mixi日記08年8月
神話や伝説を創作する面で参加したくて、でもその能力がなかったら、良き読者になるか、あるいはそれを茶化す側に回る、しか選択肢はないのかな?
【ただいま読書中】
『ヴェネツィアに死す』トーマス・マン 著、 岸美光 訳、 光文社古典新訳文庫、2007年、419円(税別)
50歳で貴族の称号「フォン」を得た高名な作家アッシェンバッハは突然の衝動に駆られて旅に出ます。そのときの幻想的な描写は「この話は幻影です」という宣言のようにも見えます。ただし、衝動の割には心を決めるまで4ページを費やしてから、彼は出発することにします。
ヴェネツィアでアッシェンバッハはポーランド人一家と出会います。その中の14歳くらいの美少年タッジオにアッシェンバッハは心奪われてしまいます。おやおや、ここまででもう50ページが使われています。このゆるやかなペースはまるで19世紀の小説のようですが、そういえば著者は19世紀生まれだったんですね。
しかし、なぜポーランド人なのでしょう。当時のドイツ人にとって、ポーランドはなにか特別な意味があったのでしょうか。
タッジオはどこから見ても完璧な美少年ですが、ただ、歯に難点があります。しかしアッシェンバッハはそれさえも魅力に感じます。あばたもえくぼ、です。一度はヴェネツィアから逃げだそうとしたアッシェンバッハですが、事故で果たせず、まるで開き直ったようにホテルに長逗留してタッジオの姿を追い続ける覚悟を固めてしまいます。しかしそこにコレラの噂が。アッシェンバッハはおそれません。彼がおそれるのはタッジオの一家が帰国してしまうことだけです。
幻想のように始まった物語は、アッシェンバッハの死によって静止画のように閉じます。
「初老の男の少年愛」というのは、当時はセンセーションだったでしょう。しかし私は(個人的な性的嗜好はともかく)「お稚児」とか「若衆」とか、男色が伝統文化に組み込まれている国の国民です。その程度のことばにたじろぐわけには生きません。そもそも性的なものどころか、アッシェンバッハとタッジオは言葉を交わすことさえなかったのです。
「ことばで美が表現できるか」という難問に挑戦した本であるように私には読めます。ことばは戯れたゆたい、ちょっと油断したら「美」そのものではなくてその周囲の人間を描写することに逃げようとします。そのたびに著者はことばの群れを改めて「美」そのものに向けようとします。あるいは「美をことばで表現しようと苦闘する人間を、ことばで表現しようとしたもの」とメタ的に言ってもよいかもしれません。ともかく、暫時ことばの魅力(あるいは魔力)の中を漂うには手ごろな本に思えました。
さて、次に読むべきは『ロリータ』かな?
攘夷の直後は文明開化でした。
鬼畜米英の後はぎぶみーちょこれーとでした。
では、次は?
……ところで、今日本で流行っているのは、なんでしたっけ?
【ただいま読書中】
大正時代頃にはマスメディアを通じての「広告」が一般に受け入れられるようになり、広告の技術も磨かれます。画家くずれではない専業のグラフィックデザイナーや作家くずれではない専業のコピーライターも出現します。(そういえば、一昨日読書感想を書いた『沈黙のたたかい』の著者もグラフィックデザイナー出身でした)
しかし昭和になって、商品を売るための広告は減り、そのかわりにプロパガンダが増えます。「贅沢は敵だ」で宣伝は下火となり、さらに新聞は用紙割当でページ数を減らし、1942年の新聞広告は37年の4割にまで落ち込みました。広告従事者たちは、生きていくために国家宣伝に従事せざるを得なくなります。官庁広告はどんどん増えていたのです。
「報道写真」という概念も登場します。これはニュース写真の実用性と社会性に芸術性をプラスしたもので、組写真としてグラフ誌に印刷されることで大衆のイデオロギー操作に役立つ、とされました。つまり「報道」は「プロパガンダ」と同じものになってしまったのです。
昭和15年は紀元2600年で、本当は日本で初めての万国博覧会が開かれるはずでした。そのかわりに朝日新聞は西宮球場全部を使って、昭和13年に聖戦博覧会、14年に大東亜建設博覧会を開催します。観客席も含める大戦場パノラマだったそうです。乃村工藝社は両国国技館で奇抜な戦争見せ物を催します。百貨店は国策で購買心を刺激することを禁止され、各種の展覧会を開くことで国に協力することになります。毎日新聞も負けてはいません。西日本から朝鮮までを舞台に様々な展示会を行い800万人を動員したそうです。
森永製菓広告課にいた人間たちが中心となって、昭和15年に報道技術研究会が結成されました。はじめから内閣情報部とは緊密な関係を持っていた彼らは、企業の活動のかたわらプロパガンダ活動を始めました。主なクライアントは、内閣情報局と大政翼賛会。彼らの他にも様々なグループが国の下請けとなって宣伝活動を行いましたが、この報道技術研究会は腕も実績もピカイチでした。腕さえ良ければ、売り込むのが商品でも思想でも基本は同じなのです。ポスター一枚にも、画家・図案家・文案家などがよってたかって「良いもの」を作ろうとしました。注文はどんどん増え、映画・歌・建築・工芸など各種の才能が結集します。出版・ポスター・壁新聞・移動展示展などで大忙しです。
意外にも、政府や軍のしめつけは(検閲や物資の配給を除けば)それほど厳しくなく、報道技術研究会は自由に仕事ができました。おそらく軍人や官僚は宣伝プロダクションのプロ集団を管理するノウハウを持っていなくて「丸投げ」するしかなかったのでしょう。さらに報研のテクニックが、当時としては新しいメディアミックスの手法であったことも「管理」を難しくしたのでしょう。
『沈黙のたたかい』では、ナチスに従って仕事をする人が「敵から小銭をかすめ取るんだ」とレジスタンスに向かう友人に言い訳をするシーンがありますが、日本の宣伝の人たちは喜んで「仕事」をしていたのでしょうか。それとも言い訳をしながら?
私がその立場になったらどうするか、と考えると一概に非難などはできませんが、それでもどこか行動に一本筋を通して欲しいなあ、と思うのはやっぱり世間知らずの言い分なのかしら。本書では彼らは「思想抜きの腕の立つ仕事屋(売るものが何でも、ただ良い仕事をするだけ)」だったと描かれていますが、もしそうだとすると、「宣伝」で宣伝されることの「中身」については、宣伝を聞く側が自分で判断しなければならないのです。宣伝テクニックに誤魔化されずに。
「他の文化・多くの国の人たちと対等に話ができる素敵な私」を夢見る人は、日本国内では「格差社会の上の人とも下の人とも、障害者とも、右翼とも左翼とも、在日の外国人とも対等に話をする」ことができるんですよね? だったら今日からでもすぐ実践できますよ。
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『ニュー・アトランティス』フランシス・ベーコン 著、 川西進 訳、 岩波文庫、2003年(07年3刷)、400円(税別)
著者はルネサンス期のキリスト教神学者・哲学者で(1561生-1626死)、帰納法の重要性を主張し、その影響で近代合理主義が築かれそれが近代科学が生まれる素地となりました。
このタイトルは、もちろん「アトランティス」について書き残したプラトンを意識していることは明白です。ただし物語は太平洋を漂流する船で始まります。1年もの漂流で船内では病人が多発(もちろん壊血病でしょう)。やっとたどり着いた島には、とても信じられない文明が……ここで私はもちろん千夜一夜物語やロビンソン・クルーソー、ガリバー旅行記を思い出します。ただし千夜一夜物語が西洋に知られるようになったのは18世紀。ロビンソン・クルーソーやガリバー旅行記も18世紀の作品です。大航海時代の影響でしょうが、著者の想像力には驚きます。ただ、太平洋の真ん中にキリスト教国とは……プレスター・ジョンですか? しかも彼らは、鎖国しているのにもかかわらず、世界中の情勢に通じ文化水準は世界最高を保っている……う〜む。
そうそう、壊血病が新鮮な果物でめきめき治る、という記載がさりげなくあります。ちょっと待って。イギリスで「壊血病にレモンやオレンジ」が常識になったのはたしか18世紀(キャプテン・クックのころ)では? ベーコンさん、すごいや。
「科学」と「技術(テクノロジー)」はよく混同されます。ならべて「科学技術」と言われることもあります。でも本当は「科学/技術」でしょう。たとえば核分裂の理論は科学/原爆の製造は技術です。(そしてその使用は政治と軍事)
この王国では、キリスト教と「人びとの徳」によって平安が保たれています。そして本書のテーマである「サロモンの家」。ここでは、医学・生物・化学・天文・気象・光学・エネルギーなど、様々な分野の「技術」が開発されています。特徴的なのはそれが各分野ごとにばらばらに進行するのではなくて、システマチックに行われていることです。さらに広報や教育も最初からそのシステムに組み込まれています。つまり本書では、「サロモンの家」のシステムそのものがいわば「科学」として表現されているのです。(まだ近代「科学」の無い時代ですから「科学」ということばは使われていませんが)
ルネサンス時代には「万能人」が重んじられていたはずです。しかし著者は個人に頼ることなく、様々な才能を持つ人間の集団がシステムとして、多様な技術を統括することで、人類の幸福が得られる、と言いたかったように私は読みました(本書は未完のため、結論は書いてありません)。さらに啓蒙主義の匂いもします。
日本は関ヶ原の戦い前後です。その時代にこんな凄いスケールでものを考えることができた人って、一体頭の構造はどうなっていたのでしょう?(と思うこと自体、逃げてますね。問題にするべきは、ベーコンの思想を私がどう取り込むか、なのですから)
薄い本ですらすら読めますが、歴史と思想(とくに科学史関係)について最低限の知識を持ってから読んだ方がよいでしょう。
炭坑や鉱山は1日2〜3交代制と聞きました。で、坑道の奥深くに水洗トイレなんか無いですよね? どうしていたんでしょう?
