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2日(木)裏金の証拠/『黒猫/モルグ街の殺人』
 政治家の不明朗なお金に関して、時々「調査したが、裏金が存在したとは認められなかった」という調査委員会などの報告が発表されます。
 逆に私は聞きたいのですが、何が証拠だったら裏金の存在の証拠になるのでしょうか。「裏金として受け取りました」という領収書?
 
【ただいま読書中】
黒猫/モルグ街の殺人』エドガー・アラン・ポー 著、 小川高義 訳、 光文社古典新訳文庫、2006年、457(税別)
 
 ポーが執筆していたのは江戸時代末期です。そのことを踏まえても踏まえなくてもよいのですが、たとえば巻頭の「黒猫」は、今読んでもぞぞーっとします。黒猫の怖さだけではなくて、さりげなくいろんなことをやってくれる(そしてそれをすべて自分以外のもののせいにする)本作の語り手の「怖さ」が読者に迫ってくるのです。これは見事な心理スリラーです。
 「黒猫」で壁に塗り込められるのは死体(と猫)ですが、「アモンティリャードの樽」で塗り込められるのは生きた人です。ところがこちらで感じるのは、怖さではなくて、ユーモア。同じ主題でも編曲が違うとこうも違った仕上がりになるのか、と感じ入ります。
 「告げ口心臓」「邪鬼」を続けて読むと、ちょっと不思議な気分になります。「告げ口心臓」で描かれるのは犯罪者の不思議な心理と行動です。そして「邪鬼」では、当時流行の骨相学が「神の理念はすべて器官に表現されている」という「形」で人間を判断するのを皮肉って、理念は行動に現れるのではないか、という主張が述べられています。骨相学が何を主張しようが、「悪人」は外から見ただけではわからないよ、と。そしてそれをもう一歩進めたら「悪」とは何か、になります。神が善悪を決めるのか、「神が善悪を決めている」と主張する人間が善悪を決めるのか、それとも……
 やはり当時の世相について、ちょっと考慮する必要はありそうな気がしてきました。少なくとも、当時の道徳や骨相学について、最低限の知識は持っていた方が、本書はより深く楽しめそうです。
 最後の作品はもちろん「モルグ街の殺人」。19世紀半ばのパリ、名探偵デュパンの登場です。
 常軌を逸した殺人事件。怪力によって煙突に逆さまにつっこまれた死体。現場は密室ですが犯人の姿は消えています。室内は荒らされていますが、金貨などは手つかずです。部屋の外で証人によって聞かれたことばは、イタリア人・イギリス人・スペイン人・オランダ人・フランス人すべてが「自分が知らない外国語だ」と証言。誰がどうやって侵入し、どうやって脱出したのか。その目的は?
 いやあ、よくもまあここまで魅力的な謎を設定できたものです。もちろん古くさいことは古くさいのですが、自分が150年前に生きていたらこんな素敵な短編を書けたか、と思うと「否!」と自信を持って答えてしまいます。この作品はすでに「歴史」ですな。
 
 
3日(金)改革の評価/『宇宙の呼び声』
 本来次の総選挙は「小泉改革」に対する国民の中間評価であるべきですが、当の相手が逃げちゃったら評価が宙ぶらりん。まあ日本では良くある話ですが。評価(褒める・文句を言う)をしようとしたら「担当者は変わりました。これからは私が担当ですのでよろしくお願いします」と言われてしまう。
 任期中にきちんと結果を出すか、結果が出るまで時間がかかるのならせめて(その地位そのものではなくても)評価が伝わるところにちゃんといて見守っていてもらいたいものです。
 
【ただいま読書中】
宇宙の呼び声』ハインライン 著、 福島正美 訳、 依光隆 絵、文研出版(必読選定 文研児童読書館)、1969年(83年8刷)、860
 
 ハインラインはイントロの名人ですが、本書もすばらしい。冒頭のページを引用します。
 
==引用ここから==
 ふたりの兄弟は、つっ立ったままそのおんぼろ宇宙船をしばらくながめていた。
「くず鉄だよ」と、カスターがいった。
「くず鉄じゃない──そりゃ、確かに中古で、ぽんこつのおんぼろ船だけども、くず鉄じゃないさ」とポルックスが反対した。
「おまえは、楽天家なんだよ」カスターがきめつける。
ふたりはおなじ十五才だった。ただ、カスターはポルックスより二十分だけ年上だ──つまりふたりはふたごったのである。
「ぼくは実際家なのさ、あにき。ぼくたちがこれより上等なやつを買う金がないことを忘れちゃいけない。こいつで飛ぶのがこわいのかい?」
==引用ここまで==
 
 すばらしい。ふたりが生きるこの世界では、中古の宇宙船市場が成立していることがわかります。そしてそれを子どもでも買いに来ることができることも。あるいはこの二人は宇宙船を買えるくらいなにか特別な存在なのかもしれません。さらに二人の性格が異なることもきちんと描写されます。たった1ページできっちりここまで読者に伝えられているのです。
 で、次のページをめくると、カスターがさりげなく「このぽんこつじゃ、地球までだって行けやしないぜ」と言います。うわーい、ここは地球じゃないんだ。私は嬉しくなってしまいます。
 カスターとポルックスを含めたストーン家の人びとがまたそれぞれ魅力的です。そしてとうとう一家は宇宙旅行にでかけることになります。観光旅行ではなくて火星への交易の旅です。積み荷は、大量の食料と何十台もの中古の自転車。……自転車?
 宇宙船操縦に関する安全措置・宇宙酔い・地球を使ったスイングバイなど、子ども向けに書かれてはいますが、子どもだましには書かれていません。さらに地球生まれの人間と月生まれの人間の地球に対する感情の持ち方の違いなどもさりげなく混ぜられていて、「さすがにこれは子どもにはわからないだろう」と呟きながら私はページを夢中になってめくります。
 火星への航路の途中、偶然道連れとなった宇宙船ワーゴッド号と楽しくおしゃべりをして(ついでに自転車を売りつけたりして)いたら、ワーゴッドの船内で伝染病が発生。ストーン夫人(医学博士)は救援のためにそちらに乗り移りますが、自ら隔離宣言をしたため一家は離ればなれになってしまいます。さらにストーン夫人までもその伝染病にかかってしまい……
 火星の次の目的地は小惑星帯です。兄弟は宇宙鉱山師になる夢を見ます。ところがゴールドラッシュの時に、一番もうけたのは鉱山師以外だったことを聞き、二人は考え込んでしまいます。そしてここではふたごのおばあちゃんが生命の危機に。そして一家は次の目的地を目指します。
 
 人類は二種類に分けられます。「宇宙の呼び声」が聞こえる人と聞こえない人に。私は……以前は聞こえていたはずなのに、最近は忘れていました。それを思い出させてくれるとは、困った本です。
 
 
4日(土)帝国の臣民/『ローマ人の物語VII 悪名高き皇帝たち』
 皇帝とは「王の王」ですから、皇帝が統治する帝国は多くの国の集合体です。つまり帝国は必然的に多民族国家になります。
 ところで日本には「日本人は単一民族」が好きな人がけっこういます。
 すると「単一民族」ファンの人は「大日本帝国」には住みたくない、ということなんですかね。
 
【ただいま読書中】
ローマ人の物語VII 悪名高き皇帝たち』塩野七生 著、 新潮社、1998年、3400円(税別)
 
 タイトルをみてすぐに思い出すのは、ネロやカリギュラですが、著者は順番通り、まずはアウグストゥスの後継者ティベリウスから話を始めます。
 アウグストゥスは、「形は共和制、実態は帝政」を巧妙に構築しました。それは彼個人の力によって合法的になしえたものです。その後継者ティベリウスには「構築の苦労」はありませんが「維持の苦労」があります。外交・内政・軍備・経済・建築物など、すべて「維持」の方針で行いつつ、「共和制のフリをした帝政」の基礎を盤石にしなければなりません。しかし不思議な帝政です。皇帝に就任するのに元老院の承認と市民集会の支持が必要とは、「絶対権力」とか「独裁」とはとても言えません。ただ、システムを愛好するローマ人として(街道よりは街道網、法律よりは法律の体系)、ティベリウスがそのシステムをメインテナンスすることに熱中するのは、きわめてローマ人らしい行動とは言えます。そして、ティベリウスは着実のその仕事をこなしましたが、家庭生活は不遇でした。本書を読んでいて気の毒になります。ただ、彼の晩年の「悪政」はやはり問題です。「国家反逆罪」によって、元老院には死刑の嵐が吹き荒れます。
 そしてティベリウスの治世はスムーズにカリグラに引き継がれます。彼は幼児期にライン川沿いの駐屯地で軍団のマスコットであり、兵士たちによって「カリグラ(小さな軍靴)」と愛称で呼ばれていました。そして、ティベリウスの抑圧によって、安定はしているが面白みもない帝国に「幸福感」をもたらします。カリグラは何の功績も無しに皇帝になりました。しかし、功績は必要なかったのです。ローマの安定と平和の「象徴」であれば良かったのですから。
 カリグラが市民に与えた娯楽に、剣闘士の試合や戦車競争があります。そういえば映画「ベン・ハー」の戦車競争は凄い迫力だった、と思い出していると、ちゃんと本書にもその写真が登場します。にくいサービスです。大盤振る舞いによって国庫を空にしたカリグラは、有力者(つまりは元老議員)の懐を狙います。さらにカリグラは、ユダヤ人問題でもチョンボをします。そしてついに、自分に絶対の忠誠を誓っているはずの近衛軍団の隊長によって皇帝は殺されてしまいます。
 後を襲ったのはカリグラの叔父クラウディウス。歴史家としてのんびり暮らしていた50男の政界への華々しいデビューです。皇帝としての器量には疑問符がつきますが、財政緊縮政策はきちんと機能しました。外交も堅実です。ところが、また家庭に何やら……
 いろいろあって、ネロの登場ですが、世襲制にはやはり世襲制特有の問題がどうしてもついて回りますね。まあ「特有の問題」は他の制度にもそれぞれ存在するのですが。
 
 
5日(日)プレゼント/『夏姫春秋(上)』
 誕生日のプレゼントに読書用の眼鏡を作ってもらいました。ずいぶん高いものですが、必需品でもありますから家計には無理をしてもらいました。
 いや、半年前に比較して、明らかに近くが見えにくくなってきたのです。老眼ってイヤですねえ。パソコンはまだブラウザの文字を拡大すれば対応できるのですが(マウスの右クリック+ホイール操作で文字の拡大・縮小が簡単にできるように設定しています)、問題は本です。特に夜になるとてきめん読めなくなります。夜読書ができないのは私にとっては死活問題(ちょっと大げさですが)。レンズが特注なのでできあがるのにもうちょっと日にちが必要ですが、早くできあがってくれないかなあ。
 なお、凸レンズではなくて凹レンズの眼鏡なので「読書用眼鏡」である、と私は主張します。老眼だから必要になったので正直に老眼鏡と言っても良いのでしょうけれどね。枠は今までの黒縁眼鏡の路線をそのまま継承しています。イメージチェンジは、なし。
 
【ただいま読書中】
夏姫春秋(上)』宮城谷昌光 著、 文藝春秋、2000年、1619(税別)
 
