mixi日記09年4月
 
2日(木)観○/『文化人類学の歴史』
 劇を観るのが観劇。だから、感激をするのでしょう。
 ならば戦争を観るのが、観戦? だから熱狂は感染する……なんだか合ってるような気がしてきました。
 
【ただいま読書中】
文化人類学の歴史 ──社会思想から文化の科学へ』M・S・ガーバリーノ 著、 木山英明・大平祐司 訳、 新泉社、1987年、2500円
 
 アメリカで文化人類学を学びたい学生のための概論です。
 アメリカで文化人類学は、形質人類学または生物人類学/考古学または先史学/社会文化人類学、に大きく三分されます。
 文化人類学のルーツは西洋哲学にあります。ついでユダヤ教やキリスト教的な世界観。大航海時代に「世界」に対する知見が広がり、自然科学の手法が導入されることで社会科学は帰納的になってきました。(ただ、その“対象”の人間は、気体分子のようには振る舞ってくれませんが) 19世紀に「社会理学(のちに社会学)」と呼ばれる学問が誕生します。ダーウィンより前にすでに「社会が進化(進歩)」することは概念として受け入れられていました。
 大航海時代、西洋人は“強者”であり、(物質的にも道徳的にもより豊かな生活をもたらしてやったのだから)征服は“善”であるとされました。しかし、啓蒙主義の時代になって事情は変化します。本書では、現在の文化人類学のご先祖が、いかに多くの学問(たとえばさまざまな進化説や進化論、地理学、考古学……)と関係を持っているかがまず論じられます。モルガンのアメリカン・ネイティブの親族研究は文化進化論的な19世紀の記念碑となっています(さらに、モルガンの『古代社会』はマルクスとエンゲルスの思想にも大きな影響を与えました)。20世紀になると人類学者たちはフィールドワーク(参与観察)を始めます。
 アメリカの人類学の基礎を築いたのは、ドイツ人ボアズでした。ターゲットは主に北米大陸です。彼の「データをとにかく集めろ」「社会を全体としてとらえろ」「類似性よりも変異に注目」「個別の歴史に注目」というアプローチはアメリカ式のやり方に大きな影響を残しています(ボアズには、バスチャン、フンボルト、フィルヒョー、ディルタイなどが影響を与えているそうです)。重要なキーワードは「文化」です。
 イギリス人類学は、マリノフスキーとラドクリフ=ブラウンの二人によって形作られました。調査対象は大英帝国の版図です。マリノフスキーは「参与観察」という概念を提唱し、歴史ではなくて「機能」に注目します。そして、最も基本的な「制度」である家族(と心理学)に注目し、フロイトにも注目しました。ラドクリフ=ブラウンは進化主義に反対し、人類学は比較社会学であると結論づけました。こちらで重要なキーワードは「社会」です。
 フランスは、第一次世界大戦で痛手を受け、本書ではデュルケムの弟子たちがレヴィ=ストロースのための下地作りをしたような感じで書かれています。
 もっとも、文化が伝播するように、学問もお互いに影響を与え合います。あまり明確に「○○国の人類学」とは言わない方がよさそうです。
 20世紀中葉にレヴィ=ストロースの構造主義が登場し、同時に文化相対主義への疑念が(大っぴらに)呈されるようになります。そして将来像。著者は、唯物論と構造主義が結合されたら、あらゆる行動科学が統合されるかもしれない、という未来像を描きます。もし人類学が「科学」なら、そうなるかもしれません。だけど、人間は気体分子ではないんですよねえ。それとも、集団としては気体分子なみの行動しかしないのかな?
 
 
3日(金)スイーツ/『砂糖のイスラーム生活史』
 漫画『美味しんぼ』では「日本のお菓子の甘みの基準は、干し柿」とあったのを私は覚えています。たしかに手軽に入手可能な「甘みの結晶」は干し柿だよな、と感じましたっけ。だから和三盆もそれほどくどくない甘みなのでしょう。
 それに対して『千夜一夜物語』では、果物もですが、砂糖菓子がふんだんに登場します。またその描写が本当に美味しそうなので、読んでいてよだれが出そうでした(実際に出ていたかもしれません)。今日読書日記を書いた本では、西洋の甘みの基準は、蜂蜜や果物の濃縮ジュース(ディブス)、とありました。これは強烈に甘そうです。だからこそそれに対抗できる甘みを持っている砂糖菓子が大活躍できたのでしょう。
 今の日本では、古今東西、広く甘みを味わうことができるので、なんて幸せな国に生きているんだろう、と甘党の私は喜びながら生きています。“敵”はメタボですが。
 
【ただいま読書中】
砂糖のイスラーム生活史』佐藤次高 著、 岩波書店、2008年、3200円(税別)
 
 サトウキビの野生種は、インドまたはニューギニア原産と言われていますが、それを栽培しての砂糖生産は紀元後まもなくインドのベンガル地方で開始され、東西に広がりました。東方の中国では唐代に始まり、17世紀には沖縄で。西方では、7世紀ササン趙ペルシア・9世紀エジプト・12世紀イベリア半島と広がり、16世紀にはカリブ海やブラジルで行われるようになります。ちなみに「佳境に入る」とは「サトウキビの甘みの少ないしっぽから食べ始めて、だんだん中心の美味しいところに至ること」だそうです。
 砂糖は、サンスクリット語でサルカラー(Sarkara)(最後のaの上に?)、ペルシア語でシャカル(Shakar)、それがアラビア語でスッカル(Sukkar)となりました。
 収穫されたサトウキビは短く裁断され石臼で潰されて、採取された液汁は濾過・煮沸が繰り返されます。それで粗糖と糖蜜が得られ、イスラーム世界では粗糖に水と牛乳を加えて煮沸することで(タンパク質が雑物を取り除いて凝固し)白砂糖が得られます(琉球ではタンパク源として鶏卵が用いられました)。水で溶かした砂糖にナツメヤシの枝を入れてそこに結晶化させることで氷砂糖も作られています。『東方見聞録』には、中国とイスラーム世界との間で精糖技術の交流が行われていたことが述べられているそうです。
 11?12世紀、カーリミーと呼ばれる商人グループが紅海からナイル流域にかけて広く交易活動を行いました。扱ったのは、胡椒・香料・砂糖・金属製品・木材・馬・奴隷……その利益を狙って12世紀に十字軍艦隊が紅海に進出しますが、メッカ・メディナの聖都を脅かされるとイスラム艦隊が撃退しています。しかし15世紀にはスルタンが胡椒と砂糖を専売制とし、カーリミーに大打撃を与えました。
 砂糖菓子はイスラム世界で独特の地位を占めています。たとえば、断食で有名なラマダーン月には各地方で独特の「ラマダーン月の甘菓子(ハルワヤート)」が作られます。11世紀頃から、ラマダーン月にスルタンが臣下に砂糖を下賜する習慣が生まれました。また、機会を捉えては、修行者など宗教関係者に慈善の贈り物として砂糖や甘菓子が与えられました。
 宮廷料理のレシピが様々紹介され(さすがに贅沢なものが多いです)、『千夜一夜物語』も登場します。やはりこれは見逃せませんよね。さらに、アラブ薬膳書も紹介されています。アラブでは砂糖は「薬物」でもあり、東洋の薬膳と同じ発想で健康を維持するための食事が研究されていました。たとえば本書で紹介されている『健康表』では、砂糖を含めて280の項目が検討されています。そこで砂糖(スッカル)の効能は「内臓の痛みを和らげる、特に腎臓や膀胱の痛みに効き目がある」のだそうです。ただし副作用として「のどがかわき、黄胆汁が増加する」のだそうで。真面目な顔で「甘いお薬」の効能について論じている学者たちのことを想像したら、なんだか可笑しくなってしまいました。砂糖は人を簡単に幸福にしてくれるものなんですね。
 
 
4日(土)イギリスの児童文学作家/『グリフィンの年(上)』
 以前も書きましたが、私の人生の大きな部分はイギリスの児童文学作家によって作られています。(現在も作られ続けています)
 ほんわかしていてでも深読みしたら人生哲学も見えるのがA・A・ミルン(くまのプーさん)、歴史の中でのダイナミックな人生ドラマならローズマリ・サトクリフ、田舎の子供のことならフィリパ・ピアス(トムは真夜中の庭で)、ヒュー・ロフティング(ドリトル先生)はアメリカ人だったっけ?(作品のメイン舞台はイギリスですが)、忘れちゃいけないP・L・トラヴァース(メアリー・ポピンズ)、戦時下の少年の物語ならロバート・ウェストール、とても壮大なファンタジーならR・R・トールキン……今ざっと思い出しただけでももう片手では足りません。そして最近知ったDWJ。
 こんなに素晴らしい作家が輩出するとは、これはもうイギリスの「伝統」なんでしょうね。この伝統が長く続くことを祈ります。うらやましく思いながら。
 
【ただいま読書中】
グリフィンの年(上)』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 浅羽莢子 訳、 東京創元社、2007年、1700円(税別)
 
 『ダークホルムの闇の君』の後日譚です。“あれ”から8年、魔術師のダークは相変わらず忙しく飛び回っていますが、今回の主人公はダークの娘(体重半トン、金色のグリフィンの)エルダ。魔法大学にエルダが入学し、そこで級友(ほとんどは人類)と友情を結び勉学に励む……をを、魔法学園ドラマです。ただし同じグループになったのは一風変わった新入生たちばかりです。大体は親(またはそれに相当する存在)の反対を押し切ってきた者で、中には命を狙われている者もいます。大学の授業は厳しいものですが、チェズニー氏による40年間の“空白”のせいで、授業では魔法の本質が見失われています。
 さらに大学は赤字に悩んでいて有力者の父兄に寄付を募ろうとするのですが……これがまた騒動の原因となります。
 大学の主任魔術師コーコランは月に憑かれていました。文字通りlunaticなくらい。学生への授業なんか露骨に手抜きで、大学の予算と自分の空いた時間は宇宙服と月着陸船作りにせっせと注ぎ込んでいます。担当されるはずのエルダたち6人は、自分たちで勉学を始めます。そこに暗殺者組合の刺客の手が。命を狙われる級友を守ろうとエルダたちはせっせと努力をします。もちろんそれはとんでもない(魔法の)大騒ぎを引き起こします。さらには海賊のご一行さまが結界で守られているはずの大学を襲い鼠となって退散します。しかしそれは、次の騒動のための伏線でしかありません。エルダの級友クラウディアは帽子かけと霊的に結合させられ、おかげで帽子かけはストーカーのようにクラウディアのあとをごとごとと追いかけます。
 
