が増えたのです。これで見習い魔法使いか?と言いたくなる存在感を持ってきています。
 さらに、「嘘をついてはならない魔法使い(ただし、真実を語らないことは可能)」と「言葉を文字通りたがえてはならない妖精」とのコミュニケーションが笑えます。魔法使いが唱える呪文が世界の真実性を表現してそれを組み替えているとしたら、「世界はことばで構築されている」わけです。すると魔法使いが嘘をついてはならないのは納得ですが、妖精はどうして自分の言葉に縛られるかなあ。
 
 ……読了して本を閉じてから私はちょっと考え込みます。「誰かに忠誠を誓う」ことは、「誓う人」が一人でもちゃんとやっていける一人前(以上)の人間だからこそ意味をなすんだな、と。本シリーズ開始時に12才だったランドルは、(原作での)1巻ごとに年を取りついに青年になりました。なんだかまるで親のように、彼の成長が嬉しく感じられます。
 本書は図書館では児童書のコーナーにありますが、大人にもお勧めします。
 
 
26日(月)性教育
 堕胎の多さとか子捨てや子殺しのニュースとか若者に性病が蔓延しているとか、を聞くと、日本では性教育が成功しているとは言えないと思います。それはなぜかと考えると、結局「性教育」が「性にまつわる諸々に関する教育」になっていなくて、「純潔教育=禁欲教育」(ただの精神論)あるいは(精神を欠いた)ただの「性の技術教育」になっているからではないでしょうか。
 「民は由らしむべし、知らしむべからず」は論語の本来の意味では「民に、政策に基づく行動をさせることは可能だが、その理念などの知識をきちんと普及することは困難である」です。で、日本の性“教育"は、「知らしむ」の方よりは「由らしむ」方に夢中になっていて、しかも(人間の本性に反しているからでしょうか)それに失敗している、という状況です。
 
 ただ……「禁欲の強制」は、宗教の力でも借りなければ、無理なんじゃないかなあ。おっと、禁欲がタテマエの宗教団体でさえ失敗することがありましたっけ。じゃあ、ますます無理だ。
 
【ただいま読書中】
ノルウェイの森(上)』村上春樹 著、 講談社、1987年、1000円
 
 村上春樹を読むのは実は初めてです。たまたま長男が読んでいたのを最近知って、こんどは家内が友達から借りてきて読んでいたものですから、もう返すという寸前に拝借して読んでみました。
 
 1968年、大学紛争の嵐が吹き荒れている時代。
 高校時代に親友が自殺し、以後心の中に欠落を抱え込んで誰とも深く関わることができずに生きている「僕」(ワタナベ)。神戸から東京の大学に進学し、友達を作らず一人で本ばかり読んでいる生活をしていたとき、自殺した親友の恋人だった直子と偶然再会し、定期的に会うようになります。ただし、直子が求めているのは「僕」ではなくて「誰か」。
 
 言葉で「人物」を立体的に浮き彫りにするような描写が続きます。決して相手の内面に踏み込んだ描写をするわけではないのですが、その行動やことばから、相手の内面がこちらには透けて見えるような気がします。ところが「僕」はそれに気づかない。そう、「現実」ってそんなものですよね。生の現実は曖昧模糊として不可解ですが、それを言葉できちんと整理したら突然難しい幾何の問題で適切な補助線が見つかったみたいにすべてがすっきりしてしまう。だから読者にはいろんなことが“見え"てしまうのです。だけど、そんな読者の思いをよそに、物語は淡々と進行していきます。(そうそう、作中でミドリが指摘するワタナベのしゃべり方(虚飾を排して最短距離でしゃべろうとする)も彼の性格のある面を示しているのですが、彼自身はそれにまったく無自覚です。これも面白いものです)
 ……ただ……(心が)健康な人が登場しません。どこかに問題を抱えている人ばかり。本書は著者の個人的な体験が大きく影響したものではないかと思いますが、若き日の著者にとって世界は「そんなもの」だったのかしら。何回も登場する「目の前の現実から隔てられていると感じる感覚」が何かを物語っているようですが……
 
