08年9月
文法上、尊敬語にも命令形はあるのでしょうね。
用法上、そんなものがあっていいのでしょうか?
折り込みチラシで見たガ○トの広告に「○○(料理の名前)を大根おろしと柚子胡椒の風味でさっぱりといただきます」とあったのですが……「いただく」のは客の方であって店の方ではないでしょう? どうしても「いただく」を使いたいのなら「召し上がっていただけます」でしょう。それとも「客はこれをいただくんだよ」という店の側の命令なのかしら。
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母親が51歳で自殺。世界がばらばらになり現実と非現実の狭間に落ち込んだような気分だった著者は、数週間後「母の物語」を書き始めます。
著者の祖父はスロベニア人でした。母がオーストリアで生まれ育ちます。ヒトラーが台頭しオーストリアは併合され、彼女はナチスの将校と恋仲になります。あっという間に妊娠、しかし彼は既婚者でした。出産直前に彼女は別のドイツ軍人と結婚します。そして敗戦。戦後のベルリン。1948年に一家は東ベルリンから脱出します。
「書くという行為」に対して著者は自覚的です。それは「母」という特殊な人生を「定式化された表現」を用いて書き記すこと、だそうです。さらには「表現できないもの」と「伝えたい欲求」とを両立させようとする行為でもあります。「ことば」は「ことば単体」で存在するものではありません。それは「現実」と何らかのつながりを必ず持っています。では「ことばで語り尽くすことができないもの」と語ろうとするのは、一体どういうことなのでしょうか。
一家の生活は少しずつ変わっていきます。母を殴っていた父はいつしか殴らなくなり、そして結核になって療養所へ。母は本を読むようになります。どの本を読んでもそこに「自分の物語」を見つけ、それによってなにか語るべきものが内部から沸々とわき出てくるため「自分の人生(の断片)」を子ども(つまりは著者)に語ります。それと著者の子ども時代の思い出が本書の“材料”となっています。やがて母は病気になり、いくら治療しても状態は良くならず、とうとう睡眠薬の大量服薬によって彼女は自殺してしまいます。
著者は前衛文学で有名な人だそうです。しかし、本書は読みやすく書かれています。でも、たぶん原文は結構いろいろな“罠”が仕掛けてあるのでしょうね。たとえば「《歌手》ミシン」という表現が出てきますが、これはもちろん「シンガーミシン」のことでしょう。しかしわざわざ訳文に「《》」がつけられているということは、原文にも何かがついていたはず。解説には、タイトルを材料に翻訳の苦労が述べられていますが、文章を捻ったり二重三重の意味を込めたり、いろんなことをしているのではないか、と私は想像します。
そして物語は、未完のまま、本は終わります。
「辞める」と言って辞められるのはある意味良い立場だなあ、と思います。自分の行動についてでさえなかなか「自分の意思」を他人に押しつけるのは困難なことが多いのがこの世の中なんですから。
民主党から新党ができたのには「なんでこのタイミングに?」と思いましたが、福田さんの辞任もまた「なんでこのタイミングに?」です。「福田では選挙に勝てない」と言う人に対する「なら、お前がやって見ろ」という“返答”なのかしら。
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落城のトロイから辛くも逃げ出せたのは、アイネイアス(トロイ王の婿、ヴィーナスの息子)とその少数の家族だけでした。彼らはギリシアからカルタゴまで放浪し、ついにイタリア西岸を北上して現在のローマ近くに落ち着きます。その子孫ロムルスがローマを建国した、がローマの神話です。
紀元前8世紀、イタリア北部はエトルリア人が12の都市国家連邦制を敷いていました。南はギリシア人の植民地です。ローマはその谷間に位置していました。交易の民が重んじる海からは離れ防御にも適さず商業も成り立たない地は魅力がなく、両者からは無視されていたのです。
初代のローマ王ロムルスは、市民集会によって選出されました。これがただの形式だったのか、それとも市民の支持がなければ「王」として働けなかったのかは私にはわかりません。ただ「市民が王を選ぶ」というのは面白いな、とは思います。さらに有力者100人からなる元老院も創設されました。市民集会は、王とその助言者元老院が立てた政策の諾否の決定を行いました。終身大統領制で貴族が影響力を持ち議会が拒否権を持つわけで、なかなかバランスの良い政体に見えます。
2代目の国王ヌマは、殖産興業政策をとり、多民族の融和を図り、暦を制定します(1年は355日で12ヶ月。余った日は20年ごとに決算。さらにそれまでの11月を1月としました。650年後にカエサル暦ができるまでこの暦がローマでは使われました)。
ローマの宗教は多神教ですが、神の機能は「守り神」とされました(それを取り入れたのがキリスト教で、そのシステムが守護聖人、と著者は述べています。イスラムから「キリスト教は多神教」と言われるわけです)。では、価値観を共有できない人の集合体である社会を律するのは何かといえば、それが「法律」でした(その機能を、ユダヤ人は宗教に、ギリシア人は哲学に求めています)。
ローマは「ローマ化」によって勢力を拡大します。敗者を殺したり奴隷にするのではなくてローマ市民にしてしまうのです。それは「権利」を与えることですが、同時に義務(軍役)も課すことで、ローマ軍はどんどん強くなっていきます。しかし7代目の王タルクィニウスの専横に対して市民が決起、王は追放されます。かくして紀元前509年からローマは共和制の時代に入ります。王のかわりは、任期1年の二人の執政官です。権威と権力の分散が図られ、元老院が強化されます。
当時の地中海は、ギリシア人の世界、と言って良い状態でした。エーゲ海から南イタリア・南仏・スペイン東岸までギリシアの植民地は拡大しています(それはトロイからジブラルタルまでに渡るオデュッセウスの放浪経路に反映されています)。ギリシア人に対する対抗馬はローマではなくて、カルタゴに植民したフェニキア人でした。
ここで著者は古代ギリシアに寄り道をします。アテネ・スパルタ、そしてペルシア戦役。ペルシアを退けて絶頂を迎えたギリシアの二つの全く異なる政体を、ローマは“真似”しませんでした。それとは異なる道で「国の発展」をもたらす「自由と秩序の両立」を目指したのです。ただしその道は平坦ではありません。様々な政治的な“実験”(独裁官や護民官を置いたり貴族と平民間の婚姻を認めたり)が行われました。
紀元前4世紀、アペニン山脈を越えたケルト人が南下を始め、前390年、ローマはあっけなく占領されてしまいます。イタリア半島のラテン同盟からも見放され、ローマはどん底に落ちます。ただ、落ちぶれたのはローマだけではありませんでした。ギリシアはマケドニアによって征服されてしまうのです。ローマ人はそこから教訓を得、王政と貴族政と民主政のミックスを作り上げます。さらに対外戦略も「ラテン同盟」から「ローマ連合」へと変化させます。
ローマは気前よく市民権を与えました。もちろん代償(多くは軍役)つきですが。それによって、市民権をもらった方も与えた方も満足ができる、というシステムです。その章で紹介されていることばが印象的です。まずはアリストテレス「奴隷も家畜も、彼らの肉体によって我々人間に有用であることでは同じ」。つぎはアリストテレスより200年前のローマの王セルヴィウス「奴隷と自由民のちがいは、先天的なものによるのではなく、生を受けて後に出会った運命のちがいであるにすぎない」。こうして「新しい血」を入れ続けることで、ローマの繁栄は続きます。勢力範囲は少しずつ広がり、ついにイタリア南部のギリシア都市国家との衝突が始まります。スパルタの末裔ターラントは、戦術の天才と名高い北部ギリシアのエピロスの王ピュロスを傭兵として雇います。かくしてローマ兵は初めて象と闘うことになりますが、結局ローマはイタリア半島を統一してしまいました。
「ローマ」をまるで一個の人格のように扱って、その生誕から思春期までの500年を悠々と語った、という感じの本です。ご近所さん(隣国)との仲も重要なことがよくわかります。さらに私が感じるのは、著者のローマに対する愛。ちょっと読み過ぎかもしれませんけれど。
今スポーツの話題は北京五輪でしょうが、F1グランプリも熱く続いています。今年のチャンピオンシップも混戦で、誰が総合優勝になるのかまだまだわかりません。
F1中継で今私が気になっているのが、フジテレビのアナウンサーです。この人、とにかくワンパターンの語り口で、中継していて1分間に1回は「さあ」「おっと」「そして」「心配です」「最大の」のどれかを(あるいはその複合を)必ず使います。一度気になるともう耳について耳について……
まあ、数年前に司会をやっていた山田優さんも、最初は使い物にならないど素人のしゃべりだったのが、シーズン最後の頃には技術的なことも平気で質問するし状況判断も即座にできるように進歩しましたから、このアナウンサーも成長することを祈っています。
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昨年の町長選挙で現職の著者が落選するところから本書は始まります。
高知県東洋町は、徳島県との県境に位置し南は太平洋、1959年に8800人だった人口は2007年には3400で高齢化率は4割、と典型的な過疎地です。町の財政は苦しく、企業や刑務所の誘致も上手くいきません。そこに高レベル放射性廃棄物最終処分施設の話が持ち込まれます。調査だけで交付金が2億1000万円(当時。翌年10億にアップ)入ります。平成19年度の予算が21億円の東洋町にとって、これは抗いがたい魅力です。
第1段階は文献調査でこれはその地方自治体の首長の判断で応募ができます。第2段階は概要調査で、首長と県知事に“拒否権”があります。どちらかが拒否したらそこで断れる、はずです。その根拠はなぜか「大臣答弁」であって法律には明文化されていません。そこを反対派は突きます。「国会で大臣答弁がひっくり返されたことは前例がある。今回も一度文献調査を受け入れたら、そのまま建設まで一気に行ってしまうに違いない」と。法律に明記すればすむことだと私は思うんですけどねえ。
興味深いのは、著者が元々は共産党町議だったことです。それが議会の有志に推されて町長選に担ぎ出され、町長になるのなら一党の代表ではまずいと党籍離脱をした前歴を持っています。保守的な日本の田舎で共産党員であることを公言してそれでも町議や町長を務められるとは、おそらくそれなりの人物だったのでしょう。ところで共産党は原子力政策には否定的だったはず。それが最終処分場誘致を真剣に考えなければならなくなるとは、町の財政は相当追い詰められていたと言うことなのでしょう。
国のやり方は巧妙です。地方を苦しめるように政策を立て地方を追い詰め、そのあとになってから普通だったら拒否されるプランを提示して「その苦しさから逃れたかったら、俺の言うことを聞け」です。「札束で頬を張る」と言うよりも、黒人差別をやりまくっておいてから南北戦争で「白人並みに扱って欲しいのなら白人以上に戦って見せろ」と要求した白人のやり口を思い出します。
「核」に対するデマも相当流されていますが、それに対してはいちいち驚く必要はありません。こちらには「どこかで見た文句」ですから。でも初見の著者には腹立たしいことだったでしょう。町議会は次々反対派に回り、町外からも活動家が押し寄せ、周辺の自治体からも反対声明が……いやあ、絵に描いたような針のむしろです。橋本県知事も「反対」を唱え、マスコミはそれらを大々的に報道します。インターネットもデマや誹謗中傷の嵐が吹き荒れます。かつて原発賛成派がぶちあげた感情的な賛成論の裏返しのような感情的な反対論です。
著者は「じゃあ、どうする(対案は)?」と問います。この問いは二つのレベルに分かれます。「町の将来をどうする(このまま町がじり貧、あるいは破産への道を進むのか)」と「日本の将来をど(貯まる一方の核廃棄物を)どうする」です。出口のことも考えずに突っ走った国の態度は気にくわないけれど、本書に良く出てくることば「勉強」をするしかないんじゃないでしょうか。で、「勉強」のために電灯をつけたら、その電気の30%は原子力発電所から来ていることも意識した方が良いでしょう。私自身は原子力発電には否定的な立場です(安全性に一抹の不安がまだあるし、まさに本書で扱われている最終処分の問題が解決されていないから)。で、この夏もエアコンをなるべくかけないようにしましたが、温水器は電気だし冷蔵庫はつけっぱなしだから30%の節約は明らかにできていません。さて、次はどうしようかしら。
私にとってTVの討論番組が退屈なのは、どの人も持論しかしゃべらないから。予知能力が無くてもその人が口を開く前から何を言うかわかるのは、退屈以外の何者でもありません。
持論さえなくてうろうろしているだけの人間よりはマシ、なのでしょうけれどね。
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『ネクスト・ウォー』キャスパー・ワインバーガー&ピーター・シュワイツァー 著、 真野明裕 訳、 二見書房、1997年、2143円(税別)
レーガン政権で国防長官を務めた人が著書の一人で、マーガレット・サッチャーがはしがきを寄せている、ということを見ただけで、本書の立場がわかります。クリントン政権での国防費削減政策には反対、と。
さて、その立場の上に予想される「次の戦争」のシナリオは5つ。1998年の第二次朝鮮戦争(とそのどさくさに紛れての中国の台湾侵攻)。1999年イランによるアラビア半島侵略。2003年メキシコからアメリカへの大量不法入国(一ヶ月に100万人!)とそれにともなう各地でのテロ。2006年ロシアの東欧占領。2007年日米間で第二次太平洋戦争。
基本的に軍事シナリオが中心で、そこにちょいと小説化がされている、といった感じです。共通しているのは凶暴な独裁者と気軽に核兵器が使われること(「核の冬」は意図的にか本書では無視されています)。ただ、作戦展開などで細かいところはさすがに妙にリアル。たとえば第二次朝鮮戦争では、日本の基地からアメリカ軍が直接出撃するし倉庫から核兵器を取り出します。そういったことは我々には「密約」で日本政府にとっては「あり得ない」ことですが、アメリカ政府の(元)要人には「これを言って、何か問題でも?」の話のようです。ただ、日本の自衛隊もあっさり参戦するのですが、これは大丈夫なのかな?