 ここまででもはらはらどきどき大笑いのDWJの世界なのですが、こんなもので終わるわけがありません。怒濤の勢いで下巻に続く。
 
 
5日(日)パンドラの筺/『グリフィンの年(下)』
 ポジティブなものは希望のただ一つで、あとは全部ネガティブなもの……これはつまり、人は皆「パンドラの筺」を一つずつ持っていて、いつもちょっとだけ開けて希望だけは閉じこめている、ということなんでしょうか。
 
【ただいま読書中】
グリフィンの年(下)』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 浅羽莢子 訳、 東京創元社、2007年、1700円(税別)
 
 大学での騒動は、世界にも影響を与えていました。戦争が行われている新大陸からは乱暴者のグリフィンたちが大学にやってきます。彼らは追い払われますが、中の一羽(一匹? 一人?)は大学にとどまり、なぜか魔法の指導を非公式に学生たちに行い始めます。
 国際紛争の火種が蒔かれます。帝国からきた元老議員は「われわれの貴い民主制度がもっとも貴重な財産ともいうべき廉潔をたもつすべはただひとつ。円滑な機能および高邁な水準の維持を確保するために、清浄と団結と健常を極力推し進める方策を講じ、全国民、そして皇統を清くたもつことのみなのです。反帝国的と大きく括られるものに多少なりとも染まることはわれわれにとり忌むべきことであり、いかなる代償を払ってでも排除すべきなのです」とコーコランに告げます。ドワーフはそれを「うまい。手がこんどる。魔術師、これはどうも、混血はごめんだということらしい。だが必要とあらば寝返って、全く逆の意味だったと言い抜けられるよう、えらく回りくどくしとる」と翻訳してくれます。で、結局のところは、学生を一人大学が殺してくれたら赤字の窮状を救うために賄賂を出す。ドワーフの方も学生を一人殺せば金を出す、と言います。
 ところがコーコランはそれを蹴ります。別に高邁な理想とかではなくて、学生たちがどうも月旅行を現実化する力を持っているらしいことに気がついたから。もうこの辺で私は読んでいたソファーから床に落っこちてしまいます。
 さて、気を取り直してソファーに座り直して続きを読むと……帝国ではクーデターが起きます。皇帝が元老院に対して、の政権奪取です。さらに皇帝は大学に対して出兵しますが、そこには3ヶ国の軍隊が集結。国際紛争がついに起きてしまいそうです。そこに新大陸からグリフィンたちの一部隊までがやってきます。
 ところが大学には、コーコラン魔術師も軍のターゲットとなった学生たちも不在でした。彼らは魔法の宇宙船で月旅行に出発してしまっていたのです。ただし(上巻から張られていた伏線によって)旅の進路はねじ曲げられ、彼らは月をかすめて到着したのは別の惑星。圧縮空気は残り少なく、地球目指して再出発してもまた進路がねじ曲げられるのは明白です。さて、そこで始まるのは、深層心理分析です。人(あるいは人にあらざる存在)が持っているもの/持っていないもの(才能や財産や社会的地位)、なりたいもの/なれないもの/なるべきもの、それらのギャップから生まれる苦しみがどう表現され、そしてそれを解決するためには(本人と周りの人たちが)どうしたらよいのか……これって本当に児童書ですか?
 大団円も読んでいて嬉しくなってしまいます。どんでんがあり、様々なピースがぴたりぴたりとあるべき所に収まり、すべての伏線が回収され、そして示される未来像。DWJはすごいや。
 
※「レモン月夜の宇宙船」(野田昌宏)の中に「月の散歩者」(ロジャー・ウルリッヒ)という作品が紹介されています。1929年頃のものだそうですが、アマチュアの冒険クラブの面々が「次は月に行こう」と計画を練ってロケットを発注する、というほのぼのとしたお話だそうです。DWJはそういった古き良き日のSFを魔法で復活させてくれたのかもしれません。そう、かつて宇宙船は「裏庭」で作られるもの、だったのです。今のパソコンなどがガレージで作られてきたように。
 
 
6日(月)汚い言葉
 子どもが言葉を覚えてしばらく経った頃、母親などの前で「うんち」とか「死ね」とか言って喜ぶ時期があります。(女の子はあまり言わない印象ですが、私が知らないだけかもしれません) で、それを聞いた大人が反応したらそれがどんな反応でも大喜びです。自分の言葉が他人に影響を与えたことが嬉しいのでしょう。もし子どもを喜ばせたくなければ、聞いても何の反応もしなければいいのですが、子どもを喜ばせたいのかそれとも自分を抑えられないのか、なんらかの反応をしてしまう大人が多いのは、見ていて微笑ましいものです。
 ただ、大人になってからも同じことを続ける人がいるのは、ちょっと不思議です。すべての大人は自分の中に自分の子供時代を抱えているものではありますが、それをもてあましている人もいるのかな。
 
【ただいま読書中】
魔法!魔法!魔法!』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 野口絵美 訳、 佐竹美保 絵、2007年、2200円(税別)
 
 著者のことをイギリスではDWJと表現するそうです。で、本書は、DWJの18の短編からなる短編集です。長編ではページからこぼれ落ちるくらい魅力的なネタを詰め込み多くの魅力的なキャラを造型し伏線を張りまくってぐいぐいと話をダイナミックに進める著者が、短編ではどんなものを書くのか、大変興味が引かれて図書館から借りてきました。
 
 なんともバラエティに富んでいます。10の平行世界からなる宇宙の第8世界にはドラゴンが住んでいてそこでは超能力者は殺されるがある女の子が超能力者であることに気づかれて逮捕連行されそこに人の心を操る奴隷狩りが襲ってきて、というものもあれば(なんとこれが長編じゃなくて短編ですよ)、実のおばあちゃんが4人もやってきててんやわんやもあれば、太陽に恋した乙女のリリックな物語もあります。「千年生きた猫」が登場する短編もあるし、魔法使いを飼っている猫も登場します(ちなみにここでは「トゥーランドット」のことばの意味が二重に使われます)。「ダレモイナイ(no one)」という名前のロボットのお話は、一見純粋なSFのようですが、いつもの著者の魔術がやはりきちんとかけられています。
 ヤな人もいろいろ登場します。(人がグランドピアノをナントカするのではなくて)グランドピアノが嫌われ者の居候をナントカしようとする話もあれば、ロンドン近郊のふつうの住宅街での迷惑な隣人の話もあります。魔法の村での嫌われ者の魔法使いは豚と立場を交換してしまいますし、一家をこづき回す伯母さんはどなたさんかに世界中をこづき回されます。
 どの話も例によって伏線ばりばり、個性的なキャラ、言葉遊び、各種のユーモア、魅力的なストーリー……DWJは短編でもやはりDWJです。ただ、著者が「自分のことばかりしゃべり自分の都合ばかり他人に押しつけて、他人の言うことを聞こうとしない人」が好みではないらしい、ということもわかります。中で一つ異色の「ジョーンズって娘」は自伝的要素の強い短編に思えます。実話かもしれません。ただ、これもまた「DWJの作品」ではあります。
 
 DWJの頭の中には魔法のお鍋があって、それが魔法でぐつぐつ煮えたぎってそこから様々な色や形や大きさの泡が次々空中に浮かび、それが単独であるいは組み合わさって「お話」になっている、という光景を私は想像しました。著者が楽々と創造をしているのかそれとも創造の苦しみを味わい続けているのか、それは私にはわかりません。ただ「魔法のお鍋」が著者の頭の中にあること、それはまず間違いがないでしょう。私にも一つ、欲しいものです。
 
 
7日(火)借金(素朴な疑問)/『行列・ベクトル』
 金が足りないから借金をする……これはわかります。で、借りたら次は返却ですが、「金が足りない」からどうやって返すのでしょう。
 
【ただいま読書中】
図解雑学 行列・ベクトル』佐藤 敏明 著、 ナツメ社、2003年
 
 私は高校までに、ベクトルは習いましたが行列は習わず、大学に入ったら教養の数学が行列で「高校で習ったもの」として授業が行われたため、エライ目に遭いました。どうやって試験に通ったのか、自分でも謎です(けっこう落第→追試がある厳しい試験でした)。
 
 本書ではまず「数とはなにか(自然数?複素数)」「計算の法則(結合法則、交換法則、分配法則)」が説明されます。ふむふむ、ここまでは問題なくついていけるぞ。さて、行列の登場。行列の足し算には結合法則と交換法則が成立する。つぎはかけ算。行列を実数倍するのは単純ですが、行列×行列で話が複雑になります。えっと、結合法則(足し算やかけ算では、式のどこから計算を始めても結果は同じ)は成り立ちます。しかし交換法則(足し算やかけ算では式の中で数字を入れ替えても結果は同じ)は……
 行列の足し算は「買い物リスト」のアナロジーで理解可能です。複数の人が同じ品目を複数回買い物をした、と考えればいいのですから。しかし行列のかけ算は、一体何のためにするのかがこの本では理解できません。丁寧に解説がしてありますから、かけ算の手順は覚えられます。しかしそれは「算数」であって「数学」ではありません。計算手順は取得できても概念の取得ができませんから。もちろん、線形代数を知っている人にはそのことは説明不要でしょう。しかし、入門書を読む人は「素人」です。その人にいかに「行列の面白さ」を伝えるか、にはもう一工夫が必要と感じます。
 
 ベクトルはさすがに基本は知っているからすらすら読めます。ただ「ベクトルのかけ算」で足が止まります。実際には「かけ算もどき」なのですが、ベクトルを「1×2行列」と「2×1行列」としてかけると「ベクトル」ではなくて「数」が得られます。で、平面ベクトルの内積にはなんとかついて行けましたが、空間ベクトルの外積になるとここでもまた行列が顔を出すので心のどこかが拒絶反応を示してくれます。ただ「内積は仕事、外積はモーメントの概念から導入された」と言われると、なんとなくわかったような気にはなれます。
 
 連立方程式を解くために必要なのは「行列式」で、世界で最初にそれを記述したのは関孝和(1683年)と言われるとちょっと嬉しくなります。「行列」は19世紀ですから、行列式の方が170年ほど早く登場、と言われるとちょっと首をひねってしまいますが。そして線形写像の登場。わはは、と笑いながら私はページをめくります。最後に標準偏差とか主成分分析とか多変量解析とか(名前だけ)知っているものが登場してまたほっと一息。放送大学あたりに入ったらこのへんを基礎からきっちり学べるかしら? 
 
