mixi日記
2008年6月
 
1日(日)忌み言葉
 死ぬ・切れる・終わる・別れるなどは日本では結婚式や披露宴で使ってはいけない言葉になっています。だけどキリスト教の結婚式では「死が二人を別つまで……」などと、もろに日本での忌み言葉のオンパレード。だけど映画などでそれを英語で言われたら、別に何とも思わないんですよねえ。不思議です。
 
【ただいま読書中】
死が二人を別つまで』ルース・レンデル 著、 高田恵子 訳、 東京創元社(創元推理文庫)、1987年(93年9刷)、620円(税別)
 
 人口12000の町キングズマーカムの警察、朝5時に本書は開幕します。徹夜の取り調べを終えてへとへとの首席警部ウェクスフォードとその部下の警部バーデンのもとに、16年前の殺人事件について知りたい牧師が訪問すると手紙が届けられます。
 事件そのものは単純です。戦後すぐの厳しい時代。吝嗇な90歳の老婦人の使用人ペインターが200ポンド欲しさに斧で彼女を殴り殺したのです。ペインターはあっさり捕まり死刑になります。そして……その幼い娘は、美しい才媛に育ち、オックスフォード大学でアーチェリー牧師の息子と出会います。二人は婚約。しかし彼女は「自分の父親は無実だ」と強く主張します。かくして、牧師がかつての取調官ウェクスフォードの元を訪れることになったのでした。
 ウェクスフォードは混乱します。人間として下等な殺人犯・社会の低層に生きている軽蔑すべき人間の娘が、自分よりハイクラスの知性と教養を持った存在となって自分の人生に立ち戻り、それを信じた牧師(それも署長とオックスフォードの同窓生)がもうすんだ話をほじくり返そうというのですから。
 アーチェリーも困惑しています。16年も前に決着がついた事件です。当時の証人がどこまでアテになるのか、アテになるとしても新しい証言が得られる確証はありません。そして警察も決して友好的ではありません。
 やがて、怪しい人物が浮かび上がってきます。この人が犯人だとちょっと露骨すぎるかな、と私は思いますが、そういった「推理」とは別に、熱波でじっとりと暑い田舎町での「人間関係」にも興味が向きます。誰もが知り合いでいつどこで何をしているかが分かっている環境。そこでの出会いやロマンス。ぎこちない親子や病的に歪んだ親子関係。背景に引っ込んでいますが存在感のある警察官。いやあ、そのへんの人間描写が実に上手いのです。
 そして最後にまた殺人があり、それが過去の殺人事件に新たな光を当てます。なんというか、私には予想外の展開でした。
 
 一応解決は示されますが、これに対する評価は分かれるでしょう。推理トリックマニアからは「肩すかし」と評されるかもしれません。ただ、伏線はちゃんと生きていましたし読後感がわるいものではありません。ただ……あのロマンス”……あれでいいんだろうか?
 
 
2日(月)未来を知る
 現在の動きだけを見つめていたらそこから未来が見えてくるものではありません。「原点を通る直線」が無数にあるように、一点だけを見ていても直線の傾きは定義できないのです。
 だけど、過去と現在を?ぐことができたら、未来はその延長線上にあるはずです。二つの点が与えられたらその延長上に次の点があるように。そこで重要なのは歴史観と的確な現在の分析です。過去はすでに他人によって編集されていますが、自分なりのきちんとした歴史観があればそこになんらかの真実(ある程度確からしい座標)を見つけることができます。そしてそれを現状分析して得た「現在」と結べば良いのです。
 
 つまり、過去を知ることは、未来を知ることに通じるのです。だから歴史には意味があります。
 
 ただし、問題が二つあります。
 まず、二つの点を結ぶのが直線だけとは限りません。曲線だったりジャンプすることもあり得ます。
 もう一つ。歪んだ歴史観を持っている人は現状分析も歪んでいることが多いので、結局幻想の世界で二つの点を結んでしまってとんでもない未来を見ることになってしまいます。それは、妄想体系を構築したり、過去も現在も無視して自分勝手な未来を夢見るのとほぼ同等です。
 
【ただいま読書中】
映画字幕は翻訳ではない』清水俊二 著、 戸田奈津子・上野たま子 編、早川書房、1992年、1553(税別)
 
 昭和六年MGM映画大阪支社宣伝部に勤務していた著者に「洋行」の口がかかります。初めて日本語字幕をつけた「モロッコ」がヒットしたことでパラマウントは年間約50本の全作品に日本語字幕をつけることを決定し、ニューヨークに渡ってその仕事をしろ、と言うのです。著者は客船と大陸横断鉄道の旅に出ます(ついでながら、まだ禁酒法が生きていた時代です)。スーパー字幕職人第1号誕生の瞬間です。
 字幕の規格は1行13文字だったのが戦後は1行10文字かける2行になり、さらに漢字の制限も加わりました。世情も変化します。1974年に著者は「若い人が『輜重兵』を読めない」と嘆いていますが、これは漢字だけの問題ではなくて、軍隊が市民生活から遠く離れたことが大きいでしょう。ただ、漢字や用語の制限で「率爾ながら」が使えないのには著者に同情します。
 映画でしゃべっているセリフをそのまま日本語に移すと、大体文字数が増えます。それを愚直にそのまま字幕にしたら画面が字に覆われるか役者が次のセリフに移っても字幕はまだ前のセリフ、という格好のつかないことになってしまいます。だからしゃべる時間に合わせて2行でわかるように伝えなければなりません。ふつうの観客は20字読むのに5秒かかるそうです。それに合わせて字幕を作る必要があるのです。台本と画面にズレがある場合には画面が優先です。そこのところの難しさを著者は「字幕は翻訳ではない」と表現します。たしかにただの翻訳とは別の表現です。
 
 内容については興味深いものがあるのですが、正直言って著者は日本語があまり上手ではありません。同じ話題が何回も登場するのは、長期間にわたっていろいろな雑誌に掲載されたエッセーを一挙に収載した関係でしかたないのですが、冗長で繰り返しが多く、字幕の癖なのか漢字の使い方も妙なところがかなになっていて読んでいて心地よくリズムに乗れません。エッセーを読むというより興味深い資料を読み込む態度で私は読みました。
 
 
3日(火)持ち
 金持ちは金を持っています。では、気持ちは気を持っているのでしょうか。しかも「気持ち左を向いてください」と言われたら、感情ではなくて体を動かさなければいけません。一体どうなってるの?
 
【ただいま読書中】
孔雀の羽の目がみてる』蜂飼耳 著、 菊地信義 装幀・本文レイアウト、白水社、2004年(06年2刷)、1900円(税別)
 
 不思議な縁で連れて行ってもらった装幀家菊地信義さんのトークショウで知った本です。これまで本の装幀に関しては「快・不快」くらいの区別しか感じていませんでしたが、今回はまじまじと装幀を眺めてしまいした。私は時々「書棚の本に呼ばれる」経験をしますが、それはタイトルだけではなくて装幀にも「呼ぶ力」があったのか、とあらためて思います。本書を開くと、菊地さんの話の通り「額縁の中に文字が収まっている」ようなページの大きさと文字のレイアウトです。
 
 外側だけではなくて中身にも触れましょう。
 短いエッセーを集めたものですが、文章の切れがタダモノではありません。特に終わり方が。私はブログやmixi日記で、書き出しには苦労しないのですが、実は書き終わりにはよく苦労するのです(最初から最後まで駄文だから、今更気にしても仕方ないかもしれませんけれど、それでもちょっとは気を遣ってるんですよ)。う〜む、こんなに鮮やかに終わりたいものだ、あやかりたいあやかりたいと思います。思うだけでは何も変わりませんが。
 帯には「ささやかな日々の蜜を、蜂飼さんは言葉ですくって、耳で味わう。」とありますが、著者にかかると本当に日々の何気ない出来事が、違った角度から柔らかい光を当てられて思いもよらない輝きをまとったように見えます。漢字の使い方も一種独特なリズムをもたらしています。これは少なくとも2〜3篇続けて読んでもらわないとわからないかもしれませんが。ただ、(私が持つような)雑念抜きで黙って読むだけでもだんだん気持ちよくはなれます。
 結構感情が動いた場面が登場するのですが、淡々とした書きぶりで、なんだかしんと静かな風景画を見ているような気分にもなります。
 私が現在特に気に入っているのは「植えてみたいと思った」かな。ジャガイモの種芋を植えに行って苺の苗を持って帰る話です。なんでそんなことになったのかは、是非本書を。「乗る」も静かな言葉でどきりとすることが書いてあります。特に猫好きは(あるいは犬好きも)どきりとするかもしれません。
 
 ……と、機嫌良く読んでいたら、第2章は読書エッセー。あやややや。一瞬身構えて私はページをめくります。いや、素人がプロを相手に身構えても仕方ないんですけどね。内容は私の読書日記とはまったく別のスタイルなので、なんとなく安心します。ただ、短い文章と切れの良さは第1章の日常エッセーと変わりません。
 
 私にとって本書は、座右に置いて、日常的にぽつりぽつりと読む(読み返す)のに向いている本です。
 
 
5日(木)受動態と能動態
 ネットの書き込みなどでは、「いじめられた」はよく見かけますが「いじめてやった」はあまり見ません。「死ね、などの悪口雑言を書かれた」はよく見かけますが「書いた」はあまり見ません。
 どうしてこんなに量的にアンバランスなんでしょう? いじめるとか死ねと言う(書く)ことは「そんなに大したことではない」と思っている? あるいは人前では堂々と言えないこと? もしそうだったらどうして「人前で自慢できないこと」がこんなにこの世にはびこっているのでしょう?
 
【ただいま読書中】
フランケンシュタイン』山中恒 著、 メアリー・シェリー 原作、高橋常政 絵、講談社(痛快 世界の冒険文学)、1997年、1500円(税別)
 
 本書は二部構造になっています。メアリー・シェリーのフランケンシュタインは第2部で、第1部は山中さんのフランケンシュタインに関するオリジナルの物語です。
 
 怪我をしたことがきっかけで「フランケンシュタイン」と呼ばれて集団いじめにあっていたミツヒロは、たまたま催眠術にかかって、自分の前世が「フランケンシュタイン(厳密にはフランケンシュタインの怪物)」であることを知ります。フランケンシュタインの怪物(名無し)はフランケンシュタインに作られ、憎まれ、人間たちに嫌われ、迫害され、そしてついに人間への復讐を決意します。
 そこで話はぷつんと終わります。ミツヒロは図書館から「フランケンシュタイン」を借りてきて読み始めます。ということで第二部のはじまりはじまり。
 なかなか巧妙な導入です。これだと予習もできているし、読者が子どもなら「自分の問題」として本書を読むこともできます。
 
 メアリー・シェリーが書いたフランケンシュタインの物語は、北極海でその幕を開けます。氷原をそりで逃げる怪物。それを追うビクター・フランケンシュタイン。物語は北極探検旅行中の船長に対してビクター・フランケンシュタインが語る思い出の形で進行します。
 ジュネーブの名家に育ちインドルシュタットの大学で生命の根源について研究していたビクター・フランケンシュタインは、ついに生命の秘密を知ります。それを実証するために、解剖室や屠場、はては墓地から材料を集めたフランケンシュタインは、ついに「生命」を創造することに成功します。しかしフランケンシュタインの目の前に現れたのは怪物でした。ショックでフランケンシュタインは数ヶ月床につきます。
 その間に怪物は言葉と悲しみを覚え、「醜い」というだけで自分を迫害する人間に対する復讐を誓うようになっていました。
 怪物はフランケンシュタインに自分の連れ添いを作れ、と強要します。フランケンシュタインは途中までその仕事をしてからやめてしまいます。それが怪物にさらに絶望を与えることにも無頓着に。怪物はフランケンシュタインの妻を殺すことで復讐し、そして世界を股にかけた追跡行が始まります。(一見怪物が逃げているように見えますが、実はちらちらと姿を見せてフランケンシュタインを引きずり回すことで彼に絶望の旅を強いているのでしょう)
 
 しかし、フランケンシュタインの未熟さにはあきれます。自分がコントロールできない技術を嬉々として振り回し、それは危ないと忠告されたら根拠なくただただ感情的に反発するだけ。そしてその結果悲劇が生じたら錯乱してベッドに逃避します。こんな造物主が生命をもてあそんではいけません。
 そしてフランケンシュタインの怪物。私はこれを、人がよく願う「不老長寿」のメタファーかもしれないと思いました。怪物の体は特別製で、少々のことでは壊れないように作ってあるのですが、そういった肉体を人は願ったりしますよね。なんだか読んでいて、心の中が酸っぱくなってきました。
 