メキシコのシナリオは、過激な政権が失政を誤魔化すためにアメリカに無茶苦茶なちょっかいを出して、それに対してアメリカが政権打倒を考える、というのが発端です。影での支援ではなくて政権打倒のための直接派兵だったら、成功したのがイラク・アフガニスタン・パナマ・グレナダ、未遂はキューバ、失敗したのがベトナム(シベリア出兵はちょっと古いかな)とかの“先例”がたんとありますが、さすがにメキシコ相手にやるかなあ……と思ったら、ちゃんとそれを正当化するだけの理由が用意されていました。逆に言えば、「(アメリカにとって都合の良い)理由」さえあれば、世界のどこにでもアメリカ軍は軍事介入をする、ということです。
ロシアのシナリオは何というか……ロシアが東欧をまた傘下におさめるついでに西欧まで侵攻してしまいます。まるで、かつてのナチスの裏返しです。アメリカは諸般の事情で手をこまねいてみているしかありません。これはさすがに無理がありすぎですが、米ロの直接対決を演出するためにはロシアはここまでしなければならないのですね(と言うことは、東欧だけにちょっかいを出すのだったら、アメリカは座視せざるを得ない、のかも)
日本のシナリオは……つまりは大日本帝国の再現をねらって日本がハイテクを生かして西太平洋を暴れ回る、ですが、これはちょっと無理があるでしょう。特に韓国や中国がやられっぱなしで意気地がないように書いてあるところが解せません。ただ、日本の再軍備・徴兵・核武装はごく近い将来あり得ること、と思われているのだな、ということはわかりました。
朝鮮・湾岸・ロシアは当然あると思っていましたが、メキシコと日本が意外でした。逆に、バルカンとアフリカと南アメリカが無視されているのがかえって気になります。そういった火種はないと見ているのか、それとも小説としてでも触れてはならないとの判断なのか。
7日(日)近況報告(表記と数)/『ムンクを追え!』
9月4日から日記のタイトル表記方法を少し変更しました。今までのタイトル付けに追加して、「/」のあとにその日に読書報告をした本のタイトルをつけるようにしています。(もしも「/『○○○○』」が付いていなかったら、読書日記は無し、か、つけ忘れたか、です。
同時に、mixiの「レビュー」に読書感想を載せるのはやめることにしました。一番の理由は「2000字制限」です。普通私が書くのは1000〜1500字ですから問題はないのですが、やはりリキを入れるとあっという間に2000字では足りなくなります。で、レビューにアップしようとすると「2000字以上は駄目」と赤字で断られる。これは萎えます。といって、プロじゃないのですから、字数を数えながら書くなんて芸当はできません(もちろんやろうと思えばできますが、する気が(それにやらなければならない必然性も)ありません)。
字数からこんどはマイミクの数。現在私のマイミク数は42人です。で、みなさんの日記をきちんと読むのはこの辺が私にとっての上限のようです。となると、マイミクを増やすにはちとためらいが、が現在の私のスタンスです。
こんどはアクセス数。今のところ一日40〜50で安定しています。これも私にとってはほどよい数字に思えるのでそのまま温存策(つまりは何も新しいことはしない)の方針です。以前書きましたが、mixiからの“待避所”としてgooブログにmixi日記とほぼ同じものをアップしていますが、こちらのアクセス数は80〜90/日。手間ではありますがこれはしばらく続ける気です。
もう一つ、趣味に特化したブログを持っていますが、こちらは800〜1000アクセス/日です。mixiとは(ネタも読者も)完全分離の方針でやってますが(たまーにネタがかぶりますが、その場合でもコピペではなくてリライトしてます)、ネタが枯渇しない限りは今のやり方を続けていく予定です。私の場合、書けば書くほど書きたいことが見つかるので、しばらく枯渇の心配はなさそうですけれど、先のことはわかりません。
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『ムンクを追え! ──「叫び」奪還に賭けたロンドン警視庁美術特捜班の100日』エドワード・ドルニック 著、 河野純治 訳、 光文社、2006年、1700円(税別)
かつてルノアールは、自分の絵を靴と交換しました。フェルメールの未亡人はパン屋の支払いに充てました。ところがその後「絵の価値」よりは「希少価値」に注目が集まって投機が始まり、1970年代には印象派の名画はロールスロイス一台分、90年代にはボーイング757一機分と同じ値段となります(バブルの時に日本でも名画を単に投機目的で買いあさった人びとがいましたね)。奇妙奇天烈な世界となった美術界に群がったのは金持ちだけではありませんでした。非合法世界の住人たち(ケチなこそ泥、プロの盗人、ギャング、テロリストなど)も大挙して押し寄せてきたのです。
1994年2月12日(ノルウェーでのリレハンメルオリンピック初日)の早朝、ノルウェーオスロの国立美術館に二人組が押し入り、ハシゴを立てかけて二階の窓ガラスをたたき割り絵を固定していたワイヤーをちょん切るというきわめて単純な手口で、ムンクの「叫び」を盗みました。設置されていた警報もモニターも無力でした。
犯罪者から見たら「名画」とは「札束が額縁に入って壁に飾られているもの」です。それに対する美術館の防衛策はお粗末なことが多いのですが、その理由は三つ。「盗難」に対する美術界の人間の拒絶反応や想像力不足・美術館の目的が「公開」であること・予算不足。
さて、ロンドン警視庁の囮捜査官、チャーリー・ヒルの登場です。ざっと紹介される彼の父母の代からの人となりは、それだけで一冊(あるいは二冊以上)の本になるくらい魅力的な素材です。「叫び」の8年前、アイルランドのギャングがダブリン郊外の大邸宅からフェルメール「手紙を書く女と召使い」を含む一八点の名画を略奪する事件が発生していました。このフェルメールとゴヤを取り戻したのがヒルでした。この事件の成り行きもまた一冊の本に……
ヒルはまずムンクについて調べます。たとえばムンクの人生は当然一冊の伝記になります。あるいはたとえば「叫び」に描かれた真っ赤な空。これが実在したものである可能性についての研究はこれまた一冊の本に…… ムンクが生きた時代には、印象派が登場し(ムンクと同様)激しい侮蔑と支持の動きとが社会に生じました。また「叫び」自体もユニークな存在です。キャンバスではないふつうの厚紙に、ポスターカラー・パステル・チョークを用いて描かれているのです。チョーク? そんなの乱暴に扱って揺すったら落ちちゃうじゃないですか。
ヒルはアメリカのゲティ美術館員になりすまし、美術館がどうしても「叫び」を欲しがっている、というカバーストーリーを作ります。荒唐無稽ですが、それなりに真実みがあります。さて、そこで問題は、盗んだのがどんなタイプの人間か、です。単に金が欲しいだけなのか、それとも名誉(盗人の名誉)目当てか、政治的なプロパガンダか、テロ行為か……ヒルは慎重にしかし大胆に交渉を進めます。ノルウェー警察にも自分たちのメンツがあります。ふらっとやってきたロンドン警視庁の人間に難事件をさっさと解決されるしまうわけにはいきません。さらに、ヒルが投宿したプラザホテルでは、たまたま北欧麻薬捜査官年次総会が開催中でした。ホテルは警察関係者で一杯です。
あれやこれやがあって事件は大団円を迎えますが、ヒルの言葉を借りるならこの一幕は「喜劇」です。ただし当事者が命を賭けた喜劇です。さらに意外なのは、警察のやる気(熱意)のなさです。盗難美術品の捜索は、実は苦労ばかりで人気のない作業なのです。これからの時代、警察が関心を示さない分野では“民営化”が行われるでしょう。しかしそれが泥棒に狙われる美術品にとってよろしい情勢とは思えません。
ちなみに本書が脱稿された直後、オスロのムンク美術館からムンクの「叫び」と「マドンナ」が拳銃を持った強盗によって奪われたそうです。
日本人は「万全」ということばが大好きです。万全の準備・万全を期する・万全の注意を払う……もちろん手抜きよりは万全の方が好ましいでしょう。しかし、緊急事態のとき(たとえばトリアージが必要となるような大災害時など)に「自分には万全の扱いをして欲しい」と求めることは、「他人には手を抜け」と要求していることになります。だって手が足りない(動いている人はてんてこまい)状況なのですから。あるいは「自分には万全の扱いをしろ」と要求しながら忙しく働いている人につきまとうのは、「本来なら助かる他人を殺しても良いから、自分の相手をしろ」と要求していることになります。
さて、こういった「自分には万全」を求める人に対する万全の対策って、なんでしょう?
