mixi日記09年1月
1日(木)演技/『ブロックルハースト・グローブの謎の屋敷』
大根役者の名にも値しないような学芸会レベルの“ドラマ”が大量生産されていますが、あれは結局「演技」ではなくて「ふり」とか「ごっこ」を見せられているから不愉快なのか、と気がつきました。「演じる」とは(「自分」をきっちり保っている)単なる「ふり」や「ごっこ」ではなくて「演じる役の中に自分自身をほとんどまるごと放り込んでから表現する作業」です。ですから、「ふり」「ごっこ」と「演技」の間には見る側によってある程度きちんと線が引けるのでしょう(もちろん上手下手があります。下手な演技は上手なふりには負けるかもしれません)。
実生活でも、商売で「自分の役」を上手に演じている人と、その「ふり」をしているだけの人とは、きちんと区別できません?
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イギリスのブロックルハースト・グローブ5番地の古い屋敷に住むメニム一家は、家族全員が等身大の布の人形でした。裁縫が得意なケイトという老婦人が作り出した人形一家にいつの間にか生命が吹き込まれていたのです。ケイトの死後40年間、一家は目立たないようにひっそりと暮らしていました。食べたり飲んだりは不必要ですが、「ごっこ遊び」でそのふりを皆がして楽しみます。それほどたくさん要りませんが、家賃や日々の暮らしのためにお金も稼ぎます。体をすっぽり覆う服を着、化粧などをして目がボタンであることに気づかれないようにして外出もします。ひっそりと一家はそれなりに平和で楽しい時を過ごしていました。
人形たちが夢中になって行なう「ごっこ」遊び(食べたり飲んだり、病気になって寝ついたり、の「ふり」を皆でやること)を読んでいると、こちらまで童心に帰るような気がします。しかしおじいちゃんのマグナス卿は「わしらは生きるために人間のまねをし、まねをするために生きている。この決まりは複雑すぎるんじゃ」と言います。この人形たちにとっての「生活」とは一体何なんだろう、と考えて、その問いがまっすぐ自分に向かってくることに私は気づきます。どきりとします。
そこに危機が。オーストラリアに住む大家が訪問してくるというのです。自分たちが人形だとわかったらどんなことになるでしょう。一家は震え上がります。幸いその人は旅の途中でオーストラリアに帰って行ってしまいましたが、事件は続きます。屋根裏部屋では未完成のまま放置されていた人形(女の子)が見つかります。長女のアップルビーの残酷なウソが発覚します。40年間毎年毎年「15歳の誕生日」を祝うのに疲れてしまったのでしょうか、アップルビーは家出をします。一家で一番理性的な長男のスービーは(人形は濡れることを嫌うのに)雨の中をアップルビーを探しに出ます。夜の町に若者は何人もいますが、アップルビーはなかなか見つかりません。
ゆっくり数えると、登場人物(人形)は11人もいます。ところがそれぞれが著者によって愛情をこめて書き分けられており、読んでいるうちに一人一人と知り合いになったような気分がしてきます。「主人公とその取り巻きと敵」しか書き分けられず、そのキャラクターに愛情の感じられない仕打ち(ストーリー上不必要な残酷な行為)を平気でする作者もよく見ますが、本書はそういった作品群とは一線を画しています。といって、ただ甘ったるいだけの子供だましでもありません。描写される行為そのものは大したことありませんが、そこに込められた心理的なビターさの凄みの描写は、「こんなの子どもに読ませて良いのか?」と言いたくなるほどです。
人が人形劇を好む理由は私には説明ができませんが、本書では、意識を持ち自分が人形劇を演じていることをわかっている人形たちが、(人形の脳(パンヤ)ですから小難しいことばは使えませんが)自分たちの存在意義や家族のあり方を真剣に問い続けています。人形ですから人間の生活をしようとしたらそれはすべて「ごっこ」や「ふり」になってしまいます。しかし「ごっこ」や「ふり」かと思っていたらそれが突然「現実」に転化してしまうこともあるのです。人形たちはその転化に怯えとまどい、そして成長していきます。本書は単純な「生きて動くお人形さんが出てくるファンタジー」ではなくて、家族と人生と成長についての物語です。
泥水まみれとなってアップルビーは発見されます。全身をお風呂につけて洗われるという、人形にとっては恐怖の体験の後、アップルビーは家族の中で他人の「ふり」をするようになります。家族はみなそれに傷つき、アップルビーも傷つきます。しかしそこから一家は新しい道へ踏み出します。新しい「ふり」と新しい「ほんと」が交錯した道へ。
本書はガーディアン児童文学賞を受賞したそうですが、一読、納得です。
私が子どもの時に最初に見た父親の給料の明細表は、たしか3万円くらいだったはずです。昭和30年代の……いつ頃だったかなあ。そんな給料で生活できたのが不思議とは思いますが、生活にそれほどの不自由はありませんでした。昭和30年代後半には、白黒テレビ・電気冷蔵庫(それまでは氷を買って入れるタイプ)・電気掃除機(ほうきとはたき)・電気洗濯機(タライと洗濯板)……つぎつぎ家庭は電化され、便利になっていきましたっけ。私の子どもが大人になってしばらく経った時に、どんな風に自分の子ども時代を思い出すのでしょう。(しかし、あれだけの買い物、どうやって支払っていたんだろう? やっぱり月賦かな)
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著者は師勝町歴史民俗資料館(別名「昭和日常博物館」)の学芸員です。
本書はまずは「昭和30年代に子どもが10円玉で買えたもの」から始まります。ラムネが10円(サイダーは30円か35円……私の最初の記憶は、近所のパン屋で売っていたラムネが5円・サイダーは10円なのですが……)、駄菓子屋のおかしやくじ、おもちゃ。そう言えば当時の市内バスや電車の料金は、大人が10円子どもは5円でした。電化製品の広告にも「10円」が登場しています。本書の表に乗っているのは、2バンドルームラジオが34時間、14型高性能遠距離テレビが7時間、電気冷蔵庫が25時間、電気洗濯機が6時間30分……(ギザの)10円が生活でしっかり生きています。
子どもの出産や子育て、旅行や生活など、昭和30年代に実際に使われた品々が次々登場します。懐かしい思いでページをめくりますが、著者がかかわっている「回想法」(懐かしい生活道具などを用いて、過去を語り過去に思いを巡らすことによって、生き生きとした自分を取り戻す)に引きずり込まれてしまったような気分がします。
「昔は良かった」などと言う気はありません。昔の思い出を大切にしながら今を生きることは「良いこと」でしょうけれど。
3日(土)女性らしさ/『ロザムンドおばさんのお茶の時間』
ネットの広告で盛んに「太ももの隙間」とか「ウエストのくびれ」とかを強調したものが流れています。まあ、男女ともに痩せた状態を理想とすることに別に大声で異議を唱えはしませんが、ではそういった人たちは妊娠したら「これは理想の状態ではない」とその“体型”を頭から拒絶するのかなあ。ちょっと心配です。あれも当然「女性らしさ」の一部だと私には思えるのですが。人間の美しさとか「〜らしさ」って、生理的な変化はコミですよね?
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『ロザムンドおばさんの贈り物』の“次の本”です。
「雨上がりの花」……子ども時代によく家族ですごした村を5年ぶりに訪れたラヴィニアの目的は、以前お世話になって今は病気で寝込んでいるというミセス・ファークワのお見舞い。だけど、それを聞いた人はみな顔を曇らせます。でも、ラヴィニアの目的はもう一つありました。それは……
豊かな自然描写、生き生きした村人たち、そして……本作の最後に登場する「雨上がりの最初の日光を、最初のぬくもりを受けようと」しているラッパスイセンは、一体誰のことでしょう? 読後に暖かい微笑みが残ります。
「湖に風を呼んだら」……幼なじみで初恋の人が町に出て女優と婚約した。こんなショッキングな出来事に直面させられたジェニーは、なにかをなくしそうになったときに初めて“それ”がいかに貴重なものか気がつきます。それまで引っ込み思案で待っているだけだったジェニーですが……これまた暖かい微笑みが読後に残ります。
「気がかりな不在」……新婚早々、週末になるとゴルフに出かけるジュリアン。一人残されるアマンダははじめは残念そうでしたが、そのうち何も言わなくなります。何も言われないとかえって罪の意識をかき立てられるジュリアンは……二人の気持ちの微妙な触れ違いが絶妙です。それがアマンダの料理に反映されているところも笑えます。
「丘の上へ」……10歳のオリヴァーは盲腸の手術をして静養のために小さな村の農場に住んでいる姉の所にやってきました。昼食はスープとマッシュポテトと黒パンという質素な生活です。丘の上には木彫りを生業にしているという冷たい目をした男ベンが孤独と共に住んでいます。あたりには豊かな自然が広がっていますが、自然の残酷な営み(弱肉強食)もオリヴァーは知ります。そして、暴風が荒野を吹き荒れた直後、姉が急に産気づきます。オリヴァーは残酷な自然や不気味な男に一人で立ち向かわなければなりません。
けっこうストレートな成長小説なのですが、爽やかです。自然の残酷ささえもが。
「父のいない午後」……母を失い父が再婚して1年。友達がどんどん女らしくなっていき、自分だけ子どもの領域に取り残され、学校も留年してしまった15歳のエミリー。お互い内気なためエミリーと継母ステファニーとはうち解けることができず、もうステファニーは妊娠9ヶ月です。そして今日は父親が不在で、二人きりで過ごさなければなりません。一体何を話せばいいのか、とエミリーは悩みます。しかし、急に陣痛が。
「丘の上へ」と同じく早産が「事件」として登場しますが、その扱いや物語の結末はずいぶん違います。それと印象的だったのは、午後7時なのに外がとても明るいこと(高緯度の夏だから当然なのでしょうが)。それと、救急車は病院に電話したら病院から派遣されることとその場合でも診察にかかりつけ医が関与しなければならないこと。日本とはずいぶん違うんだなあ、とそんなところに注目してしまいました。
「再開」……メイベル伯母が75歳の誕生パーティーをするとのことで、恋人を放り出して伯母がすむ古城に駆けつけたトムは、子ども時代に一緒に城で遊んだいとこたちの一人、キティーに再開します。生来の反逆児で親が反対したから意地になってカスのような男と結婚し離婚し小さな息子と二人で何とか暮らしている女性です。キティーは廃屋を買い取りそこを改修中です。この家の隅々までの描写には、著者のあふれんばかりの愛情を感じます。だけど、私が一番好きなのはこのシーン。「村の通りの角を曲がったとたん、最初の明かりが見えた。そしてやがてトルコ石色の空を背に、キントン城が影絵のようにそそり立った。」 寂れた古城がおそらく最後の華やかな賑わいを見せるであろう夜の描写です。ストーリーにはひねりはあまりありませんが、他の短編と同様に自然の豊かな描写と共に、二人の女性の行き方を対比させることで「人間の矜持とは」といったところまで考えさせてくれます。
全体に、構成が割と単純(基本は起承転結)、悪人は登場しない、人間の成長や愛情が扱われる、といったところから、波瀾万丈の物語やショックやスリルとサスペンスを求める人には物足りない作品集でしょう。でも、静かな物語でゆったりとした時を過ごしたいと思う人にはお勧めです。
初詣で、行列ができる神社があれば閑散とした神社もあります。
ジャンボ宝くじで、長蛇の列ができる売り場もあれば閑散とした売り場もあります。
この人気の差は何に由来するものなんでしょう。で、その“霊験の差”は?