 直子は大学をやめて実家に帰り、療養所に入ってしまいます。さて……というところで、有名な本ですから改めてすじの紹介は要らないでしょう。
 
 いろいろ特徴のある人が登場しますが、私の目を引いたのは、読書家だが死後三十年を経ていない作家の本は読まない主義の青年です。「時の洗礼を受けていないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくないんだ。人生は短い」
 ……私があまりベストセラーを読まない理由として、彼の言い分を採用しようかな。……と言いつつ、本書を読んでいるのは、どうしてでしょう? 本書も出版後二十年経っていますから、一応時の洗礼は受けている、としていいかな。
 大学紛争で「大学解体」と騒いでいた連中が授業にはちゃっかり出席して単位を取るのに汲々としている姿が笑えます。そういえば60年代末に私の地元の国立大学でも紛争の火が燃えて老教授が教室で学生のつるし上げを食っていたとニュースで報じられていましたが、つるし上げていた連中、今はどこでどんな人生を歩んでいるのでしょう?
 
 
27日(火)基地
 探険や戦争には基地がつきものです。たとえばエベレスト登山や長期の探険で、キャンプやデポ(物資の集積所)を一切おかずにずっと野宿で、はほとんど不可能でしょう。
 
 ネットカフェ難民のTV番組を見ていて、彼らは「基地」を欠いている、と感じました。私は仕事がすんだら家に帰ります。そこでは安心して過ごせます。「ホテルでも家でも、どこで寝ても目を閉じれば同じ」ではないのです(少なくとも私にとっては)。だけど“難民"は「帰るべき場所」「帰れる場所」を持っていません。社会に出て、出っぱなしです。これは疲れるでしょう。肉体的にもですが、精神的な消耗は激しいと私は想像します。
 
 ではどうしたらいいか。自助努力で彼らが自分の『基地」を構築するのは、期待薄です。では、社会福祉の一環として彼らが巣のように過ごせる場所をもっと整備するか、あるいは、社会そのものを居心地が良くてどこででも過ごせるようにするか、かなあ。
 
【ただいま読書中】
ノルウェイの森(下)』村上春樹 著、 講談社、1987年、1000円
 
 療養所に直子を訪ねたワタナベは、東京に帰ってきてもすんなり日常生活に戻れません。これまでは「一人でいること」を自ら選択していた(できた)のが、こんどは(望まない)孤独な生活をすることになってしまうのです。京都の山奥の直子とは精神的につながっているはずなのにその確信は得られず、東京のミドリは明らかにワタナベに惹かれてきているのに(そしてワタナベもミドリに惹かれているのに)お互いにそれを明確にしようとはしないし……
 しかし、ワタナベの話し方の特徴がいろいろ周りの女性に評されますが、その周りの女性たちのしゃべり方も、なんというか……当時の「翔んだ女」はあんなあけすけなしゃべり方をしていたのかな。そういった人とはお付き合いがなかったから、わからないや。
 
 本書は一応最後はあるべき所に話が落ち着きますが、でもなんだか中途半端な印象です。まだ著者がきちんと書ききっていないように感じるのです。著者の本を読んだのはこれが初めてなのですが、他の本もこんな感じなのかしら。
 上巻の始まりが「それから20年後」で始まるからてっきり話はまた青春時代から20年後に戻るだろうと思うと下巻ではあっさりその時代で話が終わってしまいますし、上巻でも下巻でも永沢が「未来にまたお前と出会う気がする」と言っているのがてっきりなにかの伏線だと思っていたのですが(だからこそオープニングが20年後のヨーロッパだったのではないかなあ)、それもそのまま放りっぱなしです。「かっこ」で始まったら「かっことじる」で終わってくれないと、もやもやします。
 