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2008年1月に2夜連続で放送された番組の、ドキュメンタリー部分の取材記録を本にしたものです。
2008年4月15日のWHOのまとめでは、2003年以降H5N1型鳥インフルエンザの人への感染は、世界14ヶ国で380人、死亡率は60%超です。特にインドネシアでは、132人が発症し、80%が死亡しています。この鳥インフルエンザウイルスが突然変異を起して、「トリ→ヒト」そして「ヒト→ヒト」への感染性を獲得したら、全世界で爆発的な大流行を起す可能性があります。パンデミックです。
スイスは全国民分のワクチンをすでに備蓄しています。オーストラリアは一種の鎖国体制を敷くことで時間を稼ぎ、その稼いだ時間の間に特約を結んだ会社からワクチンを大量に輸入する計画です。
アメリカも方針は明確です。パンデミックは国家安全保障上の問題と位置づけ、感染爆発のシミュレーションを元に対策を立てています。対策の柱はウイルス薬・ワクチン接種(パンデミックワクチンまたはプレパンデミックワクチン)・学校閉鎖・隔離と旅行制限。ただ、最後の「隔離と旅行制限」はこれ単独ではあまり有効ではありません。感染拡大のスピードをほんの少し鈍らせるだけです。もっとも有効なのはワクチンですが、時間と金と技術と卵が必要です。米政府はパンデミック対策に71億ドルの予算を組み、パンデミック開始から半年以内に全国民3億人にワクチンを供給、という目標を上げています。実際に可能かどうかは私にはわかりませんが、ここまで立ち向かう姿勢を示す政府の態度には感服します。
アメリカ金融界のシミュレーションも紹介されます。パンデミックが起り社会が混乱、インターネットもアクセス急増で麻痺状態、企業の欠勤率は49%、という条件ですが、問題点が続出です。たとえばATMは稼働しなくなります。現金引き出しが増えますが、紙幣の輸送がストップしているのです。生命保険会社にも大きな影響が出ます。支払いが増えるのに証券価格は下落するのですから。つまり、企業が業務を継続するためにはパンデミックに特化した計画を持っていなければならないのです。国が主導してこういった問題点を洗い出しているのが、アメリカです。さて、日本は?
「世代」の問題もあります。アメリカ政府は2005年に「ワクチンは高齢者優先」の方針を発表しました。「高齢者の方が死にやすいから」が理由でしょう。それに対して反論の論文が発表され、高齢者からも「孫の方を助けて欲しい」という声が多く寄せられました。その結果2007年には乳幼児や若者優先に方針が改められ、さらにパブリックコメントやアンケートが引き続き行われています。日本だったら「人体実験がすんでからまず政治家や官僚を助け、あとは“公平”を旗印に適当に」でしょうね。「自分は助かりたい」「シビアな政治責任からは逃れたい」の両立です。まあ、わかりやすいと言ったらきわめてわかりやすいのですが。
では日本は? 国は行動計画を立て実際の対策は地方自治体、ということになっていますが、国の戦略がなく、地方の具体的なバックアップ計画もありません。
本書には品川区のシミュレーションが載っています。患者発生から6日で、0〜15歳の感染者は400人を越えますが、小児科医は10人。区内最大の病院、昭和大学病院の小児科は45ベッド。流行のピーク時には1日に6400人の入院患者が発生すると予想されています。病院に現在入院している人を追い出してインフルエンザを優先しますか? その場合、追い出す論理的・法的および倫理的根拠は? 人工呼吸器は明らかに不足します。ではどの人を優先しますか? その根拠は? ここで用いるのは「医学」ではありません。(医学では、人工呼吸器が必要・不必要は判定できますが、「この人にはつける」「この人にはつけない」「つけたけど外す」は判定できないのです。それはあらかじめ社会の中で議論をするべき事項です。こういう重大な問題を医者にだけ押しつけるべきではありません。無責任な人間は、人に押しつけてあとで文句だけ言えばいい、と高をくくっているのかもしれませんが。
欧米ではパンデミックは「近い将来必ず起きること」として扱われ対策が検討されているようです。日本ではパンデミックは「起きるかもしれないこと」でしかないようです。だから、真剣みも戦略も欠けるのでしょう。
これで“商売繁盛”になるのは……弁護士、ガードマン、防護用品販売業、死刑反対論者……あと何があ考えられるでしょう。
【ただいま読書中】
『空から兵隊がふってきた』ベン・ライス 著、 清水由貴子 訳、 アーティストハウスパブリッシャーズ、2002年、1000円(税別)
生活能力がなく下品でだらしない父さんが家を出てから225日目、つぶれたラクダ牧場に空から落下傘兵が15人次々降りてきます。ピンクのパラシュートに赤いジャンプスーツ、白いヘルメットに黒いブーツ。背が高くハンサムな兵隊たちです。
母さんと娘二人の一家は「なにごと?」と不審に思いますが、兵隊たちはそれどころではありません。一人足りないのです。きっと落下傘が開かず墜落死したのでしょう。兵隊たちはまず一家の仕事を手伝い、シャワーを浴び、それから消えた仲間を捜索に出かけます。
本書の語り手は「あたしはライダー・ジャーヴィス、女の子」と自己紹介する、ショートカットの活発な子です。ライダーは兵隊たちに疑問を感じます。「機密」とやらで、自分たちの所属も出身地も民有地に降下した目的も一切秘密、あるいは述べた場合はウソ。ところがやたらと魅力的で女心がわかっていて軍事だけではなくて家事にも有能。無意味に過剰に格好良く、うさんくさいにおいがぷんぷんなのです。母さんは男やもめ(と自称する)隊長と惹かれあっている様子です。ライダーの姉(本物の美女)アイリーンも一人の兵隊に目を向けています。
捜索隊が帰ってきます。手作りの棺桶に死体を詰めて。盛大な葬式が行われ、庭の片隅に掘られた穴に棺が収められようとした時……(ちなみに、穴を掘ったのは女たち、豪華な花輪を作ったのは兵隊たちでした)……棺が空であることが発覚します。捜索隊は死体を発見できず、それを誤魔化そうとしていたのです。隊長は激怒します。自分の権威を傷つけ、名誉ある隊の中で詐欺行為を働いた罪で……バン……死刑です。
それをきっかけに惨劇が始まるのですが……ここまでずっと「これは寓話です」と念を押されているのでそれほどの残酷さは感じません。すべてが終わって、母さんと娘二人はラクダをつれて旅立つのですが……なんでラクダ? そんなことが気になります。
昔々の童話には、子どもと死と希望が登場していましたが、その点で本書は「童話の正しい伝統を受け継いだ物語」と言えるのかもしれません。短い物語ですし、ちょっと不思議な気分になりたい人にお勧めします。
10日(水)なんとなく不愉快/『トロール・フェル(上)』
「総裁選をやればマスコミの注目が集まり、民主党の影が薄くなる」「新しい総理大臣になれば支持率が上昇する」「その上昇した支持率が落ちる前に総選挙を行えば、勝てる」という読みでの行動なんだそうですが、ずいぶん有権者をなめた不愉快な態度だと思います。で、マスコミと有権者がその読み通りに動きそうなのも、これまた不愉快。日本は今そんなことをやっている場合ですか? 日本よりも政局(つまりは自分の党の都合)を優先する人の思いのままになる、のはイヤです。少なくとも私は断固拒否します。
【ただいま読書中】
バイキング船を造る腕の良い職人だった父親を亡くした12歳の少年ペールのところに、今まで会ったこともない叔父バルドルがやって来ます。父親の火葬を「豚でもあぶっているのかと思ったぜ」とあざけり、残された家財をすべて売り払って自分のポケットに入れ、ペールの手を縛って牛車に放り込んで自分が粉ひきをしている水車小屋のあるトロール山に連れて行きます。
その名の通り、トロール山にはトロールが住んでいます。そして彼らの宝の金のゴブレットを山から持ち帰った農夫のラルフは、バイキング船に乗りたくて仕方ありません。バルドル(とその双子の兄弟グリム)はラルフの黄金のゴブレットと土地を狙っています。
さんざんの一夜のあと、ペールはラルフの娘ヒルデと出会います。父親の影響かヒルデは冒険にあこがれています。
どうしてバルドルとグリムがペールを引き取ったのか、理由が明らかになります。トロールの宝を得るために交換に男の子の奴隷を差し出そうというのです。ところがペールは、水車小屋のそばの池の主グラニー・グリーンティースに捕まってしまいます。なんとか逃れたものの、家に住む妖精ニースからさらに悪い知らせが。トロールは男の子の奴隷だけではなくて、女の子のメイドも要求したというのです。バルドルとグリムがまず考えるのはヒルデでしょう。ペールはヒルデに警告をしますが……
きわめてスピーディーに、しかし自然に場面が転換され、次々登場人物が紹介されます。また、ところどころに登場する「お話」が魅力的。どれも数呼吸で語られる程度の短さですが、単独でも面白く、さらに本筋にも関係している(あるいは関係しているだろうと思わせる)構成になっています。これが著者のデビュー作だそうですが、ベストセラーになったというのも頷けます。
11日(木)「知ってる知ってる」/『トロール・フェル(下)』
総裁選の候補が出そろいましたが、もうマスコミは誰が当選か決めつけて報道をしています。これって「総裁選なんかただの茶番」と言っているも同様で、ずいぶん失礼な態度だなあ、と感じます。(実際に茶番なのかもしれませんが、それならそれで「茶番だ」とはっきり言って欲しい)
選挙の時にも開票が始まった瞬間に「当選確実」と報道されることは珍しくありません。これまた選挙そのものをずいぶん軽く扱っている態度のように感じます。マスコミが当選者を「決定」して、開票作業はその確認でしかない、といった感じになりますから。
話を始めるとちょっと聞いただけで「知ってる知ってる」と騒ぐ子どもがいます。自分が何を知っているかが自慢で仕方ないのでしょうが、そういった賢しらで自己アピールがしたくてたまらない子どもとマスコミの態度には共通点があるような気がしてなりません。
【ただいま読書中】
どん欲な兄弟バルドルとグリムは、ペールを便所に閉じこめ、あろうことかヒルデの幼い双子の弟と妹を攫います。トロール王への贈物として。やっと脱出できたペールは双子の奪還のためにヒルデとトロール山へ向かいます。時は冬至。トロール王の王子と王女の結婚の日です。お客を迎えるために山頂がぱっかりと開く、特別の日です。
ペールとヒルデは、双子の身代わりとしてトロール山にとどまることを決心します。もう人間界には帰れないのです。そのとき、バイキング船で新大陸にまで行ってしまって(この話は、作中では唯一未完の「お話」として語られます)やっと帰還できたヒルデの父親が村の住人たちとトロール山に乗り込んできます。しかし、圧倒的な力を持つのはトロールの側。しかもペールとヒルデは自らトロールの世界にとどまるという「約束」をしているのです。一度約束したことを、勝手に破るわけにはいきません。一体どうやったらこの状況が打破できるのでしょうか。
動物たちは人語を解し、豚にはまだ牙が生えています。実はそういったことさえ“伏線”で、物語の別の局面で生かされます。スピード感溢れる展開で一気に読めます。ただし「ジェットコースター」ではなくて……なんて言うかな、自分の足で山道を「ひゃっほー」と叫びながら駆け下りるような感覚、と言ったら良いかな。読むこと自体が快感です。さて、続編を図書館で借りて来なきゃ。
12日(金)尊大/『ローマ人の物語II ハンニバル戦記』
たとえば「偉大」には悪い意味がないのに、「尊大」にはよい意味がありません。「尊」も「大」もよい感じ、もとい、よい漢字なのに、なぜなんだろう?
