08年12月
1日(月)電電公社/『ローマ人の物語XIII 最後の努力』
なんだかNTTからやたらと営業の電話がかかってくるのですが、経営が苦しいのかな? いまさらNTTと親しくなりたいとは思いません(というか、そろそろIP電話にしてNTTと完全に縁を切りたいと思っています)が、愛想はずいぶん良くなりましたね。感心します。
昔(家庭用の電話が黒電話の時代)、親にくっついて電電公社に行った時には、窓口での対応がずいぶんぶっきらぼうなのに、子供心に驚きました。同時に窓口に並んでいる人びとがそれに対して卑屈に応対しているのにも。そういや、あのころは、警察でも市役所でも、窓口の対応は“あんなもの”でしたねえ。“お役所”はエラかった。三公社五現業は公務員ではなかったはずですが、それでも電電公社はエラかった。
時代は確実に変わりましたが、良い方向に変わっているのかな?
【ただいま読書中】
「三世紀の危機」は、軍人上がりの皇帝ディオクレティアヌスによってとりあえず終息します。彼は即位後もローマに帰らず戦場に滞在し続け、ついで友人をもう一人の皇帝に即位させます。「二頭政」です。二人はローマの東西に別れてローマに侵入し続ける蛮族と闘い続けます。さらにディオクレティアヌスは副帝二人を正帝二人の下につけ「四頭政」を敷きます。ただしこれは「ローマ帝国の4分割統治」ではありません。統治するのはあくまでディオクレティアヌスで、4人の最高司令官がそれぞれの「持ち場」で防衛責任を持つ、というシステムです。平和が再来します。しかしその代償は「コスト」でした。兵数は倍増します。さらに、それまでの重装歩兵にかわって騎兵が主戦力となります。また4地区に張り付いた「皇帝たち」のための首都が新たに作られ、その管理のために官僚システムも肥大化します。首都ローマの地位は低下します。
皇帝は変質します。それまでの皇帝は、元老院とローマ市民によって権力を委任された存在でした。それが、絶対君主制になったのです。ただ、権力の「絶対性」を保証するのは「実力」AND/OR「正統性」です。最近では正統性は、血統または神によって保証されますが、古代ローマでも事情は似ています。ところがディオクレティアヌスには血統はないからあとは神。ところが古代ローマの神々を真っ向から否定する勢力があります。一神教のキリスト教徒です。そこで、外患をとりあえず始末したディオクレティアヌスは、その治世末期にキリスト教の弾圧を始めます。
ディオクレティアヌスの引退後、「皇帝」は一時6人になり、内戦となります。最終的な勝利者コンスタンティヌスによって「ミラノの勅令」(313年)が発せられ、キリスト教への迫害は終わります。それまでのローマは、敗者の信仰の自由は認めていました。それどころか、彼らの神もローマの神々に加えて、信仰の自由とローマへの忠誠とを両立させていました。ところがキリスト教徒はローマへの忠誠を拒絶します。ミラノ勅令は「信仰の自由」を「ローマへの忠誠」から切り離すことによって、それまでの多民族・多宗教国家としてのローマ的「信仰の自由」を終了させたのでした。さらにコンスタンティヌスは、没収した教会の財産の返還・皇帝からの寄進・キリスト教聖職者の公務免除など、教会の財政基盤を固め、キリスト教の国教化への道を舗装します。さらに、分裂しかけていた教会を議長としてニケーア公会議で「三位一体」説でまとめます。
本書で語られるのは、具体的なローマの衰亡です。兵士の質は下がり、戦争は下手になり、彫刻も下手になっています。195〜196ページに1〜4世紀の浮き彫りが1世紀分ずつ並べられていますが、コンスタンティヌスの凱旋門のものは、それ以前のものに比べて稚拙としか言いようがありません。
さらにコンスタンティヌスは、帝都をビザンティウムに移します。元老院も骨抜きされ、ただの名誉職となります。
かくして、ローマはローマでなくなります。ローマ的特質を失ったローマはもう「ローマ」ではないのです。なぜキリスト教徒ではないコンスタンティヌスがあそこまでキリスト教に肩入れをしたのか。著者は、専制君主制は一神教と“相性”が良く、さらにコンスタンティヌスが自己の「正統性」をキリスト教に求めたのではないか(「皇帝の支配権は、神に保証されている」)、と述べます。あり得ることです。
ともかくローマは“生き延び”ました。本当だったら3世紀に滅亡していたかもしれないのに。その代償は、コンスタンティヌスの肩入れがなかったら内紛を繰り返してローカルな宗教として滅びていたかもしれないキリスト教の隆盛でした。
今の首相がやっているのはバーでのオヤジの放言レベルの連続ですが、「チンピラの言い掛かりのような話」とか「『またか』という感じ」というのは中学生の口げんかレベルですね。
政治家の質が低下しているのか、政治のレベルが低下しているのか、それとも日本語が崩壊しているのかな。
【ただいま読書中】
西洋では19世紀後半、日本では20世紀になって「大量生産・大量消費の時代」となりました。それは同時に「生産者と消費者の分離」と「情報・交渉力の格差」を生みます。そこでたとえば表示に関しては法的な規制が行われました。日本では食品の表示に関しては「JAS法(農水省)」「食品衛生法(厚労省)」「不当景品及び不当表示防止法(公正取引委員会)」「不当競争防止法(経済産業省)」があります。国際的には、WTOで、非関税障壁を規制するTBT協定において「各国の強制規格は国際規格を基礎として用いる」ことが定められています。
2001年、雪印食品の食肉表示偽装以外に食肉・食肉加工品のJAS法違反は21件でした。著者は「性善説に立った食品表示に対する行政対応」と述べますが、法律適用を「性善説」で行うと言えば聞こえは良いけれど、要するに自分の仕事に手抜きをするための言い訳ではないのか、という疑いを持たれても仕方ないでしょう。実際、2002年(JAS法違反で改善命令が121件出た年)にJAS法は改正されて罰則の強化が行われ、事業者名の公表基準が発表されています(それまでは発表する法的根拠がなかったということです)。
2007年のミートホープ事件(牛ミンチ偽装)では、この会社が卸売りだったためJAS法違反に問えませんでした。国や北海道の保健所・警察に情報が寄せられていても誰も動かず、マスコミが報じてから事態が動き出したのも印象的でした。
全数検査は不可能です。ならば、情報提供(特に内部告発)をいかに上手く活用するか、が鍵になりそうです。
さらに再犯防止も必要です。いくら摘発しても同じ人間が会社を変えるだけで同じ産地で同じ偽装を繰り返しています。結局、産地と流通業者との“ルート”が確立しているからそれを何回でも使用するわけ。となると、単に“モグラたたき”をするだけでは解決は難しそうです。
ウナギの年間消費量は10万トン以上。しかし国産の生産量は2万トン。本書で紹介されるウナギの偽装手法は、まあ“見事”なものです。人間、知恵を絞ればいろんなことができるんですね。偽装の手法は“確立”してしまっているようです。
細かいところに良いことは書いてあります。たとえば「食品の命を奪う現場から消費者が遠ざかってしまったことで、食品の供給プロセスが見えにくくなってしまったのではないか」とか「選択肢が多すぎると消費者はかえって不満が多くなる」とか。しかし、やはり農水省の“内部”の人間、農水省が作る「決まり」の効果を信じすぎているきらいがあります。
「決まりがある」「決まりが守られている」(「守らなければならない」と言えば全員が守る、という社会でしたっけ?)「決まりが守られていることが消費者に公示されている」これらは“直結”してはいません。「役所が決まりを作れば、それで世は静まる」なんて楽なことを期待してはいけないのです。といって、安易な厳罰主義は秘密結社を生むだけでしょう。
とりあえず私が思いつくのは、内部告発の活用(実利だけではなくて社会的に褒め称える)・悪いリンゴは樽からつまみ出す(会社は潰す)・再犯防止のために“重犯の前科者”には監視をつける・「誤り」と「偽り」をできるだけ区別する(産地などを偽装された原料を仕入れて最終製品を作った業者まで「偽装」と呼ぶのはちょっと違うと思います)、くらいかな。さて、これで上手くいくかしら?
この2〜3日、風邪気味で体が重たく感じていました。やっと今日から地球の重力が1.3から1.1Gあたりに戻ったような気分です。
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『双生児』クリストファー・プリースト 著、 古沢嘉通 訳、 早川書房、2007年、2500円(税別)
1941年5月10日、700機近いドイツ空軍によってロンドンが爆撃された夜に誕生したスチュワート・グラットンは、成長して優れたノンフィクションを書くことで世界に名を知られます。1999年に彼が取材しているのは、チャーチルが言及した爆撃機パイロットのソウヤー。彼は良心的兵役拒否者でもあったというのですが、そんなことが可能なのでしょうか。
同時に記される「歴史」は、奇妙です。ゲッペルスは1972年まで公職についています。最初のジェット戦闘機Me-163は1941年に実用化されロシア戦線で幅広く使用され終戦は1943年。ルドルフ・ヘスは英独講和を成功させます。……これは一体どこの世界の話なのでしょうか? 最初から読者は、プリーストの語り(騙り)に巻き込まれてしまいます。
一卵性双生児の、ジェイコブ・ルーカス・ソウヤー(ジャック)とジョウゼフ・レナード・ソウヤー(ジョー)は、1936年にボート(舵なしペア)のイギリス代表となりベルリンオリンピックに参加します。二人は銅メダルを獲得し、メダルをヘスから授与されます。
「二人のJLソウヤー」だから、双生児が二人で一役あるいは二役を入れ替わりながら行うのか、と思いますが、手練れの著者がそんな単純なことを書くために邦訳で500ページもの本を必要とするわけがありません。そもそも最初に示された「今とは違う世界」は一体何なのか。双生児はそこにどう絡んでいくのか、読者は油断をせずに読む必要があります。
二人のJLはベルリンでビルギットという女性と出会いますが、彼女はユダヤ人でした。ジャックは彼女に惹かれます。ジョーは彼女をロンドンに脱出させ、結婚し、良心的兵役拒否を認められて赤十字で仕事中にロンドン爆撃で死にます。空軍に志願したジャックは撃墜され抜擢されてチャーチルの副官になります。しかしそれはチャーチルの替え玉でした。
次の章ではまた別の“現実”が物語られます。それは「視点の違い」だけではなくて「事実」そのものが違っています。こちらの歴史でも、ナチズムの破壊よりも共産主義の破壊が優先され、独英講和が想起に結ばれ、アメリカは日本に先制攻撃・中国も占領してシベリアに出兵します。世界は長期の戦争で疲弊し、ドイツだけが(ヨーロッパの非ナチス化プログラムの助けで)一頭地を抜く存在となります。ソ連は東西から攻められて解体、アメリカは資本家の私兵と極右の武装組織に支配された不安定な独裁主義共和国家(末期の清?)になっています。ここで“鍵”になるのは、空襲で(死ぬかわりに)脳震盪を起こしのちにチャーチルの決定に重大な影響を与えたJL(ジョー)なのです。こちらではジャックは撃墜されて死んでいます。
さらにこの二人のJLに、最初に登場したスチュワート・グラットンがからんできます。話がどんどんややこしくなります。歴史改変ものは、「読者が生きている世界」と「本の中の、どこかで分岐して異なった道を歩んだ世界」とが読者の中でオーバーラップされて不思議な効果を醸し出します。ところが本書では、それを本の中でやってくれるのです。このややこしさは、実際に読んでもらうしかありません(あまり書くとネタバレになっちゃいますし)。
カバーが印象的です。表と裏と、一見左右対称の絵(田園の田舎道を走る一台のオートバイ)ですが、季節と天気が違い、そして裏にはお墓とオートバイの行く手に道の分岐が描かれているのです。これが「改変された歴史の分岐点」を意味することは明かです。そして空には、爆撃機の群れが。私の中で本書は、ウェストールの作品群ともゆるやかに重なり始めます。読書の幸福感がわき上がります。
NHKの大河ドラマ「篤姫」が人気だそうです。私も幕末を江戸の側から(だけではなくて、維新側からも)見るこのドラマの視点設定が好きですが、TVのインタビューでいろんな人によって語られていた「篤姫の強さに感動した」なんてことばには、驚きました。だって、篤姫はちっとも強い生き方をしていません(そもそも、「強い人」が「強く生きる」のは、ドラマでも何でもありません。当たり前のことですが)。「強くない人(弱い人、普通の人)」が、克己して生きるからドラマになる、と私には思えるのです。どうしても「強」という文字を使いたければ、「篤姫は強くあろうと生きた」かな。
ともかく、篤姫がどう成長し誰に影響を受けなぜどうやって“覚悟”を決めたのか、それがこんどは回りにどんな影響を与えたか、それを描くから人間ドラマだと私は感じています。単に「立場が人を成長させた」だけじゃないですよね。
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「スパイの年」と呼ばれた1985年からソ連崩壊までを、CIAとKGBの現場のスパイたちの目を通して描いた本です。著者の一人はCIA、もう一人はジャーナリストですが、本書の特徴は、CIA・KGB・英国情報部など、現場のスパイたち多数にインタビューしたことを基礎としていることです。
「スパイ」と一言で言いますが、実体はなかなか複雑です。突然大使館にやってきて「スパイになりたい」という人は、アメリカにもソ連にも存在していて、その中には本物(様々な理由で母国を裏切る人)もあれば、偽物(本当は情報部員で、敵国のために働くと見せかけて偽情報を流したり逆に敵の情報を取ろうとする人)もいます。さらに、CIAの中にはKBGや他の国(本書ではガーナが紹介されます)のスパイ(もぐら)が活動しており、KGBの中にはCIAやイギリスのスパイがいます。