 初っぱなで鉄道への飛び込み自殺をした人の体がばらばらになるシーンが登場して、一体どうなることかと思いましたが、本書の仕掛けが最後に効いていて、読後の印象はわるいものではありません。結末がどんなものかは、内緒です。
 
 
6日(金)バイオ燃料
 食料を燃料にするとは、計算外だ。(マルサス)
 
【ただいま読書中】
世界の砂漠 ──その自然・文化・人間』堀信行・菊地俊夫 編著、 二宮書店、2007年、1500円(税別)
 
 地球は青と緑の惑星ですが、白と茶もけっこう広い面積を占めています。特に「茶」の砂漠は(極致を除く)陸地の1/3を占めています。さらにその中で「砂の砂漠(変な日本語ですね)」は20%。定義上、砂の有無は関係なく、乾燥して植生が少なければサバクなのです。ただ、日本人にとってサバクは(月とラクダの)砂漠なんですよね。ちなみに沙漠学会が採用している「沙漠」の「沙」の字は「水が少ない」と見えますが、漢和辞典をひけば「沙」は「砂」とほぼ同じ意味、と本書ではちゃんと紹介されています。漢字を見た目だけで判断してはいけません。
 砂漠は「からっぽの空間」ではありません。生態学的に様々なものがそんざいします。また砂漠ならではの文化も存在しています。アラビアの沙漠にはベドウィンが住み、タクラマカンにはかつてのシルクロードの歴史があります。
 オーストラリアの砂漠は、中央部が中緯度高圧帯におおわれて前線がほとんど到来しないために乾燥して形成されました。さらに過耕作と過放牧がそれに拍車をかけました。その砂漠に住むのはアポリジニーです。もともとアポリジニーは森林や海岸地帯にも広く住んでいましたが、そんな良い場所をヨーロッパ人に奪われたために「砂漠の民」になっています。
 サハラ砂漠では、砂漠で暖められた大気の下に海からの(水蒸気をたっぷり含んだ)風が潜り込むことができないために降雨が期待できません。本書ではギニア湾の海水温に注目していますが、別の本ではインド亜大陸の北上によってヒマラヤが高くなって風の流れが変わったことがサハラを生んだ、というのを読んだこともあります。実際に、1万年前から四・五千年前までにかけてはサハラは湿潤な環境で植物に覆われていました。動物や人が多く住んでいましたが、それが乾燥化するに従って移住を強いられ、その痕跡が現在の人種分布に見られるそうです。
 そうそう、南アメリカの砂漠、と言われて一瞬私はぽかんとしましたが、ナスカの地上絵を思い出して「あ、あったあった」とつぶやきました。ばらばらの知識を体系化するのはけっこう大変です。
 
 「砂漠」ときくと、ついつい緑化したくなるのが日本人の性のようです。でもことはそれほど単純ではありません。緑の原野を砂漠化させることはよろしくないでしょうが、現在の砂漠はそれ自体が存在することに意味があることも忘れてはいけません。巨大な乾燥地帯は地球規模で水や気温のバランスを保っています(もしすべての砂漠を緑化したら、地球には異常気象が起きるでしょう)。また、単純に地下水をくみ上げて砂漠に撒くだけだと、副作用(地下水の枯渇、塩分の析出など)が発生します。砂漠を「ただの空っぽの不毛の空間」と思いこんでそれを何かでいそいで満たそうとするのは、やめた方が良さそうです。
 
 
7日(土)性善説
 もし人の本性が本当に善なら、すべてのスポーツ競技に審判は不必要です。すべてのメンバーが反則を犯さずあるいは反則を犯したら即座に自己申告をするのですから。
 
【ただいま読書中】
空からおちてきた男』ジェラルディン・マコックラン 著、 金原瑞人 訳、 佐竹美保 絵、2007年、偕成社、1200円(税別)
 
 飛行機事故で奇跡的に助かった写真家のフラッシュは、かろうじてインスタント写真機一台だけを飛行機から持ち出すことができました。残されたフィルムは10枚。
 彼を救った村人は、言葉は通じるものの、写真など見たことがない人たちでした。フラッシュは魔術師扱いです。一枚また一枚、フラッシュは村の中で写真を撮っていきます。最初は自分を救ってくれた二人の子ども。次は村の財産であるたった一頭の牛。村一番の美女。村の勇士たち。フラッシュは「smile!」と声をかけながらシャッターを切り、出てきた写真を魔術よろしく村人の前で振ってそこに画像を浮かび上がらせます。
 満月に照らされた瀕死の少女の写真を撮るようにフラッシュは求められます。「笑って」のかけ声で死ぬ前に残した彼女のほほえみは、村にこれまでなかったものをもたらしました。それまで生者の国に死者のほほえみが残ったことはなかったのです。記憶は薄れ記憶を持った人が死ねば、あとには何も残らないのがそれまでのふつうでした。ところがフラッシュの写真によって、死者のほほえみが誰にも見える形で保存されることになったのです。果実の収穫のお祭りの時の写真で、たとえ将来飢饉が来たとしても、かつて村ではこんなに豊かな実りがあった、と具体的にわかるようになったのとはまた別の意味で、写真がこの村にもたらしたもの(文化的な衝撃)はとてつもなく大きなものでした。
 風化によって消えようとしているご先祖様の壁画を保存してくれ、とフラッシュは頼まれます。とてもインスタント写真でできるような仕事ではありませんが、それでもフラッシュは最善を尽くします。もっとも良い光が当たるように一日じっくりプロの目で観察をするのですが、村人は魔術師がご先祖様に敬意をはらっている、と囁きます。
 あるいは「撮られなかった写真」もあります。長老は言います。自分が写真に撮られたら、自分はいつまでも今の年老いた姿で残されてしまう。だが自分にはかつて若いときがあった。それは写真には写らない。フラッシュの飛行機はどんな風に思い出してもらいたいと思っているか? 焦げた鉄の塊か、空を飛ぶ鳥か。
 フラッシュは奇跡的に救助隊と巡り会います。しかし救助隊はフラッシュのことばを頭から否定します。峡谷? 巨大な木? 村? そんなものはありません。ここにあるのは砂漠と地雷だけ。村人と話をした? イギリス英語で? まさか!
 不思議な寓話です。「Smile!」で始まり、そして「Smile!」で本は終わります。でも、フラッシュと読者の心では、物語はまだまだ続いていくことでしょう。
 でも、時々つぶやきましょう。「Smile!」と。
 
 
8日(日)硬直化
 財政の硬直化とは、人件費などの固定費が増えてしまって、なにか新しいことをしようとしてもそれが困難になってしまった状態のことです。
 ところで私は、時間の硬直化が進んでいます。ルーチンワークで「○○をしなければならない」時間が少しずつ増えてきて、自分の裁量で使える時間がどんどん削られていく。これは結局自分の人生の硬直化につながるのです。
 そういえば最近はmixiでも「えっと、まずこれをして、それからこれを見て、ここも覗いて……」と「しなければならない」ことが少しずつ増えてきたような気がします。これは良いことなのか悪いことなのか……
 
【ただいま読書中】
メタボリックシンドロームと生活習慣病 ──内蔵肥満とインスリン抵抗性』編集:島本和明、診断と治療社、2007年、5500円(税別)
 
 「メタボ」は単に「デブは悪い」ではありません。将来脳卒中や心筋梗塞になる可能性が高い状態のことです。その本体は「インスリン抵抗性(インスリンが効きにくくなること)」ですが、それを一番明らかに示しているのが「上腹部の肥満」です。厳密には、皮下脂肪ではなくて内臓に脂肪がつくタイプの肥満です。
 内臓脂肪は皮下脂肪組織よりも活動的で、門脈に遊離脂肪酸を大量に流し込みます。それは肝臓に流れてそこで中性脂肪を合成したり、筋肉で脂肪が酸化されたりで、結果として糖の代謝にも影響が出ます。インスリンが効きにくくなるのです。
 
 インスリンは、膵臓から分泌される、血糖を下げるホルモンです。こいつの分泌が悪くなる、あるいは効きが悪くなると糖尿病になります。しかし、インスリンの効きを悪くすることは、原始時代には生存に有利でした。貴重なエネルギーを無駄にせずにすむからです。人体に血糖を上げるホルモンはいくつもありますが、下げるホルモンはインスリンだけです。いつ手にはいるかわからない貴重な食料をやっと食べたのにさっさと血糖を下げてしまったらもったいないのです。このバランスで人類は生存競争を勝ち抜いてきました。ただ、そのシステムが飽食の時代には人間の健康に害となっています。人体は過剰なカロリー(と運動不足)には適応できていないのです。
 インスリンには、他の働きもあります。たとえば腎臓の尿細管に働いてナトリウムを貯留します。ナトリウムはつまりは塩分ですから、水を呼びます。その結果血圧が上昇します。また、交感神経を刺激します。動脈が収縮し心臓ががんがん働いて血圧が上昇します。腎臓から分泌される血圧を上昇させるホルモンのシステム(レニン-アンジオテンシン系)もインスリンは活性化させます。これまた血圧が上昇しますが、レニン-アンジオテンシン系自体がこんどはインスリンを増加させます。
 その結果が、動脈硬化。そしてその末路が心筋梗塞や脳卒中です。
 
 「メタボ」を単に「デブ」の代名詞に使って笑っているTVの態度は、そのことばを普及するのには役に立ちますが、その本質を矮小化することでみごとに隠してしまう点では罪があるように私は感じます。
 
 
9日(月)インタビュー
 インタビューは、interとviewから成ります。International、Intercourseなどと同じ成り立ちのことばに私には見えます。
 interは「間」または「関係」です。Internationalはnationalとnationalの「間」「関係」だからこそ「国際的」なのだし、intercourseは異なる人間間でのゴニョゴニョになるわけです。ではinterviewは……「view」は「視点」と私はとらえます。異なる視点と異なる視点の間、あるいは、その関係こそがinterviewである、と。
 ということは、へたくそなマスコミがよくやっている、自分の論点をきちんと提示せずに一方的に相手に質問をぶつけ続ける行為は、インタビューではありません。あるいは、相手の意見なんかお構いなしに、自分の主張だけをぶつけ続けているのも、“演説”ではありますがインタビューではありません。インタビューは、インタビューする側の人間の「知」と「礼」を試す場なのです。
 
【ただいま読書中】
』フランツ・カフカ 著、 池内紀 訳、 白水ブックス、2006年、1400円(税別)
 
 「伯爵」が支配する村に深夜到着したK。ボロ腹をまとい荷物は小さなリュック一つ。怪しむ村人に「自分は測量士で伯爵に雇われた」と告げます。伯爵が住む城は村のすぐ向こうに見えます。ところが城に通じているはずの道を行けども行けどもKは城に着けません。そして彼が待っていた助手は城の方角からやってきます。言いつけていた道具は何も持たず測量のやり方も知らない助手が。ついで城の高官クラムから「雇用する」との手紙が届きます。ところがクラムとは直接話せません。まるでその腹いせのように、Kはクラムの(元)愛人フリーダを手に入れます。
 本書で行われる会話は常にかみ合いません。お互いの前提が違いすぎる様子ですが、それをすりあわせることは誰も望んでいないかのようです。Kが何かを望むと、必ず事態はその逆の方向に進みます。それを簡単にまとめると、お役所仕事の不条理さ、村の生活の不条理さ、権力のあいまいさ、男女の間の不思議さ、などとなるでしょうが、実はそれらを追究(?)するK自身もしっかり怪しいのです。そもそも彼は自称するとおりの測量士なのでしょうか。測量の仕事なんか一切しないのですが。
 村長は、Kを雇用したのは事務的な間違いだと言いますが、それでも学校の小使の職を提供します。住まいは学校の教室。雪が降っているのに暖房は無し。それでも、馬鹿騒ぎばかりする二人の助手と、なぜか献身的なフリーダとともに旅館から学校に移ります。一晩で教師からクビを言い渡されますが、Kは拒否。それどころか、自分とフリーダにまとわりついて邪魔ばかりする助手をクビにして、事を荒立てます。
 
 本書は小説ではなくて戯曲の形式の方が良かったのではないか、と私には思えます。舞台は限局され、主人公が変身するわけでもなく、ことばですべては進行していくのですから。使いも助手も城からやって来ますが、Kは城へは到達できません。そこはKが存在する「舞台」の外側の世界なのです。小説は未完ですが、戯曲だったらKが舞台の外に歩み去り観客の前に空っぽの空間を残すことで、一応の決着はつけられそうです。
 あらら、連想が止まりません。「城」はエッシャーや安野光雅のだまし絵のようなものかもしれない、と思いつきました。いくら進んでも結局同じ地点に戻ってくる絵があります。そこでむなしくぐるぐる回っている人がいますが、その人はそもそもどこから“そこ”に入ったのでしょう? この『城』もそんなだまし絵を小説化したものかもしれません。
 まあ、とにかくいろいろ楽しめます。こんなに解釈の余地がたっぷりある小説を書いてくれたカフカに、感謝。
 
