09年5月
 
1日(金)羞恥心/『出産』
 過去の日本は“異世界”です。私自身、ほんの数十年前の子ども時代のことを思い出すだけで隔世の感があります。たとえば……昭和30年代には人前での授乳は珍しいことではなかったし、下着姿(男はステテコ、女はシミーズ姿)の人が夏は家の外をうろうろしていることもそれほど珍しいことではありませんでした。それが今ではそんなことをしたら「恥ずかしい」。ところが人前では平気で化粧しています。これは「羞恥心が変化した」としか言いようがありません。で、それを「どうしてそう変化したのか」を分析研究するのが民俗学なのでしょう。
 
【ただいま読書中】
出産 ──産育習俗の歴史と伝承「男性産婆」』板橋春夫 著、 社会評論社、2009年、2000円(税別)
 
 本書は民俗学の本です。著者は大学で学生たちに「自分が生まれたときの聞き書き」をレポートとして課すという面白い授業をしていて、そのサンプルを読むだけで「これぞ民俗学」と言いたくなります。このレポートを何年も集積していったら、それだけで民俗学の本になりそうです。
 
 本書では、主に群馬県の習俗が具体的に取り上げられています。たとえば夫のつわり(東北地方では「男のクセヤミ」と呼ばれたそうです)。後産で生まれる胎盤を胞衣(えな)と言いますが群馬では自宅の敷地内に埋めたり昭和35年ころまで胞衣屋が回収して渡良瀬川の河原で焼いていたそうです。獅子舞で使った布を産着にする風習は昭和60年頃まで残っていました。
 魔除けとして行われる初宮参りは生後30日前後で行われますが(男女によって差がある地域があります)これは同時に「忌み明け」の意味もあったそうです。赤子の便所参りという珍しい行事も紹介されています。お食い初めは生後100日目頃(これまた男女差がある地域あり)ですが、河原で拾ってきた石を食べさせるふりをする「歯固めの石」というものがあるそうです。初誕生の儀礼では一升餅を背負わせますが、もし上手く歩いたら大人がわざとその子を転ばせるようにしたそうです。
 
 本書では八戸藩の上級武士の「遠山家日記」から出産の部分だけがピックアップされて紹介されていますが、面白いのは「産婆」が「コシダキ」と「トリアゲババ」の区別があることです。座産で後ろから産婦の腰を抱く人と前で赤ん坊を取り上げる人とに分業をしていた(支払いにも区別があった)のです。
 男もお産に参加していました。具体的な「トリアゲジイサン」は最初の論文には2人登場します。一人は前橋市粕川町込皆戸(こみがいと)の中谷金造さん(1866?1942)。本職は伯楽(馬医者)ですが、その腕を見込まれて出産を依頼する人が地域には多かったそうです。もう一人は新潟県南魚沼郡湯沢町土樽の原沢政一郎さん(1885?1969)。普段は新聞配達をしていましたが、村中が出産の依頼に来て、酒一本程度の謝礼で引き受けていたそうです。地域の人も「男だから」と特別視せずに、「上手だから」「力があるから」と普通に頼んでいた様子です。次の論文には男性産婆が群馬県に5人は実在していたことが紹介されます。さらに研究が進むと、他の地域(青森県、山形県、新潟県、静岡県、三重県、愛媛県、長崎県)でも男性産婆が見つかります。「出産は女だけの世界」と限定してから「男も参加しろ」というのは、きわめて「近代的な態度」なのかもしれません。
 
 
2日(土)ナチュラル/『魔法使いは誰だ』
 イギリスの素人のど自慢番組から彗星のごとく登場した歌手ポール・ポッツのデビューアルバム「One Chance」が届いたので繰り返し聞いています。専門的な訓練を受けた人ではありませんからテクニック的には未熟な面が見えます(聞こえます)が、彼の魅力は声質や発声のナチュラルさにあると私は思いますので、だとするとナチュラルさと専門的なうまさの両立を求めるのは矛盾と言えそうです。
 しかし……日本ののど自慢で「オペラを歌います」と言ってとてもうまく歌えたとしても、ここまで高く評価されるでしょうか。イギリス人って、どこか不思議です。
 
【ただいま読書中】
魔法使いは誰だ』(大魔法使いクレストマンシー)ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 野口絵美 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、2001年、1700円(税別)
 
 「魔女たちの反乱」以降魔法が禁止されていて魔法使いはその魔力の大小にかかわりなく死刑になる世界。ラーウッド寄宿学校の(日本だと中1くらいに相当する)2年Y組には、親が魔法使いとわかって処刑された子やその他の問題を抱えた子どもたちが集められていました。ある日「このクラスに魔法使いがいる」というメモが見つかります。それが本当だったらえらいことですし、嘘なら何のためにそのようなメモを? クラスの子どもたちや教師たちは、それぞれの思惑で動き出します。
 今回はクラス一つ丸ごとが描かれます。一人一人を追うのも大変ですが、全員キャラが立っていて、しかも一筋縄ではいかない連中です(基本的に“無邪気で素晴らしい子”はいません、こちらの現実と同じように。ただ、イジメの場面などでは“魔法”がかかっています、こちらの現実とは違って)。ただ、子どもにとって「魔法使いだ」という“告発”は、重すぎます。下手すると疑いだけで死刑なのですから。それをいじめっ子たちは見逃しません。他人がいやがるあるいは恐怖を感じることが大好きなのです。からかうふりをしてイジメの口実に「お前は魔法使いに違いない」を使い続けます。“教師の前では良い子”にだまされやすい教師は、あっさりその手口に乗ってしまいます。
 自分が魔法使いだ、という自覚を持った子どもたちは、魔法使い援助組織(そんなものがあるのです)に助けを求めます。そこで得た救いの呪文を唱えると現れたのは、洒落のめした伊達男、クレストマンシー。パラレルワールドをいくつも越えて呼び出されたクレストマンシーは驚きます。この世界はあまりに異常なのです。魔力が満ちあふれているのに魔法が違法とされ、魔法使いは普通の人に易々と捕まって火あぶりになっています。この異常の原因は過去にあるとクレストマンシーはにらみ、世界を是正することに取り組みます。しかし過去をどうやっていじるのでしょう。いくら強力な魔法使いでも、できることとできないことがあります。ただ、その日は魔力が高まるハロウィーンの日。クレストマンシーは全力をふるいますがまだ力が足りません。しかし……
 そして最後に、またメモが見つかります。「このクラスに魔法使いがいる」。みごとなエンディングです。
 
 
3日(日)怒りすぎ/『クリストファーの魔法の旅』
 誰かが怒りとともに何かを攻撃している姿を見るとき、私は怒りをぶつけられている対象だけではなくてその「怒り方」も見ます。「そこまで怒る必要があるのか」というくらい怒っている場合には、「怒られている何か」になにか怒られるべき問題があるだけではなくて、「怒っている誰か」の方にも「そこまで怒らなければならない」何か大きな問題があるのではないか、と想像できるものですから。
 
【ただいま読書中】
クリストファーの魔法の旅 (大魔法使いクレストマンシー)』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 田中薫子 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、2001年、1700円(税別)
 
 「クレストマンシー」とは大魔法使いの称号です。『魔法使いは誰だ』で登場したクレストマンシーはクリストファー・チャントという青年でしたが、本書は彼の少年時代のお話です。
 政略結婚をした上流階級の父親と金持ちの母親との間は上手くいっていませんでした。クリストファー少年は寝ている間にあちらこちらの世界を旅することができるようになりますが、それを知った母の兄ラルフは商売にクリストファーを利用しようとします。12系列ある異なる世界の間での貿易です。
 クリストファーは第10系列の世界で、神殿に住む「女神」と呼ばれる少女と友達になります。もう一人の友は、ラルフから金をもらってクリストファーの旅を助ける青年タクロイ。ただしタクロイはクリストファーに心を開こうとしません。寄宿学校でクリストファーは初めて同年代の友を得、はじめは「千一夜物語」ついでクリケットに夢中になります(やはりイギリスですね)。授業は楽しいのですが、ただ一つ魔法の授業だけは何をどうやっても上手くいきません。しかし、ついにその才能が気づかれる日が来ます。彼には大魔法使いの素質があったのです。連れて行かれたのはクレストマンシー城。子どもの来る場所ではありませんが、彼は次のクレストマンシーとして訓練を受けさせられてしまいます。ところが守りの呪文でがっちり固められているはずの城で彼は何度も事故に遭い命を何度も落とします。
 さらに、「女神」が何をどうやったのか12系列の世界に逃げてきます。さらにさらに、クリストファーがだまされて密輸の手伝いをしていた悪党の親玉が、城の魔法使いたちの魔力を奪ってしまいます。城を守る力を持っているのは、子ども二人と裏切り者一人、そして魔法の猫だけ。しかもそこに「女神」を探索する神殿の兵隊たちが押し寄せてきます。さらにクリストファーは、行った者が誰一人帰ってきたことがない第11の世界に出かけなければならなくなります。そこは非人間的な大魔法使いが支配する世界なのだそうです。とんでもない窮地です。さて、クリストファーはどうやってこの二重三重の窮地を切り抜けることができるのでしょうか。
 
 
4日(月)記録/『環境リスク学』
 記憶はいい加減なもので、どんどん自分に都合良く書き換えられていきます。だけど記録はそこまで“柔軟”ではありません。たとえば「環境ホルモン」に対して、10年前に自分がどう反応していたか覚えていますか? 私は当時@niftyで「貝や魚が女性化することと人への悪影響とが直結しているのか?」と書いた覚えがあります(探せば記録が出てくるでしょう)が、当時賛成してくれる人は少なかったことも覚えています。世間は「環境ホルモン……きゃ?こわい」一色だったから仕方なかったでしょうが。で、環境省は「環境ホルモンのリスト」をいつのまにかこっそり削除して「なかったこと」にしていますが、そのことは「記録」しておかなくちゃいけません。私自身、こうやって「記録」を残すことで自分の意見の正しさや強度を常に自問することになるのはちとしんどいのですが、それでも記憶をさっさと書き換えて「なかったこと」にするのはイヤです。
 
【ただいま読書中】
環境リスク学 ──不安の海の羅針盤』中西準子 著、 日本評論社、2004年(06年7刷)、1800円(税別)
 
 「30年間、環境問題にとりくんできたが、私の意見は、常に最初は誰からも理解されなかった。ひどい孤立と誹謗中傷の中で数年じっとしていると、いつのまにか私の意見の方が多数意見になっていくるという経験を何回もしたからだ。世論は変わるのである」
 著者は最初河川研究から環境リスク学の道をスタートさせました。当時進められていた大規模下水道に対して「人口密度によって、個別・中規模・大規模の下水道を作り分けた方がよい」とデータを示したところ、露骨な妨害を受けます。お役所は大規模な下水処理場を作りたくて仕方ないのに、著者の研究がそれにブレーキをかけてしまうのですから。
 「ダイオキシン」に関しても、10年以上前に「ダイオキシンは極悪だ」という世評に異議を唱えたときには、こんどは市民団体などから抗議や脅迫がきたそうです。これにお役所も同調します。お役所は大規模なゴミ焼却場を作りたくて仕方ないのに、著者の研究がそれにブレーキをかけてしまうのですから。(そういえば、10年前に「ダイオキシンはこわいこわいこわいこわい」と絶叫していた人は、今も同じことを続けているのでしょうか?)
 
 リスク評価・環境ホルモン問題・BSEなどが述べられたあと、本書の最後には、魚食・DDT・ラドン・アフラトキシン・騒音・貧困・鶏卵経由のサルモネラ・電磁波などが個別に短く取り上げられていますが、どのようなものにもなんらかのリスクがあり、それを別の物に変えたらそちらには別のリスクがある、の連鎖となります。たとえば無農薬農業で収量を維持するために農地を広げたら、それは環境破壊を起こします。シロアリ退治の薬剤を、発ガン性があるものを禁止したら新しい薬剤には神経毒性がありました。さらに「コスト」の問題が絡みます。「コスト」とは金銭的なコストだけではなくて社会的に人が耐えなければならない様々な“犠牲”も意味しています。単純な二者択一では「リスク」は評価できないのです。「ファクト」に基づき、データを解析し、本来予測不可能な未来を予測する、それが「リスク評価」です。
 そこで重要な概念は「ハザード」と「リスク」です。「その物質自身が持つ毒性」はハザード。人の健康への影響(リスク)は、物質の毒性の強さと摂取量で決まるから、強いハザードでも摂取量が小さければリスクは小さくなります。そのもの自体と確率とのかけ算をする必要があるのです。
 
 著者によると「不確かなことが多いからたしかなリスク評価ができない」は日本語として成立していないそうです。不確かな要素を持つからこそ「リスク」という概念が登場したのだ、と。リスク評価には「摂取量の評価」と「毒性評価」が必要ですが、後者がないばあいにも「リスク比較」「リスクランキング」という手法が用いられます。評価する問題を絞り込み影響の大きさを比較するという(完璧ではなくても)その時点でできる最善を尽くして評価をしていく、と。それができなかったら「為政者の気分」で規制が行われることになります。今までの日本はずっとそうでした。その結果がどうだったか、少しでも記憶力がある人には説明は不要のはずです。記憶力がない人には説明しても仕方ないですね。どうせすぐに忘れられてしまうんだから。
 
 
5日(火)切り札/『魔女と暮らせば』
 ダイアナ・ウィン・ジョーンズの本を最近集中的に取り上げていますが、読んでいてどの本でも「魔法」が「切り札」(ギリシア演劇でのデウス・エクス・マキナ的な存在)として使われていないことに気がつきました。「魔法さえできれば何でも可能になる」のではないのです。魔法には魔法の規則と限界があり、それを勝手に破ることはできません。そして、魔法を使った場合にはそれは「良いこと」だけではなくて「悪いこと」ももたらす可能性があることを、魔法の使用者は覚悟しなければならないのです。物語り進行上ある意味非常に厳しいツールです。まあ、だからこそDWJの作品は安心して没入できるんですけどね。
 