 
8日(水)割引カレンダー/『うちの一階には鬼がいる!』
 愛用のボールペンの換え芯を求めに入った文房具店で、今年のカレンダーを4割引で売っていました。もったいないなあ、と思います。どうせだったら「今年の4月?来年の3月」の「新年度版」を売った方が、(特に新生活を始めた人は)気持ちよく買えるんじゃないかしら。手帳は4月始まりのものを売っているのですから、カレンダーも4月からのものが作れるんじゃないかなあ。
 
【ただいま読書中】
うちの一階には鬼がいる!』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 原島文世 訳、 東京創元社、2007年、2000円(税別)
 
 キャスパーたち3人兄弟妹のお母さんが再婚した相手は人食い鬼(のような男)。相手の連れ子も横柄なのといやみたらたらでどちらも嫌な奴ダグラスとマルコム。計5人の子どもたちは険悪な毎日を過ごしますが、鬼はご機嫌を取るためか、化学キットを子どもたちにプレゼントします。ただしそれは、魔法のキットでした。たとえば「粉末揚素」を付けたら体が浮き上がってしまうのです。子どもたちは、まるでピーターパンのように、夜の空への探険に繰り出します。ところが、途中で薬の効力が切れ始め、子どもたちはビルのてっぺんで立ち往生。
 その次のトラブルは「粉末交素」です。なんとキャスパーは大嫌いなマルコムと心が入れ替わってしまったのです。ただ、そのことで二人はお互いが実はどんな人間であったのかを学びます。嫌悪感で築かれた壁に小さなヒビが入ります。そしてこんどは「動物精」の登場。おかげで「因果なバケツ」が大活躍。もう、何回も何回も。一家は悲惨な目に遭うのですが、こちらはバケツが登場するたびに大笑いです。さらに、とんでもない生物、いや、無生物、厳密には生きている無生物がぞろぞろ登場して話をさらにさらにかき回してくれます。混乱のエスカレーションです。
 しかし、笑ってばかりもいられません。大きなトラブルのため家庭崩壊の危機が訪れます。それだけではありません。人殺しの企みまで登場するのです。この殺人計画のところでは『午後の曳航』をちょっとだけ私は思い出します。
 さて、この“危機”から、子どもたちと親たちは、上手く脱出できるのでしょうか。たまたま合体した二つの家族は一つになれるのか、それともばらばらになるのか、それと、「鬼」は本当に鬼だったのでしょうか。それは読んでのお楽しみ。
 
 
9日(木)言葉遊び/『九年目の魔法(上)』
 日本語での言葉遊びといえば、だじゃれ・しりとり・回文・ナンセンス文を私はすぐに思いつきます。
 だじゃれやナンセンスは各国の言葉でもあるでしょうが、しりとりや回文はどうでしょう。これが簡単にできるところが日本語の特徴と私は思っています。ただ、しりとりに類似したもので、英語のアナグラムやスクラブルがありますね。これは言葉遊びというか文字遊びですが、これを日本語のゲームに“翻訳”するのは……漢字だったらできそうですね。漢字のスクラブル……これはなんだか面白そう。ゲーム機のゲームでも楽しめそうですが、シンプルにボードゲームでできないかしら。辞書を片手に家族でゲーム、というのも楽しい時間だと思います。
 
【ただいま読書中】
九年目の魔法(上)』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 浅羽莢子 訳、 東京創元社、2004年、1700円(税別)
 
 目次を見ただけで私はにやにやします。上巻の第1部は“NEW HERO”、第2部は“NOW HERE”。本文に入る前からもう言葉遊びです。ちなみに第1部には“Allegro Vivace(軽やかにいきいきと)”第2部には“Andante cantabile(唄うように緩やかに)”という指示もついています。本の扉には弦楽四重奏の演奏場面が描かれていますが、その上空には楽しそうに浮かんで踊っている女の子の姿が……
 
 19歳のポーリィは「何かおかしい」と思っています。10歳のハロウィーンのときに近所のお葬式に紛れ込んでしまってから、自分の人生が二重になっているような違和感があるのです。そのお葬式で出会った変わった青年リンは、バツイチで英国交響楽団のチェロ奏者でした。ポーリィはリンと「英雄見習いごっこ」を始めます。リンは離婚で傷ついていましたが、ポーリィも両親が正に離婚したところで傷ついていたのです。
 しかし、兵隊人形で遊ぶのが好きで、英雄修行のために学校ではサッカーをやっているとは、ポーリィはなかなかユニークな少女です。ただしDWJのことですから、単に男勝りの女といったステレオタイプの人物造型はしてくれません。さらに不思議なことが起きます。リンとポーリィの想像の中だけに存在しているはずの遠い町の雑貨店が、行ってみたら実在したのです。さらに、リンが“想像の世界でなる”英雄の仲間たちをポーリィは交響楽団の中に発見します。
 
 読んでいてポーリィの母親の幼さが印象的です。『グリフィンの年』にも「子どもは親を選べない、残念ながら」という言葉が登場しますが、こういった子どもから見た困った親子関係(本来親をするべきではない人が親をやっていて、子どもは愛ゆえにそれを拒絶できない状況)はDWJの作品の隠し味というか通奏低音なのかもしれません。本書でポーリィは本を読んでいてシャーロック・ホームズやワトソン博士を「ゆさぶってやりたく」なっていますが、それと同じ意味で本書を読んでいて私はポーリィの母親をゆさぶってやりたくなります。もっとしっかりしろ、と。母親として不完全なのは仕方ないが、せめて人間としてはもうちょっとまともでいろ、と。同時に、リンも。強引で強欲な人間にきちんと反論できないばかりに都合よく食い物にされている人間を黙って見守るしかない状況は、たまりませんから。
 本書に出てくるのは音楽だけではありません。本。何冊も何冊も。「黒馬物語」「アンクル・トムの小屋」、シャーロック・ホームズ、マイケル・ムアコック、「三銃士」「指輪物語」「宇宙戦争」「金枝篇」……をを、「トムは真夜中の庭で」も! 読み方は微妙に違いますが、DWJと私は読書に関しては割と波長が合うようです。
 
 
11日(土)バッハ/『九年目の魔法(下)』
 久しぶりに上京したら、昨年の春にモーツアルトの顔がでかく掲げてあったところに、今年はバッハの顔が。で、“Bach is back”と書いてあります。これはダジャレですか? だってBachは英語では「バック」でしょ。
 
【ただいま読書中】
九年目の魔法(下)』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 浅羽莢子 訳、 東京創元社、2004年、1700円(税別)
 
 下巻の目次です。第3部“WHERE NOW(Allegro con fuoco(熱情をこめて軽やかに))”、第4部“NOWHERE(Presto molto agitato(速く、きわめて激しく))”、コーダ(scherzando(諧謔的に))。またまた言葉遊びですが、激しく、とか諧謔的に、が気になります。
 
 「ライムジュースが耳で聞けるものなら、ヴァイオリンのような音がするだろう」
 母にも父にも捨てられたポーリィを迎えるのは、ブリテン、ショパン、エルガー、フォーレ、ヘンデル、ハイドン、そして色っぽいフルートのモーツァルト。そして意外な再会(「来たのか! 絶対忘れるようにしたつもりだったのに!」)。
 妨害にも負けずリンの四重奏楽団は成功への階段をのぼり始めます。ポーリィには熱心にキスをしたがる男の子が二人まとわりつきます。しかし、明らかに命を狙った襲撃がリンとポーリィを。ついにポーリィは、自分の生活と自分の単一の記憶が、まやかしであることを知ります。そして、最後の裏切りが。9年ごとにお葬式が出るお屋敷から、また次の葬儀が行われる刻限まで、あとわずかです。
 
 読み返すと私の日本語は壊れていますね。ただ、ネタバレをしないようにするにはこんな手しか思いつかないのです。提示できるのは、謎めいたほのめかしだけ。ただ、張られた伏線を丹念に読み解きつつ、ポーリィが自分の記憶を読み解いていく作業に付き合っていたら、物語は自然にコーダへとなだれ込んでいきます。誰かの悲鳴と共に。そうそう、“ラスボス”が妖精の女王であることは早くから明示されていますからそのことは書いておきましょう。人間が抗うことができない力(多数の人間の記憶さえも操ることができるのです)を持った“敵”とどうやって戦い勝利を得るかの冒険、それと痛切なラブストーリー(「あしながおじさん」にちょっと似ています)との両立という、きわめてアクロバティックな物語を成立させた著者は、やはりすごいや。
 
 
12日(日)裁判員/『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』
 「入信しないと、地獄に堕ちるぞ」と私の玄関先で言い捨てていった人、あの人がもし裁判員に選ばれたら、一体どんな判決を支持するのでしょうねえ。
 
【ただいま読書中】
王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』森達也 著、 集英社新書、2007年、700円(税別)
 
 自由な執筆ができなくなった“時局”で太宰治はパロディ(既成の物語や歴史の登場人物に自らのテーマを仮託する手法)を積極的に選択し、『お伽草子』を書きました。著者も「戦後レジームからの脱却」を行っている“時局”にやはり同じ手法を用いてみる、のだそうです。
 
 「桃太郎」……成長した桃太郎は、公正中立不偏不党の位置にいるジャーナリストとなり、3匹を従えて鬼ヶ島に突撃取材を敢行しました。
 「仮面ライダー」……「ペイしない企業」ショッカーの内情を切々とつづっています。
 「赤ずきんちゃん」……著者によるとこれは、無邪気を装う残酷な赤ずきんちゃんと、恋に溺れた可哀想な狼との悲恋の物語なんだそうです。
 「コウモリ」……イソップのコウモリのお話ですが、著者は「なんで獣と鳥が戦争をしなければならないんだ?」と疑問を提出します。
 「美女と野獣」……片方に位置するのは「醜いが優しい心を持つ野獣」、もう片方は「美しいが残酷な心を持つ美女」の対立と著者はこの話を捉えます。
 
 パロディといえばパロディですが、元ネタを明示しつつ著者が自分の心情(または信条)を自由に記述したもの、とも言えます。パロディと言うには、メタレベルでちょっと著者が表に出すぎですから。
 偉そうに感想を述べるなら、それぞれの着想は面白いのですが、どうも“インパクトが弱い”と感じます。自主規制じゃないけれど、恥じらいかなにかが働いたようでどこかブレーキがかかっているようで、筆の滑りがあまりよくありません。どうせなら著者は「自分の主張」をもっと押さえて、とことん暴走する漫才のようなネタにすればよかったのに、と思います。「自分の主張」がまっすぐには読者に届かなくなるかもしれません。しかし、そのぶんネタのパワーは増し、読者の心でいろいろな反応を起こしたことでしょう。そのほうが「作品」としては面白くなったんじゃないかなあ。
 