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ローマはイタリア半島を統一し、つぎはポエニ戦役です。「わ〜い、ハンニバルだ」と私は単純に喜びます。ただ、象をつれてのアルプス越え、くらいで、あとは詳しい知識がないことに気がついて愕然ともします。
ことの発端はシチリア(紀元前264年)。当時この島の西半分はフェニキア系のカルタゴ、南はギリシア系のシラクサ支配で、北東に圧迫されていたメッシーナはローマに救援を依頼します。初めて渡海したローマ軍は、メッシーナをローマ連合に加え、シラクサとは講和条約を結びます。アフリカ北部の海岸線・スペインの南岸・地中海の島々を支配していたカルタゴは本気になります。それまであまり深い関係のなかった新興小国「陸の民ローマ」と大国「海の民カルタゴ」の衝突です。ローマは海軍の必要性を実感しカルタゴの軍船を模倣します。急造海軍で早速一戦……無謀です。当然のように戦う前から総指揮の執政官以下多くのローマ兵が捕虜になってしまいますが、ローマは不得手の海戦を得意の陸戦に変換しようと、敵船と自船を固定してローマ兵がなだれ込むことができる通路「カラス」を開発します。この新兵器によって、ローマは大勝利を得ます。ローマはついにアフリカに上陸。危機感を強めたカルタゴは、スパルタ人の傭兵隊長クサンティッポを雇い入れ、大勝利を得ます。陸戦では象が大活躍し、海戦では(また)カルタゴは敗れましたが嵐によってローマ側は大損害を受けたのです。
ここで面白いのは「敗軍の将」に対する遇し方です。ローマは罰しません。名誉を重んじる社会では負けて恥をかいただけで十分な罰だからです。さらに「教訓を得ただろう」ということで次(あるいはもう少し後)の戦いにまた起用されます。それでも使い物にならなければ執政官の選挙で選出されなくなるだけです。ところがカルタゴは違います。負けたら死刑。兵隊も全然違います。ローマは市民兵ですが、カルタゴは傭兵が主体です。
紀元前247年、カルタゴはハミルカルという司令官を戦線に送り込みます。その年ハミルカルは息子を得ていました。息子の名は、ハンニバル。ハミルカルは有能な武将でしたが、カルタゴの国内問題が彼を妨害します。国内の農業重視派と国外への進出重視派の政治的対立です。政治に足を引っ張られながらも、少ない軍勢を活用してハミルカルはシチリア戦線を膠着状態に持ち込みます。ローマは陸戦での決着をあきらめ、制海権を得ることに方針を変更します。そしてローマの勝利(シチリアからのカルタゴの撤退)で紀元前241年に第一次ポエニ戦役は終了します。
ハミルカルは一族を連れてスペインに移住し、農園と銀山経営で成功します。その頃ローマは、同盟国でも植民地でもない「属州」制度をシチリアで試していました。さらにアルプス以南のガリア人の平定も行いました。そしてついにハンニバルが歴史の舞台に登場します。守りの堅い、西と南を避け、さらにはローマの同盟国マルセーユも迂回して、北のアルプスを越えてイタリア半島へ侵入するのです。象をつれてのアルプス越えで3万以上の損害を出したハンニバル軍は2万6千になっていました。数だけ見たらローマの方が圧倒的に有利ですが(当時、予備役まで根こそぎ動員したら75万が動員可能でした)騎兵の比率が高いことがハンニバルの軍事的利点でした。
じつはここからが本当に面白いのですが、それは本書を読んでください。「古代の戦争は、正義と悪の戦いではない。勝者と敗者があるだけ。戦争が終結した時、まず感じたのは勝利の喜びではなくて、平和が来たことへの喜び」と本書にあります。なかなか含みがある文章です。「血に飢えた蛮人が、武器を片手に押し寄せる」のではなくて、戦う理由があるから戦い、戦いがすめばさっさと講和条約を結んで本国に帰りたがる……古代ローマ人の姿がなんだかとても人間くさく思えます。
カルタゴと戦うことでローマは海戦と海上輸送の重要性を学びます。イタリア国内に乱入してきたハンニバルと戦うことで(敗れ続けることで)ローマは陸戦の戦術を学びます。それは「適材適所」とまとめることができる戦法でしたが、常にローマ兵と同盟国軍との“多国籍軍”で戦うローマにとって、それは最適の戦い方と言えるでしょう。多大の出血を強いられながら、なんとかカルタゴに勝利したローマは、結果として属州や同盟国を含めて、地中海沿岸のほとんどに覇権を唱えることになります。東では秦の始皇帝が天下を統一した頃です。いやあ、歴史って面白いなあ。
13日(土)犯罪者の人権/『トロール・ミル(上)』
呼び捨てにせずに「容疑者」をつける、とかの話ではありません。
かつて豊田商事事件というのがありまして、結局うやむやに終わってしまったのですが、それからしばらくしてからやはり同様の手口で詐欺を働いて逮捕された人間が何人か以前豊田商事で仕事をしていた、と報じられたことがあるのです。つまり「会社」は解散しても、その会社を支えていた人間は違う「看板」の下で同じことをやったわけ。今回三笠フーズも解散になるでしょうが、それで何か本当に“解決”するとは私には思えません。美味しい思いをした人間(の何割か)はまた同じことを繰り返すはずです。楽して稼げる手口を覚えてしまったのですから。
これを言うと「一度犯罪を犯したら烙印を押されるのか」と人権問題化されるのは目に見えてはいますが、ではそのまま犯罪の犠牲者が新たに生じるのを放置して良いのか、とも思います。こういった詐欺的事件で甘い汁を吸った人間たち(少なくともその会社の幹部)は(天下りの禁止期間のように)何十年かは似た業種には就職禁止処分、なんてのはできないものですかね。
【ただいま読書中】
あれから3年、15歳になったペールは「家族」を得てヒルデの家で暮らしています。ところが、ペールの親友で漁師のビヨルンの美しい妻チェルスティンが、生まれたばかりの赤ん坊をペールに押しつけて海に飛び込んでしまいます。まるでアザラシのような姿になって。その夜、誰もいないはずの水車小屋で水車が突然回り始めます。まるで悲鳴のような音を立てながら。そしてトロール山ではトロールたちが古いひからびた骨を大量に集め始めます。せっかく得た平穏な暮らしだったのに、ペールはまた何かのトラブルに巻き込まれてしまったようです。
「灰色アザラシ」の話がここで語られます。海の中ではアザラシ、しかし陸に上がると毛皮を脱いで人間の姿になれるもの。ところがその毛皮を人間の男に隠されると、アザラシ女は男の言いなりです。妻になり子供も産みます。しかし、隠されていた毛皮を見つけたら、女はアザラシにもどって海に帰り、残された男の心は砕けるのです。(羽衣伝説を思い出しますが、この手の話はもしかしたら世界中にあるのでしょうか)
ペールはヒルデが好きですが、ヒルデはビヨルンの弟アーネに惹かれている様子です。自分がただの居候ではなくて何者かであることを証明したいペールは、朽ちようとしている水車小屋を復活させることを考えます。村一番の粉ひきになれば、ヒルデの目がこちらに向くかもしれませんから。
沼の底に住む妖精(または妖怪)グラニー・グリーンティースはなぜかチェルスティンの赤ん坊を欲しがります。家付きの妖精ニースはなぜか赤ん坊を毛嫌いします。そして……
そうそう、この本には隠し絵が仕込まれています。読んでいるうちにそれに気がついた子どもは、きっと大喜びでしょうね。
一見どれも同じように見える靴下も、履き心地にはずいぶん差があります。その差は糸の材質やサイズや編み方によるのでしょうが、もう一つ、足首の角度もあるのではないか、と思いました。足首のところで靴下には角度がつけられていますが、それが浅い(ストレートに近い)ものと深い(直角に近い)ものでは、明かに感触が違うはずです。
角度が浅いものは、立っている時には足首の背側(曲がる側)にしわが寄り踵側は伸ばされています。履いている靴にもよりますが、それだけで足の皮膚にはストレスがかかるでしょう。しかし歩き始めたら事情が違います。足首を固定して歩く場合にはあまり変化はないでしょうが、足首のスナップを効かして歩く人では、靴下が本来の姿に戻ろうとするわけで特に足首を伸ばした瞬間には楽になっているでしょう。
角度が深いものはその逆になると予想できます。立っている時には靴下本来の姿に近いので足の皮膚にもストレスはないはずです。しかし歩き始めたら、上に書いたのと逆になるはず。
もっともこれは、きちんと靴下を伸ばしてはいた状態でのことで、靴下がたるんでいたら話は違ってきます。というか、ここまで靴下に注目する人って、業界の人以外ではあまりいないかもしれませんね。私自身、なんで靴下に注目してしまったのか、自分で自分の行動が謎です。
【ただいま読書中】
妻が行方不明になったビヨルンは、まるで何かにとりつかれたかのように毎日海に出続けています。村人は「ビヨルンは呪われている」と噂します。実際、彼の船のそばにはなにか不思議な影がつきまとっているように見えるのです。
水車小屋は毎夜ごとごと動き始めます。トロールたちが何かを画策している様子です。さらにトロールはヒルデ一家の羊たちも大量に盗んでいるのです。
ヒルデの父ラルフは、ビヨルンのことを相談するために二人でビヨルンの弟アーネのところに出かけます。そういえば前巻の『トロール・フェル』ではラルフが夏の間留守にした時に大きなトラブルが生じたのでした。そして今回ラルフの留守には……ヒルデの家から赤ん坊が盗まれます。双子の兄弟はトロールを追って地下の王国に潜り込み、自分の家の赤ん坊と交換するための人質としてトロール王の孫(生まれたて)を誘拐します。ペールとヒルデも赤ん坊を奪還するために水車小屋に向かいます。相手をしなければならないのは……トロール、ラバー、グリムソン兄弟、グラニー・グリーンティース……ちょっと多すぎます。
水車小屋が炎上して、これが物語のクライマックスと思っていたら、そのあとに……いやあ、やられました。一見穏やかででも心の中にはどんとでかい花火が開いたような、そんな強い感動をしみじみと味わえます。
やっと平穏な暮らしができるようになったのに、これまでの苦しみがトラウマになっていたペールは、自分の恋心もちゃんと通じなくてそちらでも苦しんでいます。しかし、「他人にも苦しみがある」ことに気づいてそれにも向き合える勇気がふりしぼれた時、ペールは思春期の中で新しい世界に一歩踏み入ります。喜びや苦しみや悲しみを伴うものが「成長」であって、それらを伴わないものはただの「変化」なのかな、と私はぼんやり考えます。
ともかくペールに対して私は心の中で拍手を送ります。「すべてを心得た師匠」に導かれたわけではありません。ペールの周囲にいるのは「欠点だらけの普通の人」ばかりです。彼は(周りの人たちの助けがあったにしても)自分の力で自分の成長を獲得したのです(といっても、「ペールの周囲の普通の人」は、「子どもを捨てて海に戻った」→「母親失格」、「幸福に家族と暮らしていたアザラシ女を攫って人間世界で強制的に暮らさせた」→「ひどい男」、などと簡単に決めつけず、「きっと何かそうせざるを得ない事情があったのだろう」「運命かもしれない」と、人を簡単に非難するかわりに頼まれてもいない赤ん坊の世話をきちんとする「賢さを持った普通の人たち」なのです)。
ファンタジーとしても楽しめますが、家族の物語として、そして成長物語としても楽しめる、お得なシリーズです。
15日(月)農水省の怪/『トロール・ブラッド(上)』
毒米事件で、農水省は不思議な行動をしています。
1)「食用に使ってはならない」と口で言いながら、売った先は「三笠“フーズ”」。
どうみても食品会社です。「食品会社」に「食用に使える材料」を「食用に使ってはならない」と大量に売り込むのは、きわめて不自然では?
2)当初、最終的に三笠フーズからどこに流れたかの情報を出し渋りました。「当初」ではなくて、今でもかな?
これは「消費者ではなくて企業を保護している」態度にみえましたが、今日の新聞には農水省の役人が三笠フーズに接待を受けていたことが報じられています。なるほどね、企業保護ではなくて、自分の保護のための情報統制だったんだな。本人が主張している「焼鳥屋でちょっと一杯」だけで「便宜は一切図っていない」が真実だと思う人は、日本にどのくらいいるのかしら?
