巍・諸葛亮
         梁 父 吟

歩 出 斉 城 門。      歩して斉の城門を出で
遥 望 蕩 陰 里。      遥に望む 蕩陰の里
里 中 有 三 墳。      里中に三墳有り
塁 塁 正 相 似。      塁塁として正に相い似たり
問 是 誰 家 墓。      問う是れ誰が家の墓ぞ
田 疆 古 冶 氏。      田疆古冶氏
力 能 排 南 山。      力能く南山を排し
文 能 絶 地 紀。      文能く地紀を絶つ
一 朝 被 讒 言。      一朝讒言を被り
二 桃 殺 三 士。      二桃三士を殺す
誰 能 為 此 謀。      誰か能く此の謀を為せる
国 相 斉 晏 子。      国相斉の晏子なり


      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

歩いて斉の城門のそとに出る
遥かに蕩陰の里を眺めると
里に三個の塚が見える
重なるようにして皆よく似ている
これは誰の墓であろうか
これこそ田開彊。古治子。公孫接の墓である
彼等は体力は南山を擁し退ぞけるように足りる
その学徳は地維をも絶ち天地をも動かすほどの人であった
ところが、一朝讒言を被って
二箇の桃がこの三人の士を殺す結果となった
誰がこの謀をする事が出来たのか
斉の国相の晏平仲がそれを謀ったのだ
勝れた人物であった晏子ではあるが心の狭い人物だった。
それは、自分に対して、三士が礼を失したのを含み、二個の桃を与えて、それぞれ論功を述べさせ、お互いに恥じて自殺させる策略を謀ったのは。その狭量を物語るものである。それに引き換えて三士の心は誠に壮烈であった。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
諸葛亮(181-234) 字は孔明。山東省の人。隆中に隠居していたが、徐庶の薦めにより、劉備が三顧の礼をもってその出馬を請うたため、ついに出てこれを輔けた。軍師となり、丞相に進み、智謀忠誠、国家の柱石であった。天下三分して、蜀主の崩じた後、遺命により後主を助け、建興五年(227)北征して魏と戦い、同十二年陣中に没した。 「死せる孔明生ける仲達を走らす」といわれた兵法家であり、「前後出師表」は忠誠の至情に出たもので、これを読んで泣かざる者は忠臣にあらずと言われた。この詩は隆中隠居の時、孔明が好んで歌ったものとされ、齋の梁父山に近い地方のことを歌った詩とされている。


           Copyright (C) 1999-2005
          石九鼎の漢詩舘
       thhp://www.ccv.ne.jp/home/tohou/kangi4.htm
    このページのリンクは自由です。無断コピーは禁止します