【ただいま読書中】
子ども時代の著者が住む町の男たちはほとんどが地底で働く環境です。その中から宇宙に目を向けるグループが出てくるのは、不思議です。しかし、ロケットボーイズには“味方”が次々登場します。高校の教師・新聞記者・炭坑の技術者・高校の生徒たち。
ただ単に(子どもの遊びとして)「ロケットを飛ばしたい」ではなくて、科学フェアに参加することがロケットボーイズの目標となります。郡・州・全国大会を勝ち抜けば、ど田舎の炭坑町にも優秀な高校生がいることを知らしめ、貧乏で大学進学をあきらめている同級生にも奨学金のチャンスがあるかもしれません。著者の肩はずしりと重くなります。
燃料はまた一段階進歩します。こんどは亜鉛粉末に硫黄を混ぜて密造ウイスキーで練ったものです。ハイスクールの生徒が密造ウイスキーを調達に行くところから私はげらげら笑いながら「これ、絶対映画化を狙ってるだろ」と思います。(実際、映画化されています。「遠い空の向こう」)
そして、町の鼻つまみだったはずのロケットボーイズは、未来と希望を失った町の人びとの希望の象徴になっていくのです。高校最高学年になった著者たちは、理想のロケットに挑戦を始めます。「高度2マイルまで飛ぶ」ように設計したらその通りに飛ぶロケットです。
しかし、全国大会直前の、ケネディとの出会い……これは本当なのでしょうか? もしかしたら著者はあの一言で世界の運命に影響を与えたのかもしれません。
全国大会、そして高校卒業。ロケットボーイズは最後の打ち上げをやります。最後のロケットは彼らが作った中で最大、長さは約2メートル、高度8000mまで飛ぶように設計されていました。そのとき著者の所にやってきたのは……いい話だなあ、としみじみ思います。
著者は自分が弱い人間だと思っています。しかし私から見たら「自分が弱いことを知っている人間」です(自分が弱さを知らない人間は、強いのではなくて、ただのアホ)。アメリカでは(男は)強いことが価値です。しかし著者はそれは鈍いだけではないのか、と感じているようです。炭鉱事故でかわいがってくれた人が死に父親が重傷を負った時、著者はそんな感想を漏らしています。
私には著者は「強い人間」に見えます。恋愛でも、手に届く範囲でよりどりみどりなのに、あえて“楽”をせず自分の意志を貫こうとします。だからこそそういった彼の人間性を慕う人間が彼の回りに集まるのでしょう。高校生にはそういった「自分の価値」は見えないものですけどね。
しかしまあ、著者は母を愛し父は嫌い、でも母が愛するのは父親。著者が愛する同級生は著者が嫌いなタイプの男ばかりをボーイフレンドに選びます。ありがちな話ではありますが、なんでこうなっちゃうんでしょうねえ。
もう一つ、著者は自分が育った町に好感を持っていないように書いている場面がありますが、実際には町とそこに住む人びとの描写は本当に細かく、この町を愛していた(少なくとも愛憎両方を持っていた)ことは間違いないでしょう。私には40年前に育った町をここまで活写することは無理です………………あ、けっこう思い出しました。
都市型の鉄砲水が報道されています。数年前だったか、広島でも下水道を点検中の人が突然の豪雨での増水で流されて死亡していたはず。嫌な予想ですが、これからも同じことは繰り返されるでしょう。
では、どうすれば同じことを起こさずにすむか、対策を考えてみましょう。
1)豪雨……これの対策はすぐには無理ですね。地球温暖化が豪雨の原因だったら温暖化対策をしましょうか。
2)下水道に雨が流れ込む……下水道を遮断して工事中にはドライにしておく、というのが対策になりそうですが、そんなことが物理的に可能なんでしょうか。昨日の東京は道路が河のようになったそうですから、それがマンホールから流れ込むでしょう。
3)早期避難が間に合わなかった……雨がぱらっと降るたびに避難していたら工事になりませんね。何か基準が必要ですが、今回は「水が膝まで来たら」という基準があったけれど増水があまりに早すぎて避難が間に合わなかったようです。となると、もっと実効的な(ゆっくりの雨ならゆっくり避難ができる/急ぎの雨なら大急ぎで避難ができる)基準が必要です。
アメリカの竜巻警報のように、局地的な鉄砲水警報が出せれば、それは有力な対策となるでしょう。ただし、条件がいくつかあります。「間に合うこと(降った後では手遅れ)」「周知徹底(警報の意味を市民が皆知っている。「警報は出したから、あとは知らんもんね」では困ります)」「警報の伝達(たとえば下水管の中にどうやって「警報が出たぞ」と伝えるか。今回はマンホールに頭を突っこんで「早く逃げろ」と叫んだそうですが、豪雨と水流の音で声はかき消されたでしょう。赤色灯など音に頼らないシステムが必要です) ただ、これが上手く機能したら、川遊びの人などにも警報を伝えることができそうです。
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『偽装管理職』東京管理職ユニオン 監修、ポプラ社、2008年、1000円(税別)
マクドナルド訴訟で「偽装管理職」は有名になりましたが、実は先例がたくさんありました。訴訟になったものだけで33件、うち原告側勝訴は30件。ということは、日本中にまだまだまだまだ偽装管理職の問題は存在しているということです。本書では「マクドナルド訴訟は“パンドラの筺”を開けた」と表現されています。
「管理職」と言っても「肩書き」に「長」とか「リーダー」がつくことではありません。
・自分で自由に出退勤ができる
・人事権を持つなど、経営と一体化した立場にある
・立場にふさわしい処遇・報酬を得ている
これができる人間が「管理職」です。勤務時間がタイムレコーダーに管理され、決済はすべて上司や社長の認可が必要で、安月給にあえいでいる「店長」は、したがって管理職ではないのです。
本書では、裁判になったり新聞記事になったものは企業の実名が出ていますが、あとの事例は基本的に匿名になっています(それでもある程度は推定できますが)。企業から名誉毀損で訴えられることをおそれての措置かもしれませんが、消費者としてはあまりまともでない(従業員がまともな処遇を受けていない)企業では購入をしたくないので、なんとかこういった企業名のリストを知りたいですねえ。
そうそう、本書には人事評価の話も載っています。人事評価をきちんとするためにはまず「この人に会社が何を期待しているか」の提示が必要です(「しっかり働け」「期待している」は不可。そんなのは企業自身が何をしたいのかポリシーがわかっておらず行動の指針が明確でない証拠であって、それで業績が伸びなかったらそれは企業(本当の意味での監督管理者)の責任です)。で、企業の目標と従業員への期待が明確であれば(会社と従業員がそれで合意したら)、その「期待」をかなえるために会社が何を提供するか・個人がどう動き実績を上げたか、が評価しやすくなります。つまり人事考課は、「個人」の評価だけではなくて「会社」も評価されているのです。
そういえば私もかつて、こういった「期待」が明示されない企業で働いていた頃には年1回の人事考課のシーズンが辛かったですね。「何を求められているのか」があやふやなまま「自分がこれから何を達成するか」を書かなければならないのですから。分野を限定すればそれは簡単ですが、ある程度全社的な視野(あるいは社会と企業の関係に関する考察)を持って書こうとしたら、企業の基本方針が見えないとまともなことを書くのは無理なのです。
戦争中には「お国のために」と勤労奉仕が求められました。かつての高度成長期、モーレツ社員は「会社のために」仕事中毒のように働きました。そして今、日本の社会に求められているのは、勤労奉仕の低コストでモーレツ社員のようにもりもり働いて文句を言わない人たちの群れなのでしょう。
会社に追い詰められたら「我慢して働き続ける(条件はどんどん悪くなる)」「辞める」の二択のように思えますが「言うことは言う、仕事は続ける」の3番目の選択がある、と本書では述べられます。それは「自分にとっても利益があり、かつ会社を改善することで他の人(会社そのもの)にも利益をもたらす」方法である可能性があります。ただ、「闘う(闘い続ける)」ことはしんどいんですけどね。一人でやり通すのは困難でしょう。昔とは違った意味で、労働組合には存在価値がありそうです。(そうそう、管理職は労働組合に入れない、もデマだそうです)
「枯れ木に花が咲くのを見た」と本気で言う人は、生物学の知識が不足しているのでしょうか。あるいは、まだ生きている木を枯れ木と判断したという点で観察力が足りないかもしれません。あるいはそんな揶揄を言う私の方にもしかしたら、生命に対する畏敬の念が足りないのかもしれませんが。
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『エクスペリメント』ジョン・ダーントン 著、 嶋田洋一 訳、 ソニーマガジンズ、2000年、1800円(税別)
生まれてすぐに引き離されて別々に育てられた双子が、お互いのことなど知らないのにそっくりの(それぞれ似た人と結婚し子どもにも似た名前をつける、などの)人生を歩む例がある、ということがまず紹介されます。
ニューヨークで新聞記者をやりながら、最近本も出版したジュードは、まさにその「生き別れの双子」スカイラーに出会います。しかしスカイラーの生い立ちは非常に奇妙です。まるで『モロー博士の島』のような状況に隔絶されて育ち、健康であることが絶対条件あとはどうでもいいようなまるで人間に対するのとは思えない扱いです。奇妙といえば、ジュードの生い立ちにも不自然な点があります。そのときジュードが追いかけていた殺人事件にも双子が関係しているフシがありますが、それに対する新聞社やFBIの反応も妙です。そしてジュードの恋人ティジーは、「島」でスカイラーの恋人だった(そして不可解な死を遂げた)ジュリアに生き写しです。
DNA鑑定でジュードとスカイラーは同一遺伝子を持っていることがわかります。しかし、テロメア分析ではスカイラーの方が5歳若いのです。すると……双子だけど片一方がしばらく受精卵を凍結されていたかあるいはクローンです。どちらにしても、誰が何の目的で?
何を探しているのかもわからないまま、三人は探索の旅に出ます。追跡の影におびえながら。やがて見えてきたのは、「人がなぜクローンを必要とするか」の恐るべき理由です(まあ、SFの世界ではさんざん取り上げられていましたけれど、現代社会を舞台にするとまた違った趣はあります)。
本書出版少し前に「クローン羊ドリー」が世間を騒がせました。そのこと、および、当時の科学の知見がほぼ正確に本書には盛り込まれています。(もちろんヘンテコなところはありますけどね。「散髪した髪の毛をDNA分析にかける」のは毛根がないと無理でしょうし、その分析をするのがそのへんで監察をやってる医者ってのも無理を感じます(「CSI」レベルの機材と人材が必要なはず)。1960年代に人クローン技術を開発した人がいた、というのも「ひえー」です。ただ、そういった「ウソ」がないと本書は最初から成立しないし、間違いは(私にとっては)許容範囲内でした。あまり都合良く「偶然」が続く理由も一応ちゃんと説明されていますしね。
クローンについては、SFや「ブラジルから来た少年」なんかで下地はできているのでそれほど驚きはありませんでしたが、人を子どもの頃から隔絶した環境で特定の育て方をしたらどのようになるか、について、著者がずいぶん楽観的な書き方をしているのが気にはなりました。「遺伝子がすべてを決定する」と言い出しそうな口調のくせに「でも人間は環境にすぐ適応できる(変化する)のだ」とも言われると「どっちなんだ?」と聞きたくなります。
……しかし、黙って相手の話を最後まで聞く習慣がない人間同士が大きな謎に巻き込まれると、情報の共有という最低限度のことさえ困難になるんですねえ。だからこそこういった話はアメリカを舞台にするのでしょうけれど、私にはちょっと進展がもどかしく感じました。手持ちの情報を小出しにして「すべてはあとから言う」なんて宣言をすることでわざわざややこしくするんじゃないよ、と思うものですから。
私の個人的体験からは、3つすぐに挙げられます。
1)読書感想文を強要する。
これをやられると、てきめん本を読みたくなくなります。読書嫌いは国語の力を落とすだけではなくて、語彙を増やしたり「世の中にはいろんな人や生き方がある」ことへの想像力を枯渇させます。
2)英語の文法を早くから教える。
中学校でSVCだのbe動詞がどうのこうの、と習って私は英語が嫌いになりました。もとい、大嫌いになりました。なんとか英語の力が回復したのは、高校でサイモンとガーファンクルの歌に出会ってその歌詞を丸覚えしてから意味を探る作業を繰り返してからです。
3)嫌な教師に出会う。
これの説明は不要ですね。
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著者の「ショパンが弾けた!?」を読んだだけで「英雄ポロネーズが弾けるようになりたい」と弟子入りを志願してきた48歳の女性(まったくの素人)に会った経験から、著者は「子どもの練習とは違う大人のためのレッスン書が必要なのではないか」と考えるようになりました。「ひたすら練習すれば上手になる」とは違った発想が必要なのです。
まずはミドルエージの特性。肉体的・精神的な条件が述べられます(「若い頃に比べたら」が列挙されますが、ミドルになるのは悪いことばかりではありません。たとえば、大人用のピアノで練習しなければならない子どもに比較して、すでに体格は大人なのですから有利です)。ピアノ・レッスンとは「ピアノを媒体にして“音楽”を習うこと」であり、「音楽」とは人生である、とも述べられます。その点でも大人の方が有利です。
練習は楽しむこと。そもそも楽しめなければ音「楽」ではありません。(その工夫をするのは教える側の仕事でしょうが) 楽しいことですから毎日少しずつ、疲れを残さないように。ウォーミングアップ・ストレッチ・筋力トレーニング・指ならし、そして曲の練習。ミドルで大切なのは「先に進むこと」ではなくて「復習」。そうそう、お肌の手入れも大切だそうです。手の皮膚がごつごつだったら指の動きに影響が出ますから。
「自信を持って弾ける曲」を一つ持つこと(もちろん暗譜で)。どんな小品や練習曲でも良いから、主題と構成を把握し自分のイメージを表現できるようになれば、「自分はピアノが弾ける」と堂々と主張できるのです。
平均律の話とか、ピアノの練習の基本はスケールとアルペッジョである、とか、理屈好きのミドルエージの興味を上手く引きつける構成にもなっています。だけど「上手な手抜き」のところ……私は素直に笑っちゃいましたが、“くそ真面目”なプロが読んだら怒り出すんじゃないかしら?
著者自身の体験からも、ミドルエージに無理は禁物、しかし、楽をするばかりでは向上は望めない……そこのバランスを上手く取るのがミドルエージのやるべきことだそうです。
本書では、楽しみレベルで十分の人とやる以上は上級を目指す人を分けて具体的なアドバイスが書いてあります。ただ、著者が一番書きたかったのは、本書の最後に回されているレスナー(レッスンをする人)へのアドバイスの章ではなかったか、と思います。「専門家になるための訓練」を受けて育ったレスナーが、まったくの素人(それも「上手くなる」が至上命題ではない人)とどう付き合いどう指導するか、そこに存在する一種のカルチャーギャップをどう乗り越えていくかのアドバイスの章なのですが、なかなか味と内容のある文章です。心理学的に分析したら、けっこう面白い論文になるんじゃないかと思います。
アメリカ原子力潜水艦の放射能漏れにしても中国の毒ギョウザにしても、外務省に情報が入ってもそれが日本人のためには適切に処理されないことはよくわかりました。情報を握りつぶすのは当たり前で、相手国にきちんと抗議したり改善を確認に行ったり、は一切無いわけです。「日本の外務省」ではなくて「相手国の出張広報機関」なのかしら? それだったら給料は日本の税金ではなくて外国からもらえばいいのに。ついでに名前も「外向き省」に変えたら?