となると「向こうからやってきた本物のスパイ」がもたらす“利益”は、「敵国の機密情報をもたらす」ことだけではなくて「自分たちの中のもぐらの存在を知らせてくれる」ことにあります。たとえピンポイントで「もぐらは誰か」がわからなくても、たとえばKGBの中にCIAの特定の情報があることがわかれば、それがどこからそれが漏れたか見当をつけることができるのです。
CIAは失態を続けていました。ソ連のスパイ志願者はすべてKGBの息がかかっているおとりで、それを通して、あるいは自分の陣営内のもぐらを通して、自分たちの情報がソ連にだだ漏れになるのではないか、と“被害妄想”にかられ、本当に貴重な情報をもたらすソ連人まで冷遇していたのです。わざわざ米国に亡命してきたKGBの大佐でさえ、その状況に絶望してソ連に逆亡命する始末。もっともその被害妄想には根拠がありました。実際にCIAの極秘情報がKGBに漏れていたのです。CIAは罠を仕掛けることにします(著者の一人がそれを担当します)。
もっとも“被害妄想”はソ連の側にもありました。アフガニスタンが親アメリカの政権になるのではないか、と恐れていたのです。それはすなわちソ連の横腹にアメリカの基地が設けられることを意味します。そのためソ連はアフガニスタンに侵攻。対抗してアメリカはパキスタンと協調路線を選択します(イラン革命が事態をややこしくします)。そして戦局に重大な影響を与える兵器、スティンガー(個人が運用できる地対空ミサイル)が投入されます。
非常に興味深い話も紹介されます。当時CIAとKGBの間に“ホットライン”が設置されていたというのです。現実的なスパイ同士の話ですから、話題はお互いが理解できる現実的なものに限定されていましたが、それを知った政治家が政治的な思惑でそれを利用しようとしたため、結局その直通電話は使われなくなってしまったそうです。スパイというのは“難儀な商売”です。
7日(日)二大政党/『ザ・メイン・エネミー(下)』
一部マスコミと民主党は「日本にも二大政党制を」と盛んに主張していますが、単に選挙で民主党(あるいは別の政党)が自民党に変わって最大多数会派になるだけでは、政治は変わりませんよね。政策を実現するための官僚をどうにかしなければなりません。
たとえばアメリカでは、政権が変われば上級官僚はほぼ総取っ替えになります。そして、そこでどんな人材をどこに配置するか、を見るだけで、大統領がどんな政策を推進するつもりなのかもわかります。日本だとそこまでの“人材の厚み”がありましたっけ。ひどい場合には、新しい大臣が「なにもわからないので今から勉強します」なんて平気でほざくのですが。
同じく二大政党制のイギリスではまた違ったやり方なのかもしれませんが、アメリカとイギリスでは政治の歴史も国民の政治に関する意識も選挙のあり方も全然違うのですから、むしろ政権交代時のやり方が違う方が当たり前でしょう。では日本の「二大政党制」は、一体どんな歴史の上に、どんな目標を目指していくのかについてきちんと論じられ、具体的にどうやって政権交代と政策実現をしていくのか現実的な手順や手法も検討されていましたっけ? そういった「地に足がついた」認識と議論抜きで、ただ形式的に「(国会で)政権が交代すれば良いんだ」式の話をやっている限り、日本には絶対二大政党制の時代は来ない、と私は予言しておきます。
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ゴルバチョフはついにアフガニスタンからソ連軍を撤退させることを決定します。その後に残されたのは、傀儡政府と各地に群雄割拠した軍閥の群れ、それも、各国からの軍事援助で“完全武装”した状態のものでした。さらに、反ソ連のアラブ“義勇兵”を統括していたオサマ・ビン・ラディンも10年後の火種として帰国していきます。
ソ連の“弱腰”の影響が、東欧に出ます。各国が露骨にソ連からアメリカ向けに方針を変更し始めたのです。東欧の情報部は書類の廃棄を始めます。「反体制派」に何をしていたかの記録は、体制が変わった時には自分の首を絞める証拠になるからです。その頃東ベルリンでは、ちょっと複雑は事情によってリクルートできた東側のエージェントによって、東ドイツの秘密情報部の名簿がCIAにもたらされます。これは後に、鉄のカーテンやベルリンの壁が崩壊した後になって、役に立ちます。
時代はどんどん動き始め、政治家も情報部員もそれについていくことができません。しかし、この「ベルリンの壁崩壊」の時期に、CIAのライバルがKGBではなくてCNNとなった、というのは実に「その時代」を象徴しています。
ガヴリロフ・チャネル(CIAとKGBの間のホットライン)がまた使われるようになります。まだ「敵」同士ですから、腹の探り合いと欺瞞が散りばめられていますが、それでも時代の変化により米ソの情報部は直接対話によってお互いに“協力”しなければならなくなっています。しかしこんどは“敵”は内部に生じます。それまでの冷戦構造から思想を脱することができない人たちが“保守派”として、モスクワでもワシントンでも活動をするのです。
モスクワでの保守派のクーデター(の失敗)、アメリカのアフガニスタンへの軍事介入、9・11……時代は動き、冷戦下でのCIAとKGBの敵対を「歴史」にしていきます。私自身、冷戦時代の“恐怖”をまだ覚えていますから、生きてこんな本が読める時代になるとは、と感慨を覚えます。
そうそう、本書には「20世紀はアメリカの世紀と言われるが、実はドイツの世紀ではなかったのか」という意味の文章があります。アメリカが“ヒーロー”だとしたらドイツは“アンチヒーロー”という意味なのでしょう。すると、その“敵役”として「20世紀はソ連の世紀だった」という文言も成立しそうですね。
人間のために動物実験をするのは、医学の態度です。しかし「生命の秘密」を探求するために、動物実験を行い、人でさえその動物の一種として扱うのは、科学です。やっていることは似ていますが、目的は全然違うのです。
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今では「血液が全身を循環していて、心臓がポンプとして働いている」は“常識”ですが、それが常識になったのは17世紀のイギリスからでした。(日本にこの概念が入ってきたのは『解体新書』からですが、それがすぐに“常識”として定着したかどうかは、存じません)
古代ローマの医師ガレノスは、アリストテレスの四性説とヒポクラテスの四体液説を“合体”させました。哲学と医学の結婚です。彼が打ち立てた医学体系はあまりに立派なものだったため、16世紀まで西洋の医学を支配し続けます。(静脈と動脈はシステムとしてそれぞれ独立していて、血液は骨髄ではなくて肝臓で生産されて静脈を満たして行ったり来たりし、動脈は肺で生産された精気(プネウマ)を拍動とともに全身に届ける……のだそうです)
イブン・アン=ナフィース(13世紀、カイロの開業医)と16世紀のミシェル・セルヴェ(パリ大学)とレアルド・コロンボ(パドヴァ大学)によって唱えられた「肺循環説」を参考に、ハーヴィは重大な一歩を踏み出しました。それが「血液循環説」です。
心臓の一回の拍動での拍出量と脈拍数をかけると、大体1分間で人の心臓は全身の血液量に相当する血液を送り出しています。ハーヴィが採用した数字はそれよりは少ないものでしたが、数字の誤差は問題ではありません。「一日に何十回も何百回も、全身の血液を各組織が消費し、肝臓がその分を生産する」ことが非現実的であることは明らかです。それが明確にわかれば、ガレノスの医学は捨てなければなりません。唯一あり得るのは「血液が循環している」と仮定することです。ここに医学のパラダイムはシフトしました。それも、他人にも確認可能、という科学的手法を用いることで。
「血液循環論」は多くの人に受け入れられていきました(もちろん受け入れない人も多くいました。頭が固い、というのもあったかもしれませんが、もっと実利的な理由もあります。当時の治療手技の大きな柱「瀉血」は局所にたまった「悪い血」を体外に放血するのですから、血液が全身をぐるぐる回ってくれては困るのです)。大陸で早期に受け入れた人の代表がルネ・デカルトです。彼の『方法序説』には血液循環論が肯定的にしっかり書かれています。(私のmixi日記では、05年10月19日にこの本を取り上げています)
ジェームズ一世とその息子チャールズ一世の侍医をハーヴィは務めました。チャールズ一世の妻はカトリックで、議会の支配勢力プロテスタントとの対立が生まれます。議会派と王党派の対立から内乱が起きます。ハーヴィは当然王党派と目されます。ちなみにハーヴィ自身はプロテスタントなのですが。チャールズ一世の処刑で内乱は一応収まりましたが、ハーヴィは莫大な罰金を科せられ、膨大な研究資料や原稿も清教徒による家宅捜索のときに失われてしまいました。宗教も政治も、「個人を不幸にしてやる」と決心したらきわめて効率的にそれをやってくれるようです。このとき失われた病理解剖学の資料がもし出版されていたら、フーコーの『臨床医学の誕生』での「医学が病理解剖学によって変容したのは18世紀」が1世紀早められて記述されたかもしれません。
本書にあるように、彼の理論(現代科学の礎)と「彼」という生きた手本があるだけで、我々には十分なのかもしれませんが。
もしかして麻生さんは「ここでできるだけワルモノになっておけば、次の首相がその反動で高支持率となってやりやすくなる」なんてことを思っているのかな、なんてことまで考えてしまいました。あまりにやっていることが捨て鉢に見えるものですから。
……そこまでの計算ができる人なら、最初からこんな窮地には陥らないか。
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19世紀半ば、冬が近い北極海を探険する二隻の軍艦「エレバス」と「テラー」。初っぱなから描かれる、隊員たちを脅かす想像を絶する極寒と正体のしれぬ“怪物”……とくれば、私がまず想起するのは、フランケンシュタインの怪物です。さて、そんな予想が当たるのかどうか、しばらくは氷の海をさ迷うことにいたしましょう。
「サイレンス」と呼ばれるエスキモーの少女は、舌が切り取られています。「靴を食った男」もいます。二隻の軍艦(機帆船の砕氷船)は、10ヶ月は氷に閉じこめられ、“夏”の2ヶ月だけかろうじて大西洋から太平洋に抜ける北西航路を探して動くことができます。出発して二冬め、氷に閉じこめられた「テラー」になにものかが忍び寄ります。最初は氷にトンネルを穿って船腹を破ろうとし、ついで見張り員がつぎつぎ襲われます。攫われ殺され二人の半分ずつの死体を組み合わせて戻されて……ホッキョクグマより巨大で邪悪な知性を持つ白い肉食獣です。
「今」と「過去」の細かいカットバックが積み重ねられ、少しずつ「怪物」と探検隊の運命が明らかになってきます。さらに、突然現れたエスキモーの少女サイレンスはどこから来たのか・なぜ舌を根本から咬みちぎられているのか、伝説で語られる北極大陸や年中凍らない北極洋は実在するのか、さまざまな魅力的な謎が提示されますが、著者は悠々と話を進め、なかなか全貌が明らかになりません。そもそも探検隊自体が冬ごもりの最中で動いてくれないのですが。
本書には哀れな登場人物が多いのですが、特に哀れなのは隊長のサー・ジョンと私は感じました。これまでにも十分以上に不幸な人生を送ってきた人ですが、プライドはあるが能力がないという、順調な時はともかく困難な事態では最悪の指揮官で、おかげで探検隊は不必要な危険を抱え込むことになってしまいます。粗悪な製法で半分は腐っている缶詰や極寒や壊血病など、それでなくても十分事態は困難なのに。そしてその殺され方……まったくお気の毒としかいいようがありません。
1970年代はじめに読んだ『極限の民族』(本多勝一)を思い出しました。イヌイット(エスキモー)の生活がいかに氷上に特化して合理的にできているか、に驚きましたっけ(合理的にできていなければその民族は死滅しているはずですけれど)。本書でもそういった彼らの生活の一部が具体的に紹介されますが、読んでいるうちに北極の寒さがだんだんこちらの身にも浸みてきて、背骨がつららになってしまったような気がします。寒い寒い怖い怖い。
普段ものを欲しがらない次男が一大決心をした様子で「誕生日とクリスマスを合わせて、でぃーえすが欲しい」と言いました。珍しいな、と思いましたがとりあえず「何をしたいの?」と、私。もし「勉強をする」なんてことをほざいたらさっさと却下しようと思っていましたら「森の動物たち」。なるほど。そういや本人は最近漢字検定にも興味を持っているし、じいちゃんばあちゃん(2組)からも「何かプレゼントさせろ」という要望をこの時期には毎年言われるし、ゲーム二つ(森の動物たちと漢字検定のと)をじいちゃんばあちゃんにまかせてこちらが本体、で丸くおさまるな、ということで、ちょっと条件はつけましたがOKとしました(条件? 時間のことと「私にも使わせろ」です)。
で、改めて調べたら、いろんなタイプがあるんですね。本人が欲しいのはカメラ付きの最新版、DSi。
ところがネットで見ると、ものがなかなかありません。楽天などでは、定価で売っている店は品切ればかりで、ものがあるところは「仕入れの関係で定価ではありません」と少し高めの値段がついています。不思議に思ってオークションをのぞくと、あれまあ、前日に正規に買ったものを定価に2〜3000円上乗せした価格を即決価格にしてそのまま出品している人がぞろぞろと。これって明らかに転売目的ですよねえ。転売目的の人が買いあさるから、店頭からものが消えた、ということ?