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古今東西の「名作」から美文を書き抜いた本かと思ったら、違いました。
「わたしたち一般人は、名文家ではない。しかし、どんな文章が名文であるかは、よく知っている」と本書は始まります。ではそれはどこで学んだのかと言えば、常日ごろ目に触れる(そして読み捨てられていく)「雑文」によって私たちは文章力を身につけている、と著者は主張します。つまり本書は日常的な(そして読み捨てられてすぐに忘れられていく)「名文」についての本です。
例として取り上げられるのは、囲碁・将棋の観戦記、スポーツの観戦記、レコード評……特に映像表現に優れた文章として著者は歌舞伎の劇評を取り上げます。これは基本的に劇を観てその善し悪しを評するものですが、その文体が現代ではグルメやファッション評に受け継がれている、と言うのです。「あの芝居見たかい、面白いよ」がそのまま「あそこのレストラン行ったかい、美味しいよ」に変わったように。
映像的といえば、画家の文章も載せられていますが、これがまた写生的でたしかに“名文”です。
新聞も登場します。昭和30〜40年代の天声人語(朝日新聞)も今のとは別物で上等なできですが、私が感心したのは同時代の細川忠雄の「よみうり寸評」。本書に紹介されているのはとんでもない逸品です。こんなのを毎日読めたら、幸福だろうなあ。
司馬遼太郎と桑原健夫の対談「人工日本語について」では、戦後になってはじめて一般大衆のための標準的な文章日本語ができた。それは平易で誰が書いても同じようで、恋愛のこともベトナム戦争のことも同一の文体で書ける、と言っているそうです。著者はそれを「標準文体」と呼びます。昭和30年代に登場した中間小説の雑誌では、皆がこの文体を使っていました。だから、時代小説も現代小説もミステリーも風俗小説も全部同じ文体です。ところが昭和40年代になると、標準文体で出発した作家は競って個性的な文体で書き始めました。ただ、こういった文芸的なスタイルは時代の影響も受けすぐに古びてしまいます。実用的な文章は時代を超えて生き残りやすい傾向があります。
生活に密着した名文として例示されている北大路魯山人の「鮪の茶漬け」。読んでいるだけで本当に美味そうに思えます。手順が的確に明示されているのは、著者が他の場所で褒めているマックの解説本も同様です。著者はそこに「口誦」を見ます。標準的な文章口語は守備範囲が狭く固いものですが、そこに口誦口語を埋め込むことで文章は豊かさと柔軟性を獲得します。基礎と応用といったところでしょうか。もしかしたら私自身、このテクニックを使っているのではないかと気づきました。
正書法の章では「変わった正書法」が紹介されています。ちょっと引用してみましょう。
「こォ考えて来て、どこかで大いに叫びたいと思ッてゐたチ゛ャアナリズムの訴えを、ここで一言しよォと思う。チ゛ャアナリズムが國語に寄輿するところわ、今更言うまでもないが、又、それほど有力であり、期待せられるものであるだけに、へたなことをしてもらってわ困ると、私わ切に訴える。」(『標準語』石黒魯平(駒澤大教授、国学者)、昭和25年)。なんか、あちこちで最近よく見る文体に似ているような。で、これに対応するものとして『当世書生気質』(坪内逍遥、明治18年)の「サアそれサ。あれハ全く親父から呼びに来て。駒込の家に宿ツたのだ。ダケレド。他人ハ然るとハ思はず。矢張遊ぶンだと思はれる、シカシ是も前に馬鹿をしたからの事サ。」……ケータイ小説?
……正書って、なんでしょう? それと、人類は進歩しているのかな?
本書にはいろいろ興味深いことが書かれていますが、たとえば「文章は事実を要約する機能を持つ」という面白い指摘があります(「コーヒーを一杯飲んだ」という文章を読むのに要する時間は、実際にコーヒーを飲むのにかかる時間より短い)。ところがそれで書かれたポルノ小説はちっとも面白くありません。だからポルノでは文章は(行為の細かい描写によって)“引き延ばされ”ます。著者はそれをポルノ小説の“特権”と言います。そしてその文体を借用した文章は、ポルノでなくても妙に色っぽくなります。
あるいは「歌人と俳人では文章のスタイルがずいぶん違う」。俳人は対象をクローズアップすることに優れているが、旅に関しては歌人の文章の方が“実用的”だそうです。
日本の実用的口語文が成立するには、文芸畑だけではなくてジャーナリストやアマチュアの力も大きかった、も重要な指摘でしょう。本書には、アントニオ猪木とか淀川長治までその例として登場していますが、たしかにわかりやすいくて良い文章です。
「これが名文だ」と人に教えてもらうのではなくて、自分で「これは名文だ」と発見する楽しみがあることを教えてくれる本です。
世に「聖職」と呼ばれる分野の人たちの共通点は何か、と考えてみたら「見えないものを扱うこと」ではないかと思いました。宗教の人たちが扱うのはもちろん目には見えない神とか魂です。現代で聖職扱いされている教師が扱うのは人の精神の成長です。医者が扱うのは……あら、目に見える病気ですね。ただこれも「健康」を扱う、と考えたら目に見えなくなりますが。
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『踊るドルイド』グラディス・ミッチェル 著、 堤朝子 訳、 原書房、2008年、2400円(税別)
ファンタジーと探偵小説が融合した「ファース系」の代表作家だそうです。
1948年の英国。陸上クラブのクロスカントリー(「野ウサギと猟犬」というゲームで、一人が野ウサギになって逃げ残りの10人が猟犬となって追いかけながらゴールを目指す)をしていたオハラ青年は、足を挫いて暗闇の中妙な農家に紛れ込み、「遅かったな」と言う言葉をかけられて湯たんぽで温められた「急病人」を運ぶ手伝いをさせられてしまいます。ところが逃げ出した後見たら自分のランニングシャツは血まみれ。犯罪の片棒を担いだのではないかと悩んだオハラは知人の知人の勅撰弁護人ファーディナンドに相談することにします。迎えたのはその母親ミセス・ブラッドリーとその秘書ローラ。現場は、荒野と荒廃した農場と円形古墳。ミセス・ブラッドリーは9年ごとに奇妙な失踪事件があることに気がつきます。共通点はどこも寂しい場所であること。
ミセス・ブラッドリーとローラは近くのストーンサークルに赴き、そこが「ドルイド」または「踊るドルイド」と呼ばれることを知ります。
ミセス・ブラッドリーは90歳くらい。手は黄色いかぎ爪のようで耳障りな高笑いをし、編み物(と称するごちゃごちゃしたもの)が好きで、21歳のローラに伍して歩けるくらい肉体条件が良い人です。なんとも奇妙な“名探偵”です。そしてその回りに集まる素人探偵集団がなんとも話をごちゃごちゃにしてくれます。犯罪者集団はどうも間抜けの集まりですが、“正義”の側もそれに負けず劣らずドジ揃いで、“現場”をしっちゃかめっちゃかにしてくれます。私が連想したのは「サンダーバード」です。あの人形劇で表現される“人間関係”の雰囲気が本書にそっくり。特にペネロープとその運転手パーカーの人物造型が、本書でのミセス・ブラッドリーと運転手ジョージとにみごとにかぶさってきて、笑えました。
はじめは「ドルイド」や9年ごとの殺人(?)ということで、邪教集団が相手かと思っていたら……これ以上はネタバレになるのでやめておきます。本格派のミステリーを期待して読んだら空振りすることだけは保証しておきましょう。それなりに魅力的な作品ですが、私自身はたぶんもうこの作家を読むことはないでしょう。
6日(火)ゲットー/『十八世紀ロンドンの日常生活』
70年くらい前、ワルシャワのゲットーにはユダヤ人が数十万人押し込められていました。ドイツ軍と警察によって隔離され、彼らによるユダヤ人に対する一方的な暴行や殺害は日常茶飯事。強制連行も盛んにおこなわれていました。それに対してレジスタンスや密輸も盛んに行われ、ユダヤ人による大規模な武装蜂起もありましたが、結局軍隊がしらみつぶしにその活動を破壊していきました。
今、パレスチナ自治区で行われていることをニュースで見ていると、一つの民族を一定の地域に幽閉し軍隊によってその活動を破壊しようとする共通点から、私はガザの後ろに「ゲットー」をつけたくなります。
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『十八世紀ロンドンの日常生活』リチャード・B・シュウォーツ 著、 玉井東助・江藤秀一 訳、 研究社出版、1990年、3010円(税別)
十八世紀最大の人気作家サミュエル・ジョンソンを道案内に、当時のロンドンの平凡な日常生活を詳しく知ろうという本です。当時のロンドンを愛し細かな観察をして残したジョンソンの記録をもとに、ジョンソンが実際に体験したであろうロンドンの再現が行われます。たとえるなら「北斎漫画」(江戸の日常見られるものを描き残したもの)をもとに実際の江戸の生活を復元しようとするのと似ている、と言えるでしょうか。
まずは「悪臭」から。ロンドンは悪臭に満ちていました。街路は汚泥まみれで、通る馬車の車輪は汚泥を他の馬車・家の壁・通行人に跳ね上げています。汚泥のもとは、馬や人間の排泄物、人々が平気で捨てる汚物、道路に埋められた上水道(ニレの幹をくりぬいた水道管はしょっちゅう漏れていました。古代ローマより水道に関しては“退化”したと言って良いかもしれません)でした。さらに住宅の外には汚物だめがあり、それはくみ取りや屋内の臭い軽減には役立ちましたが、あたりの悪臭はひどいものでした。また、集団墓地は、大きな穴に棺桶が何重にも積み重ねられ、一杯になるまで土がかけられないため腐るにまかせる状態でした。上流階級の室内も臭いに関しては悲惨です。暖炉に放尿したり、晩餐会でも乾杯をしながら食卓で小用を足すのはごくふつうの行為でした。そして石炭の煙。
ロンドンの経済活動はきわめて活発でした。当時のイギリスは人口が約1000万人でその内約1割近くが集まっていたのです。ただし就職は厳しく、乞食や売春婦になる人も多く(1758年の調査では、売春婦の中間年齢は18歳、売春婦になった年齢は16歳が最も多く、大部分は重い性病を患っていました)、食い詰めてアメリカに移住する人も多くいました。ユトレヒト条約で奴隷貿易の“分け前”が英国にもたらされ、1770年ころには黒人奴隷が15000人ロンドンにいました。子どもも貴重な労働力として酷使されました(19世紀になっても学校に行ける子どもは10人に一人です)。
娯楽。劇場やコーヒーハウス、散歩といったまっとうなものもありますが、精神病院に出かけて患者の見物とかさらし刑の見物、動物いじめも当時人気の娯楽だったそうです。あとはアルコール(特にジン、ビール、リンゴ酒が大人気でした)。
食品偽装も横行していました。牛乳を水(それもきれいな水ではありません)で薄めたり、砂糖に砂を混ぜたり、肉の種類を偽ったり、紅茶に他の植物の葉を混ぜたり、硫酸を薄めて色をつけて「酢」として売ったり、酒に様々な混ぜものをしてごまかしたり……でも、今の日本人は彼らを笑えませんね。同じような目に遭っているのですから。
衛生状態は劣悪です。アルコールが流行するのは水環境が悪いから。だから「入浴は年に1回か2回」となります。こう書いただけで全身にかゆみが走ります。ひどい虫歯も多く、それが死因として大きなものになるくらいでした。医療も低レベルです。ここに具体的な医療処置が数々挙げられますが、なんとも原始的だったり残酷だったりで、私が患者だったら絶対お断りといいたくなるものが列挙されています。
18世紀のロンドンでは警察は機能していませんでした。そのかわりに厳罰が施行されました。単純な窃盗でも死刑になりました。子どもでもその例外ではありません。公開処刑によって絞首刑または斧による斬首刑が行われました。さらし刑も、集まった群衆の態度によっては死刑に変わってしまいました。絞首刑は今とは違ってゆっくり絞めてゆっくり殺すものだったため、友人や親戚が慈悲の(苦しみの時間を短縮させる)ためにその脚にぶら下がるということも行われていました。本書にはありませんが、恥辱刑も盛んに行われていました。
英国では18世紀にジャーナリズムが発展し、貿易や商業は活気を帯び、様々な流行がありました。見せ物も多彩です。そういった「明」の部分と対比される「暗」の部分が本書には多く収載されています。記述や資料がきわめて具体的で、当時のロンドンのにおいや音が伝わってきます。
8日(木)理論的には可能だけれど……/『荒野のコーマス屋敷』
電柱くらいの大きさの煙草を喫う
富士山をフラッシュ撮影
一トンの塩をなめて死ぬ
日本で失業者がゼロ
白バイが二人乗り
詩人のドブネズミ
数頁の長編小説
……あ、最後は現実的に可能でした。「長編小説」というタイトルの短編小説を書けば良いんだ。
【ただいま読書中】
『荒野のコーマス屋敷』シルヴィア・ウォー 著、 こだまともこ 訳、 佐竹美保 絵、講談社、1996年、1553円(税別)
メニム一家の物語第二弾です。第一作の『ブロックルハースト・グローブの謎の屋敷』と同様、衝撃的な手紙で物語の幕が開きます。ブロックルハースト・グローブを取り壊して高速道路を建設する計画があるが、そこから一家を救い出そうという手紙です。この瞬間から私はにやりにやりとしてしまいます。命を持った等身大の人形で構成された一家がこの“危機”を乗り切るためにどのように恒例の“家族会議”を開くことになるか、そしてそこでの決定事項がいかに無力なものであるかが予想できるからです。さて、この窮地から一家はどのように抜け出すのか。知恵と勇気と団結力……ではないことはまず確かです。
“助っ人”として現れたアルバートは、知恵の人と言うよりは思いやりの人でした。この際、ぴったりの人選と言って良いでしょう。ただ、人形と人間の出会いの場は、やはりこちらは笑ってしまいます。どちらも自分のことに夢中で、相手も同じように戸惑い緊張しているはず、ということに思いが至らないのですから。……これって、人間の世間でも良くあることですね。だけどとりあえず“暫定協定”が結ばれます。メニム一家はまた「ごっこ」や「ふり」を始めてアルバートを驚かせ、逆にアルバートは屋敷の水洗トイレを初めて使ってメニム一家を仰天させます(一家の誰もトイレを使うふり、はしていなかったようです)。