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10世紀の中国、宋は万里の長城から南へ広く侵入している騎馬民族国家遼と大きな戦いをしたばかりでした(燕京(現在の北京)は遼の冬の首都となっています)。宋軍の中核である精鋭楊家軍は内部の陰謀で壊滅し、有能なのになぜか国境守備隊でくすぶっていた将軍は戦いで重傷を負って記憶喪失となり遼に囚われて石幻果と名付けられます。遼でも一番の猛将耶律休哥(やりつきゅうか)は皇太后の機嫌を損ねて軍の主流から外れ地方の将軍となっています。宋も遼も、勇将や猛将は少なく凡将ばかり、というありさまでした。しかし耶律休哥は石幻果の中にきわめて優秀な資質を認めます。
本書はそこから始まります。
耶律休哥は石幻果を引き立て、一軍を任せます。石幻果は皇太后の娘を娶り遼である程度確固たる位置を占めるようになります。遊軍である耶律休哥と石幻果はともに5000の騎兵を率い、その何倍もの宋軍を翻弄するようになります。数万の敵を相手に、スピードと機略を武器に大勝(わずか数十の犠牲で敵には数千の出血を強いる)をするのです。
一方宋では、楊家軍が再興されようとしていました。ただし総帥となった六郎は、裏切りによって父と軍の大半を失ったことから宋に対する警戒心を持っています。さらに楊家軍は、遼に対抗するために同じような騎馬隊として編成され、こちらも遼の大軍を翻弄するようになります。
機は熟し、遼と宋はまたもや一大決戦を行うことになります。しかし、大軍同士の決戦は犠牲が大きすぎます。おそらく勝敗の帰趨を決するのは両方の遊軍(遼は耶律休哥の軍、宋は楊家軍)の働きによるだろう、と見る目を持った人間は意見が一致しています(見る目がない人間は好き放題を言って威張っていますが)。
石幻果は楊家軍の兵士と出会い「四郎様」と呼びかけられます。ためらわずに相手を切り伏せた石幻果ですが、失われた記憶の中で何か動くものを感じます。
宋の内部は一枚岩ではありません。文官は国を富ませることに熱心でその富を浪費する戦争と軍人が権力を握ることを嫌います。軍人は「自分たちを軽んじたら戦争に負けるぞ」と思っています。帝はそのバランスを取らなければなりません。そのなかで楊家軍は政治と軍事の間で綱渡りのような戦いを続けます。
そして、戦場での邂逅をきっかけに、石幻果の記憶が蘇ります。それは石幻果にとっても、周囲にとっても、あまりに重い記憶でした。
大草原での騎兵隊同士の戦いが、まるで将棋かチェスのようにスピーディーに描写されます。相手の位置と動きと地形によって少しでも自分が有利になるように先を読みあい、自分の隊の編成を瞬時に変更していきます。実際の戦いがそのように行われたかどうかはわかりませんが(そもそも馬が数時間全力疾走できたかどうか私にはわかりません)、ただ単に兵力差のみで勝敗が決するのではない、という本書内での主張には私は素直に肯いてしまいます。
日本人にはあまりなじみのない時代ですが(ここから100年くらいして、遼の支配下にあった満州の金が力をつけて結局遼を滅ぼし宋の北半分を占領、その次が元の時代です)、著者はまた面白い時代に目をつけたものだと思います。
「世界で6位」に対して「メダルに届かず」、「銅メダル」に対して「金じゃない」とまるで貶めるようなことを言ったり書いたりする人がいますが、「世界で6位」「世界で3位(銅メダル)」がそんなに大したことじゃない、と言う人は、何様? 世界中でその人より上が5人しかいない・2人しかいない、というのはとてつもなく凄いことだと思うし、そもそも「日本の代表(日本でトップ)」の時点ですごい人だと私のような凡人は思うのですが(世界でダントツのトップの人からは「なんだ3位か」と思えるかもしれませんが)。
さらに私は、彼ら・彼女らが日本でトップになったことに対して1mgの貢献もしていませんから、素直に拍手を送るだけです。
自分が楊家の一員であったことを思い出した石幻果は、宋と遼の間にはさまれて苦しみます。どちらを選択すればよいのかわからないのです。しかし、耶律休哥との命をかけたやり取りの中で、自分が何者であるかを見定めます。「耶律休哥の息子」という立場です。「戦場であっさり死ぬこと」を理想としていた耶律休哥ですが、自分とは違う視野を持つ将軍や太后の思いを知り、さらに苦しむ石幻果を自分の息子と思い定めたことから、生き方が少し変わってきます。さらに耶律休哥は自分が死病にとりつかれていることを自覚します。いつどう死ぬか、それも自分のためだけではなくて他の人にとって自分の死がどのような影響を与えるのか、そういったことを彼は考え始めます。
北方の遼は、兵は精強ですが人口は少なく実りは豊かではありません。対して宋は、兵はそれほど強くありませんが国は豊かです。したがって、小競り合いならともかく、大軍同士の決戦を繰り返せば繰り返すほど、勝っても負けても遼は苦しくなっていきます。飢えに苦しむ遼では国の存亡をかけた一大決戦を行うことを決定します。首府そのものを囮とした空城の計です。石幻果は楊家軍との最後の決戦へと馬を走らせます。
上巻と違って、下巻では戦場のシーンよりも「継承」が大きな問題として宋でも遼でも何回も登場します。人は死んだらそこでお終いのはずですが、そういった人の血・家・思いを継ぐ人びとがいることで、人生の意味は大きく変わっていくのです。楊家では、六郎たちの父であった楊業の思いを継ぐ人びとがいます。それは血族だけとは限りません。遼では、耶律休哥の思いは石幻果に、そしてさらに別の人びとに受け継がれていきます。情勢がかわり、宋と遼に和平協定が結ばれても、そういった人びとは、受け継いだ思いを抱えながら自分たちの人生を生きていきます。平和な状態を楽しみながら死んでいった人びとの思いと共に生きるのです。草原の戦いで血を流した人びとがあの世からそういった人びとや国の姿を見て、できたら喜んでくれていることを祈ります。
「体温より気温が高い」と悲鳴を上げそうな毎日ですが、これを「低温サウナに無料で入っている」と思えば少しは快適に過ごせ……ませんか?
【ただいま読書中】
今から500万年前、厳しい寒冷化で海面は下がりアフリカは乾燥しました。森は縮小し、森に住む類人猿から現生人類の祖先が分かれます。(森に残ったのは、チンパンジー・ボノボ) 人類は二足歩行をし、チンパンジーとは違う社会構造を作ります(雌雄で別々のヒエラルキーで一握りの雄にだけ生殖機会の群れ構造 → 家族構造)。やがてアフリカから脱出した人類のグループは、たとえば東アジアではホモ・エレクトス、ユーラシアではネアンデルタール人となります。アフリカでも進化は進み、10万年前には解剖学的には現生人類とほぼ同じ形になります。狩猟採集民のような行動をとるようになったのは5万年近く前。「現生人類」の誕生です。
5万年くらい前、アダム(人類のY染色体をたどると行き着くたった一人の男)とイブ(人類のミトコンドリア染色体をたどると行き着くたった一人の女)を含む集団(おそらく150人くらい)が東アフリカから紅海(のおそらく南側)を横断してアラビア半島に渡りました。そこから海岸伝いにインドまでどんどんその子孫たちが広がり(現在の狩猟採集民族の生活から、移動を重ねる生活の上に、もめ事が起きるたびに家族単位で分裂していったのではないか、と著者は推定しています)インドで一時停止。そこから東(オーストラリア大陸や日本まで)と北西に拡大の方向が分かれます。ヨーロッパのネアンデルタール人と現生人類が衝突したのは45000年くらい前。両者の戦い(といっても“戦争”ではなくて、家族あるいは部族での縄張り争い)は15000年続き、最終的にネアンデルタールは絶滅します。
東アジアで、人類はオオカミを家畜化してイヌとし、それをつれてベーリング地峡を渡ります(時期については説がわかれていますが、全世界のイヌが東アジアのオオカミを祖先とすることは間違いないようです)。そのイヌが世界中に広まります。これはオオカミとイヌの遺伝子解析からわかったことです。それとほぼ同じ時期(おそらく15000年前)、近東で定住生活が始まります。面白いのは、農耕をするために定住したのではなくて、定住してから農耕が始まったことです。著者は、イヌという“私有財産”がそれに影響を与えたのかもしれないと推測しています。
類人猿の社会は意外に暴力的です。縄張り争いで他の群れの同族を殺しますし群れの中でも日常的に暴力がふるわれます。その目的は、自分が生き残ることと自分の子孫を多く残すこと。その特性は現生人類にも受け継がれていたはずです。しかし、言葉を使うようになり、それによって(たとえば宗教を持つことで)類人猿とは行動が変化した時、現生人類はこれまでの生物とは違う道を歩くようになりました。
本書の結論は「人類は他の生物と同様に大きな『生命の木』の無数の小枝の一本に過ぎず、他の生物と同様に進化の力を受けて発達している」ということです。これは結局(遺伝子もDNAも知らなかった)チャールズ・ダーウィンが言ったことに回帰しているだけですが、事の本質を見抜く目があればたとえDNAとか遺伝子工学なんてことを知らなくても歴史を貫く「真実」を語ることができるのですね。これは人に勇気を与えてくれる事実です。
そして本書に引用されているダーウィンの言葉もまた人に勇気を与えてくれます。人は別に努力したわけでもなく、自然に発生し進化の力で生物界の“頂点”にいます。しかし人は誇りを持って良い。それはなぜかと言えば「思いやり・善意・知性」があるからだ、とダーウィンは言っています。動物との違い、誇りを持てる根拠はそこにある、と。人は社会を作り、自然にではなくて社会に適応しようとして現在も進化し続けています。定住する前の、暴力と死が充ちていた世界とは別の世界へ適応しようと。(まだ「おれがボスだ」とお互い争い雌を独占しようとし同族殺しを続ける類人猿の世界に完全に決別はできていませんが、いつかはできると信じましょう)
若い時からプレイボーイと評判の男性俳優が、TVでさかんに「女心がわかる」と持ち上げられていました。
1)女心がわかる人間が「プレイ」をするんでしょうか。
2)そもそも他人の心って「わかる」ものなんでしょうか。もしわかるものだとしても、私には彼は「女心をくすぐることに長けている」としか思えなかったのですが。
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『ホルクロフトの盟約(上)』ロバート・ラドラム 著、 山本光伸 訳、 角川書店(海外ベストセラーシリーズ)、1980年(84年3版)、1400円
第二次世界大戦末期、潜水艦に多くの子どもたちが乗せられてどこかに出航していきました。ナチスの第3帝国は滅びるにしても、彼らを遠くで育てて将来第4帝国を興そうとしていたのでした。しかも、子どもの数は総数で数万人……
それから30年、母親がナチスの高級将校と離婚して帰国したためアメリカ国民として育ったノエル・ホルクラフトは、スイス銀行から父の遺書ととんでもない財産を示されます。改心した父は、ナチスの犠牲者に償うための財産をナチス内部で隠匿しスイス銀行で運用させており、7億8千万ドルになったそれを犠牲者に分配することをノエルにあの世から指示してきたのです。報酬は200万ドル。期限は半年。条件は、父の盟友二人の長子と協力すること。
ところが情報は漏れており、ノエルの周囲に殺し屋が出没し始めます。ノエルを殺そうとする者、邪魔をしようとする者、邪魔をしようとする者を殺す者……ノエルが話を聞き、帰国し、自宅に入っただけの道程で7人の死者が発生します。
ブラジルのドイツ人社会でノエルは命を狙われます。誰が味方で誰が敵なのか、さっぱりわかりません。どのドイツ人が今でもナチで、どのドイツ人が今では改悛したナチなのか、もさっぱりわからないのです。イギリスに飛んだノエルはやっと父の盟友の娘と会えます。しかし、それも罠でした。
ノエルの命を狙うドイツ人のグループは大きく3つに分かれていることがわかります。しかもそれぞれは敵対していてお互いを殺し合っています。もちろん彼らの言うことを聞かない人間もあっさり殺されます。さらにイギリス情報部がからんできます。こちらも内部で対立がある様子ですが、ノエルには詳しいことはわかりません。素人が首を突っこむにはあまりに剣呑な状況ですが、無傷で降りる道はなさそうです。偽造パスポートやプロの助っ人など身を守るカバーが全然ない状況で、ノエルはヨーロッパを移動し続けます。
やっとのことで、父の盟友たちの子どもと出会う手はずが整います。これで上手く3人がそろえば、巨大プロジェクトにゴーサインが出せるのですが、(数多くの)敵がそれを黙って見ているとは思えません。さらに、この「贖罪の金」自体にもなにか闇のにおいがします。ノエルの父の「贖罪の願い」は、本当にそのまま信じて良いものなのでしょうか。
というところで、下巻に続きます。
「ジュース」と言ったら果汁100%のこと、だけど「ミックスジュース」は野菜汁と果汁のミックスで果汁が50%以上のもの、がJAS法の定義です。私の子ども時代に行われていた、果汁ゼロでも平気で「ジュース」と表記、は論外ですが、「ジュース」の言葉の定義をまず覚えてそれからその例外も覚える、なんて面倒くさい手続きを消費者に強いるのはなぜ? 単純に「「果汁○%」を商品名の直後に(同じ大きさの活字で)表記」で良いんじゃないかしら。
「消費期限」「賞味期限」も、クイズの題材に最適です。その境目は「5日」で、決めるのは製造業者、なんてそのまま出題できます。かつては製造年月日も表示されていたのにどうしてこれを書かなくて良いことにしたのか、行政の意図がよくわかりません。
「カロリーゼロ」「糖質ゼロ」も実は正しい表記ではありません。健康増進法に基づく栄養表示基準では、食品100g(飲料100ml)あたり5kcal未満であれば「ゼロカロリー」、食品100g(飲料100ml)あたり糖類が0.5g未満であれば「糖質ゼロ」と表示してよいことになっています。「ゼロ」と「5(未満)」とはまったく違うと思うんですけどねえ。それだったら素直に「1缶あたり○Kcal」と表示した方が明快じゃありません?
