mixi日記 08年11月
以前、図書館の中で大声で電話をしていて注意をされたら愉快な言い訳(「向こうからかかってきたんだ」=悪いのは自分ではない)をしていた人のことは書きましたが、そのあとも愉快な人に次々出会えます。
図書館にはパソコンで蔵書検索ができるコーナーがありますが、先日行った小さな図書館ではパソコンが2台だけ設置されていました。で、そこでのんびりと寛いでいる(検索はしていない)人がいます。荷物はその隣の椅子に置いて。普段だったら放置ですが、たまたまそのときは検索をしたかったので「検索をしたいので、場所を空けてください」と言いました。すると「病院に行くまでここで待っているんです」 ……は? 「病院に行く」は「図書館の検索システム(の場所)を占領するための正当な理由」なのでしょうか? いや、まあ、それが正当な理由だとしても「自分の荷物も使ってもう一つの座席も占領する」理由にはならないと思います。そこで別に大声を出したわけではないのですが、すぐに職員がとんできて「休まれるのでしたら、こちらのベンチへどうぞ」とその人を誘導してくれました。検索そのものは20秒くらいですんだので、どちらかのパソコンが使えたらその人はそのまま病院に行くまでそこで過ごせたかもしれなかったのにね。
別の日の別の図書館。返却カウンターで「別に言い訳をしているわけではないけれど」と大声で言っている人がいます。ということは、苦しい言い訳をしているんですね。別に好奇心があったわけではありませんが、本を借りる手続きで隣に立ったので事情はすぐわかりました。返却期限を過ぎた本を「なくしたわけではない。探せば見つかることはわかっている。だから本は返せないけれど弁償はしない」と主張しているのです。たしかに“言い訳”ではありません。強弁です。本当に「探せば見つかる」のなら、探して持ってくればいいのです。話は簡単です。紛失したのかひどく破損したのかそれとも売り払ったのか、そのへんはわかりませんが、見苦しい(あるいは聞き苦しい)ことこの上ナシ。(実際に見苦しい風体ではありましたが)
図書館に限らず、日本中の「受付」で、こんな「愉快な言い訳」がきっと大量発生しているのでしょうね。笑顔で対応しなくちゃいけない職員は大変だわ。
【ただいま読書中】
『かかし』ロバート・ウェストール 著、 金原瑞人 訳、 福武書店、1987年、1300円(税別)
『ブラッカムの爆撃機』で“ど真ん中のストライク”を投げ込まれてしまったため、早速図書館で借りてきました。
サイモンは、寄宿学校でうんざりする生活を送っています。心の中に「悪魔」が住んでいる、というおびえとともに。そして、「絵に何が描かれているか」を瞬時に見抜く希有な才能を誰にも気づかれずに。
事態はさらに悪化します。ママが再婚したのです。死んだパパは軍隊で英雄だったのに、こんどの相手ジョーは太った絵描きです。にやにや笑いながら、うわべは有能な人間が実は心におびえを抱いていることを、うわべと内心とを同時に描いてしまう絵描き。サイモンはジョーを憎みます。パパのことを忘れてジョーに夢中のママも憎もうとします。
夏休みをジョー(とママ)の家で過ごすことになったサイモンは、近くの水車小屋に入り浸ります。明らかに放置されて久しく、でもつい先ほどまで人のいた気配が漂う不気味な小屋ですがサイモンには他に行くところがないのです。
サイモンは、偶然見つけた戸棚の穴から夜は夫婦の寝室を覗き、会話に聞き耳を立てます。この辺で私は『午後の曳航』になるのかな、と予想しますが……サイモンには仲間はおらず、そのかわり彼は心の中の悪魔に念じます。そして水車小屋からかかしが三つ、カブ畑を渡ってジョーの家に近づいてきます。少しずつ少しずつ。三角関係がもたらした陰惨な事件が起きた現場から。
過去の怨念がかかしを動かしているのか、それとも家族に拒絶されたと感じ頼れるのは死んだ父親だけと信じている孤独な少年の心の中に渦巻く暗いエネルギーがかかしを動かしているのか。かかしは、倒されても倒されても自然に起き上がり、そして少しずつ近づきます。防ぐことはできません。かかしが家に到着した時、一体何が起きるのか。
本当にコワイ小説です。
もちろんかかしが動いてくることは(そしてその背景となった物語も)コワイものですが、サイモンが教室でも家庭でも孤立していく過程の描写が、あまりに丹念なのが読者の心を締めつけます。そして物語の最後「もし目撃者がいたら、いちばん小さいが、ほかの三つと同じくらいぼろぼろになった四つ目の人影が、すぐそばに倒れるのを見たことだろう。」という文章でこちらは本当に悲しくなります。
水車小屋と広大なカブ畑、それだけの舞台でこれだけの話を書ける著者には、脱帽です。
パナソニックが三洋買収の交渉開始、とのニュースを見ていたら、電機大手の売上高の一覧が目を引きました。おやおや、日立が一番でパナソニックは2位ですか。三洋は載っている9社ではどんじりで、パナソニックと売り上げを単純合計したら日立を抜いてトップになるのね。
意外でした。昭和に育った私の感覚では、ナショナル、もといパナソニックがダントツのトップで2位グループにソニー・東芝・シャープ・三洋がいる、ということになっていましたもので。
ときどきは「世界と自分のすりあわせ」をやらないといけませんねえ。知らないうちに世界において行かれそうです。
【ただいま読書中】
ホームズが活躍したヴィクトリア時代は、「心霊」が大流行した時代でした。そこにホームズは徹底した合理主義を持ち込んだのですが、それでも非合理的で理解に苦しむ事件がありました。ホームズはワトソン博士がそういった事件を公表することを禁止しました。そういった事件の数々が今明らかに……という前提で編まれたパスティーシュ短編集です。ホームズが好きな人でかつ当時の世相(やコナン・ドイルの行動)について予備知識がある人には大いに楽しめる本であることは請け合いです。
目次
「悪魔とシャーロック・ホームズ」ローレン・D・エスルマン
「司書の幽霊事件」ジョン・L・ブリーン
「死んだオランウータンの事件」ギリアン・リンスコット
「ドルリー・レーン劇場の醜聞、あるいは吸血鬼の落とし戸事件」キャロリン・ウィート
「ミイラの呪い」H・ポール・ジェファーズ
「イースト・エンドの死」コリン・ブルース
「“夜中の犬”の冒険」ポーラ・コーエン
「セルデンの物語」ダニエル・スタシャワー
「セント・マリルボーンの墓荒らし」ビル・クライダー
「クール・パークの不思議な事件」マイケル&クレア・ブレスナック
「たしかに分析的才能はちょっとしたものだ」ケレイブ・カー
「『幽霊まで相手にしちゃいられない』か?」バーバラ・ローデン
「ホームズとのチャネリング」ローレン・D・エスルマン
タイトルを見たらある程度想像できるでしょうが、登場するのは、悪魔憑き、図書室で本に印をつける幽霊、塔の壁をするすると昇るオランウータンの幽霊(ポーへの献げものも兼ねているのかな?)、ドルリー・レーン王立劇場の呪い(空中に消える人影)、動く死体、死体を食らうグール……ちょっと変わり種で心に残るのは「セルデンの物語」で、これの主人公は「パスカヴィル家の犬」で登場する脱走犯セルデンです。実は私はほとんど彼のことを覚えていないのですが、どんな役回りでしたっけ? 本作では、南アフリカでのボーア戦争で心に傷を負った人間として描かれています。戦争で傷、と言えばワトスンもアフガン戦争で傷を負っていますが、当時のイギリスは今のアメリカと同様に、世界のあちこちで戦争をやっていたんですね。そんなことまで思い出すことができる本です。
3日(月)欠陥商品としてのドア/『フォークの歯はなぜ四本になったか』
ドアには重要な欠陥があります。開いた時向こうに人がいたらぶつけて怪我をさせるおそれがあります。車椅子の人間には普通のドアの開閉は困難です。さらに、子どもがヒンジの部分に指をはさんで指先を潰す恐れもあります。つまりドアは人類にとって使いづらく有害なものなのです。
では引き戸だったらOKかと言えばそうではありません。引いた戸を収めるために余分な壁面が必要となります。少なくとも向こうの人間を傷つける心配はありません。車椅子でも開閉はまだ楽です。でも、杖に頼る人間は、戸の動きにつれて転倒するおそれがあります。そして子どもはやはり指をはさむ危険が大です。ということで引き戸も人類にとって使いづらく有害です。
もっと手軽で害の少ない戸がどうして開発されないのでしょうか?
【ただいま読書中】
昔々人類が火を手に入れた頃、一番はじめは素手だったでしょうが、そのうち丸焼きにした肉を食べるのに石器のナイフと先をとがらせた枝を用いたはずです。そのうちそれは二本のナイフ、そして「ナイフとフォーク」に“進化”します。古代ギリシアには儀式用のフォークがありました。テーブル用のフォークで記録に残る最初は7世紀の中東の宮廷。フォークは12世紀にはイタリアに伝わり16世紀にフランスへ。イギリスへは17世紀です。目的は、テーブル中央の肉の塊を切り分けるのに、指のかわりに固定すること。イギリスでは当初「フォークは華美で女々しい道具」とされました。(ということは、シェイクスピアには(「ヴェニスの商人」は別として)フォークは登場しないわけね)
食卓では(台所用フォークとは違って)小さなものを扱うことや歯が抜けにくいことが要求されます。そこではじめは二本だった歯が増やされました(切り分け用だと固定のしやすさと抜けやすいことから、間隔の開いた2本歯で良い)。6本歯まで試されていますが、結局4本が「標準」となりました。フォークの変化はテーブルナイフにも突き刺す必要がなくなったので先が丸くなったりの影響を与えます。
17世紀のアメリカでは「ナイフとスプーンと指」が用いられました。スプーンで肉を押さえてナイフで切り、スプーンを利き手に持ち替えてすくって(あるいは指で)食べるのです(現在もフォークを頻繁に持ち替える(ジグザギング(右往左往))がアメリカ流として残っています)。だからか、初めてアメリカに4本歯のフォークが登場した時には「先割れスプーン」と呼ばれたそうです。日本の学校給食は、やはりアメリカ流?