 
10日(火)男女差別
 男女差別をする男がいるおかげで「だから男は」とまとめて言われることがあるのですが、ちょっと待って。男女差別は“原因”ではなくて“結果”ですよね。もしも男女差別が“原因”なら、男は全員女を差別しているはずです。そうではなくて「差別をしたい」という衝動やら構造やらがある種の男「その人」の中にあって、それが「女」という対象に向かって吹き出した結果が「男女差別」ではないですか?
 もしそうなら、その衝動や構造は、実はある種の女性の中にもあって、ただ本人が女性だから(男がやっているのと同じ)「男女差別」ができないだけではないでしょうか。その場合にその人は、別の理由をつけてある種の隠蔽された女性差別をやっているか、あるいはまったく別の差別をやっているんじゃないかなあ。
 
【ただいま読書中】
一問一答 3秒でわかるコンプライアンス』臼井一廣・儀間礼嗣 監修、コンプライアンス研究会 著、 中経出版、2008年、1000円(税別)
 
 会社でやっている「ふつうの行為」、それが実は違法行為かもしれない、ということで、様々な状況を70のイエスノークイズにしてあります。問題文を読んで瞬間的に判断する、まではたしかに3〜5秒くらいでできますが、その回答を読んで理解するのは、さすがに3秒では無理です。それでも楽しくビジネスに関する法律についていろいろ知ることができます。
 
 面白かったり意外な結果のクイズがいろいろあります。たとえば……
 「年俸をどんと1年に1回まとめてもらうことは可能か」。これは労働基準法に決まりがちゃんとあります。
 「セールスの成績が2ヶ月連続ビリ。上司に『来月もビリなら、クビ』と言われたが……」では、意外なことに会社は「成績が悪い社員をクビにする(普通解雇)」ことができます(根拠は、労働基準法と就業規則)。ただ、解雇権の濫用にならないためのシバリがあって……
 会社の違法行為を知ったけれど「ボクはヒラだもんね」と通報しなかったら処罰されるか、されないか。(処罰されません)
 売れ残ったチョコの賞味期限シールを上司が「消費期限内だから張り替えろ」と命じた。さてこれは犯罪か。(科学的根拠がある期限なら、違法行為ではありません)
 会社での窃盗と業務上横領の違いも、ちゃんと決められているんですね(ことばが違うんだから内容も違うとは思っていましたが)。
 ガソリンスタンドが近所のライバルに勝つために原価を割って販売をしたら……これは不当廉売です。独占禁止法違反ですが、さて、その処分は? 読んでいて「ふうん」です。
 
 帰りのタクシーの中で運転手にビールをおごられた、これは違法か、という問題はありませんでした。
 
 
11日(水)不定点カメラ
 何年前だったか、ネットの普及期に固定カメラでずっと定点観測を続ける、というのがけっこうあちこちで宣伝されていたことがあります。今でも地味にやってるようですし、独身の女性の部屋の定点カメラ、なんて商売もちゃんと成立しているのは面白いことです。
 私が欲しいのは、定点ではなくて移動するウェブカメラです。月の周りを周回している「かぐや」や地球の周りの「きぼう」のカメラ画像をリアルタイムで流してくれないものかなあ。NASA TV でスペースシャトルからの映像は見られますが、これは画面が小さいのが不満です。できたらフルスクリーンでパソコンの壁紙の代わりにできたら、いつでも望むときにすべてのウインドウを閉じればずっと月面や地球や宇宙をリアルタイムで見つめることができるのですが。
 
【ただいま読書中】
液状化現象 ──巨大地震を読み解くキーワード』國生剛治 著、 山海堂、2005年、2000円(税別)
 
 1964年(昭和39年)新潟地震は強烈な印象を私に残しています。横倒しとなった鉄筋コンクリートの県営アパート、燃える石油タンク、地割れから吹き出した泥水によって辺り一面が泥濘となった様子。新聞写真もTVも白黒だったので私の記憶も白黒ですが、それは今でも色あせていません。「液状化現象」ということばもそのときに聞いたのだと思います。
 日本では安政江戸地震の時に「地割れから泥水が噴き出した」という記録があるそうです。紀元前373年、古代ギリシアの都市へリスは、大地震で地盤沈下と同時に土地全体が海に向かって半マイルも滑って行って都市は住民ごと消滅しましたが、これは海底が液状化して地滑りを起こしたもののようです(最近ではトルコのコジャエリ地震(1999)で海岸の住宅地が海底地滑りでごっそり海中に流されています)。
 震源からの地震波は、遠くの地表に近づくにつれてP波もS波も進行方向を鉛直上向きに変えていきます。これはスネルの法則(波の伝播速度が速い部分から遅い部分に斜めに波が進むと、入射角より屈折角が小さくなる方向に屈折する)によります。海の波が海岸に近づくにつれて(水深が浅い方が波の伝播速度が遅くなるから)少しずつ屈折して最終的には波頭が海岸とほぼ並行になって波自体は岸に向かってまっすぐになる現象を本書ではわかりやすい例として挙げています。固い地層よりも柔らかい地層の方が地震波は遅くなるため、地震波は(表面波(一度地上に出たP波やS波がそのまま横に広がっていくもの。主要動のあとのふわふわしたゆれ)以外は)ほぼ真下からやって来るのです。
 そのとき地盤が水で飽和した砂地だったらどうなるでしょう。砂粒は強く揺すられることでその結合が一時的にばらけ、砂地ではなくて泥水になります。重いもの(砂)は沈み軽いもの(水など)は浮きます。水は地盤の弱いところを通って地表に吹き出(重たいもの(たとえばビル)が上に乗っかっていると圧力が高まるため、噴水のように数メートルの高さに達することもあるそうです)、地盤は沈下します。
 噴き出すのは水だけではありません。もちろん泥水や砂もありますが、兵庫県南部地震でのポートアイランドの南防波堤では、人の頭くらいの石がまるで散弾銃のように多数噴き出してコンクリート製のU字溝を破壊しています(写真の説明が「暴力的噴砂」となっています)。こうなると「液状化」とか「噴砂」ということばを見直したくなります。
 
 この噴砂のあとが遺跡に見つかることがあって、地震考古学が我が国から始まったそうです。これによって、過去の地震の発生時期の特定や、その遺跡への地震の影響などがわかるようになりましたが、地震がほとんどないところと考えられていた地域(たとえばアメリカ中部〜東部)でも過去に大地震があったことがわかってきたりしているそうです。このへんは読みやすいのですが、物理学の話(たとえば「ダイレイタンシー」なんてことば)が出てきたら、私は逃げ腰になります。
 
 地盤沈下もですが、液状化で怖いのは地滑りです。新潟地震では、信濃川縁の明訓高校の敷地が最大7メートル川に向かって滑りました。校舎が渡り廊下のところで分断された写真が載っていますが、ぞっとします。アメリカではサンフェルナンド地震(1971年)でダムが滑っています。
 
 では「我が家」「近所」は大丈夫なのか、が気になります。家だったら、標準貫入試験やスウェーデン式貫入試験などが敷地の地盤調査で行われます。私も家を建てようといろいろ回っていたときに、業者からそういったことばは聞きましたっけ。きれいに忘れていました。
 ただ、土を採取するとき乱暴に採ったのでは地下の状態を再現できません。一番良いのは、液体窒素を注入して凍結させてからの採取だそうです。実験室で解凍して地震の時の力を加えるのだそうですが……これは大変ですね。
 本書で紹介されているドイツの免震構造も興味深いものです。容器の中に粒と液体を封入して建物の下に設置し、人工的に液状化を起させてそれによって建物の揺れ(加速度)を小さくしよう、というものです。面白い発想です。ただ、何回有効なんだろう? もしかしたら天然の液状化現象も、うまく起きてくれたら免震として機能してくれるかもしれません。なかなか、自然は複雑です。
 
 
12日(木)ランキング
 本の売れ方が変わってきているそうです。なんでもランキングにタイトルが載ったらどっと売れる。載らなかったら売れない。顧客の動向が「ランキング重視」のスタイルになっているそうな。特に年に数冊しか本を買わない層にその傾向が顕著だそうです。たまにしか買わないから“ハズレ”をつかみたくない、ということなのでしょう。結局自分の好みで自分が読む本を選択してばんばん購入する「本好き」が減っている、と言うことなのでしょう。それでも本を買わないよりは買って読む方が(私の価値観では)マシであるとは思えますが。
 そういえばレコードショップ(って、今でも言うのかな?)でもランキングが大々的に張り出してあるのを見た覚えがあります。もしかしたら音楽の分野でも、最近のヒット曲はそんな顧客のランキング重視の動きの中で生まれているのかもしれません。
 
 ただやっぱり天の邪鬼の私としては、不満ですけどね。自分が何を買うかをランキングに決めてもらうのではなくて、自分の価値観で決めろよ、と言いたくなるのです。
 
 あ、でもニュースもある意味「ランキング」なのかも。最初から選別されて「これがトップニュース」と決められて配信されて、こちらはそのランキング通りに拝見するのですから。
 
【ただいま読書中】
アマゾンの秘密』松本晃一 著、 ダイヤモンド社、2005年、1500円(税別)
 
 アマゾンのジャングルに潜む様々な秘密……ではなくて、アマゾン・ジャパンの立ち上げに外部スタッフとして参加した人の手記です。
 
 アマゾン・ドット・コムはアメリカではまず書籍のネット販売で成功し他の商品の販売をどんどん手がけて拡大していきました。ところが20世紀末の日本では、書籍は再販制度に守られネット販売も楽天などがやっと立ち上がってきた時期でした。当初アマゾン・ジャパンのCEO長谷川は、日本ではまだネットでものを買うことが一般的ではないことや独特の商習慣などから、段階的な立ち上げを考えます。しかしアマゾンの創始者ジェフ・ペゾスは、最初は書籍・サイト構築はすべて自前で・期限は1年以内、と言い切ります。2000年1月に著者たちは走り始めます。日本での“抵抗”と米国での株価への影響を考えて、秘密裡の活動でした。
 
 アマゾンは“異文化”でした。たとえばアマゾンのカスタマーサービスには対応マニュアルが存在しないことに著者は驚きます。優秀な人材が集まっていたせいもありますが、個人の能力による個別対応だったのです。インターネットビジネスとは言ってもきわめて人間くさい部分がアマゾンにはあったのでした。
 著者の担当はマーケティング部門でした。市場開拓と同時に出版社を回った著者はまたまた驚きます。新しい商法に対して“抵抗”をするかと思っていた日本の出版社の多くの人が、アマゾンを歓迎したのです。それだけ業界の内部矛盾が大きかったのだろう、と著者は述べます。具体的に、何があったんでしょうねえ?
 カスタマーレビュー(とレビューそのものに対する評価)はアマゾンでは大切なものですが、その大切さを実証するためにアマゾンがやったのは、実証テストです。そのレポートを読んだ著者は驚きます(驚いてばかりですね)。ある時期、アクセスしてきたユーザーの半数にはカスタマーレビューあり、半数には無しのサイトを見せて、ユーザー行動がどう変わるかを分析したところ、カスタマーレビューありの方が本がたくさん売れた、以上よりカスタマーレビューはそれだけで1万円相当の価値がある、という分析だったのです。いやあ、わかりやすい。著者は日本でもカスタマーレビューを集めるためにキャンペーンを考えます。そこでトラブルが続出。システムや人だけではなくて、公正取引委員会まで相手です。新しいシステムの立ち上げは、結局トラブルの芽をどのくらい早く見つけて潰すか、なのですね。
 巨大なプログラムの塊であるアマゾンジャパンのサイトはローンチ(立ち上げ)に成功します。しかし次の心配は本が売れるかどうか。カスタマーレビューが集まるかどうか。商売は大変です。
 著者はプログラムマネジャーになり、様々なプロジェクトの立ち上げにかかわります。次のターゲットは電子商取引。アマゾンからの在庫の問い合わせ・出版社からの返事・発注・請求書の発送、それらをアマゾンと各出版社のコンピュータとの間で24時間態勢で行い続けるEDIと呼ばれるシステムです。問題はコストでした。アマゾンが採用しているX12というEDIに対応するために各出版社がシステム開発をするためには数千万円の開発費用がかかると言われていました。著者はX12の縮小版(最小限度の機能だけ持つ)を、エクセルのVBAで開発することにします。自宅のパソコンで、正月休みを利用して。プログラム開発は成功しますが、本社はその採用を拒みます。それもあってか著者はアマゾンを退社しますが、アマゾンの“文化”(それも初期のもの)については憧憬ともいえる書き方をしています。アメリカではアマゾンは巨額の赤字を抱えながらの拡大路線で“成功”しました。日本ではすぐに黒字になり、その点では成功でしたがeコマースと言う点で成功したのか著者は疑問を持っているようです。きっと、もっと良い姿になれたはず、という理想の形が著者の中にあるのでしょう。
 