翌日勤務の帰りに近所のヤマダ電機に行くと、2台だけ残っていました(当然定価)。ただし、次男の要望の色ではありません。その次の日からは2日連続で職場に缶詰なので家内に動いてもらうことに。なかなか見つからないので、ちょっと離れたところにあるトイザラスにダメモトで電話してみると「今日20台入荷しました。15台はもう売れましたが、今日中に来られるのならお取り置きをします」だったとのこと。はいはいお願いします。
ということで、無事定価で入手することができました。しかしいろいろ考えてしまいました。資本主義って、もしかして、不健全? それとも、日本の資本主義(の一部)が不健全に発育してしまったのかな。
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『フィガロの結婚』ボオマルシュエ 著、 辰野隆 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1952年(61年7刷)、★★
この前『セビリアの理髪師』(オペラはロッシーニ)を読んだのでその勢いで続編のこちら(オペラはモーツァルト)も読むことにしました。みごとに日に焼けた文庫本ですがあまり読まれていないのかな、手ズレがほとんどありません。本は読まれるために生まれたのですから、たまにはこうやって図書館の書庫から出してあげませんとね。
まずは、フィガロとシュザンヌが登場します(せりふに「」をつけます)。
フィガロは部屋のサイズを計測中で、シュザンヌは鏡の前です。
フィガロ「二十六歩に十九歩と」
シュザンヌ「ちよいとフィガロ、これが私の花かんざしだよ。斯ういふ風にすると引き立つだらう?」
フィガロ(シュザンヌの両手を把って)「無類だ、可愛い奴め。全くなあ! その清浄無垢な綺麗な花束が可愛い女の頭に挿されりやあ、それも?言の朝だ、相手の男のとろけさうな目から見れば佳いとも何とも……!」
シュザンヌ(退いて)「何の寸法を取つてるんだい、この人は?」
……いやあ、良いテンポですねえ。この1ページを読んだだけで、笑いの舞台に読者は連れ込まれてしまいます。
さて、祝言、じゃなくて?言をひかえているフィガロとシュザンヌですが、茶々が入ります。まずはアルマヴィヴァ伯爵。フィガロのおかげで結婚できたはずなのに、なんとシュザンヌに対して初夜権の行使を狙っています。また、館の調度係の老女マルスリイヌはフィガロとの結婚を望んでいます。そこにひょっこり現れた(前作でロジーヌとの結婚をフィガロと伯爵にまんまと邪魔されてしまった)医者バルトロはマルスリイヌから助力を頼まれます。伯爵の音楽教師バジルはマルスリイヌとの結婚を望んでいます。
さて、これで役者と条件は出そろったかな? もうちょっと細かいものもありますが、ともかくこれから観客の目の前で“陰謀”やかくれんぼが次々展開されます。魅力的な女性の所にはとにかく顔を出して言い寄っては事態を引っかき回すのは、小姓のシェリュバン(で、なぜか行く先行く先で伯爵とぶつかるのですが)。お殿様の勘気に触れて館から追放処分ですが、フィガロは彼を助けようともしています。
まず考えたのが、シュザンヌからの(偽装)言づてで伯爵をおびき出し、そこに待っているのは女装したシェリュバン。同時に伯爵夫人への嫉妬心もあおり、マルスリイヌの計略を退ける。フィガロの計略は複雑です。とても実行可能とは思えませんが、彼は気楽にそれに取りかかります。当然どたばたが起き、ついには伯爵夫人がシュザンヌの身代わりになることを決心します。マルスリイヌはフィガロとの婚姻履行の訴訟を申し立てます。
そこでもいろいろどたばたがあって、なんとか婚礼の夜。大きな栗の木の下であいびきです。暗闇で二人こっそりのはずが、どんどん人が集結してしまいます。このへんは一気に話が流れていって、もうこちらは笑いながらページをめくるしかありません。オペラファンだったらここでいろんなシーンが浮かんだりアリアが高らかに両耳の間に流れたりするのでしょうね。
この作品を、宗教の権威とか世俗政権とか階級とか当時の世相と重ねて庶民の台頭がどうのこうの、と考えることもできますが(実際に出版許可を巡っていろいろあったそうです)、私は単純に「フィガロは太郎冠者だ」と思いました。狂言でお殿様をひどい目に遭わせて「やるまいぞやるまいぞ」となる役回りです。頭を使っている、という点では一休さんでもいいですけど。
12日(金)言論の封殺/『ザ・テラー ──極北の恐怖(下)』
朝日新聞のニュースです。
で、記事の中に……
「草薙さんは「医師は『それはコピーしたら絶対にダメですね。要は、裁判所の人も、電車とかに置き忘れるんですよね。たまにね』と言ったが、置き忘れなどが問題だと指摘したのであって、コピーそのものを絶対的に否定しているわけではない」と反論。事件の狙いは「言論封殺」であり、委員会は法務省を問題とするべきだと主張している。その上で、論点が多い検討項目を約4カ月という短期間で委員会に議論させるのは無理があると、委員会を設置した講談社を批判した。」とあります。実際に講談社のサイトにも草薙さんの言い分が載っていてその通りのことが書いてありますが……この人、文章が下手ですね。事実と推定が峻別されず繰り返しが多く論点が整理されずくどい文章で、本当にこれでプロのライターなんだろうか。
で、その言い分が、守秘義務がある人が持っている裁判資料(これも守秘の対象)を、勝手にコピーして公表し、それを咎められたら「言論の封殺だ」「法務省が悪い」「講談社が悪い」です。
自分がやった行為が“正しい”と確信があるのなら、まずは堂々と「電車の中で忘れたりしませんから、コピーさせてください」と情報源に頼めば良いでしょう。でも、頼んだら断られるのはわかっていますよね。だからこっそりコピーしたわけ。でもそれは、書店などでの「デジタル窃盗」と同等の、情報の窃盗では? きちんと相手の許諾を取らない時点でこの話は終わっているでしょう。(もし暗黙の了解があったのだったら、それは守秘義務違反ですが)
「論点が多い」のは「不利な時には戦線拡大」の原則に則って、誰かが論点を増やしたのでしょうね。私から見たら、事態はシンプルです。「下手なライターが情報源を秘匿できなかった」、それだけ。上手なノンフィクションライターだったら、調書そのものを載せなくても誰からかわからない形で本にすることは可能です。自分の文章ではインパクトが薄いから調書そのものの持つ“力”を使おうとしたのでしょうが、そう考えた時点でライターの“負け”。これがアメリカだったら、逮捕された医師が、講談社と草薙さんを相手取って目の玉が飛び出るくらいの民事訴訟を起こすんじゃないかな。
【ただいま読書中】
サー・ジョン・フランクリンの探検隊は史実だそうです。二隻の砕氷船でカナダ北部の大西洋から太平洋への「北西航路」を開拓しようとした探検隊の120名を越える隊員が丸ごと行方不明になってしまい、結局真相はわからずじまいだったのです。著者はそれを下敷きとし、大胆に想像を加えて「terror(恐怖)」を描き出します(ついでですが、テロリズムterrorismはterrorの派生語です)。
異常な寒気で夏になっても海氷はゆるまず、このままでは、怪物の襲撃がなくても、食料・燃料の不足と病気や怪我で探検隊は全滅することが明らかです。ついにクロウジャー艦長は船を捨てて北米大陸へ徒歩で脱出することを決意します。艦を捨てることは軍人としては不名誉なことですが、隊員の命を一人でも救うことをクロウジャーは決意したのです。
見張りを攫ったりする場合ではなくて人間の集団を遅う場合、怪物は明らかに命令系統の上を狙っています。氷が溶けた時と北米の川を遡る時に備えて、彼らはボートに装備を積み人力で海氷の上を引いていきます。栄養不足と寒気と壊血病で弱った体にはとんでもない重労働です。唯一の希望は、エスキモーに出会って彼らに食料の取り方を教わる(あるいは食料を恵んでもらう)ことのみ。しかし、怪物が一行につきまとい、そして内部には陰険で卑劣な叛乱の兆しが。
こんな状況で私が思い出すのはシャクルトンです。南極探検で遭難したのに2年ちかくの漂流の末、奇跡的に隊員を全員生還させたすばらしい隊長です。しかし、シャクルトンはここにはいません。隊員たちは、一人一人死んでいきます。そして、著者はその全員に名前を与えています。本書には「名もない人びと」はいないのです。そして、全員ではありませんが、本書ではその中から選ばれた人の過去(人生)も紹介されます。丹念な作業なのですが、これが物語に厚みを与え、読者の心にすこしずつ影響を与えていきます。物語が“リアリティ”を獲得していくのです。特に軍医のグッドサーの“成長”に著者はページを割いていますが、これがまた凄い物語です。「人の本当の強さ」を見る気がします。
本作は上下巻で1000ページを越える大作ですが、下巻の残りが100ページとなったあたりから、エスキモー(イヌイット)の神話の世界が繰り広げられます。そして、神話の世界の中を自分の二度目の死に向かって旅を続ける二人の姿が……
獲物となったアザラシに対して行うイヌイットの儀式の描写を読んでいて、私はアイヌがクマに対して行う儀式を思い出します。厳しい自然の中で自然に対する畏敬の念に包まれて暮らす人びとは、自分の魂を生き延びさせるために他の動物の魂を奪い続けることを厳しく自覚し、最終的には同じような神話を持つことになるのかもしれません。さて、文明と“平和ぼけ”の中に生きている私は、どんな魂をもってどんな神話を持っているのでしょうか。
13日(土)クリスマスシーズン/『プルターク英雄伝(九)』
20世紀には12月になってからでしたが、最近は12月に入る前からあちこちでクリスマス・ツリーやイルミネーションが飾り付けられ、住宅街でも自宅をイルミネーションで飾る人がリキを入れており、街はクリスマスの雰囲気一色となりました。ところでここは日本ですよねえ。クリスマス・ツリーの方が門松よりも圧倒的に多い国って、やっぱりキリスト教国なのかな?
