09年3月
 
1日(日)ポーズを取る死体/『人体観の歴史』
「人体の不思議展」http://www.jintai.co.jp/index_top.htmlで私がショックだったのは、人体標本そのものではなくて、その標本が“ポーズ”を取っていることでした。「生」だけではなくて「死」も「人間」そのものであることを具体的に示しているように見えたのです。
 
【ただいま読書中】
人体観の歴史』坪井建雄 著、 岩波書店、2008年、7400円(税別)
 
 本書は歴史の中の解剖学書を見ることで、それぞれの時代の人体観を探ろうとする試みです。解剖学書にはその「時代」が反映されている、と著者は述べます。
 現存する最古の解剖学書は古代ローマのガレノスのものです。古代ギリシアでは医学は「哲学+生理学」でしたが、ガレノスはそれに解剖学を加えました。したがってガレノスが示す「解剖図」は、彼の「人体観」の反映となっています。動脈と静脈は別の“臓器”で、人は「精気」によって動きます。もちろん今の医学の目からは彼の解剖学も生理学も“間違って”います。ただ、ガレノスの立場で考えてみると、当時は人体解剖が許されないため動物解剖で代用するしかなく、動脈血と静脈血は明らかに見た目が違い動脈と静脈がつながっている証拠は見つからない以上動脈と静脈は「別の器官」とするしかないわけです。ガレノスは観察と論理を厳密に使う人ですから、自分が得た証拠からは、今から見た“間違った”医学を立てるしかなかったでしょう。そして、ルネサンス期までガレノスを越える人は出ませんでした。
 1543年、パドヴァの大学のヴェサリウスが解剖学書『ファブリカ』を出版します。これがまた面白くて、風景の中で解剖された人体がポーズを取っています。おそらくルネサンス期には“人物像”の後景に風景を置くのが一つの習慣だったのでしょう(私はモナリザを思い出します)。となると、ここに描かれている解剖体は単なる「死体」ではありません。それが当時の人体観です。
 ともかくこの本で従来のガレノス医学とは異なる「正しい解剖」を求める風潮が始まりますが、同時に、「人体の代替物」ではなくて「それ自体」を調べるための動物解剖が行われるようになり、それは博物学になっていきます。重要なのは、ここで「人間は他の動物と対等」の概念が生まれたことです。
 18世紀の解剖学書では、死体はポーズを取っていません。それまでの「解剖は命の謎を解くための手段」から「人体構造を機械論的に説明するために解剖を行う」に概念がシフトしたのです。18世紀初めのブールハーフェは人体の生理機能はすべて機械的に説明可能、としました。学問の焦点は「命」ではなくて「各臓器」に当てられています。その流れに乗って登場した解剖学書の一つがクルムスの『解剖学表』です。これが日本に輸入されて『解體新書』になりました。ウィンスローの解剖学書では、生理機能に関する記述が省かれました。人体の構造のみを論じる本の出現です。生理学も「人体丸ごとの生理学」ではなくて「各臓器ごとの生理学」が芽生えます。
 顕微鏡による観察がもととなって、シュライデンとシュヴァンが「細胞説」を提唱します。現在では「生物は細胞から成り立っている」のは“常識 ”ですが、この説が登場した18世紀には、大きなショックを医学界に与えました。生命や病気を「生物は細胞から成り立つ」という概念から見直す必要があったからです。細胞説からはさらに、組織学と病理学が生まれます。医学と生物学は変貌します。(特に、それまでは動物学と植物学だったのが「生物学」に統合されたのは大きいでしょう。「生命」の研究に関して、統一的な視座が得られたのです。それは当然医学にも影響を与えます。さらにその視座から進化論が生み出されます)
 
 現代の解剖学書でも、解剖体はポーズを取っていません。まるで死体のように力なく横たわっています。昔の解学書に描かれていたのは、「命(または魂)」の乗り物である人体の構造でした。今の解剖学書に描かれているのは「死体」または「ただの臓器の集合体」なのです。
 
 
2日(月)他と比較される/『タッチ』
 親に他の家の子どもと比較されるのは子どもにとっては不愉快な体験です。教師に他のクラスと比較されるのもそのクラスの子どもには不愉快です。ではその反対はどうでしょう。その親や教師が、子どもに面と向かって「あなたは他の親(教師)と比べたら」と言われたら、きっととっても不愉快でしょうね。
 
【ただいま読書中】
タッチ』ダニエル・キイス 著、 秋津知子 訳、 早川書房、2005年、1600円(税別)
 
 不妊に悩むカップル、バーニーとカレン。バーニーは彫刻家で車会社ではクレイモデル(粘土での車の模型)製作を仕事としています。カレンは女優。不妊に限らず2人の気持ちはすれ違いを続け、関係は少しずつ緊張を増しています。
 そんなとき、バーニーの会社で放射能漏れ事故が発生。2人は汚染されてしまい、病院に隔離されます。汚染は除去されたと保証されますが、数週間後、2人には奇妙な症状が出現します。頭痛・衰弱・吐き気・脱毛、火傷……その最悪の時期に、カレンは自分が妊娠していることを知ります。
 2人は町の人々に差別されます(ちょうど戦後ヒバクシャが日本国内で差別されたのと同様に)。はじめは「大したことがないのに、大げさに騒いで、仕事をさぼってぶらぶらしている」と非難。皮膚症状などが出てくると「うつるかもしれない」と排斥。会社相手に訴訟を起こすと、町の経済が会社に依存していることから「会社の評判が悪くなったり経済的損失を与えたら、町にも悪い影響が出るから訴訟はやめろ」と、会社だけではなくて近隣から攻撃。「訴訟で大金が入るのだったら、自分にも寄こせ」とたかりが横行。自宅に石が投げ込まれたり「火をつけるぞ」と脅迫。(日本でも、ヒバクシャだけではなくて、三池炭坑ガス爆発や水俣病などでほとんど同じ構図の非難・偏見・差別が行われましたっけ。例として聖書に載っているハンセン病患者にまで遡らなくても、「被害」は一度ではすまない、が多くの人間社会での鉄則なのかもしれません)
 回り中が“敵”に思える状況になった時、カレンの姉マイラが2人を助けるためにやって来ます。バーニーの感情は微妙です。彼は以前はマイラに恋していたのですから。そしてカレンは、マイラにすがりますが、同時にバーニーが今でもマイラを愛していることも知っています。奇妙な同居生活の中、バーニーは自分たちが「受難者」であること、そしてこの社会にいろいろなタイプの「受難者」が満ちていることを知らされます。そしてついに出産の時がきます。
 
 原書は1968年発行ですので、放射能汚染についてはずいぶんな描写が目立ちます(たとえば、除染された被爆者が歩いたルートに沿って放射能汚染がまるで伝染病のように広がっていく、とか)。ただ、これからずいぶん後でさえ、キノコ雲を背景にキスシーン、なんて脳天気な映画を平気で公開する国の人が、放射能汚染(の恐怖)について真剣に考えたのは、逆に大したものと言えそうです。
 
 
3日(火)厳選素材/『邪悪な石の戦い(上)』
 「野菜は○○産」「鮮魚は××産」「肉は□□産」をウリにした店があちこちにあります。その真偽はともかくとして(真偽というより信義の問題かな?)、その姿勢はなかなか挑戦的で好ましいものには思えます。
 で、その手の飲食店が隣町にあるので夫婦でランチに行ってみました。ちょっと前に夕食でいろいろ食べた時にはずいぶん美味しかった(でも高かった)ので、こんどはランチをトライ、というわけです。で、ボリュームもあり(特に私好みの野菜が多め)しかも安かったのですが、残念ながら野菜が冷凍でした。まとめて作って冷凍していたのか、それとも冷凍野菜を使ったのかはわかりませんが、ちょっとがっかり。数が出ることとコストのかねあいによる選択なのでしょうが、やっぱり、ちょっとがっかり。
 
【ただいま読書中】
邪悪な石の戦い(上)』(信ぜざる者コブナント 第2部)ステファン・ドナルドソン 著、 小野章/倉本護 訳、 評論社、1984年、1800円
 
 コブナントは「この世界」に帰還します。「あちら」では苦難の数週間を過ごしたはずなのに、こちらではたった4時間しか経過していませんでした。あちらでは感覚が戻っていたのに、こちらでは神経は死んだままです。表記としての「癩病」は今作では「ハンセン氏病」に“進歩”しています(「癩者」は「癩者」のままです)が、相変わらず世間からコブナントは拒絶されており、コブナントは孤立した生活に戻ります。そして、別れた妻ジョーンから自分を求める電話がかかってきた瞬間、コブナントはまた「あちら」に召還されてしまいます。前回から40年が経過した「国」へ。
 「ナルニア?」と私は思います。
 ここで前作での魔王の企みの意味が明かされます。魔王は自分では使いこなせない掟の杖をドルールに与え邪悪な大地の石を発見させました。そして、石と自分の間に立ちふさがるドルールを排除するために人間に手を汚させたのです。その結果人間は掟の杖を入手しましたが、魔王はそれより強力な大地の石を手に入れ、この40年間その力はどんどん巨大化してきたのでした。
 現在の大王はエレンでした。前作でコブナントが行った強姦によってできた娘です。相変わらず「まずは拒絶ありき」の態度をしているコブナントですが、“自分の娘”を否定することはなかなか困難なようです。ただ、新しいことに即応できないことと高所恐怖症と見当識がすぐに混乱するのは相変わらずです。
 なんとコブナントと同じ世界からもう一人「国」にやって来た人がいました。その能力を高く買われて戦士隊の隊長をやっているハイル・トロイです。彼はコブナントとは対照的に、こちらの世界がいたく気に入っていて、コブナントの拒絶が理解できません。
 巨人たちの国に危機が迫っています。城からは救援隊が派遣されますが、コブナントは同行を拒否します。そして、魔王の軍隊が近づいているという知らせが。おそらくは10対1の劣勢。しかも、どうも人類の味方であるはずの巨人が魔王の軍隊に加わっているらしいとの情報も。王たちは動揺しつつも最後の決戦になるはずの戦いの支度を大急ぎで始めます。
 
 今回は物語の視点がときどきコブナントから離れてうろうろします。コブナントのいつもの優柔不断さに、物語の語り手が愛想が尽きた、かのように。さらに、一人称が「ぼく」と「私」で混乱しているページもあります。共約の影響かな。
 しかしコブナントのアンチヒーローさは、相変わらずですが、もしかしたらだからこそこの物語で彼が重要なのか、と思えます。簡単に予測可能だったら魔王も苦労はしないでしょう。魔王と対極に位置する「あらあらしい魔法」であるコブナントが、思いもかけぬ時に思いもかけぬ行動をするから、事態は打開されていくのでしょう。ということで、いらいらしながらも展開から目が離せません。
 
 
4日(水)誰の陰謀?
■小沢代表秘書逮捕「政権が仕組んだ」…民主に陰謀説も
(読売新聞 - 03月03日 20:49)
 なんでわざわざこの時期に、とか、検察の意図をいぶかしく思いますが、動いたのは“政権の手先”だとしても、動かしたのは(政権側と組んだ)民主党の内部勢力(の一部)、に一票。
 
 
5日(木)0.3の世界/『邪悪な石の戦い(下)』
 この前職場の検診を受けました。年に一回の法定検査ですが、視力検査の時に「読書用の眼鏡だった」と気づきました。ま、ちょうど良い機会と思ってそのまま測定してもらったら、左が0.3で右が0.4。なるほど、遠くが見づらいわけです。運転の時の眼鏡交換を絶対忘れないようにしないといけない、と肝に銘じました。若い時には「眼鏡をかけて見える世界」と「眼鏡を外した世界」しか無かったのに、年を取ると世界が複雑になって困ります。
 