 私もほとんど毎日アマゾンにはアクセスしています。たしかにその徹底した顧客中心主義には感心します。またサイト閲覧の軽さも、当初はダイアルアップでちゃんと見られることが基本方針だったと聞くと納得です。クセがあるからそこが鼻につくことはありますが、クセがあるからこそ成功できるのでしょうね。
 
 
13日(金)問責決議案
 ねじれ国会では、問責決議案とか信任決議とか、人間が集まってお互いの“顔”を潰すか立てるか、の儀式をやっています。そんなことにかまけていられるくらい、国会議員はお暇なんですねえ。
 
 そういえば、現在の「後期高齢者医療制度」を非難する人は多いですが、それが福田さんの“責任”ではなくて、コイズミ改革の結果であることを都合良く忘れている人が多いのではないでしょうか。「三方一両損の改革」なんて耳に聞こえの良いことばに熱狂して「ブーム」を作っていた人たちが、今は後期高齢者医療制度(もろにコイズミ改革の“成果”)などを支持せずに盛大に文句を言っているのだとしたら、それは私にはとても不思議な態度に思えます。文句を言うのなら、まずはコイズミ改革を支持していたことをきちんと思い出して反省しなきゃ。
 
【ただいま読書中】
吸血鬼幻想』種村李弘 著、 河出書房新社(河出文庫)、1983年(88年8刷)、480円
 
 吸血鬼と言ってまず私が思い出すのは、ドラキュラ・ヴァンパイア・カーミラですが、紀元前から世界中にその伝説はあります。著者は、ギリシア神話・千夜一夜物語・ヘロドートスの『歴史』などから例を引いてきます。
 まずはギリシア神話のラミア。ゼウスの愛人だったのが呪いによって狂気に陥り、夜な夜な幼子をさらっては血を吸い肉を啜りました(鬼子母神を思い出しますね)。墓の中で自分の体や服を食べる死餓鬼も登場します。これは外は出歩きませんが、中世には「さまよえる死者」の話(夜道で出会った人が死んでしまう)が人々を震え上がらせました。ただ、中にはそれほど“有害”ではなくて、通行人に突然おんぶしたり首を絞めるものもいたそうです。中世の魔女伝説でも、魔女の集会で幼児がむさぼり食われるシーンが登場します。
 18世紀の欧州では「吸血鬼論争」が白熱しました。聖職者も科学者も知識人も政治家も、様々な人が吸血鬼についてまじめに論争しました。18世紀に急に「吸血鬼」が増えたわけではなくて、各地の情報が広く集められるようになり、「こんなにあちこちに吸血鬼(伝説)が存在したのか」と皆が気づいた時代だったのです。啓蒙主義もそこに影響を与えます。面白いのは、普段対立していたキリスト教と科学が、魔術に対しては共同戦線を張ったことです。しかし魔術は、実はキリスト教にとっては“必要悪”(攻撃の対象。攻撃することで自分たちの地盤を固められる)でした。それを(科学の力を借りることで)否定することは結局キリスト教を弱め科学に“漁夫の利”を与えることになりました。
 そう、「吸血鬼」はキリスト教の影響で今の形になったものだったのです。たとえば吸血行為は神に犠牲の血を捧げる行為の裏返しでしょう。棺桶に眠り不死であることは、キリストの復活の奇怪な裏返しです。
 黒死病も吸血鬼に関係しています。黒死病に対する恐怖がそのまま吸血鬼に対する恐怖に置き換わった例があるのです。吸血鬼は黒死病のアナロジーだった、というわけでしょう。
 吸血鬼は複雑な存在です。血(生)と死、エロチシズムと恐怖が混淆しています。それは、世界のどこでも人類が死者に対して追慕と恐怖という相反する感情を同時に持つことと関係しているだろう、と著者は述べます(おまけのように、18世紀に苦痛と愛、生と死に注目した人としてサド侯爵が紹介されます)。さらにこういったエロチックな吸血鬼は、キリスト教文化圏に特有の存在です。
19世紀に吸血鬼は「実」から「虚」に住処を移します。1816年バイロンの別荘で行われた集まりから、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』とポリドリ博士の『ドラキュラ』が生まれました。どちらも大ヒットし現代に至っています。
 19世紀の殺人は、暴力や強奪といった“貧乏人の犯罪”や、家庭内での毒殺や激情によるものがメインでした。それが20世紀には、セックス殺人やサディスティックな殺人が増えます。まるで、吸血鬼の牙の代わりに手にナイフを持った人が増えたかのように。
 実は「吸血鬼」は“実在”するのですよ。私たちに混じって、あるいは、私たちの心の中に。
 
 
14日(土)凶器
 秋葉原通り魔事件でダガーナイフの規制が問題となっています。私は「護身用」としても刃物は持ち歩かないからどちらでもかまいませんが、ダガーがなければサバイバルナイフあるいは刺身包丁と狂気が凶器を探したらいくらでも代替手段が見つかるんじゃないかしら。ダガーを規制したら一件落着、ではないですよね。
 もう一つ。今回は2トントラックも人を殺すための「凶器」として用いられました。ダガーを規制するのならついでに2トントラックのレンタルも規制します?
 
【ただいま読書中】
針の眼』ケン・フォレット 著、 戸田裕之 訳、 新潮社(新潮文庫)、1996年、705円(税別)
 
 戦時下のロンドンに潜入したドイツ軍スパイのフェイバー、コードネームは「針」。スパイ狩りをするイギリス陸軍情報部ゴドリマン。そして三角形の残りの一辺を形作る、デイヴィッドとルーシイ。素っ気ないと言えるくらい簡潔で、しかしそれぞれの人物像が明瞭に読者の前に描かれる人物紹介の後、ストーリーは動き始めます。ジェットコースターのように派手なストーリー展開ではありませんが、回り始めた運命の輪を止めることはできません。
 連合軍はイタリア半島を少しずつ北上し、フランスへの上陸が近いこともわかっていました。問題は、いつ、どこへ、です。「針」はヒトラーの信頼を受け、連合軍の欺瞞に関する貴重な情報を得ます。しかしそれを届けようとするも、Uボートとの出会いは嵐に妨害され、「針」はストーム・アイランドに漂着します。そこには、結婚した日の交通事故で両足を失って絶望の中に一人住むデイヴィッドと、ただひたすら愛を求めるルーシイ夫婦が住んでいました。
 
 凡庸なスパイ小説だったら、張り巡らされた陰謀や逃げるスパイを巡る追跡劇がにぎにぎしく書き連ねられることでしょう。しかし本書には、ひと味違ったテーマが示されています。
 「孤独は人をねじ曲げる」
 本書には孤独な人々が次々登場します。敵地でスパイをやっている「針」はもちろん孤独ですが、彼は実は本国に帰っても孤独です。「針」を追う学者のゴドリマンと警官ブロッグズも孤独です。彼らはともに妻を失い、その悲しみを戦争で誤魔化しながら生きています。普通だったらその誤魔化しに本人は気づかないものですが、困ったことに両者はお互いの姿を見ることでそれに気がついてしまっています。そしてデイヴィッドとルーシイも。
 長い道のりの果て、ストーム・アイランドでの「孤独」と「孤独」の出会い。それによって物語は急転します。そして最後にすべての「孤独」が一つの島に集うとき……
 しかし、島の生活を始めるときに発電機を交流にするか直流にするかの話が登場しますが、それが最後に効いてくるとは、まあ、息の長い伏線ですこと。
 
 「Dデイの秘密」そのものを狂言回しに、こんな面白い冒険小説に仕立てるとは、著者はタダモノではありません。
 
 ただし瑕疵もあります。たとえば、潜水しているUボートが、ディーゼルエンジンで動いていてはいけないでしょう。シュノーケルで空気を取り入れているのかと思いましたが、激しい嵐で潜望鏡深度よりも深いところに位置しているのですから、やっぱりこの場面では電気モーターでしょうね。それとか、あの猜疑心の塊のヒトラーが一人のスパイをそこまで信頼しますかねえ。ま、小さいことですけど。
 
 
15日(日)こんな広告、あり?
 本日の新聞広告の一つ。「関空 = シドニー/ブリスベン ¥50,000〜 」「関空 = ケアンズ ¥40,000〜 」と目立つように書いてあります。「安いなあ。でも、たしかに往復とは書いてあるけれど……きっと『〜』が問題で、特定日以外はもっともっと高いんだろうね」などと思っていると、その下にとってもとっても小さな字でしかも色を背景に紛れやすいようにして「空港施設使用料、現地空港税、燃油特別付加運賃が別途必要となります」と。で、よく読むと、どの便を選んでも3万円以上の追加が「別途必要」です。5万や4万で安いと思わせて、その気にさせておいてから「じゃあ、3万追加ね」は、ないんじゃない?
 オーストラリアに行く予定があったわけではありませんが、もしそうだったら、がっかりだよぉ。
 
【ただいま読書中】
身ぶりとしぐさの人類学 ──身体がしめす社会の記憶』野村雅一 著、 中央公論社(中公新書1311)、1996年、680円(税別)
 
 女性の立ち小便から本書は始まります。日本のことです。それも昭和30年代。でも『3丁目の夕日』には出てこないでしょうね。そういえば、本多勝一のルポ(ベトナム戦争を扱ったもののどれかだったと記憶しています)に「その国の女性が立ち小便をする」と驚いた筆致で書いてありましたが、実は日本でも(尿を樽に貯めて利用する文化を持つ地域では)近年まで女性も立ち小便をするのが普通だったようです。ついでですが、東京オリンピックの時に、国立競技場に「女性競技者用の立ち小便トイレ」があった、というのはけっこう有名な話ですよね。
http://allabout.co.jp/house/toilet/closeup/CU20071217A/index2.htm
 西洋人は、歩くときに踵から足を出し親指の付け根に重心をかけます(だから足音が立ちにくい)。日本人は指先で地面をつかむように歩きます(だから、スリッパなどでぱたぱたぞろぞろ音がする)。歩き方が違うのに西洋人と同じ履き物で、良いんですかねえ?
 日本でもそうですが、西洋でも階級や職業で歩き方が違います。上流階級の特徴は、背を伸ばし肩を張り腕を振ること。それは訓練によって身につけるものでした。日本の特徴は「ナンバ」(右足と右手、左足と左手が同時に出る)ですが、実は世界各地に同じ動作が見られて、日本独特とは言えないようです。
 日本では、学校では「正しい姿勢」を教わるのに、社会に出たら「腰が低い」(やや猫背で小腰をかがめる)方が望ましいとされます。このギャップは何でしょう? そういえば「相手の目を見て話なさい」と教えるくせに「ガンをつけたな」といちゃもんをつけられるのも日本です。どうすりゃ良いの?
 対人距離に関しても各文化で大きな差があります。日本では肉体接触は少ないのですが、アラブでは男同士で手をつなぐし、ロシアでは男同士でもキスをします。他人のプライベート空間(この距離も各文化で大きな差がありますが)を犯す場合の挨拶もさまざま。日本だったら手刀を切るようなしぐさとか目礼・軽い会釈、のところが、西洋ではたとえば帽子を活用していたそうです。たとえば、ちょっと持ち上げて戻すのが、不本意ながら他人の領域を侵す時の礼儀だったそうな。その際重要なのは、微笑まないこと。微笑んだら「不本意」とか「他人」の領域ではなくなってしまうのです。なかなか面倒です。
 日本では、肉体接触の少なさが「他人との接触」のコード化がなされないことで他人との接触に対する無関心化を呼び、雑踏の中でぶつかっても挨拶もせずドアを通り抜けても背後に気配りをしない文化を形成したのではないか、と著者は述べています。
 握手に関しても、日本人から見たら複雑な決まりがあることが書かれています。たとえば握手の性差ひとつとっても、私には一読では覚えきれません。しかし、本書にはアメリカ人が日本人の握手の下手さを非難している文章が載っていますが、それを言うのなら日本人もアメリカ人のお辞儀の下手さを非難して良いのかなあ。どちらも「慣れ」と「文化」の問題だと思うのですが。そういえば最近は頭を下げながら握手するという面白い光景がけっこうあちこちで見られますが、こんな折衷式がこれから世界標準になるのでしょうか。
 笑顔も、感情の表出であると同時に社会的な意味を持つ「演技」であることが述べられます。その話の途中で、日本語には対話的ではない挨拶(相手に答えを求めない。「いらっしゃいませ」「いただきます」など)がけっこうあることも指摘されます。
 Vサインについて、私が聞いているイギリス長弓兵の話ではなくて、中世からのカソリック司教が信徒に祝福を与えるときのVサイン(親指と人差し指)が取り上げられています。さらにそれにはキリスト教以前から意味があることも。なかなか歴史は一筋縄ではいきません。
 