とりあえずの避難所として、アルバートは一家を荒野に立つ荒れ果てたコーマス屋敷に連れて行きます。しかし慣れない環境での生活は、メニム一家にストレスとなり、屋敷内の雰囲気はとげとげしくなります。今作ではあの冷静なスービーがショックから引きこもりになってしまいます。幸い高速道路の計画は変更となりブロックルハースト・グローブの屋敷は救われますが、その夜コーマス屋敷に侵入者が。
前作とは違って、“名前をもつ人間”が何人も登場します。そして最後に、ガラスの瞳から本物の涙が二粒流れて本書は終わります。魔法のような本です。魔法的存在が次々登場するだけではなくて、その魅力で読者をこの本の虜にする魔法です。
2日に書いた『キャラメルの値段』の中に写真が載っていた手で絞るローラーがついた洗濯機が本書にも登場します。うわあ、なつかしい、と私は呟きました。このお話は現代が舞台なんですけれどね。
ある本で二宮尊徳が「道徳なき経済は悪であり、経済なき道徳は寝言である」と語ったと読んで、良いことを云うなあ、と思うと同時に私は疑問を持ちました。「経済」ということばは福沢諭吉の造語とされています。だとすると江戸時代の二宮尊徳が本当に「経済」という単語を使ったのだろうか、と思ったのです。そこで『二宮翁夜話』を読んでみました。私の注意力が不足していたのか(あるいはもしかしたら出典は『報徳記』の方かも)、ぴったりのところは見つかりませんでしたが、それに近いことを言っている場所は見つかりました。
・「翁曰道の行はるゝや難し、道の行れざるや久し、その才ありといへども、その力なき時は行はれず、其才その力ありといへども、其コなければ又行れず、其コありといへども、その位なき時は又行れず、然れども是は是大道を國天下に行ふの事なり、その難き勿論なり、然れば何ぞ此人なきを憂へんや何ぞ其位なきを憂んや」
・「道徳経済の元なり、家々の権量とは、農家なれば家株田畑、何町何反歩、此作徳何拾圓と取調べて分限を定め、商法家なれば前年の売徳金を取調べて、本年の分限の予算を立る、是己が家の権量、己が家の法度なり、是を審にし、之を慎んで越えざるこそ、家を斉ふるの元なれ、家に権量なく法度なき、能久きを保んや」
一読してわかりますが、繰り返しが多く、飲み込みの悪い人にもわかるようなだらだらした説得口調で「道徳なき経済は悪であり、経済なき道徳は寝言である」といったすぱっと断ち切るようなもの言いではありません。ただ、実用を離れて儒学や仏教の教えを生半可に振り回す机上の空論を尊徳は嫌悪します。そのへんのエッセンスを抽出して組み合わせたら上記のことばになりそうです。
金の単位が圓や銭だったり、別の場所で「東京」と書いて「えど」とルビがふってあったりしているのは、たぶん弟子の「編集」でしょう。だから「経済」も弟子が明治になって入れたことばかも、と思いましたが……佐藤信淵(さとうのぶひろ 明和六年〜嘉永三年)に『経済要録』『経済提要』という本があり、『二宮翁夜話』にもその名が登場します。ですから江戸時代にすでに「経済」ということばがあったことは間違いなさそうです。ただ、『二宮翁夜話』では「経済」は名詞だけではなくて「経済する」と動詞でも使われています。おそらく現代の「経済」とはニュアンスが相当違っていたと私には思えます。
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『二宮翁夜話』福住正兄 筆記、佐々井信太郎 校訂、岩波書店(岩波文庫)、1933年(2004年20刷)、660円(税別)
二宮尊徳といえば、薪を背負って歩きながら本を読んでいる姿をまず思い出します。小学生の時に私はランドセルを背負って同じ格好で歩いていました(当時から時間を惜しんで本を読む人間だったのです)。二宮尊徳が幕末の人で、その身近にいた弟子が(まるで論語のように)尊徳のことばを記録して明治になって(巻の一は明治十七年に)出版していたのは知りませんでした。
彼が唱えたのは報徳思想と呼ばれますが、一言では「土のにおいのするプラグマティズム」と言ったらよいでしょうか。破産した家・村・天領を再生させた実績と、その基盤となった思想とが見事に調和し、言と動が「生活(農業)」という局面で一本スジを通されてまっすぐに生きています。ただし、明治政府が主張したような「単にひたすら汗をかけ」ではありません。使われるたとえは弟子たちのためでしょうか、農村の生活に密着したものばかりですが、その思想面はなかなか奥深いものがあります。たとえば「天道と人道が大切である。人道は水車のように回るもの。水流に浸かっている部分は水の流れに従うが、そこから出ると水とは逆方向に動く」なんてのは、けっこうシニカルでラジカルです。
また、善悪・損得などはすべて「人為」で、もちろんそれは重要なことだがそれを越えたもの(大極)が存在することを忘れるな、と二宮尊徳は繰り返します。農家としてきちんと“実績”をあげることと、思想的にスジが通った生き方をすること、その両立を尊徳は求めるのです。また、学問も実地に役立つことを求めます。「『種芋』と分類して札をかけるだけはただの『本読み』。真の『学問』はその種芋を植え収穫を得ること」と尊徳は述べます。
有名なエピソードですが、天候不順の年の土用に収穫した茄子を尊徳が食べたら秋茄子の味がしたためこれは冷夏になると予測し、木綿のような商品作物ではなくて食べられる救荒植物を植えろと下野の領内を説いて歩き、その“予言”が見事に的中して人々が救われた(尊徳を信じない、あるいは木綿をどうしてもあきらめられなかった人の畑には結局なにも実らなかった)、という話が紹介されています。その場合もたとえば「蕎麦を植えるときに菜種も混ぜて蒔け。そうしたら、蕎麦を収穫したらそのすぐあとに菜種も収穫できる。蕎麦の収穫でいくらかは損害が出るが、蕎麦を収穫してから菜種を蒔くより時間が節約できる」といったきわめて具体的な指示をしています。
さらに「実用性重視」と言っても、社会や歴史に対して透徹した視線を向けている二宮尊徳は、一筋縄ではいきません。
ある大名家で焼けた宝剣を研ぎ直そうとなったとき「そんな人を切れない飾り刀を研いでなんの実用性があるか。わざわざ手をかける必要なんかない」と言った人に対して尊徳は「戦時ではなくて平和な世には、宝剣には人を切るという“実用性”ではなくて『先祖の積コと家柄の格式の象徴』という役割がある。刀の人を切る“実用性”だけに注目するのは、自分は一人でえらくなったと胸を張って、太平の世のありがたさと先祖を忘れている態度でしかない」ときびしく諭しました。後日談として、このとき二宮尊徳に叱られた中村某氏はのちに「じりじりと照りつけられて實法(みの)る秋」という句を詠み、尊徳はそれを非常に喜んだそうです。
経済に関して尊徳は、ストックよりフローを重視しています。「勤勉」も精神論やストックのためではなくて金銭のフローを社会で何回も回すための手段です。だから飢饉の時などの貸付金は無利息で、と繰り返し述べています。「マイクロクレジット」を考案し「グラミン(農村)銀行」を設立してノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏の考え方にも尊徳と共通する部分があるように思えます。
机上の空論を嫌うと同時に、資本主義的に利益のみ重視する(むさぼる)態度も嫌った尊徳は、今の時代にもうちょっと注目されて良い人かもしれません。少なくとも私はファンになりました。
激しい逆風も後ろを向けば順風です。「風が悪いんじゃなくて自分の向きが悪かったんだ」と“順風”に従うのも一つの人生ですし、「逆風を楽しもう」もまた一つの人生でしょう。
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『路傍の石』山本有三 著、 偕成社文庫3115、2002年、900円(税別)
高等小学校2年の吾一は学校一の優等生ですが、家に金が無いため中学校には行けません。おやつを我慢して1銭2銭と貯めた金も、没落士族で訴訟マニアの父親に使われてしまいます。そういった不遇の環境を、バネにできたら良いのですが、吾一は劣等感から意地になるだけで結局自分を悪い方に追い込んでしまいます(そのあたりの表現が、子ども向けの文章できわめて“上等”に展開されます)。構成も工夫されていて、子どもの世界の描写に、大人同士の会話シーンが挟まれます。これで物語の背景が理解しやすくなる、という仕掛けです。
吾一は近くの呉服屋に小僧として奉公に入ります。勉学へのあこがれはやまず、吾一は奉公に身が入りません。しかし、そこのお坊ちゃん(小学校で吾一の同級生で劣等生だったが中学には無試験で入学できた)があまりに勉強ができないため、吾一がその宿題をかわりにやることになります。藪入りで吾一が初めて家に帰った翌日、不平等条約改正が行われます。そして母の死。東京にいる父親からは連絡がありません。吾一はついに、店を逃げ出し汽車に乗って上京します。父親には会えず途方に暮れていた吾一は、「おともらいかせぎ」の老婆と出会います。(お葬式に会葬者のふりをして参列して、帰りに引き物の菓子折や切手をもらいそれを売る「商売」です) おきよばあさんは、吾一を助手にスカウトします。
本書で黒田という書生が言ったことばですが、艱難辛苦は人を玉にしますが、荒砥石ばかりにかかっていると人間はすり減って無くなってしまいます。吾一はその荒砥石にばかりかかっている様子です。しかし黒田が保証人になってくれて吾一は印刷工場の小僧になれます。さらに商業学校への進学の道が開け……そうなところで本書は中絶します。
「努力をしたら報われる」とか「白馬の騎士が迎えに来てくれる」といった物語ではありません。理不尽なくらい吾一は不幸の連続ですが、では彼がただひたすら健気に生きているかと言えば実はそうではありません。「わざとやっているんじゃないか」と言いたくなるような、あえて自分を不利な立場に追い込む行動もけっこうやってくれます。ただしそれは吾一一人ではありません。本書に登場する人はほとんどがそういった面を持っています。人生の重要な局面で、誰が見ても「それはないよ」という決断を、たとえば「誰かに反対されたから、かえって意固地になって」といった程度の理由で自分でも「これはまずい」と思いつつ重大な決断をしてしまう人が続々登場します。
戦争前に著者がなぜ明治時代の少年の物語を書いたのか、そしてなぜ物語を中絶させたのか、不思議です。もしかしたら、吾一の人生に「日本」を重ね合わせていたのかもしれない、と私は感じました。ただ、もしそうだったら、著者の目に映った「日本」は、自分なりのスジを通して愚直に生きようとする吾一なのか、それとも意地を通すことで結果としてどんどん人生が窮屈になっていく吾一なのか、どうなんでしょう。
我が家には現在エコバッグが2枚あります。いつのまに入ってきたのかわかりませんが、油断するとどんどん増殖しそうなので意識的に抑制をかけています。
しかし、世の中は右を見ても左を見ても「エコバッグ」「エコバッグ」の連呼ですが、ではエコバッグをこれだけ製造して、レジ袋の消費量はどのくらい落ちたのでしょうか。そのデータを私は知りたいと感じます。「エコ」の“錦の御旗”の下には何を言ってもやっても許される、わけではありません。「エコ」と言う以上、エコバッグのエコ性についてどう評価するかの客観的手法とその結果について、詳しく具体的に知りたいなあ。
【ただいま読書中】
学生時代に読んで感銘を受けた本ですが内容はきれいに忘れているので、ひさしぶりに再読することにしました。
まず思考実験から話は始まります。地球のことを知らない火星のプログラマーが、地球で採取される様々なモノを自動的に「生物」と「人工物」に分類するプログラムを書かねばならないとします(『火星の人類学者』(オリヴァー・サックス)
はここからの発想かな?)。では「生物の特徴」はなんでしょう? これが結構難しい。著者は、合目的性・自立的形態発生・複製の不変性、をあげます。
「進化は熱力学の第二法則に反しているように見える」というジャブを一発放ってから著者は本題に入ります。まず「合目的性」。近代科学はアリストテレスの「目的を解釈することで真実に到達する体系」を否定することで成立しました。ところがその近代科学で我々は生物の「目的」を認めなければなりません。これは一見、認識論上の矛盾です。
有機化合物は、炭素に「H基」または「OH基」がいかなる向きで結合するかによって幾何学的異性体を作りさらにそれぞれについて光学異性体を形成します。ところがその基質に働く酵素は、その異性体を厳密に識別します。つまり、酵素と基質は「立体特異性を有する複合体」を形成し、その“後”複合体の内部で酵素の反応が行われるのです。著者はこういった“細部”の研究(酵素適応)でノーベル賞を受賞しました。
「有機論者(全体論者)」は「還元論者」に異議を申し立てて「いくら細部を極めてもそれで全体は見えない」と言います。しかし著者はそれを「細部への無知の言い訳」と言います。分析によって得られた結果に対する無知と同時に「“分析”は科学的“方法”の中で一つの役割を果たしているだけ」という事に対する無理解を示しているだけ、と。この前読んだ『脳と心』でもこのテーマは繰り返されていました。しかし、部品にばらせばそのメカニズムがわかる機械と生命は違います。だからこそここで「火星のプログラマー」がまた登場するのです。重要なのは「システム」です。細部の「事実」をただ乱雑に集積するだけはそこに生じるのは混沌にしかならないのですから。
普通人は「システムと細部」と言うと、まずシステムがありそれに従って細部が作られるように思います。しかしモノーはそうではなくて、細部(たとえばタンパク質の立体構造)の積み重ねによってシステムがその全貌を現す、いうイメージを持っています。このへんは直感的判断に反する考え方なのですが、私はそれを受け入れます。だから著者から見て全体論者と還元論者の論争は、最初から無意味なものなのです。
遺伝子は偶然の突然変異を繰り返し続け、その結果新しい種が誕生できたらそこで淘汰が始まります。著者は「生存競争」ということばを使いません。「種の繁殖率の競争」と述べます。そこには偶然性は存在せず、必然的に淘汰が行われます(繁殖競争に負けた方が滅びる)。しかし、「偶然の突然変異」と言いましたが、突然変異は「遺伝子の複製機構が完璧ではない」ことから“必然”的に生じます。さて、すると「偶然」の意味は?