 
13日(月)懐かしの本/『ゴースト・ハンター』
 上京して楽しみの一つは、でかい本屋に行くことです。先日は久しぶりにハヤカワ文庫のコーナーに立ってみました。おお、たくさん並んでいる、と棚から視線を落とすと、平積みのところに……おおお『1984年』『時計じかけのオレンジ』『火星人年代記』『虎よ、虎よ!』……なんでこんなに懐かしいものが続々復刊されているんですか……って、文句を言っているのではありません。私に知らせてくれなかったことには盛大に文句を言いたい気分ではありますが。
 旅先で荷物が重たくなるのは避けたいので「ぜーんぶ買いたい」気持ちをセーブして3冊買うだけで我慢しました。いつか本屋で好きなだけ買える身分になりたいものです。
 
【ただいま読書中】
ゴースト・ハンター』アイヴァン・ジョーンズ 著、 せな あいこ 訳、 評論社、2004年、1100円(税別)
 
 ロディは真夜中に自分の部屋に幽霊がいるのを発見します。ロディは幽霊を見ることができる特別な目を持っていたのです。幽霊はウィリアムというヴィクトリア朝の靴磨きの少年です。しかし彼は、ゴースト・ハンターに追われる身でした。ロディは姉のテッサとともに、ウィリアムを守ろうとしますが、ウィリアムはロディについて学校に行っては先生に悪戯をしたり、ゴースト・ハンターを恐れている割には茶目っ気たっぷりです。
 そのころ、ロディたちがよく通っていたお菓子屋さんのオーナーが変わりました。鼻が大きくてとっても感じが悪い人に。新任の鼻が大きな学校の用務員も子供が大嫌いな様子でロディたちに冷たく当たります。
 そしてついに、ゴースト・ハンターが、深夜にロディたちの家に不法侵入をしようとします。彼らは幽霊を見ることはできませんが、そのにおいをかぎつける特別な鼻を持っています。さて、ゴースト・ハンターは一体誰なのか。ロディたちはウィリアムをハンターの手から守ることができるのか。
 
 「ゴースト・バスターズ」を裏返した発想が楽しめます。「ゴースト」というだけで退治されなければならないと言われたら、それは納得がいかない存在もあるでしょうね。
 
 
14日(火)血の思い
 エホバの証人が輸血を受けることを拒否する、と聞いた時に私が思い出したのは「これは私の血、これは私の肉」というキリストの言葉です。エホバの証人はキリストの血や肉(「ヴェニスの商人」の論理を使ったら、血を含んでいるから肉も血と同等に扱ってよいでしょう)は拒否するということなんだろうか、と皮肉に思ったのですがそれはともかく。
 なぜキリストがわざわざ「血や肉」にこだわって言及したかと言えば、おそらくはユダヤ教に対するレジスタンスの表明でしょう。ユダヤ教では、神への捧げもの(生け贄)は灰になるまで焼き尽くすものでした(対して、共同体で分け合う生け贄は、こんがり焼いたら皆で食べるもの)。つまり神の名で「血や肉」を分け合うのは完全に「反ユダヤ教」の態度なのです。さらにキリストは、自ら血を流す状態で神に“捧げられ”ました。念には念を入れて「反ユダヤ教」が表明されています。
 釈迦はヒンズー教に異議を申し立て、選ばれたエリートのバラモンだけが解脱できることを否定しました。キリストも同様に、エリートのラビだけのものだったユダヤ教を否定しようとしたのでしょうか。彼らの思いがまっすぐ現代に伝わっていることを、彼らのために祈ります。
 
【ただいま読書中】
シュメル ──人類最古の文明』小林登志子 著、 中公新書1818、2005年、940円(税別)
 
 紀元前3200年頃シュメルの都市ウルクで文字が発明されました。ウルク古拙文字と呼ばれ粘土板にきざまれました(古代中国の文字は紀元前1300?1100年ころの殷)。紀元前2500年頃にはそれまでの表語文字に加えて表意文字が出現し、交ぜ書きも行われます。さらに葦の尖筆が使用されることで楔形文字が誕生しました。文字数は約600だそうです。ちなみに、現在のアルファベットのご先祖さまは紀元前11世紀のフェニキア文字がアラム語に取り入れられて22文字のアルファベットになったものだそうです。
 
 メソポタミアはティグリスとユーフラテスの二大河川に挟まれていたため、洪水伝説が古くからありました。紀元前3世紀の『バビロニア史』(バビロン市の神官ベロッソス著)には、クロノス神のお告げによって、すべての文書を埋め船に鳥獣を積んだクシストロスの伝説が紹介されています。ちなみに洪水が終わりかけた時に、クシストロスは鳥を三度放しています。「ノアの洪水」のご先祖ですね。それよりさらに1000年前の『ギルガメシュ叙事詩』(アッカド語)にも同様の大洪水伝説がありますし(エア神の助けを借りたのはウトゥナピシュティム)、さらにもっと前、紀元前2000年ころに粘土板に書かれたらしいシュメル語の大洪水伝説が発掘されています。
 主に作られた農作物は大麦で、そこからパン、さらにそこからビールが作られました。ただ、カスが浮いた濁り酒なので、ストローで吸っていたそうです。なんだか悪酔いしそうな予感がします。また農地が塩化しやすかったので、ナツメヤシも多く作られていました(ナツメヤシが塩害に強いことは以前別の本でも紹介されていましたね)。ちなみに乾したナツメヤシの実がデーツ(お好みソースなどの材料)です。
 ハンコも使われていました。それも「転がすハンコ」です。円筒印章と呼ばれ、筒の外側(日本のハンコだったら持つところ)に印面が刻んであってそれを粘土板にころころ転がすものです。これだったらいくら広い粘土板でもどこまででもハンコが押せます(目的は内容の改ざん防止)。正倉院文書に墨書きの上に天皇御璽の朱印が前面にぺたぺた押されたのと、「ハンコを押す」ことの発想(改ざん防止)が同じなのが笑えます。
 シュメルの法典と言えば紀元前18世紀のハンムラビ法典が有名ですが、それより前今から4000年前にウルナント法典があります。これは、殺人と強盗は死罪ですが、傷害は銀で賠償となっています。男奴隷と自由民の女性の結婚も許されており、身分制度がやや緩やかだった様子です。ただ、もちろん身分の差はあって、処女を強姦した場合、その女性が自由民だったら犯人は死罪ですが、女奴隷だったら銀で賠償です。
 
 この人類最古の文明の跡地が、現在のイラクです。そこにアメリカ(世界で最新の文明)が攻め込んだイラク戦争は、歴史の観点から見ていると、なんだか複雑な気分になってきます。
 
 
16日(木)空気が読めない/『ライ麦畑でつかまえて』または『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
 空気しか読まない人は(空気ではない)実体は読まない、ということで、さらに、空気しか読まない人は真空(つまりは宇宙規模のこと)も読めない、ということかな。さて、そんな人の頭の中には何が詰まっているのでしょう。空気?
 
【ただいま読書中】
ライ麦畑でつかまえて』J・D・サリンジャー 著、 野崎孝 訳、 白水Uブックス、1984年(92年54刷)、806円(税別)
 
 成績不良でペンシー高校を退学になった主人公が過ごしたクリスマス前後の二日間を描いた作品です。友達と遊びに行き、下らない口げんかをし、一人でホテルに泊まり、売春婦を買って失敗し、酒を飲み、女友達と遊び……それだけです。
 発表当時、1950年代の若者の言葉を活写した、ということでも話題になったそうです。それが正しいかどうか私には確認しようがありませんが、読んでいてずいぶん砕けた口調であることは分かります。ただ、1970年代に読んだ時には、私の実年齢とあまりに近すぎたせいでしょう、あまり感銘を受けませんでした。なんというか「(若者としては)普通の反応じゃないか」という感じでした。
 
 「若者ことば」と言って私がすぐ思い出すのは『時計じかけのオレンジ』(アントニー・バージェス)です。また、1950年代の青春群像だったら私が想起するのは「ウエストサイドストーリー」。ただ、あちらでは最近のアメリカ映画で満ちあふれている4文字言葉はなかったように私は記憶しています。みなさん(今の基準からは)ずいぶん穏やかに悪態をついています。
 
 主人公が何をやっても上手くいかない様子を、解説は「若さゆえの未熟」とし、著者は結局精神障害オチとしています。
 ただ、本書で描写されている主人公の様子をまとめてみると……コミュニケーションが苦手・他人はすべてバカだと思っている・数字が苦手・計画性が病的にない・細かいことが非常に気になる・感情のコントロールが苦手(すぐ気分が変わる・すぐカッとなる・感情の振幅が大きい・笑い声が非常に大きい)・体の使い方が下手(すぐに躓く)・集中力欠如・注意散漫……ここまで列挙すると、古典的な精神病というより広汎性発育障害の方ではないか、と私には思えます。ただ、著者が本書を書いた頃にはまだその概念は存在しなかったはずで、だとするとここまで詳細に書けたのはなぜか、とそちらの方が気になります。
 
【ただいま読書中2】
 昨日日記を書かなかったし、たまには一挙2冊アップをしてみましょう。
キャッチャー・イン・ザ・ライ』J・D・サリンジャー 著、村上春樹 訳、 白水社、2003年、1600円(税別)
 
 新訳です。
 タイトルを見て、どうも語呂が悪いのが気になります。どうして最初の「ザ」を抜いたのでしょうねえ。あった方が語呂が良いのに。さらに「ライ」と言われると「Rye」よりも「Lie」を私はまず思ってしまいます。日本人だからでしょうねえ。
 文体そのものは昨日の野崎さんのよりやや幼い感じに訳してあります。高校生をやっているふりをしている中学生の一人しゃべり、といった感じ。幼い分、主人公の饒舌ぶりの滑り加減が良い味になっていますが。
 
 原題は“The catcher in the rye”で、本書に登場する歌のタイトルだそうです。直訳したら「ライ麦畑でつかまえて」じゃなくて「ライ麦畑の捕まえ手」かな。
 
 
17日(金)絶望/『虎よ、虎よ!』
 絶望はそれだけでは人を殺しません。絶望しか知らない人はそれに慣れているのですから。希望の後の絶望がその落差で人を殺します。
 
【ただいま読書中】
虎よ、虎よ!』アルフレッド・ベスター 著、 中田耕治 訳、 ハヤカワ文庫SF、2008年、880円(税別)
 
 ウィリアム・ブレイクの詩によって本書は始まります。「虎よ! 虎よ! ぬばたまの/夜の森に燦爛と燃え/そもいかなる不死の手 はたは眼の/作りしや、汝がゆゆしき均整を」
 懐かしい!と私の魂がどこかで金切り声を上げています。話の内容はきれいに忘れていますが最初のページから私はベスターの世界にジャンプイン(いや、ジョウントかな)します。
 