【ただいま読書中】
見慣れないバイキング船がやってきます。そこに乗っていた王と女王と王子は、なぜかラルフの農場を訪れ、思いもかけぬことの成り行きでペールはヒルデと船に乗ることになってしまいます。目的地は、日の沈むところよりもっと向こうの新しい土地、ヴィンランド。
ペールたちが住んでいる土地(今で言うノルウェー)にはトロールや妖精がたくさん住んでいますが、ヴィンランド(この世界で言うカナダ)にも様々な異形の生き物がいます。角の生えた蛇・水人・はりつけ屋・薄っぺら顔・氷の巨人……そして、白人からはスクレリング(野蛮人)と呼ばれる赤銅色の人びとも。
船はアイスランドの南を通過し氷山が浮かぶ海を航海してグリーンランドを確認したらそこで南下。約1ヶ月の航海でヴィンランドに到着、するはずです。しかし船内にはトラブルの芽がいくつもあります。殺人の罪で追放された呪いがかけられている人、トロールの血が混じっている人、攫われた妖精、美しい狂戦士、そして、恋のさや当て。
辛い航海の後、ついに一同は陸の影を見ますが……
「船に女を乗せるのは不吉」という船乗りの言い伝えの意味が本書では明快に描かれます。つまりは、若い女を巡って男どもが争うのがよろしくないわけで、ということは、「不吉」なのは「女の存在」ではなくて「男の行動」の方なんですね。
さて、思春期から一歩踏み出そうとしているペールとヒルデの先には、一体何が待っているのでしょうか。わくわく。
16日(火)追い込まれた/『トロール・ブラッド(下)』
たとえば「自殺に追い込まれた」などという表現がときどき本や新聞などにありますが……ということはその人を「○○(たとえば自殺)に追い込んだ」人(または事情)が具体的に存在しているわけですよね。それは、誰(あるいは何)? そこまで書かないと、形式的にも文章が完結しないのではないでしょうか。
【ただいま読書中】
ペールとヒルデを新大陸に連れてきた船は、犯罪者の巣窟でした。故郷で殺人を犯して追放となっただけではなくて、新大陸でも意見が割れた仲間を殺し船を焼いていたのです。ペールの父親が作ったバイキング船を。その残骸を発見したペールは殺されかけ、やっとの思いで逃げ出します。未開の土地ヴィンランドの奥へ。
スクレリングのところに転がり込んだペールは新しい名前を得ます。「若きドラゴン」。しかし、バイキングがスクレリングを二人虐殺したことから、二つの部族の戦争が始まります。そしてそれは、氷と火の戦いに移行します。
眉目秀麗で体格も立派、しかも剣の腕はピカイチで詩才もある、という“貴公子”が登場します。しかしその性格は歪んでおり人格は異常です。ところがカリスマゆえでしょうか、そういった人に心服する人がぞろぞろ集まるのです。読んでいていらいらしますが、実はそれは現実社会そのものなんですね。今の世の中だって家族から国まで、そんなことはいくらでもあるのですから。
そして本書では人間の愚かさもたっぷり描かれます。
自分ではどうしようもない曲がった性格。人間の目をくらませ行動を間違った方向に誘導する欲望や憎しみ。権力に盲従する人間の愚かしさ。思いこみによって目の前にあることも無視する態度。それらは最後のあたりのペールのことばに集約されます。「ああ、彼は勇敢だった。だが、残念だけど、それだけだった」。人間の本当の善性とか勇気は何か、考えさせられてしまいます。
『トロール・フェル』では、トロールの飲食物を摂ると人がトロールになるシーンが描かれました。それはトロールの飲食物の力だけによるものではなくて、人の中にそれに感応する部分があるからそのような現象が起きるのでしょう。つまり「トロール・ブラッド」は、人の中にあらかじめ潜んでいるのです。
……なんというか……児童書にここまで盛り込んで良いのでしょうか?
そして、最後はハッピーエンドではありません。ハッピービギニングです。ああ、このシリーズを読んで良かった、と思いながら微笑みとともに本を閉じることができます。この先はどうなるんだろう、と思いながら。
18日(木)衣食足りて礼節を知る/『ローマ人の物語III 勝者の混迷』
礼節を知らしめるためにいろいろな方法があるでしょうが、「衣食足りて礼節を知る」タイプの人には「礼節を知れ」と説教するよりも黙って「衣食を足らしめる」方法がもっとも良い、ということになります。「衣食が足りないと礼節を知らないとはなんたることか。人間とはなあ……」などと説教したくなる人もいるでしょうが、ここで一番大切なのが(説教をすることではなくて)「礼節を知る」ことであるなら、そのために一番有効な方法論を捨てて「説教」に走るのは単に「(礼節を知らしめる、という)目的を達成したくない』と主張していることになります。人はそれぞれの目的を持って生きていますから「一生他人に説教をすることで生きていきたい」人の邪魔を露骨にする気はありませんが、やっぱりうるさいのはイヤだなあ。「目的を達成しない」ことで一人悦に入っている姿を見るのも、イヤだなあ。
【ただいま読書中】
カルタゴは700年の歴史を残して滅亡しました。そのときローマは建国600年。「盛者必衰」の予感を抱くものもいたはずです。ハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌスが政治的な攻撃によって不遇な晩年をおくったことに、私はその兆しを見ます。
常勝だったはずのローマ軍は弱体化してきます。その原因は社会が豊かになり格差が広がったこと。ローマの「直接税」は軍役ですが、それを果たすことができない貧困層が増えてきたのです。ティベリウス・グラックスの農地改革は、無産者に農地を与えることでローマ市民層を健全化し社会不安を解消しローマ軍団の質量を改善しよう、というものでした。ところが元老院は、その動きを自分たちの権威に対する挑戦と見ます。グラックスは護民官選挙の場で撲殺され、さらにはグラックス兄の思いを継ごうとした弟も殺され、以後百年間は「ローマの内乱」となります。「改革派」と「抵抗勢力」の争い、と言ってしまうとあまりに単純化のしすぎでしょうけれど。
ここで私はちょっと考えてしまいます。執政官にしても護民官にしても任期は1年です。しかも原則として連続しての再任は禁止。これは権力の集中を防ぐ効果はありますが、そのぶん「1年の間に“結果”を出さなければ」と選出された人に焦りを強いることになります。1年では国に関して大した仕事ができないのは、最近のどこぞの首相を見ても明らか。ところが「スター」を嫌う元老院はずっとその座にいて(足を引っ張る)チャンスを窺い続けることができます。これって不公平ではありませんか? でもまあ、決まりは決まり。ローマの改革を元老院(つまりは「体制」)の外から行おうとしてグラックス兄弟は失敗しました。ではその次は?
登場したのはガイウス・マリウスです。平民の軍人上がりで執政官となった彼は、志願兵制度を導入し、無産者に対して兵士になる道を開きます。それはすなわち失業者に「一人前のローマ市民になる道」を示したことになりました。それによって、志願兵だけではなくて、徴兵されずにすむことになった底辺の市民たちからも、ガイウス・マリウスは強い支持を得ることになります。(ちなみにその子が、ガイウス・ユリウス・カエサルです) 後世それは「私兵化」と呼ばれますが、著者は「義理人情」と言います。どちらにしても、「ローマ」ではなくて「将軍」に従う軍団ができてしまったのです。
ローマにローマ兵が進軍することが続きます。最初はスッラ。次はガイウス・マリウス。そしてまたスッラ。戦場ではなくて、元老院が血にまみれます。スッラは任期無期限の独裁官に就任し、その政敵の息子カエサルはオリエントまで逃げることになります。ただし、スッラは改革をどかんどかんと進めるとあっさり独裁官を辞任しました。ローマの共和制を復興するための改革だから独裁官は邪魔になる、ということで「筋を通した」と著者はスッラを高く評価しています。
第I巻から著者が折に触れ「パトローネス」と「クリエンテス」(パトロンとクライエント)の関係について述べ続けている意味がこの巻あたりからやっと私には見えてきました。これはローマ内部の人間関係の主軸であるだけではなくて、ローマという国の外交関係の基盤でもあったのです。表に見える制度ではなくて、それを支える人間関係に注目してローマ史を著者は描く、だから「ローマの物語」ではなくて「ローマ人の物語」、というわけなのでしょう(もちろん「列伝」だから「ローマ人」ということもできるでしょうが)。
ニュースの軽重/『外注される戦争』
金融不安のニュースが流れた瞬間、自民党の総裁選挙のニュースがみごとに吹っ飛んでしまいましたね。本当は投票日に向かって盛り上げていきたい時期のはずでしょうに。ま、しょせん、その程度の“価値”のニュースネタ、ということだったのでしょうが。
民主党も「サプライズ」で国民新党との合併を使おうと思っていたようですが、それもついでに尻すぼみになったのには笑ってしまいましたが。
【ただいま読書中】
公教育では不十分だと国民が判断したらその国では塾が流行ります。では、警察官よりも武装警備員の方が多い国は? それは、国が安全を提供できなくなったと国民が判断したことを意味します。日本でも民間警備会社が繁盛していますが、欧米では民間人の警備だけではなくて戦争の一部を民間軍事会社(PMC)が請け負うことまで行われています。イラク戦争で派遣されたPMCの“社員”は各社合計で2万人を越えています(日本の自衛隊は600人)。3年前にイラクで安全コンサルタントをしていた斉藤さんが襲われた事件がありましたが、彼が雇われていたハート・セキュリティ社は、もともとはイギリスの特殊部隊員を多く集めたPMCで、従業員は2000人、売り上げは1億ドル以上です。仕事は、要人警護・施設や車列の警備が定番です。
アメリカの国防総省が民間委託を大々的に始めたのはベトナム戦争頃からです。逼迫した状況で、後方業務や航空機の整備などの非軍事的分野の民間委託が進みました。冷戦終了後、軍の縮小が行われます。1990年代に全世界で600万人の軍人が職を失いました。これによってマンパワー不足となった軍は業務の外部委託を進めます。そしてそれを受けたのが、軍を首になった元軍人たちでした。国防総省の委託を受けたヴィネル社がサウジアラビアの国歌防衛隊を訓練する契約を請け負ったのも(で、当時CIA長官だったジョージ・ブッシュは、サウジアラビア情報機関の近代化に尽力しているそうです)「国が表立ってできないことを民間会社が行う」例の一つです。誘拐犯との交渉やロイズ保険との関係など、PMCの面白い業務が紹介されますが、問題は直接的な軍事サービスです。アンゴラやシエラレオネで活動したEO社が知られていますが、国際法との関係(ジュネーブ条約では非戦闘員の扱いになる)やメディアの批判が強いことから、ここまでやる会社は少数派だそうです。
イラクの泥沼化は、PMCにとってはビジネスチャンスでした。ただし、契約を結ぶ側から見たら玉石混淆です。詐欺的な商法をする会社もあれば、エリート軍人をリクルートして質の高いサービスを提供する会社もあります。ただ、イラクでは様々な施設や車列が襲撃の対象となっていますが、そのためにPMCの本来の業務「防御」が不明瞭になる場合があります。さらに緊急時には正規軍と違って友軍の支援や救援を期待できません。一般の正規軍兵士より能力が高いPMCの社員にとってもきつい状況です。そのためイラクでは、米軍とPMC各社が情報を共有するシステムが稼働しています。