 タイトルを見て、「冬はどこ?」とまず思います。つぎに「きっと舞台設定は春秋時代だな」とも。
 ページを開くと、予想通り春秋時代。大国晋は重耳が死んで衰えを見せ、かわって南方の楚が勢力を拡張してきていました。鄭も楚に攻められ屈服しています。楚王商臣は宋を攻めると決め、各国に連合軍への参加を呼びかけます。覇を唱えようというのです。
 鄭の君主蘭の娘夏姫は絶世の美女で、11〜2歳のとき実の兄子夷によって女になり、さらに醜聞が発生しそうになります。父の蘭は夏姫を辺境の小国陳に嫁にやることとします。夫となる御叔は夏姫を一目見て夢中になりますが、その父子夏は夏姫の妖美を見て不安になります。それはそれとして、陣は鄭と組んで、楚の支配から脱け晋に頼ることを画策し始めます。
 妹への妄執に支配されていた子夷は楚の国に人質となりますが、そこで楚王が死に、楚は内乱状態に。そのすきに晋が諸侯に招集をかけます。ところが楚から離れた諸侯が見たのは大国晋の冷たい態度。暴虐な王が死んだ楚では、新しい君主はさらに暗愚と評判でしたが、実は英明でした。「鳴かず飛ばず」の故事(三年間暗愚のふりをして臣下を見極めてから国政に大なたをふるった)です。人生はなかなか上手くいかないものですが、大国にはさまれた小国の生き方もなかなか難しいものです。
 印象的なのは、子夷の成長です。妹への執着などから奇異の人だったのが、他の人からの忠告は素直に聞き、他国での人質生活の苦労も無駄にしません。「他国での苦労」と簡単に書きましたが、当時のそういった生活をした多くの公子にとっては、いつ本国に見捨てられるかもしれずいつ殺されるかもわからない生活です。それを無事乗り切るだけでも大したものなのです。そんな生活をした人を著者は『重耳』『奇貨居くべし』などでも描いていますが、当時はそれがふつうの生活だったのか、それとも著者の琴線に触れる主題なのかな。
 やがて、晋と楚の代理戦争として、宋と鄭は戦争となります。個人的な恨みが戦況を左右し、宋軍は惨敗します。その直後、楚は最大の軍旅を起します。目指す地は周。目的は「鼎の軽重を問う」こと。
 歴史と故事が次々登場して、寡婦となって夫の実家に息子と籠った夏姫はどこかに行ってしまったようです。上巻の終わりころ、鄭の国を継いだ兄の夷が暗殺されたとき、零落した夏姫と子南の母子が再登場します。下巻はこの二人が軸になる、と言わんばかりに。
 
 
6日(月)忘却とは忘れ去ること/『夏姫春秋(下)』
 よく行くガソリンスタンド、今朝「158円」の表示が出ていて「あ、160円を切った。安くなったな」と思いました。その次の瞬間、直近の高値との比較はできるのに過去の値段の推移との全体的な評価をしていない自分に気づき、さらにたとえば昨年の今頃はいくらだったっけ?というのが思い出せないことにも気づいてしまって、3秒くらい落ち込んでしまいました。
 これでは「朝三暮四」のお猿さんたちのことを、笑えません。
 
【ただいま読書中】
夏姫春秋(下)』宮城谷昌光 著、 文藝春秋、2000年、1619(税別)
 
 夏姫は自分の肉体を武器に使って、夏家の再興を果たします。と言っても、最初からそれを狙っていたわけではなくて、権力を持つ男たちが勝手に群がって無我夢中になってしまった感もありますが。しかしそれは息子子南には受け入れ難いことです。大夫の地位に若くして就くことができましたが、それは母を犠牲にしてのこと。さらにそれは父に対する裏切りでもある、と子南は感じるのです。そして母がそれで苦しんでいるのかどうかもわかりません。ついに子南は謀反を起こします。母をもてあそぶ陳の君を殺そうというのです。君側の奸臣によって殺された忠臣の部下がそれに荷担します。
 本書に登場する人たちは「真情を吐露する」ことをほとんどしません。何も語らず、あるいは詩やなにかに仮託して、伝わる人には伝わればいい、とでも言っているかのような風情です。読んでいてもどかしくも感じますが、それでも人の意や情が通じるものであるのを見ると、ことばの力のすごさと限界を同時に感じます。もっとも、直截なことばでさえきちんと理解できないあるいは聞けない人間も多く登場して「雰囲気を壊さないでよ」とも言いたくなるのですが……
 さて、子南を失い楚に囚われた夏姫は、体内に潜む「風」を「風伯(風の神)」と見なされます。楚王は、その風伯が楚にとって吉か凶かを見極めようとして臣下に下げ渡します。しかしそこに、彼女を救おうとする男が現れます。
 そして春秋史上有数の会戦となる楚を晋の対決が始まります。
 
 不幸に犯され続けた一人の女の存在が、春秋時代の勢力図を塗り替えてしまった、という「本当かいな」と言いたくなるお話です。だけどもしかしたら歴史とはそんなものかもしれない、と感じてしまうような上手い語り口の本です。
 
 
8日(水)宇宙の外/『孔子と老子』
 今回のノーベル物理学賞のニュースのことを子どもと話していて「宇宙の外」が話題に登場しました。子どもは「宇宙の外になにもない」が直感的にわからない様子です。「少なくとも『外』があるんじゃないか」と。私も説明に困ります。
 もしかしたら人は「何もない」「空虚」というイメージを「ある」「存在している」と対比して捉えがちなのかもしれません。たとえば「(何かあったものが)なくなった」「ある容器の中が空っぽ」といった具合に、何か「存在する」を一種の認知の枠組みとして使うことではじめて「ない」「空虚」をイメージとして持てるのかもしれません。ところが宇宙の外にはそもそも「枠」が設定できません。だから宇宙の外になにもない、がわかりにくいのかな。
 
【ただいま読書中】
『孔子と老子 ヤスパース選集22』カール・ヤスパース 著、 田中元 訳、 理想社、1967年(76年5刷)
 
 本書を読む者は、二重に気をつけなければならないでしょう。「孔子と老子」についてもですが、それを書いたのがヤスパースですから彼の哲学についても無防備でいるわけにはいきません。もちろんヤスパースが公正に書こうとしているだろうことは信頼できますが、それでもヤスパースが自分の哲学からまったくフリーの立場になれるとも思えません。さらにその日本語訳ですから、読者は三重に気をつける必要がある、と言うことになります。おっと、「すでに自分が持っている孔子像・老子像」の影響も考えたら、四重の注意が必要だ。
 
 孔子は歴史を規範とし、かつそれを批判的に見た、と著者は述べます。ただ、西洋人には「先祖崇拝」は不慣れな考えなのでしょうか。著者は孔子が儒者(祭礼を司る階層)の出身であることの基礎に先祖崇拝があることを重視しません。しかし、孔子の「歴史的な見方」(論理)の裏打ちとして「先祖崇拝」(感情)があるからこそ、孔子の教えは東洋に根付いた、と私は考えます。ともかく「過去に学ぶ」態度をそのまま未来に向けたら「自分が学習を続けること」と「弟子を教育すること」になります。
 「大きな二者択一」があります。「世間から孤独のうちに退く」か「人びととともに世の中で生き、この世を形成する」かです。孔子は後者を選択します。そして孔子は「理想の君子」を描くことで「個人と社会のあり方」を述べました。礼とか楽とかについての記述のあと、著者は孔子の「ことばを正しくすること」に注目します。内的存在とことばの不一致は世界を乱すからです。哲学者らしい着眼だと私は思います。
 
 次は老子。「道(タオ)」が登場します。老子は本来無名の「存在の根拠」を「タオ」と名付けました。ただしタオへの言及は、否定的な言辞の連続になります。肯定的に表現したら、タオは有限となり世界の中で消費されて消滅してしまうからです。ついで「無為」。これは「なにもしないこと」ではありません。無為はタオそのものの根源からの自発的な介入による行為です。そしてそれは「言い表すことができないものを言い表そうとする」行為でもあります。西洋では、形而上学・倫理学・政治学と分けられるものを、老子は一体として扱います。道がそれを結合させるのです。
 ただ、老子に思惟は「情熱をなくし何もしないことがタオへの接近の早道」と考える誤解者を多く産みました。老子は世を超越しましたが現世は捨てませんでした。しかし老子の考えを手っ取り早く誤解して、隠棲者となることを選択する人が続出します。後継者は荘子ですが、荘子も老子とは大きく違います。
 ヤスパースは老子の「問いかけの欠如」を強く批判します。孔子には弟子との問答がありましたが、老子にはそれがありません。「世界はこういうものだ」とぼんやり提示されて、反論も追究もできない状況が気に入らないのかもしれません。ポパーの「反証可能性」のことを私はここで思い出します。西洋的なロゴスの枠組みから逸脱していたはずの知の巨人も、やはりある限界はあったのではないか、と私はえらそうに思います。
 
 
9日(木)大台/『燃料か食料か』
 ニューヨークの株価が1万ドルを切ったとか東京で1万円を切った、とかが騒ぎになっていますが、その「切った」ということは心理的なもの以外になにか問題なんです? たとえば「10200円が10000円になった」と「10010円が9990円になった」とでは、経済的ダメージは明らかに前者の方が10倍大きいと思うのですが。もしかしたら「株価は実体経済よりも幻想で動いている」ということで、それが露わになってしまうから大台を切ってそれで騒ぎになることがマズイ、のかな?
 
【ただいま読書中】
燃料か食料か ──バイオエタノールの真実』坂内久・大江徹男 編、 日本経済評論社、2008年、2600円(税別)
 
 「燃料か食料か」とはまことにわかりやすい二項対立ですが、現実はそれほど単純ではない、ということを本書では言いたいようです。
 世界でのエタノール生産量は2007年には620億リットル。ブラジルはそのうち206億リットルを生産して、世界第2位です(2004年までは1位でした)。ブラジルのエタノールは主にサトウキビから生産されますが、その生産量は、砂糖価格・エタノール価格・原油価格によって左右されます。ブラジルでガソリンへのエタノール混入が義務化されていることは有名ですが、その歴史は古く、1931年まで遡ります。この年に5%の混入が義務化されましたが、もちろんエコのためではなくて、1929年の大恐慌によって打撃を受けた砂糖・エタノール産業の救済のためでした。現在でもガソリンへの混入率は農務省令によって2025%の間で定められます。率が上がれば政府による買い支えと同じ意味になるわけです。さらなる増産が求められていますが、それで行われるのは大豆畑からの転作です。ところがそれによって、玉突きのように、大豆生産は森林伐採地に移動します。つまりバイオエタノール増産は(直接の結果ではありませんが)森林破壊をもたらすのです。そこで遺伝子組み換えによって糖分をさらに多く含むサトウキビの開発も行われています。
 アメリカは2007年にエタノールを261億リットル生産し、世界第1位です。ただしそれでも足りなくて主にブラジルから大量に(2006年に27億リットル)輸入しています。アメリカでもガソリンに添加することが義務づけられていますが、その結果ガソリンは、オクタン価で3種類・環境規制の区分で3種類、その組み合わせで9種類のガソリンが販売されています。生産者には税制面で優遇措置がとられています。ただしそこまでの道は、石油メジャーと穀物メジャーの闘争に彩られています。どちらも「環境規制」を武器に使うから話がややこしいのですが。(本書には、京都議定書からアメリカが脱退したのは石油業界のロビー活動のせい、とあります) 単純化すると、ブッシュ政権下では石油メジャーが優勢だったのが、クリントン政権で逆転。現在は両者が、協力と競争をすることでバイオ燃料メジャーを目指している、という絵図です。アメリカのコーンベルトでも農業構造の変化が起きています。連作障害予防のためにトウモロコシと大豆を隔年で作っていた農家が、2年トウモロコシ・1年大豆のパターンに移行したり、畜産農家が大豆専業に転換したり(そこからさらにトウモロコシに転換する農家も多いそうです)の動きが大々的に起きています。
 生産量第3位は中国。こちらでも問題はコストで、現在補助金制度が活用されています。
 EUは2007年に「2020年までに、EUのエネルギー消費効率を20%向上・温室効果ガス排出の20%削減・エネルギー消費の20%を再生可能なエネルギー源に・輸送部門でバイオ燃料の割合を10%以上に」を首脳会議で目標としました。EUでバイオ燃料の使用が始まったのは1973年(石油ショック)からです。ドイツで始まったバイオディーゼルが主力ですが、バイオエタノールは1990年にフランスで始まりスペインが追随しています。EUでも税制優遇などの振興策がとられています。
 