既存の道具は、どんなものも「理想的なもの」とは言えません。必ず改善の必要があります。だからこそ様々な工夫が行われ、次々新しい道具が登場します。ところが「完璧に関するわれわれの観念」に定まったものはありません。その結果「モノ」は進化し、あるいは明かな欠点があるにもかかわらず改良されず、時には改悪されることさえあります。
本書では、日用品の「進化」そのものだけではなくて、その進化の原動力に注目して、まるで進化論を論じるように、日常的な道具を論じています。
発明家が何かを発明する有力な動機は、ある製品の「欠点(あるいは欠陥)を改良したい」という欲望です。著者は広く言われている「形は機能に従う」は教義でしかなく、実は「あるものの形は、別のモノの欠点によって決まる」と述べ、その実例をクリップ・テープ・ポストイットと次から次に出します。
「必要は発明の母」と言われますが、たとえ不便なモノでも「そんなものだ」と人びとが思っていたらそれは「必要」になりません。発明家はそこで「これは不便だ。もっと良いものができる」と思い具体的なアイデアを思いつきます(ここまではエジソンのいう1%の霊感)。そこからが「汗」の領域で、アイデアを具体的なモノにし、欠陥を取り除き、大量生産の道筋を考え、そして需要を喚起しなければなりません。さらに同様の「不便」に気づいているライバルたちに勝つための努力も必要です。そして重要で読めないのが消費者の動向です。なるほど「進化論」です。
著者は、ダーウィンをよく理解しているように私には感じられました。「新しい種」は人が生み出しますし、ここで働く淘汰圧は自然淘汰より複雑に思えます。しかし、「理想の形」を目指して定方向に「進化」するのではなくて、「とりあえず“現在”が出発点」「あるものはなんでも利用する」「いろいろ試してみて駄目なものは捨てられる」という根本は同じ。
まあそういった小難しいことは抜きにして、ファスナーやステープラーの変化について読むだけでも面白さが堪能できることは保証します。
何代か前の首相は「美しい国」と言いました。醜い国よりはもちろん美しい国の方が望ましいでしょう。しかし本当は、「美しい国」というきれいな掛け布団が問題なのではありません。それを持ち上げたとき、その下に何が見えるかが問題なのです。
【ただいま読書中】
『時の旅人』アリソン・アトリー 著、 村野正子 訳、 岩波書店(岩波少年文庫3148)、1998年、740円
幾重にも重ねられた過去の物語です。本書の初版は1939年、そしてそこで扱われているのは、ロンドンではまだガス灯が現役だった時代です。体が小さくて弱い少女ペネロピーは兄姉とともに、母の実家のあるサッカーズに預けられます。そこはたいそう古い農場でした。そしてその地域では、かつての「事件」(エリザベス女王に幽閉されたスコットランド女王メアリー・スチュアートを、サッカーズの領主アンソニーが秘密の地下トンネルを使って脱出させようとして失敗)がまるでつい最近のことのように語られていました。そしてペネロピーは、農場で不思議な人影を見るようになります。そしてある日、ドアを開けたらそこは過去の世界でした。ペネロピーはそのままそこで過ごすことになります。アンソニーがメアリー女王を救おうとしている、まさにその時代に。グリーンスリーブスという新しいバラッドが流行し始め、テーブルでのフォーク使用はまだ新奇な(どちらかというとバカにされる)ものである16世紀末に。
そして突然(ペネロピーの)現在に彼女は戻されます。現在では1秒も時間が経っていません。ペネロピーはとまどいますが、やがて、時を行き来することに慣れていきます。
「過去」では、アンソニーがメアリー女王の脱出計画を立てます。しかし、サッカーズの内部にも、愛・嫉妬・憎悪などの感情が渦巻いています。「秘密」はあまりに多くのものが知っています。
クリスマスイブ。計画は破れ、雪が降り始めます。雪は過去と現在と両方で降り続け、ペネロピーは恋を失い、永遠のかけらを一つ手に入れます。
ペネロピーは過去を変えることはできませんでした。そもそも彼女は過去を変えたかったのか、過去を変える力を持っていたのか、も不明です。ただペネロピーは常に「今」を生きました。つまり本書は「過去」を扱ってはいますが「過去の物語」ではなくて「現在の物語」なのです。
やや複雑なファンタジーですが、読者はたとえ一瞬であっても、過去と現在と(そして未来)を考えることになるでしょう。
6日(木)「必死に逃げる」/『津波と防災 ──三陸津波始末』
無免許・酒酔い・ひき逃げの犯人が「警察に捕まりたくないから必死に逃げた」と述べているそうです。「ふざけるな」と言いたくなります。津波やゴジラから逃げている状況だったら「必死」ということばも状況説明としてふさわしいでしょうけれど、この場合には犯人は鋼鉄の箱の中に安楽にのうのうと座っていて死とはほど遠い状況です。文字通り「必死」だったのは、車の下で引きずられ続けた被害者の方。
「目には目を」と言うのはやはり「人権」上まずいんでしょうか。だけど自分で「必死」と言ったんだから「必ず死ぬ」状況に自ら入ってもらっても良いんじゃないかなあ。少なくとも私は、こいつが安楽に過ごすことに私の税金を使って欲しくはありません。
【ただいま読書中】
明治三陸大津波は、明治29年(1896)6月15日(旧暦では5月5日端午の節句)夜8時頃に襲ってきました。死者は、北海道6人青森340人宮城3400人岩手18000人。被害戸数は10000戸でした。平均すれば1戸あたり犠牲者は2.2人ですが、岩手では一家全滅が728戸だったそうです。「私のお墓の前で泣かないでください」どころか「お墓があるだけまだマシ」の惨状なのです。記録された最大波高は大船渡市綾里地区白浜の38.2m。
三陸海岸を襲う大津波で知られているのは、貞観の大津波(869年)・慶長の大津波(1611年)があります。安政三年(1856)にも津波がありましたが、このときには被害は軽微でした。しかし、このときに「津波は大したことがない」という“経験”をしてしまったために明治の津波で避難が遅れた人もあったそうです。
明治の大津波によって「津波てんでんこ」という言葉が生まれました。津波にあった時、誰かを助けようとして、あるいは見捨てられないと足をとどめることで共倒れになる人が多かったことから「津波にあったらてんでんばらばらにとにかく逃げろ」と言う意味です。ただ、これは「災害弱者をどうするか」という問題を生みます。ただ見捨てればいいのか、と。
対策として、住宅の高所化も言われました。しかし「先祖伝来の土地を捨てられない」「新しい土地がない」「高いところは生活に(漁業に)不便」「山火事が怖い」「予算がない」などの理由で結局うやむやに。
「船幽霊」の迷信を信じる船乗りたちが、夜の海上を漂う被災者が助けを求めて上げる声を黙殺したことも紹介されています。迷信を信じるのはその人の勝手ですが、迷信が生きている人間を殺すことがあるのを知ると迷信を放置して良いのか、とも思ってしまいます。
そして昭和8年3月3日朝3時前後、「昭和の大津波」が三陸を襲います。最大波高28.7m、死者は3000人でした。明治の教訓が生きており、地震直後多くの人が海を見張り、異常な引き潮を目撃してただちに避難を開始したのです。(ついでですが、津波は引き潮で始まるとは限りません。そのときそのときで違う形で人間を不意打ちします) 著者はこの津波から走って逃げた体験を持っています。明治よりははるかに犠牲者は少なかったのですが、それでも残酷な話がつぎつぎ紹介されます。
昭和35(1960)年5月24日には、チリの大地震による大津波が日本を襲います。実は1952年に三好寿(津波の専門家)が「チリからの津波を警戒するべき」とすでに述べており、当日もハワイから気象庁に津波の情報が電報で届いていたのですが気象庁は「チリから日本に津波が届くことはあり得ない」と無視。そのため警報が遅れ、142人が死亡しました。前出の三好さんは、自分の警告はともかくせめてハワイからの電報をいかしていたら死者はゼロにできた、と残念がっているそうです。気象庁は「前例がない」「業務規定にない」「技術の限界」などと述べているそうですが。(ついでですが、「日本はチリの被害者」ではなくて、日本の地震が起こした津波が太平洋の反対側まで達していることも多いことを忘れてはならない、と著者は述べています)
著者は「俗説」を排します。「津波の前兆は、異常な引き潮・井戸の水が枯れる・川の水が減る・特定の魚が豊漁になる、などということはない。津波の前兆があるとしたら『地震』である。満潮時には津波が来ない、というのも俗説である」と強い口調で語っています。ところが大災害に関しては、俗説を信じる(そしてそれを流布する)ことに夢中になる人間が大量に発生します。なぜなんでしょうねえ。それよりも「津波の存在を忘れないこと」に熱心であった方が良いのに、なぜか「忘」に熱心な人も多いのです。
四九/『魔法』
「四と九」をどう読みます? 私は「よんときゅう」と読みます。でもこれを「し」と「く」と読んでそれをさらに「死」と「苦」に変換して「死と苦だから四と九は縁起が悪い」と言うのは、先に「縁起が悪い」という結論(あるいは縁起が悪いとどうしても言いたい意図)があって、そのために論を組み立てたような印象があります。「よん」と「きゅう」(または「ここのつ」)で良いんじゃないの?
「四十九日」はたしかに「し」と「く」と読みますが、「四十九日」自体は別に縁起が悪いことばではありません。宗派によっては亡くなった人の行き先が決まる日ですが、だから「し」と「く」が何?です。行き先が極楽浄土だったらとりあえず喜んで良いんじゃないかな。そうそう、「四苦八苦」から「四と九が」という意見さえ聞いたこともあるのですが、それだったら「縁起が悪い」のは「四と八」です。「苦」をわざわざ「九」に変換する必要はありません。さらに言うなら「四苦八苦」も縁起が悪いことばではなくて「ありがたい教え」ではなかったかな?