【ただいま読書中】
魔女と暮らせば (大魔法使いクレストマンシー)』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 田中薫子 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、2001年、1700円(税別)
 
 船の事故で孤児となったキャット(エリック・チャント)は、偉大な魔法使いの素質を持つ姉グウェンドリンと一緒に町の世話になって暮らしていました。姉にあこがれを感じていますが、キャットには魔法の素質はありません。
 ……ここで私は早速引っかかります。「チャント」だって? これまでのシリーズで登場したクレストマンシーの本名はクリストファー・チャントです。ということはこれは明らかに「伏線」ですが、ちょっと目立ちすぎ。しかも魔法が使えない男の子、で、左利き……これもきっと伏線だな……まあ、あまり考えすぎずに、と思ってページをめくると、あらあら、そのクリストファーが登場して二人を引き取っていくではありませんか。グウェンドリンは有頂天です。自分の才能がクレストマンシーに認められたのだから、これでどんどん魔力が向上して最後には世界を支配できるはず、と信じ込んだのです。ところが当て外れ。クレストマンシー城は冷ややかに二人を迎えます。魔術の授業も受けられません。グウェンドリンはかんしゃくを起こし自分の力を見せつけようとしますがクレストマンシーたちにいなされ、ついにキャットを置き去りにして他の世界の“自分(に相当する存在)”と入れ替わってしまいます。かわりに登場したのは別世界(アメリカや自動車が存在するところを見ると、どうも私たちの世界のようです)の少女(魔法が使えない)ジャネット。キャットはジャネットの存在を隠そうとしますが、嘘が嘘を呼び事態はどんどん悪くなります。さらにグウェンドリンの悪だくみが発動し、城に悪意を持った多数の魔法使いや魔女や妖術使いが集まってきます。そしてキャットはその手助けをしなければならない羽目に。
 著者は猫好きのようですが、本書ではわざわざ主人公にキャットと名付けたことさえ伏線となっています。作中で登場人物は呪文でがんじがらめにされてしまいますが、本書では読者が伏線でがんじがらめです。ただ、なぜキャットに魔力がないのか、その真相は実は最初からきちんと描写されています。もちろん伏線の呪文がかけられていてなかなかその結び目がほどけないのですが。
 ああ、この「結び目がほどけないいらいら」が、快感です。
 
 
6日(水)疑問形?/『トニーノの歌う魔法』
 ラジオで女性アナウンサーが地方のあちこちを尋ねるコーナーをやっていました。そこでなにやら珍しいものを「○○はこの地方の名物で美味しいですよ」と勧められて一口「美味し?い。私って、○○を食べるのは初めてじゃないですかぁ。だけど……」
 聞きながら私は吹き出しました。勧めたおばちゃん、「私って初めてじゃないですか」と言われてどんな顔をしているんだろう、と想像して。初対面の人がそれが初めてかどうか、誰も知りませんがな。
 “日本語”だったら「私は初めて頂いたのですけれど……」じゃないかなあ。
 
【ただいま読書中】
トニーノの歌う魔法 (大魔法使いクレストマンシー)』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 野口絵美 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、2001年、1700円(税別)
 
 「この世界」ではイタリアは小さな都市国家の集合体です。その一つカプローナでは呪文づくりが盛んでしたが、その中でもモンターナ家とペトロッキ家の両家が筆頭でした。そしてこの両家はおたがいに憎み合っていました(はい、『ロミオとジュリエット』です)。大公は芝居に夢中で太后は腹に一物ある様子、そしてカプローナを守る魔力が衰えを見せ、フィレンツェ・ピサ・シエナなどが少しずつ周囲からしめつけを強めてカプローナは譲歩一辺倒となっています。
 モンターナ家のトニーノは、本好きですが呪文に関しては腕が悪い少年です。しかし一家の守り神である猫ペンヴェヌートと会話ができるおかげで家族からは一目置かれています。一家の大切な娘ローザは婚約しますが、その相手には何か謎があることをトニーノは知ります。戦争が始まり、イギリスからクレストマンシーが到着します。戦争に勝つ(少なくとも負けない)ために必要なのは、カプローナを守る天使が歌う歌の歌詞です。メロディーは残っているけれど、歌詞が失われているのです。
 あ、わかった、と私は呟きます。だからタイトルが「トニーノの歌う魔法」なんだな。どんな予想をしてもそれを上回るストーリー展開をDWJにされてしまうのはわかっていますが、とにかく途中に何があっても(おそらくロミオをジュリエットもあるに違いありませんが)、結末ではトニーノが歌うのです。
 しかし本書でも魅力的な人物が次から次へと登場します。私の一番のお気に入りは料理担当のジーナ伯母さん。絶叫と文句ばかり目立ちますが料理の腕はピカイチ。この人が登場すると私はにやついてしまいます。さらに、「人の名前を間違えてばかりいる人」が本書にも登場します。DWJは「そういう人を必ず登場させる」とこのシリーズの決めごとにしたのかな。
 で、ストーリー展開ですが……やっぱりDWJは私よりもはるかにはるかに上手です。どうしてここまで面白い話を書けるんだろう、とこちらは楽しむだけです。クレストマンシーシリーズはこれでおしまいですが……え、番外編があるって? 図書館で探さなくっちゃ。探索とか引き寄せの魔法が欲しいなあ。
 
 
7日(木)新しい図書館/『がんばれカミナリ竜(上)』
 職場の帰りに寄っている市立図書館はそろそろめぼしい本を読み尽くしてしまったのに新規購入が少なくて、書庫から出してもらうか……でも検索が面倒だなあ、となっていました。県立図書館は専門書も多くて新規購入も多いのですが、ちと遠いのが難点です。
 そこに朗報。職場のすぐ近くの大学で図書館を一般公開していることを最近知り、さっそく仕事帰りに寄ってみました。きょろきょろしながら入館したら……うほほ?い、です。さすが大学。教科書や副読本レベル以上で各種の専門分野の本がずらり。一般書もけっこう充実しています。一般人は1回に3冊しか借りられないのですが、県立・市立と組み合わせたらとりあえず本をバラエティ良く借りるスケジュールはうまく回転できそうです。
 ただちょっと気になったのは、利用者がずいぶん少ないこと。私がいる間にも見かけた学生は二人だけ。蔵書には貸し出し記録(日付だけ)がついているのですが、私が興味を引かれて手に取った本はどれもまったく貸し出し履歴がありません。手ズレもついていません。
 もったいないもったいないもったいないもったいない。学生さん、もっと本を読め?。
 ちなみに本日の読書日記は、そうやって初めて図書館から連れ出してもらったらしい、表紙はそれなりに古びていますが中はあまりにきれいな本です。
 
【ただいま読書中】
がんばれカミナリ竜(上)』スティーヴン・ジェイ・グールド 著、 廣野喜幸・石橋百枝・松本文雄 訳、 早川書房、1995年、1805円
 
 「ナチュラル・ヒストリー」誌に連載されたおなじみのエッセー集ですが、著者自身が(本書がそのシリーズの5冊目ですが)「本書こそ五冊中最高だと臆さずあえて断言しよう」とプロローグで高らかに言ってくれます。
 しかし初っぱなが「ジョージ・カニングの左の尻と種の起源」……もうタイトルを見ただけで笑ってしまいます。中身はそれほど笑えませんでしたけれど。相変わらず野球の話題も出てきますが、今回は野球の起源についての考察です(「クーパーズタウンの創造神話」)。タイプライターを進化論的に考察した一篇もあります(「テクノロジーにおけるパンダの親指」)。そういえば「パンダの親指」自体が面白いエッセーでしたね。これは「進化の頂点には最適な生物が来る」わけではないことを、タイプライターのキー配列が使いにくい「QWERTY配列」であることを進化論的に説明する、「使い古された材料を新しい調理法で提示する」という、エッセーを書き慣れた人間でないと絶対失敗するやり方で処理した作品です(もちろんグールドはちゃんと成功しています)。ここを読みながら私は「マイクロソフト社にも同じことが言えるな」と思っていました。「偶然」と「現にそうであることの強み」によって「最適ではない」ものが独占的な地位を得る、これこそが「進化」なのです。
 ちなみに本書には(上下巻ともに)「がんばれカミナリ竜」というエッセーは存在しません。「がんばれプロントサウルス」はありますが。これは「アパトサウルス」と「プロントサウルス」との命名に関する論争の一篇ですが、著者の筆があまりに好調なので、私は笑い転げてしまいます。とくに「管理者が規則を運用する場合」についての注意が非常に印象的でした。厳格な規則と寛容で円滑な運用とを両立させるための大きなヒントが示されています。
 「フォックステリアのクローン徐々に広まる」では、教育に対する懸念が表明されます。生物の教科書で、ラマルク・ダーウィン・キリンの首・ガの工業暗化・ウマの骨格の変遷……がまったく無批判に繰り返し続けていることを、誠実さを欠いた知的に安易な道を選ぶ態度、と強く批判しているのです。そこには、創造論者への配慮から「進化論は広く受け入れられているが、他の考え方もある」とか「ヒトは他に類を見ない存在だが、多くの科学者はヒトにも進化の歴史があると信じている」とか記述されていることへのいらだちもあるのでしょう。私も高校で、「ラマルク、ド・フリース、ダーウィン、ガの工業暗化、ウマの骨格変遷」は習った覚えがありますが、創造論は幸い知らずにすみました。ただ、歴史教科書ではアメリカの創造論と進化論の対立に相当するものがありましたが。
 そして「マダム・ジャネット」。これは叙情詩です。音楽への愛と大切な思い出。豊かな人生とはどのようなものか、ここに一つのモデルがあります。そして、その「お裾分け」がこれらのエッセー集でしょう。進化論とは直接関係ない読者も、このエッセーをきっかけに自分の人生を振り返り「豊かな日々」があったことを思い出せる、そんな素晴らしいエッセー集です。
 
 
8日(金)ルールの厳正さと寛容さ
 ルールはきちんと運用されるべきです。その場その場で適当に解釈されるのならそれはルールとは言えません。しかし、あまりにがちがちに隅から隅まで決めて、狭量な教条主義者や形式主義者だけが大喜びするようなものにしてしまったら、そこで多くの人は不幸になります。
 「公正を期して作られるのが法律だが、そのあまりに厳正な実施は不公正につながる」古代ローマの格言です。
 では「管理者の寛容な対応」と「ルールに則った事務の円滑な進行」とを両立させるためにはどうすればいいか、が問題となります。私はルールの運用者(管理者)が(教条主義者や形式主義者以外の多くの人が納得のいく)「十分な理由」が示せれば、必ずしもルールの文言どおりではない対応をしても構わないと思っています。もちろん「ルール破り」を勧めているわけではなくて、「寛容」と「ルール」の両立のために、です。ルールは基本的に個人と共同体の利益のために存在しているのであって、ルールが「ご主人様」ではないのですから。
 
(最近書いたメールの内容をちょいといじって日記に流用しました。決して手抜きではありません)
 
【ただいま読書中】
深海のYrr(イール)(上)』フランク・シェッツィング 著、 北川和代 訳、 ハヤカワ文庫、2008年、800円(税別)
 
 三分冊ですが、三冊を並べると帯の文句がつながって「ドイツで『ダ・ヴィンチ・コード』からベストセラー第1位の座を奪った驚異の小説、ついに日本上陸」と読めるようになります。なんでも200万部もベストセラーになったのだそうで。日本でハヤカワ文庫がそこまでのベストセラーになることはないよなあ、と、文庫ではハヤカワを一番たくさん買う人間としてはちょっとため息をついてしまいます。
 
 海で何かが起きています。ペルー沖で伝統漁法の漁民が遭難します。ノルウェー沖の深海で、メキシコ湾で発見されたのと似たしかしはるかに巨大な新種のゴカイ(メタンを食べるバクテリアを餌としている)が大量に発見されます。カナダ沖では、鯨の回遊が異常なほど遅れていました。しかもやっと現れた鯨は異様な行動をします。外洋で貨物船が貝に襲われ、救助に行ったタグボートは鯨に襲われます。
 魅力的なオープニングですが、厚みのある文章での人物描写も魅力的です。各地で海と関わっている人たちの生活と性格と対人関係とがさりげなくしかしけっこう濃厚に描かれていきます。しかし、50代の人間が主要な役割を振られて登場するとは、ちょっと嬉しくなります。
 さらに深海での油田開発とメタンハイドレートに関しての予備知識が慎重に読者に与えられます。
 深海で“怪物”がその一部を見せます。鯨たちが様々な種類が団結したかのように船を次々襲い始めます。漁船の遭難が続きます。毒クラゲが異常大量発生します。海での死者・行方不明者・負傷者が多数出ます。エビやカニが有毒となります。
 ノルウェーの海洋生物学者ヨハンソンはゴカイの問題に最初から関わっていましたが、考え始めます。何かこれらには「関連」があるのではないか、と。読者にはそれが見えています。「謎のゼラチン質」です。
 さらに、海底のメタンハイドレート層が崩壊し始めます。それも各地で。
 ヨハンソンは「陰謀論」を頭の中で弄びます。それが現実にあるのではないか、と恐れながら。
 