 人はことばで話すだけではなくて、表情や手や身ぶりや姿勢でも話しています。それらはほとんどが多義的で、同じ国や民族でも性や身分や階級によって違いがあり、TPOにも影響されます。こんな複雑なものを駆使して生きているのですから、人間って凄い能力を持っている存在なんですねえ。
 
 
16日(月)掃除
 ゴミは移動させて目の前に存在しないようにする/大きな汚れはゴミに変化させる/小さな汚れは拡散・均質化させて周囲と区別しにくくする、作業のこと。
 
【ただいま読書中】
変身』フランツ・カフカ 著、 山下肇 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1958年、定価(★)
 
 「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベッドのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた。」というあまりに有名なフレーズで始まる小説です。
 しかし、改めて読んで思うのですが、これはユーモア小説ですね。寝ているうちに巨大な毒虫になったグレゴールは「なぜ?」なんて自問しません。悩みもしません。まず思うのは、セールスの商売で本来乗らなければならない汽車を寝過ごしてしまったのを、どうするか、です。彼を放っておくとそのまま駅に行きそうです。ところがベッドから出ることも容易ではありません。巨大なゴキブリ(ただし背中は人が軽く投げたリンゴがめり込むくらいに柔らかい)に細い足をいっぱいくっつけて仰向けにひっくり返した、といった姿なのですから、体は曲がりませんし足の制御も思うようになりません。しかし本人は、何とか起きて服を着て朝飯を食って商売に出かける(あるいは社長にうまく寝坊のわけを言い訳する)気満々です。悲劇的な状況での自問・自省・煩悶の欠如です。
 会社から無断欠勤のグレゴールを叱責に来た支配人は、なぜかパニックになって逃げ出し、家族はグレゴールを部屋に追い返します。まるで彼が……あ、そうか、彼は巨大な毒虫そのものでした。
 彼の悲劇は毒虫になったことだけではありません。彼は人間のことばを理解できます。しかし人間は彼のことばを理解できないのです。コミュニケーションの一方的な欠如(グレゴールの立場から見たら、周囲からの一方的な拒絶)です。これは毒虫でなくても知性を持ったものには辛い経験でしょう。
 グレゴールの世話(エサを持ってくる、部屋の掃除をする)は妹の役目です。それに対してグレゴールは感謝の念を表せません。まるで、かつて一家が貧窮のどん底の時にグレゴールが稼げるようになってお金を持ち帰るようになってしばらくしたら一家が大きな感謝の念を示さなくなったことの裏返しのように。これは「悲劇」です。しかし、等身大の虫と人間がコミュニケーションを取ろうと努力するのは「喜劇」です。
 グレゴールは運命を受け入れ食が細り傷によって体力が削られ、ついに死んでしまいます。その日は残された一家にとっては祝日となります。祝日……ハッピー・エンド? 冷たい家族、と言ってはいけません。彼らには祝う理由があるのですから。
 
 物理的には、昆虫をそのまま人の大きさに拡大したら足はその体重に耐えられないでしょう(足の筋肉の断面積は体長の2乗に比例しますが、体重は体長の3乗に比例しますから)。この小説でしかめっ面をしながら「リアル」にこだわるのは、野暮な態度でしょうけれど。
 
 不思議なのは、登場人物ほとんどに固有名詞がないことです。グレゴールの妹にはグレーテという名前がありますが、父・母・女中・支配人・小僧などはすべて代名詞です。そしてラスト、グレーテは女の子から娘になっています。これも変身です。さて、この不思議なユーモア小説の後日談は、もしかしたらグレーテが主人公であることを、「名前がある」ことが示しているのでしょうか。
 
 
17日(火)自分探し
 「今の自分は本当の自分ではない。どこかに本当の自分が存在するはずだ」と本気で言う人は、周囲の人には「嘘の自分」を見せてつきあっている、ということなんでしょうか。
 
【ただいま読書中】
晩学のすすめ ──遅咲き人間の魅力』入江康範 著、 ダイヤモンド社、1996年、1553(税別)
 
 日本人の平均寿命が「人生50年」を超えたのは、終戦後のことです。現在は50年生きるのは当たり前。「はじめの50年」のように言われ、老人の生涯学習などが宣伝されるようになりました。しかし著者は、それらのほとんどはただの時間つぶしになっていないか、と言います。もっと目標を高く掲げ、自分の老後(人生)を本当に充実させる晩学をするべきではないか、と。その例として、江戸時代の晩学者9人をまず著者は取り上げます。その共通点は「挫折」「長命』「ライフワーク完遂の強い目的意識」。
 伊能忠敬が登場するのは当然として、勝小吉(勝海舟の父親)や滝沢みち(滝沢馬琴の息子の嫁)や大久保彦左衛門忠教などが出てくるのには一瞬虚を突かれます。ただ、どの人も、四十歳あるいは五十歳からの「晩学」にかける意気込みと集中力には、こちらはただ感嘆するしかありません。宮本武蔵も、武芸者としてのの人生の後は、「五輪の書」などを書くの人生です。ほかにも、絵画・詩歌・茶の湯など諸芸に秀でていたというのですから、大したものです。
 もともと江戸時代の武士や大店の人間には、早めに隠居してあとは「余生」を過ごす、というライフスタイルがありました。いくら「人生五十年」でも、それは高い乳児死亡率で平均寿命が引き下げられている要素が大きいのですから、五十まで生きた人は六十七十八十までは生きるでしょう。ですから「余生の人生設計」は江戸の人間には重要なテーマだったはずです。「晩学」もその一つではなかったか、と私は想像しています。
 
 本書の第二部は「江戸時代の改革者たち」です。
 吉宗を筆頭に、江戸時代には改革者が溢れています。幕府だけではなくて、各藩にも存在したそういった江戸版リストラの実行者たちについて、著者は、特に細川重賢や上杉鷹山にページを割いています。
 そして第三部は、幕末。勤王の志士よりも私は勝海舟に惹かれます。幕臣からは裏切り者扱い、明治政府からは「食えない奸物」扱いですが、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候」と淡々と述べてじろりとあたりを睨め付ける……凄みがあります。
 
 一篇一篇は面白いのですが、なんとも統一感のない本です。共通点は「江戸時代の人物像」だけ。せめてもう一つ共通軸があったら良かったんですけどね。
 
 
19日(木)ススキ
 私は秋になったら急に出現するイメージを持っていますが、実はその前から草原の中でじっくり準備をしているんですね。皆さんはちゃんと見てます?
 
【ただいま読書中】
幼年期の終わり』A・C・クラーク 著、 池田真紀子 訳、 光文社(古典新訳文庫)、2007年、743円(税別)
 
 1953年に出版された名作ですが、本書は89年に著者が第1章を新しく書き直したものです。しかし「古典新訳文庫」ですかあ。シェイクスピア、カント、フロイト、レーニン、スタンダール、ヘッセなどがラインナップされた文庫にクラーク。いや、個人的にはとっても嬉しい気分ですが。
 最近真っ当にSFを読んでいなかったので、久しぶりに耽溺することにします。
 
 火星への探査飛行が始まろうとしていた時代、地球の空は突然巨大な船々で満たされました。宇宙から「オーヴァーロード(最高君主)」が到来したのです。オーヴァーロードは、地球上の餓えをなくし生活レベルを向上させ、各国の政治体制には手を出しませんが地球連盟を結成させようとします。しかしその秘密主義が人類をいらだたせます。地球総督を名乗るカレランは、国連事務総長のストルムグレンとしか話をせず、唯一の仲介者の彼に対してさえもその姿を見せません。地球にやってきた理由も将来の長期的な計画も様々な行動の意図も一切不明です。しかしカレランは約束します。50年後にはすべての秘密が明かされるだろうと。
 
 50年後、約束どおり人類の前にオーヴァーロードは姿を現します。それは、翼と尻尾を持った○○でした。オーヴァーロードが惜しげもなく与える知識によって、地球はユートピアとなります。戦争・貧困・無知・病気は地球上から消え去ります。教育期間は長くなり、性道徳は変化し、個人的な交通手段の普及で民族の垣根は低くなり、古来からの宗教は力を失います。オーヴァーロードの存在自体が示す圧倒的な知識量と科学技術力の前に、人類は宇宙進出をあきらめ、「ユートピアの住人」となります。オーヴァーロードの真意をいぶかしがりながら。地球に閉じこめられた状態で平和を楽しむ人類は、教育と文化の花を開かせます。
 そして新世代が生まれ、不思議なことが起き始めます。地球人類の「幼年期」が終わろうとしているのです。カレランはついに“真相”を話します。地球から旅立とうとする存在にとり残される人類とオーヴァーロードは、実は同じ種類の悲しみを共有していたのでした。いや、オーヴァーロードの方が、もっと悲しい存在だったのかもしれません。
 そして壮大なラスト。(私は平井和正&石森章太郎版の『幻魔大戦』のラストシーン「月が……」を思い起しましたが)月が傾くシーンからの地球最後の日の描写は、圧巻です。
 
 不思議な小説です。人類どころか地球そのものも滅亡するのに、悲しみだけではなくて高揚感を感じます。ここで示されるのは「××が○○となる(明るいあるいは暗い)未来」ではありません。「未来は存在する」というビジョンそのものなのです。どのような形であれ、未来は存在する。少なくとも私たちは「それ」を見上げることはできるのです。さらに“隠し味”もあります。本書の基底を常に流れて読者に小さな声で囁き続ける、「自分が持っている“権力”は、他人が思うほどのものすごいものではない」ことを自覚した人の一種の哀しみです。それを自覚している国連事務総長の描写で本書は始まり、オーヴァーロードのそれで本書は閉じます。
 
 そうそう、著者はさまざまなもの(たとえば静止衛星)が実現可能であることを予言(あるいは計算で立証)したことで有名ですが、本書では子どもの父親の精密な鑑定を(「血液の厳密な分析」と表現していますが)記述しています。1950年代にDNAによる親子鑑定を予言していたんですね。そんなの当時の技術水準(血液型判定)を延長すればいいのだから簡単だ、と思う人は、今から数十年後にポピュラーになる技術をいくつか予言してそのうちいくつかを当ててください。
 
 
20日(金)不当表示
 きちんとした政治ができない場合、為政者には偽政者と看板を変えてもらわなければなりません。
 
【ただいま読書中】
イソップ寓話集』中務哲郎 訳、 岩波書店(岩波文庫 103-1)、1999年(200812刷)、760円(税別)
 
 「イソップなら読んだことがある」と思っていたら大間違いでした。本書には471話も収められています。となると「イソップのうち何話なら読んだことがある」に私の感想は訂正しなければいけません。
 しかし、これで「すべて」ではありません。本書の原典「アエソピカ」にはギリシア語の寓話が471収められていますが(その部分だけを訳したのが本書)、それ以外にラテン語の寓話も254収められているのです。西洋人とイソップの付き合いはずいぶん長く幅広いもののようです。
 
 ざっと読むと、主に動物が登場する短いお話で、第3部までは最後に1行教訓がくっついています。教訓の部分は不必要じゃないかな、と私は感じますが、古代ギリシアの教育的な雰囲気ではこれがないと納まらなかったのかもしれません。第4部からは「教訓」が最初に語られたり最後に語られたり登場人物(動物)が語ったり、いろいろ工夫されるようになります。
 