【ただいま読書中】
『プルターク英雄伝(九)』プルタルコス 著、 河野興一 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1956年(62年6刷)、★★★
アレクサンドロス、カエサル、フォーキオーン、小カトーの編です。『ローマ人の物語』でもアレクサンドロスとカエサルはよく併記されますが、これはもうローマ時代からの“伝統”と言って良いのかもしれません。で、著者は「自分が書くのは、歴史ではなくて伝記(言行録)だ」とさらりと宣言して本書を始めます。「歴史」には書いた人の主観が投影されますが「伝記」だともうちょっと主観(史観)から離れている(客観性を獲得している)と言いたかったのでしょうか。
言行の「行」では
・(若い時に)強制に対しては反抗するが、道理には容易に服して為すべき事に向かう
・物を要求する人々に対してよりも物を取らない人々に対して機嫌が悪い
「言」では
「贅澤がもっとも奴隷的で勞苦が最も王者的だといふことを知らないとは不思議だ」
「征服された人々と同じやうな事をしないのが我々の征服の目的だといふことを諸君は知らないのか」
などがアレクサンドロスの性格を良く現しているのではないか、と私には感じられます。
歴史の本を読んでいると、アマゾン族の女王がアレクサンドロスに会いに来た、とよく書かれていますが、プルタルコスはそれを否定します。その根拠は、あれだけ筆まめだったアレクサンドロスの手紙にアマゾン族のことが全然登場しないから。非常にわかりやすい理由です。
アレクサンドロスは“英雄”として大帝国を打ち立てましたが、それに従って性格(言動)がどんどん変化していく様が本書には描かれています。諫言する友を自ら殺してしまう(そしてその直後深く後悔する)シーンなどあまりにリアルすぎます。
カエサルのところにも、印象的なことばがあります。たとえば……
「母上、あなたの息子は今日官職に就くか亡命者になるかです」
「この年齢にアレクサンドロスは既にあれほど多くの民族の王となつてゐたのに、自分はまだ何一つ花花しい事をしてゐないのが悲しみの種だと諸君は思はないのか」
『ローマ人の物語』で著者の塩野さんはまるで惚れ込んだ男について書くようにユリウス・カエサルについて描き出します。しかしプルタルコスは礼賛するわけではなくと言って非難するわけでもなく、冷静にカエサルの言行について書き続けます。ブルータスについても軽々しく批判も擁護もしません。こういった態度は、科学者が実験結果について記述する態度に似ているように私には感じられます。
そうそう、アレクサンドロスとカエサルは、軍事的に偉業を為した・政治的に多民族を上手く支配した、だけではなくて、金遣いがすごかった(資金源は、アレクサンドロスは征服によって、カエサルは借金によって、と違いますが)、という共通点があります。プルタルコスでなくても、対比して列伝を書きたくなる“対象”ですね。
ありがたいことに、地方にもいろいろ若手がやって来てくれるようになってきました。1年くらい前には桂三若がバイクに乗って全国を回る途中にこちらに寄ってくれてこれはこれで良かったのですが、先日は三遊亭遊雀と三遊亭兼好の会がありました。二人で2時間たっぷり語ってくれました。兼好の「壺算」(水甕を安く買うために珍妙な計算を店の番頭にさせる話)では涙が出るくらい笑わされ、遊雀の「紺屋高雄」では気持ちよくしっとりと笑わされました。まだ名人とは言えませんが、どちらも上手い落語家です。先が楽しみです。落語に慣れていない客のことも配慮して、でも手を抜かず、きちんと話をしてくれたのは嬉しかったなあ。
200人くらいでいっぱいの小さなホールが、幸いほとんど埋まっていましたが(主催者は安堵したことでしょう)、やはりライブは良いですねえ。おかげでこんど上京したら寄席にも行ってみたいという欲望が膨れつつあります。困ったなあ。
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『落語十一夜』橘蓮二 写真、講談社、2008年、2381円(税別)
若手落語家11人の写真集ですが、一人一人に解説というよりファンレターがくっついています。本書で取り上げられた落語家とそれに続けてかっこの中にその文章を書いた人の名前を入れておきます。
柳家三三(山中秀樹)、春風亭昇太(ラサール石井)、林家彦いち(夢枕獏)、林家たい平(テリー伊藤)、三遊亭白鳥(木村万里)、立川談春(高田文夫)、柳家喬太郎(渡辺敏正)、柳家花緑(鈴木聡)、春風亭小朝(小沢昭一)、笑福亭鶴瓶(松尾貴史)、立川志の輔(堀井憲一郎)
残念ながらこの中で生で落語を聞いたことがあるのは、笑福亭鶴瓶の一人だけです。
しかし、写真集の読書感想って、難しいですね。ただ、写真をじっと見ているとときどき「あ、若旦那だ」「これは女性だな」と演じている人物がわかります。さすがに何の話をしているのかまではわかりませんが。これはもう落語好きの人間にはページをぱらぱらとめくってもらって、にやりとしてもらうしかないでしょう。
マウスを買い換えました。型番が同じマウスが色によって値段が違うのをみて「あ、これは人気がない色なので在庫処分なんだな」と判断して、安いやつを買ってきました。どうせ握ったら色なんか見えませんから、というか、そもそもマウスをまじまじ見つめることなんかありませんから。
たぶんこれは多くの人がすでに言っていることでしょうが、私も言います。「マイクロソフトは良いメーカーだ。少なくとも、マウス製造に関しては」
【ただいま読書中】
昨日読んだ本のタイトルに「十一」があったので、今日は「十二」です。
奈良時代の貴族は長寿のお祝いの宴を10年ごとに行いました。最初は「五八の年」つまり「四十歳の賀」です(文献上は740年聖武天皇の四十歳の賀が最古だそうです)。四十歳が長寿か、と思いますが「人生五十年」ですから、十分それで長生きなのでしょう。だから七十歳は古来稀なり、になるのですね。で、六十歳は還暦ですが……というところで本書は始まります。
本来十二支は動物とは無関係でした(子はあくまで子であって鼠ではありません。字がまるで違うということは字が示す中身が違うということです)。ところが後漢の時代にはすでに今と同じ動物が並べられています。「誤解」も二千年の“伝統”を持ってしまうと、もうどうしようもありませんね。
「子」……大伴家持の歌「初春の初子の今日の玉箒(たまばはき)手に取るからに揺らく玉の緒」で始まります。平安朝の貴族は正月の初子の日には「子の日の御遊び」と山野に出て小さな松を引き抜いたり若菜を摘んで食べたそうです。大黒天も子の日に祭られます。かと思うと、『イーリアス』にはトロイア戦争で鼠が媒介すると見られる悪疫が流行したことや、旧約聖書に「地を荒らす鼠」という表現もあることが紹介されます。もちろん話はここからペストへ。ヨーロッパでの大流行は有名ですが日本でも明治時代に流行しているそうです。そういや先日読んだ『ザ・テラー』にも、氷点下四十度の船内を鼠が走り回るシーンがありましたっけ。やつらは何を食っていたんだろう?
おっと、話がそれました。本書では、たとえば日本書紀などに登場する「十二支の動物たち」の話といった“文系”の話題だけではなくて、生物学的分類や化石の話などの“理系”の話も適度に織り込まれています。読んでいて、干支や古典や生物系の話を混ぜ込むのだったら、私にも書けそうだな、と不遜にも思ってしまいました。面白い本になるかどうかは別ですけどね。
アメリカン・ドリームは、自分が何かの分野で成功して大物になって大金持ちになること。
日本のドリームは、ジャンボ宝くじ。
どちらにしても最終的には「お金持ち」ですが、過程も規模もずいぶん違いますね。
【ただいま読書中】
『二十四の瞳』壺井栄 著、 武田美穂 絵、講談社(青い鳥文庫)、2007年、660円(税別)
「十一」「十二」と続いたので、次は『十三人のナンチャラカンチャラ』とか伊丹十三の本にしようかとも思いましたが、それでは平凡なので「二十四」にしてみました。
昭和三年、瀬戸内海のみさきの分教場に新しい「おなご先生」が赴任してきました。これまでは女学校を卒業したての準教員が赴任してくる“きまり”だったのに、こんどはなんと師範学校を出た正教員。しかも洋装でさらに自転車を乗り回すという“おてんば”だったため、寒村全体に“衝撃”が走ります。実際には、師範学校の間離れて暮らした母親のために本村の家に同居し、そこから8キロの道を通勤するために月賦で自転車を買い、自転車をこぐために自分で着物を洋装に仕立て直した、という事情があったのですが。
小柄だけど名前は大石先生。担当した1年生のクラスには十二人の生徒たち。はじめは人見知りをしていた生徒たちですが、やがて小石先生とあだ名をつけられた大石先生に懐いていきます。村人は“よそ者”に警戒を解きませんが、やがて事件が。落とし穴に大石先生が落ちてアキレス腱を切り入院してしまったのです。1年生たちはお見舞いに行こうとします。二里の道を歩いて。ここで思い出すのは当然「となりのトトロ」ですね(本当は時系列が逆でこちらの方が“先例”ですが)。ここで描写される子どもたちのいじらしさに、涙が出ます。それがきっかけで村の人は心を開きますが、足を傷めた大石先生は通勤が困難になり分校をやめることになります。
そしてあっというまに4年が経ち、一年だった生徒たちは五年になって、分教場から本校に進学します。そこには大石先生が待っていました。しかし、やって来たのは十二人ではありませんでした。落第した子や急死した母親のかわりとなって家族の面倒を見るために学校に通えなくなった子がいます。聞いただけで歯を食いしばりたくなるような厳しいことが多い子どもたちの生活を読んでいて胸が締めつけられます。どこかよその国の話ではありません。私の親の世代が実際に体験していた日本の話なのです。「時節柄」ということで日帰りとなった修学旅行でさえ、お金がなくて参加できない子がいます。そして子どもたちが語る自分の将来にも、時代と戦争が影を落とします。子どもたちは成長しますが、戦争によってその数を減らしていきます。
終戦後みさきの分校に復職した大石先生は、こんどは泣きみそ先生とあだ名されます。そこで描かれる人々の運命には、こちらまでもらい泣きをしそうです。
本書は、戦争をはさんだ「日本」の断片です。読む時には、それなりに気合いを入れて本に向かうことをお勧めします。
17日(水)台風
天気予報サイトを見ていたら「台風情報」があるのに気がつきました。まさかと思いながらクリックしたらこんなものが。今頃になっても台風22号がフィリピン近くをうろうろしています。
もう年の瀬なのに、これも地球温暖化の証拠?
熱心に年金のデータの改ざんを行っていた職員は、たぶん「組織」に非常に忠実だったのでしょう。自分の省、自分の部、自分の課を守るため(そして、その結果自分の身も守るため)熱心に“お仕事”をしたのでしょうね。
惜しむらくは、それを「組織の外の人」が聞いた時どう評価するか、を想像できなかったことでしょう。で、結局日本には“有害”なことになってしまいました。
さて、個人を責めるのは簡単ですが、それは「組織への忠実さ」も責めることになってしまいます。「組織に忠実な人間」を高く評価する人は、どうしたらいいのでしょう?