 発見者の名前からジョウントと呼ばれるテレポーテーションによって、それまでの社会の枠組みが激変した25世紀。人類は太陽系に満ちていましたが、ジョウントは惑星の表面に限定され、人類は内惑星連合と外衛星同盟とに分かれて対立していました。乗っていた宇宙船が外惑星同盟によって破壊されたためにたった一人で170日も漂流していたガリー・フォイルは、やっと味方の船に救われると思ったところで見捨てられます。フォイルは復讐鬼と化します。小惑星帯で顔一面に虎のような入れ墨を入れられたフォイルは地球で、自分がなぜ見捨てられたかの理由を知ります。
 フォイルは(ジョウント防止の処置が取られた)精神病院を脱走し、逃げ続け、小惑星帯で富を手に入れ成金の道化として地球に帰還します。次々登場する魅力的な女性は、フォイルを愛し憎みます。フォイルも彼女らを愛し憎みます。新年を祝う旅(「元旦の午前0時」を追ってジョウントし続ける)をするフォイルを追うように外惑星からの爆弾の嵐が地球を襲います。フォイル(が持つあるもの)が戦争の帰趨を決することが、両陣営に分かったのです。追われながら追い、フォイルは悲願の復讐を遂げようとしますが……
 単純な復讐譚だったはずが、最後には全宇宙的全時空的な規模にまで膨らみ、一体どうやって話の収拾をつけるんだ、と心配になるほどです。まあ、最後には何とかなるのですが。これほど読んでいて胸が躍る経験はベスター以外ではなかなかできないように思います。
 
 
18日(土)燕/『七人の魔法使い』
 今朝、燕が飛んでいるのに気がつきました。「ああ、帰ってきたな」と思いましたが、さて、彼らは去年ここから飛び立った燕と同一人物、もとい、同一燕なんでしょうか。もしそうだったらどうやって“ここ”に帰ってこられるんでしょう。帰巣本能? もしそうでないなら、どうやって彼らは日本を住み分けているのでしょう。早い者勝ち?
 
【ただいま読書中】
七人の魔法使い』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 野口絵美 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、1700円(税別)
 
 ハワードが学校から帰ってくると、台所にゴロツキがいました。とんでもない巨躯と脳みそなんか詰まってなさそうな小さな頭、操るのは魔法のナイフ。「2000を寄こせ、とアーチャーが言っている」とゴロツキは言います。
 ハワードの父クエンティン・サイクスは作家ですが、13年前に一文字も書けなくなるスランプになった時、友人のマウントジョイと3ヶ月ごとに2000語のタワゴトを書いて送るという約束をしました。とにかくなんでも文字を書けばスランプからの脱出のきっかけになるだろう、という頼りない目論見だったのですが、それが大成功。サイクスは本を次々書けるようになり作家として成功します。ところがこの「2000語のタワゴト」が、町を支配する七人の魔法使いの一人によって何かに使われ、他の魔法使いたちもそのせいで支配され町から出ることができなくなってしまっています。魔法使いたちはサイクスの“秘密”を探ろうとします。しかしサイクスには“身に覚え”がありません。書いているのは文字通りのタワゴトなのですから。しかし、魔法使いたちが町を支配している姿や世界を征服したいという意図を知り、サイクスは筆を折ります(実際にはタイプライターに南京錠をかけます)。サイクスに何とか自分のために「2000語」を書かせようと、魔法使いたちは一家に“攻撃”をしかけます。毎日毎日派手な嫌がらせ。ハワードは、その状況をなんとかしようといろいろ動き始めますが……
 やがて、町が閉じこめられているのは13年ではなくて26年であることがわかります。さらにDWJのいつもの「伏線」が……今回はちょっと変わっていて、誰かが言ったことだけではなくて“言わないこと”までもが伏線として機能しています。謎解きの面白さ、魔法、SF的な趣向、そして家族への(一筋縄ではいかない)思い……DWJのいつもの“面白さ”も健在です。DWJの掌に載せられて、はらはらどきどきのストーリー展開に付き合って、至福の時間をどうぞ。
 
 
19日(日)人類は平等?/『アンクル=トムの小屋』
 19世紀には「黒人は劣等人種」は社会的に疑うべきもない“事実”でした。インディオに至っては「人類かどうかさえ不明」の扱いです。そこで、「人は平等だから奴隷制度はよくない」というのではなくて「黒人は白人より劣っているが、劣った人種にも憐れみを下すのがキリスト教徒としてのたしなみ」という発想の奴隷解放運動が行われました。それは19世紀の特殊事情ではなくて、現在ではたとえば「途上国の可哀想な人に援助を」とか「動物虐待反対」の中にしぶとく生き残っているように私には見えます。人の価値基準を「白人>クリスチャンの黒人>黒人」というヒエラルキーで判断するのと、「文明国の人間>未開国の上層部の人間>未開国の貧民」や「動物愛護をする人間>動物>動物愛護をしない人間」のヒエラルキーで判断するのとは、構造的にきわめて似通った態度ですから。(たとえば動物虐待反対が、仏教的な「万物みな仏性を有する」立場からのものだったら私は自分の判断を変えます。それはむしろ「人の価値は平等」に近いものと言えますから)
 
【ただいま読書中】
アンクル=トムの小屋』ハリエット・ストウ 著、 中山知子 訳、 ポプラ社、1968年(85年24刷)、980円
 
 事業に行き詰まったシェルビー氏は、しかたなく手持ちの奴隷の中で最上のトムを奴隷商人のヘイリーに売ることにします。そうしなければ破産なのです。トムは、敬虔なキリスト教信者で正直な善人でした。
 本書では「黒人は劣等だが、キリスト教によって真っ当に扱ってもらえる(こともある)」姿も登場すれば「黒人は白人と同等だ」と主張する人も登場します。利益が上がるのなら(そして国の法律に違反しないのなら)どんな商売もして良いと主張する奴隷商人、聖書に「カナンの民にのろいあれ」とあるのは「アフリカ黒人は奴隷の地位にとどまらねばならない」という神のおぼし召しだと主張する牧師、生活が保障される奴隷の暮らしの方が(生活能力のない)黒人のためだと言うご婦人、「逃亡奴隷に援助してはならない」という州の法律を無視するが同時に悩める奴隷持ちにも親切にするクエーカー教徒……著者は様々な人間を書き込んでいます。特に“魅力的”なのが、トムの新しい主人の妻「私は世界で一番不幸なのよ」マリーです。なんというか「いるいる、こんな人」と言いたくなる人物像がきわめて立体的に描写されています。相手をするミス・オフィリアが呆然とするシーンではひたすら笑えます。そしてその娘のエバ……父親のことば「子どもだけが、ほんとうの民主主義者ですよ」の体現者。現実がどうしようもないものだとしても、もし希望が存在するならそれは「未来」にあると示されています。ただし、希望はきわめて容易に損なわれてしまうのですが。
 望みを失って自殺する黒人、あるいは逃亡奴隷の旅についての描写(活劇)もあります。テーマ性を抜きにしても、小説として上出来な作品です。
 最後に、非暴力を貫き通すトムの姿に対しては、賛否両論があるでしょう。ただ、無抵抗の人間を殴って殺す人間よりも、殴り返さずに殺されていく人間の方が、どちらが「上」かは明らかだ、とは言えるでしょうね(「憎しみをコントロールできない人」と「憎しみを知っていてそれをコントロールできる人」との対比です。ちなみに私はアンクル・トムを「白人の言いなりになるだけの情けない奴」とは思っていません。彼の静かなレジスタンスの強さを私は感じています)。
 
 
20日(月)高収益/『ワーキングプア』
 この前の新聞には「このご時勢に、高売り上げ高収益の企業」がいくつも紹介されていました。そのトップがコンビニで、まるで褒めているみたいな口調の記事でしたが、ああいったところが高時給で知られている、とは言えません。すると、消費者だけではなくて、従業員もまた低賃金でその企業の収益に貢献しているんでしょうね。
 
【ただいま読書中】
ワーキングプア ──いくら働いても報われない時代が来る』門倉貴史 著、 宝島社新書、2006年、720円(税別)
 
 「ワーキングプア」は1990年代にアメリカで誕生した言葉で、本書では「年収200万円以下」をその定義として採用しています(根拠は生活保護の水準)。2005年のアメリカでは、ブッシュ政権の政策で貧困層が増加し、貧困ライン(3人家族で年収1万5577ドル、4人家族で1万9971ドル)を割り込んだ人は約3700万人。医療保険に入れない人(アメリカは日本とは違って民間医療保険制度です)は4657万人でした。貧困→無保険→病気によって生活が破綻、の悪循環(貧困から脱出できない構造)が見えますが、その悪循環は病気だけではありません。派遣切りや馘首などによって労働環境が激変した場合、労働者は容易に悪循環にはまりこみます。特に中高年のワーキングプアの場合、固定的な支出(住宅ローンや子どもの教育費)が首を絞め、多くの人は仕事の専門性を持っていませんからそこからの脱出が困難となります。その結果の一つが自殺です。1990年代から40代50代の男性(サラリーマンと無業者)の自殺が自殺統計で目に見えて増えています。
 消費者金融にとってはこれはビジネスチャンスです。金に困っている人が増えたのですから。ところが、グレーゾーン金利の見直しと個人破産の増加で、実は消費者金融にも悪影響が出始めています(2006年現在の話)。また、ワーキングプアの家庭では教育費も削る必要が出てきます。すると生じるのが「ワーキングプアの“世襲”」です。
 そして若者。2006年現在で日本の若者の10人に一人は失業者です。仕事に就いている人も正社員の比率は減少しています。これは「キャリアを積めない」点で、将来ボディブローのように社会に効いてくるでしょう。
 
 もう死語になりましたが「終身雇用制度」「年功序列賃金制度」がセットで成立するためには、二つの条件が必要です。
1)経済の安定的な成長 
2)均整の取れた人口ピラミッドの維持
 この二つが壊れた現在、旧来の労働環境が維持できないのは当然のことです。ならば企業は何をするべきか、政治は何をするべきか、そして労働者はどう対応するべきか。企業がやっていることは目に見えます。社員の非正社員化です。政治は碌なことはしていません。さて、労働者は自分を守るためにどうしたもんでしょう。専門性などの付加価値を自分につける、が一番ありがちな回答ですが、そのためにはコスト(金と時間)の投入が必要なんですよねえ。
 
 私はもう一回本書のタイトルを見ます。2006年末に発行されてまだ2年と少し、「いくら働いても報われない時代が来る」はもう「いくら働いても報われない時代が来た」に訂正をしなければなりませんね。
 
