★秋瑾詩集★            
      
近代中国詩家絶句選 (1)

   秋 瑾

秋瑾。(1877〜1907)原名閏瑾。幼名玉姑、号旦吾、別署・鑒湖女侠。浙江省(山陰)現、紹江の人 作品中 『弾詞精衛石』に男女平権、婦女開放、主題は中国女性解放運動を中心に活動、秋瑾の詩文の基調は雄荘、豪放、激昂慷慨的のなか、字里行間に抑揚と傷感の色彩を見出す。秋瑾、前期の詩詞中“秋”を書く字が多い。日本の和服姿の凛々しい顔立ちに抜身の日本刀を手にしている秋瑾の写真と『秋雨秋風愁殺人』の七字は夙に有名。律詩、詞に秀作が多い中、七言絶句を抽出。


  
対 酒
不借千金買宝刀  千金を借らず 宝刀を買う
貂裘換酒也堪豪。   貂裘 酒に換て也た豪に堪たり
一腔熱血勤珍重。   一腔の熱血 珍重に勤める
洒去優能化碧涛。   洒ぎ去らば優かに碧涛と化すに能える
            貂裘⇒貂皮で作った袍子、甚だ貴重な衣服
            勤⇒多い
            碧涛⇒(革命の風暴)烈士の流す鮮血を指す

  
題芝龕記
莫重男児薄女児。   男を重きに 女児を薄きにする莫れ
平台詩句賜蛾眉。   平台の詩句 蛾眉を賜る
吾済得此添生色。   吾済 此の生色を添え得たる
始信英雄亦有雌。   始め英雄を信じ 亦た雌有り
                  平台⇒明嵩禎帝賦詩賛泰良玉事
                  吾済⇒我輩

  
詠 燕
飛向花間両翅翔。   飛んで花間に向かう 両つながらの翅翔
燕児何用苦奔忙。   燕児 何の用ぞ 苦ごろに奔忙する
謝王不是無茅屋。   謝王 是れ茅屋に無かざりし
偏処盧家玳瑁梁。   偏に盧家に処す 玳瑁の梁
                  翔⇒鳥の羽を広げて飛ぶさま
                  謝王⇒謝家、王家。統べて晉代の大貴族
                  玳瑁⇒海の動物、甲に光りあり

  
秋海棠
栽植恩深雨露同。    栽植 恩は深し 雨露と同じ
一叢浅淡一叢濃。    一叢は 浅淡 一叢は濃かに
平生不藉春光力。    平生 藉らず 春光の力
幾度開來斗晩風。    幾く度びか開き來る斗ち晩風
                      此の一首は詠物詩。
                      藉⇒借りる、頼る、
  
                晩風⇒秋風を指す

  読書口号
東風吹緑上階除。    東風 緑を吹いて 階除に上る
花院蕭疎夜月虚。    花院 蕭疎とそて 夜月 虚し
儂亦痴心成脈望。    儂も亦た痴心 脈望と成る
画楼長蠹等身書。    画楼 長蠹 等身の書
                     蕭疎⇒まばら
                     儂⇒我
   
                       脈望⇒虫名

 
 去常徳舟中感賦
一出江城百感生。    一たび江城を出ずれば 百感を生ず
論交誰可并汪倫。    交を論じ誰か汪倫に并ぶべし
多情不若堤辺柳。    情の多きは 堤辺の柳にしかず
猶是依依運送人。    猶ほ是れ依依として送人を運ぶ
                            論交⇒李白の詩(贈汪倫)
                            依依⇒字面は柳條柔弱を写す 

  
重陽志感
容易東籬菊綻黄。    容易 東籬 菊 黄を綻ぶ
却教風雨誤重陽。    却って風雨をして重陽を誤まらしむる
無端身世茫々感。    端し無く 身世 茫々の感
獨上高楼一挙觴。    獨り高楼に上り 一に觴を挙げる
                           無端⇒無奈意。止むをえない。
                           觴⇒酒杯