【ただいま読書中】
『海辺の王国』ロバート・ウェストール 著、 坂崎麻子 訳、 1994年、1359円(税別)
空襲で自宅を破壊され、ただ一人生き残った少年ハリー。少年は決心します。どこかへ行こう。だれもぼくを知らないところへ。ハリーは砂浜で、同じように空襲を生き延びた一匹の犬と出会います。名前はドン。ハリーはドンによって、自分が生きていることを思い出します。そしてこれからも人生が続くことも。しかし、大人たちに見つかったら、ハリーは施設に送られ、犬は殺されます。
ハリーは「旅人(聖なる土地を旅してめぐる人、あるいは聖なる地へ行こうとする人)」になります。海岸で生きている変人ジョゼフに海岸での生き方を教わり、彼は海岸で一人暮らしを始めます。近くの高射砲陣地の兵隊たちのマスコットとなりますが、そこには少年を狙う蛇蝎のような奴もいました。ハリーの旅は続きます。
犬とハリーは様々な人に出会います。印象的なのは、戦争による傷によって心を凍りつかせていた人が、ハリーとの出会いがきっかけとなって感情がほとばしるシーンです。何年も笑いを忘れていたのが突然笑い出す人もいますし、突然泣き出す人もいます。そして、胸にぽっかりと子どもの形をした空洞を持つ人によって発せられる「このあたりの山で、みなしごになった子ヒツジがいると、羊飼いは、その子ヒツジをどうすると思う?」に対する答えが最終回答だと思えたのに、最後の最後にまたハリーは“現実”を対峙しなければなりません。やっと巡り会えた“父”との別れです。でも「海辺の王国」は実在します。少なくとも旅で成長したハリーの心の中に。
あらすじだけ見たら、本書はハッピーエンドです。しかし、ハリーの心の中を見たら明らかにアンハッピー。ただ、本書の終わりから六年も経てば、おそらくハリーはまた旅に出ることができるはず、と私は確信します。そしてこんどこそ彼は(彼らは)ハッピーを手に入れることができるでしょう。アンハッピーの中にそんな希望が見えます。戦争のさなかに「いつかはこの戦争も終わる」と持つ希望よりも、もっと確かな希望が。
ふと我が身を振り返ります。十二歳の少年には過酷な旅でしたが、似たような旅は誰しも行う必要があるのかもしれません。自分自身が何を求めて生きていくのか、はっきりさせるために。
6年乗ったらバイクもあちこち手を入れる必要がありますが、シートがみごとにひび割れてしまいました。ガムテープを貼って誤魔化したりしていましたがどんどん悪化するのでとうとう我慢しきれず、シートカバーを購入。ホンダではすでに作っていないスクーターなのでちょっと不安でしたが、注文を出すとちゃんと純正の在庫がありました。届くのに1週間以上かかったのはご愛敬。どこの倉庫から出してきたんでしょうねえ。見かけはとってもきれいになったし、シート交換の20%の費用ですんだので大満足です。問題はカバーがどのくらいの耐久性を持っているかですが、これはしばらく使ってみないとわかりません。
あ、写真を撮れば良かったな。使用前と使用後で。
【ただいま読書中】
『戦場のピアニスト』ウワディスワフ・シュピルマン 著、 佐藤泰一 訳、 春秋社、2000年(03年新装初版)、1500円(税別)
ワルシャワ・ゲットーでの密輸のシーンから本書は始まります。ゲットーは厳重に隔離されていたはずですが、壁の隙間(排水溝など)を使って大人や子どもがさかんに密輸を行っていました(ただし、警備兵に見つかったら殺されます)。私にとってショックだったのは、ゲットーに金持ちが集まる区画があったことです。“山師”たちは一般のユダヤ人とはかけ離れた贅沢三昧の生活をしていました。著者はそこでピアノを弾いて生計を立てていましたが、やがてインテリ相手のカフェに移ります。1941年〜42年にかけての冬、ゲットーでの生活は厳しくなり、チフスが流行します。ゲットー内では埋葬の手段がないため、人々は死体を歩道に放置し市議会の車がそれを回収して共同墓地に運ぶシステムとしました。……中世の黒死病の時でもまだマシな対応だったと思いますが……
ゲットーは二つに分けられていました。貧民が多い大ゲットーと比較的富裕層が多い小ゲットー。著者はここで自分が小ゲットーに住んでいることをやや誇らしげに言います。「ユダヤ人」といっても、“一枚岩”ではなかったようです。二つのゲットーはフウォドナ通りという路面電車も通る大通りをはさんでおり、ユダヤ人が行き来する時には警官隊とドイツ軍が一般の交通を遮断しました。そこを多数のユダヤ人が移動するシーンは、まるでパニック映画のようです。
情報が遮断された状況では、奇妙な噂が多く流れます。ワルシャワ攻囲戦では「ドイツの戦車はボール紙製」、ポーランドが降伏したら「すぐにイギリス(あるいはアメリカ)が救出に来てくれる」、ドイツがソ連に攻め込んだら「ドイツ軍はすぐに大負けする」、ゲットーに閉じこめられたら「ドイツ人が野蛮なことをするはずがない」……希望がなければ人は生きていけませんが、それにしてもこれだけ行き当たりばったりの“希望”は無責任と紙一重です。そしてついに「行動」が始まります。ゲットー内部に親衛隊などが入ってきて、多数のユダヤ人を駆り集め「移住」させるのです。……どこへ? そのとき、最も残酷な行動をしたのは、ドイツ人ではなくて、リトアニア軍やウクライナ軍でした。彼らが行った残虐行為が本書では淡々と語られます。「移住」がスムーズに進まないことに苛立ったドイツ軍は新しい布告を出します。「すすんで出頭してきた家族には、ひとかたまりのパンとジャムを与え、移住先でも家族をばらばらにはしない」。それを信じて多くの人がその通告に応じます。
著者は仕事を得ます。移住していったユダヤ人家庭から出た日用品の仕分け作業です。もっとも楽な仕事ではありません。うっかり鏡を落として割った若者は罰として射殺されたのですから。そしてついに著者一家も移住組として狩り出されます。人々は絶望しますが、そこでもこう言う人がいます。「我々の労働力を無にするほどドイツ人はバカではない。殺されるのではなくて労働収容所に送られるのだ」と。しかしここで著者は家族から引き離されます。家族は安全に生きているという幻影にしがみつきながら著者は肉体労働(不必要になったゲットーの壁を壊す作業)に従事しますが、やがて最終選別の話が。30万人が移住させられましたがまだ10万人残っています。その中から1/4だけをワルシャワに残す、というのです。著者はその選別でも残る組に入れられます。スターリングラードでのドイツ軍の敗北、ゲットーでの蜂起……そのどさくさに著者は脱走し、友人に匿われます。しかし安住の地はありません。信じられる友もいますが信じることができない者もいます。急性胆嚢炎も著者を苦しめます。しかしソ連軍の攻撃が始まり、そしてレジスタンスによるワルシャワ蜂起が。著者はその中でも生き残ります。回り中で弾丸が飛び交う状況でのサバイバルです。しかし、その中にも、世にも奇妙な出会いがあります。愛国者であると同時に、自分の国が犯した罪を公然と恥じる勇気をもったドイツ軍大尉です。著者の数年間の苦しみと彷徨は、この邂逅のためだったのかもしれません。まあ、「人と人との出会い」はすべて奇跡的なもの(一期一会)、と片づけることも可能ではありますが。ただ、巻末に収載されているその大尉の日記が不思議な余韻を本書に与えます。
本書の内容(ゲットーおよびワルシャワでのサバイバル)はショッキングですが、もう一つ。本書は1946年にポーランドで出版されるとすぐに絶版処分になりました(ウクライナやリトアニアなどがユダヤ人を虐殺するのに手を貸し、逆にドイツ人にもユダヤ人を救う者がいた、というのが我慢ならない人々がいたのです)。“再版”されたのは50年以上経ってからでした。この事実自体も私にはショッキングです。
1)子どもはもっと本を読むべきである
2)自分は本を読んでいる
この1)2)ともにイエス(あるいはともにノー)の人は“言動一致”ですからとりあえずOKです。両者が一堂に会したら1)に関して「なぜ子どもはもっと本を読むべきであるのか」あるいは「なぜ子どもはもっと本を読むべきではないのか」について議論はできそうですから。
だけど1)はイエスだけど2)はノー(これは多そう)、あるいは1)はノーだけど2)はイエス(これはきっとものすごく少ないと私は予想します)の人の場合、どう考えたらいいでしょう? いや、1)にノーの立場の人に対してとやかく言おうとは思いませんが、少なくとも「俺は本は読まない、だけどお前らはもっと本を読め」と主張するのは、なんだかその主張に自ら説得力を欠いてしまいません?
【ただいま読書中】
『行儀よくしろ。』清水義範 著、 ちくま新書、2003年、680円(税別)
「大人は怒る。若い女性の裸に近いようなファッションに、化粧に、脚に悪そうな靴に、携帯電話のかけ方に、敬語を使えないことに。あんまりにも若者の何もかもが気に入らないという言説に接していると、これはひょっとして、世の大人のイライラの方が大きな問題なのじゃないのか、なんて気がするほどだ。」と本書は始まります。本書は教育論なんだそうです。著者の名前とタイトルに引かれて本を開きましたが、これは期待できるぞ、と私はわくわくします。
著者は「学力低下は実は『ゆとり教育』導入前から言われたが、すると学力低下は詰め込み教育によって起きた可能性はないか?」と述べます。もちろん「学力低下」が真実なら、ですが。そういえば「九九もできない大学生がいる」というのは個人的には嘆かわしい風潮ですが、それ以前に「そんな奴を入学させた大学は情けなくないのか?」という見方もできますね。どんな学生が欲しくて入試をしているんだ?
著者は、教師に関して「ないものねだりはするな」と主張します。教師というのは「危機感が足りなくてプライドが高くてちょっと社会常識を欠いている、学業を教えることが他の職種よりは上手な人間の集団」でしかなく、教師全員が子どものすべての問題を解決できる完璧なスーパー教師であるわけがないのに、そうであることを勝手に期待してその期待がかなえられないと怒りくるって学校批判をする態度はおかしい、と(著者自身が教育大学出身で国語教師の資格を持っているそうです)。
そういった「教育」をすべて学校に押しつけている人は、「社会による教育」を否定しています。なぜなら自分自身が社会に属していて自分も教育の“当事者”であることを否定しているのですから。「子どもが本を読まない」のなら、親が本を読んでいるか、その家に本があるか、その町で図書館が使いやすいかどうか、を問わなければならないのです。これもまた「社会による教育」なのです。
「社会による教育」とはすなわち「その国の文化のあり方」です。同じ程度の貧しさでも、清貧で美しく生きることをよしとするか、がつがつがめつく生きることをよしとするかは、文化が規定します。人はその文化の中で“教育”され、自分がどう振る舞うかを決めます。決して学校が“それ”を決めているわけではありません。
著者は「日本の文化は崩れてきている。それは日本語にも現れている」と述べます。たとえば敬語の乱れ、あるいは慣用句やことわざの誤用。ただし著者は、言葉は生きて動くものだから、と口ごもります。
また、日本は資本主義の欲望社会となりましたが、それはつまり「勝ち組」と「負け組」に人間を二分する世界です。最近流行の「セレブ」に代表される「勝ち組」になれるのはごく少数で、他は自動的に負け組です。子どもの時から「負け組コース」に組み入れられたら、それはイライラして切れやすくもなるでしょう。
ではどうするのか。「美しく振る舞う」ことを著者は提唱します。文化的な美です。具体的には、単に節度を保ち礼儀を守る、だけのことですが。親が美しく振る舞えば子どもはそれを見習います。子どもが良いことをしたらすかさず褒めます(欠点を矯正するのではなくて美点を伸ばすのです)。そして何より大事なのは、子どもに「君は価値ある人間なんだ」と教えること。そして他人も価値ある人間であることを。
一風変わった教育論の本です。押しつけがましくなく、でも大切なことを伝えようとしています。そう、本書で重視されるのは「(次の世代に)伝えること」。だから、きちんと伝えようとするのは当然のことではあるのですが、教育論の本の多くはそこで失敗するんですよね。「自分は大切なことを言っている」に酔ってしまって、「相手に伝える」が上手くできない。本書はそこには成功しています。で、「伝えるべき内容」について賛成するかどうかは読者が自分で選べばいいでしょう。私は一部採用することにしました。
たとえば裁判員に選任されてそれを忌避したら罰金だか科料だかを食らいます。そこで「こちらにも事情があるのに、一方的に1年のうちの10ヶ月は出ろと決めつけるのは不当だ」と裁判を起こしたら、その裁判にも裁判員がつくんですかね?