【ただいま読書中】
『魔法』(夢の文学館5)クリストファー・プリースト 著、 古沢嘉通 訳、 早川書房、1995年、2427円(税別)
たまたま自動車爆弾の爆発に巻き込まれ重傷を負ったカメラマンリチャード・グレイは、療養所で苦しいリハビリを受けていました。体が不自由なだけではなくて、逆行性健忘で事件前数週間分の記憶を失ったことも彼の苦しみとなっています。精神科医や臨床心理士は首を捻ります。催眠療法を行っても妙な反応が返ってくるのです。
事件直前にリチャードと出会い愛し合い別れたと称する女性スーザン・キューリー(スー)が訪れてきます。しかしリチャードの心はぴくとも動きません。まったく記憶がないのです。しかしリチャードはスーに惹かれ、二人はそろってロンドンを訪れます。しかし、リチャードの記憶と違ってフラットには客間がなく、駐めたはずの所に車がありません。リチャードはスーとフランスで出会ったことを思い出しますが、スーはフランスに行ったことはありません。
物語の語り手の視点は次々交代し、そのたびに二人(あるいは、二人が別れる原因となった男、スーに6年間の腐れ縁を強いたナイオールを含めたら三人)の物語は違った側面を見せます。リチャードにとって一番の問題はナイオールの存在であり、スーにとっての問題は「魅せる力(Glamour = 本書の原題ですが作中では「魔力」と訳されたところもあります)」の存在です。
はじめはナイオールはスーの想像の中の存在か、と思えますが、物語が進むとちゃんと登場します。ただし他の人からは見えない存在として。一体何が真実なのか、誰の記憶が「正しい」のか、さらに「魅せる力」が人を不可視にする力である、と明かされ、私はとまどい、その混乱のまま物語の中に没入させられてしまいます。
章が変わるたび「あ、こういうことだったのか」とわかった気になりますが、次の章に行くとまた別の「あ、こういうことだったのか」と読者は出会います。言葉には二重の意味が込められ(たとえばseeは「見る/会う」、glamourは「妖しい魅力/魔法」)、「存在を不可視にすること」と「記憶が隠蔽されること」とが重ね合わされ、ページをめくってもめくっても皮を?いても?いても終わりがない様相に私は翻弄されます。一体何が“真実”なのか、そもそも“真実”などが存在するのか、そもそも第一部で語られた「いまのところ、私はただの“私”だが、やがて名前をもつようになるだろう」の「私」とは一体誰なのか、読者は楽しく混乱させられ続けます。
言葉の多重性、「物語」の構造と内容、さらには「物語る」ことの行為性を縦横に駆使した、傑作です。
8日(土)かにダイエット/『すべての道はローマに通ず』
もしも「越前ガニを食べ続けたら理想的に健康的なダイエットができる」ということがわかったとしても、きっと爆発的なブームにはならないでしょうね。
【ただいま読書中】
これまでの「ローマ人の物語」は、「ローマ人」が人体ならその体の動きについての記述でした。ところが本書は「背骨」(ローマ帝国のインフラ)についてです。体の動きを描くのはある意味楽ですが、「背骨」(あるいはその中の脊髄)については簡単には書けません。著者は最初にまず“弱音”をはいてみせます。それでも書き始めてくれるのですが。
まずはローマ街道。著者は、ローマは街道(網)を造り古代中国は長城を造った、と対比します。ただ、ローマもハドリアヌスの防壁とかラインとドナウをつなぐ防壁(長城)を造っていますし、中国も秦の始皇帝は道路網を全国に張り巡らし車軸の規格を統一することで通行を楽にしましたから、「発想は同じ、重点項目が違うだけ」と私には見えます。(古代中国では、陸路より水路の方が重要だったりしましたし)
最初のローマ街道を創始したアッピウス・クラウディウスは、ローマの最初の水道の建造者でもありました。偉大なアイデアは(それを支持する人が存在し続けたら)時代を超えて偉大なものを構築し続ける、ということなのでしょう。そして、ローマ人は営々と街道を造り続けて、幅10メートル敷石舗装で車道と歩道がきちんと区分されている幹線だけで8万キロ、砂利舗装の支線を合わせたら15万キロの街道網になってしまうのです。著者はローマ街道を現代日本の高速道路と対比します。実際に、近代になるまで、ヨーロッパではローマ街道を越えるスピードで高速移動できる手段はなかったそうです。
さらに、上水道と下水道の整備も重要です。それらの建築や維持は、国や地方自治体が行うべきこと、すなわち「パブリック」でした。
街道の建設は軍団が担当しました。本来の目的が軍用道路だったからですが、民間人が使うことも自由でした。なるほど、パブリックです。さらには、大きな公共工事(街道や橋の建設)を行った皇帝は、「凱旋門」を造ることができ凱旋将軍として扱われました。敵に大勝利を飾ったのと同じ扱いで、市民の喝采を浴びることができたのです。
ソフトなインフラも取り上げられています。郵便制度、税制、育英資金制度、医療、教育……
面白いのは、教育も医療も基本的には「私」のもので自由市場で競っていたことです。それが「公」になるのは、キリスト教支配が強くなってからです。一神教支配の世界では「好きな医療神を拝む」「健全な疑いを抱く」は許されないことだったのです。著者はそのへんをちらりとにおわせるだけですが、きっと11巻からあとでゆっくりと語られるのでしょうね。楽しみです。
9日(日)レッド・クリフ/『“機関銃要塞”の少年たち』
「三国志」について多くの人が持つ知識は、ゲームの「三国無双」や「三国志」、あるいは「漫画三国志」からではないか、と私は想像しています。だから「赤壁の戦い」と言ってもそれが中国の歴史に持つ意味はほとんどの人にはちんぷんかんぷんでしょう。でも、それでも良いのです。今公開中の映画「レッド・クリフ Part1」はそういった予備知識がなくても楽しめます。例によって「夫婦50割引」を使って、確認してきました。
人間関係はバッサリ単純化され(たとえば、諸葛瑾(諸葛亮孔明の兄)とか曹操の息子は登場しません)、「主要人物」に観客は集中することができます(といっても、けっこうな人数ですが)。曹操も単純な悪人としては描かれず、ワイヤーアクションも抑え気味です(槍で刺した人間を、ぶんと遠くに放り投げる、といったシーンなどで使われています。これがかえって“リアル”に豪傑たちの動きを表現しています)。
長坂の戦いで映画は幕を開けます。まあ、人が死ぬこと死ぬこと。あんなに殺したらいくら中国でも人口が減るぞ、と思ったら、たしかにあの時代には疫病と戦争で人口はすごく減ったはずです。そして劉備と孫権は連合して曹操に対抗することとなり、舞台は赤壁へ。川をはさんで対峙する両者がいよいよ対決、というところで映画は終わります。Part2は来年春ですって? 待ち遠しいなあ。
【ただいま読書中】
1940年、空襲の翌日、チャス少年は「コレクション」の収集に出かけます。空襲のあと街に散らばる、空薬莢・機関砲弾・爆弾の部品・高射砲弾……しかしその日は「大物」でした。英空軍に撃墜されたハインケルの尾部、それも機関銃が丸ごとついたものを見つけたのです。チャスは機関銃を取り外して隠します。警察が捜索を始めます。機関銃(と弾薬2000発)を取ったのはグラマースクールの生徒の誰かに違いない、と見当をつけて。国防市民軍も機関銃を欲しがります。ドイツ軍の英本土上陸の噂が流れているのに、市民軍には十分な“軍備”がないのです。しかし子どもたちは(見方によっては悪ガキどもは)自分たちで自分たちの身を守るための“要塞”を作り上げます。自分たちを殺そうとやってくる敵はもちろん敵ですが、自分たちを守るのには無力な大人たちもまた敵なのです。
戦争の狂乱の中で、家や家族を失った子どもたちは要塞で暮らすことにします。家も家族も失わなかった子どもたちもそこに入り浸ります。ところがそこに闖入者が。なんと撃墜されたドイツ兵が迷い込んできたのです。子どもたちはドイツ兵を“要塞の捕虜”にしますが、やがて不思議な絆が彼らの間に生じます。
国と国の戦争では「敵」と「味方」は明確です。しかし、イギリスの市民レベルだと、そもそも「敵」と直面することはありません(それは日本でも同じでしたね)。「敵」は、空から降ってくる爆弾と、生活の困窮です。そのあたりのリアルさが、本書に深みを与えています。特に、親戚の無事を確認しようと空襲後の街を横断する親子の描写は、読んでいてまざまざと情景が“絵”として浮かびます。
本書には残念ながら「終わり」があります。本には必ず終わりがあるから、しかたないのですが、チャスやその他の子どもたちの“その後”が気になってしかたありません。
10日(月)奴隷解放/『大統領になりそこなった男たち』
もう死語ですが「終身雇用」という言葉がかつて日本にありました。その頃アメリカでは「レイオフ」が大流行で、「あんなことをやっているから優秀な従業員が育たないんだ。その点日本は……」と胸を張って「じゃぱんあずなんばーわん」と言っている人もいました。その割には、今の日本の労働環境は、何なんですかねえ。
『大統領になりそこなった男たち』に「固定コストがかかる奴隷ではなくて、流動性のある(必要な時には雇えて、好きな時に首を切れる)労働力が求められた」という意味の記述があって、もしかしたらそれは現在の日本にも言えることなのか、と思いました。終身雇用と家族などの生活保障のひきかえに、サービス残業を厭わず企業に忠誠心を抱いて過労死するまで働く労働者は、「奴隷」と同等の存在と言えるでしょう。しかし今の日本では「奴隷」を維持することもきつくなって、非正規雇用でなんとか生き延びなければならなくなっている。
平成の日本は後世「奴隷解放の時代」として知られるようになるのかもしれません。
【ただいま読書中】
『ローマ人の物語』で塩野七生さんは「コインに刻印された皇帝の肖像は、メディアとして機能した」と述べました。本書の著者も「切手は国家的メディアだ」という発想から数々の著作をものされていますが、本書ではちょいとひねって「紙幣の肖像」から話が始まっています。米ドル紙幣とその肖像は……1ドル/ジョージ・ワシントン(初代大統領)、2ドル/トマス・ジェファーソン(第3代)、5ドル/エイブラハム・リンカーン(第16代)、10ドル/アレクサンダー・ハミルトン、20ドル/アンドリュー・ジャクソン(第7代)、50ドル/ユリシーズ・グラント(第18代)、100ドル/ベンジャミン・フランクリン……おやあ、大統領ではない人が二人混じっています。さて、これは……
発想が面白いですね。「切手は歴史の窓口」という発想そのものがユニークなのに、さらに本書では「歴史は勝者が書くもの」をひっくり返して「敗者」の側から歴史を見るわけですから。それは、切手が常に歴史に寄り添っているのに、切手だけを集積したらそこにはまた独自の「歴史」が生まれるからこそこのような仕事ができるわけです。同じ切手(のコレクション)を見ても、何も見えない(せいぜい値段のことしか言えない)人もいれば、このように「独自の歴史物語」を読み解く人もいる。そのおかげで私は楽しい本が読めるわけで、ありがたいことです。
本書には8人の「男たち」が取り上げられています。通して読むだけで、アメリカ通史(の一面)を知ることができますが、さて、この中で何人のことを「知っている」と言えるかな? それは本書を読んでのお楽しみです。
各人のエピソードももちろんですが、米英戦争のことやホイッグ党がアメリカにもあったこと、さらに南北戦争で奴隷州でも南部ではなくて連邦側に属した州があったのを知ることができたのが個人的な“収穫”でした。(私は世界史にはヨワイのです)
今年の米大統領選で破れた人たち(マケインさんをはじめとする両党の候補者たち)も切手になっているのかこれからなるのかはわかりませんが、ふっとヒラリー・クリントンさんのことが気になりました。彼女を取り上げるとしたら「大統領になりそこなった女」ですが、USAでは「たち」にできませんね。いっそ視野を世界に広げたら、各国から「大統領(国家元首)になりそこなった女たち」が集められるかもしれません。私個人の好みだと、そのトップバッターはエバ・ペロンですが、さて、彼女は切手になっていたのかな?
