ケーブルテレビのニュース専門チャンネルで若い女性アナウンサーが「栃木県しものしで……」と二回言いました。古い国名の「しもつけ」って、そんなにポピュラーじゃないのかしら。
そのうち赤穂浪士の討ち入りでは「吉良うえの介」と言ったりして……
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12世紀初めにすでに彼の地は「江戸」と呼ばれていました。江戸重継(平氏)がそこに居館を作りますが後に没落します。江戸城を造ったのは1457年太田資長(道灌)。その後、上杉、北条と支配者が変わりますが1590年徳川家康が入城します。彼はまず城下町の整備に力を注ぎ、本格的に城に手をつけたのは幕府を開いてからでした。攻められる心配はなかった、ということなのでしょう。
広大な本丸には、本丸御殿と天守閣がありましたが、明暦の大火で焼失後天守閣は再建されませんでした。本丸御殿は「表(公務の場)」「奥(将軍のプライベート空間)」「大奥(女性の場。入れる男は原則として将軍のみ)」に分けられていました。
「表」で大名や旗本たちを支配したのは「格式」です。石高よりも、官位や役職(大名の役は、老中・京都所司代・大阪城代・若年寄・奏者番・寺社奉行・大阪常番(他に非常置の大老と側用人)のみという「狭き門」でした。旗本や御家人の役は数が多いので無役の人の率は大名よりは少なくなります)によって、たとえば拝謁のときの位置が極端なことを言えば畳の目一つ分ずつ定められたのです。
将軍の一日。夜明けに「奥」の寝所で目覚めます。警護するのは小姓たち。うがい・洗顔後大奥で先祖代々の位牌を拝んでまた奥に戻り朝食ですが、月代を剃ったり整髪も同時に行います。なんか落ち着きませんね。その後医者が六〜十人むらがって診察。それからまた大奥で神棚を拝みます。その後は自由時間で、昼食は大奥で摂ります。その後が執務時間。数時間のこともあれば深夜まで、ということも。夕方入浴して夕食は奥で。それから就寝までが遊びの時間だったそうです。絵を見るとプライベートタイムには着流し姿ですが、そのお着替えがまた一騒動だったのでしょうね。生きていること自体が儀式、といった感じの人生ですが、私はあまりそんな生き方をしたいとは思いません。
江戸幕府の政治の形態を大別すると、将軍の独裁と老中の合議制となります。ただ、いくら将軍が独裁をしようとしても実務官僚に対するルートが必要です。そこで吉宗が導入した御用取次が重要となります。本来老中と将軍の間を取り次ぐ役目ですが、彼らは実務官僚たちに対しても老中を通さず直接将軍の意を伝えることができました。「表」ではなくて「奥」の政治です。
「奥」と「大奥」は銅の塀で厳重に仕切られていました。出入り口は二カ所。杉の戸で、常に施錠されていました。通路は御鈴廊下と呼ばれていますが、将軍が通るときには鈴を鳴らして知らせたからでしょう。
御台所の一日。朝六つ半起床。うがい・お歯黒・入浴・整髪・朝食・打掛への着替えのあと、将軍の「朝の総触」(朝の大奥へのご挨拶)を待ちます。歴代将軍の正室と側室の数とその子の数の一覧表がありますが、正室の子が少ないのが目立ちます。だから側室が必要だった、ということになるのですが、将軍15人中7人で正室の子がゼロはちょっと少なすぎるのではありませんか?(側室16人に54人の子だった家斉も、正室の子は一人だけです) なんだか大奥でもいろんな“ドラマ”があったようです。
そして女中の数。今NHKの大河でやっている篤姫付きは60人ですが、和宮付きは67人(+御所からの4人)です。微妙に「嫁」の方が勝っています。あのドラマでもそのへんの権力争いが今から描かれるのかな?
本書は歴史の資料集としても使えますが、私にとっては「ドラマの舞台」です。平面図一枚だけからでも、右筆部屋がどこにあるかとかで、人の動線を想定し誰と誰が出会い誰と誰は出会いにくいかがいろいろ想像できます。将軍はお気に入りを近くに置き煙たい人は遠ざけたいでしょう。それも部屋の配置などに現れるはずです。
この平面図をパソコン画面に置いて、たとえば刃傷松の廊下のときに、誰がどこにいたかどのように動いていて何をしていたか、が一目でわかると面白いでしょうね。
マスコミは嬉しそうに報じていますけれどねえ……そもそも自己申告の時点でアウトでしょう。きちんとその「正しさ」の根拠が監査か何かで示されないと、不正直者ほど得をすることになってしまいます。
さらに大切なのは「変化」のはずです。国会議員になったら急に羽振りが良くなった・国会議員としての収入以上に財産が増えた(不正行為の疑いがある)、ということがあるかどうかのチェックが必要なのですが、それをどこがどんな権限で調査を行うんでしたっけ? やっぱり自己申告。だったら腹黒い人が正直に自分の財産の変化を申告するわけありません。
「腹黒い人の正直さ」をアテにしている制度って、まとも?
9回2死までノーヒットノーランで押さえてきたピッチャーが「あと一人」にこつんとヒットを打たれてしまうと「本当に惜しかったねえ」と言われます。しかし、先頭打者にヒットを打たれてそのあと27人をずっとアウトに押さえ込んだピッチャーは「惜しかったねえ」とは言われますが「本当に惜しかったねえ」とは言ってもらえません。同じワンヒットピッチングなのに、この扱いの違いはなぜ?
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「ジョギングは健康に良い」を世界に広めたフィックスは、そのジョギング中に急性心筋梗塞で亡くなりました。
激しい運動中に急死する例も多く知られています。日本で大きく報じられたのは、2003年夏コンフェデレーション杯準決勝中に倒れたカメルーン代表のフォエ、1986年バレーの日立対ダイエーの試合中に倒れて急死したハイマン、2002年スカッシュ中に急死した高円宮……著者は、自身がスポーツマンでかつ心臓血管外科の専門家であることも関係してか、運動中の急死に興味を持ちました。
東京都監察医務院にある突然死のデータ(1987年〜99年)29,699例のカルテを全部ひっくり返し、著者はその中に141例の「運動中の急死例」を見つけます。そのほとんどは冠動脈疾患・心機能不全・解離性大動脈瘤などの心血管疾患でした。ならば「病気があるかどうか検診を厳しくしたらよい」でしょうか。もちろん明らかな病気の人には運動禁止でしょうが、実は話はそれほど簡単ではありません。厳しいスポーツで鍛えると、心臓は大きくなって「スポーツ心」と呼ばれる状態になります。このスポーツ心は、スポーツの種類などによって肥大型と拡張型に分けられますが、これが心臓病の肥大型心筋症や拡張型心筋症とよく似ているのです。もしかしたら過度の運動は不健康、と言って良いのかもしれません。
ただ「ならば運動なんかやめてしまえ」ともいきません。人体は「食料が足りない、運動はたっぷり」の環境で進化してきましたので、そういった状態に最適になるように設計されています。だから栄養過剰・運動不足だと「メタボ」になるのです。やはり運動はある程度は必要です。
さらに原因不明の急死もあります。「心震盪」と呼ばれる状態で、ボールが胸に当たった程度でも心停止をきたしてしまうことがあるのです。これは事前のチェックが不可能です。
ただ、心停止が来ても、即座に緊急蘇生をしたら助かる可能性が高まります。その手順も本書には書いてあります。
そうそう、近年「救急蘇生法で、必ずしも人工呼吸は必要ない(心臓マッサージだけでもいける)」と言われるようになっていますが、これは広く知られているのでしょうか。
ただ、空気の通り道がちゃんと開いていなかったらいくら効果的に心臓マッサージをやっても無駄でしょう。やはり呼吸の有無と気道が開通しているかどうかの確認は必要です。
福田首相は「公益法人への支出を全体で3割削減するように」と指示したそうですが、これは命令でしょうか? それともただ言ってみただけ?
……しかし「全体の3割」ですか。「無駄遣いの10割」ではないのね。するともしかしたら、(もしあったとしたら)必要なものもカットされちゃうような気がするのですが……それとも公益法人は全部丸ごと無駄遣いの塊? だったらなぜ「3割」?
そうそう、「骨太の方針」って、いかにもの自画自賛モードの鼻につく言語感覚の命名ですが、たとえば鳥の骨は太く見えても軽くするために中は空洞です。太くなくて良いから、無駄遣いは全部切るカイカクをする覚悟と方針であって欲しいものですなあ。
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『吸血鬼ドラキュラ』ブラム・ストーカー 著、 紀田順一郎・新田正明 訳、 第三文明社(21C文庫)、1989年、864円(税別)
ドラキュラを知らない人は少ないでしょう。ただ不思議なことに、原作は1897年(明治三十年)の発表ですが、日本で翻訳されたのは1957年になってからだったそうです。なぜなんでしょう。
若手の弁理士として活動を始めたジョナサン・ハーカーは、トランシルヴァニアのドラキュラ伯爵の依頼でイギリスで屋敷を購入します。その手続きで伯爵の城を訪れたジョナサンは……
いや、ドラキュラについて予備知識を持っている人間でもぐんぐん引き込まれます。この小説が発表された当時はいったいどんなショックを読者が感じたのか、私には想像もできません。
そして、幕間劇のように、帆船でのエピソードが挟まれ(これは映画「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」にも生かされていましたね)、ついに話はロンドンへ。ヘルシング教授が登場しますが、彼の目論見を邪魔するのはドラキュラそのものと言うよりも、人間のもつ様々な弱点(無知、決断力の欠如、善意、愛、情け、常識など)です。本書ではそのあたりが容赦なく描写されます。
人と吸血鬼の対決が始まり、犠牲者が出ます。しかしついにドラキュラはロンドンを逃げ出します。狩人はドラキュラを追います。そして舞台は再びドラキュラ城へ。
いや、これは面白い。やっぱり“基本”には帰るべきですね。
ニュースでよく「住所不定無職」と紹介される人たちがいます。住所についてはたしかに不定の人がいるでしょう。もちろん定職に就いていない人もいるでしょう。でも、振り込め詐欺など、あきらかに“それ”で飯を食っている人もいるわけで、そんな人は「氏名○○、職業嘘つき」などと紹介するのは駄目なんでしょうか? ゴルゴ13だって、「おれは無職じゃない。スナイパーだ」と主張するんじゃないかなあ。
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『闇の中から来た女』ダシール・ハメット 著、 船戸与一 訳、 集英社、1991年、1165円(税別)
1933年の作品の復刻の翻訳です。
ヨーロッパで食い詰めているところを金持ちのロブソンに拾われてアメリカにやって来て回りから淫売と呼ばれているルイーズは、男から逃げようとして前科者と呼ばれるブラジルの小屋に転がり込みます。そこにはイヴリンという娘がいましたが、その父親は娘と前科者がつきあうことに猛反対をしています。
ルイーズを連れ戻そうと男が二人ブラジルの小屋に押し込み、暴力沙汰になります。ごろつきであっても男の一人ロブソンは地元の名士。その仲間コンロイに大怪我をさせたブラジルはルイーズと一緒に逃亡します。しかし警察の手は素早く伸び、ブラジルは撃たれます。
ブラジルを助けるためにルイーズはロブソンのもとに帰ります。そこで彼女が見たのは……
ハードボイルドとラブストーリーの合体が成功した希有な例です。ストーリーはシンプル、登場人物も整理されています。だけど……ロバート・B・パーカーの序文にあるような「それから二人はずっと幸福に暮らしました」になるのだろうか、とは思います(解説でもそこに疑念が呈されています)。ブラジルは(肉体も行動もハードボイルドの典型のようですが)性格の芯がちょっと細すぎます。ブタ箱に入ったのは(本人の言によれば)罪を周囲にかぶせられたためで、そのことを(閉所恐怖症気味になっていたら、グチを言うという形で)ぐちゃぐちゃと引きずっています(罪を押しつけられるのは“弱さ”でしょうし、もし自分が強いからとあえてそれを引き受けたのならその後そのことについてぐちゃぐちゃは言わないでしょう)。ハードボイルドの主人公は、外から見える「強さ」と、その隙間からかいま見える優しさや初々しさとのギャップがその人の魅力となります。しかし本書のブラジルの場合は、単なる「弱々しさ」に私には見えるのです。イヴリンはその強さと弱さのミスマッチに惹かれているようですが、ルイーズは明らかに「強い(したたかな)女」ですから、この後ルイーズとイヴリンでブラジルの強さと弱さをめぐって一波乱あることは間違いありませんし、ブラジルはそれを上手くさばくことはできないでしょう。そのあたりの奇妙な予感を楽しむことが、本書の醍醐味なのかもしれませんが。
アメリカの選手は、代表選考会で世界記録をばんばん出します。日本の選手も負けてはいません。代表選考会で日本記録をばんばん出します。
で、マスコミは日本選手に「メダルを期待しています」と言ったりします。やっぱり金メダルを期待しているんですよね?