日本のお役所って、消費者を謀ることに熱心なようですが、もうちょっと消費者に役立つ情報を提供して欲しいものです。「お役所の定義」の押しつけではなくて。
【ただいま読書中】
『ホルクロフトの盟約(下)』ロバート・ラドラム 著、 山本光伸 訳、 角川書店(海外ベストセラーシリーズ)、1980年(84年3版)、1400円
しかし「7億8千万ドル」といえばもちろんとんでもない大金ですが、それを「贖罪」に使うとどのくらいの使いでなんでしょうか。たとえばナチの犠牲者が数百万人だとしたら、一人あたり100ドルです。配る過程の経費も考えたら、何ほどのものでもありません。ノエルはそこまで考えているのかいないのか、ともかくその金を動かすために自分と働いてくれる“仲間”を探してヨーロッパを動き回っています。
いよいよラスボスの登場です。世界を股にかける殺し屋ティナモウがノエルに接近し、同時にイギリス情報部と世界を手玉にとって複雑な陰謀を成就させようとします。その第一歩は、ノエルを上手く操ってジュネーブの大金を第4帝国を興すために有効に使うこと。世界各地に潜伏している第3帝国の末裔たちに大金を配ると同時に決起の合図を送り、世界を混乱に陥れてそのどさくさに各地で権力を掌握しそのまま第4帝国を、というシナリオです。そのためには自分の同胞や仲間であっても、容赦なく切り捨てていきます。ただ、この陰謀はあまりに複雑すぎますし、ティナモウはあまりに露骨に姿を現しすぎます。さらにもう一つの暴力集団がその姿を現し事態を混乱させます。
“無邪気なアマチュア”であったノエルも少しずつ経験から学んでいます。ついでに(?)ロマンスが生じるのは、これはこういった小説では常道ではありますが、なんでこのヒロインがノエルに惹かれるのか、説得力のある理由は提示されません。何はともあれ、絶体絶命の罠からノエルを救うため、恋人と母親が別ルートでやってきます。それぞれ非合法な手段を使いながら。そして二人とも死の恐怖にさらされます。
複雑な筋立て、誰が味方で誰が敵かわからないままあっさり殺される登場人物たち、しぶとい悪役、アンハッピーエンド……なんというか、“普通のベストセラー”ではありません。だけど面白いことは確かです。もしも私がこの小説を書いたなら(あるいは映画の脚本にするのなら)エンディングはおそらく凡庸にまとめてしまうでしょう。それをしなかったのは著者の“手柄”だと感じます。
ただねえ、ノエルが建築家であることの意味が結局最後までわかりませんでした。主人公を建築家にするのなら、それになんらかの意味を与えて欲しかったのですが。
ずっと昔のことですが、岩国の米軍基地でうろうろしていてトイレに入って驚きました。小便に関しては日本とほぼじなのですが、その奥の「個室」に隣との仕切りはあるけれど扉がなかったのです。広い部屋の両側にずらりと便器が並んでいるので、つまり排便中はお向かいさんと目が合うわけ。気張った顔も瞑想中も誰かに見られちゃうの。これ、アメリカだからなのかそれとも軍だからなのか、どちらなんでしょう。
そういえば中国の共同便所では、コンクリの床にあちこち穴が空いているだけ(つまり、仕切りさえ無い。排便中に待っている人に話しかけられる)と聞かされてびびったことも思い出しました。実際に一度行った時には観光客コースだったせいでしょう、どこも日本とほぼ同形式の水洗トイレでしたが、バスの中から通りすがりに見た田舎の共同トイレはいかにもそんな雰囲気でしたっけ。
何を見せるか(見せないか)は文化によって本当に違うようです。そういえば銭湯でみなが裸、は西洋人にはショックだったそうですね。ということは、お互い様かな。
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『トイレの文化史』ロジェ=アンリ・ゲラン 著、 大矢タカヤス 訳、 筑摩書房、1987年、1900円(税別)
本書は、フランスの歴史を「排泄」の観点から語る意欲作(?)です。
便器に関する最初の記載は古代ローマ時代です。尿には様々な“効用”が認められ、税金もかけられていました。医者による検尿について本書では12世紀からの記録が紹介されていますが、古代ローマ時代にも尿検査は行われていました(見て触ってなめる“検査”です)。ちなみに「どんな病気も尿と糞で治せる」という“医学書”も本書に登場します。
ガルガンチュアでは排泄物についておおらかにしつこく言及されますが、これはラブレーの実生活の反映と著者は述べます(訳者は「文芸作品(フィクション)をあまりまともに信じない方が、と述べますが、私は著者の主張の方に賛同します)。中世の都市では、おまるの中身を窓から路上にぶちまけるのは普通のことでした。16世紀にはフランス各地で「住居に糞尿溜めを作るべし」という規則が制定されますが、どうもそのほとんどは死文だったようです。(「窓から(どんなものでも)街路に投げ捨ててはならない」という禁令は14世紀から繰り返し出されていたそうです。ということはこの“風習”は根強く続いていたということですね(江戸時代に日本で「犬を食べてはならない」という禁令が繰り返す出されたのを私は思い出しました)。本書では階上からの汚物を被るのは主に身分の高い人ですが、それは日記などで記録を残したのはそういった人だからでしょう。そんなひどい目にあった人は、実数では庶民の方がはるかに多かったはずです)
16世紀にはトイレを屋根裏部屋に作ることが流行しました。その方が臭気が早く拡散するのだそうです。17世紀の南仏では屋根裏ではなくて屋根の上で排泄するようになりました。雨水による水洗?
17世紀も、性器を人目にさらす(あるいは人の前で浣腸を受ける)ことはなんら問題のない行為で、モリエールも喜劇でそれを盛んに取り上げているそうです。1606年アンリ四世はルーヴル宮殿内を汚物で汚すことを禁じましたが、まさにその日に王太子が自室の壁に立小便をしている現場を取り押さえられています。この所かまわずの立小便は、男だけのものではありませんでした。貴婦人が、神父の前だろうが芝居小屋のボックス席だろうが、平気で放尿しています。身分が高い人はこうやって記録が残りますが、庶民がどんな生活をしていたかは推して知るべしでしょうね。ヴェルサイユでもあちこちに汚物が放置され窓からまかれていました。ただ、ルイ16世とマリー・アントワネットは「英国式トイレ」(壁の凹みに設置されたお尻洗浄機能付きの水洗トイレ)を使っていたそうです。1770年頃にはパレ=ロワイヤルに有料公衆トイレが登場。人が殺到して、使用する紙を適当な大きさに切るのに3人の人間がかかり切りだったそうです。
19世紀には「下半身の話題」は口に出してはいけないものになります。人は“お上品”になってきました。もっとも、人が口に出すことばは美しくなりましたが、パリは相変わらず悪臭紛々の不潔なドブそのものだったそうです。(現在のパリの街路にはペットの落とし物が大量にあるそうですが、それをほとんどの人間も堂々とやっていたら、と想像してください)
もうここには書ききれないくらい面白い話題がてんこ盛りです。便器の数々、糞尿だめから次々見つかる嬰児の死体、糞尿を扱った文芸作品、高層アパートでのトイレ、学校のトイレ、糞尿で窒息しかけるセーヌ川、トイレが英国式とかトルコ式と呼ばれる(つまり「フランス式トイレ」がフランスに存在しない)……ただ単に「下半身の話題(下ネタ・尾籠な話)を面白がってつつき回る」のではなくて、人びとの生活や「下品」という概念(常識)が時代や地域で様々であることを具体的に示すこと(たとえばフランスの宮殿で、排泄に関して「あの人はドイツ人だからお下品」と評判の女性がフランス人に対してショックを感じていたのは自分たちの月経に関してみなが男の前であけすけにしゃべること、なんてエピソードが紹介されています)で歴史と社会を立体的に描写した本です。「下品」(と自分が思いこんでいる領域)からとにかく目を逸らしていたい人以外にはお勧めします。
水着
スピード社の水着を着て勝っている選手もいますが敗れる選手もたくさんいますね。大会前のあの騒動は結局どんな意味があったのでしょう?(特に他のメーカーが「もっと良いものを出します」と言っていたのはどうなったのかなあ)
世界の柔道
柔道着をはだけて、へっぴり腰のレスリングスタイルでかまえて、場外ギリギリのところで技をかける、が世界スタンダードのJUDOのようです。「こんなの柔道じゃないやい」と言いたくなるのは、やっぱり私が古い人間だからでしょうね。
【ただいま読書中】
『ラーマーヤナ』阿部知二 訳、 河出書房新社(河出世界文学大系2)、1980年
7月に読書日記に書いたアショーカ・K・バンカーの『ラーマーヤナ』がとても面白かったのに1〜6巻までかけても日本語訳は未完だったため、元の話はどんなのか、ちょっと読んでみることにしました。学生時代だったら夏休み全部をかけての課題図書くらいの厚みがありますが、バンカーの本で下地はできていますから、たぶんすらすら読めるでしょう(甘い見通し)。
ラーマ皇子の生誕譚から始まりますが、ここですでに重大なヒントが。羅刹のラーヴァナはブラフマー神から「いかなる神・天仙・ガンダルヴァ(半神半人)・魔神にも殺されない」恩寵を受けていますが、つまりは人にだったら殺される可能性があるわけです。
神の恩寵を受け、ダシャラタ王の3人の妃は4人の王子を生みます。彼らが16歳になった時、聖者ヴィシュヴァーミトラが王宮を訪れ悪魔との戦いにラーマとその弟ラクシュマナを連れ出します。まずは女魔ターラカーを屠り、ラーマは神の武器を与えられます。
カイケーイー妃の奸計によって森に追放されたラーマは(バンカー版とは違って)一人で14000の羅刹軍を全滅させます。バンカーはそこまでに6冊を費やしていますが、本書はここまででたった144ページ。あとまだ300ページ以上残っています。バンカーさん、先は長いですねえ。
ラーマの妻シーターはラーヴァナに攫われます。追跡をするラーマたちは、鳥の王ジャターユから情報を得、猿の王スグリーヴァとその軍師ハヌーマン(風神の息子)の助力を得ます(この部分は私にはどうも好きになれないのですが……ラーマは他人(猿)の家庭争議に勝手にしゃしゃり出て片方をさっさと殺しその家族に「悲しむことは死者のためにならない」と説教するし(その悲しみの原因を作ったのはあんただよ)、殺された方の家族はあっさり新しい王に懐いちゃうし……)。ともかく集まった数十億の猿と熊の軍隊とラーマは海を渡って敵の本拠地ランカーに乗り込みます。少数ながら鳥の協力もありましたから、大変大がかりな桃太郎です。
ただ、本書の掉尾を飾るランカーでの大会戦で、ラーマは活躍しません。一番目立つのは、猿のアンガダ王子とハヌーマン、人間ではラクシュマナ、羅刹軍から寝返ったヴィビーシャナ(ラーヴァナの弟)。彼らの特徴は、単に強いだけではなくて柔軟に頭を使うことです。敵の戦略は何か・自分たちが何をするべきか・何をしてはならないか・それが未来にどのような影響を与えるか、それらを考えながら闘っています。ラーマは頭を使いません。「徳」と「義」と「力」でのみ動いています。目の前で起きることにすぐ動揺し感情が高ぶって失神します。ヒーローというより、頭が異常に固くて扱いの難しい最終兵器といった感じです。でもちゃんと出番があります。眷属諸将を失ったラーヴァナとの最終決戦です。舞台に出るタイミングとやるべきことを宿将や神々に教わって、さあ出陣。1週間ぶっ続けで闘ってついに神の兵器「ブラフマーの矢」をラーマは放ちます。