 
21日(火)フィルター/『マライアおばさん』
 たばこのフィルターって、結局何のためにあるのでしょう? 口に葉っぱが入らないためだったらもっと短い(それこそ紙1枚分の厚みの)もので必要十分でしょう。煙の成文を吸着させさらに周囲から空気を取り込むことで煙を薄めてマイルドにする機能もあるそうですが、それは、せっかくの美味い酒を水でじゃぶじゃぶ薄めてさらにフィルターを通してから飲む行為と類似のような気がします。愛煙家にとって、フィルターはどんな意味を持っているんでしょうねえ。
 
【ただいま読書中】
マライアおばさん』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 田中薫子 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、2003年、1700円(税別)
 
 ホラータッチで本書は始まります。
 父親が車ごと海に転落して行方不明となってしまった一家(母親のベティ、兄クリス、そして本書の語り手ミグ)は、父親の義理のおばマライアさんの家で休暇を過ごすことにします。ところがマライアおばさんは、善良で体が不自由な女性なのですが、ことばでは命令をせずに命令をする名人でした。本当は自分でできることも人(ほとんどはベティ)にやらせます。それもまるで恩恵を与えてやっているような態度で。さらに人に良心の呵責を感じさせる名人でもあります。ミグやクリスはそのことに苛つきますが、母親は礼儀正しさのあまり言い返すこともせずに言いなりになっています。町は寂れていました。子どもの姿は無く、住民は姿をほとんど見せず窓から外を見張ってる様子です。ただ、マライアおばさんの子分格の女性が毎日おばさんの家で集会を開きます。全員で13人。ちなみにマライアおばさんの家は13番地。毎晩クリスの部屋には幽霊が出ます。妙に人間っぽい猫がうろつきます。
 やがてクリスは狼に姿を変えられ、ベティはクリスのことを忘れていきます。ミグはあせります。このままでは大変だ、と。さらに狼狩りが行われ……
 本書は(基本的には)ミグが鍵つきの日記帳に書いた日記の体裁で進められますが、ミグは毎日きちんと書くわけではないため、「実際の事件の進行」と「日記に書かれた事件の進行」とが必ずしもパラレルではなく、それが事態を混乱させます。さらに別のことが起きて事件の時系列がさらに混乱します。(ヒントを一つ。マライアおばさんはミグのことをネオミと呼びます。これ、重要な伏線です)
 しかし、こんな「マライアおばさん」は世の中のあちこちに棲息しています(著者は実在の人物をモデルにしたそうですが、私も何人かすぐ思いつきます)。善意の塊で、傷つきやすく、押しつけがましく、人の言うことを聞こうとせず、人や物を自分との関係性の中でだけとらえ、他人を操作する達人。いやもう、このマライアおばさんの“手口”を見ていると、感心します。そういえば何か他人に無理を通すのに、最初にもっと無理を持ち出して「ノー」と言わせてからそこに“値引き”した要求(本来の要求)を持ち出したら、「ノー」と言ったことが心の負い目になっているために「前のよりも相手も妥協したのだから」と合理化して「イエス」と言ってしまう、という心理操作テクニックがありましたっけ。マライアおばさんはさらにその上を行っていますけれど。
 
 
22日(水)日銀短観/『心とは何か』
 前から気になっていたのですが、あれは「日銀の見解(あるいは予想)」ではなくて、日銀がアンケートした企業の「景気に対する気持ち」なんですよね。とすると、短観を良くするためには、景気そのものを良くするよりも社長を全員楽観的な性格の人にすることが早道ということに。
 
【ただいま読書中】
心とは何か』アリストテレス 著、 桑子敏雄 訳、 講談社学術文庫、1999年、800円(税別)
 
 プシューケー(プシケー)についての論考です。本書では「心」と訳されていますが、魂とか精神でも間違いではないはず。
 先人の業績についてまとめたところは読み応えがあります。ただしここはあくまで「アリストテレスの解釈」です。読んでいて「あれ?」と思うところもあります。たとえば、プラトンの「魂の三部分説」を軽視している点など、お師匠の思想なのにそれでいいのか、と思います。私はエンペドクレスの「心はすべての元素からなる(だからこそ、すべての元素を認識できる)」説に惹かれます。心は単独で存在しているのではなくて、コミュニケーションをすることで存在できる、ということになりますから。ただアリストテレスは「心の内に骨や人間がなければ、骨や人間を認知できない、ということになる(それは不可能である)」と切って捨てます。それはエンペドクレスの即物的な解釈だなあ、と私は呟きます。
 
 しかし、だらだらと読みにくい文章だと思っていたら、注に「文章に冠詞をつけただけで、その内容を名詞化できるのがギリシア語の特性」とあって、私は膝を打ちました。なるほど。これだとある概念の説明そのものがその概念の名称になるわけで、新しい概念を“発明”するためには便利な言葉です。古代ギリシアで哲学が発達したのには、言葉の要素も大きかったのでしょう。
 
 「心とは、存在するすべてのもの」と定義づけ、アリストテレスはまず感覚、次に思惟について述べます。なぜなら存在するものとは感覚されるものと思惟されるものから成り立っているからです。感覚で特にアリストテレスが重要視するのは「触覚」です。
 ここで私は「なるほど」です。アリストテレスの「四性説」(世界は、乾・湿/熱・冷、の4つの元素の組み合わせで構成される)はきわめて触覚的です。つまりアリストテレスは世界を触覚を通して認識していたのです。そのことに本人は自覚的なようですが、ただそこで「なぜ自分が触覚を選択したか」を深く掘り下げることよりも「なぜ触覚が他の感覚に対して優位か」を述べることに夢中になってしまいます。ともかく、アリストテレスが「人は感覚(触覚)を通して世界を認識する」「認識の“装置”が心」と考えている基本は分かりました。当然のように「唯識(の触覚バージョン)」を私は連想しますが、著者が「味覚も触覚の一部」と述べているのを見て、もうちょっと不真面目に『地球はプレイン・ヨーグルト』(梶尾 真治)や『僕がなめたいのは、君っ!』(桜 こう)なども思い出してしまいました。アリストテレスを読みながらにやにやしている私って、やっぱり、変?
 
 
23日(木)選挙演説の練習/『冒険者カストロ』
 「私は、国会の採決には賛成していましたが、実は党の方針には反対でした」
 
【ただいま読書中】
冒険者カストロ』佐々木謙 著、 集英社、2002年、1600円(税別)
 
 革命家と権力者、全く異なる二つの人生を生きた人の前半生を描いた伝記です。
 19世紀からキューバはスペインからの独立戦争を闘っていました。そこにアメリカが介入し、キューバは名目上の独立はできますが、結局アメリカの半植民地となります。1903年アメリカは海軍基地(グァンタナモ基地)の永久租借を認めさせます。ハワイと同様のコース(アメリカ植民者の増加→合衆国に合併)を思い描いていて、その意図を隠そうともしていませんでした。
 そんな時代、フィデル・カストロは、大農場所有者(ただし農場労働者出身で、ブルジョワジー階級とは言えない人)の5番目の子どもとして1926年に誕生しました。頭の良い子でしたが、学校の理不尽な規律などのしめつけには反抗的だったようです。
 1930年代からキューバでは政治運動が盛んになりますが、アメリカの介入で軍のバティスタがキングメーカーとして傀儡大統領を次々取り替える状況となりました。40年から4年間バティスタは自身も大統領となりそれ以後も院政を敷きました。その頃フィデルは大学に入ります。反体制運動で頭角を現したフィデルは、それを目障りと感じた政権から暗殺の脅迫を受けます。大学の活動をやめれば政治的な死、続ければ肉体の死。フィデルは暗殺を避ける名人となります。テロから逃れたコロンビアでは革命騒ぎに巻き込まれ(どころか、そこでの活躍で名を上げ)、フィデルはマルクス主義を学び始めます。政治的に名を上げると暗殺指令が出され、一時アメリカに亡命、帰国後フィデルは弁護士を開業します。真っ当な政治コースに乗ることでキューバの改革を目指したフィデルですが、バティスタによるクーデターがあり、フィデルは革命を志向し地下組織を作り始めます。まずは兵営を襲撃して武器調達です。期日はカーニバルの真っ最中。「祝祭として始まった革命」の第一歩でした。しかし襲撃は悲惨な失敗。フィデルは刑務所に収監されますが、バティスタ政権は恩赦を求める世論に押されます。出獄したフィデルはメキシコに亡命(1955年)。そこでアルゼンチン青年医師ゲバラと出会います。資金調達と軍事訓練の末、定員10名のヨットに82名がぎゅう詰めとなってキューバ上陸を敢行(チェ・ゲバラは「これは上陸と言うより、難破だな」と言っています)。上陸直後の政府軍の攻撃で一行は十数名にまで減りますが、そこから巻き返しが始まります。各地で蜂起や政治闘争も盛んになります。フィデルは山地にこもって「自由領」を少しずつ拡大させ、そこで農地改革を行うことで農民の支持を取り付けていきます。そしてついに革命軍はハバナを落としますフィデルは32歳でした。革命直後は穏健派として猫を被っていたフィデルですが、やがて社会主義的な政策を次々打ち出し、アメリカと対決することになります。はじめは亡命キューバ人部隊による「ピッグス湾事件(コチノス湾事件)」、次は「マングース作戦」(アメリカ軍の侵攻)。それに対抗するためにソ連のミサイルが……「キューバ危機」は「キューバを巡る米ソの対立によって世界が危機に」と捉えられがちですが、実は「キューバの危機」でもあったのです。 
 
 面白いのは、フィデルは失敗ばかりしていることです。順風満帆の革命達成ではありません。ところが彼は、その失敗から大きな糧を常に得ています。そこが、常人と「何か大きな事を達成する人」との違いなのかな。
 
 
24日(金)もてる/『時計じかけのオレンジ』
 もてるようになるための方法には二つあります。一つは、自分を高めて多くの人からあこがれの対象となること。もう一つは、自分を安売りすること。
 
【ただいま読書中】
時計じかけのオレンジ』アントニー・バージェス 著、 乾信一郎 訳、 ハヤカワ文庫、2008年、740円(税別)
 
>>モロコ(ミルク)に何か新しいベスチ(もの)を入れちゃいけないって法律はまだないからモロコにベロセットとかシンセメスクとかドレンクロムなんてベスチを入れて飲んじゃう。そうすると、すごくハラショーな十五分間が楽しめるんだ。“神さまと天使と聖者たち”がおがめてさ、その一方じゃ、モズグ(あたま)ん中でもっていろんな色がバンバン爆発するのが見られるってもんだ。
 