 そうそう、就職先が外務省にすんなり決まった永沢が、受験生のほとんどはゴミだが中に数人はまともなのがいて、その比率は一般社会どこでも変わらない、と言いますが、たしかにそれはある種の“真理"だろうと私も思います。問題はそう評する人が他の人からゴミと見られているかあるいは「まあまとも」と見られているかですが……というか、本書では鼻持ちならない奴を演じている永沢君、私はけっこう彼の言葉に頷くことが多かったのは、ちょっとアブナイかしら?
 もう一つそうそう。本書では「食事をきれいに平らげるか残すか」がけっこう重要な意味を持っていますね。病院の昼食は半分しか食べられなかったワタナベがその直後に(キュウリではなくて)キウリを2本美味しそうに完食したこととか、永沢とその恋人と一緒にフランス料理を食べに行って、ワタナベは黙々と完食したこととか、なかなかいろんなことを想像してしまいます。
 さらにもう一つ。ワタナベ君は家族についてまったく語りません。ときどき「僕は一人っ子だったから(人間付き合いが苦手)」とは述べますが、父母の顔が本書では全然見えないのです(それどころか、母親を亡くした漁師に対する冷然とした反応を見ると、こいつ大丈夫か?とさえ思ってしまいます)。もしかしたら、(実際にセックスするかどうかは別として)ワタナベがセックスできる可能性がある女性しか、本書には登場する資格なし、なのかな(だから母親が登場できない)?
 
 
5月28日(水)コードがからむ
 たとえばマウスと電源ケーブルとヘッドホンをバッグにつっこんだら、“必ず”ほどけない方向に絡んでしまうのは、なぜなんでしょう。ここまで必発だと、これはマーフィーの法則ではなくてもっと上位の法則がありそうに思います。
 
【ただいま読書中】
2000年間で最大の発明は何か』ジョン・ブロックマン 著、 高橋健次 訳、 草思社、2000年、1500円(税別)
 
 著者が開いているサイト「エッジ」(www.edge.org)での「第3の文化」メーリングリストで、著者はタイトルの質問とその理由を参加者に求めます。私だったら「文字」「車輪」「コンピュータ」くらいしかすぐには思いつきませんが(おっと、文字と車輪は「2000年」のシバリから外れてしまいますね)、このメーリングリストに集う人たちは一筋縄ではいかない人々のようで、まあ、面白い答えが続々と。私が特に面白く読めたのは、挙げていったらきりがないのですが、厳選したら……「魔法瓶」「消しゴム」「ピル」「クラシック音楽」「33年周期暦」「超自然現象を信じないこと」「非宗教主義」「疑問文」「ある考えについての考え」……あああ、やっぱりキリがありません。
 
 私が知っている有名人だったら、リチャード・ドーキンスが上げるのは「分光器」、フリーマン・ダイソンは「乾草」です。「なんでまたそんなものが」の理由は本書を読んでもらうとして、ほかにも「なんでこれが?」と思うものもありますし、一見意外だけれどその理由を読んで「なるほど!」と膝を打つものもあります。メーリングリストですから、それまでのメールを読んだ上で投稿する人は当然のように一ひねりも二ひねりも加えてきます。その丁々発止のやり取りもまた楽しい。
 印刷機・コンピュータ・電気など「平凡」なものも登場しますが、その紹介文がまた面白い。「この2000年をどう見るか」の立場が明確だと、平凡なものにも意外な観点から光を当てることができてそこに面白い影を作ることができるようです。これだけ様々なものが挙げられると「歴史を見る」ことが一筋縄ではいかないことも同時に学べます。
 
 本書では、回答が何か、だけではなくて、誰がそれを答えたか、にも注目するべきです。学者だけではなくて作家やジャーナリストなど錚々たるメンバーが並んでいて、さらにその短い人物紹介には必ず著作リストがくっついています。本書を読んでいて私は読みたい本のリストがどんどん長くなってしまって、非常に困ってしまいました。
 