先月マイミクさんの日記でバイクの前照灯が切れた話を読んだと思ったら、伝染したのか、昨夜退勤時にバイクの前照灯が切れました。しかたないので「対向車にはごめんごめん」と言いながらハイビームにして走りました(40wのハロゲンランプなので、まともに照らしたら眩しいのです)。で、15分くらい走って一番最初に見つけたバイク屋に飛び込んで修理を依頼。ところがその日はそこは千客万来のようでつぎつぎバイクを押して客が来る。おじさん、大忙しです。でも大もうけはできません。パンクかと思ったら単に空気が抜けていただけとか、常連がお茶を飲みに来たとか。私も部品代だけで2100円でした。それでも助かりました。
そこの常連さんとちょっと話をしたら、前照灯が切れたまま走っているバイクが意外に多い、とのこと。う〜む、そういう目で道路を見たことがありませんでしたが、こんど気をつけて見てみることにします。そうそう、そこで痛んだシートは交換するほかにメーカー純正のシートカバーを掛ける手がある、と教わりました。それだと相当安くつくそうな。これはお得な情報でした。
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『五つの星が列なる時』マイケル・ホワイト 著、 横山啓明 訳、 早川書房、2007年、1800円(税別)
イギリスのオックスフォードで若い女性の連続殺人事件が起きます。一人目は胸をきれいに切り開かれて心臓を抜かれ、二人目は脳。どちらの現場にも古いコインの模造品が残されていました。
本書ではそれと同時に、17世紀にアイザック・ニュートンが不思議な力を秘めた「ルビー球体」を探索している姿が描かれます。
オックスフォードで犯罪現場の写真撮影を仕事にしているフィリップとその元ガールフレンド(現在アメリカに在住、作家)のローラは、コインが紀元前400年古代エジプトのもので、そこには錬金術の思想が反映していることを知ります。錬金術を深く信仰する人は「賢者の石」(卑金属を貴金属に変える魔法の物質)を求めていました。ローラは占星術と錬金術の関係から、連続殺人は占星術を理解することで阻止できるのではないか、と考えます。最初の殺人は太陽が牡羊座に入った時刻に、次は月が牡羊座に入った時刻に行われました。ところが金星・火星・木星が次々牡羊座に入りる、占星術では特別な時期の始まりだったのです。もし二つの殺人が占星術によるものなら、あと3つの殺人が続くはずです。
警察は当然ローラの話を信じません。占星術だって? そういう「怪しげな話」を持ち込むだけで(ローラたちが占星術の信者ではないと言うことなど無視して)うさんくさい人間扱いです。警察には警察の捜査をしてもらうことにして、ローラたちは別の観点から事件に取り組むことにします。歴史的に5つの星が会合したときに何か起きていないか、の探索ですが、その年の一つ1851年にもオックスフォードでは連続殺人が起きていました。さらにその前、16世紀にも。そしてそこで“主役”だったのは、あのニュートンだったのです。過去の連続殺人が現代に蘇ったのです。
タイトルからは「惑星が一列に並ぶと、宇宙に大変動が」という内容のトな本を思い出します(タイトルは忘れました)が(なぜトかというと、太陽系ができてからそんなことは日常茶飯事で定期的に起き続けているのに太陽系が壊れていない、と言う事実と、ニュートン力学から「惑星直列」は別に奇異な現象ではない、という論理からの結論です)、本書ではニュートンが持つ科学者以外の、錬金術やオカルトに傾倒したもう一面に注目して、彼を魅力的な“悪役”に仕立て上げています。ついでですが、ニュートンはもう一面「聖書の研究家」も持っていましたけど、それは本書では省略されています。著者が知らなかったわけではなくて「ニュートンは立派な科学者」という思いこみを持つ人を、これ以上刺激したくなかったのかもしれません。ただ、解説では「ニュートンは錬金術に熱中していたからこそ自由な発想で科学に取り組むことができて、あれだけの業績を残せたのではないか」とも著者は述べています。これは確かにあると思います。頭が固い人は、たとえ「正義」の側にいようが「悪」の側にいようが、結局大したことはできないでしょうから。
12日(水)教科書/『世界のSF(短篇集)現代篇』(世界SF全集32)
教科書とは、過去の成功例の集積です。
したがって、教科書を見つめているだけでは、不確かな未来の予測はできません。
【ただいま読書中】
なつかしい本です。この全集が続々発刊されていた頃私は図書委員で、委員(あるいは委員長)の特権でこの全集の本が図書室に入るたびに「その学校でその本の一番目の読者」になっていました。1日で読んですぐに返却していましたから他の生徒に「実害」はなかったはずですが。
実は読みたい本があって図書館でいろいろ検索をしているときに、偶然本書がリストに登場したため書庫から救い出してきました。いやあ、こんなに分厚かったっけ?が最初の感想です。解説含めて696ページです。
どんな作品が収載されているか、目次を書きだしてみましょう。
第一部 黄金の時代
「愛しのヘレン」レスター・デル・レイ 「歪んだ家」ロバート・A・ハインライン 「夜来たる」アイザック・アシモフ 「トオンキイ」ヘンリイ・カットナー 「存在の環」P・スカイラー・ミラー 「最初の接触」マレイ・ラインスター
第二部 拡大の時代
「クリスマス・プレゼント」ウィリアム・テン 「ベティアンよ帰れ」クリス・ネヴィル 「こわい」ジャック・フィニイ 「野生の児」ポール・アンダースン 「表面張力」ジェイムズ・ブリッシュ 「悪夢の兄弟」アラン・E・ナース 「母」フィリップ・ホセ・ファーマー 「にせ者」フィリップ・K・ディック 「壁の中」シオドア・R・コグスウェル 「種の起源」キャサリン・マクリーン 「冷たい方程式」トム・ゴドウィン 「星」アーサー・C・クラーク 「吹きわたる風」チャド・オリヴァー
第三部 新しい波
「危険の報酬」ロバート・シェクリイ 「誰が人間にとってかわられる?」ブライアン・W・オールディス 「次元断層」リチャード・マティスン 「アルジャーノンに花束を」ダニエル・キイス 「交通戦争」フリッツ・ライバー 「終着の浜辺」J・G・バラード
古いSFファンだったら、この目次を見ただけで懐かしい思いにどっぷり浸ることができるでしょう。作品の感想だけではなくて、それを読んだ時代の雰囲気も脳裡に蘇るはず。だから私もここでは多くを語りません。ビタミンやステンレス・スチールが「新しいもの」であった時代のSFもありますが、やはり「良いものは良い」のです。
13日(木)モバイル/『フェルメール全点踏破の旅』
一昔前には、旅先で「モデムが接続できるかどうか」が私にとっては大きな問題でした(さすがに音響カプラーの時代は知りません)。最悪の場合、グレーの公衆電話(デジタル回線で、名前があったはずだけど、忘れました)を探して接続をしていましたっけ。それが今では「ネットに接続できるかどうか」が問題になっています。いやあ、良い時代になったもんだ、とは思いますが公衆電話では無理なのが残念。公衆電話にネット接続機能を持たせても良いんじゃないか、とは思いますけどね。おかげで私はイーモバイルの端末を持って歩いています。最低料金の月1000円ですまそうと思ったら、数ページしか読めませんが、とりあえずの接続だったらそれでも十分ですから。これは、便利になったのか不便になったのか、よくわかりません。
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フェルメールの作品は全世界に37枚ある、と言われています(学者によって数に少々の異同はあります)。そこで「そのすべてを見て回ろう」という企画(ツアー)も成立します(多作な画家だと不可能でしょう)。著者は美術品盗難のノンフィクションを書く取材過程でフェルメールの盗難事件を知り、そこからフェルメールだけに絞った『盗まれたフェルメール』を上梓しました。今回は、ドイツ・オランダ・オーストラリア・イギリス・フランス・USAと3週間かけて「フェルメール詣で」の旅の記録です。
フェルメールが活動した17世紀は、オランダが国として大発展をした(そしてすぐに衰退を迎えた)時期でした。プロテスタントは教会での装飾などを(下手すると教会の存在そのものを)否定しており、オランダの画家は生きる道を、教会の宗教画から商人の肖像画や風俗画に変更することを余儀なくされていました。余談ですが、19世紀にアメリカが国として大発展し、実業家たちがちょうど「再発見」されたばかりのフェルメールをはじめとするヨーロッパの絵画を金にあかせて買い集めた(だからフェルメールの1/3はアメリカに存在する)のと、なにか暗合を感じさせます。
今回著者は見た33点を見た順番に記録します。製作年代とか技量の進歩(あるいは衰退)を時系列では扱いません。ですから、絶頂期の作品の直後に初期の宗教画が登場したりします。作品そのもの(特に込められた寓意)や作品の来歴・現在置かれた環境などが著者の興味の中心となります。私はフェルメールの画面には「美」と「聖」が満ちている、と感じていますが、それだけですむほど話は単純ではないようです。
来歴といえば、フェルメールの作品(に限らず、ヨーロッパの美術品)は「略奪」と縁が深いことがよくわかります。ナポレオン・ヒトラー・スターリン……あんたらに「美術」がわかるの?(美術がわかることと暴力で略奪することが両立するの?)と聞きたくなります。そして「盗難」。なんだかため息が出ます。
ベルリンが現在美術都市として再生されつつある、という興味深い記述もあります。
フェルメールで私が一番好きなのは「真珠の耳飾りの少女」、というありがちな選択ですが、本書に豊富に収められた絵の写真や風景写真を見ていると、気になったは「手紙を書く女」。構図や描かれた行為から私の視線は彼女が持つペンの先端に集中していきます。画面を三角形に満たす光が、紙の上のインクの点にダイナミックに注ぎ込まれていくのです。これはぜひ現物を見てみたいものです。そしてもう一つ「デルフト眺望」。小説『真珠の耳飾りの少女』にフェルメールが雲の複雑な色合いについて述べるシーンがありましたが、この絵から得たインスピレーションによる描写だったのかな、と思えます。フェルメールがこの絵を描いた場所はわかっていて、フェルメール詣での名所の一つだそうですが、私もそこに実際に立ちたくなりました。そしてそのあとは「小路」の面影を求めて市内の散策です。
なんだか『フェルメール全点踏破の旅』を追いかける旅、をしたくなってしまいました。
「むかついたから××をした」とかの言い分をときに聞きますが、「むかついた」は何かの結果でしょ。原因じゃなくて。もちろん因果は巡るのですが、××の部分がとんでもないことの場合には、自分に都合の良いところだけ切りとってくるんじゃないよ、と言いたくなります。本当に因果関係が強固に成立している場合は、途中を省略してもとりあえずスジは通ります。だけどたとえば「親に怒られた」「人を殺した」はスジが私には通らないんですよ。たとえその間に「むかついた」をはさんでもね。もしも「むかついたら自分は人を殺したくなる人間だ」が説明として挿入されるのだったら、それが「原因」として納得はできますが。つまり「原因はお前だ」。
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『盗まれた街』ジャック・フィニイ 著、 福島正実 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫SF1636)、2007年、667円(税別)
カリフォルニア州サンタ・マイラ市(人口3890)で開業しているマイルズのところに奇妙な相談者がやってきます。「姿形もしぐさも記憶も同じだが、家族が別人になっている」というのです。マイルズは妄想の一種と考え相談者を精神科医の所に送ります。ところがそういった訴えは一例ではありませんでした。何例も何例も同じような訴えをする人が現れます。集団ヒステリーのような伝染性のある精神障害なのか、それとも……やがてマイルズは「物的証拠」を見つけます。巨大な莢のようなものから生まれたまっさらな人体、まるで人格を転写されるのを待つばかりといった死体、いや、これから生きるのを待っている“存在”です。マイルズは「この町は何者かに侵略を受けている」と直感します。
これは個人の手には負えない、とマイルズは判断しますが、ではどこの誰にこんなことを訴えればいいのでしょうか? それこそ「妄想」として片付けられるのがオチです。それでも仲間を募り、助けられるものは助けようと走り回るマイルズたちですが、町の人びとはつぎつぎ「何者か」に置き換えられていきます。それにつれて町の日常活動は停滞していきます。このあたりの描写は、恐怖が静かに湛えられていて、読者は深淵に引きずり込まれるような感覚に支配されてしまいます。
そしてついに町はほぼ完全に「何者か」に支配されてしまいます。さらには周辺地域への侵略が始まります。
ラストは、「え? ここでどんぱちでしょ」と言いたくなりますが、これはこれでアリかもしれません。
「見た目は同じなのに、その人が“その人”であると信じられなくなる」恐怖を描いた秀作です。異星人の侵略テーマですが、共産主義とか、あるいは単に普通の人間関係でのすれ違いなども重ね合わせて読むことが可能です。優れた作品は重層的な読み方が可能ですが、本書もその例外ではありません。
「心にもないことを言ってしまった」と悔やむ、という表現をときどき見ますが、それは変です。だって本当に「心にない」ことは言葉に変換できませんから。何らかの形でその人の心の中に存在していたから、そしてそれを言葉として使おうという意思があるからこそ、それを言って他人を傷つけることができるのです。
なんだか上のは「本当に悪いのは自分ではない」という言い訳にしか見えません。「自分は心ない行為をした」と認知し、できれば反省することから始めないと、また同じことが繰り返されるのではないかしら。
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『猫の帰還』ロバート・ウェストール 著、 坂崎麻子 訳、 徳間書店、1998年、1600円(税別)
ドイツ軍の総攻撃で、連合軍がダンケルクに押し込められてしまったとき。イギリスでは一匹の猫が行方不明になりました。ロード・ゴートという名前の雌の黒猫(幸運のしるし)です。ロード・ゴートは疎開先から元の住処ドーヴァーを目指します。懐かしい住処と懐かしいご主人を求めて。
たった一人の監視所で海を見張り続けていたストーカーは、その黒猫と出会います。黒猫は監視所に居つき、恐怖と孤独が監視所から追い払われます。ストーカーの目の前で空中戦が行われ、不時着した敵のパイロットを爆発寸前に救助したストーカーは“英雄”になります。そして、猫はいなくなります。
そこから場面は、猫の移動に従って細かく転換を繰り返します。ダンケルクからの引き揚げ者が乗っている汽車が停まる駅、ドーヴァーに赴任する軍隊が落ち着いた民家、爆撃隊の基地……ここで私は「ああ、『100万回生きた猫』の第二次世界大戦バージョンだ」と思います。ただし、あの絵本では(当然ながら)「100万回生きた猫」が主人公です。本書でももちろん猫は主人公で、成長し(途中で2回出産もします)傷つき面変わりもします。しかし、その猫とともに生きる人の「戦時下の人生」が細かく描写されるのが、本当に読者の心に迫るのです。戦争(と死)に押しつぶされそうになっていた人びとは、ロード・ゴートとともに暮らすことによって、絶望の淵の奥底から「自分の人生」へと浮上してくることができたのです。しかし猫はそんなことにはお構いなしです。彼女にとっての関心事は、自分の身の安全と食事とご主人のこと、それだけです。
人にとって戦争は残酷な運命ですが、人にとって猫もまた運命だったのかもしれません。人のことを気にかけてはくれない、という点で、たしかに戦争と猫には共通点がありますね。
あれは「その表面では菌が増殖しにくい」だけで、触っている指先を“消毒”してくれるわけではないですよね。最近のニュースでは「パソコンのキーボードは便座より汚い」「携帯電話は便座より汚い」なんて言われていますが、そういったものを触った指先でいろいろ触るものの中に抗菌グッズがあったとして、それで一体なにが安心なのでしょうか?