  

鉄骨霜姿有傲衷。    鉄骨の霜姿 傲衷あり
不逢彭澤志徒雄。    彭澤に逢はず 志は徒雄
夭桃枉自多含嫉。    夭桃 枉げて自ら 嫉を含むこと多く  
争奈黄花耐晩風。    いかんせん 黄花 晩風に耐える
                     傲衷⇒傲りと衷しみ
                     彭澤⇒陶淵明
                     徒⇒ともがら
                     枉自⇒むだである。いたずらに。

  
望 郷
白雲斜挂蔚藍天。    白雲 斜に挂かる 蔚藍の天
獨自登臨一悵然。    獨り自ら登臨すれば 一に悵然たり
欲望家郷何處似。    家郷を望まんと欲す 何處にか似たる
乱峰深里翆如烟。    乱峰 深里 翆は烟の如し


  
喜雨漫賦
渕龍酣睡誰駆起。    渕龍 酣睡し 誰か駆起す
飛向青天作怒波。    飛んで青天に向い 怒波と作す
四野農民皆額首。    四野の農民 皆な額首
名亭直欲継東坡。    名亭 直ちに東坡に継がんと欲す
                           渕龍二句⇒陸遊≪閔雨≫より出づ
                           額首⇒額手。手を額に当てて、尊敬を表す
                           名亭⇒東坡≪喜雨亭記≫あり

  
杞人憂
幽燕烽火幾時収。    幽燕の烽火 幾時に収る
聞道中洋戦未休。    聞くならく中洋 戦い未だ休まず
漆室空還憂国恨。    漆室 空しく還た憂国の恨み
難将巾幗易兜冒。    将に巾幗をもって兜冒と易す難し
            此の詩・1900年庚子事変時期。作者祖国命運を関注
            幽燕⇒中国北部、古幽州を指す
            中洋⇒1900年中国人民と清軍は外国侵略に抵抗を指す 
            漆室⇒魯国漆室村に女有り、≪魯君老、太子幼≫
            難将⇒無法に閨房を走出て国を衛り敵を殺す
            巾幗⇒古代婦女の頭飾り
            兜冒⇒古代兵士戦争時の帽子

  
赤壁懐古
潼潼水勢向江東。    潼潼たる水勢 江東に向う
此地曽聞用火攻。    此の地 曽つて聞く火攻を用ると
怪道儂來凭弔日。    怪道 儂來て弔日に凭る
岸花焦灼尚余紅。    岸花 焦灼 尚ほ余紅
                       怪道⇒どうりで。なるほど。
                       儂⇒我
                       岸花⇒今に至り長江北岸は花朶の色が遺留する。

 
 黄金台懐古
蘇州城築燕王台。    蘇州 城築 燕王台
招士以財亦可哀。    招士 財を以って亦た哀しむ可し
多少賢才成底事。    多少の賢才 底事を成す
黄金便可広招徠。    黄金 便ち招徠に広める可し
                       招徠⇒招之使來。≪漢書・公孫弘伝≫招徠四方の士

  
臨行留別寄塵小淑
惺惺相惜二心知。    惺惺 相い惜み二心を知る
得一知音死不辞。    一を得て知音 死すとも辞せず
欲為同胞添臂助。    同胞の為に臂を添えて助んすと欲す
只言良友莫言師。    只だ言う良友は師と言う莫れ
                      詩は秋瑾と徐小淑師生の深厚の革命友好の間柄を述べる 
                      只言⇒秋瑾が潯渓女学教時の任、徐小淑は彼女の学生

  
登呉山
老樹扶疏夕照紅。    老樹 扶疏たり 夕照は紅なり
石台高聳近天風。    石台 高く聳え 天風に近し
茫茫気連江海。    茫茫たる気 江海に連なる
一半青山是越中。    一半の青山 是れ越中
                    呉山⇒俗名、城隍山。浙江省杭州西湖東南。
                    越中⇒紹興一帯を指す