ところで、日本記録って世界記録より上なんでしたっけ?
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『獄門島』横溝正史 著、 角川文庫、1971年(86年46刷)、460円
つい先日読書日記で書いたNHKのテキスト『NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝』、6月は横溝正史が扱われていました。そのせいか、図書館に行ったら書棚からこの本に呼ばれてしまったので、「しかたないなあ」と呟きながら借りてきました。
時代は昭和21年。場所は瀬戸内海のど真ん中、獄門島。島に渡る船の中に、復員してきた金田一耕助がいました。戦友の鬼頭千万太の死を家族に伝えるための渡海です。船から見た空は、獄門島から西は晴れて西日がカッと差し東半分はどんよりと曇っていました。そして金田一耕助が鬼頭家に入った瞬間滝のような雨が降り始めます。千万太の妹たち(18を頭に3人の年子)は「狂い咲きの花」と表現されます。そして復員船での千万太の遺言が「俺が生きて帰らないと、妹たちが殺される。金田一、俺のかわりに獄門島へ行ってくれ」だったのです。
さあ、はじまり、はじまりぃ〜。
島には“権力者”である網元がかつて三軒ありました。うち一軒はすでに滅びていますが、今でも島内にはどろどろした戦いが続いている模様です。さらに寺の和尚も島の権力を巡ってなんとなく怪しい雰囲気です。異様な美少女や美青年が登場し、腹に一物を持った人々は口ごもりあるいは語らず、そして、謎で塗り込められた島を舞台に惨劇が始まります。絞殺されて梅の木に逆さづりされた花子、釣り鐘の下に閉じこめられた雪枝、萩の花を振りかけられた月代。その姿はなにかの見立てなのでしょうか。見立てだとしたらその意味は? そしてそこで、本書のはじめからしつこく提示されていた伏線が発動し始めます。
すべての人が手持ちの情報を洗いざらい持ち寄れば、この惨劇は予防できたかもしれません(できなかったかもしれません)。ただ、金田一自身が情報の出し惜しみをして混乱に拍車をかけたりしていますから、これは「無いものねだり」ですね。
ただ、私が見るところ(というか、読んだところでは)、本書はただの「謎解きゲーム」ではありません。人が何を語りたくないか、それはなぜか、の心理劇でもあるし、おどろおどろした「島」の雰囲気を楽しむ書物でもあります。探偵小説として楽しむ場合でも、そこに濃厚に湛えられた日本情緒をたっぷり楽しみましょう。
この島自体に、かつての島流しの歴史や海賊の伝説があります。瀬戸内海の真ん中ですから決して絶海の孤島ではありませんが、そう感じられるように舞台がしつらえられています。さらにそこに戦争の巨大な影が落とされます。ラジオの復員ニュース、映画「愛染かつら」の話、夜道を提灯を下げて歩く姿、コンサイスの辞書の紙で煙草を手巻き、供出した釣り鐘の行方……舞台設定が本当に見事です。島の中をさ迷って謎を解くといえば「MYST」というゲーム(名作です)がありますが、終戦直後にタイムスリップした気分で「日本にもこんな時代があったのか」と暫時楽しむのには大変良い本です。
じっと見るとつくづく変な名前です。だって「洗ってない米」ですよぉ。(もちろん“正解”は、家庭では洗う必要がない米、ですけれど)
そもそも米は洗うものではありません。世間一般ではすでに定着した用法ですが、私は抵抗します。米は洗うものではなくて「研ぐ」もの、あるいは「磨ぐ」ものです。米粒の表面に付着した糠を米と米をこすり合わせることで落とす作業ですから、決して「洗っ」ているわけではないのです。
しかし、「お米をきれいに洗いましょう」と米を洗剤で洗った人がいる、というのは都市伝説ではなくて実話なんでしょうか? 猫を電子レンジに、と同じでヨタ話と思っていたのですが……中国では農薬を落とすための洗剤が売られている、と聞いてから、日本でも米を洗剤で洗う人がいてもおかしくはないか、と思うようになりました。自分の“常識”がこういった形で変えられていくのは、あまり愉快ではありません。
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昭和20年代に書かれた評論やエッセー、あるいは昭和20年代についてのちに書かれたものを集めた本です。
昭和25年に書かれた「日本人民共和国の可能性」(大宅壮一)でまずはひと笑い。明治維新での流血のあまりの少なさから稿は始まります。革命なのにあまりにスムーズにことは進行し、反革命もほとんどありません。その原因が日本人の「風を望む」心性にある、と大宅は強く述べます(今のことばなら「空気を読む」かな)。ただ右往左往しないために旗頭は必要ですからとりあえずそこに使われるのが、明治維新なら「天皇」、終戦後なら「マッカーサー」。たしかに江戸時代には人々は天皇の存在なんかほとんど無視していましたし、戦前(戦中)にはマッカーサーは鬼畜米英でした。要するに「何でも良い」わけで、だったらその「何」に共産党を位置させることはできるだろうか、と大宅は思考実験をします。(なんていうかな、最近の「民主党に政権が担当できるか」の話よりこちらのほうが格段に面白いのは、なぜでしょう?)
塩田丸男の「廃墟の家族たち」は読んでいるうちに暗鬱たる気分になってきます。空襲で廃墟となった日本。焼失した家屋は210万戸(開戦当時の日本の家屋敷数は1400万戸)、強制疎開で破壊されたのが55万戸。しかし、壊れたのは家屋だけではありません。赤紙(徴兵)・白紙(徴用令状)・疎開などで、伝統主義者が愛する「日本の家族制度」は自らの手で徹底的に破壊されてしまっていたのです。さらに「住宅難」は、単なる住宅不足ではなくて、たとえば交通難とか生活難という“原因”があると塩田は言います。この観点は現在でも使えます。何か「問題」があるとしても、それが見たままなのか、それとも奥に根本原因があるのか、きちんと評価・解析する必要がある、という考え方はちっとも古くありません。
野坂昭如「焼跡原風景からの辻説法」(昭和50年)は、非常に歯切れのわるいものです。「戦前に自分たちはだまされていた」ということで責任を“誰か”におっかぶせることで自らの“責任”をうやむやにしていた日本人の態度を、戦後に野坂は責めつつそれが同時に自分の姿でもあることを自覚し、それでも自分が子どもであったことを“免罪符”として使っていたのが、いつのまにか自分がかつて責めていた“大人”の年代になっていることを発見してしまいます。歯切れが悪くなるわけです。自分自身の人生に対して“落とし前”をつけるべきか、つけるとしたらどうやって? 著者はぐるぐる逡巡します。それでも、そうやって考えているだけまだマシなのでしょうけれど。大宅が言う「風を望む」人たちは、悩んだりせずに大勢について突き進み過去は忘れて(あるいは自己正当化をして)あははと笑っているのでしょうから。
昭和20年代、日本人の「欲望」は5年ごとに変化しました。昭和20年〜25年は「食」です。買い出し列車・タケノコ生活・闇市場ということばがあり、闇物資を拒否して配給だけ食べて餓死した裁判官もいました。食がやっと(生きていくには)満たされた25年頃からは「衣」です。ニュー・モードという名前でロングスカートが流行したり、洋行するデザイナーなどが続々現れました。「八頭身美人」も登場します。そして30年ころから日本人の欲望は「耐久消費財」へと向かいます。
一篇一篇は短いため、それぞれの作者が「すべて」を語り尽くせてはいません。それでも、これだけ「生の声」が並ぶと、そこからおのずと「時代」や「歴史」が立ち上がってきます。問題は読者にそれを読み取る力があるかどうか、です(私も偉そうには言えませんけれどね)。
私は親の前では子で、子の前では父です。妻の前では夫で、職場に行ったら一応その道のプロです。もっとも職場では、本来の仕事よりも最近は分類困難な職場の運営関連の仕事が増えてきて、ちと困っていますが、それはまた別のお話。
では「私」とは一体ナニモノなんでしょう? 様々なロール(子・父・夫・職業人など)をプレイする“主体”は一体何? どこにいて、ふだんは何をしているの?