本書では、マルクス主義が健在で、「セントラル・ドグマ」(「DNA→(転写)→RNA→(翻訳)→タンパク質」の流れは逆転しない)が揺るぎのない真実だった時代に書かれました。しかし、それでも本書の価値はちっとも減じていません。進化論に関して触れたところで私はグールドのエッセー群やドーキンスの本を、言語に関して触れたところでは『5万年前 ──このとき人類の壮大な旅が始まった』を、脳の機能に関した部分ではこの前読んだばかりの『脳と心』を思い出しながら肯いていました。しかし、そういった“参考書”を一切抜きでこの本を書いたモノーという人は、とんでもない人です。本書はそれほど難解な概念やことばを使わず(目立つのはせいぜいプラトンやデカルトくらいです)、タイトルの通り現代生物学の思想に関して重要な指摘をしている本です(たとえば遺伝子治療についての記述では、その限界についてすでに指摘をしています)。さらに「思想の進化」という面白い考えも最後に登場します。進化論的に思想史を眺めたら、たしかにものすごく面白い世界となります。ただ、単純に進化論を援用することはできません。思想の場合、思想と人間の関係が、進化論の種と環境の関係と違って、お互いに深く影響を与え合うものですから(このあたりで私はレヴィ=ストロースを連想します)。さらに「表層的な理解から、科学を利用したがるくせに、科学を尊重したり科学に奉仕しようとはしない」人々が多いことへの危惧も語られます。この警告は、この数十年で科学が進歩したのにつれてさらにその深刻さを増しているように私には思えます。
科学に興味を持つ人は、たまには温故知新、こういった基本的な本を読むのも良いですよ。
これは自動車教習所などではたたき込まれる知識ですが、バックミラーには死角があります。つまりある角度で自分の斜め後ろに存在する車(や二輪車や人)はバックミラーだけに頼っていたら見えません。
逆に言えば、たとえば二車線道路を走っている場合、自分の斜め前にいる車からは自分は見えていないことがあるのです。
自分の斜め前を走る車が急に自分の前に割り込んでくることが多い場合、それは前の車の問題かもしれませんが(後方確認を全然しない人はけっこう多いですから)、もう一つ、自分が相手の死角に入り込むクセがあるかないかを一度チェックしておいた方がいいかもしれません。一番簡単な確認方法は……相手の車のバックミラーを通してその車のドライバーの顔が見えるかどうか、かな。
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『恐怖の研究』エラリイ・クイーン 著、 大庭忠男 訳、 ハヤカワ文庫、1976年(94年18刷)、447円(税別)
カバーでは「恐怖」が赤い文字になっています。ここでコナン・ドイルの『緋色の研究』を思うのが“正解”でしょう。(ついでですが、「緋色の研究』は原題が「A Study In Scarlet」で本書の原題は「A Study In Terror」です)
締め切りに追われるエラリイ・クイーンのもとに持ち込まれたのは、未発表のワトソン博士の原稿。そこに書かれているのは、1888年ロンドンを震撼させた切り裂きジャックの物語でした。
原稿がどこからともなくエラリイ・クイーンのもとに届けられたのと符合するように、その原稿の中の物語は、どこからともなくホームズとワトソンのもとに外科手術器具のセット(ただし、解剖用のナイフが1本だけ欠けている)が届けられることから話が始まります。二人は捜査を開始します。
20世紀に生きるエラリイ・クイーンは捜査はしません。締め切りに追われながら、ちびりちびりと原稿を読みだけです。なぜわざわざこのように面倒な二重構造の物語をこしらえたのか、と私は怪訝に思いながら、エラリイ・クイーンを通じて19世紀のロンドンに行き、そこで陰惨な事件に付き合うことになります。そして最後に事件は“解決”したかのように見えるのですが、ホームズはワトソンに記録の公表を許しません。
エラリイ・クイーンが読む最後の“謎解き”のところで、私はホームズがワトソンを明らかにミスリーディングしているように思いました。そこがわかれば切り裂きジャックの正体についての“謎”はそれほど難しいものではありません。
ホームズ譚は、一番近くの目撃者ワトソン博士が記録をしているという構造が特徴です(コナン・ドイルの名前は一時忘れましょう)。さて、読者は当然、そこに描かれた記述は“真実”であるという前提で臨みます。それが信用できなかったら、正しい推理が成立しません。しかし本書の著者は、そこにでっかい疑問符を突きつけます。ワトソンはきちんと“目撃”をしているのか?(ワトソンが相当のうっかり屋というのは有名ですよね) ワトソンの記述は実際に起きたとおりに書かれているのか? そして一番のキモ。ホームズがワトソンに語ることばは、本当にすべてが“真実”か?
これは、ホームズをもう一度読み直す必要があるかもしれません。ホームズは嘘を言っているかもしれない(少なくとも真実を語っていない可能性がある)という目で。
13日(火)幸福の強迫/『ロザムンドおばさんの花束』
自分が信奉するものを他人に押しつけたくて仕方ない人間は、きっと自分の人生に自信がないかなにか大きな不満を持っているのでしょう。
自分に自信があれば、他人のことにちょっかいを出さなければならない動機が生まれません。自足しているのですから。
不満がなければ、他人のことに口をはさまなくてもそのまま幸せに生きていけます。
不幸な他人を幸せにしたい、と思った時、「自分の幸福のお裾分け」を遠慮がちに申し出るか「自分の幸福をお前は受け入れるべきだ」と強迫的に振る舞うか、の分岐点がそこにあるのでしょう。
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「──贈り物」「──お茶の時間」に続くロザムンドおばさんの短編集です。
三冊目にしてやっとわかりました。このシリーズは「小さな奇跡」の本です。日常生活の中、見過ごしてしまいそうになる本当に小さな“奇跡”を丹念に記録した短編の積み重ねなのです。
「人形の家」……7歳の妹ミランダに「今度の誕生日には人形の家をプレゼントする」と約束した父さんが死んでしまい、そのかわりに自分で人形の家を組み立てようとしているウィリアム少年は、しかしものすごく不器用でした。どうやっても部品が上手く組み立てられません。だけど、人形の家がもらえなかったら、ミランダは死んだ父さんのことを嘘つきだと思うでしょう。母さんは親切な、でもウィリアムの気に入らない男と交際を始めています。そんなときウィリアムが出会ったのは……
「初めての赤いドレス」……父親が死に、長年勤めていてくれた庭師にも去られてしまった40歳のアビゲイルは、荒れていく庭園を前にして途方に暮れます。そこに現れた青年タミーは、教師をやめて画家になろうと家族を連れてやってきた流れ者でした。彼の絵はまことに奇妙でしたが、庭師としては確かな仕事をしてくれました。アビゲイルは、自分が絶望していたのは、庭にではなくて自分の人生に対してであったことに気づき、赤いドレスを購入します。しかしある日タミーは姿を消します。
「風をくれた人」……ロンドンの外れに古い家をローンで買って住んでいるイーアンとジルは、汚い庭を何とかしたいと思ってはいますが、大きすぎる木と金が無いことがネックとなって何もできずにいました。唯一の楽しみはたまに週末に田舎に招待してくれる友達の存在。今週末もその招待があり、楽しみにしていたところに、苦手な親戚(イーアンの名付け親)が友人のお葬式でロンドンに出かけるから夕食を食べさせろ、とリクエスト。せっかくの週末が台無しとなった二人ですが……
「ブラックベリーを摘みに」……子ども時代から青春期まで毎年夏に訪れていた田舎町に20年ぶりに従姉妹を訪れたクローディアは、幼なじみのマグナスに再会します。マグナスは独身のままでした。クローディアは進展のない愛人ジャイルズとの関係に疲れを覚えています。そして田舎の美しい一日。クローディアは従姉妹一家とマグナスとでブラックベリーを摘みます。ところがその日の新聞の社交欄にはジャイルズの結婚のニュースが……
「息子の結婚」……今日の午後は息子トムの結婚式。夫はスコットランドのホテルの前のコースにゴルフに出かけ、娘たちは美容室へ。ローラはゆったりと過ごすことにします。ローラはトムと、思い出話をしながらあたりを散歩します。
「クリスマスの贈り物」……一人で暮らすことに慣れて、明日のクリスマスを一人で過ごすことになるのも寂しいとさえ思わないミス・キャメロン(58歳)。彼女の人生は、仕事と両親の世話で過ぎてしまったのです。だけど、遺産が転がり込み、ちょっと変わった隣人に恵まれ、彼女の人生はちょっとした変化を迎えます。それは、財産とか隣人ではなくて、彼女の人生に対する姿勢の変化でした。彼女は気づきます。自分の名前が美しいことに。
「記念日」……来月で結婚30年を迎えるエドウィナは、子どもたちが次々独立してがらんとした部屋が並んだ家を見て、自分の心ががらんとしていることと同様だと思います。自分の人生にあと何が残っているのか、と。そして結婚記念日に二人は友人に招待されるのですが……
ロザムンドおばさんは、「小さな奇跡」は人との出会いにある、と言っているようです。「一期一会」と言うのは簡単ですが、もしかして私も今日そういった小さな奇跡に出会っていたかもしれません。見逃さないように気をつけないといけないなあ。
根掘り葉掘りいつまでも質問し続ける人は、「根」と「葉」ばかり見て肝心の「幹」を見ようとしていません。で、もしかしてやっと幹を見ることができたとしても、こんどは「木を見て森を見ず」になるんだろうな。
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『スピノザ エチカ抄』ベネディクトゥス・デ・スピノザ 著、 佐藤一郎 編訳、 みすず書房、2007年、2800円(税別)
17世紀の哲学者の本です。先日読んだ『脳と心』でシャンジューとリクール双方がスピノザをずいぶん高く評価しているので興味を持って読んでみることにしました。
ユークリッド幾何学の論証手順によって5つのものが論証されるのですが、その第1章「神について」第2章「精神の自然の性と起源について」第5章「知性の力、あるいは人間の自由について」は全部、第3章「感情の起源と自然の性について」と第4章「人間の奴隷状態、あるいは感情の勢力について」は部分的に翻訳されています。ちなみに「エチカ」とは「倫理学」のことです。
まずはことばの定義が厳密に行われ、ついで公理が示されます。そして命題が次々論証されていきます。この手続きの厳密さに私はまず魅せられます。「存在」「実在」「実体」「念う」「原因」「結果」といったことばがスピノザの手によって自在に操られ単純な公理から複雑な証明が次々登場しますが、そのことばの流れに乗って感じるのは一種の快感です。内容はともかく、と言ったら失礼な態度でしょうが。やがて命題に「神」が登場します。スピノザは慎重な手つきで「神」を扱います。あり得る反論に答えつつ「論証以上」が積み重ねられていくうちに、世間で言われている「神の観念」が次々に否定されていきます。
私にとっては、第2章は第1章よりスリリングでした。「これらからわれわれは、人間の精神と体が一つに結ばれていることを解るだけではなく、精神と体の結びつきということで何を解るべきかということもまた解る。しかしながら、まえもってわれわれの体の自然の性を十全に認識することがなければ、だれもその結びつきを十全に、言いかえれば判明に解ることはできないであろう」といったあたりでちょっと興奮してしまいました。シャンジューとリクールが「デカルトが提示したまま放置した疑問にスピノザが解答を与えようとした」と述べたわけがわかります。
宗教改革の後でキリスト教と世俗政権との関係・キリスト教内部での権力闘争などが複雑に絡み合い、さらにスピノザ自身がユダヤ人(しかも教会から破門されているユダヤ人)であることもそこに関係します。また、イタリア・ルネサンスによって「知性の光」がヨーロッパを照らし始めていたことも本書には関係しているでしょう。ただし、その時代に置いた時にのみ意味を持つ“特殊解”ではなくて、時代を超えた“一般解”が本書には満ちています。
スピノザは無神論者として扱われたそうですが、私にはそうは思えません。彼が示すのはたとえば「神のことば」と「人間が神について語ることば」との峻別です(二宮尊徳が「「神の道」と「神に仕えるものの道」とは全然違うものだ」と述べたことを私は連想します)。スピノザはたしかに従来の「神」を否定しているかのようですが、実はそれは従来の「人が神について期待して語ったことば」を否定しただけのように思えます。そうだなあ、おかだ流に言うなら「神はビッグバンを(量子論的揺らぎを含めて)準備した。ただしそれは我々人間のためではなかった」となるでしょう。
15日(木)平均年齢/『FXスイングトレードテクニック』
「子どもが朝食を食べるかどうかと成績には相関関係がある」という調査があったことについてはいつかここに書きましたが、「子どもが朝食を食べるかどうかとセックスの初体験の年齢にも相関関係が」という調査もあったそうです。結論は「朝食を食べない子の方が食べる子より、初体験の平均年齢が若い」のだそうで。
まあ、そのメカニズムについての考察はともかく、私が気になったのは「平均年齢」。もちろん単純な算術平均でしょうが、「その集団でセックスを経験していない人間」をどう扱ったのだろう、と思ったのです。「経験者」の平均は出せますが、その母集団での「未経験者」はその「平均年齢」を算出するのにどう寄与させます? これはまずあり得ない仮定ですが、100人の集団で98人が未経験で2人が16歳と18歳で経験したら「この集団での初体験平均年齢」は17となりますが、その数字をそのまま使って良いでしょうか?