 ただし、あまり穀物をバイオ燃料に向けると、食料や飼料に影響が出るため、マレーシアや中国ではバイオ燃料増産に対して抑制策を始めています。
 バイオエタノールは糖類や穀類から生産されますが、現在はセルロース系の第二世代が生産を始めています。さらに期待されているのがバイオブタノール。セルロースを使用することが可能で前処理が違うだけで生産設備は既存のものが流用でき、燃費効率はバイオエタノールよりも高い、と良いことだらけのバイオ燃料です。さらにセルロースを利用することで「食料か燃料か」の回答にもできます。
 そうそう、先進国型農業での農産物の場合、その生産過程や流通過程で化石燃料をけっこう消費するので、温室ガス削減効果は意外に少ないのでは、という議論があるそうです。なかなか話は一筋縄ではいきません。
 
 本年2月16日に読書日記を書いた『バイオ燃料 ──畑でつくるエネルギー』では、バイオ燃料自体について知識を得ることができましたが、『燃料か食料か』ではバイオ燃料を取り巻く社会状況(産業、国家、国際関係)に焦点を合わせているようです。両方読むと、バイオ燃料についての理解は深まるかもしれません。
 
 
10日(金)ベトナム料理/『ガリア戦記』
 先日一家でベトナム料理を食べに行きました。私はベトナム料理は、初めてがふらっと入った赤坂の店、2回目はオフで集まった銀座の店で、今回が3回目です。初回は辛いのとカレーをビーフンにかける発想に驚き、2回目は生春巻きのうまさに驚きましたがこのときはオフで楽しかったために料理にはあまり注目していませんでした。今回は料理にも注目できましたが、いやあ、ベトナム料理って「ヘルシー」なんですねえ。野菜をあんなに美味しく大量に食べられる(しかも安い)のは、なんともお得な気分でした。
 食べながら話をしていて、私が子供の頃にはベトナム戦争が真っ盛りだったことを思い出しました。あの頃はまさか日本でふつうにベトナム料理を食べられるようになるとは思いませんでしたっけ。ということは、今の子どもたちが育った頃には、アフガニスタン料理やイラク料理が日本の田舎町でもふつうに食べられるようになっているのかな?
 
【ただいま読書中】
ガリア戦記』カエサル 著、 國原吉之助 訳、 講談社学術文庫、1994年(200216刷)、1313円(税込み)
 
 『ローマ人の物語』で絶賛されていたので、ちょっと寄り道をすることにしました。
 
 第1巻「1年目の戦争」は、塩野七生さんが書いているように「ガリア全体は、三つの部分に分かれていて……」と鮮やかに始まり、ついでヘルウェティイ族との戦いについての記述となります。今のスイスにあたる地域に住んでいた一族26万人が、山に囲まれた地では将来が暗い、と西への移動を始めます。覚悟を固めるために、すべての城市・村落と持てない食料を焼き捨てて。ところが彼らがローマの属州を通過しようとしたことから、カエサルの出番となります。こう書かれます。「カエサルは、他ならぬこのヘルウェティイ族により、執政官カッシウスが殺され、彼の軍隊が撃退され、槍門の下をくぐらされたことを忘れずに根にもっていたので、彼らに譲歩すべき筋はないと考えた」。きびきびとした文章ですが、いやあ、「カエサルは」ですよ。自らの行動をその場で歴史化しているようです。ついでですが「槍門をくぐる」のはローマ兵にとっては最大級の屈辱とされています。歯切れよくエピソードが積み重ねられ、ヘルウェティイ族の移動によって圧迫された属州やローマと友好関係にある部族から援助要請が発せられます。これによってカエサルは自身の行動(境界を越えての軍団の出動とガリアでの戦争の継続)を正当化することができるわけです。さりげないオープニングですが、実に大きな意味を持った始まりです。
 ガリアは、内部は分裂状態ですが、全体としては東方のゲルマニアから圧迫をうけています。(ローマは境界を守る、ということで善玉です) それを放置したらゲルマニア人によってガリアが支配され、ローマの友好国が失われて境界が脅かされます。ガリアの安定がローマの安定につながりますが、それが壊されてから再建するよりも予防した方がローマの利益になります、という理論構築によってカエサルはガリアでの戦いを継続します。半分は本当でしょう。もう半分は、これによって自分が力をつけてローマの改革に乗り出すことができる格好の手段である、ということかな。
 
 カエサルの頭の中には「地図」が入っています。それは「戦場」「補給線」といった地理学的なものだけではなくて「ローマの政界図」「ガリアの各種族の勢力図」などもダイナミックな形で含まれています。カエサルはその中を「最短距離」で動きます。ただし、定規で引いたような直線ではありません。自分が動いたことによって起きる影響を考慮に入れ、相手の動きも考え、その上で最短時間で最良の結果が出るような『最短距離」です。ですから一見遠回りをしているような場合もありますが、結果としてはカエサルの思う結果がスピーディーに得られるわけです。
 そうそう「相手の動き」もきちんと考えるところがカエサルの特長でしょう。「自分にとって都合のよい相手の動き」ではなくて「信頼できる敵としての相手の動き」です。だからカエサルは「敵」の主張も堂々とそのまま本書に載せています。「敵も最善を尽くす」という「信頼」があるからこそ戦争に強くなる、これは普通の人間にはなかなかできないことです。ふつうだったら敵は見下したくなりますもの。野蛮人はアホだ、と言いたくなりますもの。カエサルはそうしません。だからこそカエサルの行動は多くの人の予想を裏切るのです。
 
 『ローマ人の物語』で、塩野七生さんはユリウス・カエサル一人で2巻も使っています。それは、彼個人がとても魅力的な人間でありまた彼がローマを転換させたことも一つの原因でしょうが、もう一つ、資料としての『ガリア戦記』がとんでもなく面白くて深読みすればするほどきりがなくて、ついつい筆が進んでしまった、という事情もあるのではないか、と私には思えました。とにかく本書の面白さはタダモノではありません。もちろんそれはカエサルがタダモノではないからですが、2000年前の「人間」が生き生きと感じられる本です。強くお勧め。
 
 
11日(土)気がついた?/『タイムライン(上)』
 以前書いたテーマの第二変奏です。
 家内が美容院に行って帰ってきました。玄関で私に向かって「どこが変わったかわかる?」「う〜ん、きれいになった」「そうじゃなくて、具体的に」「髪が長くなった?」「そんなわけないでしょ! わからないの?」「じゃあ、ぼくのどこが変わったかわかる?」「え?」「眼鏡を新しいのをかけている」「……
 新しく作った読書用眼鏡を取りに行って、さっそくかけていたのです。
 これで引き分け
 
 ちなみに新しい眼鏡、文字が拡大されたようで大変読書環境は快適になりました。さあ、これから読むぞ〜。
 
【ただいま読書中】
タイムライン(上)』マイケル・クライトン 著、 酒井昭伸 訳、早川書房、 
 
 灼熱の砂漠で見つかった物理学者は体が冷え切り体の内部のあちこちに「ずれ」がありました。彼の職場はハイテク企業ITC。会社から400kmの距離を既知の輸送機関を使わずに彼はどうやって砂漠に迷い込むことができたのか……
 ITCの援助でフランス南西部の14世紀の修道院や町の発掘作業をしていたチームは、油布に包まれた羊皮紙の束と現代の老眼鏡を発掘します。そこにはチームの指導者であるジョンストン教授の筆跡で「助けてくれ 1357年4月7日」と書いてありました。分析の結果、羊皮紙は古いもの、そしてインクは14世紀のものです。
 ITCはなぜか発掘チームがまだ発掘していない場所の詳細なデータも持っていました。そして妙な要求をされたためにアメリカのITCに出かけた教授とは連絡が取れなくなっています。筋が通らないことだらけです。
 
 ITCは量子力学の研究をしていました。そしてその過程で、多宇宙(この宇宙に平行して存在する、あらゆる可能性によって分岐した多数(無限)の宇宙)の間を旅行する手段を発見していたのです。素粒子レベルでの時空の揺らぎである量子の泡に虫食い穴の通路を開けることでそれが可能になったのですが、それを通ってジョンストン教授は14世紀に出かけ、そこで行方不明になってしまったのです。羊皮紙は、(14世紀から見て)未来に発掘作業が行われることを知っている教授から学生たちへのSOSでした。
 
 4人の学生たちは14世紀に教授を救出に出かけることにします。大学院の学生たちのリーダーマレクは中世に入れ込んでおり、当時の言語の数ヶ国語がしゃべれるし当時の武芸もできます。何より重要なのは彼らが歴史の知識を持っていることです。建物の状況や土地勘、地元の風習など、ある程度の予備知識を持っているのは大きな強みです。
 ただし彼らが乗り込む先は、百年戦争で不穏な状況のフランスです。目的地の修道院もいつ戦乱に巻き込まれるかきわどいところです。そして不幸な事故によって、学生たちは中世に島流しとなってしまいます。
 
 どうでもいいことですが、先月読んだ『トロール・ミル』では「水車小屋が夜動く」ことの異常さが強調されていました。西洋では水車小屋は昼に動くことが常識となっているようなのですが、その理由がこちらの『タイム・ライン』を読んでわかりました(ヒントは、粉塵爆発)。どんなことにも何らかの理由はあるんですね。
 
 
12日(日)パニクる/『タイムライン(下)』
 パニックといってまず私が想起するのは「パニックにおちいった群衆」です。つまり「けっこう重たいことば」と私は捉えています。ところが最近のネットでは個人でパニックになる人がずいぶん多いようです。もちろん「パニック」には「個人の恐慌」という意味もありますが「パニクる」はそれよりももっと軽い意味で使われている様子。でもそれだったら、恐れる・ウロが来る・周章てる・困り果てる・狼狽する・うろたえる・腰が抜ける・身がすくむ・思考停止・呆然とする・筋道建てて考えられない・頭の中が真っ白になる・魂が抜ける・心神耗弱・心神喪失、などをできる範囲で使い分けても良いんじゃないかしら。せっかくいろいろことばがあるのですから使わないのはもったいない。
 