 アレックスは15歳、仲間たちとはスラブ系のスラングまじりのナッドサット(ティーンエイジ)ことばでしゃべり、毎日(というか毎夜)楽しくやっているのは「超暴力」。ストリートや押し入った家で、暴行傷害・強姦・強盗・家の破壊などやりたい放題です。お気に入りの武器は蹴飛ばしブーツとのど切りブリトバ(かみそり)。ある夜も押し入った家で、作家が書いている原稿の表題「時計じかけのオレンジ」を鼻で笑い、作家をぼこぼこにしその妻を作家の目の前で輪姦し原稿をびりびりに破り捨てて意気揚々と帰宅します。彼が愛するのはクラシック音楽。超暴力をふるっているときやふるっていないときも、彼の回りや脳内には様々なクラシックがBGMとして鳴り響き続けています。
 しかし逮捕によって彼の運命は変わります。15年の刑。アレックスは刑務所内でも人を殺します。このままではまずい、とさすがの彼も思い、ルドビコ療法に志願します。これは暴力に対して肉体が拒絶反応を示すように条件反射付けをするものです。「パブロフの犬」です。療法はうまくいき、アレックスは世の中に放り出されます。暴力のことを考えただけで吐き気がする状態で、彼がめちゃくちゃにしたことに対して恨みを持っている人たちで充満している世の中へ。で、反政府運動家たちによってアレックスは利用され、どさくさ紛れに“治って”しまう、ところで映画版はおしまい。ただし本書にはもう1章あります。「暴力」のシャワーを浴びる感覚と、人の自由意志についての考察と、なかなか微妙なところをついてくれる本です。
 
 アルジャーノンや孫悟空の輪のことを私は思い出しました。人の自由意志をねじ曲げることは、人が行なって良いのか悪いのか、行えるとしても技術的にできるのかどうか、できるとして誰がそれをコントロールするのか……考え始めるときりがありません。
 
 なお本書は、サイズがちょっと特殊です。普通の文庫本より数mm高さがあります。どうしてこうなったのかはわかりませんが。
 
 
25日(土)関銭/『興福寺』
 新宿駅で次から次へと出てくる人の流れを見ていたら、改札口で関銭を取ったら大もうけだな、とせこいことを考えてしまいました。
 
【ただいま読書中】
興福寺』(日本の古寺美術5) 町田甲一 企画、小西正文 著、 保育社、1987年、1600円
 
 先日上野で阿修羅展を見て興福寺にちょっと興味を持ちました。翌日のミニオフでお会いしたマイミクさんに「興福寺は明治時代にほとんど身売り寸前だった」と教えていただいたのも、この本を借りてくる原動力になっています。
 
 藤原鎌足が重病となった時夫人の鏡女王(かがみのおおきみ)が山階寺(やましなでら)を造営しました。その子不比等の時近江から飛鳥へ遷都され、寺も遷って厩坂(うまやさか)寺とされたそうですが、詳細は不明です。不比等の晩年に平城京遷都が行われ、寺も移され興福寺となります。私寺とはいえ、藤原氏ですから官寺とほぼ同等の扱いだったようです。
 春日神社は藤原氏の氏神です(創始は768年)。平安時代に神祇信仰は盛んになり、末法が説かれるようになると神仏習合から本地垂迹説が起き、寺院による神社支配が始まります。850年には氏の長者による春日祭が始まり社頭で読経が行われました。(後の強訴での、興福寺大衆による春日神木動座でもその“一体化”がわかります) 火災もたびたび起きました(元慶二年(878)からの218年間で7回焼けています)が藤原氏のバックアップでそのたびに再興しています。治承四年(1180)には平氏の南都焼き討ちで、東大寺とともに興福寺も焼失しています。武家によって所領は削減され、興福寺は力を失います。享保二年にも出火しましたが、再興は大きな負担でした。
 慶応四年には神仏分離令、明治三年には太政官布告で境内地意外はすべて上知となります(所領がなくなる)。廃仏毀釈の嵐が寺を襲い、瓦一枚一文で売られ五重塔は二百五十円で買い手がつきました。しかし明治十三年には「興福寺復称宗名再興願」が寺や藤氏から県令に出され、翌年復号許可が出ました。
 本書の後半は、お寺の建築・彫刻・絵画・工芸など、それぞれ写真つきで資料集となっています。読んでいて、奈良に(あるいは今だったら上野に)また行きたくなってきました。
 
 
26日(日)ケーキバイキングもどき/『魔法使いハウルと火の悪魔』
 二人だけののんびりした休日、「お昼ご飯、どうする?」と聞かれてふと思いついて「ケーキバイキングもどきにしよう」。わが家の近く(車で15分以内)に非常に美味しいケーキの店が3軒あるのですが、いつ行っても『すてきなフルーツパーラー(ぴことぽこのえほん)』よろしく「ぼくぜーんぶ食べたい」になってしまうのに買うのを厳選しなければならず欲求不満が貯まっていたのです。
 夫婦でるんるんと出かけて、大小取り混ぜ全部で8つ、3000円でちょっとだけお釣りがあるくらい買い込んで帰りました。箱を開けたら見ただけでお腹いっぱいになりそうな光景です。美味しい紅茶を淹れて次々食べました。お腹も一杯ですが、たまに変わったことをすると、それだけでも精神的にも満足できるものです。
 
【ただいま読書中】
魔法使いハウルと火の悪魔 空中の城1』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 西村醇子 訳、 徳間書店、1997年、1600円(税別)
 
 原題は“Howl's Moving Castle”ですから、映画のタイトルは原題通りです。
 正統派のおとぎ話の語り口で本書は始まります。帽子屋の長女ソフィーは親を失い、見習いとして働きますが、生活に張りがありません。ただ帽子を作り、帽子に向かって話すしかけるだけの毎日です。ゴシップもロマンスも、美味しいところは全部他人のものです。「何もかも長女に生まれたせいよ」とソフィーは思います。ところがある日、ソフィーは突然店にやってきた荒れ地の魔女によって18歳から一足飛びに90歳の老女に姿を変えられてしまいます。
 ソフィーは町の周辺をうろつく、評判がきわめて悪い魔法使いハウルの動く城に住み込みます。自分の呪いを解いてもらえるかもしれない、と思って。城を動かしているのは火の悪魔カルシファー。カルシファーは、自分を城に縛りつけているハウルとの契約を破ってくれたら、自分もソフィーの魔法を解いてやろう、と申し出ます。ただし、ハウルと火の悪魔の契約内容は秘密です。ソフィー(と読者)は、様々な“ヒント”からその契約内容を知る必要があります。
 そして、かかしです。もちろん出典は「オズ」でしょうが、私はウェストールの「かかし」を思い出してぞっとしました。かかしは動く城につきまといます。
 ハウルは多情な男でした。まるで何かに憑かれたかのように次から次へと若い女性を口説き、その心がこちらに向いたと見るや次の女性に向かうのです。ハウルの弟子のマイケルはそういった師匠の姿を諦念とともに受け入れています。ソフィーは拒否します。そんな態度は我慢なりません。そこで90歳のおばあさんらしくがみがみがみ。そこにソフィーの妹たちやハウルの別世界(ウェールズ)の家族のストーリーがからみ、荒れ地の魔女を退治しようとする王の計画からハウルが逃げようとするどたばたがあり、荒れ地の魔女はハウルに呪いをかけ、犬に変えられた人間が城に住み着き、そしてソフィーは自分も魔法が使えることを知ります。
 さて、ハウル対魔女、ハウル対ソフィー、魔女対ソフィー、さらにハウルと魔女それぞれの火の悪魔がからんだこの複雑な物語は一体どこに向かっていくのでしょうか。
 ……もちろん、ハッピーエンドです。おとぎ話は「そして二人は幸せに暮らしました」で終わるのですから。中身は見事にDWJになっていますが、その形はきちんと保存されています。そのミスマッチがまた素敵です。
 
 
27日(月)落ちる/『アブダラと空飛ぶ絨毯』
 高いところから落ちるにしても、恋に落ちるにしても、まずは一度高いところに上がって位置エネルギーを蓄えておく必要があります。最初から地べたにへばりついたままだったら、穴を見つけない限りどこに落ちることもできません。
 
【ただいま読書中】
アブダラと空飛ぶ絨毯 空中の城2』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 西村醇子 訳、 徳間書店、1997年、1600円(税別)
 
 ハウルが住んでいるインガリー国の南方ラシュプート国で堅実な絨毯商を営んでいるアブダラは、ひょんなことで空飛ぶ絨毯を手に入れます。絨毯につれられて出会った夜咲花という姫とアブダラは恋に落ちます。二人は駆け落ちをしようとしますが、それを邪魔したのはジン(魔神)でした。アブダラは姫の誘拐犯として逮捕され、脱走したら砂漠の盗賊たちに捕まり、とっても壜づめのジンニー(精霊)に出会います。ジンニーは一日に一つの願いを叶えてくれますが、とっても不機嫌で人に災厄がもたらされることを願っています。夜咲花の手がかりを求めてインガリー国に入ります。仲間となったのは、仕事を失った元兵士(当面の仕事は、強盗から強盗すること)。魔法が使えるらしい猫。そして絨毯は甘ったるいお追従がないと飛んでくれません。
 『空中の城1』はおとぎ話の枠組みを借りていましたが、今作はアラビアンナイトです。でも、DWJのことですから、ただの翻案やパロディではありません。ジンが王女を誘拐するのには、深い深?いわけがありますし、アブダラの行動はきわめて論理的です。ただし、使うのは夢の中の世界での論理ですが。
 そして、意外なところから意外な形でソフィーが登場。圧倒的な魔力を持つジンは、なんとハウルの動く城を乗っ取って宙に浮かべ、そこに世界中から攫ってきたお姫様を集めているというのです。アブダラはソフィーとともに空中の城に向かいます。
 いや、大団円はもう爆笑。ドンデンに次ぐドンデン。ハウルは意外なところにいるし火の悪魔もちゃんといました。飛ぶ絨毯がなぜお世辞が好きかのわけも明かされます。ジンは自分の望みを叶えられます。そして最後にまた意外な人物が意外な形で登場します。もう許してくれ、です。DWJは伏線を全部回収してくれます。その前にどのくらい読みとくことができるかが“勝負”の分かれ目ですが……私は相当負け越しました。でも良いんです。面白かったから。
 