 人類が地球上の他の生物に襲われる、と言えば、ヒッチコック監督の「」や『トリフィドの日』(ジョン・ウィンダム)が“定番”でしょうが、「地球上の生物の多くがそろって異常行動をするようになり、そして人間が襲撃される」といえば私がすぐ思い出すのは『パンドラ』(谷甲州)です。
 私の記憶ではたしかあちらでは鳥・海洋・ジャングルなどが描写されてから宇宙にまで話が広がっていきました。それに対して、本書では最初にちょっと宇宙についても話題が出ますが、主舞台は人類にとっての未知の世界「深海」です。宇宙と深海はどちらも人間が簡単に踏み入れない世界ですから、ホラーの舞台としては最適とも言えますが、ちょっと知識が浅い人がつついたらすぐに馬脚が現れてしまう怖いところでもあります。本書ではすごいですよ。著者の博識は並みではありません。
 
 
9日(土)♯と#/『深海のYrr(イール)(中)』
 「♯」は「シャープ」です。「#」は「いげた」。さて、携帯電話の右下のキーは、どちらでしょう?(ヒント:シャープは縦線が垂直で横線が斜め、いげたは横線が水平で縦線が斜め)
 
【ただいま読書中】
深海のYrr(イール)(中)』フランク・シェッツィング 著、 北川和代 訳、 ハヤカワ文庫、2008年、800円(税別)
 
 普通の小説では「善玉」とか「ヒーロー」が中心となりますが、本書では「憎まれ役」とか「負け犬」に相当する人についても著者は詳しい描写を続けます。環境保護ゴロをやっている先住民と白人の混血の男やデータを誤魔化したことがばれて降格処分を受けた石油会社のエリートなど、普通だったら「勧善懲悪」で簡単に片付けられてしまいがちな人物にも、それぞれの背景や「なぜそのような生き方をするようになったのか」の動機が断片的に描かれます。読者の想像力は刺激され、本書に描かれている世界が広がりを増します。
 上巻で始まった「海の異変」の仕上げのように、海から最強の魔物が登場します。50?150kmにわたる大陸棚の崩壊によって生じた津波です。ヨーロッパで北海に面した町はすべて壊滅します。北海油田の石油掘削プラットフォームは次々破壊されます。数百万人が死亡する、悪夢のような大惨事です。水害と火災、疫病の発生、原子力発電所の破壊、上水道の汚染……被害はさらに拡大します。
 上巻では主にノルウェーとカナダが物語の主要な舞台でしたが、中巻で多くの国が登場します。特に、これまでわざとのように軽く扱われていたアメリカが「待たせたな」と言わんばかりに。対策本部の中心となるのは、若き(といっても40代後半)司令官ジューディス・リーです。米中混血でウエストポイント士官学校初の女性の卒業生、多芸多才で大統領のお気に入り……彼女が率いる参謀本部に、上巻での主要登場人物たちも集結します。壊滅状態のヨーロッパで生き残った科学者で使える人材は洗いざらい集められたのですから当然ですが。そこで示された情報は、慄然とするものでした。海での人的被害は急増しています。鮫・鯨・毒クラゲなどだけではなくて、ごく普通の魚の群れまでもが人間を組織的に襲っているのです。さらには動物と微生物との新しい連携も生まれています。海はまるで人類を閉め出すために行動しているかのようです。さらに海底ケーブルもつぎつぎ何ものかに破壊され、インターネットはダウンします。
 そしてついにアメリカも「海からの襲撃」を受け始めます。ヨーロッパで水道を汚染したのはロブスターでしたが、アメリカではカニです。このあたり、著者の想像力には驚かされます。主題を隠したまま様々な変奏曲を次々奏でてくれますが、そのバリエーションの豊かなこと。さらに、メキシコ湾流がストップし、さらに大西洋全体を襲う津波の原因となる海底火山の爆発の懸念が増します。
 CIAはテロリストの関与を強く疑いますが、ヨハンソンは多くの現象を統合的に眺め、ついにとんでもない仮説にたどり着きます。人類は深海に住む異質な知性対に攻撃されている、と。科学者・情報部・政治家・軍人たちは熱い議論を行い、そしてその仮説の妥当性を認めます。ヨハンソンはその知性体を表す一つの言葉を思いつきます。「Yrr」。プロジェクトは変容します。イールを殲滅することは不可能です。だったら、イールとコンタクトすること、なんとか人類の殺戮をやめさせること、それが目標となったのです。
 上巻の感想で『パンドラ』に言及しましたが、中巻でも最後にまた「宇宙」が登場します。なんとも著者は面白くこちらをあちこちにこづき回してくれます。ヨーロッパの作品だからでしょうか、ハリウッド映画の「善悪の割り切り」や「若くて魅力的なヒーロー・ヒロイン」に対する「アンチ」の主張があちこちに見られるのが笑えます。また、各地のネイティブへの言及も多いのは、著者の文化的な好みなんでしょうか。さらに「海」と言ったら大西洋、というのもやはり「ヨーロッパの作品」と感じさせられます。そのかわりのように、めちゃくちゃに蹂躙されるのもまたヨーロッパなのですが。いやもうその破壊ぶりは、なんというかすごいですよ。
 
 
10日(日)新型インフルエンザ/『深海のYrr(イール)(下)』
 「国内初の患者発生」とマスコミは大騒ぎ(関係ありそうな土地に集結して騒ぎまくったり、何も情報を持っていない人や校長に返事を強要したり)ですが、私があきれたのは、学校や教育委員会に「抗議の電話」をする人がいる、というニュース。その「抗議の電話」で日本の何がどのくらい良くなるんです? 何かが良くなる期待はなくて、忙しくしている人の時間を一方的に奪うだけの行為は、不安を言い訳や大義名分にしたただの「有害無益な行為」でしかないと、私には思えます。やっても仕方ない行為は慎んで、少しは静かに経過を見守れないのかなあ。
 
【ただいま読書中】
深海のYrr(イール)(下)』フランク・シェッツィング 著、 北川和代 訳、 ハヤカワ文庫、2008年、800円(税別)
 
 イールは単細胞生物が集合してニューラルネットワーク・コンピューターのように機能しているのではないか、と科学者たちは推測をします。人が多くの細胞(DNAは共通でもそれぞれは異なる細胞)から成り立っているように、様々な異なる単細胞生物が情報を何らかの手段で交換することで一つの知性体として成り立っているかのようなのです。
 また著者は、人類を「それぞれが異なった様々な個人の集合体」として描きます。その人間関係も「現在の結びつき」だけではなくて「過去の結びつき」も重視しているようです。
 イールとついにコンタクトができた夜は、人々にとっての議論の夜でした。進化論・誤解された進化論・創造論が入り乱れます。同時に(例によって)人間の間での権力闘争も進行します。権力への野望と対立する組織の足を引っ張るための陰謀と……「そんなことをやっている場合か」と言いたくなりますが、人には「どうしても譲れない一線」があるのでしょう。自分の野望のためには他人が何人死のうとあるいは地球が壊れようと気にしない人がいるのです。さらに、コンタクトに対するイールの行動は、直接的な攻撃でした。
 イールの超変異DNAは複雑です。どうやら「獲得形質(DNAの変化)」を情報としてやり取りしているらしいのですが、それは「イール」の同一性を脅かします(DNAが常に変化するのですから)。ところが集合生物としてのイールはずっとイールのままです。同一性の維持と獲得形質の情報化とを両立させるためにどのようなトリックを使っているのか、が一つの大きな謎です(生物学的にはあり得ないのですから)。さらに、イールに地表の破壊をやめさせる手段はまだ見つかりません。人間同士のいがみ合いも進行します。
 イールからの最初のメッセージ(人類が送った数学の問題に対する返答)は、海底から見た水面の画像。地表や人類のDNAデータなどに対する二つ目のメッセージは、一億八千万年前(パンゲア大陸の時代)の地球の姿の画像でした。イールは自らの遺伝子に「種の記憶」を持っているのです。そして、対イールの本部であるヘリコプター空母に嵐の夜がやってきます。人間同士の殺戮の夜です。さらにイールからも、海底から魚雷が空母に撃ち込まれます。
 人類はイールに二つの相反するメッセージを届けようとします。一つはイールを全滅させるもの、もう一つは人類とイールの共存。はたして深海に届けられるのはどちらか、そしてその結果は……
 
 本書をひとことで言ったら……海洋冒険サスペンス科学環境生態ホラー小説かな。ひとことで言えていませんが、これは、あまりに多くの要素を盛り込んだ著者の責任です。面白くて読み始めたら止まりませんよ。警告だけはしておきます。
 
 そうそう、本書ではほとんど言及されませんが、日本がどうなったのかが気になります。貿易も漁業も壊滅状態では、おそらくとんでもなく悲惨な状況になっていたと想像できるのですが、だれか番外編を書いてくれないかなあ。「深海のYrr(イール) 蚊帳の外の日本編」を。
 
 
11日(月)政治家のわたり/『石ころの話』
 公務員が退職した後、天下りで一定のルートを通って特殊法人を渡り歩くのが「わたり」と呼ばれるそうです。同じポジションを定点観測したら、人は変わるけれど常に同じ所から人が来るわけ。
 ということは政治家の世襲というのは、世代を超えた「わたり」と言えそうですね。同じポジションに常に同じ“家”から人が来るわけですから。
 
 どちらも、国費の私物化、と言えません?
 
【ただいま読書中】
石ころの話』(地人選書17) R・V・ディートリック 著、 滝上由美・滝上豊 訳、 1986年、1700円
 
 そもそも「石」とはなんでしょう。なにやら難しそうな定義がちゃんとありますが、面白かったのはその大きさの定義。本書で紹介された数字はけっこう適当に決められています。
 2mm未満:砂  2?64mm:中礫   64?256mm:大礫   256mm超:巨礫
 数字がややこしい? いや、インチに換算したら境界は、1/10インチ・2.5インチ・10インチ……ほら、「適当」でしょ?
 
 まず登場するのは「子供を産む石」アエタイトの伝説です。古代にはその他にも面白い伝説があります。動物の体内で成長する石(野生のロバからアシニウス、雄鹿の眼にケネ、禿鷹の頭からはバルチャリス)、綺麗で珍しい石は傷を治し病気を防ぎ幸運をもたらすと信じられました。
 地学的な石の組成や発生する岩床の違いや移動・堆積についての説明もありますが、私が面白かったのは初心者に対する注意です。服装や地権者の許可を得て立ち入ることなどの本当に初歩的なことから説明がしてあります。
 氷河堆積物についても「丘の上にも見つかる」「運ばれる大きさに制限がない」という大きな特徴がある、と本書にありますが、そういえばニューヨークのセントラルパークのでかい岩も氷河によって運ばれたもの、というのはNHKのどの番組でやってたんだったかなあ。
 
 岩石は、火成岩/堆積岩/変成岩に分類されますが、著者はそれはあまりに簡易化しすぎ、と述べます。著者はその「境界線上」の石に興味が多くある様子です。もちろん分類は、使い方さえ適当なら有用なものではあるのですが。
 有用と言えば、人類は石ころを「利用」してきました。たとえば、重り・スポーツ(石蹴り遊び、水切り、カーリング(昔は天然石ででした)、石投げ、投げ縄(石を結びつけた縄で動物の足に絡める)、スリング(パチンコ))・健康(「親指療法」(なめらかな石を親指でなでると心が和む)、のどの渇きを押さえるために口に石を含む、水の濾過)・儀式(各地の宗教的/非宗教的儀式で各種の役割。ご神体の多くは隕石であることも注目すべきだそうです。ストーンヘンジ・ドルメン・メンヒル・トリトンなどの巨石遺跡、ケルン)・道具と建築物(ハンマー、石臼、石造りの建物、道路の舗装、海岸地帯の防護建築)・その他(陸標、火打ち石、熱した石での料理、水槽の底のかざり、楽器、美術品の台座)……その他、動物が運んだり利用するという愉快な石の話も紹介されています。
 
 私が石ころを見つめても大したことはわかりませんが、見る人が見たらその来歴(石の人生?)がある程度読めるのでしょうね。
 
 
12日(火)ppm/『がんばれカミナリ竜(下)』
 「公害」が新聞の社会面に見出しとしてしょっちゅう登場していた時代、ppmもそれにつれてよく紙面に登場していました。なにしろ当時は「総量規制」なんて発想がない時代(二酸化炭素排出量を「トン」で表現する時代に育った人には信じられないでしょうが、「風が吹いたら煙なんかどこかへ行っちゃうのだからきびしい規制には意味がない」と大臣が平気で言っていたのです)。排水などは「特定の有害物質○○が××ppm以下だったらいくら排出してもOK」だったのですが……ちょっと考えたらわかりますが、「薄める」が一番の解決法です。
 もっとすごいのは、公共下水道に工場の排水を流しちゃえ(下水処理場で処理できるだろうし川に直接流すよりマシ)という動きさえありました。活性汚泥(微生物)で重金属をどうやって処理?
 でもこんなとんでもないことでも、当時は科学者も政治家も「これが正しい」でした。
 今の日本でエセ科学にはまる人が多くいますが、そういった人たちのことを私は笑えません。常に「いつか来た道」なのです。
 