 第24話「腹のふくれた狐」:腹が減った狐が穴に入ってたらふく食ったら腹がつかえて外に出られなくなった。嘆き悲しんでいると通りかかった他の狐が「元に戻るまでそこにいればいい」とアドバイス、というお話です。『くまのプーさん』に似た話がありますね。つけられている教訓は「時が解決することがある」ですが、私だったら「飯を食うなら場所を選べ」かな。
 第53話「兄弟喧嘩する農夫の息子」:つまりは毛利元就の「三本の矢」です。
 第109話「ゼウスと差辱芯」:不思議な話です。ゼウスが人間を作ったとき、差辱芯を入れ忘れたため、あとから肛門を通って入れようとしたが…… 古代ギリシアでも男色はポピュラーでそしてタブーだった、と言うことなんでしょうね。
 第112話「蟻とセンチコガネ」:アリとキリギリスで覚えていましたが、こちらではセンチコガネ(雪隠金亀子)です。要するにフンコロガシ。冬になったらエサの糞もなくなったので夏に仕事をしていることをバカにした蟻のところにエサをもらいに行ったら、というお話です。ファーブルのおかげでフンコロガシは重労働に耐えている虫、というイメージを私は持っていますから、なんだかこちらだとしっくり来ません。
 第173話「木樵とヘルメス」:きこりが斧を川に落としてしまって金の斧と銀の斧と、ですが、水底から斧を拾ってくれるのは女神ではなくて通りすがりのヘルメスです。たったそれだけの違いですが、なんだか汗臭い物語になってしまったように感じます。
 第210話「羊飼の悪戯」:「オオカミが来た〜」の嘘つきのお話ですが、これの出典がさらに遡ってディオゲネス「ギリシア哲学者列伝」にあるとは、なんとも由緒正しいお話だったんですね。
 第312話「ゼウスと善の甕」:パンドラの筺を思い起こします。ゼウスがすべての「善」を甕につめてある男に預けたところ、好奇心に負けた男が蓋を開けてしまったためにすべての善は人間から逃げ去ってしまった。ところが逃げ遅れた「希望」だけが甕の中に残ったために、希望は人間の間にとどまり「逃げ去ったすべての善を与えてやろう」と人間に約束だけしている、という、ちょいとシニカルなお話です。
 
 なんと文禄・慶長年間(16世紀末〜17世紀はじめ)に「エソポのハブラス」「伊曾保物語」といった翻訳がすでに出ていますし、仏教説話の形でそれ以前に日本に入ってきた話もあるそうです。日本人とイソップの付き合いもけっこう長いと言えます。
 
 
21日(土)企業
 腹黒い人が経営をしたら、後ろ暗い部分が大きくなります。
 
【ただいま読書中】
ニュース・ジャンキー ──コカイン中毒よりもっとひどいスクープ中毒』ジェイソン・レオポルド 著、 青木玲 訳、 亜紀書房、2007年、2200円(税別)
 
 親から虐待を受けて育った著者は、コカイン中毒となって大学を中退。やっと麻薬が抜けて音楽業界に就職したもののまた麻薬中毒になり会社で窃盗をしてはその金でコカインを買うようになっていた著者は、偶然出会ったリサと恋に落ちさらに逮捕されたたことをきっかけに立ち直ろうとします。しかし音楽業界では職を見つけられず著者は広報の仕事をしていた経験を生かしてジャーナリストに転身します(逮捕起訴された経験がサツ回りにも生かせますし)。しかしまたアルコールとコカインが…… まったく、いつになったら過去から学ぶんだ、と傍観者はため息をつきます。だけど、著者を救ったのは、傍観者のため息ではありません。身近な人の献身(とせっぱ詰まった状況)でした。しかし「二重生活」を送る点では同じです。「表では有能で面白い男/裏では麻薬中毒で窃盗犯」が「表では有能で面白い男/裏では過去の犯罪歴などを詐称している男」に変わっただけなのです(「現実から逃げる」かわりに「過去から逃げる」点が大きく違いますが)。実績を積み記者として抜擢されるチャンスを与えられるのに、著者はなぜか浮かぬ顔です。裏で犯罪を行っていたときには表ではあれだけ自信たっぷりに振る舞っていたのに。
 2000年4月に著者はダウ・ジョーンズでエネルギー担当支局長のポストを得ます。1996年にカリフォルニア州は電力を自由市場で売買することを認めていました。そこでエンロンのスクープ(電力市場の規制緩和を詐欺的に利用して巨利を得ていた)を得た著者は「ニュースを流す快感」を知ります。ニュース・ジャンキーの誕生です。
 その夏、カリフォルニア州にエネルギー危機が始まります。電力不足から電気料金はあっというまに3倍になりついで停電が始まります。州政府は価格を操作し周辺の州から電気を買いとおおわらわでしたが、結局それはエンロンなどの悪質トレーダーの餌食になるばかりでした。
 重要な情報を持っている人間には、それを求める人間が群がります。著者はそういった人間にネタを提供する代わり相手が持つ重要な情報を得ます。それをまたエサに他の情報を…… 倫理よりも真実を得る快感、それが彼を支配していました。しかし麻薬だろうとニュースだろうと、「ジャンキー」になった著者には特徴的な症状が出ます。平気で嘘をつくようになるのです。その嘘が著者を裏切ります。花形記者としての活躍は、あちこちに多くのを作っており、敵は著者の失策を待って汚い手を仕掛けて著者の信用を貶めることを画策します。読んでいて、なるほど、権力者というのは「そんな手」も使うのね、と私はつぶやきます。小説や映画のように派手でわかりやすくはありませんが、地味で汚くて実効的で汚くて侮蔑的で汚い手を保身や金のために平気で使う人がこの世には存在しているのです。しかもは権力者だけではなくて、同業者の中にもたくさんいました。結局著者は失職します。
 
 本書は「80%や100%では駄目、120%ならOK」の世界で自分を駆り立てながら生きている人の物語です。それは著者個人のライフスタイルですが、同時にそういったライフスタイルをよしとする社会の物語でもあるのでしょう。
 暴力、酒、麻薬などで自分自身を駆り立て続けたら、超人でない限り結末は知れています。ただ、それはアメリカ固有のものでしょうか。日本でもたとえば仕事中毒の人はいくらでもいますから、アメリカとは別の種類のジャンキーは多いかもしれません。。
 
 
22(日)田んぼと中学生
 仕事場の回りには田んぼがあります。田植えをした時期とか日当たりの関係でしょう、田んぼによって差はありますが、稲の苗がすくすくと育っています。仕事を終えて帰る時間帯はちょうどクラブ活動を終えた中学生が帰る時間帯とぶつかっています。田んぼの脇の狭い道を、中学生の間をスラロームしながら私はゆっくり帰ります。特定個人に注目しているわけではありませんが大きな声で騒ぎながら帰っている彼らもすくすくと育っているのでしょう。
 
 「早く育てたい」と苗のてっぺんをつまんで引っ張ったら成長の役に立つどころか苗は切れてしまいます。「早く育てたい」と中学生の頭をつまんで引っ張ったら、騒がれます。
 ならば「育てる」って、何でしょう?
 
 よく「子育て」と言います。これを平易に開くと「親が子を育てる」となるでしょう。(もちろん、親以外の場合もあるでしょうが、ここではとりあえず親とします) しかし、こういった他動詞としての「育」の用法に、私はときに違和感を覚えます。だって「何かを育てる」とは具体的にどういう行為でしょうか? たとえばエサや肥料を与えること? しつけや教育をすること? 愛すること? でもそれらはすべて「与える」「愛する」といった動詞です。誰かが育つための環境調整ではありますが、その場合には「その環境の中で子は育つ」であって「育てる」ではありません。たとえば「この苗は、米粒が365粒つくように育てよう」なんてことはふつう目指さないでしょう。中学生を育てる場合でも「次の国語のテストで89点を取るように育てよう」とは言わないはずです(世間は広いから、中には言う人がいるかもしれませんが、テストの場合は使うべき動詞は「育てる」ではなくて「教える」でしょうね)。
 ところが、自動詞として「子が育つ」ではどうかと言うと……これまた「子どもが一人で勝手に育つか?」とツッコミを入れたくなります。
 
 私は困った性格です。どうしてこんな育ち方をしてしまったのでしょう? 私の子どもたちはどんな育ち方をするのでしょう? せいぜい有害なちょっかいや人生の選択の邪魔だけはしないように気をつけます。
 
【ただいま読書中】
たいようのおなら』灰谷健次郎・鹿島和夫・岸本進一・東条安希子 編、長新太 絵、サンリード、1980年(8514刷)、1000
 
 児童詩集です。読んでいて、心が動かされます。私は年を取って感情の抑制力が落ちているのを自覚していますが、これはまずい本を手に取ってしまったと思います。心がぽわんぽわん揺れ動き、笑いときに怒りそして最後には涙がぽろぽろ。これはまずいです。
 
ゆでたまご
 かわをむいた/はじめにくも/つぎは/おひさまがでてきた
 
おとうさん
 おとうさんのかえりが/おそかったので/おかあさんはおこって/いえじゅうのかぎを/ぜんぶしめてしまいました/それやのに/あさになったら/おとうさんはねていました
 
さんかんび
 ぼくのおかあさんはびあきだから/ちようはこれない/さびしい
 
いぬ
 いぬは/わるい/めつきはしない
 
いのうえさん
 ひとのこころがうつるかがみがあったら/ぼくが/いのうえさんがすきなことがわかってしまう/こまるなあ/いわおくんもすきやったらどうしよう
 
ゆめをみるから
 いまから/パパのゆめをみるから/まゆみちゃんがねてから/おめめのなかに/はいってきてね
(この詩につけられた灰谷氏の解説です。「病院でじゅんばんを待っている親子がいました。子どもがおかあさんにたずねました。「ママ、ママ、スリッパはどうしてスリッパというの」「ママ、ママ、テレビはどうしてテレビというの」 おかあさんの返事は「うるさいわね」でした。あなたはどう思いますか。」)
 
 ああ、引用を始めたら止まりません。本書には詩を書いた子の名前と年齢も書いてあります。下は4歳(回りの大人が聞き書きをしたそうです)から上は8歳まで。子どもの感性は、ときに現実を鋭く見据え、あるいはたくまざるユーモアで味付けし、読んでいて飽きません。子どもも読んでいて楽しい本でしょうが、むしろ大人のための本です。
 では最後の引用です。おひさまで始めたからおつきさまで終えましょう。
 
おつきさま
 いぬをさんぽにつれていったとき/きれいなまんげつがでた/「おつきさんはどうしてついてくるの/ぼくがとうきょうまであるいていったら/おつきさまもついてくるの」/おかあさんはそうやといった/そしたらこうべに/おつきさんがなくなるね
 
 
24日(火)地球最後の男
 が部屋にいると、ノックの音が…… は、フレデリック・ブラウン「ノック」や星新一「ノックの音が」で書かれていますが、もし地球に生き残った人類が男一人だけだったら、人類は結局絶滅ですね。では、生き残ったのがたった一人の女だったら、結末は同じでしょうか。いや、違います。もし、彼女が妊娠していて、しかもその子(複数の場合はその中の最低一人)が男の子だったら……
 
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白亜紀に夜がくる ──恐竜の絶滅と現代地質学』ジェームズ・ローレンス・パウエル 著、 寺嶋英志・瀬戸口烈司 訳、 土社、2001年、2800円(税別)
 
 
 本書は「パラダイムシフト」に関する物語です。パラダイムシフトに関しては、トーマス・クーンの『科学革命の構造』『コペルニクス革命』という良い本がありますが、それよりもっと身近なお話です。
 
 
 20世紀後半に地質学にはパラダイムシフトがありました。「(不動のはずの)大陸が浮動する」プレート・テクトニクスです。その革命をやっと受け入れたところに、1980年に地質学とは別の領域、物理学から別の革命を受け入れるように要求がありました。今から6500万年前白亜紀末期の恐竜の絶滅は隕石(計算上はエベレスト山一個丸ごとの大きさ、爆発エネルギーは人類全員一人に一つずつ広島型原爆を持たせて一斉に爆発させたのに匹敵)の衝突による、という説です。
 白亜紀と第三紀の地層の間にイリジウムが異常に豊富に含まれる粘土層を発見したことから「隕石説」を唱えることになった物理学者ルイスと地質学者ウォールター父子を中心とするチームの物語はたとえば『恐竜はネメシスを見たか』でも詳しく読むことができます。しかし当時の地質学者は「地質学的時間」(地質的変化は徐々に起きる)でものを考えるのになれており、文字通り「驚天動地」によって地球が影響を受ける、という考え方を拒絶します。これについては、地質学の側に正当な理由もあります。「神の呪縛」から逃れて「科学」となった地質学は、「地球外の原因」で地球を説明することに感情的な反発を感じるようになっていたのです。しかも巨大火山の爆発説も有力でした。しかし反対派の主張は一つずつ論破され、ついには「白亜紀の終末に巨大天体が地球に落ちたこと」は大体の人に受け入れられます。
 では、その衝突がどうやって恐竜(とその他の多くの生物(70%の生物種))を絶滅させたのでしょうか。その証拠は(あるとしたら)化石の中に見つかるはずです。しかしこんどルイス・アルヴァレスのになったのは古生物学者でした。「自然淘汰は徐々に起きるはず」のドグマです。(ならば、たとえばベルム期の大絶滅(全生物腫の94%が絶滅)は何だったの?、と聞きたくなりますが) 化石の証拠は地層の乱れなどでなかなかクリアカットな証拠提示にはなりません。議論は混迷し、ついには「恐竜は白亜紀には絶滅しなかった」なんてことを言う人まで登場したりして。「パラダイム」がシフトするのは大変、ということはよくわかります。
 