 解説も示唆的です。「必要は発明の母」ではなくて、実は「発明は必要の母」である、と言うのです。たしかに、必要に駆られて発明することもあるでしょうが、「こんなものできちゃったけれど、どうしよう」が新しい使い道が見つかって大ヒットと言う例が非常に多いのですから(エジソンの蓄音機なんか好例ですね。エジソンは遺言を吹き込むとか語学練習を思っていたようですが、実際には音楽録音で大ヒットしました)。
 
 
29日(木)サマータイム
 CO2削減にくっつけてサマータイムが持ち出されたようです。
 私には、その論理が理解できません。サマータイムを採用したらどうしてCO2排出が削減されるのでしょう。
 通勤に関してはCO2発生は変わりません。
 日本のオフィスの多くが「日があるうちは電気を使わない(エアコンも電灯もエレベーターもパソコンも止める)」のだったら、その活動時間帯を夜から昼に移動させることには意味があります。しかし、そんなオフィスがどのくらいあります? 人がいる間はたとえ晴れていても、エアコンも電灯もつけっぱなしではないでしょうか。工場もそうですよね。始業時間を早くしても遅くしても、生産量が同じならそのための消費エネルギー(つまりはCO2排出量)は同じです。
 本当に日本のビジネスシーンでCO2削減をしたければ、すべての会社と工場でエアコンと残業を禁止したら劇的な効果が出るだろう、と私は予想します。だけどサマータイムだけではたぶん何も変化無し(というか、エアコンと残業禁止ができたらサマータイムを導入しなくてもCO2は削減できます)。「欧米並み」にあこがれる人の自己満足のために早起きを強制されるのは、嫌だなあ。
 
【ただいま読書中】
サークル・オブ・マジック 魔法学校再訪/氷の国の宮殿』デブラ・ドイル&ジェイムズ・D・マクドナルド 著、 武者圭子 訳、 小学館、2004年、1700円(税別)
 
 ディアマンテ女王の統治の下、平和ウィルを取り戻したブレスランド。ランドル、リース、ウォルターは宮廷でのんびりと日を過ごしていました。しかし、東の果ての男爵から、跡継ぎを魔法使いにしたいがあまりにできが悪いのでランドルに特別に鍛えて欲しい、とたっての願いが。願いとその背景の不自然さに疑問を感じながらランドルはその少年ウィルを預かります。しかし、そこには悪魔のにおいが感じられました。ランドルはウィルが学んだ魔法学校で悪魔の影響を受けたのではないかと考え、学校があるターンズバーグに向かいます。しかし、悪魔は意外なところに隠れており、とんでもない悪辣な陰謀を巡らしていました。魔法学校でまたも悪魔と魔法使いの戦いが始まります。
 かつて悪魔と組んでいたラーグが、今回は(今回も)ランデルを助け悪魔の企図をくじこうとします。「悪人」であっても良心を持っていて、どんな悪人でも善人になることはできる、ということなのでしょうか。
 
 また宮殿での平穏で退屈な日々が続いていたとき、北の国の王トルクが訪れ、リースの歌に感心して北の国の歌手コンテストに招待します。それは歌い手なら全員あこがれるすばらしいコンテストでした。リースは喜んで出発します。トルク王に邪悪な魔法の気配を感じ取ったランドルとともに。護衛につくのは、第2巻で傭兵をやっていた、自分の忠誠心は金で買えると公言するデイゴン。おやおや、懐かしい顔の登場です。
 災難続きでやっと到着した北のバスキナ国は、強大な魔法使いが支配する無音の世界でした。そしてコンテストで優勝したリースはその美声を盗まれてしまいます。デイゴンは(またも)ドライに金で裏切り、ランドルは魔法を封じられて囚われの身となりますが……
 巨大な図書館で解放された声々が世界に響き渡るシーンは、ドラマチックで詩的です。よくこんなシーンを想像できたものだと私は感心するしかありません。
 