【ただいま読書中】
邪悪な石の戦い(下)』(信ぜざる者コブナント 第2部)ステファン・ドナルドソン 著、 小野章/倉本護 訳、 評論社、1984年、1800円
 
 コブナントは大王と姿を消してしまい、物語はトロイを中心として動き始めます。魔王は、手に入れた邪悪な石の力によって、自分の軍団を強化しただけではなくて、自分に敵対する巨人などまでもを自分の配下に置けるようになっていました(しかも彼らもパワーアップしています)。それに対して、トロイの戦略は後手後手で犠牲は多くなる一方です(戦いの前の苦しい行軍そのもので犠牲者が多く出ます)。自らの世界では実戦経験を欠いたままこちらの世界で総司令官になってしまったトロイは、自分の能力に対する疑念と同時に、コブナントに対する不信(とこの国の人々がコブナントに見せる肯定的な感情、特に自分が愛する大王エレンがコブナントに見せる愛情)に苦しめられます。
 戦いは敗走の連続ではありましたが、本来は人間の敵である森の王の助けを借りてトロイはかろうじて勝利と呼ぶに値するものを得ます。
 一方コブナントはエレナ大王と究極の知恵の倉を求めて険しい山地に分け入ります。そこでなんとエレナ(コブナントの実の娘ですよ)から求愛が。さすがのコブナントもこれは断ります。それで話がまたややこしくなりますが。
 解説にもありますが、この国の人が縛られている「平和の誓い」はそれ自体が矛盾したものです。「殺さず」と言いながら、国土が侵略されたら武器を取るのですから。だけど無用の殺生はなるべくしないように努力します。わざわざ自分の手足を縛ってから戦う、というのはどうもよくわかりません。コブナントが髭を剃る/剃らないに異常にこだわることといい、どうも本書に登場する人たちはなにかに異常に執着するタイプの人が多いようです。結局戦いは宙ぶらりんのままコブナントはまた“こちらの世界”に帰還してしまいます。呼び出した人が死んだら戻らなければならないのです。ただ、第1部で魔王が限った刻限にはまだ9年あります。ということはもう一回の呼び出しがあるはず。さて、それは誰がどのように行い、そして魔王との戦いはどのようになるのでしょう。
 
 
6日(金)良い子悪い子/『盗賊会社』
 昔「欽ドン! 良い子悪い子普通の子」というテレビ番組がありました。ふつう大人は子どもを「良い子」か「悪い子」かに単純な二分割評価をしがちですが、それに対して「普通の子」というジャンルが設定され、さらにそれを演じる子が決して普通の「良い子」「悪い子」「普通の子」ではないことのギャップが楽しい番組でしたっけ。
 
 わが家では子どもがよく学校でのことを話してくれますが、そこで私にとって面白いのは、授業を破壊しようとせっせと迷惑な活動をしている子の多くが、親の前では「良い子」であることです。
 ここで二つの可能性が考えられます。
1)本来(家庭では)良い子だが、学校にその子を悪くする要因がある。
2)親の前では(怒らせると怖いとか、親を傷つけたくない、とかの理由で)出せないものを、学校で放出している。
 
 どちらにしても、クラスの迷惑は同じです。そして親の方は「お宅のお子さんは学校では問題児で」と言われたら、それこそ青天の霹靂でしょう。自分の目の前では「とっても良い子」なのですから。で、多くの親はその理由を1)であると考えるでしょう。ところが学校は1)の可能性ももちろん考えてはいるでしょうが、同時に2)の可能性も考えているでしょう。お互いに自分は“良い”が相手が“悪い”と考えていたら、話し合いが円滑に進むわけがありません。となると、「良い/悪い」から離れて「普通」の立場に立ってみることも必要でしょう。
 
 ……そうそう、私の子どもは、付き合っている友人たちやその親たちは真っ当な人ばかりだし、親の前では……あんまり良い子ではありませんね。これは、きっと安心して良いのでしょう……なんて甘いことを言うのは、単なる親ばか?
 
【ただいま読書中】
盗賊会社』星新一 著、 和田誠 絵、理論社、2003年、
 
 理論社の星新一ショートショートセレクション(12)です。底本は「盗賊会社」(日本経済新聞社)「悪魔のいる天国」(中央公論社)「午後の恐竜」(早川書房)です。息子が図書室から借りてきたのでそれをちょいと拝借して読みました。
 
 星新一のショートショートはほとんど読んでいるはずですが、さすがに何年も(ものによっては何十年も)離れていると忘れていますね。改めて楽しめました。
 読んだのがショート・ショートですから、感想もショートです。本日はこれだけ。
 
 
8日(日)場所直前/『世界の奇妙な博物館』
 力士は皆「品格に満ちたガッツポーズ」の練習中でしょうか?
 
【ただいま読書中】
世界の奇妙な博物館』ミッシェル・ロヴリック 著、 安原和見 訳、 ちくま学芸文庫、2009年、1200円(税別)
 
 本書には80くらいの“博物館”が集められて展示されています。いくつか拾い出してみましょう。「ゴキブリの殿堂」「スーラブ・インターナショナル・トイレ博物館」「国際スパイ博物館」「アイスランド男根学博物館」「ニューオーリンズ歴史的ヴードゥー博物館」「ハシシ、マリファナ、大麻の博物館』「狂気博物館」「スパム博物館」「月経博物館」「カエル博物館」「でっちあげ博物館」「目黒寄生虫館」「われもまた立ちたり──落選候補ギャラリー」「大統領のペット博物館」「ソボー・マジパン博物館」……キリがありませんが、こうならべただけでいろいろ想像をたくましくしてしまいますね。これで本の(ほんの)一部です。それぞれ電話番号やURLが載っています。大きな博物館とは違って、普段閉まっているところもあるしネット上にだけ存在するものもあるから、ということなのですが、一つ一つURLを入力するのは疲れます。こういった本は、なんとかメモリーを付属させるとか、携帯で読めるコードを印刷しておいてそこからさっとネットにつながるとかできないものかと思いますが、これは私が年を取ってせっかちになった、ということなんでしょう。
 本書で私が実際に行ったことがあるのは目黒の寄生虫博物館だけですが、ほかのところもいろいろ見て歩きたくなってきました。人生は短いのに、困ったものです。
 
 名前からは内容がとても想像できないものもあります。たとえば「イーデン・シャチ博物館」。単にシャチが展示してあるのではありません。20世紀初めのオーストラリアで行われていた、シャチと人間が協同で行う非常に奇妙な捕鯨の記念館です。シャチが勢子となってヒゲクジラを湾に追い込むと人間が銛を打ち込み、シャチが傷ついたクジラをひっくり返して窒息死させ、“報酬”として好物の唇と舌を人間からもらう(残りは人間のもの)、というシステムだったそうです。
 「献身的な妻たちの博物館」……神聖ローマ帝国軍がドイツのヴァイスベルグを包囲した時、皇帝が「男は皆殺し、女は背負えるだけの所有物を背負っての脱出を許す」としたのに対し、女たちが夫や家族の男を背負って逃げた故事による博物館です。(ちなみにコンラート公は「皇帝に二言はない」と言ったそうです)
 かと思うと、まったく名前通りの「焦げた料理の博物館」。これ、「作品」もけっこうインパクトがありますが、それに添えられたキャプションが笑わせてくれます。
 「バッドアート博物館」もネットで見てみました。 いや、アートですよ。芸術に関心が深い人で心に余裕がある人だったら、非常に楽しめるんじゃないか、と思えましたが、「バッド」の定義がわからない。「見たらわかる」と言われてもわからない。
 
 個人のコレクションでも“博物館”にすることは可能です。インターネットで公開すればいいのです。実際に本書でもそうやって“博物館”になっているものがあります。個人でいろんな“特殊”なコレクションをしている人はそうやって“博物館長”になったら、そのうちこの本の改訂版に載せてもらえるかもしれません。
 
 
9日(月)せっかくだからついでに意味がない/『たもたれた力(上)』
たとえば旅行をしていて「今日は甲と乙と丙をゆっくり見物して宿に入ろう」という予定で動いているとき、甲と乙を見終わって出たところで「せっかくここまで来たんだから、丁も見よう」と言い出す人がいます。もうあまり時間がないから「ならば、丙をやめて丁に回るの?」と問えば「せっかくここまで来て丙を見ないで帰るのはここまで来た意味がない」。「じゃあ、予定通り丙を見て宿に?」「せっかくここまで来て丁を見ないで帰るのは意味がない」
 ……この地を代表する甲と乙を見て、さらに丙も見る予定なのですが、丁を見ないとそのすべてに意味がないのだそうです。そこまで甲と乙(と丙)の意味をなくすような重大事だったら、せめて一日の最初、出発前にそれを言ってくれたら、甲と乙をちょっとずつつめて時間を捻出することもできたでしょうにねえ。
 
【ただいま読書中】
たもたれた力(上)』(信ぜざる者コブナント 第3部)ステファン・ドナルドソン 著、 小野章 訳、 評論社、1985年、1800円
 
 コブナントを町から追い出そうとする動きが公然化します。町議会の決定でコブナントの牧場を人が住めない地域に指定しようとするのです。同時に、届けられるパンに剃刀の刃が入れられるといった陰湿な嫌がらせも始まります。コブナントはエレナを失った悲しみと外部から押し寄せる攻撃とであっぷあっぷとなります。
 そして「国」では、掟の杖は大王と共に失われ軍団はほぼ壊滅状態となっています。邪悪な大地の石によって強大化した魔王は、季節の循環さえ狂わせる力を持っています。第2部から7年、第1部で、魔王による「国」の滅亡まで49年と予告されましたが、その最後の年まであと2年となっています。呪われた巨人に率いられた大軍勢が「国」を飲み込もうとしています。血の衛兵も失われ、残された希望はただ一つ、コブナントが所持する「白金の指輪」のみ。大王は自らが掟の杖となってコブナントを召還しようとしますが、コブナントは例によって反射的に拒絶します。しかしそれで時間を稼げたのもわずかのことで、予想外の人によって予想外の場所にコブナントは召還されてしまいます。「国」を蹂躙する魔王の所業に怒りと憎しみを感じ、コブナントは魔王と対決する腹を固めます。しかし、そのための旅は、いかにこの国が破壊されてしまったかを確認する旅でもありました。
 ただ、「国」が荒廃したことによって、これまでコブナントの宿痾を癒し健康を感じさせてくれた薬用植物や魔法の泥はもう手に入りません。体が健康になるからこそコブナントは「国」が幻想の世界であると信じることができたのに、今回は自分の体が「現実の世界」よりももっとひどい状態(生きながら腐っていく)になっていくのを座視するしかないのです。それでも彼が「信ぜざる」を貫くことができるのか、読者には意地悪い期待が生じます。
 
 「国」の人々がコブナントに見せる寛容に私は驚きます。よそよそしいとか無愛想とか無礼とかをはるかに通り越した態度ですから、普通は怒りますよ。そして、コブナントが示す、そういった「寛容に対する拒絶」にも私は驚きます。そして、彼に意外な「旅の仲間」ができます。
 
 
10日(火)ノーベル賞/『たもたれた力(下)』
 よくマスコミが「世界平和について一言」なんてノーベル賞(平和賞以外)の受賞者にコメントを求めていますが、受賞者が自分の専門外のことにまでいろいろ口を出すのは、なんか違う、と思えるのですが(たとえばノーベル物理学賞が、世界不況のことに口を出すための“パスポート”とは言えないでしょう)、では逆に私が今やっているような「ノーベル賞受賞者がいろいろ言うことに対して口を出す」ために必要な“資格”は一体何だろう、と考えてそこで私の脳は固まってしまいました。
 