皮肉なのは、特殊部隊の人材不足です。テロ対策でいまこそ特殊部隊の活躍が望まれるのに、優秀な人材ほどPMCにヘッドハンティングされて軍を辞めてしまう動きが加速している、とのことです。その理由の一つはもちろん待遇(給料が数倍になる)ですが、もう一つは軍の訓練が時代遅れなこと。そのため米軍では特殊部隊の訓練プログラムを実践的で魅力のあるものに変更しています。
さらにPMCは「多国籍軍化」しています。フィジー・グルカ兵・フィリピン・コロンビアの人が本書では紹介されていますが、共通点は「アメリカ人より低コスト」(でも、彼らの現地での給与水準からはとんでもない高給)です。
CIAの秘密工作員の警護、なんてヘンテコな業務もありますが、本書に登場する中で一番印象的なのはレンドン・グループでしょう。この民間企業がホワイトハウスと組んで「イラクに大量破壊兵器が」のキャンペーンを“成功”させてしまったのです。(のちに世界中のメディアが引用したニューヨーク・タイムズの“スクープ”はレンドン・グループの“成果”でした) もちろん「軍事」の中には情報操作も含まれますから、そういった宣伝工作もPMCのお仕事の一つであることはわかりますが、なんだか世界が一つの会社の思うがままに操られてその結果血がたくさん流れるのには、釈然としない思いです。
テロリストは国境を越えた“戦争”を行います。正規軍が真っ向からそれを相手にしても勝つことは困難です。軍は戦闘に勝たなければいけませんが、テロリストはとにかく負けなければいいのですから。結局テロリストに対抗できるのは、正規軍ではなくて、「国」に縛られない、という点でテロリストと同じ土俵に立てる合法的な民間軍事会社になるのかもしれません。しかし、彼らがまだ「傭兵」でいてくれればいいのですが、独立して動き出すようだったら21世紀は軍事的にはどこもかしこも騒がしい時代になるのかもしれません。
毒米事件で米の流通経路が複雑怪奇であることが少し見えましたが、食べてはいけない工業用の米でさえ平気で食用に混ぜる程度のモラルの人間が横行しそれらの行為がばれないシステムになっているわけです。ということはスーパーなどで山積みになっている袋の「コシヒカリ」とか「ササニシキ」とかのブランドもどの程度まで信用できるのかとってもアヤシイのではないか、と思ってしまうのは、ちょっと勘ぐりすぎでしょうか? それともブレンドがいい加減には行われていない、という規定や保証がなにかあるのかな。
【ただいま読書中】
日本全国には、企業や公立の産業博物館がたくさんあるそうです。その中から94館を選んで紹介してあります。いやあ、いろいろあるものです。最初が北海道で、サッポロビール博物館・雪印乳業史料館……あれれ、雪印? 一瞬歴史を感じてしまいます。そうそう、こういった地域の産業博物館は、その地域とのつながりや地域の中での歴史も重要な“展示物”なのでしょう。
ぱらぱらめくっていると、全ての所に行ってみたくなります。 ほとんどは知らないところですが、たまに個人であるいはオフで行ったことがある館が登場するとちょっと嬉しくなります。名山100選を片手に全山制覇をする人のように、この本を片手に全国をふらふら、も面白い旅になりそうですね。とりあえず今行きたいのは「鉄の歴史館(釜石)」「物流博物館(東京)」「印刷博物館(東京)」「地下鉄博物館(東京)」「金箔工芸館(金沢)」「島津創業記念資料館(京都)」「村岡総本舗羊羹史料館(佐賀県小城市)」……あらら、きりがありません。
そうそう、NHKに関しては、デジタル放送関連は逓信総合博物館のNHK放送館でその他の資料はNHK放送博物館にある、ということが書いてありました。細かいことですが、実用的な知識です。
22日(月)匿名/『ローマ人の物語IV ユリウス・カエサル ルビコン以前』
マスコミは巨大掲示板がお嫌いのようで、その理由の一つが「匿名性」。
匿名・実名・固定ハンドルに関する論争は(私個人は)十数年前のNiftyServe時代からずっと見聞してきているのですが、その是非以前にマスコミに一言。もし本当に匿名が問題なのなら、マスコミで流されるニュースがほとんど匿名なのは自ら問題にしないのかな? ご自分は匿名で記事を書き続けておいて、他人の匿名性だけを問題にするのは、卑怯な態度だと思いますが。
【ただいま読書中】
「わーい、シーザーだ」と私は喜びます。贅沢なことに、著者は2巻をシーザー、もとい、ユリウス・カエサルにあててくれています。さあ、たっぷり読めるぞ〜。
名門だが貧乏で有力者もほとんど出せない家にユリウス・カエサルは生まれました。しかし、同盟者戦役によってローマは大混乱となり、そこで執政官となったキンナによって、ユリウス・カエサルは政略結婚をさせられます。これが彼の「歴史」へのデビューの第一歩でした。2年間の内戦に勝ってローマに入城したスッラは、反対派の粛清を始めます。カエサルははじめ処刑者名簿に名前を載せられていますが、周囲の助命運動によって命を救われます。かわりにスッラはカエサルに対してキンナの娘との離婚を要求。しかしカエサルはそれを拒絶し、小アジアに逃げ出しそこで軍団に志願します。やっとローマに帰ってもなかなか芽が出ません。著者はカエサルが若い頃から一本スジを通して生きていたから、と好意的に彼の人生を見ています。そのスジとは、元老院に代表される硬直化した制度が栄えることは、既得権益階層は利するが民衆は弱り、結果として国力は衰退する、したがって……というものです。もっとも常に一石二鳥を狙って様々な手を打つカエサルのこと、普通の人間にはなかなか彼の“真意”は見えません。
また、カエサルの(多すぎる)女と(やはり多すぎる)借金についても、著者独自の見解が披露されます。なるほど、それほど好男子ではないのに愛人が多くしかも誰からも恨まれない男は女性の視点からはこう見えるのか、と読んでいて嬉しくなります。
ともかく、元老院、属州総督などの公職を歴任し、カエサルはついに「40にして起つ」ことになります。しかし、カエサルの反対勢力であった元老院派は、東方諸国を制覇して帰国したポンペイウスを冷遇することに夢中です。元老院の権威を脅かす可能性がある人物には冷や飯を食わしておくに限るのです。そこでカエサルは、ポンペイウスの票(軍団の兵士たち)と自身の最大の債権者クラッススと組んで執政官選挙に立候補します。ポンペイウスとクラッススの仲が悪く、カエサルがポンペイウスの妻を愛人にした、というのがネックではありますが、その他はすべて利害が見事に一致した「三頭政治」の誕生です。これは、政治・軍事・経済の有力者の合体で、元老院の権威を骨抜きにする“革命”でした。執政官として1年ばりばりと働いた後カエサルは自分をガリアに派遣します。
さて「ガリア戦記」です。当時の「ガリア」はライン川より西(つまり今の西ヨーロッパのほとんど)でしたが、内部は諸部族が相争い、ラインより東からはゲルマン人が侵入を繰り返す、大変な地域でした。そこに兵を進めたカエサルは、軍事と政治とを同時に行わなければなりません。
ラインを渡河したりドーヴァーを渡海してブリタニアに渡ったり、カエサルは大忙しです。野蛮の地であるガリアを文明化することは、ローマだけではなくて彼個人にも利益があることだったのです(ここで著者はブレヒトの「カエサル氏のビジネス」を引きます)。
そして話は「ガリア戦記」から「内乱記」へ。ついに「ルビコン川」です。いやあ、わくわくどきどき。著者の語り口もあるのでしょうが、その“素材”となったカエサルの魅力も実物は相当なものなのだろう、と思ってしまいます。
文字を書くことで何かがちゃんと伝えられると思う人は、人生を楽観視しすぎています。書いた文字を読んだ人の中に世界を描くことができた時、はじめてその文字は何かをちゃんと伝えることができます。つまり、「書く」だけではなくて「描く」ことが「書く(描く)人」には求められるのです。
【ただいま読書中】
『さよなら僕の夏』レイ・ブラッドベリ 著、 北山克彦 訳、 晶文社、2007年、1600円(税別)
名作『たんぽぽのお酒』の翌年のお話です。ダグラスは13歳(もうすぐ14歳)になっていますが、著者は前作を書いてからこの作品を仕上げるのに55年かかったとあとがきで書いています。ただ、たった「1年」の差ですが(あるいは「55年」もの差ですから)、その内容はちょっと色合いが違っています。
たとえば冒頭……
「静かな朝だ。町はまだ闇におおわれて、やすらかにベッドに眠っている。夏の気配が天気にみなぎり、風の感触もふさわしく、世界は、深く、ゆっくりと、暖かな呼吸をしていた。起き上がって、窓からからだをのりだしてごらんよ。いま、ほんとうに自由で、生きている時間がはじまるのだから。夏の最初の朝だ。」(たんぽぽのお酒)
「息を吸ってとめる、全世界が動きをやめて待ちうけている。そんな日々があるものだ。終わることをこばむ夏。
そのときあの花々は道にそってどこまでもひろがり、さわられると、秋の錆びをまきちらす。どの通りも。まるでぼろぼろのサーカスが通りすぎて、車輪が回るたびに昔の小道がくずれたかのよう。」(さよなら僕の夏)
『たんぽぽのお酒』では、生命の躍動と歓喜がまず歌いあげられますが、そこにいつの間にか「死」が忍び寄りました。季節は初夏から晩夏まで。
「さよなら僕の夏」は、ちょっと暗いスタートです。季節も晩夏から始まります。
ダグラスは相変わらず弟のトムや友人たちと町や峡谷を走り回って遊んでいますが、それを苦々しく見ている人もいます。そしてその“対立”はいつしか“戦争”へと変貌します。『たんぽぽのお酒』には目次はありませんでしたが、本書には南北戦争の戦場の名前が目次に並んでいます。本文にも南北戦争に関連する記述が見えます。1929年というとアメリカではまだ南北戦争は生々しい記憶だったのでしょうか。
ダグラスたちが戦う“敵”は、自分たちを大人に変えてしまう「成長」、それから老人たち、最後には自分たちを成長させる“時”の象徴としての大時計。まるで『トム・ソーヤーの冒険』でトムが企む悪戯のようなノリで、少年たちは“戦い”を始めます。
私は現在、ダグラスよりは彼らの“敵”となった老人の方に近く位置しています。かつては“ダグラス”だったこともあるんですけどね。で、この位置からだと両方が見えるだけにいろいろ思うのです。特に著者はなぜこの本を書いたのだろう。著者の目には一体どんな世界が見えているのだろう、と。すぐれた作家はおそらく、自分の“目”を自分自身から離して使うことができているはずです。他人の目を通して、あるいは架空の存在を通していろいろなものを見ているはず。著者は年を取ってから自分の人生を振り返った時、自分の“目”を“ダグラス”に置いて“振り返っている自分の姿”を見ているのかもしれません。
ダグラスがケーキを差し出した時の不思議な体験、そして恋……成長することも悪いことばかりではないよね、ダグラス君。
24日(水)虎の威を借る狐/『馘首はならぬ仕事をつくれ』
某府知事は、「知事の権力」を他人に向かって振り回すのがお好きなようですが、つまりは「自分の実力」「自分の魅力」ではなくて「知事の権力」の威を借りている行動と言えます。そういえば最近盛んに教育委員会を攻める(責める)のに使っている全国学力テストも国の行事として行われたのだから「国の威」も借りているようですね。
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出光石油創業者出光佐三の伝記です。終戦後すぐ、外地からの引き揚げ者や復員で出光に人があふれる状況ででも仕事がない、幹部は人減らしを進言しますが、そこで出光佐三が言ったことばがタイトルになっています。
