漢 詩 作 詩 講 座  (1)

平仄の起源について。

『詩は志を言う,歌は言を永する,声は永に依り,律は声に和す』 詩は音声を重んずる,と『書経』に有る。周詩三百詩編の序文に『情は4声に発し声文を成す,これを音と言う』と解説している。

これが後世の『平・仄』と言う原理を示し,両漢の次ぎの魏の時代,この漢魏の際に始めて文字の声音と言う反切に依って表わす方法が案出した。

『反切』は即ち反し,何々の反しと言うので,つの文字を連接させ,その音の反切により字の音を言い表わす方法が漢魏の時代に発明された。

魏・晋の時代に,「陸機」「潘岳」等,詩人才子が現れ,これらの人が文字の声音の上ばかりでなく,文字と文字の関連上に「対偶」を設ける。即ち『対』を取ることが研究された。

この時代の作った詩は,それより以前の詩と異なり,多く対偶の文字を以って組織した。そこで,反切によって文字の声音を整える事と,対偶による,例えば「花と言えば月」「天と言えば地」2字の対を取ることが起こり始めた。

これは後世の「律詩」の基を拓く一つの原因となる,声音の反切に対し,文字は対偶を以って,この二つが応用され進化して行き,六朝の齊・梁の2代に至る,

声音と文字との様に就いて最も深く研究した人として『沈約』と『謝眺』又,『王融』などが現れて,中国の文学の声音と言うものを四声に区分した。この四声の調声,即ち,平・上・去・入,の四声にみな区画をした。

■漢詩は,むつかしい!と言う。これは規律が厳格もの一因であろう,然し,教える人が教え方を知らない,学ぶ人は学び方を知らないからであろう。一体詩は独学でやるべきである。独学の方が下手な先生に学ぶよりは却って上手になれる。そうしてこそ各人の特色のある真の詩が世に現れる。

李白にも杜甫にも詩の先生はいなかった。漢詩は学問の注入主義と誤解しての話しで,漢詩は思想の注入物ではなく,その反対に思想の噴出物である。思想であれば独りで噴出し得る。詩と文の別を一言すれば,文は文字を正しく用いて,誤りの無いことを要す,詩は文字を活用してその変を尽すことを要する。

文は声律の拘束が無い,字数の制限が無い,漢詩は声律の拘束が有る,字数の制限が有る。文は流暢,漢詩は含蓄。文は意が到り筆到るを貴び,漢詩は語尽いて意尽きざるを貴ぶ。才気ある人がその才を欲しい侭にすることが出来るのは文よりも詩の方である。

漢詩愛好者の一般の人も失望するには及ばぬ,才子の出来ない面白い物の出来るのは詩の妙所である。故に才子,不才子の共有物である。その証拠に李白は天才,杜甫は鈍物だと言う。この両家は李杜と並び称せられて百代詩人の両正宗となっている。(井土霊山)■




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