漢 詩 作 詩 講 座   (2)

漢詩とはどんなものか。

漢詩とは,一定の音律に調和させて,人の思想を文字に表現したものである。感情が内に動けば言語に表れると言う。詩は人の心が物に感じて声を成すものである,風が樹を払えば天籟が鳴る,水が石に激すれば飛泉が咽ぶ,天地の無情な木,石の無情なものでも一たび感触に遇えば,自然の音響もあれば調子もある。

人間は固より喜怒哀楽を感じるものである,時と場合に応じて種々の感情を呼び起こす。美しい花を見たり,好い山水の景色に遇えば楽しく嬉しいから詩には喜声がある。テロ事件や戦争など殺伐な気に感じては,激烈であるから詩には怒声がある。

人の死を悼み,弔う,或いは零落に感じては,悲しいから詩には哀声がある。祝宴に臨んだり慶賀すべきことに感じては詩に楽声がある。この四つの声は正声であり,自然に感じて自然出るものである。

その人の身分により『詩品』に特殊の長所が見える。又,その人の性質による,平和な人は温厚な詩を作る,古来,英雄豪傑は英雄豪傑らしい詩を作る,風流才子は風流才子らしい詩を作り,僧侶は僧侶らしい詩を作る,女流は女流らしい詩を,画家は画家らしい詩を,書道家は書道家らしい詩を作る。

その詩を一読すれば,その人の身分も性質も大体推測できる。即ち詩は直ちに其の人である。身分性質に違う詩を作ったら真正の詩とは言えない。只,文字を排列したのに過ぎない。

漢詩作詩の目的
詩は自分の思想を律呂的に表現するもので,その表現形式は種々の方法があるが,終局には自分の感興を写し,人を感動させると言うのが最後の目的である。また喜怒哀楽を写すと言うことは詩の目的でもある。

人を感動させるには,心から至誠の泉が湧き出したものでなければならない。虚事虚構は人を感動させるものではない。詩は上手に出来ていても,字句の巧妙は艶麗で花のようでも,文字の上に心の実を表わしていなければ,その目的を達することは出来ない。


古体詩は古詩、楽府に分けられ、近体詩は絶句、律詩,排詩。六朝の詩文は 美辞麗句が特徴。対句。聯文体が多いのも特徴。
古体詩、楽府の造句法(三言〜九言、雑言、長短句、句数不定)
古体詩、楽府の平仄法(特定の平仄法が無い)
古体詩、楽府の韻脚法 (毎句韻、隔句韻、隣接韻、換韻、通韻)

 古来、詩を作るには古体詩・近体詩の各々の律挌を心得て、それに合うように作ることが肝要である。
入門としては何れの詩形から始めるべきか、と言うことが論議される。古体詩から始めるベキと言う説と、近体詩から入るべきであるとする説の二説がある。これに就いては各々一理がある。

詩の発達順序から見て、古詩から入るのが便利である。それは古詩の律挌は自由の範囲が広く、拘束される法則が少ないからである。造句法では三言から九言まで自由の句が造られ、平仄法に於いては殆ど拘束が無く、用いたい字が自由に用いられる、韻脚法では如何なる押韻を用いても自由である。

従って
自由に思想感情の表現するにも近体詩よりも遙かに自由である。之に引き替えて近体詩は律挌に於いて韻文としての要素を完全に備え、それに伴って造句法には五言と七言の二種に限られ起承転結に構成に合わせことが困難である。平仄法に於いても、二四不同、二六対、挟み平の禁止、同字重出の禁止。粘法。等等拘束される。その為に入門者が近体詩に手を着けてても完成せずに終わることが多い。以上の点から古体詩から始めて、一応は詩の体形えを会得し、近体詩に進むのが順序とされている。

外国語の習得と自転車の乗り方の例として。外国語の上達の道はコミュニケーションの体験を積み重ねることである。学習法も同じである、先ず作詩してみる。自転車の構造や原理などをいくら学習しても無駄で、ともかくサドルにまたがって、ペタルを踏んでみなければならない。

漢詩の作詩法の同様先ず作詩する。外国語も同様に、その言語の文法構造などをいくら学習しても、それだけで話せるようにはならない。話せるようになるには、ともかくその言語を使ってみなければならない。つまり、コミュニケーションをしてみなければ上達はしない。

詩の道は王道である。作詩して、上級者の批正を乞う。 この比喩はいくつかの条件をつければ、正しい。自転車乗りについては、自転車の構造の知識は殆ど全く役に立たないが,外国語の習得については、文法などの知識は不可欠ではないがもっていれば、習得が大幅に容易になる。



          Copyright (C) 2001-2005    石九鼎の漢詩館
           thhp://www.ccv.ne.jp/home/tohou/gouza2.html
         このページへのリンクはj自由です。無断コピーは禁止します