逆から見てみましょう。私がプレイするロールのどれかを突然奪われても、私は私のままでしょうか? 実際にやってみなければわかりませんが、もしかしたら(それを失ったら私が私でなくなるように)どれかのロールに「私」は強く依存しているかもしれません。その場合「主体」と「ロール」は区別できるでしょうか。
もしかしたら、私の“中”にある主体がロールをプレイしているのではなくて、様々なロールをプレイすること自体が「私」なのかもしれません。
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かつて「住宅すごろく」という考え方があったそうです。独身の賃貸アパートから始まって「上がり」は郊外の一戸建て住宅です。ところが長寿社会と少子化(核家族化)によって、その「上がり」が最終ゴールでなくなってしまいました。本書では、誰もが迎えるであろう老後の生活について、住宅の観点から考えてみようとする本です。私にとってもそう遠くない話です。
かつての大家族制度ならともかく、現代の核家族の社会では「自宅が終の棲家」という考え方は、難しくなっています。そもそも「畳の上で死ぬ」人よりも病院のベッドで死ぬ人の方が圧倒的に多い時代ですよ。老夫婦だけになって、夫婦で暮らしていても伴侶が死んで、最初から独身で老後を迎えて、その状態でどんな生活をしたいでしょうか、どんな生活ができるでしょうか。それを考えて選択をする必要があります。
自宅を持っている人は「マイホーム借り上げ制度」(移住・住みかえ支援機構(JTI))を利用する手があります。自宅を売らずにここに託して(相場より安いけれど契約期間中は空き家になっても)賃料を払ってくれる制度です。これだと毎月一定額の収入が確保できますし、3年ごとの契約の更新をしなければ、自宅に戻ることもできます。「リバースモーゲージ」という手もあります。これは持ち家を担保に銀行から金を借りるのですが、借金返済は契約者が死亡した時点です(銀行が住宅を売ってその金で一括返済をします)。
では、どんなところに住み替えることが考えられるでしょうか。これ、意外に選択肢が多いのです。シニア向け分譲マンション・高齢者専用賃貸住宅・高齢者向け優良賃貸住宅・ケアハウス・有料老人ホーム・住宅型有料老人ホーム・介護付き有料老人ホーム・特別養護老人ホーム・介護老人保健施設・介護療養型医療施設・認知症高齢者グループホーム……
どこに住みたいか、誰とどんな住み方をしたいか、自分の健康状態は、経済状態は……それらで注意深く選択する必要があります。
ただ、これは全部「先立つもの」が必要なんですよねえ。介護保険を使うにしても自己負担分は払わなければなりません。年金だけで大丈夫でしょうか? そのへんもきちんと見極めなければなりません。さらに、たとえば誇大広告にも注意が必要です。NPOで住み替えの支援をしてくれるところも本書には掲載されていますので、そのへんに相談するのも一つの手でしょう。
自分のために探す場合、親のために探す場合でのトラブル未然予防についても、親切なことが書いてあります。引っ越しの手順、引っ越し後の医療機関の使い方など、薄い本なのに至れり尽くせりです。
私も現在は親のために、近い将来にはわがこととして、老後の生活について真剣に考える年代です。
ただ、“住宅”の本当の「上がり」はお墓なんですよね。
告白します。私は今でも、ミシンがどうしてきちんと縫えるのか、理解していません。
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「叛乱」によって自立した機械が人間に逆らうようになって、人間は荒野で機械を狩ることでかろうじて機械文明を維持するだけの部品を調達できるようになっている世界。狩人のタケルはある日自らを「使者」と名乗る機械に遭遇します。タケルがチャルと名付けたその機械は、機械の中にも人間に奉仕したいグループがあって、そのために一働きしてくれ(新品の部品などの報酬がどっちゃり)と持ちかけます。タケルの幼なじみ、美少女のジャンク屋カーシャと美青年の電脳調教師ヤァと、おしゃべりですぐ拗ねて歌を歌いたがる電脳チャルとの珍道中が始まります。
襲撃してくる機械の群れや3人(と1台)を追う人間を躱しながら、一行は機械どもの荒野(メタルダム)奥深くに入っていきます。もしかしたら「人類の救世主」をやらされるのではないか、と思いながらも、しぶしぶと。だってその「救世主」がやるのは「ケーブル復旧工事」なんですよ。命をかけた深刻な状況が続くのに、3人(と1台)はなんというか軽口だらけ、いや、軽口しかたたかない連中です。
ついに「女王」は復活します。しかしそこで女王が明かした自らの使命と意図は……3人は英雄として銅像を建てられるかもしれませんが、そこに腐った卵も投げられるような状況に追い込まれてしまいます。そして最後に「人間どもの叛乱」が始まります。人類は勝利します。しかしそれは、人類滅亡の始まりだったのかもしれません。
人と機械の戦いだったら、「バーサーカー」シリーズ(セイバーヘーゲン)もありますが、本書は舞台が宇宙ではなくて地球に限定されていますから「マトリックス」の西部劇版、と言った方がよいでしょうか。
裁判で「わいせつである」と有罪判決が出た場合、つまり、警察官と検察官と裁判官はそれを見て性的に激しく興奮した、という告白を意味しているのですね。
【ただいま読書中】
なんともカタいタイトルです。一瞬引いてしまいそうになりますが、前書きに「インターネットが切り拓く新しい時代を生きるためのリテラシー(基本素養)」とあるので安心します。さらに内容がケースメソッド(著者が用意した設問について考えてから解説を読む形式)と聞いてさらに安心します。哲学書のようなだらだらのお説教を聞くほど私は気が長くないのです。
なかなか面白いケースが並んでいます。本屋で立ち読みをして必要な情報を覚える・必要な情報のメモを取る・当該ページを携帯のカメラで撮影する……さて、これはどこで「線」が引けるでしょう。そして、その理由は?(本書には考える根拠として、著作権法や不正競争防止法からの引用が載っています)
会社が従業員のメールをどこまでチェック(モニタリング)できるのか、も難しい問題です。雇用契約・個人情報保護・従業員の基本的人権・プライバシーなど、考慮するべき事柄はいくつもあります。
「プライバシー」はかつては「一人で放っておいてもらう権利」でした。しかし、情報のデジタル化時代となって「自己情報コントロール権」に変化しています。ところが現実の変化は激しく、実際問題として自己情報を“すべて”自分でコントロールすることはすでに不可能です。
学生のレポート作成で、先輩の論文や先行論文をたくさん読んで参考にするのは褒められる行為です。しかし、検索語でひっかけた論文をつぎはぎのコピペで“自分のレポート”とするのは、いかがわしい。さて、その決定的な違いは?(前半と後半で文体が違ったりフォントが違ったり、「我が社は」「本書では」なんてことばを平気で残したり、なんてレポートが大量に提出されるそうです)
「権利」に関する考え方の変化も、興味深いことが書いてあります。本来「権利」は「不法行為」を根拠として争うことが可能なものでした。つまり「勝つ」か「負ける」かどちらか、というきわめてデジタル的な概念だったのです。ところが、たとえば「嫌煙権」と「喫煙権」の争いを見てもわかるように、明確に「勝ち負け」を決定するよりも「分煙」というアナログ的な解決法が採られるようになりました。
あと、情報漏洩やセキュリティ、そして子どもとインターネットの関係などのケースが提示された後、サイバーリテラシーの話になります。サイバーリテラシーに基づいて(現実空間とサイバー空間が複雑に絡み合っている)IT社会での生き方を追求することを本書では「情報倫理」と呼んでいます。
サイバー空間での「倫理」は、もしかしたらはかない存在かもしれません。しかし、集合知の強みを生かせば、現実社会よりももっと実効的な倫理が構築できるかもしれません。私はコンピュータ通信からインターネットが発展する時代を身をもって体験することができたことを幸せに思います。そしてこれからまだその変遷を経験できるだろうことが、本当に楽しみです。
「ラテンの血」「ラテン音楽」と言ったらノリが良い印象なのに、「ラテン語」だと重々しい感じなのは、なぜ?