一読、感銘を受けるのは「反統制」の姿勢を貫いているところです。戦前は国際資本・日本の元売り・軍部・政府などがそれぞれ自分の利益を最大にしようとするところで「反統制」で動くものですから、まあ、叩かれる叩かれる。それでも出光佐三は自分の道を歩み続けようとします。戦後も同じ。「統制」を使用とする相手が、GHQ・国際資本・日本の元売り・政府、に変わっただけでやってることは基本的に同じです。「利益追求」のためにカルテルでも何でも結ぶ大企業の姿勢は変わりませんし、その「利益」と結びつくあるいは「権限」を振り回したい官僚の態度も戦前戦後で変わりません。軍の戦略の問題もありますが、官僚があの戦争の“敗因”かも、とも思ってしまいます。
で、普通は“創業者礼賛”で終わるよな、と思いながら読んでいたら、最終章でどんでんが。著者は取材を通して感じた疑問を列挙しているのです。かつての出光での労働争議での要求の一番目の項目が「就業規則の公表」であることを見ると、企業を手放しで礼賛するのはやめた方がよさそう、と思ってしまいます。「皇室を崇拝すること」とは就業規則には書きにくいだろうとは思いますけどね。
25日(木)古代ローマと日本/『ローマ人の物語V ユリウス・カエサル ルビコン以後』
日本の政治制度は、実は古代ローマの雰囲気を良く伝えているものかもしれません。
選挙の洗礼を受けないほぼ世襲制の元老院は、二世三世がやたらと多い日本の国会に似ていると言えますし、有力者が護民官・按察官・会計検査官・法務官などの公職を歴任するシステムのローマと日本の党の要職や閣僚を様々経験していると首相になりやすいのもそっくり(さらに「前○○」がそのまま公職とほぼ同等に扱われることも)。それになにより、1年任期の執政官は1年交代の首相と同じですな。
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「ルビコン川を渡」ったカエサルの勢いをおそれ、元老院の多くの議員と「三頭」の一人ポンペイウスはイタリアを逃げ出します。しかしカエサルが支配するのはイタリア半島とガリアのみ。ポンペイウスの勢力範囲はギリシア以東・北アフリカ・スペイン、とカエサルの勢力を遙かに凌いでいます。カエサルの持つ“利点”は、本国を押さえていることだけ。カエサルは、自身が赴いた西では勝利しますが、東と南では敗北します。しかし“利点”を活用し、カエサルは自らを“合法的”な存在にしてしまいます。「勝てば官軍」ではなくて「勝つ前に官軍」です。
そしてついにギリシアで対決ですが……二つの軍勢はなんとも対照的です。カエサルの軍は少数ですが、兵士はベテラン揃いです。ただし指揮官クラスは若者ばかり。ポンペイウスはカエサル軍に倍する大軍で指揮官も歴々たるメンバーがそろっていますが、兵士は精鋭とは言えません。あまりに犠牲の少ない会戦のあと、ポンペイウス派の人びとは流浪の身となり、ポンペイウスはエジプトに逃げ込みます。ただしそこは内戦状態でした。クレオパトラの弟王はポンペイウスをあっさり殺します。「敗軍の将を罰しない」「敗者をできるだけ殺さず、ローマ化して自分たちの内側に取り込む」主義のローマ人(さらに「内戦の後遺症を少しでも小さくするために“ローマ人”は極力殺さない」方針のカエサル)に、こんなやり方はなじめません。そこでエジプトでの戦争ですが……著者はクレオパトラはさっさと通りすぎてしまいます。なんか素っ気ない。後日の「アントニウスとクレオパトラ」の方が熱心に描写されますが、このあたりに私は著者の“感覚”を感じます。
やっと反対派を押さえたカエサルは念願の「改革」に乗り出します。様々な改革が紹介されていますが、私が特に感銘を受けたのは「城壁の破壊」と「教師と医師にローマ市民権を与える」ことです。「思想・言論の自由」「安全」「教育」「医療(または福祉)」が「健全な国家の4本柱」と私は考えていますが、カエサルに先を越されました。
もちろん反対派は熱心に反対します。なにしろカエサルは簡単には反対派を粛清しないのですから、安全に反対することができます。しかし、自分が反対する人の「寛容」の上に立つことは、後ろめたさを生じさせそれは憎しみへと容易に転化されます(「自分がこんなことをするのは、お前のせいだ」)。共和主義者にとって「カエサルが王位を狙っているに違いない」は、それが明らかに間違いであっても、自身がすがりつく「正しさの根拠」(名分)でした(カエサルにその意図はないでしょう。実際にカエサルが狙うとしたら、(一民族の)「王」ではなくて(多民族の)「皇帝」ですから)。そして「3月15日」。
ただ、カエサルもただ殺されたわけではありません。常に未来を考えている彼のこと、ちゃんと後継者人事には絶妙の手が打ってあったのでした。不測の事態も包含して「次の次の手」を考える人に対抗するのは大変です。この場合には、カエサル反対派の人にちょっとだけ同情します。
しかし、ローマが将来東西に分かれる原因(の萌芽)が、カエサル(暗殺)にまで遡れるとは、私には驚きでした。
著者はカエサル暗殺者たちの「先見性のなさ」を嘆きますが、私は彼らの思慮の浅さを嘆きましょう。カエサルを殺しても、「カエサルを産んだもの(社会のシステムの欠陥)」を修正しない限りまた別の「カエサル」が登場するのです。結論は著者と同じで「カエサルを暗殺しても、それは“解決策”ではない」なのですが。
26日(金)男女のバランス/『ロスト・ワールド ジュラシック・パーク2(上)』
たとえば気が弱い亭主に気が強い女房、というのはそれなりにバランスが取れています。ただ、それはどちらも健康で生活に大きな問題がない場合でしょう。どちらかが病気になったり金銭的なトラブルなどで生活が傾いた時には、その「バランス」はそのままの形で「アンバランス」へと転化します。そうなると不幸が生じやすくなるんですよね。
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「ジュラシック・パーク」から6年。コスタリカでの恐竜の噂はしつこく流れていますが、InGen社は倒産し、関係者は全員口をつぐんでいます。重傷を負ったカオスの専門家マルカムも学問の世界(カオスと進化論)に復帰していますが、やはり事件については一切否定し続けていました。
大金持ちの古生物学者レヴィンはコスタリカで「巨大なトカゲ」の死体を発見します。しかし保健所の職員によってすぐさま焼却処分されてしまいます。まるで何かを大急ぎで隠したいかのように。その地では、5年くらい前から「異形の動物」が続けて見つかり、さらに原因不明の脳炎が流行し始めていました。
レヴィンはついに、コスタリカの島に恐竜が存在することを知ります。その情報は、金のために恐竜を賦活させたいと望んでいるバイオシン社(Bio + Sin(罪)? 原著は見ないで勝手に想像しています)にも知られてしまいます。
タイトルですでにネタバレをしていますが、「ジュラシック・パーク2」であることで恐竜が登場することはわかりますし(というか、『ジュラシック・パーク』のラストでしっかり「続編があるよ」と宣言がされていましたよね)、「ロスト・ワールド」でそれが一つの孤立した世界であることが示唆されます。
アーサー・コナン・ドイルが描いた探検隊とは違って、こちらの世界では、ヘリコプターで現地に乗りつけ恐竜用に頑丈に作られた電動自動車で探険をするのですが。
「ロスト・ワールド」で孤立していたレヴィンと救援隊は無事合流し(ついでに密航者も見つかり)、探検を始めます。そこは予想通り、恐竜の王国でした。恐竜絶滅の謎を探るためには「モノ」だけではなくて「恐竜の行動」を知らなければならない、と主張するレヴィンにとってそこは格好のフィールドです。しかしそこに、バイオシン社の連中が……
27日(土)お/『ロスト・ワールド ジュラシック・パーク2(下)』
雲がすっかり秋の顔になりました。先日まで遠くに見える山地の上では「上昇気流!」と主張していたのに。やはり暑さ寒さも彼岸までなのかな、と思ってふっと「お彼岸とは書くけれどあまり御彼岸とは書かないな」と気がつきました。お寺だと違うのかもしれませんが。そういえば「お前」と「御前」だと、意味自体が違ってきますね。
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子どもを登場させるのは、エンターテインメント系の映画では定番の手法ですが、本書でも前作を踏襲したのかちゃんと二人登場します。ただしこちらは、社会的に差別されている天才肌の男女。だから著者としては使い勝手が良いですね。子どもだからパニックの時には保護するべき対象だし、天才だからいろいろ役に立つことをしてくれるし、知識が足りないからそれに対して学者が説明するという形で読者に持論を開陳できる。上手く使っています。
島には謎があります。そもそも狭い島で恐竜の生態系が確立していること自体が不思議ですが、成長しきった成体が見あたらないこと、肉食恐竜の数が多すぎること、島の周囲で不思議な死骸が見つかるようになったのは最近になってのこと……一体この島では過去に何が起き、そして現在何が進行中なのか。草むらに潜んで時々ひょこっと顔を出す小型恐竜のように、真相はちらりちらりと姿を見せますが、なかなか全容がつかめません。で、人間の側に犠牲者が出始めます。恐竜の側にも犠牲が出ます。営巣地で卵が盗まれ、赤ん坊が怪我をさせられさらには拉致されてしまったのです。親の恐竜は子どもを求めて探索を開始します。
そういえば『ジュラシック・パーク』では「ティラノサウルスはカエルと同様、動くものは見えるが静止しているものは見えない」という説が紹介されていましたが本書ではその説はコケにされています。前作でもこんなにはっきりコケにしていましたっけ? 読んだのがずいぶん前なので覚えていません。
本書執筆の少し前に「プリオン」が世界中に知られることになり、本書でも重要な小道具として登場します。それが人間に感染したら「軽い脳炎ですむ」というのは気に入りませんが。それと、人間の悪党があまり“活躍”しません。これもまた不満の一つになります。
ただ、前作の大ヒットと映画化、そして本作もおそらくは執筆前から映画化されることが前提、という「制約」の中で、ここまで面白い活劇を描いた著者の力量には感心します。あまりケチはつけずに、装飾恐竜に踏みつぶされたり肉食恐竜に追われる悪夢を楽しむことにいたしましょう。
28日(日)呼吸/『ローマ人の物語VI パクス・ロマーナ』
この世の真実の多く(たぶん80%)はひと呼吸で語ることができます。残りの20%のうちの15くらいはもうひと呼吸もあれば語るには十分でしょう。つまりこの世の真実のほとんど(おそらく95%)は二呼吸で語ることができるのです。
残りの5%の真実をたくさん語りたい人は、本を書くか、要約の技術を磨くか、呼吸を鍛えましょう。私は腹式呼吸をお勧めします。
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ユリウス・カエサルの後継者オクタヴィアヌスが本書の主人公です。カエサルほどの天才ではないが、カエサルが始めた共和制改革を引き継ぎカエサルの最初の構想以上にまで進めて固めた人として著者は高く評価しています。日本だったら信長と家康の関係を思えばいいのかな?