【ただいま読書中】
たもたれた力(下)』(信ぜざる者コブナント 第3部)ステファン・ドナルドソン 著、 小野章 訳、 評論社、1985年、1800円
 
 「旅の仲間」がいたのもつかの間、コブナントは孤独になってしまいます。この長い物語が始まってから初めてのことです。足は骨折し、食物なし、厳しい冬なのに火もなし、大地は死滅しています。憎しみでは魔王には勝てないとコブナントは悟り魔王と対決することを断念しますが、そこで魔王の手下に捕まってしまいます。
 攻城戦は激烈さを増し、陥落までの日数が数えられるくらいになりました。ムホラム大王は敵の総大将に対する血戦を挑むことにします。そのときムホラムは、王たちが成長していることに気づきます。それまでの戦いで王たちは、「王」というにはあまりに弱々しい態度を示していましたが、自らの弱さを知ると同時にそれを強さに替える術を学んでいたのです。
 コブナントはまた旅を続けます。荒野(文字通り邪悪な者によって荒らされた野)で火によって追い詰められた時、彼は地の底に救いを見ます。そこにいたのは、まるで日本神話のヒルコのような存在……って、このあたり、日本人だったらなんだかとっても懐かしい気持ちになれますぞ。ここ、著者は意識してやっているのかな。地底のトンネル、溶岩の大河、やせ細った指に落ちそうになってやっと引っかかっている指輪。食料無し、武器無し、計画無し。
 そして最後の魔王との対決でコブナントが選択した“武器”は、魔王も味方も(もしかしたらコブナント自身も)思いもよらないものでした。もう、笑っちゃいます。
 しかし、本書は最初から最後まで読者を裏切り続ける本です。なにより登場人物(生物)がみなジレンマの塊。コブナントや「国」の住人はもちろんですが、魔王もジレンマに悩んでいますし、最後にはとうとうこの世界の創造主までもが自身のジレンマを披露します。何と言ったらいいのか、こちらも悩んでしまいます。最初にも書きましたが、このシリーズが図書館の児童書に紛れているのは絶対に間違いです。傑作とは言えませんが、怪作。絶版になってますがもし図書館や古本屋でこの本と目があったら、手に取ることをお勧めします。
 
 
11日(水)夫婦/『頼むから静かにしてくれ II』
 アメリカの夫婦は「相手」を愛することが一番大事で、日本の夫婦は「相手との生活」を愛することが一番大事なのかな、なんて言うのは単純化しすぎでしょうか。
 
【ただいま読書中】
頼むから静かにしてくれ II』レイモンド・カーヴァー 著、 村上春樹 訳、 和田誠 装幀、中央公論新社、2006年、1000円(税別)
 
 著者の処女短編集です。登場するのはアメリカ人の家族。ほとんどは底辺よりはちょっと上〜中流くらいまでで、ほとんどは白人のようです。面白いのは、妻の不貞(あるいは妻が不貞を働いているのではないかとの疑念に苦しむ夫)が繰り返し何度も登場することです。ところがその夫たちの行動が、うじうじねちねち。アメリカ人はもうちょっと「強さ」を信奉していたんじゃなかったのか、と言いたくなります。まあ「妻が浮気したぞ、わっはっは」とすかっと爽やか、も困りそうではありますが。
 そこまで深刻ではない話もいろいろ。気に入らない飼い犬を捨てに行く話とか破産したので車を売るとかレストランに行ったら気の利かないウエイターがいたとか、なんというか非常に“小さな”エピソードが各作品で取り上げられています。ところが、著者の筆力と言うべきでしょうか、読者はさっさとその世界に取り込まれ、登場人物に共感するどころか自分自身のことを書かれているような気分になっていきます。そして、そこに描かれる、登場人物のひやりとするような心の動きによってこちらも思わず背後を振り返りたくなるのです。自分自身の生活が誰かに覗かれているのではないか、と思って。この静かな「ひやり」は、なかなかのものですよ。?
 
 
12日(木)メインマシン入院
 メインに使っているMacBookが職場で起動しなくなって、しかたないので仕事帰りに入院させてきました。おそらくハードディスクでしょう。壊れたのは悲しいけれど、壊れたのが1年保証が切れる3週間前というのは、嬉しい(せめて何か嬉しいことを探しませんとね)。しかたないので前使っていた WinXPノートを復活させて現在使っています。なんというか、キーボードの微妙な違いが困ります。たとえばATOKのオン・オフとかCapsLockの使い方とか。なんだか気分が萎えて読書意欲も衰えてしまいました。いや、読むのは読んでいるのですが、メモを取るのがやりにくくて…… もししばらく読書日記が途絶えても心配はしないで下さい。
 さて、昨日職場に行く直前にTimeMachineが最新のバックアップをTimeCapsuleに取ってくれているはずなので、それがどこまで本当かは、マシンが戻ってきたら確認できます。楽しみだなあ。?
 
 
13日(金)おれおれ/『監獄ビジネス』
 特に用もなかったのですが、親のところに久しぶりに電話をしてみました。母親が出たので開口一番「おれおれ」と言うと、電話機の向こうと私の背後で爆笑が。私、何か笑われるようなことをしましたっけ?
 でも、父親の友人が最近それにひっかかりそうになって、まさに機械の前で「それでも息子に確認してみよう」と電話をしたので振り込まずにすんだそうです。それで親の家の電話機の前には「振り込むな」と張り紙がしてあるそうです。
 私の声や話し方が忘れられないように、もっとしょっちゅう電話をしたほうがいいのかな。
 
【ただいま読書中】
監獄ビジネス グローバリズムと産獄複合体』アンジェラ・デイヴィス 著、上杉忍 訳、岩波書店、2008年、2300円(税別)
 
 著者は「反監獄運動」をしているそうです。著者の主張は「現代社会は、監獄があって当たり前、と思っているが、それは本当に“それ以外に選択肢がない”のか?」
 なかなか挑戦的なお話です。私自身虚をつかれた思いですが、本当に「監獄が存在しない世界」なんてありえるのでしょうか。
 
 著者は「奴隷制と監獄制度の対比」から話を起こします。自由の制限とか強制労働とかある種の“人種”のみがその対象とされることなど共通点が多く見られますが、著者はまず「その制度」が「当然のもの」として社会全般に受け入れられていた(いる)ことを最大の共通点とします。
 さらに、奴隷制が廃止されたとき、それは監獄制度の中に組み入れられた、とも著者は主張します。奴隷州で奴隷法が廃止されたとき、その多くで「黒人法」が制定されました。同じ行為をしても、白人は看過されるが黒人だけは「犯罪」として収監される“罪”がそこには多数列挙されました。その結果、奴隷制があったころには99%以上が白人だった刑務所の住人は、みるみる黒人率が高くなりました(のちにはラティーノも含まれるようになります)。
 そこで「黒人は犯罪率が高い」という主張が声高に行われます。
 興味深いのは、「収監」が「懲罰」になるためには、まずそれによって奪われる「自由と権利」が「個人から奪われてはならないもの」でなければならないことです。ところがかつての米国で「それ」を持っていたのは白人男性だけでした。そこで話がねじれます。女性は「自由」も「権利」も持っていませんでした。するとそういった人に懲罰を与えるためにはどうすればいいでしょうか? 実際に行われたのは(行われているのは)刑務所内での虐待やレイプでした。「もっとひどい目にあわせて惨めにしたら、罰になるだろう」ということだったのでしょう。
 懲罰ではなくて「更生と改心」を目指すやり方もあります。そういった女性刑務所では「よき主婦」になるための訓練が行われましたが、黒人女性にとっては結局「白人家庭でのメイドになるための訓練」でしかありませんでした。
 アメリカでは「監獄ビジネス」「懲罰産業」というものがあるそうです。(実にさまざまな株式会社が本書では紹介されています) たとえば 1970年代には化粧品会社が大々的に囚人を相手に化粧品やクリームの新製品の人体実験をしたそうです。きれいになった人もいたでしょうが、かぶれてしまってひどい目にあった人のほうが多かったことでしょう。そういった「産業」は1980年代から急成長します。すると必要なのは「大量の囚人」です。
 面白いことに1990年代に殺人件数はアメリカでは半減しましたが、三大ネットワークでの殺人事件報道時間は4倍となり、「スリー・ストライク法」(犯罪が3回目で突然刑罰が重くなり、仮釈放が一切認められなくなる)の影響もあってか、収監人数は激増しました。各地で刑務所が続々建設ラッシュを迎えます(地域興しのために刑務所を積極的に誘致し(そして期待が裏切られ)たところも多いそうです)。ともかく、1970年代には20万人だったアメリカの収監人数は30年でその10倍になりました。「産業」はほくほくです。今は廃止されましたが、労働力として囚人貸し出し制度もあったそうです(ナチスが強制収用所のユダヤ人を、ドイツ人資本家の工場に貸し出したのを私は思い出します)。
 著者は、黒人女性で、しかも冤罪で収監された経験を持つ人ですから、反監獄の立場をとるのは当然でしょう。ただ、本書では実効的な対案は示されません。「監獄なしでこの社会は成り立つのか?」。たぶんほとんどの人の答えは「ノー」でしょう。しかし、「ならば、刑務所をどんどん作って“悪い人間 ”をそこに放り込めば、それですべて解決なのか?」と問われたら即座に「イエス」とは言いづらい。
 なかなか面白い思考実験を強いてくれる本です。
 
 
14日(土)保守本流ではない人/『臨床殺人』
 いったん仕切り直しとなった総選挙ですが、最近事前運動がまた激しくなった様子です。で、自民党の候補予定者が言っていたのが「自民党は保守本流」。すると民主党は「保守傍流」?
 
【ただいま読書中】
臨床殺人』ハリー・スタイン 著、 伏見玄蕃 訳、 角川書店、1996年、1942円(税別)
 
 若くてハンサム、医者としての腕が良く仕事中毒気味、正直をモットーとしているがときにかっとしやすいのが玉に瑕、というダニエル・ローガンは、研修医が終わって就職するするのに、引く手あまたの中からACF(アメリカ癌財団)を選択します。
 ここまでの描写で私は「ザ・ファーム ──法律事務所」を思い出します。医師と弁護士の違いはありますが、有能で野心があるがまだ未熟な若者が、厳しい現実に出会い、しかもそこには陰謀が……アメリカ人にとって、これは一つの“典型”なのかもしれません。
 ローガンが期待に満ちた入った職場は……厳しい身分構造の世界でした。幹部職員は新人研究者を奴隷扱いです。しかし“上”に逆らうことは自分の未来を閉ざす行為です。そして顧客は政治家や大金持ちなど“身分の高い”人たちばかりで、しかも他の診療機関では手の施しようがなくてやって来ている人ばかりですから当然気むずかしくなっています。そのご機嫌を損ねることはこれまた自分の将来に悪い影響が出ます。右を見ても左を見ても、出世以前に生き残るだけでも厳しい世界です。
 ローガンはそこで「J化合物」に出会います。文献では1924年の研究にまで遡れますがまだ誰も本気でその可能性を追求したことがないものです。ローガンはそこに乳癌治療の可能性を見ます。プロジェクトを立ち上げるために陰険な政治の世界を泳ぎ、ついにローガンは“自分たち”の研究計画を立ち上げます。しかし、そこにもケチくさい悪意で頭を膨らませた人間がそこかしこにいて、ローガンたちの足を引っ張ります。さらにJ化合物はなかなか効果を示してくれません。失意に満ちた時間の後、ついに朗報が。患者の癌が消え始めたのです。しかし、快哉を叫んだのもつかの間、副作用によると思われる死者が出始めます。
 う〜ん、ここで紹介されているプロトコル、動物実験を省略していきなり人体で始めています。それも健康なボランティアではなくて患者で。これはいくらなんでも乱暴です。ところが「J化合物」の次世代版は動物実験から始めるのですから、話の整合性がありません。
 また、人物描写があまり魅力的(あるいは印象的)でないためか、具体的な人物像が頭の中に浮かびません。そのかわりにか、医学の描写は非常に詳しくされています。ただ、たとえばマイケル・クライトンが「詳しい知識を素人にわかるようにかみ砕いて描写する」といった感じなのに、本書は「素人が詳しく“お勉強 ”した結果を、嬉しそうに開陳している」といった感じです。これは私が読者としてすれっからしのせいかもしれませんが。
 ただ、戦前のドイツ(とその思い出を抱えて生きる人たち)に関する描写は魅力的です。特にエールリヒの古い研究室のところでは、私はある種の感動を覚えました。著者は“この方向”で活躍した方が良いんじゃないかしら。
 