【ただいま読書中】
がんばれカミナリ竜(下)』スティーヴン・ジェイ・グールド 著、 廣野喜幸・石橋百枝・松本文雄 訳、 早川書房、1995年、1805円
 
 本巻では単孔類のカモノハシとハリモグラがそれぞれ1章を当てられています(ハリモグラは話が始まる早々焼かれて食われてしまいます。かわいそうに)。著者はいつもの博識を披露しますが、通底するのは「先入観がいかに科学を阻害するか」。ここで具体的に上げられているのは「単孔類は原始的」という思いこみ。著者は「ハリモグラが生態的に成功していることは無視するのか」と皮肉を言います。ただ、著者はハリモグラが原始的ではないことの根拠として脳の構造や働きをあげますが、これは行きすぎると著者が嫌いな「人間を知能指数で上下に分類して差別することの正当化」に通じてしまうのではないか、とちょっと危うく感じました。著者が危うい道に踏み込むことは心配しませんが、著者の劣化コピーがそちらに踏み込んでしまうのではないか、と。
 しかし、カモノハシにしてもハリモグラにしても、20世紀後半に多くの研究が行われて成果を上げているのには驚きます。それまでしっかり研究されていなかったのか、と。そういえば私がカモノハシについて初めて知ったのは小学校の時ですが、まるで「哺乳類のゲテモノ」扱いでしたっけ。今の小学生は、どんな知識を持っているのでしょうねえ。
 もう一つの「テーマ」は「無知」です。ダーウィンを読んだこともないのに伝聞だけで進化論に反対する人々(それも19世紀から今まで続々とひきもきらず)の「無知」について著者は容赦がありません。それどころか著者は自分自身もやり玉に挙げます。たとえば22章「クロポトキンは変わり者ではなかった」では、クロポトキンとロシア学派についてきちんと一次資料に当たらずに先入観を持っていたことを著者は白状します。クロポトキンはアナーキストでしたが、ダーウィンに対して「自然闘争ではなくて協力の原理の方が重要」と主張していました。そのことにはちゃんと理論的・社会的背景があったのですが、著者はそれについて精査・紹介すると同時に、(著者の“無知”(といっても普通だったら博識で通るレベル)と「ロシア」とを重ねることで)アメリカ人の「原典に当たらずにマルクス主義を批判・嫌悪する態度」も重ね合わせているのではないか、と私は感じました。伝聞だけでわかったつもりになるのは、知的ではない(むしろ痴的)、と著者は言いたいのではないか、と私には思えるのです(この「原典に当たらずに先入観で“批判”するのは的外れな行動」は私自身の主張でもあるのですが)。さらにその背景には「ダーウィンの主張についてきちんと知らないくせに、思いこみで進化論を否定する人間」の反知性主義に対するいらだちも存在していそうです。
 
 
13日(水)説明/『性同一性障害』
 きちんと“わかって”いる人だけが、「簡単に説明すると」とか「一言で言うと」で本当に「簡単」「一言」で説明できます。
 
【ただいま読書中】
性同一性障害 ──ジェンダー・医療・特例法』石田仁 編著、田端章明、鶴田幸恵、東優子、ミルトン・ダイアモンド、ヘイゼル・グレイ・ベイ、谷口洋幸 著、 御茶の水書房、2008年、2800円(税別)
 
 本書は「性同一性障害の人は社会制度の下で生きなければならない」という視点から編まれています。したがって著者は、社会学・社会情報学・ジェンダー論・社会福祉・性科学・法学など多彩です。医学がいませんが、それについては他に多数ある入門書や論文や研究書を読め、ということでしょう。
 性同一性障害の定義は、1)自らの性別に対する不快感や嫌悪感 2)反対の性別に対する強く持続的な同一感 3)反対の性役割を求める の3つを満たすことです。つまり、「反対の性に憧れるが、その性役割は果たしたくない」は性同一性障害とは認められません。また「自称」も認められません。医師(精神科医)の診断が必要です。
 ただし日本ではしばしば、性同一性障害(ただの診断名)がセルフ・アイデンティティや個性と結びつけて語られます。「私は性同一性障害者です」という表現は、世界では珍しいものだそうです。この背景には、当人の「奪われた歴史」や「強い不安」がある、と著者は述べています。ここで必要なのは、ことばを学術の文脈だけで読むことではなくて、社会の文脈で読むことだ、と。さらに社会での「男女格差」(たとえば平均的に男の方が高収入)が事態を複雑にします。
 治療は、日本では2004年までは「三段階方式」でした。1)精神療法 2)ホルモン療法 3)手術 の順に進んでいくものです。今は「アラカルト方式」だそうです。
 そして本書のメインディッシュ、法的な問題。1969年に睾丸摘出をした医者が、優生保護法違反で逮捕されました(「ブルーボーイ事件」)。法律の条文にあった「断種手術の禁止」に違反していたからです。もちろん断種の禁止には歴史の裏付けがあるので、そのこと自体には問題はないのですが。さらに手術が許されたら次に立ちはだかるのは「戸籍法」です。改名でもそうですが、「一度届けた事実を変更すること」にお役所は頑強な抵抗をします。さらに今回は、改名と性別の変更が大体セットとなっています。さらにさらに、たとえば「長男 → 次女」への変更などだと、他の子どもも(続柄のところが)影響を受けます。そこで戸籍法はいじらずに性同一性障害者性別取扱特別法(「特例法」)が2003年にできました。ところがこの第3条には「五要件」が盛り込まれました。「二十歳以上」「結婚していない」「子がいない」「生殖能力を放棄している」「性器が形成されている」……つまり、医学的に「この人は性同一性障害です」と確定しても、それだけでは性別の変更を認めないぞ、というのが法律の主張です。さすが「法治国家」です。
 解決として面白いものがいくつか提案されています。たとえば「同性婚の容認」。あるいは「中解決(戸籍原簿はそのまま。保険証、パスポート、住民票などの性別は生活上の性別に一致させる)」。あるいは、どうしても必要な場合以外は書類から性別記載欄をなくしてしまう。おそらく日本がそうなる可能性はほとんどないでしょうが(「中解決」だったらあるかも)。
 私自身の性的嗜好はちょいと横に置いて、本書をゆっくり読むと、ここに登場する「性別」の多様性には頭がくらくらします。世界は広大です。
 
 
14日(木)邪魔/『バウンダーズ』
 「お邪魔してよろしいですか?」と言った瞬間、あなたはすでに邪魔をしています。
 
【ただいま読書中】
バウンダーズ ──この世で最も邪悪なゲーム』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 和泉裕子 訳、 PHP研究所、2004年、1900円(税別)
 
 主人公のことばでは、「バウンダーズ」とは「故郷に向かう者」のことだそうです(辞書を引いたら「BOUNDER」は「下劣な人間」「(野球の)ゴロ」とありました。ただ「BOUND」には「境界」の意味もありますから、そちらの方の意味を著者は使っているのかもしれません)。
 “故郷”の下町で食料品店の長男として元気に走り回っていた12歳のジェイミーは、ある日“古い要塞”をいう三角形の不思議な屋敷で“やつら”(古代より伝わりしリアル・ゲームの達人)に捕まってしまいます。彼らはジェイミーに宣言します。「お前はディスカードされた。1ターンが終了したら別のフィールドに移される。もし成功したら“故郷”に帰ることも許される。その場合は通常の方法でプレイに参加してもよろしい」。
 そしてジェイミーは異世界に跳ばされてしまいます。そして、そこでの「プレイ」が1ターン終了すると、別の世界へ移動します。(バウンダーだけは世界の「境界線」の吸引力を体感できそこを越えることができるのです) ジェイミーはいくつもの世界を移動し続けるうちに「ゲームのルール」を理解し始めます。人間のゲームとはずいぶん異質な(そして残酷な)ルールです。
 ジェイミーは「さまよえるオランダ人」や「さまよえるユダヤ人」や鎖につながれた先見(プロメテウス)に出会います。さらに不思議な生命体ヘレンと悪魔ハンターの助手ヨリスと出会い、三人は協同して境界線を越えてそれぞれの故郷を目指すことにします。そして、ある世界で出会った少年アダムは、3人が動いている世界は「ボード式のウォーゲーム」によく似ていると言い出します。ということは、それぞれの世界の人々は、ゲームの駒として使われ生きたり死んだりしているのです。それは阻止しよう、とジェイミーたちは決心します。悪魔ハンターのコンスタムたちと悪魔狩りの装備を揃えて皆は敵の本拠地に突入しますが、あっというまに蹴散らされてしまいます。そしてジェイミーは孤独になり、そして変わり果てた自分の“故郷”を発見します。
 ジェイミーたちはゲームのプレーヤーたちに対して最後の戦いを始めます。
 
 「ゲームの駒を生きた人間に置き換える」のは、作家なら誰でも思いつくアイデアでしょう。しかし、さすがDWJ、彼女お得意の「多数の世界」をそこに重ねてとんでもない宇宙を構築し、さらに「駒」が「プレーヤー」に(それもゲームのルールに則って)逆襲するというとんでもないストーリー展開をしてくれます。さらに小技として、プロメテウスの伝説が重ねられ、さらに「鎖」「錨」「故郷」「ルール」「希望」ということばが、新しい意味と新しい機能を与えられてしまって、読者の“常識”はゆさぶられてしまいます。
 読後に私は奇妙な満足感と惜別の情を感じています。
 
 
15日(金)睡眠学習/『病室のシャボン玉ホリデー』
 40年くらい前、「睡眠学習」が盛んに宣伝されていました。「寝ている間に勉強できて、東大にも合格!」といった感じの宣伝文句でした。
 寝ていて東大に行けるのならそんな楽なことはないのですが、実際にそうなった人はどのくらいいたのでしょう。私には睡眠学習というよりただの睡眠妨害に見えるのですが。
 ただ「楽して○○をゲット」は宣伝の王道なんでしょうね。今でも、学習だけではなくてダイエットなどでもいくらでもそういったパターンを見ることができます。
 
【ただいま読書中】
病室のシャボン玉ホリデー ──ハナ肇、最期の29日間』なべおさみ 著、 文藝春秋、2008年、1714円(税別)
 
 1993年2月、ハナ肇は肝臓癌を手術しました。宣告された余命は、長くて1年、おそらくは11月まで。そして8月13日、彼は吐血します。知らせを聞いて駆けつけた著者は、「危篤状態で、おそらく2日以内」と聞かされます。著者は夜の病室に泊まり込むことにします。(著者は、明治大学裏口入学事件で自宅謹慎中だったからいくらでも“余暇”はあった、と自嘲気味に語ります。でも、本書を読んでいたら、たとえ“余暇”がなくても著者は泊まり込んだのではないか、と思えます。ハナ肇の付き人だった著者は、強い忠誠心と愛情を、ハナ肇に対して持っていたようですから)
 最初の夜は、人事不省のまま鼻に入れられたチューブを抜こうとする手との“戦い”でした。著者はハナ肇の表情を見守り、あまりに早く手を押さえてしまったら全然表情が変わらないが、チューブの寸前だと残念そうな顔になることに気がつきます。「本人の希望(意志)を最大限叶えてやろう」。著者はぎりぎりまで待ってから手を押さえることにします。本書にはそれはまるで楽しいゲームのように描写されますが、止血のためのチューブを抜かせるわけにはいきませんから、実際には大変な作業です。手を縛れば話は簡単です。でもそれではハナ肇の意志をまったく無視することになります。著者は夜通しハナ肇の顔と手を見守り続けます。付き添うのは、奥さんと、著者に「キクさん(山口社長)」「ゴーオ(元シャボン玉ホリデーのディレクター)」と呼ばれるハナ肇が頼りとする仲間たちが交代で。
 意識が戻って言った言葉は「かみのれ」。意味は「痰がのどに絡んでいるのでティッシュ(紙)を取ってくれ」。付き添いが手を押さえたら「ほうらもんら、らってられれれら」(これだもんな、やってらんねんよ)。さらに看護婦と付き添いへの態度のギャップの大きさに、著者らは「俺たちは遊ばれてんのか」「そうか、自分のおかれた状況を楽しんでいるんだな」と話し合います。ならば俺たちも「死」に萎縮することなくその“遊び”に付き合おう。喜劇人らしく、「シャボン玉ホリデー」で送ろう、と著者は決心します。
 喜劇人と病人と、その両者を演じるハナ肇はストレスがたまり、それを著者にぶつけます。著者は悪戦苦闘しますが、そこに味方が。ザ・ピーナッツです(本当にシャボン玉ホリデーになってきたぞ、と私は呟きます)。とうとう、ハナ肇が入っている詰め所隣の処置室に、テレビまで設置されてしまいます。瀕死の重病人の部屋とは思えません。最期には楽屋のれんまで下げられてしまうのですから。
 本当は暗い入院生活にすることも可能でしょうが、著者は(ハナ肇との共同作業で)その生活のあちこちに小さな灯りをつけて回ります。意識が戻った・管が抜けた・言葉を発した・水が飲めた・おかゆを食べた……そのたびに著者は喜びます。その喜びようといったら、こちらまで嬉しくなるほどです。さらに師匠として、辛い立場にいる著者へ、人生最後のアドバイスが与えられます。
 山田洋次監督にハナ肇が謝る姿を見て、これまで人に謝らせることはあっても自分が謝ることはなかったのに、と、著者はハナ肇が自分の死を悟り受け入れたことを理解します。
 
 著者の観察は綿密です。舞台人だからでしょうか、ちょっとした表情の変化、たとえば唇がほんのちょっと開いているか閉まっているか、あるいはちょっとした言葉尻、それらから実に多くのことを読み取っていきます。著者はそれを「魂との対話」と表現します
 様々な有名人が次々登場します。私などにはうかがい知れない世界のお話ですが、意外な人同士がつながっているのを知るととりあえず「ふーん」と私は言ってしまいます。この時期杏林大学付属病院は、外からは様々な有名人が集って華やかに見えたことでしょう。
 再吐血の後、昏睡状態のハナ肇の病室にそろった、谷啓、布施明、なべおさみ、ザ・ピーナッツによってシャボン玉ホリデーの寸劇が始まるシーンには、こちらは泣き笑いとなってしまいます。こんな人の死に方(逝かせ方)がこの世にはあるんですねえ。
 