それと、この初体験年齢は自己申告でしょうが、この自己申告の正確さの保証はどうやってやるのでしょう? たとえば「朝食を抜く子は、自己申告をすこし過大にする傾向がある」なんてことはないんでしょうね?
【ただいま読書中】
基本的に相場は「意見の相違」に基づいて成立する以上「勝ち組」と「負け組」に人を分けます。著者は「勝ち続ける投資家」と「負けて退場する投資家」を分けるのは「確率的に正しい、合理的な投資行動」をするかしないか、つまり「運」や「占い」や「投資技術の善し悪し」ではなくて「投資哲学」と「投資の際の心理的要因」が重要である、と述べています。
では「負ける投資家」に共通しているのは何かと言えば、以下の6つだそうです。
1)現在の状況に大きな変化が起こることに対して抵抗感がある
2)過去の体験にとらわれる傾向がある
3)利益が出ると早く利益を確定したい。損切りがなかなかできない
4)勝率にこだわる
5)何かが儲かるという話を聞くとやりたくなる
6)自分のやり方を変更するのに抵抗がある
ではどうするか、と言えばもちろんすべて裏返せばよいわけです。大きな変化を想定して備える・臨機応変に対応する・損小利大(合理的にロスカットを行う)・勝率ではなくて利益の大きさを考える・人まねはしない・確固たる信念と規律は持ちつつ柔軟に対応する(絶えず自己変革をする)。さらに、以上のことを「知っている」ではなくて「実践している」にする。
「どうやったら手っ取り早く儲かるんだ」を期待して本書を読んだ人は、目をぱちくりでしょうね。「負けるのはあんたが悪い」と言い切られてしまったのですから。
で、「投資哲学」の次が「投資技術」です。著者にとってはこの順番が大事なのでしょう。哲学抜きで技術だけ使うと失敗の確率が高くなりますから「お前の本の通りやったら損をした」と文句を言われてしまうでしょう。ここでは7箇条として「投資は余裕資金で」「損失を限定するためにロスカットを徹底」などが述べられます。「必勝」ではなくて「勝ちの確率を高くする」「損失を拡大しない」「金額で、勝ち>負け」を繰り返し続けることが大切だ、と著者は繰り返します。いつになったらFXの話が始まるのかとも思いますが、「投資哲学」はどの分野の投資でも共通なのでしょうね。
それでもスワップ狙いとか順張りとかのことばが登場してやっと「FX」らしくなりますが、著者はFXは、リスク分散のために行うべき、という立場です。それはそうですね。いくら投資先を分散してもそれが全部「円」だったら、日本が転けたら全部転けるわけですから。
著者が勧めるのは、テクニカル分析(統計的分析)だけではなくてファンダメンタル(経済の基礎的条件)分析です。為替は長期的には実体経済に相関して動くからです。「需給の力関係(テクニカル)のよるトレンドよりファンダメンタル的要因で発生したトレンドの方がエネルギーが高い」のだそうです。で、ここで最初の1)〜6)をもう一度思い出す必要があります。経済を見る時に「自分にとって都合の良い指標だけ見ようとしていないか」と自省するために。また、発表される経済指標にはタイムラグがあることも忘れてはいけません。たとえば「貿易赤字」が発表されたとして、大切なのは「その数字が将来どうなるかの予測」です。でないと「投資(未来への行動)」はできません。
私自身はFXをやろうと思っているわけではないので(もし余裕資金があって外貨に投資するならたぶんおとなしく外貨預金でしょう。あるいは今だったら金とかプラチナかな)、投資技術の所は軽く流してしまいましたが、「相場が成立するためには意見の相違が必要」とか「人は不合理な行動をとりがち」とか、なかなか面白い指摘に出会えました。
「せい」を変換しようとして変換候補のトップに「聖」が出る人と「性」が出る人とでは前者の方がありがたい人のように思えますが、前者は「聖水」(それも卑俗なおしっこの方)のマニアで、後者は科学などの用語の「○○性」で性をよく使っている人かもしれませんね。さて、私が「せい」を変換しようとしたらどんな変換候補リストになっているかしら。
【ただいま読書中】
『青春のオフサイド』(原題 Falling into Glory) ロバート・ウェストール 著、 小野寺健 訳、 徳間書店、2005年、1800円(税別)
10歳の少年ロビーは、学校がドイツ軍の空襲で焼けたため教室を借りた近くの学校で、女としても教師としても生きの良いエマと出会います。数年後、ロビーが進学したグラマースクールで二人は再会します。ロビー(17歳)は労働者階級の息子、努力家の秀才でラグビーの優秀な(きわめて乱暴な)フォワード。エマ(32歳)はケンブリッジに行った階級、婚期を逃しくたびれかけた教師。ロビーは古代ローマの遺跡に夢中になり、エマはロビーに歴史家の素質を見いだします。最高学年になって修学旅行先までロビーはバスではなくて自転車で行くことにします。早朝の65kmの自転車旅行は、まるで魔法の国への旅のようでした。その“魔法”のせいか、ロビーとエマは少し接近します。
エマは戦争中に婚約者を亡くしていました。“深い仲”だった彼は空軍のパイロットでしたが結婚直前に戦死し、エマはその心の傷が癒えずにいたのでした。ロビーはエマの心にぽっかり空いた虚無の穴を見つめてしまいます。エマはロビーの優秀さや天性のリーダーシップだけではなくて、亡くした婚約者の面影をそこに見ます。二人は恋に落ちてしまいます。
しかし、それは禁断の恋です。教師と生徒ですから今でもスキャンダルですが、終戦直後の階級社会では、たとえ事実がなくて噂だけでも二人にとって致命的なものになってしまいます。しかしそれでも、いや、だからこそ、二人は恋に溺れてしまいます。
話をいくらでもどろどろにすることはできたでしょうが、さすがウェストール。ラグビー、男女交際、遺跡、勉学、仲間たち、そして当時の性道徳などについて実に生き生きと描写することで、真っ当な青春物に仕上げています(男女がこっそり隠れるのが防空壕の陰、というのが時代を象徴しています)。さらに本書は、情熱と誇りを忘れない二人の成長物語でもあります。誇りを失って他人のあら探しだけをする薄汚い者や形式的な道徳主義者には好かれないタイプの物語かもしれませんが。
ただ、ロビーの人を見抜く力には時にゾクリとさせられます。エマに言い寄っていた歴史教師に対する分析と予想の正確さ(およびその冷徹さ)など、いくらフィクションとはいえそれはないだろう、と言いたくなりました。「それはないだろう」であって「それはあり得ない」ではありませんが。(実際に、人の向こう側を見抜く目を持った者は、すでに若い時からその目を持っているのです)
そうそう、主役の影に隠れて目立ちませんが、実は本書で一番成長したのは、ロビーがエマとの関係を周囲に偽装するために付き合っていた女の子ジョイスかもしれません。物語最後の校庭での“長口舌”には、これが最初には「耳も口も役に立たないも同然」と酷評された女の子と同一人物か、と驚いてしまいました。本書がジョイス、あるいは、汚いのぞき屋のウィリアム・ウィルソンの立場から描かれたら、どんな物語になっただろう、とそちらにも想像の翼が広がります。物語で主役だけではなくて脇役が光っていたらそれは厚みのある豊かな物語ですが、本書は数々の“脇役”もきわめて魅力的な物語です。
新聞の投書欄にときどき「丹誠込めた花を盗まれて悲しい」という投書が載ります。
これらの投書は、本当に「花を愛する人」ならその花に込められた人の気持ちもわかるはず、と「情」に訴えているのですが、私にはその効果は疑問です。
たとえば「育てる手間を惜しんでとにかく簡単に結果だけが欲しい人」や「何かを盗みたい衝動を抑えられない人」には「情」はまったく無効でしょう。それどころが「他人を傷つけたい人」には「よし、これをすればあいつを傷つけられるんだ」と花を盗むことに関して促進効果を出す可能性さえあります。
【ただいま読書中】
皇帝テオドシウスの死後、二人の若い息子が東西で跡を継ぎます。軍の実権は蛮族出身のスティリコが握り東奔西走の蛮族退治に明け暮れていました。フン族の“圧力”によってローマになだれ込む蛮族は際限がなかったのです。そしてとうとう西ゴート族が(将来の)東西ローマの間に居座ってしまいます。北アフリカでは、同じキリスト教のカトリックとドナートゥス派との対立が激化。国力は衰え人口は激減します。しかし非生産者は増加(軍人、官僚、そして聖職者)。そして40万人のゲルマン人がイタリア半島に侵入します。迎え撃つスティリコがやっとかき集めた兵は、志願してきた未訓練の奴隷も含めて3万。それでも何とかしたスティリコですが、続いてガリアに15万人の侵入。さらにはブリタニアの軍団が勝手にガリアに脱出。「一体どうしろと言うんだ」と言いたくなる状況ですがスティリコは頑張ります。しかし、その“働き”に不満を持つ権力者たちはスティリコの足を引っ張り、ついには殺してしまいます。あとは蛮族の思うがまま。410年にローマは“劫掠”されます。弱ったローマは内紛でさらに弱り、そしてフン族の族長アッティラが登場。
アッティラは西ローマ帝国をターゲットに選定。フン族はドナウ川中流からライン川に移動します。ただしアッティラは戦略上のミスをします。すぐイタリアに侵攻すれば大きなチャンスが転がっていたのに、ガリアに入ってしまったのです。ガリアでもめていたゲルマン系の蛮族たちとローマ軍は共闘します。シャンパーニュでの会戦はローマの勝ち、というか、フン族の負けでしたが、翌年アッティラは北イタリアに侵攻し暴れ回ります。
しかし、このあたりを読んでいると「国を滅ぼすのには、そこそこ頭が良くて視野が狭く想像力がなくて嫉妬深い人間に権力を預ければ良いんだな」とわかります。頭が良くないといけない理由? 頭角を現すことができるし「自分はどうして正しいか」を周囲にも納得させるだけの理屈をこねることができますから。頭の悪さはその周囲の有象無象に必要な能力です。
都市ローマの劫掠は繰り返され、そして「ローマ」は滅びます。あっさりと、さりげなく。もちろん「東ローマ帝国」は残っていますから、言語上は「ローマ」は残っていますが、著者にとって「都市としてのローマを中心とした帝国」あるいは「ローマ人のローマ」は滅んだとなるのでしょう。
ブリタニアは「アーサー王の時代」となります。ガリアは、フランク族が西ゴート族を圧迫。ただし蛮族が「侵略しては去る」時代から「侵略して定着する」時代になると「統治」の問題が生じます。自分たちよりはるかに多くの土着の民を支配するためには、蛮族には「ローマの遺物」である統治機構をそのまま使うしか手がなかったのです。さらにキリスト教が蛮族にも広がります。北アフリカはヴァンダル族の支配下に入りますがここではカトリックに対する激しい弾圧が行われました。イタリア本国では「勝者と敗者の共生」政策が行われました。行政はローマ方式、軍事はゲルマン人が担当、という棲み分けです。ローマで行われた「勝者と敗者の同化」とは似て非なる方式です。元や清で行われた騎馬民族による漢民族支配を私はちょっと思い出しました。
東ローマ帝国も国力は低下しており、ササン朝ペルシアとの紛争と同時に西を攻める余力はありませんでした。さらに、やっと兵力をやりくりしてヴァンダル族から奪還した北アフリカは、統治のまずさから砂漠化してしまいます(かつては「ローマの穀倉」だったのですが)。そして南イタリアからビザンチン軍が侵入してゴート戦役となります。ビザンチンの将ベリサリウスが率いるのは5000の兵。それで15万のゴート軍に対するのですが……このゴート戦役によってイタリアは徹底的に破壊されてしまいます。疲弊したのはビザンチンとササン朝ペルシアも同様で、そこにイスラム化の嵐が……
これまでずっと本書のカバーには「ローマ人の顔」の写真が使われていました。しかし、本書では表も裏も水道橋の写真です。どちらも途中が崩れてとびとびになった遺跡ですが、この写真を見ていると「断続」を思います。「断たれていること」と「続くこと」。
「ローマ」は滅びました。それは「断」です。しかし想像力で断ち切られた水道橋をつなぐことが可能なように、「ローマ人の考え方」「ローマ人としての生き方」はこの歴史の中にまだ続いている、と著者はこの写真で主張しているのではないか、と私には思えるのです。
本シリーズと同じ発想で「日本人の物語」を読みたくなりました(これは前にも書いたかな?)。
18日(日)一を聞いて十を知る/『セロひきのゴーシュ』
これは、一を聞いて十を知った生徒の聡明さを褒めるべきか、それとも、その背後に「十」があることを「一」だけで示した教師の手柄を褒めるべきか、どちらでしょう?