【ただいま読書中】
タイムライン(下)』マイケル・クライトン 著、 酒井昭伸 訳、早川書房、2000年、1700円(税別)
 よんどころない事情で、一人の学生は突然鎧を着せられ軍馬に乗せられます。行き先はトーナメント(騎士同士の一騎打ち)会場です。さらに、幽閉・脱出・死刑の宣告・陰謀・戦争……ジェットコースターのように学生たちの回りで話は驀進します。中世は「異質な世界」です。人は現代とは異なるルール(異なる価値観と行動規範)で動きます。そこで学生たちは「生き延びる」ことにまず集中しなければなりません。教授の救出はそれからです。
 現代では廃墟となっていた(そして学生たちが発掘作業を行っていた)修道院や城は、当然のことですが中世ではたくさんの人が住む現役の建物です。イメージが過去と現在の二重写しとなりますが、現在にあるのは「過去の遺跡」で、過去にあるのが「現在使われている建物」ですから、過去と現在がねじれることになります。なんとも複雑で、そのために少々ストーリーに変なことがあっても気にならなくなります。さらに「敵」も、中世の人間だけではありません。現代にいる現代人と中世にいる現代人も敵なのです。いやあ、ここまでややこしくしますか?
 さて、「鍵」を求めに修道院に行ったらそこも兵士たちに襲われ、そこから命からがら脱出したら次にこなすタスクは、兵士に守られた関門を突破し厳重に警備されている水車小屋に侵入しどこかにある秘密の礼拝堂に行くことです。しかしその過程で、辞書にも載っていないラテン語の「VIVIX」の意味が明らかになります。一同はばらばらになり、集まり、またばらばらになり。そしてタイムリミットは刻一刻と迫ってきます。
 
 とんでもないハイテクで小さくされて冒険行といえば……『ミクロの決死圏』ですね。本書では冒険の世界が体内ではなくてリアル中世なのですが。実に由緒正しい冒険SFを読んだ、と思えました。面白さは保証します。
 
 
13日(月)ローマのおかげ/『アルハンブラ宮殿 南スペイン三都物語』
 『ローマ人の物語』には「ローマの勢力範囲」として地中海を中心とした地図がたびたび登場します。で、もちろんヨーロッパの方も重要でしょうが、私には地中海の「対岸」北アフリカの変遷も面白く感じます。エジプトからジブラルタルまで、サハラの北側の海岸沿いが帯状に「ローマ」として形成されている地図を見ると、こうやって植民都市や街道で結ばれたからこそ、後年イスラムが一挙にその地域を支配できたのだろうな、と思えます。ヨーロッパの方も「ローマ化」が進んでいたからこそ、キリスト教が爆発的にその地域で広がることができたのでしょう。
 ですから、自分たちの勢力範囲が広いことをありがたく感じるイスラム信者やキリスト教徒は、古代ローマに足を向けて寝られないかもしれません。
 
【ただいま読書中】
アルハンブラ宮殿 南スペイン三都物語』谷克二 文、武田和秀 写真、旅名人編集室 編、日経BP企画(旅名人ブックス)、2004年(082版)、1800円(税別)
 
 「アルハンブラ宮殿」と言えば私がすぐ思い出すのは、タルレガ作曲「アルハンブラ宮殿の思い出」です。ギターのトレモロがとても印象的な曲ですが、不勉強な私はその宮殿がスペインのどこにあるのかは知りませんでした。
 本書は、アルハンブラ宮殿のあるグラナダ、それにコルドバやセビリアのあるスペイン南部のアンダルシアについての観光案内です。ただ、レストランとかホテルや交通手段はろくに載っていません。現地の魅力と歴史を、写真と文章でひたすら伝えようとする、非実用的な観光案内です。でも、もし通り一遍ではない旅をするのなら、普通のガイドブックだけではなくてせめてこの本くらいは読んでおいた方が良いとも思います。特に最終の歴史物語は、5分でわかるレコンキスタ入門として使えそうです。
 
 スペインは、何度もその支配者を変えています。歴史に名前が残る最初は、私が知る限り、カルタゴのハミルカル(ハンニバルの父)。それからローマが属州化し、8世紀にはイスラムがジブラルタル海峡を渡って侵攻を開始しイベリア半島を支配します。キリスト教国側もそれに対する反攻(レコンキスタ)を行い、15世紀末にはイスラムのグラナダ王国が滅亡します。
 ただ、事態は単純な「イスラムvsキリスト教」ではありませんでした。イスラムの側には内紛がありさらに外部のイスラム(アフリカの勢力)が干渉します。キリスト教側にも内紛があります。ですから「イスラム+キリスト教」連合軍が「キリスト教+イスラム」連合軍と戦う、ということも珍しくはありませんでした。一言でレコンキスタと言っても複雑です。(スペインの英雄エル・シッドも、追放中はムーア人の王の傭兵隊長として働いているそうです)
 建築様式でも、イスラムとキリスト教の混在、というだけではありません。破壊と再建、さらにレコンキスタの時代がちょうどロマネスクからゴシックへの移行期と重なるため、スペインには様々な建築様式が保存されることになりました。さらにユダヤ式の建築もあります。本書にはカラー写真が多く載せられていますが「もうちょっと大判で見たい」「現地で見たい」と思ってしまいます。特に写真で印象的なのは、空の青さと町並みの美しさです。文字を読まずにただページをめくって写真を見るだけでも、十分現地の雰囲気を堪能できます。観光名所の建物を見物するだけではなくて、その街をぶらぶらと散策したくなる本です。
 
 そうそう、ヨーロッパでは「アフリカから来るイスラム教徒」は全員「ムーア人」と言われることがあり、本書でもそんな感じで記述されている部分があります。しかし、もともとムーア人というのは北西アフリカに住んでいたベルベル人がそこに侵攻してきた(そして彼らをイスラムに改宗させた)アラブ人と混血して生じたはず。ヨーロッパ人から見たら「誤差の範囲内」かもしれませんが、区別できる時にはした方が良いのではないかな。それをきちんとすることが多文化に対する時の基本的態度だと思いますので。
 
 
15日(水)専門/『君はピカソを知っているか』
 専門バカとは、自分の専門分野で優れた仕事ができる人。
 優れた専門家とは、たとえ自分の専門ではない他の分野でも並みの人間以上の仕事ができる人。
 
【ただいま読書中】
君はピカソを知っているか』布施英利 著、 ちくまプリマー新書、2006年、760円(税別)
 
 生涯に4万点もの(数え方によっては6万点とも言われる)絵を描いた画家についての入門書です。まずは少年時代から。美術教師で画家でもあった父ホセの指導により、ピカソは絵画の基礎を身につけます。11歳で美術学校に入学、父の仕事の関係であちこちに引っ越しますが、どこの美術学校でも天才の名をほしいままにし、ラ・ロンハ美術学校では20歳以上が受験資格の上級クラスに14歳になる前に合格、マドリッドの美術学校(スペインでの最難関)にも余裕で入学してしまいます。19歳のとき3ヶ月パリで過ごして一時帰郷、190120歳のときパリに定着します。親友の自殺がきっかけだったのか、「青の時代」が4年間、ついで「バラ色の時代」そして「キュビスム」。ピカソは自分で何かを作り上げ、そしてそれを壊して次へと進みます。1906年にセザンヌが亡くなり、その回顧展などの影響で「セザンヌ的キュビスム」(複数の視点を一つの画面に持ち込む点が共通。ピカソオリジナルは「一つの対象(たとえばリンゴとか顔)に複数の視線を注ぐ」点)が登場します。そこで「対象の解体」をとことんやれば、抽象画の世界ですが、ピカソはそこで踏みとどまり、一度ぎりぎりまで解体した対象をまた総合化する「総合的キュビスム」に取り組みます。30代になったピカソは「新古典主義」と呼ばれる絵を描き始めます。ただし、結婚生活が破綻すると絵が乱れ始めます。1937年、パリ万博のための絵の準備を始めていたピカソに、ゲルニカのニュースが。新聞の写真を見てピカソは壁画のテーマを変更します。ゲルニカへと。(「ニュース」を描いた絵という点でも20世紀を代表する作品、と著者は述べてます)
 女性遍歴やお金といった下世話な話も登場します。ただ、あまり下品にはなりません。本書の対象がヤングアダルトということで、そのへんは手加減がしてあるようです。本書では最後の章で、付き合った女性の肖像が次々登場します。それはそのままピカソのスタイルの変遷を示しています。いやあ、最終章を読む(見る)だけでも面白いですよ。
 本書の中盤で話は突然ダ・ヴィンチになります。「ピカソの絵を鑑賞」するためには「絵を鑑賞」することを知らなければならないからです。ダ・ヴィンチで遠近法とスフマート(輪郭線ではなくて影でものの境界を表現する手法)を、ベラスケスでバロック絵画の特徴が述べられ、ロココ様式・新古典主義・写実主義・印象派など「ピカソのルーツ」が列挙されます。さらに絵が「何」を描くか、についても。この場合「何」とは「静物か人物か」ということだけではなくて「写真のように動きを止めて描く」(写実主義)とか「モノではなくて光を描く」(印象派)のことを意味します。さらに「画家の脳内に存在する真実」も絵画では表現されています。そこでセザンヌの登場。著者によると、セザンヌの絵は「足で見る」ものだそうです。一枚の絵に様々な違った角度からアプローチすると、そこには「世界のリアルさ」が浮かび上がってくる、と。
 かつてニュートンが語った「自分は巨人の肩に乗っている」がここでも登場します。ピカソはセザンヌ(に代表される過去の巨人)の肩に乗っているのだ、と。ならば「ピカソの肩に乗っている」人は誰なんでしょう? ピカソの亜流(劣化コピー)ではなくて、ピカソを越えそしてその人自身がまた後世のための「巨人」になる人は。
 
 
16日(木)長い長い1時間/『ガイア ──母なる地球(上)』
 自動車で走っていたらだんだんエンジンの調子が悪くなってきたとします。目的地まであと60kmの地点で時速60kmだったので「あと1時間で到着」と思っていたら、あと50kmのところで時速が50におちてしまいました。「あらら、さっき1時間でつくと思ったら、今もやっぱりあと1時間か」。そこからも少しずつ馬力が落ちて、あと40kmのところで時速40、あと30kmのところで時速30、と順調(?)に時速が落ちてきたとしましょう。面白いことに常に「このペースが維持できたらあと1時間で到着」なのですが、さて、この車、無事に目的地に到着できるのでしょうか。できるとしたらそれはいつの「1時間」後?
 