 12才の少年だったランドルはいつのまにか18才になっていました。女性の美しさにも気づくようになっています。このシリーズには、ここで終わって欲しくないなあ、と思います。魔法使いは嘘をついてはいけないけれど、たしか恋を禁じる、とは魔法学校では言っていませんでしたよね。
 
 
30日(金)無味乾燥
 文字通りドライな感性なのね。
 
【ただいま読書中】
俺たち「ひきこもり」なのかな? みんな、どうなん?』川口漕人 取材・文、ビイング・ネット・プレス、2001年、1200円(税別)
 
 「ひきこもり」という言葉にマスコミがわっと飛びついたのは、私の記憶では世紀の変わり目頃です。著者はマスコミでずいぶん軽く「ひきこもり」が使われることに違和感を感じ、ネットでアンケートを開始します。「ひきこもり」って、本当は何だ? アンケートに答える人たちのほとんどは「自分は回りからひきこもりと言われるけれど、自分ではそうは思わない」と言いますが、それは当然だ、と著者は分析します。だって本当に社会から隔絶している「ひきこもり」はアンケートに答えたり取材を受けたりはしないはずですから。それでも著者は動き始めます。
 
 最初に訪れたのは、西村博之さん。「2ちゃんねる」を開設してまだ1年。西鉄バスジャック事件の余波もあって巨大掲示板に育ち取材を忙しく受けている「ひきこもり」の管理人です。
 いやあ、もう忘れていた言葉がつぎつぎ登場します。ネオ麦茶・東芝問題(「お前のようなのをクレーマーって言うんだよ」でしたっけ?)・テレホーダイ・モラトリアム……
 
 いじめによって「ひきこもり」になったとか、ある意味“わかりやすい例"も登場しますが、「パラサイト・シングル」として登場した女性のところで、私は考え込んでしまいました。彼女は、子どもの時に虐待をした親(母親は身体暴力、父親は無視)に対する“復讐"としてパラサイト・シングル生活を選択した、と静かに述べます。でも、そうやって復讐をすることでずっと自分の人生を費やしていくのは、なんだかもったいなく感じます。さらに、彼女は「自分がその人生を選択した」と思っていますが、実はそこからもう抜け出せなくなっているのではないか、と私には感じられます。「復讐はやめた」と思ったら次の瞬間他の人生への一歩がちゃんと踏み出せるのかなあ、と。ただ、彼女がネット上で他の人々と交流して自分の虐待体験を言葉にできるようになってきたことや、同じように虐待を受けた人とメールのやり取りをできるようになってきた、とのくだりを読んで、私はちょっとほっとします。
 
 「一つの言葉で簡単にくくらないでくれ」が主題と変奏のように何回も何回も本書には登場します。たしかに「ひきこもり」という言葉はあいまいで、何かを明確に述べているようで実は何も述べてはいません。本書を読んでも結局「ひきこもり」の正体はなにも明らかになりません。あ、明らかにならない、ということは明らかになりました。
 本書の弱点はそこです。著者が何らかの仮説を持ってそれを検証する、という態度ではなくて、とりあえず適当に行き当たりばったりにインタビューして回って見ました、というもので、「世の中にはこんな人もいるのか」以上の感想が持てません。一冊の本を仕上げるためには、出発点となるものがあいまいな言葉でもかまいませんが、せめてそれに対する作業仮説を明示するとか、インタビューする母集団の選択にきちんとした論理操作を加えるとか、何か本を最初から最後まで貫いて支える“軸"が必要と思えるのです。
 そうですねえ……「ひきこもり」を明確にできないのなら、逆の発想で、たとえば「ひきこもり」に対してネガティブな印象を持つ「世間」をもっと立体的に浮き彫りにしてみるという手もあったと思うのです。「ひきこもり」に明確な定義も与えずにそれを問題視する態度自体に、絶対に何らかの心理学的な問題が潜んでいるはずなのですから。
 