【ただいま読書中】
『セロひきのゴーシュ』宮澤賢治 著、 本間ちひろ 絵、にっけん教育出版社、2004年、1300円(税別)
著者が昭和8年頃に病床で書いた物語と言われているそうです。
町外れの水車小屋に一人で住むゴーシュは、町の活動写真館に所属する金星音楽団でセロを弾いていますが、失敗ばかりして指揮者にいつも怒られています。町の音楽会が10日後にせまっているのに、このままではとんでもないことになる、とゴーシュは音楽団の練習後、水車小屋で夜っぴて猛練習に励みます。
そこに毎夜動物が訪れます。
最初は三毛猫。ゴーシュは上手く弾けないむしゃくしゃをそのまま猫にぶつけます。トロイメライをリクエストされたのに「インドの虎狩り」という激しい曲を猫にぶつけたのです。
次の夜は、かくこう(かっこう)。かっこうはゴーシュに、ドレミファの基礎練習の反復を求めます。「ぼくらならどんないくじないやつでも、のどから血が出るまでさけぶんですよ」と。ゴーシュはかっとします。
その次の夜は子狸。子狸は小太鼓の練習をさせてくれ、と言います。リズムです。少し変化が現れたのでしょうか、ゴーシュは笑いながらそれにつきあいます。弾くのはジャズの「ゆかいな馬車屋」。ところが子狸は、ゴーシュの第2弦が遅れ気味なことを指摘します。ゴーシュはこんどはかっとしません。
そして最後の夜は野ねずみの親子です。水車小屋の床下でいろんな動物がゴーシュのセロを聞いていたら病気が治ったから、病気の子ネズミをセロで治療してくれというのです。ゴーシュはここで、「自分が音楽を演奏している」だけではなくて「それを聴く人がいる」ことに気づきます。聴いた人が自分の演奏に何らかの影響を受けていることに。
ゴーシュにとっての“世界”は、はじめは自分と指揮者と音楽団でした。閉じられた小さな世界です。しかしそこに動物たちという“異物”が侵入してきます。ゴーシュははじめ拒絶反応を示しますが、やがてその異物に慣れ受け入れ、そして“もっと大きな世界”の存在に気づきます。さらにゴーシュは自分自身を客観視することもできるようになっていきます。そして最後にこうつぶやきます。「ああかくこう。あのときはすまなかったな。おれはおこったんじゃなかったんだ」。
短いけれど、大きな物語です。
厳罰主義で犯罪は減るのかな、とちょっと考えてみました。
「違法行為で儲けても、罰金でそれ以上取られたり下手すると会社を潰されて大損だから、やっぱりやめておこう」……これはありそうです。
「死刑があるからこいつは殺さずに半殺しでやめておこう」……これはなさそうです。
ただし……「酒酔いだと重罰だけど、ひき逃げだったらまだ軽いから、逃げよう」……これはありそうです。
あら、5秒間の思考実験では「厳罰は犯罪の予防効果がある」は「経済犯に限定」となりました。ひき逃げについてはどうしたもんですかねえ。ひき逃げをさらに重罰にしたら簡単に解決、とも私には思えないので、救命処置を頑張れば一般の刑事事件で自首したのと同じで刑罰を減免、とでもします?
【ただいま読書中】
『パズル・パレス(上)』ダン・ブラウン 著、 越前?弥・越谷千寿 訳、 角川書店、2006年、1800円(税別)
『ダ・ヴィンチ・コード』で知られるようになった著者のデビュー作です。発表は1998年。
アメリカ国家安全保障局(NSA)が開発したスーパー量子コンピューター「トランスレータ」は、標準的な64桁のパス・キーの暗号でも数分で解いてしまう能力を持っていました。しかしNSAはトランスレータの開発に失敗したと公表し、その影で全世界の暗号を解き続けていました。しかしそこに緊急事態が。トランスレータでさえ解読できない新しいアルゴリズムを持った暗号「デジタル・フォートレス」が登場したのです。(ちなみにこの暗号の開発者は、被曝二世としてかつ奇形を持って生まれた日本人エンセイ・タンカドです。この設定になにか必然性があるのかな?)
デジタル・フォートレスを解こうとしたNSA副長官ストラスモアは、その暗号をトランスレータにかけると共に、その解読キーを入手するために言語学の天才ベッカーをスペインに派遣します。ベッカーの婚約者スーザンはNSA暗号解読課主任です。モデル顔負けの美貌とスタイル、さらに知能指数170のおつむ。彼女はストラスモアの要請でNSAにこもり、デジタル・フォートレスの解読とともにエンセイ・タンカドの協力者の割り出しを行います。
ただ、話が破綻しています。まずベッカーですが、いくら天才の大学教授とはいえ、仮にも諜報機関の端くれのNSAが素人をバックアップ無しで単独で異国に派遣です。それは無茶でしょう。しかも、多言語を自在に操る言語の天才のはずなのに、ちょっとした外国語のアヤ(それも私にもわかる程度のもの)でさえうっかり英語で解釈して「何を言っているのかまったくわからない」とぼやいています。
スーザンもドジばかりです。オフィスの個人端末のパスワードは定期的に変更するという初歩の手続きもやってませんし、緊急の連絡をするのに直接がだめなら電話、それもだめならメール、といった工夫も思いつきません。
副長官のストラスモアも変です。いくら緊急事態とはいえ、正体のしれないプログラムをNSAの中枢であるトランスレータにウイルスチェックもせずに(それもわざわざウイルスチェックを強制回避して)かけてしまいます。
こういったお話の常道で、「悪の手先」はよく考え合理的な行動をするのに対し「正義の味方」は行き当たりばったりで非合理な行動をして自らを危地に追い込みます。その方がスリルが生まれますし、間抜けな敵に勝つよりは強力な敵に勝つ方がカタルシスも得られますから物語の構成としてはよろしいのでしょうが、それがあまりに行きすぎると鼻についてしまいます。
おっと、NSAが「正義」かどうかも怪しいんでしたね。なにしろ全世界の通信を令状無しに傍受して暗号を解析している組織ですから。「番人を見張るのは誰?」は今も昔も大問題なのです。
20日」(火)負の情状酌量/『パズル・パレス(下)』
殺人事件などの裁判で「被害者の家族の感情を考えると厳罰に」というのは、一見正しいことのように思えます。しかしそれを裏返すと「天涯孤独の人や家族がいてもその家族に愛されていないオヤジなどが殺された場合、その加害者は刑が(相対的に)軽くなる(厳罰に処されない)」ことになりますが、「家族がいるかどうか」「その家族に愛されているかどうか」で量刑が左右されるのは「法の下の平等」の観点からは正しい処分態度と言えるのでしょうか?
【ただいま読書中】
『パズル・パレス(下)』ダン・ブラウン 著、 越前?弥・越谷千寿 訳、 角川書店、2006年、1800円(税別)
ベッカーはスペインを走り回ります。そのベッカーには殺し屋の追っ手がつきまとっており、二人が通過した後には死体が並びます。
アメリカのスーザンは、NSA副長官ストラスモアから驚くべき秘密計画を聞かされます。そこからNSAでも“活劇”が始まります。そして「トランスレータ」だけではなくて、機密のメインデータバンクまでもが危険にさらされます。ただしここでの活劇はあまり切れの良いものではありません。なんだか「007の秘密基地」をイメージして壮大な舞台装置を構築したようですが、せっかくの舞台で素人同士のどたばた、といった感じです。
しかし……ベッカーにしてもスーザンにしても「君たちは天才じゃなかったのか? もうちょっと頭を使ってくれよ」「情報をつかんだら出し惜しみをせずにすぐ共有しろよ」と言いたくなる“謎の行動”をしてくれます。アクションを面白くするためにはこういった筋書きの方がよい、と著者は判断したのでしょうが、私は少しずつイライラしてきます。そして最後の謎解き。シーザーの平方数は面白かったのですが、結局ここでも「ウソだろ」と言いたくなる展開です。そこまでむりやりはらはらどきどきにしなくてもいいでしょうに。
ただ、10年前にここまで「情報の安全性」やNSAが情報を盗み見することをどこまで許せるのか、情報テロにはどんなものがあり得るかといった問題意識を持っていたことは大したものだと思います。そこだけは評価しましょう。
オバマさんが「アメリカ初の黒人大統領」となりましたが、では大統領に関する次の「アメリカ初」はなんでしょう? 身体障害者はすでに小児麻痺のフランクリン・ルーズベルト(第32代)がいますから除外して、白人女性・黒人女性が次の“候補”かな。そうそう、アメリカ初の“非キリスト教徒”の大統領がもしも誕生したら、宣誓式ではどうするんでしょう? 聖書じゃなくてコーランとか仏典に手を置く?