【ただいま読書中】
『偽装者(上)』デイヴィッド・マレル 著、 山本光伸 訳、 早川書房、1995年、1700円(税別)
米陸軍特殊作戦部で工作員としてきわめて優秀な成績を上げているブキャナンの得意技は、別人になりすますことです。あまりに“役”に入り込んでしまうものだから、自分の本名や自分の好みがなんであったかも怪しくなってしまうくらいです。
さて、今回の彼の任務は、不良麻薬捜査官になりすましてメキシコで麻薬業者の懐に食い込むこと。ところが取引をしている現場に、かつて別の場所で別の人間として付き合っていた人間が偶然居合わせてしまい、取引はめちゃくちゃになってしまいます。ブキャナンは銃創と頭蓋骨骨折と脳の損傷などを負い、なんとかアメリカに逃げ帰りますが、そこにも追及の手が。あまりに身辺が騒がしくなったため、ブキャナンは現場を外されてしまいます。怪我の後遺症かひどい頭痛にも悩まされます。そこに6年前の過去から葉書が届きます。「出すとは思っていなかった葉書です。約束が本気だったことを祈ります。最後の場所、時間に。信じています。どうか。」文面はそれだけ。宛先は彼が6年前に名乗っていたピーター・ラング。差出人はありません。ブキャナンはかつて一人だけ愛した女フアナを思い出します。そして彼女が自分に救いを求めていることを知ります。
このメインストーリーに、「教授」と呼ばれるいかにも怪しげな老人がメキシコ高官を抱き込んでマヤ遺跡で行っているこれまたいかにも怪しげな探索作業が絡みます。どうもフアナはこの高官のスキャンダルを握っているらしいのですが、詳細は上巻では不明のままです。
さらに、ブキャナンの過去。どうも彼は子どもの時に心に大きな傷を負い、そのために「別人になりたい」という欲求に駆られて行動しているようなのです。だとすると「ブキャナン」という存在は彼にとっては“救い”にはなりません。ではフアナに会うとして、彼は「誰」として会えばいいのでしょうか。
単なる「世界的陰謀とそれを阻止するスーパー工作員とヒロインとの恋愛模様」というありがちな図式には収まりきれない、複雑なストーリー展開となっています。ヒロインとは別の謎の美女(ジャーナリストのホリー)も登場しなぜかブキャナンにつきまといますが、こちらも下巻でブキャナンにどう絡んでくるのか期待できそうです。また、ブキャナンをサポートする男の妻は白血病なのですが、これは著者が家族を白血病でなくしたことの投影のようです。なんだかこのシーンだけものすごくウエットなのです。
「日本が国際化するためには英語教育が必須」と主張する人がいます。本当にそうかな、と私は感じるのですが、とりあえず身近な例に引きつけて考えてみました。日本が国際化するということは、日本人はどんどん海外に出るが、同時にご町内にも外国人が増えます。すると町内会でなにか集まって食事をしようとしたら「私は宗教上の理由でブタが食べられません」「私はウシが食べられません」「私は肉は大丈夫ですが……今日は金曜日? だったら魚でないと困ります」「魚ですか。ウロコがあるかどうかが心配です。肉の場合蹄はどうなってます?」なんて様々なことを言う人たちと仲良くすっきり食事ができるように配慮する必要があります。……あれれ、ここで必要なのは英語なんでしょうか。
【ただいま読書中】
『偽装者(下)』デイヴィッド・マレル 著、 山本光伸 訳、 早川書房、1995年、1700円(税別)
約束の時間・約束の場所に出かけたブキャナンは、突然脇腹を刺されます。急場を救ったのはホリー。ブキャナンはフアナの足取りを辿ろうとしてフアナが変装の名人となっていることを発見すると同時に、そこに監視チーム、いや、狙撃チームが配置されていることを知ります。フアナは一体なにをやらかし、誰に狙われているのか。ブキャナンは陸軍特殊作戦部からも追われていますが、ここでさらに追っ手が増えることになります。謎をたくさん抱えたブキャナンにホリーは惹かれていきますが、ブキャナンは偽名(あるいは偽の人格)ピーター・ラングとしてフアナを探す、と言います。まるで服を着替えるように次々別の人格を“着”てきた人生にピリオドを打つために。自分本来の人生を生きるために。ブキャナンとホリーの前に、吐き気を催すようなスキャンダルがその姿を現します。しかし、信じたいと思っていたホリーにも秘密がありました。ぎくしゃくした二人はメキシコに向かい、そこで敵の手に落ちます。そして、生死をかけたボールゲーム「ポック・ア・トック」が始まります。
なんだか最後はとってつけたようなエンディングで、「救助の騎兵隊か?」「フアナは〜?」「頭痛は?」「社会復帰は?」「油田って、原油タンクのでかいのとは違うぞ」と私は大声で言いたくなりましたが、ラストまで非常に快調にストーリーが進んでずいぶん楽しめたので、それに免じて許しちゃう、という気持ちになれました。たぶんあれだけあちこちをブキャナン(とホリー)が旅をしたのも、おそらく「自分自身を発見する」ための一種の巡礼の旅だったのでしょう。
一瞬でも「非日常」の旅をしたい人には、楽しめる本だと思います。
23日(火)「は」と「が」/『日本語ということば』
「〜は〜」と「〜が〜」の違いについて子どもに質問してみたら、しばらく考えてからほぼ“正解”に近い回答を出してきました。違いがあることは感覚的にわかってもそれをきちんとことばで表現できるのはたいしたもんだ、と私は一種感動を覚えました。単なる親ばかとも云いますが。
【ただいま読書中】
中高校生を対象とした日本語に関する短編集ですが、ラインナップをご覧じろ。
「私の口の中のアイウエオ」橋本治(『ぬえの名前』(岩波書店)より)
「ウナギ文の大研究」丸谷才一(『夜中の乾杯』(文春文庫)より)
「『元祖ゴキブリラーメン』考」千野栄一(『言語学のたのしみ』(大修館書店)より)
「私立向田図書館」久世光彦(『触れもせで』(講談社)より)
「市街魔術師の肖像」寺山修司(『不思議図書館』(角川文庫)より)
「『あまえる』ということについて』中村咲紀(第47回全国小中学校作文コンクール 作文優秀作品)
このリストを見るだけで私の顔はほころびます。
橋本さんの「日本の国語教育でもっとも欠けてんのは、話し言葉の教育と美文の訓練だろう」という指摘とか(平易な口語体で誤魔化されそうになりますが、他にも例によって刺激的な指摘がふんだんに散りばめられています)、丸谷さんの(食堂で注文する時の)「ぼくはウナギだ」の面白さ(これを英語に直訳したらどうなるでしょう)、千野さんの「元祖ゴキブリラーメンというラーメンは何故に存在しないのかを言語学的に説明せよ」というある大学の言語学概論での期末試験問題に関する考察(これは抱腹絶倒なのですが、言語学的に大きな気づきを含んでいます)……いやもう、こんな面白い本を中高生だけに読ませておく手はありません。というか、それぞれの出典をきちんと読みたくなりました。個人的備忘録も兼ねて出典も括弧内に記載しておきます。
「日本語を論じる」というと、ありがちなのが「カタイ本」。だけどそれは「最近の若い奴の日本語は」といった個人的な悲憤慷慨だったり、堅苦しく七面倒くさいまるで死体解剖のような「日本語解剖学」だったり、「あなたはふだんそんな話し方をされるのですか?」と問いたくなるような本がけっこう多く並びます。だけど本書では、皆さん「生きた日本語」をお使いです。思想や知識をしっかりバックボーンに持ちながら、それをむき出しに他人に押しつけるのではなく、生き生きとした語り口で読者を別の世界に連れて行ってくれます。
……どこが違うのでしょう?
知識を大量に持っている人は、大きく衒学と博識に分類できます。何が違うかというと人柄と能力かな。持っている知識に振り回されているだけか、逆に知識をぶんぶん振り回して周りの人間をも楽しく巻き込んでしまうか。そこで問われているのは、「知識」の方ではなくて「人」です。
それと同様に、語彙を豊富に持っている人も、語彙に振り回される人と語彙をぶんぶん振り回し周りの人間を楽しく巻き込んでしまう人とに分けられます。ここでも問われるのは……(あああ、書いていて自分の耳が痛い)
ならば知識や語彙を全否定して良いかというとそうはいきません。「どの程度の語彙(あるいは知識)を持っているか」は実は「その人と世界との関係性」とも直結しているので(あまりに語彙や知識が少ない人は世界を論理的に細かく認識できません)「そんなもの、どーだっていい」とまでは言えないのです。
あ、もっと“良い手”を思いつきました。人柄とか能力なんて外からは確認困難なものを持ち出すからいけないのです。「知識や語彙を、他者とのコミュニケーションの道具として活用しているか」を問うことにしましょう。これだったら外からも判定可能ですし、何よりこちらがそういった人とのコミュニケーションの対象となった時、楽しく過ごせるかどうかで簡単に判定できますから。もちろん「こちら」も判定されてしまうのが難点ではありますが。
そうそう、最後の作品。平易な文章です。小学二年生の作品だからことばが平易なのは当然ですが、その内容と来たら……私はぶっ飛びました。言語学的にあるいは心理学的に、すごい内容が平然と語られています。そんな小難しいことは抜きにしても、オープニングの「セロ弾きのゴーシュ」の読解部分だけでも読む価値があります。そして最後の「わたしは、がんばって大きくなります」……ここを読んで泣いてください。
私はけっこう気まぐれに通勤路を変えます。で、今お気に入りの通勤路の一部に、狭い一方通行なのにバスが通っている道があります。ふだんはバスの姿は見ないのですが、ある朝はその後ろにつくことになってしまいました。ディーゼルエンジンからの排気ガスを大量に浴びるのは好みではないので少し車間距離を取ります。するとそのバス、停留所の手前から加速したかと思うと、停留所を行き過ぎてからふしゅーっと停止しました。「ほにゃ?」とこちらもそのうしろに停止して見ると、停留所から人が小走りにバスに向かっていきます。なるほど、バスの運転手さんが待っている人を見逃したのか、はたまた停留所そのものを見逃したのか、ともかくあやういところで気がついて止まった、というところでしょう。もしかしたら新人かこの路線に不慣れな運転手だったのかもしれません。
そういえばバスの停留所に立っていても、やって来たバスに対して手を挙げないと停まってくれない、という地域もありました。まるでタクシーですが、停留所に立っていてもなかなか油断はできないようです。
【ただいま読書中】
『猫のパジャマ』レイ・ブラッドベリ 著、 仲村融 訳、河出書房新社、2008年、1800円(税別)
タイトルを見てまず思うのは『キャッツ・クレイドル』(カート・ボネガット)です。(ちなみに、「cat's cradle」は「猫のゆりかご」ではなくて「あやとり」、「cat's pajamas」は「素晴らしい人(もの)」です)
ともかく私にとっては「嬉しい(クリスマス)プレゼント」です。「ピンピンしているし、書いている」という序文に続いて21編の短編が並んでいますが、初出が19編。1940〜50年代の“蔵出し”の作品(雑誌などに発表されずにそのままブラッドベリ家のどこかに“お蔵入り”していたもの)と21世紀になってからの新作とが半分くらいずつの編成です。ただ、古くても新しくても「ブラッドベリ」です。ブラッドベリファンは読むべし読むべし、で今回はおしまい。
ではあまりに素っ気ないので、ちょっとだけ。