【ただいま読書中】
『ドルイドの歌』O・R・メリング 著、 井辻朱美 訳、 講談社、1997年、1500円(税別)
アイルランドで夏休みをすごすことになったカナダ人のローズマリーは、農場の不思議な使用人ピーターと出会い、弟のジミーとともに昔の(神話が生きている)アイルランドに連れていかれます。そこは戦場でした。「牛捕り」と呼ばれる行事ですが、この場合はコノハトのメーヴ女王がアイルランドの各地の部隊を集めてアルスター王国に攻め入って「クーリニャの褐色の牡牛」を捕ることが目的です。そこにいたドルイド僧が、ピーターでした。メーヴの陣営にはアルスターからの亡命者の部隊もあり、ジミーはそこに配属され騎士の見習いとしての訓練を開始します。彼はそれが気に入ります。ローズマリーはメイン王子と恋に落ち、アイルランドを横断する旅に同行します。
人の命が軽い時代、その反動のように名誉が重んじられています。ジミーを鍛えるファーガスも失われた名誉のために母国に対して戦い続けています。
月夜の祭り(恋人たちが永遠の愛を誓って二人で大きなたき火を飛び越える)のあと、アルスター最強の伝説の戦士クーフーリンが軍勢の前に立ちふさがります。ジミーは不思議な縁で、クーフーリンと友情を結び、一緒に行動するようになります。そして、ケルト神話で有名な「浅瀬の一騎打ち」が始まります。女王はジミーの“裏切り”を知り、ローズマリーに死を命じます。
クーフーリンは狂戦士となり、ジミーとローズマリーの命も狙います。どんな魔法でも逃げ場がなくなった時、二人は現代に戻されます。以前と同じ生活に戻ったとは思うものの、不思議な体験によって以前とは明らかに違った人間になってしまった二人はアイルランドの伝説に思いをはせます。現代社会にも過去の“魔法”は残っており、現代に生きるピーターがなぜ過去のドルイドの魂を持っているのか、そして彼がこれからどうすればいいのかの謎が提示されます。全能のように見えたドルイドもまた悩める魂を持った人間だったのです。「聖なる三角形」となった3人はまた過去に戻り、そこでドルイドのかわりにローズマリー・ジミー・クーフーリンが「三角形」となります。そして最後の戦いが始まります。
成長・人が生きることの意味・孤独・歴史・伝説・魔法などが魅力的にちりばめられた作品です。特に最後の、愛する人との別離が持つ意味をビジョンとして悟るシーンは、胸を締めつけるような美しさを湛えています。そこにたどり着くためにだけでも、姉弟の長い旅に付き合う価値はあります。
「平等」に自分の番が回ってくる点で、談合は日本では民主主義的な手続きなのかもしれません。
【ただいま読書中】
東海道と言えばついつい弥次喜多などの「江戸時代のもの」と感じてしまいがちですが、それ以前から東海道は日本の動脈でした。本書では弘安三年(1280年)にわずかな供と京から鎌倉まで旅をした貴族(武家と公家双方に深いつながりを持つ)飛鳥井雅有の日記から中世の東海道の風景を再現しようとします。
そういえば「江戸時代の東海道も中山道も、名古屋を避けている」ことに気がついたのはいつのことだったかなあ。いや、そのときには軽いショックを感じました。幕府の政治的な「意図」を、そういう形で示すことができるのだなあ、と思いましてね。あの頃の私は、ナイーブでした。
古代や江戸時代の東海道(京から鈴鹿関を抜けて伊勢を通って尾張へ)とは違って、本書で扱われている時代の東海道は、近江を抜け不破関から美濃を通って尾張にいたる、現在の東海道新幹線に近いルートでした。
道はそれほど整備されておらず、雨が降れば馬も転倒するような険しい山道や、場所によっては川そのものを通路として用いる場所もありました。
墨俣は大河の渡河地点で、宿場町として発展していました。当時は重要な地点で『吾妻鏡』では頼朝のことばとして「墨俣以東」という表現があり、東日本と西日本の分岐点としての扱いでした。なお、雅有の日記には輪中の描写があり、著者は輪中に関して日本最古の記述としています。
熱田神宮は昔は海岸線に位置していました。そこから南には広く干潟が広がり、旅人は潮が引くのを待って干潟を横切って東の鳴海宿に向かいます。旅のスケジュールは、潮が決めていたのです。本書ではわざわざ潮汐表を持ち出して、雅有の潮待ちが何時間くらいだったかを割り出し、日記と照合しています。他の人の旅日記や道路の遺構調査の結果も活用します。なかなか実証的です。
雅有は京=鎌倉を何回か旅していますが、旅程は大体2週間足らずです。早馬が5日くらい、超特急(夜も昼も駆ける)の早馬だと3日ですが、舗装道路もトンネルもない時代ですから、みなさん健脚だったのですね。(私が学生時代に自転車旅行をした時には、鎌倉から大阪までは6日かかりました。早馬並みのスピードですから、文明の利器やインフラはありがたいものです)
浜名湖のあたりは日記に欠落があり、当時どんな姿だったかはわかりません(うなぎの養殖をしていなかったことは確実でしょうが) ただ、鎌倉時代には汽水湖ではなくて淡水湖であったことはまず確実です。明応の大地震(1498年)の地崩れや液状化や津波によって、3km以上海と離れていた湖は海とつながり、そばにあった橋本宿は消滅してしまいました(が通説ですが、著者は他の日記や和歌から、鎌倉時代から浜名湖は汽水湖ではなかったか、と推定しています)。
大井川は扇状地に多数の流れが分岐しており、竹竿で足下を探りながらだったら容易に渡河できる状態でした。細い流れと中州を次々伝っていくわけです。中世後期にはそこに堤が築かれ、流れは統合されて大きな一本の川になりました。
そして箱根を超えて、雅有はついに鎌倉に到達します。
当時の街道は未整備でした。そもそも一本の固定した「東海道」というものが存在しません。そのとき多くの旅人が通るのが街道で、それはなんとなく脇に移動してしまうことさえあったのです。宿場には山賊から護衛するための兵士もいましたが、護衛の金を惜しむとてきめん山賊に襲われたりすることから、著者は兵士=山賊と考えています。道も幅は数メートル(宿場町の中野整備されたところでもせいぜい10メートル)。映画などのセットのような立派で平坦な道ではなかったようです。
戦国時代には、美濃の戦乱を嫌って、京から東国へ美濃を避けるルートが多様化します。家康も、熱田から桑名、そして鈴鹿峠へのルートを公認し、以後それが東海道として定着することになりました。そのころ鳴海の干潟は干拓され、田んぼになっていました。旅人は潮待ちをして干潟を渡るのではなくて、街道をさっさと進むようになっていたのです。
これが文明の進歩なんでしょうかねえ。
琴欧洲が横綱になるために必要なのは、前祝いではなくて稽古ですよね。この2ヶ月、彼はどのくらい稽古や体のケアに集中できたのでしょう? 周囲はどのくらい彼を「横綱になるための準備」に集中させることができたのでしょう。
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世界中に「軍隊のない国家」は27あるそうです。著者は3年かけてそのすべてを回りレポートします。最初は「(日本の)憲法第9条」との関係を見つける目論見があったそうですが、さて、第9条は世界の憲法に影響力を持っていたのでしょうか?
もともと「戦争放棄」をうたった憲法は世界中で珍しくありません。1928年パリ不戦条約(ブリアン・ケロッグ条約)や1945年国連憲章(武力不行使の原則)に明確に「反対」する国は少ないようです。ただ、実際に軍隊を持っていない国は世界中でたった27しか存在しない(あるいは、27も存在する)のです。目次に載っている国名を列挙します。ミクロネシア連邦・パラオ・マーシャル諸島・ナウル・キリバス・クック諸島・ニウエ・サモア・トゥヴァル・ソロモン諸島・ヴァヌアツ・モーリシャス・モルディヴ・アンドラ・サンマリノ・モナコ・ルクセンブルク・リヒテンシュタイン・ヴァチカン・アイスランド・ドミニカ・グレナダ・セントルシア・セントヴィンセントグレナディンズ・セントクリストファーネヴィス・パナマ・コスタリカ。「国」や「軍隊」の定義がけっこう難物なので、これで確定とは言えませんが、けっこうあるもんですね。
ミクロネシアとパラオは、ほぼ同時期に不戦と非核の憲法を制定しました。ところがUSAはパラオに基地を置きたかったため露骨な干渉を行いました。(逆にそれでパラオの非核条項が有名になってしまいましたが) その結果、パラオの憲法は骨抜きにされてしまっています。アメリカがパラオをどこから守る気なのかはわかりませんが。
駆け足で世界を巡っていますが、いろいろなことがわかる本です。たとえば「日系の大統領」といえばペルーのフジモリさんが日本では有名ですが、ミクロネシアではそれよりも早く(しかも何代かにわたって)日系の大統領が選出されています。
で、シンプルなことがわかります。「27の国を見たら、27の異なる国(の歴史や法律や外交など)が見える」。ただ、小国が軍隊なしでどうやって生き残ることができるのか、それに対する貴重なヒントはいくつも本書には散りばめられています。
アンドラは700年軍隊無しで平和と独立を維持しています。サンマリノは(欧州の歴史の中では無視されがちですが)現存する中では世界最古の共和国で16世紀から軍隊無しでやってきています。モナコが非武装になったのは1740年頃から。リヒテンシュタインは1868年に軍隊を廃止し、1921年に憲法に常備軍の廃止を明記しました(世界初の非武装憲法です)。コスタリカは1949年の内戦で軍隊が自国民を殺害したことから翌年軍を廃止しました。ドミニカは1981年のクーデター未遂で自国民が殺害されたことから軍を廃止しました。パナマはアメリカ軍の侵攻で軍を廃止され、アメリカ軍が引き上げた後もそのままにしています。
本書に登場する国は「軍隊を持たない」でくくられていますが、実はそれ以外に著明な共通点はありません。平和運動家はもしも「日本国憲法の影響」があったら大喜びだったでしょうが、それもありません。
日本の平和運動家は「第9条を守れ」とは叫ぶけれど、世界中に9条を売り込んだり9条を使って見せたりの活動をしていないのですから、世界に影響を与えようがないのです。著者は、こんな本を書くくらいですから明らかに平和運動家寄りの立場のはずですが、そういった「9条をショーケースのお飾りに祭り上げてしまい、ぼろぼろになるまで使おうとしない人びと」に対しては厳しい目を向けています。
ただ、意外に多くの国が軍隊無しでなんとかやってきていること、その数が少しずつではあるが増加しているとは、本当に意外でした。世界は広い。
みなで何かをしようとした時、完璧を求める人は、一見何か良いことをしているかのように見えますが、実は非現実的な対応を求めている点で「現実を変えない」という結果をもたらします。
たとえば「減塩運動」で「味噌汁の塩分濃度を下げましょう」としていた場合(昔の田舎で保健婦さんがよくやっていました)、理想塩分濃度の味噌汁をモデルとして作って「この味を覚えてください。これと同じくらいの味の味噌汁になるように次から作ってください」とやるのと、塩分の化学分析装置を家庭に持ち込んでppm単位で塩分を測定して理想の濃度になるまで作り直しを命じ続けるのと、どちらが「減塩」がその地域に広まるでしょう?
……ただ、食べる人間は結局漬け物に醤油をかけて「バランス」を取ってしまうのでしょうけれどね。
【ただいま読書中】
まずはホワイトバンドから。日本のキャンペーンでは1年間で465万本も売りましたが、バッシングも強烈だったのを私も覚えています。著者はその原因を、アドボカシー活動(募金ではなくて、市民による政府に対する政策提言運動)をきちんと宣伝しなかったキャンペーンの拙劣さに求めます。それに、日本における寄付文化の特色(アメリカの一世帯は年間17万円以上なのに日本では3000円足らず、情によって寄付する傾向が強い、釣り銭型募金が人気(少額で募金の行き先にはあまり関心を示さない))がからみます。さらに募金団体の主張があまりに「美しい」とうさんくさく感じられます。(イギリスだと「何か白いものを巻くことで意思表示を。買うのでもかまわない」となっていたのが、日本だと最初から「これを買え」になっていたのも、ホワイトバンド運動の“うさんくささ”を増しました) 「怪しい募金箱」を見抜く明確な基準はありませんが、いくつかの手がかりが本書では提供されています。
「コスト」についても簡単に論じるのは難しい話です。「自分が募金した金は1円残らず送られるべき」と要求する人もいますが、事務所の経費・人件費・送料などをすべてスタッフの手弁当に求めるのは、さて…… たとえば被災地に中古衣料を送るのは日本では人気の“手軽なボランティア”です。しかし、大量に集まったモノを分別し、必要なところに必要なものを届けるのは、決して手軽な作業ではありません。日本での発送は無償ボランティアがやるとしても、船便の送料・倉庫の賃料・到着した現地での現地スタッフや港から被災地までの輸送手段の確保など、「コスト」がかかります。
そうそう、著者はアフガニスタン難民の越冬衣料募集のボランティア体験を持っているそうですが、集まった衣料の中に、ミニスカートや水着やお呼ばれドレスなどがある(イスラムの人の真冬用ですよん、しかもそれを送料着払いで送ってくる)のに、目が点になったそうです。ボランティアと押し入れ整理とを混同してはいけません。
なぜか「優先席」の話も出てきます。「優先席には積極的に“あなた”が座りましょう」と。で、優先席が必要な人が乗車してきたら「はいどうぞ」と席を譲る。なんか皮肉な「優先席キープ」ですが、これだったら優先席以外の席に座って同じことをやるのでも良いように思います。ただ、人のモラルに頼れないから優先席が誕生したわけで、それでも優先席を占拠して譲らない人間がいるからこんな「優先席キープ」なんて“運動”が起きる……なんともはや。ただ、個々の良心にまかせるか、それとも制度化するべきか、などという議論が必要な社会って、やっぱりなんだかもやもやしたものを感じます。
「エコ」についても話は単純ではありません。たとえばレジ袋や割り箸を使用するかしないかについても、様々な意見があります。
「ボランティア」でくくることができるけれど議論が分かれる話題が様々取り上げられていますが、隠れた共通軸は「宣伝」です。ホワイトバンドは、宣伝で大成功し、同時に宣伝の不備で顰蹙を買いました。宣伝で大ヒットした「ブランドもののエコバッグ」なんてものも登場します。NPOやNGOも、成功するところもあればうさんくさく見られるところもあります。その差をもたらす要因の一つが宣伝です。「エコ」も「ボランティア」も、時代にアピールすることができるかどうかで取り上げられ方が大きく違います。それでもボランティアはまだ日本には本当の意味で定着してはいないようにみえます。日本人って、「ボランティア」がけっこう好きそうなのになあ。
被害者が本当に欲しいのは、ナイフの規制よりも「殺人行為」そのものの禁止じゃないかな?
