総代会連盟総会

*総代会連盟総会について

総代会連盟総会が、平成25年4月18日【木】13:30〜17:00、蓮教寺にて行われました。

『総代会連盟総会』は、@総会 A法話『仏事のイロハ』-浄土真宗の葬儀について学ぼう-  御講師 竹本 憲師(善正寺 住職)B懇親会 の三本立てでおこなわれました。

テーマ『仏事のイロハ』-浄土真宗の葬儀について学ぼう-
御講師 竹本 憲師(善正寺 住職)

ご法話を聞きながら、身近で、大切なことなのに、深く考えていないことを反省させられました。

「葬儀とは何なのか?」 @感謝会→亡き人が如来様に感謝する。A残された者が如来様に感謝し、お礼する。

「葬儀の中心・教えの中心」は「如来様」「本尊」である。

もし如来様のご苦労と、お働きがなかったならば、 私は死して何処に行くのか?ただ空しさがあるだけだったろう。

仏とならせて頂くご縁を頂いて、「有難うございます。」安心が恵まれる。先だった方も、 残された者も安心が恵まれてくる。

「何故、何の為に葬儀をするのか?」@仏さま成らせて下さる如来様に感謝の集い。 A亡き人への感謝の集い。 感謝できるのが人間の姿であり、人間と動物の違いはどこにあるのか?

釈尊は、御恩を感謝の心を持っているかどうかが人間と動物との違いだと説かれた。「有難う」の心を見失っては人間ではない。

御恩を忘れた人間は犬、猫にも劣る。「ようこそ仏と仕上げて下さいました。」と感謝が出来る。(如来様への感謝)

現代の葬儀は「簡略化」された。簡略化とは、外してはならないものが外された。見失ってはならないものが、見失われたということだ。

「儀式」の義が抜けると、式だけになる。無駄なものを省き、高価なものは省き、面倒なことを省くことを考えていないか?

「何故、家族葬をするのか?」→「みんなに迷惑かけたくない」という理由がある。それは、「自分も迷惑かけられたくない」という 心の裏返しなのか?

私たちは、はたして、他人に迷惑かけないで生きていけるのだろうか?「内輪(団扇)だけでするのはセンス(扇子)がない」

仏教で「縁起」という教えがある。「単独で、一つだけで成り立つものは、何一つない。」

「生きていること、存在していること、成り立つこと」全て「縁起」であり、単独で、一つだけで、成り立つものは何一つない、 例外はない。全て「支え合い・つながり合い」である。

全てのものは例外なく、「かかわり合ってしか、つながり合ってしか、支え合ってしか」生きていくことが出来ない。それがあなたの命であり、 「縁起」です。

「阿弥陀」「アミダ」の「ア」とは「否定語」である。「ミダ」とは、「量る」という意味。「あなたのいのちは、量ること、数えること のできない、無数の働きに支えられて、私たちは成り立つ。」その働きに、頭が下がる。

あなたの命は、限りない多くの命に支えられている命だと気づいてくれよと私に働きかけておられる。それが「南無」です。

誰れが働きかけているのか?既に目覚めた方(ブッダ)が私に働きかけておられる。それが「南無阿弥陀仏」です。


「単独で成り立つものは何一つない。」それなのに、そこに、境界線を引いて、「お礼を言う場を奪っていないだろうか?」

「葬儀の意味」に「誕生会」がある。→先立って行かれた方の誕生であり、「往生」→「誕生」と見ていく。

往生とは、世間で、「困ったこと・行き詰まったこと」という意味に使うけれど、本当の意味は、その逆である。 新しい世界が開けていくことだ。

「他界した」という言い方がある。「行方不明」という意味にならないだろうか?

@「帰れる場所」A「待ってくれる人がいる」

ある信者は「臨終は卒業式。お浄土への入学式。私はお浄土の一年生。」と味わわれた。これが、ご縁を頂いた人、 恵まれた人の言葉ではないだろうか。

仏さまとなられた亡き人は「あなたのことをずっと見守っていましたよ。色々なことに出会い、苦しみ、嫌なこと、思い通りにならない 色々な苦労をしてきたけれど、ようこそお浄土に生れる身に成ってくれたね。」と言って下さっているのか?

笑顔で迎えてもらうような生き方をさせて頂きたいものです。待っていて下さる方があるということは有難い。

古い私が死んで、新しい自分に生まれ変わっいくことが、誕生である。

「学ぶということはどういうことなのか?」 「学ぶということは変わるということ」学んだ証は、変わったといえる自分自身に出会うということである。

他人のことだけでなく、「私の事だ」と受け止めていくことが大切です。それが真宗の葬儀です。他人事にしていないか?

亡き人から、大いなるもの、大切なものを、そこから学んでほしい。生きること死ぬことを深く学び考えてほしい。

今生きていることが当たり前ではない。死ぬことが当たり前ではないか。今生きていることは、とんでもないことであり、 ただ事ならぬということを学んでほしい。

愛する人の死を通して、何も学ぶことがなければ、淋しいことではないか。

ただ悲しむだけでなく、故人の死から、大切なもの、かけがえのないものを学んでいくという姿勢が大切ではないか。

亡き人をご縁に「釈尊の教え、親鸞聖人の教えに耳を傾けてほしい。」という声なき声が聞こえてこないか。


行事の模様を、写真で紹介します。
総代会連盟総会
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