 
28日(火)出す・隠す/『侍女の物語』
 ミニスカートで女性が膝より上を露わにして歩くようになったのは40年ちょっと前。直後にホットパンツというのも流行って、足はこれ以上はむき出しにできないぞ、と思いましたが、水着ではハイレグとかひも状のとかでそれこそこれ以上出すにはあとは脱ぐしかない、というところまで行ったようです。
 腰より上は、Tシャツ・ノースリーブ・名前は知りませんが肩むき出しのスタイル。それからお腹や背中も平気で出すようになりましたね。下着が見えても平気、という人も増えたようです。あとは街中で出すと言ったら、背中でしょうか。イブニングドレスでの先例がありますから、大きく背中をえぐって見せて歩く、というのが次の流行かもしれません。
 出すのではなくて上を覆って隠すのは、たとえばつけ爪。はじめはネールアートとか言っていたと思いますが、一々塗るのは面倒だし維持が大変だからワンタッチでつける方が人気になったのでしょうか。私は、爪の長さが、いつもより長くても短くてもキーボードのタッチが変わってしまって不快なので一定の範囲内でなるべく同じような長さと形になるように調整しますが、つけ爪の人はパソコンはばりばり使わないのかしら。
 そうそう、つけ爪があるのならつけ顔はどうでしょう。はじめから化粧が描いてあるマスクです。これだと朝のお化粧の時間が節約できます。男はひげ剃りがさぼれるかな。
 
【ただいま読書中】
侍女の物語』マーガレット・アトウッド 著、 斎藤英治 訳、 新潮社、1990年、1748円(税別)
 
 白人の出生率が壊滅的なまでに減少した近未来のアメリカ、出産能力を持った女性は「国家の財産」として扱われていました。本書の語り手は「司令官」の侍女としてその自宅に派遣されます。男性は身分に応じて女性を支給されるのです。たとえ妻がいても。
 もっとも、最初からそのような「背景」は本書では最初から明示はされません。「わたし」が淡々と物語る「日常生活」(あるいは世界がこのようになる前の思い出、あるいは世界がこうなって欲しいという夢想、失った夫や娘への痛切な思い)を通して、読者の内部に少しずつそのディストピアが構築されていきます。
 この世界では戦争(おそらく宗教戦争)があり、戒厳令が敷かれている様子です。街中には検問所があり、ちょっとでも怪しいそぶりの人間は容赦なく射殺されます。娯楽はなし。雑誌もなし。男性のスポーツはOK。教会での集会は奨励というか義務。女性は「保護」の対象ですが、全身をすっぽり覆い顔も「天使の羽」と呼ばれる白いベールで覆います。「反逆者」は死体となって壁の鉤に吊されてさらされます。しかし「わたし」を脅かすのは、むしろ救済の可能性の方です。
 侍女たちの間には不完全ながら噂のネットワークがあり、テレビからは不完全なニュースが流されます。そして司令官が「わたし」に望むのは、一緒にスクラブルをすることと優しいキス。(ちなみにどちらも禁じられています。そもそも二人だけで過ごすことも禁止されているのです。子作りの時には妻が同席します)
 
 女性はいくつもの職業(階級?)に分断されています。外出を許されていない女中・夫が侍女と小作りをするのを容認しなければならない妻・便利妻・コロニーに送られる(あるいは抹殺される)不完全女性(出産の可能性がない女性)……そして、侍女。
 怖いのは、そういったディストピアが条件さえそろえば今の社会の延長上に実在し得るということだけではなくて、それが2世代も過ぎれば固定化される(“それ”しか知らない人によってその社会が継続される)可能性があることです。本書でもそのことへの言及があります。だからこそ「わたし」は奪われた自分の娘の運命を気にかけるのです。そして私は、自分たちの将来を気にかけます。
 さらに「物語り」の問題があります。この物語は一体誰に向かって語られているのか。どこで、誰が? それは本書の最後に明かされます。ただし、この終章が真実である証はありません。
 
 
29日(水)攻撃は最大の防御/『呪われたセイレム』
 声高に他人の責任を熱心に追及する人は、自分が追及されたら困る、と心の底では思っています。
 
【ただいま読書中】
呪われたセイレム ──魔女呪術の社会的起源』ポール・ボイヤー/スティーヴン・ニッセンボーム 著、 山本雅 訳、 溪水社、2008年、3500円(税別)
 
 セイレムの魔女狩りと言えば有名ですが、本書はちょっと珍しいアプローチをしています。ほとんど研究者には無視されている、当時の村に残された大量の一次資料(遺言状、土地証書、訴訟供述書、牧師の説教ノートなど)を実際に読むことで当時の「普通の人の普通の生活」を再構築し、その上に「魔女狩り」を位置づけようというのです。
 1692年イギリスの植民地マサチューセッツのセイレム村で、少女たちが奇妙な行動をしました。それはあっという間に村全体の「魔女狩り」になり、19人が処刑、逮捕投獄された者は約150人となりました(告発されたのは数百人)。ストップをかけたのは、牧師たちの組織的介入でした。「証拠によって有罪判決を下せ」という主張です。ただし、魔女呪術や生き霊に関する「証拠」は、法律で扱うのは困難です。現代の私たちは「魔女を信じるなんて迷信」を出発点として判断をしがちですが、違う出発点に立ちそこで論理と法律と信仰と良心に従う人がどのように判断したかを軽々に扱うことはしない方が良さそうです。
 ことの始まりは、女の子たちの占い遊びでした。自分たちの将来を知るための占いです。ところがこれが「悪魔の道具を借りている」と指弾され、そこで彼女らは(魔術の)「被害者」となります。では「加害者(悪魔のしもべ)」はどこに? 女の子たちは村人を次々指します。同時期のノーサンプトンでは、同様の女の子の奇矯な行動や「発作」は、宗教的覚醒と解釈されコミュニティの信仰復権運動に発展しました。つまり要点の1は「大人の若者への態度」だったのです。では「セイレムの大人たちが置かれていた状況はどのようなものだったのか」を知る必要があります。そこに本書の意義があります。
 エルサレムとはエル(町)+サレム(平和)の意味で、セイレムはそのサレムを語源としています。1626年に商業の町として始まり、30年以降のピューリタン入植者によって町は栄えました。町への食料供給のために奥地が開拓されましたがセイレム村はその開拓地の一つでした。村は町によって行政的にも宗教的にも支配され、その“独立運動”は長期間にわたってしまいました。村と町は対立し(政治的に町が村を支配し、さらに町は貿易の中心として大発展し村との経済格差が広がっていました)、村の中でも勢力争いがあり(特に有力な家が二つ対立していました。また地域的な対立もあります)、村と別の周辺地域との間でも境界争いがありました。そこに教会も巻き込まれています。牧師は反対派の手によって次々交代させられていました。悪意を持って他人の足を引っ張る人々、それは反対派からの目には文字通り「悪魔の手先」に見えていたことでしょう。ピューリタンの牧師パリスは、はじめは悪を行う人を「悪魔と契約をした」と見なしましたが、魔女裁判の経過中に「すでに堕落しているためにその行動を説明するために悪魔は不必要」と考えを変えています。特に本書で印象的なのは「告発された人」「告発した人」「弁護する人」を村の地図にプロットしたら、一定の「ゾーン」が見えるようになることです。つまりヒステリックに手当たり次第に“隣人”を告発していたわけではない、ということが可視化される(見える)のです。“魔女騒ぎ”は実は村内での勢力争いの上に成立していたのでした。
 また、本書では明確に書かれていませんが、イギリスが植民地から少しずつ手を引こうとしていたこともこの事件に何らかの影響を与えているはずです。単に「遅れた人々の集団ヒステリー」とは見ない方が良さそうです。
 
 
30日(木)魂のカケラ/『顔をなくした少年』
 仕事帰りに坂道を下っていくと、ちょうど眼下の市街地が夕陽にスポットライトのように赤々と照らされていて「太陽に向かって坂を下っていく」というフレーズが頭に浮かびました。私の中にも「詩人の魂」のカケラくらいはあるようです。まるでかちかちの干し柿のようになってしまっているのが、残念ですが。
 
【ただいま読書中】
顔をなくした少年』ルイス・サッカー 著、 松井光代 訳、 新風舎、2005年、1500円(税別)
 
 親友のスコットがつきあい始めたグループは、いわゆる不良あるいはいじめっ子グループで、彼らに自分も「クール」だと言われたいと思ったデーヴィッドは一緒に一人暮らしをしているおばあさんの持っている杖を盗みに行きます。しかし、グループが花壇を踏みにじりおばあさんをひっくり返してパンツを丸見えにしレモネードを顔にぶちまけ水差しと窓ガラスを割り杖を盗んだのに対して、おばあさんはデーヴィッドにだけ呪いをかけます。「おまえのドッペルゲンガーがおまえの魂を吸い上げてしまうだろう!」
 スポーツも学業もぱっとせず、といって悪いことにもためらいを見せるデーヴィッドは学校でいじめの標的になりますが、そんなことを気にしないラリーが新しい友人となります。イジメが大嫌いな女の子モーとも仲良くなります。ラリーはモーのことが好きで一緒に行動するようになりますが、それがまた「三バカ大将」としていじめの対象となります。さらに「呪い」が発動します。ボールを投げたら家の窓ガラスを割り、授業中ひっくり返ってしまい、ズボンのジッパーが下がっていてパンツが見え(これもまたいじめの対象となります)、実験でビーカーを割ってしまいます。さらに小麦粉をかぶってしまいます(これはflourとflowerのシャレかな?)。
 デーヴィッドは恋をします。相手はミス・ウィリアムズ。いや、トーリです。デーヴィッドはうじうじと悩みます。どう見ても相思相愛なのに、一挙一動一言にデーヴィッドはうじうじうじうじ(白昼夢のオンパレードが笑えます)……ああ、青春だなあ、と私は呟きます。懐かしい日々が思い出されます。デービッドはトーリをデートに誘うこともできません。断られるのもこわいし、もしOKされてもその最中に呪いのせいでひどいことになるのも怖いのです。デービッドは何もできません。そしてデービッドは、ラリーが言う「面目を失う」の意味がわかります。自分は「顔」を失ったのだ、と。やっと勇気を振り絞ってトーリに電話番号を聞こうとした瞬間、ヒモがほどけてズボンがずり落ちてしまいます。
 デーヴィッドは最後の勇気を振り絞り、おばあさんの家を再訪します。謝るために。おばあさんは言います。「杖を取り返しておいで」。
 デーヴィッドはトーリにもすべてを告白します。ここは深刻になるべき場所のはずですが……笑えちゃうんですよ。著者の“腕”は一級です。そして最終章で150年跳んでしまう前のセリフ……「あなたは親切で、考え深い、思いやりのある人だわ。私たちの生きているこの冷たい世の中では、たぶんそれが呪いなのかもしれない。あなたは詩人の魂を持っているのよ」……どんなに優秀でも詩人の魂を持たない人間もいれば、そういった人たちに「マヌケ」と呼ばれながらも詩人の魂を持つ(そしてそれを理解してくれる友人を持つ)人もいる……ただそれだけのことなんでしょうね。
 ちょっと思わせぶりなストーリー展開ですが、けっこうストレートな青春物で、爽やかな読後感です。