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処女作「恐ろしき四月馬鹿」を含む、大正期の初期短編集です。
「恐ろしき四月馬鹿」……まだ文章が未熟で、そもそもタイトルでネタバレしています。ただ、「四月馬鹿」にもう一段トリックが仕掛けてあって最後まで楽しめるようにしてあるのは、さすがです。
「深紅の秘密」……読んでいてどうも落ち着かないと思ったら、主語が「僕」と『私」を行ったり来たりでした。
「四月馬鹿」という新しい風俗や「赤緑色盲」という新しい知識を喜んでトリックのネタに使おうとする態度は、ちょっとほほえましく感じます。というか、若い作家は蓄積がないのですからこうやって新しいネタをどんどん自分のものとして使えるかどうかトライしていくものなのでしょう。で、ある程度年を取ってからは、そういった新しい切り口を求める態度で自分が蓄積したものを切ることができるかどうか、で勝負なのかな。
正直言って「面白いか?」と問われたら「う〜む、それなりに面白いけれど……」と返してしまいそうです。ただ、「謎」や「謎解き」そのものよりも、「謎の周囲の人間」の描写はなかなか楽しめます。それと、「大正という時代」の雰囲気も。
たとえばラストの「断髪流行」も、当時の女性の風俗を織り込みながら、若者の悪ふざけから始まった「賢者の贈物」ならぬ「愚者の贈物」がもたらすとんでもない結末を、ことさら淡々と描写しています。私だったらこれはユーモア小説にしてしまいそうですが、淡々としているだけユーモアが凄みを増すようです。若くても横溝は横溝です。
夏の高校野球大会のシーズンです。あのトーナメント表を見ていて、優勝校は本当に全参加校の中で「最強」なのだろうか、と思うことがあります。
準優勝が「二番目に強い学校では必ずしもない」ことは明らかですね。具体的に考えてみます。8校が参加する予選としましょう。区別が簡単なように実力順に上から1〜8とナンバリングします。で抽選をしたら、あ〜ら不思議、左の山に1〜4、右の山に5〜8となってしまいました。で、順当に行くと決勝は「1と5」の対決で、「1が優勝、5が準優勝」です。「2」は1と一回戦で当たって敗退です。「なんだ、一回戦で消えたのか」とばかにしてはいけません。右の山にいたら準優勝だったのですから。
では、実力が「1」だったら必ず優勝でしょうか(一応、エースの故障とかは考えないことにします)。
「軍人将棋」というゲームが昔ありました。やったことがある人いるかな。相手にわからないようにコマを伏せて敵コマとぶつかるとそこで審判がコマの裏を見て「中将と歩兵だから中将の勝ち」などと判定するのです。で、大体階級順に勝敗が決まっているのですが、例外が「スパイ」。スパイはすべてのコマに負けるのですが、唯一、最強のコマである「大将」(それとも元帥だったかな?)に勝つことができるのです。大将でどんどん敵を破壊するだけではなくて、このスパイをどう使いこなすかが勝敗の鍵を握っていました。
で、もしも「1」(つまりは軍人将棋の「大将」)のチームに対して「スパイ」に当たるチームがいたらどうなるでしょう。「スパイ」が他のチームに負けてくれたら「1」は悠々と優勝です。しかしもしもトーナメントで自分のすぐ傍に位置していたら?
……甲子園に出てくる「県の代表校」、はたして本当に「その県での最強校」なんでしょうか? というか、野球で「最強」の定義ができるのかな?
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命令による特攻は大西中将の発案とされています。しかし著者は、戦後「特攻」の評価が急転したのを見て「死人に口なし」と大西中将にすべてを押しつけて本当の責任者たちは口をぬぐっているのではないか、と本書で述べています。
昭和14年に海軍は(当時の)速度世界記録と航続距離世界記録と高々度飛行研究の3つのプロジェクトをスタートさせました。その2番目のプロジェクトから誕生したのが双発爆撃機「銀河」です。日本人は「機能がいっぱいある」が好きですが、「銀河」も多機能(陸上攻撃機・艦上攻撃機・降下爆撃機を兼ねる)をたった3人で行える機体でした。ただ、双発のバランスが取りづらく浮き上がる特性が操縦士泣かせ、整備の困難さが整備士泣かせでした。
興味深い挿話もあります。岡谷高等女学院から勤労動員となった女学生は、「銀河」の増槽製作をしていました。なんとベニヤ板製です。写真がありますが、女学生と増槽……なんとも奇妙な取り合わせです。あるいは東京の第二高等女学校では高度方位暦(特定の天体の角度と時刻から現在の飛行位置を簡略計算するためのツール)を天測データから作成していました。こちらも集合写真がありますが、セーラー服のあどけない少女たちです。
日本軍は、硫黄島を攻略している米機動部隊がウルシー環礁を泊地としていることをつきとめ、「第二次丹作戦」を発動しました。九州鹿屋基地からはるか南方(グアムから300キロくらい南西に位置する)ウルシーに24機の「銀河」で特攻をしようというのです。
作戦は実行する前から変調します。司令部は編隊の誘導機を二式大艇としますが、銀河との速度差が40ノット近くあったのです(これがあとで効いてきます)。また、飛行隊長は特攻に反対を表明します。戦局を見ての反対もあれば、「銀河」の特性(通常の雷撃でも十分戦果は期待できるが、800キロ爆弾をかかえての高速突撃では機首を押さえるのが困難)を考えての技術的な反対論もありました。まともな戦闘飛行ができない未熟パイロットしかいないのなら特攻も選択肢としてあり得ますが、この場合は戦争初期から生き残ってきたベテランを1機につき3人ずつ捨てる作戦です。
鹿屋を出撃し、南大東島・沖ノ鳥島を経て、ヤップ島まで南進して航路を東に転じてウルシーへ、約2930キロの航路です。日の出前に出発して日没ころ到着するハードスケジュールですから、考えられる全ての要素を織り込んでよほどきちんと立案しなければ、成功するはずがありません。しかし……
昭和20年3月10日(東京大空襲の翌日)、ついに出撃しようとした瞬間、中止命令が発せられます。偵察によってウルシーにはそれほど敵艦が入っていないことがわかったため、翌日に延期。さらに出撃は最初の予定より1時間遅らされます。理由は不明です。途中で次々故障のために脱落が出ましたが、それでも24機の半分以上はウルシーに到達できたようです。しかし、誘導機の二式大艇は足が遅く(なぜ同じ「銀河」にしなかったのか、理由は不明です)さらに出撃時刻の遅延によって、薄暮攻撃のはずが特攻隊の現地到着は漆黒の闇の中でした。レーダーで攻撃を察知して緊急迎撃に飛び立った米軍の夜間戦闘機でさえ目標が見つけられない有様です。「銀河」の中には、とにかく20メートル以下の低高度で飛べば何かにぶつかるだろう、と闇雲に動くものもあり、「クライ ミエナイ」と平文で連絡するものもいましたし、むなしく海に突っこんでしまったものもある様子ですし、ついには攻撃をあきらめヤップ島の基地に着陸あるいは不時着したものも数機ありました。結局、米軍が一瞬照射した探照灯を頼りに空母「ランドルフ」に一機の「銀河」が突入、ハンガーデッキの一部を破壊し134人死傷(26人死亡、105人負傷、3人行方不明)の損害を与えました。さらにもう一機の「銀河」はソーレン島の下士官食堂付近に突入し2人死亡6人負傷の損害を与えています。空母の代わりに島? 現地の写真がありますが、環礁には大小の丈の低い島が多数あり、遠目には船か島かわかりにくいのです。まして、暗闇の中では訳がわからない状態だったことでしょう。机上の作戦では薄暮攻撃だったので照明弾も積んでいませんでした。
米軍は両軍の戦死者を現地のアソール島に埋葬しました。戦後米軍は自軍の遺体は本国に引き取りましたが、日本軍のはそのままになっていました。遺族の人たちとウルシーに行きたい、と著者が書いたところで、本書は終わっています。
司令部は「特攻をする」というだけで浮ついてしまって、結局「人事を尽く」しませんでした。天気図さえ活用していません。「どうせ戦争には勝てないのなら、せめてたくさん敵を殺そう。敵をたくさん殺せないのならせめて味方をたくさん殺そう」と思っていたのか、といった感じです。戦争とは人がたくさん死ぬことですが、こんな死に方を強制されるのは不憫です。「お前らは死ね」と立案・命令した人たちが生き残るのは不可解です。
1円玉の直径は、何mでしょう?
1円玉の重さは、何kgでしょう?