 
16日(土)営業努力/『時の町の伝説』
 不況のあおりで刑務所での作業が減っているそうです。刑務所に仕事を持ってきてくれる企業が苦しくてそれどころではないそうな。そこで刑務官が「営業」に走り回っているのだそうですが……刑務所の中に「人材」がいるでしょう? 営業マンとか詐欺師とか。そういった人の能力を活用できないんですかねえ(詐欺をしろ、というわけではなくて、その説得力を真っ当に利用しよう、というわけです)。それこそ「刑務所での作業」の一環としての外回りです。
 もちろん服役中の人を刑務所の外に出すことには問題があるでしょうが、ナチスの時代の強制収容所のユダヤ人でさえ、会社や一般家庭への“人材貸し出し”は行われていました。受注は伸びるでしょうし、なにより当人たちの社会復帰の一助になりそうです。もちろん脱走とか刑務所への禁制品の持ち込みとか「悪用」することはいくらでもできますから、人を選ぶ必要はありますけれど。
 
【ただいま読書中】
時の町の伝説』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 田中薫子 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、2004年、1700円(税別)
 
 1939年9月(私たちの世界では英仏がドイツに宣戦布告した月)、ロンドンから疎開する列車に乗っていたヴィヴィアンは駅から誘拐されてしまいます。連れて行かれたのははるか未来の「時の町」。12歳のごく普通の女の子なのに、夫の起こし方を教えろとか時の町が崩壊してしまうとかわけのわからないことを言われ、ヴィヴィアンは混乱しますが、それもそのはず、人違いだったのです。しかし、なにやら難しいことがあるらしく、ヴィヴィアンはすんなり帰してもらえません。(どうも20世紀は「不安定期」らしく、そこがきちんと終息しないとその後の長い長い「安定期」がやって来てくれないのだそうです)
 序盤は笑いが満載です。誘拐犯は冒険ごっこに夢中の男の子たち、時の町は各地域(や時代)からの観光客で一杯です(まるで超未来のローマのような描写となっています)。さらに町の中には幽霊も闊歩しています。学者たちは時の町を救う手がかりを握っている「時の奥方」を追跡しますが失敗。子どもたちも別行動で「時の奥方」を追いますが、失敗。ただしそこで重大な手がかりを得ますが、それを大人に言うわけにはいきません。違法に町の装置を使っていたことがばれたらどんな罰を喰らうかわからないからです。さらにヴィヴィアンは自分の幽霊を見つけてしまいます。しかもその「幽霊」は一種の予言となっています。もう何が何やらわかりません。
 子どもたちは、社会を救わねばならないと思い詰めますが、大人たちには相手にされません。さらに自分たちがしでかしたことをうまく大人たちから隠さなければなりません(たとえ悪戯でやったことでも、禁じられた時代への侵入は重罪なのです)。これはDWJ得意の子どもが(子どもゆえに)追い込まれる複雑な状況です。大きな謎や小さな謎が次々提示され、状況はめまぐるしく変化を続けます。もう少しでわかりそう、のところで「そんなものよりこっちの方が重大だ」が起きて、こちらの気持ちは中途半端のまま放り出されてしまいます。二進も三進も行かなくなったように見えたとき、突然ストーリーはさくさくと進行を始めます。それまでいじいじしていた分、快感が割り増しして感じられます。
 しかし「苦悩に満ちた目つきでにらむ」のがウインクだなんて、わかりませんってば。
 DWJは「多世界もの」が得意です。たいていは空間的にあるいは次元的に重なり合った(あるいはつながり合った)様々な世界ですが、今回は時間によってまるで本のページのように綴じられた世界群です。しかもそれがとんでもないスケールでしかも世界の始まりと終わりが……おっとっと。これから先は、ご自分で読んで楽しんでください。
 
 
18日(月)出る見る止まる/『腹話術入門』
 歩行者でも自転車でも二輪でも自動車でも、「出る見る止まる」の人がいます。まず出て、そこで見て危険に気づき、そこで止まってしまう(ほとんどは道路上の危険なところで)。これを逆にして「止まる見る出る」にしたら、安全なところで止まってそれから自分が行きたい方向の安全を確認し、そして行きたい方に向かって動き出すわけで、少なくとも事故の危険性はがくんと減ります。
 ああいった人にとって、「自分の命や他人の命を危険にさらすこと」と「1秒を無駄にしないこと」とは等価ということなんでしょうか。ずいぶん価値ある1秒だこと。
 
【ただいま読書中】
腹話術入門』花丘奈果 著、 鳥影社、2005年、1800円(税別)
 
 子ども時代、腹話術は不思議でした。明らかに一人二役なのに、どう見ても「人形がしゃべっている」。本書は現役の腹話術師が、腹話術について存分に語った本です。
 口の形の基本は「イ」。微笑んだ形に顔の表情を固定させて人形の言うことに耳を傾けている、という形で、唇を動かさず歯の隙間から息を出しながら、口の中で舌を大活躍させて喋っているのだそうです。これでほとんどの音は出せますが、難しいのがマ行パ行バ行の動唇音(上下の唇を一度合わせて閉じる必要がある音)。そこでなるべく言葉を言いかえること(「むすめさん」→「おじょうさん」、「びんぼう」→「おかねないこと」、など)で動唇音を使わないようにするのだそうです。これは台本を練るのが大変ですねえ。それでもどうしても動唇音を使わなければならないときもあります。そんなときは似ている音で代用(「こまった」→「こなった」、「ばなな」→「がなな」、「パイナップル」→「かいなっぷる」、など)。さらに、動唇音で唇を閉じるかわりに、上前歯と舌を使って唇を動かさずに発声するテクニックがあるそうです。これは難しい。ちょっとやってみましたが「音」になりません。
 人形の使い方も重要です。口の開け方、視線の向き、体の向き(人間と人形と、それぞれ)……いやあ、さすがプロ、ここまで考えて演技しているんですねえ。
 
 著者が腹話術を始めたのは、本当は漫才がしたかったのに相方が見つからなかったからだそうです。ということは、漫才でも片方が人形になって……というのはすでにありそうな気がしてきました。でもやり方によっては本当に受けそうな気がします。いっこく堂がやるような、口の動きと発声がずれて見えるのを、漫才コンビがそれぞれやってみせて、結局誰が誰を演じているのかわからなくなるような混乱芸など、見てみたいな。
 
 本書の後半は台本集となっています。それも初歩の練習用から公演用のものまで。
 そして最後の章は「靴下人形」。普通の靴下を改造して腹話術の人形にしてしまうのです。これだったら腹話術師志願者は自宅ですぐに練習が始められます。口がぱくぱくすればいいので、鍋つかみでも牛乳パックでも作れるそうです。
 ……腹話術ではありませんが、なんだか急にパペットマペットを見たくなりました。
 
 本書はあくまで腹話術の入り口で『腹話術入門〈上級編〉』に続くそうです。商売上手やねえ。
 
 
19日(火)修学旅行/『絶対帰還。』
 新大阪駅に出発に集まったところで「中止」を言い渡された中学の一行は本当にお気の毒様。ただ、教育委員会としては「旅行中に発熱したら対処が大変」「行った先の周囲で病気が発生したら『お前らが持ち込んだ』と東京から非難されるリスク」「帰ってきてから発熱したら『わざわざ危険な病気を持って帰らせた』と非難されるリスク」を考えたら「中止が一番安全」と判断するのも当然とは言えます。「1週間の休校には修学旅行も含まれる」という解釈かなあ。
 そうそう、私の通勤路の中学校も今日から修学旅行らしく、大型バスが何台も並んでいて中学生が群がっていました。さて、どこに行くのでしょう?
 
【ただいま読書中】
絶対帰還。 ──宇宙ステーションに取り残された3人、奇跡の救出作戦』原題“Too Far From Home” クリス・ジョーンズ 著、 河野純治 訳、 光文社、2008年、2300円(税別)
 
 打ち上げ前のクルーの交代は、不吉の前兆とされています。(その代表がアポロ13)。ケープ・カナベラルからスペースシャトル〈エンデヴァー〉で国際宇宙ステーションを目指すエクスペディション6でも医学的な理由でクルーが一人交代となりました。さらに、酸素漏れ、天候不良、と打ち上げは延期を繰り返します。不吉です。クルーたちは「STS?113のミッション番号が悪いんじゃないか」などと囁きますが、2002年11月、やっとシャトルは打ち上げられました。
 はるばる運んできたステーションの「背骨」P1トラス(全長45フィート、3億9000万ドル)を取り付けるのに数日かけ、エクスペディション5の3人(ロシア人二人アメリカ人一人)は170日ぶりに地上に戻りました。長い長いミッションでした。そしてエクスペディション6の3人(アメリカ人二人ロシア人一人)にはこれから14週のミッションが始まります。
 地表からたった402kmのところを回る宇宙ステーションは、冒険や学術の場でもありますが、生活の場でもあります。無重力(厳密には微少重力)環境で、どうやって洗濯をして干し眠り飯を食い排便をするか。いや、一々面白い。たとえば歯磨き行為は地上と同じですが歯磨きペーストをはき出さず飲み込まなければならないのです。地球上の「常識」が通用しないところで生きることがどんなに難しいことかよくわかります。本書には「三人の陽気な男たちは、壮大な非日常と安定した日常を、うまく両立させていた。」と記述しています。
 淡々と「非日常」が過ぎていきますが、〈コロンビア〉の事故(打ち上げ時に外部燃料タンクの断熱フォームがはがれて翼にぶつかって小さな穴を開け、帰還のために大気圏に突入したところでその穴からプラズマが内部に侵入して空中分解を起こした)。3人は親しい仲間を失うと同時に、帰還の手段も失います。スペースシャトルの事故原因究明と安全点検が必要なだけではなくて、アメリカでは「反宇宙開発計画運動」が燃え、とてもシャトルを打ち上げられる状況ではないのです。
 
 幸いなことに宇宙ステーションにはロシアのソユーズが一機、“救命艇”として付属していました。ただしテストフライトをしたことがないものですが。さらに、国際宇宙ステーションを無人のままにしたら、機能は落ちます。エクスペディション6の3人を救い出し、エクスペディション7のチームを送り込まなければなりません。さらにさらに補給の問題があります。ロシアのプログレスでも補給物資は送っていましたが、シャトルに比べたら数分の1しかペイロードがないのです。さて、どうやって“彼ら”とともに宇宙ステーションも救うことができるのか。
 
 宇宙は冷たい世界です。しかし著者はそこに叙情を持ち込みます。淡々と書かれた文章のあちこちにさらりと散りばめられた「ケーキは地球の味がした」「(子どもたちが)大きな夢を育むには、わざわざ天を仰がなくても夜明けの曙光や夜空の星が一つ残らず見える、美しい場所が必要なのだ」といった表現に触れて、読者はほっと息をつけます。
 人間関係についても著者はじっくり書き込みます。特に宇宙飛行士同士やその家族について。原題の「ホーム」って何だろう、と私は思います。ただ単に宇宙飛行士の家族がいる場所、ではなさそうです。宇宙飛行士が切ないあこがれを持って「帰りたい」と強く望む場所は……
 著者自身は「もっとも重要な旅と夢は、果てしなく続く。」と述べています。そして、本書は地球から宇宙に続く「旅と夢」の「途中の物語」です。
 
 
21日(木)尖った芯/『レーシングドライバーになるには』
 ボールペンはミクロレベルでのハイテクの塊だそうですが、シャープペンシルもまた最近は進化しているようです。この前見かけたのは、書くにつれて芯が自動的に回転して常に尖った状態を保つシャープペンシル。
 そもそもシャーペンは鉛筆を削る手間を省くためのもので、だから最初から鉛筆のより細い芯がセットされている、と私は理解しています。それをさらに削ろうというのですが……少しでも芯の先が丸くなったら許せない、というのは人生に対してあまりに厳しすぎません?
 