だけどそのあとが凄い。せっかく救い出したシーターに対して「他の男の家に長く逗留していたな。そんなふしだらな女は離縁だ」。シーターは炎に身を投げます。しかし火の神アグニは彼女を守り貞節を保証し、火によって浄化されたのだから、とラーマはシーターを受け入れます。メデタシメデタシ。ラーマはアヨーディヤーの都に“凱旋”します。メデタシメデタシ。
しかし、蛇足のようなエピローグでは、ラーマはまたもシーターの貞節を疑って追放します。まったくもう、と言いたくなりますが、神も勝てなかった羅刹を倒すヒーローには「人間離れ」していることが必要なんでしょうか。
ただ、この4万8千行の詩は、あらすじをたどるだけでは“価値”がわからないでしょう。話は大河のように悠々と進みます。そこに新しい支流が流れ込むと、その支流を遡っての話がひとつひとつ物語られます(新しい武器なら武器の由来、人ならその人の祖先について、など)。昔の物語はどこのものでもそういった“寄り道”が多いものですが、ラーマーヤナの特徴は「議論」が多くしかもそれが哲学的なことでしょう。さすがインドです。神・人間・羅刹までもが、味方同士あるいは敵味方の間で議論を盛んに行います。この文化的特徴は、現代インドにも引き継がれているのでしょうね。
よく行くパン屋は、消費税込み300円ごとにシールを1枚くれます。で、それを貯めたら景品と交換、というよくあるシステムです。昨日行ったらお勘定が1195円でした。あ〜、あと5円でシールが4枚になったのにぃ。
微妙に悔しい。
【ただいま読書中】
『ハックルベリイ・フィンの冒険』マーク・トウェイン 著、 村岡 花子 訳、 新潮社(新潮文庫)、1959年(96年70刷)、590円(税別)
やはり「夏休みの課題図書」はこれでしょう。トム・ソーヤーが楽しめた子どもがそれから2〜3年分成長したら、というか、大人が読むべき本ですが。
トム・ソーヤーとの冒険で大金持ちになった浮浪児ハックは、ダグラス未亡人宅に引き取られます。快適な森の生活から、堅苦しくベッドで眠り食卓で食べ学校に通う生活です。しかしそこに「おやじ」が帰ってきます。定職に就かず慢性アル中で子どもをなぐり気にくわない人にストーカーをする人間ですが、親は親。ハックはそこから逃げ出し、逃亡奴隷のジムと一緒に川の中州で暮らし、追っ手が迫ったため川を下って自由州(ジムが奴隷でなくなる場所)を目指します。(ここで重要なのは、ハックが別に人道主義によって動いているのではないことです) その途中で小悪党二人(自称「王様」と自称「公爵」)と道連れになります。そこから始まる、詐欺や窃盗の道中ははらはらどきどきです。なにしろ町の人たちが激高したら「リンチだ」であっさり殺されちゃうのですから。全身にコールタールを塗られ鶏の羽根をまぶされた姿で町中を引き回されてから吊される光景が本書にもありますが、暴力がむき出しでそのへんに転がっている時代だったのですね。
むき出しの暴力といえば、「ロミオとジュリエット」のように、仲が悪くてお互いに殺し合っている二つの家族から恋が生まれて、というエピソードも入っていますが、当時こんな殺し合いは日時茶飯事だったのでしょうか? もしそうだったら、(相手が女や子どもであっても)ただ単に殴ることが何の問題にもならないわけです。
例によって、著者はあちこちで“毒”を吐きます。本物の王様と本物の悪党にまったく差がないことに関する皮肉な考察のところで私は笑ってしまいました。
ある意味衝撃的なのは、競売で一家離散と決まった奴隷たちが悲しみに暮れているのを見て「黒人にも家族愛や感情があったのか」と白人が感じるシーンです。当時の人は奴隷をなんだと思っていたのでしょうねえ。少なくとも「人間」とは思っていなかったようです。
そうそう、煙草がよく登場します。コーンパイプ、葉巻、かぎ煙草、かみ煙草(葉をねじっただけのものや固めた板煙草)。子どももぷかぷか煙草を喫います。各国で煙草が専売制になるわけですね。
トム・ソーヤーは本書では脇役です。ただし、非常に重要な脇役です。『トム・ソーヤーの冒険』でトムは大人社会の矛盾をあぶり出す動きをしていました。本書でも相変わらずのマイペースで悪戯のし放題ですが、それを見るハックの(つまりは読者の)視点からはその行為は「子どもの悪戯」です。そしてそう思うハックの後ろ姿が「19世紀(南北戦争前)のアメリカ南部」の姿を照らし出しているのです。
なんだか、ミシシッピー川の河畔に立って行き交う蒸気船やカヌーや筏の姿を想像してみたくなりました。
豊臣秀吉は下克上でしょうか? 下から上がったことは確かですが、彼は信長を排除はしませんでした。信長の跡継ぎは押さえつけましたが。
そういえば家康も秀吉には逆らいませんでした。その跡継ぎは滅ぼしましたが。
結局肝心なのは、権力の移譲をいかに上手にやるか、なのかな。
【ただいま読書中】
『楊家将(上)』北方謙三 著、 PHP研究所、2003年、1600円(税別)
本書のあとに書かれた『血涙 ──新楊家将』を読んでからこちらに来ました。映画「スター・ウォーズ」のように、エピソードの途中から始めて最初に戻る、のルートですが、たまにはこんな読み方も面白いものです。
宋が中国統一を成し遂げようとしている前夜の時代、すでに呉越を降し、残るは北漢のみ。北漢の王は愚劣・怯懦・身勝手で、配下で一番の猛将楊業をもてあましていました。楊家二万五千の軍がなければ宋軍を撃退できません。ところが楊家が国を乗っ取るのをおそれてその力を増強させるわけにはいかない、と考えて戦では足を引っ張ることに腐心しているのです。自身を純粋な軍人と思っている楊業に国を盗るという野心はないのですが。
楊家の7人の息子たちは、それぞれ優れた武人ですが、自分たちの力に対する誇りと同時に、それを警戒し生かそうとしない(しかも自分は安全地帯に籠っている)北漢宮廷の態度に苛立っています。宋軍は膠着状態に持ち込み北漢に「楊家裏切り」の噂を流します。北漢の宮廷はそれを信じかけますが、楊業はそれを逆用しようと考えます。北漢と違って宋王は傑物です。北漢を滅ぼした後に楊家軍は軍事的にも政治艇にもいくらでも“使い道”があります。そのためにお互いにあまり損害がないようにして上手く味方に取り込みたいのです。楊業はついに宋に帰順することを決断。ただ、宋は文治国家を目指しており、軍人は欲求不満がたまりその鬱憤のはけ口が新参者に向かう傾向があります。さらに文官と武官の闘争があり、その矛先が真っ先に有能な新参者に向かう可能性もあります。それも覚悟の上での帰順です。楊家軍が抜けた北漢はあっさり崩れます。何が大事かを見抜けず大事なものを大切にしないものの末路です。
宋王の望みは北漢を併合することではありません。その北方、後晋のころ遼に献上された燕雲十六州の回復を悲願としています。しかし、国土のほとんどが荒涼とした土漠や草原の遼にとって、地味豊かな燕雲を譲るわけにはいきません。国の死活問題なのです。
北上する宋軍、それを迎え撃つ遼軍。宋の旗の下での楊家軍の初戦です。
遼の「白き狼」耶律休哥がここでさりげなく登場します。気性の激しい(しかし道理に外れることは少ない)太后の不興を買って辺境に飛ばされた将軍ですが、その軍事力統率力は抜群。宋に攻め込む遼軍に特別に加えられた彼の任務は、楊家軍を押さえること。親子二代にわたる長い長い物語の幕開けです。(ここで私は『血涙』のラストを思って、読み終える前から“余韻”を楽しんでしまいます)
耶律休哥の軍はもともと抜群の動きをしています。ところが楊家軍という“目標”が与えられたことによって、その動きはさらに強く巧妙なものへと進化していきます。事情は楊家軍も同様です。自分と同等あるいは自分より強い敵に勝つため、知恵を絞り訓練を重ね軍略を練ります。この二軍が他の軍より傑出してしまったため、のちに悲劇が生じることになります。
七兄弟はそれぞれ特徴がありますが、基本的な性格は「陽」です。ただ、四郎だけは「陰」の性格で、そのためもあって彼は楊家の名を隠して一人で辺境の要塞の守備に回ります。そこで彼は不思議な姫に出会います。
同じ「戦争」も視点が違えば違ったものに見えることを、著者は始点を次々移動することで示してくれます。文官の視点はほとんどありませんが、少なくともそういったものが存在することは示されています。あと足りないのは……女の視点、かな。
本で、はっきり見えない(あるいは変なものが見えた)ので目をこする、という表現が時々あります。これが私には不思議です。目を本当にごしごしこすったら、下手すると角膜に傷がついて見えなくなります。傷がつかないまでも、目をこすっている間視覚情報は遮断されていますから見えていません。「視覚情報になにか問題がある」疑いがある場合。その視覚情報を遮断するのは下策でしょう。行うとしたら、角度を変えて見る・距離を変えて見る・視覚情報以外を活用することを考える、くらいかな。
そうそう、「男子三日会わざれば刮目して見よ」の刮目は「目をこすってよく見る」ことです。連休後の職場や学校では、皆が目をごしごししているのかな。
【ただいま読書中】
『楊家将(下)』北方謙三 著、 PHP研究所、2003年、1600円(税別)
宋は30万の大軍で遼に攻め込みます。遼も十数万の兵で対峙しますが、耶律休哥は遊軍として宋軍の兵站を脅かします。楊家軍は、先鋒として遼の大軍をけん制すると同時に耶律休哥軍の活動を抑えることも求められます。大軍のおごりと内部抗争で宋軍はがたがたでしかも食糧不足、遼の誘いに乗って決戦を挑んだ宋軍が敗走した時には、楊家軍はしんがりとして味方の撤退を助け敵の追撃を払い自分たちの命を守りながら逃げるという難しい役をこなします。まったく、スーパーマンの働きを求められているのです。宋は7万の損害を出し、怒った帝は親征(帝自ら出陣)を決意します。しかし遼はその動きを逆用して、一気に中国中原を支配することを考えます。宋王は自ら罠に足を踏み入れてしまいます。身を守るのは半分に割られた楊家軍。
このあたりでそろそろラストが気になります。『血涙』で述べられた「裏切り」がどんな形で生じるのか、こちらには読めないのです。裏切られる以前に楊家軍は全滅の危機なんですけど。
「王家の血を引く」というだけで誰に対しても無理難題を言えると思っているつまらない人間が次々登場しますが、それは現代でも似たようなことが起きています。ただ、つまらない人間を増長させるのに周囲の人間の“協力”が必要であることも真実です。一体どうしたら「真っ当な人間」が真っ当に扱われるようになるのでしょうかねえ。
本書のラストは苦いものですが、明らかに「完結」ではありません。続編が必要になるわけですね。
ガソリンの高騰が止まりません。ガソリンスタンドのそばを通ると「今いくらかな?」とつい値段を見てしまいます。
それに対して、時間貸しの駐車場料金はむしろ下降気味の印象です。
今から40年くらい前、市内ではたしか「30分が80円」でした。当時、デパートの地下の立ち食いウドンが80円くらい、学校の食堂でラーメンが50円でした。
バブルの時期にはどんどん値上げして、一時市内中央部では30分が240円とか280円なんて値づけがされていました。それが今ではコインパーキングだと20分100円が大体の標準で、さらに半定額制(一定時間までは時間で従量制、たとえば4時間になったらそこで定額制(それ以上払わなくていい))もあちこちで見るようになりました。
我が家近くのJRの駅裏の駐車場は「40分100円」と表示されています。これだと40年前に戻ったんじゃない?