正解は、「0.02m」「0.001kg」です。数字を間違えた人だけではなくて、cmやgで答えた人も不正解ですよ。
【ただいま読書中】
ある教授が東大生(理科1類の2クラス97名)に質問をしました。「1円玉の直径は?」……正解の「2cm」は26人。最小は「0.1cm」最大は「5cm」。「東京・札幌間の直線距離は?」……一番多かったのは「1000km」で26人(正解は831km)。最小は「30km」最大は「100,000km」。(「大学の物理教育」伊東敏雄、1997年第3号)
現在TVのクイズ番組で「おばか」がもてはやされていますが、東大の中ですでに前世紀からそれは「リアル」のようです。
ただし、タイトルは「東大生」になっていますが、著者が本当に問題にしているのは「日本の高等教育」です。東大はそのシンボルです。で、その東大では、農学部や医学部に「生物を高校で履修していない学生(中学レベルの生物)」が4割いるとか、機械工学科に物理を履修していなくてニュートン力学がまるっきりわからない学生が進学してくるとか……
「元凶」は文部省、と著者は決めつけます。ゆとり教育で初等教育をゆるゆるにし、大学受験の負担軽減と称して大学教育と高校の教育をゆるゆるにしたため、高等教育を受けるだけの能力がない人間も大量に大学に進学してくるようになってしまいました。
東大は、はじめには明治政府の各省が持っていた人材育成機関を集めることで成立しました。その“伝統”は、今でも国家公務員を多数輩出しているところに窺われます。つまり、本書に紹介されているコンドルセのことば「教育の目的は現制度の賛美者をつくることではなく、制度を批判し改善する能力を養うことである」の対極にある存在です。明治以来文部省の方針も全体主義的で一極中心の管理主義です。これは後進国が「先進国に追いつけ追い越せ」の段階では有効な手法ですが、いざ追いついた時に困ることになります(というか、日本は今それで困っているわけです。文科省は困っていないかもしれませんが)。ともかく「社会のため(あるいはキリスト教のため)」だった欧米とは違って日本の大学は「国家のため」の存在です。ただ、今の惨状を見ると大学が本当に日本国家のためになっているのかどうかはでっかい疑問符にしかならないのですが。「学問の自由」「教育の自由」なんてかけらもありません。
ただ、官僚から見たら「アホばかりの国」の方が望ましいでしょうね。「自分より遙かにエライ人たち」で大学(に限らず、その官庁が“監督”する分野)が満たされていたら、権威の押しつけができませんから。
私が大学院に通っていた時、節目節目に私が書いて提出するレポートを「内容を評価する前に、とにかくまともな日本語なのでホッとする」と指導教官から評されて喜ぶべきかどうか迷ったことを思い出しました。いや、本書に紹介されている東大生の答案の数々……いやいやいや、笑っちゃいけないのでしょうが、教師って大変な職業ですわ。
家内が「気がついた?」と時々聞きますが、私は何にも気がつきません。「髪かな、服かな」と見当をつけて言ってもハズレばかりで、怒られます。
で、先日散髪から帰って逆に私が「気がついた?」と聞いてみました。「散髪したのね」「それだけ?」。実はふだん放りっぱなしだった眉も整えてもらっていたのです。黒縁めがねで半分隠しておいたのが勝因でした。
よし! これで1勝です。問題は1勝1000敗なことですけれど。いや、1勝10000敗かな?
【ただいま読書中】
『神隠し』藤沢周平 著、 樹社、1979年(91年改訂新版)、1359円(税別)
心が疲れたな、というときには藤沢周平が読みたくなります。本書を読むのは何度目かな、まあ、何度でもかまいません。良い本は何度読んでも良い本なのです。
娘を拐かされ、金をちびちびとむしられる小心者の父親。死病にとりつかれ、死ぬ前に心残りを整理しようとする男。極道だった父親を引き取ろうと相談する子どもたち。殺人現場を通りかかったため、口封じのために命を狙われるようになった武家の女房。幼なじみに振られ、その友達に手を出してしまった男。……いやいや、いろんな人が登場します。それぞれが“ドラマ”です。
大体30枚前後の短編が11編。短い会話から登場人物の過去が匂い立ち、場面転換は鮮やかで、長編を豪華なフルコースの料理としたらこの短編集は贅沢なデザートバイキングですね。短いからと言ってお手軽な作品ではありません。一つ一つしっかりと手をかけた作品が並んでいます。江戸時代の市井小説を楽しみたい人にはお薦めの一冊です。
「謝れ」と要求された時に謝れば、これはそれで済む話です。「謝れ」というコマンドに対して「謝る」というレスポンスが発生していますから。「謝る」の内容が不十分ならともかく、たとえば「謝れ」に対して「謝られ」て、それから「謝ればいいと思っているのか!」と言うのは、“言いがかり”でしょう。それなら最初から「謝れ」と要求しなければいいのです。
しかし、明らかに不十分あるいは単に形式的に謝った場合には「謝られた」気がしないわけですから、それはまた同じコマンド「謝れ」が発生するでしょう。
あるいは、「謝れ」という要求がない場合に「謝るだけ」の対応をしてしまうと、相手のコマンドに応えていませんから、「謝って済む話」ではなくなっています。「謝る」じゃなくて「誤る」になってるのかな。
【ただいま読書中】
インド神話をベースにしたSFといえば『光の王』(ロジャー・ゼラズニイ)をまず思い出しますが、本書は「ラーマーヤナ」(古代インドの長編叙事詩)を21世紀版に“翻訳”したものだそうです。著者はインドの英語作家だそうですが、私は「初めまして」です。ただ本書の目次を見ると「プロローグ 月は無慈悲な夜の女王」「第一部 幼年期の終り」……これはSFファンなら読まなきゃ、という気になってしまいました。
最終阿修羅戦争の記憶も遠くなった時代、平和を享受するアヨーディヤーですが、戦争の影が近づきます。
まずは城で眠るラーマ皇子の悪夢として(これまで犯されたことのないアヨーディヤーの市内に阿修羅の大軍がなだれ込み、羅刹・食肉鬼・ナーガ(蛇竜)・夜叉・ガルーダなどが人間を虐殺しまくる夢です)。アーリア人の中にもスパイや反逆者がいます。アーリアは爛熟の匂いに酔い、「平和」の影に隠れて陰謀が着々と進行していたのです。
王家には4人の王子がいました。偶然全員同じ16歳で、本来なら王位継承権を巡ってぎすぎすするところでしょうが、仲良く育っています。しかしその母親たちの関係はなかなかどろどろしたものがあります。ただ、嫌われ者役の第二王妃カイケーイーも、かつての阿修羅戦争で命をかけて王を救った(それも二度)という戦士としても輝かしい過去があり、大王がなかなか難しい立場にあることもわかります。
病に苦しむ大王ダシャラタは、ついに長子ラーマの立太子を決めます。そこに羅刹がラーマを殺そうとやって来ます。そして同時に都に到着した見者法術師ヴィシュワーミトラ(なんと3000歳)は、人類最大の危機を知らせると同時にラーマの命を求めます。ラーマの存在自体が、全ての運命の決定する鍵のようです。しかし、本人はあまりそのことに自覚はないようです。傷ついた鹿を救い、暴動を歌一つで鎮め、蝶にまとわりつかれながら穏やかに王宮内を歩みます。
ラーマを殺そうとしたのは阿修羅側の“最初の一手”でした。ならば“次の一手”は人間の側です。神々でさえも終わらせることができなかった阿修羅との戦争を、なんとか終わらせるための手です。冥界・地上界・天界の三界に永遠の平和をもたらすことができるでしょうか。しかし大王は手を打つことに抵抗します。自分が全てを捧げて最終戦争を戦い抜き、ついに阿修羅たちを閉じこめたはずなのに、それらの“業績”がすべて治世と人生の末期に否定されてしまったのですから。
国民全体を巻き込んだ議論の末、ついにラーマは旅立ちます。阿修羅が支配する世界、亜大陸の南半分との境界に繁る禍々しい森へ。同行するのは、大聖ヴィシュワーミトラと義理の弟ラクシュマナのみ。
ここで第一巻はお終いです。いやあ、はらはらどきどきです。ギリシアといいインドといい、こういった長編叙事詩がある世界って、ちょっとうらやましく感じます。
宣伝文句を読んでいると、皮脂は「お肌の大敵」なのだそうです。だけど宣伝文句の続きを読むと、その皮脂をごしごし落とした後で保湿成分などを化粧品で補う必要があるそうな。
……あれれ? そもそも皮膚はなぜ脂を分泌するのでしょう。皮膚の保護や保湿などの機能もあるからではないでしょうか。それを「お肌を老化させるから」と一方的に敵視して除去して、それではお肌が傷むから皮脂に似たものを外から補充する、ということですか? なんだかもうちょっと「皮脂と平和共存」できる戦略が採れないのかなあ。
【ただいま読書中】
まずはまた目次を見ます。「第二部 人間以上」「エピローグ 月は(やはり)無慈悲な夜の女王」……やっぱり「うわぁお」です。
ラーマ皇子は大真言によって肉体が強化されます。それは神々の武器を使うための予備段階ですが、その変化の始まりの時期でさえも、半トンの木をひょいと投げることができる怪力となっているのです。なるほど。「人間以上」ですな。
一方王宮では「お家騒動」が起きていました。自分の息子を皇太子に、と望む第二王妃。その欲望を利用しようとする陰謀もひっそりと繰り広げられます。父の死を受け入れられず恐怖を怒りに転化させる皇子もいれば、母の行為を恥じそれでも母を見捨てられない皇子もいます。王宮の中は大混乱です。
上巻とは少し違って、人の心のありかたや人と人の関係について印象深いことばが多くみつかります。たとえば「人は尊敬したまえ。だけど崇拝しちゃだめだ」というラーマのことばですが、これは宗教国家の中で理性が生きる道を示しているとは思いませんか?