【ただいま読書中】
レーシングドライバーになるには』(なるにはBOOKS131)中島悟 監修、真崎悠 著、 ぺりかん社、2009年、1200円(税別)
 
 第1章には4人のレーシングドライバーが登場します。中島悟(日本初のフル参戦F1ドライバー)、武藤英紀(インディレーシングリーグドライバー)、伊藤大輔(SUPER GTドライバー)、高橋裕紀(WGPレーシングライダー)。
 かつてレースは、貴族の遊びでした。自動車という新しい玩具を手に入れた貴族たちが「俺の方が速いぞ」と競い合ったのです。今でもヨーロッパの自動車レース(特にF1)ではドライバーよりもコンストラクター(車の製作者)の方が重要視されるところに、かつての「貴族の遊び」の香りが残っています(車の所有者の方が、雇われドライバーよりもエライ)。
 そして「俺の方が速いぞ」が残っている限り、レースが無くなることはないでしょう。今のような化石燃料をぼんぼん燃やすタイプではなくなるかもしれませんが、形を変えて必ず残るはずです。
 
 今ではレーシングドライバーになる道もシステムとして整備されてきています。かつて中島悟さんは公道を走って腕を磨きましたが、今はそんな人は少ないはず。多くは子どもの時からカートやポケバイをやってそこからステップアップ、という道を歩んでいるはずです。ただ、やはり中には変わり種がいます。佐藤琢磨さんは学校では自転車部でした。スーパー耐久の田中哲也選手は野球部出身です。
 いくら優れた資質を持っていても、孤立していたら才能は開花しません。理解のある家族・経済支援をしてくれる人・技術を指導してくれる人、などに恵まれた人が速く走れるようになり、そこでさらにステップアップできるかどうかは……これはもう運命でしょうね。ただレースの世界は小さくて、他のスポーツに比較したらチャンスはむしろ多いのではないか、とも考えられるそうです。
 プロになれても、一人で走るわけではありません。監督・エンジニア・メカニックといったチームの人間だけではなくて、開発・スポンサー・広報など多くの人の協力が必要です。そういった人々とのコミュニケーションができなければ、結局優れたドライバーにはなれません(たとえば「こうしたらこの車はもっと速くなる」「あのコーナーではこのように遅くなる」などをチームにうまく伝えられなかったら、結局その車は速くならないのです)。さらに現在レースは「ビジネス」の場でもあります。スポンサーはたんなる金主ではなくてビジネス・パートナーとなっていて、そちらの方でもレーシングドライバーは“活躍”する必要があるのです。
 本書では、レースの“裏方”にもスポットライトがあてられています。コースオフィシャルや中継の人の声も登場するのです。レースはとんでもなくでかい“興行”です。
 しかし、中島悟さんの「東大を目指す人が、東京は遠いと思うだろうか。鈴鹿が遠いと思う人に、世界(で活躍する道)はない」という断言には、強い思いがこもっています。彼の魂はまだ“現役”でサーキットを走っているのかもしれません。
 
 
22日(金)スター占い/『魔法がいっぱい』
 劇場の舞台にきら星のごとくスターたちが並んでいます。そして、その視線を捉えることができた観客は自身の運命を決められます。スター(の視線)占いです。
 ただし「きゃー、あの大スターが私を見てくれた」というのは、客の方の一方的な思いこみである可能性が大です。スターは「この人を見てやろう」と思っていない可能性が高いのですから(だって、舞台は明るく、フットライトが下から照らし、観客席は暗いのです)。
 星占いも同じようなもの、と私は思っています。遠くの“舞台”上の星々から、私たちは見えていません。
 
【ただいま読書中】
魔法がいっぱい』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 田中薫子・野口絵美 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、2003年、1500円(税別)
 
 「大魔法使いクレストマンシー」の外伝です。4つの短編が収められています。
「妖術使いの運命の車」……クレストマンシーによって魔力を奪われた妖術使いが、他の世界に逃げ出したら、魔力は戻ったけれどその代わり……
「キャットとトニーノの魂泥棒」……クレストマンシー城にイタリアからトニーノがやってきました。少し年上のキャットはトニーノのお世話係を言いつけられますが、どうも気が乗りません。クレストマンシーの命を狙う邪悪な魔法使いがいるらしいのですが、ところがそのスパイダーマンは200年以上前に死んでいるはずです。ところがところが、二人の少年はスパイダーマンに誘拐され、記憶を消されて「魔法使いの弟子」にされてしまいます。スパイダーマンは大魔法使いの魂を集めていてそれで自分がこれまでで最大の大魔法使いになる気です。最後の一つはキャットの魂。しかし……
「キャロル・オニールの百番目の夢」……夢見師のキャロルは、「夢」のベストセラー作家でしたが、100番目の夢を見るのに失敗します。腕の良い精神科の魔法使いにも原因がわかりません。そこでキャロルの父親の窮地のクレストマンシーの出番です(トニーノたちも登場しますが)。
 幸い子どもらしいハッピーエンドになるお話ですが、創作の原動力が奈辺に存在するのか、もしかしたら著者はそれとなく読者に知らせようとしているのかもしれません。
「見えないドラゴンにきけ」……すべてが秩序だっているスィールという世界では、〈天〉もきちんと運営されていました。神々の役割や動きも事細かに定められていたのです。しかし〈破壊の賢人〉が生まれ、秩序が乱さるという予言が。神々は予言の裏をかこうと画策します。常に疑問形でしかしゃべれない子どもを見つけた神は、平行世界の別の世界にその子を置き去りにします。ところがそこは、クレストマンシーが住む世界でした。
 いや、子どもって成長の一時期「なぜ、なぜ」を連発します。それが世界の根源にまで衝撃を与えてしまい、それに神々でさえ逆らえないとは、なんとも皮肉でにやりとしてしまう一品です。
 
 
23日(土)学級閉鎖/『イギリスの医療は問いかける』
 新型インフルエンザの流行に伴って学校閉鎖が行われています。学校を流行の培地にするのを防ぐためには当然の措置でしょうが、となると今までのインフルエンザで行われていた学級閉鎖は一体何だったんだ、と思えます。私の子どもたちの経験では今まで何回か学級閉鎖がありましたが、大体クラスの4分の1?3分の1くらいが欠席したらクラス閉鎖になっていました。いくら何でも流行を予防するためには手遅れだろう、と言いたくなるタイミングです。
 もしかしたら、流行予防ではなくて、カリキュラムの進行を少しでも前に進めるためにクラス閉鎖のタイミングをはかっていた、ということなのでしょうか。それだったら、あの遅さも納得がいくのですが、授業計画の方が健康より大事、というのにはこんどは納得がいきません。
 
【ただいま読書中】
イギリスの医療は問いかける』森臨太郎 著、 医学書院、2008年、2800円(税別)
 
 イギリスの公的な医療は、1828年に外科医マーズデンが設立したロンドン無料病院によって始まりました。慈善のためのヴォランティア病院でしたが後にヴィクトリア女王がパトロンとなって「王立無料病院 Royal Free Hospital」と名前を変えています。
 第二次世界大戦後労働党政権が誕生し、1948年に社会主義的な国営医療NHSがスタートしました。有名な「ゆりかごから墓場まで」です。ところが時間が経つにつれ、組織は肥大化し効率は低下してしまいました。改革に乗り出したのが1979年からのサッチャー政権。「小さい政府」を標榜し、医療に市場原理を導入しました。これはこれで成果を上げたのですが、格差が拡大し医療は弱肉強食の世界となってしまいました。1997年からのブレア政権は「第三の道」を唱えました。社会主義と自由主義のバランスを取りながらNHSを改革しようというのです。
 
 イギリスでは日本の開業医に当たるポジションには「家庭医」がいます。患者が医者にかかりたかったら、まず家庭医に予約を取ります。もし入院が必要となれば家庭医から病院へ紹介されます。もちろん緊急事態は例外ですが、救急にはトリアージ(選別)があり、重症が優先されるため、日本のコンビニ受診のような軽症の人はずっと(下手すると夜明けまで)待たされるそうです。そのかわり電話サービスが充実しています。こういった医療電話サービスの場合、提供側がまず気にするのは「誰が責任を取るのか」ですが、患者側の興味は「どのくらい使いやすいか」です。英国の電話サービスは有料(1分8円くらい)ですが、各国の通訳付き・難聴者にはテキスト版がある、と患者の使いやすさが考慮されています。日本とはずいぶん違いますね。
 
 イギリスの医学校は5年。卒業したらGeneral Medical Council(GMC)に仮登録し1年の一般研修後、医師として本登録できます。その後研修と試験を繰り返すことで専門医となっていきます。昔は(今の日本と同様)イギリスでも教育は教育省・医療は保健省と分かれていましたが、教育省が第三者機関のGMCに権限を依嘱しているのだそうです。イギリスで年間に登録される医師は15000人ですが、英本国出身者は5000人、あとは海外出身者なのです(インド4000人、パキスタン1000人、ドイツ700人……)。オーストラリアや香港などで条件を満たした医学校は英国と同等の扱いを受ける点も面白く感じます。「大英帝国」はいまだ健在の様子です。
 この教育に対する態度と医療に対する態度が首尾一貫している点が私には印象的でした。「標準化」と「個別化」の両立です。教育では、「医師」になれるコースはきっちり標準化されており、医師の質の確保をしていますが、同時に「特殊」への対応も忘れてはいません。医療だったら、EBMなどで標準化することで医療の最低の質を保証した上で患者個人個人の「特殊」に対応するのです。英国は「自由」と「標準化」のバランスを考えているが、日本は「野放図」と「管理」の間で揺れている、と言えばいいでしょうか。
 
 英国の診療ガイドラインの作り方も面白く感じます。国や患者も関与すること、経済分析(設備投資と治療効果の比較)が必ず含まれること、など、きわめて“現実的”なガイドラインができあがるようです。ただしそれには「民主主義」が必要です。それと、議長の腕(自分の予断を押しつけない。議事をスムーズに運営する。多くの意見を出させる。それを上手く集約する)が重要で、そこで珍しく著者は日本の悪口をもらします。日本の会議でよほどひどい目にあったことがあるのでしょう。
 
 
24日(日)優越感/『ボトムズ』
 他者への優越感を常にかきたてていないと自分のアイデンティティが維持できない人は、ただの弱虫でしょう。
 
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ボトムズ』ジョー・R・ランズデール 著、 大槻寿美枝 訳、 早川書房、2001年、1800円(税別)
 
 大恐慌がまだ続いている1933年ころ、場所はテキサス東部の森の中。11歳の少年ハリーと妹トム(本当はトマシーナ)は森で黒人女性の惨殺死体(レイプされ顔は殴られて潰され胸を切り開かれクリトリスを切り取られて全身を有刺鉄線で縛ってある)を見つけます。そして、頭に角のあるあやしい人影も。
 森の中(ボトムズ)には生き物が一杯です。美しさに満ちています。しかしその美しさの下には闇があります。野獣や毒蛇や刺す虫、そして不気味なものも住んでいます。人々は囁きます。ゴート・マン、トラベリング・マン、悪魔のことを。しかし治安官であるハリーの父ジェイコブは、イギリスの切り裂きジャックを連想します。(ここで「そんなのイギリスの作り話でしょ」という会話が一瞬笑わせてくれます) この近辺で黒人女性(それも売春婦)が同じ手口で惨殺されたのはこれで3人目なのです(ただし殺されたのが黒人の場合、新聞には載りません)。
 公正な捜査をしようとするジェイコブのことが気に入らない人々がいます。ジェイコブの「黒人には良い奴も悪い奴もいる」という言葉が「異常に黒人に肩入れしている」と取られ、ニガー・ラバーと悪口が公然と言われ、KKKが燃える十字架を持って一家に押しかけてきます。シーツをかぶっていてもすべて町内の人間であることは丸見えなのですが。(アメリカの家庭には銃器を備えておくべき、の理由がこのへんにもあるのかな、と私は感じます)
 しかし、身近に異常殺人者がいるかもしれないことには目を閉じて、これこそ黒人への偏見や憎しみを公然と発露してあわよくば気に入らない人間をリンチで木に吊すチャンス、としか思わない(そしてそれを平然と実行して自慢する)人々には唖然とします。唖然としますが、よくよく見たら今の日本にもそんなタイプの人間はよくいることに気がついてしまって、私は悲しくなります。
 
 ハリーは、当時としては型破りの(車を運転する、煙草を喫う、汚い言葉を使う)おばあちゃんと真犯人捜しを始めます。私はFBIのプロファイリングの話を思い出して、こんな連続殺人をするのは貧乏な独身白人男性で……などと思いますが、この時代にそんな知識があるわけはなく、科学捜査もなく、「社会の常識」では「なにかあったらそれはすべて黒人が悪い」の時代です。「真実を隠す謎」よりも「偏見の闇」の方が濃く感じられます。
 森には様々な化け物が住んで人間を襲うと恐れられていますが、黒人(および黒人びいきの白人)を実際に繰り返し襲っているのはKKKです。黒人から見たらどちらに襲われても結局殺され、それに対しての「正義」は行われません(当時の司法は白人のためのものです)。1933年と言えば昭和八年。当時の日本は今とは別の国家ですが、アメリカもやはり今とは別の国家だったようです(開拓時代や南北戦争の記憶がまだ“現実”として生きています)。サイコミステリー小説の“主題”である謎や恐怖だけではなくてそういった「同じだけれど別の国」(それと、ジェイコブ一家の家族の物語、特に父と息子の関係の破壊と再生)を活写した著者の腕にはただただ楽しませていただくだけです。
 ただ、語り手が晩年になってから追憶した、というスタイルのため、語り手が少年なのに自称が「私」で(地の文でも)父親を「パパ」と呼ぶところにはかすかな違和感を感じました。会話は「パパ」で地の文は「父」で良かったのではないか、と。
 
 
25日(月)替え刃/『ついていったら、こうなった』
 ヒゲがひょろりと一本だけそり残しが出たりするようになったので、電気剃刀の外刃を交換しました。この電気剃刀は、あるお祝いに家内が買ってくれた物ですが、店で替え刃の注文を使用として「Nationalの……」と言いかけて「おっとっと、パナソニックの」と言い直しました。どちらでも通じたようですが。大切なのは型番です。貯まっていたポイントと割引券で3000円のが半値で買えました。
 さっそく使ったら、新品を買った頃の切れ味が蘇ったようです。こんなことなら早く交換すれば良かった。でも、ケチくさいことを言うようですが、あの網刃って研げないんですかねえ。そうしたらもっと安くつくのに。
 
【ただいま読書中】
ついていったら、こうなった ──キャッチセールス潜入ルポ』多田文明 著、 彩図社、2003年、1200円(税別)
 