 
 闕 題
黄河源遡浙江潮。    黄河 源遡する浙江の潮
衛我中華漢族豪。    我を衛る中華 漢族の豪
莫使満胡留片甲。    満胡を使しめて片甲を留める莫れ
軒轅神冑是天驕。    軒轅 神冑 是れ天驕
                   軒轅神冑⇒黄帝の子孫。漢民族。
                   天驕⇒天の驕子


  絶命詞
秋雨秋風愁殺人。    秋雨 秋風 人を愁殺す
漢樂府民歌に「秋雨秋風愁殺人」の詩句が有る。“秋雨秋風”秋風に落葉を掃く、
秋雨連綿、天日を見ず。日暮、途窮る暗黒の清王朝に詩人の感、此に到る。


 
勉女権歌
吾輩愛自由、勉励自由一杯酒。      吾輩自由を愛す、自由を勉励す一杯の酒。
男女平権天賦就、豈甘願奮然自抜、   男女平権天賦に就く、豈に甘じて奮然自抜を願わんや

一洗従前羞垢。                一とたび従前羞垢を洗う
若安作同儔、恢復江山労素手。      若し安んぞ同儔と作せば、江山を恢復素手を労せんや


旧習最堪羞、女子竟同牛馬偶。      旧習最も羞に堪え、女子竟に牛馬の偶と同じ
曙光新放文明候、独立占頭籌。      曙光新に放つ文明の候、独立頭籌を占めん

願奴隷根除、智識学問歴練就。      願くは奴隷 根除し、智識学問練を歴て就き
責任上肩頭、国民女傑期無負。      責任は肩頭に上る 国民女傑期に負むく無し

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日本留学(1904)時、秋閏瑾が瑾として改名し政治言論活動、軍事訓練、文筆による啓蒙活躍が彼女の命とりになる。秋瑾と魯迅は同時期日本に留学している。1905年の冬に清国政府が日本政府に要請し制定された「清国留学生取締規則」を発令させた時、、浙江同郷会の集会で、秋瑾は興奮し持っていた日本刀をとり出し、演台に突き刺し『祖国に帰り、もしも満州政府に投降し、漢人を欺く者があれば、私はこの一刀を吃しますよ!』と演説している。

秋瑾と魯迅の接触について周作人の「魯迅の故家」に詳しい。秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。抗議帰国して清朝打倒を志すか、日本に残留し将来に期し学業を続行するか、帰国に賛成しない者が多かった。魯迅は集会には参加しているが、医学を目指して入る時期で、留まり勉学を続けるという態度を示している。

1907年正月。大通学校公挙、秋瑾は校務の代表者となる。開校祝いに郡長官の貴福(満人)が揮毫した対聯には「競争世界 雄冠全球」(世界に冠たれ。)が壁の掲げられた。秋瑾らは此処を革命兵士育成と蜂起の拠点として、各地で買い付けた武器を紹江府城の倉庫に納めた。

然し、軍隊の捕手に囲まれ捕らえれた.。秋瑾は刑に就く前に李端年に三箇の条件を要求している。
 @家族に決別の書状を書きたい。A処刑に臨み衣服を剥ぎ取らない。B首級(討ち取った首)を民衆の前に晒しものにしない。この三箇の条件に対し、李端年は@は拒否したがAとBは許した。

秋瑾は1907年7月15日。払暁四時、靄にけぶる中、幼い二名の遺児(10才、6才)を残し、紹興軒亭口の刑死場へ三十一歳の若さで藻屑と消えて行った。


 参考資料・  秋瑾研究資料(中国近代文学研究資料叢書)山東教育出版
          秋瑾詩文選。人民文学出版。郭延礼
         「秋風秋雨人を愁殺す」ちくま日本文学全集。武田泰淳

                       
                          

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