【ただいま読書中】
ガイア ──母なる地球(上)』デイヴィッド・ブリン 著、 酒井昭伸 訳、 早川書房(海外SFノベルズ)、1992年、2330円(税別)
 
 2038年の地球。温室効果によって海面が上昇しヴェニスは水没しバングラデシュはほぼ消滅しています。オゾン層の破壊で危険な紫外線が降り注ぎ、防護策無しで日光を浴びるのは自殺行為です。野生動物も次々絶滅の危機に瀕しています。100億を超えた人類は、20世紀とは異なる価値観や宗教の下に暮らしています。たとえば「秘密」は病的に嫌われ、スイス銀行は滅び、太陽をあがめる宗教が世界中に根付いている、といった変化が生じているのです。
 新たな危機が生じます。事故(暴徒が送電線を切断)によってマイクロブラックホールが地球の中に落ちてしまったのです。責任者のアレックス・ラスティグ博士は、超伝導重力波スキャナーで地中を探査します。マイクロブラックホールは蒸発するはずですが、もしかしたら成長を続け、地球を食い尽くしてしまう可能性があるからです。やっとマイクロブラックホールの位置を確かめたアレックスは、それが蒸発しかけていることを確認します。しかし同時にその軌道がかすかにずれていることも。地球の核には、マイクロブラックホールの動きに影響を与える「何か別の存在(おそらく別の小さな(質量はせいぜい1兆トンの)ブラックホール。アレックスはそれを「ベータ」と命名します)」がいるのです。しかもそれは地表を目指してそろりと動き始めます。その結果、宇宙では異常事態が発生します。周期的な重力波異常によって宇宙ステーションは破壊され、その断端は光速の2%もの速度で地球から遠ざかっていきます。そのステーションでは、条約で禁止されている宇宙空間でのブラックホール実験が行われていたのではないか、という疑惑が囁かれます。さらに地球の磁場が急速に弱まり、いつ磁場の逆転が発生してもおかしくない状態となっています。そしてそれは、かろうじて残っているオゾン層の破壊も意味するというのです。
 アレックスの計算では、ベータが育って大地震を起すようになるのにあと2年。さらに1年後には各地で火山の噴火、そしてそのあと……地球はその特異点に一気に飲み込まれてしまいます。それでは対策は? 「秘密を持つこと」が嫌われる(違法でもある)地球で秘密裡に超伝導アンテナを地球の各所に建て、特異点を地球の外に放り出すのです。国連の助けを借りることもできません。ベータを人為的に作るには巨大科学と秘密保持、つまり国家権力の関与が必要なはず。つまりうっかりどこかの国にかぎつけられたら、あっさりこの地球を救うプロジェクトは「秘密を守るため」に潰されてしまう可能性があります。そこで「民間人のチーム」が勝手に動き始めます。そしてそこに、地球のあちこちで見られたばらばらな動きが少しずつ合流し始めます。
 
 なんとなく古くさい「エコSF」かと思っていましたが、20年くらい前の最新科学(たとえばマイクロブラックホールの蒸発とか、ひも理論)をふんだんに盛り込んで面白い冒険SFに仕上がっています。ここでのネット社会は明らかにパソコン通信の延長上に構築されていますが、それは「あり得た未来」ということで良いでしょう。さらに本書のもう一つの主人公が地球(とその上の生命)です。これはいつ活躍し始めるのか。ベータは誰が作って地球に放り込んだのか、アレックスたちは地球を救えるのか、救えたとしても異常気象などはどうなるのか、それは下巻のお楽しみ。
 
 
17日(金)死者にむち打つ/『ガイア ──母なる地球(下)』
 日本では死者を批判すると「死者にむち打つな」と非難されます。だから汚職などの犯罪捜査などで追い詰められた人は自殺して批判をかわそうとします。これって、人命を惜しむ点からも、犯罪捜査・真相解明の点からも、望ましいことではありません。
 だったら、あえて「死者にむち打つぞ」という姿勢が世間に浸透したら、「死んでも無駄だ。むしろ自殺して逃げたら残されたものがかえって不幸になる」と自殺抑止力になりませんかね
 
 そうそう、「ナントカ還元水」と言い訳していた農水相の問題は結局うやむやになりましたが、なんででしょう? 再発防止策をきちんととらないと、不明朗な事務所費の問題が何回でも再燃するだけじゃないです? この場合死者にむち打つ必要はありません。帳簿をむち打てばいいのですが。
 
【ただいま読書中】
ガイア ──母なる地球(下)』デイヴィッド・ブリン 著、 酒井昭伸 訳、 早川書房(海外SFノベルズ)、1992年、2330円(税別)
 
 下巻ではまず「生態学的な視点」を人間の体内に導入したらどのようなものが見えるか、が示されます。「競争」と「共生」が同じものだというのですが、いや、これは面白い。
 コヒーレント重力波を放射することで「ベータ」をつつく作業は、同時に複雑な構造をする「地球」をのぞき込みそのものについての思索をする作業でもありました。そしてそれは同時に、犠牲者を作り出す作業でもあります。重力波のビームが地表に飛び出す地点では、何らかの「事故」が起きるのです。飛行船の墜落、小規模な津波、破壊されたダム、オビ川から宇宙空間に放り出された巨大な水の塊、日韓トンネルの事故……被害は繰り返され少しずつ大きくなっていきます。しかし、ベータを地球外に放り出す確率は高まります。25%に。
 アレックスはベータがいつどこから来たのかをついに突き止めます。場所はシベリア。時は1908年。その意味を知った人びとは、恐怖に震え、そして残された希望にしがみつきます。
 ついに国家権力が介入し、ベータを兵器として用いることを考えます。ベータが地球内で増大しない軌道をたどらせ、そこから重力波ビームを宇宙から襲来する外敵に浴びせよう、という計画です。アレックスはそれに抵抗しようと企みます。
 
 「競争」と「共生」のモチーフが繰り返されます。野生動物、人の肉体、人の心、地球、そして利害の異なる人びとの間での「競争」もまた「共生」と同質であることが示唆されます。さらに、あちこちに散りばめられている、野生動物(ヒヒ、チンパンジー、イルカなど)と人間の不思議な関係が物語に彩りを添えます。
 そしてついに「戦争」です。地球の中を巡る特異点「ベータ」を兵器として使って、地上を浄化(環境破壊をする人類の大量間引きを)しようとする動きと、それを妨害しようとする物理的な戦いに合わせて、ネットの中では巨大プログラムの「龍」と「虎」が戦っています。これはもちろん「青竜」と「白虎」でしょう。そして最後には、「世界精神」が誕生し、さらにベータの意外な「平和利用」が登場します。おかげで、地上でスクラップになっていたスペースシャトル「アトランティス」が史上もっとも高性能の宇宙船になってしまうのですが。そして最後の最後にまたドンデンがあるのですが、それは読んでのお楽しみ。
 環境破壊で人類は滅亡の危機にあったはずなのに、なんだかずいぶん都合の良い解決法(まるでデウス・エクス・マキナのようなもの)が明るく提示されていて、まあこれはこれで良いのですが、あっけらかんとしている人たちに向かって「ちゃんと考えろよ」とじじいの説教をしたくなるのは、私が年をとったということなんでしょうか。
 
 
18日(土)アップデート/『ローマ人の物語VIII 危機と克服』
 以前にも書きましたが、私はMacOSWin-XPを使っています。どちらも不良品のようで、けっこうOSのアップデートをしてくれるのですが、その結果に違いがあります。MacOSの場合はアップデートをかけてもそれほど違いがわかりません。時にはアプリケーションの反応が少し早くなることもありますが大体は「どこが変わったんだろう?」です。しかしWin-XPの場合は明らかに、少しずつ反応が鈍くなっていきます。意識的に同じブラウザ(FireFox)を使ってみると、そのへんの体感の差は実によくわかります。「改良」をするのだったら、軽く使いやすくなっていって欲しいのですが、会社によって方針が違うんですかねえ。
 
【ただいま読書中】
ローマ人の物語VIII 危機と克服』塩野七生 著、 新潮社、1999年、2800円(税別)
 
 本書では、ネロの死と五賢帝登場にはさまれた29年が扱われます。その間に登場する皇帝は7人。その時代を生きた歴史家タキトゥスによれば「苦悩と悲嘆に埋めつくされた時代」だそうです。皇帝であることの正当性の根拠を「アウグストゥスの血統」に求めた皇帝は、ネロで絶えました。元老院は無力で、各地の軍団はそれぞれが自分が信頼できる人物を推します。ライン河を防衛戦とするゲルマニア軍団とドナウ河を防衛戦とするドナウ軍団は、武力衝突に向けて動き始めます。著者はこれを「愚者の戦い」と表現します。ハンニバル、スキピオ・アフリカヌス、スッラ、ルクルス、ポンペイウス、カエサルと名将の戦いを詳述してきた著者にとって(あるいはこの戦いを現場で書いたタキトゥスにとって)、この内戦は「歴史から学ぶ能力を欠いた者」同士の戦いだったのです。ともあれ、ガルバ、オトー、ヴィテリウスと「皇帝」はころころ変わります。そこで、軍団を持つ司令官は「自分にもチャンスが」と思い、内乱となる国民は悩み、属州民はローマ市民を侮るようになります。問題の本質は、誰が皇帝になるか、ではなくて、そのための手続きをどうするか(新しいシステムを作るのか、既存のシステムのほころびを修繕して使うのか)、そしてそれによってローマ内部とその周辺の属州さらにその外側の民族との関係がどう変化するか、です。
 ユダヤ戦役・ガリアでの叛乱・ヴェスヴィオの噴火……様々な事件が起きますが、なぜかローマ帝国は滅亡しません。著者は「ローマが滅びたことよりも、なぜあんなに長く保ったのか」を問いたいと述べますが、たしかにあんなにアバウトなシステムで多民族・多宗教・多文化の「帝国」が維持できたことは、ある意味奇跡です。先日読んだ『ガイア』にあった「競争と共生」が実に上手く機能していたのかもしれません。
 
 ヴィテリウスが連れてローマに入城した6万のゲルマニア軍団のところで、私は木曾義仲の入京を連想していました。「都人」が「田舎武士」を見る目にはそれほどの差はなかったのではないか、と。
 著者が述べる「歴史家と作家の歴史の評価の差」もわかりやすいものです。「悪帝」と歴史的に評価される皇帝でも、著者は「その人の施策が後世に受け継がれるのだったら、必ずしもその皇帝はただの暗愚な帝とは言えない」とします。後世の評価や評判と、その時代にマッチした政策、とは別の次元で考えるべきなのでしょうね、いくら歴史家と言っても、その人は「その人が育った時代の申し子」なのですから。私自身、古代ローマのこの物語を読むのに、必ず「自分の時代」を重ねつつ読む作業を続けています。
 
 ……もしかして、他人と話をする時にも、こうして「自分の物語」を人は重ねながら解釈やコミュニケートという作業を続けている、のでしょうか。
 
 
19日(日)まっすぐ座る/『火星の王女』
 道をミニバイクがたくさん走っていますが、後ろから見るとまっすぐ座れていない人が意外に多いですね。最初からお尻がシートの真ん中からずれたところに位置していたり下半身がねじれていたり逆に上半身が傾いていたり。オートバイタイプだと燃料タンクを膝ではさむのである程度体の位置が決められてしまいますが(もちろんそれでも変な格好をする奴はいますが)、スクーターだと脚をそろえるかそろえないかだけでももう体の形が真ん中からずれてしまいます。
 別に「行儀作法」を説きたいわけではなくて、安全のためには重心を真ん中にしてハンドルも左右対称に操作した方が良いよ、と言いたいだけなんですが。(特にハンドルにしがみついたりぶら下がるような格好はやめた方がよいと思います。緊急時に俊敏なハンドル操作ができませんし、第一疲れます)
 