 
 
 
15日(日)急いでいる/『わたしが幽霊だった時』
 駐車場で車を出そうと駐車券を精算機に入れようとしたら「すみませ〜ん、駐車券の時間ぎりぎりなので」と言いながら私の体をぐいと押しのけて機械の前に立つ人がいました。こちらは料金が変わるまでまだ数分間の余裕があるし、数十秒の違いで駐車料金がどんと上がるのも気の毒だから特に文句も言わずに待つことにしましたが……あらら「えっと、財布は……あら、駐車券はどこかしら」ともたもたしています。結局、精算が終わるまでに明らかに20秒以上かかりましたが、私はすべて準備できていたので十数秒で済んだはず。ということは、私が精算を済ませるのを後ろでおとなしく待って、その待つ間に券やお金の準備をしてから自分の精算を済ませた場合と、結果としては変わらないタイミングとなっていたわけです。なんだ、結局私が順番を抜かされただけか。順番を取ることにだけ夢中になるのではなくて、急ぐんだったら、本気できちんと急ぎましょうね。そうすれば無駄に「すみません」を連発せずにすみます。
 
【ただいま読書中】
わたしが幽霊だった時』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 浅羽莢子 訳、 東京創元社、2004年、1900円(税別)
 
 「わたし」は、自分が幽霊になっていることに気がつきます。「事故!」という記憶はありますが、何があったのか、そもそも自分が誰なのかもわかりません。ふらふらさ迷っているうちに男子寄宿学校にたどり着き、そこが「我が家」であると直感します。そこで「わたし」は、自分がその学校に住む四姉妹の一人、サリーであることを思い出します。四姉妹はそれぞれ非常に個性的で、サリーは自分だけはまともだと思っていますが、他の姉妹からはサリーは嫌われています、というか、仲の良い組み合わせはないようです。一体自分に何が起きたのか、他の姉妹に自分の存在を気づいてもらうにはどうすればいいのか、とサリーはじたばたしますが、そこで驚天動地の事実が。サリーは生きているのです。では、幽霊の「わたし」は、誰?
 ここから物語は走りのギアチェンジをします。それも車の向きをくるりと変えてバックギアで全力疾走するような感じに。他のファンタジー作家の作品とは、本書で“窓の外に見える風景”は全然感じが違います。
 幽霊は人間に戻りまた幽霊になりまた人間になり……物語はノンストップで進みます(あるいは後ろ向きに進みます)。
 
 ダイアナ・ウィン・ジョーンズは、オックスフォード大学を卒業、3人の子育てをしてから本格的に執筆活動を開始した、という、私から見たら羨ましい生き方をしている人です。たまたま図書館で手に取ってみたのですが、正解でした。しばらく“追っかけ”をやってみます。
 
 
16日(月)差/『碁打ち・将棋指しの誕生』
 私が将棋を覚えた頃には「将棋はプロとアマの差が絶対的」と言われていました。当時囲碁はアマチュア名人はプロに互先で対局していましたが、将棋の場合はアマチュア名人はプロを相手に角落ちだったかな。また、男女差も大きくて、囲碁は当時プロの少数ながら女性がいましたが、将棋の方にはまだほとんど女性の姿はなかったはずです。
 ところが最近は、将棋でもアマチュアが棋戦でプロと対決して平手で堂々と勝負できる(けっこう勝つ)ようになっています。女性棋士の数もずいぶん増えました。
 考えてみたら、プロだって元はアマチュアなんですから、アマチュアの最精鋭だったらプロと良い勝負ができても良いんですよね。子どもの頃の常識を年を取ってもずっと持ち続けるのは、良い場合と悪い場合がある、ということですね。
 
【ただいま読書中】
碁打ち・将棋指しの誕生』増川宏一 著、 平凡社、1995年、951円(税別)
 
 中世では賭け事は日常生活でごく普通に行われていました。現代で「賭博行為」と言われるようなものだけではなくて、例えば連歌の会でも負けた者が優秀な作品を出した人に賭け物を出したりしています。囲碁将棋もそうでした。
 囲碁・将棋ははじめは貴族の遊びでした。15世紀の貴族の日記にもけっこうそれに関して(および賭けについて)の記述が見られます。寺でも囲碁は盛んに行われたらしく、15世紀に都で「囲碁の上手」と謳われた人たちの代表が、時宗の僧である重阿弥(チゥ阿弥)でした。
 16世紀には町衆にもそのブームは広がります。(実際にはその前から広く行われていたのが、記録に残るようになっただけかもしれない、と私は考えます) 16世紀に将棋の上手とされたのは、身分不詳の一楽で、囲碁の上手は日蓮宗の本妙坊でした。あるものが世間に広まると、裾野が広がることで平均レベルは低下しますが、厚みが生じることでピークは高くなります。囲碁将棋の場合は、プロの誕生です。昭和の時代には「真剣師」と呼ばれましたが賭け将棋や賭け囲碁で生きていく、あるいは、指導対局で稼ぐ、といった人たちでしょう。徳川家康も“パトロン”として、上手の人を召し出したときには褒美を与えていましたが、やがてそれを常態化させて慶長年間には囲碁将棋の上手八人に俸禄を与えます。
 室町時代から、連歌師や絵師、猿楽能などには俸禄を与えることは行われてきましたが、市井の遊芸である囲碁将棋も(“先輩”より評価は低いとはいえ)幕府公認となったのです。ただ、これによって囲碁将棋は二極分化をします。公認の存在と非公認の存在とに。
 
 本書にはおまけとして「と金」について、載っています。出土品の駒や残された棋譜を見ると、戦国時代や江戸時代初期には「歩」の裏には「今」と書かれていました。棋譜では「今」にふりがなで「きん」と書いてあるものもあるそうです。すると「今」がくずされた文字が「と」になったのではないか、が著者の考察です。
 私も「なんで『と』なんだ」と不思議でしたが、そもそも「と」ではなかったんですね。「金」じゃないけど「きん」のようなもの、で誰かが洒落て「今」にしたのかな。
 
 
17日(火) 以前NHKの番組で「Y染色体はどんどん“磨り減って”いて、将来は染色体として機能しなくなる」なんてことを言っていました。それは大変です。人類が滅亡してしまうじゃないですか。
 さっそく対策を考えました。
1)バイオの力で、Y染色体を“復活”させる。
2)女性だけでも生殖できるようにする。
3)X染色体を現在のY染色体にはめ込んでしまう。
 
 個人的には3)が面白そうです。新しい染色体をZ染色体と呼んだら、女性は相変わらずXXですが、男性はXZになって、なんだか“新人類”みたい。
 
【ただいま読書中】
ヴィーナス・プラスX』シオドア・スタージョン 著、 大久保讓 訳、 国書刊行会、2005年、2200円(税別)
 
 私にとって著者は短編『ゆるやかな彫刻(新版では「時間のかかる彫刻」)』を書いた作家、ですが、本書はなんと1960年発表の長編です。しかも「ジェンダーSF/ユートピアSF」なんだそうで……
 
 恋人と素敵な一夜を過ごしてご機嫌で帰宅したチャーリー・ジョンズは、奇妙な世界で目が覚めます。そこにいるのは、ホモ・サピエンスとは明らかに異なる種のレダム人。信じられないハイテクによって彼らの言語を習得させられたチャーリーは、そこが人類滅亡後の世界であることを知ります。タイムマシンでチャーリーをピックアップしたレダム人の目的は、チャーリーに自分たちを評価してもらうこと。チャーリーは過去への送還を条件にちらつかされ、しぶしぶその申し出をのみます。
 レダム人は、ホモ・サピエンスに似た身体構造を持っていますが、両性具有で、睡眠を必要としません。したがってその言語の人称代名詞は性別がありません。性格は極端なくらい未来志向です。テクノロジーの基礎は「Aフィールド」と呼ばれ、原子レベルから都市レベルまで制御できる優れものです。(コーンフレーク(のような食べ物)をすくうスプーンにまでそのフィールドが使われているところには、笑ってしまいました)
 その「未来世界」の描写とカットバックで、当時のアメリカの中流家庭の描写が挟まれます。当時のアメリカでは1920年に選挙権を得た女性が第二次世界大戦で社会進出をするようになり、経済的な高度成長も重なり、一種の社会変革が行われた時代でした。(本書には登場しませんが、黒人の公民権運動が行われた時代でもあったはずです) 古い価値観と新しい生活のミスマッチが生まれ、その中に「男と女の軋轢」という概念も登場していました。本書ではそういった「生活の中でのジェンダー論」が実にさり気なくしかししたたかに描写されます。
 
 チャーリーが見たレダム人の“真実”とは何か、彼は無事に“過去”に戻れたのか、は本書を読んでいただくとして、著者が何回か書いている宗教論(おそらくこれを読んでかちんと来る“信者”は多いはず)と「男性と女性の間には、差異よりも多くの基本的な類似がある」という主張を読んで、私はニヤリとしてしまいました。
 半世紀前のSFですが、今読んでも面白いものです。
 
 
 
18日(水)分数パラダイム/『分数ができない大学生』
 小学校の時同級生が「1/2 + 1/3」を「2/5」と答えたのを見て私は目を丸くしました。しばらく考えてやっとその「計算の筋道」はわかったのですが、どうしたらそんな「計算」ができるのかが結局理解できませんでしたっけ。向こうは向こうでなんで答えがそれ以外なのかが理解できなかった様子ですが。
 結局、彼は、機械的な通分や約分の“計算”はできるようにはなってテストでマルはもらえるようになりましたが、大切な「分数という概念」を獲得はできなかったようです。この概念を獲得してしまうと、獲得できない人のこと(以前の自分)のことがわからなくなってしまうんだなあ、と、私は今になって思います。まるで、違うパラダイムの下に生きている人間同士がお互い理解ができないのと同じようです。
 
【ただいま読書中】
『分数ができない大学生』岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄 編、東洋経済新報社、1999年、1600円(税別)
 
