大東亜戦争も4年経ち、戦局いよいよ厳しくなり(実は、敗色濃くなり)広島市内の国民学校も、 他の都市同様、疎開することになりました。

1945年4月、私達、織町国民学校3年生〜6年生迄の350名(他は、縁故疎開、病弱な者は居残り)は、 山県郡八重と任生(現在千代田町)の7個所の寮へ集団疎開しました。

町別に寮は決められ、私達、石見屋町の児童は、一番大きい八重の大福寺へ100名程度お世話様に なりました。戦争が激しくなるにつれ、物資は乏しくなり、とりわけ、食物には、事欠く時代。 田舎に行けば、腹一杯食べられると、親と別れて暮らす淋しさより、その方が楽しみだったのに、 忽ち、翌日より裏切られてしまいました。

朝食は、お椀一杯の「おかゆ」とは言え、お米が20、30粒泳いでいる様なものだったし、 昼食は毎日弁当箱1/5位の御飯に梅干し一個の「日の丸弁当」、梅干しの種をいつまでもしゃぶり、 最後は、カリッと噛んで中の白い米粒の様なものまで食べました。夕食は辛うじて、じゃがいもとか、 南瓜の煮物又は、ある時は、生まれてはじめて食べる「いものつる」とにもかくにも、 毎日がひもじさとの闘いでした。

男子達は、ひもじさに耐え兼ねたのか、道端の「すいば(いたどり)」を食べひどい下痢をするのに、 又しても食べるのに「絶食罰」。その男子達に、私達6年の女子は、それでなくとも少ない自分達の食事を、 先生や寮母さんに見つからないように、こっそり隠れて食べさせて上げたものでした。

農繁期は学校が休みとなり(田舎へ来て始めて、こんな休暇があることを知りました)各々、 農家へ手伝いに行きました。本当は邪魔にこそなれ、何の手助けもならなっかたでしょうに、 食事に有りつける事を頼りに、農家へ麦刈りに、田植えに、じゃが芋掘りにと、初体験した事は、 都会では味わえなっかた自然との親しみでした。とは言え、何とも卑しい下心でした。

「ひもじさ」とは、どんなものか、今の飽食の時代に育った子供たちにわかるかしら

あのガキ大将で、でも頭の良かった6年生の男子が、事もあろうに、地元の子の弁当を盗んで食べたのです。 私だって、毎日隣の地元の女子が、大きな「黄な粉」をまぶした「三角むすび」を竹の皮に三つも持って来、 目の前で食べられるのを横目でチラチラ見ながら「欲しがりません、勝つまでは」と言うものの生唾を ゴクリと飲み込んで、いつも羨ましさを通り超して恨めしく思っていましたもの……………

翌日の朝礼の時、引率の男先生が、全員の前で歯を食いしばり「竹の根鞭」で撲って撲って、 虫けらの様に転げまわるその子を撲られ廻されました。体中いぶし、こぶしに腫れ上がったその子は、 ウンウンと唸り1ヶ月ぐらい苦しまれました。その間、地元の子も、疎開の子も勿論、 先生達も身じろきもせず只々見つめていたのは、やはりその時代のした事ですね。今思えば、 先生は地元の人への済まなさ、又は、疎開学童達の見せしめと涙をこらえての折檻だったんだろうと 思いますが何ともやりきれない事件でした。

その男子はいまだに、いつの行事の呼び出しにもおいでになりません。

それから何日か経った、あの忌まわしい八月六日がやってきたのです。

あの日の朝礼の時、「わら人形」を敵兵と見立て、順番に竹槍で「エイッ!、ヤァッ!」と突き殺す演習をしていたその時ドーンと底から突き上げるような鈍い音、と思うまもなく、ムクムクとピンクの雲が膨れ上がり、大きなキノコ型になった事、あの美しいピンクの大きな雲の下で、あの様な世にも恐ろしいむごい地獄絵図が繰り開かれていようとは………

私達疎開児童の大部分の者が、親を失い、兄弟を失い孤児となりました。

又、50年余経った今もその後遺症で苦しんでいる人が、大勢いることを………

「戦争」どう悔やんでも悔やみ足りません。

でもその戦時中のひもじさは、いまから思えば未だ序の口だったのです。

私は、終戦の翌年市女へ入学、勉強より教室の倒壊の片付けや、 江波農場での野菜作りの作業の方が多い女学校生活でしたが、何の食料の配給もなく、 親達は食べ物の調達に大変でした。

当時、確か「江波製菓」と言う会社が作っていたのが「江波だんご」イモの粉にヨモギを入れた茶色の だんごは、当時でさえ煮ても焼いても食えぬしろもので、ヨモギと言ってもヒメヨモギ草とかで、 原爆後75年間草木も生えぬと言われた焼け跡に勢い良く沢山生え出したあの鉄道草です。

腹は減っているとは言え、目を白黒させて無理矢理水でゴクリと飲み込まないと食べられぬ物でした。

ところがある朝礼の時校長先生のお話が長く気分が悪いなァ、とハッと思った時、 生徒のあこがれの的の生物の三上先生の腕の中、教室まで抱いていかれ「キミ大丈夫か?」 背中をさすって下さるたびに「ゲボッゲボッ」と出るわ出るわ、 朝食のあの茶色「江波だんご」ばかりで、恥ずかしさに本当に消え入りたい様な思いでした。

何時頃だったか砂糖の配給だけ有り、弁当のかわりにスプーン一杯の砂糖を持参、 コップに水を一杯二杯と、砂糖を舐め舐めの昼食の事もありました。

後に校門の横に「コロンパン」と言うパン屋が出来、砂糖と交換して呉れて、その時は、 本当に幸せと思ったものです。

父がラバウルで昔取った杵柄とやらで、大きな「どんびき(蛙)」を捕まえお汁にして 「久しぶりの蛋白質」と舌鼓を打ったことなど、苦労して、食べ物にありついた子供の頃の話は、 今の子供たちには「ヘルシー」とだけに思うのでしょうか。
 


 
山県郡八重と任生
八月六日

 


 
市女