ラーマは体内の梵天力によって、ついに超人となってしまいます。そのラーマにつきまとう女羅刹は、ラーマに対して憎しみと欲望を感じています。呪われた森での初戦は、人間側の勝利となります。しかし犠牲は大きいものでした。そして、それはあくまで「初戦」でしかないのです。森の敵は、異形のものとはいえ、せいぜい数百でした。しかしランカーの王は、人類世界を侵略するために、その一隻ずつに数百の阿修羅を積んだ数百万隻の軍船からなる無敵艦隊を出撃させようとしていました。さて……というところで次巻に続く、です。
そうそう、森を抜けてやって来るタータカーの巨大な姿の描写のところで、私は宮崎駿の「もののけ姫」を思い出しました。ただ、こちらの方がはるかに臭いのですが(なにしろ直径10メートルの糞の塊を投げつけてくるのですよ)。
本書には様々な宗教と人種とことばが自然に登場し、インドが多宗教・多民族・多言語国家であることを思い出させます。日本人作家の作品ではなかなかこういった描写に出会うことはできませねえ。インド神話の世界を楽しむだけではなくて、インド文化の骨髄にもちょっと触れることができそうな作品です。
どんな封筒よりも大きな切手
裏面に糊がつかない切手
リユース可能な切手
回数券方式切手
不可視切手
【ただいま読書中】
タイトルを見て「ひ〜がしにう〜みが♪」と歌い出した人は「キングゲイナー」に魂が毒されています。私は鼻歌くらいで止まりましたから、まだ大丈夫。ただ、本書は鼻歌混じりでは読めません。シベリアの収容所(バイカル湖と北極海の中間くらいに位置)をスタートとしてインドまで(ゴビ砂漠やチベットやヒマラヤを通って)徒歩で走破した人びとの物語です。
ポーランド陸軍騎兵隊中尉だった著者は、1939年ポーランドに侵攻してきたドイツ軍に敗れて(戦車と騎兵の戦いだったのです)故郷に帰った11月にNKVD(ソ連邦内務人民委員部)によって逮捕され1年近く暴力と虐待と侮辱を受け続ける生活を送ります。スターリンはポーランド人にはスパイがいると決めつけており、それを発見するために人びとは熱心に働いていたのです。しかし著者は「自白」をせず(だって罪状は事実無根なのですから)、裁判で25年の強制労働を言い渡されます。目的地はシベリア。家畜運搬車に流刑者はぎっしり詰め込まれ(身動きできませんからずっと立ちっぱなし、トイレは垂れ流し)、シベリア鉄道 の旅です。到着したのはイルクーツク、バイカル湖南端の町です。そこから冬のシベリアを徒歩で40日以上の行進をしたのち、第303収容所の暮らしが始まります。最初の仕事は、凍った地面の上に自分たちの住居を建てること。生き残るだけでも厳しい生活ですが、人びとは生活に適応し始めます。
思いもかけぬ出会いをきっかけに著者は脱走計画を立て始めます。著者は保存食料や毛皮を貯め仲間を集めます。集まったのは7人。ポーランド人、ラトヴィア人、リトアニア人、そして、アメリカ人。足あとを隠してくれる4月の大雪の日、彼らは有刺鉄線をくぐって脱走します。目的地は南。バイカル湖のあたりで持参した食糧は尽きますが、そこで、同じく収容所を脱走したポーランド人の少女が一行に加わります。
6月にモンゴル入国(もちろん不法越境)。外モンゴルを6〜8週くらいで踏破して、一行は、水も知識も持たずにゴビ砂漠に踏み込み、ついに犠牲者が出ます。しかし、泥水を啜り蛇を食べ、一行はついにゴビ砂漠を横断しました。しかし次の試練は冬のヒマラヤです。やっと突破できそうになった時に、皆は信じられないものを目撃しルートを変更しそして最後の犠牲者が出ます。
しかし、絶妙のチームです。冷静な長老役、サバイバルの知識が豊富な者、力持ち、身軽な者、士気を高めるユーモア担当、そして紅一点。脱走をするだけなら一人でもできるでしょうが、脱走の後逃亡をし続ける(6500kmを歩き通す)ことは、こういったチームでなければまず無理でしょう。
さらに、インドのイギリス軍に救助されてからも著者たちは新たな戦いをしなければなりませんでした。
「小説より奇」な事実を知りたかったら、本書をどうぞ。
むしゃくしゃするから、死刑!
──裁判員
さすがに裁判員は「誰でもよかった」とは言わないでしょうが。
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さて、まずは目次です。「プロローグ 闇に浮かぶもの」「第一部 何かが道をやってくる」……不気味な雰囲気がぷんぷんで、本文を読む前から嬉しくなります。
「蒼の皇子(上)」と同じく、また夢(あるいは夢のような世界)から本書は始まります。しかし、読み始めてすぐ私は微笑むことになります。夢が「蒼の皇子」と対称形に構成されているのです。男と女、戦闘と誘惑、そして転送。もちろん著者が意図的にしていることです。ただ第一巻をなぞっているのではなくて、この夢自体がラーマ皇子の運命に大きな影響があることは確かだ、という確信を読者に抱かせてくれます。
しかし女神の前で失言をして、謝れば敬意を失うことにつながり、傲慢は死を意味する時、ラーマが選んだ行為は……さすがとしか言いようがありません。ラーマの「選択」、これが本書のテーマの一つのようです。
そして「何か」が道をやってきます。地を覆う阿修羅の大軍が。
本書のタイトルを見ただけで、この大軍が聖都まで到達することは明かです。しかし著者は急ぎません。前巻での伏線を少し引き絞り、あるいは新たに伏線を張り、新しい人物を登場させ、あるいはあっさり殺し、読者の心をあちらこちらに引きずり回してくれます。
ランカーの王ラーヴァナは、直接的な軍勢だけではなくて陰謀の魔の手を聖都に伸ばします。一手二手と。守る側は、とりあえず目の前にある危機に対応する必要もありますが、根本的な手も打つ必要があります。それが何かは神ならぬ人間の目にはなかなか見えないのですが。梵仙も魔王も、お互いの打つ手は見えています。まるで将棋や囲碁のように陰謀でさえも彼らの目には明らかなようです。しかし、わかっていても詳しく説明はしてくれません。彼らは「駒」や「石」にあたる人間(や阿修羅)を動かし、相手の意図をくじくように局面を動かしていくのです。ただ、ただの駒や石と違って人は自分の意志を持ちます。それが梵仙にとっても人間にとっても問題なのです。
ラーマが都に帰らなければならない立太子の日まであと6日。阿修羅の軍が到達するのはおそらくあと2日。ところがラーマを導くヴィシュワーミトラは“寄り道”を始めます。説明はありませんが、おそらく大きな戦略の中での行動なのでしょう。ただし、人間の目から全能に見える梵仙でも全知ではありません。結末を全て見通しての行動ではなさそうです。
魔王ラーヴァナは不死の存在です。1500年前の神々との戦いでは神の軍勢をも屈服させ、和平協定で神は直接ラーヴァナに手を出すことが禁止されました。ではどうやってこんな存在を、人間が打ち破ることができるのでしょうか。
ラーマの母のことばが心に残ります。「わたくしたちは選びます。わたくしたちは光の中を歩くか闇の中を歩くか、選びます。わたくしは自分の道をずっと前に選びました。以来、ふり向いたことは一度もありません」このことばの「真価」は、そのあとに「闇の道を歩いた人」が光の道に戻ることもできる(もちろんそれには苦痛(自分が為したことを認めることの苦痛と償うことへのためらい)が伴うが、本人がその苦痛を引き受ける覚悟さえあれが決して不可能なことではない)ことへの言及が続くことにあります。「私、正しい人。お前、間違っている人」で胸をそらして高笑い、ではないのです。このことばの「意味」は本書では明らかにされません。しかし、後日明白になるはずです。
咳とくしゃみとゲップが同時に出たくなった時、どれが最優先なんでしょう?
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目次「第二部 二つの塔」「第三部 天空の劫火」
ラーマ皇子たちが旅先で出会ったのは、放浪クシャトリヤの二人組でした。これは「運命の出会い」でした。なぜならそれによってラーマ(と他の兄弟たち)は妻を娶ることになるのですから。
阿修羅の大軍は、一番防衛の薄い信仰と学問の国ミティラーを目指します。阿修羅軍を率いるラヴァナーはその前に「戦利品」を獲るためにミティラーに姿を現します。そこの皇女シーターを妻として略奪しようというのです。しかしその企てはラーマたちによって挫かれます。
アヨーディヤーの内部に巣食うラヴァナーの手先の存在がついに知られるようになります。しかし、城内の人びとは信じません。自分たちがそんなに簡単にだまされていた、とは認めたくないからかもしれませんが、「自分たちはだまされていた」「陰謀が進行中だ」と言う人の方を責めます。
ついに阿修羅800万の大軍がミティラーに殺到します。梵仙ヴィシュワーミトラは、最終兵器とも言える梵天兵器を取り出します。しかしその発動には大きな犠牲が必要なのです。ラーマは常に身近にいる弟ラクシュマナとともに、その重荷を引き受けます。
本書の中心はクシャトリヤ(インドのカーストで、昔は最上位、現在はバラモンの次に位置する武人カースト)です。クシャトリヤからのバラモンに対する反感も登場はしますが、あまり露骨にカースト間での対立や差別は描かれません。インドのカーストが私が想像するほど差別的ではないのか、あるいは著者の21世紀翻訳版ゆえなのかは私にはわかりませんが。
さらに面白いのは、神が至高の存在ではないことです。神自身も人や悪魔と同様に、もっと大きなものの一部なのです。キリスト教圏の人間がこういった考えを読んでショックを感じたかどうか、知りたい気分です。「異教徒の考え」だから、気にならないかな?
下流:生きるためには働かなければならない
中流:働いてもいいが遊んでいてもとりあえず生きていける
上流:使っても使っても財産が増えて困る
ストックとフローの問題もありますが、とにかく私は下流だな。
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1998年、53歳で失業した著者は1年間仕事が見つかりませんでした。“最後の砦”である運転手と警備員だけはイヤだ、と思ってはいたものの、年齢の壁は高くてどこも断られ続け、やっと「公共施設の警備員」の職をゲットしますが(それでさえ、58人応募して採用は8人)、内容は霊園の警備。日給は7500円。
105ヘクタールの敷地を自転車に乗って巡回を繰り返し、閉園時刻には駐車している車を園外に追い出すだけの、退屈な時間が流れます。著者は変わった碑や墓誌を読むことを日課にします(たとえば昭和20年3月10日と刻まれた墓石がやたらと多い霊園でした)。たまに火事騒ぎや自殺者が出ますが、それは本当に希な“イベント”です。著者が困るのは、むしろ捨て猫の方です。どうしても冷たくできないのです。しかし、猫よりも大きな生物が霊園には多くいました。
霊園にはホームレスが多く出入りしていました。住んでいるわけではなくて、“いる”感じです。夫婦のホームレスや車生活者(高級外車も混じっています)、警備員の制服を着たホームレス(一度は警備員の職に就いたものの、そのまま会社に制服を返却せずに辞めてしまった人でしょう。会社の方としても「研修期間中の賃金は、制服を返却したら払う」という予防措置は取っていますが……)。
本が進むにつれて少しずつホームレスの記述が増えてきます。接触・情報収集、と言えば聞こえはよいのですが、著者は明らかに逃げ腰ながら彼らの“テリトリー”に一歩ずつ踏み込んでいきます。やがて、同じに見えたホームレスにも様々な人生があることがわかってきます。ホームレス同士の喧嘩には警察は出てこないとか、ホームレスには歯がない人が多いとか、「ふうん」と言いたくなる観察があります。ただし、著者は単にホームレスに同情だけしているわけにはいきません。彼自身、仕事が切れたら(霊園の警備の仕事は1年契約なのです)また職探しです。本書は2000年の1月になったところで終わります。著者はうまく次の職が見つかったでしょうか、そして、霊園のホームレスたちはどうなったのでしょうか。
本書で書かれている時は携帯電話は普及が始まった頃で、若い人はまだ職が探しやすかった時期です。日本はかつては「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」で「終身雇用制度はアメリカの雇用システムに“勝った”」なんて脳天気に言えた時代があったんですけどねえ。
著者は“善人”です。悪いことができず、他人の話を鵜呑みにしやすく(だまされやすく)、感情に溺れた行動をしがちです。そんな人でも、付き合いが長くなったらそれなりに人の話の裏を読むようになるところが微笑ましく読めます。
鎌倉武士の「やあやあ我こそは……」と名乗りを上げるのは、元の軍には通用しませんでした。人はルールが好きで、戦場にもルールを作りますが、それを守る人間ばかりではないのです。
近代には「宣戦布告をする」「戦うのは軍服を着た正規軍だけ」というルールがありましたが、これも20世紀には破られっぱなしでした。第二次世界大戦でさえ市民の無差別殺戮がありましたし、そのあとはゲリラ戦とかテロとか、もうルールもへったくれもありません。ブッシュ大統領は「これは戦争だ」と宣言しましたが、さて、彼はそこにどんな“ルール”を想定していたのでしょう?