 街を歩いていたらいろんな人に声をかけられます。でも、「私ってば、人気者」と思ってはいけません(思うわけありませんね)。本書ではそんなキャッチセールスにほいほいついていったらどうなるか、を体験してまとめたものです。登場するのは……「手相を勉強しています(あなたの手相を見せてください)」「絵の即売会」「英会話教室」「くじで当たる無料携帯電話」「性格診断自己啓発セミナー」「無料エステ」「頭の回転が良くなるテープ」「UFOの集い」「先物取引」「ボランティア団体」「あなたの原稿が本になる」「結婚相談所」「在宅ワーク」「ヘアケア・アドバイス」「マイライン営業代理店」「出会い系クラブ」「幸運のペンダント」「ダイビングスクール」「あらゆる問題が解決・無料相談」「芸能事務所」……よくもまあこれだけつきあったものです。それぞれきちんと記事にするためには数時間は付き合っているはずです。我慢強い(そしてちゃんと最後には断って脱出しているのですから、意志が強い)人ですねえ。
 おっと、「絵の即売会」には私もついていったことがありました。会場を見て回ったらポスターとリトグラフだけで「絵」なんかないのにすごい値段がついていて「これは絶対お得」との勧誘との落差の激しさに「わはは」と笑って帰っちゃいましたが。でもこれは、私が持っている乏しい絵の知識の範囲内にその「即売会」が入っていたから簡単に脱出できたのであって、単に好きな作家の絵に憧れるだけだったら、みごとにはめられたかもしれません。本書でも、「キャッチを受けるベテラン」であるはずの著者がものによってはやはり見事にはめられそうになるところが生々しく描かれています。無知も危険ですが、「自分は大丈夫だからだまされない」と根拠無く思うのも危険、という教訓です。
 振り込め詐欺でもそうですが、「他人から何かを巻き上げよう」とするために人が行う工夫には限りがありません。本書だけ読んだら大丈夫、というわけではありませんが、ともかく「渡る世間には鬼もいる」ことを念頭に、本書巻末の教訓一覧表を座右の銘にしておけば、被害は最小限に食い止められる……かもしれません。
 
 
26日(火)強制配置/『ヴェネツィアと水』
 医者を田舎に強制配置しよう、という運動がありますが、医者だけではなくて、靴屋・時計屋・理髪店・美容院・ケータイショップ・銀行・弁護士などの各種“サービス業”全般もそれぞれ不足している地域に“強制配置”しなくて良いんですかねえ。
 
【ただいま読書中】
ヴェネツィアと水 ──環境と人間の歴史』ピエロ・ベヴィラックワ 著、 北村暁夫 訳、 岩波書店、2008年、3100円(税別)
 
 ヴェネツィアと水は切っても切れない関係にあります。ただしそれは複雑な関係です。単に水を埋め立てなどで“征服”してはいけないのです。ヴェネツィアは海洋貿易で栄えたのですから、ラグーナが埋まっては困るのです。したがって市の当局者は、数百年後をにらんだ“環境保全”をする必要がありました。本書では、確実な史料が残っている14世紀以降のヴェネツィアの水の歴史について語られます。
 イタリア本土とアドリア海の間に「ラグーナ」はあります。いくつもの川によって運ばれてきて堆積した土砂が海や季節風によって削られあるいは移動させられて作られた内海(塩水湖)です。そこに散在する島をベースとしてヴェネツィアは形成されました。つまりヴェネツィアは、川と海の異なる水のバランスの上に成立しているのです。川が運ぶ土砂のコントロール、水質の保全、外海の(特に嵐)からの防護……街を維持するために当局がするべきことはいろいろあります。さらに、自然以外の人間の営みも影響を与えます。14世紀初頭ですでに10万人、1563年には16万8000人(ヴェネツィア共和国全体で150万人)が密集して暮らす“大都市”なのです。
 水は「資源」でもありました。養魚場・製塩業・水車による製粉などが盛んに行われました。その結果、水流の妨害や水質汚染が発生します。内海での漁業に関する当局の規制が本書では述べられていますが、水質や稚魚の保護のためにはずいぶん厳しい態度(密漁者には、鉄鎖につないでガレー船の漕ぎ手を2年と罰金25ドゥカート)を取っていますが、ここで紹介されている布告を読むと現在の日本の役人よりよほど生態系全体を考えた良識的で合理性にあふれる態度に見えます。
 外海の圧力から市を守るために13世紀には「砂州監督官」が選挙で任命されていました。彼らは堤防や防風林などの管理を行いました。1324年には沼沢地を監督する専門委員(河川からの淡水による被害を担当)、1399年にはラグーナの専門委員会が設定されます(ただしこちらは上手く機能しなかったようです)。15世紀には本土の領土が広がり国としての体裁が整います。1501年「水利行政局」が設置され、ラグーナと都市の関係をすべて監視することになります。4年後には「水利行政局」を強化する目的で15人の元老議員からなる「水利管理委員会」が創出されます。
 ところがこういった公的活動は、私的な生産活動などと衝突します。その調整は、けっして全体主義的なものではありませんでした。ヴェネツィアは農業ではなくて個人の商取引をベースとした国家です。したがって国家(貴族中心の共和制)は、自由所有をベースとして、公共財を市民が利用するときには契約などでその保全(運河の浚渫など)を任せようとしました。政治家の手腕の見せ所ですね。政治の世界における個人の無秩序と国家の統治のバランスは、レトリックとイメージ戦略とでホンネのところはともかくうわべは神話的にきれいなものにとまとまりました。
 森林伐採や農業の拡大、人口の増大によって、河川によって運ばれる堆積物は増大しました。これはラグーナを陸地化する直接的な脅威でした。ヴェネツィアがまず行ったのは運河の浚渫。つまりは対症療法です。もう一つは根本療法です。河川の流路変更。17世紀初めに最も重大な暴れ川であったブレンタ川の開削工事が行われ、以後200年かつての河口付近のラグーナは安定します。ところが19世紀に「ヴェネツィアの人々が水質の悪化に対して不安を感じて動揺したために──それに加えて、良識や慎重な観察よりも無能ぶりが上回っていたために」と本書では辛辣に書かれていますが、川を元に戻す工事が行われ、数十年でラグーナの陸地化が進行したため、再工事が行われてブレンタ川は再びラグーナから遠ざけられることになりました。不安は人を愚かにし、結局高くつく好例です。
 ヴェネツィアが、というか、イタリアが、フランスやオーストリアに支配されることでヴェネツィア共和国とラグーナの関係は変化し、工業化・埋め立て・地下水のくみ上げによる地盤沈下・海面の上昇・人口の減少などでヴェネツィアを取り巻く“環境”は悪化します。それでも著者は「ヴェネツィアの歴史から学ぶべきだ」と主張します。行政と環境の環境の一つの(比較的上手くいった)モデルケースだ、と。私もその意見には賛成です。
 
 
27日(水)グルメの大衆化/『食べるフランス史』
 皆がグルメになってしまったら、それはつまりご馳走が「大衆化」したことになってしまうわけで、結果として「グルメ」の否定になってしまいません? 「大衆」があるからこそそれに対比する形で「(食)通」が存在し得るのではないでしょうか。ということはベストセラーのグルメ本は、結局自己否定かな?
 
【ただいま読書中】
食べるフランス史 ──19世紀の貴族と庶民の食卓』ジャン=ポール・アロン 著、 佐藤悦子 訳、 人文書院、1985年、2600円(税別)
 
 〈革命〉によってフランス社会は大変革を経験しました。食卓もその例外ではありません。著者は18世紀末からその「食卓」を追います。
 18世紀後半、奇妙な店がフランスに登場しました。個別の食卓で食物を供する店です。また饗宴が公開で行われ(周囲の回廊に見物人)、文学や論説で料理が取り上げられるようになります。1789年コンデ公が亡命し、失職した膳所の監督ロベールはレストランを創業します。革命の中、一時美食も罪とされましたが、社会が落ち着くにつれレストランも復活します。
 ちょっと不思議な本です。著者はまるで「その時代」に身を置いているかのように生き生きとした臨場感を持ってフランスのレストランを案内します。詳しいメニューや料理の紹介、値段、店の雰囲気、ミシュランのように星をつけて評価したかと思うと、安くて美味い店や名物シェフのいる店に読者を案内します。街頭では、戦闘があったり暴動があったりあるいはパリが包囲されたりしますが、それでも「今日はどこに食べに行こうか」という人(ブルジョア)はいるのです。そして1880年には「食卓と新政体(民主主義)の合致」が生じます。大衆の意に沿った「フランス料理」の普及運動です。レストランはまた変貌します。
 そういったレストランだけで「食卓」が構成されているわけではありません。食品目録の章では実に様々な食品が紹介されます。たとえば「じゃがいも」は、18世紀末にフランスに輸入されましたが、はじめは高価で料理法も限定されていたそうです。数十年後には重要な食材になるのですが。「米」の普及も19世紀初頭です。はじめは甘味のアントルメとして扱われ、野菜となるのは後代のことです。
 18世紀までの「フランスの料理」は、田舎料理と貴族の料理に二分されていました。しかし19世紀にはブルジョワ風料理が登場します。政治的な平等の要求とともに、産業革命に代表される自然に対する人間の優勢の宣言も盛り込まれた料理です。したがって材料はこれでもかの変形を強いられます。過剰に手を加えられた材料を包むのが多種多様なソースです。
 食事時間も変わりました。18世紀の貴族は、6?8時の間のデジュネ・正午のディネ・21時以降のスーペの3食でした。革命後は朝は軽食(コラシオン)または朝食(プティ・デジュネ)、正午が昼食(デジュネ)、18時頃に夕食(ディネ)となりました。1825年頃から夜食(スーペ)も復活したそうです。
 会食者の着席配置・テーブルセッティング・料理の順序などについても詳しく述べられますが、面白いのは、当時の「コース」が現在とは概念が違うことです。「コース」では、ポタージュもルルヴェもアントレもとにかく“全部”がいっぺんにテーブルに並べられます。アントレは大皿に載せられて供されテーブル上で切り分けられます。それらすべてを30?45分で食べ終えると、「二番目のコース」の登場です。それも食べたら最後の「デザートのコース」となるのです。しかしそこに新しい手順が登場します。厨房で切り分けて皿ごとにサーブする「平等主義」です。
 安い定食屋も流行りますが、その中身はピンキリです。ひどい定食屋の例が容赦なく具体的に列挙されていますが、落語の「時そば(時うどん)」でのひどい方の屋台の描写が連想されます。読んでいる方は笑えますが、実際に食べる方は悲劇なのです。
 「食卓」でフランスの19世紀を語る、という“冒険”の前には、19世紀のフランスの政体の変革や戦争も影がかすんでしまっています。もし日本で同じ試みを行ったら、明治維新を軽く無視できるでしょうか。ついそっちに目が行ってしまいそうになるでしょう。ところが著者は「食卓」から目を離しません。単なる食いしん坊なのではなくて、文化人の鑑、と褒めるべきでしょうね。
 
 
29日(木)有識者/『ヒトはなぜまっすぐ歩けるのか』
 有識者会議で審議をどうのこうの、と政府はよく言っていますが、結局そこに集められるのは、「識」の有無ではなくて「肩書き」の有無とその響きによって判断された人になるのでしょうね(ところでそれは誰が判断するのでしょう? 誰が有識者かを判断できる人は当然その有識者と同等またはさらに上の「識」を持っている人のはずですが(“下”の人間が“上”の人間を正当に評価はできません)、だったらなんで自分でその有識者会議に参加しないのでしょう)。
 あ、そうか、だから有識者会議では「自分たちを有識者と認めてくれた人」にしっぽを振る答申を出すことが多いのだな。
 ところで有識者の「識」って、知識かな見識かな。
 
【ただいま読書中】
『ヒトはなぜまっすぐ歩けるのか ──「めまい」とバランスを科学する』小池透 著、 第三書館、1996年、2500円(税別)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4807495348?ie=UTF8&tag=m0kada-22&link_code=as3&camp=767&creative=3999&creativeASIN=4807495348
 「科学する」とタイトルにありますが、著者は文学部出身(それもリヤド大学)ですので、がちがちの生理学書ではありません。文系の人間でも安心して読める本です。
 終戦直前、嬉野海軍病院で見習い尉官檜学が原爆症の診察をするシーンで本書は始まります。終戦後京都大学に戻った檜は耳鼻喉頭科教室に籍を置き、福田精の下でめまいの研究を始めます。福田は先行研究がほとんど無い状況で、人の動きと平衡の研究を行っていました。「どうなっているのか」を調べる前に「どうやってそれを調べるのか」の手法を開発(同時にその理論的根拠も確定)しなければならない状態です。
 福田がまず行ったのは、姿勢(具体的には緊張性頚反射(野球の外野手がジャンプして捕球するとき、首を左に捻って左腕を伸ばしたら、右手足は屈曲する))の研究です。さらに様々な反射が人体に存在していることが本書では紹介されます。ボート・柔道・スキー……なるほど、人体は一つのシステムとして全身が躍動しています。さらには、金剛力士像や風神雷神図まで登場するのですから、こちらは笑ってしまいます。
 体のバランスは、内耳・視覚・深部感覚・皮膚感覚などによって保たれています。中枢では脳幹が平衡を統括し、小脳が無意識に・大脳が意識的に平衡を維持します。ただし、福田が研究を始めた頃には内耳が研究の中心に考えられていました。(耳科学者として唯一のノーベル賞受賞者バラニーが作った「内耳が中心」という学問のスキームに全世界が縛られていたのです) 福田は研究によってバラニーの説を覆していきます。それは、長く困難な道でした。「一つ一つの臓器がそれぞれ別の機能を担当している」のではなくて「全身の臓器はネットワークを形成し、バランスを取っている」という主張はなかなか受け入れられませんでした。
 スポーツ選手の成績と動体視力の関係が明らかになったり、乗り物酔いをしにくい姿勢があったり
面白いことも次々登場します。福田の酒仙ぶりも並みではありません。月給を丸ごと飲んでしまうなんて、奥さんはどうやって生活していたんでしょうねえ。
 檜は、頭部外傷後の脳幹障害からのめまいに注目します。頚部の筋緊張と脳幹障害とが悪い循環をつくってめまいを起こすのではないか、という仮説は学会で無視されますが(なにしろ「耳鼻科の話題」には見えませんから)、時代が彼に追いついてきます。交通戦争による鞭打ちの多発です。レントゲンでは異常が見えず、詐病だとか精神病と言われていた鞭打ち損傷を、檜は客観的に評価しました。さらに、腰の筋肉も鞭打ち損傷に関与しているそうです。本書では「頚性ならびに腰性めまいの神経機序」として図解が載っていますが、「視床下部・脳幹・小脳・頚部腰部深部受容器・脊髄運動核・体幹や四肢の筋肉・眼球運動核・眼筋」……全身は複雑なネットワークを形成しているのです。
 もちろん心理的な因子もあります。そこで檜は心因性めまいの研究も始めます。キーは鞭打ち患者の「嫌なことを思い出すとめまいが出る」。「記憶」がキーワードだ、と檜たちはウサギの海馬への電気刺激実験を始めます。同時に脳内の伝達物質を探します。さらにこの研究は「匂いによるめまい」へと発展します。面白いのは、「嫌な匂いでめまいが起きるのなら、良い匂いをかいでいたらめまいがおさまるのではないか」という仮説で“治療”したら治った人がいることです。文字通りのアロマセラピーです。
 檜の次のテーマは脊柱側湾症です。力学的な観点からだけでは側湾症が上手く扱えず悩んでいた整形外科の教授が、平衡機能に注目して共同研究を持ちかけたのです。その結果浮上したのが、子どもの成長時期に適切に介入したら側湾症が予防できるのではないか、という仮説です。平衡機能訓練というと物々しく聞こえますが、平たく言えば、ちょっと危なっかしいところでぴょんぴょん飛び跳ねて遊べ、なのですが。反対する一部父兄の声を抑えて実験的にそれを取り入れた小学校では、乗り物酔いが減り側湾症がゼロになりました。
 