 1980年代にアメリカでは大学生の学力低下が社会的問題となりました。そこで「基礎学力とは、母国語と数学である」というテーゼがまず立てられ、SATという統一試験でそれが問われるようになりました。と同時にハイスクールでの学業成績平均(GPA)と学業以外の活動(スポーツ、芸術、ボランティアなど)が加味されます。その“加味”の比重によってどんな学生が欲しいかの大学の主張がされ、それと自分がどんな人間かの学生の主張とがぶつかり合うのがアメリカの大学入試のようです。
 それに対して、と本書では問います。日本の大学入試は、一体何を目的としてどんな学生を集めてどんな教育をしたいのか、と。
 日本で行われている、板書を中心とした教室での大人数教育で生徒が学ぶ最大のものは、忍耐である、と本書では辛辣です。もっと人数を減らすべきである、と。逆に減らしてはならないのは、大学の入試科目。なぜなら「受験科目しか勉強しない高校生」は知的にアンバランスになってしまうからです。
 本書の最初の論文で提言されている解決法は
1)少人数クラス:創造性を育て個性を重視しイジメを減らすため
2)大学入試検定統一試験の実施:主要大学を受験するための資格試験で、簡単なものと難しいものの二段階方式。一発勝負の弊害をなくすために年に何回か実施してその中で最高点のものを採用。これによって基礎学力を確保。各大学は独自に入学検定を行うことで独自性と検定料を確保できる。
3)大学の多様化。専門的なもの(たとえば翻訳者養成)とか地域に開かれたものとかで、そちらでは少数科目での入試も可。
 となってます。入試日程を前期だ中期だ後期だといじるよりもっと問題の根っこに近づいた解決法に私には見えます。
 
 基礎学力は、スポーツでは基礎練習に当たるものです。正しい方法で繰り返すことが必要。それを「詰め込み学習」と呼ぶのは、ガクモンがわかっていない人間の言いぐさでしょう。「守破離」の守はひたすら単調で退屈なものです。で、そこで「型」ができた人だけ「型破り」ができるわけ。創造性とか個性はそこで発揮されるものです。(もちろん、100年に一人、レベルの天才だったら最初から創造性をばりばり発揮するでしょうが、そういった例外的な存在を多くの人を対象とする教育システムの前提に置くわけにはいきません。さらに、創造性と単なる奇異さや単なる新奇性とを混同してはいけません)
 二番目の「創造性」に関する論文は、主張自体は正しいのですがその根拠となっている部分(特に「パラダイム」に関する部分)に私は賛成できません。クーンを理解するのに『科学革命の構造』(訳があまりよろしくありません)だけを読んでいたのではダメなんですけどね。また、「パラダイムには上位互換がある」はおおむね真実ですが、たとえば個人があるパラダイムを獲得したら、それ以前のことを都合良く忘れる(たとえば、専門家になってしまうと自分が素人だった時代のことを忘れてしまう)ということもあります。
 第三の論文では、職場での熟練工の意味が語られます。経験と論理的思考能力を持つ熟練工だけが、未知のトラブルに対応できる。そして、論理的思考を学校でもっとも明示的ににトレーニングできるのは数学なのです。もちろん普遍的な基礎学力も必要です。
 
 「二次方程式が生活に必要か」と言えば、たしかにそのままの形で使うことはないでしょう。だけど、二次方程式を知っている人と知らない人とではたとえば「エコ生活」をするにも態度が違ってきません? 数学に限定しても少し難しいところまで踏み込んでいればそれ以前の分野の理解は深まりますし、“教養”があるかないかで、生活の“豊かさ”が違ってくるはずです(“豊かさ”は、抽象的な意味だけではなくて、アメリカでは数学の成績と収入が相関しているそうです)。さらに、「とにかく“正解”を出してマークシートを塗れば良いんだ」は「データベースから“正解”を引っ張り出してくる作業」ではありますが、つまりは「思考停止」です。(実際にゆとり教育世代の私の子どもは「なぜ答えがそうなるのかその筋道を書いてみろ」と私が求めると非常なとまどいを見せていました) 考えるふりだけ上手になる人間を大量生産するのは、手っ取り早い亡国の手段ですな。
 
 
19日(木)他山の石または五十歩百歩
 日本テレビの社長辞任を、特に新聞はどこか嬉しそうに報じていますが、情報源がきちんとしていないものを平気で垂れ流す点では新聞もテレビと五十歩百歩でしょう。たとえば「政府高官」の話とか省庁の記者クラブでの発表とかを嬉しそうにそのまま記事にして紙面を埋めている態度のことです。二十世紀に厚生省が「すぐに出生率は回復する」とか「年金は安心だから掛け金を払うべきだ」とか発表していたのを無批判に紙面に載せていた全国紙はありませんでしたか?
 
【ただいま読書中】
バビロンまでは何マイル(上)』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 原島文世 訳、 東京創元社、2006年、2000円(税別)
 
 15日に『わたしが幽霊だった時』の読書日記で「追っかけをやる」と宣言したダイアナ・ウィン・ジョーンズの本です。
 まず世界の説明から。この世は魔法が生きている「正域」と魔法が死んでいる「負域」とに分かれます。地球はかつては正域にありましたが今は負域にあります。そして、正域と負域をつなぐところ(無限大の記号∞だったら二つの○が交わる点)にコリフォニック帝国があります。そしてそこを担当しなければならないのが地球で最下位の魔法管理官(マジド)です。さらにマジドには定員があり、それは常に満たされていなければなりません。
 さて、地球で一番下っ端のマジドはルパートというコンピュータ技術者です。ところがコリフォニック帝国でくたくたになって地球に帰還したら、マジドの師スタンが死んでしまいます。ルパートはマジドの新人をリクルートしなければなりません。ところがコリフォニック帝国ではクーデターが起き、その後継者問題の解決をルパートは求められます。
 新マジドとしてもっとも有力に思えるイギリスの少女マリーは、とってもヤなやつでした。ルパートはマリーを嫌います、というか、憎みます。ところが、他の候補者たちはそれ以上の強者ども。
 しかもその候補者選びの“会場”が、世界中からファンタジーファンが集まった大会会場。しかも地球上で特殊な“力”の交点に建てられたホテルですから、現実としても(コスプレしたファンや変人たちの大集合)魔法としても(たとえばホテルの廊下が何回左に直角に回っても元に戻れない)話は大混乱です。
 
 先日読んだ『私が幽霊だった時』でも思いましたが、著者は「ヤな少女」を書かせたら天下一品です。なんというか、生理的に受け付けられないような描写が愛を込めて綴られます。いやもう、笑っちゃうくらい。そしてファンタジーとSFの絶妙のブレンド。ひたすら疾走し続ける(ときには暴走する)ストーリー。そして、ユーモア。
 あちこちで私は笑い転げてしまいましたが、短くても状況がわかりそうなのは、たとえばこんなの。ホテルの朝食会場での描写です。
 
「にゃめ、びーん、ときゃた」ニックがつけくわえた。
 誰もが通訳を求めてこっちを見た。「二回目にビーンズを食べているって気がついたとき、そのことがわかったって言ってるの」あたしは説明した。
「すあ、むあった」ニックは同意した。
 
 引用を始めると止まらなくなりそうだから、このへんでやめ。
 
 
20日(金)まっさらマック
 先週愛機のMacBookが故障したことを書きましたが、5日後に(予想通り)まっさらにシステムをインストールされた状態となって帰ってきました(ついでに、外側もきれいに汚れが落とされていました)。中が初期化されることは最初から承諾して覚悟していたので、早速過去の復元ですが、ほとんど手間がかかりません。バックアップソフトのTimeMachineを起動し(というか、新規状態で起動すると「そのまま使うか? それとも過去を復元するか?」と向こうの方から聞いてきます)、外付けHDDのTimeCapsuleに接続、どれを復元するかを選択したらあとはお任せです。勝手にどんどんデータを読み込んで1時間くらい経ったところで「ネットワーク環境を復元中、あと1分以内」の表示が出たところで固まってしまいました。主要なシステムとソフトとデータは読み込んだことを確認していたので一晩待って状態が変わらないのでリセットをかけました。もし不都合が生じたら、ネットワーク環境だけなら手動で設定すればいいし、致命的ならまた最初からバックアップ復元をやり直せばいい、と腹をくくっていたら、E-MOBILEの設定が消えている以外は特に問題なく復元されていました(これもE-MOBILEを挿せば自動でインストールされるので問題なしです)。
 いやあ、感動ですね。壊れた日の朝に触っていたのと、すべてが同じ状態で画面も内容も“復活”してくれるのですから(それも自動で)。愛機不在時にWinノートでいろいろ書いていたデータで必要なものをマックに手動で写す作業の方がむしろ面倒に感じました。まずいなあ。自動の便利さに慣れてしまうと、もしTimeMachineやTimeCapsuleが故障した時に、手動で対応できない体になってしまうかも。とりあえず重要なデータファイルだけはUSBメモリーにも入れておくことにしましたが、これを習慣づけることができるかしら。
 
【ただいま読書中】
バビロンまでは何マイル(下)』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 原島文世 訳、 東京創元社、2006年、2000円(税別)
 
 コリフォニック帝国の皇位継承者捜しは停滞します。地球から不当な干渉があったのです。どうやらマジドの正当な候補者であるらしいマリーは体を半分に分割されて死にかけています(どうしてそれで生きているんだ、と聞かないように)。ルパートの車はバスセンターの待合室の鉄格子の間にはまりこんで身動きできなくなっています(どうやってそんなところに入り込んだんだ、と聞かないように)。
 ルパートはついに最終奥義とも言える「バビロンの魔法」を行う決心をします。ところがそのための呪文が一部見つかりません。そのかわり、ではありませんが、これまであれだけ捜索をして見つからなかった皇帝の子どもが見つかります。それも次々と。もう事態は大混乱です。ルパートは自分でバビロンへの道を歩みたいのですが、自分が道を開いたらその外側で魔法を固定しておかなければなりません。代わりにそこを行くのは、体が半分に分割されたマリーといとこのニック、そして傷ついたケンタウロス。
 ファンタジーファン大会の会場は、魔法による対決の場になります。そしてそこにコリフォニック帝国の新皇帝が降臨。いや、これまでの伏線がきれいに収束するのは、唖然とはしますが、快感でもあります。
 
 後日談も笑っちゃいます。バビロンへの旅で体験したことは、結局旅をした人の記憶からは削除されてしまいました。ではそれがこうやって記録に残ったのはどうしてか……いや、後日談でもネタバレはやめておきましょう。
 
 
21日(土)かなわぬ思い/『PLUTO(07)』
 つきまとわれて迷惑を感じる人が主張するのは「迷惑」や「恐怖」ですが、ストーカーが主張するのは「愛」です。となるとその愛は一方通行の妄想や妄執や妄念と言えそうです。
 そういえば「妄想」とは、辞書的には「他人には了解困難で、他人には訂正不能(または困難)な不合理で強い思いこみ」となります。たしかにストーカーの「愛」には「妄想」の“称号”がふさわしいようです。
 しかし、「妄想」はストーカーの“専売特許”でしょうか。たとえば「信念」とか「信仰」とか「理想」とか呼ばれているものにも、「妄想」と呼ぶにふさわしいものがけっこう混じり込んでいませんかねえ。さらに社会で普通に扱われている「愛」にも「妄想」レベルのものが多かったりして。たとえばあなたはあなたが愛する人を愛する理由を“合理的”に説明できますか? そしてその説明を私が説得して覆すことは容易でしょうか?
 