【ただいま読書中】
現代社会に「健康不安」が充満しています。著者はそれを「ミクロの健康」と「マクロの健康」のミスマッチによる、と断じます。
江戸時代まで、日本には「個人の健康」しかありませんでした、というか、そもそも「健康」という言葉がありませんでした。「丈夫」「健やか」で“それ”は表現され、人が望むのは個人の「不老長寿」「長命」でそのための手段は「養生」でした。著者はそれを「ミクロの健康」と表現します。
ところが西洋医学の導入で、「他者(正常者)との比較による健康」の客観的な健康概念が日本に根付きます。「漢洋内景説」(高野長英、1836(天保七)年)や「遠西原病約論」(緒方洪庵、1837年)に「健康」の文字列が登場しますが、明治になって事情は変化します。富国強兵・殖産興業を国是とする明治政府は「国として望む(命じる)国民の健康」を制定します。それを著者は「マクロの健康」と表現します。「健康を望む」のは人として当然の欲望ですから、国がそれを言うのも無理なく受け入れられますが、その結果「健康」には個人と国(社会)の二つの軸が存在することになりました。軸が二つだと象限は四つになります(X軸とY軸の関係を思い出します)。そこで明らかにずれているのは「ミクロでは健康/マクロでは不健康」と「ミクロでは不健康/マクロでは健康」です。前者として精神障害者、後者として登校拒否が本書では例示されています。あるいは「自分では健康だと思っているのに、検査をしたら異常を指摘された」も前者でしょう。では「ミクロでは健康/マクロでは健康」と「ミクロでは不健康/マクロでは不健康」は一致しているから問題はないでしょうか。実はこの両者も問題を内包しています。「ミクロの健康」は自覚によります。ところが「マクロの健康」は、政策目標でありかつ客観評価です。そしてミクロとマクロではマクロが社会的に優先されます。そこで「自分は健康」と思っている人も検査でそれを証明(保証)されなければなりません。しかし、「現在異常なし」の人でも、この世で可能なすべての検査をしたわけではありませんから調べなかった検査で異常が出ないという保証はありません。未来の保証もありません。そこで「自分は本当に健康なのだろうか」という「健康への強迫」が生じます。逆に「ミクロでもマクロでも不健康」の場合には「病気である」ことは安心を生みます。しかし、「マクロの健康」では「健康」は達成目標です。そこで病人には「直る(治す)義務」が生じます。つまり、せっかく得た「安心」も長続きはしないのです。
さらに疾病構造の変化や社会の変化によって、人は容易に「健康不安」に捕えられそこから抜け出そうとあがき続けることになってしまいました。「医学」は「治療」は得意ですが「健康増進」は不得手です。ただ、科学と医学の進歩によって「不健康の原因」だけは山ほど見つかります。するとそこで言われるのは「あれは健康に悪い」「これも健康に悪い」の警告の山です。人間ドックにかかると「自覚していないでしょうが、ここが悪いあそこも悪い」の警告の山。
ではポジティブなものはないのか、と探せば、健康産業が待ちかまえています。「○○を食べれば万病が予防できる」「××器具を使えば健康に良い」……
果てしない幻影としての「健康」を追い求めることで、人は幸福になるかわりに「健康不安」を手に入れました。ではどうすればいいのでしょう。本書にも明確な「処方箋」はありませんが、でもいろいろなヒントが入っています。ちょっと固い本でイデオロギーの臭いもしますが、それでも考えるための材料としては有用です。
18日(火)大阪でひき逃げ/『セビーリャの理髪師』
今日の朝刊の社会面の隅っこに「大阪でひき逃げが連続」と二件のひき逃げがあったことを報じていました。「おや、大阪は最近多いな」と思いかけて「ちょっと待てよ」。昨日は日本中でひき逃げ事件が2件だけでそれがどちらも大阪限定なのだったら、それは「大阪で異常にひき逃げが多い」ことになります。しかし、日本中あちこちでひき逃げがあって、その中で大阪のだけピックアップして記事にしたのだったら、それは何らかの作為が働いていることになります。
作為……まず思いつくのは、「大阪」と「ひき逃げ」を強く関連づけるための印象操作です。しかし、そういった印象操作をしなければならない理由が思いつけません。新聞は「社会の木鐸」なのですから、印象操作をするにはそれだけの目的があるはず。
それは一体何でしょう?
【ただいま読書中】
強欲で下品な医者バルトロが後見人としてくっついている深窓の令嬢ロジーヌに一目惚れしたアルマビーバ伯爵は、かつて恩を着せていたフィガロが街で理髪師として仕事をしており、かつバルトロの屋敷にも出入りしていることを知り、その協力を仰ぐことにします。フィガロは知恵を絞りますが、バルトロは自分に恋敵が現れたことを知り、翌日にロジーヌと結婚することにします。アルマビーバ伯爵に残された時間はわずか。そのわずかな間に、バルトロの防備をかいくぐって首尾良くロジーヌに自分の気持ちを伝え自分に気持ちを向けさせることができるのか。伯爵は、歌い、変装し、嘘をつきます。フィガロも、屋敷の使用人たちに薬を盛ったり瀉血をして使い物にならなくし(当時理髪師は床屋外科でもあります)、嘘をつき、秘密の伝言をします。バルトロは対抗手段として伯爵の中傷をしようと画策します。
さて、この恋のから騒ぎの結末はいかに……
ちなみに「無駄な用心」は、劇中で歌われる(当時の流行歌という設定の)アリアです。音楽の学生に変装したアルマビーバ伯爵がロジーヌに稽古をつけている、というふりをバルトロの目の前で堂々としている時にロジーヌによって歌われます。
そういえばフェルメールの絵にも、音楽の稽古シーンや楽器が繰り返し登場しますが、当時はそれらは「愛のシンボル」としても扱われていたそうです。となると、本作での音楽の稽古のシーンは、そのまま求愛と承諾を示しているわけです。もちろんそこで歌われるアリアの歌詞もそのものずばりではあるのですが。
最後はちゃんと話は納まるところに納まりますが、その途中が笑えます。企みと企みがぶつかって予想外の展開になってそこで破綻をきたさずに上手くストーリーが進行してしまうのですから、当時(初演は1775年)何も知らずに劇場に来た人はもう腹を抱えて笑い転げたことでしょう。いや、今でも腹を抱えて笑い転げることはできるでしょう。演出さえまともなら、ですが。
昔、訪れた人に砂糖をたっぷり入れたインスタントコーヒーを出すことが最高のもてなしだった時代と地域があります。村人が普段飲まない「コーヒー」を淹れ、しかも贅沢にも砂糖をつける、これは((糖尿病やメタボの人もいるのですから)ものとしてありがたいかどうかは別として)もてなしの心としては最高級に近いものだったのです。いや、私もそれをいただいてその甘さに目を白黒させたことがあるのですが。
今はレギュラーコーヒーになっているのかな、それとももっと別のものを出すようになっているのでしょうか。本当はこちらから、飲みたいものの“注文”ができるのが一番嬉しいんですけどね。
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レコンキスタ(キリスト教徒によるイベリア半島の領土回復運動)が終わってスペインが一息つけたとき、コロンブスが船出します。イサベル女王・フェルナンド国王と交わしたサンタフェの協約で謳われた航海の目的は「真珠、貴石、金、銀、香辛料」。第3回目の航海でベネズエラに到着したコロンブスは、そこで先住民が大量の真珠を身につけているのを見ます。その噂はヨーロッパの個人冒険家を新大陸に引き寄せます。はじめは交易の形でしたが、やがて奴隷(=先住民)貿易も始まり、現地ではやはり奴隷(はじめは先住民、やがて黒人)を使った真珠採取事業が盛んになります。(ヨーロッパの肖像画で15世紀と16世紀を区別するのは、そこに登場する真珠の量の圧倒的な差、と著者は述べます)
1521年メキシコのアステカ帝国征服、1533年ペルーのインカ帝国征服によって、「黄金郷(エルドラド)」を求める目はベネズエラからメキシコとペルーに向かいます。スペイン人たちは、大量の金と銀の獲得に酔いしれ、さらにコロンビアがエメラルドの大産地であることも知ります。しかしそこに登場したのがイギリス人でした。当時イギリスではスペイン船を襲うことは“正義”であり(私掠船)、さらに新大陸の領有権も(ローマ教皇アレクサンデル6世の教書「新大陸のほとんどをスペインに与える」に逆らって)狙っていました。南米の富を狙うための基地をまずは北米に作ります。でもあくまで“本命”は南米です。エルドラドは南米にあるのですから。
やがてオリノコ川上流で金鉱が発見されます。イギリスはその地域を「ギアナ」と名付け、入植(侵略)を計画します。そこで重要な役割を果たすのがデフォーです。彼の『ロビンソン・クルーソー』は、島をオリノコ川河口に設定することでイギリス国民の目をそちらに向けさせ、さらに一介の船員の漂流者でも島の“王様”になれるというストーリーで入植者を募るという“宣伝”効果を狙っていました。この本はベストセラーとなりイギリスでは「ギアナ」がブームとなります。やがてオランダから得た植民都市をもとにした英領ギアナがベネズエラの東側に確定します。カリフォルニア、オーストラリアに次いでオリノコ川上流でもゴールド・フィーバーが起きると、イギリスは突然国境線を400kmずらして金鉱地帯をそっくり自領にしようとします。ベネズエラは当然拒否。しかしロライマ山(TVで「神秘のギアナ高地」として紹介されるテーブル状の山)にイギリス人探検隊が初登頂したことでそこはイギリス領と宣言され、さらにオリノコ川河口も強引にイギリス領とされます。しかしそこに立ちふさがったのが、意外にもUSAでした。モンロー主義の発動です。USAの狙いは、金ではなくて鉄鉱山でした。とりあえず大英帝国の脅威からは解放されたベネズエラはこんどはアメリカ帝国主義の下に置かれることになります。