【ただいま読書中】
『絵のある世界』〈新・ちくま文学の森15〉安野光雅 編、筑摩書房、1995年、1748円(税別)
「絵がある文章」が集められています。「絵と文章」といえば私はすぐに絵日記を連想しますが、安野さんはもちろんそんな軟弱な発想での集め方はしていません。目次は以下の通り。
「あやとりかけとり より」竹久夢二、「えげれすいろは詩画集」川上澄生、「忠類図譜 抄」辻まこと、「タヌキ」手塚治虫、「イヌ・いぬ・犬 序章」サーバー、「囮り船」岡本一平、「東京における生活」モース、「避難小屋」今和次郎、「密林の彷徨」小松真一、「戦中気儘画帳 より」武井武雄、「隅田川両岸一覧 抄」木村荘)、「氷魚の村君」菅江真澄、「はるかなる山」上田哲農、「山で見た星」野尻抱影、「森の悲劇」シートン、「私の草木漫筆」坂本直行、「足の裏/春の彼岸とたこめがね」小出楢重、「劉生絵日記 より」岸田劉生、「わが家の食卓」鴨居羊子、「パリからの旅 より」堀内誠一、「わが回想 より」シャガール、「ゴッホの手紙 より」ゴッホ、「クレーの手紙 より」クレー、「下手も絵のうち より」熊谷守一、「もうひとつの空 より」有元利夫、「私の現実 より」ジャコメッティ、「イーナ・ワトソンへ」ルイス・キャロル、「ある絵の伝記」ベン・シャーン、「マオリの古代信仰 より」ゴーギャン、「歌と歌絵」チッペワ族、「子規と文人画について 解説にかえて」安野光雅
目次を見ただけでわかりますが、内容はバラエティーに富んでいます。ちょっと一言ではまとめられないな。
編者の職業からか、画家の文章が結構あるのですが、画家って面白い文章を書きますね。それぞれが魅力的です。で、それに添えられた絵はけっこう下手。
シートンももとは挿絵作家としてデビューしていたということを私はここで知りました。シートン動物記をまた読み返したくなります。
最後の「歌と歌絵」。私には稚拙に見える小さな線描を見たら、チッペワ族はそこに描かれた「歌」を歌うことができるのだそうです。まるでそれが楽譜であるかのように。テッド・チャンの『あなたの人生の物語』を想起しました。“そういう文化”は実在していたんですね。
22日(木)わかっちゃいるけど/『クリスマスの猫』
「わかってはいるけれど、できない」は「わからない」よりもタチが悪いと私は考えます。だって「わからないからできない」は「わかるように努力」すればできるようになる可能性がありますが、「わかっているけれど、できない」のはつまりは「やる気(意思)がない」わけですから。でもその場合には「できない」ではなくて「わかってはいるのだが、やらない」と正直に言って欲しいなあ。
【ただいま読書中】
『クリスマスの猫』ロバート・ウェストール 著、 ジョン・ロレンス 絵、坂崎麻子 訳、 徳間書店、1994年、1100円(税別)
1934年(日本では東北で飢饉、満州国では溥儀が皇帝に、アメリカでは「ボニーとクライド」、ドイツではヒトラーが大統領に、ソ連ではスターリンの粛清開始、といった年)に11歳の少女キャロラインは両親が外国に行ってしまったためクリスマス休暇を教区牧師をしているおじさんのところで過ごすことになります。上流階級育ちだがお転婆で腰まである赤毛が自慢の少女は、おじさんの教会が治安の悪い労働者階級の街の真ん中で、信者がほとんど寄りつかないところであるのに驚きます。そこは性悪の家政婦が牛耳っていたのでした。
荒れ果てた庭の隅で身重の猫を発見したキャロラインは、同時に街のガキ大将ボビーとも知り合います。家政婦の目を盗み、キャロラインはボビーの案内で街の内情と教会が置かれた立場を理解していきます。
ずいぶんストレートな話だなあ、と思いながら読んでいて最後のあたりで得心がいきました。これは新約聖書の物語なのです。猫は聖母マリア。家政婦はヘロデかな。だから猫はクリスマス(のちょっと前に)馬屋で子どもを出産するのです。そしてその“奇跡”によって、おじさんは救われあの二人は結ばれることになるのです。
「おばあさんが孫娘に語る物語」という枠組みを生かした、ちょっと洒落たクリスマス物語です。
数年前に数針縫わなきゃいけない傷を負ったのですが、この冬になってそこがちくちく痛むようになりました。見た感じ傷跡が薄く残っているだけで腫れもないし赤くもなっていません。「古傷が痛む、とはこのことか」と実感しましたが、そこで連想が飛びます。
「昔の心の傷がざっくりとまた開いた」なんて表現がありますが、心の傷は「古傷」にはならないんですかね。いつまでも傷は癒えずに生々しい傷のまま。それとも、古傷にはなるんだけど、心の場合には「古傷が痛む」が強烈に起きる、ということなのかしら。
【ただいま読書中】
『屋敷の中のとらわれびと』シルヴィア・ウォー 著、 こだまともこ 訳、 佐竹美保 絵、1996年、1553円(税別)
等身大の生きている人形メニム一家の物語の第3巻です。
ブロックルハースト・グローブを取り壊そうとする動きが中止されて2ヶ月。その中心となって活躍したアンシア・フライヤーは、あらためて「5番地の隠棲者たち」に注目します。隠棲者というのに彼らはけっこう活発に外出しています。どこか奇妙です。
見張られていることに気づいたメニム一家は、屋敷に閉じ籠って注目をやり過ごすことにします。そのうち興味を失うだろう、というわけです。しかしその“包囲網”に閉じこめられた生活の中で、またまたお騒がせ娘のアップルビーがこんどは「人間のボーイフレンド」をこさえてしまいます。彼女はディスコでデートをし、自分が「布の人形」であることを初めて悲しく思います。
閉じ籠っているはずの一家ですが、どうしても出なければならない用があったり、あるいはどうしても出たくなったり、で、メニム一家の一同は次々外出をします。すると世間の方も一家に関わりを持とうとします。近所の人・保健婦・警官、の姿で。一家の長老マグナス卿は、籠城宣言をします。一家はもう誰も外に出てはならない、と。アップルビーは、屋根裏部屋で開けてはならないドアを開けてしまいます。その結果は……魔法の力で生きている人形の死でした。
死なないはずの家族の死に、ヴィネッタは衝撃を受けます。耐えきれない衝撃を。そんなときにできるのは「ごっこ」です。現実が耐えきれない時には、その現実を閉め出してしまうのです。まずヴィネッタがするのは「自分が生きているふり」です。本当に悲しむことができる準備ができるまで、心の底から悲しむことができる日までの「ごっこ」です。
私にとっては予想外の展開です。私も衝撃を受けますが、それと同時に「生きている人形が死んだことに衝撃を受ける自分」に対しても驚きを感じます。完全にこの物語世界に私は連れ込まれていたようです。
ただ、本当に悲しむ「その日」を迎えたヴィネッタが、そこから少しずつ癒されていくことが、読者にとっての救いでしょう。それと、人形たちの成長には目を瞠るものがあります。40年間安定して屋敷の中で繰り返されてきた「ごっこ」や「ふり」の体系(制度)が、トラブルによって崩され、それまで頼りない夫でしかなかったジョシュアが最後にはみごとな行動を見せます。もしかしたら著者は「知恵とは、座り込んで口だけ動かすことではなくて、体を動かす人(人形)と共にある」と言いたいのかな。
24日(土)あなたのためのおべんとう/『北岸通りの骨董屋』
中学生の「ものづくり」のためのコンクールだそうです。正式には「全国中学生創造ものづくり教育フェア」というものすごい名称ですが。おや、1月24日と25日だったんですね。興味のある方、つくばに走っていくか、来年参加されたらいかがでしょう。
【ただいま読書中】
『北岸通りの骨董屋』シルヴィア・ウォー 著、 こだまともこ 訳、 佐竹美保 絵、1997年、1553円(税別)
アップルビーの“死”から1年、一家はなんとか生きていましたが、マグナス卿はそこで“啓示”を受けます。自分たちの命は、来年の10月1日までのあと1年、と。
クリスマスが近づき、ヴィネッタは、いつもの「ケーキを焼くふり」ではなくて、本物のケーキを焼くことにします。ジョシュアは、本物のもみの木を買ってきます。プレゼントの交換が盛大に行われます。「これが最後のクリスマス」と、誰も口に出しては云いませんが、わかっているからメニム一家は一瞬一瞬をいとおしみます。そしてその大切な時間をマグナス卿がぶちこわします。
まったくこの一家は、シリーズのこれまでの、どの大事な瞬間でも、必ず誰かが“ぶちこわし役”になるのです。まるでそれが“運命”であるかのように。そして人形一家は、自分たちが死ぬ日のための準備を始めます。
正式な相続人が屋敷を訪れますが、彼らが発見したのは、つい先ほどまで人が住んでいた気配がする、空っぽではない屋敷でした。なにしろ家具調度衣類が全部そろっているのです。第2巻で登場したアルバート・ボンドも再登場しブロックルハースト・グローブの屋敷に足を踏み入れます。そこで見かけた動かない人形たちにアルバートは衝撃を覚えます。
いやあ、なんというか、とんでもない展開です。一家が全滅してしまいました。しかし「人形」とはいっても等身大でしかも(見た人は知らないにしても)魂がつい最近まであった抜け殻ですから、人間はその処置に困ります。どうみてもうっかり捨ててしまって良いものではないのです。どこでも良いから適当にとはせずに家財などを処理しようとするボンド夫妻は、北岸通りの骨董屋を思いつきます。そしてそこには別の方角からも思いがけない来訪者が。
人形も人間も、中年あるいは老齢の女性のキャラクターが鮮烈です。男も結構魅力的なのですが、若くない女性の方がはるかに魅力的で生き生きと生きています。また、人形の子どもが遊ぶ人形のアクションマンのところでは「クレヨンしんちゃん」のアクション仮面を連想しますし。タクシーだけど専用運転手を持っている老人デイジーが登場するところでは「ドライビング・ミス・デイジー」を思い出します。連想回路のスイッチが入りっぱなしです。読んでいてずいぶん忙しい思いをする作品です。
ひょんなことで臨時収入が数万円あったので、それをはたいてAppleのTimeCapsuleを購入しました。無線LANのベース(+有線ルータ)とバックアップ用の外付けハードディスク(私が買ったのは500GBのモデル)が合体している変な機器ですが、ちょうど今の私には必要なものだったものですから。
Apple製品の特徴ですが、電源やらケーブルをつないだらとにかく何も考えずに立ち上げてみたくなります。それで上手くいかなかったらマニュアルを読もう、という作戦です。それでとりあえずネットに接続したらあっさりつながって、モデムは同じなのに、前の有線ルータの時には大体8Mbpsの速度だったのが無線にしたら11〜13Mbps出ています。TimeCapsuleは一階でMacBookは二階にあってこの速度ですから、同じ部屋に置けばもっと速いのかな。AirMacをオンにしてみてご近所に何軒も無線を使っている人がいることに気づきました。おやおや、一軒なんかパスワードで保護していませんぜ。別に接続しようとは思いませんが、良いのかなあ。
で、早速TimeMachineというソフトを起動してTimeCapsuleにMacBookの中身をフルバックアップです。バーのTimeMachineのアイコンはアナログ時計なのですが、その針がバックアップ中は逆回りをしていてなかなかキュートです。ネットで見ると「一晩かかった」とか「2日かかった」とかの声がありますが、たしかにそんなスピードでした。ま、たかだか55GBですし、「焦る旅」ではありませんから良いのですが。今使っている環境を丸ごと再現できるそうなので、楽しみです……あ、楽しみじゃないか、マシンの買い換え以外で過去の再現が丸々必要になるのはマシンのクラッシュですから。まあその場合でも“被害”(データの移行だけではなくて、各ソフトのインストールや各種設定を全部やり直す)をしなくて良い、というのはとっても魅力です。で、TimeMachineに入ってとりあえず1日過去に戻ってみたら、削除したはずのファイルがちゃんと残ってます。ちょっとした感動ものでした。
で、バックアップが無事終了していろいろいじっていたら、あらら、AirMacをオンにしてもTimeCapsuleが見つからなくなってしまいました。設定をいろいろ変えても駄目だったのでリセットかけたらあっさりつながりましたが、いろいろ遊びがいのある機器です。
私が就職を考えていた時代には、“就職活動解禁”は大学4年のたしか春か初夏の頃でした。ところが今では大学3年の冬あるいは秋にすでに就活が始まっているのだそうですね。で、大体きちんと決まるのが4年の春頃。
ということは、企業は1年後の景気を睨みながら採用計画を立てなければならないわけですが、今のようなご時世ではそれはとっても難しい決断ですねえ。学生の方も、こんなに早く決めてしまって、それから卒論を書くわけですか。
なんだか、もうちょっと双方によい方法はないかしら。
【ただいま読書中】
『丘の上の牧師館』シルヴィア・ウォー 著、 こだまともこ 訳、 佐竹美保 絵、1997年、1553円(税別)