 本書を読むとなかなか意外な発見が各所にちりばめてあります。たとえば……
 18世紀には「石は地のものであって天のものではない」から「隕石」の存在を認めないのが一般的な態度でした。
 ルイス・アルヴァレスが、人類初の核実験を上空から観測し、さらに観測機のB29に乗って広島への原爆投下も観察していたと本書で初めて知りました。「行動する物理学者」だったんですね。
 著者は「新しい学説は証明はされない。補強と論駁をされるだけだ」と述べます。ガクモンの世界って、そういうものなんですか?
 本書で紹介される科学者たちの論争には醜悪な面があります。2ちゃんねるも真っ青の揚げ足取りやポイントずらしや架空の議論への反駁や誤引用やはては人格攻撃まで……で、結局考えを変える人は少数派で「権威」はほとんど意見を変えず、パラダイムがシフトするためには新しい教育を受けた人が多数派になるのを待たなければならない様子です。本書を読みながら『科学が作られているとき』(ブルーノ・ラトゥール)
を私は思い出しました。「科学は人の営為」であることをラトゥールは人類学的見地から述べていますが、私もそれに賛成です(この本が出たとき、科学論の世界ではずいぶん感情的な反発が大きかったように聞いていますけど)。『白亜紀に夜がくる』でもその現実が具体的に読めます。でも、だからこそ科学にはこの文明の背骨となる価値があると私は思うのです。もしも科学が「絶対の真実(の反映)」だったらそれは宗教と区別がつかなくなりますから。
 
 ただ、アルヴァレスの功績は(たとえ反対論者も)認めなければならないでしょう。数学・物理学・化学・天文学・地質学・古生物学・生物学などの学者が一堂に会して共通のテーマを議論して豊かな実りを手にするということは、アルヴァレス以前にはなかったのですから。
 
 
26日(木)社会が悪い
 そういうことを口走りながら凶行におよぶ人こそが、私から見たら「悪い社会(の一部)」そのものです。ジョン・レノンのファンから見たら、「ジョン・レノンにはなれないけれど、ジョン・レノンを殺すことだったらできる」人間がこの社会を構成する一部であるように。
 
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灰色のバスがやってきた ──ナチ・ドイツの隠された障害者「安楽死」措置』フランツ・ルツィウス 著、 山下公子 訳、 草思社、1991年、2136円(税別)
 
 1884年に設立された「フランツ・サーレス・ハウス」は50年後にはカトリック系の精神・身体障害者の収容施設としてはドイツ最大規模のものに成長しました。しかし1940年から43年にかけて、全収容者1290名のうち787名が強制的に他の施設に移され、殺されました。
 1933年ヒトラーは政権を握ると「遺伝病的子孫忌避のための法」を成立させ、身体障害者・精神障害者の強制的避妊手術を始めました(結局40万人が断種されたそうです)。1939年に戦争を始めると、ヒトラーは(法的根拠無しに)障害者に安楽死を与える命令を発します。フランツ・サーレス・ハウスにもSS(親衛隊)から「公共患者輸送公社」の代理人と名乗る人間がやって来ます。傷病兵のためにベッドを空けるために明朝から患者の輸送を開始する、と。まずは重度の障害者とユダヤ人の子ども30人のリストアップを施設管理者は求められます。それと、全員のカルテの写しを。
 職員たちは、ベルリンのコネ(教会や政府の有力者)を使い、カルテの写しに嘘を書くなどして抵抗をします。しかし、全国から集められた患者情報は機械的に処理され、殺人施設へ移送されるべき膨大なリストが作られました。はじめナチスは暴力的にことを始める気はありませんでした。「無価値な命」を差し出すことにそれほど激しい抵抗があるとは予想していなかったのでしょう。安楽死の手順は「実験(対象は当然人間)」によって整えられていました。殺す手段はガスか注射か、注射なら薬物は何が良いか……「良い」の判断基準は、人道的か衛生的か、です。
 しかし、施設の職員の中にはできることはする気の人がいました。たとえばフランツ・サーレス・ハウスのベルント(のちに空襲で死亡します)。彼はSSを「児童誘拐」で告発します。もちろんそれで輸送を中止させることは望めないでしょう。しかしそれで数時間稼げたら、輸送対象となった子どもたちを隠したり脱出させたりすることができるかもしれません。検察は後難を恐れて告発状の受理を拒否します。しかしベルントの父は裁判官で、同僚裁判官二人の協力を得て輸送中止の仮処分を決定します。あくまで「法に則った」形で。貴重な時間が稼げ、8人のユダヤ人障害児が脱出できます。
 法を盾にできないSSは、電撃作戦を行います。深夜突然フランツ・サーレス・ハウスに灰色のバス(窓には目隠しの紙を貼り付けてある)を乗りつけ、銃を突きつけて19人の子どもたちをさらっていったのです。その日のうちに19人はガス室に送られました。ベルントの父は降格され、ベルントは秘密警察に目をつけられ、ヒトラーの命令で法的な障害は無視され、「輸送」は断続的に行われるようになりました。そして「輸送」された人たちが「肺炎その他の感染症で」あるいは「突然の心臓発作で」亡くなったという知らせが次々やってくるようになります。親は施設に抗議します。どうして「輸送」を許したのか、と。
 1940年8月の司教会議で「安楽死の中止勧告とカソリックの施設職員に対する患者移送への協力禁止」が表明されます。ナチスは「教会の抵抗でヒトラーは中止を命じた」と噂を流します。しかし、実際に行われたのは、殺害手段の変更(ガス殺と銃殺をやめて薬物注射のみとする)と移送理由の変更(空襲からの疎開)でした。350人以上の医者がせっせと仕事(殺人や命にかかわる人体実験)をし、教会は沈黙を守るようになります。バスの台数は増やされ、なすすべもなく「別れ」を経験させられた職員や修道女たちには、深い心の傷が残りました。
 戦況の悪化によって「輸送」できる手段や施設が制限され、薬物不足で殺害のペースは鈍ります。それでもナチスは決められたことはきちんと継続しようとします。ドイツ人は真面目で几帳面なのです。その几帳面さは、たとえば強制収容所の(収容者や職員の)記録をきちんと残したり死亡診断書を(たとえ死因はでたらめでも)ちゃんと個人個人に残そうとするところに現れています。
 
 本書は一つの施設に焦点をしぼり、小説仕立てで臨場感を出しています。ここだけでも残酷な物語がいくつも展開されていますが、それに似たことがドイツ全土で行われたこと、障害者が約25万人殺されたことを思うと慄然とします。で、「これは過去の話」「これはドイツの話」で封印してしまって良いでしょうか。ここまで極端ではなくても、もしかしたらこういった「社会に無用の存在は殺せば良いんだ」という考え方は今でも日本でも実は現役なのかもしれないと思うこともあるのですが……「そんなことは絶対ない」と誰か私を安心させてくれませんか?
 
 
27日(金)流行の車
 かつて「白い車」や「赤い車」が流行したことがあります。どちらも「流行っている色の車だったら中古で売るときにも高く売れる」が売れた一番の理由だったように私は記憶しています。
 「DOHC」とか「ツインカムターボ」ががんがん宣伝された時代もありました。なんだかとっても速そうなイメージですが、その速さを本当に生かすためにはエンジンを何千回転回さなければならないかは宣伝されませんでした。パワーバンド(最大トルクと最大馬力が発揮できるエンジン回転数の領域。これが広いほど街中では使いやすい)がどのくらいかもおおっぴらには宣伝されませんでした。当時私が乗っていた車はダブルではなくてシングルの「SOHC」だったし、バイクは「OHC(オーヴァーヘッドカム)」どころかその前の時代の「OHV(オーヴァーヘッドヴァルヴ)」だったのでなんとなく肩身の狭い思いがしましたが、乗っていて別に何の不便もありませんでした。高回転を必要とするような運転スタイルでもありませんでしたし。
 
 で、今はエコカーの時代だそうです。みな意味がわかって売っているのかしら?
 
【ただいま読書中】
アメリカ車はなぜ日本で売れないのか ──TEACH」型文化と「LEARN」型文化』奥井俊史 著、 光文社、2006年、925円(税別)
 
 本書はペーパーバック仕立てになっています。奥付もちゃんと手前にあって、それを見ただけで一瞬私はにやりとします。
 フォード社は1903年創業、有名なT型フォードは1908年から大量生産が始められていますが、日本にフォード車が初めて輸入されたのは1905年。終戦後大打撃を受けていた日本の自動車産業に援助の手をさしのべてくれたのもアメリカでした。アメ車と日本は縁が深いのです。ところが、それほど売れていません。それはなぜか、が本書の出発点です。そして著者の、ハーレー・ダビッドソン・ジャパン代表としての成功体験が語られます(2001年以降、輸入車のトップはフォルクスワーゲンですが「アメリカ車」に限定するとトップはハーレーなのです)。
 アメリカ文化の根幹は「TEACH」である、と著者は述べます。自らは正しい、それを受け入れないのは相手が悪い、ならば相手に自分の正しさをTEACHしなくては、それでも受け入れない、ならばもっとTEACHしよう、となっていると。ところがそれが日本の市場では販売抵抗要因となります。
 それに対して日本文化は「LEARN」です。最初はただひたすら真似たり学んだりをしてから顧客満足度を重視した商品を開発します。そのどちらが「良い」ではなくて、「文化が違う」としか言いようがない、と著者は感じているようです。
 
 ではどうするのが解決かというと、おそらくアメリカだと正面突破、日本だと「すりあわせ」になるのでしょうが……グローバリゼーションの流れの中で、「力が強い方」が変わるのはおそらく感情的抵抗があるでしょう。「強くて正しい」のにどうして相手に合わせなければならないんだ、と。だけど「弱い側」にはもっと強い抵抗があります。車が合流するときでも、速度が遅い方が速い車に合わせて運転するよりも、速いほうが遅い車に合わせて速度や進路を調整する方が、安全です。それと同じで、力でごり押しをするのは、結局摩擦が増えるだけで双方に実りは少なくなってしまいます。
 ただ、アメリカ側にも言い分にも「理」はあります。「これが最善」と作り上げた製品に不必要な(とアメリカ人には感じられる)細かい規制をかけてローカライゼーションを強制されると、こんどはPL法とのからみが生じるのです(現地が本社の想定外の改造をしたことで事故がおきたら困る)。なかなか事情は複雑です。
 
 ヨーロッパ車はみごとに日本でブランド化しています。ではアメリカがなぜそれができなかったのかというと……ビッグ3がビッグすぎたのかな。「アメ車」というブランドができてしまったためにその下での差別化がもう困難だった、と言う考え方は成り立たないでしょうか。
 もっとも私にとって「アメ車」とは、でかい・サスがふにゃふにゃ・ガソリン食い・壊れる、というネガティブなブランドなんですが(何年前の刷り込みなんだろう?)
 