【ただいま読書中】
PLUTO(07)』浦沢直樹×手塚治虫、小学館、2009年、1600円(税込み)
 
 高性能ロボットたちは「悲しみ」を覚えつつあります。ウランはその悲しみを感じる能力を持っています。ボラー調査団に参加した人間やロボットは次々殺され、生き残りはもうわずかとなっています。その一人(一体?)光子ロボットエプシロンもまた、気に沿わぬ戦いを強制されます。もし全力を解放したらおそらく地上最強であるエプシロンですが、彼はその力を破壊ではなくて守ることに使おうとします。
 そしてまた大きな悲しみが地球に生まれた時、昏睡状態が続いていたアトムがついに目覚めます。
 
 本書の付録は、大学ノートの体裁で製本された浦沢直樹さんの創作ノートです。鉛筆描きのロボットのデッサンなどが載せられていて、創作の裏舞台をちょっと覗かせてもらったような気分になれます。本シリーズに登場するロボットたちがなぜあんなに人間くさい外見なのか、について……はここでは内緒にしておきましょう。
 
 
22日(日)自首で減刑
 闇サイト殺人事件で「2人は死刑で、1人は自首したから刑を一等減じて無期懲役」という判決に関して。たしかに裁判官の主張のように自首に社会的効用があることはわかりますが、すると将来死刑廃止が行われた場合には「2人は無期懲役、自首した1人は刑を一等減じて有期刑(で、模範囚で過ごしたら10年くらいで仮釈放)」となるわけですね。これはちょっと納得いきません。「2人は懲役200年、自首した1人は懲役150年」くらいだったらまだわかるかな。でもこれだとこんどは弁護側から文句が出そうです。「たった1人殺したくらいでなんで死刑なんだ。ひどすぎるじゃないか」と文句を言っているわけですからこんどは「死ぬまで刑務所とは残酷すぎる」と言うんじゃないかな。
 
【ただいま読書中】
死海文書入門』(「知の再発見」双書134)ジャン=バティスト・アンベール & エステル・ヴィルヌーヴ 著、 泰剛平 監修、遠藤ゆかり 訳、 創元社、2007年、1500円(税別)
 
 1947年、ユダヤ・アラブ・英軍の間で戦闘が行われ、イギリスは事態を収拾できず撤退の方針を固めたころ、ムハンマド・エッ・ディーブという羊飼い(行商人あるいは盗賊という説もあります)が死海沿岸の断崖の洞窟から素焼きの壺に保管された羊皮紙の巻物をたくさん発見しました。「死海文書」の発見です。すぐにその価値は知られ、考古学者とベドウィンがその発見を競うことになりますが、戦争がそれを何回も中断させます。中東戦争です。1967年の第3次中東戦争でヨルダン川西岸がヨルダン領からイスラエル領になり、死海文書の研究はイスラエルのものとなります。
 ユダヤは紀元前332年アレクサンドロス大王に征服されました。以後、プトレマイオス朝・セレウコス朝に支配され紀元前104年に独立。しかし紀元前63年にはこんどはローマによって征服されます。叛乱が続きますが結局独立は達成できませんでした。
 ユダヤ教は当時いくつもの派に分裂していました。パリサイ派・サドカイ派・シカリウス派・ゼロテ派、そして、エッセネ派。エッセネ派は滅亡した宗派ですが、古代ローマの歴史家フラウィウス・ヨセフス(投降したユダヤ人)やユダヤ人哲学者フィロン、『博物誌』で知られる大プリニウスが書き残しています。それによると、独身男性だけで構成される集団で、私有財産を持たず、勤労を旨とし、清めを重視し、規律正しく質素な生活をすることで自身の宗教心を示そうとしました。そして、死海文書が発見された洞窟群(最終的に11の洞窟から文書が発見されました)の近くにあったクムラン遺跡や墓地が、エッセネ派のものと言われています。
 死海のほとりは決して「死の地」ではありません。死海に流れこむ小川があちこちにあり沿岸は灌漑が可能です。そこでは塩害に強いナツメヤシが古く(おそらく紀元前4世紀ころ)から栽培されていました。大プリニウスはまさにその場所にエッセネ派が住んでいた、と書き残しています。すると「死海文書」は、エッセネ派の聖典あるいは彼らが収集した文書の可能性が高いことになります。
 
 死海文書はほとんどが古いヘブライ語で書かれていますが、2割はアラム語(ユダヤの話し言葉)で、ほんの一部がギリシア語でした。「神の子」「神の国」という表現もあったため「エッセネ派がキリスト教の源流」という説も登場しました。私はそれはどうかと思います。キリスト教はユダヤ教を出発点としていますし、「一から十まで」新しいもので固めてしまったらおそらくついてくるユダヤ人はいなかったでしょう。むしろ“借用”できる部分は借用したはずです。よくできたシステムは否定するのではなくてそれをほとんど認め「新規性」はほんの一部に忍ばせる、が新しいものを社会に認めさせる良い手のはず(たとえば「地動説」のコペルニクスも、天動説を「否定」はしていません。観測結果はすべて認めた上で、ただ、「視点」を地球から太陽に移す、という小さな操作を行っただけです)。
 写本の復元と解読には辛抱強さが必要でした。写本はほとんどがばらばらの汚れた破片となっており、それを組み合わせて読まなければならなかったからです。ジグソーパズルとクロスワードと暗号解読を同時にするようなものです。面白いのは、第3洞窟から発見された銅の薄板の巻物です。書かれていたのはなんと「宝物の隠し場所のリスト」。
 他の文書は、イザヤ書の写し、アラム語で書かれた外典創世記(今の創世記に新しいエピソードが加わっているもの)、今のユダヤ教とは異なる共同体規則や2人のメシア思想、悪の陣営(闇の子)と善の陣営(光の子)との最後の戦いに関する「戦いの書」(ただし「善」はエッセネ派で「悪」はその他のユダヤ人です)……ただ、あまり性急に結論は出さない方が良いです。現時点で900の写本が出版されていますが、それを一つの“物語”でつなぐことはまだできていないのですから。
 
 
23日(月)外からやって来る病気/『梅毒の文学史』
 15世紀末からヨーロッパで流行した梅毒は、現在のものとは違って“過激派”でした。数ヶ月?数年で患者はばたばた死んでいったそうです。病原体のトレポネーマがずいぶん元気だったのでしょう。そういえば江戸時代の日本でも梅毒の皮膚症状で鼻を失う人が多かったので「付け鼻」が流行し、それを商う専門商もあったそうです。
 当時のヨーロッパで梅毒は「ナポリ病」「イタリア病」「フランス病」「スペイン病」「ドイツ病」などと呼ばれました。それぞれ「この病気はよそからやってきた(自分たちは被害者)」という主張です。ということは、現在よく言われる「コロンブスの新大陸発見によって新大陸から梅毒がもたらされた」という主張も、よくよく吟味する必要がありそうです。
 さらに、梅毒ははじめは淋病と区別されていませんでした。それが明確に区別されたのは19世紀です。その頃にはトレポネーマも元気を失っていて、現在のような病気の形になっていたそうです。やはり宿主をさっさと殺す過激な病気は、自分の子孫を残せず、結果として淘汰されてしまうのでしょう。
 
【ただいま読書中】
梅毒の文学史』寺田光徳 著、 平凡社、1999年、4500円(税別)
 
 伝染病は社会に蔓延しますが、「病気に対する妄想」もまた社会に蔓延します。そのへんをきわめて明確に指摘したのが『隠喩としての病』(スーザン・ソンタグ)でしたが、本書ではフランス文学者の著者が19世紀フランス文学にみられる「梅毒」に関して論じています。
 バルザックは幾つかの作品で梅毒を取り上げ、それによって大きく小説を動かしていますが、作品中では決して明確に病名を書きませんでした。読者が「ああ、あの病気か」と筋の展開に納得してくれればそれで良かったのでしょう。
 対してフローベールは、自分自身が梅毒にかかっていることを吹聴して回りました。友人に対して、梅毒にかかって、下剤・ヒル(瀉血のため)・水銀剤の塗布・水銀剤の内服、ととても健康に悪そうな療法を受けていることを手紙で告げています。ただし小説の中ではそのことには触れません。『臨床医学の誕生』(ミシェル・フーコー)でも重要視されているビシャ(病理解剖学によって近代医学を確立した人)の後継者として有名な人の一人にフローベールの父クレオファスがいますが、その影響かフローベールの『ボヴァリー夫人』には、当時の先端的医療や偽医者・誤診・治療ミスなどが豊富に登場するそうですが、実際に物語の“原動力”となった病気は「ヒステリー」でした。
 梅毒に罹患して死亡し、作品にもその影響が強く認められる有名作家として本書には、ジュール・ゴンクール、モーパッサン、アルフォンス・ドーデが挙げられています。それぞれの生き方と作品の解析も面白いのですが、私に興味深かったのは、アルフォンスの息子レオン・ドーデが1915年に「アルフォンスの天才はトレポネーマによってもたらされた」と主張していることです。「天才狂気説」の一種ですが、それはちょっと言い過ぎでは?
 19世紀のフランスでは、「梅毒は遺伝性の疾患である」「一度かかれば二度とかからない」といった迷信が流布していました。信心深い人には「病気は神の恩寵のしるし」という思想(信仰)もありました。ついでですが、それまで混同されていた梅毒と淋病が明確に区別されたのは19世紀後半です。病原体発見前から性行為によって伝染することは広く知られていましたから、当時の性道徳や公認されていた売春などともからめて、様々な“梅毒神話”が生まれます。19世紀とは、なんとも複雑な世紀です。(ちなみに、トレポネーマが梅毒の病原体と確定されたのは1913年)
 
 ちなみに「神話としての病気」の座を梅毒や結核から継いだのは、エイズでしょう。人は昔も今も病気の神話が大好きな様子です。
 
 
24日(火)無礼な電話/『これから学会発表をする若者のために』
 夢中になって本を読んでいると、営業の電話がかかってきました。男の声が出たのでさも意外そうに「奥様はおられますか?」「今出てます」「では、他に女性の方はいませんか?」
 ……電話をかけてきて「男に用はない」のだそうです。
 あの手の電話、中にはものすごく押しが強かったり最初からなれなれしい口調のものがありますが、人の生活にずかずか踏み込んでくるのですからもうちょっと礼を尽くした口調になれないのか、と思います。私は、礼儀正しい電話には礼儀正しく応じますが、そうでないものには木で鼻を括ったような対応になります。これから無礼な対応をするけど、ごめんね。
 
【ただいま読書中】
これから学会発表をする若者のために ──ポスターと口頭のプレゼン技術』酒井聡樹 著、 共立出版、2008年、2700円(税別)
 
 タイトルの通り、大学院生・学部生、およびそういった学生を指導する若手教官を対象とした本です。
 まずは「学会とはなにか」から話が始まります。論文を書くことと学会発表することとの大きな違い、学会で発表する以外にするべきこと(たとえばコネ作り)、会場でのエチケット、学会が終わった後するべきこと……いやあ、懇切丁寧です。
 それから本書の本題である「発表」。
 学会発表は、ポスター展示(と説明)と口頭発表とに大別されます。それぞれ特徴がありますが、ポスターやスライドの一枚一枚について懇切丁寧に考え方・良い例・悪い例が示されます。そのテーマは「ベガルタ仙台はなぜ強いか」の研究。なんでも2010年代にベガルタ仙台はJリーグで5連覇をするのだそうで、その原因として「牛タン定食」が考えられるのではないか、という仮説の検証です。笑っちゃいますが、これくらい遊んでくれるとかえって“発表”の論旨の通し方などがわかりやすくなります。
 傾聴するべきは研究内容ももちろんですが、「形式を軽視するな」という意味の著者の主張でしょう。タイトルをどうつけるか、その位置は、スライドやポスター内での強調をどうするべきか(スライドは“その1枚”しか聴衆は見られないのだから、スライド内での強調をするように。スライド全体を強調したらメリハリが失われる。ポスターは全体を見渡すことができるのだから、全文強調もアリ)、視線移動の距離と方向にも気をつけろ、といった「形式」についての注意が続きます。
 さらに、聴衆は理解するための“努力”をしてくれると期待するな、といった感じの“精神論”もありますが、これもけっこう忘れられがちな重大点ですね。「これは良い研究なんだから、その良さが理解できないのは、理解できないお前らが悪い」と言わんばかりの発表もありますが、それでは学会ではやっていけない、ということです。
 豊富な実例(たとえば「ダメなスライド」も何種類も用意されています)でビジュアルにわかりやすくまとめられていて、「これから学会発表をする若者」がちょっぴりうらやましくなりました。
 