ヨーロッパ人は、土地の領有の点で、やりたい放題でした。島を発見して「ここは俺のもの」と宣言したらそこは俺のもの。植民都市を造ればそこは俺のもの。ヨーロッパ人が未踏の土地を探険したら、そこは俺のもの。川の水源地を発見したら、その川の流域全部と支流の流域もすべて俺のもの。だから「探検隊」は重視されたのです。大航海時代やその後の探険ブームは、大体「俺のもの」のためのものだった、と本書では述べられます。そういえば、大航海時代と重なる宣教師の活動も結局「俺のもの」のためになっていました。
本書では、『ロビンソン・クルーソー』だけではなくて、コナン・ドイルの『失われた世界』が意外な読み方をされたり、映画「パピヨン」の原作が紹介されたり、本好きにもなかなか楽しめる内容となっています。帝国主義の一面について知りたいという真面目な人も、ただ楽しみたいという人も、読む価値はある本です。
寡作で有名な作家で、現時点では短編集『あなたの人生の物語』とそのあとに書かれた短編二つしか日本では知られていません。で、その短編二つが2008年1月号のSFマガジンに載っている、ということをファンの皆さんご存じでしょうか? さあ、読みたい人は古本屋に走るのだ。あるいはもしかしたら早川書房に新品の在庫がまだあるかもしれません(出版されてまだ1年ですから)。
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『限りなき夏』クリストファー・プリースト 著、 古沢嘉通 編訳、 国書刊行会、2008年、2400円(税別)
私が最近注目している作家は、ウェストールとクリストファー・プリーストです。本書はプリーストの短編集ですが、はじめの二つの短編には実に魅力的なガジェット(小道具)が登場します。たとえば「限りなき夏」では、凍結者(時間旅行観光者らしい人びと)が使う「装置」。これでお気に入りのシーンを「撮影」すると、観賞用に撮影された人(びと)は時間の中で凍結され、それが腐食して溶けるまで実時間の世界では行方不明になってしまうのです。あるいは「青ざめた逍遥」での「橋」。流路公園のフラックス流体の流れに架けられた3本の橋は、その角度によって明日あるいは昨日の対岸に渡ることができます。
宇宙船とかタイムマシンといった“大物”ではないけれど魅力的なSFガジェットとして、私がすぐ思いつくのは「スローガラス」です。ただし、スローガラスが登場する作品が魅力的なのは、ガジェット自体の力というよりは、それをめぐる人間のドラマが生き生きと描かれていたからでした。本書でもそれは同じです。特に「青ざめた逍遥」で、主人公がパターナリズムの権化のような父親から解放されたら、それと同じ態度を自分の子ども、はては若い頃の自分に対しても取るところなど、なんとも複雑で苦い笑いをこちらは堪えることができません。
「逃走」(著者のデビュー作です)「リアルタイム・ワールド」「赤道の時」では“奇妙な状況”が描かれます。もう一人私のお気に入りの作家テッド・チャンの作品では、「状況」は論理が許す限り(時には許さないところまで)の極限まで追い求められますが、プリーストはそこまでの“追求”はしません。ドラマの舞台を仕立て上げたらそこで始まる人間ドラマの方に注意を向けているようですが、その「舞台から人間に注意を向けるタイミング」が、テッド・チャンよりも早い感じです。
そして「夢幻群島」の連作が3つ(数え方によっては4つ)。J・G・バラードのヴァーミリオン・サンズの連作をちょっと思い出しますが、あれよりもこちらの方がビターな味わいで、肉欲の臭いも濃く漂った雰囲気です。こちらにはSFガジェットはあまり登場しませんが、なんとも不思議な(そしてときには不愉快な)感触が残ります。SFというより文学を読む悦楽を味わえる感じです。
政治家の多くが二世三世になると、政治家同士の権力闘争は結局「この世をどうするか」ではなくて「○○家」vs「××家」の「ボスの座をめぐる家同士の争い」「先祖の恨みを晴らすための戦い」あるいは下手するとただの「お家騒動」でしかなくなってしまいます。お家騒動は権力闘争ではありますが「政治」ではありませんから「政治に無関心な層」が「お家騒動」にも無関心なのは「正しい態度」と言える……のかな?
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五賢帝の最後、“哲人皇帝”マルクス・アウレリウスから本書は始まります。ただし、彼の即位ではなくて、その前の時代から。
伝統的な史観では、ローマ帝国の衰亡は五賢帝の時代の終了とともに始まることになっています。だからマルクス・アウレリウスの“前”の皇帝アントニヌス・ピウスにはあまり歴史家の注目が集まっていません。あまりに平穏な時代で注目するべきことはない、と。ところが著者はそこに疑問を持ちます。ローマの衰亡は、実は五賢帝の時代にその種が蒔かれていたのではないか、と。著者らしい目のつけ方だと感じます。
志願兵の数が減少してきます。国が豊かで安定したら、兵役の魅力は薄れるのです。ペストが流行します。国境には次々蛮族が侵入。そして、ローマの神々を否定し公共に貢献することも否定するキリスト教徒の数が国内に少しずつ増えてきます。
やがて、北の防壁が破られます。マルクス・アウレリウスは出陣し、陣中で『自省録』をしたためます。さらにシリア属州総督の謀反。マルクス・アウレリウスは、ローマ帝国を次々襲う“ほころび”を修復することに追われ続けます。
そして、キリスト教徒が円形競技場で公開処刑されることが始まります。それまでは鞭打ちの末斬首刑でしたが、剣闘士の不足に悩む地方の闘技場が、そのかわりの“演し物”として(ローマ市民以外の)キリスト教徒を公開処刑を扱い始めたのです。(「ローマの神々」を否定するキリスト教徒は、つまりは国家反逆犯でした)
マルクス・アウレリウスの死後、息子のコモドゥスが跡を継ぎます。歴史家には評判の悪い皇帝ですが、著者はまた「本当にそうか?」と考察を続けます。最初はまあ“弁護”の余地がある為政ぶりですが、姉による暗殺未遂事件以後、人格が変容してしまいあとは失政続きで結局コモドゥスは暗殺されてしまいます。以後は、軍事力を背景にした実力者同士の争いとなります。
ローマ帝国が、豊かになり安定したことが、結局ローマの衰亡の原因の一つとなってしまったわけで(自分の体を張って軍隊へ、の人が減り、中で豊かさを楽しもうとする人が増える、その豊かさを目指して周辺から人(蛮族)が押し寄せる)、なんとも皮肉な話です。といって、安定をわざわざ捨てるわけにはいきません。強いて言うなら「静的な安定」ではなくて「動的な安定」を求めるべきでしょうが、それには相手の“協力”も必要です。なかなか思うようにはなりません。
さらに、実力主義で皇帝が決まるようになると、問題は後継者です。辺境の司令官が皇帝になれるのだったら、自分がやったように自分の死後(あるいは生きているうちにも)同じことが起きるのではないか、というおそれを皇帝は持ってしまいます。だからといって、司令官を弱っちい奴にしたら、辺境が簡単に蛮族におかされます。外憂内患と言いますが、ローマ皇帝は、蛮族と国内の安定の問題とそして家族の問題に悩まされ続けることになります。
逮捕されたのが実行犯なのか、それとも(暴力団抗争の時のような)ただの下っ端の「鉄砲玉」とか「身代わり」とかなのかはまだわかりません。
ただ、今回の厚生省元次官宅襲撃事件の真相がなんであれ、国の対策が「厚労省の幹部を守る」ことばかりに血道を上げるのではなくて、もっと基本的な「国の治安をいかに維持するか」を考えないと、同種の事件は形を変えて起き続ける可能性があります。悪いことは連鎖反応を起こしがちですから。だからといって「北風」国家になれ、と主張する気もありません。「太陽」の方が私は好みです。
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論語は日本人の生活に深く入り込んでいますが、2500年前にこんなことを考えそしてそれが記録されさらにそれが時代を超えて生き残ってきたことにあらためて感じ入ります。
本書ではその『論語』を、師匠と弟子の人間関係の観点から読み解いています。
●子路曰く「君子は勇を尚ぶか」。子曰く「君子を義をもって上となす。君子、勇ありて義なきは、乱をなす。小人、勇ありて義なきは、盗をなす」
これは子路のことばを孔子がさらに掘り下げているようですが、でも、子路は単に「君子は勇“だけ”をとうとぶ」と主張したのでしょうか? 君子は頭は持っているのだから、勇を持つ部下を重用するべきだ、と言いたかったのかもしれません(実際に子路は、自分の頭よりは実行力を前面に出すタイプでしたから)。ならばこの師匠と弟子の会話は、二重の意味を持ちます。一般論としての君子論と、孔子と子路の関係について。
この「弟子との関係」は、たとえば「堂に入る」でも重要です。
●子曰く「由の瑟、なんすれぞ丘の門においてやせん」。門人、子路を敬せず。子曰く「由や堂に昇れり。いまだ室に入らざるなり」
孔子が「子路の琴は、私の家ではどうもねえ」と言ったのを聞いて門人が子路を軽んじたため「いや、彼の腕は一流の水準(堂に入る)だが、まだ最高レベルではない、ということだ」と“説明”(弁護?)しているお話です。弟子も早合点ですよねえ。実際に子路の腕を判断するのではなくて、孔子が「どうもねえ」と言ったのを聞いて自分の行動を決めるのですから。孔子も弟子の育成では苦労したのではないでしょうか。実際に弟子の性格によって教え方やことばを選んでいます。“教師”は大変です。
孔子は、他の人より3歩踏み込んで考え、その1歩分だけをことばで周囲にフィードバックをした人のように見えます(3歩分をそのままことばにしたら、おそらく誰もついて行けませんから。ならば「2歩め」は何のためかと言えば、優秀な弟子が最初の1歩にくいついてきた場合の予備です)。だからこそ、直截な表現がまた力を持ちます。たとえば子貢が「政」について問うた時「政治の目標は、食料の充足、軍備の充実、人の間の信義。その二つしか選べないのなら軍備を捨てる。さらに一つしか残せないのなら、信義を残す」と答えたことばの迫力には、私にはたじたじです。食料がなくなって死ぬとしても、人と人との信義があれば、それは「人として死ぬ」です。しかし、信義を失えば、いくら腹が一杯でもそこにいるのは「人」ではないのです。政治にはそこまでの覚悟が必要って……今の政治家はそんなことを考えながらお仕事をしているのかな?