【ただいま読書中】
『医学が歩んだ道』フランク・ゴンザレス・クルッシ 著、 堤理華 訳、 ランダムハウス講談社、2008年、2300円(税別)
西洋医学のユニークさは「人体を系統的・科学的研究の対象にしたこと」(宗教的・思弁的には扱わないこと)である、と著者は始めます。
エジプトではミイラ作りは行われましたが、それによって人体の構造を学術的に記載したりその知見を医学にフィードバックすることは行われませんでした。医学的人体解剖は紀元前3世紀頃、アレクサンドリアでヘロフィルスやエラシストラトスが行ったのが歴史的記録としては最初のものです。その流れは2世紀のガレノスに引き継がれますが、そこから千年以上、人体解剖は不活発となります。キリスト教的には「神は自身に似せて人体を作った。それを“研究”するとは不敬である」となるのでしょう。その後大学の医学教育で人体解剖は行われるようになりましたが「エライ教授」が読み上げる「エライ人(ガレノスのこと)の教科書」に従って、無学な下っ端がメスを動かし、それを、ぐるりと取り囲んだ学生たちが見学しつつ手元の教科書をじっと見つめる、というスタイルでした。その“伝統”(とガレノスの権威)を破壊したのがヴェサリウスです。彼は自分が解剖し記録することで「自分の手と目で確認したものが医学の本質。“自分は手を動かさず誰かにさせる・権威の言葉に盲従する”は医学ではない』と主張しました。ヴェサリウスの“思想”は弟子を通じて広まり、それが新しい医学の“伝統”になります。
ヴェサリウスによる近代解剖学の確立は、近代外科のスタートでもありました。正しい解剖の知識がなければ当然まともな外科は成立しませんから。ヴェサリウスがいたからこそ「近代外科学の父」と呼ばれるパレやハンターが登場できたのです。さらにそこに麻酔や感染対策が加わることで「外科」が確立します。
ただ、本書の特徴は“真面目な話を並べること”ではありません。実は医師がいかにとんでもない間違いや失敗を犯したか、が列挙されているのです。ただしそれは過去をあざ笑うためではなくて、医学が「普通の人の普通の営みの集積」であることを示すためです。また、本書で紹介されている人びとの好奇心や楽天性には驚きます。笑気やエーテルが出てくるとまず皆がやったのは「笑気パーティー」や「エーテル祭り」です(皆が集まって集団で麻酔ガスを吸ってラリっちゃうのです)。X線が発見されるとあちこちの大都市に「コイン式レントゲン装置」が設置され、個人が自分のレントゲン写真を撮ることができました。ものごとを手っ取り早く普及させるのには、こういった“手”もあるんですね。
著者は、医学が「普通の人の手が届かないところにある」ことにも「あまりに普通になりすぎてしまう」ことにも反対のようです。前者だと医学が特権階級のものになってしまいますし、後者だとその辺の人が突然(まるっきり医学的根拠無く)医学的な“商売”を始めてしまいますから。医学が身近ででも特別なものであるために、私たちはどうしたら良いんでしょう?
「適当にやる」と言ったら実はきちんとやらずに「不適当にやる」ことです。
「いい加減にやる」と言ったら実はきちんとやらずに「良くない加減にやる」ことです。
「良心的な値段」とは単に「安い」ことですが、これはつまり「商人はみな悪徳」と主張しています。(で、商人のお返しは「勉強しまっせ」)。
「善処する」は「なにもしない」で、「前向きに検討する」も「なにもしない」でしたっけ?
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著者は、田中角栄時代に自民党本部に入り、その後新進党に移り、以後、太陽党・民政党・民主党で事務局長を勤めた人だそうです。
本書は1993年、細川連立政権の誕生から始まります。55年体制確立以来初めて自民党が政権を失った瞬間です。そしてそこから88年に朝日がスクープしたことから火がついたリクルート事件へと時間は遡ります。「政治改革」のかけ声のもと、結局行われたのは「制度改革」だけでしたが、89年の参議院選挙で社会党が大幅に議席を伸ばし、参議院での与野党逆転が実現します(当時の首相は、竹下辞任を受けた宇野。あの女性スキャンダルの)。宇野辞任により海部政権と小沢一郎幹事長が誕生します。さらに羽田が選挙制度調査会長として「政治改革」に参戦します。面白いのは、当時「政治改革反対派」の急先鋒が小泉純一郎だったことです(著者は、小泉が大先輩の伊東や後藤田に対して全然敬語を使わなかったことを印象深く覚えています)。小沢と羽田は「政治改革」をツールに使って規制制度をぶっ壊そうとします。YKKはその「政治改革」を潰すことで海部政権を転覆させ自分たちの誰かが政権を担当できるようにしようとします。「政治改革」って、江戸末期の「攘夷」と似てるのかな。便利に使えるスローガンだけど、誰も実現可能とは思っていない。
「政治改革」は結局ぽしゃり海部から宮沢に政権が渡りますが、そこに佐川急便スキャンダルが。内閣不信任案が可決され、自民党は分裂して新生党ができ、細川政権が誕生します。ただしこの政権、8党の共通点は「非自民」、共通の政治課題は「政治改革」のみでした。長く上手くいくわけがありません。(ちなみにこの選挙で、自民党はほとんど議席を減らしていませんが、社会党は半減して70になっています) 自民党は細川の佐川急便スキャンダルを攻め続け、政権内部では小沢と武村が激しく対立し、8ヶ月で細川は辞任します。後継の羽田は社会党の離脱で少数与党となってしまいます。「野党の悲哀」を味わった自民は、禁じ手とも言える「自社さきがけ」を選択します。ちなみに「社会党が、保守系が多数の内閣の首相になると、彼らの政策の“囚われの身”になるから、連立には参加しても首相にはなるべきではない』と言ったのは、1947年の西尾です。その意見を聞かず社会・民主・国民協同の連立政権首相になった片山内閣は10ヶ月しか持ちませんでした。そして50年後の村山も同じ轍を踏みます。(いっそ、武村が首相の方が結果として社会党は長持ちしたでしょうが、それだと社会党は連立に参加しなかったでしょうね) ちなみに、菅直人と鳩山由紀夫は当時のさきがけの中核メンバーです。ともあれ自社は「55年体制の維持」(それを破壊しようとする小沢封じ込め)で一致したのです。
「非自民」の側は、小選挙区で有利な「大きな政党」となるため、合併して新進党となります。理念や政策ではなくて「選挙で勝つ」ための政党です。「寄り合い所帯」という批判がありましたが、自民党も派閥の集合体で似たようなものではあります。新進党には内部抗争があり、小沢は自民党に対して保保連合を持ちかけます。自民党はそれを逆用して橋本総理に対する住専問題追及をかわそうとします。
太陽党・フロムファイブ・自由党・改革クラブ・新党平和・黎明クラブ・新党友愛・国民の声・民政党……97年12月と98年1月に生まれた「新党」です。いくつ覚えています?
自民党の連立も、自自・自自公・自公保……こちらも全部覚えていますか? まったく、他のチームのエースや4番を次々FAでとっては“消費”するどこぞのチームじゃあるまいし、と言いたくなります。
「政治改革」ではなくて「政治制度改革」しかせず、選挙の結果を無視する(都合良く連立する)、何より大事なのは次の選挙での当選……国会議員が国益とか国民の意思よりも自分の利益を優先しているように見えますが、ところで「国民の意思」ってどんなものなんでしょう? これまで「政策を選択するチャンス」がなかった「国民」は、突然「さあ、意思を示せ」と言われても困るだけでしょうけれど。
東京オリンピックのちょっと前には、男子陸上100メートルの世界記録は10秒0という大変キリの良いものでした。ただ、時速に直すと36kmですからあまりキリはよくありません。
今の記録9秒いくつでしたっけ?はキリがよいのかな、悪いのかな。
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1969年、北京からは大学生が次々下放されていました。著者は友人たちと内モンゴルに自発的に出発します。首都でぬくぬくとしていたらいつ「反動」などのレッテルを貼られるかもしれませんし、彼らは国に尽くすという純粋な動機も持っていたようです。
内モンゴルで彼らを迎えたのは、元から住んでいる遊牧民と大学生たちを監督する立場の退役兵など、そして厳しい自然でした。著者は、遊牧民の思想を導くためにずかずかとパオに侵入し生活を乱します。しかし彼ら自身の思想を改造するために監督の党員たちからは厳しく当たられます。
……しかし、自分たちの真意を見せるために、とすぐに血判状や血書を書くとは、幕末の日本ですか、と言いたくなります。ただ、ちょっとでも気を抜くと命が危なくなる状況は幕末と似ているのかもしれません。実際に文化大革命では相当の人間が殺されたはずです(一説には数千万人)。当時の新聞ではそういった“暗部”は一切報道されませんでしたけれど。著者も父が政府幹部で母がベストセラー作家ですので「反権威」の人間からは容易に攻撃される立場だったのです。
ところが血気盛んな著者は、陰険で暴力的な監督を殴り、逮捕されてしまいます。「暴力的」とのことで、逮捕された時だけではなくて収監されてからも2ヶ月間ずっと手錠をかけられたままです。なんという扱いでしょう。そして問われる罪状は「反革命」。最高死刑の罪です。著者は、身に覚えのない罪に落とされる恐怖とともに、刎頸の友に裏切られた怒りと悲しみを味わいます。
しかし、政治犯とは恐ろしい立場です。国の指導者に対する批判を一言でも言えば、それは反体制の罪で有罪。たとえ冗談であっても、有罪。それをかばえばかばった友人も有罪(だから密告をするしかなくなります。もっとも密告をしても結局両者は有罪にされてしまうのですが)。
著者は「批判大会」で何回も屈辱的なさらし者にされた後、「労働改造」の刑を受けます。「反革命分子」とレッテルを貼って奴隷労働、です。
私は、大学紛争の時の“運動家”たちの行動を(多くはニュースで、少しは近くの大学で)見た記憶がありますが、あの頃彼らが「自己批判」という名目で教授などを集団でつるし上げていた姿はとても醜いものとの印象を持っています。本書にもありますが、仲間だと思っていた人から集団で攻撃されることは、自分のアイデンティティが破壊されることでもあるのです。当時つるし上げられた対象の人間の心の傷はいかばかりでしょうか。そして、つるし上げを嬉々として行っていた人たちは、そのことに思い至っていたのでしょうか?
