日柳 燕石

日柳燕石(1851~ 1926)讃岐琴平の任侠。志士してもよく知られ漢詩をよくする。名は政章、字は士煥、通称は長次郎、のち耕吉。燕石。またの号を柳東。文化14年、讃岐多度津榎井に生まれた、父・加島惣兵衛は農業の傍ら質商を営んだ。早く父を失い14歳から琴平の医・三井雪航に就いて学ぶ。歴史に明るく詩文書画を能くした。

任侠の大親分であったが、勤皇の志を持ち吉田松陰・久坂玄瑞・森田節斉・荒川栗園・桂小五郎らと交わり、安政に入ると松本奎堂・中岡慎太郎・本間精一郎らがその庇護を受けた。燕石は特に高杉晋作を潜匿させた罪で高松藩に捕えられ、慶応元年五月投獄され、在獄四年、明治元年正月放免あれた。

放免後は京都・長州・長崎い遊び、同年北越征討総督仁和寺宮に供奉として越後に入り、八月二十五日、柏崎の陣中に没した。「呑象楼遺稿」八巻。「呑象楼師草」一巻。「西遊詩草」一巻等あり、「日柳燕石全集」も刊行されている。

   大石太夫旧宅桜花
国士名葩両絶倫。    国士名葩 両つながら絶倫
余芳薫徹赤城春。    余芳 薫徹す赤城の春
桜花今日添佳典。    桜花 今日 佳典を添える
不説樹陰投宿人。    説かず 樹陰 投宿の人を
  ◆大石太夫=赤穂藩家老大石内蔵助吉雄をいう。元禄十五年十二月、同志と共に吉良義央の屋敷に討ちいって、主君浅野長矩の無念を晴らした赤穂浪士の首領。
  ◆樹陰投宿人=平安末期の武将平忠度(たいらのただのり)をさす。忠度は清盛の弟で、薩摩の守りに任ぜられた。武勇を以て知られた。又、藤原俊成に和歌を学び歌人としても知られた。都落ちのとき途中から引きかえして俊成に和歌集一巻を残して去ったと伝えらえられる。一の谷の戦いで戦死する、その歌に 『行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花や今宵の 主ならまし』とある。
  ◆藤原俊成がのち『千載集』を選するとき、「故郷の花」と題して、『さざ波や 滋賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かなの一首を載せたが、忠度が朝敵であることを、憚って「詠み人知らず」とした。』
◆「解説」=転句・結句に意味は、―――これまで桜花の典故といえば 「行きくれて 木の下かげを 宿とせば・・・・」と詠んだ平忠度をあげていたが、国士大石吉雄旧宅の桜花が佳い典故となったので、もう平忠度を説く必要は無い。という意味。

    陶淵明
挙世皆醒君独酔。     世を挙げて皆醒め 君独り酔う
楽夫天命亦奚疑。     夫の天命を楽しんで 亦なんぞ疑わん
一篇帰去田園語。     一篇の帰去 田園の語
不似蘺騒有怨辞。     似ず 蘺騒に 怨辞 有るに
  ◆この句は、屈原の(漁夫辞) 「衆人皆酔我独醒」を翻用している。
  ◆この詩は、「帰去来辞」と[楚辞」を対比し、陶淵明の人柄を賞賛している。

    夏夜即事
竹柏梢頭快雨晴。     竹柏 梢頭 快雨晴れ
中庭移榻臥三更。     中庭 榻を移して 三更に臥す
残雲一片如奇獣。     残雲 一片 奇獣の如く
俄頃奔来攫月行。     俄頃 奔り来て 月を攫んで行く
  ◆雲は獣の形を連想させることは漢文の常識である。

   中元掃墓
童心未革二毛繁。     童心 未だ革まらず 二毛繁し
墓下秋風吹涙痕。     墓下の秋風 涙痕を吹く
猶記慇懃曾問母。     猶記す 慇懃に曾って母を問うを
幾宵眠去是蘭盆。     幾宵 眠り去らば是れ蘭盆

   吉田駅弔高杉墓
故人為鬼美人尼。     故人は鬼と為り 美人は尼と
浮世変遷真可悲。     浮世の変遷 真に悲しむ可し
惨日凄風吉田駅。     惨日 凄風 吉田駅
涙痕如雨濯苔碑。     涙痕 雨の如く 苔碑に濯ぐ
  ◆解説=燕石は晋作を匿った罪で四年も投獄された。放免された時は晋作は回天の大業を殆ど成して死んでいた。
慶応四年五月九日、高杉の墓を展す。晋作はその前年、四月十四日死す。