班 固 (32~ 92)

字は孟堅.陜西省扶風安陵の人『漢書』の編者.八歳でよく文章を作り,詩賦を暗誦した.特定の師に就く事は無く,長じて広く諸書に通じ,諸子を記録する人物になりますよ」と班固の父・班彪に告げた.と言うエピソードが残る.また『漢書』は高祖の建国,武帝の匈奴征服など前漢帝国一代の史実を伝記した書.実際には班固一人によるものでなく,父の班彪によって『後伝』65篇が編纂されており,班固はひきつぎ,完成に26年を費やした

     宝 鼎 詩

     嶽修貢兮川効珍     嶽は貢を修め,川は珍を効し
     吐金景兮歊浮雲     金景を吐き,浮雲を歊す
     宝鼎見兮色紛縕     宝鼎見はれて 色紛縕たり
     煥其炳兮被龍文     煥として其れ炳いて 龍文を被むる
     登祖廟兮享聖神     祖廟に登り 聖神に享し
     昭霊徳兮彌億年     霊徳を昭かにして,億年を彌らん

     詩語
     宝鼎詩: 詩は東都賦の末段に付載した五篇の詩の一つ.
     宝鼎は明帝の永平六年(63)に王雒山から出たものを盧江夫守が献じたものと言う

     
歊:    気の上出するさま
     
紛縕:   盛んなさま,また乱れるさま
     
彌:    久しきにわたること

   金谷集作詩
和鼎実  石子鎮海沂  王生は鼎実を和し       石子は海沂を鎮す
親友各言邁  中心悵有違   親友は各々 言に邁き    中心は悵として 違うこと有り
何似叙離思  携手遊郊畿   何ぞ似てか離思を叙べん  手を携え 郊畿に遊ぶ
朝発晉京陽  夕次金谷湄   朝に晉京の陽を発し     夕に金谷の湄に次る
迴谿縈曲阻  峻阪路威夷   迴谿は曲阻を縈り  峻阪は路 威夷たり
緑池汎淡淡  青柳何依依   緑池は汎として淡淡たり  青柳は何ぞ依依たる
濫泉龍鱗瀾  激波連珠揮   濫泉は龍鱗のごとく瀾たち  激波は連珠のごとく揮ぐ
前庭樹沙棠  後園植鳥稗   前庭には沙棠を樹し  後園には鳥稗を植う
霊囿繁若榴  茂林列芳梨   霊囿には若榴繁く  茂林には芳梨列なる
飲至臨華沼  遷坐登隆坻   飲至して華沼に臨む  坐を遷して隆坻に登る
玄醴染朱顔  但愬杯行遅   玄醴に朱顔を染め  但だ愬う杯の行こと遅きを
揚桴撫霊鼓  簫菅清且悲   桴を揚げて霊鼓を撫す  簫菅は清く且つ悲し
春榮誰不慕  歳寒良獨希   春榮 誰を慕はざらん  歳寒は良に獨り希なり
投分寄石友  白首同所帰   分を投じて石友に寄す  白首まで帰する所を同じくせん

金谷水は,河南の太白原から出て,東南に流れ,金谷を経る。そし石崇の別莊の所を流れる。此の詩は,そこでの送別の作。

[詩意]
王君は国子祭酒として政を調理し,石君は城陽の太守として海辺の地を治めることになり,それぞれ親しい友は,それぞれ任地に行くので,我が心は甚だ淋しい。どのようにして離別の悲しさを述べようか,倶に手を携えて郊外で遊びたい,そこで朝,洛陽の南を出発し,夕べに金谷の辺に着いた。
谷川は屈曲いた山裾に沿うてめぐり,険しい坂道が長くつづく。池は広く緑水が静かに湛え,柳は青く茂ってしなやかに垂れている。







 2007/12/21    石 九鼎