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聖都決戦(下巻)に出てきたミティラーの王ジャナカのように、武人のクシャトリヤの中にも平和を愛しバラモンに傾倒する人がいます。そしてそれに対応するかのように、羅刹の中にも“変わり種”がいました。魔王ラーヴァナの弟ヴィビーシェナです。その肉体は羅刹には苦痛を与える聖なる河ガンガーの水でも浄化されず、その心は良心を持ち改悛と苦行と世界との調和を目指しているのです。これは、単なる「異なるもの同士は戦うのだ」ではなくて、お互いの中にある差異を認め、自分たちの中にある“異物”を認めることができたら、そのとき“解決”が見えるかもしれない、という示唆に私には読めます。
人間の目からは全能に見える梵仙も決して全知全能ではなく、さらに宇宙の歩む道をねじ曲げる力は持っていません。しかしそれでも梵仙は人を導きそして自らも努力を続けます。
梵天兵器を使った代償として超人的な聖なる力を失ったラーマは“普通の人間”として結婚します。といいつつ、神の弓を軽々と扱ったりすることはできるのですが。新婚初夜の夫婦の会話と美しい夜の描写で、一瞬読者も穏やかな気持ちになれます。
しかし、阿修羅の王ラーヴァナの魔の手は動き続け、王宮内ではラーマ追放の動きが始まります。「この国を危機に陥らせるのは、大王自身」という不吉な予言を私は思い出します。賢者は沈黙を守ります。未来がわからないのか、それともわかっていてもそちらに歩むのが人びとの「運命」だからなのか。
しかし……「悪」の側はつねに両面作戦あるいは一石二鳥をねらうのに、「正義」の側は常に一対一対応しかしません。目の前の一つを片付けて「ああ良かった。一件落着」です。これでは戦争に勝つことはできません。まあそこで「神の力」とか「梵天力」とかが持ち出されてなんとかつじつまは合うのですが、(TVの○○レンジャーなんかでもそうですが)どうして「正義」ってのはあんなに頭を使わないのでしょう。不思議です。しかも「ダルマ(倫理的義務)」とか「誓い」とか(日本的なことばを使うなら「スジを通す」とか「義理」とか)、自ら望んで自縄自縛状態です。敵に勝つ(味方が殺されない)ことよりも大切なことを見つけることに熱心です。これで戦争になるんでしょうか。
封建的社会では、上下の関係がほぼ絶対です。王に逆らう臣下、隊長に逆らう部下、親に逆らう子、師匠に逆らう弟子なんてものは「あってはならない」ものです。しかし、それでも時と場合によっては逆らわなければならない場合もあります。本書では「逆らわないこと」が強調されます。このシリーズの最初の頃では「逆らうこと」がけっこう登場したのに。
「戦い」は、もしかしたら阿修羅(=人間の外側、人間以外の存在)に対するものではなくて、人間そのものに対して行われるようになったのかもしれません。
ラーマは追放され、そして王宮の中で魔王がその牙をむきます。
暑いですねえ。エアコンをじっと我慢していると、なんだかそのまま自分の体が一夜干しかスルメになってしまいそうです。
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追放されたラーマ一行は川辺で足止めをくらい、そこに人びとが集結します。人びとはラーマの追放を認めません。哀しみと怒りが国土を支配します。
哀しみと怒りは王宮の中にも渦巻いています。阿修羅の手先によって為された陰謀で、正当な皇太子が追放されたのです。棚ぼたで皇太子の座を得たバラタですが、兄ラーマへの思いと自身の正義感から皇太子になることを認めようとはしません。
しかしラーマは、父の名誉と自分のダルマ(聖なる義務)を守るためには、全てを捨てる覚悟です。ラーマは頑固です。しかし兄弟たちも頑固です。ラーマが戴冠するべきであり、ラーマが戻らないのなら自分たちも都には戻らない、とします。王が死に、皇太子どころか皇子たちが不在となってしまいました。ただしそれは、本書に登場する“蛮族の王”の言葉を借りるなら「偉大さが偉大さを引き出した」結果でした。しかし、阿修羅がうようよ住む丘でラーマは不殺生(少なくともこちらからは先に手を出さないこと)を守ることを求められます。
王が死んだのは人間界だけではありませんでした。阿修羅の世界でも王は生ける屍となり、もともと憎み合っていた各種族による内乱が起きます。そして女阿修羅、本シリーズ第1巻に出てきてずっとラーマにつきまとっていたシュールパナカーが、ラーマに迫ります。殺すためではなくて愛と情欲のために。しかしシュールパナカーが侮辱され拒まれた時、14000の羅刹が3人の追放者に殺到します。多勢に無勢、意外な味方のおかげで一息つけたラーマですが、そのときさらに意外な軍勢が出現します。なんだか読んでいて嬉しくなってしまいます。運命に厳しく縛られたラーマなのに、その運命はなんて素敵なサプライズを用意していたのでしょうか。
本シリーズでは、バラモンが望んで苦行をするシーンが繰り返し登場します。そしてラーマの選択は、そのバラモンの苦行をクシャトリヤが行ったらこうなる、というものかもしれません。とにかく私はラーマの選択に無条件で賛成はできませんが、少なくとも読んでいる者の背筋が思わず伸びるようなその潔さは、ほんのカケラだけでも良いから見習いたいとは思います。これも「偉大さが偉大さを引き出す」効果でしょうか(私は自分が偉大な人間である、と主張しているわけではありませんが)。
食品偽装のニュースの後の街頭インタビューで「何を信じたらいいのかわからない」という人が次々登場しますが、問題は「何を信じる」かではなくて「なぜ信じるか」の方ではないでしょうか。見ただけで「これはホンモノ」とわかる目がある人は自分の目を信じればいいし、噂や表示を信じる人は信じる理由として「噂ではこう言っていたから」「こう表示してあるから」と信じれば良いのです。で、たとえば「表示を信じる」と決めたら、決めたのは「私」です。だまされたとき言うべきは「何を信じたらいいかわからない」ではなくて「表示を信じると決めた私が間違っていた」でしょうね。
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第一次世界大戦後、ドイツは全ての海外植民地を失い国土は削減され天文学的な賠償を科せられました。それでもドイツは民主的な国を作ろうとしましたが、そのとき手をさしのべようとしたブリアンはフランス国内で反対勢力にひどく足を引っ張られました。ところがブリアンの足を引っ張った人びとが絶望的な国内情勢を利用して台頭したヒトラーには援助の手をさしのべました。これが逆だったら第二次世界大戦は起きなかったかもしれない、と著者は述べます。当時の自分の行動を振り返り、自省を込めて。
著者は1936年に、自分の作品(イラスト)でドイツがフランスに侵攻する場所とその日を予言します。その予言は当たりました。日時は数日しかずれず、場所はどんぴしゃ。「普通に考えたら場所は決まるし、時期も数年前なら大体見当がつくはずだった」と著者は述べます。実際それに近いことを言っていた人はけっこういたようです。ただしフランス軍部はそうは考えませんでした。マジノ線の陰に静かにうずくまっていたら、ナチスの軍勢はよそに向かうはず、と思っていたのです。チェコが犯されポーランドがそれに続いても、フランスは動きませんでした。そしてベルギー経由での侵攻が始まり、3ヶ月でパリは陥落します。
徴兵されていた著者はそこで復員し、ナチスに占領された北フランスに帰ります。
暴虐に耐え破滅に瀕しながら、著者は秘密出版によるレジスタンスを始めることを決意します。ナチス(あるいはフランスの傀儡政権)にばれたら、即座に銃殺になる危険を冒すことになりますが、フランスの「意志」を世界に示すために著者は危険な道を選んだのです。謄写版刷りではなくてきちんとした本にするために印刷所と発行所を決め、秘密出版所の名前を「深夜出版」とします。書くのは簡単ですが、実際は大変です。紙は配給制ですから、ドイツに知られない闇ルートを使う必要があります。秘密を守るため関与する人間の数は最小限に、それぞれの拠点は分断しなければなりません。しかしそうすると途中の輸送の手間が増え、秘密がばれる危険性が増します。さらに配布は広く行わなければなりません。しかし著者はルートを確立します。「フランスの精神」が死んでいないことを出版によって知らしめるために。
「深夜出版」の第一作は、著者自身の処女作『海の沈黙』でした。この小説は出版前からレジスタンスたちの間で評判になります。きっと一流の作家が匿名で書いたに違いない、と。さらに本は外国に持ち出され、そこでも評判になります。誰が作家の「ヴェルコール」なのかの詮索が始まります。もちろんナチスも必死に捜索したでしょうが、著者の身が危険になることは結局ありませんでした。レジスタンスに対するナチスの迫害は続きますが、深夜出版からは次々本が出されます。
やがて戦況が傾き、パリ解放の日が近づきます。するとパリには秘密出版が次々出現。まるで「われこそは本当のレジスタンス」と言わんばかりに。さらに戦後の主導権争いも始まります。著者はそういった動きを冷めた筆致で描写します。その冷静さはパリ解放後著者が「英雄」となっても変わらなかったようです。著者は「日常」を取り戻すために戦いました。そして、やっと取り戻した「日常」は、猥雑でどろどろしたものだったのです。
「心は、満たされるべき器ではなくて、灯されるべき火である」(プルタルコス)。私が好きなことばの一つです。著者は火を掲げて進み、その周辺で「自分の心をその光で満たしてくれ」と叫ぶ人たちと、戦争後はまた別の物語を生きていくのです。