 国境がないはずの科学に実は“国籍”があった、と著者は言います。自分が育った宗教や文化、そういったものに科学者は影響を受けながら研究を行い、それゆえに様々な成果が得られたという証左を著者は本書で示してくれます。となると、科学の物語は常に人間ドラマでもあるわけです。
 
 
29日(金)迎え撃つ/『海底からの生還』
 冷戦時代、「ソ連が上陸するとしたら北海道。だから北海道に戦車部隊を配置して迎え撃つ」というシナリオがありました。
 私は不思議でした。もし私がソ連軍だったら、戦車部隊が待ちかまえているところにわざわざ陸軍を上陸させません。まずは核ミサイルを東京と沖縄に撃ち込んでおいて首都機能(命令系統)を破壊し米軍の動きをある程度封じてから、上陸するとしたら新潟当たりかな。そこから太平洋側へ進撃して日本を分断して東京……はもう火の海だから大阪方面を目指すか、新潟を橋頭堡にしてそこに自衛隊を引きつけてその背後に別働隊を上陸させるか、の作戦を採るだろう、と考えたのです(当時はまだ原発がほとんどなかったからそう思っていましたが、今だったら原発近くに上陸してそれを盾に取る(影に隠れて攻撃されにくくする、あるいは「壊すぞ」と脅す)、という手もありますね)。
 もしかしたら、日本で戦車部隊を展開できる場所が北海道くらいしかないから、そこでのシナリオを考えてみた、ということだったんでしょうか。
 
【ただいま読書中】
海底からの生還 ──史上最大の潜水艦救出作戦』ピーター・マース 著、 江畑謙介 訳、 光文社文庫、2005年、571円(税別)
 
 19日の『絶対帰還。』は宇宙からの救出でしたが、今日は海底からの救出です。
 第1章は1939年5月23日火曜日の描写から始まります。その日にアメリカでそして世界でどのようなことが起きたのかが列挙され、そしてズームインされるようにポーツマスの光景が読者の目の前に広げられます。海軍工廠から記者が走り出し、新聞社からニュースが発せられます。「潜水艦スコーラスがニューイングランド沖合で沈没」。ここまでわずか4ページ。あまりに快調なテンポで、読者は自分がまるで1939年に生きているかのように感じさせられてしまいます。
 全長310フィートの艦隊型潜水艦スコーラスは新造で公開試験航海中でした。順調に試験は進んでいましたが、急速潜行の直後、ディーゼル機関へのメイン吸気口から大量の浸水が始まります。「誰にとっても正念場というものは、考えている余裕もなく急にやってくるものである。……ある者は逃げだし、ある者は責任を果たし、ある者は迅速に動き、ある者はただ無力となるという極限の状態であった」と本書では述べられます。大量の海水が一挙に艦内に侵入したことにより、緊急浮上の努力もむなしくスコーラスは沈没します。深度243フィート、水温はほとんど零度の海底へ、内部は水と油と塩素ガスで汚染され、非常灯も暖房も切れた状態で。
 単に定時連絡がない、というだけのことでしたが、コール提督は自身の悪い予感を信じ、ただちに捜索を始めます。
 潜水艦が事故を起こせば乗組員は助からない、が当時の常識でした(運が良ければすぐに溺死、運が悪ければしばらく生きてから……)。それに挑戦していたのがチャールズ・パワーズ・モンセン大尉です(『海底二万哩』を読んで海軍に入ったそうです)。彼は潜水艦の艦長を経験したあと、前例がなく反対者がごまんといる状況で潜水艦の救命器具や呼吸ガス(ヘリウムと酸素の混合物)などの先駆的な研究開発を行っていましたが、まだ“実績”はありませんでした(ただし、実際に沈没させた潜水艦からの脱出は、自身が実験台となって成功させています)。スコーラスの乗員と同様、彼にも正念場が突然訪れます。何もわからない状態での救助作業(その前に捜索作業)の開始です。モンセンは10分で準備を終えて出発します。海は荒れ始めていました。
 スコーラスの船内では59名の乗員の内33名が生き残っていました。低温と疲れと空気の汚れと情報不足と絶望が彼らを苦しめます。
 乗員の家族も、家族を心配するだけではなくてマスコミに注目されることも負担となります。スコーラスの艦長の妻は、マスコミに応対し乗員の家族や自分の家族の面倒や近所への対応に追われ、真夜中を過ぎてから寝室に向かう階段途中にひとり座り込んで思います。「これでやっと泣くことができる」。
 奇跡的に海底の潜水艦は発見され、翌日静まった海で救助作業が始まります。チェンバーと呼ばれる釣り鐘状の救助器具を下ろして数人ずつ脱出させるのです(「モンセンの肺」と呼ばれるアクアラングのご先祖のようなものもありましたが、弱った乗員がそれを使いこなすことは困難だったでしょう)。ところがモンセンの勘がささやきます。すぐに天候が悪化する、と。大急ぎで作業を繰り返し、最後の8人を運び始めたとき、海はさらなる犠牲者を要求し始めます。荒天によってワイヤーが絡みチェンバーは海中で立ち往生、そしてつり上げケーブルが切断し始めます。
 
 生還者ユーハスが救急車に乗ろうとしているときの描写です。
一人の記者が尋ねた。「陸に戻れて嬉しいでしょう?」 ユーハスは怒りに突き動かされた表情で彼をにらむと、こう返答した。「ああ、勝手にそう思えばいいさ」
想像力不足で紋切り型のマスコミが“活躍”しているのは、今も70年前も同じ様子です。報道だけを見ていたら、世界は(たとえば海中に)姿を隠してしまうようです。
 
 
30日(土)裁判員の守秘義務/『ぼくとルークの一週間と一日』
 なんだか小難しい要求をされているようですが、もしも裁判員になって守秘義務違反をしたら、強姦事件の内容をペラペラ喋ったりするのは論外ですが、「これくらいが何で問題なの」というレベルのものでも、やっぱり刑事告発されて裁判になるんでしょうね。で、もしそれに裁判員がつくと……裁判員が(元)裁判員を裁くことになります。で、裁く側が裁かれる側の主張に賛同してその裁判の情報を外に漏らしたら、これもまた裁判に。あらら、もしかしたらきりがなくなるかも。
 そうそう、裁判員になりたくなかったら、候補として裁判所に呼び出されたとき「ブログにこの裁判のことを書こうと楽しみにしている」と言えば、候補からあっさり外してもらえるかもしれません。
 
【ただいま読書中】
ぼくとルークの一週間と一日』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 大友佳奈子 訳、 東京創元社、2008年、1800円(税別)
 
 デイヴィッドは夏の休暇が憂鬱でした。普段は寄宿学校でクリケットに夢中になっているのですが、休暇には、両親が亡くなってから引き取られているおじの家に“帰”らなければならないからです。この一家がなんというか、人を憂鬱にさせるコンテストがあればぶっちぎり優勝間違い無しの面々。打ちのめされたデイヴィッドは一家を呪います。その言葉に応えて地面から(塀をばらばらにしながら)出てきたのは、でかい蛇と、「牢獄から解放してくれて感謝する」と言う少年ルークでした。ルークはデイヴィッドに言います。「火をつけるだけで、すぐに現れる」と。
 その日からルークの日々に灯がともります。マッチを一本擦るだけでルークが来てくれて気持ちよく過ごせるのですから。
 ところが……デイヴィッドがほんの気まぐれで「あのビルで火事を起こせる?」と聞いたとき、ルークは本当にそのビルを見つめるだけで火事を起こしてしまいます。「きれいだな」恍惚としてルークは呟きます。デイヴィッドは、刺激的な気分と同時に、もやもやとした罪悪感を感じます。
 さらに、ルークに追っ手がかかります。デイヴィッドがルークを呼び出すのを待ってつかまえようというのか、追っ手はずっとデイビッドにつきまといます。詳しいことは話されませんが、ルークは重大な罪を犯して罰せられているところだったのです。しかし追っ手はフェアプレイも重んじます(ちなみに、「フェアプレイ」はクリケットの二本の柱の一本です。もう一本は「社交」)。追っ手のボスのミスター・ウェディングとデイヴィッドは、こんどの日曜までルークをデイヴィッドが匿うことができたらルークは永久に安全、という約束を交わします。しかしルークはつかまってしまいます。デイビッドはルークを救うために、誰が隠したかわからずどこに隠されたかもわからない隠されたのが何かもわからないものを見つけ出すことを約束してしまいます。それを見つけることができるのはそれらを知らない人、という魔法がかかっているので、具体的な情報も得られません(知っている人もデイヴィッドに教えてはいけないルールです)。しかも、期限は2日半。デイヴィッドはヒントを求めて、人の言葉をしゃべれる大ガラスにアドバイスを求めます。一つの目を共有している三人の老婆(あの神話通りの進行です)、ドラゴンの入れ墨をした若者(デイヴィッドたちは鞭打ち(ガントレット)の試練を受け、事件の真相が少しずつ見えてきます)、そして病院から……
 いやもう最後は怒濤の勢いで物語は進行し、デイヴィッドの不愉快な親戚たちは逃亡するわ、神々は登場するわ、もうてんやわんやです。ただ、本書の大団円は、ハッピーエンドではありません。ハッピーと言えばハッピーなのですが、実は静かな悲しみが湛えられています。北欧神話を読みたくなってしまう余韻に満ちています。
 
 
31日(日)ウリ/『あなたの知らぬ辞書がある』
 テレビで「これが“売り”です」と言っているのを聞いて、今はセールス・ポイントとは言わないのかな、と思いました。ただ、私自身は「売り」という言葉は使いたくありません。私が育った環境では「売り」は「売春」の隠語だったものですから。(だから逆に「買春(かいしゅん)」に違和感を強く感じたりします)
 
【ただいま読書中】
あなたの知らぬ辞書がある』辞書・事典発掘探険隊 編、実務教育出版、1998年、1134円(税別)
 
 初っぱなは「犯罪・殺人・事件」です。そこで紹介されるのは『世界犯罪百科全書』『現代殺人百科』『コリン・ウィルソンの犯罪コレクション(上・下)』『世界犯罪百科(上・下)』『暗殺の事典』『詐欺とペテンの大百科』。その次のページは「性豪・好色」で紹介されるのは『好色家艶聞事典』1冊ですが、ここに紹介される明治の性豪のすごさ(単に色好みなだけではなくて、それを“芸”に昇華させている)には、あきれます。つぎは「毒物を使った犯罪」で『毒物犯罪カタログ』『食卓の化学毒物事典』『毒物雑学事典』です。「妖怪・お化け」では『妖怪お化け雑学事典』『図説 日本妖怪大全』『幻獣辞典』。ちなみに『図説 日本妖怪大全』は水木しげるの著作です。
 『英和・和英最新軍事用語辞典』というものも登場します。なんと合衆国統合参謀本部の命令で作成され、米国防総省の関係者はこの辞典以外の言葉の定義を与えてはならない、となっています。軍隊は言葉にも厳しいのね。いくつか言葉が紹介されていますが、たとえば「戦略」は「平時・戦時を通じて必要な政治的・経済的・心理的および軍事的諸力を発展させ、運用する、技術・科学のことで、勝利の蓋然性と好ましい結果を増大させ、敗北の機会を減少させるため、諸政策を最大限支援する」……「ブラックリスト」は「現実の、または潜在的な的への協力者・同情者・スパイ容疑者及びその存在が友軍の安全を脅かすその他の人物に関する、公的な対敵情報のリスト」……なるほど?。
 その他『織田信長家臣人名辞典』『下戸の逸話事典』『SF宇宙生物図鑑』『声優事典』『ニッポン名作漫画名鑑』(なんと、『コージ苑』までもが文字で“あらすじ”を紹介されているそうです。四コマ漫画でッせ)『数学マジック事典』(特に種を仕込まなくてもできるマジックの数々)『世界なぞなぞ大辞典』『国鉄全駅ルーツ大辞典』(駅名のルーツですので、JRになってもまだ“実用的”です)……いやもう、上げていったらキリがありません。こんなに多種多様な“辞書”が存在すること、そういった“辞書”を作る人がいてそれを必要とする人がいることに、乾杯!(私は下戸ですけれど)