等身大の生きている人形メニム一家の物語は、基本的に「いかに人間たちに知られずに人形たちが自分たちの生活を維持するか」がテーマとなっていました。しかし、第4巻で一家は全員“死”に、そして復活したらこんどは話が逆転気味となってしまいました。こんどは人間がメニム一家をどうやって受け入れるか、が重大なテーマとなってしまうのです。
しかし、生きている人形が死んだら(あるい死んだふりをしたら)ただの人形にしか見えない、というところで私は大笑いをしてしまいました。いや、実に当たり前のことなんですけどね。
生き別れというか死に別れになっていたスービーも一家に合流し、一家は“再出発”のため活動を開始します。まずは自分たちが生きていることを人間に悟られないようにして、それから自分たちの新しい屋敷探しです。
他方、メニムたちの存在を受け入れようと苦闘する人たちの物語も同時に展開されます。魔法と現実が交差します。ここでも「ごっこ」や「ふり」が重要な役割を果たします。第1巻から続いていた「人形が行うごっこ遊び」は、本巻では人間も自分の世界を壊さないために真剣に行わなければならない行為へと変質しています。ちょっとこのへんは子どもには難しいんじゃないか、と思いながらも私は引き込まれていきました。イギリスの児童文学者はこの辺を描くのが上手い人が多いな、と思いながら。
特筆するべきは、「家族の愛情」を脳天気に賛美しないことでしょう。愛情は愛情、しかし、嫌なところは嫌なところ。その感情の機微を著者はストレートに、あるいは細やかに描写します。
そして最後。「それからいつまでも幸せに暮らしました」というおとぎ話の決まり文句が、新しい意味を持って読者の心に響き続けます。このシリーズも拾いものでした。強くおすすめ。
27日(火)農林業は甘い商売?/『ゴンベッサよ、永遠に』
職を失った人の行き先として「農林業」が候補に挙げられているそうです。片方に「職がない人」、もう片方に「人が足りない職業」があるからちょうど良い、ということなのでしょうが、農林業ってそんなに簡単に始められる(素人が始めて明日からそれで食っていける)商売なんでしょうか? 私にはとてもそうは思えません。明治時代の北海道開拓で、開拓民がどんな苦労をしてどのくらいの犠牲が出たか、まで持ち出す必要はないでしょうが、たとえば農業だったら、まず必要な知識は、土壌(利水・施肥・草取りを含む)・育てる作物の性質・収穫のタイミング・換金方法。必要な読みは、向こう1年の気候・商品相場(何が収穫期に高くなっているか)など。農業技術者でかつ相場師でかつ経営者でないと上手くやっていけないはずです。さらに、すべてが上手くいっても金が入ってくるのは収穫後。それまでどうやって食いつなぎます? 「農奴になる」のなら、少なくとも食わしてはもらえますが、ではこんどは誰が食わせるんでしょう。
そもそも農林業で人が減ったのは、「それで食えない」とか「住む環境が魅力的ではない」などの理由があったからのはずです。その根本原因を放置したまま人だけ放り込めば解決、とは私には思えません。風呂桶の栓を抜いたままそこに桶で水を入れるようなもの(しかもその桶も底が抜けている)と思えます。
【ただいま読書中】
1938年、南アフリカ共和国の東海岸イーストロンドンにトロール漁船が奇妙な魚を水揚げしました。イーストロンドンの博物館館長ラティマーは、保存手段がないため剥製にすると同時に、イギリスのスミス教授に連絡します。スミス教授は、3億年前に現れ7000万年前に絶滅したと考えられているシーラカンスであると確信します。1952年に二匹目のシーラカンスがコモロ諸島(マダガスカル島の近傍で当時仏領)で捕獲されます。
日本にシーラカンスの標本がやってきたのは1967年、フランスと良好な関係を持っていた正力松太郎氏にフランス政府から寄贈されました。(アポロの月面到着はその2年後です) ちなみにこの標本は、解剖後よみうりランド海水水族館に展示されているそうです。1972年、日本にシーラカンス学術調査隊が誕生します。メンバーは著者の父(本書の監修者)と映画の篠之井公平の二人だけ。(ちなみにワシントン条約が発効したのもそのころです) スポンサーは見つからず日本と国交がないコモロでは政変が起きライバル(他のシーラカンス調査隊)が名乗りを上げ……調査隊が出発できたのはやっと1981年のことでした。慣れない環境での1ヶ月が過ぎ、明日は帰国するという最終日になって大物が釣り糸にかかります。漁師の親子は8時間の格闘の末、体長1m77cm体重85kgのゴンベッサ(シーラカンスの現地名)を引き上げます。
日本に持ち帰った冷凍標本をX線CTで検査したところ、背骨は軟骨で椎体や肋骨はなく、それらの機能は分厚く三重になったウロコが担当していることや、まるで手足になりかけているかのように見えるひれが両生類の手足に骨格が類似していることもわかりました。解剖では、脳神経組織が魚より両生類に似ていることも。
後日談として不愉快な話も紹介されていますが(“世間で目立つ人間”が嫌いなんだろう、としか解釈できない訳のわからない行動や“ただ乗り”をしようとする人間はいつの時代にもいるものです)、愉快な話もあります。特にシーラカンスの試食会で結論は「不味い魚の代表」だったとは。さらに1986年第3次調査隊のときに、ついに生きているシーラカンスが泳ぐシーンがビデオに収録されます。
ただ残念なのは、せっかく得た知見を「人類全体で共有する」ことができていないことです。本書で紹介されているドイツの調査隊の態度とはずいぶん違って、日本隊の態度は、好意的に言うなら引っ込み思案、悪く言うなら内向きで、全世界に向けての発信をしようとはしません。もったいないなあ。
私は今までに3回奈良を訪れたことがありますが、そのうち2回は偶然正倉院展とぶつかっています。
たまたま大阪に出張で出かけて1日ぽっかり空いたので「じゃあ奈良まで行ってみるか」と電車に乗って、駅で降りたら人並みがそのままぞろぞろと同じ方向へ。一体何だ、とそのまま流れに乗っていたら国立博物館へ。「本当にラッキー」と思いました。それが正倉院展とのはじめての出会いです。それから10年くらいあとにこんどは職場旅行でやはり大阪に行ったら、新大阪駅のポスターに正倉院展の文字が。何も考えずに自由行動の時間を生かしてそのまま奈良に直行しました。
また“その時期”に奈良・大阪・京都・名古屋あたりで学会でも開かれないか、と思っていますが、強く期待しているとなかなかものごとは上手くいかないものです。
【ただいま読書中】
東大寺が建立されたとき、他の寺と同じく「正倉」(重要な物品を収める倉庫)が作られました。倉庫はどんどん増やされすべてを含めて「正倉院」と呼ばれています。著者は、その中身(宝物)の重要性はもちろん、それらを「保存しようとした」人の意志と行動を重要視しています。
東大寺を創建した聖武天皇の没後、光明皇后は天皇愛用の品々などを東大寺に奉献しました。それが正倉院宝物の中核となっています。さらに寺の資材(大仏開眼会で用いられたものなど貴重なものから、消耗物資であまったものまで)が倉庫に運び込まれていました。
特に重要な北倉は普段は勅封(天皇のサインまたは花押が押された紙による封印)によって封じられています。曝涼と呼ばれる、人の手による空気の入れ換えと総点検も行われます。(この点検記録も実は貴重な“財産”です)
正倉院は何度か危機を迎えています。近くの大仏殿は二回焼けました。治承四年(1180)の平重衡の南都焼討と永禄十年(1567)の三好・松永合戦。しかし正倉院は幸い焼失しませんでした。
明治になって宮内庁の管轄となり曝涼を毎年行うことが制度化されました。戦後は正倉院も宝持も国有財産となりましたが、管轄はやはり宮内庁が行っています。
宝物の奉献には目録(献物帳)が付けられていますが、この目録自体が一級の史料です。その形式や内容についての考察は読み応えがあり、とくに「奉献」という行為の方が「奉献された宝物」よりも重要だった、という考察には説得力があります。
記録はさらにあります。正倉院は公的な“倉”ですから、そこからのものの出し入れには必ず記録が残されます。出納帳です。さらに出入りがあれば当然誤差が生じますから、定期的に棚卸しが行われます。特に、大量の薬は使われることが前提で納められたようで、けっこう大量に京都に出されています。麝香や胡椒は全部使われてしまいました。人参(薬用人参)も主根部はほとんど消費されてしまっています。さらには武器の出庫もあります。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の時に、いち早く孝謙上皇方は奈良を掌握し、正倉院から武器を洗いざらい持ちだしているのです。持ち出すと言えば、盗難も何回かありました。しかもその犯人が東大寺の僧や元僧だったりして。落雷もあります。1200年を正倉院はのんびりと過ごしたわけではありません。
明治になってからの修復の話もあり、そこはもっと具体的に詳しく聞きたいと思いますし、戦後の科学的調査の話も駆け足です。もっと紙幅が欲しかったなあ。というか、それはまた別の本を読め、と著者は言っているのかもしれません。
私は美しい日本語にあこがれを持っていますが、その代表(の一人)が泉鏡花です。あくまで「あこがれ(の代表)」で、全然真似はできませんが。ところが最近、夏目漱石を見直しています。この人の文章、「美しい」とか「端正」という表現は私には言えませんが、そうですね、一番ふさわしく感じるのは「好ましい」です。気取らずしかし野卑に落ちず、私にとって「好ましい文章・文体」。若い頃には全然違った評価をしていたんですけれどね。
ところで皆さんには「これが文章のお手本(あこがれ)」としている“先人”はありますか?
【ただいま読書中】
『武器よさらば(上)』ヘミングウェイ 著、 金原瑞人 訳、 光文社古典新訳文庫、2007年、533円(税別)
第一次世界大戦。イタリア軍に志願したアメリカ人フレデリック・ヘンリーはオーストリアとの戦線にいました。任務は負傷兵の運搬。身分は中尉。ヘンリーは救急ボランティアのミス・キャサリン・バークリと出会います。二人は愛し合っているふりの“ゲーム”を始めます。
ヘンリーは迫撃砲弾を膝に喰らって負傷。ミラノのアメリカ軍病院に後送されて手術を受けます。そこにキャサリンが配属され、二人はこんどは本当の恋に落ちます。しかし、回復休暇のあと前線に戻れとの命令が届いた時、キャサリンの妊娠がわかります。二人は夜の町をさ迷い、駅前で別れます。
とてもみずみずしく、スピーディーに場面展開を繰り返す文体です。でも“息”の長い文章となるところもあります。著者(あるいは語り手)が言いたいことがこんがらがっていて途中でほぐすことができず、そのままとにかくいけるところまで一気に喋ってしまう、といった感じの文章です。また、会話だけで終わる章がいくつもあります。きっと本作が発表された当時には、それは斬新なスタイルだったことでしょう。
さらにここに描かれている雰囲気が妙に明るいのが特徴です。クレージーな野戦病院を舞台とした『マッシュ』を私は思い出していました。あそこまでブラックではありませんが、『武器よさらば』は、戦場での青春コメディなのかな。
30日(金)涙を止めるスイッチ/『武器よさらば(下)』
涙を止めるスイッチがあるのなら押してあげたい、と思うことがあります。でも、そんなスイッチがどこにあるのかはわかりませんし、スイッチをいじっても、涙の原因がなくなるわけでもないのですが。
【ただいま読書中】
『武器よさらば(下)』ヘミングウェイ 著、 金原瑞人 訳、 光文社古典新訳文庫、2007年、571円(税別)
フレデリックは前線に戻ります。待っていたのは親友の外科医リナルディ(もしかしたら彼はフレデリックに同性愛的感情を抱いているのではないかと思えます)。将校食堂での食事は、スープに始まりデザートに終わるフルコース。ここは前線ですよ、と言いたくなります。
フレデリックは最前線に配属され負傷兵の運搬業務に復帰します。しかし戦況は悪く、イタリア軍は退却を始めます。それでなくても厭戦気分が蔓延していたのが、ますますひどくなり、イタリア軍の士気は最低となります。部隊からはぐれてしまった将校は軍法会議抜きで容赦なく射殺され、フレデリックはスパイ容疑(なまったイタリア語をしゃべるから)で射殺されそうになり、脱走します。
休暇を過ごしていたキャサリンと再会したフレデリックは、まるっきり行き当たりばったりにスイスへの逃避を決行します。冬のスイス。少しずつ膨らんでくるキャサリンのお腹。二人はただひたすら残り少なくなっていく“二人の日々”を楽しみます。表向きは「もうすぐ三人になるから“二人の日々”でなくなる」ですが、実際には「将来への展望や希望を全く欠いた日々」です。ちょうどロミオとジュリエットが「どこかここではない場所」を夢見ながら死に向かっていくように。そして、一人称で短くぽきぽきと“現実”を折り取ってならべたような文章の向こう側に、悲劇的な結末が現れます。
本書は、上巻では「死」を基礎としてその上で“コメディ”が演じられていました。ところが下巻にはいるとコメディは後景に退き「死」が前面に座り続けています。さて、フレデリックはそこからどうやって生きていくのか、そもそも彼はそれまでも本当に生きていたのか、疑問に思いながら私は本を閉じることになります。