 
31日(土)トロ
 大トロと中トロはあるのに、なぜか小トロは言いませんね。不思議です。
 ちなみに、トロってそんなに美味いものですか? そんなに食べた経験が豊富ではありませんが、今まで食って美味いと思ったのは2回だけです。だから、回転しない店に行ったときでも、トロは頼みません(その方が安くあがりますし、そもそも回転しない店にはめったに行きませんけど)。
 
【ただいま読書中】
女に向いている職業 ──女性私立探偵たちの仕事と生活』ヴァル・マクダーミド 著、 高橋佳奈子 訳、 朝日新聞社、1997年、2400円(税別)
 
 本書のタイトルは『女には向かない職業』(P・D・ジェイムズ)のもじりです。本書は、女性私立探偵を主人公にした小説も書いている著者が、英米の女性私立探偵に広くインタビューしてその結果をまとめたものです。
 
 まずは「なぜ私立探偵になったのか」。人によって様々です。偶然なった人もいますし、「職業に選ばれた」人もいます。経済的な理由や政治的な理由も登場します。で、登場する人たちはみな「私立探偵は女性にぴったりの仕事だ」と述べます。(もちろん、そう述べられない人はたぶんさっさと辞めているのでしょう)
 つぎは「初仕事」。これまたいろいろです。平穏な調査もあれば覆面調査や派手などんぱちまで。「報酬」もまたばらばら。個人や事件によって様々ですが、英と米でずいぶん国情が違うこともわかってきます。インタビューを申し込んだ著者に対して、米は「さあ、何でも聞いてちょうだい。世間に偏見があるのなら一緒に正しましょう」と言わんばかりなのに、英は「世間の偏見がこのインタビューで助長されなければ良いんだけど」と身構えがち、なんてところで、「英米」とまとめてはいけないんだな、と改めて感じます。
 
 著者の属する文化圏では「私立探偵」は「ハードボイルド」とほぼ同義に捉えられているようです(日本だったら、浮気調査?)。しかし実際には、私立探偵は権力の行使はできず辛抱強く目立たずに調査を続けることが求められます。それが「女に向いている」所以だそうです。この場合には「力の弱さ」が強力な武器となって相手の心を開かせることが可能になるのだそうです。ただし「弱さ」は諸刃の剣で、それによって不愉快な思いをすることも多々あるようです。
 男女差別の話も当然登場します。ただし、著者も登場する女性私立探偵たちも声高にフェミニズムを叫んだりはしません。
 
 意外に重要なのが「法的文書の送達」です。向こうではどうも令状(召喚状・家庭内暴力の差し止め令状・債権通告・差し押さえ令状・ローン禁止通知などなど)は本人に渡さないといけないようで、それが私立探偵の重要なお仕事の一つなんだそうです。もちろん簡単な仕事ではありません(簡単だったら、私立探偵に依頼が来ません)。危険な状況に踏み行ったり、行方をくらませた人を追っかけて外国へも行くのですから、書類一つを渡すのも大変です。
 心打たれるエピソードもたくさん登場します。私のお気に入りは……ガンで余命幾ばくもない年老いた女性が「死ぬ前に会いたい人」のリストを作りました。一人を除いて全員に会えたのですが……そこで女性探偵がその一人(依頼人の昔のボーイフレンド)を探しだし、ついに見つけます。二人は出会い静かに思い出を語りそして別れます。
 なんだか、小説みたいです。
 子どもの養育権争いでも深刻な話が次々登場しますが、ベテランの女性探偵がホワイトハウスからまるで家裁の調停員のような仕事を依頼されるエピソードでは、制度は違っても日米でも親子の情の根っこの所には共通の部分があるのだろうな、と思えます。ただ、こんな場合に私立探偵に依頼しよう、というのはさすがにUSAですが。
 
 小説とは違う私立探偵の実像について、それと女性(厳密には男女の関係)についていろいろ自分が知らないことが多いことがわかる本でした。