 ……おっと、私もまっすぐ座っているかな? 自分の後ろ姿って、なかなかチェックできないんですよねえ。
 
【ただいま読書中】
火星の王女』エドガー・ライス・バローズ 著、 亀山龍樹 訳、 沢田重隆 絵、岩崎書店、1976年(85年9刷)、980
 
 100年前の古典SFです。(発表は1912年)
 金鉱探しをしていたジョン・カーターは、突然火星に行ってしまいました。そこは不気味なみどりいろ火星人や火星馬や火星犬の世界で、カーターは戦争に巻き込まれ、けんかや決闘に勝つことで勇士と認められ、地球人と同じタイプの人種ヘリウム王国のソリス王女を救い……と書くと、ずいぶん安っぽい物語のようですが、実は違います。確かに古いし荒唐無稽な物語ですが、きちんと物語になっているのです。(ついでですが「ヘリウム」は1895年に単離され1908年に液体ヘリウムが作られる、といった、当時としては科学の最先端に位置するものです)
 本書ではずっと戦争が続きますが、著者は実は「平和」を望んでいるのではないか、と私には思えます。乱暴で「暴力」の信奉者の「みどりいろ人」の世界に、カーターは「友情」「信頼」「優しさ」を持ち込み世界を少しずつ変えていきます。その影響で、卵生で親子関係など存在しなかったみどりいろ火星人にも「親子の情愛」「友情」「正義」が発生します。
 カーターが南軍の大尉であったことを思うと、南北戦争は第一次世界大戦直前のアメリカではまだ「うずく傷跡」だったのかもしれません。ただ、そういったヤヤコシイことは抜きにして単純に火星での冒険を楽しむのもよし、古典の味わいを楽しむのもよし、深読みして楽しむのもなおよし、です。
 
 なお一般人には、バローズは「ターザン」の作者、と言う方が通りが良いかもしれません。
 
 
20日(月)バイオ・エタノール/『太陽の恵みバイオマス ──CO2を出さないこれからのエネルギー』
 燃料として最近言われることが多いのですが、私にとってエタノールといえばまず思いつくのは酒で、これはつまりは「バイオ」の産物です。わざわざ「バイオ」と言うということは、化学合成エタノールが本来一般的なのかな、と思って調べてみたら、あらら、一般的でした。化学工業ではいくらでも使われているようです。身近なところでは、化粧品などに含まれているものや消毒用くらいしか私は思いつきませんが、溶媒や洗浄・化学合成の材料などの用途がさまざまあるのでしょう。
 ところであの「事故米」、バイオエタノールの材料にするわけにはいかなかったのでしょうか。アフラトキシンの毒がエンジンで燃焼するくらいでは分解しないのだったらそれは除外するとして、メタミドホスは「焼却処分」ができそうに思うのですが、やっぱり駄目なのかな。
 
【ただいま読書中】
太陽の恵みバイオマス ──CO2を出さないこれからのエネルギー』松村幸彦 著、 日本エネルギー学会 編、コロナ社、2008年、1800円(税別)
 
 「21世紀のエネルギー」というシリーズの第7巻です。
 バイオマスと言って身近なのは、薪や炭ですが……実はあまり身近じゃないですね。私個人に限っての話ですが、炭はバーベキューの時くらいしかお目にかからないし、薪なんてもう何年触ってないだろう。
 バイオマスの欠点は、エネルギー効率が悪いことです。発熱量として日本の総合エネルギー統計で用いられている数字は、原油が38.7MJ/kg、石炭は24.3。バイオマスは種類によって違いがありますが、1322MJ/kgです。しかし大きな利点があります。再生可能であることと、CO2を「出さない」ことです。大気中にあるCO2を生物が定着した燃やして大気に戻すだけですから、温室効果ガスは増えない、それがリクツです。
 バイオマスとして使えるのは、木・草・動物の糞・微生物・生ゴミなどです。ただ単に乾かして燃やすだけではなくて、様々な化学処理をすることで効率は良くなります。たとえば嫌気性微生物を使ってメタン発酵をすれば、メタンガスが発生します。現在でも下水の活性汚泥法で生じた余剰汚泥をメタン発酵させることで減量させることが行われています。最近よく聞くバイオエタノールなどもあります。
 本書ではそういったバイオマスの利用法、化学的処理法についてさまざま紹介されています。しかし私は、それらを読んでいて「バラ色の未来」を感じられませんでした。
 たとえば「灰の処理」をどうするか。バイオマスを燃焼させたらすべてが水と二酸化炭素に分解されるわけではありません。必ず燃えがらや灰が残ります。それをどう処理するのが自然なのでしょう。
 たとえば、草原の草を刈ってバイオマスにするとすると、「炭素の循環(空中→草→空中)」の観点からはたしかに問題ありませんが、生態系の観点からは大きな問題アリです。連作障害や土地が痩せることは簡単に予想できますから。太陽光線と雨水だけから草が生えるわけではありません。「土地からの収穫」をすべてバイオマスとして根こそぎよそに持って行ってしまったら、その土地は長期的にはどうなるでしょう?
 さらに、現代の経済システムの中で扱う以上、バイオマスの問題はどうしても経済原則から逃れることができなくなります。他のエネルギー源との値段の比較、輸送コストや人件費、さらに既存のインフラが利用可能かそれともコストをかけて新設しなければならないか、それらによってバイオマスの「価値」は変動します。その変動幅を人為的に小さくしておかないと「再生可能なエネルギー」のサイクルはどこかで容易に断ち切られてしまうでしょう。それは簡単に環境負荷になります。
 あまり「技術」に夢中になるのではなくて、「生態学」や「社会学」に視点も導入しておけば、この本の説得力が増したのに、とちょっと残念に思いました。
 
 
21日(火)戦争/『もう黙ってはいられない ──第二次世界大戦の子どもたち』
 戦争を目的とする人はただの勘違いです。戦争は、目的ではなくて手段ですから。戦前と戦後を考えずに、さらには勝った時のことだけを考えて戦争に突入する政治家や軍人は、ただの能なしです。
 
【ただいま読書中】
もう黙ってはいられない ──第二次世界大戦の子どもたち』C・ルロイ&ジョーン・R・アンダースン 編、大蔵?之助 編訳、 晶文社、1997年、2300円(税別)
 「目立たないが、子どもも戦争の犠牲者である」をテーゼに、各国の子どもたち(戦争に狩り出されない程度には小さく、物事を記憶や判断できる程度には大きかった人たち)の証言を集めた本です。それぞれは小さな証言です。しかしそれらのコラージュは、「戦争」が子どもたちにどのような影響を与えたのかを語ってくれます。
 
 アメリカでは、12月7日は「汚辱の日」でした。子どもたちは復讐を誓い、ジャップを憎み(でも身近の「日本人(日系人)」は憎めず)、本土が日本軍に侵攻されることに恐怖を感じます。アメリカは豊かな国ですが、それでも配給制度があり、物資の不足があったことが述べられます。
 ドイツの少女の思い出も印象的です。特に、東部戦線からの難民に衣服を配給する作業で、山と積まれたコートなどの古着にダビデの星がついていて、その星をはずす作業を命じられます。この服はユダヤ人が寄付したのだろうか、でも、こんなに大量に、しかもダビデの星をつけたままで……と疑問に思いながら、少女たちはそのことを口に出していってはならないことを暗黙のうちに知り黙々と作業を続けるのです。
 中国の少年の話も強烈です。「敵」は日本軍だけではありません。中国軍の敗残兵や土匪、日本軍に通じる裏切り者の同国人も「敵」なのです。
 カナダでは、人びとは日本ではなくてドイツの方を向いていたことが紹介されます。
 ナチスとソ連と両方の占領を経験した人の話もあります。そのどちらもが、双方の「国内」で宣伝されていたほど好ましいものではなかったことは当然でしょう。ただ、こういった「情報の不足」がほとんどの人の話に登場することは、印象的です。なぜ戦争になったのか、戦況はどうなのか、戦場では実際に何が行われているのか、それらを知らされずに命を賭けて行動をしなければならないのは、それだけでストレスです。
 
 興味深い(という言葉がここで適当かどうかはわかりませんが)話もあります。フィンランドはドイツにつきましたが、それはその直前にソ連がフィンランドに侵略して領土を奪っていたからそれに復讐するためでした。そのせいか、イギリスはフィンランドに宣戦布告していますが、戦闘行為は一切していません。で、またフィンランドはソ連と講和条約を結び、1945年3月にナチスドイツに宣戦布告をしています。過酷な運命です。
 アメリカでは、憲法にも法律にも違反して、日系人の強制収容所送りが行われました。それを恥ずべきことと言う人もいれば「ジャップには当然の報い」と言う人もいましたが、反日の嵐の中で「収容所内の日系の学生を収容所外の大学に行かせよう」という運動が起き、とうとう政府の支持も取り付けて全国日系アメリカ人再移住評議会が作られ、そこが学生の身元保証などを行い育英資金を集めて総計4000人の学生を進学させているのだそうです。人種的偏見と戦争のヒステリーの中で、公正と正義のために行動すること、これが本当の平和運動かもしれない、と私は思います。
 
 どこの国でも大体子どもたちは戦争中でも遊びを続けています。ただしそこにも戦争が影を落とします。戦争ごっこです。また、配給のことについて触れた人は大体砂糖のことも述べます。子どもの興味がどこに向いているかよくわかります。
 「常識とは大人になる前に刷り込まれた偏見の集大成」は誰の言葉でしたっけ? 平時だったら順調に偏見は刷り込まれ続けて一つの強固なシステムを人の内部に構築します(それを自分で揺さぶるのが「思春期」の重大な仕事でしょう)。しかし、戦争を体験した子どもは、その偏見を人工的に強化されると同時に世界によって強引に破壊されてしまいます(もちろん、破壊されない人もいます)。そういった人たちの「常識」がどうなったのか、その辺に焦点を絞った心理学的研究は行われていないのかな。
 
 世界各地から集められてはいますが、もちろんこれらの思い出話が世界のすべてを網羅しているわけではなく、50年前の記憶は変質していることも考慮する必要がありますが、非常に興味深い本です。この本の存在がもっと人に知られても良いのではないか、と感じます。
 
 
22日(水)桃太郎とかぐやひめ/『三四郎』
 私が子ども時代にはトマトは生臭いものでした。それが「トマトの味と香り」と思って育ちましたが、最近のトマトは甘くなりました。桃太郎というトマトを初めて食べた時には「これがトマトか」とびっくりしましたっけ。それはそれで良いのですが、ただ単に甘いだけだと、それなら果物を食べればいいじゃないか、とひねくれ者の私は思ってしまいます。
 で、つい先日、かぐやひめというミディトマトをはじめて食しました。これが、甘いのは甘いのですが酸味も適度に効いていて美味いので好きになりました。しかし面白いネーミングです。そのうちミニトマトの親指姫とか一寸法師なんてのにもお目にかかれるかしら。
 
【ただいま読書中】
三四郎』夏目漱石 著、 角川文庫、1951年(89111刷)、340(税別)
 
 懐かしい思いでページをめくります。私が本書を初めて読んだのは中学の終わりか高校の始め頃。当時は古めかしい文体に感じてちょっと窮屈でしたが、今読むと軽妙で洒脱ででもところどころに毒が仕込んであって、楽しい本です。
 熊本の高校を卒業して東京の帝国大学に入学した小川三四郎が汽車の三等に乗っているところから物語は始まります。列車の中で出会う人がまたいちいちユニークです。子どもの時には、宿で同衾した(し損ねた)女性に興味を持ちましたが、今回は「熊本は東京より広い。東京より日本は広い。日本より……頭の中の方が広いでしょう」とさらりという変な男が心に残ります(後日この人は「自然を翻訳すると、崇高だとか、偉大だとか、勇壮だとか、みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳することのできないものには、自然が毫も人格上の感化を与えていない」なんてありがたそうなことも言います)。でもこれはまだまだイントロ。
 なんとなく大学の授業が始まり、だらだらと日が過ぎ、知己が増え、恋を知り……ただ、ストーリーを紹介しても仕方ないですね。私が子どもの時には、三四郎の行動を追っていましたが、今は三四郎を含む「時代」を読みます。
 