 
25日(水)物忘れ/『花の魔法、白のドラゴン』
 学生時代に、物を貸しても金を貸しても返さない人間がいました。催促したらいかにも悪そうに「ごめん、忘れてた」が繰り返されます。本当に忘れっぽい人間なのか確認しようと「じゃあ、ちょっと金を貸してくれ」と言ったけれど、結局貸してくれなかったので彼が本当に物忘れがひどい(金を貸したことも忘れる)人間だったのかどうかの確認はできませんでした。
 
【ただいま読書中】
花の魔法、白のドラゴン』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 田中薫子 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、2004年、2400円(税別)
 
 先日読んだ『バビロンまでは何マイル』の“続編”です。といっても、それぞれ単独で読んでも良い、とのことで、それを証明するためかのようにそれぞれ(イギリスでも日本でも)別の出版社から出版されている念の入れようです。著者は、作品だけではなくて、出版そのものでも遊んでいるようです。
 イングランド・ウェールズ・スコットランド・アイルランドの4つの王国からなるブレスト。イングランド王は常に「巡り旅」で移動し続けていました。おつきの官僚や魔法使いも同様です。そして、彼らの子どもたちも。その中の少女ロディは幼なじみのグランド(お漏らし小僧でいじめられっ子)の「ひっくりかえしの魔法」に注目していますが、2人は王に対する反逆の陰謀を知ってしまいます。(ロディとグランドの関係を見ると、『バビロン?』で、マリーが年下の従兄弟ニックの面倒を実によく見てやっていたのを思い出します。著者はきっとここは意識的にやってますね。もちろんこれも(数ある)伏線の一つですが)
 さて、所変わって“こちら”の地球。『バビロン?』に登場したニックはもうすぐ15歳。父親(本当は叔父さん)にくっついて推理小説作家の集まりに参加したら、『バビロン?』でもそうだったように、そこで巻き添えのように異世界にとばされてしまい、そこで「ニックを殺せ」という依頼を受けた殺し屋(きわめて強力な魔法使い)ロマノフに出会ってしまいます。ところが何がどうなったのか、ニックは(ことばを喋る象のミニとともに)重病になったロマノフを助けることに。
 子どもたちはひょんなことで「ブレストをゆるがす陰謀」を知ってしまいます。ところがそういった陰謀をナントカできる強力な魔法使いたちは、まずは「子どもの言うこと」と一笑に付し、ついで強力な魔法の決まり事や政治によって「ナントカ」する手段を奪われてしまいます。残された希望はいがみ合っている子どもの集団(表紙に、山羊に引かれていく6人の子どもが描かれています)。「世界が滅亡する危機(ブレストだけではなくて、多元宇宙全体がひっくり返るかもしれない危機)」だというのに、私はにやにや笑ってしまいます。なんというシュールなユーモア。そして……ええ?、これで終わっちゃうの、続編を読ませろ、と言いたくなる幕切れ。これをシリーズ化しないとは、著者は相当に勇気がある人です。登場人物の誰を主人公にしてもいくらでも面白い話が続けられるのに。というか、続編を読みたい。できたらニックの子孫の所まで。
 
 本書でも様々な奇妙な世界が登場しますが、私が笑ってしまったのは、魔法と官僚主義が結びついた世界で、魔法も官僚主義の一つの手続きとして形式に組み込まれてしまった世界でした。もしかしたら、官僚は魔法使いよりもエライのかもしれません。
 
 
26日(木)海賊対策/『宝島』
 「海賊の定義」はなかなか難しそうですから、ドクロの旗を掲げていたら攻撃可、としたら「新ルール(交戦規則)」が明確になりません?
 
【ただいま読書中】
宝島』スティーブンソン 著、 神戸万知 訳、 ポプラ社、2004年、700円(税別)
 
 冒険小説の古典です。何度目の再読になるかは忘れましたが、この翻訳は読みやすいものでした。
 ジム少年の両親が営む酒場兼宿屋「ベンボー提督亭」に「船長」と自称する老船乗りがふらりと現れるところから話は始まります。「船長」は海賊仲間を裏切って宝を隠した島の地図を持ち逃げしていました。それを追ってきた海賊たちは「船長」を殺そうとしますが、地図は偶然ジム少年の手に入ります。地主のトリローニさんを隊長に宝探しの航海が始まります。しかし……ヒスパニオーラ号に紛れ込んでいた海賊による叛乱が。
 登場したばかりのときには片足の海賊シルヴァーが何とも言えず魅力的に描かれています。海の経験豊富、統率力があり礼儀正しく人間的魅力もある人物でどうやら教育も受けているようです(19世紀のイギリスの庶民には珍しいことです)。ところが突然スイッチが入ると凶暴な人殺しに。暴力に慣れておらず正直だけど強欲な人々が南海の孤島でいかにこの百戦錬磨の海賊たちに対抗するか(それも19対7の劣勢で)、が本書の見所の一つです。もう一つの見所は「海賊」の存在そのもの。当時のイギリスではまだ海賊は「英雄」的存在でもあったはず。私掠船という合法的な海賊の記憶も残っていたでしょうし、イギリスでは伝統的に沿岸部では密輸などの「反体制」も盛んに行われた“伝統”があります。さらにシルヴァーが、戦況が悪くなった時の言動もずいぶん“人間的”で、著者は「海賊」をただの単純な暴力と欲にぼけた海の荒くれ者としては描きません。
 さらに状況を複雑にするのが、ジム少年の衝動的な行動です。とにかく突然思いついたら突進します。結果としてはオーライなのですが、こんな人が部下にいたら指揮官は胃に穴が開きそうでしょうね。
 
 
27日(金)教えて君
 ちょっとネット検索または過去ログの検索をすればすむこと、ちょっと辞書を引けばよいことに関して「教えて」「教えて」を連呼し、「ちょいと自分で調べろよ」と言われると即座に逆ギレする人がいます。当然嫌われ者になります。
 ところがそれ以上の人がいます。「教えて」とさえ言わずに「自分は知らないんだから間違ったことを書いてもかまわないんだ」と言う人。それどころか「自分は知らないんだから悪くない。自分にきちんと教えてくれない人の方が悪い」とさえ主張する人も。(変な主張を書いていて、その「変さ」を指摘された時の反応でこんなのが多いのですが)
 
 ときどきマスコミにもこんなのがいます。電話での「教えて」君とか、「自分は間違ってない」の傲慢君とか。あまりマスコミの報道をまるごと信じない方がよいですな。
 
【ただいま読書中】
万里の長城 ──巨龍の謎を追う』長城小站(The Great Wall.com.cn)編、馮暁佳 訳、 恒文社、2008年、2000円(税別)
 
 紀元前、春秋戦国時代に中原の各国は北方の匈奴の侵入を防ぐために防御戦を築きました。最古のものは楚の「万城(または方城)」ですが、これが「長城」の起こりです。秦の始皇帝も北方民族から国を護るため、燕・趙・秦が築いた長城を修復・連続させました(このとき長さが万里(約5000キロメートル)を越えたので「万里の長城」と呼ばれるようになりました)。もともと中国の古い都市は城壁都市ですから、長城はその延長上に自然に生まれた発想でしょう。
 長城の烽火台では、急を知らせるために狼煙や灯りが用いられました。ではなぜ「狼煙」なのか。通説では「狼の糞を燃やしたから」となっていますが、実際にやったら大した煙は出ないそうです。本書では「狼が来た、と知らせる煙」としています。狼をトーテム獸とし軍旗に狼頭を描いた突厥の騎兵隊のことです。そういえばモンゴルも狼を崇拝していましたね。
 
 本書には写真が豊富に掲載され、様々な顔を持つ長城の魅力を視覚的にも伝えてくれます。ただ、あまりに巨大すぎる存在(時代をいくつもまたぎ(最新のものは清の時代)、発見されているものだけで長さは5万キロ、各地で建造法も異なる)のため、話にまとまりがありません。これは仕方ないとは思いますが、本を作成する時に一本なにか“芯”が欲しかったとは思います。ただ、とにかく中国に行って「万里の長城」を見たい、と思う人にはとりあえずのガイドブックとして役立つかもしれません。
 
 
28日(土)自己中心的な視点/『グレート・ギャツビー』
 人がものを見るとき、その視野に「自分」は入っていません。((高い人は)鼻の頭とかメガネの枠とか手や足は見えますが、少なくとも“(見ている主体である)自分”は見えていません。
 では「見ている自分」を見るにはどうすればいいか。鏡です。あるいは、カメラで自分撮りをするように視点を自分の“外”に置くテクニックを用いれば、バーチャルにですが自分を眺めることができます。
 こうやって視点を自分の“外部”におくことができると、トラブルのとき役立ちます。「目の前がトラブルで一杯」の状態から「トラブルで困っている自分」に視点をずらすことができれば、こんどは“自分の外側”からトラブルの解決法を探ることができるからです。
 
 私が歴史や死語に興味を持つのも、視点を「現在」に固着させることを好まないからです。「過去」に一度視点を移動させ、そこから現在を眺めると、「今」が鮮やかに逆照射される……ことがあります。
 ……単に自分の好みを、屁理屈を付けて自己正当化しているだけかもしれませんけどね。
 
【ただいま読書中】
グレート・ギャツビー』スコット・フィッツジェラルド 著、 村上春樹 訳、 中央公論新社、2006年、2730円
 
 訳者の小説『ノルウェーの森』の中で高く評価されていた小説です。私はこの本を『華麗なるギャツビー』で覚えていますが、こういったそっけないタイトルは著者のポリシーなんですかね(そういえばこの人の翻訳は、『ロング・グッドバイ』や『キャッチャー・イン・ザ・ライ』となってます)。「前の翻訳とは違うぞ、でも前の翻訳とおなじ原書だぞ」という主張でしょうか。
 
 初っぱなから私は舌を巻きます。たとえばこんな比喩表現。
 「彼女はソファの自分の側に長々と身を横たえ、ぴくりとも動かなかった。顎は僅かに上方に向けられていたが、今にも落っこちてしまいそうなものが顎の先端に載っていて、巧みにその均衡をとっているという印象を受けた」「トム・ブキャナンは力のこもった腕を、有無を言わせず僕の腕の下に差し入れ、さっさと部屋から連れ出した。まるでチェッカーの駒を別の升目に移すみたいに」
 こういった細部への注目は、「絵」全体を見ずに隅っこの筆遣いをしげしげと眺めているのと同じような感じですが、「美は細部に宿る」とも言いますから、私はこの注目をやめられません。そして、まるでため息をつきながらささやく小川のように本書のストーリーは流れていきます。誰の? 本書の語り手ニックと、著者のため息です。もしかしたら訳者のため息も混じっているのかもしれませんが。
 第一次世界大戦によって19世紀が“死んでしまった”時代。アメリカでは禁酒法の時代。うだるように暑い夏が始まったばかりのニューヨークが、お話の舞台です。
 なかなかギャツビーはニックの前に登場しません。うわさ話だけが続き、やっと実在の人物として現れるのは70ページ以上読み進んでからです。安い貸家に住むニックは、隣の大豪邸に住むギャツビーにパーティーに招待され、そこで自分とほとんど年格好が変わらない“大富豪”の姿に驚きます。夏の初めに2人の付き合いは始まり、やがてニックはギャツビーの“秘密”を知ります。戦争前の愛と別れ。そして5年間の空白を挟んでの再会。その間に女(デイジー)は結婚し子どもを産み、男は戦争から生きて帰って謎めいた大富豪に。ニックはそのすべての関係者と関係があります。デイジーとは親戚、デイジーの夫トムとは大学時代の知り合い、ギャツビーとは隣人。さらに言うなら、ニックはトムの愛人(とその夫)のことも知っています。
 ギャツビーはデイジーにトムと別れることを求め、デイジーはギャツビーの方向に揺れた末、結局トムのもとに戻ります。しかしそこで人間関係は強引に再構築されます。トムの愛人の死が事態を複雑にし、そして殺戮の輪が音を立てて閉じます。そして、物憂い夏も終わります。
 もしも私が20歳くらいの時に本書を読んでいたら、著者にとってこの小説が特別なものであったのと同じように「自分にとって特別な小説」になったかもしれません。そう感じさせる良い小説です。ただ、読むのに「心の若さ(と老の兆し)」が必要でしょうね。
 