ブラッドベリは“先人”への尊崇の念を隠しません。自分が何を好きか、何のおかげをこうむっているかが明確です。逆に、自分が何が嫌いかについてはほとんど語りません。もしかしたら、これが優れた文学作品を大量に長期間生み出す秘訣なのかもしれません。自分の幸福感をじっくり味わえる人は、その“お裾分け”の大盤振る舞いをしてくれるのかも。
とこまく、もとい、ともかく、ブラッドベリファンは読むべし読むべし読むべし。
稲庭うどん専門の箸というのを思いついてしまいました。いや、麺類って塗り箸ではすべって食べにくいでしょ。で、稲庭うどんと讃岐うどんとは太さが全然違うから、箸も当然太さや長さを変えて……すると、素麺専門や冷や麦専門の箸も成立しますかね。ラーメン専門の箸は、縮れ麺とストレート、味噌と醤油と豚骨でそれぞれ箸も使い分けたりして。(ちなみに、フォークがアメリカに普及した時にはそれに近い状態になりました。食材ごとのフォークが開発・発売されたのです)
【ただいま読書中】
『地中海の覇者ガレー船』アンドレ・ジスペール/ルネ・ビュレル 著、 深沢克己監修、遠藤ゆかり・塩見明子 訳、 創元社、1999年、1400円(税別)
本書はまずヴェネチアの歴史から始まります。住民が増えて6世紀ころいくつも共同体ができ、西暦810年に総督府がリアルトに置かれて都市ベネチアの歴史が始まります。商人は盛んに海洋貿易を行いヴェネチアは共和国として大発展しました。西の神聖ローマ帝国と東のビザンティン帝国と条約を結び、同時にイスラム国家とも友好関係を保って東地中海の制覇を狙います。十字軍運動が始まり、ヴェネチアは海軍力を増強させます。ビザンティン帝国の忠実な同盟者でしたが、第4次十字軍ではビザンティンの首都コンスタンティノープルを占領しラテン帝国を建設してしまいます。15世紀にヴェネチアは絶頂期を迎えます。それを支えたのがガレー船でした。
ガレー船は古代からありますが、帆だけではなくて人力の櫂でも進むことができる大型船です。14世紀はじめに開発された大型ガレー船は国営造船所で造られ商船は入札制度によって船長(貴族)に貸与されました。帆船と違って人件費が莫大にかかるガレー商船は、貴重な商品や金持ちの旅行などに用いられました。(乗員200人のうち漕ぎ手は150人だったのです) 海賊対策のため武器も備えられさらに船団を組んで航行していました。
しかし、新しい大型帆船が開発され、イギリス・スペイン・ポルトガル・オスマン帝国など海運の“ライバル”が登場すると同時に喜望峰回りの航路が開拓されて地中海航路の地位が低下し、さらに豊かになったが故に漕ぎ手の志願者が減少した、といった事情が重なり、ヴェネチアの商業(とガレー船)は衰退に向かいます。
1453年オスマン帝国はビザンティン帝国を滅ぼし、その海軍力を入手しました。強力な陸軍力を誇る国がもう一つの力を手に入れたのです。1470年にはトルコ艦隊(300隻のガレー船)がエーゲ海のネグロポンテ島を陥落させ、ヴェネチア海軍を圧迫します。西地中海はスペインの支配下にありヴェネチアはこちらとも対立していましたが、キプロスを狙うオスマン帝国に対して一応協力(1571年の神聖同盟)をすることになります。有名なレパント海戦です。艦隊戦力はトルコ側が優勢だったと伝えられますが、キリスト教国連合軍は大砲を搭載したガレアス船などを駆使し戦争に勝利しました。しかしオスマン帝国はすぐに海軍を再建し、結局キプロスはオスマンのものになります。オスマン帝国の宰相はヴェネチア大使にこう言ったそうです。「われわれは戦争で敗北し、あなたがたはキプロス島を奪われた。つまりわれわれは髭をそり落とされ、あなたがたは腕を切り落とされたわけだ」
17世紀から18世紀にかけて、大型帆船にその地位を奪われたガレー船ですが、フランスは国威を地中海に示すためにガレー船団を維持しました。ただし、その漕ぎ手は、中世の自由民とは違って、奴隷と徒刑囚や捕まえられた脱走兵で占められていました。太陽王の影の部分と言って良いでしょう。イスラム教徒の奴隷は一括して「トルコ人」と呼ばれていましたが、「トルコ人」が足りなくなると新大陸の先住民も使われました。
徒刑囚たちのつらい生活(船上のものだけではなくて、船に乗る前のものも)について本書で詳しく語られていますが、これだとその後革命が起きたのも不思議ではない、と思えます。ちなみに徒刑囚の死亡率は50%。そのうち2/3はガレー船に送られてから3年以内に死亡、だったそうです。ルイ15世になってから、ガレー船団は軍事的には有用ではないと判断され、規模が大幅に縮小され1748年に廃止されています。
しかしガレー船は北で生き延びました。フィンランドを巡るロシアとスウェーデンの紛争では、水深が浅く小島や岩礁が点在する環境に?いたガレー船が用いられたのです。(ロシアはトルコとの戦争にもガレー船を用いています)
古代のガレー船が実は19世紀まで生き延びていた、というのは、いやあ新鮮な驚きでした。
乗った人の手記とかオールの漕ぎ方の区別といった技術的な話まで盛り込まれています。別に漕ぎ方の勉強をしたいわけではありませんが、いろいろ面白がって読める本です。
去年は班長で気楽だったのですが、今年はブロック長をやっているので役員会とやらにも定期的に参加しなくちゃいけません。そこではいろいろ面白い話が出るのですが、最近町内会に対してちょっと変わったクレームが増えているそうな。たとえば「自分は参加しないんだから町内の祭りはやめろ」とか「隣の家の色が気にくわないから町内会で変えさせろ」とか。そんな個人的要望をかなえるために町内会が存在していると思える“根性”が素敵です。嫌いですけど。
【ただいま読書中】
『ほらふき男爵の冒険』G・A・ビュルガー 編、斉藤洋 文、 はた こうしろう 絵、偕成社、2007年、1000円(税別)
新聞に「代理ミュンヒハウゼン症候群」と思われる事件が報じられていたので、ちょっと読んでみることにしました。何年前に読んだか忘れてしまうくらい昔に読んで以来です。
第1章「ロシアへ、そして、ロシアで」の第2話「雪の上のくい」はしっかり覚えていてちょっと満足。第3話「おおかみにおくられて」は途中まで覚えていました。橇で走っていたら狼に襲われて狼が橇を引っ張っていた馬を食っちゃう話です。そのあと馬のかわりに狼が橇を引いて走るのですがオチをきれいに忘れていました。いやあ、読んで良かった。
第2章「狩りは楽し」の第4話「聖普フベルトゥスの大鹿」はまるで落語の「あたま山」の一部です。さすがに池に身は投げませんが(いや、あの発想はミュンヒハウゼンを上回ってますな)。
なんでこんなに楽しいお話が、あんな病気にタイトルとして取り入れられてしまったのやら。
明快な思想を持つ人のことばは明快になります。ことばは思想から生まれるものですから。しかし、その逆、明快なことばを使う人が明快な思想を持っているかといえば、その保証はありません。もしかしたらその人は、単純な思考や粗雑な思考しか持っていない場合もあります。ですから、「ことばが明快かどうか」は重要なことではありますが、あまり不必要にこだわりすぎない方が吉です。
【ただいま読書中】
『脳と心』ジャン=ピエール・シャンジュー/ポール・リクール 著(対談)、合田正人・ 三浦直希 訳、 みすず書房、2008年、4800円(税別)
脳に関して科学は引き裂かれています。行動学は動物や人間の行動を解析しますが、そこでは脳は一種のブラックボックスとして扱われています。分子生物学は分子レベルで脳を解明していきますが、詳細に分析すればするほど「美の知覚」や「創造性」といった高度な機能は見えなくなっていきます。
そして、哲学は自らの内に閉じ籠ってしまっています。科学と哲学ともまた「引き裂かれた存在」であるかのようです。
本書は、分子生物学者のシャンジューと哲学者のリクールとの対談です。私が劣等感の塊だったら「なんだ、衒学の書か」と言いたくなるであろう、知識と言葉の奔流です。ところが編者は読者に対して「審判ではなくてパートナーとして論争に参入」することを求めます。そこまで読者を信じちゃって良いんですかねえ。私自身は成熟した読者ではないので、ついつい、哲学よりは自分にまだ馴染みのある科学の側からこの本を読もうとしますが、初っぱなから「脳についての言説が共通経験に変化を惹き起こすか」と言われると、なんのこっちゃい、と目をぱちくりです。
スピノザ、カント、ポパー、デカルト、コント、スペンサー、ダーウィン、ジョン・ワトソン、ブローカ、オリヴァー・サックス、パスカル、カンギレム……はじめのあたりのほんの数十ページの間に、最低これだけ(あるいはこれ以上)の人の思想や業績が紹介されたり言及されます。よくもまあこれだけ本を読めて覚えていられるものだと私はまずそこに感心してしまいます。それと「何を読むか」ではなくて「それをどう読むか」がいかに重要であるかもわかります。この二人は同じ本でも全く違った読み方をしているのですから。
リクールは「同一平面への展開」ということばをよく使います。幾つかの言葉が同じ「平面」に展開されたらその言葉には関係が生じます。しかし、別の平面に展開されたらそれらの言葉は交わりません。「脳」と「心」はリクールにおいては「別の平面」に属することば(概念)のようです。それでもリクールは「ニューロン的なもの」と「心的なもの」の交差は認めます。
しかし、シャンジューにとっては(物としての)「脳」と(その機能としての)「心」は“地続き”です。ニューロンの機能として心が活動する、それ以外に考えられるか?なのですが、リクールはそこに異議を申し立てます。
本書は、単に科学と哲学の“対決”ではありません。シャンジューは諸科学の隔壁を取り払って統一科学を打ち立てたいという“野望”がある様子ですし、リクールは「現象学」(反省的・記述的・解釈学的を合わせたもの)の立場をまもろうとしているようです。両者ともそれぞれ「各分野の代表選手」と名乗ったら異論続出になりそうな人選だったでしょう(彼ら自身がそのことについて言及しています)。ただ(プラトンを持ち出すまでもなく)「対話」によって生じるダイナミズムは人の心を動かします。少なくとも私の心は動きました。しかし「この本を理解するために読まなければならない本」のリストは長大です。死ぬまでにそれらのどのくらいが読めるかしら?
28日(日)ツインカムターボ/『クリスマスの幽霊』
今から四半世紀くらい前、車の広告には「ターボ」「ツインカム」「ツインカムターボ」といったことばがさかんに踊っていました。
私の運転スタイルでは、エンジン回転数はレッドゾーンぎりぎりを使うどころかふつうは2000〜4000回転で十分なので「一体誰がどこでツインカムターボの“全力”を振り絞るんだろう?」「日本でそういった高性能車の能力を発揮できる場所って、どこだろう?」とそういった広告を見ていて不思議でしかたありませんでした。あのてのハイパワーエンジンの多くはパワーバンド(エンジンの最高馬力と最高トルクが使える回転数の領域)が狭くて使いにくいエンジンではないか、と思えるのですが、まあ、使う人は使っていたんでしょうね。
私は一切そういった“ハイテク”には縁がないシビックに乗っていましたけれど(実は今でも乗っていますけれど)、当時ああいった“ハイテク”が大好きだった人は今は何に夢中になっているのでしょう。もしかしてハイブリッド?