 明治時代の『ノルウェイの森』なのかな、なんでこともちらりと感じます。田舎から出てきた世間ずれしていない若い学生、東京のあちこちの風物、風変わりな友人、キャラが立っている女性たち、セックスの匂い(明治の方は、本当にかすかなにおいだけですけれど)……こうしてみると共通点が目立ちます。もちろん、漱石が仕込んだ「毒」(特に当時のインテリの中途半端ぶりに対するものや、西洋に目を向ける新時代の青年人が否定するべき「古い日本」が日本の地方にしっかり残っている(そして自分たちはそこで育った)ことへの忸怩たる思い)は独特の風味を醸し出していますけれど。さらに、場面転換が印象的に行われます。これは新聞連載のおかげでしょうね。
 
 
24日(金)大切な道路/『ローマ人の物語IX 賢帝の世紀』
 「必要な道路は造らなければならない」がある種の人の護身呪文のようになっていますが、私にはその呪文は不完全なものに聞こえます。だって道路は造るだけでは駄目でしょう? そのあとのメインテナンスをしっかりやることで道路は機能します(古代ローマ人には、道路を含めた公共施設の維持も立派な公共事業だったそうです)。ですから、「造る」ことばかり主張する人は、道路の本当の大切さをわかっていない人、が私の結論です。
 
【ただいま読書中】
ローマ人の物語IX 賢帝の世紀』塩野七生 著、 新潮社、2000年、3000円(税別)
 
 その時代を生きたローマ人が自ら「黄金の世紀」と呼んだ五賢帝の時代、その2番目のトライアヌスから本書は始まります。ただし例によって著者はちょっと斜に構えています。「賢帝」というが、その実相は本当はどうだったのか?と。ついでですが、私はこういった著者の態度が好きです。これまでの歴史家が言うことをリピートするだけだったら、塩野さんがわざわざこれだけの本を書く必要はありません(オリジナリティの問題)。同時に塩野さんのローマ人に対する暖かくて真剣なまなざしが好ましいとも思うのです。
 ローマ史上初の属州出身の皇帝トライアヌスは、私生活はきれい、政治は善政、ダキア(現在のルーマニア周辺)の戦役によってローマの支配領域を史上最大にする、と、「パーフェクトな皇帝」に見えます。ただ、邪教信仰者としてのキリスト教が地下で広がりつつあります。これは、ローマの伝統である多神教と、一神教との対立でした。(もう一つの一神教ユダヤ教は、ギリシア人とユダヤ人の対立から始まったユダヤ戦役の西暦70年のイェルサレム陥落で息を潜めています) そして、ローマの長年の懸案であったパルティア戦役に出陣したトライアヌスの背後でユダヤの叛乱が起きます。
 人生の最後にミソをつけたトライアヌスの跡を継ぐのは、トライアヌスの養子で優秀な司令官ハドリアヌス。この人の名前を見ると私は「ハドリアヌスの防壁」をすぐに思います。ローズマリ・サトクリフの作品に時々登場する、イングランドとスコットランドの境の壁です。ハドリアヌスは帝国中を巡幸し、ローマ法を集大成します。さらに、「ギリシア好き」のハドリアヌスの影響か、プトレマイオス(天文学、「天動説」の祖)やガレノス(医学)がその時代に育ってきます。
 ハドリアヌスの性格が『皇帝伝』で「一貫しないことでは一貫していた」と表現されていることに対する著者の解釈も、私にはわかりやすいものでした。自分の内部にある価値基準に従って行動すれば、状況や対人関係によって、行動は表面的には「一貫しないもの」になります(たとえば、褒めるべき人は褒めるべき状況では褒め、褒めるべきでない人(や褒めるべきではない状況で)は褒めないのですから)。しかしそれは「過去」や「他人の目」を気にしない人にとっては「一貫したもの」で、変わったのはその「外側」だけなのです。鏡に映るものは次々変わっても、鏡は鏡であり続けるように。
 西暦131年ユダヤでまた叛乱が起きます。そしてまたイェルサレムは陥落しハドリアヌスは「離散(ディアスポラ)」(ユダヤ教徒のイェルサレムからの追放)を断行します。
 ハドリアヌスの死後、その養子アントニヌスが皇帝を継ぎます。23年間の治世は、ただひたすら平穏な年月だったそうです。ハドリアヌスが本当は跡を継がせたかったマルクス・アウレリウスが成長するまでの「つなぎの皇帝」のはずですが、立派に「ローマ皇帝」の職責を果たしたと言えるでしょう。ただ、「平和な時代」ではあっても、ユダヤ教徒の離散、キリスト教の浸透、と、後世の目からはなにか「問題」が見えるような気がします。
 
 
25日(土)埒(らち)/『深夜プラス1
 「埒もない」とか「埒が明かない」と、否定形で使われることが多い言葉ですが、そんなに否定ばかりの人生って、楽しいのかな?
 
【ただいま読書中】
深夜プラス1』ギャビン・ライアル 著、 菊地光 訳、 早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)、1976年(9224刷)、544円(税別)
 
 時代はおそらく1960年代のはじめ。大戦中にフランスでレジスタンスの活動に関係していたルイス・ケイン(暗号名カントン)は、ブルターニュからリヒテンシュタインまでの運送仕事を請け負います。運ぶのは、命を狙われている大富豪マガンハルト、相棒はアメリカのガンマン、ロヴェル。いつでも右手で拳銃が抜けるように何をするのも左手、慢性のアル中、使うのはずんぐりしたリボルバー。対してケインが使うのは1932年のモーゼル。この、拳銃の選択一つで、著者はそれを選択する人に関する様々なイメージを読者に届けます。(イギリス情報部員がモーゼルを愛用する、というだけで、なにか不思議な気分になりますが)
 送り届けられるべきマガンハルトは、明らかに秘密を持っていますがそれを主人公たち(つまりは読者)に明かしません。彼の連れ、ミス・ジャーマンは、純真と高慢が解け合って美しさとなっている女性です。わかったようなわからないような、それでいて説得力のある描写です。
 はついにフランス最高のガンマンを送り込んできます。彼らもレジスタンスの元闘士で、当然ケインと顔見知りです。リヒテンシュタインを目指して進む一行の旅は、いつしかケインの「過去を辿る旅」と重ね合わされます。そしてそれは同時に、ケインの周囲の人びとの過去をも明らかにしていく過程でもあるのです。
 情報が漏れているらしく、一行は行く先行く先で敵に遭遇します。そして、歩みの遅さのために、なんとか酒を断っていたロヴェルが負傷しついにアルコールに手を出してしまいます。戦闘力の低下です。さらにリヒテンシュタインとスイスの国境で、ケインは自分たちが最後の罠に踏み込んだことを自覚します。待ちかまえるのは、フランスでナンバーワンのガンマン、ケインのかつての同志、アラン。場所は、要塞地帯です。第二次世界大戦の記憶がいっぱい詰まっているような場所で、かつてのレジスタンスの過去を引きずっているもの同士が戦います。
 
 冒険小説の傑作と評されるわけは、読めばわかります。解説の田中光二さんは「すぐれたエンターテインメントは、再読、再々読に耐える。むしろ、繰り返し読む必要がある」と述べていますが、たしかに一回読んで「あ〜、面白かった」で忘れてしまうには惜しい作品です。しばらくしたら再読、再々読ですね。当面は余韻に浸ります。
 
 
26日(日)出世/『日本人とさかなの出会い ──縄文遺跡に見る源流』
 そもそも駄目社員は出世しませんが、それでも敢えて出世させたら、自分の面倒も見られない人間が他人の面倒も見られるわけがなく、ほとんどの場合は駄目上司になるだけです。
 できる社員を出世させても、そのすべてができる上司になるわけではありません。使われた場合には能力を発揮できるけれど人を使うことは下手くそな人はできる上司になれません。それでも優秀な人は環境と周囲の要望に適応してできる上司となることができます。ところが出世を繰り返していると、ほとんどの人は早晩「無能力レベル(その人の能力では仕事をこなすことができない、能力の限界を超えた地点)」に到達してしまいます。
 つまり(できる人間を出世させる)現行システムでの「出世」は、最終的には無能力者を大量に生み出すシステムです。
 
【ただいま読書中】
日本人とさかなの出会い ──縄文遺跡に見る源流』河井智康 著、 角川選書3312001年、1500円(税別)
 
 縄文時代は、紀元前10000年頃から紀元前300年頃まで、約1万年続きました。私が学生の時には7000年と習った覚えがありますので、少し伸びましたね。14500年前に氷河期が終結し500年かけて寒帯の生態系が温帯化した紀元前12000年から縄文時代が始まった、と主張する人もいるそうです。ちなみに縄文時代は現在よりも温暖化が進んでいて、日本列島はあちこちが「海進」(海が陸に侵入していた現象)を受けており、それが貝塚形成に影響を与えていたのではないか、という推論もあります。
 本書のタイトル「さかな」は「魚介類」のことだそうで、貝塚から話は始まります。貝塚は全世界に分布していますが、外国では約400ヶ所、日本では3000ヶ所。ずいぶん差があります。日本では特に関東平野に多く、千葉県だけで550ヶ所。大きいものでは広さが3万平米のものまであります。
 貝塚から発掘されるものは様々なことを物語ります。たとえば魚骨からは、その魚の成長度がわかりそこから漁業の技術が推定できます。
 貝殻や魚骨だけではなくて、糞石中の寄生虫卵や釣り針の研究も行われています。中には人骨(それも鋭い刃物で割られて骨髄を啜ったようなもの)が混じっている貝塚もあります。
 釣り針は、縄文初期にはイノシシの骨でカエシがありませんが、中期には鹿の角でカエシがあるものが登場します。
 中里貝塚には少なくとも20万トン分の貝(ほとんどがマガキとハマグリ)があるそうです。100年活動をして500年休止、また100年の活動、と計200年で20万トンです。とんでもない量ですが、どうも自分たちで食べただけではなくて「出荷」をしていたのではないかとの推定されています。そのさい加熱加工をした形跡もあり、また、(江戸時代の広島で竹ひびで牡蠣養殖をしたように)杭を打って養殖をしたような跡もあります。さらに、マガキの貝殻ばかり出る地層について、そこに「カキ打ち場」があったのではないか、と著者は想像をしています。となると、縄文時代にはカキに関する産業があったのかもしれません。
 三内丸山遺跡は関東とは相当違います。出土したものを分析すると、食べ物の主力は植物ですが、動物食品でもっとも重要なのは貝ではなくて魚、その1/3はブリです。それは地域の違いなのかもしれませんが、著者はこれからの地球温暖化に人類が適応する術をそこから学べないか、と考えているようです。
 しかし、丸木船で、ブリやイルカ(時にはクジラ)を捕っていたとは、縄文人、おそるべしです。そして、縄文人は食文化を持っていたのに対し、現代人は「文化」の名に値する食生活を送っているのか、と著者は問います。私はその問いに対して、即答ができません。
 