孔子の方法論を形だけ真似ることは容易です。人より一歩だけ踏み込んで考えるだけでも形式的に同じことができます。問題は、一歩だけだと容易に周囲の(優秀な)人間に喝破される可能性があること(回りがあまり考えない人だと、その「一歩」のインパクトで思考停止になってくれるんですけどね、「ネットは広大だわ」なのでいろいろ(自分より)優秀な人がいるのです)。ネットで偉ぶったりもったいぶっている人のほとんどはこういった孔子の亜流(しょせん小人)であるように私には見えます。おっと、偉ぶっている時点でその人は君子ではありませんね。天に唾しないように私も気をつけなければ。
イギリス人とアメリカ人の決定的な差は、「空襲体験の有無」かもしれません。イギリスは第二次世界大戦初期に「バトル・オブ・ブリテン」で繰り返しドイツ軍の空襲を受けました。しかしアメリカは、空襲体験を持っていません(真珠湾は一般人に対する空襲とは言えないでしょう)。一番それに近いのが「9.11」です。これが、戦争に対する基本的態度の差となっている可能性は高いかもしれません。
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『禁じられた約束』ロバート・ウェストール 著、 野沢佳織 訳、 徳間書店、2005年、1400円(税別)
印象的な表紙です。海辺の暗い墓地。沈んでいく夕陽に照らされているのか中央がほんのりと明るくそこに白いワンピースを着た少女が立っています。空には爆撃機の群れ。そして裏表紙、表紙の続きの墓地のはずれに少年が立っています。本を開くと、二人の視線が絡み合っていることがわかります。戦争と恋と死が見えます。そう、本書は、痛切な初恋の物語なのです。
グラマースクールでの優等生ボブ・ビッカスタフは、クラスメイトのヴァレリー・モンクトンに恋をしますが、二人の間には大きな壁があります。ボブは労働者階級の息子。ヴァレリーは工場長(つまり中産階級)の娘です。ヴァレリーは病気で「先が長くない」と言われています。当時の世相では、女の子と付き合っていることがクラスのいじめっ子に知られたら、ボブは死にたくなるほどのイジメに遭うでしょう。さらに戦争が迫っています。そんな中、二人は約束をします。もし彼女が迷子になったら必ず見つける、と。ボブにとってそれは軽い気持ちで交わした約束でしたが、結果としてとんでもないことになってしまいます。
ヴァレリーは15歳で死にます。そしてボブの人生の半分は戦争、残りの半分はヴァレリーの死で占められます。「だれかが死ぬと、人はそのだれかをさがし始める。それが自分にとって大切な人ならば。」ボブのことばです。
そしてボブはヴァレリーを見つけ、ヴァレリーもボブを見つけます。しかし生と死を越えた恋は、ボブの命を削ります。死の冷たさがボブを侵し始めるのです。そしてボブは死者の姿を見ることができるようになってしまいます。ヴァレリーの父モンクトン氏は自分の一人娘のことよりもボブのことを心配します。そして空襲下での最後の邂逅と別れ。
本書は、胸が締めつけられるような恋の物語です。半分は戦争の物語ですが、これが戦時下の恋でなければならなかった必然性がしっかり書き込まれた秀作です。
そうそう、本書でちょっと目立つのは、宗教の無力さが繰り返し描かれることです。牧師がいくら祈っても、ヴァレリーは“昇天”できず、ボブもモンクトン氏も救われないのです。これは著者の個人的な体験によるものでしょうか。
25日(火)障害者の評価/『ローマ人の物語XII 混迷する帝国』
ある障害者が平均的な健常者の88%の仕事をしました。さて、それをどう評価しましょうか。
実はこれだけでは何も評価できません。その障害者がどの程度の能力を持っているかがわからないといけないのです。
では、その人が普通に全力を出したら、健常者の平均の80%の仕事ができる能力を持っている、としましょう。するとその人が「健常者の88%の仕事」をしたということは、健常者が「110%の力を振り絞った」ことと同等になります。これは褒め称えるべきでしょう。少なくとも「110%の仕事をした健常者」を褒めるのと同じレベルで。
絶対的な物差し(仕事量)だけではなくて、総体的な物差し(その人の能力の評価)も持っていないと、正しい評価はできません。
もちろんそれは障害者だけではなくて、健常者を相手としたときも同じですが。
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「三世紀の危機」が本書では語られます。世界史を学んでいるから、ローマ帝国が衰え分裂し滅びていくことは知っていますが、著者はその衰亡の仕方もまた「ローマ人的であった」と述べます。なるほどここでも「ローマ人の物語」なのですね。
1世紀には皇帝は9人でした。2世紀は6人。ところが本書で扱われる3世紀の73年間で皇帝はなんと22人、うち謀殺が13人、戦死が二人です。一体どんな時代だったのでしょう。
トップバッターのカラカラ帝は、属州民へも一律市民権を与えました。ところがこれは著者によると失政でした。ローマは階級社会でしたが、各階級間の流動性は確保されていました。平等ではないが“風通し”が良く、それがローマ帝国の活力につながっていました。ところが「全員市民」となって、しかもそれが「一等市民」と「二等市民(元属州民)」に固定化されてしまいました。結果として「均質社会」=きわめて風通しの悪い社会=動脈硬化した社会、となってしまったのです。
新興のササン朝ペルシアがメソポタミアを脅かします。ゴート人が北方より侵入してきます。ベルベル人がアフリカを。そして現役の皇帝が戦場で虜囚になるという前代未聞の出来事があり、さらにローマ帝国は一時3つに分裂します。銀貨は銀メッキの銅貨になり、スタグフレーションが進行します。もうローマはボロボロです。皇帝アウレリアヌスによって帝国は再統合されますが、彼はあっさり謀殺されてしまいます。なんというか、まるで皇帝の使い捨てです。一年で総理の座から次々逃げる、が笑えません。
284年にディオクレティアヌスが即位します。彼はそこから21年間の統治ですからやっと“皇帝使い捨て”が終わったと言えますが……そこでいよいよ“真打ち”登場。キリスト教です。同じ一神教のユダヤ教が「放っておいてくれ」と孤立を貫こうとするのに対し、キリスト教はローマ帝国を乗っ取る動きを見せ始めます。さてそこからどうなるか、は次巻のお楽しみ。
安馬関が大関になったのはめでたいことですが、同時に改名した必要性が私には納得できません。もし強くなるために改名したのだとしたら、体調や星の巡りや相手によって毎日でも改名しなきゃいけないと思うのです。だけど、強くなる(強さを維持する)ために必要なのは、改名よりも稽古では?
【ただいま読書中】
『マンハッタンの怪人』フレデリック・フォーサイス 著、 篠原慎 訳、 角川書店、2000年、1500円(税別)
『オペラ座の怪人』で重要な役割を果たしたマダム・ジリーの臨終の場からお話は始まります。オペラ座での怪事件の後姿を消した怪人は、マダム・ジリーの手助けによってニューヨークに逃げていました。その告白をしてマダム・ジリーは逝きます。そして舞台の幕が上がります(私の脳裡に響くのは、ミュージカル「オペラ座の怪人」のテーマですが)。
ニューヨークで“怪人”は、社会の最底辺から大金持ちにのし上がっていました。拝金主義のダリウスを手下にして(ダリウスはダリウスで、怪人を操っているつもりです)、巨大な摩天楼(それも自社ビル)のてっぺんに鎮座まします存在になっていたのです。彼が次に行なったのは、新しいオペラハウスの建設。そこに招くのは、これまで大西洋を渡ったことがない史上最高のプリマドンナ、クリスティーヌ・ド・シャニー子爵夫人。こけら落としに演じられるのは、匿名の作曲家による新作。
いや、もう、たまりません。『オペラ座の怪人』の本やミュージカルの各シーンがつぎつぎ蘇ってきます。アンドリュー・ロイド=ウェーバーの音楽が鳴り響き続けます。
そして、マダム・ジリーがニューヨークに送った手紙に書かれた、驚愕の真実。いや、そんなのあり? 『オペラ座の怪人』をそう解釈する手があったか、と私は思わず本を閉じてしまいます。
20世紀初めのニューヨークに集うクリスティーヌと怪人。ホテルに届けられたオルゴールを仕込んだサルの人形。それが奏でるあの曲「マスカレード」。そこから物語は一挙に悲劇の終幕へ行くのか……と思ったら、幕間のように神父と神の対話がはさまれます。この「神」は神父の脳内の存在なのかもしれませんが、なんとも皮肉な会話で、本書が原作や映画やミュージカルとはまた違った(一ひねりも二ひねりもした)“続編”であることを示しています。
クリスティーヌへの愛を持ち続けていた怪人は、それを拒絶されると、こんどはクリスティーヌの一人息子ピエールを標的にします。さらに別の意味でピエールを標的にしている人物もいました。
実在の人物がつぎつぎ登場し(読んでいてにやりとする部分がいくつもあります。著者は遊んでいます)、鏡の迷路のように見る人によって違う姿で表現されていた“真実のかけら”が最後に組み合わされ、そして……
「事実」を散りばめることによって「この話は実話かもしれない」と読者に思わせる手法は、原作でガストン・ルルーが行い(そして失敗し)ました。本書では、同じ手法を用いていますが、舞台をパリからニューヨークに移し、さらに語りのテクニックをもっと洗練されたものにすることで、成功しています。『オペラ座の怪人』が好きな人は、読むべし。
フランスワイン・イタリアワイン・スペインワイン……なぜ全部英語で「ワイン」と言うのでしょう?