(ちなみに、私が当時乗っていたバイクは、ツインカム(DOHC)とかそれより古いシングルカム(SOHC)どころかさらにそれ以前のタイプのOHV(オーヴァーヘッドヴァルヴ)だったんですが、それでも一般道と高速を走るのには特に不満はありませんでした。峠をぎゅんぎゅん攻めるようなことはしていませんでしたから)
【ただいま読書中】
『クリスマスの幽霊』ロバート・ウェストール 著、 ジョン・ロレンス 絵、坂崎麻子・光野多恵子 訳、 徳間書店、2005年、1200円(税別)
子どもが幸せな期待に胸を膨らますクリスマスイブ。ケーキにツリー、焼きたてのミンスパイ。そしてサンタクロース。
弁当を忘れて出かけてしまった父親に「ぼく」は化学工場に弁当を届けに行きます。ところが、乗ったエレベーターの鏡に幽霊が映ります。それは、工場で誰かが事故で死ぬ直前に必ず出現する幽霊でした。弁当は無事に届けましたが「ぼく」は今夜死ぬのが自分の父親かもしれないと思いつき、心配で心配でたまらなくなります。恐怖に耐えて「ぼく」はもう一度エレベーターに乗ります。どこで事故が起きるのか、幽霊から聞き出すために。幽霊は手を交差させてX字形を作って見せます。
著者が自らの子ども時代の記憶を使って、1930年代の工場町が生き生きと描き出されます。雪に埋まりアセチレンランプに照らされた、工場からのスモッグに覆われた街です。そして、少年の心情、父親へのあこがれと信頼も。本書で特徴的なのは「におい」です。少年は街で実に様々なにおいをかぎます。焼けたニス・葉巻・ベンゾール・コークス・乾し草とオート麦・馬の小便、そして、年寄りのにおい。でも「ぼく」が最後にかいだのは、父親からの、洗っても洗ってもとれないコークスとたばこのにおいでした。
著者が得意としている「戦争」は本書では「影」としてしか登場しません。ムッソリーニやヒトラーは名前だけ登場します。このクリスマス・ストーリーは、そういった影がある分話に深みがあるように私には感じられました。
そうそう、読んでいてどこかで同じような話が、と『チョコレート工場の秘密』を思い出しました。大きな工場と町の関係や、家族と少年の関係などが同じように見えます。もしかしたら両者は同じ主題の別の変奏曲、といっても良いかもしれません。
29日(月)焼きそば/『ロザムンドおばさんの贈り物』
私はたまにしか料理をしません。で、たまのことなので遊びたくなりました。
作るのは焼きそば。そこで和風ドレッシングを使うことにしました。麺を蒸らすための水分も入っているし炒めるための油もあるし調味料もいろいろ入っているから面白そうです。で、結果ですが、それなりに美味いけれどずいぶんな薄味に仕上がりました。しかたないのでウスターソースを皿の上で追加しましたが、ま、これもありかな、と思っています。
さて、次回はどんなことをして遊んで、もとい、料理してみようかしら。
【ただいま読書中】
この本を読む前には、ちょっとした準備をお勧めします。もしできれば照明は少しだけ暗めに。BGMはあっても良いけれど音量は絞って。携帯のスイッチは切って。
恋する男と一緒に過ごしたいと懸命にスキーの練習をしたものの、連れて行かれた山の頂上で足がすくんでしまい友人たちはさっさと滑り始め、すごすごとケーブルカーに乗って下に引き返そうとした少女ジーニーが出会った男は……(「あなたに似たひと」)
なんと社長夫妻が平社員の自宅に訪問に、ということで舞い上がっていたら、予定より一日早く二人が到着。夫の出世のことや失礼があってはならないとてんてこまいになってしまった若妻アリスンは……(「忘れられない夜」)
夫が死んだ後、自宅を半分貸すことにしたヴェロニカ。ふだんはあまりに静かに本を書いているためその存在さえ忘れかけていたのに、子どもを寄宿学校に見送って、がらんとした家で一人ぽつねんとしたら、突然その借家人から「お茶でもいかが」と声をかけられて……(「午後のお茶」)
娘が早産で緊急入院となって、大あわてで駆けつけたイーヴ。最初の子が難産でこんどの二人目も難産。いやな予感ばかりが頭をよぎるがそのとき見たのは……(「白い翼」)
ビルが結婚した相手は二人の娘持ち。「良き父親」になろうとして悪戦苦闘するビルだが、二人の娘はそんな彼にどちらかというと冷ややかな目を。そんなこんなの日曜の朝、娘がかわいがっていた金魚が死んでしまい……(「日曜の朝」)
八歳の少年トビーの“親友”ビル・ソーコム(62歳)が死んだ日。大工兼葬儀屋のウィリーとの会話。羊の出産。ずいぶん年が離れた姉とずっと喧嘩していた近くの幼なじみ(ボーイフレンド?)との仲直りの場面。おばあちゃんとの会話。トビーは生と死についてたくさん考えながらその日の終わりに眠りにつきます。(「長かった一日」)
豊かなイングランドの自然の中で過ごす二人。愛し合っているのにエリナはどうしても結婚に踏み切れません。将来へのおそれと自己嫌悪、トニーへの愛情でエリナの心は立すくんでいます。そのとき、ホテルで出会った老婦人は……(「週末」)
静かな水面に、ぽつりと雨粒が落ちて波紋が広がり、静まり、しばらく経ったらまた雨粒がぽつり、波紋、静まり……それが繰り返されるような短編集です。これは意外な拾い物でした。
拘置所に拘留されていた人が自殺して、新聞に載っていた拘置所の説明が「決まり通り15分ごとに巡回はやっていたから、こちらの落ち度ではない」。私には、これは「決まり」に落ち度があるように見えます。(物理的に「絶対自殺が不可能な環境」の設定は(人が暮らす環境では)不可能ですから、そちらは問いません)
「巡視が15分ごと」がパターンとして確立しているのなら、もし私がこの拘置所で自殺しようと決意したら、巡回が行ってしまったら「よし、これで14分は余裕がある。脳が酸欠になって手遅れになるまで数分としたら10分で準備を完了すればよい」と動き始めるでしょう。これがもし巡回が不定期で、早いと数分で戻ってきて、遅いと15分や30分のときもあって、パターンが全く読めない状況だとこれは困ります。「自殺の準備をすること」と「巡回を警戒すること」を同時にやらなければならなくなりますから。心は焦り注意力は散漫になり失敗の確率が増え、結局自殺を断念するかもしれませんし、いよいよ最終段階というところで発見されてしまうかもしれません。少なくとも自殺が、10分間の時間を保証された作業から、ギャンブルになってしまいます。そう思わせるだけで拘置所では自殺の抑止力として働きそうです。
(「24時間モニターか何かで監視しろ」と主張する人がいそうですが、そういった人は「監視は人権侵害だ」と主張する人たちとまず議論してきてください)
【ただいま読書中】
『警官嫌い』エド・マクベイン 著、 井上一夫 訳、 ハヤカワ文庫、1976年(86年13刷)、400円
87分署シリーズの第1作です。
ひどく暑い夜、夜勤に出勤途中の刑事が45口径を2発後ろから頭に食らって即死します。87分署の16人の刑事は15人になってしまいます。
深夜二時、刑事たちは捜査を開始します。その中に87分署の二級刑事キャレラもいました。年がら年中犯罪が起きて、ちゃんとやるには100人は刑事が必要な街の中を彼らはあてもなくさ迷います。薄汚れた街路、やる気のない同僚とのけだるい会話、聞き込みでの虚しい会話……なんというか「リアル」な場面が続きます。もちろん私は現実の捜査場面なんか知りませんが、てきぱきと進むテレビドラマのような場面展開は本書にはありません。だらだらとかったるく暑苦しい展開そのものが「リアル」なのです。さらに、拳銃携行許可証や検視報告書がまるで小説の挿絵のように途中に差し込まれます。キャレラが生きた人間として現実の中を動いていることを証明するかのように。もちろん生きた人間ですから恋もします。キャレラの恋人は、耳が聞こえず口がきけないテディ。
本書は「警察小説」の嚆矢だそうですが、それまでの推理小説に慣らされていた読者はきっと吃驚したことでしょう。私は高校の時のマルティン・ベックシリーズ(マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー)(最初に読んだのは確か『笑う警官』)でそういった「びっくり」を体験しましたが、本書の解説によるとマイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー夫妻は87分署シリーズをスウェーデン語に翻訳して紹介していた人たちだったそうです。なるほど、雰囲気が似ているわけです。
キャレラがテディにプロポーズした夜、また一人刑事が殺されます。物証は、弾丸と薬莢、それと犬の糞の上に残された足跡。おせっかいな新聞記者が街の中をかぎ回って事態をかき回し、そのとばっちりでまた一人私服刑事が撃たれます。手がかりは見つからず、募るのはイライラと暑さだけ(この暑さの描写はすごいです。読んでいてこちらまで汗まみれになったような感じになりますから)。
犯人はまた一人刑事を射殺します。しかし反撃にあい、肩に銃創を負います。警察に初めて豊富な手がかりがもたらされます。そして姿を現した“真犯人”と事件の真相は……
時代を感じさせるのは、指紋や血液型について説明があるところです。それも新しい知識として。でもそれは枝葉です。熱波で始まり熱波で終わる見事な構成と、カメラが地面すれすれに設置されている刑事ドラマのような全体の展開は、あっという間に読者を本の中に連れ込み、街の中を引き回してくれます。
明日の日の出は初日の出です。老若男女が一斉に日の出を拝むのは、日本で隠れていた太陽神信仰が日にち限定で復活する不思議な現象ですが、もしも「その年初めての日の出」がそんなにめでたいのだったら、「その年最後の日の出」もめでたいだろうと、今朝しっかり拝むことにしました。あいにく曇り模様でしたが、雲の切れ間がどんどん明るくなり全天を染めた茜色が東の一点を目指して収束していく様には見とれてしまいました。地の向こうから顔を出す太陽そのものを見ることができなくても、こうして「太陽が出たぞ」と世界中が自分に教えてくれるのは、とても嬉しくめでたいことに思えます。
ところで「初日の出」の対義語は何でしょう。「最後の日の出」だと『地球最後の日』みたいですし……ちょっと長いけれど「大晦日の日没」?
※今年も好き放題書きつづった一年でした。読む方もわりと好きに読めました。仕事が忙しくなってきたとか厳しい社会情勢とかありますが、この読書日記は来年以降も続けられるだけ続けます。どうかお付き合い下さい。ありがとうございました/来年もよろしく。
【ただいま読書中】
キリスト教を公認した大帝コンスタンティヌスの死から本書は始まります。コンスタンティヌスは自分の死後帝国を5分して統治するプランを残していましたが、葬儀の直後粛清が起き、結局帝国は三兄弟によって三分割で統治されることになります。しかしすぐに内紛が起きます。
ローマ帝国は、キリスト教だけではなくて、オリエントからエウヌコスという宦官制度を宮廷に導入していました。軍団は蛮族出身者が主力となっています。ローマ街道の整備も怠られています。ローマは「ローマ」ではなくなってしまったようです。そのせいか、著者の語り口はずいぶん辛くなっています。「こんなの、私が愛するローマじゃない」と言いたいかのように。
コンスタンティヌスの跡を継いだコンスタンティウスは、親戚のユリアヌスにガリアをまかせてそのほかの地域の統治に集中します。コンスタンティヌスの死後の粛清で父親を殺されずっと学究生活だったユリアヌスですが、意外にうまくガリアを管理します。
ローマ帝国の“基礎体力”は落ちています。蛮族の侵入が繰り返されて生産力は低下しインフラは荒廃、兵士と官僚と聖職者という“非生産部門”は増大。コンスタンティノーブルの宮廷では、オリエントの影響で組織の肥大化が進行していました。コンスタンティウスの跡を継いだユリアヌスは「改革」に乗り出しますが、それは二代にわたるキリスト教優遇策に逆らうことであり、かれは「背教者」と呼ばれるようになります。しかしユリアヌスが連発した「キリスト教国家への流れを変えようとする政策」はことごとく失敗。さらに数ヶ月後にはササン朝ペルシアとの戦争が再発します。既得権益を侵された有力者たちのユリアヌスへの反感は募ります。ギリシア・ローマの宗教の信者とキリスト教徒との争乱が起きます。さらにキリスト教内部でのアタナシウス派(カトリック)とアリウス派の対立。戦場に向かう軍隊は、かつては「ローマ人」と「属州民」の多国籍軍でしたが、今回は「ローマ人」と「キリスト教徒のローマ人」との多宗教軍となっていました。
結局ユリアヌスは19ヶ月で“退場”させられ、「異教徒」の勢いは衰退しキリスト教が興隆します。ペルシアは弱体化して東方は落ち着きましたが、そこにフン族が登場。黒海でゴート族を襲い、ドミノ式にゴート族はローマ国境に向かいます。(そのころブリタニアには、ピクト族・スコット族・アングロ族・サクソン族が侵入を繰り返していました。「おお、もうすぐサトクリフが描いた世界だ」と私は呟きます) 大挙侵入してきたゴート族にローマは大敗します(ハドリアノポリスの戦い)。そこでテオドシウス帝は、ブルガリアからセルビア・モンテネグロあたりにゴート族の定住を認めます。ただし、これまで伝統の「ローマ化」は行わずに。著者はこれを「ローマ帝国の“溶解”」と表現します。
「三位一体派」と「アリウス派(キリストは神ではなくて神の子)」の対立は深まります。私見ですが、聖書を素直に読めばキリストは神ではなくて神の子でしょうが、ローマ帝国の支配のためにはキリストを神に近づけておいた方が現世的に有利、という事情が働いてカトリックが優勢になったのではないか、と思えます。現実と相性の悪い教義は広まりませんから。
4世紀のローマでの、知識人階層におけるギリシア古典の教養教育とキリスト教の暴力的な衝突を見ていると、それから千年近く後のスコラ学のご先祖様か、とも思えます(スコラ学は繊細で知的、という違いがありますが)。同時に、中世のキリスト教がどうして知的でなくなったのかの原因もこのローマ時代にあるとも。ローマは変質してもローマだったのでしょう。
そして、ついにローマは東西に分割されます。