劉禹錫

禹錫、字を夢得と言う。彭城の人で、家は世世、儒者であった。貞元九年に進士に合格、後、博学宏辞の科に登った。時に王叔文は棋が得意で、寵任を順宗がまだ太子の時に得たていた、彼は柳宗元と供に叔文に交わった。叔は非常な能弁家で、よく道を治めることを言い、自から王猛の後だと誇称していた。柳宗元も又、叔文の能力を過信していた。順宗が即位すると、劉禹錫は度支員外郎に擢んでられた。

朝廷の大議秘策は皆な叔文の心理から出たおのであった。禹錫と宗元は叔文の補佐の臣であったので、秘策を議するにあたて、は実は余り聞くことなく、勢力をのばし、時の人人は名を指さず「劉柳」と呼ぶほどであった。憲宗が立つてから、王?、王叔文の二人を貶せられた。?は病死し、叔文は死を賜った。

そして、叔文の党は皆な一網打尽され柳宗元、劉禹錫、韓泰、韓曄、陳謙、凌準、程?、韋執宜の八人は皆な斥逐された。時に世間では此れを『八司馬』と称した。この時に禹錫は播州に貶せられたが、彼の母が八十歳の老齢で行く事が出来ないので、御史中丞裴度が是を憐れみ、禹錫の為に請うて、連州に改貶せられ、未だ至らないのに朗州に斥けられた。朗州の地は野郎の夷に近く、俗、巫鬼を信じ、「竹枝」は祈神のの曲であるが、其の声が、卑しく、節回しが如何にも粗野で聴くに堪えない。そこで禹錫は、昔、楚の屈原が瀟湘に居た時、その民の神を祭る歌が俗陋であったのを改めて「九歌」を作った。

禹錫は、屈原に擬して「九章」を作って、此れを村の児童に歌わせることにした、此の調子が面白く、音律に協い、それが唐の貞元、元和の間に流行した。そこで後人が「竹枝詞」を作るに皆なこれに做って作ったのである。「竹枝詞」とは、その土地の人情風俗を歌う流行歌のよyなももであった。


   竹枝詞九首 録三
山桃紅花満上頭。    山桃の紅花は 上頭に満る
蜀江春水拍江流。    蜀江の春水は 江を拍って流れる
花紅易散似郎意。    花紅 散り易すく 郎が意に似たり
水流無限似儂愁。    水流 限り無く 儂が愁に似たり


   竹枝詞九首 録三
日出三竿春霧消。    日出で三竿 春霧消ず
江頭蜀客駐蘭橈。    江頭の蜀客 蘭橈を駐む
欲寄狂夫書一紙。    狂夫に書一紙を寄せんと欲す
住在成都萬里橋。    成都の萬里橋に住して在りと


   竹枝詞九首 録三
瞿塘??十二灘。    瞿塘 ??たり十二灘
此中道路古来難。    此中道路 古来難し
長恨人心不如水。    長く恨む人心は 水に如かず
等閑平地起波瀾。    等閑に平地に 波瀾を起す


    楊 柳 枝
煬帝行宮?水濱。     煬帝の行宮 ?水の濱
数株残柳不勝春。     数株の残柳 春に勝えず
晩来風起花如雪。     晩来 風起こって 花は雪の如く
飛入宮牆不見人。     飛んで入宮牆に入れども人を見ず


      2008/03/25     石 九鼎