 
29日(日)やもめ
 「男やもめに蛆が湧く」とよく言いますが、ならば女の場合はどうなんだ、と以前から不思議に思っていました。調べたらちゃんと“フルバージョン”があるんですね。「男やもめに蛆が湧き、女やもめに花が咲く」のだそうです。そういえば、老夫婦の場合、妻に先立たれた男は割と早死にするけれど、その逆だと妻の方は長生きをする、と聞いた覚えがあります。昔からそうだったのね。
 
【ただいま読書中】
日英ことわざの比較文化』奥津文夫 著、 大修館書店、2000年、2400円(税別)
 
 ことわざ・慣用句・名言をきちんと区別することはけっこう難しいことですし、同じ言葉でも英米で扱いが違う場合もあります(たとえば、イギリスの詩人ポープの“A little learning is a dangerous thing”はことわざですが、同じポープの“The proper study of mankind is man”は名言扱いです。また、エジソンの“Genius is one per cent inspiration and ninety-nine per cent perspiration”は米のことわざ辞典には載っていますが英のには載っていないそうです)
 本書では「ことわざの定義」に血眼になるよりも、実際のことわざ(のようなもの)を取り上げて、気軽に比較文化論を展開してみよう、という本です。
 本書には「各国の国民性でことわざは異なる」と「交流によって各国のことわざは共通化する」という二つの説がありますが、私は「交流するが、国民性によって他国のことわざで受け入れられるものと拒絶されるものがある」と考えます。
 日英で同一の意味とされていることわざでも、細かく見たらズレがある場合があります。たとえば“Doing nothing is doing ill”は「小人閑居して不善を為す」とされていますが、「何もしないこと=不善」と「わざわざ不善を為す」の差があります。“The child is father of the man”は「三つ子の魂百まで」ですが、本来のワーズワースの詩「虹を見るときわが心は躍る」ではワーズワースの自然崇拝と幼児崇拝が結びついていて、「三つ子の?」とは明らかに意味が違います。“It is no use crying over spilt milk”「覆水盆に返らず」は、前者は「嘆くのは無駄だから、未来志向で行こう」なのが後者は「周の太公望呂尚が、若い時に仕事もせずに読書しているのに愛想を尽かして実家に帰った妻が、のちに彼が出世してから復縁を求めたのに、呂尚が庭に水をこぼして『この水をすくって盆に戻してみろ』と、一度別れた男女は再び一緒にはなれないことを示した」故事によります。“Out of sight, out of mind”は「去る者は日々に疎し」ですが、英語の方では「去る物は日々に疎し」の意味も持っています。
 外国のことわざが日本語化したものもたくさん紹介されています。たとえば「一石二鳥」「時は金なり」「大山鳴動鼠一匹」「血は水より濃し」「豚に真珠」…… 逆に「光陰矢のごとし」が英訳されてあちらで定着した例もあります。
 男女に関しては、東洋は男尊女卑で西洋は女性が大切にされている、と言う通説がありますが、ことわざでは女性の人格を全く無視したものが英語圏には多くあり、1章立ててまとめられています。“A man of straw is worth a woman of gold(藁の男でも金の女の値打ちがある)”、“There's only two good woman in the world: one is dead, the other not found(この世に良い女は2人しかいない。一人は死んでいて、もう一人はみつからない)”、“Man, woman, and devil, are the three degrees of comparison(男、女、悪魔は、比較の3級である)”……まあ、出てくる出てくる、なんというか徹底的な女性攻撃です。よほど男が女を嫌っていたのか、よほど尻に敷かれていてこういったことばで鬱憤を晴らすしかなかったのか……
 それが最近ではフェミニスト系のことわざも増えてきているそうです。ついでに“Laugh and grow fat”は健康観の変化で使われなくなったりしています。ことわざには、普遍性があって歴史を生き残るものも、時代によって変わるものもあるんですね。
 
 日本のことわざには否定形が目立つが、英語では肯定形あるいは命令形が目立つ(例“Spare the rod and spoil the child”という指摘もあります。気楽にことわざの群れの中を楽しんで散歩するのに役立ちますし、ついでにちょっと英語(と英語文化)の勉強をすることもできます。
 
 
30日(月)一本足の歩行不能ロボット
 一本足の人型ロボットで、太陽電池を電源として、昼間だけ体を時々ぴくんと動かすロボットは作れませんかねえ。
 目的?
 案山子です。
 
【ただいま読書中】
ダークホルムの闇の君(上)』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 浅羽莢子 訳、 東京創元社、2006年、1800円(税別)
 
 こんな観光旅行があったら参加したいですか? 「魔法の世界への驚異の旅。あなたは巡礼団の一員となってその世界をさ迷います。魔物や怪物や盗賊やその世界を支配する悪の帝王『闇の君』の手下たちと命を賭けた戦闘もあります。その世界の善の魔法使いがあなたたちを助けてはくれますが、命の保証はありません。もしかしたら旅のクライマックスで闇の君との直接対決も。さあ、勇気のある人はぜひご参加を」……まるで巨大テーマパークでの旅行のようですが、魔法と流れる血は本物です。それがあなたの血であっても。
 で、本書はその巡礼団に“襲われる”側の世界の物語です。それも毎年毎年。
 別の世界に住む人間チェズニー氏が契約によって毎年送り込んでくる巡礼団(観光団)のせいで、魔法世界は大混乱。チェズニー氏が示す厳しいスケジュールを守るためと観光客のご機嫌を取るために魔法使いたちは疲れ切り、領地は荒れ果て、経済は疲弊し、儲けて喜んでいるのは神殿と盗賊だけ……これはなんとかしなくては。そこで魔法世界の代表たちは神託を仰ぎます。そこで選ばれたのは、ちょっと変わった魔法使いダークとその息子ブレイド。ダークは新しい生物を作るのが得意で、農場にいるのは、空を飛ぶブタ、グリフィン(それも思春期で扱いにくい)、透明な猫、空飛ぶ馬……ところがその平和な谷の村を廃墟にし、自分の家を「闇の君」が住む崩れかけた塔に変えなければなりません。チェズニー氏の“要望(強要)”によって。
 例によってこの著者ですから、“素直”なファンタジーではありません。資本家は世界を支配できる魔物をポケットに入れています。ダークが新しい生物を生み出すのには、遺伝子の接合の知識が必要です(ただ呪文を唱えればよいのではありません)。魔法の世界は資本主義的に“生きるため”に観光客の暴虐(なにしろ生け贄やら戦闘行為やらでの死者が必ず出るのです)に耐えています(チェズニー氏の前での会議は、まるで、ワンマン社長の前での重役会議そのものです。違うのは、“社長”の前にずらりと居並ぶのが80人の本物の魔法使いである点だけ)。さらにチェズニー氏は「今年は神を出現させろ」と要求します。不敬です。要求は神が人にするものであって、人が神にするものではないのですから。巡礼団はこの世界に金を落とします。たんまりと。しかし、見せ物としての「戦闘」によって豊かな農地は荒れ、せっかくの現金収入は結局チェズニー氏の世界から(彼らにとって)高価で珍しいもの(たとえばオレンジやコーヒー)を購入することであっさり消えてしまいます。つまり魔法世界はチェズニー氏によって(文字通り)食い物にされているのです。
 ダークは、週に3回次々やってくる巡礼団によって何回(何十回)もやっつけられるべき「闇の君」としての業務をこなすと同時に、チェズニー氏の裏をかくことを考えなければなりません。家庭崩壊の危機も迫っています。そして、チェズニー氏の要望を叶えようと小物の魔物を召還するはずが、トンデモナイモノを……さらにそこに怒れるドラゴンが乱入してダークを瀕死の目に遭わせてしまいます。このドラゴン(名前はウロコ)が味があります。ダークとの問答で「生ける者に叡智を標榜する権利はない。新たに発見すべきことが常にある」なんてことをさらっと言うのですから。たしかに「自分には叡智がある」なんて思う人間(知的存在)はつまりは「もう新しいことは学ばない」と宣言しているのと同じですからねえ。
 
 本書では「空を飛ぶもの」が多数登場しますが、空を飛ばないものも含めてあまりにキャラが立った存在が多すぎて、どれに感情移入して良いのかわかりません。てんやわんやをそのまま丸ごと小説化した、といった感じです。さて、そのまま下巻に突入?。
 
 
31日(火)替え歯
 替え刃のように、歯も簡単に交換可能だったら、人類のトラブルが相当減るような気がします。
 
【ただいま読書中】
ダークホルムの闇の君(下)』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 浅羽莢子 訳、 東京創元社、2006年、1800円(税別)
 
 傭兵軍として向こうの世界から送り込まれてきた死刑囚たち(恩赦を約束されている)たちは勝手気ままに動きます。領主は自分の国を守ろうとします。みながそれぞれ好き放題の要求をダークに押しつけます。それどころか、大学総長のケリーダは、サボタージュを計画しています。巡礼団の旅がチェズニー氏の思うとおりに進まなければ、参加者が観光協会に文句を言いそれによって契約が解除されるのではないか、と期待して。ところが、大失敗するに違いないと踏んでいたダークが、予想外に上手く役割を演じてしまいます。ところが訳の分からないことが次々起きます。巡礼によって略奪されるべき各国の都が次々無人になり、鵞鳥が豚に入れ替わり、魔神はなんの魂胆か忠実に毎回姿を現し、ダークの娘ショーナは詩人として参加した巡礼団でハンサムな男に一目惚れ……ですが、契約で彼は殺されるべき運命にあるのです。
 魔法の世界から盗まれているものがあることに、ダークたちは気づきます。ダークの息子ブレイドは捕えられ兄弟のグリフィン(細胞の一部はダークと妻のマーラから取られているので、文字通り“兄弟”なのです)キットと命を賭けて戦わなければならなくなります。さらには、龍の王デウカリオンと魔物との行き詰まる対決。どんでんにつぐどんでん。揺さぶられる感情(実際に、悲嘆に暮れる人に向かって無神経に自分の都合を押しつけようとする人の言動を読むと、リアルにこちらの血圧が上がります)。そして物語はクライマックスとカタルシスへ。いやもう笑い転げてしまいます。深刻な対決の場に乱入するのは……これは内緒です。ただ、伏線はちゃんと張ってあった、とだけ言っておきましょう。
 
 異世界へのリアルで迷惑な観光旅行と言えば『ベトナム観光公社』(筒井康隆)とか『火星人ゴーホーム』(フレデリック・ブラウン)とか『時間線を遡って』(シルヴァーバーグ)……デーモン・ナイトの短編にもタイトルは忘れましたがたしか強烈なのがありましたっけ。本書もそういった系譜に位置づけても良いでしょうが、何回もお話がひねってあって、なかなかついていくのは大変です。私の頭が固くなったせいかもしれませんが。