あの頃日本で「つるし上げる側」に回っていた人びと(「団塊の世代」が主力だったはず)は、今その体験をどう思っているのか(本書で著者らをつるし上げ集団でリンチした人びとが、その体験をどう思っているのか)には興味があります。少しは反省をしているのか、それとも「昔は無茶をしたもんだ」程度にしか思っていないか、それとも自己正当化をして一切反省をしていないのか、あるいは人を傷つける喜びを覚えてしまって今でもチャンスがあったら同じことをしようと思っているのかな……
アルコールは飲まないくせに酒屋のチラシを眺めていたら、ビールあるいはそれの類似飲料の種類の多さに驚きました。こんなにたくさんの種類の中から、皆さんどうやって「自分に最適」のものを選んでいるんです? 選ばれる方も大変です。こんなに多くのライバルの中からなんとか自分を手にとってもらわなければならないのですから。
そんなことを思っていたせいか、「生搾り」が「生残り」に読めてしまいました。近視と乱視と老眼の三重苦ですからしかたないのです。
……でも、缶飲料の生存競争は大変ですよね?(と、自己正当化)
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大きな山火事が起き、お粗末な指揮によって学生たちが多数死亡します。しかし指揮者は責められず(責めたら「党が間違いを犯した」ことになってしまうから)、逆に昇進します。死んだ学生たちは「英雄」です。
著者は少しずつ変化します。単に拳にだけ頼って直線的に突進したら権力(=より強い暴力)によって痛い目に遭わされた経験から、少しは頭を使おうとします。他人の動きや心情についても少しずつなにかを感じるようになってきます。
著者は旧正月に脱走します。吹雪の原野を100キロ歩いて町に出てそこからバスに乗って北京に帰るつもりですが、2日歩き通した後捕まり逆戻り。しかし、そこで再審査の知らせが届きます。林彪事件によって、林彪のことばに従って裁かれた人間が「自分は林彪を批判していた」と主張していたことが考慮されるようになったのです。中央が変われば末端はそれに黙ってそれに従うのです。しかし、頑固に自分が“無罪”だと主張することは、自分の“罪”を否定し党の決定に逆らう態度である、という裁定が下されます。「党は無謬」なのです。
3年間著者は山にこもって孤独の中で石の切り出しを続けました。その間に状況は少しずつ変化します。批林批孔(「4人組」による周恩来批判運動)が始まり、著者の周辺では著者をポジティブに評価する声が少しずつ高まってきます。著者は少しずつ変化(成長)しますが、変わらないのは初恋の人への思いです。
そしてついに待ちに待った知らせが。著者は「厳重な政治的ミスを犯した」に“減刑”されました。著者に貼り付けられていた「反革命分子」のレッテルははがされたのです。もっとも上層部は自分たちの“ミス”を認めず、全ては著者のせい、としようとしますが(それが中国式の「名誉回復」のようです)。人を無意味にゼロからマイナス10に評価をつけ変えて何年かいたぶり、それからマイナス5に評価を戻して「5も評価を上げてやったぞ、喜べ」と言う(そしてマイナス10の地獄から脱出できた当人も喜ぶ)システムです。
「媚びを売る」ことへの考察もなかなか正直で面白い。著者は媚びを売ってうまく生きている人間への反感を隠しませんが、友人に「それは、自分が媚びを売ろうとしてうまく売れないから、悪口を言っているだけだ」と指摘されて、内省し、実は自分の心の内部に確かにそのような動きがあることを認めます。
1975年、兵団制度が廃止され、連隊の農牧地は国営農牧場に移管、草原開拓は砂漠化を促し環境破壊になるだけということで牧畜専業に変更されます。「断固として牧畜を主とする方針を貫く」だそうです。8年間の人びとの努力(草原破壊)はすべて放棄です。幹部たちも任地を離れ始めます。任期中に不正に得た山のような財産とともに。
脱力した学生たちは様々な行動を取り始めます。大学進学・公印を偽造して帰郷・仮病・閉じこもり・女遊び……著者は執筆の道を選びます。自分が体験したことをすべて書き残そうというのです。自分自身を世に示すためと世の害毒(江青夫人)を告発するために、と本人は言っていますが、失調しそうな自分の心のバランスを保つために必要な作業のように私には見えます。私だったら、やはりこの道を選ぶでしょう。むしろ、暴力の信奉者だった著者がそちらを選んだことが私には意外でした。しかも当時の政治情勢を考えたら、このような原稿が出版されるアテなどなかったはず。「デタラメな指揮」によって人民がいかに苦難を味わい財産が無駄にされるか、が詳述されているのですから。
ここで著者は意識せずに文化大革命の本質を見抜いているようです。純粋に国家と人民のために活動していたはずの紅衛兵や学生たちが、実は権力闘争の具に使われていただけ、という構図に。ところが自立的に動き始めてコントロールが困難になった若者たちは「上山下郷」運動によって都市から田舎に追いやられます(66〜68年の都市部の中高卒業生のほとんど1600万人が「下放」されたそうです)。その運動の中に著者がいました。
本書は1987年に出版されてベストセラーになりましたが、国際的に注目されたのは天安門事件の時だったそうです。民主化を求める学生たちが争って読んだそうです。時代を超えた真実が本書にあるからでしょう。それは同時に、中国という国が文革当時と実はそれほど変わっていない、ということを意味しているのかもしれませんが。
優れたスポーツマンが高報酬を得ることを「たかが○○なのに、ん千万円ももらいやがって」とやっかむ人がいます。うらやましいのなら自分がその「たかが」をやればいいのに、と思いますが、そう言われるとそんな人は大抵「自分は天才じゃないから」などと言い訳を始めます。すると天才に対して「たかが」扱いなのね。
優れたアスリートはカウチポテトからは出現しません。とんでもない、常人には想像さえできないレベルの努力と犠牲を払ってその“高み”に到達しているのです。我々はそれを高見の見物で「人類はここまでできるのか」と感動するだけです。その感動に対する支払いがたとえ高価であっても、それはそれだけの価値があるからだろう、と私は感じます。
それと同じようなことを私は障害者のノンフィクションを読んで感じることがあります。とんでもないハンディキャップを背負って、苦闘して、それで健常者とほとんど変わらない生活をしている姿は、つまりは健常者が努力して「普通」よりも高みに行くのと同等だと思えるのです。
どちらも私に勇気と確信を与えてくれます。生きる勇気と頑張る勇気を。自分の中にも(彼らには負けるにしても)何らかの力が存在するはずだ、という確信を。
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1982年、高校一年だった流王雄太は、ラグビーの試合中頚髄損傷を負います。肩が少し動き肘を曲げられる以外は四肢は麻痺してしまいました。体温調節もできなくなっています。しかし1年後彼は、電動車椅子に乗って高校に復学します。
障害者は決して「お世話してもらうだけの存在」ではありません。当たり前のことですが「人間」であり、周囲の人と交流することで他人に影響も与えるのです。彼の周囲でもたとえば、法学部志望だった高校生がリハビリの道に進んで「これぞ天職」と言い切ったり、大学のボランティアグループから電動車椅子設計の道に進んだ人間、といった例が輩出します。人間関係は相互作用です。
岡山大学数学科に進学した流王ですが、そこで問題になったのは「介護」です。それまでは高校のクラスメイトや家族が行っていましたが、それがいつまでも続けられないのは明かです。そこで彼は大学のボランティアサークルに所属します。そこで自分自身をメンバーとして介護してもらおうというわけ。これは上手くいきました。サークルの面々は交互に流王の家に入り浸り、パソコンやゲームや漫画で遊びます。これには流王家の雰囲気の良さも大きく関与していることでしょう。サークルですからメンバーは次々交代しますがそれに従って人の輪は大きくなります。さらにこのとき本人が「ゲームがしたい」という望んでパソコンの改造を行ったりしたことが、後に彼がコンピューターを自在に駆使できる素地を作りました。何でも役に立つものです。バイトで数学塾も開きます。けっこうこれは繁盛したそうです。
1991年の医師国家試験で、四肢麻痺の山形大学医学部の学生が合格した、というニュースを流王は見ました。流王は自分の“特性”を生かした医師になることを志望します。打診をされた岡山大学医学部では、教授会などでの白熱した議論がありましたが、受け入れを決定します。
6年間の学生生活はさらりと書かれていますが、本人も周囲もけっこう大変だったことでしょう。生活だけではなくて、学業や実習など、それでなくても大変なのですから。そして卒業・国家試験合格……流王は精神科に入局します。精神神経科の教授はまず研究室のドアを外しました。電動車椅子が通れるように。
彼は精神科医としては「ひと味違う」そうです。判断が他の医師よりは立体的で幅広いのだそうですが、おそらくそれは彼が苦しみを乗り越えてきたことに由来するものでしょう。少なくとも患者に対しては、悪い影響はありません。おそらく彼の存在自体が一つのモデル提示になっているのでしょう。
介護用品も進歩しました。流王のお母さんの「新しい介護用品で、障害を持つ人の行動範囲がぐんと広がる。それにつれて介護している側の行動範囲も広がる」ということばが印象的です。その広がった行動範囲はアメリカにも及びます。流王は一ヶ月のアメリカ旅行をしていますが、そこで印象的だったのは「人びとの慣れ」だったそうです。車椅子がそのへんをいくらでも走っていて、町の人もそれに慣れているのです。さらに、フロリダで、ユニバーサル・スタジオとディズニー・ワールドで遊んで、そこでの障害者への扱いに感心します。アメリカで流王は明るくはしゃぎ、自分の心を分析してこう結論します。「環境が障害を作る」。
巻末での流王への問いかけのうちで「重度の障害者が医師を志望した場合、勧めるか」「受験の面接の時「現代の医師は患者の立場に立って考えていない」と言ったが、その考えは今でも変わらないか」に対する返答は、非常に真摯でかつ彼の成長がしっかりわかるもので、医師や障害者といった立場を超えてこちらの心に響きます。
二種目二連覇で大騒ぎされた北島康介選手は、初参加のオリンピック(2000年のシドニー)では100メートルで4位でした。
そこからの類推ですが、北京オリンピックで惜しくもメダルは取れなかったけれど決勝には進めた若手の中で、これから数年きちんとトレーニングや世界を転戦したら次のオリンピックではメダリスト、という人がごろごろいるのではないかしら。
結果を出した人に注目するのは簡単ですが、将来の楽しみという点ではまだ結果を残せていない人に注目する方が面白そうです。さて、では誰に注目しようかな?
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日本人が日本海海戦に持つイメージは『坂の上の雲』に負うところが多いそうです。で、その中で重要なポイントは二つあります。一つは、どこを通るかわからないバルチック艦隊の進路を東郷元帥ははやくから「対馬海峡を通る」と予測していたこと。もう一つは、大胆な「T字戦法」を東郷に思いつかせたのは秋山参謀だったこと。
とこらが著者は、第二次世界大戦直後の「軍機書類焼却処分」を生き延びた『極秘明治三十七八年海戦史』(全150巻)が戦後30年を過ぎて宮内庁から防衛庁に移管されたのを知り、日本海海戦の研究をしました。本書はその結果です。
この戦いをロシア側から描いた本で私が読んだのは『ツシマ』(上)(下)で、こちらはこちらでずいぶん新鮮な情報がありました。さて、日本側から見た日本海海戦は一体どんなものなのでしょうか。
そもそもロシア艦隊の戦略は「日本軍の通商補給線の破壊」でした。日本から中国への兵隊と物資の輸送を妨害すれば、それは自動的に日本陸軍がじり貧になることを意味するわけです。となると日本海軍の目標は、ロシア艦隊の活動を停止させること、となります。(これが世界大戦後だったら、ロシアには「東南アジアから中国南部で日本の通商路を破壊」「日本本土への侵攻」「東京湾に侵入して『皇居を砲撃するぞ』と恫喝」も選択肢に上がったかもしれません。まだ日露戦争は「戦場」での「正規軍同士の決戦」によって勝敗を決する「19世紀型の戦争」だったということなのでしょうね)
ウラジオストックを本拠地としたロシア艦隊は壊滅的な損害を受け、バルチックからはるばる大艦隊が派遣されます。様々な規格の艦が混在するため足が遅く、長期間の航海でフジツボがついたためさらに足は遅くなり、日本到着前に石炭を満載したためさらにさらに足が遅くなり、日本艦の襲撃を恐れて警戒を密にしたためますます足は遅く乗員の疲労は蓄積し……日本を陽動するために2艦が日本の東側を先行して北上しますが、残念ながら日本側に発見されなかったため作戦は失敗。
日本側は、バルチック艦隊の進路が対馬海峡か津軽海峡のどちらかと絞り込みますが、それ以上絞り込めず困ります。大本営は艦隊を発見したら即座に津軽海峡を機雷で封鎖して足を止め、そこで日本艦隊を対馬から回すことに決定しますが、その決定を艦隊に連絡し忘れます。東郷はしばらく対馬付近で待機してから津軽に全艦対を向ける決定をし、それを密封命令として全艦に伝達します。
5月25日戦艦三笠の上で最後の軍議がもたれます。そこでは一時北進論(津軽海峡で待ち伏せ)が優勢となりますが、少数の反対派によって雰囲気が変わり、結局もう少し情報を待つことにします。翌日、ロシア艦隊が東シナ海にあることが確認されます。もしも当初の予定通り日本艦隊が北進をしていたら、大混乱となり引っ返すどさくさにロシア艦隊は悠々と日本海に侵入しウラジオストックに入港していたかもしれません。
艦隊戦とは難儀な作業です。敵艦と交戦するだけではなくて、先行する味方艦に追突しないように常に先行艦の進路とスクリューの回転数に気を配っていなければなりません。ところがロシア艦隊は日本艦の陽動にひっかかり、艦隊運動を誤り、一列縦隊のはずが二列縦隊になってしまいます。あわてて一列に戻そうとした時に連合艦隊主力と遭遇。速度に勝る連合艦隊は次々細かく進路を変えてロシア艦隊を翻弄します。すれ違うと見せて突然前を横切って進路を圧迫。そこからまたすれ違おうとしてそこで反転して追随……もう自由自在です。単縦陣を作るのにも苦労していたロシア側から見たら、まるで手品でも披露されているような気分になったことでしょう。ロシア艦隊の先頭を行く旗艦は集中砲火を浴びます。それに対してロシア側は縦隊を作り直そうとしながら闘いますが、つぎつぎロシア艦は撃沈され、艦隊はばらばらになります。夜が来ますが、駆逐艦や水雷艇は夜襲を続けます。あまりにすさまじい攻撃のため、日本艦同士の衝突が3件おきます。翌日は残存主力の掃討です。ばらばらになった生き残りのロシア艦が集まって北を目指すのを攻撃していきますが、戦場は日本海のほぼ全体に広がっていきました。5月28日、ついにバルチック艦隊は降伏します。ロシア艦隊38隻のうち、ウラジオストックに入港できたのは3隻、ロシア本国に逃げ帰ったのが2隻、マニラに入港してアメリカに抑留が3隻、上海に入港して中国に抑留が3隻、日本に拿捕が6隻、あとの21隻は撃沈または自沈でした。日本の損害は水雷艇3隻(うち1隻は衝突事故で沈没)。もっとも砲弾を受けたのは旗艦三笠で25発の砲弾を浴びています。
『坂の上の雲』では、東郷がロシア艦隊を見てとっさに「T字戦法」を思いついたことになっていますが、日露開戦直前の明治三十七年一月九日の「連合艦隊戦策」に東郷はこの戦法を明示しています。つまり「かねて準備の」だったわけ。本書には「戦策」の一部が引用されていますが、基本方針は明確、しかし現場でのアドリブの余地も残すという、きわめて現実的なものです。それも、こちらの方針だけではなくて、こちらの動きに対応して敵が変針などをした場合に各戦隊がどのように対応するかまで書き込んであります。著者は東郷の私信などまで調査し、このアイデアを明治三十三年ころにはすでに東郷は持っていた、と結論づけています。さらにその原案は山屋他人という軍人による、という証言も本書には紹介されています。誰のオリジナルのアイデアなんでしょうねえ。
ただ、旅順港外での「リハーサル」に東郷はことごとく失敗します。唯一成功したのがバルチック艦隊相手の「本番」。もしかしたらそれにはロシア艦隊の提督の“協力”があったからかもしれません。歴史の「イフ」で、もしも彼が足の遅い輸送船団を残して戦闘艦だけで日本海に突入していたら、T字形を日本艦隊が描き始めた時にその逆に舵を切ってすれ違いつつ遠ざかるようにしてさっさと逃げ出したら……歴史の展開はまったく違っていたかもしれません。
私の携帯ではQRコードを読み取れません。なんとなく悔しくてそのことを長男と話していたら、彼も自分の携帯でQRコードを読んだのは2回だけ、と言いました。なんだ、それほど必要なものではなかったのね。
で、二人の話はそこから妄想世界に突入。たとえばスパイが秘密の連絡をするのにQRコードを使えないか、と。不完全なQRコードを受け渡しして、受け取った方がその一部(場所は日によって移動)にボールペンでちょんと点を打ってから携帯で読み込むと、そこに秘密の通信文が入手できるサイトが現れるシステムです。で、そのコードを偶然入手した素人が、たまたまいたずらでボールペンで印をして偶然重大な国家機密を知ってしまい……さて、ここから冒険小説(あるいは映画)の始まり始まりぃ。
ちょっと無理があるかな?