 
27日(月)竹内まりや/『クリスマス・キャロル』
 家内が言います。「娘が嫁ぐ日の、母親の心境を歌った良い歌をこの前TVで聞いたの」。
 芸能ネタにはうとい私はかろうじて返します。「タイトルは知らないけれど、もしかして竹内まりや?」
 
 ピンポーン……という音が響いたような気がします。調べたら「うれしくてさみしい日」でした。
 
 で、買いました。「Expressions」というCD3枚組です。彼女の30年間分のベストアルバム、というのですが、タイトルだけ見て中がすぐわかる曲はほとんどありません。「不思議なピーチパイ」「リンダ」「けんかをやめて」くらいかな。買った名目は、家内への誕生プレゼントです。こちらには嫁いでいく娘はいませんが、竹内まりやと年も近いし、共鳴するところも多いでしょう。本当は家内の誕生日はまだ先なのですが、私が早く聞きたくて待ちきれなかったのです。
 で、到着したのをざっと聞いてみましたが、良いですねえ。ただ、声質は若い頃のきらきら感としっとり感の不思議な調和に、年を取ってから深みと暖かみが加わり、こちらの方が私の耳には心地よく響きます。逆に、バックで歌っている夫君の山下達郎の声が、年を取っても艶を失っていないのが驚異ですな。
 
 
【ただいま読書中】
クリスマス・キャロル』ディケンズ 著、 池央耿 訳、 光文社古典新訳文庫、2006年、419(税別)
 
 守銭奴スクルージは、温厚なマーリーのただ1人の遺言執行者・遺産管理人・相続人でした。そして唯一の友人でただ1人の会葬者でもあったのです。マーリーの没後も商会の扉には「スクルージ・アンド・マーリー」と書かれたままでした。そして、人との温かい交わりを断ったスクルージの所にも、クリスマスイブはやって来ます。マーリーの幽霊の形で。マーリーは地獄に堕ちており、自分の轍を踏むなとスクルージに忠告に来たのです。
 翌日からスクルージは、3夜にわたって連続幽霊(精霊?)の訪問を受けることになります。
 まずは少年時代のスクルージのクリスマス。少年スクルージは孤独です。ただし、妹が、兄を愛してくれた妹がいます。今もスクルージのことを気に掛けてくれる甥を産んで早く死んだ妹が。
 過去の精霊だけではなくて、現在の精霊・未来の精霊も容赦なくスクルージの心に踏み込みます。冷血漢として描かれていたスクルージが、実は傷つきやすい心を持っていた孤独な人間であることがそれで明らかになります。「マーリーの幽霊」は実はスクルージの深層心理が自分で自分に見せたものかもしれない、という心理分析もしたくなりますが、私はここで描写される「19世紀前半のロンドン庶民の厳しい生活」にも驚きます。
 ただ、守銭奴と言われ、嫌われ者ではありますが、スクルージは少なくとも「悪人」ではありません。生き方が下手くそなだけです。そして、悲しいことに、彼は自分の生き方が下手なことをちゃんと知っています。
 「無知」と「貧乏」は人類の敵、のような表現がありますが、「人との付き合い方」や「金の使い方」に無知なスクルージは結局物質的にも精神的にも「貧乏な生活」を送っているのが、なんとも皮肉です。皮肉と言えば、著者が顔を出してキリスト教の教条主義をちくりと皮肉ったところもあって、異教徒には笑えます。
 
 ディケンズがこの作品を書いた19世紀前半は、イギリスは大きく変化していました。都市に人が集まることで「伝統」は踏みにじられつつあり、ドイツからクリスマス・ツリーが導入されどこからかサンタクロースも現れたりして、それまでの階級を超えて人びとが集い暖かく交流するクリスマスの雰囲気が変容しつつあった時代です。
 ディケンズは、己の過去を自分が生きた時代に投影することで「過去へのノスタルジー」だけではなくて、「過去は変えられないけれど、未来なら変えられる」というメッセージを発したように私には読めます。
 
 
28日(火)平和主義/『ブラッカムの爆撃機』
 湾岸戦争の時だったか、自分が死ぬ心配のない文民の政府高官が強攻策を強く主張し、自分や戦友や部下が死ぬ心配のある軍人が穏健な策を主張した、と聞きました。軍人は自分の存在価値を示すために戦争を望む、とは限らないことを知って、私は一つ利口になりました。
 そういえば楠木正成が死ななきゃいけなかったのも、(自分は戦わない)公家たちがゲリラ戦ではなくて正面切っての会戦を主張したからでしたっけ。
 「国会で宣戦布告を決議したら、国会議員は全員最前線へ」というジョークタイプの「戦争根絶論」がありますが、なにかそれに類することをしないと、「自分の身の安全は確保。戦争が起きた方が利益はがっぽり」タイプの人間の欲望を資本主義社会は押さえられないのかもしれません。
 
【ただいま読書中】
ブラッカムの爆撃機』ロバート・ウェストール 著、 金原瑞人 訳、 宮崎駿 (+『タインマスへの旅』)、岩波書店、2006年、1600円(税別)
 愛称ウィンピー(本名ウェリントン爆撃機)を舞台にした表題作(に『チャス・マッギルの幽霊』『ぼくを作ったもの』の2編を加えたもの)を宮崎駿さんの漫画ではさんだ構成の本です。児童書なのに爆撃機?と宮崎さんでなくても思います。
 
 ウィンピーは双発のイギリス製中型爆撃機で爆弾搭載量は2トン、乗員は6人。アルミの枠に布を張った機体で、床はベニヤ板。足は遅く(公称時速は408キロメートルですが、爆弾や燃料をフル搭載したらその半分がやっと)ドイツの迎撃機にはまるで射的のように狙われます。
 無線士のゲアリーを含む5人は高校を卒業し軍の促成養成コースを卒業するとすぐウィンピーの部隊に実戦配備をされました。彼らひよっこの面倒を見る機長は中年のアイルランド人「親父」。出撃が3サイクル目に入ったベテランです(1サイクルは出撃30回。1サイクルをこなすとより安全なところに配備替えを申請できました。ちなみに、英空軍爆撃隊で1942年には、1サイクルの生存率は44%、2サイクルだと20%以下)。
 夜間爆撃の帰途、ゲアリーのC機は部隊の中で嫌われ者のブラッカムのS機と同行することになります。S機にドイツのユンカース機が下方から忍び寄ります。ゲアリーはきわどいところでそれに気づき、S機は偶然ユンカースを撃墜し、そして……
 C機に搭乗して出撃したS機のクルーは、C機は燃やさなければならない、と結論を出します。そして……
 通信担当のゲアリーは、機体の中央で外も見えず耳を澄まして友軍やドイツ軍がそれぞれ交信をしているのに聞き入っているだけです。高空の寒さといつ撃たれるかわからない恐怖が彼の体と心を締めつけます。この爆撃機だけではなくて戦争そのものの「寒さ」は、本文を読んでいただくのが一番でしょう。
 
 「チャス・マッギルの幽霊」……英独開戦の日、12歳の少年チャスは大きな家に引っ越すことになってしまいました。田舎に疎開した私立学校が入っていた大きなお屋敷に。チャスはそこに隠し部屋があることを知ります。灯火管制も気にせず蝋燭をつけているのが外から見えるのに、そこに行く道が見つからない4階の部屋。
 チャスと同居しているおじいちゃんが、第一次世界大戦で毒ガスを吸って名誉除隊となり、以後ずっと咳の発作に苦しめられ続けていることが伏線ですから、この物語が実は第一次世界大戦を扱っていることは読んでいるうちにわかります。チャスの隣の部屋にいたのは、第一次世界大戦当時の脱走兵(の幽霊)だったのです。彼は行き場所を失いそこで首をつったのですが……
 イギリスの(優れた)作家が幽霊譚を書いたら、どうしてこんなすばらしい話になるんだろう、と思えます。(フィリパ・ピアスやディケンズを思っています)
 
 「ぼくを作ったもの」……本当に短い小説ですが、一篇の詩です。おじいちゃんの話ですが「ぼく」の話です。
 
 本書で初めてウェストールを知りましたが、これは凄い作家です。残された作品は限られているし翻訳は少ないようですが、まずは図書館であさってみようと思います。
 
 
 
31日(金)学力テスト
 全国学力テストの結果を公表するしないであちこちでもめていますが、今日本で教育熱心な親が本当に知りたいのは、「学校ごと」のデータではなくて「塾ごと」の方じゃないかしら? さらにできたらクラスごとや塾の教師ごと。公立学校にはそこまでの期待はしていないのではないか、と私には思えるんですけどね。
 
【ただいま読書中】
Q&A』恩田陸 著、 幻冬舎、2004年、1700円(税別)
 
 「それでは、これからあなたに幾つかの質問をします。ここで話したことが外に出ることはありません。質問の内容に対し、あなたが見たこと、感じたこと、知っていることについて、正直に最後まで誠意を持って答えることを誓っていただけますか。」で始まるインタビューがつぎつぎ積み重ねられます。はじめは何が何だかわかりませんが、やがて読者には「事件」が見えてきます。
 休日でにぎわう郊外型の巨大なショッピングセンター「M」。非常ベルが鳴り、はじめは火事、ついでガス、という噂が店内を駆けめぐり、人びとはパニックになって避難しようとします。あちこちで人びとは折り重なって倒れ、最終的には死者69人負傷者116人の惨事となるのですが、実際に何が起きたのかはなかなか発表されません。いや、警察や消防が必死に調べても、彼らが死ぬべき理由が見つからないのです。
 非常ベルの直前、4階では奇妙な万引き事件が起きていました。それは一瞬通り魔事件の様相となり、パニックになった人は階下を目指して一団となって逃げ出します。
 同時刻、1階では異臭事件が起きていました。地下鉄サリン事件のように、紙袋に入れた容器を踏みつぶしてから男が逃げ、床の上には刺激臭のある液体が。「ガスだ!」の声にパニックになった人びとは出口あるいは階上に逃げます。
 同時に店内の他の場所でも人は走り始め、上からの人の集団と下からの集団が途中でぶつかり、もみ合い、人の山ができ、崩れます。
 
 「ガス」との情報で重装備で突入した消防隊が見たのは、明るく静かで血まみれのヌイグルミを引きずって歩く2歳くらいの幼女以外には誰一人動く者がいない店内でした。
 
 公式の調査とともに非公式の調査も行われます。陰謀説をはじめとするさまざまな憶測が語られますが、結局原因は不明のままです。そして場面は転換し、さらに様々な「会話」が登場します。「事件」をめぐっての、まるでジグソーパズルの「ピース」を集めているような様相ですが、それは群盲が象をなでるのに似て、結局「真相」は明らかにはなりません。
 ただ、人びとが「不安」や「恐怖」を抱きながら「個人の日常生活」を送っていることが語られ、それらの集合体としての「世間での日常生活」が成立していることが描写されます。不気味です。
 
 著者の小説で以前読んだことがあるのは、SFマガジンに連載されていた『ロミオとロミオは永遠に』で、最初はすごく面白かったのが、連載が進むにつれてだんだん弱くなると言うか伝わってくるイメージが希薄になっていったことを覚えていますが、本作もそれに似た雰囲気を持っています。最初の頃のちゃんとオチがつかないエピソードの方が印象的です。この人は変に「真相」に迫らずに、その周囲をただただ漂っているのが向いているのかな?