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『プルターク英雄伝(一)』プルータルコス 著、 河野與一 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1952年(62年10刷)、★★
昭和20年代の初版で「ギリシャ人には苗字がなくて個人の名だけを呼んだ。混同を避けるには父の名を添へて誰の息子誰と云つた」といった文体で書かれています。時代を感じます。まあ、もともと古代のことを扱った本ですから、文体も古い方が雰囲気は出ますが、読むのはちょっとホネだな、と感じます。
本書では、ギリシア人一人とローマ人一人の伝記を述べたあとその対比を論じる、という形式で22組の対比(プラスα)を行なった大著です。この文庫本は12分冊のシリーズで、本書では、テーセウス・ロームルス・リュクールゴス・ヌマが扱われています。最初の二人しかわからないなあ。
読んでみると語り口がなんとも軽妙です。これは原文がそうなっているのか、それとも訳文の手柄か。すらすらと読めます。ヘーラクレースの向こうを張ってテーセウスが各地で力比べの後、アテーナイに乗り込み、ミーノータウロスと白い帆と黒い帆のお話となり……
ロームルスの話は、「ローメー(ローマのギリシア名)」から始まります。それは女性名でその人はどこから来たかというと……ということで様々な伝説が紹介されます。ロームルスとレムス兄弟が狼の乳などで育てられ、長じては新しい町を作り…… 『ローマ人の物語』の前半で重要事項として扱われていた「パトロー」(庇護者)と「クリエーンス」(大衆、依附者)についてもここで結構ページを取って説明がしてあります。ローマ人にとってもこれは重要な概念だったことは間違いありません(プルタルコスはギリシア出身ですが「ローマ人」であることは間違いありませんから)。
そして「ロームルスとテーセウスとの比較」。ここでは、「国家の礎」を築いた2人が、まったく別の方法(「どちらも正道から外れた」とプルタルコスは評します)を選択したことが述べられ、そこから「支配者論」が展開されます。支配者はまず支配権を保たねばならないが、それは、不当なことを差し控えるか正当なことを守るかしかない。しかしどちらも控えすぎか行き過ぎとなり、結局民衆の心に憎悪か軽蔑を植えつけてしまう、のだそうです
さらに「さて不運といふものは、全部を~の仕業としてはいけないもので」と著者は説きます。この人、本当に古代人ですか? 当時のローマ(あるいはギリシア)がそんな風潮だったのか、それともプルタルコスが“突出”していたのか……
「古代」ローマと言いますが、彼らにとっては「現代」で、そこから「昔」を振り返って「現在の自分」を考えようとしているわけで、私たちが織田信長・豊臣秀吉・徳川家康を比較したり幕末期の人物伝を喜んで読むのと、基本的態度としては共通したものが多いのかもしれません。
後半のリュクールゴスとヌマについては、予備知識が皆無なので流し読みです。もったいないけれどしかたありません。このシリーズには「アレクサンドロス/カエサル」の巻があるそうなので、それは読んでみたいと思っています。
ネットの書き込みなど(特に掲示板)で連続して間違いを指摘されたらそのことを逆恨みして、相手の間違いを指摘することで意趣返しをしようとする人がいます。「ほら、間違っているじゃないか。そんな間違いを犯す奴が、えらそうに俺の書いたものを間違っている、だなんてちゃんちゃらおかしい」と。「一つの間違いの指摘」で「その人の全発言・全人格の否定」までもくろんでいます。さらに「そんなやつの指摘が正しいわけはないんだから、それに間違いだと言われた自分の発言は間違っていなかった」とも主張したいようです。相手の信用度を下げる=自分の信用度が上がる、です。
だけど「間違いが目立つ」には、実は二つの状況があります。一つは普通の日本語「間違いだらけ」。だけどもう一つ「あまりに間違いが少なすぎて、たまに間違えたらそれが目立つ」という状況。で、上記の場合には「間違いが多すぎる奴(つまりは1勝99敗)」が「たまに間違える奴(99勝1敗)」の「1敗」を指摘して喜んでいるわけ。自分の「99敗」を、なぜ恥じないのかなあ。
【ただいま読書中】
『弟の戦争』ロバート・ウェストール 著、 原田勝 訳、 徳間書店、1995年、1165円(税別)
原題は“Gulf”です。
突然何かに強烈に惹きつけられる性癖を持った弟アンドリュー(兄のトムがつけたあだ名はフィギス)。州選抜のラグビー選手で開発業者の父親と州会議員の母親とで幸せなイギリスの家族。フィギスは何でも知りたがり(と言っても、彼なりの基準があって選択しているのでしょうが、その基準が周りの人間にはわかりません)、写真を見ただけで会ったこともない人の名前を当てたりします。
フィギスが12歳になった年、イラク軍がクェート侵攻を行います。フィギスはときどき“別人”になるようになります。はじめは寝ぼけている時に、やがて毎晩夢を見ている時に。フィギスがなっているのはラティーフという名前の少年。すんでいるのはティクリート。
多国籍軍によるイラクへの空爆が始まった夜、フィギスは砲弾ショックのような症状を起こし、アラビア語でしゃべりながら奇妙な行動をするようになります。アラビア語が話せる精神科医(元イラクの軍医)がフィギス(ラティーフ)から聞き出した内容は、サウジ国境に近い最前線の塹壕で暮らしている少年兵の話でした。
それまでトムにとっての湾岸戦争は「アホなサダムをこらしめろ」「イラクを徹底的にやっつけろ」でした。ところが前線の向こう側に弟がいるのです。ラティーフの心は強くフィギスを離してくれません。TVの中の「きれいな戦争」とは違って、トムはフィギス(ラティーフ)と同じ部屋の中で空襲を“体験”します。そして地上戦が始まり、ラティーフは殺されます。殺されたのはもちろんラティーフだけではありませんが、そのことが報道されることはありませんでした。
戦争は終わり、人びとは過去を忘れることに一生懸命になります。だけどトムは、「ぼくらの回りの深く切れ込む湾」を見ます。人と人の間の深い溝を。フィギスはその溝に橋を架けようとした子どもでした。
どんどん成長していくトムとともに、「アラブのホモ」とイギリス人に呼ばれる精神科医ラシードが魅力的です。人種差別をされること(祖先からずっと差別され続けていること)への怒りを持っていても、その怒りに負けることはない人格は、安易に差別をして喜んでいる人間よりもはるかに上であるように見えます。
29日(土)内定取り消しのお喜び/『マスカレード』
この前内定式をあちこちでやった、とニュースで報じたばかりなのに、今は内定取り消しの嵐が吹き荒れているそうです。厚労省は「取り消したらいけないんだよぉ」と言うばかりで実効のある行動をとる気はないようですが、ニュース画面でどこの会社が出したものかは伏せられて「内定取り消し通知」の一部が写されていましたが、見てあきれました。上の方に「……お喜び申し上げます。」とあったのです。もちろんそれはあいさつ文の決まり文句でしょうが「あなたの内定を取り消す」通知が「お喜び申し上げます」で始まるって、ブラックジョークですか? そんなところに礼儀正しくするよりも、もっと別の所にエネルギーを使った方が良いんじゃないかしら。
【ただいま読書中】
『マスカレード』ゲイル・リンズ 著、 松下祥子 訳、 早川書房、1997年、2600円(税別)
記憶を失ったCIAの工作員リズ(エリザベス)・サンズボローは、自分が肉食獣(カーニヴォア)と呼ばれる国際的暗殺者の標的になっていることを知らされます。恋人のゴードンの付き添いのもと、CIAの新人教育キャンプに逃げ込んだリズは、そこで自分のファイルを閲覧し、ゴードンの言うことが真実ではないことを知ります。
キャンプの人事部長アッシャーもリズについて不可解なことを知ります。彼が見たファイルではリズはカーニヴォアの恋人となっています。ではここにいるリズは誰? CIAは何を企んでいる? いろいろあって閑職で干されているアッシャーの好奇心が発動します。
ワシントンでは別の陰謀が進行中です。イラン=コントラ事件などで不正を働き私利をむさぼっていたCIAの高官にとって、カーニヴォアが「引退してこれまでの様々な事件の秘密を提供するから、安全を保証しろ」と要求してきたことで、自分たちがしてきた不正(政府の資金の不正流用や横領、殺人などの非合法的活動)が暴かれることになってしまうのです。当然彼らはそれを“予防”しなければなりません。ところがそれが偶然ジャーナリストのレスリーに知られることになります。
いやあ、はらはらどきどきの展開です。決して暴力のプロではない女性たちがあちこちで危地に陥ります。アメリカでもパリでも「うわあ」というところでさっさと章が切り替えられます。最初にこの作品の原稿を送られた出版社が「こんな(スケールの大きな)作品を女性が書くはずがない」と採用を見合わせたというエピソードがあるそうですが、いやいや、たしかにこれはスケールは大きいけれど明らかに男性の手になる作品ではありませんし(細部の目の付け所が“違う”感じです)、そもそも書いたのが女だろうと男だろうと子どもだろうとかまいません。面白いんだもの。
さて、表で繰り広げられる“活劇”とは別の陰謀が(それもダブルで)ひっそりと進行中であることも読者には示されています。それがリズ(もとい、別人)とアッシャーの動きと絡み合った時、パリに集まった関係者は……007での「悪人による世界征服」とはちがった、ちょっとゾクリと恐怖を感じる(しかも“現実的な”)陰謀があり、それも本書にリアルさとドライブ感を与えています。「敵のプロが撃つ弾はなかなかヒーロー/ヒロインには当たらないけれど、“こちら”が撃つのはばしばし当たる」といった都合の良い展開は、まあ“お約束”ということでさらっと流しましょう。
たまたま先日『ニューヨークの怪人』を読んで「マスカレード」という単語に敏感になっていたために本書を手に取りましたが、正解でした。面白い国際スパイ小説でっせ。
雑誌や新聞の記事、あるいは学校から配られる文書などに、「朝食を食べる子どもは成績がよい」とよく載っています。直感的にはその記述は“真”だろうと感じます。
ならば「うちの子どもの成績が悪いのは、朝食抜きだったからだ。だったらたっぷり朝食を摂れば成績は急上昇するにちがいない」と単純に言えるでしょうか? 直感的に私はその思惑は外れるだろうと感じます。
「朝食」と「成績」に相関関係は確かにあるでしょう。しかしそれは「相関関係」であって「因果関係」ではないはずです。もし因果関係が強固にあるのだったら、学生は勉強よりも朝食を食べることに夢中になれば誰でも試験は満点・志望校には絶対合格、となるはずですが、そんな都合の良いことが本当に起きると信じられます?
「勉強は、深夜よりは午前中に行う方が人体生理学的に効率的で、だから朝食で血糖値を上げておけば、糖と酸素を大量に消費する脳が活動しやすく午前中の勉強がはかどる」とか「朝食をきちんと食べることができるのは、自分の生活をきちんと管理できている証拠で、生活が管理できるのは勉強計画も管理できる人間だから、結果として成績も良くなる」だったら、私は深く頷けるのですが。(あ、午前中の勉強の方が効率的、というのは、今適当に思いついただけで、人体生理学的に本当によいかどうかは保証しません。個人的には深夜の勉強は非効率的、と体験的に感じてはいますが)
ちなみに私は「朝食は食べる派」です。高校時代、遅刻しそうになって朝食抜きで登校したことが1度ありますが、午前中全然使い物にならなくて帰宅後「明日から、もし遅刻をするとしても、朝食は食べて行く」と母親に宣言をしましたっけ。もっとも実際には、それからはちゃんと早起きをしたので、「遅刻するかそれとも朝食を食べるか」で悩む状況になったことはありませんが。で、成績? なはははは。
【ただいま読書(鑑賞)中】
『ジェームズ・ボンド公式DVDコレクション(1)ゴールドフィンガー』アジェット・コレクションズ・ジャパン、2008年、752円(税別)
デジタル・リマスター・バージョンのDVDと解説本がセットになったシリーズです(全22巻。4週ごとに発売)。こういったシリーズの定番で、第一巻は特別価格で安くなっていますが、第二巻からは正規価格で1990円(税込み)となります。DVDだけ欲しければ1500円くらいで買えるからこのシリーズに手を出す必要は特にありません。
私が初めて007を観たのは、中学の時、「サンダーボール作戦」と「ロシアより愛をこめて」の二本立てでした。ショーン・コネリー演じる007のかっこよさに、単純にしびれましたっけ。「ゴールドフィンガー」はそれからしばらく経って観たはず。金粉を全身に塗られて“窒息死”している美女の姿に幼いエロス感覚をびんびん刺激されました。(と同時に、皮膚呼吸を阻害されたら死ぬ、というヨタをしばらく信じ込んでしまいました。もしそれが本当なら「海女」という職業が成立しませんよね)
アメリカの金が貯蔵されているフォートノックスを毒ガスや原爆で粗っぽく襲撃しようとするゴールドフィンガーの陰謀をどうやって阻止するのか、はらはらどきどきの連続で、実は今観てもけっこう楽しめます。007の原型が確立した作品だからなんでしょう。
私にとっての007は、他の俳優も悪くはありませんが、やっぱり今でもショーン・コネリーです。とりあえずパソコンで観てしまいましたが、大画面TVと良いサウンドシステムが欲しくなってしまいました。物欲が刺激されるのは、困るなあ。