【ただいま読書中】
1994年、スロヴェニア系アメリカ人でジャーナリストのフェリックスは「過去への旅人」となって、父祖の地を訪れます。4才の時に亡くなった父親が残した大量の原稿(戦前の日記、一家の年代記、手紙、小説の下書きなど)を偶然発見したフェリックスは、それを完成させようと思い立ち、父の若い時代の友人に話を聞こうとスロヴェニアを訪問したのです。
フェリックスが見聞するものに覆い被るように、その父の手記などの描写がカットインされます。まずは第二次世界大戦直前のスロヴェニアの状況。ドイツ軍が進駐し、ドイツ系の人は大喜び、ユダヤ人は迫害され……そしてそこから父親の出自に話は遡ります。「黄金の20年代」にヨーロッパは浮かれていました。戦争は過去のものとなり、経済の活況で人びとは争って金を使っていました。同じ時期にムッソリーニは独裁制を強化し、ヒトラーは『わが闘争』を出版していました。そして大恐慌。
そこで話はさらに遡り、ユーゴスラヴィアの成立が語られますが、それはフェリックスがスロヴェニアを訪問した時期に行われていたボスニアでの戦乱に直結していたのです。(本書では「91年にはクロアチアとスロヴェニアの独立だけが問題だったが、ボスニアの承認から事態はこじれ、セルビア・クロアチア・ムスリムの三つ巴の戦いとなって出口がなくなった」と表現されています)
1918年、多民族国家ハプスブルク帝国が崩壊します。スロヴェニアではスラヴ系とドイツ系住民の衝突が発生しす。ヴェルサイユ条約でスロヴェニア人の住む地域は、ユーゴスラヴィア・オーストリア・イタリアに分けられてしまいます。複雑な国境、入り交じる民族と宗教と言語、その中をさらに切り裂く政治的な立場。本書ではフェリックスのドーナル家とフェリックスの父の親友のフィードル家とが物語の軸として立てられますが、この両者は、友情だけではなくて、結婚・離婚・不倫などで複雑に結びつけられています。初めてあった他人同士でも、ひょこひょこ「血縁」が顔を出します。ややこしくて一読では全体像が頭に入りません。そこにフェリックスが読む小説「ノーザン・ライツ」での人間関係の描写と、フェリックスが感じる恋慕の情とがオーバーラップします。一筋縄ではいかないバルカンの複雑な背景を、個人レベルで表現しようとするかのように。
いつしかフェリックスはスロヴェニアの、というか、バルカンの複雑さの“とりこ”になってしまいます。アメリカに帰ろうとせずスロヴェニア語を習い始めます。
本書の最後では、ユーゴスラヴィアを占領したナチスの蛮行と、ボスニア戦争とが重ね合わされます。さらに、複雑なのはバルカン内部だけではなくて、それを取り巻くヨーロッパ(とアメリカやロシア)の政治状況がその複雑さをさらに混乱させていることが述べられます。
ラスト、フェリックスの恋はなんとなく男に都合のよい幕切れとなったようですが、実はそれですっきり“ジ・エンド”とはならない(未来になんらかの影響を与えていく)ことも暗示されます。非常に歯切れが悪い小説ですが、人生や歴史は単純に割り切れないんだろうな、と本を閉じてぼんやり思います。
次のロンドンは4年後ですが、あの「五輪」の色とどの輪が隣とどう絡んでいるか、見本を見ずに正確に書くことができますか? 自慢できることではありませんが、私は五輪の五色さえ、自信を持って答えられません。
【ただいま読書中】
1980年から2000年にかけて書かれた短編を集めてあります。
「ロープ」……家族や友人たちの目の前で惨めな失敗をしたときのばつの悪さ、本編とまったく同じではないにしても誰にでも身に覚えのある状況でしょうが、本編では意外な“救い”が用意されています。
子ども時代の多くの失敗は実は大したことではないのですが、本人は身も世もない思いをするものなんですよね。ただ単に失敗をあざ笑ったり叱るのではなくて、どんどん失敗して良いんだよって言えるのは、自らの失敗体験を通じて成長して、そのことを忘れていない大人の“お仕事”なのかもしません(自省)。
「ナツメグ」……ティロットソン家で飼っていた犬のペッパーコーンが死んだ日から話が始まります。子どもたちはしばらく悲しんでいますが、やがて新しい犬がやってきます。名前はナツメグ、愛称はメグ。お隣のコプリー家の奥さんはマーガレット、愛称はメグ。ところがマーガレットさんが死んでしまいます。コプリー氏はお隣で子どもたちが犬を呼ぶ「メグ」「メグ」という声を毎日聞くことになります。それはコプリーさんには耐えられないことでした。
残酷な悲劇の半歩手前まで話は行ってしまいます。でも、幼い子どもの心にもこの話の意味は通じるだろうと私は感じます。
著者得意のゴーストストーリーもありますが、これは喜劇となっています。これまた著者得意のよその国の難民の子どもとの話もあります。イギリスでは難民の子どもはそれほど珍しい存在ではないのでしょうか。
本書に登場するのと同じ事件同じ状況は持っていないはずなのに、自分の子ども時代を思い出しながら懐かしい気分で読めます。子どもが決して「無垢」でも「無邪気」でもない、でも大人とは違う「純粋さ」を持っていることを再確認しながら。
そしてラストの「目をつぶって」。不思議な話です。子どもに「お話」をする「お話」ですが、メタというか微妙な入れ子構造になっていて「お話の魅力」「お話の魔力」を感じながら読者の目は紙面を追い、そしてここでの「お話」が終わった後こちらも目をつぶって自分のお話を始めたくなります。さらに、筋が通っているか、とか、教育的見地ではどうか、などはどこかに置いて、私にも誰かが魅力的なお話を語ってくれないかなあ、なんてことまで思ってしまいました。
「落石注意」……自動車から道路脇の斜面を見ていたら前方不注意になるし、道に石が落ちているのなら早く片付けて欲しい。
「水の事故に注意」……離岸流が強い、とか、飲んだら泳ぐな、とか具体的に言わないと、無意味でしょう。溺れようと思って溺れる人はいないのですから。
「交通事故に注意」「台風に注意」「健康に注意」……具体的にいつ誰が何をどうしたらいいのでしょうか?
【ただいま読書中】
『マタレーズ暗殺集団(上)』ロバート・ラドラム 著、 篠原慎 訳、 角川書店、1982年、1400円
アメリカの統合参謀本部議長が暗殺されます。ソ連の手口で。ほぼ同じ頃ソ連の核科学者が暗殺されます。アメリカの手口で。ところが両国とも身に覚えがありません。
かつて各国政府の依頼を請け負って暗殺を実行するプロの集団がありました。名前はマタレーズ。ところが今回、彼らはどこからの依頼も無しに各国で暗殺を開始したのです。その手下たちは米ソ両政府の中枢に食い込み、間違った証拠を提示し、米ソ両方の政府を混乱に陥れようとします。しかし、その目的は?(007だったら「世界征服」なんでしょうが)
ソ連情報部の切り札タレニエコフはマタレーズの暗躍を阻止することを求められます。それもアメリカのエースであるスコフィールドと組んで。しかし二人は仇敵です。政府もアテにはできません。マタレーズの正体も意図も不明です。それで一体何をどうすればいいと言うのでしょうか? 唯一の手がかりは、20世紀初頭のコルシカ。
しかしその前に二人は出会わなければなりません。でも直接出会ったらそこで殺し合いが始まります。殺し合うためではなくて話し合うための出会いがセッティングされなければなりませんが、信じられない同士のお互いがお互いの周りをぐるぐる回るだけで事態は膠着状態となります。さらに二人はそれぞれの政府から裏切り者として刺客が差し向けられる立場になってしまいます。マタレーズの手下もいるでしょうし、政府の真っ当な職員で彼らを本当の裏切り者と信じて行動している者もいます。ワシントンに殺し屋たちが集結します。米ソの諜報員の中でもトップの二人を始末するために。
なんでこんなに話をややこしく設定しますかねえ。「お互いを殺したいと憎み合う二人が協力するしかない」ということばは、言った本人には真実でしょうけれどこちらは「それ以外に方法はないのか?」と考えてしまいます。しかもその「憎悪の上の協力」はクリアするべき第一段階のハードルでしかありません。二人が手を取り合ったとしてもこんどは全世界の諜報機関と暗殺集団が彼らの後を追うのです。これはもう難儀な話でっせ。
日本中あちこちでこの夏は雨の被害が大変でしたね(純然たる過去形で言えればいいのですが、まだこういった被害はこれからも出ることでしょう)。私の知人の知人が住むマンションでも、基礎近くの法面が(おそらくは大雨の影響で)崩れてしまいました。落ちてきた土砂で下の市道は車が通過困難ですし、何よりマンションがどうにかならないか、という不安がマンション内外にあるそうです。で、復旧工事の見積もりが8桁! 市は「道路は市道だが、法面は私有地なんだから市としては手が出せない」。マンションを売った業者は「売った後なんだから、契約的にも法律的にもこちらには金を出すいわれはない」。で、どうも管理組合にもそこまでの金はないようで、今もめている、とのことです。「人生最大の買い物」でこんなことになってしまったら、目の前が真っ暗になるでしょうねえ。
【ただいま読書中】
『マタレーズ暗殺集団(下)』ロバート・ラドラム 著、 篠原慎 訳、 角川書店、1982年、1400円
上巻でソ連のタレニエコフはアメリカのスコフィールドを説得するのに骨を折りましたが、二人が出会ったコルシカ娘アントニアを説得するのにこんどはスコフィールドが骨を折ります。で、その過程で二人は惹かれあっていきます。
でまあ、上巻では追われる(殺されかける)一方だった主人公たちですが、窮鼠猫を噛む、こんどは暗殺集団への逆襲を開始します。乏しい手がかりからかすかな連鎖を壊さないように敵のリンクをたどって首魁をあぶり出そうとします。やはり冒険小説は、防戦一方よりは攻める方が読んでいてもリズムに乗れます。
しかし敵も然る者、レニングラード・エッセンとタレニエコフが接触した旧知の人間は次々マタレーズの殺し屋に襲われ殺されてしまいます。それどころか彼らは邪魔だと判断すると味方でも平気で殺します。つかまったらあっさり自殺します。
昔ハシシを喫って暗殺に出かけた暗殺教団がありましたが、それに似た雰囲気です。
さらに、マタレーズの内部にも分裂がある模様です。旧来のマタレーズだけではなくて、そこに新しく加わった勢力は別の目的が腹にあるようです。さらになぜかスコフィールドをかばう一派がある模様です。彼らの主なやり口は、表ではコングロマリットを操ることで仮面を被り、裏では様々なテロリストグループに資金と手段を提供して社会混乱を引き起こそうとしています。ただこれには矛盾があります。企業活動は社会秩序を必要とします。それとテロとは両立しないのです。
スコフィールドとタレニエコフは頭をひねりながら、それらの情報を生かして敵の本体に迫ろうとします。そのためにたどる“道”は、イギリスの外務大臣、そしてアメリカの次期大統領と目される上院議員。
「ゴルゴ13」が突然暴走したら(思いのままに殺しまくる、自分が知っている各国政府の秘密をネタに脅迫(政治的陰謀)をする……)どうなるか、と夢想したことがありますが、本書はそれに近いネタ捌きです。ただ暴走するのが個人としての超人的スナイパーではなくて、集団であるところが違いますが。さらに米ソの諜報員が手を組む、というのがなかなか新鮮。思いっきり無理筋のストーリー展開ですが、それなりに楽しめます。ただ、冷戦の時には「ソ連の陰謀」をターゲットにしておけばとりあえず良かったのに、最近の世界はちょっと複雑になりすぎたのかな。冒険小説作家も大変です。