 この光文社ペーパーバックスシリーズの特徴なのだそうですが、文章に英語もばんばん混じります。ただ、ちょっと変。たとえば「故障 trouble の発生や消耗品 expendable への対応、メンテナンス品 maintenance goods の供給が重要」といった感じの文章なのです。「英語の勉強も一緒にできてお得」という発想なのでしょうか。私にはちょっとうるさく感じましたが。むしろカタカナ英語(和製英語)のところにすべて原語をつけてくれたら、それはそれで面白かったと思うんですけどね。
 
 
28日(土)不器用な人
 なにか理解しがたいことに直面したとき、人はまずそこに当てはめるべきことばを探します。「これは宇宙人である」とか「今のは殺人事件だ」とか。表現に過不足なくぴったりのことばがあればいいのですが、ない場合は「手持ちのことば」の中でとりあえず良さそうなのを無理矢理にでもそこに貼り付けてしまいます。そうすることで理解と対応を始められますから。(レヴィ=ストロースの「器用人の仕事」(『野生の思考』)です)
 問題は、きちんと探そうとせずに最初から「何にでもこのことばを貼り付けるぞ」という態度の人。イデオロギーや宗教の世界の人によくいます。なにを見ても「ユダヤ人の陰謀」だったり「自民党が悪い」だったり。もちろんこれは器用なのではありません。心が硬直しているだけです。もちろん何を見ても「それは××のせいだ」(たとえば、少年の殺人事件を見たら何も調べずに「暴力的なゲームのせいだ」「俗悪なテレビのせいだ」)と言ってればいいのは、ではあるでしょうけれどね。なにより「不可解な現実確固たる自分が浸食されて変容していく」心配がありません。ただ、それは「その人個人の安心」は得られても、問題の解決にはならないのですけどね。
 
【ただいま読書中】
コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』原題 NO EASY ANSWERS / THE TRUTH BEHIND DEATH AT COLUMBINE ブルックス・ブラウン、ロブ・メリット 著、 西本美由紀 訳、 太田出版、2004年、1480円(税別)
 
 卒業間近の時期、進級にかかわる重大なテストをさぼったエリックは、昼頃にゆっくりとコロンバイン高校に登校してきました。なにかがぎっしり詰まった大きなバッグを車に積んで。駐車場で煙草を吸っていたブルックスに彼は奇妙な口調で言います。「ブルックス、おまえのことは嫌いじゃない。ここから離れろ。家に帰るんだ」 エリックの異様な気配におびえたブルックスは学校を離れます。その背後で銃声が響き始めました。
 エリックはなぜブルックスを見逃したのでしょうか。殺戮をどこから始めるのかプラン通りにきちんとやりたかったのか、回り中から見られる駐車場で殺して人目を引きたくなかったのか、ただの気まぐれか、あるいは本当に「嫌いじゃな」かったからか……真相はわかりません。エリックとディランは校内で笑いながら13人を殺した後、自殺をしたからです。(負傷者は24人)
 
 1999年にコロンバイン高校で起きたことに対して「世界」はこう言いました。「異常な二人の少年の異様な犯罪」「警察の対応がまずかった」「暴力的な音楽とゲームが原因」「親が悪い」……そして「気持ちを切り替えるべきだ」「もうコロンバインの話は終わった」と。しかし著者にとって、小学校の時からの友人に級友たちを殺され世界を破壊された著者にとって、コロンバイン高校や同世代の人間の内情を身をもって知る人間にとって、「コロンバイン」は「終わって」などいないのです。人々は見るべきものから目をそらしている、と著者は感じています。
 著者たちにはがいました。子どもを憎んでいる教師、暴力こそ正義と思っている乱暴な生徒、仕上げている課題を破壊したりすることで他の優秀なライバルの足を引っ張ることに熱心な級友。子どもたちは、教室や運動場で生き抜くために、暴力性を発揮することに慣れていきます。しかし、内気な子はどうすれば?
 コロンバイン高校では、スポーツは「ステータス」でした。フットボールやバスケットボールの選手であることは「特別な存在」です。どのくらい特別かというと、たとえばそうでない生徒を公然といじめる特権を付与されるような。著者、ディラン、エリックが属する友達グループはスポーツとは無関係で、したがっていじめと暴力の標的となります。教師もそれを黙認します。著者が殴られたらそれは日常のことですが、著者が殴り返したら教師が著者を罰するのです。
 やがてエリックはホームページで社会への復讐を公言し、パイプ爆弾の製造を始めます。著者とも喧嘩をし、一時は殺害の脅迫までします。やがて彼らは仲直りをし、エリックたちはおとなしく前向きになったように見えますが、それは復讐を実現するための偽装でした。
 
 力(暴力)が是(=弱さは「悪」)となっている社会では、相手を上回る暴力で復讐するものもいれば他の道に進むものもいます。そのとき「やらない者もいるのだから」と「やった人間」を非難しておしまいにする手もありますが、社会の根本である「暴力」について目を逸らして良いのか、が本書の一つのテーマです。著者は「やらなかった人間」ですが、だからと言って「自分は立派」なんて言ってはいません。タイトル通り「EASY ANSWER」なんかないのです。
 
 しかし、本書の第二部(後日談)はひどいものです。無能を隠すために著者一家の信用度を下げるための活動(それとなく殺人容疑者扱い)をする保安官。それを信じて著者をののしる級友や近隣の人たち。非難するために「レッテル」を貼りたい人は、そのレッテルがつくところだったらどこにでもかまわずぺたぺた貼り付けるのでしょう。犠牲者を政治的にあるいは宗教的に利用する人々もいます。そんな輩はどこの国にでもいるのでしょうが。
 
 しかし……復讐は本来個人的なものです。それがなぜ無差別殺人になってしまうのでしょう。もしも周囲のほとんどがいじめっ子かそれに荷担する者である場合、「殴る者」の顔や名前は「殴るシステムの上にそのときたまたま貼り付けられているだけ」となります。つまり「その個人を殴る者は誰でも良い」わけ。すると殴られた者の復讐の矛先は「誰でも良い(=社会全体)」にとなる場合があるのではないでしょうか。たとえ自分を殴ってない人間でも、そのシステムの中で上手く生きて利益を享受している以上同罪である、と。
 
 
29日(日)プロレスは八百長
 私が高校生のころ、「プロレスは八百長だ」と真剣に主張する級友がいました。
 「八百長」の定義にもよるでしょうが、プロレスが純粋に勝ち負けだけを競う格闘技勝負であるなら、たしかにその「純粋さ」にはいろいろ不純なものが混じっています。「反則が(5秒以内なら)OK」「相手の協力が必要な技が多くある」「勝ち負けにがものをいう」「格闘技には本来不必要な観客へのアピールが目立つ」など、たとえばオリンピックだったら考えられないことが横行しています。
 だけど……プロレスラーが「相手を打ちのめす(=肉体の破壊)」のみを目的として試合を行っていると思うのは間違いです。そもそもそれだったら巡業はできません。もしそんなことをしたら試合をすればするほどレスラーの数は減っていきます。あるいは「技の応酬」は必要ありません。反則攻撃OKなのですから、急所攻撃一発でケリがつきます。でもそれは「喧嘩必勝法」ではあっても「プロレス」ではありません。
 
 では、戦っているフリをして手を抜いているのか。それもまた違います。たとえばボディスラムという古典的で地味な技があります。相手の体を肩に担ぎ上げて背中からリングにたたきつけるというシンプルな技です。だけどこれ、食らったら効くんですよ。どのくらい効くかは、たとえば鉄棒から砂場に(あるいは跳び箱の上からマットに)背中から落ちてみればわかります。プロレスラーはそれを砂場ではなくて厚い板を張ったリングでやっているのです。それも日常的に。少々の肉体の鍛錬では追いつきません。
 私はプロレスを、格闘技を使った即興演劇の一種として捉えています。
 歌舞伎で「真剣をどうして使わない」とか「見得を切っている暇があったらつぎのことをしろ」なんて舞台に向かって声を出さないですよね。虚構と現実の区別がついてその差が楽しめる人なら舞台上で真剣に演じられている虚構を楽しめるはずです。プロレスもそれと似ている、と私は思っているのです。歌舞伎よりももうちょっと役者は痛い目を見ますけれど。
 
【ただいま読書中】
NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 2008年6月7月』日本放送出版協会、650円(税別)
 
 NHK教育の火曜日2225分からの25分番組のテキストです。普段見ない番組なのですが、7月が「愛しの悪役レスラーたち」だと教わってさっそく書店で購入してきました。登場するのは、グレート東郷、フレッド・ブラッシー、アンドレ・ザ・ジャイアント、大木金太郎です。ああああ、懐かしい名前が……
 
 グレート東郷をTV画面で見たかどうか記憶がありませんが、あとは全員白黒TVから脳に入力された動画が子ども時代の記憶の中から出てきます。そうそう、その頃あった「日米対決」の力道山vsシャープ兄弟。悪逆非道なシャープ兄弟の反則攻撃に耐えに耐えたのちについに「伝家の宝刀」空手チョップを乱打する力道山の姿に私も熱狂した覚えがかすかにありますが、力道山は在日朝鮮人一世、シャープ兄弟はカナダ人、と聞くと、「ああ、やっぱり演劇の一種で間違いないんだ」と思います。原爆頭突きの大木金太郎も「傲慢なアメリカ人」に強烈な頭突きを食らわすことで日本人を熱狂させました。ところが素顔の彼は、郷里の英雄である力道山にあこがれて朝鮮から日本に密入国した人だったのです。こうなると、プロレスの場で表現されていた「大和魂」って、いったい何なんだ、と言いたくなります。本書ではそれを「倒錯したナショナリズム」と表現していますが、エンターテインメントとしてのナショナリズムって、そもそもそれ自体がねじれた存在でしょうから、そこでさらにねじれて倒錯しても良いのかもしれません。
 本書にもありますが、アメリカのWWEは大胆にも、イラク戦争開始時にフランス系のレスラーにユニットを組ませて「アメリカは間違っている」とリング上で叫ばせました。もちろん彼らは「悪役」としてブーイングを浴び、観客の「USA! USA!」の声援をバックにした正義のアメリカ人レスラーにぼこぼこにされたのですが、少なくともあの「テロとの戦争だ!」で国が盛り上がっていた時期に「アメリカは間違っている」とTV画面で公言したメディアが他にどのくらいあったのか、と思うと、たかがプロレスの「倒錯したナショナリズム」を簡単に片付けるわけにもいかないように私には思えます。
 話はずれます。そういえば、片足のない少年(たしかザックという名前でした)をレスラーとしてリングに上げたのもWWEです。「障害者はおかわいそう」の人には理解できないでしょうが、レスラーたちは(もちろん力をセーブはしていましたが)きちんと技をかけ、結局彼はリング上でぼこぼこにされました。しかし彼の「プロレスラーになりたい」という一生の願いを叶えたのは、「おかわいそう」の人ではなくてWWEでした。「障害者をプロレスに使う」ことには社会的なリスクがあります(「おかわいそう」の人たちは簡単に非難することが予想できますから)。だけど、そのリスクを摂ったWWEに、私は興行をこえた何かを感じます。そしてあのとき私は「障害者がこの世で生きること」について、ついつい考えてしまいました。
 
 ヒール(悪役レスラー)はブーイングを浴びることで輝きます。観客はブーイングを彼らに浴びせることでカタルシスを得ます。しかもそのブーイングは、実社会でのものとは違って、自らに何か悪い影響が返ってこないことが保証されている、安心で安全なブーです。そしてベビーフェイス(善玉レスラー)も、ヒールがいなければはらはらどきどきの試合ができません。
 観客はレスリングではなくてプロレスを見に来ているのです。そしてプロレスは、ただの興行かもしれませんが、もしかしたらもっと深い意味をくみ取ることができるものなのかもしれません。これはただのプロレスファンのタワゴトかもしれませんけどね。
 
 
30日(月)行列のできる……
 出演していた橋下さんが府知事になったことでも知られるようになった番組ですが(もしかして今でも出演している?)、本当に久しぶりに聞いて(見てませんでしたが、パソコンを操作しながら聞くだけは聞いていました)ずいぶん変わったな、と思いました。弁護士たちが、以前は素人とタレントの中間に位置していたのが今では明らかにタレント志向になっているし、番組の柱だったはずの法律相談が完全に添え物になっていて、メインはタレントのおしゃべりです。最初から最後までずっとぐちゃぐちゃしゃべり続け。いや、前もずっとしゃべっていましたが、そのしゃべりと法律相談とが絶妙のブレンド具合だったのに……
 もう番組の看板を掛け替えた方が良いんじゃない?
 
【ただいま読書中】
古書狩り』横田順彌 著、 ジャストシステム、1997年、1648円(税別)
 
 著者の名前を初めて知ったのは『超革命的中学生集団』(平井和正)の登場人物としてでした(表記は横田順也)。この本に出てきた人たちがその後SFファンからプロになっていく過程を見ていたのは、なかなか面白いモノでした。
 本書は著者のお仕事である「古書」を狂言回しとした短編集です。だけど著者はSF作家。シンプルなように見えてちょいと一ひねりしてあって、SFファンにとってもなかなか楽しめる内容になっています。ただ問題は、古書好きのSFファンってそれほどいないだろう、ということですな。
 
 古書を巡る様々な「なぞ」が登場します。
 たとえば「時のメモリアル」では、「新品の古書」を持ってくる不思議な女性がやって来ます。ことばが妙に不自由な彼女は「きっかけ」を作る、となぞめいたことを言うのですが……って、SFファンだったらすぐに真相に気づきます。ただ「病気」以外の説明ができなかったかなあ。
 「姿なき怪盗」では、一冊の古書が少しずつ(挟まれたカード、ストリップ、はがき、カバー……)盗まれていきます。最後には箱だけが残されますが、ある日その箱の中に元の本が完本の状態で戻されます。さて、ことの真相は? これ、最後の謎解きがなかったら「奇妙な味」の名作になったかもしれません。
 「本の虫」……いやあ、ぞっとします。もしかして私も……あああ、ネタをばらしたい〜 (ヒントは「カフカ」)
 「小沢さんの話」……あり得ないはずの「世界に一冊だけの古書」が見つかりました。それを持ち込んだ小沢さんはパラレルワールドに関する驚くべき話を始めます。
 
 いやもうなんというか、古書に興味のある人だったらきゃっきゃと大喜びのネタが次々展開されているのだろうな、と思います。古書にはあまり興味のない私でも面白いのですから。