アントニウスを破ってローマに平和をもたらしたオクタヴィアヌスは、「昔の共和制に戻す」と宣言して特権を返上し、元老院議員たちを喜ばせます。しかし“返上しなかった特権”やあれやこれや(「インペラトール(カエサルから世襲の勝利した将軍への敬称)」「第一人者(政治的な敬称)」「アウグストゥスという尊称」の使用、執政官であり続けること、など)で、オクタビアヌス(以後はアウグストゥスと表記)は着実に帝政への道を歩みます。国が拡張している時には、国民の目は外に向きがちですから「トラブル」は大体外からやって来ます。しかし、カエサル=アウグストゥスの「もう拡張はしない」主義だと、トラブルは内部で発生します。だから「外」との境界をしっかり守りつつ、内部の改革や再編を行い続ける必要があります。カエサルによる「破壊」を修復する過程で上手く自分のバイアスを加える形で、反対勢力につけいる隙を与えず、アウグストゥスはローマを自分が望む形に仕上げていきました。内閣(にあたる元老院の代表会議)・常設軍・属州の再編成・徴税システムの改革……少しずつ少しずつアウグストゥスは元老院の権力を弱めていきます。元老院に抵抗をさせず、というよりもむしろ元老院を喜ばせながら。
そろそろユダヤ人の姿が大きくなってきます。カエサルはギリシア人の下位に位置していたユダヤ人を同等の扱いとして感謝されていましたが(だからカエサル暗殺でユダヤ人は大変がっかりしていました)、アウグストゥスもカエサル路線を継承し、盟友としてヘロデ王を得ます。ただ、現世利益は現世利益、「選民」が「劣等民族」であるローマ人に支配されていることへの反発とヘロデ王のオリエント的支配策への国内反発はまた別の問題です。ユダヤ王国はローマの抱える火種(の一つ)だったのです。
ローマ帝国の基盤はほぼ盤石となりますが、後世の暦の数え方でBCからADに変わる前にヘロデ王は死にユダヤ王国は混迷します。アウグストゥスも自分の血を引いた後継者を育てるのに苦心惨憺しています。
しかし、国を束ねるというのは本当におおごとですねえ。政治・軍事・外交・経済・徴税・娯楽・宣伝・後継者……アウグストゥスは体がいくつあっても足りないような活躍ぶりです。
塩野さんの人物描写の手法は、行動を基にそこからその人の心理に迫るというもので、説得力があります。たとえば第IV巻で人間を「野心と虚栄心」で表現した所など、「良心などは?」とツッコミは入れたくなりますが、そのわかりやすさ(と意外性)は魅力です。ただ、ユリウス・カエサルまでは「多くの人」を描いていたのが、ユリウス・カエサルの巻から「一人の人」に筆が集中するようになります。それでもカエサルの場合にはその部下やライバルや敵についても多くが書かれますが、本書では「人」に関してはアウグストゥスに焦点が絞られ、そのかわりといった感じで、ローマの諸相が列挙されます。読者は自分があたかもローマの支配者になってこの国を支配するならどうするか、と考えることができます。
著者は「カエサルもアウグストゥスも、一つのことを一つの問題解決のためにだけはしない」と述べます。一石二鳥というか、常にダブルの効果を持つ(あるいは遠い先に別の効果をもたらす)政策を選択する、ということですが(つまり、一石二鳥)、私には同時に「もしこの政策が上手くいかなくても、その場合でさえ何らかの“収穫”がある」政策を選択しているように見えます(転んでもただでは起きない)。著者も言っていますが、現実をきちんと見つめるのはそれだけで「才能」ですが、さらに先見性や実行力が伴わないと、国(または軍)のトップは務まりませんね。(当然ですが)私には無理だなあ。
29日(月)オクターブ/『子どもの声が低くなる! ──現代ニッポン音楽事情』
子ども時代に母親が電話に出ると、それまでの声とは1オクターブ高い声を出すことが私は不思議でした。「よそいきの声」とご本人は称していましたが、友人の家に行った時そちらでもお母さんが同じように1オクターブ高くしているのを目撃(聞撃?)して、日本中のあちこちで同じ現象が起きているんだな、と私は確信しました。電話に向かってお辞儀をしているのも不思議でしたが、これは私もついやってしまいます。
今はそんなに「よそいきの声」は日本に蔓延していないのかな?
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子どもの歌唱指導をしていて以前より声域が3度ほど低くなっていることに著者は本書執筆の20年くらい前に気づきました。ではその原因は? 住環境、遊びの変化、食事の変化、と著者は様々な考察をしますが、結論は……
絶対音感神話に対しての“反論”もあります。その中で一番納得がいくのは「絶対音感がなくても別に不便じゃない」。著者自身が絶対音感を持っていないからそう言うのかもしれませんが、実際に一流の演奏家や作曲家で絶対音感がない人はいくらでもいるそうです。二番目に納得がいったのは「基準音がばらばら」。「A音は440ヘルツ」と一応キマリはありますが、それをきちんと守っているのはイギリスで、アメリカのオケは440〜442、日本のオケは442、ウイーン・フィルやベルリン・フィルは445〜446……ピッチが高い方が華やかな演奏にはなりますが、ドイツの古楽器演奏団コレギウム・アウレムは422です。さて、これを全部「絶対音感」で処理できるのかな?
昭和30年、丸の内のオフィス街で、集まった学生たちが徹夜で合唱をするシーンも登場します。いやあ、想像すると美しい。各大学ごとにつぎつぎ“発表”して、夜明けになって全員が合唱する最後の曲がマルシュネルの「小夜曲」。(本書には「ステンチェン」とありますが私の中ではそれは「ステントゥヘン」に変換されます) たしかに、どの大学であろうと、グリークラブだったらこの曲はまず間違いなくやっているはずですから、そういう流れになるのは納得です。で、このエピソードはプロローグで、そのあとに来るのが……
日本のママさんコーラスが世界最高水準のわけ、オペラでの日本語の歌詞について、カラオケの意外な活用法など、様々な話題に触れた後、著者は「音楽教育」を取り上げます。文明開化以後日本には西洋音楽が定着しました。それは政府がそう決めたからですが、「国民が親しむ音楽を政府が決める」は世界的にはきわめて珍しい行為です。
文部省唱歌や尋常小学校唱歌が(玉石混淆ではありますが)明治時代に日本で“下地”を作り、それから大正時代に数々の童謡が生まれます。明治34年には東京音楽学校ができ、山形から上京してそこの師範科でヴィオラを弾いていた佐藤タキが、著者の祖母となります。政府主導で「芸術」を根付かせようとする運動は、たとえば絵画の世界では「日展入賞かどうか」での画家の格付けにつながります。しかし音楽ではそういった官製コンクールは根付きませんでした。ただ、たとえばお見合いの時の釣書に「芸大を受験した」が一つの“肩書き”として通用する程度には“格付け”が生きている例が本書には(微苦笑とともに)紹介されています。
そしていつのまにか著者が“舞台”に登場しています。昭和20年代のNHKラジオのど自慢で伴奏をやっているではありませんか。地方大会の予選の予選の状況など、まあなんというかのどかでしかもどたばたという、今からは考えにくいことが書いてあります。
著者が童謡に求めるのは、歌いあげる美しいメロディ・詩情・美しい変化をするハーモニー・子どもが歌える音域・日本語での歌いやすさ……「童謡は子供だましの音楽ではない」が著者の主張です。私はそれに同意します。
そして「学校での音楽教育」。著者はどうも現在の日本での音楽教育には否定的な考え方のようです。少なくとも、中学高校で音楽をやる必要はなし、と断言しています。今のように音楽が満ちあふれている社会で、わざわざ授業として音楽を教え点をつける必要があるとは、たしかに思えません。そもそもテストで点をつけられる時点で音“楽”ではありません。選択科目あるいはクラブ活動にして、教師はレベルが高い人を厳選して配置すれば、そこで音楽の真の楽しさに目覚める人も(少なくとも今よりは)多くなるでしょう。そういえば私が音楽の楽しさを知ったのは、学校の外でしたっけ。
田舎に住んでいた時に、そこのトイレは当然くみ取りでした。ところがある日、大家さんが「簡易水洗にするから」で便器が西洋式に変わりました。昔の国鉄の列車のトイレのような、水が極端に少なくても流れるタイプのようです。それはそうです。下水道につながっていないのですから、大量に水を流したらすぐにタンクが一杯になってしまいます。
これでトイレライフはずいぶん快適になったのですが、困ったことも。くみ取りの場合は「そろそろだな」が上から見てわかります。ところが水洗になると、中が見えないのです。メーターなんかもついていません。適当に見当をつけて業者にくみ取りを頼んでいましたが、ずぼらな人だったら大変なことが起きるんじゃないかしら。
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近代的な水洗トイレは19世紀後半のイギリスで急速に発達しました。1851年ロンドン万国博には「時代の先端技術」として多数の水洗便所が出品されました。そのキモは「配管」です。欧米では「給排水システム」として水洗トイレは捉えられ、したがって便器は「配管」の末端器具でした(だから初期には便器が金属製、がふつうでした)。日本では便器は衛生陶器として把握されています。
欧米での水洗トイレはまずイギリスで普及しました。本書では「ピューリタンのイデオロギーのせいかもしれない」と述べています。ただ、同じピューリタンの国だったはずのアメリカは「不潔な国」で、19世紀に「清潔」が発見されてから一挙に国全体が清潔志向となっています。
日本では屎尿は「資源」でした。日本の衛生状態を改善するのだ、とはりきってやって来た外国人もそれを大きく変えることはしませんでした。変えたのは日本人自身です。化学肥料の普及と都市化によってトイレの改善が必要になったのです。ただし、水洗トイレは下水と一体化したものであり、その普及はなかなか進みませんでした。1930年に「汚物掃除法」によって屎尿処理は自治体の義務となりましたが、1939の東京死でさえ水洗トイレの普及率は20%です(それも下水がある地域で)。他の地方都市でも事情は似ていましたが、理由は金です。くみ取り料金は安いのに、水洗にしたら、改造費がべらぼうにかかる上に水道代と下水使用料とが発生するのです。例外は岐阜市で、1937年に水洗トイレ普及率が98%でした。
「産業史」とありますから、企業の話もたっぷり出てきます。主な主人公は森村・大倉企業グループ。
東陶が経営再建を行い、第2号窯の火入れ式の当日に関東大震災が襲ったエピソードは、なんとも、です。経営者は内需の冷え込みを懸念しますが実際には需要が拡大しました。ただし、最初のまとまった注文は骨壺です。それに続いて、食器・衛生陶器の復興特需がやってきます。東京市は罹災した多数の小学校の再建に際して水洗トイレを義務づけます。再建あるいは新築のビルの多くも水洗トイレを設置しました。
東陶が面白いのは、衛生陶器メーカーだったはずが「付属金具(水回りの金属製品一般)」にも進出したことです。欧米ではそれは「常識」でしたが日本ではこれは「異業種への進出」でした。第二次世界大戦で一時その動きは停滞しますが、戦後には本格的に工場を新設していきます。そして1962年には、東陶の付属金具の売り上げは衛生陶器の売り上げを逆転し、さらに飛躍的に伸びていきます。そのせいか1963年には「付属金具」は「水栓金具」に名称を改められています。
民間住宅での水洗トイレは、ハード面では「都市のインフラ(上下水道)」と密接に関連し、ソフト面では「住宅での排泄スタイル」と関連しています。企業が「これが良いよ」と言ったらすぐ社会に広がる、と言うものではありません。しかし高度成長期、水洗トイレへの流れは民間住宅へ及びます。動きの鈍かった行政も本腰を入れ始めます。くみ取り事業と下水道との“二重投資”が無駄であることが理解されたからです。……ほとんどの行政を動かすのは、結局「金」ということなのかな? 東陶はその流れの中で、住宅の中の水回り専門メーカーへとなります。伊奈製陶もそれに続き、第2のメーカーINAXとなります。
日本のトイレのほとんどは和式トイレから洋式トイレに変わりました。しかし、メーカーはきわめて日本的な出自(欧米の「配管→トイレ」ではなくて「すべては一つの便器で始まった」)を持っており、もしも「トイレの哲学」というものがあるとしたら、欧米と日本とでは大きな違いがあるはずです。たかが水洗トイレですが、社会学的にあるいは心理学的に追究したら、まだまだ豊かなテーマがいくらでも出てきそうです。